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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(27)

2014-12-05 11:41:47 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(27)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 本のカバーをとったときにあらわれる「秘密の詩」。この詩の感想を書けば、この本を全部読んだことになるのか。わくわくする。私はあいかわらず「タマシヒ」を信じているわけではないが、谷川が「タマシヒ」と呼んでいるものが、なんとなく「あれか」とわかったような気持ちになっているので、最後の詩でその印象がどうかわるのか、どきどきもする。
 私の読んだ来たことは全部「誤読」? それともいくらかは谷川の「タマシヒ」と交流してきた証拠(?)のようなものをつかみとれるだろうか。
 灰色の表紙に銀の型押しした文字。
 うーん、読みづらい。「タマシヒ」って、こんなふうに見えにくいもの?
 引用して読み直そう。

 ひととき

長い年月をへてやっと
その日のそのひとときが
いまだに終わっていないと悟るのだ

空の色も交わした言葉も
細部は何ひとつ思い出せないのに
そのひとときは実在していて
私と世界をむすんでいる

死とともにそれが終わるとも思えない
そのひとときは私だけのものだが
否応無しに世界にも属しているから

ひとときは永遠の一隅にとどまる
それがどんなに短い時間であろうとも
ひとときが失われることはない

 あれっ、この詩、読んだことがある。「悟る」という動詞に触れて、何か書いたはず。「細部は何ひとつ思い出せない」ではなく、「悟る」について書いたこと、それから「むすぶ」について書いたことを思い出すが、でも、「何ひとつ思い出せない」と言っていいくらいに、何と書いたか思い出せない。
 これが、この本の「いちばんいい詩(代表作)」?
 私は「オロルリァ滞在記」がいちばん好きだけれど、そう思うのは、それが最後に読んだ詩だからかもしれない。私は忘れっぽい人間だから、最後のことしか覚えていないだけなのかもしれない。
 あれこれ考えてもしようがないので、きょうはきょうの感想を書こう。きのうの「感動」を引きずりながら。
 二連目を私は、書き換えたい衝動にとらわれている。書き換えてみよう。

空の色も交わした言葉も
「交流の」細部は何ひとつ思い出せないのに
その「交流したタマシヒ/タマシヒの交流」は実在していて
私と世界をむすんでいる

 空の色をつかみ取る。たとえば「青」とことばにする。ことばにしながら「青」ではいいきれないと、ことばの奥でことばにする。そのとき「空」と、あるいは雲、木、風と対話した。ことばにしたり、ことばにしなかったりして。そのときの、ことば、ことば以前(未生のことば)の「細部」(正確にはどう言ったのか、どう思ったのか)は「思い出せない」。でも、そういうことばを動かしたとき、そこに「タマシヒ」は存在した。「タマシヒ」が動かしたことばがあり、「交流」が存在した。その「タマシヒ」はことばを動かしながら、「世界」から愛撫されている、「交流している」と感じた。「タマシヒ」は「私」になって世界から愛撫されている。「世界」(遠心)と「タマシヒ」(求心)は「愛撫される」ことでつながる。交流し、ひとつになる。
 「タマシヒ」が何か言う。外へ出ていく。あ、「求心」ではなく、「遠心」か。私は「遠心」と「求心」を間違えてつかっていたのか。その外へ向かって動くタマシヒに向かって世界が「愛撫」してくる。外から内へ、遠くから中心へ、つまり「求心」。
 そのとき「私(のからだ、肉体)」が世界と出会う。「世界」-「タマシヒ」-「私」。。
 あ、言いなおそう。「世界」-「私」-「タマシヒ」、あるいは「世界」-「私-タマシヒ」というのが最初の関係かな? 私の奥(深部)にあるタマシヒが「私」を突き破って「世界」に触れる。そうすると、世界の奥(深部)に「世界」の「タマシヒ」が生まれ、「タマシヒ-世界」-「私-タマシヒ」という交流ができる。「タマシヒ」は「私」と「世界」を飛び越えて「ひとつ」になる。そのとき、「タマシヒ」のなかで「世界-私」が合体する。そういう運動が瞬時に起きる。
 どう呼ぶのが正確なのか、あるいはわかりやすいのか。(わかりやすいものが正確とはかぎらないが……)。厳密に考えるのはやめよう。「タマシヒ」が「往復」する、相互に働きかけるということがわかればいい。「タマシヒ」は、能動として動きながら、他方で「世界」から「愛撫される(働きかけられる/受け身)私」になるということがわかればいい。
 「タマシヒ」と「世界」と「私」の関係を象徴する(再確認する)のが、

私と世界をむすんでいる

 「私と」の「と」。「私」は「主語」として「能動」の働きをしない。「私」は「受け身」だ。「タマシヒ(私のタマシヒと世界のタマシヒ)」が「私と成果をむすんでいる」。「私」は「世界と結び合わされる」、「タマシヒ(私のタマシヒと世界のタマシヒ)」によって。そのとき、ここには明確に書かれていないが「私(のタマシヒ)」は「世界(のタマシヒ)」に「愛撫される」。

 三連目も書き換えよう。

死とともに「タマシヒの交流」が終わるとも思えない
「世界から愛撫されたタマシヒ」は私だけのものだが
否応無しに「私のタマシヒを愛撫する」世界(のタマシヒ)にも属しているから

 愛撫した「世界」が「タマシヒ」を忘れないのは、人間が誰かを愛撫したとき、その相手(愛撫された人間)を忘れないのと同じだ。私が愛した誰かが私のもとから離れていっても、私はその人を忘れない。その人は、あの愛の瞬間から私に属している。物理的に属していないくても、記憶がつないでしまう。
 そんなことも思う。

 さらに四連目。

「愛撫されたタマシヒ」は永遠の一隅にとどまる
「タマシヒが愛撫される時間」がどんなに短い時間であろうとも
「愛撫されたタマシヒ」が失われることはない

 「そのひととき」の「その」は「愛撫された」という「意味」を含んでいる。特別な印が「その」なのである。「その」は「愛撫された」ひとにしか分からない。
 さらに書き直してみよう。

「タマシヒの交流」は永遠の一隅にとどまる
「タマシヒの交流」がどんなに短い時間であろうとも
「タマシヒが交流したという事実」が失われることはない

 「交流した」という感じ(実感/肉体がつかみとる事実)は、いつまでも残る。消えることはない。
 詩を読む、ことばを読む--谷川の詩を読む、そのとき、私は谷川と交流している。そのことを谷川が知っているのかどうかは問題ではない。また、私の交流の仕方(読み方)を谷川が気にいるかどうかも関係がない。私にとって、その「交流」は失われることはない。何が書いてあったか、そのとき私が何を思ったかという細部は全部忘れても、「交流した」ときの感じが残り、それがあるとき、無意識の形で、どこかに出てくる。その無意識の形(ふと動くのだけれど、それがどこからやってきたかわからない何か)として「タマシヒ」は「ある」かもしれない。「無意識」なので、私は「魂はない」と言うのかもしれない。



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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(26)

2014-12-04 11:09:42 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(26)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「オロルリァ滞在記」は架空の旅行記(紀行文)だろうか。「オロルリァを地図で探したことはない。ニューヨークから飛行機を乗り継いで十六時間かかった。」とはじまる。書いた詩人が地図で探さないのだから、読む私も探さない。「オロルリァ」は聞いたことがないので「架空」と勝手に思う。「架空」なので、自分の知っている「こと」を重ねて読んでいく。
 そうすると、そこは私のふるさとである。つまり「肉体」が最初に触れた「場所」。そこに書かれているものが草、地面、空、犬、猫のようなものくらいで、ビルとか鉄道とか劇場などが出て来ない「自然」の風景だから、そう思うのかもしれない。もし、車が走り回り、道路が舗装され、人がたくさんいたら「ふるさと」を思わなかっただろう。
 その「ふるさと」で、私は何を感じたのだろう。谷川が書いていることが「ふるさと」の私だと思うのはなぜだろう。

 何もせずにいるのもなかなか難しい。寝転がったまま、
手足を上へ上げて空中でぶらぶらさせてみた。一種の柔
軟体操だが体に良いとも思えない。最近覚えた口笛も吹
いてみたが、音楽とはほど遠い音しか出ない。突然、自
分は存在しているのだと思った。知らない間に「オレは
居る」と呟いていた。それが嬉しい訳ではない、寂しく
もない、別に生きていることを意識した訳でもない。た
だ自分が居るのが疑えない事実だとでも言えばいいのか。

 ここに書いてあることを、そのことば通りに思ったわけではない。しかし、「突然、自分は存在しているのだと思った。」「ただ自分が居るのが疑えない事実だとでも言えばいいのか。」という感じが、私の感じていることに似ている。ふるさとで、私はこういうことを感じて、それをいまも引きずっているのか、ということを思った。
 この本の詩には「タマシヒ」ということばがたくさん出てくる。私は魂を信じていない(実感したことがない)ので、そのことばの前では違和感があるのだが、この詩にはタマシヒもココロも出て来ないので、とても親近感がある。この本のなかでは、この詩が、私の感覚にいちばんぴったりする。「自分は存在する」「自分は居る」。嬉しくも寂しくもない。感情が動かない。動く必要がない。生きているということも意識するわけではない。精神(知性?)も動かない。そのとき「肉体」だけがある。何も感じず、何も考えない。ただ「肉体」がある。その「肉体」の感じを「タマシヒ」と呼ぶなら、それは「タマシヒ」でいいと思う。「肉体」だけがあると言っても、そのとき私は「肉体」も感じてない。
 そこに目をやれば、たとえば木がある。その木の形が私。そこに目をやれば田んぼがある。稲が生え、水がたまっている。それが何であるか、ことばにしようとすると、そのとき私は稲になったり水になったりする。いわゆる「自我」というものがない。「自我」がないから、何にでもなってしまう。この感じが、私の「居る」ということ。「存在している」ということ。「ない」が「ある」にかわる一瞬。
 これは、世界とつながっている、という感じとも違う。気がついた瞬間に、世界のなかの何かになっている、という感じ。何も存在しない。確固としたものは何もない。存在しない。ただ、その瞬間瞬間に、何かになっている。
 そこへたとえば友達がやってくる。そのとき、私は、その友達になって、私に近づいていく。--そういう「矛盾」も起きる。私が木の下で友達を待っているのに、私は友達になって、木の下の私に向かって走っていく。それは、友達が木の下で待っているとき、そこへ向かって走っていった私の「体験」がまじりこんだ錯覚なのかもしれないが、私は、どうもそういう錯覚をしてしまう癖がある。

 だから、というのは、とんでもない飛躍なのかもしれないが。

 だから、私は、詩を読みながら、「これは谷川の書いた詩」ということを忘れてしまって、私の体験がここに書かれている、「これは私の詩」と思ってしまう。
 何にもしないで、ただ、そこにいる。私は音痴なので歌を歌わない、口笛も吹かないが、ただそこにいる。私の大好きな場所は、家の近くの神社の大きなケヤキの木。小さな石段をのぼって行くとき見えるのが、木の表。反対側が、木の裏。かさぶたのような木の肌に触れながら、掌でなでながら、その木のまわりをまわる。木の表、木の裏と書いたのは……たぶん、まわりをまわりながら嬉しかったり寂しかったりというこころの動きを思い出すからかもしれないなあ。
 そこで私は大きなケヤキになったり、私にもどったり、ぼんやりしている。土になったり、木の根元に積み上げられた石の「墓」のようなものになったりもする。
 そういうことが「事実」。
 それが「タマシヒ」だよ、と言われれば、それは信じてもいいなあ。そこにある「存在」は、私の「肉体」も含めて、全部、見ることができる。聞くことができる。触ることができる。舐めたことはないが、木の肌を舐めることもできる。味わうことができる。匂いを嗅ぐこともできる。世界の「事実」が「タマシヒ」。

 あ、脱線してしまったなあ。
 こんなことを谷川は書いているわけではないのだが。
 だいたい谷川が書いているのは「オロルリァ」であって、私のふるさとや、私の大好きなケヤキの木ではないのだが。
 でも、こんなふうに脱線して、間違ったことを考えている時、私はなんだかうれしい。幸福な気分だなあ。

 詩にもどろう。

 寝転がっているのがなんだか後ろめたいような気がし
てきた。身に付いた貧乏性か、居るだけで誰に迷惑をか
けているのでもないのに、我知らず立ち上がってしまっ
た。重力を感じた。微風が裸の腕の産毛を撫でてゆく。
居るだけで何もしていないのに、オレは世界に愛撫され
ていると思った。我ながらいい気なもんだとも思ったが
愉快だった。

 この部分で、私は、私ではなく「谷川」を強く感じた。さっきまで、これは私の体験を書いていると思っていたのに、ここでは、あっ、谷川がいる、と思った。
 「微風が裸の腕の産毛を撫でてゆく。」までは「私」。でも、私はそのあと「オレは世界に愛撫されている」とは思わない。あくまで私が「微風」になって「私を愛撫する」。「されている」という「受け身」が思いつかない。
 そうか、この「祝福されている」という「受け身」の感じが、詩人の証拠なのか、とも思った。
 私は、ふいに、池井昌樹のことを思い出した。池井の詩の特徴である「放心」は、同時に、池井を見つめる「誰か」を描いている。誰かに見つめられて(受け身)で池井がいる。その誰かが与えてくれるもののなかに、どっぷりと浸って、「自我」を失くしてしまう。そのとき世界全体が「いま」「ここ」から離れて「永遠」になる。
 
 「タマシヒ(魂)」が「からだ」の奥にあるものだとすれば、「世界」が「からだ」であり、谷川や池井は、その「からだ」の奥にある「タマシヒ(魂)」ということなのかもしれない。「世界/宇宙」を「肉体」と感じ、その「肉体」のなかで「タマシヒ」として動く詩人。いつも「世界/宇宙」という遠心と「タマシヒ(魂)」という求心を往復する。そのときの運動が、二人の詩なのかもしれない。
 「魂(タマシヒ)」ということばがなぜ必要なのか、私はいままで分からなかったが、そうか、と思った。まだ「そうか」だけであって、それをどうことばにしていっていいかわからないが、ことばにしなくてもいいのかもしれない。ことばにするというのは、どこかで「意味」を作り出すこと、嘘にしてしまうことだから、「そうか、そうなのか」とだけ思っておく。
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(25)

2014-12-02 10:41:08 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(25)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「失題」の右側のページは黄色一色。裏が透けて見える紙。そして、その黄色の前(裏側)のページにはひよこの写真。だから、その黄色はひよこの本質を集めて凝縮した色かもしれない。ということのほかにも思いは広がる。ひよこは前のページでは右側を向いている。ひよこの見ている先(本を読んできた時間からいうと「過去」の方向)に、きのう読んだ詩がある。白い、半透明の紙。文字が少し感じられるが、意識を集中しないと読むことはできない。
 もとへ戻って、黄色いページ。今度は、ひよこは左側を向いている。表と裏では、向いている方向、見つめている方向が違う。そうか、ひよこが「過去」を見ていたというのは私の一方的な思い込みで、反対側から見れば「未来」を見ている。何を見ているかなんて、見方次第で変わってしまう。外からはわからない。何を見ているかは、ひよこにしかわからない。
 で、その黄色のなかからぼんやり浮かぶひよこの見ている先に「失題」という詩がある。

言い足りないのがいい
いやむしろ
言わないでいい

コトバを
自分の肚(はら)に収めて
成熟を待つ

静かに
深く
黙っている
コトバから生まれる力

暴力と正反対の


 「意味」の強い詩である。「意味」が強いと感じるのは、そこに「論理」を感じるからだ。「論理」は「行動様式」と言いかえることもできる。何かに対して頭に来る。怒りがふつふつとわいてくる。でも、そういうとき怒りに任せて暴言を吐くのではなく、じっとこらえている。そのとき、ことばの暴力とは違ったもの、暴力とは正反対のものが、静かに生まれてくる--ということだろうか。「寛容」が生まれてくる、ということだろうか。
 正確には言いなおすことができないけれど、こういうことは誰もが経験したことかもしれない。誰かに、そういうことを教えられたことが、一度や二度は、たいていの人にあるだろう。
 そんなことを思いながら、私は、いつものように、ことばを入れ換えてみる。たとえば「肚」を。「肚」という文字を私は自分ではつかわない。「はら」とルビがふってあるから「腹部」のどこかと感じるが、特定の「部位」を意識するわけではない。「肚」って、内臓のどのあたり? 胃袋? 腸? 肝臓? 膵臓? 腎臓あたり? わからないけれど「はら」なので、体の内部ではあるだろう。意外と、「胸」かもしれない。「はらに一物」なんていうときは、ことばにしない考えをもっているということだから。内臓で物思いにいちばん近いのは「胸」だから。「腹黒い」というときの「はら」にも近いと思う。「はらに収める」の「収める」が黒々とした何かを感じさせるから。
 で、何に置き換えるかというと--いま書いてきたこととはかけ離れてしまうのだが、私はこの詩を読んだ瞬間、この「肚(はら)」は「タマシヒ」だな、と思った。「タマシヒ」ということばを何度も読んでいるので、知らず知らずに、そのことばが動いた。

コトバを
「タマシヒ」に収めて
成熟を待つ

 このとき、ことばは動かない。タマシヒも動かない。そして「肉体」も動かない。それで、次の連は、

静かに
深く
黙っている
「肉体」から生まれる力

 タマシヒもコトバも「肉体」そのものになる。「ある」というよりも消える。タマシヒもコトバも「ない」。ただ「肉体」だけがある。そこから、何かが生まれてくる。

「コトバの」暴力と正反対の


 このときの「コトバの暴力」と正反対の力は、「肉体の暴力」とも正反対だ。静かに、動かないでいるのは「肉体」自身もそうなのだ。「肉体」は動くもの。その動くはずのものが動くことを止めている。そのとき、「肉体」も「ない」状態だ。
 では、何がある?
 まず、コトバがなくなり、タマシヒがなくなり、肉体もなくなる。
 そのとき、「ない」はずのタマシヒが感じられる。
 死んだあと(肉体が動かなくなったあと)魂が残されるという言い方があるが、私は肉体がなくなれば何もかもがなくなると思っているので、そんなふうには考えない。私はタマシヒがあるとしても、それは肉体といっしょに「ある」。だからタマシヒは肉体であると考える。タマシヒは「肉体」そのものであると考える。「肉体」でから「肉体」が動かないときはタマシヒも動かない。ただ、肉体に動かなくても大丈夫だと教えるという形で「ある」のかもしれない。何もかもが動かないとき、その「動かない」の中心からタマシヒは広がり出てくるのかもしれない。「動かない」のに、その中心から何かが出てくる--というのを「成熟」というのかもしれない。
 「成熟」して、出てくる、と言っても、それは「コトバ」ではなく、むしろ、「無言」だろうなあ。ことばにならないまま、「態度(肉体)」が出てくる。中心にあったタマシヒが肉体の表面を覆う。肉体を隠す。それが「成熟」。中心と表面が入れ代わる、見分けがつかなくるなる。
 うーん、こんなことを書いていると、コトバとタマシヒと「肉体(はら)」がごちゃまぜになって、何がなんだかわからない。見分けのつかない「ひとつ」、そのときどきでコトバになったりタマシヒになったり「肉体(はら)」になったりする。
 この「ひとつ」を「未分化」(未分節/混沌)と言いなおせば、これまで書いてきた感想につながるのだが……。
 きょうは、少し違ったことを書く。(同じことなんだけれど、言いなおしておく。)

 「未分節」ということばを私はついついつかってしまうが、谷川はつかわない。つかっているかもしれないが、私は読み落としている。谷川は、そのかわりに「未生」ということばをつかう。『女に』という詩集を読んだとき、そのことばに出会った。
 この「失題」でも「未生」に通じる「生まれる」ということばをつかっている。

コトバから生まれる力

 「分節(する)」と「生まれる」は、どう違うか。「分節する」と「分ける」は厳密には違うのかもしれないけれど、めんどうくさいので日常的につかう「分ける」ということばを手がかりにすると、「分ける」は他動詞。「生まれる」は自動詞。
 「分ける」とき、誰かが何かを「分ける」。混沌を整理して「分ける」。そうやって、そこから何かをつかみ出す。理性がそうするのか、感情がそうするのか、あるいは、それは人間を超越した力(神)がするのかわからないが、そこには対象とそれに働きかける存在(主語)がある。
 でも、「生まれる」は違う。自力で生まれてくる。自力で生まれるというと、人間を考えると、その前に性行為があって、精子と卵子の結合があって、「自力」とは言い切れないのかもしれないけれど、そういうのは「屁理屈」。赤ん坊は、やっぱり自分で「生まれる」。
 谷川は、何か、こういう「自然に生まれる」力を信じている。
 人間が何かを「産む」のではなく、分節させる(分娩させる)のではなく、何かが「生まれてくる」のを待っている。谷川の力を越えて「生まれる」ものを。
 「生まれてくる」瞬間に立ち会う、あるいは生まれる瞬間を見逃さないようにしていると言えばいいのだろうか。
 自分で何かを「分ける」(分けることで、つくり出す)のではなく、何かが「生まれてくる」のを待つというのは、別なことばで言うと、谷川自身は何もしないということでもある。言いなおすと、何かが「生まれる」というのは谷川の力の及ぶ範囲ではないから、何かが「生まれる」瞬間には、谷川の世界が一瞬「切断」される。「生まれてくる」ものによって、谷川の世界が一瞬、否定される。「生まれた何か」を受け入れるとき、世界は「接続」する。そして、新しくなる。谷川が「生まれ変わる」。
 「生まれる何か」をだきしめて、新しい谷川自身が「生まれる」。
 「分節」ということばをつかって言いなおせば、何かが生まれるとき、谷川が分節されるのである。

 谷川は何かを「分節する」のではなく、何かによって「分節される」。そういう詩人である。そして、谷川自身の「分節」をうながしたものは何かというと--私は直観でいうだけなのだが、佐野洋子である。佐野洋子と出会う前は、谷川も「分節する」主体だったかもしれない。けれど『女に』以降は、谷川は「分節される」(常に新しく生まれ変わる)詩人になったと思う。--これは、私の「感覚の意見」なんだけれどね。

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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(24)

2014-12-01 09:56:16 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(24)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「diminuendo」--もうひとつ「音楽」がつづく。

音楽が曲の終りでディミヌエンドして
だんだん音がかすかになっていって
静けさに溶け入ってゆくときの
言葉がとうに尽きてしまった
絶え入るような世界の感触

私の耳で
タマシヒが
まどろんでいる

 「音楽/音」と「言葉」が交錯する。私は「言葉」と「音楽」を入れ換えて読んでしまう。そのまま入れ換えるわけにはいかないので少し余分なことばをつけくわえるのだが。

言葉が「物語/意味」の終りでディミヌエンドして
だんだん「意味」がかすかになっていって
静けさに溶け入ってゆくときの
音楽(曲)がとうに尽きてしまった
絶え入るような世界の感触

 詩(詩のなかで動く時間/ストーリー/物語)を書きながら、その最後で追いかけてきた「意味」がかすかになって(意味なんかなくてもいいという気持ちになって)、タマシヒが静けさのなかに溶け入ってゆく。それは聞いていた音楽(曲)が尽きてしまって(終わってしまって)、静寂(沈黙)のなかで、なお消えていく(絶え入るように消えていく)ときの世界の感触に似ている。
 こんなふうに書き直してしまうと、うるさくなってしまうのだけれど、何か交錯するなあ。谷川にとっては、音楽とことば(詩)は、どこかで重なっている。溶け合っている。それを強く感じる。

 二連目の三行は、そういう詩の「ディミヌエンド」。タマシヒはことばになることを止めて(語ることを止めて)、耳でまどろんでいる。
 このときの、「私の耳で」の「耳で」が、私にはとてもうれしい。
 とてもよくわかる。
 言いかえると、とても「誤読」したくなる。一連目の、ことばの入れ換えも「誤読」だけれど、それ以上に「誤読」したくなる。谷川が何を考えているかではなく、谷川の書いていることばを利用して自分の思っていることを書かずにはいられなくなる。
 私は魂を信じない。見たことがない。触ったことがない。けれど、この三行は、信じたい。信じてしまうなあ。そして、またしても、ちょっとことばの順序を入れ換える。

タマシヒで
私の耳が
まどろんでいる

 この場合の「タマシヒ」は「名づけられないもの」の代名詞。私は魂を信じていないので、それを名づけない。仮に「タマシヒ」ということばを借りて、その「名づけられないもの」を考える。
 その「名づけられないもの/その場所」で、「私の耳(肉体)」はまどろむ。
 「名づけられないもの」と「耳」という名前のある存在(手で触ることのできる肉体)が、現実と夢の垣根を見失って、溶け合っている。「ひとつ」になっている。区別できなくなっている。
 そういう「状態」を魂と呼ぶなら、それは信じたい。
 肉体(耳)が肉体であることを見失って、何かと溶け合っている。肉体以前に還っている。
 いま「還っている」という「動詞」をつかったが、そうなのだ、この「区別のない融合/未分節」の世界は、そこから何かが生まれてくるときの「未分節」ではなく、「分節」を終わったあと、その「分節」を消してしまう「未分節」である。
 ことばは「未分節」から生まれる。「未生のことば」は「混沌(何もかもが融合した無)」から「分節」をへて生まれてくる。生まれて、分節を繰り返し、「意味」をつくる。「意味」という「物語」になる。そして、それを語り終わったら、ことばはそこにとどまるのではなく、還っていくべきなのだ。「未分節」へ。「意味」のない世界、静寂へ、沈黙へ。
 そのなかで、夢がゆれる。まどろみが広がる。

 私は谷川のことばを強引に入れ換えて「誤読」をするのだが、この「誤読」の逆戻りの動きが、何となく「還っていく」という「動詞」にも似ているかもしれない。
 他人のことばを読む。読みながら、そのことばのなかへ自分の肉体を参加させる。そのとき、私の肉体は他人の肉体そのままの動きはとれない。どうしてこんなふうに動くのかな、と考えると、動きをいったん逆になぞってみる必要がある。逆になぞった方が納得できるときがある。拳を突き出すとき、ただ突き出す運動だけではうまくいかなくて、拳を引くという運動と組み合わせると「突き出し」がスムーズにいくような感じ、といえばいいのだろうか。逆を組み合わせることで、ほんとうになぞりたいものがくっきりとわかる。その動きのなかにあるものが納得できることがある。

 で、「タマシヒ」と「耳」が「一体」であるとわかった上で、私はさらに「誤読」を加速させる。谷川の詩のことばの順序にしたがって、考え直す。
 音楽が静かに終わって、ことばも静かに尽きてしまって……そのとき「私の耳で/タマシヒが/まどろんでいる」。耳とタマシヒが一体になるというのは、言いかえるとタマシイは耳にある、ということになる。「胸」とか「体の奥」ではなく、肉体が外に開かれた感覚器官である耳にあるということになる。
 タマシヒって、いつも耳にあるのだろうか。たまたま耳にあるのだろうか。たまたま、だと私は思う。タマシヒは、何かの都合にあわせて、肉体の様々な「部位」にあらわれる。様々な「部位」と一体になる。
 手であったり、目であったり、あるいは内臓であるかもしれない。私は、そんなふうに考えている。これはタマシヒだけではなく、こころも、思考も、それぞれの都合にあわせて、あらゆる肉体の部分になって動くというのが私の「一元論」。そこには「肉体」だけがある。「こころ/精神」というのは、ものごとを説明する(分節する)ための「方便」というのが、私の考え。
 で、言いたいことを言ってしまったので、もう一度、詩に戻ってみる。

 「私の耳で/タマシヒが/まどろんでいる」。
 なぜ、耳? 「音楽」が耳で聞くものだから? でも、「言葉(詩)」は? 耳で聞く? たとえば、この本の、この詩。ここに書かれていることばを私は「耳」では聞かない。目で読んでいる。それなのに、耳に納得している。それは、まあ、詩のはじまりが音楽という「耳」できくものからはじまっているから、必然なのだけれど。
 でも、そういう「必然」を書くときに、音楽と耳をもってくるところが谷川なのだと思う。谷川のことばの基本は音楽にある。音にある。音を離れて、耳を離れてしまっては、谷川には詩が存在しない。
 この短い三行は、谷川が「耳の詩人」である証拠と言えるだろう。


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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(23)

2014-11-30 10:37:19 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(23)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「声」とは何か。--「音楽」について考えてきたあとでは、「声」はまず「音楽」として私の「肉体」に響いてくる。

声がひそむ
水平線に

声が届く
意味を越えて

声がつまずく
意味の小石に

声が沸く
意味がこぼれる

声が痩せる
文字にまで

 一連目、二連目は「声」を「音楽」に変えてもいいかも。いや、実際、私は「音楽」として読んでしまう。
 「声」は「肉体」から出てくる音。たいてい「ことば」といっしょに出てくる。ことばには意味がある(ことが多い)。水平線にひそんでいる「声」は「ことば」になりきれていない。「未生のことば」。それは音だろうなあ。やがてメロディーになり、リズムになる「音楽」の出発点。意味をもった「ことば」になるかもしれないけれど、意味にならなくてもいい。
 二連目の「意味を越えて」は、意味にならないまま、意味が抱え込んでしまう「枠(限界)」を越えてという感じかな。「未生のことば」が「未生」のままの「音」として、意味を追い越す、あるいは意味を突き破って動く。
 それは意味を「越えて」なのか、意味を「開いて」なのか。
 私は「開いて」という感じで受け止める。

 谷川が書いている「声」から少し離れてしまうのだが、私はときどき「日記」を書いていて不思議なことを体験する。私はもともと「結論」を想定せずにただ書いているのだが、書きたいことを書いてしまったあと、自分の「肉体」が中心からぱーっと開いて、そこからことばが無意識に動いてくるときがある。「肉体」がぱーっと開いて、ことばが誘い出されるときがある。
 高村光太郎は、ぼくの前に「道」はない、歩いたあとに「道」ができる、と言ったか、そういう「一本の道」という感じではなく、「一本」という「方向」と「前後」というものが消えて、突然、ただの「空間」に飛び出した感じ。
 書きながら、自分にはこういうことが書けるのか、と驚いたりする。ほんとうに自分のことばなのかな? いつか、どこかで読んだことばが「肉体」のなかから飛び出してきているだけなのかな? 誰かの文章を無意識に「剽窃」しているのかな?
 「無意識」というと変な感じだが、「無意識」だなあ。「意識」の枠にとらわれずにことばが動く。それまで書いてきた「意味」を無視して、ことばが勝手に動く。
 自分の考えてきた「意味」、動かしてきた「意味」を引き裂いて、自分の「肉体」の中心からことばが出てくる。それは、どこかから「声」が届く、というのに似ているかもしれない。

 それは、そのまま突っ走ることがある。
 でも、ときどき、一行も動かないところで、突然とまってしまうこともある。何かに「つまずく」。谷川が書いているように「意味」につまずくのかもしれない。「論理」につまずくのかもしれない。
 あれっ、これでは先に書いたことと矛盾してしまうなあ、と感じる。それが「つまずき」だな。
 あ、ここからは、「声」を「音楽」ではなく「ことば」と言いかえた方がいいのかもしれないなあ。「音楽」も「意味」を言い出すと、つまらなくなるから、「音楽」が「意味」につまずくでもいいのかもしれないけれど……。「未生の声(意味を持たない純粋な音)」が外に出てしまった瞬間から「ことば」になって「意味(論理)」をつけくわえられ、動きにくくなる。

 四連目の「声が沸く」とはどういうことだろう。「意味」につまずき、「意味」にじゃまされ、いらだって怒ること(怒りの感情が沸く)ことかな? そういうとき「ことばにならない感情」だけがあふれるスピードが速すぎて、「意味」はきちんとととのえられないまま、押し流される。「意味がこぼれる」とは、そういうことだろうか。感情の奔放な流れが、「意味」をしぶきのようにばらばらにしてしまう。
 こういうとき、そこに「感情」があるのはわかる。「意味」がわからないのに、「感情」はわかってしまう、という不思議なことがおきる。「意味」と「感情」をつかみとる「肉体」は別なものなのかもしれない。そして、変な言い方だが、「感情」をつかみとれたとき「意味」がわからなくても、納得してしまうということがある。(私の場合だけかもしれないが……。)
 「ことば(声)」は「意味(論理)」を気にしなければ、もっともっと豊かな「表現」を獲得できるのだろうなあ、と思う。
 でも「意味(論理)」を無視して「ことば(声)」が動きつづけるというのはむずかしい。どうしても「意味(論理)」に押し切られてしまう。社会が「意味(論理)」を優先しているからだろう。合理的に動くには「意味(論理)」が必要なのである。
 他人が主張する「意味」につまずいて、自分がもっている「意味にならない意味(未生の意味)」が感情に押し流されてばらばらにこぼれ散り、そのあと残っている「ことば」をととのえる。文字に書いて確かめる。もう、そこには「声」の豊かさ、はち切れるような充実はない。痩せた「肉体」のような「文字」と「意味」があるだけだ。
 あ、私は知らず知らずに、「声」を「ことば」に置き換えているなあ。「ことば」が「肉声」を失って(肉を取り除いた分だけ痩せて)、「文字」になると考えているなあ。

 で、「声」を「ことば」と考える--そういう方向に詩が動いているのは、谷川が「ことば」を「意味」だけでないと考えているということになるだろうと思う。(私は私の勘違いを、ひとのせいにする癖がある。こんなふうに思うのは、私に原因があるのではなく、そのことばを書いた人=谷川に責任がある、と問題をすりかえるのである。)
 谷川にとっては、ことばは「意味」よりも「声」に出したときに生まれる何かなのである。息を吸い込み、それを吐き出す。その吐き出す息を、喉や口や舌で変化させながら「音」にする。そのとき「肉体」全体が「音」にあわせて動く。反応する。言いにくい音、聞きたくない音を無意識に避けるかもしれない。自分の好きな音をゆっくりあじわいながら「肉体」がその瞬間を楽しむということがあるかもしれない。
 「声」には「肉体」がある。「肉声」とは「意味」に抽象化されてしまう前の、もっと個人的な「声」のことだが、具体的な「肉体」があって、そこからすべての「声」が動きはじめる。

 この詩の「声」は「ことば」と書き直した方が、論理的になるかもしれないが、谷川はそう書かないで「声」と書きつづける。

 ここでまた「声」を「音楽」にもどしてもいいかもしれない。音楽、耳で聞いた悦びを、文字(ことば)にすると、音楽のなかにあるいちばん豊かなものがなくなる。「文字」は音をもたない。音楽を文字で語りはじめると、音楽が「痩せる」。(すばらしい批評は「音楽」をもう一度記憶のなかで鳴り響かせるかもしれないけれど、それは「肉体」そのものを刺戟するわけではない。)
 谷川は「痩せた声(音楽)」は嫌いなのだ。「音楽」を痩せさせる「意味」が嫌いなのだ。「意味」ではないものに「音楽」を感じている。「音楽」を「意味ではない」と感じている。

 もうひとつ。
 谷川の詩でおもしろいのは、詩のなかで「主語」が微妙に、しかし、とてつもないスピードで動いてくということがある。
 この詩の場合、各連は「声が」ということばではじまり、主語は「声」のままだが、それは外見のことであって、実際に違う。「音(音楽)」になったり「ことば」になったりしている。
 (この変化を内部で支えているものを、谷川はタマシヒ、あるいはココロと考えているかもしれない。私は「肉体」と考えるけれど……。)
 そしてそれは「意味」とぶつかり、そのたびに変化する。ただし、その変化を「ここが変化しました」と谷川は書かない。説明を省いて、どんどん変わっていく。この変化のなかには、当然「時間」がある。「時間」があるのだけれど、それを省略して「一瞬」のように書いてしまう。「時間」と「一瞬」が結びついて、それが「永遠(真理/真実)」に結晶するような驚きがある。

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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(22)

2014-11-29 10:15:18 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(22)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 ことばは不思議だ。意味がわからないまま、聞いたことばが(読んだことばが)気になって仕方がないときがある。意味がわからないから気になるのかもしれない。意味はわからないが、意味になろうとしている何かがあると感じるからかもしれない。
 きのう読んだ「さびしさよ」の最後の部分。

病み衰えた期待
ヘドロに溶ける未来
さびしさよ
いま生きている証しはお前だけ
希望の食べ滓(かす)をせせって
この空間をお前のベールで隠しておくれ

 どう読んでいいか、わからない。けれど「病み衰えた期待」ということばのなかにある矛盾、「ヘドロに溶ける未来」のなかにある矛盾--矛盾と感じてしまう何か。不自然なことばの結びつき。そのなかで「病み衰える」が「肉体」に直接響いてくる。「期待」は思い出せないが「病み衰える」という「動詞」が「肉体」に響いてきて、病気だったときのこと、苦しい肉体を思い出す。「ヘドロ」も汚い匂いとなって迫ってくる。「未来」はどんな匂いもないが「ヘドロ」は匂いとなって「肉体」に迫ってくる。
 その「肉体」の感じが「食べ滓をせせる」という「動詞」のなかで、さらに不気味に動く。食べ滓なんか食べるなよ、「せせる」なんて妙な「動詞」で食うなよ--と私の「肉体」は反応する。一種の拒絶反応だ。
 どんなことでも「動詞」を含んだことばにすると、それは「肉体」に響いてくる。「動詞」を含んだことばの運動は「肉体」をもつようになる。
 この、私がいま書いた「肉体」を「タマシヒ」と書き直すと、谷川の書いていることに近づくのかもしれない。どんなことでも、ことばにすると、それは「タマシヒ」をもつ。「病み衰えた期待/ヘドロに溶ける未来」「希望の食べ滓をせせって」ということばも、そのことばのなかに「タマシヒ」がある。この詩の最後が気になってしようがないのは、魂の存在を感じない私には、谷川の書いている「タマシヒ」が「肉体」と重なるように動くからなのかもしれない。魂を私は認めない。しかし、谷川のことばのなかには、私には認めることのできない(明確に認識できない)何かがある。
 --ここから、きのうの「日記」を書き直せば、また違ったことばが動くのだろうけれど、私は「書き直し」はしない。ことばが動いたままにしておく。きのうの「日記」を書かなければ、きょうの感想は生まれてこない。きのう書いて、一日過ぎて、別の詩の感想を書こうと思った瞬間に、ふと気になって書いた。「時間」のなかで、そういう変化が起きた。そのことを、ただ書いておく。



 「da capo」がきょう読む詩。音楽用語。広辞苑は「楽曲を初めから更に繰り返し奏せよの意」と定義している。きのう読んだ詩のなかの「音楽」が、ふと「肉体」のなかで動く。「もうどんな音楽も聞こえない」と「さびしさよ」のなかでは「音楽」が動いていた。「肉体(耳)」には聞こえないが「肉体の何か(記憶)」が音楽を聴いている--その記憶の音楽を沈黙が浮かび上がらせる。その音楽が「da capo」につながっている。
 その沈黙の音楽(沈黙の音楽、と書くと武満徹みたいだが)を、最初から繰り返そうとしているのか。

実が
土に落ち
腐り
種子は
土に守られ
芽生え
根を張り
枝を伸ばし
葉をひろげ
風にあらがい
無言で花を咲かせ
実を実らせる

ヒトの耳には聞こえない
あえかな音楽が
きょうも奏でられている
この星の上の
いたる所で

 一連目は「ダカーポ」そのままに、自然の繰り返しが書かれている。二連目は、その繰り返しを認識するとき「音楽」が聞こえる、と言っているのだと思うが。
 私はひねくれているので、いろいろ考えてしまう。「耳には聞こえない」なら、それは「音楽」ではないのでは? 「あえかな」ということばを手がかりにすれば、聞こえるか聞こえないかわからないような「か弱い」音なのかもしれない。でも「あえかな」なら、聞こえるは、聞こえることになる。「聞こえない」とは断定できない。ここには何か奇妙な「矛盾」がある。「矛盾」をとおしてしか言えないことが書かれている。そして、それは「矛盾」なのだけれど、「ヒトの耳には聞こえない/あえかな音楽」ということばの運動(ことばの動き方)のなかに、「矛盾」でしか言えない「真実」のようなものを感じる。ことばにならないものを、ことばにしようとしてことばが動くときだけ、感じる何か。
 この詩集全体のことばの動きから言えば、「ヒトの耳には聞こえない」が、「タマシヒの耳」には聞こえる「音楽」のことを谷川は書いているだろう。谷川は「タマシヒの耳」とは言わずに、ただ「タマシヒ」と言うかもしれないが、私は「肉体」にこだわるので「タマシヒの耳」と、そこに「肉体」をくっつけて読み直すのである。ヒトの「肉体の」耳には聞こえない。けれどタマシヒの「耳(の肉体)」には聞こえる。
 「タマシヒ」と「肉体」が谷川の詩のなかで、重なり合う。

 この詩では、私はもうひとつ別なことばにも引きつけられた。一連目の「無言で花を咲かせ」の「無言で」。「無言」。
 植物はもともと「無言」である。人間のようにことばを話したりはしない。だから「無言で」は余分。いらない。あるいは、「間違い」。
 でも、それが「余分」であり「間違い」だから詩なのだ。余分(過剰)な間違いが詩なのだ。「ことば以前」(未生のことば)なのだ。--と書くと、矛盾してしまうが、こういう矛盾が「思想」である。別なことばで言いなおせば「肉体にしみついてしまっている行動様式/肉体になってしまった無意識」である。
 谷川は、どうしても「耳(音楽)」へと「肉体」が動いていく。いつも「音楽(音/ことば)」を聞いてしまう。
 この「無言」はこの詩のなかでは一回しかつかわれていないが、それはほんとうは何回も「無言のまま」つかわれている。省略された形でつかわれている。

実が
「無言で」土に落ち
「無言で」腐り
種子は
土に「無言で」守られ
「無言で」芽生え
「無言で」根を張り
「無言で」枝を伸ばし
「無言で」葉をひろげ
「無言で」風にあらがい
無言で花を咲かせ
実を「無言で」実らせる

 無数の「無言」を聞いてしまうので、こらえきれずに「無言で」ということばを書いてしまう。書かずには、そのことばの運動は終わらない。
 「無言」は「無言(葉)」、つまり「無音」。音以前の音。「未生の音」。
 「未生」なのかにある何か。
 それが「思想」の根源である。原点である。
 「未生」なのだから「ない」(分節されていない/未分節)。けれど、その「ない」は、こうやって「ある」というふうに書くことができる。「ない」が「ある」とき、そこに魂(存在しないもの)が存在する。
 またまた奇妙なことを書いてしまったが、こういうことと音楽(耳)を結びつけて谷川のことばは動いている。「実が/土に落ち……」という動きは図に書いてあらわすことができる(視覚化できる)が、その視覚化できるものの奥に谷川は聴覚を動かして何かをつかみとる。それが谷川の「癖(思想/肉体)」だと私は思う。



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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(21)

2014-11-28 11:07:57 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(21)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「さびしさよ」は見開きのページに印刷されている。1ページにおさまらない行数ではないのだが、2ページに印刷されている。右のページは裏が少し透けて見える紙質。左は透けては見えない。そして、詩を読んでゆき、右ページから左ページにかわるところで、ふっと何かが変わる。それはほんとうにことばが変わったのか、それとも紙質の変化が影響して、何かが変わったと思ったのか--考えると、わからなくなる。印象(感想)は、ほんの少しの「外的」変化でかわってしまうものなのだ。

カーテンと絨毯(じゅうたん)は剥(は)ぎ取られ
椅子も戸棚も持ち去れている
金魚鉢さえ無くなって
がらんとした室内

さびしさよ
お前はどこまで行くつもりなのか
世界の果てなどありはしないのに
暖かいストーブに叛(そむ)いて
友人たちの思いやりから後ずさりして
もうどんな音楽も聞こえない夜に
さびしさよ
お前の地平があると言うのか

世界が永遠のリフレインでまわっている
蛇口から落ちる水滴の句読点
病み衰えた期待
ヘドロに溶ける未来
さびしさよ
いま生きている証しはお前だけ
希望の食べ滓(かす)をせせって
この空間をお前のベールで隠しておくれ

 左右のページの分かれ目は、「もうどんな音楽も聞こえない夜に」の前にある。それまで私は「視覚」の詩を読んでいた。空っぽの室内を見ていた。そして、不思議なことにその「空っぽ」はカーテンや絨毯を想像し、そのあとそれを否定することで浮かび上がる「空っぽ」なのだが。
 「どこまで行く」「世界の果て」も地平線を見ながら歩いている感じがする。歩いているけれど、足が動いているだけではなく、「視覚」が動いている。いや、足は動かずに、遠い地平線を見ている(視覚)だけがあるのかもしれない。たどりつけない地平線を見ている目だけがある。
 そのあと、ストーブ、暖かい(温かい)、思いやりという具合に抽象的になって、「行く」も前へ進むではなく、「後ずさり」という具体的だけれど抽象的な(?)ことばを通って、「音楽」という「聴覚」が出てくる。
 この瞬間に、私は「はっ」と思う。
 「視覚」(見る)というのは具体的な何かを見る。カーテンや絨毯を見る。地平線を見る。「聴覚」というのも具体的なものを「聞く」はずなのだが、この詩には具体的な「音」がない。「音楽」がない。
 「もうどんな音楽も聞こえない」と谷川は書いている。
 でも、そう書いているにもかかわらず、私は「音楽」を聞いてしまう。
 「カーテンや絨毯も剥ぎ取られ」という書き出しにならって、そのときの「音楽」を書くと、「モーツァルトもマイルス・ディビスも剥ぎ取られ」という感じ。自分が好きな「音楽」がぱっと耳の肉に鳴り響き、それが消し去られ、そのあとに「沈黙の音楽」が鳴り響く感じ。
 「ない」が「ある」という感じ。
 こういう「抽象的(哲学的?/形而上学的?)」な「印象」というのは、何か「聴覚」の働きと関係があるのかもしれない。視覚は「消えないもの(存在)」を見る。そこに「ある」ものを見る。聴覚も、そこにある「音」を聞くのだが、音は目に見えるものとは違って、一瞬一瞬、あらわれては消えて行く。「ある」が「ない」になりつづけながら、その「ない」のなかに「消えたものがある」という形でつづいていく。
 「いま」そういうことが起きているのに、その「いま」は「一瞬」でありながら、「過去(聞こえた音、聞いた音)」と「未来(これから聞く音)」を無意識に動いている。「いま」なのに「いま」を突き破って動いている。
 「見る(視覚)」が空間的なのに、「聞く(聴覚)」は時間的である。
 そして、「音楽(聴覚)」が「時間的」であるからこそ、そこに「人生」が重なってくるようにも感じる。

 そうか。

 谷川が、なぜここで「音楽」ということばを書いたのかわからないが、私はなぜか「そうか」と思い、谷川の「肉体(思想)」に触れた気がしたのだ。
 「音楽」は谷川にとって「思想(肉体)」そのもの。だから、「さびしい」を何もない室内という「視覚」の描写で始めながらも、知らず知らずに「視覚」だけでは表現しきれない思いがあふれてきて、「音楽」と書いてしまうのだと思った。
 そして、その「音楽」に触れる前に、「地平線へ行く(進む)」と「暖かさ(ストーブ/思いやり)から後ずさる(後退する)」という矛盾した「動き」を衝突させ、その衝突する力で「異次元」へ飛ぶということをしている。
 「音楽」は、谷川にとっては「異次元」、「特別な次元」なのだ。
 「音楽」は谷川の「肉体」そのものになっているのだ。
 そういうことを、瞬間的に、私は感じ、「そうか……」と呟いてしまう。

 三連目、

世界が永遠のリフレインでまわっている
蛇口から落ちる水滴の句読点

 この二行は、「さびしさ」の瞬間、谷川が聞いている「音楽」の形。「リフレイン」でまわっている。果てしなく繰り返す。そして、そこには「句読点」がある。動きをととのえるリズムがある。はてしなく繰り返すのだけれど、それは切れ目のない連続ではなく、切れ目(句読点)の意識によって、ととのえられた世界。
 あ、美しいなあ。

 でも、そのあとの「病み衰えた期待」から最終行までは、私にはよくわからない。「この空間をお前のベールで隠しておくれ」の「空間」は、私が書いてきた「視覚は空間的である」ということと関係があるのかもしれないが、よくわからない。
 私のことばでたどりなおすことができない。
 何か、不気味なところがある。
 「希望の食べ滓をせせって」という「肉体」の動きが、「さびしさ」を不透明にする。それまでの「さびしさ」は何か透明で切ない感じがするが、(思春期の「さびしさ」を思ってしまうが)、「病み衰えた期待」からあとに出てくる「さびしさ」は、私の知らない何かである。
 谷川の「肉体」が前面に出ていて、その奥にある「さびしさ」がよくわからない。
 だから、というと、奇妙になるが。
 この詩は強い。きっと、いつかまた思い出す。思い出して、あ、あれはこういうことだったのかと、私の「肉体」が納得する。それまでは、「不気味」のまま、この本のなかにある。

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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(20)

2014-11-27 10:26:18 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(20)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 私はテレビを見ないので又聞きなのだが、谷川俊太郎は阿川佐和子に「何かしてみたいことは?」と問われて「死んでみたい。まだしたことがないから」と答えたそうである。「死んでもいい」を読みながら、そのことを、ふと思い出した。

おれは死んでもいいと思う
まだ十六だから今すぐってわけじゃない
かと言って死ぬときをじぶんで選べないから
まあそのときが来たら
死ぬほかないんだから死んでもいい
生きているのがつまらないから
死んでもいいんじゃない
死ぬのが死ぬほどいやだってやつもいるけど
おれはそうじゃない
生きているのがうれしいから
死んでもいいんだ
死んでももしかするとうれしいが続くかも
昨日うちのじいさんに
死ぬのをどう思うってきいたらさ
「死んでこまることはない」だってよ

 明るくて気持ちがいい。二行目「まだ十六だから今すぐってわけじゃない」が死を語りながら、死を遠ざけている。破滅的なにおいがしないのが、とてもいい。
 そのあと、「説明」がつづく。これが「論理的」。つまり、「意味」として「わかる」。谷川の詩の特徴は、この「論理性」にあると私はいつも感じている。
 「論理性」というのは「読者」を意識するということでもある。他人といちばん共有しやすいのは「論理」である。「論理が正しければ、その論理にしたがわなければならない」というふうに私たちは育てられるからかもしれない。「論理」はある意味では「他人」を束縛するものである。「他人」の行動を支配するためのものである。だから権力的でもあるのだけれど、谷川の「論理」はそこまでは動いていかないが、「意味」はよくわかる。
 「おれは死んでもいいと思う」と言ったあと、すぐに「まだ十六だから今すぐってわけじゃない」と否定するのも「論理」である。「わけ」は、ここでは「意味」という意味だろうなあ。「意味じゃない」と言うことで、「他人(読者)」が想像することをいったん否定し、その否定の先へ「論理」を動かしていく。言ったことの「意味」を補足すると言えばいいのか。
 ただし、「死んでもいいと思う」というような強烈な「意味」はなかなか説明しにくい。だから、ちょっとずつ「論理」がずれていく。
 「かと言って死ぬときをじぶんで選べないから/まあそのときが来たら/死ぬほかないんだから死んでもいい」というのは、「死んでもいい」と言っても「自殺する」ということとは違う。あくまで「そのときが来たら」。自然死というか、必然死のことを言っている。だから、「死んでもいい」というのは「死んでもいい」ではなく「死ぬのが怖くない」、「死を拒絶はしない」という「意味」になるかもしれない。
 詩のつづきを読むと、そのことがはっきりする。「生きる」が「死ぬ」と向き合う形で動きはじめる。そのハイライト部分、

生きているのがうれしいから
死んでもいいんだ
死んでももしかするとうれしいが続くかも

 これは、詩の構造から言うと「起承転結」の「転」にあたる。「死んでもいい」の「ほんとうの意味(いちばん言いたかったこと)」は「生きているのがうれしい」である。「生きていること」を実感している。
 とてもうれしいことがあったとき、ひとはときどき「もう死んでもいい」と言うことがあるが、この感じに似ている。
 違うのは、この詩に書かれている「十六歳」はうれしくて大感激するようなことを体験してそう口走ったのではなく、「日常」のなかでそう言っているということ。そして、「死んでももしかするとうれしいが続くかも」と言うところが違う。大感激して「死んでもいい」と言うひとは、その「うれしい」がつづくとは思っていない。つづかないと思うからこそ、この「うれしい」の瞬間に、「死にたい」。
 さらりと書いてあるので、すぐ次のことばにつながって、書いてあったことを忘れてしまいそうになるが「続く」がこの詩の「思想(肉体)」である。いや、この本全体の「思想(肉体)」であると言えるかもしれない。(谷川なら「タマシヒ」である、と言うだろうけれど、私は魂の存在を信じないので、私が納得できる「肉体」ということばで書くのだが……。)
 「十六歳」が「続く」と言っているのは「うれしい」だが、この本のなかでは、すべてが「続く」という形でつながっている。最初のページから最後のページまで。そして、そこにはことばと写真と空白(あるいは色)がある。ときには裏側の写真、あるいは紙の向こうの写真が透けて見える形で「続く」。「続く」ことで「ひとつ」になっている。ことばと写真、空白(色)は別々な人間がつくったものであり、別々なはずの存在なのだが、どこかで「続く」。そして、それが「続く」ことが「うれしい」。こんなふうに「続く」のか、こんなふうな「つながり」があるのか、こんなふうに「続ける」「つなぐ」ことができるのか。その「興奮」が「うれしい」かもしれない。

 こういうことは書きすぎるとうるさくなる。(私はだいたい書きすぎるのだが。)
 で、谷川は「続く」ということばのなかに「肉体(思想/タマシヒ)」をしっかりと見せたあと、ちょっと「論理」をはぐらかす。脱臼させる。つまり、笑わせる。

昨日うちのじいさんに
死ぬのをどう思うってきいたらさ
「死んでこまることはない」だってよ

 「十六歳」が語っていたのに、突然「じいさん」が死について語る。「死んでこまることはない」。うーん、だれが? たぶん「じいさん」が死んでも、「じいさん」が困ることはないということだろう。もう死とつながっている(続いている)から? よくわからないが「おれは死んでもいいと思う」と「死んでこまることはない」は呼応し合っている。「いい」は「こまらない」なのだ。納得した(腑に落ちた?)から「十六歳」は「じいさん」のことばをそのまま「結論」として、もってきている。
 自分で語らず、「他人」に語らせてしまう。あるいは「他人」の「声」をそのまま「自分の声」にしてしまう。「他人」を生きる。「十六歳」はこのとき「じいさん」を生きている。個別の「肉体」を超えて、「じいさん」の「思想」になる。--と書けば、私の書いている「肉体/思想」の「一元論」の押しつけになるだろうか。

 この詩でおもしろいのは、先に少し書いた「起承転結」の形式。起承転結を明確にするには、詩を「連」に区切って構成するといい。けれど、谷川はここでは「連」を避けている。さらに「じゃない」とか「かと言って」「きいたらさ」「だってよ」という口語をつかって、ことばをだらだらとつないでいる。「整理」を拒否して、思いついたままの「勢い」で書いている。「勢い」を残している。
 谷川の詩は「論理的」だが、その「論理」をことばの「勢い」で隠している。「勢い」で言っただけで、ほんとうは何も考えていない、という印象をつくり出している。
 これは詩の「超絶技巧」というものである。

おやすみ神たち
クリエーター情報なし
ナナロク社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(19)

2014-11-26 10:52:59 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(19)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「仮に」は「露骨」な詩である。「露骨」と書いてしまうのは、そこに動いている「論理」が強すぎるからである。論だだけが動いているようにも見える。意味をつくり、意味で読者を感動させようとしているようにも見える。「意味」が「露骨」なのかもしれないなあ。

私は知っている
タマシヒを語る資格はないということを
そんなもの誰にもないということを

でも騙(かた)らずにはいられない
名辞(めいじ)以前を統(す)べる見えない力が
自分を生かしていると信じるから

仮にそれをタマシヒと呼んで
私は自分を解き放とうとしている
金銭がもたらす現世の諸々から

 「タマシヒ」の存在は信じないが、ものの名前以前(名づけること/分節以前)の世界を統一する力があって、その力が自分を生かしている。その力は「名辞以前のもの」なので「名前」はない。仮に谷川は「タマシヒ」と呼ぶ。それが谷川を「現世」から解き放つ。
 そういうことが書かれているのだが。
 私は、その「意味」を少しひねくれた角度から見てゆきたい。
 この「論理」のなかで私がおもしろいと感じるのは、「騙る」ということば。
 「かたる」は「語る」であり、「騙る」でもある。「語る」と書いたとき、そこにはほんとうも嘘もある。「騙る」は嘘しかない。「騙る」は「だます」でもある。「だます」は「騙す」と書く。
 でも、だれを。
 「他人」を「騙す」と同時に「自分」を「騙す」。タマシイはない、と「私(谷川と仮に仮定しておく)」は知っている。だからその知っている「私」をまず「騙す」。タマシヒはあると、言い聞かせる。それから「理由」を探す。タマシヒがあるという根拠を探す。
 しかし、ないものは探したって、ない。だから、違うことをする。「論理」でつくりだしてしまう。「ない」のだから、「ある」にするにはつくりだすしかない。その「ある」を生み出すのが「論理」である。ほんとうは、そのとき何かをつくりだされたのではなく、何かをことばのなかにつくりあげたようにみせかける「論理」があるだけなのだが……。
 谷川はこの「論理」なのかで、ふたつの「虚(存在しないもの)」を衝突させている。ひとつは「名辞以前」。「名前」とは「未分節」の世界(混沌)から「もの」を「分節」したもの。名前がなければ、そこには分節はない。「未分節」。この「未分節」は、「ある」とはいわずに「ない」として処理するのが論理の経済学である。
 もう一つの「ない(虚)」は「見ない力」。見えないのだから「ない」。「ない」と意味を「分節」してしまうとなにかがあるように見えるが、そこには「論理」があるだけで、何も「ない」。
 しかし、ことばは不思議なもので、そこに「ない」ものを「ない」ということばをつかって「思考」のなかに存在させてしまうこともできる。「思考」は「論理」になって共有され「ある」が確固としたものになる。
 「ない」が「ある」。「ない」を定着させる「論理がある」。
 そして、この「虚」と「虚」の衝突は、一転して「実」に転換する。ことばの経済学ではなく、ことばの化学反応、あるいはことばの「理論物理学」のようなものか。
 「ない」と「ない」が「論理(ことば)」のなかで、「ある」もののようにしてぶつかりあって、そのときに生じる力が「自分(私)」を生み出す。「肉体」を生み出すのではなく、別なことば(思考)を生み出す。「ない」が「ある」と考える力が、「自分」というものになる。「自分(思考)」になって生まれる。これは先に書いたように、単にそういう「論理」が生み出されているだけなのだが……。

 こういうことは「正確」に書こうとすると、ごちゃごちゃしてしまうので、書き飛ばしてしまうしかない。書き飛ばしながら、次の機会に、そのことばがととのえられるのを待つしかない。

 谷川はタマシヒを信じない。けれど、「ない」ものをも語る(騙る)ことができる。ことばは「ない」ものをも「ある」という形で表現できる。そういうことをしてしまうことばが「ある」。そして、それが「自分を生かしている」と信じる。
 「ない」ものを「ある」というだけでは矛盾してしまうので、その「ないもの」を仮に「タマシヒ」と呼ぶ。「ある」と騙してことばを動かすと、そこに「論理」が生まれてくる。人は「論理」を信じてしまう。
 馬鹿だから--とは谷川は書いていないが。馬鹿だから、という感想は私の勝手な脱線なのだが、人間はついつい「論理」にもたれかかってしまう。論理なんてでっちあげだから、そんなものは「ない」、私はそれを信じない、と言えばいいのに、人間はなかなかそういうことができない。--馬鹿だから。

 脱線した。
 谷川は、私とは違った具合に考える。違った人間なのだから、違った具合に考えるのが当然なのだが。
 どう考えるか。
 「ない」を「ある」と主張するとき、その「ある」に美しい名前をつける。「名辞」する。「分節」する。そうすることで、自分を美しい世界へ解き放つ。「名辞以前」を統治する力が自分(私/谷川)を生かしている/谷川は生かされているのだが、そこに自分自身の「名辞する」という動詞としての自分を動かす。見えない力に統治されるままでいるのではなくて、自分で自分を動かす。そのために「ことば」がある。
 「ことば」は谷川にとって、自分を生み出していく「方法」なのである。
 どんなふうに生み出すか。
 繰り返しになってしまうが「タマシヒ」という美しいことばをつかって、谷川自身を美しく生み出す。「魂」や「たましい」「タマシイ」ではなく、「タマシヒ」という独特の表現をつかっているのは、そのことばのなかに谷川が生み出したことばであることを刻印するためかもしれない。
 この「生み出し」を谷川は「解き放つ」と書く。
 それは、そこまでの論理を追った限りでは、名辞以前から始まる世界を統治する力からの解き放ちであるはずなのだが、谷川は、そのことを一瞬どこかへ押しやって、

金銭がもたらす現世の諸々から

 と書く。金銭で動いている現世から、金銭に支配されない美しい世界へ、ということだろう。
 この最終行は、それまでの「論理」からいうと「嘘」なのだが、この嘘のつき方が谷川は巧みだ。哲学的なややこしいことを書いていたのではなく、現世の、平凡なことを書いているだけなんですよ、とシラを切ってしまう。
 ここに何といえばいいのだろう、「露骨」な何かがあって、それが、それが魅力でもある。露骨なものだけがもちうる親近感(密着/接続感)がある。
 そうだよね、金銭で動いている現世はいやだよ、そういう世界じゃなく美しいタマシヒの世界で遊んでみたいよなあ。読者(私)は納得してしまう。

 ところで、この作品の右ページは真っ暗(真っ黒)。真っ暗と書いてしまうのは、その前のページ(裏のページ)が夜の猫の写真だからである。猫は葉っぱの影に目を隠している。その隠した目で、葉っぱの向こうの闇をみつめたら、こういう具合に真っ暗なのだろうか。
 そして、その真っ暗は、谷川のタマシヒが脱出してきた世界なのかな? タマシヒを真っ暗から取り出して、白い紙の上にすくい上げたのかな?
 この詩を書いたとき、谷川は、詩が印刷されている白いつるつるの美しいページを夢みていたのかな。それとも何も見えなくて、右ページのような、真っ暗ななかにいて、その暗闇のなかでことばを動かしていたのかな?
 そんなことも考えた。

おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
ナナロク社

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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(18)

2014-11-25 10:06:07 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(18)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「吃音(きつおん)以前」は一瞬のドラマを見るよう。

「あ そう」と言って私は黙った
その沈黙が自分でも分からない
ツイッターにもブログにも
言葉は吹きこぼれているのに
午後の凪(なぎ)のような私の無言

あなたは待っていた
吃音以前の私をみつめて
だが言葉はもうブラックホールに落ちていた
仕方なく心の上澄みから拾って
「ごめんね」と私は言った

 どうして「あ そう」と言って、その後沈黙してしまったのか。「あ そう」と言わせたことば、状況はどういうことなのか、わからない。だから、わかる。その後の「沈黙」のどうしようもなさが。
 このとき、私は谷川が「見える」。しばらく黙っていて、「ごめんね」というまでの谷川が「見える」。でも、それは谷川のことが「わかる」というのではない。谷川のことが「わかる」のではなく、私の「経験」がわかる。「経験」が私の「肉体」のなかでめざめる。動く。
 こういうことは詩にかぎらず、あらゆる芸術に触れるときに起きることだと思う。
 人は自分の「肉体」がおぼえていることしか理解できないのだと思う。自分がおぼえていること、おぼえているけれど自分ではことばにしたことがない--そういうことを他人のことばで読んだとき、「あ、わかる」と思う。これが私の言いたかったこと、と思ったりする。

 この詩の不思議さは、終わりから二行目の「仕方なく」。うーん、正直だなあ、と思う。そこまで正直に言わなくてもいいのでは、と思い、またそこに正直があるからこそ、「わかる」という気持ちが強くなっているのも感じる。
 「仕方なく」と、そのあとにつづく「心の上澄みから拾って」がなかったら、「わかる」という感じは少し違ってくるかもしれない。
 言いたいわけではない。けれど言わなければ、この状態がつづいてしまう。それは、いやだなあ。この逡巡が「仕方なく」にこもっている。
 ここが、この詩のいちばん美しいところだ。

 この突然の「沈黙(無言)」を「吃音以前」と呼んでいることもおもしろい。吃音とは言いたいという欲望が強すぎて、それを制御できないために起きることだろうか。ことば(音)は肉体から出て行く。けれど、その音を押し出そうとする力が強すぎると、その力を抑えようとして肉体(発声器官)が乱れる。発声器官を動かす順序が違ってしまい、スムーズな音にならない、ということだろうか。
 そうすると、吃音を経験したことのない人間は、「言いたい」という欲望がほんとうはそれほど強くないということか。吃音をおこすひとより、ことばを音にしたいという欲望が弱いということか。
 「沈黙(無言)」は言いたいという気持ちがぱたっと途絶えてしまうことかもしれない。言いたいことはあった。けれど、言うという欲望を諦めたときに「沈黙(無言)」が始まるのかもしれない。
 「仕方なく」ということはば、その「諦め」をも拾いあげているように思える。

 この「吃音以前」の前のページ(右ページ)は空白。真白。そして、詩の裏側は暗い星空。星が動いていて、星ではなく暗い空から降る雪や雨のようにも見えないこともない。でも、やっぱり星だろう。
 仕方なく「ごめんね」と言うとき、タマシヒは、この暗い星空を見ているのだろうか。その隣(左ページ)には塀の上の白い猫。目が(顔が)葉っぱに隠れていて、見えない。「ごめんね」と言ったまま、「仕方なく」というこころを隠しているときのひとの姿(谷川の姿)のようにも見える。猫は見上げていないけれど、その背後にはブラックホールと星がある。
 --と、「意味」にしてはいけないのかもしれないが……。

おやすみ神たち
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(15)

2014-11-22 11:10:10 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(15)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「アイ」は「故郷」とも「ひらがな」とも違うタマシヒを書いている。違うのだけれど、強く結びついているとも感じる。

一人のカラダがもう一人のカラダの深みに沈むとき
タマシヒはさらに深いところにいる
情に流されず
知に惑わされることもなく
人はヒトデナシという生きものになっていて…

タマシヒに守られて
アイに近づく

 一行目はセックスを連想させる。セックスを書いているのだと思う。セックスをするときタマシヒはどこにあるか。セックスとタマシヒは共存できるか。
 私はもともと魂の存在を信じないので、魂とセックスの関係を考えたことがないのだが、魂ほどセックスに似合わないことばはないように思う。「大和魂のセックス」なんて、変だよね。きっと人はセックスするとき、セックスにおぼれるとき、魂のことなんか考えない。
 そのことを谷川は、「タマシヒはさらに深いところにいる」と書いている。この「さらに深いところ」というのはカラダが沈み込んでいる深みよりもさらに深いという意味だけれど……。
 私は馬鹿だから何でも具体的に考えてしまうのだが、一行目の「一人のカラダ」と最初に書かれているのは男だろう。それが「もう一人のカラダの深みに沈む」とは女のカラダの深みに沈む。ペニスがヴァギナの奥に沈み込むと想像する。
 そのまま「論理」的に考えると、それよりも深いところ、ペニスが沈み込んだところよりも深いところ--これは、どこ? 女の子宮?
 うーん、変だぞ。男のタマシヒは女のカラダの奥にあることになってしまう。
 どこで間違えたのか。男のペニスが女のヴァギナに入っていくことがセックスととらえる男根主義(マチズム)が間違っている。私は古い人間なので、ついつい男根主義の手順(?)でセックスを想像してしまうようだ。反省。
 男と女が肉体をあわせる。結びつく。そのとき肉体に起きていることは、入る/入られるということではないのだろう。それは「便宜上」の動作であって、肉体はもっとほかのことをしている。簡単に言うと、男は女の肉体のなかに入っていくふりをして、自分の肉体の奥へ入って行っている。そして奥から、いままで自分が体験して来なかった快感をひっぱり出そうとしている。男根主義者なら女のなかから快感を引き出し、女によろこびを与える、というかもしれないけれど、そういう欲望も男の肉体のなかにあるのだから、男は男で自分の肉体と欲望を貪っている。自分に夢中になっているというのが恥ずかしいので、女によろこびを与えると嘘をつくのである。
 そういう「夢中」のさらに「深いところ」にタマシヒは「いる」と谷川は書いているのだろう。肉体のよろこびに夢中になる欲望(本能)とは別のところにタマシヒは「いる」と。
 で、そういうタマシヒから人間を見ると……。

人はヒトデナシという生きものになっていて…

 うーん。「ヒトデナシ」か。そうか、「ヒトデナシ」か。そうだろうなあ。「ヒトデナシ」だろうなあ。
 これは、別な言い方をすると「タマシヒデナシ」かもしれない。
 タマシヒではない、タマシヒとは別なもの。
 そう考えると「大和魂のセックス」というのが変ということもよくわかる。魂とセックスは決していっしょにならないのだ。魂がセックスを「魂でなし」と呼ぶのだ。ヒトが人を「ヒトデナシ」と呼ぶときがあるように。
 「タマシヒデナシ」ということばはないから、そのことばをつかって考えるのはむずかしいが、これを「ひとでなし」で考えてみると。
 「ヒトデナシ」と批判されても、そのときその人は「ヒト(人間)」なのだし、また、その「ヒトデナシ」と呼ばれる行為を止めるというのもむずかしい。どうしても「ヒトデナシ」になってしまう。ならずにはいられない。
 「ヒトデナシ」のなかには、セックスのことばで言えば「エクスタシー」が含まれている。自分が自分でなくなってしまう快感が。

 私はきのう(11月21日)、映画「俺たちに明日はない(ボニー&クライド)」を見た。二人は銀行強盗を重ねる。殺人もやってしまう。「ヒトデナシ」の行為だ。その最初の犯行のときの快感が「エクスタシー」。その瞬間、失業者であることを忘れる。ウェートレスであることを忘れる。何と名づければいいのかわからないが、たしかに「いままでの自分」の「外」にいる、自分を突き破って「外」に出た感じがある。自分が自分でなくなってしまう。何でもできるんだとうい悦びで肉体が満たされる。
 そういうことに対して、親の世代は「ヒトデナシ」とひとくくりにする。「ヒト」の道義に外れる、ということである。人間にはしてはいけないことがあり、それをすると「ヒトデナシ」になる。
 そう考えるとタマシヒは「道義」のようなものかもしれない。「道義」のように、変わらずにある何かに通じるものかもしれない。

 脱線したかな?

 谷川の詩がおもしろいのは、「ヒトデナシ」のような、論理ではうまく追うことのできない何かをつかんだあと、それが「意味」になる前に、そこからぱっと飛躍してしまうところだ。

タマシヒに守られて
アイに近づく

 セックスを描き、「ヒトデナシ」という「声」を聞き取り、そこから一気に「アイ」に飛躍する。この「アイ」は「愛」かもしれないし、英語の「I(私)」かもしれないが、「ヒトデナシ」になって自分から飛び出してしまって、そのあとで初めて「愛」に近づく。逸脱していく「私」をタマシヒが「愛」へと導く。
 「愛」は自分のに閉じこもっていては愛にはならない。愛とは、自分が自分ではなくなってしまってもいいと覚悟して、他人についていくこと、他人に従って自分の外へ出ていくことだから。自分ではなくなることによって、初めてほんとうの自分(アイ/I)になる。
 それこそ「情に流されず/知にも惑わされることもなく」、強い「愛」そのものになるのかもしれない。

 --こんなめんどうくさいことを谷川は書いているのではないのかもしれない。けれど、なぜか、こんなふうに私はめんどうくさいこと考えてしまう。
 谷川の書いていることばはどれもこれも簡単なことばというか、聞いたことのあることばなのだが、その「聞いたことがある」を私は自分の「肉体」のなかに探し回ってしまう。これは、いつ、どこで、どんなときに聞いたのだろう。そのとき私の「肉体」は何をしていたのだろう。それを思い出そうとすると、手探りになってしまう。
 手探りして、何かが見つかるわけではないのだが、手探りをしているとふと何かに触れたように感じる瞬間がある。あ、これはあれかな、とことばにならないまま、「あれ」を感じる。

 セックスと「ヒトデナシ」と「タマシヒ」と「アイ」。論理的に言いなおそうとすると、ごちゃごちゃしてしまうけれど、それはきっと「知に惑わされている」のだろう。「知」を捨てて(論理的になることを止めて)、きょうは「ヒトデナシ」と「アイ」がどこかでつながっているぞ、とだけ覚えておこう。

 この「アイ」のとなり(左ページ)に洗濯したシャツの写真。針金のハンガーに五枚。右側の三枚は風のせいでシャツがくっついている。左の二枚は離れている。光があたっている。影もある。その光と風と影の動きに、私は「肉体」を感じてしまう。それを着ていた「肉体」のことを思ってしまう。
 「アイ」というよりもセックスについて思ったからだろうか。




おやすみ神たち
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(14)

2014-11-21 09:07:57 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(14)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「故郷」は「ひらがな」と対になっているように感じられる。

とりがいちわくもりぞらをとんでゆく
とおくにやまなみがそびえているらしい
ここからはみえない                     (「ひらがな」)

 と、ことばのなかにあらわれた「いつか、どこか」で見たもの(こと)がタマシヒの故郷だと私は思うが、谷川はもうひとつの「故郷」を書く。

タマシヒのこの世での故郷は音楽
耳に聞こえる音が描く見えない地平を越えて
タマシヒは帰ってゆく
どこまで帰るのだろうとヒトは訝(いぶか)る

 「ひらがな」と対になっていると感じるのは、

耳に聞こえる音が描く見えない地平を越えて

 と、そこに「見えない」があるからかもしれない。「ひらがな」の「ここからはみえない」と「見えない」が重なる。「見えない」のに「ある」ということがわかる。
 私は魂が「ある」とは思わない。それを「見た」ことがないからである。そういう人間が「タマシヒ」について書かれた詩の感想を書いているのは奇妙なことだけれど、「見えない」のに「ある」ということが「わかる」ということが、たぶん、谷川の詩と私をつないでいるのだと思う。
 「見えない」のに「ある」ということが「わかる」。そして、それを「書く」ことができる。書いたときに「見えない」ものが「ある」ということが、ことばのなかで「事実」になる。
 魂は「ない」。「ない」なら、それを考える(想像する)ことはできないのかもしれないが、「ある」と同様に「ない」も想像できる。そして「ない」と書いたときに「ない」がことばのなかで「事実」になる。
 「ある」と「ない」がことばのなかで同じように「事実」になる。その「なる」になるようにことばが動く--そこにある「共通の何か」が気になる。
 あ、だんだん、ややこしくなる。
 中断しよう。詩に戻ろう。

 音楽は不思議だ。音は一瞬一瞬消えてゆく。けれど聞いた音が「肉体」のなかに残り、音をつないでゆく。そのとき時間は次々にあらわれる音を追いかけると同時に、過去へも逆戻りしている。矛盾した方向へ広がっている。「いま」が「いま」ではなくなる。「いま」ドの音が聞こえても、その音だけでは音楽ではない。(そういう音楽もあるかもしれないが……。)いくつもの音が聞いた音(過去)のなかへ帰ってゆき、そこから新しい音となって「いま」を突き破って次の音(未来)になる。
 そのとき「見えない地平」というのは、どこにある? 過去の方? 未来の方? それとも突き破られた「いま」のどこか? たぶん、「過去/未来/いま」の区別がない。区別がなくなるところに「見えない地平」がある。区別が「ない」と見え「ない」がいっしょになって「ある」に変わる瞬間。
 「ない」と「ある」が交錯する。
 これは、ほんとうに「どこまで帰る(どこまで広がる)」かわからない。わからないから「訝る」のだけれど、わからないを通り越して、どこかに「ある」らしい。その「地平」は。「とおくにやまなみがそびえているらしい」と同じように……。

 音楽。
 私は音痴で音楽はほとんど知らないが、谷川が音楽が好きなことはよくわかる。この詩がその例になるかどうかわからないが、音楽というのはそれまで出会ったことのない音が出会って新しい音に変わるよろこびのなかにある。
 谷川の詩は、いつでも「変な音」を含んでいる。ここで、どうして、こんな音が出てくる?と言いたくなるようなことばが出てくる。そして、どうしてこんな音(こんなことば)?と思いながら、それを聞き終わった瞬間、あ、これがいい。いま聞いた音がもう一度聞きたいと思う。
 二連目。

この世での故郷の先に
あの世での故郷があるのではないか
タマシヒは多分それを知っている
そう思ってヒトはもどかしく
寂しく楽しい

 「この世」に対して「あの世」が出てくる。これは、ちょっと変だけれど、まあ、ことばはそんなふうに動くかもしれない。いや、そんなふうに動くと動きやすいから、そう書いているのだなと思う。いわゆる対句。私はこういうことばの動きを「頭で書いている」という具合に批判するのだけれど、批判とは関係なしに、これはこれで「対句」という音楽形式。私がいちゃもんをつけているだけ。
 あっと驚くのは、最後の、

寂しく楽しい

 だいたい「寂しい」と「楽しい」は同居することばではなく、矛盾することばだ。「寂しく悲しい」か「にぎやかで楽しい」が一般的な言い方。だから、谷川の書いていることは変。
 変なのだけれど、それがいい。
 こういうところだね。音楽を感じるのは。あまりにもかけ離れた音が出会うのはいままでの「和音常識」からはありえない。知ったかぶりをして書くと、和音のコード進行からいうとありえない。でも、それが書かれた瞬間、それが存在し、その存在に触れた瞬間、「そうだ」と思う。「これこそ聞きたかった音」と思う。同時に、それを「知っている」と思う。
 「寂しく楽しい」を知っている。
 「寂しく楽しい」というのは矛盾しているから、そして矛盾だという声が自分のなかから(たぶん頭のなかから)聞こえるから、それをことばにすることができなかったけれど、「寂しく楽しい」は「知っている」。いつも感じている。感じながら、ことばにできなかった。
 谷川より先にことばにすれば、私の方が詩人になれたのに。
 二連目の「この世」「あの世」の対句の動きは、なんだかうるさいのに、そのうるさかったことも忘れて、最後の行で、ああ、いいなあ、と思う。
 そして詩を最初から読み返す。「意味」というか、「論理」はわかったようで、わからない。タマシヒと音楽と故郷について書かれているということだけは「わかる」。それが「寂しくて楽しい」に変わるのも「わかる」。
 「わからない」ものがある。それは「寂しい」。けれど「わからない」が「ある」と考えることができるのは、「楽しい」。「わからない」が「ない」ではなく「ある」と言えるのは、きっとことばにならない何かを「わかる」から。

おやすみ神たち
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(12)

2014-11-19 10:12:54 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(12)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「草木に」の右側は空白のページ(「枯葉の上」の裏側)。詩は、左ページの左端に印刷されている。多くの作品は、同じように「左詰め」で印刷されている。そのため、長い「空白」のあとに、ぽつりと洩らされたことば、という感じがしてくる。

祈ってもいいだろうか
草木に
神が見当たらぬまま
祈ってもいいだろうか
ただともに生きていたいと
無言の草木に
祈ってもいいのだろうか
今日の陽の光を浴びて
叶えられぬ明日を

 いろいろなことを思う。まず「神が見当たらぬまま」に少し驚く。そうか、「祈る」のは神に祈る、ということか。私は、神について真剣に考えたことがない。祈る、というのも真剣に祈ったことはないような気がする。でも、「神が見当たらぬまま」「祈ってもいいのだろうか」と悩む気持ちは、わかる感じがする。神の存在を信じていないから、なんとなく親近感を覚えるのかもしれない。妙な言い方だが。
 親近感を覚えるは、「草木に」祈る、ということにも関係する。私は「草」には何も感じないが、木には不思議な畏怖を感じる。ときどき木に引きつけられ、木に触ると落ち着く。だから神に祈るのではなく、木に祈る、というのはなんとなく、わかる。
 でも、何を祈るのだろうか。

ただともに生きていたい

 あ、これは「祈り」なのかなあ。
 「祈り」とは、何なのだろう。辞書(広辞苑)には「祈り」を「祈ること」、「いのる」を「言葉に出して、神仏から幸いを授けられるように願うこと」という具合に書いてあるが、「ただともに生きていたい」とは「神から授けられる幸い」なのかな?
 「辞書」通りには、ことばの「意味」は動かない。「辞書」は役だたない。
 「多々ともに生きていたい」は、誰かから授けられる幸福というものではないように私には思える。
 私には「祈り」というよりも「欲望」のように感じられる。「欲望」を語りかけてもいいかな、ということだろうか。
 でも、こう書いた瞬間に、「ただともに生きていたい」は「欲望」と呼んでいいのかな、という気持ちにもなる。
 「生きていたい」は究極の願い。夢。理想……。ことばが見つからないが。
 どんな思想も「人はどうしたら幸福に生きていけるか」ということにつながる。それにつながらない「思想」はない。そうすると、「ともに生きていきたい」は「思想」ということになる。

 人は「思想」を「祈る」のだ。

 で、この詩を読んで、そこに「神」を感じないけれど(谷川自身「神が見当たらぬ」と書いているが)、純粋な「思想」を感じる。そして、その「純粋な思想」を「神」であると感じる。
 あ、矛盾しているね。「神」を感じないけれど、「純粋な思想」に「神」と感じるというのは。「ともに生きていたい」と思うとき、人は「神」になるのかもしれない。知らずに、自分を超えて自分以外のものになる、と言えばいいのか。

 ことばにしようとすると、だんだん変な具合になってしまうが、あ、これ、わかる。そうだなあ、そんなふうに思う瞬間があるなあという気持ちは変わらない。
 かわらないのだけれど……。

叶えられぬ明日を

 この最終行は何だろう。とても不思議だ。このあとに、もう一度「祈ってもいいのだろうか」という行が省略されているのだと思うが、なぜ「叶えられぬ」? 不可能なことを「祈る」?
 考えるとわからない。
 けれど、考えないと、「わかる」。
 決して叶えられない。みんながともに生きて、ともに幸せになるというのは叶えられない夢である。だからこそ、それを願うのだ。そうあってほしい、それに近づきたいと思うのだ。
 この「願い」をしっかり「肉体」のなかに抱え込むとき、人はやっぱり、人であることを超えて「神」になるのかな? 「神」になれば「神が見当たらぬ」はあたりまえのことになるのかな。

 ことばを多く書きすぎてしまった。
 何も書かずに、ただ読み返せばいいのかもしれない。そうして、自分のことばを「空白」にして、ここにあることばになってしまえばいいのだろう。谷川の詩なのだけれど、谷川が書いたということも消してしまって。


おやすみ神たち
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(11)

2014-11-18 10:35:01 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(11)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 私はこの日記ではもっぱら谷川の詩について書いている。写真がいっしょになっていて、写真の方がページが多いのに写真のことは語っていない。引用がむずかしいから、どうしてもそうなってしまう。
 そして引用がむずかしいといえば、この本の「構成」そのものも引用がむずかしい。実際に本を手にしてもらうしかないのだが、そのむずかしい写真と構成のことを書いておきたい。以前書いたことにつながるのだが……。
 きのう読んだ「アンリと貨物列車」の裏側は空白である。空白だけれど、裏の文字は透けて見えない。不透明の白。あ、これは間違いで、紙が「不透明」なのだろうけれど。
 その白が、見開きの左の写真とつながっている。左の写真は白壁の向こうに消えていく豚の尻と尻尾と後ろ足。それを見ていると、右のページの空白は空白ではなく白壁にも見える。写真はパノラマのように見える。右はただ壁しか写っていないのだけれど。
 それはある意味では「無意味」。あるいは「中断」。
 こういうものがあると、ほっとするなあ。
 私はきのう私の「肉体」がすべての「もの」と「肉体」としてつながっているというようなことを書いたが、そのつながりはつながりのままではかなり窮屈。必要なときだけつながって、それ以外はつながっていないのがいいなあ。わがままな考えかもしれないけれど。そして、そのつながっていない感じ、「中断」(切断)した感じがあると、なんだかほっとする。
 この写真の右ページがそういうものかもしれない。
 「中断」といえば、豚の尻と尻尾も「中断」ではあるね。頭と前足が見えない。見えないけれど、それがあるとわかる--と書くとまたつながってしまう。そうではなくて、つながっているとわかっているけれど、それを「中断(切断)」して表現してしまう。そのときの「中断」をめざす(?)動きが、なんだかほっとする。
 それは「中断」されて(切断されて)も、そこに「充実」があるからかもしれない。
 写真というのは、切断(中断)され、そこで輝いている「もの/こと」だろうか。世界はどこまでもつづいている。それをカメラのフレームが強制的に切断し、そこに「もの/こと」をとらえてしまう。
 そういう写真が何枚かつづいて、ガラス窓をつたう雨粒の写真がある。その裏側は不思議な灰色、あるいは水色。雨粒が見ているガラスの色だろうか。雨粒がかかえてきた空の色を、雨粒はガラスに映して見ているのだろうか。どこから、何を見れば、その色が見えるのだろうか。肉眼で見る色ではなく、想像力で見る色かもしれない。

 で、想像力。

 灰色とも水色とも見える色の、その隣(左ページ)に「枯葉の上」という詩がある。いまは秋なので、そして町には街路樹が木の葉を落としているので、谷川がどの場所を書いているのかわからないが、私は私の知っている枯葉を思い浮かべながら読む。
 ことばを読む、あるいは写真や絵を見るとき、想像力で、そこにはない何かを見ている。そういう「飛躍」の踏み台になっているかもしれないなあ、あの水色(灰色)は、というようなことも私は考えたりするのだが……。
 詩に戻る。あるいは、詩へ進む。

散り敷いた枯葉の上に陽がさした
相変わらず見えないし聞こえもしないが
未知に近づいているせいか
タマシヒは謙虚になっている
とココロは思う

 二行目の「相変わらず見えないし聞こえもしない」とは何のことだろう。何が見えない、何が聞こえない? 「相変わらず」って、いつから?
 「タマシヒ」が見えない、聞こえない。「散り敷いた枯葉の上に陽がさした」のは見える。そのとき、そこにある音がないとしたら、その「ない」が聞こえている。だから、町の風景ではない。それを見て、それをことばにしようとした何か--タマシヒが見えない、聞こえない。
 けれど、町を「散り敷いた枯葉の上に陽がさした」ということばにすることで、タマシヒはどこかに近づいていこうとしている。「未知」へ。まだ、ことばにできない、どこかへ。そして、その未知の中心(真実とか事実とか)に近づいているのだなと感じてタマシヒは謙虚になっている。
 と、「ココロは思う」。
 ココロにもタマシヒの姿は見えない、タマシヒの声は聞こえない。それはどこある? 見えないのだから、特定できない。でも、遠くにあって見えないのではない。聞こえないのではない。遠くだったら「感じる」ということもできないだろう。
 見えすぎる、聞こえすぎるのかもしれない。見えすぎ、聞こえすぎて、ココロにはタマシヒの見たもの、聞いたものが、ココロ自身が見聞きしたことのように思えるのかもしれない。錯覚してしまうのかもしれない。
 タマシヒはココロの内部、ココロの奥深くにあって、ココロを支えているのではなく、ココロに直にくっついているのかもしれない。すぐ背後にタマシヒはあって、それがそのままココロを直接動かして「散り敷いた枯葉の上に陽がさした」ということばになった。そのことばを聞きながら、ココロはタマシヒの「謙虚」を感じている。何も言わないので「謙虚」と感じているのかもしれない。
 ほんとうはココロとタマシヒが「距離のない」対話をしている。「一体」になっ「対話」している。「一体の対話」は「独白」の形になってしまうので、ココロにはそれがわからない。

枯葉を踏んで音もなく猫がやってきた
穏やかな一日があれば他に何も要らない
とタマシヒが囁(ささや)いたような気がして
ココロは朝の光に寄り添う

 対話することは、同時に「肉体」を寄り添わせることである。離れていては対話はできない。「一体」になっているココロとタマシヒは「寄り添う」必要はないのだけれど、「一体」ということについて考えるために、「寄り添う」ということばが必要なのだ。
 囁いたのはタマシヒか、ココロか、寄り添うのはココロかタマシヒか。区別の必要はない。別々の名前で区別することがあっても、それは便宜上のことだ。つながっているから「ひとつ」。その「ひとつ」になる瞬間を感じ取ればいいのだろう。
 で、タマシヒとココロが「ひとつ」になったとき、散った枯葉も、その上にさしてきた陽の光も、猫もみんな「ひとつ」になって、その「ひとつ」であることが「穏やか」ということだなあ、とわかる。

 あ、書き漏らした。
 「相変わらず」って、いつから? きっと最初から。それは「いつも」のことなのである。「不変」であり、それは「普遍」でもある。
 タマシヒはいつも動かない。だから見えないし、聞こえない。動いたときはココロと「一体」になっているので、ココロにはタマシヒが動いたとは感じられない。ココロが動いているだけで、タマシヒはココロの動きをじっと見ているだけ。じっと見ながら、タマシヒが「未知(永遠)」に近づいていく。ココロに従って「未知(永遠)」近づいていく。「謙虚」で「従順」なタマシヒ。

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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(10)

2014-11-17 11:23:14 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(10)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「アンリと貨物列車」はこの詩集の中では変わった詩である。「タマシヒ」ではなく「魂」という漢字で書かれている。谷川は、表記をつかいわけているのだろうか。表記を書き換えることで「意味」を変えているのか。

アンリの家は丘の上にある
ふもとを長い貨物列車が走っている
貨物列車には牛が乗っている
私は丘の上の家に憧れているが
アンリは好きじゃない
アンリの魂が精神とか心理とか
理性とか知性とかの殻をかぶっているから
それが事実かどうかは分からない
ただ私がそう感じるだけだ
つきあいが浅いせいかもしれない
アンリに悪気がある訳ではない

貨物列車に魂があるとは誰も思わないだろうが
私は時々アンリには感じない魂というものを
貨物列車に感じることがある

 私は「魂」というものを感じたことがない。「魂」が「ある」考えたことがない。自分自身から「魂」ということばで何かを語ったことはない。この詩集に対する感想も、谷川が「タマシヒ」(魂)ということばをつかっているので、「タマシヒ」(魂)ということばをつかわないことには何も書けないのでそうしているだけで、「魂」の存在を信じているからではない。直径一ミリの円に内接する「九千九百九十九角形」のようなもので、ことばではあらわすことができるが、それがほんとうに「九千九百九十九角形」として存在できるのかどうかわからない。現実に存在するのかどうかはわからない。考えることができる以上、存在するという言い方はあるとは思うけれど……。
 脱線した。
 「魂」というものを感じないけれど、なぜか、私は最後の三行がとても好きだ。
 この三行を読みながら、私はキューブリック監督の「2001年宇宙の旅」を思い出した。反乱を起こしたコンピュータ「ハル」がメモリーを一個ずつ抜かれて動けなくなっていくシーン。ハルは最初に覚えた「デイジー」の歌を必死になって歌う。だんだんメモリーが減ってきて、歌のスピードが落ちる。音が低くなる。私は、そのときハルに同情してしまう。ハル、がんばれ、負けるな、という感じで、何度見ても応援してしまう。
 このとき私はハルに「魂」を感じているのわけではないが、「人間」を感じている。「人間」の肉体を感じている。だんだん記憶が薄れて(認知症になって)、ことばがもつれる人。言いたいことが言えなくて、ことばが乱れ、自分自身に怒っている人。そういう人に触れた記憶が甦ってきて、ハルがコンピュータであることを忘れ、「肉体」を感じるのである。
 「共感」する、と言いかえることができるかもしれない。
 「人間」ではなく、「もの」に共感するというのは変だろうか。
 しかし、それがコンピュータであれ、何であれ(たとえば、この詩の「貨車」であれ)、それについて読んでいるとき(書いているとき)は、その対象の「何か」に対して「共感」している。自分とは無関係な「もの」ではなく、自分の「肉体」につながるものとして見ている。批判しているときでさえ、「肉体」のつながりを感じて批判している。その「肉体」がつながっている感じを「共感」と呼ぶなら、私は、あらゆるものと「共感」してしまう。
 私は、ただし、その「共感」を「魂」の「つながり」とは言わない。あくまで「肉体」の「つながり」。
 そこが谷川の書いていることとは違うのだけれど、私は最後の三行を読み、勝手に、私と谷川は「同類」と思ってしまう。「もの」を「人間」以上に好きになってしまう人なのだと思い、うれしくなる。--これは私の勝手な思い込みであって、谷川は「私は人間よりものが好きとは感じたことはない」と言うかもしれないけれどね。

 私と私以外をつなぐもの。それを谷川は「魂」と呼んでいるのかもしれない。私は、それを「肉体」と呼ぶ。谷川は、あらゆる存在は「魂」でつながっている、と言うかもしれない。私は、あらゆる存在は「肉体」でつながっている。あらゆる存在が「私の肉体」と感じてしまう。
 こうやって谷川の詩の感想を書いているときは、谷川の詩を「私の肉体」と感じている。あ、これは私が気がついていなかった私の肉体のどこかにあると感じたり、あ、ここのところ、こんなふうに動かしたら「肉体」がねじまがってしまって、つらい。ここは、こんなふうに動きたくない、と感じてしまう。
 で、最後の三行だけれど……。
 牛を乗せて(牛といっしょに)、どこか遠くまで延々と走りつづけるというのは楽しいかもしれないなあ、と思ったりするのである。それがたとえ場であっても、大事に育ててきた牛を最後まで届けるというのは、悲しいけれど、人間としてしなければいけないことだからね。貨物列車と牛は、何も言わないけれど、いっしょに動いていって、その動いている間中、「肉体」で対話しつづけている。ことばにならないことばを、互いに「悟りあう」。そんな感じ。
 「わかる」というのは、「分かる」と書く。それはたぶん「未分節」のものが「分節」され、世界が動きやすくなるということなんだと思う。「悟る」は、それとは違って、何かことばにできないまま、「それ」を受け入れる感じ。納得、という感じかなあ。
 谷川は、それを「感じる」と書いているけれど。
 私のことばで言いなおすと、「感じる」寸前の、「あっ」と思う瞬間が「悟る」。

 かなりめんどうくさいことを書いてしまっているかもしれない。このままでは、ことばがだんだん動けなくなる。
 このことは、ここまでにして、詩の前半に戻る。

 詩の前半には「魂」と「精神」「心理」「理性」「知性」ということばが対比されている。谷川は「精神」「心理」「理性」「知性」を「殻」と呼んでいる。「魂」の外側を覆っている「殻」。「かぶっている」という動詞が、そういう状態をあらわしている。
 「魂」は「精神」「心理」「理性」「知性」の「奥」にある。隠されている。
 そのあと、谷川は「つきあいが浅いせい」で、「魂」には触れることができず「殻」にだけ触れているように感じるのかもしれないと補足している。その「浅い」ということばを手がかりにすれば、「魂」は「精神」「心理」「理性」「知性」の「深いところ」にあるともいえるかもしれない。
 「魂」は「精神」「心理」「理性」「知性」の「深いところ」(奥)にあって、そういうものには、ひとはなかなか触れられない。「つきあい」が深くならないと(親密にならないと)、触れあえない。「魂」の触れ合いは、「深いつきあい(親密なつきあい)」を通して実現する。「親密なつきあい」というのは「殻」を打ち破って「内部」をさらけだしたつきあいのことでもある。(でも、瞬間的に「深い」ものに触れるということはあるだろうから、この「深い(親密)」は「長い」とは無関係である。「長い」つきあいが「深い」つきあいとはかぎらない。)
 「深い」ところにあるものは「動かない」ように感じられる。「奥」にあるものも、それが表面的には見えないのでやはり「動かない」ように感じられる。「魂」はそういう「動かない」ように見える何かと関係している--と書けば、この詩集について書いた最初の感想に戻ってしまうが、私は、そこへ戻りたいのかもしれない。
 でも、簡単には戻れない。
 それは「魂」(動かないもの)が「貨物列車」という「動くもの」といっしょに書かれているからである。「魂」はものごとの「深いところ(奥)」にあって、動かない。動かないことで、もろもろの動きを支えるものと言えるならいいのかもしれないが、それでは「貨物列車」が「比喩」(象徴)にならない。
 と、書きながら、私は、いま書いたことは、どこかが違っているぞ、とも感じる。
 「貨物列車」は動く。でも「貨物列車」にも「動かない」部分がある。それは「何かを運ぶ」ということ。「運ぶ」という動詞、「運ぶ」という働きは、変わらない。つまり「動かない」。
 「動かない」とは「変わらない(普遍)」でもある。「変わらない(普遍)」が「魂」か。
 「精神」「心理」「理性」「知性」は動き回る。そして変わっていく。ひとは、そういう動き、変化には敏感に反応してしまう。その変化にまどわされて、深いところにある「動かない魂」が見えない。だから「私」は「アンリ」が好きじゃない……。
 うーん、こんな「説明」は、しかしおもしろくないね。

 この詩を読みながら、もうひとつ感じたことがある。「動く/動かない」に関係している。「動く」ものとして「貨物列車」がある。「貨物列車」は「走っている」。その「動く」「貨物列車」に、詩の主人公(話者)は「魂」を感じている。
 その「貨物列車」を思い浮かべるとき、私には、「貨物列車の魂」とは別に「動かないもの」が見える。
 「丘」と「アンリの家」。
 このふたつにも「魂」はあるんじゃないだろうか。
 「私は丘の上の家に憧れている」と書くとき、「私」は「丘」と「家」の「魂」に触れているのではないだろうか。その「動かない魂」が「貨物列車の深いところにある動かない魂」と「共感」しあって、「風景(世界)」をつくっているようにも感じる。

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