加藤思何理『すべての詩人は水夫である』(土曜美術社出版販売、2014年02月10日発行)
加藤思何理『すべての詩人は水夫である』には読みやすい詩と、読みにくい詩がある。読みにくい詩について、なぜ読みにくいと私が感じるか--ということについて書いてみる。
「桑の実で歯を紫に染めた花嫁としての自画像」の最初の句点「。」までの行。
読みにくさの原因は、ことばの「行渡り」が多いからである。1行で文節が完結しない。次の行にまたがってしまう。そして、その「行渡り」の特徴は、行の最後が「名詞」で終わることである。一行一行が「体言止め」なのである。(もちろん、そうではないところもあるが、「体言止め」が特徴として見えてくる。)
「体言止め」の羅列(連続?)というのは私の「感覚の意見」でいうと、一階から二階へゆくのに、エスカレーターや階段でゆくのとは違って、エレベーターか飛翔(飛躍)でゆく感じである。そこには断絶がある。そして、このとき文章(ことはば)を支配する「主語」は「名詞」にかわる。「私」という存在は存在感が薄くなり、「体言止めであらわされたもの(名詞)」が「主語」になり、「もの」から「もの」へと動いていく。「主語」が変化しつづける。
「もの」から「もの」へ飛躍していく。「もの」と「もの」の間には「断絶(切断)」がある。それは飛躍する前は「断絶」なのだが、飛躍してしまえば(到着/着陸)してしまえば「接続」にかわる。そういう種類の「断絶」がある。
ことばというのは、まあ、どんな具合にでもつながってしまうから、接続不可能な断絶(切断)というものはないのだが……。
で、それがくり返されると、文章の「主語」(文章を支配する何か)は、「もの(名詞)」というより、ことば字体の「断絶/飛躍」ということになる。この「主語」を追いつづけるのは、かなり抽象的なことである。
で、読みにくいなあ。読みつづけるのがめんどうだなあ、という感じになる。
読みにくいと感じるのは、ことばの運動の仕方に「飛躍」が多いからだということになるが、--詩を、手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いと考えるなら、飛躍の多い方が詩的であるということになるかもしれない。で、まあ、そういうことを狙って書いているんだろうなあ、とは思う。
ということとは別にして。
私は少し違うことも考えるのである。これから先は(これまでもそうかもしれないが)、詩の感想というのとはかなり違うことを書く。
私の「感覚の意見」では、名詞は人間にはわからない。多くの名前は、単に名前である。それをわかるためには、それを「動詞」にしないといけない。一本のバラの花さえ、それをわかるためには、「バラの花がある」という形で「ある」を補足しないとわからない。そのとき私が理解しているのは「バラの花」というよりも「ある」という「動詞」である。「ある」という「動詞」で私とバラがつながる。私がいまここに「ある」とき、バラも「ある」。
何かをわかるためには「動詞」をくぐらせないといけない。動詞というのは人間の「肉体の動き」である。肉体の動きなら、たいていは人間は真似ることができる。肉体で動きを真似ながら、そこに起きている「こと」を私たちは把握し、理解している。私は、「把握」とか「理解」ということばにも抵抗感が合って、最近は「わかる」で押し通しているのだが(多用しているのだが)。
目の前で何かが起きている。「こと」がそこに「ある」。それを「肉体」を動かして真似ると、そのことが「肉体」に「わかる」。「肉体」は肉体の動きをとおして、そこに起きている「こと」を「おぼえる」。「おぼえる」が積み重なると、いちいち「肉体」を動かさなくても、起きている「こと」が「わかる」。「肉体」を動かさなくても「わかる」ことを「知っている」と私たちは呼んでいると思う。で、そのために、ときどき変なことも起きる。「知っている」には「肉体」と無関係なこと(肉体が十分に動けないこと)も含んでしまう。英語を「知っている」、アメリカを「知っている」、でも英語を「つかえない」。水泳(泳ぐこと)が「わかる」、泳ぎを「肉体」で「おぼえている」。一度おぼえると、たいてい忘れない。いつでも「泳げる」。「泳ぐ」という運動のために肉体を「つかう」ことができる。「わかる/おぼえる/つかう」は一続きの「肉体」である。「知る」は「肉体」から分離した「頭」の領域での架空の運動である。
で、私は、ことばを読むとき、ことばを貫いている「運動」に目を向ける。名詞は「動詞」に変換してつかみとる。名詞が動詞派生のことばであるときは、名詞で終わっていてもいいのだが、そうではないとき名詞を突きつけられると、私は戸惑ってしまうのである。どう向き合っていいのかわからない。書かれていることばの「意味」は「頭」では「わかる」つもりだが、それは「知っている」だけで、「わかってはいない」ということが起きる。
加藤の詩にもどって具体的に言いなおすと……。
2行目の「つむじ風」。これは「知っている」。ぐるぐる巻きあがる風、旋風。それを「わかる」ために、私は「ぐるぐる巻きあがる」という動詞を補ったのだが、そうしないことには、私は先へ進めないのである。「ぐるぐる巻きあがる」という「動き」のなかには私の肉体で再現できるものとできないものがある。「ぐるぐるまわる」は再現できる。「あがる」は飛び上がることで半分再現できるが、風のように「巻きあがる」ことはできない。そのできることと、できないことを感じながら、私は「つむじ風」が「私」ではないということを「わかる」。「知る」という形に、ととのえ直す。
で、その「わかったこと」が、次の行の、「ねじを巻き戻す」という動詞のなかで反復される。ぐるぐる「巻く」「巻き」もどす。「巻く」というのは「まわる」ということにもつながる。自分で「まわる」こともできるし、何かを「まわす」こともできる。「まわったもの」は「巻かれたもの」でもある。私は、この行の「巻き戻す」の「巻く」という動詞で、前の行の「つむじ風」を反復している。同時に、その「巻く」が少し変質しながら別のことばにつながっていくのを感じている。
そんなふうに読むと、加藤は体言止めの行を多用しながら「動詞」を二重につかっていることが「わかる」。動詞を反復しているのだが、その反復を、見かけ上は省略しているということになる。動詞の量(?)が半分に省略されているために、「肉体」よりも先に「頭」が動いて、「肉体」を動かないようにしている感じがする。「知る」という形の「ととのえ」が先行する。先に「知る」が動いていく。
それが私には苦しい。
つむじ風が巻いている。そのつむじ風は世界のねじを巻き戻すようだ、と二回にわけて「巻く」をつかえば、それだけそのことば(動詞)は肉体に覚え込まれるのに、反復を避けて先走る。
これが苦しい。読みにくい。
とは言っても……。加藤は反論するだろう。「反復」は最初から提示している。反復に気づかない方が悪い、と。
最初から提示している、というのは。1行目、
その書き出しに、「反復」としか言いようのない形で書かれている。「青い家」がそのまま反復されているし、ていねいに「その」という指示詞で先行する「もの」があることを示している。この書き出しから反復を受け取ることができないとしたら、それは読む方が悪い、頭が悪すぎる。
たしかにそうなのだ。私は頭が悪い。悪すぎる。
自覚しながら、頭がいいふりも少ししてみよう。聞きかじったことばを利用して、適当にことばを動かしてみる。頭の悪い私は、いま書きつらねたことを、「流通言語」を利用して次のように整理し、ととのえる。
加藤が書いているのは反復こそが、世界のなかに反復できない何か(ずれ/差異、というのかな?)を生み出す。その、反復されるまでは言語化されていないものを、ことばを切断させながら飛翔するように(飛躍するように)進んでゆくときに(疾走するときに、といった方が加藤のことばの運動の感じが出るかな?)、新しい世界、ことばでしかたどりつけない世界、つまり詩が出現する。
あ、かっこいいなあ。
私は自分の書いたことなのに(その加藤の肖像に)、そんなふうにも思うのだけれど、こういう「意味」って、嘘くさいと思う。「意味」なんて、ことばをつないでゆけば、どんな具合にも生まれてしまう。詩は「意味」にしてはいけないんだと思う。「意味」はかたちづくるためにあるのではなく、たたきこわしていくためにあると私は感じている。
だから、加藤のことばは「読みにくい」というところにとどまって、ごちゃごちゃと何事かを言ってみるのである。
加藤思何理『すべての詩人は水夫である』には読みやすい詩と、読みにくい詩がある。読みにくい詩について、なぜ読みにくいと私が感じるか--ということについて書いてみる。
「桑の実で歯を紫に染めた花嫁としての自画像」の最初の句点「。」までの行。
青い家、その青い家の緑の扉を開けると
麻と羊歯の瘤蜜柑の匂いを積んだ小さなつむじ風
が、世界のねじを巻き戻すためにふたたび細心に、だが狂おしく
吹きはじめる。見れば裏庭に面したベッド
に横たわる彼女の乳房には、白い貂
の毛の生えた不純な矢が刺さり、首には荊と蜂鳥
の影が渦を巻く、額からは緑の幹を持つ家系樹
があざやかに伸びて、その根は鼻や頬や顎を突き抜け
背骨と二つの心臓を貫き、仙人掌と蜘蛛猿
の土壌へと無傷で呑みこまれてゆく。
読みにくさの原因は、ことばの「行渡り」が多いからである。1行で文節が完結しない。次の行にまたがってしまう。そして、その「行渡り」の特徴は、行の最後が「名詞」で終わることである。一行一行が「体言止め」なのである。(もちろん、そうではないところもあるが、「体言止め」が特徴として見えてくる。)
「体言止め」の羅列(連続?)というのは私の「感覚の意見」でいうと、一階から二階へゆくのに、エスカレーターや階段でゆくのとは違って、エレベーターか飛翔(飛躍)でゆく感じである。そこには断絶がある。そして、このとき文章(ことはば)を支配する「主語」は「名詞」にかわる。「私」という存在は存在感が薄くなり、「体言止めであらわされたもの(名詞)」が「主語」になり、「もの」から「もの」へと動いていく。「主語」が変化しつづける。
「もの」から「もの」へ飛躍していく。「もの」と「もの」の間には「断絶(切断)」がある。それは飛躍する前は「断絶」なのだが、飛躍してしまえば(到着/着陸)してしまえば「接続」にかわる。そういう種類の「断絶」がある。
ことばというのは、まあ、どんな具合にでもつながってしまうから、接続不可能な断絶(切断)というものはないのだが……。
で、それがくり返されると、文章の「主語」(文章を支配する何か)は、「もの(名詞)」というより、ことば字体の「断絶/飛躍」ということになる。この「主語」を追いつづけるのは、かなり抽象的なことである。
で、読みにくいなあ。読みつづけるのがめんどうだなあ、という感じになる。
読みにくいと感じるのは、ことばの運動の仕方に「飛躍」が多いからだということになるが、--詩を、手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いと考えるなら、飛躍の多い方が詩的であるということになるかもしれない。で、まあ、そういうことを狙って書いているんだろうなあ、とは思う。
ということとは別にして。
私は少し違うことも考えるのである。これから先は(これまでもそうかもしれないが)、詩の感想というのとはかなり違うことを書く。
私の「感覚の意見」では、名詞は人間にはわからない。多くの名前は、単に名前である。それをわかるためには、それを「動詞」にしないといけない。一本のバラの花さえ、それをわかるためには、「バラの花がある」という形で「ある」を補足しないとわからない。そのとき私が理解しているのは「バラの花」というよりも「ある」という「動詞」である。「ある」という「動詞」で私とバラがつながる。私がいまここに「ある」とき、バラも「ある」。
何かをわかるためには「動詞」をくぐらせないといけない。動詞というのは人間の「肉体の動き」である。肉体の動きなら、たいていは人間は真似ることができる。肉体で動きを真似ながら、そこに起きている「こと」を私たちは把握し、理解している。私は、「把握」とか「理解」ということばにも抵抗感が合って、最近は「わかる」で押し通しているのだが(多用しているのだが)。
目の前で何かが起きている。「こと」がそこに「ある」。それを「肉体」を動かして真似ると、そのことが「肉体」に「わかる」。「肉体」は肉体の動きをとおして、そこに起きている「こと」を「おぼえる」。「おぼえる」が積み重なると、いちいち「肉体」を動かさなくても、起きている「こと」が「わかる」。「肉体」を動かさなくても「わかる」ことを「知っている」と私たちは呼んでいると思う。で、そのために、ときどき変なことも起きる。「知っている」には「肉体」と無関係なこと(肉体が十分に動けないこと)も含んでしまう。英語を「知っている」、アメリカを「知っている」、でも英語を「つかえない」。水泳(泳ぐこと)が「わかる」、泳ぎを「肉体」で「おぼえている」。一度おぼえると、たいてい忘れない。いつでも「泳げる」。「泳ぐ」という運動のために肉体を「つかう」ことができる。「わかる/おぼえる/つかう」は一続きの「肉体」である。「知る」は「肉体」から分離した「頭」の領域での架空の運動である。
で、私は、ことばを読むとき、ことばを貫いている「運動」に目を向ける。名詞は「動詞」に変換してつかみとる。名詞が動詞派生のことばであるときは、名詞で終わっていてもいいのだが、そうではないとき名詞を突きつけられると、私は戸惑ってしまうのである。どう向き合っていいのかわからない。書かれていることばの「意味」は「頭」では「わかる」つもりだが、それは「知っている」だけで、「わかってはいない」ということが起きる。
加藤の詩にもどって具体的に言いなおすと……。
2行目の「つむじ風」。これは「知っている」。ぐるぐる巻きあがる風、旋風。それを「わかる」ために、私は「ぐるぐる巻きあがる」という動詞を補ったのだが、そうしないことには、私は先へ進めないのである。「ぐるぐる巻きあがる」という「動き」のなかには私の肉体で再現できるものとできないものがある。「ぐるぐるまわる」は再現できる。「あがる」は飛び上がることで半分再現できるが、風のように「巻きあがる」ことはできない。そのできることと、できないことを感じながら、私は「つむじ風」が「私」ではないということを「わかる」。「知る」という形に、ととのえ直す。
で、その「わかったこと」が、次の行の、「ねじを巻き戻す」という動詞のなかで反復される。ぐるぐる「巻く」「巻き」もどす。「巻く」というのは「まわる」ということにもつながる。自分で「まわる」こともできるし、何かを「まわす」こともできる。「まわったもの」は「巻かれたもの」でもある。私は、この行の「巻き戻す」の「巻く」という動詞で、前の行の「つむじ風」を反復している。同時に、その「巻く」が少し変質しながら別のことばにつながっていくのを感じている。
そんなふうに読むと、加藤は体言止めの行を多用しながら「動詞」を二重につかっていることが「わかる」。動詞を反復しているのだが、その反復を、見かけ上は省略しているということになる。動詞の量(?)が半分に省略されているために、「肉体」よりも先に「頭」が動いて、「肉体」を動かないようにしている感じがする。「知る」という形の「ととのえ」が先行する。先に「知る」が動いていく。
それが私には苦しい。
つむじ風が巻いている。そのつむじ風は世界のねじを巻き戻すようだ、と二回にわけて「巻く」をつかえば、それだけそのことば(動詞)は肉体に覚え込まれるのに、反復を避けて先走る。
これが苦しい。読みにくい。
とは言っても……。加藤は反論するだろう。「反復」は最初から提示している。反復に気づかない方が悪い、と。
最初から提示している、というのは。1行目、
青い家、その青い家の緑の扉を開けると
その書き出しに、「反復」としか言いようのない形で書かれている。「青い家」がそのまま反復されているし、ていねいに「その」という指示詞で先行する「もの」があることを示している。この書き出しから反復を受け取ることができないとしたら、それは読む方が悪い、頭が悪すぎる。
たしかにそうなのだ。私は頭が悪い。悪すぎる。
自覚しながら、頭がいいふりも少ししてみよう。聞きかじったことばを利用して、適当にことばを動かしてみる。頭の悪い私は、いま書きつらねたことを、「流通言語」を利用して次のように整理し、ととのえる。
加藤が書いているのは反復こそが、世界のなかに反復できない何か(ずれ/差異、というのかな?)を生み出す。その、反復されるまでは言語化されていないものを、ことばを切断させながら飛翔するように(飛躍するように)進んでゆくときに(疾走するときに、といった方が加藤のことばの運動の感じが出るかな?)、新しい世界、ことばでしかたどりつけない世界、つまり詩が出現する。
あ、かっこいいなあ。
私は自分の書いたことなのに(その加藤の肖像に)、そんなふうにも思うのだけれど、こういう「意味」って、嘘くさいと思う。「意味」なんて、ことばをつないでゆけば、どんな具合にも生まれてしまう。詩は「意味」にしてはいけないんだと思う。「意味」はかたちづくるためにあるのではなく、たたきこわしていくためにあると私は感じている。
だから、加藤のことばは「読みにくい」というところにとどまって、ごちゃごちゃと何事かを言ってみるのである。
すべての詩人は水夫である (100人の詩人・100冊の詩集) | |
加藤思何理 | |
土曜美術社出版販売 |