詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

苗村吉昭「転位」

2015-03-31 09:23:07 | 詩(雑誌・同人誌)
苗村吉昭「転位」(「別冊詩の発見」14、2015年03月23日発行)

 苗村吉昭「転位」について私は何が書けるだろうか。苗村は「見知らぬ人の御通夜にでて」、「わたしはわたしの葬儀のことを考えた」。

その日は喪服の妻と娘がいて
わたしは遺影に納まっていて
笑いたくないのに笑いながら
焼香する人たちを見ているだろう
ほんとうは葬儀なんかしなくていいのだけれど
わざわざ参列してくれなくてもいいのだけれど
それでもやってきてくれた人たちに
なんとか御礼を言いたくて
喪服の妻と娘の傍らに立ち
焼香してくださった一人一人に頭を下げて
そうこうしているうちに
読経も終わり導師も帰り
やっと御通夜も終わったな
いよいよ明日は告別式だ と
妻と娘に声かけたけど
妻と娘はソッポを向いて
わたしのことなど見えないみたいに
わたしのことなど話している

 私は苗村のことをまったく知らないが、この詩を読むと、そうか妻と娘がいるのか、と思ってしまう。三人の暮らしを思ってしまう。
 いろいろな会話が日常のなかで繰り返されるけれど、うーん、そうなのか。妻と娘は仲良く話しているが、苗村はテキトウにあしらわれているのか。妻と娘が日常のあれこれを決めていて、苗村は、その決まったことに「しかたないなあ」という感じでしたがっているのか(受け入れているのか)……などということを想像したりする。引用の最後の方の「妻と娘に声をかけたけど/妻と娘はソッポを向いて/わたしのことなど見えないみたいに」が、まるでドラマか何かを見ているように、くっきりと見える。そして、それは特別にかわった光景ではなく、いまの日本のあちこちで見られる光景かもしれないなあ。その平凡さ(?)がなんとなく、いいなあ、と思う。いや、変凡さがいいなあ、ではなくて、平凡を平凡のまま語る口調がいいんだろうなあ。口調のなかに苗村の「人格」があらわれてきている。「人格」に触れたような気持になるから「いいなあ」と思うのだ。
 「人格」といっても、「人格がいい」といっても、でも、その「よさ」はちょっと複雑。私は引用の最後の部分で、苗村は「しかたないなあ」と思いながら妻と娘にしたがっている、受け入れていると書いたけれど、そのときの「人格のよさ」というのは、よく見ると「矛盾」を飲みこんだあと(?)の「人格」のあり方だね。ほんとうは、妻や娘が決めたことをしたくないかもしれない。ほかのことがしたいかもしれない。でも「しかたないなあ」と受け入れる。その「矛盾」がにじむ「人格」。
 これは、その前にも書かれている。前に、そういう「矛盾」が書かれているから、自然と「矛盾」した「人格」の美しさに導かれていくのかもしれない。
 具体的に言いなおすと……。

笑いたくないのに笑いながら

 これは「遺影」の笑顔のことを言っているのだが、そうだなあ、遺影はなぜみんな笑顔なんだろう。ほんとうは笑いたくなんかないかもしれないのに。
 葬儀はいらない、参列者もいらないとは思うが、来てくれた人には「なんとか御礼を言いた」い。その「矛盾」。
 そして、その「矛盾」を、苗村は「なんとか」ということばで乗り越えている。
 「なんとか」というときの「何」(なん)とは何だろう。言いなおせるか。どう言いなおせばいいのだろう。言いなおしようがない。それは、苗村にとってもそうだと思う。ほかにいいようがないから「なんとか」と書いている。
 ここがいいなあ。
 この詩の「ポイント」というか、「思想(肉体)」はこの「なんとか」にあるのだなあ、と思う。
 「なんとか」というのは、実は「なんとかして」。「なんとかする」。「なんとか」だけを読んでいるとわからないが、そこには「動詞」が隠れている。「御礼を言いたい」の「言いたい」(欲する/欲望)が隠れている。「文法」的には「言いたい」を強調するためのことばということになるのだろうけれど、つまり「なんとか」はなくても「言いたい」だけで「意味」は通じるということになるのだろうけれど、私は逆に考える。「なんとか」ということばが気持ちを誘い出す。欲望に形を与える。それは「文法」が説明するような「強調」ではない。
 つまり……。「意味」はきっと「言いたい(言う)」にあるのではなく「なんとか」という「気持ち」の方にある。気持ち、欲望が先にあって、それが「言う」を動かす。「なんとか」は「なんとしても」である。それがきっと「人格」というものなんだろうなあ。人を実際に動かす力が「人格」なんだろうなあ。
 そして、その「なんとか」(なんとしても)は実現されないままに終わってしまう。時間(他人)が、苗村の「人格」には配慮しないからね。その「対比」あるいは「対照」が「人格」をさらに印象づけるのかもしれない。
 「できない」でも「したい」、「したくない」でも「するしかない」。世の中は、そういうことでできあがっている。それをどうやって繋いで行くか。わからない。でも「なんとか」繋いで行く。なんとしても、繋いで行く。生きて行く。妻と娘に「ソッポ」を向かれても、家族だからいっしょに生きて行く。「なんとか/なんとしても」。いい夫、いい父だねえ。

そしてようやく気づくのだ
わたしはもう
そちら側には
いない
ということに。

 その「なんとか/なんとしても」に気づいてくれなくても。最後は、そういうことを静かに語って終わるのだけれど、大丈夫、みんな苗村を忘れない。「ソッポ」を向いているように見えるのは、背中を向けていても「わかる」から。「人格」がわかるから、そうしている。わからない相手なら、常に正面を向いて「言い合い」をするしかないからね。

 「タイトル」の「転位」から考えると、ほんとうは苗村はもっと難しいことを言いたかったのかもしれないけれど、私にはその難しいことはわからない。苗村が「転位」ということばでつたえたかったもあのを無視して、つまり「誤読」して、私は、ただ、あ、苗村っていい人なんだなあ、と「人格」のよさを感じた。
半跏思惟―苗村吉昭詩集
苗村吉昭
編集工房ノア
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フォルカー・シュレンドルフ監督「パリよ、永遠に」(★★★)

2015-03-31 07:57:41 | 映画
監督 フォルカー・シュレンドルフ 出演 アンドレ・デュソリエ、ニエル・アレストリュプ

 原作は舞台劇。映画も室内のシーンがほとんど。こういう映画は、つらい。どうしてもことばが「主人公」になってしまう。主題が「説得」なので、なおさらである。主役のふたりは、とても明瞭なせりふまわしをするので、フランス語を知らない私にも聞き取れるところがあって、あ、うまいもんだなあと感心してしまうのだが、やっぱり「字幕」で「見る」には無理がある。
 ことばの「意味」をわきに置いておいて……。
 映画のほかの要素を見ていくと、ことばに関しては、音と間合い。音に関して言えば、先に書いたようにすばらしく明瞭。その明瞭さのなかに、どうやって「表情」を入れるか。これをどう受け止めるか。これが難しい。
 変な言い方になるが、明瞭ではないときの方が、逆にわかりやすいときがある。音の砕け方のなかに「日常」があらわれるからである。この映画で描かれているのは、非日常なので、この映画のことばの言い回しの「表情」をくみ取るのはほとんど不可能。
 そのかわりに、映画なので、「顔」から「表情」を読み取ることになる。微妙な顔の変化のなかに、そのときのことばの「声」を見ることになる。これが、しかし、また「外交」問題というか、説得術なので、うーん、つらいね。そんな会話を私は日常的に体験するわけじゃないから、顔つきがかわった瞬間の、その緊張感が、いまひとつつかみきれない。おもしろい、ということは「頭」ではわかっても、「肉体(目/耳)」がのめりこめない。室内の弱い光がさらに役者の表情を微妙にしている。陰影の変化が、まるで「絵画」なのである。
 で、「本筋」がわからないせいもあって、奇妙なことろにこころが動いてしまう。たとえば、会話の舞台になっている部屋の秘密(隠し階段/マジックミラー)とフランスの歴史、フランス人の恋愛を語った部分が、「説得劇」とは別の「パリの魅力(フランスの魅力)」に引き込まれる。私のかってな思い込みかもしれないが、そういう部分では二人の役者の声も表情も、一瞬、戦争を忘れている。説得劇の緊張がゆるんでいる。生身の肉体が動いている感じがする。先に書いたことを繰り返せば、ことばの音と間合いの調子が、説得、反論のときとは微妙に違っている。日常的になる。ことばの感じが日常的になり、それがパリの日常に繋がっていく。戦争をしているのに、一瞬、戦争が消える。その瞬間、変な言い方だが、フランスの(パリの)底力というものを感じさせる。「日常(恋愛)」にはさまざまな工夫があって、その工夫がパリという都市を美しいものにしている。欲望の連鎖のようなものが、パリを緊密に結びつけ、そこに不思議な美しさをつくり出している、ということを感じさせる。
 そして、これが「説得」のときの、「土台」にもなっている。ドイツ軍将校は「フランス人(パリ市民)なんか、みんな弱虫で、すぐに逃げ出す。ドイツ軍の敵ではない」と言うが、スウェーデン領事は「それはフランス人を知らない見方だ」というようなことを言う。どんなにフランス人がパリを愛しているか。愛しているものを破壊されたとき、ひとはどんなふうに反撃に出るか、そのときの力はどんなものか。それはそのままパリの美しさのなかに隠れている。隠れているものを見くびってはならない。
 隠し階段が象徴的なのだが、その「隠れているもの/隠しているもの」のなかに、人間の「力」の強さがある。そのことが、この映画の、別のテーマでもある。ドイツ軍将校の苦悩も、彼にはヒトラーに人質としてとられている家族がいるという「隠された苦悩」である。愛している家族をどう守るか。家族のために何をすべきか。その問題があって、将校は苦悩する。さらにヒトラーのいまの状態も、知っていて「隠している」。人に言えずにいる。--で、そういう「隠し事」ゆえに、将校も不思議な「美しさ」のなかに揺れている。人間の「美しさ」を浮かび上がらせている。
 これが、ことばだけではなく、映像(顔の演技、身体のこまかな演技)として具体化されている。「内部」の美しさが「外部」の美しさを支えている。そのあり方を、映画は役者の肉体に近づいた映像で表現している。
 この内部の美しさこそが外部の美しさを生み出すのだというのは、映画を室内に限定しているところにもあらわれている。室内の美しさ、ドアや机や椅子、さらには食器、食事、酒(食べ方、飲み方)……というものをていねいにとらえている。この室内の美しさ(内部の美しさ)を具体化しているという点では、これはたしかに芝居を超えている、と思う。

 これがねえ……。フランス語がわかれば、もっともっとおもしろいんだろうけれど、私の「限界」。パリの街並みをほんの少ししか映さないまま、パリの美しさを伝えた傑作映画と呼ぶには、私のフランス語では、どうにもしようがない。
 私がフランス人で、フランス語がわかるなら、★5個の映画かもしれないなあ、と思いながら見た。
                      (KBCシネマ2、2015年03月29日)



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山本純子「ハイどうぞ」、和田まさ子「寄りかからない」

2015-03-30 10:08:46 | 詩(雑誌・同人誌)
山本純子「ハイどうぞ」、和田まさ子「寄りかからない」(「別冊詩の発見」14、2015年03月23日発行)

 山本純子「ハイどうぞ」はとても簡単な(?)詩である。読んですぐに情景が浮かぶ。でも、その詩のどの行に感心したのか、感心しながら何を考えたのかを書こうとすると難しい。書かなければいいのかもしれないけれど、私は、書きたい。

ハイどうぞ って
ママが ひっくりかえした
砂時計

へっていく砂を見るより
ふえていく砂を見ていよう

わたしの
歯をみがいている時間が
砂のようにたまっていくなら

いつか
小さな砂ばくができて
オアシスがあらわれ
そこに
ヤシの木なんか
生えるかもしれない

そしたら
オアシスの水を
コップにすくい
ヤシの木にもたれて
月が
天のまんなかにくるまで
ゆっくり
歯をみがこう
と おもう

 砂時計で歯磨きの時間を計っている。しっかり3分間(?)みがきなさい、ということか。その砂時計を見ながら砂漠を空想している。そういう子どもの詩。子どもの気持ちを書いた詩。子どもの気持ちなので、山本の気持ちではない。いわば、嘘。嘘なのに、そこに「真実」をみつけて感動する。
 では、その「真実」って、どこにある? なぜ、それが「真実」と言える?
 こんなふうに考えると、うーん、難しくなるなあ。ややこしくなるなあ。
 砂時計の砂を見ながら、その砂が増えて砂漠になったらというのは、空想。その空想のなかにある「真実」は砂漠には砂が多いということかな。でも、それが「真実」だとしても、それは、あ、子どもらしい空想だなあと感心するのであって、詩の「真実」とは少し違うかもしれない。ここは子どもらしさの証明(?)であって、それがうまく働いているとしたら、嘘が、とても上手くできているということで「真実」とは違うなあ……。
 それからつづくオアシス、ヤシの木も空想なんだけれど、

月が
天のまんなかにくるまで
ゆっくり
歯をみがこう

 ここは、どう?
 私は「ゆっくり」にとても感心したのだ。「ゆっくり」歯を磨く。この「ゆっくり」は「時間」のゆっくりではないなあ。だいたい砂時計で時間を計るのは、早く歯を磨いてしまう(時間不足/ていねいさに欠ける)のを防ぐためで、それは「ゆっくり」歯を磨くための砂時計だ。
 「ゆっくり」歯を磨くというのは、子どものしていることとは矛盾している。子どもはいつも「ゆっくり(ていねいに)」歯を磨きなさいとママから言われている。さっさとすませたいのにママが許さない。だから「ゆっくり」歯を磨こうというのは、子どもの気持とは矛盾しているはずである。
 けれど、その「矛盾」が、いま、突然、ここに出てきた。そして矛盾しているからこそ、そこに「真実」がある。矛盾でしか言えない「ほんとう」がある。
 ここの「ゆっくり」は「時間」の「ゆっくり」ではない、別の「ゆっくり」なのだ。
 それは「気持ち」の「ゆっくり」である。砂時計の時間よりも短いかもしれないけれど、「ゆっくり」というのは、あるのだ。
 その「ゆんくり」はどんな「ゆっくり」? 「気持ち」の「ゆっくり」って、いうのは簡単だが、どんなこと?
 山本は、「ゆっくり」ということばの前に、きちんと書いている。

月が
天のまんなかにくるまで

 これはしかし、ほんとうに「月が/天のまんなかにくるまで」ということを意味しているのではない。時間の長さを指しているのではない。だいたい月が天の真ん中まで来るのは、砂漠のことは知らないが、日本でいえば冬の満月くらいだ。寒天の月は空の真ん中に輝くが、夏の月なんかは低いところにあって天の真ん中へ来ないからね。
 だから、この「月が/天のまんなかにくるまで」も「時間の経過」とは無関係の「ゆっくり」である。あ、月が天の真ん中にある、と気づいて放心する「ゆっくり」である。山本には天空の月を見て、あ、きれいだなあ、あんな高いところにあるなあと時間を忘れた経験があるのだろう。その経験(肉体がおぼえていること)が、「ゆっくり」のなかにある。
 「時間を忘れて」、つまり「いまを忘れて」が「ゆっくり」なのだ。「いまを忘れる」から、それは「永遠」にいる、ということなのだ。ここに「永遠」があるから、詩と感じるのだ。
 「時間を忘れる」の「忘れる」という「動詞」が「肉体」のなかで動く。そのときの感じを、私は、無意識のうちに共有する。その「忘れる」に私の「肉体」を重ねる。そして、納得している。「忘我」、「無」の状態で、私が「宇宙」に広がっていく。「忘我」の瞬間、「私」と「宇宙」を区切る何かが「無」になる。それが「永遠」であり、この瞬間が、詩なのだ。



 和田まさ子「寄りかからない」は、詩の半分を過ぎたところの数行がとてもおもしろい。「春の木を過ぎる/風が来ても木は揺らいだりはしない/木には木の論理がある」と断定した後、

スポーツジムの大きなガラスから見える走る人
薄くざらついた人々の吐息で
室内の熱気がガラスをしめっぽくさせ
ゴールのない試合に
人を立たせている

 ジムの窓ガラス(ガラスの曇り)、人の息の関係が、「走る人」によって明確になる。走ると息が熱くなる。熱い息がガラスを曇らせる。そういうことを和田は「肉体」として知っている。和田はジムのなかで走っているわけではなく、外からそれを見ているのだが、「肉体」はジムの内部で起きていることを「おぼえている」。この「おぼえている」があるので、そのあとの「ゴールのない試合に/人を立たせている」が他人の風景なのに、自分の「肉体」の「いま」として重なっている。
 こういう「動詞」を中心にした「肉体」の「記憶」と「意識の動き(意識の覚醒/発見)」が「人間のことばの論理」であるように、私には思える。「木には木の論理がある」と和田は書いているが、「人間のことば」には「人間のことば」の「論理」がある。それは「肉体(動詞)」のなかを動いて「真実」を共有するという「論理」である。

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*

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暁方ミセイ「梅林画報」

2015-03-29 22:01:30 | 詩(雑誌・同人誌)
暁方ミセイ「梅林画報」(「読売新聞」2015年03月25日夕刊)

 暁方ミセイ「梅林画報」にはいくつかの不思議なことばがある。

欲求するかたちの
野梅の枝は
しののめ、
紫、
から突き出した
風景の手だ、
空の血管に繋(つな)がっている

 この一連目の「主語」は何だろうか。「野梅の枝は」と書かれているから「梅」が主語だろうか。それは「風景の手だ」と「比喩」の形で言いなおされ、「繋がる」という動詞で「肉体」化される。「手」が比喩であるというよりも「繋がる」という「動詞」が比喩として働き、それが「肉体」を刺戟してくる。「梅林(梅の木)」を描いているのだが、その梅が「人間の肉体」と「繋がる」という動詞のなかで重なる。読んでいて、梅の木になったような感じがする。そのとき「枝」は「手」である。そして、その「手」が繋がるのは「手」ではない。「空の血管」、つまり「空の肉体の内部」である。そうなると「繋がっている手」も「手」という外観で繋がっているのではなく「手の中の血管」が繋がっているような感じになる。いのち(血)が繋がっている感じ。
 しかしよく読むと、その「枝」は「ししのめ、/紫、/から突き出した」手と語られている。枝が最初にあったのか、それとも「空」が最初にあったのかわからなくなる。朝方の空から手が伸びてきて、それが「梅の枝」という形になって、いま/ここにあらわれているようにも読める。ほんとうの「主語」は暁の空であり、それが「手」という比喩を通ることで「梅の枝」になって存在している。空のなかにある血管が、梅の枝のなかを流れて、梅の木になっているとも読むことができる。
 私は、どちらかというと、後者の読み方をしたい。
 梅の木が最初にあったのではなく、空が最初にあった。空が変化して梅の木になった。空が梅の木を欲求して、そこに「梅林」を出現させたというように読みたい。そう読むとき、暁方は「空(宇宙)」なのだ。「宇宙」の「何か」が凝縮して、梅としていま/ここに存在している。
 この「空(宇宙)」を「空(くう)」と呼びたい気持ちもしている。
 私たちが日常的に見ている「存在」、たとえば「梅林」(梅)というものをそのまま固定化するのではなく、梅であることを疑ってみる。そして、梅と思っているものをたたき壊し、解体し、「いのち(ここでは「血管」という表現が出てくる)」にまで引き戻し、それをもう一度、いま/ここに呼び戻して「見える形」にする。そのとき通りぬける「場」が「無/空(くう)」という感じがする。ふつうに見ている「海の枝」が消えてしまって、「手」あるいは「血管」というものになって、さらに「梅の枝」にもどってくる。こういう変化の起きている「場」というものが「空(くう)」。それは「宇宙」の秘密のようなもの。「場」というよりエネルギーの不定形な塊があって、それを浄化(?)、あるいは結晶させるきっかけを「空(くう)」と言えばいいのか……。
 そういう「激しい運動の場」が「手」や「血管」という「肉体」のことば、「繋ぐ」という「肉体」の運動として再現されるとき、その生成の変化は「宇宙」の変化であると同時に「人間」の「肉体」の変化、いのちの誕生のように感じられる。
 こういう感じがするところが暁方の詩のことばのすごいところである。宮沢賢治そのままである。

パキパキと鳴る音で
人がいることがわかった
廃屋の裏へまわり
予感の発する匂いを嗅いで
それをまたどこかへやってしまっている

 ここに出て来る「人」は日常的に私たちが「人」と呼んでいる存在かどうかは、わからない。私は「梅」の一本一本を「人」と呼んでいるように思える。一連目で「宇宙」と繋がることによって「人間化(肉体化)」した存在。それは動いている。それは固定化していない。「予感の匂い」として常に動いている。
 暁方の感じていることのすべてを感じ取ること(正確に受け止めること)は私にはできないが、そんな「変化」、あるいは「流動」というものを感じる。「梅の枝(梅の木)」というものは「固形」であるが、その「固形」が「流動」する。これも、なんだか宮沢賢治ふうだが、とても印象的だ。

この林には鶯(うぐいす)の
胸の小骨だって
隠されている
さっきから日差しが焚(た)くように燃えて
かえって透明が濃いのは
そのためだろう

 最終連にも、とても不思議なことばがある。「透明が濃い」。うーん。「透明が濃い」か。「透明」は何もないから「透明」。「濃い」というよりも「薄い」から「透明」なのかもしれないが、何かが薄くなっていって、その薄くなることを透明に近づくと考えるとき、この「濃い」は「濃い/薄い」の「濃い」ではないのだとわかる。「状態」ではないのだ。「静的」なものではないのだ。動いているのだ。「動詞」なのだ。
 「濃い」を「動詞」というと変だが、「用言」であるから、それは「動く」何かなのだ。「濃い」を「濃くなる」と言いなおせば、暁方の書こうとしていることに近づくかもしれない。「濃くなる」、透明が「濃くなる」とは、透明が凝縮して純粋な結晶のようになるということかもしれない。
 「しののめ、/紫」(一連目)が「日差し」によって「燃え」て透明になり、それが凝縮して透明という「結晶」になる。それは「透明」を通り越して、光になってしまっているかもしれない。透明が見えるのではなく光が見える。いや、「光」という「名詞」ではなく「光る」という「動詞」が見える。「光」さえも「固定」せず、「動詞」にしてしまう。そういう運動としてとらえるとき、暁方の「肉体」そのものが「宇宙」を全部肉体のなかに引き受けて、その「肉体」が透明化という運動になる。
 「梅林」を描写しながら、「梅林」を突き破り、「宇宙」と融合し、「光る」という「動詞」として「いま/ここ」に「ある」ひとつの「肉体」。そういう「変化」として、この詩を読みたい。

ブルーサンダー
暁方 ミセイ
思潮社
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パベウ・パブリコフスキ監督「イーダ」(★★★★)

2015-03-29 10:36:44 | 映画
監督パベウ・パブリコフスキ 出演 アガタ・クレシャ、アガタ・チュシェブホフスカ

 先日見たアラン・レネ監督「愛して飲んで歌って」(★)の冒頭、それにつづく道路を車が走っていくシーン(車は映らない)にも驚いたが、この映画の冒頭のシーンにも驚いた。主人公が何かをしている。その何かがわからない。そういうことはよくあることだが、異様なのは「何が」をスクリーンの中心に映し出さないこと。左下の方で主人公の顔と手の動きが見える。何かに触れている。左下四分の一(以下かもしれない)で、そういう描写があり、ほかは漠然とした空間。映画は主人公が何をしているかを明確な映像にして見せるもの、と私は思っているので、これはとても変な感じがする。私がこれまで見た映画では、主人公はあくまでスクリーンの中心にいた。アップ過ぎて何をしているかわからない映像は、中心を固定してそのままロングに引いて行くことで全体がわかる、何をしているかがわかるという表現形式をとっていたが、この映画はアップを左下に、何かが欠落した状態で描きはじめるので、とても異様な感じがするのだ。映画文法(映像文法)を踏み外して映画がはじまるのだ。
 やがて主人公はほかの修道女といっしょにキリスト(?)の像の汚れ(ほこり)をはらっていたことがわかる。その像をきれいにしたあと、庭に設置し直すのだが、そういうときの全景のシーンも何か奇妙。人物の占める位置が不安定。スクリーンの中心を占めない。世界の端っこにいる感じがする。あるいは世界の下の方にいる感じがする。
 これが最後の最後でがらりとかわる。主人公は修道女(見習い?)の姿で道を歩いている。車が行き交う道だから彼女が歩いているのは端っこだろう。けれど、その姿をカメラは真ん中にすえて撮りつづける。胸から上、顔のアップなので、主人公と道の位置の関係がわからない。彼女が道の真ん中を歩いていて、車は端っこを走っていくという感じになってしまう。そういうことは現実にはないのだが、映画のなかでは主人公が「真ん中」を堂々と歩いている。
 主人公はどこへ行くのか。修道女の姿をしているから修道院へ戻るのか。それとも外出用の服がそれしかないので、それを着ているだけなのか。いろいろ想像できるが、明確なことはわからない。わかるのは、彼女が何事かを決めた、ということだけである。自分の進む道をはっきりと見極めた、だから迷わない、そういうことがわかる。世界の中心に彼女がいるということだけがわかる。それは彼女の決断なのだ。決断が、彼女を「主人公」にしたのだ。
 ここから映画を振り返ると、そこに描かれていたことがより鮮明にわかる。
 映画は、主人公が修道女になる前に叔母に会って、自分がどういう人間なのかを確認する過程を描いている。彼女は主人公だけれど、何もしない主人公である。何も知らない少女である。修道女として宗教に生きるかどうかも、まだ決断していない。その彼女が、叔母に会って、自分がユダヤ人であることを知る。そして、自分が生まれ育った街を尋ねる。ひとに両親のことを聞く。そういうことを繰り返していくうちに、叔母にはつらい過去があることがわかる。叔母は戦争中、少女の両親(母親が姉)に自分の息子をあずけた。その息子は少女の両親とともに、ポーランド人によって殺害された。なぜ少女は生き残り、叔母の息子は殺されたのか。その経緯は、わからない。(映画のなかできちんと描かれていたのかもしれないが、ぼんやりして、見落としてしまった。)もしかしたら、叔母の息子は生き残り、少女が死んでいたという「歴史」があったかもしれない。少女は、思いがけない形でストーリーの「中心」にひっぱり出される。彼女がいなければ起きなかったかもしれないことが、過去に起きたのだ。
 叔母は、何も知らない少女に、両親の悲劇を語り、真実を知らせる。遺体の埋められている場所(墓地ではない)を探し、それにかかわったポーランド人をたずねるという形をとって、少女の悲しい歴史を明らかにしてゆく。そうすると、そこにどうしても殺された息子が深くかかわってくる。主人公が少女から叔母自身にかわってしまう。叔母の苦悩が深くなる。どうして息子が殺されたのか、どうして守ることができなかったのかと、叔母は少女を見ながら苦悩している。少女の驚きや苦悩、悲しみに配慮する余裕がなくなる。だから酒に逃げたりもする。息子が虐殺され、遺体が埋められた場所がわかると、そこで叔母の苦悩のひとつは解消する(息子をちゃんと葬ることができる)。けれど、そうやって「事実」を明確にすると、それまで叔母を支えていた「生きる執念」のようなものが消えてしまう。叔母は自殺してしまう。
 残された少女は、そのとき、誰なのか。ユダヤ人の悲劇を知ってしまった少女は、単なる修道女の見習いではない。叔母の悲しみと苦悩、絶望を知ってしまった少女は、もう少女ではない。叔母そのものだ。少女は、叔母のドレスを身に着け、ハイヒールを履いてみる。叔母になってみる。叔母の、世界との向き合い方を肉体で真似してみる。そういう「姿」を真似なくても、ユダヤ人の歴史を知ることで、少女は叔母になってしまっているかもしれないが、「確信」があるわけではない。世界の端っこから急に「主人公/ユダヤ人の悲劇」にひっぱり出されて、どうしていいかわからないのである。「肉体」の手応えがない。だからこそ、ベールを脱いでジャズのサックス奏者とセックスもする。自分の存在を確認するには「肉体」が絶対必要なのだ。そのあと、彼からいっしょに行かないか、という誘いも受ける。それは少女がいままで知らなかった「世界」であり、同時に叔母が体験してきた世界である。少女が最初に叔母と会うとき、叔母の家には男がいて、セックスをした後らしいことが描かれている。そのときの男と女の関係は愛なのか、どうか。悲しみを忘れるためのセックスだったかもしれない。少女にとっても、それは疑問だ。自分の見てきたものが、何か大きく崩壊していく。どうやって自分を支えていいのかわからない。何をしていいか、わからない。その不安のなかで、そばにいた男にすがったのである。
 冒頭にもどって考える。主人公はキリストの像を磨いている。なぜ、そうするのか。なぜ、キリストなのか。真剣に苦悩し、考え抜き、答えを出す前に、そこにキリストの像があった。修道院があった。それはセックスをしたサックス奏者とかわりがない。かわりがないからこそ、主人公は「決断」しなくてはならない。誰と生きるべきなのか。そして「決断」したのだ。自分を「世界」の中心に置いて、世界を歩いていくということを選んだのだ。「主人公」になったのだ。誰と生きるにしろ、少女がついていくのではなく、少女が引っぱって行くのだ。
 どんな映画も「主人公」の成長(変化)を描くものである。この映画もそういう変化を描いているのだが、おもしろいのは主人公は最初から主人公なのではなく、自分が「主人公である」と発見するまでを描いている点である。そしてその変化をスクリーンにおける主人公の「位置」と緊密に重ね合わせている点である。
                      (KBCシネマ1、2015年03月28日)





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破棄された詩のための注釈(20) 

2015-03-29 01:42:41 | 
破棄された詩のための注釈(20) 

「肖像画」を定義して「修正された線」という比喩から書きはじめている。修正することで人工的な空間をつくりたかったのである。感情はこころにあるのではない。人間の内部にあるのではない。「空間(その場)」にある何かと結びつき、断言に変わるとき、感情はつくり出される。

「肖像画」をしばらくみつめて、それから突然気づいたように、語りはじめる。最初からわかっていた。わかっていたことを印象づけるために、間を置いたのである。間を置いたあと、一連目のことばを二連目で反芻することで「物語」へと、ことばをずらしていく。「修正された線」には、すでに「物語(その時間)」が存在している。

三連目。比喩を消して読み直すと、テーブルと椅子と、テーブルの上の瓶とグラスが残る。女はグラスを左手でもち、右手の布巾でテーブルを拭いている。犬は部屋の隅から、上目づかいでその様子を見ている。

「肖像画」ではない。「絵」のなかの「顔」だけを取り出している。「修正された」のは「構図」の方である。人工的な時間をつくりたかったのである。悲劇は関係のなかにあるのであって、個人の内部にはない。「時間(物語)」をつくりだしてしまう論理は語られてしまっているがゆえに、すべて剽窃である。
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峯澤典子「校庭」、芦村沙織「じゃがいものにおい」

2015-03-28 08:41:05 | 詩(雑誌・同人誌)
峯澤典子「校庭」、芦村沙織「じゃがいものにおい」(「別冊 詩の発見」14、2015年03月23日発行)

 峯澤典子「校庭」は学校に通っていたときの思い出を書いている。

誰もが教室にいる時間
校庭を見ていた
耳を澄ますと遠い水平線から汽笛が届いたこと
野良犬が通り雨とともに走り去ったこと
いつも早退してしまう子がいたこと

 「誰もが教室にいる時間」と書きはじめているのは、峯澤自身は「教室にはいない」ということなのだろうか。たとえば、授業を抜け出して屋上にいる、あるいは体調を崩して保健室にいる。それとも授業を受けているけれど、授業に集中していない。いろいろ想像することができるが、みんなとは違う状況にいるということはわかる。そのとき、みんなとは違った風景がみえる。違ったことがこころに刻まれる。
 一連目は、そういう「風景」だが、これが次の連から少し変わる。目に見える、耳に聞こえるものではないことが書かれる。

かすり傷、くらいの深さで
誰かとかかわりあうすべもなく
ひとりだけの
ちいさなまばたきは
積もらなかった雪のように
家に帰るひとつものこらず
見た、と
見なかった、は
同じ重さにしかならなかった
それでも
次の日もまた
始業のチャイムのあと
校庭を見つめていた

 「誰かとかかわりあうすべもなく/ひとりだけの」というのは、峯澤だけが違う場所にいることを、もう一度書いたものだろう。「かすり傷、くらいの深さ」は、いまはそう言えるが、当時はそうではなかっただろう。そのあとに出て来る、

見た、と
見なかった、は
同じ重さにしかならなかった

 この3行が、うーん、悲しくていいなあ。何を書いてあるのか、「意味」を特定するのはむずかしい。私自身の体験(肉体)がおぼえていることをどこまで思い出せるか。
 たとえば、誰かが早退していく。校庭を横切っていく。ある日、それを見た。次の日、見なかった。「いつも早退してしまう子」がいても、その「いつも」は必ずしも「毎日」ではない。「あ、きょうも早退していく」と思って見る感じだろう。その姿を見た、見なかったは、しかし、自分の問題にはならない。見たのに(見なかったのに)、そのことによって自分がかわってしまうわけではない。そういうことを「同じ重さにしかならなかった」というのかもしれない。
 それよりも「かすり傷、くらいの深さ」の方が当時は「重かった」のだ。ほんとうは「かすり傷」を忘れさせてくれる「重さ」がほしかったのかもしれない。
 「見た/見なかった」よりも、そのあとの「同じ重さにしかならなかった」の「重さ」が峯澤の感じたかったことなのかもしれない。「意味」ではなく「重さ」を感じたい。「重さ」というのは、しっかりした「手応え」のことだろう。「頭」で把握するのではなく(頭でなら「重さ」は何キロ、何グラムという数字として処理できるが、ここに書かれている重さは何キロ、何グラムとは無縁のもの)はなく、「肉体」で直接「重さ」を感じたかったのかもしれない。何キロ、何グラムかわからないが、「あ、これは重い、これはさっきのより軽い」ということを実感したかったのかもしれない。
 そういう微妙なところへことばが動いていく。そのときの動き方が、なんだか切なくて、いいなあ。「積もらなかった雪のように」という比喩が、いい。積もれば「雪」の証拠。降っている雪を見ていない人にも「雪が降った」と言える。でも積もらなければ、降っている雪を見ている人以外に「雪」がわからない。
 そんなふうに「かすり傷」も他人にわからない。「深い傷」なら他人にはわかりやすいが、「深い傷」も「かすり傷」も本人にとっては同じ「傷」であって、「深さ」の差なんてないということは、他人にはわからない。その、自分にしかわからない苦しみがつたわってくる。

ひとも 風も 雲も
止まれずに ひたすら駆けてゆく
それをまばゆさ、と呼ぶことや
目のとじかたさえも
まだ知らなかったころ

 最終連も、どう感じたかを書くことがむずかしい。
 それは、書かれたことばを書かれたことばのまま、私が自分の「肉体」で反芻しているだけということなのだが、こういうとき、私はうれしくなる。この5行はいいなあと思う。
 「止まれずに」がいいなあ。「止まれずに」と書くのは、峯澤も止まることができなかったのだ。それが、たとえ「教室に入らない」ということであっても、それを「止める」ことができなかった。そのとき動いていた何か、それは峯澤の「ままばゆさ(個性)」だっただろう。でも、その「個性の主張の仕方」がよくわからず、ただみんなから離れていた。
 「目をとじて」何を見ないのか。校庭を横切る野良犬や、早退していく人を見た。そして、それを見ている「自分自身」をも峯澤は見ていた。それを見てしまう自分の「個性」を見ていた。見つめずにはいられなかった。野良犬も早退していく人も、みんな峯澤自身に見えたのだろう。見えるから、よけいに苦しくなる。切なくなる。
 見なければよかったのである。「目をとじて」自分を見つめなければよかったのである。というのは、まあ、勝手な他人の言い分だね。しかし、峯澤は、いまはこうやって、詩を書いている。あのころは「目のとじかた」を知らなかった。そう書けるのは、いまは、少しは「目のとじかた」をおぼえたということだろう。
 それはいいことでもあるし、悪いことでもある。そんな思いが、この詩のことばを動かしている。安定しているけれど、不安定なところけこころを誘う不思議なバランスがある。



 芦村沙織「じゃがいものにおい」は、ことばが素直で美しい。

えんぴつで
じゃがいもを
描いてみた
しろいろ

くろいろ

じゃがいもって
こんなに
味気なかったっけ

 とてもいいなあ。自分で描いたじゃがいもの絵。鉛筆なので、白と黒だけ。その形を見ながら「こんなに/味気なかったっけ」と思っている。そのとき、芦村には、「絵」のじゃがいも以外のものが見えている。それも「味」となって見えている。「味」というのは目で見るものではないが、目で見てしまっている。
 このときの「感覚の融合」がいい。「感覚」が視覚とか聴覚とかに分かれる前の状態で「肉体」のあちこちを刺戟する。

おかあさんがむいてくれる
じゃがいもは
黄色っぽくて
土のにおいがして
カレーにいれると
ほくほく
おいしいのに

 「お母さんがむいてくれる」の「むいてくれる」がいい。お母さんの「肉体」がじゃがいもを変えてしまう。黄色くし、土の匂いを引き出す。それはスーパーで買ってきたじゃがいもから、お母さんのむいてくれたじゃがいもにかわることで、「味」になるのだ。

ひかりの途上で
峯澤典子
七月堂
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ゆるい坂と急な坂を

2015-03-28 00:56:41 | 
ゆるい坂と急な坂を

ゆるい坂と急な坂をくりかえしのぼった。
そこに何を残して来ただろう。
突き当たりのアパート。
そこに何を残して来ただろう。

昔あった二階建てのアパートは
階段ごと消えていた。
なくなったものの向こう側は
見たことのない空。

空の下には川がうねって
夕暮れの光を流している。
昔と同じだろうか。

遠くには海。
波の形は見えないが、海だろう。
船は時間が止まったように動かないが、海だろう。







*

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金堀則夫「そえうま」、季村敏夫「耳は波へ」

2015-03-27 09:34:55 | 詩(雑誌・同人誌)
金堀則夫「そえうま」、季村敏夫「耳は波へ」(「別冊 詩の発見」14、2015年03月23日発行)

 金堀則夫「そえうま」(あるいは、ひ、か)は原文は漢字の表記。私のワープロでは表記できないのでひらがなにしたが、漢字は「馬」ヘンに「非」のつくり。馬+非。四頭だての馬の、外側の二頭のことをいう、と辞書に書いてあった。

古代の地層から
一体の馬の骨があらわれた
生駒山麓・河内の土に 清らかな水に
馬を馴じませようとしたが
放出してしまった
忘れられていた馬守(まもり)神社がよみがえる

 古代の地層から馬の骨が発見されたことに触発されて書いた詩なのだろう。「駒」のなに馬がいて、生きた馬(駒)の地層から死んだ馬の骨が出てくる不思議さ。昔は馬がたくさんいたのだろう。そこから「そえうま」(四頭だての馬)も連想できる。
 「馴」のなかにも馬がいる。近くには「馬守神社」もある。もう忘れられているから、馬はいなくなったのだが、名残が残っている。「馬」に誘われてことばが動いている。「文字(漢字)」が動いている。音を聞いただけではわからないものが、漢字の「表意」のなかに浮かび上がっている。
 「そえうま」(四頭だてのうま)の一頭であるらしい「馬の骨」。それは「馬」なのか、「馬に非ず」なのか。と、思ってしまうのは、次の行があるから。

馬の骨
あばら骨が非にみえる

 この「非」は肋骨の形だろう。背骨にくっついて彎曲している肋骨。それは「象形文字」にすれば「非」になる。ほんとうは「背中を合わせて、そむきあっている」というのが「象形文字」的語源(字源)のようだが、「あばら骨が非にみえる」と書かれると、本来の意味よりも、間違った情報が「真実」のようにみえてしまう。
 ここには死んだ馬は「馬に非ず」という意味が含まれているかもしれない。生きているか死んでいるかは「あばら骨」のない図、肺(あるいは心臓)が動いているかどうか、息をしていれば生きている、していなければ死んでいる、というようなことも思う。

人の骨
あばら骨が非になっている

 あ、馬と人は「あばら骨」の形で重なってしまう。肺を囲んで守っているあばら骨の形はたしかに「非」のようにみえる。中央の骨の両脇に出ている(つながっている)骨の数は違うだろうが、形が似ている。そして、馬も人間も「あばら骨」の内側、肺や心臓が動いているときは生きていて、「あばら骨」だけになってしまっては死んでいる。「馬に非ず」「人に非ず」になっている。
 この「文字の発見」がこの詩のおもしろいところだ。
 ひとは、いろんなところから勝手にことばをつなげていくものなのかもしれない。「誤読/誤解」の微妙なゆらぎのひとつが、この「非」なのだと思う。
 こういう「誤解/誤読」に意味があるのかどうかわからないが、へええっと、妙に感心してしまう。

バカでかい馬
突然前足を上げ あと足でたちあがる
覆いかぶさってくる
驚怖
畏れ敬う馬

 目の前で馬にたちあがられたら、びっくりする。覆いかぶさってくれば、巨体だから、怖い。「驚」のなにか馬がいる。「敬」の下に「馬」がついて「驚」になる。「畏怖」ということばも、ここでは思い出す。畏れ敬うのが「驚怖」なのか。でも、これは人間? それとも人間を見た馬の方? どっちが「驚怖」したのだろう。
 ここまでは「漢字」の世界。
 そのあと

いつのまにか
ひーひーと いななきながら
ひとに非をのこして
豊かな牧へと力強く駆けていく

 と「ひーひー」という「音」も出てくる。「ひーひー」は馬のいななき「ひひーん」に似ているかもしれないが、馬にたちあがられてびっくりした人間の悲鳴のようでもある。そのひとに非を残して(悲鳴をあげさせて)、馬は去っていく。(悲鳴をあげて、馬が去っていく、と読むこともできると思うが……。)
 そのとき、残された人間は、どうなる?

わたしとともに
ひとは非をつけて おどけている
俳の骸骨

 「人ヘン」に「非」をくっつけると「俳句」の「俳」。「俳句/俳諧」は「こっけい/おかしみ」と通い合う。
 馬にのっかかれそうになり、「ひーひー」と悲鳴を上げる、びっくりして驚いている様子は、まあ、おかしいかもしれない。傍から見れば。

ひととあっては はなれ
いつも非がのこっている

 でも、もし私が馬にたちあがられ、ひーひー言っているのを笑われるのだとしたら、ちょっとつらい。笑ったひとは、「人に非ず」と怒るかもしれない。笑ったり、笑われたり、それを境に、ひとはくっついたり離れたりする。その接点に「非」がある。「非」に「心」をくっつければ「悲」になる。
 そんなことは書いていない。書いていないのだけれど「字解き」をしながら、そんなことも思う。ここから何が出てくるか、ここにどんな「意味」があるか。それは、私にはわからないが、あ、おもしろいと感じる。
 文字(漢字)が交錯し、そこに馬と人と非が動く。動くたびに、「意味」がかわる。その「意味」が社会(世界)にどんな「意味」となって存在するのかわからないが、わからないのに、そういうものが「ある」と感じることができる。そういう「誤解/誤読」が不思議に楽しい。
 「認識」というのは、こういう「誤解/誤読」を強引に「正しいもの」として動かしてしまうことかもしれないなあ、とも思う。



 季村敏夫「耳は波へ」に、次の二行がある。

二次会がおわると小雨
老いゆく人の小便のひびき

 ここに「俳句」を感じる。「小雨の音」が「小便のひびき(音)」に聞こえる。しかし、逆かもしれない。「小便のひびき」が「小雨の音」に聞こえたのかもしれない。どっちでもいい。それが「ひとつ」になって聞こえるということ、その「誤解/誤読」が、人を「いま/ここ」の「限定」から解き放ってくれる。そのきっかけになる。
 「間違える」楽しさが、ある。


畦放(あはなち)
金堀 則夫
思潮社
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犬飼愛生「ふつーのお母さん問題」

2015-03-26 10:56:13 | 詩(雑誌・同人誌)
犬飼愛生「ふつーのお母さん問題」(「別冊 詩の発見」14、2015年03月23日発行)

 犬飼愛生「ふつーのお母さん問題」は子育ての悩み(?)のようなことを書いている。その真ん中あたり、3、4、5連。

子どもの精神的安定を母親にだけ求めるのはなぜですか?
お母さんにおっぱいが有るからというのが理由ならば、父親におっぱいを縫い付けられるようにしたいくらいです
人間の世界も、動物の世界も、いつも子どもらはお母さんが大好きということになっています
こういうことをいうのは男性ではなくて、むしろ女性のほうなのがまた苦しい
育児には正解がないから、みんな自分の育児を肯定したい。花丸をもらいたがるのはいつの時代も人間の性でしょうか

静かな夜で、まるで誰もいないみたいな夜
うちから、遠く電車の音が聞こえます

(お父さんという生き物はどんなことに悩んでいるのだろう)

 3連目は犬飼が思っていることを、思ったままに書いている。思ったままなのだけれど、「子どもらはお母さんが大好きということになっています」の「なっています」が微妙。そのことに対して「異議」をもっている。異議といっても、「なっているけれど、違う」というほどの異議でもない。「違う」とは積極的には言わないが、その意見にまるまる賛成というわけではない、というような感じ。それが「なっています」にこめられている。「なっている」というものの、それは「人間」がかってに「そうした」のである。何かが自発的に動いて「なった(能動)」のではなく、人間によって「された(受動)」の状態なのだ。それなのに、その「受動」(人間の使役)をあいまいに隠している。そのことに対して異議を言っているように感じられる。
 「こういうことをいうのは男性ではなくて、むしろ女性のほうなのがまた苦しい」。この行では、「ほうなのが」ということばのつかい方と「苦しい」が微妙でおもしろい。「ほう」というの漢字で書けば「方」であり、それは「方向」にも通じる「動き」なのだ。「比較」を表わしているのだが、その比較というのは「固定」されているというよりも動くことで見える何か。天秤ばかりでいうと、どこかの数字を指して傾いてしまうというよりも、揺れながら傾いている感じ。固定しているわけではなく、揺れているときも感じる「傾き」の、その「動き」のような感じ。どれだけ傾いているか、数字として表わせないけれど(調査した結果、そういう統計がでているという数字はないのだけれど)、どちらかへ傾こうとしていることが、その「動き」のなかでわかる。そういうあいまいな「実感」を含んでいる。こういう「実感」はしばしば「統計」の数字よりも納得できるものである。そして、これはあくまで「客観」ではなく「実感」なので、「実感」から出てくることばはどうしても「主観」になる。「苦しい」。
 そうか、「実感」と「主観」は、こういうふうな粘着力で結びつくのか、粘着力があるから手ごわいのか、とも思う。
 で、そのことをとてもおもしろいと私が感じてしまうのは。
 前の行「いつも子どもらはお母さんが大好きということになっています」では「なっている」という動詞のつかい方、働き方が客観的ではないのに「事実」のようにしてあつかわれることに対して「異議」を語っているのに、
 この行では「むしろ女性のほう」という「ほう」の非客観をもとにして「苦しい」という「主観」が動いていること。
 「子どもらはお母さんが大好き」というのは科学的/客観的な「事実」(統計学的な裏付けがあること)ではないのに、つまり、「主観」なのに、それを「事実」として肯定されてしまっていることに対して異議をとなえていたのに、今度は犬飼の側(方)、女性の側(方)という、これもまた「主観」にすぎないことを肯定して、主観「苦しい」という感情を主張している。

 いつでも、どこでも、人間の「主観」というものは動いてしまうものなのだ。「主観」は意思では動かせないもの、かってに動いてしまう「不随意筋」のようなものなのかもしれないなあ。

 そういう勝手な(?)「主観」のあと、

静かな夜で、まるで誰もいないみたいな夜
うちから、遠く電車の音が聞こえます

 という「描写」がやってくる。「描写」なので、「客観」のようにみえる。「静かな夜」は、たぶん「客観」。物音がしない。だから遠くの電車の音も聞こえる。この静寂と音の対比、音の伝達力は「客観」。「まるで……みたい」という「主観」を含むが、少なくとも、ここでは3連目の「主観」とは違った形でことばが動いている。「主観」を捨てて、ことばが動こうとしている。
 この「客観」を挟んで、

(お父さんという生き物はどんなことに悩んでいるのだろう)

 という疑問(主観の声)が書かれる。このときの、3、4、5連の変化のリズムがとてもおもしろい。3連目は「主観」がうごめいている。4連目は「客観」、そして5連目でふたたび「主観」に戻る。どうせ(?)主観に戻るなら、4連目の客観はなくても「意味/論理」は変わらないから、ない方がことばの経済学からいうと効率的だ。
 でも、そのことばの「経済学/効率」(むだなことは書かない)を貫くと、きっと

(お父さんという生き物はどんなことに悩んでいるのだろう)

 この一行の印象は弱くなる。あ、おもしろいという印象が弱くなる。
 ことばは、あちこちうろつきまわって、うろつくことで何かを探しているのかもしれない。うろつくことで刺戟を受けて、ことばは生まれ変わるのかもしれない。
 これは逆な見方をすると、ある「こと」を明確にするためには、余分なことを書かなければならないということかもしれない。ことばの不経済をくぐりぬけて、潜り抜けることで余分ものを捨ててしまって、その結果として、詩(印象的なことば)があらわれるということがあるのかもしれない。犬飼のことばはある意味で「だらだら」している。そのことばを定着させるというより、書くことで捨てる作業をしているのかもしれない。余剰を捨てることで核心にちかづくという方法なのかもしれない。

 このあとに、

あきらめたり、中断したりして、女たちは忍耐強く母親になっていく

 という行がある。その後、新しい展開もある。そのことや、「中断(する)」と母親に「なる」についてもいろいろ書きたいのだが、奇妙な繰り返しになりそうなので、きょうは保留。

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破棄された詩のための注釈(19)

2015-03-26 01:03:02 | 
破棄された詩のための注釈(19) 

「川」は何度もあらわれた。「水」を意味していたが、「流れ」を象徴することはなかった。むしろ「停滞」や「滞留」と同義であった。それは「深み」となる場合と、「嵩」となる場合があった。共通するのは「匂い」である。「川の匂い」。「匂い」とは、詩人にとって「厚み」をもった「層」のことでもある。そこから「断面」という展開が始まり、あるとき「水のはらわた」ということばとともに中断した、その詩。
                               もうひとつの
「川」は、それとは別のあらわれ方をする。
木々を逆さまに映していた川が、ビルの窓を逆さまに映す。
空の色を映している細長いビルの、四角い窓を。
昔書いた川の水は、やがてビルを逆さまに映すことを知っていたみたいだ。
そうでなければ、こんなに静かな夕暮れにならない。

「川」は何度もあらわれる。
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アラン・レネ監督「愛して飲んで歌って」(★)

2015-03-25 22:11:14 | 映画
監督 アラン・レネ 出演 サビーヌ・アゼマ、イポリット・ジラルド、カロリーヌ・シオール

 冒頭から、落ち着かない。どこか、田舎の道がスクリーンに映される。その中央にタイトルなどがあらわれるのだが、文字のまわりが真っ黒。風景のなかに黒い枠をつくって、そのなかにタイトルなどがあらわれる。
 映像が動きはじめると、別の違和感。道路にしたがって風景が動く。車で道路を走っている感じなのだが、その映像がふつうの映画の映像とは違う。「運転席」から見える風景ではない。強いて言えば二階建てのバスの二階から見るような感じ。視点の位置が高いのだ。ちょっと目がくらくらする。私は目が悪いので、こういう不自然(?)な映像だと、頭のなかが混乱してしまう。
 人物が登場してきても同じ。人物が遠い上に、どうも視線の位置が出てくる登場人物と同じ高さにない。高いところから見下ろしている感じ。そして、登場人物の背後が「実写」というよりも書き割り……と気づいて、あ、これは芝居の劇場の二階席、あるいは天井桟敷から見た視線なのだと気がついた。(アップは、観客が役者の顔に引き込まれる一瞬を描いている。)つまり、アラン・レネは映画で「芝居」をとっているのである。舞台をそのまま撮るのではなく、あくまでカメラに演技をさせ、そこで起きていることを「芝居」にしてしまう。というより「芝居」の空間へ移しかえてしまう。
 「芝居」というのは、ことば。ことばですべてを明らかにする。観客はことばを聞きながら、そこに起きていることを理解する。味わう。そのことを象徴するのが、この映画では癌になった友人(ドンファン/カサノバ)。彼はことば(名前)は出てくるが、実際に姿を現わさない。彼がどんな容姿をしているか(どれくらい色男なのか)は「映像」としては表現されない。夫婦三組以外にも、ことばのなかでは登場人物はいるのだが、友人と同じように姿を見せない。
 もとになっている「芝居(戯曲?)」を映画で忠実に再現しているのだと思うのだが、この「芝居」と「映画」の折り合いをどうやってつけるか。それがカメラの視線。映画なのだけれど、観客の視線を「芝居の劇場」にいるときの視線に、強制的に仕立て上げてしまう。
 私は、こういう手法は好きになれないなあ。
 映画のカメラは、あくまで日常では見ることのできない映像を提供するところに意味がある。そこで起きていることをわざわざ「芝居」の視点で見つめなおすのは、あまりにも文学文学している。あまりにも文学的な、文学的な、文学的な、という感じ。うるさい、と言いたくなる。
                     (KBCシネマ1、2015年03月25日)




「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール) HDマスターDVD
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阿部日奈子「歯を抜く」

2015-03-25 12:28:12 | 詩(雑誌・同人誌)

阿部日奈子「歯を抜く」(「別冊 詩の発見」14、2015年03月23日発行)

 阿部日奈子「歯を抜く」は、歯の金冠を子供に残して死んでいった母のことを本で読んだあと、歯を抜く夢をみる。夢のなかでは「私(阿部、と仮定しておく)」は中学生。授業中にこっそり歯を抜く。休み時間に男の子たちに出会い、”Hi, boys! ”と声をかける。そのときは歯がふたたび生え揃っている。男の子たちは、「恐怖で固まってしまいました。」
 そのあと、

 夢はここまでですが、どう判断なさいます? 歯が欠け落ちる夢の分析例ならいくつか知っていますが、自ら歯を抜く場合はどうなんでしょう。意趣晴らし、とまでは言いませんが、一矢報いたい気持ちが夢の底にわだかまっているのはたしかです。大きく目を見開いて唇をわなわな震わせている男の子たちの一団に、私から去っていったRやVがいたことを、私は見逃しませんでした。私の知らない少年期の姿だったけれど、間違うわけがありません、人を値踏みするようなこすっからい一瞥は、絶対にRやVのものでしたから。

 うーん、と私はうなってしまった。夢だから何が起きてもいい。夢の分析だって、どんなふうにしようとかまわない、と思う。思うのだが、その「分析」を支えている(?)何かに、奇妙な「肉体の手触り」のようなものがあって、うーん、とうなるのである。
 中学生。そこで出会うのは中学生。きっとRやVは同級生(あるいは同じ中学の生徒)ではないはず。それなのに、そこにRやVを見てしまう。これは論理的におかしい。夢なのだから論理的におかしくてもいいのだが、この論理的なおかしさのなかに、阿部がいる(人間がいる)と感じるのである。
 RやVに出会ったのは、中学生時代ではない。そして、RやVは阿部から去っていった。RやVについての阿部の認識は、ふたりとも「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」をもっていること。そんなふうに人を見る目つき。それを阿部は忘れることがない。その「一瞥」を見落とすことはない。見間違えるはずはない。そして、そういう「一瞥」に出会うたびに、阿部はRやVを思い出すのだ。
 何かを見て、何かを思い出す。何かを見るたびに、「肉体」のなかから、その何かを見たときの記憶が甦る。そしてその何かが「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」であるとき、それは「名詞」ではない。「一瞥」というのは「名詞」に分類されるけれど、実際は「名詞」ではない。「一瞥」の奥に動いている「人を値踏みする」という「動き」、「こすっからい」と呼ばれる「動き」、「動いている」何かの「動き」そのものが思い出されるのだ。
 「一瞥」(名詞)を「一瞥する」という「動詞」にもどして(?)、見つめなおすといいのだろう。(名詞を動詞の形で動かすと、そこに起きていることがよりくっきりとわかるときがあるが、この詩も、そのひとつだと私は思う。)
 「人を値踏みする」も「こすっからい」も「肉体の動き」ではなく、「精神の動き」というふうにとらえるのが一般的かもしれないが、それが「一瞥」ということばと結びつくと、その瞬間の「目の動き」と区別がつかない。「ひとつ」のものになっている。「一瞥する」という動詞の中には、目の動きと精神(情念/感情)の動きが重なっている。
 というよりも。あるいは、もう一度言いなおすと……。
 ある瞬間、目が動く。それはとても微妙なものだが、その微妙な動きが、くっきりとつたわってくる。その微妙な動きを、あとで「人を値踏みするような」とか「こすっからい」とか呼ぶのであって、最初から「人を値踏みするような」とか「こすっからい」という便利な(?)表現があるわけではない。「一瞥」と「人を値踏みするようなこすっからい」があまりにも強烈に結びついているために、目の動きと同時に動いているように見えるが、そうではない。目が動いて、そのあと、つまり目がとらえたものに刺戟されて精神や感情が視線の動きを追いかけるように動き、それが目の表情になる。「人を値踏みするようなこすっからい」という強烈なことばになる。
 そのときの「強烈な結びつき」が「結びつき」のまま「強烈に」甦る、その「強烈」な感じ、「肉体」のなかで起きている「強烈」な動きが、うーん、とうならせる。
 「一瞥」のなかに「一瞥する」という動詞があり、動詞だから、それは直接「肉体」にまで響いてくる。「動詞」が「肉体」に触ってくる。あるいは、障ってくるので、それを撥ねつけるようにしてことばが動く。阿部の「肉体」そのものが反応する。

 あ、何が書いてあるかわからない?
 そうだろうなあ。私は書きながらだんだんわからなくなってきている。
 わからないのだけれど、そうか、何かを思い出すのは、そこに「強烈」な「肉体」の印象があるからなんだなあ。その「肉体」の印象を、ひとは「間違えない」ものなんだなあと思う。
 夢にでてきた中学時代の男の子にRやVを思い出すというのは「間違い」なのだけれど、中学生の表情に「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」が見えたなら、それは絶対にRやVでなければならない。「時間」や「場所」は無限にあるが(複数の時間、複数の場所を考えることができるが)、「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」という「肉体」そのものは、人間がひとりに限定される。ひとりの人間の「肉体」の上にあらわれてくるものである。「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」というものを複数の人間が投げつけたとしても、それは「RやV」という「ひとり」なのだ。「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」を阿部に向ける男は、すべて「RやV」という「ひとり」になってしまう。いや阿部が「ひとり」にしてしまうといった方がいいかもしれない。その「なり方/してしまう仕方」、阿部の肉体のなかでの対象の変化の仕方、それは「間違い」がない。阿部は、間違いなく、「RやV」を思い出す。
 「間違い」と「間違いない」が、奇妙に、強烈に結びついて、そこに阿部という人間を、その肉体として存在している。

 「一矢報いたい(気持ち)」に焦点を当てて読むと、また違った読み方になるかもしれないが、(情意の詩になるかもしれないが)、私は「一瞥(名詞)/一瞥する(動詞)」と「間違い/間違えない」のなかに動いている「肉体」の詩として読むのだ。
キンディッシュ
阿部 日奈子
書肆山田
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破棄された詩のための注釈(18) 

2015-03-25 01:09:36 | 
破棄された詩のための注釈(18) 

 括弧のなかに空白があり、「花の名前」というルビがふってある。買ってきた古本のなかからことばが見つかれば、空白を消してその花の名前を書く。「白いブラウス」「感情の引き出し」「二枚貝の内側の音楽」は、空きビンの蓋がひっくりかえり、あしたの雨をためている、その蓋のよう。汚れた公園の路を通ると、家へ帰りつくまでに七分かかる。犬とときどき曲がり角の草むらに鼻をつっこみ、ほかの犬の名前をさがしている。





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穂村弘「葡萄の種と梅干の種」

2015-03-24 10:41:41 | 詩(雑誌・同人誌)
穂村弘「葡萄の種と梅干の種」(「短歌と詩、その相似と相違について」日本現代詩人会ゼミナールin福岡、2015年03月21日)

 穂村弘「葡萄の種と梅干の種」については22日の「日記」に書いたが、もう少し考えてみたいことがある。「短歌と詩、その相似と相違について」というテーマに沿って、考えてみたい。
 穂村は3人の短歌と、そのうちの「改悪例」をあげている。

だしぬけに葡萄の種を吐き出せば葡萄の影が遅れる 木下龍也
届かないものはどうして美しい君がぶどうの種吐いている 服部真里子
届かないものはどうして美しい君がうめぼしの種吐いている 改悪例
茶碗の底に梅干の種二つ並びおるああこれが愛というものだ 山崎方代
茶碗の底に葡萄の種二つ並びおるああこれが愛というものだ 改悪例
 
 この「改悪例」で穂村が指摘しているのは「イメージのずれ」である。ことばはそれぞれイメージを持っている。それは「共有」されている。その「共有」が崩れると短歌は崩れる。穂村自身のことばを引用すると、

ほとんど全ての語彙に関してイメージの細かい共有があり、それを前提に互いの作品を読み合う

 というのが穂村の考えている「短歌の特性」である。
 この「短歌の特性」は、「短歌」だけに限らず、どんな「文学」にも通じる。どんな文学でも共有されているイメージが壊れたときは、それを異様に感じる。そして、もしどちらの作品がいいかと問われたら、ついつい共有しているイメージにあった作品を選んでしまう。
 「届かないものは……」の短歌なら「ぶどうの種」の方が「うめぼしの種」よりも美しいイメージがあっていいなあ、と考える。ゼミナールのあと、懇親会だったか、三次会(?)だったか、北川朱実は「あの改悪例はよくない。だれだって、どっちがいいかはすぐわかる」と言ったが、まあ、それが「常識的文学基準」なのだと思う。
 そう思うのだが、私はまた別のことも考える。
 ほんとうに、そうだろうか。疑ってしまう。「イメージの共有」が「文学の基準」だろうか。穂村は「文学の特性」とは言わずに、「短歌の特性」と書いているので、これから私が書くことは穂村の意図(主張/論旨)からズレるかもしれないが……。

 「文学」のひとつのおもしろさは、共有されたイメージを破壊するというところにもあるのではないだろうか。みんなが「美しい」と思っているものよりも、そうじゃないものの方が刺戟的で楽しいから好き、ということはないだろうか。
 たとえば西脇順三郎の「茶色の旅行」は次のようにして始まる。

地平線に旅人の坊主が
ふんどしをほすしろたえの
のどかな日にも
無限な女を追うさびしさに
宿をたち出てみれば
いずこも秋の日の
夕暮は茶色だつた。

 「百人一首」が見え隠れする。「白妙の衣」のかわりに「坊主のふんどし」が干される。これは「美しさ」の否定だろうか。それとも新しい「美しさ」の主張だろうか。「白妙衣」が美しいという「流通概念」の「固定化」を西脇は否定している。
 読んだ瞬間、私は笑い出してしまうが、この笑いのなかの「乱暴」が「美しい」と思う。「ふんどし」が「美しい」というよりも、「ふんどしだって白いぜ、太陽の光を浴びて輝くぜ」と見てしまう「肉眼の暴力的な健康さ(力)」が「美しい」と思う。
 光をはじき返すふんどし、そのはじきかえされた光の輝きは、白い衣のはじき返す光の輝きと物理的には同じであっても、人は白い衣のはじきかえした光の方を美しいと判断してしまう。その衣が好きな女の衣だったりするとさらに美しいと感じるかもしれない。おばさんの衣よりも、処女の衣の方が輝かしいと感じるかもしれない。人は「肉眼」で見るよりも前に、「既成概念」で見てしまう。「肉眼」は働いていない。物理の厳しい基準も除外されている。
 西脇は、そういう「既成概念」で「もの」を見ることに対して異議をとなえている。既成概念(流通概念)をたたき壊して、あからさまな「肉体」そのものに還って、そこから「肉眼」をもう一度動かしている。
 「現代詩」は「イメージの共有」を目指しているわけではない。「共有」ということを拒絶しているという一面がある。すでにそこにあるものをそのまま信じるのではなく、いちどたたき壊して、最初から見つめなおす。それは自分自身を見つめなおすということでもある。「肉体」を見つめなおすことでもある--と書くと、ちょっと「我田引水」になってしまうので、省略。

 穂村が「改悪例」をしめさなかった木下の短歌を「改悪」して考えてみる。

だしぬけに梅干の種を吐き出せば梅干の影が遅れる

 どうだろう。穂村の書いていた「青春性」は、梅干では感じられなくなるかもしれない。けれど、それは逆に言えばセンチメンタルとは別の、物理現象そのものを見つめる「肉体」の感覚をより刺戟しないか。
 私はもう「青春」という世代ではないので、梅干の方が斬新でおもしろいかなあ、と思う。「葡萄」では、あまりにもはかなすぎる。葡萄の種の影なんて、小さすぎて眼で追いかけるのがむずかしい。梅干の種の方が粒が大きくて、吐き出す感じもわかるなあ、と思ったりする。私は、葡萄の種を吐き出さずにそのまま全部食べるので、葡萄の種を吐き出すということが肉体的にわからない、ということもあるのだけれど。
 西脇なら、ぜったいに「葡萄」とは書かないだろうなあ、と思う。

届かないものはどうして美しい君がうめぼしの種吐いている

 というのも、意外性がおもしろい。服部の短歌(そして木下の短歌)には「葡萄」と「吐く」という動詞の結びつきのなかに何か乱暴なものがあり、その乱暴さだけで充分なのかもしれないが、梅干の方が乱暴さを強靱にする。梅干の種を吐いているのは、「青春」の「君」ではなくて、もう「中年」か「老人」かもしれないが、だからこそ、刺戟的。同じことをくりかえしてきた「肉体」のしぶとい力がそこにある。
 そういう見方から言うと、「茶碗」と「梅干の種」を歌った山崎の作品は、最初から「青春性=美しい」をたたき壊していて楽しいが、でも、そのたたき壊し方が、穂村が指摘しているよう「演歌的」かなあ。つまり、「演歌」という「定型」に入ってしまっているかなあ、とも思う。「ああこれが愛というものだ」という詠嘆が「定型」になっていて、なんだか笑えない。くすりと、こない。
 西脇なら、こういうとき「方言」をつかって「まんず、これがあいだべな」というような具合に、「演歌」をもう一度「大衆」に引き戻すだろう。「演歌」という「定型」以前の口語にしてしまうだろうとも思った。
 「現代詩」は「定型」を破壊して動く。「定型」が破壊されたとき、その破壊する力(破壊するという運動/動詞の力)に目を向けている点が、短歌とは異なるのかもしれない。評価の基準が「定型」の維持ではなく、「定型」を破壊しつづけるという力に向けられているのかもしれない。
 (岡井隆の短歌を読むと、必ずしも「定型の維持」だけを短歌は目指しているわけではないと思うけれど、感性の継承を好む人が歌人には多いということかもしれない。)
  詩を読む、その「読む」というあり方が短歌と詩では違うのかもしれない。

秘密と友情 (新潮文庫)
春日 武彦,穂村 弘
新潮社
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