詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-20)

2017-05-20 10:58:05 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-20)(2017年05月20日)

39 *(砂の上に文字を書いては消し)

書くことと 消すことのあいだをゆきかえるぼくの心は
いつまでぼくに残るか
もし ぼくから去つていくなら何処へたち去るか

 文字を書いては消す。そのたびにこころが動く。「ゆき、かえる」という往復の動詞でとらえているのだが、最後に「残る」「たち去る」という動詞に変わる。
 「去る」は「行く」か。
 「行く」は「帰る」と対になるが、対であることを拒絶するのが「去る」なのだろう。そして、「去る」は「残る」という対を要求する。
 あるいは逆か。「行く」「帰る」という果のない運動のなかで生まれる「不安」が「残る」を誘い出し、それがさらに「去る」を誘い出すのか。
 動詞が微妙に動いている。
 「残る」のは「心」をなくした「肉体」か、それとも「去っていった心」を思う「心」か。

40 白あじさい

深夜
白磁の壺の中に一茎の白あじさいの花がさしてある

 「白」が繰り返されることで、さらに「白く」なる。違ったものが、同じ何かによって、さらに強くなる。深くなる。
 「行く」「帰る」の往復運動と、「残る」「去る」の永遠を思う。
 いくつかのことばが動き、そのあと、

それらの言葉のなかを何かが過ぎていつた
言葉のあわただしい夜の上を

 このときの「言葉」は「白」そのもの。「白」のなかを別の「白」が過ぎてゆく。そうすることで、それぞれの「白」がさらに「白く」なる。
 「白」ではなく、「なる」という「動詞」がそこにある。あるいは、生まれてくるのか。「過ぎていつた」を「去つていつた」と読み替えたい。
 誤読したい。
 だが、どう「誤読」していいのか、明確なことばにならない。この瞬間「言葉のあわただしい夜」の「あわただしい」が生々しく迫ってくる。
 「あわただしい/あわただしく」しか、わからない。いや、「あわただしい/あわただしく」が「肉体」としてわかってしまう。
 「白」と「白」。繰り返されるとき、無数に生まれ、去っていく「白」がある。


嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


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谷川俊太郎『詩に就いて』(36)

2015-06-04 09:22:00 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(36)(思潮社、2015年04月30日発行)



おやおや

一日外で働いて帰ってきたら
詩がすっかり切れていた
ガソリンではないのだから
すぐ満タンという訳にはいかない
落ち着いて待っていれば
そのうちまたどうにかなるだろうと考えたが
気がついて見ると私は詩が切れていても平気なのだった
おやおやと思った

 二行目「詩がすっかり切れていた」というときの「詩」とは何だろう。「詩情」か。その「情」が切れるとは、自分のなかで詩を感じるこころがなくなるということ、詩を感じなくなっているということか。詩を感じるこころがなくなると、詩がなくなる。
 もし「詩(作品)」がそこにあったとしても、それを読んでこころが動かない、反応しないということがあれば、それはやはり「詩が切れている」という状態なのだと思う。
 そうだとすると「詩」の存在は客観的なものではなく、詩を感じるこころがあるかないかにかかわってくる。
 「三つ目の章」にはひとと詩の関係が書かれている、と私は何回か書いた。「小景」「二人」「同人」などの作品では、女が「詩を感じる対象(ことば)」と男(谷川?)が「詩を感じることば/自分が詩だと思って書いたことば」のあいだに「ずれ」があった。それがたとえ詩であると認めることができたとしても、女はそれとは違う詩を欲していた、という状況が書かれていた。詩は、それを詩と感じるこころがあって、はじめて詩になるということは、そこでも語られていたことになる。
 詩と人間との関係を、谷川はそんなふうに「定義」して、それをさらに自分に当てはめている。他人ではなく、谷川自身と詩の関係を語っている。
 「詩が切れたとき」(詩を感じなくなったとき)、どうするか。何をするのか。谷川は積極的には何もしない。「待つ」ということをする。

落ち着いて待っていれば
そのうちまたどうにかなるだろうと考えたが

 この「待っている」は「放課後」の「窓際で詩が少年の姿をして言葉を待っている」とおなじである。「詩」というよりも「言葉」を待っている。
 「言葉」を待っているといっても、ことばはいつでもどこにでもある。ことばそのものを待っているのではなく、ことばとこころが一緒になって動くのを待っているということになる。だからほんとうに「言葉」を待っているのか、こころが動くのを待っているのか、区別は難しい。考えても、わからない。
                      
 このあとのことばの展開が非常におもしろい。谷川は「待つ」ということをする、と私は書いたが、それだけではない。何もせずに待っている訳ではない。

そのうちまたどうにかなるだろうと考えたが
気がついて見ると私は詩が切れていても平気なのだった
おやおやと思った

 「考えた」「思った」。二つの動詞が出てくる。「考える」と「思う」の違いはどこにあるか。
 「考える」とは自分でことばを動かすことだ。「待っていれば/そのうちまたどうにかなるだろう」とことばを動かす。これが「考える」。そして、ことばを動かすと、そのことばに刺戟されて別のことばが動きはじめる。「気がついてみると」とは、「考える」ことばに刺戟されて目覚めたことばが動き出し、「私は詩が切れていても平気なのだった」ということばになったということ。そこには何らかの「結論」のようなものがある。
 そういう「結論」の前に書かれている、「詩がすっかり切れていた」や「ガソリンではないのだから/すぐ満タンという訳にはいかない」というのも「考え」なのだ。つまり、「ガソリンではないのだから/すぐ満タンという訳にはいかない(と考えた)」と「考えた」という動詞が省略されていることになる。「論理」が動く。
 それにつづく「落ち着いて待っていれば/そのうちまたどうにかなるだろう」は「と考えた」ということばと一緒にあり、まさに「考え」そのものである。そして、それは「論理」である。
 だから、それは「詩」ではない。ここまでの行の展開に詩はない。「詩」は「論理」を超えるものだから、と唐突に書いてみる。
 では、詩は? 詩はどこにあるのか。
 もうひとつの「動詞」、「思う」とともにある。

おやおやと思った

 この「おやおや」とは何か。「おやおや」あるいは「おや」ということばは誰もが言う。あるいは、漏らすというべきか。これを「意味」として説明するのは難しい。「おやおや」を自分のことばで言い直すとどうなるか、と考えると、「肉体」がいらいらする。「肉体」ではわかりきっているので、ことばにならない(ことばにできない)ということが起きてしまう。
 広辞苑に頼ってみると「おやおや」は「おや」強めていう語。「おや」は「意外な事に出会った時などに発する語」と説明している。
 「意味」など、ない。ただの「声」である。「無意味」である。「無意味」だから、説明できない。
 言い直すと「考える」が中断してしまう瞬間が「思う」なのだ。「考え」は中断するが人間は生きているから「肉体」のなかの何かが反応して動いてしまう。「ことば」になるまえに、何かが動く。「肉体」のどこかで「未生のことば」が動いているのかもしれない。これが「思う」のはじまり。
 広辞苑の説明に、「意外な事」という表現があった。この「意外な事」は、谷川の今回の詩集では「思いがけない」という表現で何度か書かれている(「坦々麺」「あなたへ」「脱ぐ」が思い浮かぶが……)。谷川の書いている「思いがけない」が「意外」と言い換えられるとは限らないが、似通った意味あいを持っている。
 「考える」は「頭で考える」、「思う」は「こころで思う」。「頭」はあくまで「論理的」にことばを動かし、整理するが、「こころ」は論理以前、整理以前の、あいまいな領域をうろついて、それそこ「おやおや」のように、「声」を発するだけのこともある。「思いがけない」から、それにふさわしいことばが見つからない。「肉体」のなかでうごめく衝動に突き動かされて、ことばがことばにならずに「声」として出てしまう。未整理の、未生の本能。

 この詩は何も書いていないような印象を与えるけれど、そんなふうにして読むと、谷川が詩の本質を「思う」という動詞のなかにこめていることがわかる。ことばにならない「声」、衝動のように発せられた「声」のなかに、「未生のことば」の萌芽がある。「本質」がある。
 「論理」がふっと途切れて、その瞬間、それまで追いつづけてきた「論理」とは違うところから、「声」がふっと漏れる。その瞬間が詩。
 ここから、この詩を読み直すと、また気づくことがある。

一日外で働いて帰ってきたら
詩がすっかり切れていた

 この書き出しには「と思った(と思う)」ということばが省略されている。「詩がすっかり切れていた」と思ったのである。「働く」というのは「他人の論理」に自分をあわせて動かすということである。「論理」なのかを動いていると「詩」はなくなる。「論理」から離れたときに、それに気づき「詩がすっかり切れていた」と思った。「考える」前に、それが「実感」として「肉体」からあふれてきた。
 「思った」からはじまり「思った」で終わる。途中で「論理(考え)」が動くが、その「論理」を作品が終わる寸前で叩き壊して「思う」に還る。これは谷川の詩の「構造」に共通していることかもしれない。
 少しだけ詩集を振り返ってみる。
 巻頭の「台が要る」。

机が要る

 と書き出されている。その行には「と思った」を補うこともできるし、「と考えた」を補うこともできる。
 それからつづく行も「と思った」「と考えた」の両方をあてはめることができるが、「紙を載せるためのもの」の「……ための」というような表現を手がかりにするなら「考えた」の方がふさわしいだろう。「論理」が動いているのだから。
 けれど、詩の最後。

もしかすると空のテーブルには
始めから載っているのかもしれない
詩が
無文字の詩が
のほほんと

 ここには「考えた」よりも「思った」がふさわしい。「もしかすると」「かもしれない」というのは「論理」としてあいまいである。「論理」としては不完全である。けれど「思う」は不完全を苦にしない。むしろ「思いがけない」ことを思うのが「思う」の仕事である。
 最終行の「のほほんと」の「のほほん」も論理的に説明しようとすると、うまくできない。「のほほん」ということは、もう「肉体」でおぼえてしまっている感覚であり、それを別なことばで説明すると嘘になってしまう。
 「思う」は「思いがけない」ことを「思う」のだが、それはいつでも「ほんとう」を思うのであって、嘘を思わない。嘘は「考える」ものである。

 これは、しかし、これ以上は書かない。
 「論理」というのは、自分の都合のいいように、そこにあることを「整理」して動かしてしまうものだから、書こうとすればどこまでも「論理」にあわせて嘘をでっちあげることが可能だからである。
 私は、最後の詩を読み、谷川の詩はいつでも「思う」からはじまり、そのつづきを論理的に「考える」という形でことばを展開し、最後に「論理」を突き破って、「思う」にかえる詩の「定型」が多いと思った/考えた、のである。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(35)

2015-06-03 10:48:56 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(35)(思潮社、2015年04月30日発行)


読まない

もう誰も読まないだろう
どんな名作も
行が立ち枯れて
語が粉塵になって
詩は元通り大気に還って
犬が一匹通りを歩いて行く
雨に濡れた詩集を踏んづけて
ふと振り返って匂いを嗅ぎ
尻尾を振る
人はもう誰も読まない
マグからピルスナーを飲み
無名の誰彼の愛の生活をこき下ろし
有名なあいつを妄想の殿堂に投げこみ
ふっと沈黙が訪れたときに
忘れ物をしてきたことに気づく
何かをどこかに置いてきてしまった
フォントの処理場から
薄い煙が立ち昇っている
街から有料道路に乗って
人は森へ出かけて行く
猿と笑いに
狐に騙されに
熊に噛みつかれに
そして夕方帰ってくる
無傷で
お喋りしながら
予定が入っている明日を頼みに

 一行目に「もう誰も読まないだろう」という行があり、十行目に「人はもう誰も読まない」と言い直される。推測が断定にかわっている。ことばを繰り返すと、「客観的事実」ではなく「意識」が「事実」になってしまう。「客観的事実」は単にそこにあるだけで、繰り返さない。繰り返すのは「意識」である。繰り返しながら、言い直す。そのことばの動きのなかで、ことばを動かしている「意識」がだんだん整理されてきて、「脳」はそれを「事実」であると思い込む。
 このときの「意識の事実」とは何だろう。谷川は何を「事実」と書いているのだろう。
 「もう誰も読まないだろう」と「人はもう誰も読まない」のあいだに「詩」ということばがあり、それは「詩集」と言い直しによって繰り返されている。「詩/詩集」を「誰も読まない(だろう)」。それが、この作品に書かれている「意識の事実」である。一行目に「詩」ということばを補って、「もう誰も詩を読まないだろう」と読み直すと、この作品は「論理的」になる。「もう誰も詩を読まない」というのが、谷川の「意識の事実」である。
 この「論理」、いいかえると「谷川の意識の事実」を、肯定すべきなのか、否定すべきなのか、と考えて行くとき「批評」という行為がはじまるのかもしれない。でも、私は「結論」を目指している「批評」というものにうさんくささを感じているし、私は何かを書くとき「結論」など想定していないので、「谷川の意識の事実」が「真実」であるかどうかは問題にしない。私が肯定しようが否定しようが、そのことによって谷川の「意識の事実」がかわるわけではないのだから。
 それよりも「意識の事実」をつくりだすときに、ことばがどこを通っていくか、そのことに興味がある。それを見ていく方が谷川に近づける。
 「誰も詩を読まない」とき詩はどうなるか。「元通り大気に還って」と谷川は書いている。「大気に還って」ということばは「大気のように、詩はあらゆるところに偏在する」という形にもどるということだろう。偏在しているけれど、ことばにとらえられていない状態にもどる。そのことを「元通り」と呼んでいることが「大気に還って」よりも私にはおもしろく感じられる。
 そうか、谷川には詩の存在の「元」の「あり方」がはっきりとわかっているのか。だから「断定」もできるのだ。「書かれた詩(作品)」は、もともと詩の「原型(詩情?)」ではない。書かれないままの、大気のなかに偏在し、偏在するがゆえに「隠れている(見えない)」のが詩(情)なのである。「誰も詩を読まない」は「書かれた詩」を読まないを通り越して、世界に「偏在する詩(情)」を誰も読まないということなのだ。
 そういうひとの代わりに、この作品では「犬」が出てくる。この部分が、私はとても好きだ。犬が、

雨に濡れた詩集を踏んづけて
ふと振り返って匂いを嗅ぎ
尻尾を振る

 「雨に濡れた」ということばは日本人の情緒の「定型」を踏まえている。捨てられ、みすぼらしい、という否定的な「意味」の「定型」がある。その「定型」を犬が「踏んづける」という動詞で「結晶化」させる。「雨に濡れた」を「踏んづける」という動詞で言い直し、繰り返すとき、「みすぼらしい/みじめ」が、「意味」として生まれてくる。「意味の事実(意識の事実)」になる。
 しかし谷川は、そこで「意味」を完成(完結?)させない。そこが谷川独特の「哲学」で、とてもおもしろい。
 「みすぼらしい/みじめ」な「詩/詩集」を、犬は何か価値があるかのように、求めていたものでもあるかのように、「ふと振り返って匂いを嗅ぎ/尻尾を振る」。この「尻尾を振る」は喜びの表現。この瞬間「みすぼらしい/みじめ」という「意味」はくつがえされる。犬にさえ踏んづけられた詩/詩集が、犬によって再発見されている。
 再発見といっても、それは「ひと」が見つけたものではない。ひとではなく、犬がみつけたもの。だから、それに価値(意味)があるとしても、そのままそれをひとにあてはめるわけにはいかない。ひとにとってもおなじ価値(意味)があるとは言えない。
 この人間にとっての絶対的な「意味」のたたきこわし、「無意味としての意味」を生み出していく。そのことばの運動がおもしろい。観念的、形而上学的なことばをつかわず、日本人の感覚の「定型」を利用しながら、誰もが知っている「犬」という具体的な生き物をつかって、世界をととのえなおす。「無意味」という絶対を「直観」でわかるように書いてしまう。
 こういう「無意味」こそ、私は詩だと思うが、それを「もう誰も読まない」ということばで挟んで、まるでなかったもののように隠してしまう。

 詩を読まなくなって、ひとはどうするか。「無名の誰彼の愛の生活をこき下ろし/有名なあいつを妄想の殿堂に投げこみ」という「無名」「有名」の「対」の二行のあとの、
ふっと沈黙が訪れたときに
忘れ物をしてきたことに気づく
何かをどこかに置いてきてしまった

 これが、またおもしろい。
 私は、「かなしみ」(『二十億光年の孤独』)を思い出した。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

 詩を読まなくなって、そのときに初めて、詩を落としてきたと気づく。「忘れ物」と「落とし物」は同じものだ。
 だから、「あの青い空の波の音が聞こえるあたり」のかわりに、この作品では「森」へ「忘れ物/落とし物」をさがしに行くことになる。
 「森」とは「自然(地上の宇宙)」であり(「詩よ」のなかでは「木立の奥」と書かれていた)、それは人間生活(人工的生活)の対極にある。谷川にとって詩=詩人であり、ひと=詩なのだが、ひと以外の「世界」に詩の母胎をみている。自然や宇宙に詩は偏在し、それをひとは集めるだけなのだ、と感じているのだ。
 そう感じている「自然」との出会いのなかに、またまた、とてもおもしろい行がある。

猿と笑いに
狐に騙されに
熊に噛みつかれに
そして夕方帰ってくる
無傷で

 「騙され」たり「噛みつかれ」たりすれば、こころや体が傷つく。しかし、谷川は「無傷」と書いている。人間以外の世界(自然/宇宙」が人間に与える衝撃は「傷」ではなく、「無傷」をも通り越し、逆に「傷を癒す」、あるいは「いのちをもらう」感じなのだ。それはきっと谷川にとって「詩の体験」なのだ。



 この詩集は「目次」の部分に暗示されているが「三つの章」に分けられている。最初の部分は「詩の定義の総論」、次は「詩とことばの関係」が書かれ、最後の部分では「詩とひとの関係」が書かれているような印象がある。
 そして「三つ目の章」の最初の部分では詩を拒絶する女が出てきた。詩を拒絶するひとがいる。ことばの詩を拒絶するひとがいる。そういうひとと、詩はどう共存できるか。(おなじことばであっても、あるときは共存できず、時間が経てば共存できる、ということも起きる。)谷川にとって詩と詩人はおなじ意味を持っているので、これは詩を拒絶するひと(詩を拒絶する時間)と詩人はどう共存できるのか、という問いでもある。
 ひとが詩を読まない。そう知って、少し詩(谷川の書いた作品)を離れる。あるいは詩を書かなくなる。中断する。その詩を離れた瞬間の「沈黙」。そこで谷川は「忘れ物をしてきたことに気づく」。
 ここからはひとと詩ではなく、谷川と詩との関係が書かれていると読めばいいのかもしれない。詩を書くひと(詩人)と詩の関係が書かれている。詩とは谷川にとって何なのか。
 「熊に噛みつかれ」と「無傷」という「矛盾」が、谷川にとっての詩の本質をあらわしていると思う。(笑い、騙されるから考えてもいいのだけれど、「噛みつかれ=傷つけられ」と「無傷」の方が対比が簡単なので、そこから考える。)
 この「熊に噛みつかれ」にいちばん近いことばは、この詩のなかでは、犬が「雨に濡れた詩集を踏んづけて」行くという部分だろう。雨に傷つけられた詩集がさらに犬に踏んづけられて傷つく。「みすぼらしい/みじめ/捨てられた」という「意味」が固まってしまう。けれど、その瞬間に何かが動く。「もの(詩集)」が「意味」になろうとして動く。その動きを「論理」と呼ぶこともできるが、「詩」と呼ぶこともできる。
 そのとき「論理」と「詩」を区別するのは、この作品に即して言えば、

ふと振り返って匂いを嗅ぎ
尻尾を振る

 という二行に出てくることばのあり方だ。
 そこには「動詞」が三つ出てくる。「振り返る」「匂いを嗅ぐ」「尻尾を振る」。人間には尻尾はないから尻尾は振れないが、人間は振り返ることができる、匂いをかぐことができる、そして尻尾のかわりに手を振る(手を振って喜びをあらわす)こともできる。
 犬の動作を描写する「動詞」なのだけれど、それを人間は「肉体」で繰り返すことができる。「頭(脳)」が処理した観念(言語)ではなく、ことば以前の「肉体」で反芻することができる。そして実際に「肉体」を動かしてみると、たとえば雨に濡れて落ちている詩集の匂いを嗅いでみると、何かことばにならないものが動く。「みすぼらしい/みじめ/捨てられた」以外の思いが、「沈黙(ことばにならない感覚)」のなかで動く。「肉体」の動き(動詞)はかならず、人間の深い部分(未生の感覚/未生のことば)を動かす。
 この動かされ、動き出す感じが「無傷」なのだ。「噛みつかれる(傷つく)」けれど、それを瞬間的に乗り越えようとして動く「いのち」があることを感じ取る。あ、この甦る感じを「忘れていた」と気づき、動き出す瞬間。それを「無傷」と呼んでいるのだと思う。

 谷川にとって詩とは、傷つけられ(無意味によって否定され)、同時に無意味によって意味から解放されて、あたらしく生きはじめるための方法なのだ。甦りの方法なのだ。

 (今回の私の感想は、前半と後半でかなり飛躍がある。私は眼の都合で長い時間パソコンに向かっていられない。途中で休憩したために、そのあいだに、ことばがあちこち動き、ことばのなかで省力化が起きてしまった。「頭」というのは、ずぼらで「手抜き」しか考えないものらしい。書き直すことも考えたが、そうするとまた違ったものになるので、そのままにしておく。)

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(34)

2015-06-02 08:18:26 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(34)(思潮社、2015年04月30日発行)


難問

揺り籠が揺れるのはいい
風に木々が揺れるのも
船が波に揺れるのも
風鈴が揺れるのも

だが地面が揺れるのを
どう受け容れればいいのか
と詩は問う

難問だ
ぶらんこに揺られて考えたが
答えがない

 この詩は、「揺れる」という動詞が出てくるためだろうか、谷川が東日本大震災の直後に書いた「シヴァ」を思い起こさせる。谷川は朝日新聞に「こころ」シリーズで詩を書いていたが、「シヴァ」二〇一一年四月の掲載は見送られ、二年後、二〇一四年三月に掲載された。
 実際どういう交渉があったのかわからないが、東日本大震災直後は、そのことばを被災者が受けいれられるかどうか、それを朝日新聞が心配したということだろう。その後、東日本大震災をテーマにしたさまざまな詩(ことば)が書かれた。苦悩、悲しみ、怒り。いくつもの感情がことばになって存在しはじめ、ようやく谷川のことばも受けいれられるものと判断されて、二年後の掲載になったのだろう。

 一連目の「揺れる」は静かに揺れる動き。「いい」と書かれているが、それは「揺れる」というよりも「静か」がいいのだろう。
 揺り籠も激しく揺れるとこわい。台風で木々が揺れるのも困る。船が大波に揺れるのもいいとは言えない。
 二連目に登場する「地面」は「静かに」揺れるということがない。たいていは激しく揺れて、それが地震と呼ばれる。「激しさ」が嫌われている。
 しかし問題が「静かさ」と「激しさ」なら、詩は「静かさ」だけを追い求めてきたわけではない。「静かな抒情」は人気のあるテーマだが、「激しい感情」が動き回る詩もたくさん書かれ、その過激さが歓迎されることもある。
 ことば(文学)の上では、「静けさ」「激しさ」は対等である。「いい」「悪い」の区別がない。詩は、そういうところで動いている。なぜ「激しく揺れる」地面、そこからはじまる事実(そこから浮かび上がる真実)を、そのまま書いてはいけないのか。犠牲者が多く出たからか。大地の発したその「激しさ」を詩はどう受けいれればいいのか。どう書けばいいのか。
 これは難しいなあ。「シヴァ」も、ずっと掲載されなかったわけではない。何かが起きて、それをひとが「事実」として受けいれることができるようになったとき、それについて書かれたことばも受けいれるようになる。ことばが受けいれられるようになるには時間がかかるということかもしれない。
 阪神大震災の後、季村敏夫が『日々の、すみか』という詩集を書いた。そのなかの「祝福」という詩に「出来事は遅れてあらわれる」という一行がある。実際には「阪神大震災という出来事」は遅れてあらわれたのではなく、ひとが何の心構えもできていないときに突然あらわれた。早すぎるときに起きた。そして、その起きたことが何であるか、ことばにしてわかるようになるのに時間がかかった。ことばにしてみて、初めて「出来事」が何であるかがわかるようになった。ことばのなかで、「出来事(大震災)は遅れてあらわれる」とはそういうことである。
 谷川の「シヴァ」のことばについても、そうした性質のことが起きたのだと思う。ひとは二年立って、やっと谷川の書いたことばのなかで起きている「出来事」を受けいれられるようになった。ことばがさまざまに「出来事」を書いたので、いろいろなことばの動き方(出来事のあらわし方がある)ということになじんできたのだ。

 そうした経緯は経緯としておいておいて……。
 私は、この「問い」を谷川は「詩は問う」と書いていることが、とてもおもしろかった。谷川は谷川の問題としてではなく、それを「詩の問題」と考えている。「詩」を人称化して考えている。詩の人称化は何回か、この詩集でも出てきた。谷川にとっては「肉体」になってしまっている思想かもしれない。
 「詩」の問題は、ことばの問題でもある。ことばは何をつかみとればいいのか。何を「出来事」としてつたえればいいのか。
 ここにはたぶん、「ことば」だけの問題ではなく、「ひと」の問題が関係してくる。ひととことばは、どういう関係にあるのか。おなじことばでも、あるひとは歓迎し、あるひとは拒絶する。
 そのことを考えると、「小景」「二人」「同人」という作品のことを思い出さずにはいられない。谷川は詩を書く。その詩をこばむ女がいる。詩は詩として書かれても、詩として存在しえないときがある。
 ひととことばの関係は、ことばの側からだけでは解決できない問題を含んでいる。

 そしてこの問題を考えながら「詩」と「詩人」のあいだで谷川は揺れている。二連目で「詩は問う」と書かれていたが、三連目で「ぶらんこに揺られて考えた」の主語は「詩」ではないだろう。「詩人(谷川)」が考えたのだろう。
 「詩」を人称化したあと、その比喩を「肉体」で実行し、ひと(詩人)になって詩の問題を、三連目で谷川は考えている。
 谷川にとって「詩」と「詩人(谷川自身)」の区別がない。それは「一体」になっていて、あるときは「詩」として姿をあらわし、あるときは「詩人」となって姿をあらわす。「詩」と「詩人」の区別は「方便」であって、区別はない。
 けれども、ほかのひとにとってはそうではない。「詩」と「詩人」も違えば、「ひと」のすべてが「詩人」ではないし、「詩人」のすべてが「ひと」でもない。この複雑な「あいだ」をどう谷川はわたってゆけるのか、わたってゆこうとしているのか。
 「答えがない」
 そうかもしれないなあ。

 谷川は、ほんとうに「孤独」なところにいるのかもしれない、とふっと、その「孤独」が見えたような感じがした。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(33)

2015-06-01 10:08:25 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(33)(思潮社、2015年04月30日発行)


Ombra mai fu

王は木陰にいる
殺戮の旅から帰ってきたばかりだが
心はそこにはない
妃の不義を疑う苦しみが
王の心を塞いでいる
木の間に囀る小鳥たち

そんな細密画の筆を置いて
少年は井戸へ指を洗いに行く
祖父の残した手本は
時代遅れだと少年は思う
王はもう木陰になんかいやしない
妃とジェット機で雲の上だ

こんな断片では捉えられない真実を
詩は生み出せるだろうか
時に侵されぬ言葉を信じて
一瞬をフリーズドライしようと
古ぼけたラップトップを膝に
老詩人は木陰にいる

 「ぬらぬら」の三連目について、すべての「時間」は意識にとっては「同時」であるというようなことを書いた。「大正時代」も「三日前」も「小学生時代」も「バッハの時代」も、その「時間」を思い起こすとき、「いま」と瞬間的につながり、どの時間が先、どの時間が後とということはない。
 この区別のなさは「時間」だけではない。谷川の詩には、ときどき少年、犬、女性、老人がそれぞれの一行の主語になりながら駆け抜けていくときがある。そのとき、それぞれの主語はたしかに少年、犬、女性、老人なのだが「ぬらぬら」の「時間」のように「方便」として区別されているだけで、ほんとうは「ひとつ(ひとり)」である。瞬間的に、谷川は少年になり、犬になり、女性になり、老人になる。それらをつらぬく「いのち」になる。
 「主語」あるいは「時間」が変われば、当然、描写も変わる。けれど、その変化を超えて動いているものは変わらない。一貫している、ということがある。
 この詩も、その視点で読むことができる。
 一連目の主語は「王」。そして、王は木陰に「いる」のだが、「心」はそこ(木陰)には「ない(いない)」。王の「心」は妃の不義を疑う苦しみのなかに「ある」。
 二連目の主語は「少年」。一連目を「絵」のなかの物語にしてことばが動いている。少年は絵を摸写して「いる」。しかし、「心」はそこ(絵のなか)には「ない」。そんな絵は絵の手本としては「時代後れだ」と思っている。少年の「心」はそういう「批判」のなかに「ある」。
 三連目の主語は「老詩人」。谷川だろうか。一連目、二連目を「物語」の断片としてながめている。描写している。そこには「物語」としての「ことば」が「ある」。しかし、谷川の「心」はその「ことば」のなかには「ない」。そんなことばの断片では真実は捉えられ「ない」と思っている。そして、それを超える詩が「ある」、詩を生み出せるどうか考えている。書こうとしている。
 三つの連は「入れ子細工」のようになっている。一連目を二連目がつつみ、二連目を三連目がつつむ。同心円がみっつ描かれている「構造」になっている。
 三つの連(同心円)のなかで、「いる(ある)」「ない」「ある」が同じように動いている。その前にある「現実」がある。しかし、「心」はその「現実」を否定し(現実を「ない」という状態にして、違うところで動く。つまり違う場に「心」が「ある」と書いている。
 繰り返されることで、その繰り返されたことが、それぞれの「ひとつ」の状況を乗り越えていくといえばいいのか、その中心に入っていくといえばいいのかわからないが、その「動き」そのものを存在させる。「運動のあり方/運動の論理」を浮かび上がらせる。
 谷川の詩は、とても「論理的」な部分が多いが、それは谷川は、こういう「主語」を変化させながらおなじ「運動」を繰り返し書くからでもある。繰り返せば、そこに必ず繰り返しを貫く「論理」が生まれてしまう。
 それは「散文」でも「詩」でも同じことだ。
 ただし、谷川は、そうやって「生まれてしまう論理」を、常に破ろうとしている。
 一連目の最終行。「木の間に囀る小鳥たち」は「王の心」とは無関係である。人間の心とは無関係な、つまり非情な自然の姿を描いている。人間の「心」とは無関係なものが「ある」と告げている。
 二連目の最終行は、「細密画」の王と妃とは無関係なことろに現代の王と妃は「いる」と告げている。
 三連目の最終行。これは、ちょっと意地悪な行だが、老詩人の考えていることと「木陰」は無関係である。木陰でなくても書斎でも、そういうことは考えられるという意味で無関係である。
 三連目は、そういう無関係をぱっと差し出しながら、同時に一連目の「王は木陰にいる」の「木陰」へと引き返し、先に書いた入れ子細工(同心円)の構造を一基に逆転させる。最初に老詩人が木陰にいて、その木陰から妃の不義に思い悩む王のことを詩に書こうとしたのだと感じさせる。あるいは、詩を書くことは王が妃の不義を疑い苦しむということに似ていると読むこともできる。「ある」か「ない」かわからないものから、「真実」を探し出す(生み出す)ということばの運動へ動き出す詩を書こうとしたのだと感じさせる。
 追いつづけてきた「論理」を、谷川はそんな風にひっくりかえしてみせる。そうすることで「論理」を宙ぶらりんにしてしまう。「論理」からことばを解放すると言い換えることもできる。
 
 この詩を読みながら、私は、またほかのことも考えた。

こんな断片では捉えられない真実を
詩は生み出せるだろうか

 三連目のこの二行からは、「詩は真実を生み出すもの」という「定義」を引き出すことができる。真実を「語る/告げる」ではなく「生み出す」。そこに谷川の思想がある。
 さらに、その二行につづく「時に侵されぬ言葉」は「時間」を超えることばを追い求めるという姿勢を語ったものである。「時に侵されぬ/時間を超える」は「時代後れ」にならないと同時に「いま」にまみれてしまわない、でもある。「いま」を書きながら、「いま」にまみれない--それを谷川は「一瞬をフリーズドライ」すると呼んでいる。この「一瞬をフリーズドライ」するという表現は、「放課後」の

窓際で詩が少年の姿をして言葉を待っている
校庭に男女の生徒たちが静止(フリーズ)している

 を思い起こさせる。この「静止(フリーズ)」は「放課後」の最終連では、詩によって「激しく動きはじめる」ものになっている。そしてそれは「和音に乗って旋律がからだに入ってくる」とも書かれていた。「フリーズドライ」は書かれた楽譜、それがからだのなかに入ってくると、その瞬間、和音と旋律にかわる。その和音と旋律が「真実」であり、そんなふうに動くことばが詩なのだ、と谷川は「定義」していると、私は読みたい。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(32)

2015-05-31 12:59:18 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(32)(思潮社、2015年04月30日発行)


「ぬらぬら」

「ぬらぬら」という店名だった
林の中の簡潔な木の小屋
店番をしているお河童頭の女の子

辞書のページの上で寝ている言葉たちを起こさなければ
私はそう思っている 真剣に
「ぬらぬら」は書店ではないが
そんなことを私に思わせる空気が漂っている

大正時代にどこかの薬局が配った鉛筆
三日前に出たばかりの河馬のモノクロ写真集
小学生たちが作った蛇の針金細工
偽物と但し書きがついたバッハ自筆の楽譜
雑貨屋さんと言えばいいのか
「ぬらぬら」の一隅のスタンドでレモネード飲んでいたら
隣で詩が立ち上がる気配がした

 「その男」の感想の最後で、私は「一元論」について書いた。それは「知ったかぶり」のことばである。ほんとうは何もわかっていない。聞きかじったことばをつないだだけである。「論理」はほんとうにわかっていないことでも、つなぎあわせてわかっているかのように動かしてしまうことができる。「借り物」のことばの方が無責任に「論理」を組み立てることができる。自分で考えるわけではないから、つまずかないのだ。(これは他人のことを批判しているのではなく、私自身の反省として書いている。)
 この詩を読んだ瞬間、私は反省した。「借り物」のことばでは読みきれないものがある。自分自身のことばでも読みきれないものがある。

 「ぬらぬら」

 どこかの山の中(詩では「林の中」と書いてあるが、都会ではなく、辺鄙な、ひとの世界から離れた場所のような感じがする)で出合った、何でも売っている小さな店のことを書いているように思える。私は田舎育ちなので、中学校の近くにあった文房具も雑誌も駄菓子も惣菜も売っている「よろず屋」を思い出した。その地区でたった一軒の店であった。
 「ぬらぬら」は詩のなかでは「店の名前」ということになっている。しかし、店の名前にしては奇妙である。変である。そんな名前をつける店などないだろう。そう思い、私は、ここでつまずく。「ぬらぬら」とどう向き合っていいかわからない。「借り物」の「一元論」を持ち出すこともできないし、ほかの聞きかじった「論」も持ち出すことができない。何も持ち出すものがない。そう気づいて、あ、「その男」で書いた私の感想は、結局誰かのことばを借用しただけのいい加減なものだったと気がつく。
 何も頼るものがない。
 ここから、何を読み取ることができる。

 不思議な店に入った。(一連目)そこで谷川は「辞書のページの上で寝ている言葉たちを起こさなければ」と思った。そこで体験したことを書くには、そうしないと書けない。(二連目)そして実際に詩を書いた。(三連目)
 詩をそんなふうに動いていくことばとして読んだが、「ぬらぬら」がやっぱりわからない。いや、「ぬらぬら」ということばは知っている。「ぬるぬる」と似ている。すべるような、そのくせ粘着力があるような「液体」、その「感触」を指すのにつかう。「べたべた」というのは、少し似ているが、すべる感じが少し違う。
 この私の知っていること(肉体で覚えていること)が、谷川の書いている「ぬらぬら」が重ならない。どう向き合えばいいのか、さっぱりわからない。私の知っている「ぬらぬら」が、動いていかない。
 こういうとき、どうするか。
 私はわからないものを無視して、自分がわかると感じるものを中心にことばを追ってみる。「論理」や「構造」を探してみる。それをたよりにことばの大体の感じを探ってみる。自分の覚えていることばと重ならないか、思いめぐらしてみる。外国語で知らない単語にぶつかったときに、前後の感じから適当に意味を判断するのに似ている。
 『詩に就いて』書かれた詩なので、どこかに「詩」ということばがある。それが今回の谷川の詩集の特徴だ。この作品では、最終行に出てくる。

隣で詩が立ち上がる気配がした

 詩が人称化されている。詩や言葉を人称化することは、谷川には珍しいことではない。「放課後」では「詩」が「少年の姿をして言葉を待っていた」という一行がある。そして人称化された「詩」は「立ち上がる」という「動詞」といっしょに動いている。「立ち上がる」は、このとき「動詞」であり、同時に「比喩」である。
 この「立ち上がる」は二連目の「辞書のページの上で寝ている言葉たちを起こさなければ」の「起こす」という動詞と似ている。通い合うものがある。そして、それは「寝ている」とは反対の「動詞」でもある。
 「寝ている言葉」が「起きて」「立ち上がる」。そのとき「詩が立ち上がる」。目覚めて、立ち上がったことばが「詩」なのである。たとえ「辞書のページの上で寝ている言葉」でも現実に触れて動き出せば、その動きのなかに詩が生まれてくる。それは「ひそんでいた」詩が姿をあらわす、ということかもしれない。そう考えると、この作品にも、谷川が繰り返している「詩の定義」に重なるものがある。一連目をわきに置いておいて考えると、そう読むことができる。
 「対」になる「動詞」を手がかりに、「枠」をつくり、そのなかで「論理」を動かしてみることができる。
 その「論理」の「枠」のなかには何があるか。
 三連目に、不思議な四行がある。

大正時代にどこかの薬局が配った鉛筆
三日前に出たばかりの河馬のモノクロ写真集
小学生たちが作った蛇の針金細工
偽物と但し書きがついたバッハ自筆の楽譜

 「名詞」が並列されている。「鉛筆」「写真集」「針金細工」「楽譜」。それをつなげる「論理」が私には見出せない。
 目につくのは「大正時代」「三日前」という「時間」の書き方である。「名詞(主語?)」が一行一行違うと同時に、「時制」が一行一行違うのである。「大正時代」「三日前」につづく行の「時代(時間)」はわかりにくいが、「小学生(の時間/時代)」「バッハの時代(時間)」と読むと、一行一行が時間をもっていることがわかる。
 この変わっていく「時間」こそが、それぞれの行の「主語」であり、「鉛筆」「写真集」「針金細工」「楽譜」は、「時間」の存在の仕方の「比喩」なのだ。その「比喩」を書くことで、「寝ていた言葉」ではなく「寝ていた時間」が動く。
 「寝ていた」を「ひそんでいた」と言い直し、私はふたたび、谷川が繰り返し書いている「詩の定義」にもどる。
 そして、いま浮かび上がった「時間」の動きと「ぬらぬら」をつないでみることはできないだろうか、とも思う。
 「ぬらぬら」というのは、各行の「時間」と「時間」との関係かもしれない。「大正時代」「三日前」「小学生の時間」「バッハの時代」と、ことばにすると、それは別々の「時間」だが、「区別」が「もの(鉛筆や写真集)」ほど明確ではない。意識のなかで「時間/時代」を方便として区切っているだけであった、「いま」この瞬間に「大正時代」を思い起こし、次に「三日前」を思うとき、その二つの「時間」の「あいだ」にある「時間の隔たり(?)」はっきりしない。「大正時代」が「三日前」よりも遠くにあるのか。「小学時代」は「大正時代」と「三日前」のあいだにあるのか。そこから「バッハの時代」まで、どんな隔たりがあるのか。「同時」に思い起こすことができてしまう。思い起こすとき、どの「時間」も瞬時にあらわれ、その「瞬時」と「瞬時」の「間」は存在しない。ビッグバンの瞬間のようだ。
 「方便」として「年(日にち)単位」で、そこに数字を割り振りすることはできるが、「数字」と「思い起こす」意識の動きは関係がない。「三日前」よりも「小学生時代」を近くに感じることがある。
 「時間」には「遠い/近い」はない。「歴史」の遠近法は「時間の遠近」を描くが、現実の人間にとっては、どの時間も「いま」とぴったりくっついている。離れているのに「思い出す」という意識の運動のなかで、しっかり接続している。
 この「接続/分離(切断)」の感覚を、肉体が日常的に味わっていることばで、どういう具合に言えるだろうか。
 そう思うとき、

ぬらぬら

 ということばが、重なってくる。
 「時間」をつかもうとすると、それは滑って手の中から逃げていく。「時間」の区別が「もの」のようにはっきりと手に残らない。「時間」を区別してつかんだという感じがしない。
 この「時間」の「手触り」を、私は「ぬらぬら」と感じたことはない。どう感じているか、そもそもそこに「手触り」を意識したことがない。けれども、谷川は、これを「ぬらぬら」と呼んでいるのではないか、と思う。

 この私の感想は強引である。なんの根拠もない。「ぬらぬら」をわきに置いておいて読むといいながら、ずっーと「ぬらぬら」を抱えてことばを読み、あ、ここなら「ぬらぬら」を結びつけることができるかもしれないと感じ、その感じを強引に拡大したのだ。
 こういう「論理」のでっちあげは、一回目は単なる「でっちあげ」に過ぎないが、二回、三回と繰り返すと「論理」に育ってしまうところがある。繰り返し言うことができるということは、そこには繰り返しに耐えうる「真実」があると、頭はかってに考え、自分自身の脳を騙しはじめるのである。私は「ぬらぬよ」について書いたことを、自分で半分以上信じはじめている。
 「他人の論理(既成のことば/哲学)」を借りてくると、その「既成の哲学」というものはすでに繰り返されているので、もっとすばやく「脳」を騙してしまう。
 「その男」について書いたときにつかった「一元論」は、そういう「他人の論理」である。私の考えのふりをしているが、それは他人の考えに乗り掛かり、私の脳を騙しながら書いていることでもあるのだ。ほんとうに私が考えた「一元論」なら、そこから「ぬらぬら」へまっすぐに入っていける。それができない。そして、こんなふうに「ねじくれた」感想を書いている。
 「論理」とは「嘘」であり、「嘘」をつくと、「嘘」がやめられなくなる。
 ここから私は「詩」へもどっていくことができるか。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(31)

2015-05-30 09:43:52 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(31)(思潮社、2015年04月30日発行)


その男

<これは俺が書いた言葉じゃない
誰かが書いた言葉でもない
人間が書いたんじゃない
これは「詩」が書いた言葉だ>
内心彼はそう思っている
謙遜と傲慢の区別もつかずに

カウンターの端に座っているその男は
紺のスーツに錆色のタイ
絵に描いたような会社員だ
<ビッグバンの瞬間に
もう詩は生まれていた
星よりも先に神よりも早く>

思いがけない言葉に恵まれる度に
そんな自己流の詩の定義を
何度反芻したことか
<言語以前に偏在している詩は
無私の言葉によってしか捉えられない>
男はバーボンをお代わりする

 この詩では「放課後」の「(詩/言葉が)和音に乗って旋律がからだに入ってくる」という行が複数の形で言い換えられている。
 「放課後」が「少年期」の谷川、詩人として誕生した瞬間の谷川を書いているとしたら、この作品は「青年期」の谷川のことを書いているのだろう。「青年期」と言っても、それは「少年期(詩人誕生)」と「いま」とのあいだの長い期間のことだけれど。
 「彼」「その男」という「主語」となって登場しているのだけれど、谷川自身のことを書いていると感じさせる。三連目「思いがけない言葉に恵まれる度に」の「主語」が明示されていないために、よけいにそう感じる。「文法」的には「彼」「その男」がなのだが、省略されているために、ついつい「現代詩」を読むときの習慣で「私(作者)」を「主語」として補ってしまう。そこで、「彼」「その男」「谷川」の混同が起きる。「彼」で統一しないで、「その男」と言い換えていることが、混同をさらに誘っている。
 「少年」だった谷川は「言葉を待って」いた。「青年」の谷川は待っていただけではなく、「恵まれ」た。それはいつも「思いがけない言葉」だった。「待っていた言葉(予想していた言葉)」とは違っていたということだろう。だからこそ「だれかが書いた言葉でもない/人間が書いたんじゃない」という感じになる。「人間が書いたんじゃない」とは「思いがけない(想像を超えている)」ということと同じである。この「思いがけない」は二連目では「ビッグバンの瞬間に/もう詩は生まれていた/星よりも先に神よりも早く」と書かれている。
 < >でくくられたことばは、みな同じ意味、言い直しである。一連目で「詩」とカギ括弧でくくられている詩を、谷川は言い直している。「自己流の詩の定義」を少しずつ言い直している。
 言い直しであるから、言い直すほど、「深み」に入っていく。「ビッグバンの瞬間」は「言語以前」と言い直され、「言語以前に偏在している詩」とつづけられる。この表現は「未生の言葉」を思い出させる。
 そして、とてもおもしろいのは、その「未生の言葉」が「偏在している(詩)」と書かれていることである。「偏在している」とは「どこにでも存在している/広く存在している」ということだが、私にはこの「偏在している」が「ひそんでいる(隠れている)」と同じ意味でつかわれているように思える。辞書の意味とは逆に感じられる。このときの「ひそんでいる」は「詩よ」に書かれていた「まばらな木立の奥で野生の詩は/じっと身をひそめている」というときの「ひそめている」と同じだ。また「隙間」の「隙間に詩は忍び込む」の「忍び込む」と同じだ。野生の詩は、まばらな木立の奥に「忍び込み」「偏在している」のである。「偏在している」と「ひそんでいる」と「忍び込む」の区別は、その主語の「述語」ではない。その主語が能動的にそうしているのではない。「偏在している/ひそんでいる/忍び込んでいる」は、それを探している人間にとっての、対象の「状態」である。探し方次第で「偏在している」にも「ひそんでいる」にも「忍び込んでいる」にもなる。
 だからこそ、その「偏在している/ひそんでいる/忍び込んでいる対象(詩)」は、「無私(の言葉)」によってしか「捉えられない」と言い直されるのである。探しているのだけれど、探すのをやめ「待っている」と、むこうから「あらわれてくる」「やってくる」。「探す」という動詞の主語「私」を「無」にしてしまう。そうすると、むこうからやってくる。しかも「偏在している」という形で。
  「無私」というのは私が私を捨てること。そして、そこにある「木立」「隙間」になってしまう。「木立」「隙間」になってみると、それは、もう何かを隠さない。何かといっしょにある。その瞬間、「木立」「隙間」も「木立」「隙間」ではなくなり「無」になる。「木立」「隙間」が隠しているものだけが、そこに存在する。それは「無」をとおして「私」と「対象」が重なる(一致する、一体になる)ことでもある。だから、「詩」が偏在するのではなく、「私」が偏在する、と言い換えることもできる。
 聞きかじったことばを流用して言えば、「私即是木立、木立即是ひそんでいる詩、詩即是私」ということ。「私即是詩、詩即是木立、木立即是私」ということ。そこでは、その必要に応じて「私」「木立」「ひそんでいる詩」が姿を現わすが、そのあらわし方は「方便」にすぎない。
 「一元論」の世界である。「一元論」であるから「ビッグバン」の前も後もなく、「言語以前」も「言語以後」もない。何かを言わなければならないとき、「方便」として「ビッグバンの瞬間」とか「言語以前」とか言うだけのことである。

 しかし、こういう書き方をしていると、どうも、私は谷川の詩を読んでいるのではなく、私の考えを補強するために谷川の詩を利用しているのではないのか、という疑問がわいてきてよくない。「一元論」にしろ「色即是空/空即是色」にしろ、それは私が聞きかじった「他人のことば(知識)」である。それを言い直す「肉体」と結びついたことばを私は持っていない。

 谷川に言わせれば、「最初にことばがあった」ではなく「最初に詩があった」。谷川はそう感じているのだろう。そう思うところで、私は私のことばをとめておかなければいけない。「考える」と、自分のことばを動かしているように見えても、実際は聞きかじったことばに動かされてしまう。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(30)

2015-05-29 09:08:55 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(30)(思潮社、2015年04月30日発行)


放課後

窓際で詩が少年の姿をして言葉を待っている
校庭に男女の生徒たちが静止(フリーズ)している
少年には瞬間の奥行きが見えているのだが
そこに何がひそんでいるかは知らない

ここに生まれてきて十数年
まだ青空も白い雲も少女たちも新鮮だ
少年は世界がここにあることが不思議で
平気で生きている人々になじめない

これからどうなるのだろうと考えると
すべてがまた激しく動き始める
和音に乗って旋律がからだに入ってくる
明日を畏れることから今日が始まる

 詩はつづけて読むものではない。しかし、読んでいると、いままでに読んだ詩を思い出してしまう。この「放課後」は、これまで「三つ目の章」で読んできた作品と趣が違う。詩を拒絶する「女(娘)」が出てこない。かわりに「少年」が出てくる。そしてその「少年」は

窓際で詩が少年の姿をして言葉を待っている

 という不思議な言い方で表現されている。「詩」が「少年」、「詩」なのに「言葉を待っている」。しかし読むと、意識は「文法」通りには動いてくれない。少年が窓際にいる。少年は言葉を待っている。少年は言葉(思っていること/感じていること)が詩になるのを待っている。その姿が「詩」のように見える。そんなふうに「詩」と「少年」がいれかわる。どちらがどちらの「比喩」なのか、区別がつかない。 
 少年が感じている「詩」は「瞬間の奥行き」と言いなおされている。そしてそれはさらに「ひそんでいる」何か、と言いなおされている。「見えている」が「知らない」と矛盾した形で表現されている。この矛盾は「詩」と「少年」の、互いが互いの「比喩」である関係に似ている。「瞬間奥行き」をどう言いなおしていいのか「知らない」が、その「奥行き」のなかに何かがひそんでいるのが「見える」。
 この「奥」と「ひそんでいる」は「詩よ」に出てきたことばを思い出させる。

まばらな木立の奥で野生の詩は
じっと身をひそめている

 「野生の詩」とは、まだひとのあいだに流布していない詩であり、言い換えると「詩」になっていないことば、「未生の詩」とも言い換えられるだろう。
 この一連目を書いているのは谷川であり、谷川は「窓際で詩が少年の姿をして言葉を待っている」のを見ている、と読むのが一般的な読み方だと思う。書かれてはないが「主語」は「谷川」であり、それを補って読むのが自然だと思う。
 しかし、二連目以下はどうだろう。

ここに生まれてきて十数年

 「十数年」は「少年」の年齢と重なる。「主語」が二連目で「少年」にかわってしまっている。一連目の「少年」は谷川の記憶にある自分自身の姿で、二連目では記憶の少年にもどってことばを動かしている、ということかもしれない。しかし、そうすると「まだ青空も白い雲も少女たちも新鮮だ」の「まだ」が不自然だ。「まだ」はあくまで「少年」ではない谷川が感じる「事実(現在との比較)」であって、「少年」にはそれが「まだ」とは言えない。谷川は十代の「少年」にもどりながら、同時に「現在の谷川(八十代)」でもある。一連目で「少年」と「詩」の区別がつかなかったように、二連目では「少年」と「現在の谷川」が入れ代わり可能の状態でまじっている。
 この二連目では「詩」は、どう書かれているだろうか。言いなおされているだろうか。「世界がここにあることが不思議」と書かれている。「不思議」とは、ことばではっきり説明できない、論理的な形で言えないということと重なる。少年には、それが不思議なのだが、人々はそうではないように少年には見える。そして「平気で生きている人々になじめない」と感じる。この「平気で生きているひと」の「平気」を言いなおすと、「ひそんでいるもに気づかない」ということになるかもしれない。人々は「世界」の「奥」に「ひそんでいる」何かが見えない。何かが「ひそんでいる」ことを知らない。たとえば「野生(の詩)」のような強い力をもったものが。だから「平気」。
 そう読んでくると、ここでやっと「詩に無関心なひと」が登場する。「小景」「二人」「同人」に登場した女のように詩に対して冷淡であったり拒絶するわけではないが、詩から離れている人々がいる。
 三連目。「これからどうなるのだろうと考える」は、「少年」が自分の人生の不安を考えていると読むこともできる。また谷川が、詩はこれからどうなるのだろうと考えていると読むことができる。さらに「少年」が詩はどうなるのだろう(瞬間の奥行きにひそんでいる何かはどうなるのだろう)と読むことができる。「少年」と「谷川」は融合して、ひとつになっているのだから。
 詩がどうなるか、その答えよりも、私はその問いの周辺で動いていることばが、とてもおもしろいと思った。
 「これからどうなるのだろうと考える」と谷川は「考える」ということばをつかっている。「胡瓜」のなかで「胡瓜をスライスしながら娘は考える」と書いたときの「考える」と同じことば。
 「考える」とは自分のことばを動かすということだった。
 三連目では「考えると/すべてがまた激しく動き始める」と書かれている。この「動き始める」は一連目の「生徒たちが静止している」と「対」になっている。だから「すべて」とは「意味」上は校庭にいる生徒になるのだが、その見えている「世界(のなかの存在)」であるだけではなく、それを把握することばそのものが動き始めるのである。
 「考える」という行為をとおして自分のことばを動かすと、自分以外のことば、世界の奥にひそんでいたことばが動き始める。このときの「世界/ことば」の変化の表現が、とても谷川らしい。

和音に乗って旋律がからだに入ってくる

 「和音」という音楽用語がつかわれている。「旋律」ということばもある。ことばが動くとき、そこに「音楽」がある。谷川のことばと他人のことばが響きあい、「和音」になり「旋律」になる。それが「からだの外」で起きる現象ではなく「からだ」のなかで起きる。「旋律がからだに入ってくる」。
 一連目の一行目で書かれていた「言葉を待っている」とは「言葉がからだに入ってくるのを待っている」だったのだ。そこから世界が始まる。世界が動く。
 「明日を畏れる」とは「未知を畏れる」(ひそんでいる何かを畏れる)であり、「未生のことば」を「畏れる」でもある。
 「他人の言葉」が「からだに入ってきて」、谷川自身のことばと結びつき、新しいことばとなって誕生する、谷川の「未生のことば」が他人のことばによって授精し、胎児になり、生まれてくる--それが詩であるということか。
 こんなふうに考えると、谷川は「定型のことば」を頻繁につかう理由もよくわかる。「定型表現」をとおして谷川は「他人のことば」と出会うのだ。「他人のことば(定型)」のなかに生き続けている力(ひそんでいる力)を借りて、詩を「妊娠」するのである。
 「畏れる」は「ありがたく思う」「大切にする」ということでもある。

 この作品は、十代の谷川が詩に出会ったときの「瞬間」を、正直に書いたものなのだ、きっと。「ことば」が「音楽」となって「からだに入ってきて」、ことばとなって出て行く。そのとき、そこに詩がある。



詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(29)

2015-05-28 09:21:42 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(29)(思潮社、2015年04月30日発行)


詩人

中指がタッチパッドの上を滑って行って
文字を捕まえる 一つまた一つ
身の回りのはしたない彼の畑から
かぼそい茸にも似た詩が生えてきている

女の子が扉を開けると男の子が入ってくる
海は大きな舌で岸を舐め続けている
人々は金に取り憑かれて歩き回っている
彼は言葉ですべてを無関心に愛する

外階段をカンカンと上がって来る足音
隠された物語が素通りしてゆく
掌の地図を辿って行き着けるだろうか
正しさに裁かれることのない国に

あらゆる厳粛を拒む軽快が詩人の身上
丘の上にまたむくむくと積乱雲が湧いて
向日葵が太陽に背いてうなだれる
女の子の部屋から男の子が出て来る

 不透明な詩である。言い換えると「論理的」ではない。「意味」が動いて行っていない。
 二連目の一行目と、四連目の最終行(詩の最終行)は「対」になっている。「女の子が扉を開けると男の子が入ってくる」「女の子の部屋から男の子が出て来る」。この変化のなかに何があるか。
 二連目。海の描写がある。ひとの描写がある。詩人の自己洞察がある。しかし、それがなぜひとつの連のなかにいっしょにあるのか、私にはわからない。
 三連目。一行目と二行目は、そこに書いてあることばを借りて言えば「物語」を感じさせる。しかし、そのことばは「物語」を通り越してしまう。「階段」は「掌の地図」ということばをとおって、「肉体」から「肉体の内部」へ動いてゆく。この展開が、この詩のなかではいちばん刺激的である。「肉体の内部」で「正しさ」とか「裁く」とか、精神的なことばが動く。具象から、抽象へ。この変化が「意味」につながる。
 四連目。しかし、谷川は、その「意味」を「あらゆる厳粛を拒む」という「意味」でこわしてしまう。「意味」を破壊して「軽快」になる。そして「積乱雲」「向日葵」という夏の描写に変わる。
 こうしたことが女の子の部屋へ男の子が入って行って、再び出て来るという「区切り」なのかで動く。
 この三連の世界が、一連目で書かれている「かぼそい茸にも似た詩」になるのか。

 わからない。わかるのは、私自身の「嗜好」である。私は「一連」と「他の三連」を「対」にして、一連目の「詩」ということばを残りの三連で言いなおしていると読みたい。さらに二連目の一行目と最終連の最終行を「対」にして、そのなかに世界を閉じ込めたい。「意味」を「対」の構造から探したい。--谷川が何を書いているかを読むというよりも、谷川のことばに触れながら、私は私のことばがどんなふうに動いているのかを点検し、私のことばは「論理」を捏造する癖があるということを知る。
 私はさらに「海は大きな舌で岸を舐め続けている」と「丘の上にまたむくむくと積乱雲が湧いて/向日葵が太陽に背いてうなだれる」を「対」にして、そこに「夏の思い出(夏の時間)」が書かれているという具合に「論理」を捏造する。あの夏、谷川は「男の子」だった。そして「女の子」の部屋へ入って行って、そこから出てきた。女の子の部屋には「外階段」がある。そこを上っていった。そこには「男の子」と「女の子」の「物語」があるのだが、谷川はそれを隠している。
 あるいは「物語」を「掌の地図を辿って行き着ける」ということのなかに結晶させている。「正しさに裁かれることのない」という表現で、その「物語」が「正しさ」とは違うものであるということを暗示している。
 この「暗示」のなかへさらに踏み込んでゆけば、「物語」は長篇小説になるかもしれない。つまり「意味」が深く、重くなる。「物語」のなかで展開する事件に自分自身の「肉体」を重ねながら、掌の地図を読むように、自分の「内部」へ「内部」へと入り込み、そこから「意識/精神」というものを捏造し、その捏造した「意味」に酔うということが起きるかもしれない。
 私は、そこに書かれていることばを無視して、そのことばを自分の都合にあわせて「意味」を捏造するという癖がある。

 詩を読むとは、他人のことばを読むを通り越して、自分自身とことばの関係を洗い直すことなのかもしれない。
 「意味」が不透明なときほど、こういうことが起きる。

 こんな詩の感想は書きたくないなあ。
 こんな詩を詩集に組み込むなんて、谷川は意地悪だなあ、と思う。
 これでは谷川の『詩に就いて』の「分析/論」ではなく、自分をさらけだすことになる。
 そう仕向けるのが、詩?




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(28)

2015-05-27 09:25:54 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(28)(思潮社、2015年04月30日発行)


胡瓜

希望から絶望までの荒れ野を
詩人たちは思い思いに旅していた
中には絶望駅から希望駅行きの急行に
身一つで飛び乗る奴もいて
駅に着いたらポケットから詩を取り出して
街頭で売ったりしている
それを買ったお人よしの娘は
初めて詩というものに触れたものだから
そのつまらなさに耐えることを
偽善であるとはさらさら思わずに
惚けた母の夕食の支度に忙しい

胡瓜をスライスしながら娘は考える
詩人たちは胡瓜という存在を
知識ではなく直観で捉えるというが
そんなことが可能なのだろうか
大切な<how to live >という命題と
それはどう関わることになるのだろうか
詩を売った奴はそんなこと我関せずで
紙と鉛筆の領地を我がもの顔で歩き回り
昨日と明日の谷間の今日
道路で騒いでいる子供らの心を
弾む言葉ででっちあげている

 「三つ目の章」の詩は手ごわい。ことばをつなぐ「論理」があるのか、ないのか、よくわからない。
 「詩」とは「無関係」な女が出てくるという点では、この作品は「小景」「二人」に似ている。しかし、違う。この作品の「娘」は「初めて詩というものに触れた」。
 「一つ目の章」では「詩に就いての総論」、「二つ目の章」では「詩とことばの関係」、「三つ目の章」では「詩を認めないひとと詩の関係」が書かれているのだろうか。

 書き出しの「希望/絶望」の「対」の描き方は、かけ離れたものをことばでつなぐことで、ことばが活性化するという「詩の定型」を踏まえている。「急行」というのは、もう遠距離を結ぶ電車/列車にはないかもしれない。でも「特急」では急ぎすぎていて「詩の定型」から外れてしまうかもしれない。だから、この「急行」ということばの選び方も「詩の定型」といえるかもしれない。
 おもしろいのは、詩に初めて触れた娘の反応。

そのつまらなさに耐えることを
偽善であるとはさらさら思わずに
惚けた母の夕食の支度に忙しい

 「偽善」とは何だろう。
 娘は詩をつまらない(わからない)と感じ、それ以上ことばにはつきあわなかった。夕食の支度に忙しかった。ことばよりも現実の方が大事だったということか。そうならば娘は「正直」なのである。「わからない(つまらない)」ものを「わかったふり」で受け入れなかったということ。
 ここで「偽善」ということばが出てくるのは、谷川が「詩がわかる」というひとを「偽善者」と見ているということだろうか。「わからない/つまらない」のが詩なのに、と思っているのかな?
 「偽善」の意味というよりも、「つかい方」が、よくわからない。

 つまらなさ(わからなさ)を、二連目で、娘は言いなおしている。

胡瓜をスライスしながら娘は考える
詩人たちは胡瓜という存在を
知識ではなく直観で捉えるというが
そんなことが可能なのだろうか
大切な<how to live >という命題と
それはどう関わることになるのだろうか

 娘は詩を「定義」して「大切な<how to live >という命題」に「関わる」ものと言っている。夕食をつくる娘にとって「胡瓜」はどうやって刻むかということが問題だ。どの大きさなら母親が食べやすいか。それは「知識」とも「直観」とも関係ないなあ。
 この作品では、谷川は「娘」になって、詩と向き合っている。
 どうやって生きるか、どうやっていのちをととのえるか、そういうことと無関係なことばの運動というものなどに「耐えて」つきあう必要はない。

 こういう読み方でいいのか……。

 どう読んでいいのか、私にはよくわからないが、この詩のなかで私が関心をもったのは、「偽善であるとはさらさら思わずに」と「胡瓜をスライスしながら娘は考える」の「思う」と「考える」の違いである。
 「思う」と「考える」は似たことばだが、微妙に違う。娘は「思う」から「考える」へとことばの動かし方を変えている。
 最初(一連目)では「詩(書かれていることば)はつまらない」と「思った」。二連目では、「詩(書かれていることば)」が人生の命題とどう関わるのか、それを自分の問題として動かしている。
 「詩(書かれたことば)」は他人のもの(詩人のもの)だが、それを読んだ瞬間から他人のもの(詩人のもの)ではなくなる。自分の「ことば」として向き合わなければならない。そのことばをどう動かしていくか。自分のことばを実際に動かすことが「考える」。ことばと「考え」を一致させるために、両方をととのえるのが「考える」。「思う」は「間が刈る」ほどには、ことばを動かさない。一致かなくてもいい状態、ことばになりきれないものを含んでいる状態が「思う」ということだろうか。

 ここには明確な形で肯定も否定も書かれていないが、私には、谷川が娘の態度を肯定しいるように感じられる。
 少なくとも娘は「言葉」で何かを「でっちあげ」ようとはしていない。存在しないものを作り上げるのではなく、存在していることをことばでとらえなおそうとしている。存在とことばをかかわらせようとしている。「考える」ということをしている。
 胡瓜をスライスすることは、ことばとしてととのえられていないありふれた行為だが、そのことばになっていない(ことばにする必要がない)ことのなかに、ほんとうはことばが動いている。「思う」ともまた違うことばの動きがある。ことばは「肉体」そのものとなって、そこにある。胡瓜をスライスするときの、ととのえられた「肉体」の動きは、「肉体の考え」である。「肉体」が「考えている」。「動き」をととのえて、いまの動かし方になっている。そのとき、包丁もまな板も、そして娘の手も、きっと詩なのだ。胡瓜をスライスする「肉体の詩」なのだ。「胡瓜という存在を/知識ではなく直観で捉える」というかわりに、「肉体」のなかに鍛えてきた「動き」そのものを動かしている。そこには「偽善」はない。「いつわり」がない。「正直」がある。正直な「考え方(考える力)」、習い、学びとった「力」がある。

 この胡瓜をスライスする娘の「肉体の詩」に比べると、「同人」に出てきた「詩を言葉から解放したい」「あれが詩よ 書かなくていいのよ」は、「詩の真実」を語っているようで、「偽り」かもしれない。詩人は「偽り」をいう人間のことかもしれない。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(27)

2015-05-26 09:12:31 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(27)(思潮社、2015年04月30日発行)


同人

詩をことばから解放したい
と彼女は言う
漂白されたような顔で
じゃ踊れば?と私は言う
肉体は恥ずかしいと彼女
都合よく大空を雁が渡って行く
あれが詩よ 書かなくていいのよ
書くと失われるものがあるのは確かだが
草の上にシートを敷いて二人は寝転がっている
他の同人たちは下の川に釣りに行っている

天から見れば私たちは点景人物
誰が描いた絵なんだろう この世界は
型通りの発想も時には詩を補強する
結局言葉なのね 何をするにも
唇は語るためだけにあるんじゃない
まだお握り残ってるわよ
食べるためだけにある訳でもない
愛でもっともすばらしいものは口づけ……
とトーマス・マンは書いている
おおい!と誰かが下から呼んでる

 「小景」「二人」「同人」と三篇、女と男(私/詩人/谷川?)の「やりとり」が書かれている。「小景」「二人」の女は詩は書いていないようにみえる。「同人」の女は詩を書いている、ように見える。谷川が若い時代、「櫂」で他の仲間といっしょに詩を書いていた時代に体験したことを思い出して書いているのかもしれない。
 詩を書きながら、女は「詩を言葉から解放したい」という夢を持っている。「書かなくていい」ものが詩であると、言いたい。これに対して、谷川は「書くと失われるものがあるのは確かだが」という形で、女のことばを半分受け入れながら、違うことを考えている。谷川の考えは明確には書かれていないが、「……は確かだが」というのは、その意見に対して「態度保留」という感じの部分がある。
 谷川は、谷川が詩だと思っているものと、他人が詩と思っているものの違いから、詩を定義しようとしているのだろう。
 女は「詩は言葉ではない(書かなくていい)」と考えている。「私」は、明確には書いていないのだが「詩は言葉である」と考えている。ただし「未生の言葉」(まだはっきりとした形になっていない言葉)と考えている。
 少し強引な「論理」になるかもしれないが、そのことを私は、二連目の

型通りの発想も時には詩を補強する

 という一行に読み取る。
 「型通りの発想」とは「定型」のことである。「既成の言葉」「表現として確立された言葉」。ふつうは、そういうことばを「詩ではない」と否定するのが、谷川は否定しない。それは「詩=未生の言葉」を「補強する」。
 どんなことばも、それひとつだけでは自立しない。動かない。ほかのことばに支えられながら、動きはじめ、他の力を借りて「生まれてくる」。既成のことばから動き方を学びながら、その既成を超えるものを手探りで探し出す。
 それは見つけられないかもしれない。
 けれど、「未生の言葉」を見つけようとする「動き(欲望/本能)」が詩である。
 
 「型通り(定型)」は「都合がいい」。一連目に「都合よく大空を雁が渡って行く」という行があるが、ことばではなく「大空を渡る雁」という「存在」が詩であるというのも、一種の「詩の感覚」の「定義」にあっている。「定型」のひとつである。「都合」にあわせられるのが「定型」というものなのか、「定型」だから「都合」がいいのか、わからないが、それは、ほとんど同じものである。既成の「美」が、「いま/不安定」なことばにならないものを、ことばへ向けて動かしてくれる。
 二連目では、「定型」はもっと明確に「既成のことば」そのままに引用されている。トーマス・マンの「愛でもっともすばらしいものは口づけ……」。その「定型」を通って、谷川は「未生の言葉」を動かそうとしている。トーマス・マンのことばに接続する形で、それを乗り越える(切断していく)ことを夢見ている。そこに、詩がある、と思っている。
 最後は、しかし、その「未生の言葉」を誕生させるのではなく、別なことばで、それまでの「世界」を叩き壊し、解放する。

おおい!と誰かが下から呼んでる

 呼んだ誰かは「同人」仲間なのだが、彼は、谷川と女が詩とことばについて「やりとり」していたことを知らない。そういう「やりとり」を叩き壊して、無関係に、呼んでいる。
 この「無関係」は「無意味」ということでもある。
 「無意味」にこそ詩がある、という谷川の哲学がここにあらわれている。
 「無意味」という点、自分たちとは無関係な「存在」という「意味」では、それは「大空を渡っていく雁」と同じものである。
 これを「都合よく」と読んでしまうと、この形式が谷川の詩の「定型」になってしまうが……。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(26)

2015-05-25 09:27:35 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(26)(思潮社、2015年04月30日発行)


二人

世界を詩でしか考えない人は苦手
なんだか楽しそうに女は言う
手には濃いめのハイボール
背後の本棚には詩集が目白押し

株価だけで考える人生も悪くないかも
詩を書いている男が言いかけて
こんなやりとりは三文小説みたいだ
と心の中で思っている

この二人は若いころ夫婦だった
女にとっては詩はもう思い出でしかない
男にとってそれは余生そのもの
猫が迷わずに女の膝に乗る

詩集は捨てないの?女が訊く
捨てるくらいなら焚書にすると男
似ても焼いても食えないものが残る
それが詩だと言いたいのね

 詩を大事にする男と、詩に関心がなくなった女。
 三連目で、私はつまずいた。
 「この二人は若いころ夫婦だった/女にとっては詩はもう思い出でしかない」は「若いころ(過去)」と「思い出(過去)」が重なるので、「詩は過去の思い出」と「意味(論理)」が自然に動くのだが、そのあと

男にとってそれは余生そのもの

 この行の「それ」につまずいた。「それ」はよく読めば「詩」を指していることがわかるのだが、「若いころ(過去)」ということばが邪魔をして「余生」と結びつかない。「若いころ」が「余生」というのは非論理的である。
 これはもちろん私の読み方が間違っていて、谷川は、ここでは「それ(詩)」を「若いころ」とは結びつけていない。過去とは切り離して「詩」というものを単独で考えている。「いま」ここにある「詩」。「いま=詩」と考えて、その「いま」を「余生」と呼んでいる。あるいは「未来=詩」という考えも成り立つけれど、いずれにしろ「過去(若いころ)」とは関係なのない「詩」なのである。
 これは何でもないこと、「文法」にしたがって読めば自然にわかることなのかもしれないが、私はびっくりしてしまった。
 谷川は詩と過去を結びつけて考えたことがないのだ、きっと。谷川にとって「過去の詩」というものはないのだ。
 四連目で女が「詩集は捨てないの?」と訊く。これは、「過去(古い詩集)は捨てないの?」という意味でもある。一連目に出てくる本棚の詩集も、きっと「古い詩集(過去の詩集)」である。きのう出版された詩集であっても、それはすでに「過去」に属する詩集である。
 もし詩が(詩集がではない)「過去」のものならば、それは捨てても問題はないだろう。けれど、詩が「生きている」ものなら、「いま」も生きているものなら、それは捨てることはできない。「焚書」とは「火葬」である。そこまでしないと、詩は生き続ける。捨てても、生き続ける。
 この詩への信頼に、私は、たじろいでしまった。

 「余生」というのは「意味」としては、「残りの人生。老後の生涯」(広辞苑)になるが、谷川は、そういう「意味」ではつかっていない。あくまで「いま」という感じでつかっているように思える。
 「若いころ(過去)」ということばを考えると、「余生」は「いま」よりも「これからの時間(未来)」と考える方が「論理的」だし、「辞書の意味」にも合致するけれど、「詩=未来」ならば、それはこれから生まれてくるのだから「過去」は捨ててもかまわないだろう。「いま」だから、「生きているこの世」だからこそ、それが捨てられないのだ。
 もちろん、詩には過去はない。どんな詩も未来のものであるという「論理」も可能なのだけれど、「未来」と考えると「余生」の「余」の「意味」となじまない。これは私の「感覚の意見」なので、かなり「強引」な「論理」になるが、「余」は「余分/余剰」。「未来」が「余分/余剰」というのは、「他人の人生」を含めて考えるとき、何か「暴言」という感じがするのである。
 私は「余生」を「余分/余剰の生(いま)」と考えたい。ハムレットの「to be or not to be」は「生きるべきか、死ぬべきか」と訳されることがある。「be」は「いのち/いま」と結びついている。その「生」としての「動詞」の「いま」。「いま」にはいろいろいなものが動いている。制御できないもの、自分の邪魔をするものも含まれている。「余剰/余分」がからみあっている。
 その「余剰/余分」と重なるものを、谷川は「詩」と呼んでいるように、私には思える。
 自分のいのちを超えてあふれだす「余剰/余分」の「いま」。それが、詩。
 この作品に即して言えば、女と男(谷川)が会話している。その二人の「やりとり」には「意味」がある。同時に、「やりとり」の「意味」以外にも存在するものがある。ことば/声にならなかった「思い」が、ことばにならないまま、「未生のことば」として行間に生きている。その「余分なもの/余剰のもの」、それが詩であると感じる。
 谷川は「いま」を「余剰/余分」を含んだものにするために、つまり「いま」の枠を突き破り、いのちをあふれさせる(解放する)ために、詩を書いていると言える。
 これが谷川の「生き方」なのだ。
 「余剰/余分」だからこそ、「似ても焼いても食えないもの」とも呼ばれるのである。



詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(25)

2015-05-24 19:06:53 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(25)(思潮社、2015年04月30日発行)


小景

テラスのテーブルに
チャイのポットと苺が出ている
古風な静物画のような構図
音楽は言葉を待たずに
キャベツ畑を渡っていく
音楽がどこへ行くのか気になって
言葉は立ち止まってしまう

「詩みたいなものを書いた」と男が言う
「やめてよ」と女
気まずい沈黙が詩とかくれんぼしている
「どこだっけここは」男が言う
「知らない」と女
言葉はみな意味に疲れ果てている
部屋の奥で着信音が小さく鳴った

 この作品から三つ目の章になる。
 いままで読んできた作品と大きく違う点がある。女が登場し、男と対話している。登場人物が二人いて、「対話」している。ひととひとの哄笑がある。
 「朝」にも「私の「おはよう」に無言の微笑が返ってきて」という一行があり、そこにも「対話」があると言えば言えるけれど、その「対話」は「小景」のように「対立」していない。
 「小景」では「対話」が「対立」している。逆なことばで言えば「調和していない」。「朝」の「無言の微笑」は「調和」である。
 音楽に「不協和音」という言い方があるが、谷川がこの詩で書いているのは「不協和音」のようなものかもしれない。ふつうとは違う和音。ことばの響きあい。
 そのとき、そこに「詩」は存在しているのか。
 男は詩を書き、女は詩を拒絶している。このとき、詩は存在しているのか。それとも存在していないことになるのか。存在しているけれど、それが拒絶されているだけなのか。詩人と詩人ではないひとが対話し、その対話のなかで詩が否定されたとき(拒絶されたとき)、詩人は、どういう存在なのだろう。否定されても詩人か、それとも詩人ではなくなるのか。詩はそのとき「どこにある」のか。

 最初から読み直してみる。
 一連目は、いわゆる「詩」である。二連目で男が「詩みたいなものを書いた」と言うが、その「詩みたいなもの」が指しているのは一連目である。
 「テラス」「テーブル」が出てくるので、思わず詩集の巻頭の「隙間」を思い出してしまう。「詩の靄らしい」ものが「うっすら漂っている」光景は、「小景」の世界を先取りしていっているような気がする。それくらい、一連目は「詩っぽい」(詩みたいなもの)。「古風な静物画のような構図」と谷川が書いているが、「構図」が「詩っぽい」。さらに「音楽は言葉を待たずに/キャベツ畑を渡っていく」が谷川の「音楽好き」をそのまま浮かび上がらせて、とても「詩っぽい」。「言葉を待たずに」と「言葉」が無視されているのも詩を逆手にとって(ことばを突き放すことによって)、より深い詩を感じさせる。「言葉が存在しない」ときに「詩」がいちばん美しい形で存在する。また、「音楽がどこへ行くのか気になって/言葉は立ち止まってしまう」という保留の感じ、ためらっている感じが、感情が肉体のなかにたまってくるようで、おもしろい。最初から最後まで、すべてのことばが「詩」になっている。
 これを男は「詩みたいなもの」と言う。「詩」と断定していない。なぜだろう。「謙遜」か。あるいは、詩は読まれてこそ、誰かにとどいてこそ詩であって、それまでは「詩みたいなもの」に過ぎないということか。
 これに対して女は「やめてよ」と言う。それを私に読ませる(聞かせる)のはやめて、という意味だろう。女は男が書いた「ことば」を受け取ることを拒絶している。
 ここが、微妙だ。
 女は「ことば」を拒絶したから、「詩みたいなもの」がどんなものか知らない。けれど、男(谷川?)は知っている。また、この作品を読んでいる私も知っている。女のところまではとどかず、立ち止まってしまったことばを知っている。一連目の最後の部分と微妙に重なる。「対」になる。
 詩(詩みたいなもの)は男と読者の意識(内部)には存在する。しかし女がそのことばを拒絶したために、男の「外部」には存在しない(ことに、この詩ではなっている)。
 これは谷川がつかうことばを借りて言えば、「未生のことば」が生まれようとするのを、反対側(?)から見つめたような感じだ。
 「言葉」はもう「未生」のものではない。けれど、それは女が拒絶したために「外部」に「生まれ出る」わけにはかいかない。しかし、引き返そうにも、引き返せない。「未生の言葉」にはもどれない。「言葉は立ち止まってしまう」。
 こういうことを、谷川は

気まずい沈黙が詩とかくれんぼしている

 と書いている。魅力的で、刺激的で、ことばを誘われる。この行について何か書きたい、という欲望を刺戟される。
 「沈黙」の奥に「詩」が隠れているのではない。
 「沈黙」と「詩」が、対等の感じで「かくれんぼ」している。互いが「鬼」であり、互いが「子」である。「対」になっていないと「かくれんぼ」は成立しない。
 「未生のことば」は「未生」であるけれど、そこに存在しているということが意識されないかぎりは「未生のことば」ではない。意識される(感じがある)けれど、それが「外部」に形となって出て来ないのが「未生」という状態。「胎児」のようなものだ。「生きている」、存在している。けれど「外部」に出てきて「自立」しているわけではない。
 このとき「詩みたいなもの(未生のことば)」は男のものだが、「沈黙」はだれのものだろう。男のもの? 女のもの? それとも男と女のあいだにあるもの? だれのものでもなく、もうひとつの「未生のことば」のように存在している。「沈黙」自体が「未生のことば」となって、それが「詩みたいなもの(未生のことば)」と響きあっている。
 これが、この作品の「不協和音」だ。
 「ふつうの和音」(?)は一連目。「詩(みたいなもの)」。世界がことばとなって表出され、そのことばが互いに響きあって、テラスの情景を描き出している。そこには、そこにいるひとの「感情(情緒)」が反映されている。そこにも「沈黙」はあるだろうけれど、その「沈黙」はことばによって静かにととのえられている。あるいは「沈黙」は、生まれてくることばが美しく響くように、沈黙自身をととのえている。
 けれど二連目では「沈黙」と「詩」がぶつかりあって、「ことば」を沈黙させ、「沈黙」をざわつかせる。「詩」が聞こえず、「沈黙」が聞こえる。会話は声にならないまま、男と女の肉体のなかでざわめいている。その「声にならない沈黙」は一連目の「言葉」のように立ち止まりはしない。「沈黙」は自己主張して、詩が隠れたままでいるようにしている。出てきたら(見つけたら)、つかまえてしまうぞ、と騒いでいる。
 どうすればいいのだろう。
 男の方は隠れつづけていることが退屈になって出て行く子どものように、わざと自分の姿をあらわすのだが、女の方はかくれんぼをしていたことさえ否定するように知らん顔をしてしまう。「沈黙」で男と「詩(みたいなもの)」を圧倒してしまう。

「どこだっけここは」男が言う
「知らない」と女

 高等な駆け引き、「人事」。
 それは、しかし、こんなふうに書かれてしまうと、それはそれで「詩」として姿をもってしまう。「不協和音」が「和音」の位置を締めてしまう。つまり、「描写/情景」としてはっきり読者に迫っている。こういう「対立」(気まずさ)のようなものを、架空のものとしてではなく、自分の「肉体」が覚えていることとして思い出すことができる。
 この不思議な手触り、「現実感」をつたえることばに比較すると、一連目は「絵空事(詩みたいなもの)」になってしまう。二連目が「詩」であり、一連目は「空想」になってしまう。
 「不協和音」は「リアリティ」を別なことばで言ったもののよう思えてくる。忘れていた「リアリティ」が動くので、それを「事実」と思い、そこに「ほんとうの詩/詩のほんとう」を感じてしまう。

 この「不協和音」を谷川は、別な表現で言いなおしている。

言葉はみな意味に疲れ果てている

 「意味」が「不協和音」である。「意味」が引き起こす「疲れ」が「不協和音」である。「どこだっけここは」は「意味」である。それが「どこ」であろうと、そういうことと無関係に人間はすでにそこに存在している。「知らない」も「意味」である。どこであろうと人間は存在していると言うこと自体が「意味」なのだ。
 「詩みたいなもの」にも「意味」がある。「意味」をつたえようとして(あるいは、世界はこういうふうに見れば美しいという「意味/見方」をつたえようとして)書かれている。そこにはととのえられた「意味」がある。
 そういう「意味」に女は疲れ、疲れている女を見ることに男は疲れている、という「意味」がさらに加わるかもしれない。

 最後の一行は、それまでのことばとは無関係である。つまり「無意味」な一行である。「意味」から解放されているがゆえに、その一行こそがこの作品では「詩」として存在していることになる。
 騒がしい「不協和音」に向き合って、「小さく鳴った」その音。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(24)

2015-05-23 09:10:40 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(24)(思潮社、2015年04月30日発行)


木と詩

 木というこの言葉が、目の前の現実のこの木とは似ても似つかない、と知り
ながら、私たちが言葉で目指すものは何だろう。木は私たちの外部に存在して
いるのだが、それを木と呼んだときから、木は私たちの内部にも存在する。
 では、木ではなく詩だったらどうか。詩というこの言葉が、目の前の現実の
この詩とは似ても似つかないということはあるだろうか。しばしばあると私は、
いや私でなくても断言する人は多いだろう。
 木は木という言葉に近づこうなどとは思っていないが、詩は詩という言葉に
近づこうとして日夜研鑽に励んでいる、のは私に限らない。詩という言葉と、
木という言葉はどうしてこうも違うのだろうか。
 しかし木が詩になることがある。言葉というもののおかげで、それが可能に
なるのだ。詩になることで木は倒れ朽ち果てたあとも、記憶に残る。しかしそ
れは絵や写真として残った木とはまた違っていて、本物の木とは似ても似つか
ないからこそ言葉上の木になっているのだ。
 木と詩、事実の世界では全く違う二つの存在が、人間の心の世界では相即の
関係にある。詩もまたそこで生まれる。

 散文で書かれている。テーマは「言葉とは何か」、あるいは「言葉と詩の関係はどこにあるか」。木を媒介にして、そのことが考えられている。「木という言葉/言葉の木」「木という現実/現実の木」。「現実の木」は「私たちの外部に存在する木」、「言葉の木」は「内部に存在する木」と言い換えられている。「内部」とは「意識」でもある。「外部=現実」「内部(意識)=言葉」という「対」が第一段落で書かれている。
 これが第二段落では、「木」を「詩」に置き換えて、考え直されている。「現実の詩=外部に存在する既成の詩」と「内部の詩=私が詩と思っているもの(意識が理想とする詩)」が対比され、それは「似ても似つかない」という「考え」で整理し直されている。
 第一段落では、「現実の木(外部に存在する木)」と「言葉の木(内部に存在する木)」は「似ても似つかない」と断定的に書かれている。「似ても似つかない」と「知っている」と書かれている。第二段落では「現実の詩=外部に存在する既成の詩」と「内部の詩=私が詩と思っているもの」が「似ても似つかない」ことも「しばしば」ある、と書かれている。ということは「似ている」ということも、ありうるということだ。
 この微妙な「違い」の方へ、谷川は思考を動かしていく。「詩」の方に寄り添うようにして、「現実の詩=外部に存在する既成の詩(書いてしまった詩)」と「内部の詩=私が詩と思っているもの」が「似ても似つかない」とき、その「似つかない」ものを修正し、「内部の詩=私が詩と思っているもの」に近づこうと「研鑽する」。「書いてしまった詩」を「意識が理想とする詩」に近づけようと推敲する。「詩」というものが「私の内部」で動くのに対して、「木」というものは「私の内部」とは無関係な「外部」に最初から存在しているので、「近づく」ということがない。
 動く(近づく)のは、あくまで「言葉(意識=内部)」の「述語」であって、「木」の「述語」ではないのだ。
 「木が詩になる」とは「現実の木」に対して「言葉(意識=内部)」が近づいてゆき、近づく力で「木」を「人間の内部」に取り込み、「木」そのものに育てる。「現実の木/外部の木」はそこにあるだけだが「内部の木」は「言葉」が近づくこと、「言葉」で描写すること、その運動の中で「木」そのものを少しずつととのえ、ととのえることで「内部の木(意識の木)は「木」らしく(木に似たものとして)「育つ」。「外部の木」と「木と思っているもの/こと」が「言葉」のなかで重なり、それが「内部で木になる」。何が「木になる」かといえば「(私が)思っていること」が「木になる」。だから、それは「私が木になる」ということでもある。「木が詩になる」とは「木が私になる/私が木になる」がしっかり結びついて、区別がつかない状態のことである。「木が私/私が木」であるからこそ、それは「記憶(肉体の内部)」に「残る」。それは写真や絵と違って「現実の木」とは「似ても似つかない」からこそ詩(言葉上の木)になっている。
 この「木が私/私が木」のことを谷川は「相即」と呼んでいる。「木即私/私即木」ということが起きているのが「詩」であると言っている。詩は「木即私/私即木」という「場」で「生まれる」と言っている。
 この考え方は、私にはとてもよくわかる。というか、とても納得できる。私は「木即私/私即木」という「一元論」こそが詩であると感じはじめていて、それを何とか自分のことばで言いなおしたい、と思いつづけている。だから、これは私の「誤読」からもしれない。自分の言いたいことを言うために、谷川の詩から自分の考えに都合のいいところだけを抜き出して利用しているだけかもしれないのだ。
 また、この詩集を読みはじめたとき(最初に「あとがき」について触れたとき)、「詩に就いて」の「就いて」は「即」かもしれないと書いたが、いまこの詩を読みながら、あ、やっぱりそうなのだと確信したのだ。「あとがき」に触れたとき、私はまだこの詩を読んでいなかった。谷川は「ついて」と書かずに「就いて」と書く。その「漢字」のなかに「即」がひそんでいる。その予感が、この詩を読んで「的中した」という感じだ。だが、だからこそ、私はまた、これは「強引な誤読」とも感じる。こんなに都合よく私がうすうす感じていたのと同じ「即」が出てくるのは、どこかで私が間違っているのだとも思う。
 「論理」というのはいつでも「自分勝手」というか、「自分の都合」にあわせて「事実」をねじまげていく。ねじまげた「こと」を「事実」と信じ込んでしまう。「脳(頭)」は自分自身に対して「嘘」をつく。都合のいい「現実」をつくりあげる。

 こんなこと、私がいま書いていることを信じてはいけない、と私の直観は言う。

 だから、違うことを書いてみる。私はいま谷川の「論理」を追ってきて、それは私の考えている「一元論」の「詩論(?)」をそのまま代弁してくれているように感じ、また、そう呼んでしまい、酔ったような気分になってしまったが……。
 その「論理」を追う前、私は谷川のことばに激しくつまずいたところがある。

 木というこの言葉が、目の前の現実のこの木とは似ても似つかない、

 そうなのだろうか。
 私は実は「木という言葉」と「現実の木」が「似ても似つかない」とは、自分からは意識したことがない。谷川がそういうので、確かに「木という言葉」には木の形、色、匂い、手触り、音(風に揺れたり、叩いたりしたときにでる音)、味(葉っぱを齧ったときに感じる)がないと思う。しかし、そういうことを言えば「絵や写真」にしても同じである。絵や写真は「形/色」を「似ている」ものとして表現しているが、それを「似ている」と勘違いするのは人間だけかもしれない。猿は絵に描いた木に上ろうとするだろうか。犬においかけられた猫は写真の木を攀じ登るだろうか。そんなことは、とうていありえない。そうだとすると、絵や写真の木も、一種の「言葉」であって、人間がかってに「内部」に存在させているものに過ぎない。絵や写真の木はたいていは現実の木よりも小さい。それを私たちは勝手に拡大して、現実の木を想像している。それは「木という言葉」を聞いて現実の木を想像するのと差がない。「視覚」に頼って木を想像するかどうかの違いがあるだけだ。
 ここで踏み止まって、「ことば」とは何かということを考え直さないといけない。きっと、ここに「つまずきの石」がある。

 余分なことを、もうひとつ書いておく。
 私は何度か谷川は「定型」からことばを動かしはじめると書いたことがある。この詩でも、

 木というこの言葉が、目の前の現実のこの木とは似ても似つかない、と知り
ながら、

 というのは「定型」である。「木という言葉」は、絵や写真のように「現実の木」とは似ても似つかない。「形」が似ても似つかない。「似る」という「動詞」を考えるとき、多くの人は「視覚」で「似る」を判断してしまう。音が似ている、匂いが似ている、味が似ているという表現もあるはずなのに、「現実の木とは似ても似つかない」と聞いた瞬間に「視覚」を動かして、谷川のことばを信じてしまう。私たちが情報の多くを「視覚」に頼っている証拠である。谷川は、こういう人間の認識の「定型」をすばやく掴み取って利用する。
 ただし、その「定型」をそのまま動かしつづけるのではなく、それを途中で叩き壊して別なところへ動いていく。この詩も「形」が「似ても似つかない」と出発しながら、「形」を超えた次元で「相即」ということばを動かしている。
 だから、感動してしまう。
 この感動の中にとどまれば、それは詩を楽しむことになる。
 この感動が人間とどんな関係にあるか、この感動が人間をどんなふうに動かし、ととのえていくのかを考えるとき、それは詩の「批評」になる。





詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(23)

2015-05-22 09:26:10 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(23)(思潮社、2015年04月30日発行)


脱ぐ

服を脱いで
あなたは裸になる
裸を脱いで
あなたはあなたになる
野良猫があなたを見つめる

あなたを脱いで
あなたはいなくなるが
それは言葉の上だけのこと
栃の木の葉が風に散っている

言葉を脱いでもあなたはいる
そんなあなたを呼ぶのは詩
渚で蛤が息をしている

脱ぎ捨てられた言葉をかき集めて
詩が思いがけないあなたになる

あなたはセーターを脱ぐ

 この作品でも「言葉」は「表現」と同じ意味をもっている。二連目の「言葉」を「表現」と置き換えてみると、そのことがよくわかる。

あなたを脱いで
あなたはいなくなるが
それは「表現」の上だけのこと

 「あなたを脱ぐ」ということがすでに「表現」である。「ことば」だけで可能なことであり、現実に「あなた」が「あなた」を「脱ぐ」というようなことは、そのままでは実行できない。その「実行」というのは、一連目の「服を脱いで/あなたは裸になる」との比較でいうのだが……。
 
 最初から読んでみる。「服を脱いで/あなたは裸になる」というのは「表現」であると同時に、現実にそういうことができる「事実」でもある。「裸」というのは「肉体」であり、その「肉体」は表面上は何も「隠していない」。「裸」ということばは「肉体」をあらわすと同時に、「裸=隠さない」という「表現/ものの見方」としても「定型」的につかわれる。
 この「定型」を利用して、「裸を脱いで/あなたはあなたになる」とことばがつづけられるとき、私たちは「肉体」が隠しているものを脱いで、その「奥」に存在するものを「見せる」という動きを感じ取る。「裸」を脱いだあとの「あなた」は「肉体」ではなく、「肉体」の奥の「精神/感情」ということになる。「裸の肉体の裸を脱いで/あなたは裸の精神としてのあなたになる」。「裸の下」に隠れている、目に見えない「こころ/魂」としての「あなた」を見せる。むき出しの「あなた」に「なる」。
 ここからさらに「あなた(精神/感情/こころ/魂)」を脱ぎさることはできるか。「精神/感情をあらわす「定型の言葉」を脱ぎ捨てる、「無心」になる。「無心」とは、ある意味では「心」が「ない」と同時に「あなた」がないということでもある。「心=ひと」という「論理」にもとづけば。
 でも、こうしたことは、あくまでも「表現」の上だけのことである。「表現」として、そう言いうる。そう考えることができる。「表現」は「ものの見方」であり「考え方」でもある。「考え」というものは「ある」ものだけではなく、「ない」についても考えることができるので、なんだか、ややこしい。「矛盾」のようなものが、どこかで動き、人間をつまずかせる。
 それで、三連目「言葉を脱いでもあなたはいる」ということになるのだが、これは「表現(ものの見方)」を捨て去って「無心」になったとしても「無心のあなた」がいるということか。そして、その「無心のあなた」を「詩が呼ぶ」と「論理」を進めていくと、なんだかかっこいいのだが、かっこよすぎてうさんくさい。
 また「言葉(表現=精神、感情の存在形式)を脱いでも、今度は逆に肉体(もの)そのもののあなたはいる(肉体がそこにある)」。精神/感情をもたない無意味な存在(人間の価値は精神や感情の価値として語られることが多い)、いわゆる「無意味な肉体」の、その「無意味」が詩を呼ぶ。詩は無意味。肉体の無意味と詩の無意味が共鳴して、世界が始まる。--あ、これもかっこよすぎる。うさんくさい。

 少し引き返す。「言葉を脱いでもあなたはいる」。三連目で「あなた」は「いる」という「述語」で描写されているが、それまでは「あなたは裸になる」「あなたはあなたになる」「あなたはいなくなる」と「なる」という「動詞」で描写されていた。
 「なる」と「いる」は違う。「いる」は「ある」とも言いなおすことができる。けれど「なる」をそのまま「ある」とは言いなおせない。
 「なる」というのは「変化」をあらわす。「変化」するというのは、ある意味では以前存在したもの(ある)がその存在ではなくなることであり、「以前の存在の不在(ない)」が「なる」を「ある」に変える。「裸になる」は「裸の状態として、あなたはある」という意味だ。さらに「裸を脱いで/あなたはあなたになる」とは「裸」という「比喩/表現」さえも脱ぎ捨てて、さらに肉体の奥に存在する、目に見えない「精神/感情」としての存在になり、「こころの状態として、あなたはある」という意味だ。
 二連目の「あなたを脱いで/あなたはいなくなる」と一連目の「裸を脱いで/あなたはあなたになる」は「対」になっている。「対」になりながら、「なる(なって、そこにある)」を「いない」という「矛盾」で浮かび上がらせている。しかし、こういう「矛盾」はあくまで表現(ことば)の上で起きていることであって、現実には、三連目の「言葉(表現)を脱いでも(肉体としての=無心としての)あなたはいる(ある)」ということになる。
 「肉体」と「無心」がここでイコールになってしまうのなら、なぜ一連目で「裸を脱いで」というようなことが書かれるのか。「裸を脱いで」というのは、あくまで「比喩(思考の定型)」であって、それは「ほんとうの裸」ではないからだ。「肉体」も「無心」も「表現(言葉)」だから、どんなふうにでも「論理」を捏造できてしまうのだ。「論理」というのは「ことばの定義」を少しずつずらして(少しずつ正確にして、というひともいるだろう)、どこまでもごまかせるものである。
 「かっこよすぎてうさんくさい」と書いたのは、そういうことを指している。

 さて、三連目「言葉を脱いでもあなたはいる」とどう読めばいいのだろう。「裸を脱いで/あなたはあなたになる」「あなたを脱いで/あなたはいなくなる」という行と「対」になっている、とだけわかればいいのだろう。その「対」について何か語ろうとすれば、いろいろな言い方ができるが、それが「論理」を目指して動くとき、それはどう動いてもうさんくさくなる。散文はうさんくさい。

 視点を換えて、突然出てきた「詩」について考えてみる。
 「言葉を脱いで/無心になって/肉体だけになった」あなたを呼ぶのは「詩」。その「詩」は「渚で蛤が呼吸している」という一行となって、三連目では書かれている。
 「あなた」とはまったく無関係の、そして私がこれまで書いてきたこととはまったく無関係の「描写」。
 この一行は「野良猫があなたを見つめる」(一連目)、「栃のこの葉が風に散っている」(二連目)と「対」になっている。「脱ぐ」という「あなた」の行為とはまったく無関係という共通性をもっている。こういう、それまでの「論理」(ことばの動かし方)を切断し、「無関係なことばの動かし方」を接続することが詩。それぞれの連の最終の一行そのものが詩であるというよりも、そういう行でそれまでの世界を破壊し、あらたなものを接続させるということが詩なのだ。
 切断と接続という変化そのものが詩。
 こう書いてしまうと、これも、うさんくさい。

 四連目は、それまでの連で書いてきたことを、反対側から見つめたものである。反対側からことばを動かしている、つまり「論理」を展開していることになる。
 「脱ぎ捨てられた言葉」というのは、この作品の中では、具体的にいうと各連の最終行のことである。「あなた」と「ことば」のことを考えてことばを動かしていた。そのとき「野良猫」だの「栃」だの「蛤」というのは「論理」に関係してこない。「脱ぐ」「脱がない」という意識からさえも捨てられてしまっていたことばである。
 それをかき集めてみると、そこに「あなた」が現われてくる。あ、「あなた」は野良猫に気がつくひとなのだ。栃の木の葉の動きを見るひとなのだ。蛤の息にこころを動かすひとなのだ。そういうことがわかる。それは「思いがけない」ことかもしれない。なんといっても「あなた」が無意識にこころを動かし、肉体を動かしてつかんでいる「世界」だから。そういうものが、「あなた」に「なる」。「あなた」は「裸を脱ぐ」「あなたはいない」「あなたはいる」というようなことを考えていたが、そういう考えを離れ、突然、思いがけない「あなた」と「なる」。
 そのあと、一行あいて「あなたはセーターを脱ぐ」ということば。これは書き出しの「服を脱いで」と似ているけれど、違う。「服」が「セーター」と少し具体的になっている。詩は、こんなふうに人間を少し具体的にととのえてくれるものなのだ。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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