詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アキ・カリスマキ監督「ル・アーヴルの靴みがき」

2012-04-30 22:51:50 | 映画
アキ・カリスマキ監督「ル・アーヴルの靴みがき」

監督 アキ・カリスマキ 出演 アンドレ・ウィルムス、カティ・オウティネン、ジャン=ピエール・ダルッサン

 アキ・カリスマキの映画はシンプルで情報量が少ないと思っていた。たしかに多くはないのだが、ダルデンヌ兄弟の「少年と自転車」を見たあとでは違った感想を持った。
 カリスマウキは「シンプル」を装った映画である。
 たとえば時計が映し出されるシーンがある。壁は一色(赤っぽい)に塗られていて、陰影がない。そのためにシンプルな印象がする。だが、そのとき時計のほかに花が一輪映し出される。ヒマワリのような花だ。花瓶はスクリーンの外。省略されている。情報量が制限されている。
 うーん。
 でも、この一輪の花がうるさい。シンプルを強調していて、その「強調」がうるさいのである。
 靴屋の妻が料理のために紫玉ねぎを切る。切りながら、体の痛みのためにテーブルにうつ伏せになってしまう。そのシーン。紫玉ねぎの断面、その美しい同心円。それが見える。でも、それ以外の野菜は見えない。その「欠如」がうるさい。つまり、非現実的で、童話っぽい。リアルを排除する力がうるさい。
 あるいはクロゼット。男の服はスーツが一組。女の棚にも二着しか服がない。シンプルである。つましい暮らしがとてもよくわかる。しかし、そのシンプルが強調されると、なんだか煩わしい感じがしてくる。
 それはなぜだろう。
 たぶん、カリスマキの映画には「陰影」が少なすぎるのだ。陰影がそぎ落とされすぎているのだ。「時間」の蓄積が、背景の「もの」から感じられないのだ。
 別な言い方をすると。
 私は「長江哀歌」を思い出しているのだが、ダムに沈んで行く街、その人々の暮らしは貧しいのだけれど、生活の細部に「つかいこまれた」美しさ、部屋をつかいこむことによって生じる「汚れ」という美しさ--雑巾のあとが残る壁、テーブルを拭いたとき、そのテーブルと接している壁に雑巾のあとが残る、そのつかいこんでいる暮らしの「美しさ」のようなものまで、カリスマウキはそぎ落としている。「つかいこむ」という時間の蓄積がつくりだす美しさを排除している。
 それが、私にはちょっとなじめない感じがする。(いままで、そんなに強く感じなかったのだけれど、「少年と自転車」を見たあとなので、そういうことに気がついた。)
 もっとも、違う見方ももちろんできるのではあるが……。

 で、その違った見方というのは。
 暮らしの「場」ではなく、「人間」そのものに「つかいこんだ味(つかいこまれた味)」を盛り込んでいるのである。
 この映画の主人公の「靴磨き」は老人といっていい年代の男である。作家のようなこともやったらしい雰囲気をただよわせている。「人間」をつかいこんだ感じは、その白い髪、しわ、という肉体そのものの「味」として表されているが、それとは別なものもある。たとえば、目の前でギャング(?)が殺される。それを見ても「靴磨きの代金を払ってくれたから、それでいい」と表情を変えずに言い切ってしまう。そのユーモア。
 あるいは難民キャンプでの所長とのやりとり。「民法に肌の色で人間を差別してはいけない、と書いてある」というようなことを、しれっとして言ってしまう。そのことばの奥にある「教養」というユーモア。
 人間から滲み出てくる美しさ。彼がそれまで生きてきた「時間」のなかで体験した事柄が「ことば」として表に出てくる。この監督は、シンプルな映像が目につくけれど、少ない「ことば(せりふ)」を「つかいこまれた時間」、そのひとの人格の「蓄積」としてあらわするに活用している。
 それは主人公に限らない。主人公のまわりの、パン屋、飲み屋、八百屋、さらには警察署長。彼らの演技に、そういうものが端的にあらわれている。彼らは「演技」をしない。「感情」を伝えようとはしない。「感情」を演技であらわそうとはしない。なまなましい感情の変わりに、しっかりと「ことば」を語る。そしてそのことばは「ストーリー」を逸脱しながら、「ストーリー」をじゃましない。八百屋の男が主人公にいろいろな食品を提供するとき「これは足が早いから」という。まあ、これは日本語の字幕なので、原語ではどういうか私はわからないのだが、この字幕は、監督の「ことばのなかの時間」を的確にくみ取った訳だねえ。とても感心した。
 ちょっと脇道にそれたかな?
 もとにもどる。役者は感情を浮かび上がらせる(強調する)アメリカ映画のような演技をしない。ぽつりぽつりとストーリーとはちょっとそれかことばを話すだけである。それしかしないのだけれど、そうすると逆に、映画のストーリーというよりも、人生というストーリーを動かしていく「人間性」というものが、見終わったあとにじわーっと浮かび上がってくる。
 それは、「長江哀歌」の壁に残る雑巾のあとのようなものだ。テーブルが取り除かれて、そのとき、あ、この横一直線の汚れはテーブルを雑巾が消したとき壁についてしまった汚れなのだ、テーブルは毎日毎日ていねいに拭かれていたのだとわかるようなものなのである。
 警察署長がふともらすことばが、なかなかいい。「みんな警察が嫌いだ。でも、困ったとき助けを求める。そして感謝をしない。でも、いいのだ」。--だれもが、自分のできることをする。感謝される、されないとは関係ないのだ。自分のできることをすると、それでうれしいのだ。
 それが「時間」として、人間の肉体のなかに残る。それは、「長江哀歌」をまた引用すれば、こころの奥を、すーっと横切っていく雑巾のあとのような陰影。--この美しさは、やはり「童話」だね。大人のメルヘンだね。
 それを見せるために、カリスマキは、「もの」の情報量を減らしているのだと言える。
 



今月のベスト3
1 少年と自転車
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田井英祐「現実」

2012-04-29 14:18:05 | 詩(雑誌・同人誌)
田井英祐「現実」(「Re:」2、2012年04月21日発行)

 田井英祐「現実」が書いていることがわからない。

燃える水田の稲穂の前に
たたずむおまえの横にいる
黒光りをしている万水鉱物
私の立っている場所から
そいつの顔は見えない
あなたはそいつに微笑みかける
       私の解らぬ言葉を開きながら
私はあなたとそいつの
勾引(かどわ)かしあうリズムの間隙に
  あなたに向かって信号を送る--

 水田がある。稲穂がある。私がいる。あなたがいる。そしてそいつがいる。あなたとそいつは何やら話している。--というようなことは、ぼんやりとわかる。私、あなた、そいつの位置関係(顔が見えたり、見えなかったりという状況)もなんとなくわかる。わかったつもりでいる。
 でも「万水鉱物」というのがわからない。私は辞書をひかない(辞書をひくのが大嫌い)。わからないことばは、まあ、読んでいる内にわかるだろうし、読み通してもわからないなら、それは辞書をひいてもわからない。ことばは、そのことばと前後のことばの「関係」のなかで「肉体」をつくって動いていくものである、と思っているからである。
 で、わからないまま「水田」ということばから、水田の水を思う。「万水」というのは水がいっぱいということだろう。「満水」に通じるかもしれないけれど、「満たしている」とは違うのだろう。満たしていなくても、水を十分に含んでいれば「万水」かもしれない。実際、水のある水田の土は黒いし、水が表面を覆っていなくてもにじむくらいに水を含んでいれば田んぼの土は黒い。かわいた校庭のような色ではなく、田んぼは黒い。「黒光りしている」と書いてあるから、まあ、そんなところだろう。
 そして、そんなふうに見当をつけながら、ふーん、泥を「万水鉱物」と呼ぶのか。こんなふうに、ふつうのひと(農家のひと?)がいうのとは違う具合にことばを動かしているのだな、何かふつうのことばでは言えないこと(言いたくないこと)があるのだろう、それはなんだろう--と誘い込まれる。
 わけのわからないことば、わからないけれど、何かを感じさせることば、つまり肉体が覚えていることを引き剥がし、その「こと」の「は(端)」を「ことば」に変えていく力のようなものに、私は感応してしまう。
 「私の解らぬ言葉を開きながら」は「ききながら(聞きながら)」の誤植? いや、「ききながら」ではつまらない。「ひらきながら」の方がいいなあ。「万水鉱物」というような、他人にわからぬことばをこじ開けるようにして、ということなのだろう。
 こう読むと、「私に解らぬ言葉」と「私の、他人には解らないことば」が交錯してしまうのだが、こういう混乱、混濁が、まあ、詩の力である。いいかげんなところがおもしろいのである--と書いてしまうと、田井には申し訳ないが、詩、なのだから、そんなことろである。
 で。
 「万水鉱物」にしろ、「私に解らぬ言葉」にしろ、「私の、他人には解らないことば(--これは詩を読む過程で、私がかってにつけくわえた表現であって、田井の書こうとしていることとは無関係かもしれない。つまり、私のいつも書く「誤読」なのだが)」にしろ、なんだか判然としないものがぶつかりあう。
 それを、田井は

勾引かしあうリズム

 と、言っている。(と、私は判断する。)
 これ、いいなあ。「勾引かしあうリズム」か。ことばはことばをかどわかす。そして、そこにはリズムがある。
 そう思う。
 騙しているのか、騙されているのか。わからない。わからないまま、ことばは、意図したものとは違うところへ動いていく。相手がいるからね。自分で一方的に言っているわけではないからね。私の「日記(この文章)」のように、私が一方的に書いているように見えるものでも、実は、瞬間瞬間、ことばが行き交っている。
 私は田井のことば読みながら書き進む。思ったことを書いてしまうと、次の行が、最初に読んだときとは違ってくる。印刷物だからことばそのものが動くのではないが、私の意識のなかで違ってくる。
 で、先へ進むと、

自明の言葉で閉ざしながら
私とあなたとの間に立ちはだかる
田泥化芽罹厭--これはきっといつも私達の
間に立ちはだかる儀礼的な煩い挨拶、煩わし
い他人との関係が凝固された習慣という発作
に侵された人間達の成れの果て。

 また、わからないことばがある。「田泥化芽罹厭」。でも、最初に読んだ「万水鉱物」ということばから田んぼの泥を想像した私は、「田泥化芽罹厭」は「万水鉱物」の言い換え、あるいは「万水鉱物」ということばで表したものをもっと詳しく言いなおしたものだろうと勝手に想像する。
 そして、それは「人間関係」と関係がある。「ことば」と関係がある。
 「自明の言葉」--それが「人間関係」をつなぐのではなく、「閉ざす」。いつも「人間関係」はことばによって閉ざされている--と田井が考えているということだろう。その「閉ざされた関係」が「凝固された習慣」と言いなおされているのだろう。
 --この、私の読み方は、いいかげんで、飛躍が多いのだけれど、いちいち説明してもしようがないので、ぱっぱっぱっと、読んでいく。

               植物のよう
に「天候=運命」に流されて生き営む彼ら、
習慣と運命に囚われた哀れな植物人間たち。

 水田、稲の栽培、耕作農業、土地への定着。土地への定着を象徴する米--そういう「定着」(固定、凝固、閉鎖性)というものに田井がいらだっている。反発している。怒っている。それとは向き合い、闘おうとしている--というようなことを、私は想像する。
 私は自分たちで食べるだけの米をつくっている田舎の育ちなので、私の肉体が覚えていることがら、田舎の人間関係のようなものが呼び覚まされて、その肉体で田井のことばを読んでいるのだなあ、と思いながら、読み進む。
 あ、ここに書いてあること--覚えている、と思うのである。

 で、ここから田井のことばはどう動くのか。

私の言葉を私の言葉の矛に変え
田泥化芽罹厭に挑みかかる

彼らに囚われたあなたの魂を救うために

切り裂いた蔓たちから吹き出る薄緑の羊水に
包まれた自明の言葉
万水鉱物--これは人の様であり人ではなく、
それは堅固な思いのようだが、多量の水気を
含みそれ自体の存在で揺蕩う、どんな言葉で
触れても突き破る事が出来ぬ固い意思のよう
なもの。流されている様に見え流されておら
ず自ら舵を切る意思細胞群。

 私はそれを、私は纏はりつく万水鉱物を、
切り、壊し、抉り、拉ぎ、
  進む、進め!
   失われた言葉を呻きながら!

私は声を上げた! その小枝、声を張り上げさ
せた肺が、肺を構成する細胞が、細胞の構成を
考えた遺伝子が、遺伝子の組み合わせを考えた
運命が、運命を成り立たせた歴史が……この私
の流れが、声に万水鉱物が触れたことにより
逆流する!

 だんだん「あなた」も「そいつ」もどうでもよくなって(?)、自分の「声」について語ることになる。「言葉」は「声」にかわっていく。
 この変化は、なんといえばいいのかなあ、うまく整理されていないのだけれど、その整理されていない部分に、田井の「本質」のようなものが感じられて、とてもおもしろい。私の好みに過ぎないのだろうけれど「声」が肺→細胞→遺伝子→運命→歴史と動いていくところがとても興味深い。
 運命、歴史は「人間の運命」「人間の歴史」ではなく、いのちがあるもの、田井のつかっていることばで言えば「遺伝子(細胞)」の運命・歴史ということだろう。
 それが「声」をとおして、個人の肉体のなかで深みへおりてゆき、その深みから噴出してくる--その運動に何かを見出そうとしている。この「声(肉体)」と「ことば」の関係、それを突き詰めようとすることに対して、私は「がんばれ、がんばれ」と応援したくなる。
 ことばは、その運動のなかでしかよみがえることができない。
 私はそう思っている。

 田井の、この「現実」という作品は、わけのわからないことばを含みながら、それを「肉体」と関係させようとしている。そしてそのことを「肉体」と、抽象的な論理の運動の組み合わせで切り開こうとしている。いつも、そこに「肉体」を絡ませようとしている。ここからはじまることばの可能性--それを見つづけたいと思う。
 肉体の内部へおりてゆく。そうすると、そのいちばん底から一気にはじまる変化がある。それがほんとうのことば--詩のことば、と田井は信じている。その信念に、私は与したい。

私は声を上げた! 声を上げる事により、肺
が膨らみ、肺が膨らむ事により細胞が分裂し、
細胞が分裂することににより遺伝子が複製し、
遺伝子が複製することにより運命が変わり、
運命が変わることにより、歴史が変わる!
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ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督「少年と自転車」

2012-04-28 10:35:29 | 映画
監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 出演 トマ・ドレ、セシル・ド・フランス、ジェレミー・レニエ

 映画を見はじめてすぐにフレーミングの不思議さに引き込まれる。遠景が少なく、ほとんどが人物のアップというか、身体が全部スクリーンの枠(カメラの枠)のなかに入らない。肉体がいつもカメラからはみだしている。そして、それも顔に焦点が集中するのではなく、顔から広がる(顔から肉体、手足がはみだす?)感じでフレーミングされる。
 たとえば少年が美容室で水を出してすねているシーン。思い出しながら書いているので間違っているかもしれないが、足が写らないのは上半身のアップだから写らないのとわかるのだが、その上半身にしても少年の頭(髪)のてっぺんとか、丸めた背中の丸みという部分はスクリーンからはみだしている。その切り取り方がとてもいい。とても自然に見える。--それは美容師から見た少年の姿なのだが、美容師が何を見ているか、を通り越して、あ、こんな「感じ」で見ているのか、ということがわかる。少年が演技をし、美容師の「感じ」をカメラが演技し、それが映像の「枠」のなかで融合する。
 美容師と恋人と少年が車のなかでけんかするシーンも同じである。男が美容師に「俺をとるのか、この少年をとるのか」と美容師に迫る。美容師は少年をとるのだが、そのときのカメラの、それぞれの対象のフレーミングがほんとうにすばらしい。少年が、美容師が、そして恋人が相手を見ているときの「感じ」の集中の広がりが、ほんとうにカメラの映像そのままなのである。少年からみると、男の姿はシートに隠れて半分しか見えない。半分はシートが隠している。そのときの、なんといえばいいのか、男に対する「親密感」の欠如というか、男はけっきょく自分のことなど何も考えていないし、わかってもいない、わかっているふりをしているだけだというような「感じ」が、シートという「影」によって守られている(代弁されている?)。そういうものを半分見ながら(半分男の体を隠しながら)、盗み見るようにして男の顔を見ている。この、その場にいるのに「盗み見る」という「感じ」のなかにある、少年の集中力(?)のようなものが、そのままスクリーンの映像になる。カメラが少年の「感じ」を演技しながら、男をとらえ、美容師をとらえている。
 少年が「密売人」の少年(青年?)の家へ行くシーンも、非常におもしろい。密売人の家には体が不自由な老女がいる。少年が行ったとき、老女はベッドから落ちて動けずにいる。その老女を青年はベッドの上にもどし、世話もするのだが、その様子が、やはりスクリーンの「枠」をはみだして動く。老女の手足、全身がはっきり写るわけではなく、どこかが「枠」をはみだしている。--これは、少年が、青年と老女の「全体」を見ていないということを象徴している。少年の、その場の「感じ」、老女を見て感じる違和感、そしてその老女を助ける青年を見て動くこころを凝縮するようにしてカメラが切り取っている。この、登場人物の「こころの視野」とカメラのフレーミングの一体感が、この映画はとてもいい。
 そういう「登場人物」の「視野」のほかに、一種の「客観的視野」のようなものがある。それもおもしろい。少年が施設で朝食も食べずシーツにくるまってすねている。そのシーツぐるみの身体。それを映し出すカメラは、室内をていねいに映さない。ベッド(2段ベッドの下段?)を想像させるだけのフレーミングで映像の情報量をしぼりこみ、観客をスクリーンに引き込む。
 少年が自転車で疾走する長廻しのシーンも同じである。街の風景は映し出そうと思えばどれだけでも情報量が増える。けれどカメラはその情報量をしぼりこむ。少年が自転車をこいでいるその肉体の「感じ」だけにしぼりこむ。情報量の少ない状況で映画を撮影するのではなく、たくさんの情報はあっても、それを切り捨てて、「感じ」のなかへ観客を引き込む。
 カメラというのは不思議で、意識しないものまで映してしまう。車のない時代のはずなのに西部劇に車が映っている--というようなことも起きる。けれど、この映画は、「意識外」の情報を排除し、しぼりこむ。そして、そのしぼりこんだ映像をなおかつフレーミングによって切り落とす。切り落とされた部分にも現実はあるのだが、それは観客の「こころ」に想像させる。「感じ」が伝われば、その「感じ」にあわせて、私たちは「フレーミング」の外にあるものをつくりあげる。
 ジャン=ピエール・ダルデンヌとリュック・ダルデンヌの分担がどうなっているのかわからないが、もしかすると「登場人物の視野」の部分と、「客観的視野」の部分を二人で分担しているのかもしれない。「情報量をしぼる」という方法を共有し、映画をつくっているのかもしれない。--うまく言えないが、絶妙のフレーミングである。映画は脚本があって、役者が演じてという点では「芝居」とかわらないが、映像のフレーミング操作というのは芝居(舞台)では不可能。映画だけができることがらである。映画は「カメラの演技力」しだいで大きく変わる--と思った。

 先日見た「別離」も傑作だが、この「少年と自転車」も傑作である。「別離」は劇的な内容(ストーリー)が印象に残るが、「少年と自転車」にはそういう劇的なストーリーはない。ラストの、少年の静かに自転車をこぐシーンは、少年が完全に生まれ変わったことを映像として見せているが(それがこの映画のストーリーだが)、その生まれ変わりを「劇的」に説明するのはむずかしい。むずかしいだけに、そのラストシーンの静かさが気持ちがいい。哀しみのなかに、不思議なしあわせがある。
 で、どちらか一本を今月の「おすすめ映画」にするとしたら。
 うーん。
 私は「少年と自転車」を推したい。 



今月のベスト3
1 少年と自転車
2 別離
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樫田祐一郎「沈思」

2012-04-27 10:54:02 | 詩(雑誌・同人誌)
樫田祐一郎「沈思」(「DIONYSOS」34、2012年03月29日発行)

 「ことばの肉体」ということを考えてしまうのは、ひとは何かを書こうとするとき、そしてそれがいままで誰も書いていないことの場合、ことばの手がかりに(ことばを相手に届けるときの手がかりに)、ジェスチャーというのだろうか、「肉体」に関係することばが入ってくることがあるからかもしれない。
 樫田祐一郎「沈思」の書き出し。

胎児の弛びた恰好をしてわたしは眠るふりをしている。

 私には「弛びた」が読めない。私は「弛」は「たるむ、ゆるむ」というような「音」で覚えているので「び」という「連用形」の活用がわからないのだが……。
 そういう「保留」をおいておいて。
 まあ、適当に(?)、何かしら「ゆるんだ、たわんだ」から、「力のぬけた」という感じのことを思い、「くつろいだ」かなあ、「なまけた」かなあ、というようなことも思う。そうして、そのとき、
 赤ん坊、あ、胎児だから、まだ生まれていないね--その胎児の、子宮のなかで丸まっている、丸まりながら一方で安心して無防備な肉体の形を思う。そうして、その肉体の形から、何かの「意味」を受け取ろうとする。受け止めようとする。
 私が頼りにしているのは「辞書」の「定義」ではなく、私が知っている(どこかで見てきた)胎児の写真である。そして、その形である。
 それは、次の

空のほうがあかるい夜、にわかに生きはじめる電柱のけはいが窓を越してわたしの背中をなぞる。

 と、つながるとき、そこにまた別な「肉体」が覚えているものが動きはじめる。「空の方があかるい」は胎児の眠る子宮よりも、母胎の外の方が明るいという感じにつながる。「にわかに生きはじめる」には胎児のいのちの感じがうごめく。「けはい」は胎児のいる子宮とその外との「連絡」が、部屋のなか、部屋の外という連絡(接続)の意識を呼び覚ます。子宮に内部と外部があるなら、部屋にも内部と外部があり、内部で胎児が眠っているとき、外部ではその眠りを意識して何かが反応する--そのあいまいな連絡が「けはい」というものであり、その「けはい」に進入してくるものは(けはいを動かすものは)、きっとふつうは動かないものである。たとえば、電柱である。動かないものが動く。その矛盾が、外部と内部の「連絡」の乱れをゆさぶる。
 本来あるべき「整然とした緊張(秩序?)」のようなものが「弛む」(樫田の「読み方」がわからないので、私は私の覚えていることばを動かすのだが……)。それは、まあ、あまり気持ちがいいものではないかもしれない。だからこそ、「背中をなぞる」の「なぞる」という動詞になって、「わたし」に迫ってくる。
 なぞる。
 さわる。触る。
 障る。
 触れる。
 何かが肉体に触れる。それは肉体であると同時に、「気(精神、こころ)」かもしれない。そうすると、
 触れるは、気を揺する、気が振れる(?)、気が触れる(?)
 気に障り、そのことが重なり気が「ふれる」というときの、「ふれる」は漢字ではどう書くのだろうか。
 まあ、「表記」はあまり関係ないのだが……、というか、
 こういうことを思うとき、私の「肉体」のなかでは、「音」が重なり合い、動き、互いに侵入し合う。そうして、混ざり合う。
 「意味」は明確というものからどんどん遠ざかるのだが、意味から遠ざかれば遠ざかるほど、不思議なことに「肉体」のなかに「実感」というものが強くなる。わけのわからない「もやもやした感じ」が居すわる。
 こういうとき、

 わからない。でも、わかる。

 そういう矛盾した気持ちになる。矛盾の形でしかいいあらわせないものにぶつかる。
 樫田の「ことばの動き」が「意味の動き」(頭で整理できる論理的な動き)ではなく、私の「肉体のなかの意味にならない動き」として動く。
 これは樫田の「ことばの肉体」が私の「肉体」に触れてきているためではないかと私は思う。
 私の「肉体」は樫田の「ことばの肉体」に反応している。
 それは何度も何度も同じ例で書くしかないのだが、誰かが道端で腹を抱えてうずくまっているのを見たら、そのひとの肉体の痛みは私の肉体の痛みではないのに、あ、このひとは腹が痛いのだと「共感」してしまうのに似ている--ということになる。

 わけのわからないことば--他人のことばというのは、道に倒れているひとの痛みが直接わからないのと同じように、基本的に「共感」という形でしかわからないものだと私は思っている。
 そのわけのわからないことばは、しかし、そのことばの運動が「肉体」を経由すると、なんとなく「肉体」的にわかる。何か、わかったような気がする。
 こういうことは、一種の「往復反応(作用?)」だから、そうやって肉体が覚えたことばは、やがて「ことばの肉体」になってゆく。

 で、ちょっと面倒くさくて(というか、私自身、自分の考えをきちんと整理できなくて、ということなのだが)、ここで飛躍して書いてしまうのだが。

 「肉体」をとおしたことばの運動が、「ことばの肉体」にかわっていくということを繰り返し繰り返し、「肉体」そのものの運動として覚え込むと(私の場合、音として聞いて、それを声に出してということになる。書く、あるいは目で読むというのは、肉体で覚えるというとき、私の場合に二次的になる)、「ことばの肉体」は、それぞれ「独自の肉体」になっていく。
 これが「文体」だね。
 で、読むということ(他人のことばに触れるということ)は、「文体」を遡るようにして、そのことばを書いたひと(言ったひと)の「肉体」そのものに触ること、セックスするということになる。
 これが、私の「ことば」の読み方。

 脱線してしまったけれど(脱線したつもりはないのだけれど)。
 樫田の詩のつづき。

部屋のなかを歩くのはその影のような痩せた男だ。おもくるしく息づく冷蔵庫のとなりを彼が通るたび、どうしてかちいさく風の抜けるみぞおちを埋めるようにわたしのからだは痙攣した。おとこはわたしの横たわる寝台と、扉でわかたれた部屋の向こうをたえまなく行き来する。真昼のしろい蛍光灯のもとで扉の向うは確かに数日前の雨の匂いが酸化しはじめているわたしの狭い玄関だった。

 「おもくるしく息づく冷蔵庫」という「肉体」と「物体・器具(無機物)」の結びつき。「ちいさく風の抜けるみぞおち」という不可能な表現にわりこむ「肉体」。「しろい蛍光灯」と「雨の匂いが酸化しはじめている」の、視覚と嗅覚の出合い。
 そういうものをとおして、私は、樫田の「肉体」そのもの、その「肉体」のなかで動いている「感覚」が私のものとはまったく違いながら、やはりそれが「肉体」であるかぎりにおいて、触れあえるという可能性を感じる。手触りがある。現実に、そこに樫田の肉体があり、その肉体はやはり誰かとセックスするのだと感じる。
 こういうとき、その樫田の「肉体」が好きであるかどうかは別問題として、やはり私は樫田とセックスしているのだと感じる。「ことばの肉体」をとおして、セックスしているのだと感じる。
 その「ことばの肉体のセックス」がどこまでつづくか。その結果、エクスタシーを感じるのかどうかというのは、また難しい問題なのだが。
 でも、こういう中途半端な言い方はよくないね。
 私は、樫田の書き出しには非常にそそられた。その「ことばの肉体」のあっちこっちに触りたくなった。どう触れば、どう動くのか。その動きが、反動(?)として私の「ことばの肉体」にどんなふうに快感を引き起こすのか--そういうことを最後まで突き詰めたい気持ちになった。
 けれど。
 途中から「肉体」の印象が薄くなる。それで、「醒めてしまう」。(覚める、冷める、褪める?--私の「肉体」は、そういうことばを「ことばの肉体」と重ね合わせてしまう。)

私は生きながらこのうえなく高貴な気分になった。

 うーん、「このうえなく高貴な気分」か。
 私は、そういうものを「肉体」で体験したことがない。私は「高貴な気分」というものを「肉体」で覚えていない。だから、反応できない。
 樫田は「肉体」で「高貴な気分」を覚えているのだろうか。そうなら、「高貴な気分」という「流通言語」をつかわずに、「胎児の弛びた恰好」に拮抗する「肉体のことば」で書いてほしいなあ、と思うのである。


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八柳李花「今朝」

2012-04-26 11:02:46 | 詩(雑誌・同人誌)
八柳李花「今朝」(「紙子」20、2012年04月10日発行)

 ことばは肉体である。ということは、それは「いま/ここ」を生きている人間の肉体と同じように、何かに縛られている。それは法律とかタブーとかいうもののことではない。
 肉体から話しはじめると分かりやすいかもしれない。たとえば私は1時間で3000メートル泳ぐが、45分では泳げない。あるいは「シ」の音がいつも半音下がり「ラシド」とか「ドシラ」がそのまま音にならないというようなことである。私の肉体がかかえこんでいる限界があり、肉体が肉体の「自由」を獲得していないということである。だから、速くかっこよく泳ぐひとをみると、あ、美しい泳ぎだなあ、と思う。正確な歌を聴くと気持ちがいい。そのとき私が体験するのは「私の肉体」ではないけれど、「私の肉体の可能性」でもある。私ではない肉体のなかにある「自由」な力が、私の肉体を刺激する。
 逆の場合は、道端で腹をかかえてうずくまっている人間を見たとき。その肉体は「私の肉体」ではない。けれど、あ、この人は腹が痛いと感じる。そのときの「共感」。
 「肉体」は共感する力を持っている。それは「私の肉体が覚えていること」との「共感」である。私が自分では速く泳げなくても、速く泳ぐひとに「共感」するというのは変な言い方だが、きっと「肉体」には何か「理想」を夢見る力があるのだ。
 そういうことが「ことばの肉体」でも起きると私は思っている。
 「ことばの肉体」も人間の「肉体」と同じように、「限界」というものを知らず知らずに持っている。もっと違うふうに動かしたいのだが、自分では動かせない。そのもどかしさを、「私」ではなく、「ことば自身」も感じている--そう思うときがある。ことばはことばとして「自立」し「自律した音楽」になりうるのに、そうならない。そのことをことば自身が感じている。
 だから、誰かのことばがふいに「自律した運動」を見せるとき、はっと驚く。私の「ことばの肉体」が強い刺激を受ける。
 この瞬間が詩--である、と私は感じている。

 前置きばかり書いてしまったけれど。
 八柳李花「今朝」の書き出し。

ほどかれた絆の
目隠しにやかれた暗がりを行く
葦や羊歯の生い茂る川辺を
沈みながら染み渡る黒泥のあたり
あのひとの閉ざされた掌から
ちろちろと光が漏れてくる
踏み潰された茱萸や昆虫の死骸をこえ
湿地帯をぬけたところで
翻る薄ぼんやりした明るみの
骨ばった手のひらが開かれる
来た、ここに
あれが時間だよ と

 「あのひと」に目隠しされて、湿地帯をぬけてどこかに来た(どこかへ行く)--そのときのことを書いていると思う。
 「ほどかれた/絆」というのは、いわば「定型」である。「目隠しに/やかれた/暗がり」には、「閃光にやかれた」とは矛盾するもの、つまり、ふつうのことばの運動とは逆の、矛盾したものがある。そこに詩の気配が生まれている。しかし、この矛盾自体は「ほどかれた/絆」のなかにすでに内包されている。「絆」はふつうは「結ぶ」ものであって「ほどく」ものではない。けれど、私は、そのことを「定型」と書いた。これは、「現代詩」が獲得した定型であり、抒情の定型でもある。そこから出発しているから「目隠しに/やかれた/暗がり」の「やかれた」が、詩そのものではなく、気配で終わっている。終わってしまう。
 ここでは八柳の「ことばの肉体」は「現代詩」という「定型」(動きの限界)に縛られていることになる。まだ「自立」していない。だから、そこに「自律の音楽」は存在しない。「葦や羊歯」が「生い茂る」というのも「定型」である。「黒泥」「死骸」「湿地帯」とことばが動いていくのも、一種の「定型」である。(途中、「沈みながら染み渡る」という「し」の音の繰り返しによる不思議な音楽があるけれど。)
 ところが、

来た、ここに
あれが時間だよ と

 と、この2行で、ことばの音楽がまったく違ってしまう。光でも闇でもないものが突然噴出してくる。
 光と闇は矛盾したことばであるけれど、途中に「薄ぼんやりした明るみ」ということばを差し挟むと、矛盾ではなく、諧調--グラデーションになり、ひとつながりのものになる。諧調、グラデーションを「連続(接続)」の方法と言ってもいい。ここに書かれている「主役(八柳?)」と「あのひと」は「目隠し」「手引き」という「連続」を生きている。目隠しをする「あのひと」が光(明かり)、目隠しされた八柳が闇(暗がり)で、中間の掌が「薄ぼんやりした明るみ(薄ぼんやりした闇)という形で反復されているのだが、それが突然「手のひらが開かれる」によって、切断される。
 このとき、「掌」から「手のひら」へと表記が変化しているのは、つぎの「開かれる」の音の影響--音の先取りだろう。ことばの「自立(自律)」がここでは、そんな具合に、無意識におこなわれている。--つまり、かってに動きはじめている。かってな動きが暴走(?)し、

来た、ここに
あれが時間だよ と

 と、突然、「風景」が否定され、「時間」が「ここ」と結びつけられる。
 この唐突な「自立(自律)」は、ちょっとランボーの有名な詩を思い出させる。

見つかった
何が 永遠だ
太陽と連れ立って行った
海だ

 正確ではないけれど、そういう行があったはずだ。その、ランボーの「永遠」のように、八柳は「時間」ということばを書いている。
 太陽と海という目の前にある光景を語ることばと「永遠」は無関係である。同じように、湿地帯を語ることばと「時間」は無関係である。
 無関係であるものが、突然「関係」にかわる。それは、別なことばで言えば、それまでの「関係」を破壊し、それまでのことばの運動を縛りつけていた何かを破壊し、ことばを解放した結果、突然生まれることができた何かである。
 この「破壊」「解放」を「自由」と呼び変えると、詩の定義になる。
 詩はかけ離れたものの突然の出合い。--とは、それまでの関係を破壊し、それまでの関係からことばを解放し、ことばがそれまで結びつかなかったものと結びつく自由を獲得することである。
 そういうことを「ことばの肉体」は求めている。そういう「ことばの欲求・欲望」と、私たちの(少なくとも私の)「肉体の欲求・欲望」はぴったり重なる形で動いている。欲求・欲望のあり方は「ことば」も「肉体」もかわらない。

 ことばはことば、肉体は肉体、と考えるのではなく、「ことばは肉体である」と考えると、すべてがシンプルになる。経済的になる。

 余分なことを書きすぎたかもしれない。
 私は、ことばのなかから、ことばが「肉体」として自立して、自律した音楽として動きだす瞬間が好きなのだ。そういうものを詩を感じている。八柳の2行に、それを感じた。簡単に書くと、そうなる。



サンクチュアリ
八柳 李花
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Beady‐fingers.―八柳李花詩集
八柳 李花
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細見和之「擬態語論序説」

2012-04-25 11:07:15 | 詩(雑誌・同人誌)
細見和之「擬態語論序説」(「紙子」20、2012年04月10日発行)

 細見和之「擬態語論序説」は、そこに書かれている「意味」がわからない。わからないのだけれど、ちょっと、そこに書かれていることがらの一部にかこつけて書いておきたいことがあるので感想を書いてみる。

「タッチ」--
それがうえの娘が最初に覚えた言葉のひとつ
抱き上げて
リビングの壁に近づけると
手を伸ばして
「タッチ」とうれしそうに壁にふれた

やわらかな手のひらがざらついた壁紙にふれる
タッチ--
離れていたものが近づいてついに接触する
タッチ--
そのとき私ははじめてきづいたのだ
「タッチ」ということばが擬態語であることを

 「擬態語」。細見がつかっている「意味」がわからない。「タッチ」を私は最初「立っち」と思って読みはじめた。2行目まで、私は「日本語」を生きていた。立った喜びに(立てるよろこびに)「立っち」と口走る。それは親が「はい、立っちして」ということばの反復である。
 でも細見の書いている「タッチ」は「touch 」である。
 私は英語を理解しないので、それが「擬態語」であるということがわからない。英語に擬態語があるとは思わなかった。というより、そんな感覚にたどりつくためには、いったいどれくらい英語を聞いて話さなければならないだろうと不思議に思った。
 「くねくね」した動き、「にやにや」した笑い、「ごろごろ」転がる--日本語で思いつくことばを少し並べてみた。このときの「くねくね」「にやにや」「ごろごろ」というのは、まず音である。音を聞いて、それからその音を聞いたときの耳の印象(あるいは、それを口にしたときの喉や口の印象)と、いま/ここで見ているものが結びつくという積み重ねがあって、はじめて「意味」になる。それは「頭」で覚えるのではなく、「肉体」で覚えることばである。「肉体」の動きとしてなんとなくわかっても、それを「ことば」として誰かに何かを伝えることができるようになるためには、そのことばが「頭」と「肉体」が何往復もしないとできないと思う。
 「くねくね」を例に言いなおすと。
 「くねくね」は「くねる」「くねらせる」ということばと緊密な関係があると思う。どちらが先にできたことばかわからないが、「くねる」「まがる」「ねじれる」という音を繰り返し聞いて、それとともにある肉体の(ものの)動きを何度も見て、それが「耳」のなか定着して「くねくね」を聞いたとき、「あ、これは、くねる」ということと関係しているということが、なんとなくわかる。「くにゃくにゃ」「くにゅくにゅ」も「くねくね」に近いことが分かってくる。「音」が「肉体」のなかで、そのまわりの動詞をひろいあつけめてき、それが「肉体」のなかにたまっていて、はじめて動きだすことばである。
 「意味」よりも、意味を超えた音と肉体の結びつきがあるのだと思う。そして、その結びつきは、ことばを覚える「最初」の期間には存在しない結びつきだと思う。細見が書いていることが、私にはわからないのだが、私の「肉体の記憶」では、擬態語が擬態語として成立するのは、ことばの基本を肉体が覚えてからである。「最初に」は覚えられない。当然、それをつかうこともできない。

 「擬態語」って、何?
 もしかすると、細見の定義と私の定義は違っているのかもしれない。



 細見の書いている詩からどんどん離れて行ってしまうけれど。

 私は、ことばは肉体であると思っている。ことばにはことばの肉体があると思っている。--ということを、簡単に説明することができないのだけれど。
 人間は肉体を持っている。人間が肉体である。そして人間は肉体を動かして、何かをする。「いま/ここ」を変える。主語(肉体)が何かを動かす(動詞)、そしていま/ここにあるもの(目的語?)を変える。私は本を運ぶ--なら、私の肉体が本を持って、それをいま/ここから違う場所に動かす(変化させる)ということである。
 同じことをことばはしていると思う。「私は本を運ぶ」は簡単すぎて、何かをしているという感じがしないかもしれない。けれど、「私は本を運ぶ」ということばは、人間の肉体の動きと重なり合う。ことばは実は肉体であるのだけれど、手足や何かと区別するために「方便」として「ことば」と呼んでいるだけなのだ。
 哲学(?)というか、ちょっと違う例の方がいいかもしれない。ソクラテスが「弁明」をする。そのとき、ソクラテスはことばをつかって、何かを運んでいる。いま/ここにある何かをほかの場所へ動かしている。それは、たとえば聞いているひとのところへ、ということかもしれないし、その聞いているひとの肉体のなかにあることばを、そのひとの肉体が知らない場所へということかもしれない。よくわからないが、ことばも肉体も、それぞれのことばと肉体をつかいながら何かを動かすということではそっくりなのだ。
 だから、その「そっくり」を利用して、私は「ことばは肉体である」というのである。そして、ことばは肉体であるから、人間の肉体が肉体で覚えていることしかできないように、ことばもまたことばが肉体として覚えていることしか動かせないと思う。
 で、突然、「擬態語」にもどるのだけれど。
 「擬態」が「擬態語」になるためには、ことば(音)と肉体の動きが、ひとつのことだけではなく、幾つもの音と動きを肉体の内部に取り込み、覚えないと不可能なのではないか。「最初に」覚えるようなことではなく、もっと「あとに」なって覚える高度なことなのではないか、と思う。
 赤ちゃんは、「まんま(御飯)」とか「パパ」とか「ママ」とかいうことばを「最初」に覚える。つまり、肉体をつかって言えるようになる。(覚えるというのは、つかえるということだ。)そして、その最初に覚えることばの特徴は「動詞」ではない。名詞である。動かない。赤ん坊は自分の肉体で何かを自分の都合のいいように動かすということができないから、「動詞」が最初は必要がないのだ。肉体を動かせるようになって、はじめて「動詞」が必要になる。これは「最初に」覚える動詞がたとえば「取って」や「ちょうだい」というようなことばであることにもあらわれている。自分ではできない。だから、誰かにそれをしてもらいたい。自分を動かすのではなく、他人の肉体を動かす。そのためにどうすればいいか、ということから赤ん坊はことばを覚えると思う。
 ここから「擬態語」までは、とても遠い。とても「最初に」覚えることばが「擬態語」とは、私には思えない。


 
 さらに脱線すると。
 私は、ことばだけではなく、あらゆるものが「肉体」であると思っている。つまり、あらゆるものが「人間」であると思っている。
 たとえば私はいまパソコンのモニターに向かい、キーボードでこの「日記」を書いている。このときのパソコン。これも肉体である。言い換えると、それをつくった人間の肉体がある。それはいま/ここには直接見えないけれど(そして触れないけれど)、肉体がいろいろな部品を組み立て(つまり部品をある位置に動かし)、その結果が「方便」としてここにある。ほんとうにあるのは、それを動かした「肉体」だけである。
 (だから、あらゆるものを大切にしなければならない。それをつくったひと、その肉体に敬意をあらわさないといけない--なんて言ってしまうと「うるさい」感じになってしまうが、まあ、私はときどきそんなこともかんがえたりする。)

 何かを動かし、何かに変える。そのこと、その「主語」は「肉体」である。

 だから、

 と、私は飛躍する。
 ことばも同じように、何かを動かし、何かを変える。そのとき「主語」は(主体は)、「ことばの肉体」である。
 で、その「ことばの肉体」をていねいに見ていくと、なんと、なんと、ときどきそのことばを書いたひとの「肉体」が見えてくる。まあ、これは妄想の類なのだけれど。で、その「ことばの肉体」にちょっかいを出していると、セックスをしている気持ちになるときがある。変なところをつつくと、ぴくっと動く。いや、書かれてしまっている文字が実際に動くのではないのだけれど、私の想像のなかで、ことばが身悶えしたり、そんなところ触らないでよと怒ったりする。そういうとき、非常に楽しい。

 今回の細見の詩には、そういう「ちょっかい」を出す楽しみがない。そこに「肉体」を感じなかった。何かあるのだけれど、それは私にとっては「肉体」ではなかった、ということになる。




家族の午後―細見和之詩集
細見 和之
澪標
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アスガー・ファルハディ監督「別離」

2012-04-24 10:21:04 | 映画

監督 アスガー・ファルハディ 出演 レイラ・ハタミ、ペイマン・モアディ、シャハブ・ホセイニ

 アスガー・ファルハディ監督「別離」は、どこから感想を語りはじめればいいのかわからない。ストーリーがわからない。いや、そこで起きていることを順序立てて「ストーリー」にすることはできるのだが、そんなストーリーでは何も語れない。ここにあるのは「ストーリー」ではなく、ストーリーにならない人間のあり方なのだ。人間はストーリーをはみだして、ストーリーとは無関係に、つまり、そのストーリーの結末へ向かって自分を整理していくのではなく、その瞬間その瞬間、ひとはそれぞれの思いを生きていて、それはけっして溶け合わない。そこには「瞬間」という永遠があるだけなのだ。「瞬間」という永遠の中で、ひとの思いはぶつかりあい、そして傷つくしかない--と言ってしまっていいのかどうかもわからない。
 ひとには、それぞれの真実があって、その真実とは「客観的」なのもの(ストーリーとして語れる何か)ではなく、あくまでもその人の「思いの真実」なのである。そして、その「思いの真実」と言ってしまうと、だれの、どんな思いも「真実」でしかありえない。「思った瞬間」、その「思い」は炸裂し、永遠の劇場になる。生々しいいのちのほとばしりになる。
 ややこしいことに、それぞれのひとの思いは「真実」なのだが、その「真実」は、実はあやしい。自分のことなのに、自分の「思い」が決められない--というか、何かあることを「思う」とき、それに反対する「思い」は他人の側からやってくるだけではなく、自分の内部からもやってくる。強引に押し切ろうとするが、どこかで「つまずく」。
 妻を愛している、娘を愛している、父親を愛している--それは全部「真実」である。そして「真実」であるからこそ、ひとりの人間の中でそれが対立してしまう。「矛盾」した動きになって現われてしまう。
 --こんな抽象的なことは、まあ、いくら繰り返しても何にもならない。
 いちばん好きなシーンはどこか。そこから何か語ることができるか。語りはじめることができるか。考えてみるが……これが、また難しい。
 たとえば、ラスト近くの流産した女の家のシーン。そこにもいろいろなシーンが交錯するが、流産した女の娘(幼稚園くらい?)と流産させた(?)男の娘(中学1年生)が、和解が破綻したとき見つめ合うシーンがすごい。中学生の娘の方は、まだいくらか事情がわかる。何が起きているか、「大人」の感覚で理解できる。ところが幼稚園の娘には、そこで起きている「ややこしい」いさかいの細部、大人たちがどんな「真実」を追い求めているかということはわからない(はずである)。ところが、その客観的(?)事実(真実)がわからないけれど、何もかもがつまずいてしまった。もうどうしようもないということだけは、はっきりわかる。そして、絶望と憎しみ、哀しみが入り混じった目で、互いをみつめる。
 大人を--ではなく、こどもはこどもを見つめる。二人は仲良く遊んだこともあるし、ついさっきまでそれなりにわだかまりもなく庭で遊んでいたのだが、それはもう取りかえしがつかない「過去」になっている。二人には互いを憎み合う理由など何もない。批判しあう理由も何もない。けれど、憎しみ合って、みつめる。心底、憎しみ合っているわけではないからこそ、それが、ややこしく、重たい。真に憎しみ合っているなら、その憎しみを取り除けば、なんとかなる。けれど、そこには彼女たち自身の憎しみがないのだ。
 互いに、哀しみあう(哀しみを分け合う)という理由ならあるかもしれない。けれど、二人はそういうことはしない。その哀しみも、実は彼女たちに原因があるわけではなく、どうすることもできないところからやってきた哀しみだからである。
 わけがわからないまま、「あんたのせいだ、あんたが悪い」と目で言い合う。「私が悪い」と言えば何かが違ってくるかもしれないけれど、「私が悪い」は言えない。そこに嘘があっても、あるいはわけのわからないものがあっても「あんたが悪い」しか、言えない。--これは正しい表現ではないかもしれないけれど、そういう人間の剥き出しの、二人のこどもの「真実」が、大人たちの会話から断絶した世界で、しかし、直感そのものとしてぶつかりあい、つながる。「同じ感情」になる。敵対(?)しているのに、同じ感情を持ってしまう。「感情」同じだから、敵対してしまう。矛盾してしまう。
 ああ、そうなのだと、思う。いつでも矛盾は対立するもののぶつかりあいではないのだ。同じもののぶつかりあいなのだ。同じだから、ゆずることができない。そして、その矛盾の中で、いま、そこにある「感情」が「激情」にかわり、すべての人間をのみこんでゆく。
 そういうことがあるのだ。これはいったい誰の憎しみ、誰の哀しみ、誰の愛情なのか。わけがわからない。でも、そこには、そういう感情が「真実」として、そのままある。「肉体」として、そこにある。
 「真実」だけでは生きてゆけない。「嘘」だけでも生きていけない。愛だけでも生きていけない。憎しみだけでも生きていけない。それなのに、私たちはだれもが生きてしまっている。死なない。死ぬことができない。感情だけでは死ぬことはできない。感情かかえたまま、その感情が「真実」であることに苦悩しながら、生きてしまうのだ。
 生きるのではなく、生きてしまう。

 ラストシーンがもっとすごい。両親が離婚することになり、少女は父か母かを親権者として選ばなければならない。そして、彼女はひとりを選択する。それなのに、それをことばにできない。決めたことなのに、それが言えない。言おうとする瞬間、少女のなかの少女が反対するのである。父が好きという感情と母が好きという感情だけがぶつかるだけではない。父が好きというの自分が好き、父が好きというの自分が嫌い、母が好きというの自分が好き、母が好きという自分が嫌い、こんなふうに悩む自分が大嫌い、けれどこんなふうにして悩むことができる自分がいちばん好き--もう、わけがわからない。人間が好き--つまりひとりでは生きていけないということの哀しみが、「好き」というひとつの感情の中で対立する。「嫌い」という感情のなかで対立する。「好き」と「嫌い」は矛盾した概念だが、実は「矛盾」ではないという、奇妙な「矛盾」が起きる。「好き」と「嫌い」はともに「自分の感情」というひとつのなかで、身動きがとれなくなる。
 そして、その「人間そのものの感情」に触れたあと、奇妙(?)なことが起きる。父と母、男と女は、もうどうしようもないところまできてしまったのだが、その瞬間に「つながる」のである。「好き」でも「嫌い」でもなく、あ、いま、ここに苦しんでいる少女(娘)がいる。娘を愛しているのに、その苦悩をどうすることもできない、どうすればいいんだろうという、わけのわからなさ、ぼうぜんとした感覚のなかで「ひとつ」になってしまう。別れるときまった瞬間に「ひとつ」になってしまう。

 矛盾だけがある。矛盾だけが「真実」である。矛盾というかたちでしか、人間は「ひとつ」になれない。憎むことでしか愛せない。愛することでしか憎めない。悲しむことでしか幸せになれない。幸せでないと悲しめない。それなのに、生きている。そういういのちを生きてしまう。
 それにしても。
 感情(思い)は、こんな具合に、いつでも矛盾して、矛盾をとおして「ひとつ」になるのに、「肉体」は「ひとつ」ではない。「肉体」はまじりあわない。感情こそ混じり合わないように見えて、実は、いつでも混じり合う矛盾した感情さえ、混じり合って「ひとつ」になって、人間を苦しめる。でも、「肉体」は「肉体」。少女の肉体は少女を決定する。父の肉体は父を決定する。母の肉体は母を決定する。それは、混じり合わない。
 その不思議。その静かな「事実」。



彼女が消えた浜辺 [DVD]
クリエーター情報なし
角川映画


これも、読んでみてください。

http://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/8f5efe194eeb76ddfacc3072932417d5
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たなかあきみつ「チェリシチェフによるチェリシチェフ」

2012-04-23 10:15:28 | 詩(雑誌・同人誌)
たなかあきみつ「チェリシチェフによるチェリシチェフ」(「紙子」20、2012年04月10日発行)

 たなかあきみつ「チェリシチェフによるチェリシチェフ」は、ほんとうはもっと長いタイトルのついている詩(連作?)の「1」の部分なのだが、カタカナは苦手なので省いた。その書き出し。

ごく少数のひとしか、ごく少数のひとしか
内なるものらの内を覗きこめなかった
そこにはわたしが隠れている--いつも隠れている--
そして探しに探している--
カシュ・カシュ、隠れんぼだよ--けっして見つかりっこない!

 ことばが繰り返される。その瞬間、何かが変わる。1 行目は「ごく少数のひとしか」ということばの繰り返しで、なぜ繰り返されるのか、この1行だけではわからない。けれど、

内なるものらの内を覗きこめなかった

 この2行目で、1行目そのものもかわってしまう。
 「内なるものらの内」--「内」が繰り返されるとき、それは単なることばの反復ではない。世界の構造が深まる--というのは、この行の「意味」に負うところが大きいのだが、つまり「内」のなかにさらに「内」があるという二重構造(最初の「外」を考えると三重構造?)という「意味」に負うところが大きいのだが、
 と、書きながら。
 私は、もうその「二重構造」、「内なるものの内」を忘れている。「内の内なるもの」と書き間違えそうになりながら、その「二重構造」を忘れている。そして、もしかすると、

ごく少数のひとしか、ごく少数のひとしか

 というのは、「ごく少数のひとの内なるごく少数のひと」なのか、と思い、いや、それは違うなあ。
 それは「内部」に存在するのではなく、あくまで、「ごく少数のひと」と拮抗する「ごく少数のひと」なのだと思う。最初の「ごく少数のひと」と、次の「ごく少数のひと」はすべてが違う。同じことばで書かれているけれど、「少数」の実際の数字はもちろん、そこに書かれている「ひと」そのものも完全に違っている。違うことで、それぞれがそれぞれを浮かび上がらせているのだ。
 そこには、「差異」があるのだ。「ずれ」があるのだ。
 とすれば、「内なるものらの内」も「二重構造」ではなく、言い換えると「立体的な三次元」のことではなく、併存する(しかし互いに拮抗する)「内」なのだ。
 「併存」と書いてしまうと--書いてしまったのだが、
 「併存」と書くと、「三次元」ではない、といいながら、「内」という存在を含む「空間」(場)が浮かんできてしまうが、
 ここに書かれているのは「場」ではない。「場」であるにしても「時間」を含んだものである。むしろ「時間」そのものを「方便」として「場」を借りて描いているのだ。

そこにはわたしが隠れている--いつも隠れている--

 「そこにはわたしが隠れている」を「いつも」ということばをつかって反復する。そうすると、そこにある時間が「一瞬」ではなく、「広がり」になる。「広がり」という空間をさすことばが、ここに侵入してきて、「時間」を何か「場」のように勘違いさせる。「場」と一体の状態でしか「時間」は存在しえないということを、奇妙な形で暗示するのだが、
 その「いつも」って「永遠」?
 違うねえ。
 「永遠」とは無関係な「いつも」。それは、不思議なことに「永遠」ということばが、非常に「広い」ものをさすにもかかわらず、「いつも」とは逆のもの、一瞬のものということを印象づける。

 あ、何を書いているか、わからなくなってきたなあ。
 でも、いいさ。
 感想なのだから。思いついたことを書いているだけなのだから。

 で。
 この何かしら、ことばが繰り返される瞬間に、その繰り返しの隙間から--ことばを切断し、接続するその運動のなかから、「いま/ここ」にないものが噴出してくるのを感じる。それは繰り返すということの運動のなかだけで噴出してくるものなので、それを別のことばで言いなおそうとするとうまくかいない。(これは、私の感想がでたらめに動いていることの自己弁護かもしれないけれど。)
 
そこにはわたしが隠れている--いつも隠れている--

 最初の「隠れている」と二度目の「隠れている」は同じことばであるけれど、違うのだ。繰り返すとき、たなかは、ここでは「いつも」ということばを噴出させているが、それはほんとうに「いつも」であるかどうか、わからない。
 きっと違う。

そして探しに探している--

 これを、

そして探しに--いつも探している--

 と、言い換えることができない、あるいはそんなふうにことばを補足すると、あれっ、違うぞという印象が押し寄せる。
 では、「いつも」とは何なのか。

カシュ・カシュ、隠れんぼだよ--けっして見つかりっこない!

 「隠れんぼ」は「見つける」ことによって終わる。けれど、それは「けっして見つかりっこない!」。ここにある「矛盾」。
 「矛盾」が「いつも」である。それを強調する「けっして」が、ここで書かれている詩である。
 絶対的な矛盾--それに向き合う。そのとき「いつも」とはまったく逆の「永遠」(ランボーが見つけたような永遠)が噴出してくる。そして、その絶対的な矛盾とは、冒頭の1行が象徴するように、書いてしまえば「同じことば」になってしまうものなのだ。

 それこそ矛盾だよね。同じことばは矛盾ではない、けれど矛盾は同じことばでしか言い表すことしかできない。

カシュ・カシュ、隠れんぼだよ

 しかし、まあ、なんと美しい音楽だろう。「カシュ・カシュ」が私にはなんのことかわからないけれど、わからなくても気にならない。「カシュ・カシュ、隠れんぼ」。ここが美しい。
 絶対矛盾としての反復は、何かそういう不思議な「音楽」を持っているのだと思う。ことばだから、声だから、音だから、ね。
 この、ことばの肉体そのものが持っている官能は、次のような変奏も引き起こす。

もろもろの器官よ! そうとも、もろもろの器官は
まだまだ突出している
とはいえそれらは見ることが--それらには--できない
ああ、シルヴーカ、シトヴーカよ!

 「カシュ・カシュ、隠れんぼ」が正確な繰り返しではないように、「シルヴーカ、シトヴーカよ!」も正確な反復ではない。けれど、私は、そこに「反復」--つまり「同じもの」を感じてしまう。
 勘違い。誤解。
 なのか。
 それとも勘違い、誤解、と思うことが間違っているのか。

 --こう書いてるときの、あれやこれやのなかに、きっと詩がある。詩へとつながっていくことばの肉体がある、と私は思う。
 整理できないんだけれどね。


ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
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城戸朱理「詩の遠景・近景」ほか

2012-04-22 10:38:58 | 詩集
城戸朱理「詩の遠景・近景」ほか(「毎日新聞」2012年04月19日夕刊)

 私は好き嫌いが非常に激しい人間である。嫌いな人間に対しては我慢がならない。いや、いくらか我慢している。かなり我慢している。でも、我慢できなくなる。
 城戸朱理「詩の遠景・近景」は04月19日の毎日新聞夕刊に掲載されたものである。きょうまで我慢して書かなかったのだが、やっぱり批判を書いてしまう。
 吉本隆明が死んだことから書きはじめている。その2段落目。

 私が初めて氏の著作に触れたのは、学生時代のこと。文庫化された『言語にとって美とは何か』と『共同幻想論』だったが、海外の思想の影響からではなく、素手で日本と日本語に固有の思考の体系を作り上げていく、その姿勢には、やはり驚嘆を禁じえなかったことを思い出す。

 「海外の思想の影響からではなく」とはどういう意味だろう。どういうつもりで城戸はこういうことばを差し挟んでいるのだろうか。
 私は吉本隆明のことも城戸のこともよく知らないから誤解しているのかもしれないが、私は吉本隆明は日本人だと思っている。城戸も日本人だろう。日本人が自分の思想を作り上げていくとき、なぜ「海外の思想」を気にしなくてはいけないのか。なぜ、その「影響から」出発しなくてはいけないのか。「海外の思想の影響から」出発する方が奇妙ではないだろうか。
 だいたい海外って、どこ? 韓国? 中国? ミャンマー? ブラジル? ロシア?(城戸の学生時代は「ソ連」と呼ばれていたかな?)どこの国であれ、そこに長く住んでいた、そこの国のことばを話し、暮らしていたのならともかく、日本に住んでいて、日本語を話しているのなら、日本と日本語から思想を作り上げるしかないのではないだろうか。なぜ「海外の思想」の影響を受けないといけないのか。
 これが、私にはさっぱりわからない。--を、通り越して、頭に来る。「思想」というのは、どこにでもある。「思想」をもたずに生きている人間は存在しない。
 それに、「海外」という自分とは直接接触のない場、自分の話さないことば(理解できないことば)で語られる「思想」の影響を、ひとは、どうやって受ければいいというのだろうか。城戸って何か国語を話せるのかな? そして、吉本は?
 まあ、吉本はともかくとして、城戸は「海外の思想の影響から」出発して作り上げていく「思想」を尊重しているのかもしれない。城戸のことばは「海外の思想の影響から」出発して、それを日本語に翻訳して動かしているのかもしれない。
 しかし、「海外」って、そんなふうに「思想」にとって「絶対」のものなのか。「海外」の「思想」を踏まえないと、日本語で日本にある思想(いま、ここに生きているひとの思想)は語れないものなのか。あるいは、城戸にとっては、いま、ここに生きているひと、日本語で考え、日本語を話すひとは「思想」とは縁のないひとなのか。
 どんなひとでも、そのひとが暮らしてきた「世界」を背負ってことばを動かしているからおもしろい。そこに、それぞれの「思想」がある。逆を考えてみるといい。海外のどこかの国のひと、たとえばアフガニスタンのひとが、日本語で「寅さんの、それをいっちゃあおしめえよ、には日本人の思想が凝縮している。私は、その思想の影響から自分の思想を作り上げた」と言ったら、そういうのを聞いたら、その人のことを「すばらしい思想家」と思う? まず、びっくりして、このひといったい何、と思うんじゃない?
 城戸の「思想」の「定義」が私とはまったく違うのかもしれないけれどね。城戸にとっては、活字になって流通している難解なことばで世界について語ってものが思想なのかもしれないけれどね。



 城戸に限らず、「海外」指向の強い詩人は多いかもしれない。海外指向などないと思っているひとでも、意外と、どこかで「海外」に頼っているかもしれない。
 宮田修『雀/いかにもわたしは』(新世紀詩歌文庫、ジャプラン、2011年11月05日発行)に「雀/シンメトリー」という作品がある。

阿弥陀は
誰もが見初めるように
嬰児(みどりご)を可憐に仕上げた

われら雀の好む
植物の新芽 小動物
喰らわぬように
ありたいが
ヒトは喰らわず
為して
いるか

われら諸動物
喰らうものとして
万物のめくるめくシンメトリーの
世界に
ある

 ここに書かれている「思想」、--それについては、私は何かいいかいという気持ちにはならない。私は最終連の「シンメトリー」(タイトルにもつかわれているが)ということばを信じることができない。
 なぜ、ここで外国語? 海外のことば?
 シンメトリーはもう日本語として定着しているかもしれない。けれど、阿弥陀とか嬰児ということばとは違うところから出てくることばだと思う。そんな「海外」のものに頼らずに、というか、そういうものを振り捨てて阿弥陀と嬰児ということばをいっしょに動いていけば、そこに自然に日本語の、日本の「思想」が動きはじめるのに、と私は思うのである。
 さらにいえば、「阿弥陀」ということばに頼らずに(この詩集には、輪廻、というようなことばも動いているが)、もっと雀とともにあることば、雀を肉眼で見たときのことばで書けば違ったものが生まれてくるのに、と思うのである。


世界‐海
城戸 朱理
思潮社
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金井雄二「少量だが」

2012-04-21 12:27:12 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「少量だが」(「独合点」110 、2012年04月14日発行)

 金井雄二「少量だが」は、これが詩か……と問われたら、うーん、と悩んでしまう。その悩んでしまうところを、むりやり何か書いてみたいと思う。

もう五十を過ぎた中年の男
だからといって彼は屈強な人間ではない
左手の親指の横にできた
ささくれを気にしている
少量のいたさは集中力を半減させるので
爪の横からめくれだした状態の皮を
右手で剥いた
すべて剥けきれずにさらに深くめくれた
血がでてきた
少量だが
当然の感覚として
中年の男でもそれはいたい
いたいけれどもう少し剥いてみる
また血がでる
少量だが
ささくれは硬い皮だ
さらにひっぱると
さらにいたい
そしてさらに血がでる
血がでてくるとなんだか生きているみたいでうれしい
中年の男だから泣きはしないが

 まあ、自画像なんだろう。私は金井のことを知らないから、金井が五十をすぎているかどうか知らないが、自画像と思って読む。指にできたささくれを剥いたら血がでた、というような、わざわざ詩に書かなくてもいいようなことを書いている。つまり、そんなことを読んだって、だれも感動しないようなことを、「わざわざ」書いている。
 詩は「わざと」書くものだから、この「わざわざ」のなかに詩はある--といってしまうと、簡単なのだけれど、それじゃあこの作品の説明というか、感想にならないだろうなあ。詩の講座(私はそういうことをやってもいるのだが……)で取り上げたら、「わざわざ」だけでは納得してもらえないだろうなあ。
 で、私の架空の詩の講座。

質問1 知らないことばがありますか?
答え  ありません。
質問2 どこが印象に残りましたか? もし、この詩のなかから1行(あるいは、ひとこと)だけ選んで、ここが魅力的というとしたら、どの行になりますか?
答え1 えっ、わかりません。
答え2 「血がでてくるとなんだか生きているみたいでうれしい」の「うれしい」かなあ。
質問3 「うれしい」がどうして、詩?
答え  血がでるとふつうはうれしくない。それをうれしいと、言っている。そこが特徴的だから、たぶん、そういうことが詩なんだと思う。
質問4 あ、すごいなあ。たしかに、血がでてうれしいは変だねえ。「いたい」と言っているのに「うれしい」は変だねえ。そうすると「うれしい」は「いたい」からではないんだね。なぜ、うれしいんいだろう。
答え  「生きてるみたい」。生きていると感じられるから。
質問5 そうすると、この主人公は、ふつうは「生きてる」ということにたいしてあまり実感がないということになるのかなあ。
答え  ぼんやり生きている。でも、指のささくれに気がついて、それを剥いたらいたかった。痛みを感じ、血を見て、生きているということを感じた。それがうれしかったというのが、この作品のテーマになるのかなあ。
質問6 そうすると最後の「泣きはしないが」というのは、いたいから? うれしいから?
答え  ふたつがいりまじっていると思う。はっきり区別できない。
質問7 そういうふたつがはっきり区別できない状態、まじっているというのは、どういうこと? いたいとうれしいがまじっている。別なことばで言うと、どうなる?
答え  矛盾?
 
 そうだねえ。「矛盾」があるところに、詩がある。矛盾というのは、それまでだれも書かなかったこと。それを書くための「決まり」ができていない。それで、どうしても変な具合になる。そこが、まあ、新しい--といえるかも。
 でも、これくらいじゃ、何か物足りない感じがするでしょ? 詩を読んだ、文学を読んだという感動とは何かが違うね。
 金井は、そういうおおげさな「感動」を最初から目指していないのだろうけれど、こういう詩は、ちょっと講座で取り上げるには不向きだよねえ。たぶん、教科書なんかにも載らない、詩というもののなかからすりぬけてしまう、抜け落ちてしまう詩なのだ思うけれど、ここでちょっと最初にもどるね。

質問1 知らないことばがありますか?
答え  ありません。
質問2 じゃあ、もし、みなさんが指のささむけを気にして、その皮を剥くということをしたとして、そしてそれをことばにするとしたとき、ここにつかわれていることばで、みなさんがつかわないことばって、ある? このことば、変、と思う部分ってある?
答え1 「屈強な人間」という部分かなあ。こんなとき「屈強」なんて、おおげさすぎる。
質問3 ふつうは何という?
答え  えっ、わからない。思いつかない。わざわざ、そんなことを言わない。
 
 そうだねえ。「屈強な人間」なんて、わざわざこんなときにいうこと自体が変だねえ。 質問を変えるね。

質問3 「少量のいたさは集中力を半減させるので」という行はどうかな? 「少量」をもし自分のことばで言いなおすと、どうなるかな?
答え  「少し」
質問4 では、「半減」は?
答え  「半分に減る」
質問5 「集中力を半分に減らされる」って、実際に、言う? それって、ほんとうに「半分」かなあ。「量」を正確に言えることかなあ。
答え  正確には言えないと思う。

 そうすると、このことばのつかい方も変だよねえ。

質問6 「半減させる」は何といえばいいのかなあ。自分のことばで言いなおすと?
答え  集中力が落ちる、かなあ。
質問7 「少量」は?
答え1  少し、かな。
答え2 ささいな。ちょっとした。かすかな。

 そうですね。だいたい、そんな感じがふつうの日常のことばのつかい方だと思う。そうすると、金井の「わわざと」というのは、ふつうはつかうことばをつかわずに、ちょっとおおげさなことばで、なんでもないことを書いている--そこに「わざと」の秘密というか、金井が書こうとしている詩の特徴があるということになる。

 そういう気持ちで読んでいくと、

当然の感覚として

 ちょうど真ん中くらいにあるこの行が、とってもおもしろい。「当然の感覚として」。これ、「意味」はわかりますよね。
 でも、こんなとき、わざわざ、そんなことを言わない。
 で、とっても、変だと思う。
 この変だと思うことを、

質問  もし、また、みなさんが言い換えるとしたら? あ、間違えた。もし、この行を変だと感じる。そのときの変と感じるのはなぜ? ちょっと、言ってみて。
答え  えっ、わからない。

 私はどうも質問がへたくそだね。
 
 私はこの行をとっても変だと思う。変だと思う理由は、「当然の感覚として」というのが、「論理的すぎる」から。こんなところで論理的になる必要はない。皮がむけて血がでる、血がでたらいたい--これは「当然の感覚」。わざわざいう必要はない。

受講生から質問の声 でも、それは次の「中年の男でもそれはいたい」という行にかかっているのではないんですか?

 あ、そうですね。たしかにそうなんです。「当然の感覚として中年の男でもいたい」。いいかえると、こどもの場合でも、若い女性の場合でも、老人でもいたい。
 いまの質問は、とっても鋭い部分をついていると思います。
 つまり、「当然の感覚として」というのは、たしかに「中年の男」を強調するために書かれている。金井は、ここでは中年男を強調しているんですね。
 で、強引に私の言いたかったことに結びつけるようにして、詩にもどると。
 中年男を強調するときに「当然の感覚として」というような、一種の論理的な表現を持ってくる。ここに、この詩の「わざと」が象徴的に洗われている。「わざと」難しいことばをつかう。

質問1 その「わざとつかわれた難しいことば」というのは、よく見ると、何がありますか?
答え1 屈強な
答え2 半減
質問2 少量は、はどうかな?
答え3 「すこし」「ささい」「ちょっとした」ということばに比べると、やっぱりおおげさですね。
  
 で、私の、結論。
 この詩は、指のささくれを描きながら、「中年男」のことばのつかい方の妙な感じを浮かび上がらせて楽しんでいる。
 女性はきっとこういうことばの動かし方をしない。こういうことばのつかい方をしない。そこに、おもしろい部分がある。
 よくよく見ないと見落としそうなことだけれど、変なことばのつかい方(知っているから、変とはなかなか気がつきにくい--ことばのつかい方よりも、そこに書かれている指のささくれを剥くという内容・意味にひっぱられて、ことばのつかい方から目がそれてしまう)--そのつかい方から、人間が見えてくる。理屈っぽい、中年の男が見えてくる。肉体そのものとして、誰かのことを思い出したりしませんか? あ、こういう中年男がいる、と思い出したりしませんか?
 肉体が覚えている何か、誰か--そういうものを引っぱりだす力が、この金井の詩には、「少量だが」隠されている。
 ということになるのかな?



ゆっくりとわたし
金井 雄二
思潮社
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和田まさ子「皿」

2012-04-20 10:47:28 | 詩(雑誌・同人誌)
和田まさ子「皿」(「独合点」110 、2012年04月14日発行)

 和田まさ子は何でにでもなる。壺になったり、金魚になったり。「皿」では、皿になっている。

朝、
がちゃがちゃと食器を洗う音がして
わたしは皿になっている。
水桶の中で
茶碗にぶつかり、
箸につんつんつかれる。

 あ、いいなあ。「つんつんつかれる」。
 えっ、何がいいかって?
 「つんつんつかれる」の「つんつん」がわからない。いや、わからないというと変なのだけれど、何かに「つんつん」つかれたことを私は、私の「肉体」は覚えている。で、その「覚えていること」を別のことばで、つまり、和田が書いていることを自分のことばで言いなおしてみようとすると、言えない。ただ「つんつん」だけが、そこにある。「ほら、つんつん、だよ」「ちくちく」でもなく「とんとん」でもなく……。そのとき「肉体」は「痛い」わけじゃないなあ。くすぐったい感じがあるかなあ。うるさい感じがあるかなあ。「やめてくれないかなあ」と思うかなあ。いや、「もっと、やって」と時によっては思うかもしれない。「あ、そこじゃなくて、もう少し右……」。あ、違うなあ。こんな感じじゃないなあ。
 ようするに、言い換えがうまくいかない。ただ、それを「つんつん」と受け止めるしかない。こういうとき、私はふいに、「私の肉体」が「私の肉体じゃなくなった」と感じる。「和田の肉体になった」と感じる。瞬間的に、有無を言わさず、「和田の肉体にさせられてしまった」と感じる。和田には迷惑かもしれないけれど、こういうときって、快感だなあ。とってもきもちがいい。一種のエクスタシー。自分が自分でなくなる。
 自分に戻っていく必要なんかない。
 --言い換えると、自分のことばで言いなおす必要はない。そうか「つんつん」は、こういう具合につかうのか。こんな具合につかったことがなかったけれど、これが正しい(?)つんつんのつかい方なのか、と納得してしまう。
 あとは、もう、和田になって、詩のことばを読みつづけるだけ。
 和田が書いているのだけれど、私は和田のことを忘れてしまう。私(谷内)が書いた詩です--と言いたくなるような感じで、すーっと、ことばにのみこまれていく。ことばが動いているのか、私の肉体が動いているのか、よくわからない。

洗われたわたしは
つぎに拭かれてすべすべになる。
たいらな、しんと静かな湖に似ている。
なめらかなその感触に自分でうっとりする。

 「すべすべ」「しん」--これを、自分のことばで言いなおすことは、やはりできない。「うっとり」も、言いなおせない。もう、そのことばしか思いつかない。ね、こんなふうに、そこに書いてあることばしか思いつかないなら、それは和田が書いた詩であるかもしれないけれど、私(谷内)が書いたものです、と言ってもいいんじゃない?
 --というのは、まあ、乱暴な言い方だけれど。
 それくらい、好き。大好きだなあ。ここに書かれていることばのすべてが。

白い皿で
ふちに赤いラインがある。
小さなウサギが一匹描かれているわたし。

 いいなあ。わけもなく、皿になってみたい気持ちになる。私は皿である、と言いたい気持ちになる。家に、白くて、赤い縁があって、ウサギが描かれている皿がないのが悔しい。デパートで買ってこようかなあ、と思ってしまう。デパートで買ってきたら、きっと皿に変身できる、と思ってしまう。

 でも、皿っていいことばかりじゃないかもしれない。

今朝はスクランブルエッグとトマトをのせられた。
油っこいものは苦手だ。
ねっとりした感じが肌にはりついていやだから。
例えば酢豚なんかの日は最悪だ
自分で自分がいやになる。
今朝のメニューは許せる。

 そうか、皿はそんな気持ちになるのか。
 でも。
 これって、ほんとうに皿の気持ち?
 もしかしたら、和田の気持ち?
 和田って、油っこいものは苦手? で、その理由は「ねっとりした感じ」、しかもそれが「肌にはりついて」来る感じがいや? 脂性の男は苦手? 脂っこいものを食べる男は肌もべたべたしていて、いやだなあ、触られたくない、触りたくないなあ……という感じ?
 あ、そんなことは書いてない?
 書いていませんねえ。
 でも、思ってしまう。想像が暴走してしまう。
 だって、

自分で自分がいやになる。

 って、どういう意味さ。自分に選択権がないということ? 拒絶できないということ?ふーん。でもさあ、皿なんて、そんな「権利」そのものがないんじゃない? 皿ってだいたい、何も考えないんじゃない? 皿の声って聞いたことがある?
 「皿」って書いてあるけれど、それは「皿」じゃなくて、和田自身のことじゃない? つまり、比喩じゃない?
 あ、これは、もちろん間違ったことを、私はわざと書いているのだけれど--そういう思いがふっと紛れ込んでくるでしょ? そして、そうい思いを、和田のことばは、そのまま受け止めてくれるでしょ? 
 この文章を読んだ和田は「私はそんなことは書いていません。いいかげんなことを書くのをやめてください」と怒るかもしれない。和田は怒るかもしれないけれど、「ことば」そのものは怒らないねえ。
 怒っているかもしれないけれど、私は平気。
 どんどん怒ってね。
 私は私で、勝手に読むよ。

 あ、変な具合に脱線してしまったなあ。
 でも、こういう脱線をするのが、きっと詩を読む楽しみなのだと思う。そこにあることばを手がかりにして、そこに描かれている「もの」、この詩で言えば「皿」になってみたり、その「皿」を書いている詩人(和田)になってみたり、あるいはスクランブルエッグになってみたり、酢豚になってみたりする。
 いやがる皿に、酢豚になって、ねっとりはりついて、わざと「気持ち悪い?」なんてささやいてみるのも、意外と楽しいかも。
 皿はなんて言うかなあ。
 箸や茶碗は、そういう酢豚を見てなんて言うかなあ。
 洗剤をつけられて、洗われるとき--洗剤や水は、なんて言うかなあ。

わたしの好きな日
和田 まさ子
思潮社
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豊原清明「タツマキ・オトコ」

2012-04-19 10:53:43 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「タツマキ・オトコ」(「白黒目」34、2012年03月発行)

 豊原清明「タツマキ・オトコ」はシナリオである。

○ マユコの家・マユコの部屋(深夜)
  部屋の戸を開けて、窓を開けている。
  下着のマユコが、パソコンに自分の顔を映して、
  繰り返し、上唇を鼻の下にくっつけている。
  と、くしゃみする。
  パソコン画面を手拭きで拭くマユコ。
  携帯が鳴る。

 ファーストシーンのト書きである。このト書きに詩を感じる。映像の詩、映画の詩を感じる。--と書いても、私の思っていることはだれにも伝わらないかもしれない。
 なぜ、映画の詩、なのか。
 映像が「過去」を持っているからである。「過去」を「役者」の「肉体」にまかせているからである。たとえば「下着のマユコ」。なぜ、下着なのか。豊原は「説明」を書かない。たとえば「風呂上がりなので」という理由を書かない。「セックスのあとなので」という理由を書かない。「夏なので」という理由を書かない。書かずに、「下着姿である理由(過去)」を役者にまかせている。--これは、逆の言い方をすれば、豊原の「肉体」のなかで、そこにいる役者が完全に「現前」しているということである。豊原には、役者の「過去」が自分自身の過去のように、
 --あ、これは正しくないなあ。
 豊原には、役者の肉体が、自分自身の肉体のように見えている。役者の肉体を実感しているということである。役者の肉体を実感しながら、豊原はことばを書いている。
 その実感が、そのまま、ことばになっている。
 実感とは、ようするに肉体が覚えている「過去」のことなのだ。たとえば、風呂上がりは汗がひかないので下着だけでいる。あるいはセックスをしたあとは、体にほてりがのこっているので下着だけでいる……。そういう、私たちの肉体が覚えていることを思い出させる最低限のことばを豊原は書く。そうして、その最低限のことばで、余分なものを取り払った肉体(役者)をそのまま、そこに描いて見せる。
 シナリオなのに、シナリオを通り越して、映像(肉体)そのものが見えるのは、そのためである。

 「パソコンに自分の顔を映して、」というの、役者の行動(演技)の説明であると同時に、私たちの「肉体が覚えていること」を呼び覚まし、私たちの肉体を役者の肉体に重ね合わせることばである。「繰り返し、上唇を鼻の下にくっつけている。」あ、目に見えてしまうなあ。スクリーンいっぱいに広がった、顔、それがだんだん上唇と鼻に焦点をしぼっていく。クローズアップになっていく。そういう映像の運動(カメラの運動)も見えてくる。肉体と、カメラと、両方が「演技」をするのだ。それが映画だ。
 で、そこに突然。

と、くしゃみする。

 これは「現在」を突き破ってあらわれた「過去」である。「肉体」には常に「過去」が存在し(肉体は常に過去を内包し)、それは「現在(いま)」を突き破って、未来へと私たちを動かしていく。

パソコン画面を手拭きで拭くマユコ。

 これは、飛び散った鼻水(?)を拭くという動作だが、そこに予想もしなかったこと、つまり未来がはじまる。そんなことをするつもり(予定)はなかったのに、マユコはパソコンの画面を拭かなければならない。--こういうことは、とても小さなことに思えるかもしれないけれど、そうではない。とても大きなことだ。時間が、過去→現在→未来と動いていくものだとしても、それは「予定通り」ではない。いつでも予想外のことが起きる。過去が突然暴れ出し、脇道へと未来を押しやる。そして、その「押しやり」、一種の過去の「暴力」を「肉体」はとても自然に消化してしまう。
 なぜ、ここでパソコンのモニターに飛び散った鼻水を拭かなければならないのか--などと、肉体は考えない。「なぜ」を考えずに、ただ「肉体」を動かし、モニターに飛び散った鼻水を拭く。その動作は、やはり肉体が「覚えていたこと」である。何が汚れたら、拭きとる。手で拭きとる。--そうして、その拭きとり方に、また「肉体が覚えていたこと」がぐいっと顔を出す。そして、それがどんな「顔の出し方」であっても、肉体は肉体の連続性で、それをつないでしまう。
 ここが、おもしろい。
 意識などというめんどうくさいものは無視して、ただ肉体は動く。その動きにはいつも「過去」がある。どんなに飛躍したことがらでも、それをしてしまう肉体はいつも連続してしまう。私たちの意識に、連続と不連続があるとしても、肉体は不連続など気にしない--というか、肉体の連続性の中に、すべてを飲み込んでしまう。
 (ここから私は、ほんとうは、この世界に存在するのは「肉体」だけ、精神だとか、ことばなんて存在しない、ということを言いたいのだけれど、言えない。そういう論理は「乱暴」だと感じる気持ちがどこかにある。でも、「肉体」しか存在しない、ことばはたまたまそのときの「方便」としてそこにある「肉体の一部」と、私は思っているのである。--脱線した。)

 で。
 「くしゃみ」によって(たとえば、下着だけでいたので体が冷えて反応してしまったという「過去」の噴出によって「現在」が突き破られ、過去→現在→未来という「予定」が破られたのを利用して、

携帯が鳴る。

 ああ、すごい。
 豊原は意識して書いているか、無意識で書いているのかわからない。たぶん、こういうリズムは意識してというよりも、無意識での方がリアルに動くと思うのだが、こういう「未来」の突然の動き、「現在」が「未来」へとかわっていく瞬間を、豊原はとても端的に、つまりとても力強く描ききってしまう。
 もう、映画そのものの中に取り込まれてしまう。シナリオを読んでいるのだが、目の前にはスクリーンがある。そしてそこには役者がいる。

 このあとが、また、すばらしい。

○ まさおのメール「あまり無理しない方がいいですよ。」
恋もいいですが、現実に相手がいないんやから、
趣味の漫画の案を決めたら? いやっ、命令ちゃいまっせ」

○ マユコのメール「あのう、早朝三時に逢えませんか?」

○ まさおのメール「わかった。三時まで寝るね。お休み。」

 むちゃくちゃだなあ。なんのことか、ぜんぜん、わからない--というのは、嘘。たったこれだけのメールなのに、すべてがわかったつもりになる。そうか、マユコは趣味で漫画を描いているのか。マユコとまさおは、親しい間柄なのか……。具体的にはわからないが、私たちの(私の)肉体が覚えていることが、そこに書かれていることばに反応する。むちゃくちゃなものの言い方、脈絡のないことばの奥には、実は、強い脈絡があるということを納得してしまう。「頭」ではなく、肉体が納得してしまう。肉体は、そういうむちゃくちゃな会話があることを「覚えている」。
 豊原は、そういう「肉体がおぼえていること」をそのまま「ことば」にしてしまうことができる。そのことばを「映画」という形で、他人の(役者の)肉体にまかせてしまう--つまり、役者の肉体の中に「覚えていること」を注ぎ込み、その肉体をリアルに動かすことを知っている。
 これは豊原の本能だと思う。
 それが本能だから、私は豊原を天才と呼びたい。


夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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ジェシカ・ハウスナー、マルティン・ゲシュラハト監督「ルルドの泉で」

2012-04-18 10:28:28 | 映画
監督 ジェシカ・ハウスナー、マルティン・ゲシュラハト 出演 シルヴィー・テステュー
 
 ルルド--といえば、フランスでは、「奇跡」が起きる場所として有名なのだろう。この映画では全身の筋肉が硬直して動けない若い女性が、健常な体に戻るこそを願って、ルルドへやってくる。彼女と彼女の周辺の人物を描いている。
 この女性を演じるシルヴィー・テステューは、非常に透明感がある。その透明な感じが、この映画全体を内側から輝かせている。私のようにキリストとは無縁な人間、奇跡などほんとうにあるのかと思っている人間の、まあ、不信心な思いもきちんと受け止めて、そのまま透明な光として他の登場人物を照らしてくれる。
 どういうことか、というと……。
 多くのひとが奇跡を求めてやってくるわけだけれど、奇跡というのは起きないから奇跡であって、それを支えるひとたちは半分、そのことを知っている。つまり、信じていない。信じていないのだけれど、それを求める気持ちまでもは否定しない。そして、奇跡を求めるひとたちをサポートする。当然、そこには奇跡とは無縁な、奇跡を求めない人間の欲望が動く。
 女性を支える仕事をしながら、一方で、「あ、あの男、色っぽい。セックスしたい」というような思いを胸に抱いている。実際に積極的に近づき、セックスもしてしまう。女性の介護よりも、自分のセックスの方が大事であるので、それがそのまま態度にも出てしまう。女性は、それをただ目でしっかりとみつめる。非難したりはしない。人間とは、そういう欲望をもっているということを、そのまま受け入れている。
 彼女の周辺には、牧師(神父?、どっちだっけ)やボランティアの軍人たちがたくさんいるのだが、そこで会話されることばも、半分、信仰とはほど遠いものである。たとえば、なぜ奇跡はルルドで起きるのか。マリアがキリストに旅行を持ちかける。あそこも行った、ここも行った。「では、ルルドは?」「ルルドか、行ったことがない、行こう」そういうことで、ルルドで奇跡が起きる--というジョーク。これは女性が直接聞いたジョークではないが、そういうものがそこでは飛び交っている。そして、神父(牧師?)はそれを聞いても拒絶したりはしない、ということをとおして彼女の周辺の「俗」がていねいに描かれる。
 そういう彼女に、「奇跡」が起きる。手が動き、足も動き、自分で洋服を着て、歩くこともできるようになる。
 意思は、この病気にはときどき「溶解期があって、体が動くようになることがある。その後ふたたび悪化する」と説明するのだが、「奇跡」と認められる。--ここからが、この映画の真骨頂である。
 女性の中に、恋愛の欲望、セックスの欲望が芽生えてくる。そして、それを男に伝えもする。男は戸惑う。自分が選ばれたことが「奇跡」とどう関係するのか。一種の恐怖である。周りの人も「なぜ、彼女が」といぶかる。そこには「妬み」も入ってくる。もっと信心深いひとがいるのに、ほんとうに奇跡なのだろうか、と思ったりもする。人間というのは、まあ、自分のことしか考えない。それはそれでいいのだが、そういうことを、この映画は、女性の透明な視線で、そのまままっすぐに描いている。
 そして。
 女性が男とダンスをする。ターンする。そして、突然、床に倒れる。何が起きたのか。単につまずいたのか。それとも病気がぶりもどしたのか。--このことを、この映画は描かない。車椅子をもってきて、「立っていないで座ったら」とすすめる。女性は、「立っているから大丈夫」と答える。その彼女から、周りの人がどんどん離れていく。母親だけを残して、だれもいなくなる。いや、いるのだが、完全な「溝」ができる。女性に男を奪われた看護師は、ステージで歌手といっしょに「幸せ」ということばがたくさん出てくる歌を歌っている。歌手に媚を売っている。
 直接描かれるわけではないのだが、「やっぱり奇跡なんかじゃなかった」という声が、強く強く響いてくる。「彼女に奇跡なんかが起きるはずがない」。それは、ある意味で「よかった」という一種の喜びの声である。彼女に起きたことが奇跡ではなかったのだから、私にそれが起きる可能性がある--とだれもが思うのである。ダンスをいっしょに踊っていた男も、すーっと離れていって、もう戻っては来ない。
 その声を聞きとって、女性は車椅子に座る。そばには母だけがいる。そこで映画は終わる。

 で。

 ほんとうに奇跡は起きなかった? それとも起きた?
 つまり、彼女は、意思が言ったように「溶解期」を味わっただけで、もとの病気に戻ってしまうのか。まあ、科学的には、そういうことになるのかもしれないけれど、実は、よくわからない。ほんとうに改善したのかもしれない。肉体は自由に動くようになったのかもしれない。けれど、ひとがそれを祝福してくれないから、車椅子に座っただけなのかもしれない。肉体の回復に反比例(?)するようにして、彼女は人間のこころのなかの闇を見た、人間の「本性」に気がついた、そして疲れてしまった--ということかもしれない。
 どちらとも受け止めることができる。
 私は--不思議なことに、神も奇跡も信じたりはしないのだが、なぜか、奇跡は起きたのだ。彼女は肉体的には完全に健康な状態にもどったのだと感じた。しかし、そのとき、人間のこころが実際にどんなふうに動いているかを見てしまった。そして、激しく疲れてしまった、立っていられないくらい疲れてしまった、と思ってしまった。
 それは、まあ、ことばを変えて言えばキリストになった、マリアになった、ということかもしれない。
 そんなことを思ってしまうくらい、人間の描写が冷徹なのである。その冷徹を、シルヴィー・テステューの透明な目、その視線の輝きが貫いている。実際、ラストの失望の暗い目は、神父に「なぜ、私が苦難を受ける人間として選ばれたのか、ひとがうらやましい」と苦しみを訴えたときの目よりも、はるかに絶望的なのだ。
 奇跡はあるのか、ないのか--ではなく、人間は何を考えているか、何を感じているかを、「奇跡」を狂言回しにして描いた映画だと言える。

 つけたし。
 最後に女性の看護師をつとめた若い女性が歌手といっしょに歌っている歌が流れる。これが、私にはこの映画を象徴しているように思えた。歌手(男)の声は安定している。きちんとメロディーもリズムもあっている。ところが看護師の声は外れている。外れているといっても極端に外れているわけではないのだが、まあ、ふつうの歌である。それが重なったまま歌いつづけられる。
 さて、あなたは、どっち? 歌手の方? 音が外れる若い女性の方?
 まるで、いまこの映画で起きたことは、奇跡? それとも単なる病気途中の一時的な現象? といっているようでもある。
 どこかに「理想」がある。そして他方に「現実」がある。それはいつでも「二重」になっている。そこから、ひとを、何を選びとるべきなのか。選びとったものを何と名づけるべきなのか。
 宗教というより、哲学の映画なのかもしれない。



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進一男『その人のこと』

2012-04-17 10:41:39 | 詩集
進一男『その人のこと』(沖積社、2012年03月21日発行)

 進一男『その人のこと』の「その人」とはキリストのことである。これまでの詩集のなかからキリストを描いた詩を集めたアンソロジーということになる。私は不信心もので、神というものについて考えたことがない。神を感じたこともない。だから、私の書く感想は、進の書いていることとは相いれないものになるかもしれない。
 私が興味をもったのは「師」というタイトルの作品である。

師をめがけて、人々は石を投げた。弟子たちの言えも叩き毀され、水を掛けられた。やがて人々は去って、師も弟子たちの姿も何時しか消えてしまった。沈黙の言葉が残された。私はそれを拾い集めようとしたが、私の手には負えなかった。でもその幾つかを、私は胸の内ポケットに蔵いこんだ。時が過ぎ時が移り変わって、弟子たちは帰ってきた。だが私は師の姿を見なかった。師は何処へ行ったのか、誰もそのことを口にしなかったが、私には明らかに分かっていた。師は更に師を受け入れない人々の中に、自ら入っていったのだということが。何故なら、かつて私が拾い集めた言葉の中にはそのことが誌されていたから。

 「師を受け入れない人々の中に、自ら入っていった」、そうすることがキリストの運動なら、師を認め、師を師と仰ぐひとにとって、たとえば進にとって師はキリストでありつづけるのか。
 キリストは、キリストを信仰するひとを求めるのではなく、キリストを拒み、石を投げるひとを求め、そのなかへ入ってゆく。石を投げられてこそ、キリストはキリストであることができる。信仰の対象になったとき、もうキリストではないということになりはしないか。
 キリストを「目撃」するなら、そしてキリストといっしょに生きるなら、それはキリストの迫害を見つづけることになる。
 キリストを受け入れないひとがいる。だから、そのなかへと進んでゆく。キリストにとって、到達点はない。だから、神として存在しうる。
 --これは、何かが矛盾している。
 神(キリスト)が存在するとしても、進がキリストを信仰しているにしても、そのキリストは進といっしょにいるのではなく、迫害するひとといっしょにいる。迫害されることで、キリストは神になる。

 信仰するひとを、キリストは必要としていない。自分の「存在理由」として認めていない。

 これは、逆の視点から見ていけば、少し違ったものが見えるかもしれない。「矛盾」が「矛盾」であるけれど、違ったものに見えるかもしれない。
 迫害されるとき、キリストがキリストになるのなら、ひともた迫害されるときにキリストに近づくのかもしれない。なぜ迫害されなければいけないのか。なぜ神は私に迫害されるようにしむけるのか--その、わけのわからない疑問に苦悩するときに、その疑問に苦しむことを支える何か、それがキリストということになるかもしれない。
 迫害されるとき、ひとはキリストではない。けれど、キリストと同じ「運命」を生きている。その苦悩の「運命」のなかで、ひとはキリストにいちばん接近するのだろう。直にキリストを感じることになるのかもしれない。
 私は、かつて読んだ遠藤周作の『沈黙』を思い出している。神、キリストとは無縁な時間を私は生きているが、その小説のなかで、何人かの信者たちが苦悩する場面では、あ、このひとたちはたしかに神というものを感じているのだと思った。それは、私の体験したことのない不思議なことがらなので、私が書いていることが正確かどうかわからないが、そうか、対象(といっていいのかな?)とそういう接近の仕方があるのか、と驚いたということである。

 もし、そうだとするなら。

 進の書いている一連の作品が私にはよくわからない。進の苦悩がわからない、ということでもある。進は師(キリスト)を信じてしまっている。そのときほんとうにキリストはいるのか、進のかたわらにキリストはいるのか。
 不在なのではないのか。
 しかし、不在が「悪い」わけではないかもしれない。不在だからこそ、その不在を埋めようとして進はことばを書く。不在だからこそ、そこに存在しない神を書く。--そういう「矛盾」のなかで、何かが浮かび上がるということかもしれない。
 「師を受け入れない人々の中に、自ら入っていった」ということばを書き直せば、「進むは神の不在のなか(世界)へ、自ら入っていった」になるのかもしれない。「何故なら、神は常に迫害するもの、不信心の人々の中へ--つまり、神の不在の世界へこそ入っていったと、あらゆる書物に記されている。神の不在の場でしか神に出会えないからだ」ということになるのかもしれない。

 あ、でもねえ。
 なんといえばいいのかよくわからないから、適当なことを書いてしまうのだが、進のことばには、何か肉体の苦悩がない。私がいま書いているこのことばのように、何か「頭」だけでことばを動かして、それがほんとうに動いているかどうかを確かめているようなところがある。
 「頭」のなかだけでは、ことばは、矛盾も矛盾と定義することで、楽々と動いてしまう。これって、変だよなあ、と私は思うのである。
 しかし、まあ、これはキリストと無縁な私の感想。キリスト教の信者が読むと違った感想になるかもしれない。



進一男詩集 (日本現代詩文庫 (94))
進 一男
土曜美術社出版販売
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木村草弥『昭和』

2012-04-16 12:27:46 | 詩集
木村草弥『昭和』(角川書店、2012年04月01日発行)

 木村草弥『昭和』は歌集。ことばの印象(響き、音楽)が、少し日本語と違う--というのは変な言い方だが、何か「子音」がくっきりしている。それはたとえば、

イシュタルの門の獅子たち何おもふ異国の地にぞその藍の濃き

 というような「異国(外国)」の音が入ってくることと関係があるかといえば、まあ、ないわけでもないのだろうけれど、それだけではない。
 この歌では「イシュタル」よりも「獅子たち」の「たち」に、私は不思議な音の「すっきりした音」を聞く。奇妙な言い方であることを承知で言うのだが、それはバーブラ・ストライザの歌を聞いているような響きである。一つ一つの「子音」がはっきりしている。耳にくっきりと残る。(昨年の夏以降話題になった由紀さおりの歌が「母音」の音楽であるのと比較して、私はバーブラの歌を「子音」がはっきりしている、というのだが……。)
 で、この子音のはっきりした印象が少し日本語と違うという感じを呼び起こすのである。
 「その藍の濃き」の「あい」という母音だけのことばさえ、なぜか子音が含まれていると感じてしまう。私の耳が聞き間違えているのだが、先に書いた「たち」と「あい」の母音の組み合わせが同じだからかもしれない。どこかに「たち」の音の余韻があって、そのために「あい」を母音の繋がりではないと聞きとってしまうのかもしれない。
 あるいは、その表記が「藍」と画数の多い漢字であるために、その画数の多さ、角の多さが「エッジ」を感じさせるのかもしれない。「エッジ」が子音という感覚を呼び覚ますのかもしれない。
 私はもともと音読はしない。だから視覚でとらえたものが、画数→エッジ→ことばのとんがり→子音という具合に変化しながら、肉体のなかでまじりあって、そこに「音」が響いてくるのかもしれない。
 「その藍の濃き」の「藍」と「濃」という漢字の組み合わせも、そういうことに強く影響してくる。
 歌全体としては「の」の音、「の」に含まれる母音「お」の音の繰り返しがあり、それは「日本的」な音の繋がりなのだが、「異国の地にぞ」の「ぞ」が割り込み、なだらかな音の繋がりを断ち切る。濁音の強さが、母音の響きをいったん断ち切る。洗い流す。そういうところにも、「エッジ」を感じる。それが子音が強いという印象を呼び覚ますのかもしれない。
 こういう音楽を聞いていると、不思議なことに、歌のはじめの「イシュタル」の方が母音の絡み合いがやわらかくて「日本語」かもしれない、と思ってしまう。

祈らばや薄明のわが胸中の沼の一つの橋渡りゆく

 ここには外国の地名は出てこない。けれど、「薄明」「胸中」という漢語がふたつ出てくると「日本語」というよりも、中国語(漢詩というべきなのか)の印象が強くなる。私は中国語は知らないし、漢詩も知らないのだが、私の何も知らない耳には、そのことばの「エッジ」が強く響いてきて、あ、日本語の響きとは違うなあ、と感じるのである。
 「祈らばや」というのは、「日本語」でしかないのだが、「や」ということばでいったんことばが切れる感覚も「エッジ」を感じさせる。「ば」という強い音があり、それに負けないくらい「や」も強く響く。「や」は「い・あ」と母音が凝縮した感じで、その強い響きが、必然的に「薄明」「胸中」というくっきりしたことばを呼び寄せるのかなあ。
 それにしても(こんなときに、「それにしても」ということばが適切かどうかわからないが)、この歌は不思議だ。書かれている内容(意味)は非常に弱い(うっすらとした)風景なのに、音が強くて、その音が弱々しい風景(情景)を、歌の内側からくっきりと支えている。絵で言うなら、水墨画にペンで輪郭を描いたような感じがする。ふたつの「技法」(音楽、旋律、リズム)がまじっている。

 木村の歌には2種類の音楽がまじっている。それが、日本語で書かれながら、日本語の歌とは違うという印象を呼び覚ますのだと思う。

まみどりの宙(そら)を孕みし雨蛙野あざみ色に黄昏は来る

 歌集中、私はこの歌がいちばん好きなのだが、この歌に感じるのも不思議な音楽の出合いである。「まみどり」「(野)あざみ(色)」は、ことばのなかに濁音をもついう「音」の構造が出合うと同時に、「ひらがな」という形でも響きあう。目と耳が私の肉体のなかで、いっしゅん、すれ違い、入れ替わり、その融合する感じが私には楽しい。
 「雨蛙野あざみ」の漢字のつらなりも、とてもおもしろい。視覚上の読みやすさからいうと、この漢字の組み合わせは読みづらい。読みづらいのだけれど、その読みづらさのなかに、不思議な凝縮がある。
 宙→野→黄昏。
 この、不思議な広さが、「雨蛙+野」の結合によって、「いま/ここ」に凝縮する感じがする。野原に雨蛙がいる。それは宙(空、なのだけれど、空を超えた存在)と野に代表される地球を結びつける。天体の運動である黄昏(時間の変化が色の変化として動く)が、小さな雨蛙の色と向き合い、一期一会の出合いをする。それを「来る」という短い日本語で断定する形で演出するところが、非常に、非常に、非常におもしろい。
 いいなあ、この「来る」は。
 この出合い(一期一会)は、日本的感覚といえば日本的なものだと思うけれど、「宙」と書いて「そら」と読ませることに象徴される漢字のつかい方--そこに「日本語」を少し逸脱しているものがあると思う。それが「雨蛙野」という漢字の連続を刺激している。さらに「黄昏」という漢字を刺激している。
 繰り返してしまうけれど、その出合いを「来る」が締めくくるところが、とても刺激的だ。

 こういうおもしろさは、短歌という形式にあっているのかもしれない。「現代詩」だと長くなりすぎて、木村のやっていることは「音楽」ではなく、ノイズになってしまうかもしれない。ノイズにもノイズの音楽があるのだけれど--音楽としてのノイズではなく、「頭でっかちのノイズ」になってしまうかもしれないなあ、と思った。

 あ、書き漏らしそうになった。(というか、すでに書いたことを別なことで言いなおすと、ということになるのかもしれないが……。)--まあ、これから書くのは、余分な補足です。
 日本語的ではない--という印象は、木村の短歌が、「5・7・5・7・7」でありながら、それを感じさせないところにもあらわれている。「5・7・5・7・7」を感じさせないというのは、そこに複数の出典のことば(リズム、表記)があるからだ。「日本語」だけれど、日本語以外のものがあるからだ。

ひといろで描けといふなら田園は春の芽ぶきの今やさみどり

 「田園は」「でんえんは」と5音に数えるのかもしれないけれど、私の耳には3音にしか聞こえない。それは表記の「田園は」という3文字ともぴったり重なる。「田園」そのものは日本語なのだけれど、最後の「さみどり」という日本語と比べると、リズムの出典が違う。「肉体」を潜り抜けるときの感じがまったく違う。それで、私はそういうものを「日本語以外」というのだが……。


歌集 昭和
木村 草弥
角川学芸出版
コメント (1)
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