詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(98)

2005-12-31 14:23:16 | 詩集
「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

 存在と非在のあわい、そこに立ち上がるもの。そうしたものへの視線は、木坂涼の詩にも描かれている。「一個のたまごのように」。そこにも吉田、中村につうじるものがある。

通りで
幼児のてぶくろを拾った
落とさないよう無くさないよう
右と左が肩にわたす毛糸で結ばれていた

とたんに
今はもうない
私のむかしのてぶくろについて
静かな口調で遠い記憶が語りかけてきて

 今、ここにないものが「語りかけてくる」とは、今ここにないものが「立ち上がってくる」ことと同義である。そしてその瞬間、それは「過去」ではなく「現在」にかわる。その瞬間、過去と現在が一体となる。吉田の「花」、中村の「ツワブキ」、木坂の「てぶくろ」は、その意味で同じ運動、同じ精神の奇跡の象徴である。
 木坂の特長は、そうした哲学にとどまらず、そこから日常へ引き返してくる動きにある。

とたんに
今はもうない
私のむかしのてぶくろについて
静かな口調で遠い記憶が語りかけてきて

それと歩調をとりながら家の階段を上がり
ドアをあけた
昨日も今日も嵌(は)めているてぶくろからは
誘導できないこの
物的なまでの非物的なからくり

無くしものが解いて放つ記憶の流儀
日記へ

一個のたまごのように置こう

 「たまご」。不安定なまるみ。重心が定まらず、少しのはずみで転がりそうなもの。落ちれば割れてしまう、か弱いもの。木坂の感性は、そうしたやわらかなものに寄り添っているようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(97)

2005-12-31 13:57:07 | 詩集
 「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)
 
 通い合う感性。たとえば吉田文憲「幽火」と中村稔「冬の到来する日に」。

それ以来、なんにちもなんにちも雨の日が続きました。雨がわたしを罰しているのでしょうか。いっときの夕暮れに、井戸のそばに白くひかるものが立っていました。あれはなにかの花だったかもしれません。  (吉田)
*
----あ、ツワブキが一輪、凛としてその黄の花を立てている。  (中村)

 花が立っている(立てている)。この通い合う感覚に、私は立ち止まる。私は「花が立っている」とは書かない。花が咲いている、と書く。しかし「立っている」が理解できないわけではない。むしろ、そのことばに託されたものが、それこそすっくと立ち上がってくるように感じ、はっとし、立ち止まるのだ。
 そして、そこに「日本語の歴史」も感じてしまう。

いまの私が存在することはない。
いま、と私が感じたその瞬間、
いまはもう過去になっている。私とは
茫々たる過去の堆積からなる幻にすぎない。  (中村)

 こうした哲学は、ある詩人に共通のものだと思う。
 意識のなかから屹立するものがある。それを「立っている」と表現する日本語の歴史がある。
 「現代詩」もまた「歴史」を生きている、と思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(96)

2005-12-30 23:49:08 | 詩集
「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

 白石かずこ「Summer Time」を読む。亡くなった母親を詠んだ詩だ。

存在しないことにより存在する 永遠を
彼女は獲得したのだ ああ、
ありがとう、というのを忘れた あなたがこの世を
去るのが too soon あまりに静かな吐息だったから

永遠というのは はかないネ
わたしの内側で存在するだけだから
この果てしある内側に
果てしない 即ち永遠が いま
           たゆたっている

 永遠の複数の定義がおもしろい。「存在しないことにより存在する 永遠」。それは「わたしの内側で存在するだけだ」。だから「はかない」。
 これは表面上の定義である。論理上の定義である。そしてその定義を突き破って存在する定義がある。そこに「詩」がある。

 わたしという存在は「果てし」がある。限界がある。その内部でこそ「存在しないことにより 存在する」ものがある。

 矛盾のなかの、拮抗する精神の運動。白石の詩にはいつも、そうしたものが輝いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(95)

2005-12-29 01:07:11 | 詩集
「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

 安水稔和の「生きのびる」は新潟地震の日に見つめなおした木を描いている。された阪神大震災のとき焼けた木だ。黒こげになって、樹皮を落として、木の芯をあらわにして、そのあらわな木肌をまわりの焦げていない樹皮が包み込んで生き延びた木だ。

カルス[callus]
傷ついた受傷部分に盛り上がって生ずる癒傷組織。
ここで質問。
この九年間ずっとこの木は焦げた樹皮を落し
カルスを生じるのでしょうか。
--ほんのすこしでもいい、思ってください。

 ここにある「詩」は、実は引用部分にはない。引用にならない部分に「詩」がある。

 安水は、1行あけてつづく次の連で安水自身が思ったことを書いている。その部分は引用しない。読者がまず思ってみなければいけないことだからだ。
 「ほんのすこし」も「詩」である。あるいは、その「ほんの少し」を具体的にあらわしている「1行あき」のなかに「詩」がある。「1行あき」で表現された、精神のいっときのたたずみ。こころのなかで何かを思ってみる。その時間の不思議な充実。何かを探している充実。そこに「詩」がある。



 小池昌代の「ある映像」も新潟地震のことを書いている。車ごと土砂にのみこまれて奇跡的に助かった男の子と助からなかった母親。それを映すテレビの映像。そのときの小池の思い。

テレビ画面は
その後 奇跡のように助けられたという
二歳の男の子の話ばっかり
母親は死んだのか 生きているのか
そのことには まったく触れない報道で
触れないがために、母親は死んだのだな、と
わたしは察したが、わかりたくはなかった

 小池は「思う」のかわりに「察する」ということばをつかっている。
 「思う」ことはわかることである。わかることは、ある何かを共有することである。(引用しなかった安水の最後の連を読むと、そのことがわかるだろう。)しかし、一方で「わかりたくはなかった」という共有もあるのだ。
 そこから、静かな、しかしとても強い悲しみが立ち上がってくる。

 「わかりたくはなかった」に深い深い「詩」がある。

 一方、この小池の作品には、そうした悲しみの「詩」のほかにもう一種類の「詩」が共存している。

閉じられたこころには もう誰も入ってこられないよ
わたしのなかには いつのころからか
完璧な一台のテレビが入ってる
そう思ったとき わたしのそとに
一台のテレビが ありありと残った

 そして、小池が書こうとしているのは、実は今引用した方の「悲しみ」である。「思う」ことによって、自己の内部と外部が成立するのだが、自己は内部にあるのではなく、外部として存在する。
 外部にあるからこそ、それを内部に取り込もうとする。ことばによって小池の内部にしようとする。
 そうした精神の動きが「詩」である。

 外部には「わかりたくない」ものが存在する。「わかってはいけない」ものかもしれない。だが、詩人はそういうものもことばに定着させようとする。ことばには何ができるのか、それを確認しようとする。

でもわたしは見たよ 忘れられない
誰も触れなかった 母親のこと
板にしばりつけられ 青いビニールシートでぐるぐるくるまれて
ヘリコプターで運ばれていく途中
それは回ったんだ
板みたいにね


 「わかりたくはなかった」は、ああ、こんなふうではなく、もっと違う形で外部にあるものを共有したいのだ、みんなとともに受け止めたいのだという「絶望」も含まれている。
 絶望であるからこそ、「わかりたくなかったもの」が絶望の悲しみで立ち上がる。「荷物みたい」ということばしか出てこない(内部に持ち合わせがない)という絶望。そのとき、内部は打ちのめされる。打ちのめされたときは打ちのめされたと正直に語る。小池の詩の美しさは、その正直さにある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(94)

2005-12-27 14:36:58 | 詩集
「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

零度の犬  建畠皙
 俺たちの恥を彩る零度の犬。その半ばは庭の罪であり、半ばは灰色の少女の政治であると聞かされた。それゆえこそ彩りとなるのだと。コイケさんもそのことを知っているはずだ。共に進もう、と俺は言った。良い光景を見つけるために共に進んで行こう。さらに低い犬、低い生け垣、低い庭がどこかにあるはずだ。

 この作品にも固有名詞が出てくる。「コイケさん」。しかし、この固有名詞が指し示すものは佐々木の作品の「ナカザワさん」とも瀬尾の「横浜正金銀行」とも違う。抽象的な存在のままだ。他の抽象的存在「零度の犬」「少女の政治」などと同じである。というより、「零度の犬」「少女の政治」といった抽象を現実へ引き戻すための虚構と言った方がいいかもしれない。
 虚構のなかで精神の運動は自由気ままである。運動を制限するものは何もない。しかし、それでは精神は暴走さえしない。つまり、方向性がないままでは、方向性を失うことさえできない。何かしら運動を抑圧するものが必要である。抑圧があって、その抑圧と戦う方向性が出てくる。運動の軌跡が鮮明になる。「詩」とは精神の運動であり、運動には軌跡がなければ、その時空間は成立しない。
 これは「少女の政治」ではなく「詩の政治」である。言語の運動の政治である。

 ことばはどこまで自由に動けるか。精神はことばの運動に乗ってどこまで「低い」、つまりゼロに近い、あるいは、細小なものを描き出すことができるか。しまっては意味がない。「ゼロ」を超えないための抑圧としての「コイケさん」である。
 ことばは、ゼロを超えてしまっては意味がない。本当は意味がないわけではないが、建畠がこの作品で試みていることは「ゼロ」を突き抜けることではない。限りなく「ゼロ」に接近することである。
 「ゼロ」を超えないための抑圧としての「コイケさん」である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(93)

2005-12-26 14:49:44 | 詩集
「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

浅間山  佐々木幹郎

どしゃぶりの雨のなかを
床屋のナカザワさんが走っていく

 わずか9行の作品の、2行目に出てくる「ナカザワさん」。ここに「詩」がある。
 読者には、この「ナカザワさん」がどういう人物なのかわからない。わからないことが「詩」である。わからないものが実在し、そのとき世界が存在することが「詩」である。
 このわからない人物、説明されない人物をとおして世界が立ち上がるとき、しかし、ふしぎなことに、わからないはずの「ナカザワさん」の人間性が立ち上がってくる。そしてそれは筆者、佐々木幹郎の人間性でもある。
 人間とは無関係に、人間の感情、精神とは無関係に世界は存在する。だからこそ、その世界で人間は手を取り合う。自分にできることをする。
 「ナカザワさん」はどしゃぶりの雨のなかを走る。佐々木幹郎はその姿を詩に書き留める。そのとき世界は人間の精神の意味性を拒絶するけれど、その拒絶のなかで人間の精神はいっそう輝く。

浅間山  佐々木幹郎

どしゃぶりの雨のなかを
床屋のナカザワさんが走っていく
山で雉子が鳴いたから
噴火が始まる
美しい山はきまぐれだから
村の宴会場まで知らせに行くのだ
煙はますます青くなっている
人間には暗黒だけれど
肺は風下に向かって平等に降るんだ




 瀬尾育生の「外地の歌」にも固有名詞が出てくる。

錆びついた横浜正金銀行の
階段づたいに下りてくる。

 佐々木の「ナカザワさん」に比べると、この固有名詞は存在を確かめることができるし、読者のなかにはその存在になじみがあるかもしれない。こういう固有名詞は自然とは向き合わない。時間と向き合う。時間とは歴史であり、未来のことだ。

錆びついた横浜正金銀行の
階段づたいに下りてくる。
裸足で国家が泣いている。
あおむらさきに夜が死ぬ。
いまもあなたを呼ぶ声がする。

 そのとき、人間は固有名詞を失う。「あなた」がこの作品ではある歌手のことであるらしいことは推測できる。(ライブのパンフレットに書かれた作品である。)しかし、けっして固有名詞では書かれない。読者のなかの私以外の誰か、「あなた」になって人間が立ち現れる。
 そこにはやはり時間が、歴史がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(92)

2005-12-23 14:55:35 | 詩集
高橋睦郎語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「29」。統合・融合。

だから われら 三人という一人  (65ページ)

 複数の存在が「一人(ひとつ)」になる。それは一人になることが三人である証でもある。
 こうした言い方は矛盾だろうか。

 一人(ひとつ)になる運動のなかにすべては統合され、融合され、新しい生成となる。運動のエネルギーそのものがひとつになるということである。

*

 「***」。(本文は、*マークが上に二つ、下中央に一つ。逆三角形の形をしている。ここでは表記できないので、*並べて代用しておく。)

 本文中、かっこに囲まれた部分が何か所か出てくる。

幸行(いで)ましき。(すなわち、幸行まさざりき。)  (66ページ)

 先行することばを必ず否定する。そして、それが「すなわち」によって結ばれる。相対立することがらが「すなわち」によって結ばれる。ただし、「すなわち」という表現は最初の一回と最後の一回限りで、あとは省略される。
 すべては実在のことがらではなく、精神の内部のことがらである。「幸行」はあろうがなかろうが、同等なのである。というより、あることによって、ないことを意識しない限り、あることにはならない。

御陵(みはか)は畝火の山の北の方の白檮(かし)の尾(を)の上にあり。(あらず。故、創作(つくら)えし始祖王(はじめのすめらおほきみ)、朕(あ)が事蹟(いさをし)及(また)陵墓(みささぎ)は、創作えし皇統譜(すめらみちすじ)の上(へ)にのみ在り、すなわち在らざるなり。)

 創作とは精神の運動である。

 この運動を統合する力が「すなわち」である。
 この「すなわち」は「一即多」の「即」である。
 「すなわち(即)」がこの詩集の「詩」のすべてであると思う。「すなわち」の運動の場として「無(混沌)」がある。あらゆる生成が、生まれ、消えて、また生まれる。それを記録することばが「詩」である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(91)

2005-12-22 14:07:08 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「27」。欲望は矛盾する。

見てはならない けっして
見ずにはいられない どうしても  (61ページ)

 すべてはこうした矛盾から起きる。平静は破られ、はてしない運動が始まる。このとき、「未来」は封印される。「予言」は封印される。

井戸のおもてはこなごな
そこに映るあなたは四散し
私は血の瀧となってあふれ
鏡に覆いがかけられる  (61ページ)

 「未来」が封印されても未来がなくなるわけではない。つねに存在し現在を突き動かす。あるいは現在という場で生成は繰り返され、それが現在を未来へ突き動かしていく。



 「28」。過去を継承する。

私の存在理由は 何なのか
父の血を受け継いで
息子たちに受け渡すだけ  (63ページ)

 この詩集のテーマはこの部分に集約されているかもしれない。
 現在という時間のなかにはさまざまな過去が存在している。あるものは根強く、あるものははかなく。それをどのように受け継いでいくか。今、その生成にどのようにかかわっていくか。

 この詩集の表立った主題は「神」である。「神」はさまざまな形で現存する。私たちのそばに、あるいは内部に存在する。それが生成の力となって働くかどうかは、私たち次第だろう。

 高橋は、日本語(日本人の到達した意識)に高橋自身の血を吹き込み、時代に引き継ごうとしている。それが詩人の仕事だと、ここで宣言している。
 どんな形であれ、私たちは日本語(日本人の到達した精神)から逃れることはできない。どれだけ正直にそれと向き合えるかが問われるだろう。
 高橋の作品には「古典」が息づいているが、これは日本語を引き継ごうとする意志のあらわれである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(90)

2005-12-21 23:26:36 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「25」「26」。勝利と敗北、あるいは入れ代わり。

遠く 小さく へいつくばる兄さん
俺が頼み込んで 取り換えたのは
取り戻したのは こんなものだったのですか
ついた手を上げてください 兄さん  (「25」、57ページ)



もっと遠く もっと低く しまいは
視界から 失われてしまうこと
この脱力感 この無力感の快さ
わからぬ者には ついにわかるまい  (「26」、59ページ)

 この対になった詩のおもしろさは、「26」に集約されている。「脱力感、無力感の快さ」。否定的価値とともに語られることの多いもののなかにある官能。新しい発見。そこに「詩」がある。
 見逃してはならないのは、「脱力感、無力感の快さ」のなかで、「兄」がなおかつ、「わからぬ者には ついにわかるまい」と勝利宣言していることだ。

 敗北しながらの勝利宣言。これこそ、真の入れ代わりである。単に兄と弟の地位の入れ代わりではなく、概念の入れ代わり、概念の下克上である。



 この敗者の勝利宣言は、多くのマイナーポエトリーの勝利宣言でもあるだろう。高橋はマイナーポエトリーの勝利宣言を代弁しているともいえる。
 高橋の詩自体には私はマイナーな印象を持たない。むしろメジャーであると感じている。今回の「神話」めぐりの詩は、その構想力においてメジャーなものである。
 しかし、高橋が好んでいる詩(評価している詩)にはマイナーな要素が多分にある。
 高橋の心理の奥には、どこかでマイナーポエトリーへの憧れがあるのかもしれない。マイナーな詩を書きたいという気持ちがあるのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(89)

2005-12-20 12:11:10 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「23」。感応について。

囲む男たちは勃起を匿さず
喝采を惜しまない
男たちの興奮が
いつか 太陽を奮い立たせる
私は踊る赤裸
叫ぶ粘膜  (53ページ)

 女の姿に男が反応し、その反応に太陽が反応し、ふたつの融合に、女が反応する。そのとき女は「叫ぶ粘膜」になる。
 「叫ぶ」は、今ある状態を逸脱し、超越する。

 「感応」は「官能」と一つになる。この瞬間に「詩」がある。



 「24」。再び、「一つ」。

うつくしさはみにくさに同じ
しあわせはふしあわせと一つ
私たちは二人に見えて 一人  (55ページ)

 これは、これまでの復習。相反するものの融合を語っている。このあとに、高橋独自の思想が書かれる。

私たちは二人に見えて 一人
むりに引き裂かれると
二人が二人とも 息絶えてしまう
私を愛するという人は
愛を口実に 私たちを殺す人
愛という身勝手な論理を
私たちは はげしく拒む  (55ページ)

 真の「融合」、あるいは超越的生成というべきだろうか。それは「愛」ではない。矛盾し、運動し続けることだ。

 「一つ」は実は「一」ではなく、「二つ(二人)」、つまり対立する存在、相反する存在、まったく別個な存在が同時に存在してこと可能なのである。
 それは、たとえば「神」と「ひと」。たとえば男と女。たとえば天と地(海)。

 高橋がこの詩集で明らかにしようとしているのは、そうしたことがらである。

 矛盾するものが「一つ」になる。その生成、生成の繰り返しが「詩」である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(88)

2005-12-19 23:46:59 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「22」。「定型」の否定。「定型」からの逸脱。

俺は定型をはみ出して 光りまくる  (51ページ)

 定型をはみ出したものは異様である。そして「異様さこそが 抜きん出た者のしるし」(51ページ)。

俺は 俺の永遠(とわ)の寝床のある東の闇へ 還る
そこは魚や貝 異形(いぎょう)どもに満ちた海の八街(やちまた)
         * 「八街」の「街」は本文は旧字  (51ページ)

 そこは混沌としての「無」の場所である。そこには「定型」を逸脱するエネルギーが充満している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(87)

2005-12-18 15:00:14 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「21」。死と永遠。矛盾の共存。

誰が望んで不死なんかになりたいものか
恋し 子を産み 老い 生を終える
これこそが カミの限界を超える喜び
ヒトは恋の果て 死んで永遠になる  (49ページ)


 「死んで永遠になる」。それがカミの「限界を超える」ことと同義である。
 この永遠は、定型ではない。不定形である。運動である。その運動に飲み込まれ、運動のエネルギーを吸収して、運動を拡大しつづける。持続しつづける。そうした永遠である。

 死は生を輝かしく彩る存在である。死をくぐりぬけて永遠に生きるのは、変化し、運動する精神だけである。運動する精神が「詩」である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(86)

2005-12-17 13:01:46 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「20」。「同じ」ということば。

世界と同じほど老けこんだおばあさんの  (46ページ)

 この行を読むとき私は何を見ているのだろうか。世界だろうか。おばあさんだろうか。そうではなく「老けこんだ」時間を見ている。歴史を見ている。
 世界とおばあさんが同じなのではなく、別個の存在が存在するとき、それをつなぎとめようとする精神の運動が、その二つのなかから何かを生成する。「同じ」ということばで。
 「同じ」は以前見た「一つ」と同類のことばである。

 この作品は乱暴に終わる。

そんなこと ぼく(ぼくらだろうか)
知らねえぞ カンケーねえぞ
ぼくとは(ぼくらとは だろうか)

 一方、「同じ」(一つ)を拒否する力がある。
 生成は、「同じ」や「一つ」を拒否しながら突き進む運動である。
 この定義は、矛盾している。そして、その矛盾が「詩」である。高橋がこの作品でころ見ている「神話」である。矛盾のなかで「神話」は「詩」になる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(85)

2005-12-14 21:24:40 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「19」。一と多。あるいは一と他。

両手を挙げて迎える私の異形こそ
外ならぬおまえがたの異形の先取り  (45ページ)

 「私」は「一」。「おまえがた」は「多」であると同時に「他」である。そして、その「多」「他」は「一」である。「私」に収斂していく。
 いや、収斂ではなく、常に行き来する運動である。

 「19」の「青」と同じように、「私」を通って「おまえがた」は「異形」になり、同時に「私」とは別の、それぞれの「異形」になる。それぞれの別の「異形」として生成されうるがゆえに、「私」は常にあらゆる「異形」を超えた「異形」として存在しつづける。

 この運動の関係の中に「詩」がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(84)

2005-12-13 14:18:54 | 詩集

高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「18」。

怒りの果てに 怒り澄んで
天の青と一つになった  (43ページ)

 「一つになった」が「詩」である。
 無の現場でおこなわれる生成は、自己が自己でなくなることにより、自己そのものになる。
 「悲しみ」と「怒り」と「青」。それは別個の存在ではなく、悲しみであり、怒りであり、青である。それは「一つ」になって世界(宇宙)に広がる。
 「青」を通って個別のそれぞれに帰り、個別のそれそれから再び「青」へ帰る。その運動は一瞬である。

 「一つ」に「なる」ために、あらゆる詩は書かれる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする