詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇124)Joaquín Llorens

2021-11-30 19:16:29 | estoy loco por espana

Obra de Joaquín Llorens

homenaje a Julio González

Recuerdo.

Al día siguiente de visitar tu taller, ví las esculturas de Julio González en el IVAM.

Lo que has heredado de Julio González es la sencillez del hierro. La fuerza del hierro.

Ahora, en este trabajo, estás haciendo algo que no hizo Julio González.

La bondad del hierro. La delicadeza del hierro. Quiero llamarlo el amor al hierro.

Al mirar este trabajo, pienso en las flores en crecimiento.

Las flores grandes protegen la flor que nació.

Las flores grandes observan crecer la flor pequeñ o.

 

Yo sé.

Que tu hijo se case el sábado. Nace una nueva familia amorosa.

Este trabajo celebra un nuevo amor.

Tu hijo y su esposa crecerán en amor como este.

 

Se lo digo a tu esposa y ti. Y a tu hijo y a su novia.

Felicitaciones. Felicitaciones por el amor y la paz.

 

私は思いだす。

君のアトリエを訪ねた翌日、私はIVAMでJulio Gonzálezの彫刻を見た。

君がJulio Gonzálezから引き継いでいるのは、鉄の素朴さ。鉄の強さ。

いま、この作品で、君はJulio Gonzálezのつくらなかったものをつくろっている。

鉄のやさしさ。鉄の繊細。鉄の愛、と呼びたい。

この作品を見ていると、成長していく花を思う。

大きい花は、後から生まれてきた花を守っている。

大きい花は、後から生まれてきた花が成長していくのを見ている。

 

私は知っている。

君の息子が土曜日に結婚することを。新しい愛の家族が誕生する。

この作品は、新しい愛を祝福する。

君たちの息子夫婦は、この作品のように、愛を育てていくだろう。

 

もう一度、君に言う。君の妻に言う。君の息子と、その恋人に言う。

おめでとう。愛と平和に、おめでとう。

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オミクロン株の怪

2021-11-30 10:59:02 |  自民党改憲草案再読

オミクロン株の怪

 2021年11月30日の読売新聞(西部版・14版)。一面の二番手の見出しと記事。

外国人の新規入国停止/全世界対象 オミクロン株拡大

 政府は29日、新型コロナウイルスの新たな変異株「オミクロン株」の感染拡大を受け、留学生などを対象に条件付きで外国人を受け入れていた水際緩和策をとりやめると発表した。これにより、全世界からの外国人の新規入国を原則停止する。30日午前0時から実施し、当面年末まで継続する方針だ。(略)
 日本人帰国者に自宅などでの待機期間を条件付きで最短3日間まで短縮していた措置も停止する。今月26日からは日本人帰国者を含めた入国者数の上限を1日あたり3500人程度から5000人程度に拡大していたが、3500人に戻す。
 水際対策の強化は1か月間続け、流行状況などを踏まえ、その後も継続するかどうかを判断する考えだ。

 突然、なぜ?
 たしかにWHOは警告を発しているが、感染拡大の「実数」がよくわからない。2面には、こんな記事。

 南アフリカでは、流行していたベータ株が6月にほぼデルタ株に置き換わった。11月以降にはオミクロン株が急増してデルタ株から置き換わり、同月15日時点で75%以上に達した。ヨハネスブルクのある同国ハウテン州では、同12~20日に調べた77検体が、すべてオミクロン株だった。欧州疾病対策センターは「著しい感染性の高さが懸念される」と、強い警戒感を示す。
 香港では、検疫用ホテルに滞在していた2人の感染が確認された。南アに渡航歴のある無症状の1人が、マスクを着用せずにドアを開け、向かいの部屋にいたもう1人に感染させた可能性があるという。

 この記事を読むとたしかに危険な感じがする。ただし香港の事例は「可能性があるという」というだけなので、「事実」かどうかわからない。危機感をあおっている感じもする。「もう1人」は、単に、入国時のPCR検査のときに検出されなかっただけかもしれない。ドアを開けて、マスクなしで向こうの部屋のひとと会話するときの、ふたりの距離はどれだけなのか。ほんとうにそれで感染したのか。「事実」が確認できない段階で、「作文描写」を挿入するのは危険すぎる。「可能性があるという」ときの「いう」の主語はだれなのか。「もう1人」を診察した医師が言ったのか。ホテル従業員が言ったのか。情報源しだいで「信憑性」も違ってくる。
 読売新聞の記事は、非常に危険なことをやっている。「という」と書けば、責任逃れができると思っているみたいだ。

 岸田がすばやく対応したのは、2面の記事を読むと、安倍、菅の対応が「後手後手」だんたのを反省し、「先手対応」をとるというとらしいのだが、どうにもよくわからない。
 1面には「感染防止G7連携/保健相緊急会合で生命」という見出しの記事がある。そのなかに、こんな部分。

 緊急会合はG7議長を務める英国が招集した。日本から参加した後藤厚生労働相は会合後、記者団に、「新しい変異株は感染力などが不明だ。科学的な知見を集め、どう対応していくのか考えていく」と述べた。

 後藤の発言どおりだとすれば、何もわかっていない。「科学的な知見」というか、科学的にわかっていることがあまりにも少ない。少しの情報しか公開されていない。突起の変異が、いままでの株より多い。だから感染力が強いと推定されている。いままでのワクチンが効かないかも、と昨日の新聞に書いてあったと記憶するが……。
 突起の変異が多くなったら、どうして感染力が強いのか。デルタ株と比較すると、そのスピードはどう違うのか。突起の変異が多いために、逆に自滅していくということも考えられるのではないか。もちろん、こういうことは素人考えなのだが。
 こんなときこそ、科学者が出てきて説明しないといけない。科学者は科学的根拠がないことはいいにくいだろうが、知っている事実を提示し、「こう考える」と言わない限り、私には疑問しか残らない。「こう考える」という部分がいいにくいとしたら、「事実」だけ語る。その「事実(データ)」をもとに、岸田が「私はこのデータをこう解釈する」と言わないと、何も語ったことにならない。
 すでにデータが科学者と岸田との間で共有されているのだとしたら、その「事実」を公開しないのは「情報」の隠蔽である。
 「情報」を隠蔽したまま、つまり「情報操作」をして、その結果を政策に反映させるとどうなるのか。独裁につながっていくだろう。

 加藤は「科学的な知見を集め、どう対応していくのか考えていく」と語っているが、いままでに集めた「科学的知見」をまず公開することが必要だろう。政府が入手した「科学的情報」は即座に公開すべきだろう。「科学的情報」を素人が分析するのは危険だが、「科学的情報」もないままの「政府の方針(政策)」を鵜呑みにすることは、もっと危険だ。
 いま、日本のコロナ感染状況は非常に落ち着いているが、なぜ、突然、日本だけ急速にコロナが終息に向かっているのか、その「科学的検証」もおわっていない。菅の政策は正しかったとは、まだ、言えない。そういう評価は、とても危険だ。
 同様に。
 岸田の「先手対策」が成功し、コロナの拡大が防げたとしたら、それはそれで、やはり危険を伴う。岸田の言うことは正しい、国民は岸田の言うことを黙って聞けばいい、という風潮を生み出すだろう。「岸田を批判するのは反日だ」というような発言が急増するだろう。その発言に、意味のない根拠を与えることになってしまうだろう。
 政権のやっていることが正しいかどうかは、「結果」だけではなく、「経過」を含めて判断しないといけない。「結果」には「偶然」がともなうときがある。「経過」の判断には、そのときそのときの「情報」が必要だ。

 こんな突然の方針転換をするかぎりは、きっと重大な情報があるはずである。
 それを追及しないジャーナリズムというのはなんなのだろう。安倍、菅の対策が「後手後手」だったから、岸田は「先手対策」を打ち出したという「よいしょ作文」を書いているひまがあったら、もっと科学者から意見を聞いて、それを記事にする方が先だろう。
 「情報」を見つけ出すのは、ジャーナリズムの重要な仕事であるはずだ。

 

 

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El dolor

2021-11-29 08:10:47 | 

El dolor

 

Qué efímera, una rosa seca. Los pétalos están esparcidos, solo a causa de un suspiro tuyo. Alguna vez, ellos se florecieron con el calor de tu aliento.

 

Solo dos semanas.

 

Pero recuerda la rosa. Noches y días que seguía absorbiendo agua fresca. Un latido del corazón palpitante en el conducto. Yo mismo irradiaba un olor sorprendentemente dulce.

 

yachishuso

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浦歌無子『光る背骨』

2021-11-28 10:41:56 | 詩集

 

浦歌無子『光る背骨』(七月堂、2021年11月12日発行)

 浦歌無子は、私にとっては「骨」の詩人だ。最初に読んだ詩が「骨」を題材にしていた。いままで見たことがないもの、見えなかった世界に入っていく感じだった。この詩集の中にも「骨」が出てくる。やっと、もう一度、骨に出会えるのか。こういう感想は浦にとっては迷惑かもしれないが、私は「最初」を忘れることができない。
 「海鳴り」はメアリー・アニングを描いている。タイトルは忘れたが、彼女を主人公にした映画を見た記憶がある。化石探しの名人である。この作品は、彼女の視点からではなく、発見された「プレシオサウルス」の視点から描いている。

私の骨に刻まれたいちばん新しい記憶は
振り下ろされたハンマーの響き
ちいさな犬の鼻の頭の冷たい感触
そして
メアリー・アニングのあたたかい指さきだ

 さらりと書いているが、ことばの目配りがとても丁寧だ。(ほんとうは全行引用したいのだが、長いので省略しながら引用することになる。)
 「新しい記憶」の「新しい」には「目覚め」が含まれている。「発見」といってもいい。それは「ハンマー」。しかもそのハンマーは「響き(音)」としてやってくる。ハンマーの衝撃の痛みではなく、痛みを伴わない目覚め。それは、感触(触覚)を覚醒させる。「冷たい」と「あたたかい」が対比される。この、複雑で、しかも静かな動きがとてもいい。
 そこにほんとうに犬はいたのか、ということは、まあ、どうでもいいが、犬の登場によって世界が広がる。プレシオサウルスを私は知らないが、恐竜(?)だろうから犬なんか怖くない。怖いのは犬の方だ。しかし、そのプレシオサウルスは死んでしまって骨になっているのだから、犬はもう怖くない。単純に好奇心で近づいてくる。ここに、不思議な「逆転」がある。人間だって、プレシオサウルスが生きていたなら、きっと近づくことはできない。死んでしまっているから近づくことができる。そういうことをも、この短い連は的確に教えてくれる。
 「いちばん新しい記憶」から、骨は過去へと、つまり「いちばん古い記憶」の方へと進んでいく。この展開も、自然で、美しい。つまり、丁寧だ。

むかしむかし
地球上でいちばん大きな生き物だったわたしたちは死に
流れ積もる泥に身を任せると
あまたの微生物たちによって肉は分解され
堂々と朽ち果てていった
あらあらしい砂が
粘りけのある土が
青い石灰岩が
果てしなく重なり
骨にしんしんに鉱物が浸透してゆくのは
おそろしいような安心なような不思議な心持ちであった

 ここでもことばの呼応が非常に的確だ。「いちばん大きな生き物」は「微生物」と対比され、腐敗(ということばはつかっていないが)は「堂々」ということばと向き合う。「いちばん大きな生き物」だから敗北するときも「堂々」としていないといけない。ここに、不思議な「虚構」というか「みえ」のようなものがあり、この「精神性」が作品全体の「骨格」となる。
 呼応、対比をいちいちあげないが、その結果生じることに対して「おそろしいような安心なような不思議な心持ちであった」というのも、非常にいい。「精神性」と私は書いたが、精神にしろ、こころにしろ、それは一瞬の内に「矛盾」を行き来する。もう死んでしまったのに、骨なのに、そういうことを思ってしまう。
 さて。
 また途中を省略するが、こういう部分があらわれる。

いまにも岩のかたまりが落ちて競うな場所で
メアリーは辛抱強く丁寧に
わたしを掘り起こしていった
彼女のよく動く腕、力強い鼓動
喜びに満ちたしぐさ、きらめく瞳を
はっきりと思いだせる
家に運び込まれたわたしを見てメアリーはつぶやいた
「なんて美しい骨格!」

--わたしは美しいものだったのか--

メアリーのまなざしによって
わたしは美しいものとして地上に現れた

 「美しい」と言われて「美しい」と気づく。この呼応のなんと自然で、力強く、美しいことか。「メアリーのまなざしによって/わたしは美しいものとして地上に現れた」を、私は何度も何度も読み返してしまう。
 何かが「出現」するとき、そこには必ず「呼応」があるのだ。人は探しているもの(既に知っているもの)しか見つけることができないし、既に知っているもの(探しているもの)は必ず現われる。そして、現われたものは、単に現われるだけではなく、その存在を呼び出したものを、この世に「現わす」のだ。
 プレシオサウルスの骨格(化石)はメアリー・アニングによって発見されたが、発見されることでプレシオサウルスはメアリー・アニングをこの世界に存在させたのだ。メアリー・アニングとメアリー・アニングは、幸福な「一体」となって、この世界に、もう一度生まれ直したのである。「再び」はプレシオサウルスを超えてメアリー・アニングにもつながっていくのだ。
 これは「現在形」である。「現在進行形」である。
 「いまにも」から「再び地上に現れた」までは、形式的には「過去形」で書かれているが、よく読むといい。
 「はっきりと思いだせる」は「現在形」である。そして「なんて美しい骨格!」「わたしは美しいものだったのか」という「思い」も「現在形」である。
 「いちばん新しい記憶」ということでいえば、もしかすると、メアリーの「なんて美しい骨格!」の方が「あたらしい」記憶かもしれない。時系列的には。しかし、そういう揚げ足取り的な指摘を跳ね返す力がこの部分にはある。それは、この部分が「現在形」で動いているからだ。「はっきりと思いだした」ではなく「思いだせる」。「思いだす」とき、それは、いつでも「現在」なのだ。
 そうなのだ。
 この詩は、プレシオサウルスのことを書いているが、そしてその基本は「過去形」なのだが、その「過去」のなかに「現在形」が動くところが、ことばとしてとても強い。
 「むかしむかし」の連を振り返るだけでわかる。「朽ち果てていった」ということばにたどりつくまでは、「身を任せる」「分解され(る)」と「現在形」であり、「果てしなく重なり」「浸透してゆく」も「現在形」である。もちろんこれは単に日本語の日常的な文法にしたがった動詞のつかい方とも言えるのだが、だれもがこんなふうに書くわけではない。浦の「意識」が正確に描き出さなければならないものをつかみ取っているから、こういう文体になるのである。現在形は、メアリー・アニングという「過去」の人物を、いま、ここに現在形として出現させるかたちでつかわれる。
 そして。
 詩は、このあとプレシオサウルスからメアリー・アニングへの呼びかけになる。目覚めを提供してくれたメアリー・アニングに、さあ、眠ろうと呼びかける。ここにも呼応がある。なつかしく、やさしい呼応だ。

 他の詩もすばらしいが、私は、この「海鳴り」がいちばん好き。
 昨年のいまごろ、ある詩集に感心して、その詩集がH賞にふさわしいと書いたが、受賞作は違った。ここでまた浦のこの詩集こそ賞に値する傑作と書くと、再び、賞が逃げていくかもしれない。でも、書いておきたい。とてもいい詩集だ。
 「海鳴り」ではプレシオサウルスとメアリー・アニングが一体になっている。その一体に浦自身も重なり、さらに一体になっている。他の作品でも、浦は「主人公」と一体になっている。だれかと(自分以外の人間、存在)と一体になるためにことばを動かしている。浦にとってことばとは「他者」になるための方法なのだ。
 明確で、揺るぎがなく、美しい。


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補正予算

2021-11-27 15:51:03 |  自民党改憲草案再読

補正予算

 2012年11月27日の読売新聞。1面に補正予算案の記事。(見出し、記事はネット配信のもの。https://www.yomiuri.co.jp/economy/20211126-OYT1T50188/

補正予算案を閣議決定、過去最大の35兆9895億円…コロナ対策に18兆円

 政府は26日の臨時閣議で、新たな経済対策などを盛り込んだ2021年度補正予算案を決定した。一般会計の歳出は35兆9895億円で、補正予算としては20年度第2次補正の31・9兆円を上回って過去最大となる。12月6日に召集される臨時国会に提出し、年内の成立を目指す。
 財源を確保するため、国の借金となる国債を22兆580億円発行する。このうち、赤字国債は19兆2310億円、公共事業などに使い道が限られる建設国債を2兆8270億円発行する。21年度の税収の見通しを6兆4320億円引き上げるほか、20年度の歳入から歳出を差し引いた「剰余金」の6兆1479億円を活用する。
 新たな経済対策を実行する費用としては、31兆5627億円を計上した。このうち、新型コロナウイルス感染症の拡大防止に18兆6059億円、岸田首相が掲げる「新しい資本主義」の政策に8兆2532億円を充てた。自治体に配る地方交付税交付金は3兆5117億円を追加した。

 見出しに「コロナ対策に18兆円」、記事には「経済対策など」と書いてある。これだけ読むと、コロナで脆弱化した経済を立て直すために補正予算を組んだと読むことができる。
 ところが、政治面(4面)を読むと、こんな記事がある。
 https://www.yomiuri.co.jp/politics/20211126-OYT1T50305/ 

防衛補正 最大7738億円…予算案 哨戒機など前倒し取得

 政府が26日に閣議決定した2021年度補正予算案で、防衛省は補正予算案としては過去最大となる7738億円を計上した。22年度当初予算の概算要求に計上していた哨戒機や弾薬を前倒しで取得する。自衛隊の対処能力を迅速に高めるほか、防衛力強化の姿勢を米国に示す狙いもある。
 岸防衛相は26日、防衛省で開かれた会合で「安全保障環境がこれまでにない速度で厳しさを増す中、防衛費は我が国防衛の国家意思を示す大きな指標となる」と述べた。
 補正予算案では、中国の軍事力強化などを念頭に、ミサイル防衛能力や南西地域の島しょ防衛体制の強化を図るため、新規の装備品取得に全体の3割超にあたる2818億円を計上した。補正予算での装備品購入が続いている近年でも異例の規模で、当初予算の5兆3422億円と合計すると、今年度の総額は6兆円超となる見通しだ。
 具体的には、船舶や潜水艦を監視するP1哨戒機3機の取得に658億円を計上。弾道ミサイルを迎撃する地対空誘導弾「PAC3」の改良型、巡航ミサイルから自衛隊基地を防護する地対空誘導弾の取得費として、それぞれ441億円、103億円を盛り込んだ。 防衛省は、今回の補正予算案と来年度当初予算案を一体とし、「防衛力強化加速パッケージ」と位置づけている。日本の防衛力を巡っては、4月の日米首脳会談の共同声明で強化に向けた「決意」を明記したほか、自民党も10月の衆院選の公約で、「国内総生産(GDP)比2%以上も念頭に増額を目指す」と掲げた。
 中国は東シナ海の沖縄県・尖閣諸島周辺で領海侵入を繰り返しているほか、中露合同での軍事活動も活発化させている。北朝鮮も今年に入り弾道ミサイルを相次いで発射しており、今後も防衛費の増加傾向は強まるとみられる。
 ただ、補正予算で主要装備品を調達する近年の傾向については、政府・与党内でも「緊急性の有無が分かりにくく、防衛費の総額も把握しづらい。本来は本予算に盛り込むべきだ」との指摘がある。

 防衛費とコロナ対策と経済対策。何の関係がある? コロナが拡大し、経済が疲弊している。そのてこ入れに予算を組むのだったら、防衛費は関係ないだろう。防衛費を削減してでも、緊急のコロナ対策、経済対策に予算をつぎ込むべきだろう。なぜ、これまでで最大の規模の補正予算を組まないといけないのか。
 記事の最後に、防衛費を補正予算で組み込むことに対する疑問が「付け足し」として書いてあるが、付け足しではなく、最初に書くべきだろう。その疑問から補正予算そのものを見直さないといけない。
 だいたい前文に書いてある「防衛力強化の姿勢を米国に示す狙いもある」とは、いったいどういうことなのか。「防衛力強化の姿勢を米国に示す」ことが、たとえば中国や北朝鮮が日本への侵略をあきらめる(させる)こととどういう関係があるのか。もし、中国、北朝鮮の行動に対して「牽制する」というのなら、前文は、防衛力強化の姿勢を「中国や北朝鮮」に示すでないと、「意味」が通じない。
 さらに、記事の前文に「22年度当初予算の概算要求に計上していた哨戒機や弾薬を前倒しで取得す」とあり、見出しにも「前倒し」ということばをつかっている。これは、どうみてもおかしい。いま、コロナ対策に全力を尽くさないときだとするならば、防衛費予算は「先送り」して、22年度予算に概算要求計上している防衛費をコロナ対策に回すべきだろう。やっていることがあべこべだろう。
 で、ここから見直すと。
 コロナ問題で経済が疲弊したのは日本だけではない。アメリカも同じ。アメリカの経済復興に日本はどう協力するか。軍備を買う。武器をアメリカから買うのだ。つかいもしない(つかえば戦争になってしまう)ものを買うというのは、金を捨てるのと同じである。つまり、これはアメリカのご機嫌とりのためにやることなのだ。アメリカのご機嫌とりのために「防衛費」を「前倒し」するのである。アメリカに支払う金を優先するのである。
 中国にしろ北朝鮮にしろ、いまは「外国へ侵攻する」(外国を相手に戦争をする)ということよりも、コロナ対策に全力を注いでいるだろう。こんなときに、わざわざ中国、北朝鮮は危険な国だと主張して、武器を購入するなんて、どう考えてもおかしい。北朝鮮のミサイル発射など、北朝鮮は外国に対して攻撃能力があるということを外国に示すというよりも(示す相手があるとすれば、それは日本ではなく、アメリカ)、北朝鮮の国民に向けて示しているだけだ。それは北朝鮮国内の不満を緩和するためだろう。狙いは、コロナ対策や経済対策に対する国民の不満を目先を変えてそらしてしまうということだろう。
 これって、安倍がやった「北朝鮮対策」と同じ。北朝鮮は危険だ、と言い募って、国内での安倍政権への不満を隠す。安倍は「日本が分裂している場合ではない。北朝鮮に対抗するために、日本は団結しなければならない。安倍批判をしているときではない」といいたかったように、北朝鮮の金は「コロナ対策も他の対策も、アメリカに圧力をかけて解決する。北朝鮮はアメリカと対等である。いや、アメリカこそ北朝鮮に屈するべきである」という論を展開するためにミサイル実権をやっている。日本が相手にされていないのは、拉致問題がぜんぜん進展しないこと、日本が拉致問題についてアメリカに協力を求めるしかないということからだけでも明らかだろう。独自に何もできない国を北朝鮮が相手にするはずがない。

 2012年の自民党改憲草案の「軍事独裁」を実現に向けて、予算が先取り実施されているのだ。

 

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Estoy loco por espana(番外篇123)Borja Trénor Suárez de Lezo

2021-11-27 09:05:48 | estoy loco por espana

Obra de Borja Trénor Suárez de Lezo

Un espacio que se extiende muy lejos.

Imagino en el cielo visto desde la ventana de un avión.

Si se inclina hacia adelante, podría ver el suelo.

Un punto que brilla de color blanco entre los montones de pequeñas montañas puede ser el sol naciente.

Pero el cielo está mucho más allá de donde está el sol.

Miro más allá del sol y más allá del cielo. Miro más allá del cielo invisible. No puedo verlo, pero hay algo que no puedo ver.

En el momento en que me siento así, hay “algo” en mi corazón que explota sin sonido. Música que es más tranquila que el silencio.

La felicidad puede ser algo como esto. Anhelo, felicidad llamada sueño.
Pero no le demos un nombre.

Simplemente tengo la sensación de "sí".

 

Es una pintura abstracta, pero me siento concreto, y en el momento en que me siento concreto, me siento abstracto de nuevo.

El espacio central es muy hermoso.

 

遠くに広がる空間。

なぜだろう。私は、飛行機の窓から見た空を思い浮かべた。

身を乗り出せば地上が見えるかもしれない。

小さな山の重なりの間に白く光る一点は、昇ってくる太陽かもしれない。

しかし、その太陽のある場所よりも、空ははるかに遠く広がっている。
太陽のその向こう、空の向こう側を見る。目には見えない空の彼方を見る。見えないけれど、見えないものがある。

そう感じた瞬間、私のこころのなかに広がるものがある。

幸福とは、こういうことかもしれない。あこがれ、夢という名の幸福。

だが、名前をつけるのは、やめておこう。ただ「ある」という感じだけを抱え込む。

抽象画なのだけれど、具象を感じ、具象を感じた瞬間に再び抽象を感じる。

中央の空間がとても美しい。

 

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自民党憲法改正草案再読(41)

2021-11-25 11:25:05 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(41)

 削除と追加。跡形もなく削除された条項がある。次の最高法規である。

(現行憲法)
第十章 最高法規
第97条
 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
第98条
1 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
(改正草案)
第十一章最高法規
 (現行の第97条、削除)
第101 条(憲法の最高法規性等)
1 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

 これは、何を意味しているか。
 条項を読んでいるだけではわからない。ここで読まなければならないのは「コンテキスト」である。「文脈」である。
 現行憲法は、どういう「文脈」でできているか。
 第97条は「この憲法が」で始まるが、主語は「憲法」ではない。第97条に書いてあるのは「基本的人権」である。「基本的人権」のことは、すでに「第三章国民の権利及び義務」に書いてある。それを改めて「最高法規=憲法」を定義する(第98条)前に、もう一度書いているのは、人権がいちばん大事だからこそ、それを定めた憲法が最高位の法であるというためなのだ。人権を守るために、憲法をつくった。そういう「歴史」を明確にするために、まず「人権」について書くのである。
 「人権」がなければ「憲法」がない。「人権」が「憲法」を必要としているのだ。
 第97条と第98条は、いわばひとつづきの「文脈」なのである。改正草案は、この「文脈」を否定している。つまり、それは「歴史」を否定するということである。明治憲法は人権を尊重しなかった。その「反省」が、現行憲法を必要とする根拠である。
 いきなり第98条で「この憲法は、国の最高法規」とはじめたのでは、その憲法が絶対的存在として守ろうとしているものが何かわからない。「憲法」だから「最高法規」といっているだけだ。「憲法」の下に「法律」や「命令」があるという「上下関係」を説明しているにすぎない。これは逆に言えば、「憲法は国民の人権を守るためのものではない、国を守るためのものなのだ」という主張である。「国」とは、もちろん「権力(内閣/内閣総理大臣)」のことである。
 だからこそ、第99条は大幅に改変される。「削除」されたものが、別の形で「追加」される。

(現行憲法)
第99条
 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
(改正草案)
第102 条(憲法尊重擁護義務)
1 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。

 現行憲法に「国民」ということばはない。極端に言えば、国民は憲法を尊重しなくてもいいし、憲法を守らなくてもいい。つまり、憲法改正を訴えることができるし、この憲法が嫌いだからこの国を出て行くということもできる。(第22条の2項に、こう書いてある「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」)国民は(その基本的人権は)最高法規である「憲法」を超越する。その「超越」するものを、「全体的存在」として保障するために、憲法があるのだ。
 これを改正草案は逆に言いなおす。
 「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」。現行憲法では、「第三章」で「公共の福祉」ということばを何度かつかっている。国民は「公共の福祉に反することをしてはいけない」。「憲法に反してはいけない」ではないのだ。基本的人権についての考え方は、ひとそれぞれだろう。どう考えるかは自由。しかし、もしその「自由」が「公共の福祉に反する」ならば、それは規制される。改正草案は、この「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と言いなおしている。その問題に触れたとき、何度も書いているが「及び」は「=(イコール)」である。「公益=公の秩序」。そしてそのときの「公」とは「国民個人の対極にあるもの」、つまり「権力(昔のことばで言えば「お上」)」である。極端に言いなおせば、安倍政権時代なら「安倍の利益、安倍の利益を上げるための秩序」であり、菅政権時代なら「菅の利益、菅の利益を上げるための秩序」、岸田政権なら「岸田の利益、岸田の利益を上げるための秩序」である。
 だから改正草案の「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」は、実は「安倍の利益、安倍の利益を上げるための秩序」を守るために、「全て国民は、この憲法にしたがって奉仕しなければならない、を尊重しなければならない」、「安倍の利益、安倍の利益を上げるための秩序を守ることが、憲法を守る」ということなのだ、と言うのである。
 これでは、あまりにも「独裁」のための憲法改正であることが露骨にあらわれてしまう。そこで、どうするか。
 よく読んでもらいたい。
 改正草案からは「天皇又は摂制」が消えている。「天皇」を除外する。「安倍の利益、安倍の利益を上げるための秩序を守ることが、憲法を守る」のかわりに「天皇の利益、天皇の利益を上げるための秩序を守ることが、憲法を守る」ことが大事、と思わせるのだ。以前言われた「国体」というものが何を指すのか、私にはよく分からないが、たぶん「天皇(の利益)」のことだったのだろう。「天皇」を守るは「天皇制」を守るということである。それは、しかし、ほんとうに「天皇」を守るというよりも、「天皇」の存在を借りて、安倍の利益を守るということなのだ。しかし、そういう批判を封じるために、ここでは「天皇」を削除しているのだ。
 こういうことを「天皇の政治利用」という。

 このあと「補則」が書かれている。

(現行憲法)
第十一章 補則
第100 条
1 この憲法は、公布の日から起算して六箇月を経過した日から、これを施行する。
2 この憲法を施行するために必要な法律の制定、参議院議員の選挙及び国会召集の手続並びにこの憲法を施行するために必要な準備手続は、前項の期日よりも前に、これを行ふことができる。
第101 条
 この憲法施行の際、参議院がまだ成立してゐないときは、その成立するまでの間、衆議院は、国会としての権限を行ふ。
第102 条
 この憲法による第一期の参議院議員のうち、その半数の者の任期は、これを三年とする。その議員は、法律の定めるところにより、これを定める。
第103 条
 この憲法施行の際現に在職する国務大臣、衆議院議員及び裁判官並びにその他の公務員で、その地位に相応する地位がこの憲法で認められてゐる者は、法律で特別の定をした場合を除いては、この憲法施行のため、当然にはその地位を失ふことはない。但し、この憲法によつて、後任者が選挙又は任命されたときは、当然その地位を失ふ。
(改正草案)
附則
(施行期日)
1 この憲法改正は、平成○年○月○日から施行する。ただし、次項の規定は、公布の日から施行する。
(施行に必要な準備行為)
2 この憲法改正を施行するために必要な法律の制定及び改廃その他この憲法改正を施行するために必要な準備行為は、この憲法改正の施行の日よりも前に行うことができる。
(適用区分等)
3 改正後の日本国憲法第七十九条第五項後段(改正後の第八十条第二項において準用する場合を含む。)の規定は、改正前の日本国憲法の規定により任命された最高裁判所の裁判官及び下級裁判所の裁判官の報酬についても適用する。
4 この憲法改正の施行の際現に在職する下級裁判所の裁判官については、その任期は改正前の日本国憲法第八十条第一項の規定による任期の残任期間とし、改正後の日本国憲法第八十条第一項の規定により再任されることができる。
5 改正後の日本国憲法第八十六条第一項、第二項及び第四項の規定はこの憲法改正の施行後に提出される予算案及び予算から、同条第三項の規定はこの憲法改正の施行後に提出される同条第一項の予算案に係る会計年度における暫定期間に係る予算案から、それぞれ適用し、この憲法改正の施行前に提出された予算及び当該予算に係る会計年度における暫定期間に係る予算については、なお従前の例による。
6 改正後の日本国憲法第九十条第一項及び第三項の規定は、この憲法改正の施行後に提出される決算から適用し、この憲法改正の施行前に提出された決算については、なお従前の例による。

 「補足」をわざわざ「附則」と書き直しているくらいだから、ここにも何かしらの「秘密の企て」があるのかもしれないが、私にはよくわからない。


(「自民党憲法改正草案を読む」は、今回で終了です。近日中に一冊にまとめる予定です。)

 

 

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EPITAFIO

2021-11-25 07:20:10 | 

EPITAFIO

 

En escultura y pintura, heredaste el espacio transparente de Dalí. En poesía, la metáfora fue hábil. Tocaste el amor y la verdad como si tocabas una rosa. Ojos, labios, dedos. Los alabo. (Quiero grabar lo que dijiste, pero no quiero que otros lo lean). Por la mañana, exprimiste una naranja amarga y la bebiste. Te bañaste con agua fría durante el día. Tu habitación estaba llena de luz. Dormias por la noche. El color de la camiseta siempre fue agradable. La forma de arreglar la barba era de primera categoría. Dos años y tres meses, demasiado largo para la sensualidad, demasiado corto para la angustia. Gracias, abrazos, besos.

 

yachishuso

 

墓碑銘

 

彫刻と絵画では、君はダリの透明な空間を引き継いだ。詩においては、比喩が巧みだった。バラに触れるように、愛と真実に触れた君。目、唇、指。私はそれをたたえる。(君の言ったことばを刻みたいが、他人に読まれたくない。)朝、苦いオレンジを絞って飲んだ。昼、水を浴びた。光がいっぱいだった君の部屋。夜は眠った。シャツの色がいつも素敵だった。髭のととのえ方が超一流だった。2年と3か月。官能には長すぎた。苦悩には短すぎた。感謝、抱擁、キス。

 

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ジェーン・カンピオン監督「パワー・オブ・ザ・ドッグ」

2021-11-24 10:40:09 | 映画

ジェーン・カンピオン監督「パワー・オブ・ザ・ドッグ」(★★★★★)(2021年11月23日、中州大洋スクリーン1)

監督 ジェーン・カンピオン 出演 ベネディクト・カンバーバッチ、キルステン・ダンスト、ジェシー・プレモンス、コディ・スミット=マクフィー

 ジェーン・カンピオン監督。これは、見なければ。女性のセックス、恋愛を「学ぶ」には、ジェーン・カンピオンの映画ほど最適なものはない。ともかくびっくりさせられる。「触覚」の官能というのはわからないでもないが、ジェーン・カンピオンの映画を見るまでは、ちょっと想像しにくかった。ウッディ・アレンのなんという映画だったか、ジュリア・ロバーツが「背中を触られると感じる」というようなことを言い、ウディ・アレンが「一晩中背中を愛撫していたので疲れた」というような愚痴をこぼす作品があったが、しれは、まあ、コメディーだしね。
 で、この映画。私はジェーン・カンピオンが監督という以外に興味はなかった。キルステン・ダンスト(スパイダーマンの恋人?)は唇が嫌いだし、この女と、どちらかというと精神力を具現化するベネディクト・カンバーバッチがセックスするのか。そこにどんな「触覚」の興奮があるのか。キルステン・ダンストが、どんなふうに官能に目覚めていくのか、と、先入観を持ってスクリーンに向かってしまう。
 で、びっくり。
 始まってすぐすぐ。キルステン・ダンストが働いている(経営している?)店へベネディクト・カンバーバッチが入っていく。夕飯だ。テーブルの上に造花がある。これをベネディクト・カンバーバッチが「しゃれている」と手にとる。そこまでは、まあ、ベネディクト・カンバーバッチが粗野なカーボーイではなく、繊細な感覚を持っている男の「伏線」(大学で、哲学だか文学だかを専攻した。古典の素養もある)としてわからないでもないが、その造花を手にとった後、造花の花びらに指で触れて、その動きを見る。何かを思い出すように、触っている。えっ? これって、いままでの映画なら女の動作じゃないか。変だなあ。
 ところがね、これが「変」ではないのだ。なんとこの映画は、女の「触覚」とセックス(官能)を描いているのではなく、男の触覚の官能(セックス)をベネディクト・カンバーバッチを通して描いているだ。ことばを変えて、簡単に言いなおすと、新しいゲイ(ホモセクシュアル)の映画なのである。
 もちろん、すぐにはそうとはわからない。
 途中には、キルステン・ダンストがベネディクト・カンバーバッチの弟、ジェシー・プレモンスと平原のなかでダンスするシーン、そっと手を触れ合うシーンがあって、やっぱりこの女の触覚の官能がテーマか、と思わせたりする。
 ベネディクト・カンバーバッチは、弟のジェシー・プレモンスがキルステン・ダンスト結婚したことにいらだっている。家の中に「女」が侵入してきたことにいらだっているのか。それはベネディクト・カンバーバッチが女にセックスをの欲望を感じていて、それを横取りされたからではないということが徐々にわかってくる。
 これに、キルステン・ダンストの連れ子、コディ・スミット=マクフィーがからんでくるから、とてもややこしい。ベネディクト・カンバーバッチは造花をつくったのが女ではなく、コディ・スミット=マクフィーだと知って驚くのが、最初に書いた造花に触れるシーンだ。この痩せた少年、女のようだとからかわれる少年をベネディクト・カンバーバッチは、やはり嫌っているのだが、その理由が単に女っぽい(カーボーイには不向き)からではないということが、わかってくる。それはカーボーイになる前のベネディクト・カンバーバッチの「姿」だったからだ。
 で、この描かれていないベネディクト・カンバーバッチの少年時代に何があったのか。ことばで説明されるだけだが、冬の山で遭難しかけた。そのとき、一人の男が助けてくれた。こごえる少年の体を裸で抱きしめて温めてくれたのだ。このときの「触覚」が忘れられないのだ。あのとき、造花の花びらを触っていたのはベネディクト・カンバーバッチの指だけれど、その想像の先にはベネディクト・カンバーバッチが花びらになって、だれかに触られていたのだ。そのことが、映画が進むに連れてわかるようになっている。
 男の触覚の官能は、二度、克明に描かれる。ベネディクト・カンバーバッチが彼を助けてくれた男のイニシャルが入ったスカーフ(?)をズボンの中から取り出し、においをかぎ、そのスカーフをつかって彼自身の顔を愛撫する。何度も何度も愛撫を繰り返し、こらえきれなくなってスカーフをズボンの中へ入れ、オナニーをはじめる。
 コディ・スミット=マクフィーは、そのシーンを直接見たわけではないが、間接的にベネディクト・カンバーバッチの「秘密」を知ってしまう。そして、その「秘密」を利用して、母を憎んでいるベネディクト・カンバーバッチを殺そうと思う。
 この「殺し」がまたまた「繊細」というか、その「殺人」に「指」がどこまでも関係してくる。「殺し/殺される」はセックスそのものであり、そこには「指/触覚」が絡んでいるというのが、この映画のテーマなのだ。ひとは「触覚」によって支配されている、とでもいっているようだ。
 ベネディクト・カンバーバッチは革をつかってロープをつくっている。そのロープをコディ・スミット=マクフィーにプレゼントするという。ところが革が足りなくなる。その不足の革をコディ・スミット=マクフィーが持っている。炭疽病で死んだ牛の皮。そうと知らずに、それをつかったために、ベネディクト・カンバーバッチは炭疽病で死ぬのだが、まあ、そんなストーリーはどうでもよくて。
 このロープの仕上げのとき、ベネディクト・カンバーバッチとコディ・スミット=マクフィーは二人きりになる。ここからが男の触覚の官能を克明に描く二度目のシーン。ベネディクト・カンバーバッチがコディ・スミット=マクフィーにたばこを渡し、コディ・スミット=マクフィーが火をつけて、吸いさしをベネディクト・カンバーバッチにくわえさせる。動いている指はコディ・スミット=マクフィーの指。それは、ある意味ではセックスなのだ。少年が大人を誘っている。支配している。それはベネディクト・カンバーバッチ自身の見果てぬ夢だったかもしれない。指とたばこと唇。それが何度もスクリーンで展開する。
 「指/触覚」は、このクライマックス以外にも何度も描かれる。ベネディクト・カンバーバッチは手袋をしない。牛を去勢するとき、他のカーボーイから「手袋をしないのか」と聞かれるが、しない。キルステン・ダンストは先住民からもらった手袋をはめ「なんて、やわらかいの」とうっとりする。コディ・スミット=マクフィーは櫛の歯を指ではじいて母親をいらだたせる。指は暴力を振るう。指は官能に溺れる。指は間接的な攻撃にも使うことができる。ロープを編むのも手、指の仕事。炭疽病で死んだ牛の皮をはぎ、凶器としてつかうのも指。指がからみあうのが、この映画なのだ。
 この繊細で暴力的な指を、ジェーン・カンピオン監督は、雄大なアメリカの山と平原を舞台に展開する。その映像はとてつもなく美しい。近景、中景、遠景を組み合わせながら揺るぎなく展開する。
 そうか、ジェーン・カンピオンにはゲイの官能は、こういうふうに見えているのか、と目をさめさせられる。ラストシーン(ここでは詳細を書かない)も、非常に不気味で、人間の複雑さをたっぷりと味わわせてくれる。
 舞台は「現代」ではないが、「時代」を超える人間の本能/感性をを描いた傑作だ。「ピアノレッスン」「ある貴婦人の肖像」も舞台は「現代」ではなかった。「時代」設定をあえて「過去」にすることで、変わらない人間の本質を描く(浮き彫りにする)というのがジェーン・カンピオンの姿勢なのかもしれない。
 書きそびれたが、音楽もとてもいい。「現代的」だ。それがこの映画をいっそう清潔にしている。

 

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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

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サラマーゴの文体

2021-11-23 10:43:27 | その他(音楽、小説etc)

  何度か書いてきたことだが、サラマーゴの文体(『Ensayo sobre la ceguera 』)には驚かされる。

 主人公の女(眼科医の妻)が道に迷う。そして、帰り道を発見する。そのとき、それまでの三人称(ただし、会話では一人称)が、突然二人称に変わる。

 270ページから271ページにかけて。

 

 No estaba tan lejos como creía, sólo se había desviado un poco en otra dirección, no teneis más que seguir por esta calle hasta una plaza, ahí cuentas dos calles a la izquierda, doblas después en la derecha, esa es la que buscas, de numero no tehas olvidado.

 

 「No estaba tan lejos como creía, sólo se había desviado un poco en otra dirección」までは、作家のナレーション。状況説明。動詞は三人称。「estaba/se había desviado 」「彼女が」思ったほど遠くにいるのではない、ほんの少し反対方向へきてしまっただけなんだ。そのあと、「no teneis más que seguir por esta calle calle hasta una plaza ・・・・」。動詞に二人称。「teneis」主語は「君」。「君は」この通りを広場までまっすぐに行かなければならない。(以下の動詞も、二人称)

 つまり、ここでは主人公は、自分自身に対して「君は」と呼びかけている。これは彼女が道に迷った混乱から立ち直り、自分自身に、「こうしろ」と命令しているのである。いわば、客観化。この客観化によって、私は(読者は)、あ、主人公は混乱から立ち直りつつあるとわかる。

 私は、ここで、目が覚めました。

 以前、別の女(突然あらわれた女)が放火するシーンで「時制」が過去形から現在形に変わることを指摘したが、ここでは「人称」が突然変化する。私は、スペイン語の初心者(NHKラジオ講座の入門編がまだ終わらない)ので、これまでこういう「人称」の変化があったかどうか気がつかなかったが、ここでは、はっきりと気づいた。

 サラマーゴは、時制や人称を変化させることで、読者を「物語」そのものに引き込んでいる。ストーリーそのものもおもしろい(だから、映画にもなった)のだが、「文体」そのものが「小説」(文学)にしかできないことをやっている。

 これは、おもしろい、としか言いようがない。

 

 で、ね。

 ここからちょっと自慢。

 私はこの小説をスペイン人の友人に手伝ってもらいながら読み進んでいるのだが、私が「270ページから271ページにかけて、動詞の人称が変わっている。ここが、この小説のおもしろいところ。とても感心した」と話したのだが、私のスペイン語のせいもあって、その小説の「醍醐味」がなかなかつたわらない。つまり、友人は人称の変化を気にせずに読んでいた。無意識に、なんでもないことのように読んでいた。私が「もっと先から読み直してみて。突然、TU(君)が出てくるよ。とてもおもしろいと思わないか。サラマーゴの天才がここにあらわれている」と繰り返し、「彼女は、ここで自分自身と頭の中で対話している」と言いなおして、やっと私の言いたいことの「意味」が通じた。友人もびっくりしていた。彼女自身が対話している、ということは意識しなかったようなのだ。

 何が言いたいかというと。

 私は、どうも、ふつうの人が見落とす「文体の変化」に敏感らしいのだ。

 外国語でこうなのだから、日本語では、もっと気になるんだよなあ、この「文体の変化」。

 

 脱線からもどると。

 これも何度か指摘したことだけれど、雨沢泰の訳文は、当然のことのように、この「文体の変化」を訳出していない。

 「彼女は思ったよりも遠ざかっていなかった。別の方角へ大まわりしていたからだ。この通りをまっすぐ広場まで歩き……」。「心の声/頭の中の対話」が聞こえてこない。だから、喜びもつたわらない。心の躍動がつたわらない。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇123)Jose Manuel Belmonte Cortes

2021-11-22 12:43:30 | estoy loco por espana

Obra Jose Manuel Belmonte Cortes

Jose Manuel Belmonte Cortes crea obras a tamaño real.

Es tan real, poe eso…es un poco espeluznante, para mí.

Porque la realidad no tiene la exageración, por ejemplo como de Rodin.

La exageración me tranquiliza. Puedo ver lo que la persona está mirando a través de la exageración.

Mi forma de decirlo puede resultar extraña, pero quiero decir esto: “La crítica que no se critica” .Jose critica algo por no criticar. La crítica es una especie de modificación. Jose acepta todo sin modificaciones. El niega a modifica y arreglar.

En este trabajo, el cuerpo se oculta. “La crítica que no se critica” está oculta.

En cambio, la crítica de la "camisa de fuerza" está surgiendo como expresión facial de un hombre.

La camisa de fuerza es simple, en otras palabras, es como abstracta, pero el rostro del hombre es real como sus otros trabajos.

Al contrastar la abstracción y la concreción, la concreción se vuelve más realista.

Y luego me sucede algo interesante.

Libélula.

La libélula en la cabeza del hombre es muy interesante.

¿Es una libélula real? ¿O es el sueño que imagina un hombre?

Estimula una imaginación abstracta, aunque concreta y real.

 

 

Jose Manuel Belmonte Cortesは、等身大の非常にリアルな作品をつくる。

そのリアルさは誇張がなくて少し不気味でさえある。

奇妙な言い方かもしれないが、批評しないことが批評になっている。

この作品は、珍しく身体が隠されている。批評しない批評が、隠されてしまっている。

代わりに「拘束服」への批評(批判)が男の表情として噴出してきている。

拘束服が簡略に、言いなおすと抽象的なのに対して、男の顔はあくまでもリアルである。

抽象的なものの存在、抽象的なものとの対比によって、具象はよりリアルになっていく。

そして、そのときおもしろいことが起きる。

トンボ。

頭にとまっているトンボがとてもおもしろい。

それはほんもののトンボか。あるいは男が思い描いている夢か。

具象なのに、リアルなのに、抽象的な想像力を刺戟してくる。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇123)Joaquín Llorens

2021-11-22 08:36:52 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns

Técnica acero inoxidable

76x23x19 T.E

 

Muchas expresiones faciales que no parecen ser una sola tabla.

La superior izquierda y la inferior derecha tienen casi el mismo angulo. Sin embargo, la expresion es diferente. La sombra y el volumen tambien son diferentes.

El trabajo vive un dia, una hora, un minuto, un segundo como humano.

Mirando esta obra, puedo ver como vivia Joaquín, como vive, como vivira con el hierro.

Realmente el vive en hierro.

El conoce los sentimientos y las voluntades de hierro.

Siempre lo creo.

 

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Estoy loco por espana(番外篇122)Joaquín Llorens

2021-11-21 08:47:44 | estoy loco por espana



Al ver el trabajo de Joaquín, me recuerdo mi sueño de juventud.

Cuando era joven, anhelaba fabricar con madera.  Por ejemplo un escultor de madera. ¿Por qué es un madera? Nací en un pequeño y pobre pueblo en las montañas. Los árboles eran lo único a mi alrededor que podía usar libremente. Me gustaba tocar los árboles y las maderas.

Creo queJoaquín ama el hierro como me encanta el madera. Supongo que él habria estado viviendo con hierro desde que nació.

Procesar hierro requiere un martillo, yunque y fuego. Joaquín, por supuesto, usará ellos.

Pero lo primero que siento es su mano, cuando veo sus obras. Joaquín trabaja en hierro a mano. El martillo y el yunque también dan forma al hierro, pero este es el trabajo de mano. Se necesita una enorme cantidad de tiempo. Paciencia y esfuerzo. Pero Joaquín lo ha hecho. El hierro responde al poder de esa mano. Al mirar su trabajo con hierro oxidado, siento el diálogo entre Joaquín y el hierro.

El hierro tiene la forma que quiere ser. Joaquín tiene la forma que quiere hacer. Los dos sueños se unen y renacen como una obra.

 

Esta obra incluye un pedestal de madera. La forma limpia del pedestal de madera también es hermosa.

Soy una persona que tiene diferentes impresiones todos los días.

Hoy, este trabajo me parece una vela parpadeante en la oscuridad.

Hay una luz en la oscuridad. Hay luz. En ese momento, de repente siento ganas de rezar. ¿Por qué estoy rezando? No lo sé. Me sorprendo mucho de mi idea.

Lo que entiendo es la sorpresa de que todavía tengo el poder de orar.

 

Quiero hacer algo con mis palabras.

Cada vez que veo la obra de Joaquín, pienso que sí.


ホアキンの作品を見ていると、私は、私の青春時代の夢を思い出す。
私は若いとき、木をつかったものづくりに憧れた。木の彫刻もそうである。なぜ木なのか。私は山の中の小さな村で生まれた。周りにあるもので、自分が自由につかえるものは木だけだった。木に触っていることが好きだった。

ホアキンの作品には鉄に対する愛情がある。生まれたときからずっと鉄と一緒に暮らしているという感じがある。

鉄の加工には、ハンマーと火が必要だ。ホアキンも、もちろんハンマーと火をつかうだろう。

しかし、私が感じるのは、まず手である。ホアキンは手で鉄に働きかける。ハンマーも火もつかわず手で鉄に形を与える。とてつもなく長い時間がかかる。でも、それをホアキンはやり遂げている。その手の力に鉄が応えてくれている。彼の錆びた鉄をつかった作品を見ていると、ホアキンと鉄との対話を感じる。

この作品は、木の台座も含めてひとつの作品である。木の台座のすっきりとした形も美しい。

私は日々違った感想をもってしまう人間である。

きょうはこの作品が暗闇のなかでゆらめくろうそくにみえた。

暗闇の中に明かりがある。光がある。そのとき、ふいに、祈りたい気持ちになる。何を祈るのだろう。わからない。わかるのは、私にはまだ祈る力がある、という驚きだ。

私は私のことばで何かをつくりたい。
ホアキンの作品を見るたびに、そう思う。

 

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自民党憲法改正草案再読(40)

2021-11-20 10:56:34 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(40)

 2021年11月20日の読売新聞に、「首相『改憲一部先行も』、4項目同時こだわらず」という記事が載っている。

 岸田首相は19日、内閣記者会のインタビューで、憲法改正を巡り、自民党がまとめた自衛隊の根拠規定明記など4項目の改憲案の同時改正にこだわらず、一部を先行させる形もあり得るとの認識を示した。
 首相は「4項目とも現代社会に必要な改正だが、結果として一部が国会の議論で進めば、4項目同時にこだわるものではない」と述べた。「これから先、主戦場は国会での議論になる」とも語った。

 何を、どう変えるかよりも、「変える」ことに主眼がある。これは、完全におかしい。憲法は「変える」ためにあるのではない。変える必要があるとすれば、今の憲法では国民の人権が守れないという事態が生じたときだろう。自民党の掲げている「改憲4項目」には、たとえば「夫婦別姓を認める」「同性婚を認める」というものはない。いずれも、いま社会で起きている「要求」(認められないために、人権が侵害されているという訴え)なのだが、知らん顔をしている。
 少し脱線するが、先日、ケビン・マクドナルド監督の「モーリタニアン 黒塗りの記録」(ジョディ・フォスター、ベネディクト・カンバーバッチ主演)を見た。9・11事件の「関連容疑者」をめぐる「実録」映画である。そのなかで非常に興味深かかったのは、「容疑者」を弁護するジョディ・フォスター、告発するはずのベネディクト・カンバーバッチがともに「憲法」を根拠に論理を展開していることだ。ジョディ・フォスターは「容疑者の人権」を守ろうとする。ベネディクト・カンバーバッチは「国の安全」を守ろうとする。二人にとって、憲法を守ること、国家に憲法を守らせることが、人権を守ることであり、国を守ることである。憲法を守れなかったら、人権も国家も守れない。立場は違うが、憲法を守らない限り、何もできないと主張していることだ。
 こういう意識が自民党にあるかどうか。絶対にない。
 自民党が守ろうとしているのは「権力」だけである。
 私たちは、安倍政権時代に起きた「人権侵害」の例を知っている。安倍の知人の男から女性が強姦された。だが、その男は逮捕、起訴されなかった。財務省の職員は、文書改竄を命じられ、それを苦に自殺した。けれどその深層は明らかにされていない。ともに安倍に問題が波及するからである。国民の人権ではなく、安倍の「利益」を守るために、憲法がねじ曲げられている。
 その流れを汲む岸田が、安倍の路線を引き継いで改憲を進めようとしている。憲法を守る、ではなく、憲法を変えることで、権力を守ろうとしている。憲法の基本を逸脱し、憲法そのものを破壊しようとしている。

 憲法改正について、現行憲法と改憲草案は、どう違うか。ともに2項あるが、1項ずつ見ている。

(現行憲法)
第九章 改正
第96条
1 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
(改正草案)
第十章 改正
第100 条
1 この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を得なければならない。この承認には、法律の定めるところにより行われる国民の投票において有効投票の過半数の賛成を必要とする。

 「発議」の主体(主語)が、現行憲法では「国会」、改正草案では「衆議院又は参議院の議員」。「発議」のための条件が非常に緩和されている。現行憲法では「国会(衆議院、参議院の両方)」の賛成が必要なのに、改憲草案では「衆議院又は参議院の議員」のどちらかの議員だけで発議できるのである。しかも現行憲法では「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」が必要なのに、改憲草案ではそうは書いていない。改憲草案は「発議」のあと、「両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で国会が議決」する。
 ところで、この「議決」とは何なのか。
 現行憲法には「議決」ということばは出てこない。国会はあくまでも「発議」する。国会は「憲法をこういう具合に改正したい」という案を国民に示すだけである。つまりその「発議」は国民の「承認」を必要とする。このときの「承認」とは実質的には「議決」である。国民投票によって、その成否が決まるのである。それまでは、いかなる「議決」(決定)も存在しない。繰り返しになるが、「国会」は議決などしない。あくまでも「発議」だけである。
 改憲草案は、そうではない。国会で「議決」までしてしまう。「議決」したものの「承認」を国民に求める。
 これは単なる「用語」の問題か。手続き的には同じことを言いなおしているだけか。
 そうではない。ことばというのは、とても重要だ。「議決」されたものを「承認」するのと、「議決されていない案」を投票にかけ、賛否を問い、「承認」を受けるのでは、印象がまったく違う。提案されただけなら、まだ、どんな意見もあらわれる可能性がある。しかし、「議決された」ものは、すでに「賛成」が「反対」を上回っているのである。「議決された」ものを覆すためには、そのための「論理展開」が必要である。それは「提案されたもの」の賛否を議論することとは全然違し、労力も必要になる。
 これは簡単に言いなおせば「心理」の問題になるかもしれないが、この「心理」の与える影響は大きい。もう決まっている。反対する人間はただ反対したいだけで、何もしない、という批判が出てくるだろう。自民党の多用することばで言えば、「野党は反対するだけで建設的ではない」。そういう「風潮」を利用して、改憲を押し切るのである。
 必要な賛成の数も、改憲草案では「有効投票の過半数」と変更されている。現行憲法では、「有権者の過半数」とも「投票総数の過半数」とも理解することができる。「その」という指示詞があるので、たぶん「投票総数の過半数」と読むのが正しいだろう。「投票総数の過半数」と「有効投票の過半数」は大きな問題になる可能性がある。書き込んではいけない何かを投票用紙に書いたとする。たとえば「9条を守れ」というようなひとことを書いたとする。その票が「無効票」と判断されたとき、それは「有効投票数」にカウントされるのか。私は「選挙」にはくわしくないからわからないが、きっと自民党に有利なように解釈されるだろう。つまり無効投票に数えられることになるだろう。無効投票が増えれば、それだけ有効投票数が減る。「分母」が小さくなり、「過半数」の数も小さくなる。少ない「賛成」票で改正案が成立してしまう。改正するのに少ない賛成ですむことになる。
 また現行憲法が、この国民投票を「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票」と定義している。「特別の」ということばをつかっている。ここに、とても重要という意味合いが含まれると思う。しかし、改憲草案は「特別の」を削除し「法律の定めるところにより行われる国民の投票」と変えている。「国民投票」に何があるか。いくつあるか。私は知らないが、その「国民投票」と「同列」の投票になる。「特別」ではなくなる。これも、国民の目をごまかすことにならないか。

 第2項はどうか。

(現行憲法)
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
(改正草案)
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、直ちに憲法改正を公布する。

 現行憲法の「国民の名で」と「この憲法と一体を成すものとして」が削除されている。これは、どういうことなのか。なぜ、削除したのか。
 むずかしい。
 逆に考えてみよう。現行憲法は、なぜ「国民の名で」と「この憲法と一体を成すものとして」ということばを書き込んでいるのか。そこにはどんな意味が込められているのか。これは簡単だ。
 「国民の名で」というのは、この憲法が国民のものであるという「証拠」である。所有物には名前を書く。政府(権力)のものではない。国民のものなのだ。だから、「国民の名で」というのである。
 「この憲法と一体を成すものとして」というとき、「憲法」と「何が」「一体を成す」のか。「国民」である。「憲法」は「国民」なのである。逆に言えば「国民」が「憲法」なのである。つまり、「政府(内閣、岸田や安倍、菅)」が「憲法」なのではない。
 「国民の名で」と「この憲法と一体を成すものとして」を削除したのは、「国民が憲法である」という本質的意味を否定するためである。内閣が憲法である、と主張するためである。独裁のために、「国民の名で」と「この憲法と一体を成すものとして」を削除したのだ。
 追加されたことばも重要だが、同様に削除されたことばも重要である。なぜ削除したのか。削除するとどうなるのか。そのことを考えないといけない。きのうも書いたが、繰り返し書いておく。削除には追加と同じように、そして時には追加以上に重大な意味がある。

 ここで、もう一度、映画「モーリタニアン 黒塗りの記録」にもどろう。人は行動するとき、何を自分の指針にするか。「神」という人がいるだろう。この映画ではベネディクト・カンバーバッチは「神」を信じる人としても描かれていた。一冊の本(そのなかにあったことば)という人もいるだろう。そして、その「ことば」のなかには、「憲法」もある。「憲法」を指針にして行動する人もいるだろう。たとえば、この映画では、ジョディ・フォスターが演じた弁護士は、そうである。友人・同僚との「人間関係」よりも「憲法」をよりどころとしている。「憲法」を守ることが生きることなのだ。
 日本にもそういう人がいるだろう。9条を、そして国民の権利について書かれた条項(そのことば)を指針にして、それを守るために生きている人もいるだろう。憲法は、あくまでも国民のものなのである。自民党の一部の権力者のために、憲法が変えられてしまうのは、たまらなくいやなことだ。

 

 

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自民党憲法改正草案再読(39)

2021-11-19 12:12:20 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(39)

 緊急事態条項のつづき。

第99条(緊急事態の宣言の効果)
1 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。

 1項。「法律の定めるところにより」という条件がついているが、どれだけの効力があるのか。「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」となれば、先の「法律」さえ即座に変更してしまうことができるだろう。さらに「内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる」とつづく。「支出」には「支出する」という方法は「支出しない」という方法がある。「自然災害」のとき「支出しない」ということは考えにくいが、絶対に「ない」とは言えない。「支出の規模」で支出に差をつける。岸田を例にあげれば、広島県で自然災害が発生したとき、その復旧予算を即座に支出する。しかし沖縄県への自然災害へは即座に支出しないばかりか、同じ災害規模であっても支出額を小さくする、ということが起きるかもしれない。「内閣総理大臣」に一任してはいけないのだ。
 自然災害ではないが、第98条1項にある「内乱等による社会秩序の混乱」を、たとえば辺野古基地反対という住民運動に適用するとどうなるか(政府の方針に従わないのは「内乱」である、と内閣が判断したときはどうなるのか)。沖縄県への「支出」を減らすということが起きる。「緊急事態」宣言が適用されているわけではないが、先取りする形での予算配分はすでに起きている。こういうことを踏まえれば、緊急事態条項ができれば、さらに激しくなる。いわゆる「アメとムチ」政策がもっと露骨におこなわれることになる。
 2項に「事後に国会の承認を得なければならない」とあるが、この「事後」が明確に定義されていない。三日以内、一週間以内というような「期間」は「法律の定めるところにより」とあいまいである。その「法律」さえ、1項によれば「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」なのだから、意味がない。
 だいたい、憲法は国家権力を拘束するものなのに、緊急事態条項には「内閣は〇〇をしてはいけない」がない。「内閣は……できる」と許可を与えている。国会の承認が必要と書いているが「事後」である。いつが「事後」なのか、分からないままでは、「まだ事後になっていない」といつまでも引き延ばすこともできる。
 内閣に権限を与えておいて、一方で、国民に対してはどうか。
 3項は「何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない」と国民に「義務」をおしつける。「何人も」とあるから、そこには当然のことながら日本に住んでいる外国人も含まれるだろう。
 その場合「第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない」というのだが、その「基本的人権」は日本に住んでいる外国人にも適用されるのか。自民党が考えている「基本的人権」とは何なのか。
 改正草案では、こうなっている。
第14条(法の下の平等)
1 全て国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
第18条(身体の拘束及び苦役からの自由)
1 何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。
2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
第19条(思想及び良心の自由)
 思想及び良心の自由は、保障する。
第19条の2(個人情報の不当取得の禁止等)(←注・新設条項)
 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。
第21条(表現の自由)
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。
第21条の2(国政上の行為に関する説明の責務)(←注・新設条項)
 国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う。

 「国民」と「何人」がつかいわけられている。「全て国民は、法の下に平等」であるが、外国人は平等ではない、が押し進められるかもしれない。外国人の情報は、国によって積極的に収集されるかもしれない。(もちろん、国民の情報も収集されるだろう。)政策の説明は「国民」に対してはおこなわれるが外国人に対しては何もしないかもしれない。
 外国人への「抑圧」が大きくなるだろう。自由が拘束されることになるだろう。
 しかし、それよりもさらに注意しなくてはならないのは、改正草案が「「第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条」と条項を選んでいることである。ここに書かれていない条項、第15、16、17、20条はどういう条項か。改正案ではなく、現行憲法を引いてみる。
第15条
1 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
第16条
 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。
第17条
 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。
第20条
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 第15条は簡単に言えば「選挙権(罷免権)」、第16条、第17条は「請願権/賠償請求権」、第20条は「信教の自由保障」。これが、すべてなくなるのである。
 非常事態宣言が出されると、国民は選挙権をなくす。権力に対して請願することもできないし、損害賠償もできなくなる。信教の自由もなくなる。国の命令に対して「私の信じている宗教では、そういうことは禁じられているので、命令に従うわけには行かない」ということができなくなる。
 改正草案に新設される形で書かれている「緊急事態条項」は、単に「追加」だけではないのである。同時に「削除」を含んでいる。何が「削除」されたのか。それは本当に「削除」してもいいものなのか。なぜ、自民党は、それを「削除」しようとするのか。狙いを読み取らなければならない。
 読み返せば簡単である。緊急事態なのだから、国が(内閣総理大臣が)何をしようが、その責任は問われない。国民は国に対して、いかなる責任追及も、賠償請求もできない。私は宗教を信じていないが、信じている人にとっては、それは「生死」にかかわることである。その「生死」を選ぶ権利もないのである。
 国民は国会を通じて、つまり国民が選んだ代表を通じて国に対して働きかけができる、と自民党は言うかもしれない。しかし、その国会は、緊急事態宣言下ではどう機能することができるのか。
 5項は、衆議院は解散されない。つまり、緊急事態宣言が出されたときの「議席構成」のままである。自民党が支配していれば、その支配がつづくだけである。国会をとおして、国民が活動するということができないのである。
 で、ここからもう一度前にもどってみる。第99条の3項。こんなことばがある。

国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置

 国民の生命を守る、はわかる。つぎにくる「身体」は「生命」を言い換えたものだろう。しかし、その次の「財産」はどうなのか。「生命/身体」がなければ、私は人間は存在しないと考えているから、それが最重要なのはわかる。しかしその次が「財産」なのか。私は貧乏人だからなのかもしれないが「財産」と聞いてもぴんとこない。「財産」よりも精神の自由の方が大切なのではないのか。私は宗教を信じていないが、宗教を信じている人は財産よりも宗教を大事だと思うのではないのか。だからこそ、財産をなげうっても宗教にすがるのではないのか。
 だいたい自民党の改正草案は国民の「財産」を守るという意識があるのか。自分たちの、自民党議員が属する社会の「財産」を守ろうとしているだけなのではないのか。「緊急事態」が宣言されているわけではないが、安倍以降の政治は、すべて同じだ。国民の「財産」など彼らの眼中にはない。国民の貧困がどんどん加速しているが、その貧困の拡大の一方で、一部の富裕層の「財産」も拡大している。貧困の拡大は一部富裕層の拡大と直結している。国民の多くが貧乏になればなるほど、一部の人間は豊かになるのだ。
 こういうとき、せめて「精神の自由」があれば、と思うが、つまり権力に対して反抗する運動があれば、それが生きる力になるだろうと想像することができるが、緊急事態事項は、「政府に対する批判」をきっと「内乱等による社会秩序の混乱」と判断し、国民の弾圧に向かうだろう。
 最近「台湾有事」ということがしきりに言われるが、現実問題として、台湾を舞台にして米中が衝突し、日本もそれに参加し、そのために中国から報復があり、さらに核戦争にまで拡大するということは、あまりにも突飛な想像だろう。それよりも、無駄な「自衛隊」という名の軍隊は「自民党防衛隊」となって国民弾圧に向かう、「自民党防衛隊」が国民に向かって動く、軍事独裁がはじまると考える方が現実的ではないだろうか。
 岸田政権が軍事独裁政権になったとしたら、海外から批判が起きるかもしれない。しかし、そんなことでは核戦争は起きない。外国の軍隊が日本国民の基本的人権を守るために日本に侵攻してくるということはないだろろう。
 「自衛隊」の「合憲化」「緊急事態条項」の新設は「軍事独裁」に直結する。

 

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