詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎「甕--「島嶼論」より」

2009-04-30 13:41:40 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「甕--「島嶼論」より」(「イリプスⅡnd」3、2009年04月20日発行)

 時里二郎「甕--「島嶼論」より」には時里の嗜好(?)がくっきりと出ている。時里語とでもいうべきことばが次々にからみあい、どれがキーワードがわからなくなるくらいである。

島にはさまざまな井戸がある
穴井とよばれる井戸がなかでも古い様式のものである
それゆえに女は水よりほかのものを汲むことになる

水汲みから帰る道は
わざとじぐざぐにくねる順路をとる
まるで言えのぐらい隅で待つ大甕を焦らすように
女の運ぶ甕からしたたる水が
女をぬらしている

汲んできた水を溜める甕が
飲食(おんじき)の用途に利用されるばかりではない。
甕の底は穴井への通路でもある

水は飲食のために減るのではなく
見えない径路を穴井へと還るのだと島の人は言う
穴井と甕は女を通して還流している


 1連目。「それゆえ」。これが時里語のひとつ。この「それゆえ」は「非論理的」である。「それゆえ」自体は、前に掲げた事実を土台にして、推論するときにつかう論理的なことばだが、その「論理性」を利用して「非論理」を描き出す。時里はいつでも「論理」を偽装する。「論理」というものはいつでも「精緻」なものである。時里は「精緻」をつみかさねることで、それが「非論理」であるにもかかわらず、それを「論理」に偽装する。
 (この作品の「精緻」は、時里がこれまで書いてきた「散文詩」という形式ではなく、「行分け詩」という形式のためか、「精緻」というよりも、何か違ったもの--ふくよかな匂いを身にまとっているが……。)
 時里の論理が非論理であるというのは、1連目の「水より他のもの」ということばからだけでも明らかである。「水より他のもの」というだけであって、それが何かは言わない。(言えない)いまは、「他のもの」としか言えない、と逃げる(?)。
 論理を装う非論理は、その、一種の「逃走」の形で動いていく。
 けっして「他のもの」が解明されることはない、と分かっているのに、そのことばを私は追ってしまう。ことばが「精緻」、「正確」だからである。この「正確」というのは「事実」をきちんと指し示すというのではなく、ことばの運動として「正確」である、ということである。

 2連目。「わざと」。時里のことばはすべて「わざと」である。これは、あらゆる文学(詩)が「わざと」であるから、ほんとうは「わざと」ではない。
 わざわざ書かなくていいことを書く。「わざと」ということばにひきずられて見逃しそうになるが、この「わざと」は、それこそ「わざと」書かれている。「わざと」を「わざと」書くことで、「わざと」を隠している。時里は、ことばを、何かをあらわすために書くと同時に隠すために書く。
 1連目の「水より他のもの」も同じである。「水より他のもの」と書きながら、それは実際には何なのか--それを隠している。
 こういう動きを「じぐざぐ」と形容することができる。「じぐざぐ」は辞書の説明では、何かを隠すとは書いていないが、時里にあっては、何かを隠すことだ。ある方向へ曲がる。ある目的地へ近づく--と見せかけて反対側へ方向転換する、方向転換したと思ったらまた最初の方向へ向かう。それは目的地を「ふたつ」(複数)用意しておいて、どちらがほんとうの目的地とは特定しないでおいて、動くにひとしい。Aという目的地、Bという目的地が互いに相手を隠しながら、その実、AでもBでもなく、Cへたどりつく。それが「じぐざぐ」である。
 時里はこういう「順路」を常に意識している。
 時里が描いているのは、いつでも「順路」なのである。そして、この「順路」は「それゆえ」につながる。時里の「それゆえ」は「じぐざぐ」の「順路」である。
 その「じぐざぐ順路」をたどりながら、わたしたちは「焦れる」(焦らされる)。この「焦れる」というのは、とても重要なことである。「焦れる」とどうなるか。感情がかってに育っていくのである。「待つ」という行為そのものは「感情」をもたない。それは「行為」にすぎない。しかし、そこに「焦れる」が加わると、もう「待っている」のか「焦れている」のかわからない。そこでは感情が--つまり、ことばが増幅される。「焦れる」は増幅作用を引き起こす「罠」である。

女の運ぶ甕からしたたる水が
女をぬらしている

 これは、私には、時里のことばの新しい動きにみえる。3、4連目への感想を書けば、その「新しさ」が浮き彫りにできるかもしれないが、この2行は、これまでの時里語を逸脱している。「したたる水が/女をぬらしている」。これは、直接的には「外部」の描写である。
 論理、順路というのは「内部」の動きが形になってあらわれたものである。この2行には、「内部」がない。それが、非常に、つやっぽい。突然、「他人」にあったときのような、どきまぎするような「存在」の出現である。

 時里語にもどる。3連目。「通路」。これは「順路」に似ている。「それゆえ」にも似ている。
 この3連目は、その「通路」だけが目立つが、とても不思議な3行である。

汲んできた水を溜める甕が
飲食の用途に利用されるばかりではない。
甕の底は穴井への通路でもある

 はじめて句点「。」がつかわれている。2行目と3行目の間には、この詩のどの行にもなかった「強い断絶」がある。そして、2行目と3行目には、実は、その強い断絶の導入によって省略されたことばがある。
 「それゆえ」である。
 句点「。」が「それゆえ」を飲み込んでしまっている。
 そして、じっくりと読むと、「それゆえ」の省略にそれに先だつ2行が、不思議な文章であることもわかる。 
 「汲んできた水を溜める甕が/飲食の用途に利用されるばかりではない。」は、多々しくは(?)、

汲んできて甕に溜めてある水が
飲食の用途に利用されるばかりではない。

 ではないのか。
 飲食の用途に利用されるのは「水」であって、「甕」が飲食に利用されることはないだろう。
 だから4連目の書き出しも「水は飲食のために減るのではなく」と、「水」を主語にして書かれている。
 3連目で、「わざと」時里は文法に乱れを導入している。そして、その乱れをいったん句点「。」で断ち切って、なおかつ「それゆえに」を句点「。」のなかに封じ込めて、非論理へと飛躍していることになる。

 4連目の時里語。「径路」。これは「順路」「通路」に通じる。重要なのは「見えない」である。「見えない」は目には見えない、という意味である。目には見えないけれど、「他のもの」なら見える。「他のもの」とは何か。論理である。目には見えないけれど、ことばでなら、その存在をあきらかにできるものがある。
 ここに時里が詩をかく理由が集約されている。
 目には見えない。けれど、そこに存在する「論理」をことばで明らかにする。さらにいえば、論理よりも非論理の方がもっと見えない、見えにくい。だから、「世界」に存在する「非論理」を「論理」のように見える形でことばにする。
 いうならば、「じぐざぐ」の「順路」をとおって時里はA、B、Cのどこかへゆくわけではない。目的地は「じぐざぐ」そのものにある。目的地があるのではなく、「順路」(通路、径路)がある。「順路」そのものが、時里の、最終目的なのである。
 だからこそ。
 最終行。「還流」(その前には、「還る」があるが)なのである。ぐるぐるまわる。どこへもゆかない。どこへも行かず、まわることで、「いま」「ここ」という「場」そのものを深めていく。この深めるは「立体化」と言い換えても同じである。そして、この立体化にはもちろん「空間」だけではなく、「時間」も含まれる。

 私が引用、感想を書いたのは実は全体の3分の1である。3つの部分から構成されている作品の最初の部分だけである。あと、どんな具合になるか。それは雑誌で読んでください。
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『田村隆一全詩集』を読む(70)

2009-04-30 01:36:03 | 田村隆一
 「必需品」という作品がある。「屋根 壁 窓 ベッド/パン 水 トイレット」ではじまる。生きていくのに必要なものをリストアップしている。「裸体の若い女性には興味があるが/裸体の思想はワイセツだ」というおもしろい2行があるが、その2行につづく部分も興味深い。

人が通りすぎる
人が街角で消える

そんな瞬間 ぼくは死んだ人間に出会う
ぼくは不定型の人間になる

 視界から人影が消えた瞬間、死んだ人を思い出す。そのあと。「ぼくは不定形の人間になる」。この「不定型」ということば。これは「不定・型」ではなく、「不・定型」だろう。定まらない型(形)ではなく、「定型」になっていない型(形)。
 ふいに、英語を思い出すのである。私は。不定型を「定型動詞」を思い浮かべるのである。英語の動詞は、主語、時制によってはじめて「型」が定まる。主語、時制に関係していない(?)状態、原型(形)に対して、「定型」がある。ここで田村が「不定型」といっているのは、原形のことである。動詞の原形。
 田村は人間を動詞としてとらえている。
 動詞の原形である、田村は、動詞となって、ある特別な主語に従い、そしてそのときの時制をしたがい、形を変える。変形する。
 「変身」についてすでに書いてきたが、この「変身」とは、実は「動詞」のありようなのである。「動詞」は主語、時制によって形を変えてもなにも不思議はない。当然のことである。「変身」は、田村にとっては、特別なことではなく、ごくふつうのことなのである。

 「必需品」にからめて。
 詩人にとって何が「必需品」であるか。外国語である。日本語と外国語では、ことばの動きが違う。違う動きをしながら、それでも「人間」を描写する。同じ人間を描く。そのことばの運動に触れることで、無意識に動かしている「日本語」の動きに敏感になる。「日本語」の動きを鍛える。
 そして、「日本語」を「外国語」としてつかうとき、そこに詩が姿をあらわす。

 「外国語」というのは「他国語」でもある。「外」は「他」、「他人」の「他」。
 「他人」と出会って、ことばが動きはじめる。いままでのことばを捨てて、「他人」と向き合うために、ことばを変形させる。そのとき、ことばは変形させられるのではなく、「変身」するのだ。





新選田村隆一詩集 (1977年) (新選現代詩文庫)
田村 隆一
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貞久秀紀「木霊をもとめて」、中堂けいこ「仮面」、支倉隆子「府中の家」

2009-04-29 15:08:49 | 詩(雑誌・同人誌)
貞久秀紀「木霊をもとめて」、中堂けいこ「仮面」、支倉隆子「府中の家」(「鶴亀」3、2009年04月発行)

 貞久秀紀「木霊をもとめて」は非常に技巧的な詩である。つまり「わざと」が浮き立つ詩である。 

 木とわたしのあいだには何も見えず、わたしがこの木に隔たりの
あるところにいて見上げている間、まだつめたい空気のなかに枝が
のびやかに張りだし、白い花をいくつもつけていた。
 枝からたどりはじめて、目をだんだんとおろしてくるのにつれて
みえてくる灰いろのほそい筋つきの幹は、それを枝につながるただ

一つの幹としてノートに写し、ひととおり記録してふたたびたどり
かえせば、花のない枝であるとわかる。

 木をみつめている。枝から幹へ。そして、ノートに写生している。見つめた木と、描かれた木。その絵を見つめなおす。幹から枝へ。すると、その「木」そのものが違った存在になっている。
 実存と認識の差異。
 その差異を貞久は空白の1行としてあらわしている。
 この作品は引用のあと、3行ある。ちょうど空白を中央に挟んで、左右対称の形をしている。そういう形をとることで、実在と認識の向き合い方をも表現しているのだろう。
 方法論が、「わざと」を通り越して、あからさまに感じられる。この「あからさま」な形式を私は好きになれないが、その「あからさま」を塗り込める文体の静かさ、呼吸の長さにはこころがひかれた。

 木とわたしのあいだには何も見えず、わたしがこの木に隔たりの
あるところにいて見上げている間、

 ここには「あいだ」と「間」がある。「あいだ」は「空間」であり、「間」は「時間」である。そのちがいをはっきり認識して(意識して)、なおかつ、そのふたつを重ね合わせる。(融合というのとは、すこし違う感じがする。)そうすることで、「世界」というものを描いて見せる。木を描くふりをして、世界と私の関係を描く。
 木霊とはなにか。
 「木の精霊」であり、響きである。それは、「空間」のなかにあるのではない。「時間」のなかにあるのではない。「空間」と「時間」が向き合うところにある。重なり合いながら、すこしずれる。差異をかかえこむ。そこに、静かに存在するものである。--貞久は、そんなふうに言いたいのだろう。



 中堂けいこ「仮面」は、息の長い文体である。その息の長さのなかで、主語(?)がするりと入れ代わる。

やあやあと囃し立てる水霊ら 仮面ふりかざしては鉛のリボンで結わえ 顎を外して
十二月の子の寒さについて語りつぐ 男たちの下腹の痛みに円形の胞子とびちり
鏡面にうつらないわたしの顔をつるりとなげればそのようにも生きられよう

 「十二月の子の寒さ」は「この寒さ」の誤植かも、と思うが、同じ行に「胞子」ということばがあるので、判然としない。「子」と「胞子」をことばの深い部分で通い合わせようとしているのかもしれない。
 なにかしら、ひとつのことば、文章を、それだけで独立させるのではなく、どこかで通い合わせながら、ある風景(ある体験)を描くのではなく、そういう「通い合い」を文体のなかにとじこめようとしている。そういう意識を感じる。
 ここに描かれているのは、風景(体験)というよりは、ことばをどんなふうに書くか(動かすか)という意識である。そういう意味では、貞久といくらか似ている。書きたいのは、風景(体験)ではなく、ことばを動かす意識なのである。ことばの動きそのものなのである。文体なのである。
 文体を完成させたいという意識が中堂にはあるのだと思う。



 支倉隆子「府中の家」は文体意識を「幾何学」に変えてしまう。

    旅
    ↑
   宇宙の家
府中の家  雨中の家    詩や市や
   夢中の家
    ↓
    旅

 「宇宙」「府中」「雨中」「夢中」。そういうことばの響きを行き交うこと。そこに「旅」がある。
 書いていること、書こうとしていることは、わからないわけではないが、こういう表現を、私は「ずぼら」だと感じてしまう。「文体」をつくるという意識に書けていると思う。
 私は、詩を朗読しないが、詩は(ことばは)声に出して、そのまま読むことで他者に伝えることができないなら、それは詩ではないと考える。紙と文字にしばられたことばは、ことばのほんとうの力を失ったまま動いている。



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『田村隆一全詩集』を読む(69)

2009-04-29 00:00:48 | 田村隆一
 田村はときどき同じ主題を繰り返す。「人が星になるまで」。この作品には「変身」、人が変わる、という主題がある。タイトルそのものが、人が星に変身するまで(変化するまで)と、そこに「変身」を補うことができる。というより、人が星になるということばのなかに「変身」というものが含まれているのだが、その変身という主題が、田村にはあまりにも密着しすぎていて、「意識」としてあらわれなかったというべきなのかもしれない。ひとは自分自身にとってわかりきっていることはいつでも省略してしまうものである。

 では、「3」の部分。

人間の手が彫刻家の
人間の耳が音楽家の
人間の唇が沈黙しか語らない瞬間

目に見えなかったものが見えてきて
音さえ目に見えてきて

自然は球体だということに
やっと気づくのさ

 1行目、「人間の手が彫刻家の」、このあとに何が省略されているのだろう。2行目の「音楽家の」あとには何が省略されているのだろう。「沈黙しか語らない瞬間」がともに省略されている。そして3行目には「人間の」が省略されている。3行目は「人間の唇が人間の沈黙しか語らない瞬間」というのが、省略を補った形になるだろう。
 「唇が沈黙を語る」というのは矛盾である。田村はいつでも詩を矛盾からはじめる。
 したがって、「人間の手が彫刻家の沈黙しか語らない瞬間」というときの「沈黙」は「彫刻家のつくらない彫刻」(つくれなかった彫刻)をあらわす。音楽の場合、「作曲されなかった(演奏されなかった)音楽」ということになるだろう。彫刻家が彫刻を語らない、否定する。音楽家が音楽を否定する。唇がことばを否定する。あるいは、彫刻家が彫刻を拒絶する。音楽家が音楽を拒絶する。唇がことばを拒絶する。
 そのときに、

目に見えなかったものが見えてきて
音さえ目に見えてきて

 ということが起きる。それは「肉眼」がとらえる世界である。「肉眼」だから、本来目には見えない「音」、ふつうは耳で聞く音を「肉眼」で聞くことになる。音楽の中に、色がある。形がある。そのときの感覚--それを田村は、ここでは描いている。
 こういう世界を把握するためには「変身」が不可欠なのである。
 「4」の部分。

自然を解体するには
知力と体力と そして
人はたえず変身しつづけねばならない

 「目」から「肉眼」へ、「耳」から「肉耳」へ。そういう「変身」が完了したとき、自然は解体する。彫刻は解体する。音楽は解体する。彫刻は「形」ではなく、音楽を鳴り響かせる。音楽は「音」ではなく、色彩を、形を、描き出す。それぞれの領域を超越する。あらゆるものが、「自然」がそのとき解体する。知力と体力によって、「変身」したものだけが、その解体と、そこからはじまる生成の愉悦を味わうことができる。

 「銛」も、「変身」を主題としている。

この五十年間
言葉だけを獲物のように追跡していたと思いこんでいたら
言葉に追跡されているのは
ぼく
自身だということがやっと分ってきた
(略)
ぼくには「ぼく」そのものが時とともに
変容するから
ぼくが言葉になり
言葉がぼくになってくれたら

追う者と追われる者
という主題が
ぼくの肉体を貫いてくれるかもしれない
相模湾の漁師が大魚を突きさす
あの銛のごとく

 「変身」は「変容」ということばで表現されている。
 そして、その変身(変容)の瞬間、追う者と追われる者という主題が「ぼくの肉体を貫く」。それは、その主題のなかで「追う者・追われる者」が一体となり、「銛」のように激しいベクトルとなって動くということだ。そのベクトルは「いのち」を否定し、「いのち」を突き破って、どこかへ動く。肉体が肉体のままでは存在していることができない世界へ。そういう世界を生きるために「変身」が必要不可欠なのだ。このとき、その肉体は「超・肉体」になるといえばいいだろうか。「肉眼」「肉耳」ということばにならった言えば、「肉・肉体」である。
 そこから、詩ははじまる。

 「変身」はタイトルに「変身」ということばそのものを持っている。そのなかでも、「言葉」と「肉体」が語られる。

原罪とは言葉そのもの
人は言葉から生まれたのだから
この拘束力のなかで息をしているだけ

ある朝 目ざめると
ぼくは
女性
になっていた

おかげでやっと言葉の拘束帯から解放される

 「ぼく」が「女性」になる。その「変身」。そのとき、田村は「言葉の拘束帯」から解放される。ここには補足が必要だ。「男性の言葉の拘束帯」から田村は解放される。女性になっただけでは、実は、不十分である。そこから、もういちど、「女性」を解体しなければならない。そのとき、ことばはほんとうに自由になる。
 女性になって、それでことばから自由になれるなら、田村は、その段階で詩を中断してもいいはずである。しかし、田村は中断しない。その後も書きつづける。それは、男性→女性という「変身」だけでは不十分であるという「証拠」でもある。
 男性→女性のあと、何に変身するか。「銛」に「変身」しなければならないのだ。男性→女性→銛。銛とは、運動のエネルギーそのものであり、ベクトルだ。そのベクトルのなかで、つまり、運動そのもののなかで、たとえば目は「肉眼」として、耳は「肉耳」として、そてし肉体は「肉・肉体」として世界と向き合い、世界を手にする。
 それが、詩である。田村の詩である。



20世紀詩人の日曜日
田村 隆一
マガジンハウス

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クリント・イーストウッド監督「グラン・トリノ」(★★★★★)

2009-04-28 01:50:22 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 クリント・イーストウッド、ビー・バン、アーニー・ハー

 すばらしいシーンがいくつもある。私がいちばん感情を揺さぶられたのは、イーストウッドが病院で診察を受け帰宅し、息子に電話をかけるシーンである。頑固一徹で気弱なところをみせたことのない男が、ふいに寂しさに襲われ、息子に電話をする。息子はそれに気がつかない。仕事が忙しくて、会社だけではなく、自宅でも仕事をしているのだと、そそくさと電話を切り上げようとする。それに対して、どうしていいかわからない。
 このとき、イーストウッドは、自分自身の寂しさ、悲しみだけではなく、それまで息子が感じてきた寂しさを実感している。寂しいのに、その寂しさを察してくれないつらさ--それは、いままで息子たちが感じてきたこころだったのである。そして、その寂しさ、つらさが蓄積して、いまは、父は頑固一徹、わからずやだ、という「壁」になってしまっている。
 電話で、死期が近いのだといってしまえば、状況はかわるかもしれない。けれど、もう、それはできない。とりかえしがつかない。とりかえしのつかない罪を、父-息子という関係のなかで犯してきてしまった。後悔だけが、イーストウッドをおそう。
 このこと、この後悔は、懺悔のなかでもことばとして描かれているが、そのことばは神父には通じなかった。ことばで聞いても、え、そんなことが告白すべきこと? 神父の怪訝な反応が印象的である。実際、そんなことはことばで聞いても、なんのことかわからない。そのことばでは伝わらないものを、イーストウッドが一瞬の演技で納得させる。イーストウッドの演技のなかで、もっともいい演技だと思う。(これまでのすべての映画を含めて、という意味である。)

 ひとは知らずに罪を犯す。それは、たとえば、イーストウッドの父-子という関係だけではない。
 イーストウッドは過去に戦場で敵を殺している。それは敵であるとはいえ、忘れられない後悔である。死んでいった少年たちの顔が忘れられない。敵だから、というのは理由にならない。そのうえ、その殺害は「命令」ではなかった。イーストウッド自身の判断だった。--そういうことが、映画のなかで語られる。それは、犯してから、はじめて気がつく罪である。ひとはいつでも、罪を犯してから、それに気がつく。
 そして、そのことは、絶対に忘れることができない。
 これはイーストウッド自身(映画の主役の老人自身)の「思想」であるが、イーストウッドはそれを彼個人の「思想」ではなく、人間全体の「思想」であると感じている。人間はだれでも、知らずに犯した罪の重さを忘れることができない。一生後悔しつづける。人間とは、そういう「ナイーブ」な存在である。それを信じている。
 そのことが端的にあらわれているのがクライマックスのシーンだ。
 イーストウッドは、隣人の少年、その姉に危害をくわえた少年ギャングたちに復讐にゆく。誰もが(神父までもが)、イーストウッドは銃を持っていくと信じている。少年も、もちろんそう思っている。いっしょに銃で復讐に行くつもりでいた。迎え撃つギャングももちろんそう思っている。ところが、イーストウッドは銃を持っていかない。指をピストルの形にして撃つマネはするけれど、銃は持っていない。ただたばこを吸うためにライターを取り出そうとする。その動作を銃を取り出すと勘違いし、ギャングは一斉にイーストウッドを撃つ。
 無防備の人間を銃で撃つ。殺す。その罪をイーストウッドは朝鮮半島で犯してしまったが、いま、少年ギャング団は同じことをしている。
 この罪の後悔--それは永遠に消えない。イーストウッドは、それを信じている。人間の後悔する力を信じている。人間には、罪を意識する力、罪を犯したことを悔やむ力があると信じている。

 これは、とてもすばらしい。

 イーストウッドが無残に死んでゆく。それはとても悲しいことである。悲しいことであるけれど、死をかけて伝えるメッセージ(もちろん、映画ではことばでは説明していない)があまりにもナイーブなので、悲しいのに、さわやかである。メッセージなのに、おしつけがましさがない。
 このシーンに、思わず涙が流れるが、それは感情を激しく揺さぶられてというより、感情をそっと励まされてという感じに近い。後悔するとは、とても美しい感情なのだと思う。後悔は人間を美しくする感情であるといえばいいのかもしれない。後悔する力を持ちなさい、とそっと背中を押されたような感じである。その背中を押す、背中にあてられた手の温みを感じる--そのときの美しさ。



 イーストウッドの基本的な姿勢(思想)として、人間を信じるということがあると思う。それは映画のなかの人物、あるいは俳優、カメラマンなどのスタッフだけではなく、そこには観客も含まれる。
 イーストウッドの映画は、どの映画でも、スクリーンを感情で埋めてしまわない。感情の頂点(?)が10だとすると、その感情が8くらいまでに達すると、そこでそのシーンをおわってしまう。(ハリウッドの映画は10を通り越して12、13くらいにまで感情をあおる。)8くらいまで表現すると、残りの2は自然に観客のなかで育っていく。その育っていく、あるいは感情を育てる過程で、その感情が、観客自身のものとなる。イーストウッドが押しつける感情、あるいは思想ではなく、観客が自分で感じ、育てる思想になる。
 この映画で、私は、イーストウッドは後悔する力を信じていると感じた。少年ギャング団にもその後悔する力はあると信じ、イーストウッドは自分のいのちを投げ出したと感じたが、そういうことはこの映画では誰もことばにしていない。たとえば神父が「彼がしたことはこれこれの意味である」とは言わない。そこが、10を8で抑えるという部分である。神父は「彼のしたことはこれこれの意味である」と言わないばかりか、「彼は、私のことを27の童貞男といった」というような、ほとんど無意味なこと(無意味だけれど、真実であること)を言う。言わせる。そこに、この映画の美しさ、この映画にかぎらずイーストウッドの映画に共通する美しさがある。
 真実は(思想は)すべてを言わなくても、どこからでも姿をあらわす。それを観客は自分自身で発見する力を持っている--ということを信じている。それがイーストウッドだ。



 この映画には、すばらしいおまけがついている。イーストウッドが歌を歌っている。「センチメンタル・アドベンチャー」でもイーストウッドは歌っていたが、今回は歌手という役ではなく、最後のテーマミュージックを歌っている。しみじみと胸に響いてくる。



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『田村隆一全詩集』を読む(68)

2009-04-28 00:00:32 | 田村隆一

 「砂上にて」の書き出し。

まず白紙をひろげる
そして言葉があらわれるのを待つ

言葉があるから詩が生まれるのではない
言葉を探す旅が詩だとしたら

 詩とは、ことばを探すことなのだ。そして、ことばは、「他人」と出会わないかぎりみつからない。「自分」のままでは、知っていることばだけで納得してしまうからである。「他人」に出会い、「他人」のなかの「時間」に触れ、自分の「時間」との「間」を発見する。そのとき、ことばは動きはじめる。ことばは、ことばを探しはじめる。詩人がことばを探すのではなく、ことばがことばを探しはじめる。
 そして、このことばがことばを探すというのは、ことばが「現実」を、つまり「もの」を探すのと同じことである。
 きのう読んだ「亀が淵ブルース」には、六十男の語る村のエピソード、六十男のことばがそのまま引用されていた。そのことばを、田村は、鎌倉の裏山の草原で確かめている。草原を見ながら、いま、そこにはない六十男の、四十年前の「現実」をみている。(きのうの引用には含まれていないので、「全詩集」の959 -961 ページを参照してください。)ことばのとおりに、「いま」「ここ」に、目で見えるものを裏切って、「肉眼」が何かを見るなら、そのことばは詩なのである。
 ことばを探すというのは、ことばが「もの」を探しあてる、「肉眼」で、「肉耳」でしかとらえられない「もの」を探すことである。

 「美しい断崖」は、「他人」の「肉眼」が探し当てた「もの」を、実際に探すことからはじまっている。

どこにいても星空を見ることはできる
これは美しい断崖だ。

フランスの哲学者アランの「プロポ」に出てくる言葉だが
その星空を眺めたさに
逗子マリーナのレストランに行ったら

 田村はアランのことばに詩を感じた。「星空」を「断崖」と呼ぶことばの運動に、詩を感じた。感じたけれど、まだ、その実体には触れていない。その「星空」を「肉眼」は予感する。けれど、まだ、それを見ていない。ことばが誘っているが、まだ「もの」には出会っていない。だから、それを探しに小さな「旅」をはじめるのだ。
 この小さな「旅」に、田村の特徴がとてもよくでていると思う。田村は「星空の断崖」を探している。あるいは「断崖の星空」かもしれないけれど……。それは、どこにあるか、わからない。とりあえず「外」へ出る。
 そして、そのあと。
 田村は「断崖の星空」を探すことに固執しない。ことばに誘われて外出したのだが、そのことばにとらわれない。つまり、ことばを中心に据えて、「もの」を探すということはしない。本来の目的(?)は目的として、それにこだわって現実をゆがめてしまうようなことはしない。つまり、目的にあわせて、それにつづくことばを選びとるわけではない。
 目的(到達点)が「星空の断崖」であっても、「旅」にでたなら、そのときは、その「過程」そのものと充分に向き合う。どこをとおれば「星空の断崖」に近づけるかということは考えない。「旅」にでる前の自分を振り捨てることだけを心がける。
 ことばを探す、とは、それまでもっていたことばを捨てるということと同じなのである。ことばを捨てきって、そのあとどんなことばが「空白」にあらわれるか。それを実践するのがことばを探すということなのだ。拾うのではなく、自分のなかのことばを捨てる。そのあと、ことばは、やってくる。

フランスの哲学者アランの「プロポ」に出てくる言葉だが
その星空を眺めたさに
逗子マリーナのレストランに行ったら
ケイ・石田の
ボサノバのコンサートをやっていて
彼女のヴォーカルには
ブラジルの土と太陽と水の匂いがする
女性の肉体
という楽器から
血のリズムが音のリズムに転化する
南半球の
暗い部分と明るい部分
影と光が声の転調によって
リズムに乗って
そのリズムを軸にして
セミ・ヌードのブラジル娘たちが踊りまくり
踊りながら無重力の空間を遊泳すると

ぼくは北半球の下にいながら
南半球の軽快で悲しい恋の歌
明るくて暗い海の微風を全身で聞く

 この部分は、この部分として、完全に詩になっているが、書き出しの部分にある「目的」からすると逸脱している。「星空の断崖」はどこ?
 ここに、田村の「正直さ」、特徴がある。
 「目的」に現実をあわせない。現実にただ向き合う。そして、「目的」がどこへ消えようとと気にしないで(気にしているのかもしれないけれど、私には、気にしていないようにしか見えない)、そこにある「もの」に触れる。「他人」に触れる。そして、最終的に、知らずに、「目的地」にたどりつく。
 それは、「目的」から見つめなおせば、「目的」に辿り着く前に、すべてを捨てる、捨てることで身軽になって、身軽になった時、その身軽さの中に、ふいに「目的地」がやってくるということになる。田村が「目的地」へ向かうのではなく、「目的地」がむこうから田村の方へ向かってやってくるのである。
 空白、白紙に、ことばがやってくるように。

 捨てる、ことばを捨てるといっても、何を捨てていいか、ということなど、わかりはしない。ただ、そこにあるものと向き合い、ものにことばをぶつける。ケイ・石田の歌声は「星空の断崖」ではない。だから、「星空の断崖」ではないもの見るために、いま見ているものを捨てるのだ。捨てることが「肉眼」になることだから。
 「肉眼」は作り上げるものではなく、ただ「目」で見えるものを捨てる、「目」がみるときのことばを捨てる。破壊する。

全身で聞く

 引用した最後の行にあるが、「全身」を捨てる。そうしないと、「肉眼」にはたどりつけない。

 そうやって、自分自身を捨てることばが、詩であるのは、どうしてなのか。「星空の断崖」が詩である。その「星空の断崖」にむかっての「旅」の過程で捨てることば、それが詩であるのはなぜなのか。
 ケイ・石田のボサノバを描写した田村のことばが美しく響くのはなぜなのか。捨てることば、不要のことばなら、それは詩とは対極にある「つまらないことば」なのではない。しかし、田村のことばは「つまらないことば」ではない。美しい。なぜなのか。
 詩とは、そういものである、としかいいようがない。
 詩とは矛盾である。特に、田村の詩は矛盾である。破壊し、ことばがつくりだすものから自由になるのが、田村の詩である。すでにあることばを捨てる、叩き壊す--その過程こそが詩なのである。もし、田村が「星空の断崖」にむかう過程で捨てることばが「つまらない」としたら、それは田村が充分に自分のことばを捨てていないからだ、ということになる。そのこことばが美しければ美しいほど、そのことばが読者に印象的であればあるほど、田村は、自分のことばを捨てて、まだ見ぬ「他人」へと生まれ変わろうとしているということになる。

 詩の最後。

家に帰ったら猫がいなくて
彼専用の小さなソファーだけあって
三人でウイスキーを飲んでいるうちに
ぼくの脳髄のなかには
星空がひろがりはじめ 猫の
ソファーには背もたれがついていないのを
すっかり忘れてしまって ぼくは

哄笑したとたんにソファーから投げ出されて
「これは美しい断崖だ」

 ちょっと「おとし話」のような感じになる。「星空の断崖」は脳髄のなかの「星空」と、田村が転げ落ちた小さな「断崖」に収斂するのだが、その過程の、

すっかり忘れてしまって

 この1行が、「星空の断崖」に完全に一体になっている。完全に一体になってしまったため、そこにたどりついたと思ったら、そこからとびだしてしまったのだ。「星空の断崖」はとてつもなく広い、そして同時に広がりがない「場」である。すべてを捨てて、放心する一瞬、世界と田村の肉体が一致する。その瞬間にだけ、突然あらわれる「場」である。
 すっかり忘れて--この放心こそ、すべてを捨てるという一瞬である。

 そして、この「放心」という視点から、もう一度この詩を読み返すと、気がつくことがある。
 ケイ・石田のボサノバの描写が美しいのはなぜか。それは田村が「星空の断崖」を探すという「目的」を忘れて、つまり、放心して、言い換えれば「目的意識」をなくして、「肉体」そのものになって、ケイ・石田と向き合っているからである。なんらかの「意識」で「他人」に向き合うとき、ことばはすべての自由を失い、失速する。けれども、「目的」が消えるとき、ことばは、ことば自身のために自在に動き回る。そして、詩をプレゼントしてくれるのである。



ぼくの草競馬 (集英社文庫)
田村 隆一
集英社

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野樹かずみ、河津聖恵『わたしたちの路地』

2009-04-27 13:08:07 | 詩集
野樹かずみ、河津聖恵『わたしたちの路地』(澪標、2009年01月30日発行)

 野樹かずみの短歌に、河津聖恵の詩が応じるという形で、この作品群は出発する。

 早朝はいちばん安い塩パンもまだあたたかい涙のようだ

塩パン、そこから何を想像できるか

たった一個の固いパン、そのざらざらとしたぺったんこの
つねにいつもさいごの晩餐

一人の少女を想う
草履の足を動かしてみる

 この出発は、少し危険である。「いちばん安い塩パン」「あたたかい」「涙」。「つねにいつものさいご」 「少女」。そして、それを結びつける「想像」ということば。あらゆるものは「想像」のフィルターを通ると「抒情」になってしまう。「抒情」に「涙」(しかも、あたたかいと通い合う「涙」)が結びつくと、もう行く先は決まっている。
 けれど、この「想像」を、野樹の現実から出発する「短歌」、その破調が、破調の勢いで破っていく。

 廃材の小屋がひしめきあう路地の水溜まり 朝の光がゆれる
 大きすぎるパパのぼろ靴からのびるほそい足まるい腹はだかんぼう

 この破調、現実がことばを破壊するエネルギーの前では「想像」はあまりにも抒情的でありすぎる。
 河津は、この暴走に向き合うために中上健次の故郷をたずねている。野樹がフィリピンの現実と向き合うのに対して、河津は中上の現実と向き合う。ふたつの「場」をつなぐものは「路地」である。
 
路地はいたるところにある
私たちの世界に脈打つひそやかな静脈の青の葬送

 そして、ふたりは互いに互いの文体を破壊し合う。新しい自分と出会うために。それはそれで、たぶん、意義のあることなのだと思う。
 野樹の

蠅、蠅蠅、蠅蠅蠅、、、蠅、蠅蠅、蠅蠅蠅、、、蠅蠅蠅、、、蠅、

 という短歌は、とても好きだが、気がかりなのは、この二人の往復文学作品(?)をささえている「愉悦」が、フィリピンや中上の持っている「愉悦」とは違うような気がすることである。
 私はフィリピンも中上の故郷も実際には知らない。知っているのは中上の作品の中に出てくる「愉悦」だけである。中上の作品にはすべてのものをとろけさせる「無時間」の「愉悦」がある。死んでいくことの「愉悦」がある。いのちの中でいのちが死んでいくことの、清らかさがある。
 ふたりのことばのなかでは、「蠅、蠅蠅、蠅蠅蠅、、、蠅、蠅蠅、蠅蠅蠅、、、蠅蠅蠅、、、蠅、」にはそれを感じたが、ほかではどうもその手触りがない。どこまでいっても「想像」がどこかに紛れ込んでいるような感じがする。
 「愉悦」がふたりのなかで完結してしまっているという印象がある。「ここまで、自分を破壊しました、変えてみました」と喜び合っている感じがする。「作品」のタイトルの「わたしたちの路地」が、ほんとうに、野樹と河津のふたりの「わたしたち」という感じがどこかに残る。

 私は、野樹の作品は、今回読むのが初めてである。河津のことばは読んだことがある。河津の変化に、私がとまどっているだけなのかもしれないけれど。

christmas mountain わたしたちの路地
野樹 かずみ,河津 聖恵
澪標

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『田村隆一全詩集』を読む(67)

2009-04-27 01:28:19 | 田村隆一

 『ハミングバード』(1992年)。「亀が淵ブルース」の3連目、4連目が、私はとても好きである。

私がね、子どものころは蛇の棲家でしてね
ええ、二階堂の草っぱらのことですよ
マムシはむろん
シマヘビ ヤマカガシ 脱皮する前の
青大将ときたらノタリノタリしているだけで
その連中が草むらからいっせいに
動きだすんです
春 冬眠からさめたばかりだから
そりゃあ 鮮かなもんでした
二万坪の草原が波立つんですよ
どこへ?
ほら 細い川が流れているでしょ
亀が淵というんですけどね
亀はたくさんいましたけど スッポン ウナギまで遊んでいて
蛇の大群は
カエルを狙って走り出すんです
カエルのコーラス
カエルのタンゴ これがルンバになると
危い

 引用したのは3連目。田村自身のことばではなく、「この土地で生れ育った六十男/海軍のゼロ戦乗りの生き残りが/ぼくに語ってくれた」(5連目)をそのまま再現したものである。
 田村は、その男の語ったことばに手を加えていない。(と、私は感じる。)なぜ、他人のことばをそのまま引用して、田村の詩にしたのか。田村は、そのことばが「肉眼」から発せられていると感じたからだろう。そのことばが、そして田村の「肉眼」を活性化させる。男の語ったことばを聴きながら、田村の目は「肉眼」になって、草むらが動くのを見る。実感する。
 「他人」のことばの、その「他人」性が、田村の「肉眼」を目覚めさせる。それはユトリロの「白」が田村の「肉眼」を目覚めさせるのと同じである。田村の五感を超越しているもの--その超越性が「他人」である。
 これは、逆に言えば、もしことばが五感を超越した状態に達すれば、それは自分が発したことばでも「他人」のことばになる、自分を超越したものになる、つまり詩になるということでもある。

 詩とは「他人」のことばなのである。

 「他人」のことば、新しいことばであるからこそ、そこに詩がある。たとえば、

そりゃあ 鮮やかなもんでしたよ

 この一行の「鮮やか」ということば。
 教科書で教える「詩」(学校教育の詩)では、たぶん「鮮やか」な状態を「鮮やか」ということばをつかわずに書き表すのが詩であると定義されるだろう。(文学のことばだと定義されるだろう。)
 だが、この六十男の発した「鮮やか」は、ふつうの目が感じる「鮮やかさ」とは違っている。
 「肉眼」がつかむ「鮮やかさ」だ。同じ「鮮やか」という表記であっても、そこに書かれている実体が違うのである。その「鮮やか」とは蛇が群れをなして動いていくとき、その動きにあわせて草が動く、その動きをあらわしている。そういうものを「鮮やか」と呼んだひとはいない。(私は、そういうことばを読んだことがないし、たぶん田村も読んだことがないのだと思う。だから、そのまま書いている。)
 そこでは、草の動きさえ、「他人」なのである。蛇がいっせいに動くという世界そのものが「他人」なのである。
 「肉眼」が「他人」なら、その「他人」の耳も「肉耳」になる。カエルの声が(合唱が)、平和なものから、蛇の襲撃を知って、トーンを変える。「タンゴ」が「ルンバ」にかわる。この変化をとらえる「肉耳」。
 「肉体」そのものが、ここではかわっていく。そして、それにあわせて「世界」が「鮮やか」になっていく。

 「他人」のことばにあわせて、自分自身が「他人」になっていくのを受け入れている田村がここにいる。そういう田村のありかたを、私は「正直」だと感じる。




殺人は面白い―僕のミステリ・マップ (徳間文庫)
田村 隆一
徳間書店

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長嶋南子「冬至」、小柳玲子「呼ばれる」、万亀佳子「花の寺」

2009-04-26 14:58:34 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「冬至」、小柳玲子「呼ばれる」、万亀佳子「花の寺」(「きょうは詩人」13、2009年04月09日発行)

 長嶋南子「冬至」は、「呼ぶ」ということをとおして時間が描かれている。時間をどう受け入れるかが書かれている。

布団から顔を出して寝ているのは
おばあさんとおばあさん猫です
おばあさんはきのうまでおかあさんと呼ばれ
もっと前には娘さんともおねえさんとも呼ばれ
もっともっと前にはミナコちゃんと呼ばれ
あさってごろはホトケさんと呼ばれるでしょう
いまでは生まれた時からずっとおばあさんで
猫と暮らしていたような気がします
おばあさんはいつも猫に話しかけています
猫だって話しかければちゃんと返事するのですよ

 このあと、家族「夫」の呼び方の変遷、猫の呼び方の変遷が描かれている。だれをどう呼ぶか、自分がどう呼ばれるのを受け入れてきたか、というなかに「時間」の「肉体」が自然に描かれている。この「肉体」について、いちいち説明するのは面倒なので省略するが、長嶋の詩がおもしろいのは、「時間」の「肉体」を、過去だけではなく、未来へも押し広げ、ゆったりと受け入れているところだ。
 いろいろな変化は「頭」で受け入れようとすると、とても面倒である。
 呼び方の変化が、いったいどんなふうにその人の暮らしにかかわっているか--というようなことを、具体的に、「頭」でわかるように説明しようとすると、とても面倒である。そういうことは、みんなが体験しているから、説明などせずに、あ、そうだね、どこでもこういうことが起きるね、と受け入れておけばいいだけのことである。
 それをそのまま「未来」にまで、押し広げる--というのは、しかし、ほんとうはとてもむずかしい。
 ひとはいつかは死ぬ。死んだひとは「ホトケさん」と呼ばれる。ホトケさんと、誰かを呼んだことはあるかもしれないが、呼ばれた経験はだれにもない。経験していないことを受け入れるのはとてもむずかしい。そう呼ばれることは経験上推測はできても、なぜ、そんなふうに呼ばれなければならないのかわからない。そう呼ばれた時の気持ちがわからない。
 このわからないものを、わからないまま受け入れる。
 考えてみれば、人生というのは、わからないものを受け入れつづけることなのかもしれない。「肉体」はわからないものを受け入れても、なんとか、わかったように過ごして行けるものなのだ。「肉体」は何かを理解できない。「頭」のように、何かを論理的に、すべてにことばにして理解できないけれど、なんとかなる。
 そういう「肉体」の自信、余裕のようなものが、とてもいい。安心感をおぼえる。そして、それが自然と笑いを誘う。
 終わりの方に、とても楽しい「いま」が描かれている。

いまにも降りそうな夕方
女手ひとつでは薪割りも大変でしょう
と遠くからよそのおじいさんが通ってきました
あまり遠いのでおじいさんは家に帰れなくなりました
二人で寝れば暖かくなるからといって
布団に入ってきました
おばあさんは猫になって
よそのおじいさんの右腕を枕に寝ています
隣に寝ているおじいさんを
なんと呼べばいいのかもじもじしています

 「あさってごろはホトケさんと呼ばれるでしょう」とさえ笑っていえるのに、「肉体」は予測しなかったできごとにとまどって、「呼び方」に迷っている。「未来」がどんなにわかっていても、人間には、「いま」がわからない。いや、わかりすぎて、どんなふうにしても、その「正しさ」にどぎまぎしてしまう。(もじもじしてしまう。)
 この「いま」という時間があるから、ある意味では、過去も未来も、その「呼び方」の変化も、ゆったりと受け入れることができるのだろう。「いま」起きることは、なにもわからない。どうなるか、わからない。どうなってしまってもいい。どうなってしまってもいいのに、やっぱりためらう。
 この矛盾の美しさ。これは、「肉体」の美しさである。「頭」にとって矛盾は醜いものであるが、「肉体」にとっては矛盾は美である。矛盾があるから「肉体」は輝く。



 小柳玲子「呼ばれる」は、「そこのひと」と呼ばれた体験を書いている。何度か「そこのひと」呼ばれたことがあるうちの、ある不思議な体験がその中心に書かれている。

「そこのひと」と呼ばれる
暗い美術館の一隅だった
見回してもだれもいないので やっぱり「そこのひと」は
私らしい (略)
「私をひかりのある処へ」と絵の一枚が言う
黄泉の絵の中で名前を知らない画家は急に私の方を振り返る
絵の中ではさっきまではうしろ姿だったのだ
間もなくまたうしろをむかなければならないので彼は焦っている
もう日本語では間に合わない様子で英語で喋る
どうしてだか英語はよく分かる
私は英語音痴なのに変である
この辺りでようふく「あれだ」と私は気がつく
いつもの 夢の使いがやってきているのだ
「早く名前を言ってください」
(略)
「自分の名前くらい言えるでしょう」
彼は次第に小さく暗くなりながらダッドと名乗った
リチャード・ダッド
気が狂い
愛した父を殺した男です
深い闇 この絵の中にいる者です
そこのあなた 信号が聞こえますか

 1枚の絵、ひとりの画家との出会い。それを「呼ばれる」という「肉体」の反応で描き出している。「呼ばれる」のは、そのとき、そこに「肉体」があったからである。
 絵と出会い、「肉体」と「肉体」が出会う。「肉体」であるから、その絵のなかの人物が後ろをむいていても大丈夫である。ちゃんと正面に向き直ることができる。そして、名前を告げることもできる。
 「この辺りでようやく「あれだ」と私はきがつく」という1行は、小柳が何度もそういう体験をしていることを語っている。リチャード・ダッドの絵に出会うたびに、その絵がダッドの作品と知らずに向き合った時でも(そういうときにこそ)、絵は小柳にむかって「そこのひと」と呼びかけてくるのだ。絵に発見される「肉体」をしらずに小柳はみにつけている。小柳はそういう「肉体」になっている。
 「肉体」ごと、小柳はダッドの絵を愛している。だから、その「肉体」はダッドから発見されるのだ。



 万亀佳子「花の寺」。

極楽寺に花が散る
散って積もってその上に散って
重なって散ってまた散って
花は下から死んでいく

 「花は下から死んでいく」という1行がすばらしい。降り積もった花--その下の方の花はふつうは見えない。その見えないものを万亀の「肉眼」はくっきりととらえる。「肉体」としての「眼」は障害物をこえて、そこに起きていることを透視する。



リチャード・ダッド (夢人館8)

岩崎美術社

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『田村隆一全詩集』を読む(66)

2009-04-26 01:41:51 | 田村隆一

 きのう書いた感想は「意味」にしばられすぎていたかもしれない。私は実は『ぼくの航海日誌』は好きではない。ただし、一か所だけ、とけも好きなところがある。1行だけ、とても好きな行がある。
 「六月 すべてが美しすぎる」。そのなかほど。

アバよ カバよ アリゲーター

 ここには「意味」はない。
 というと、いいすぎになるかもしれないが、「意味」ではないものがある。「アバよ」はたしかに、その前の「ぼくは人間の皮とおさらばだ」と通い合っている。「おさらばだ」から、別れのことば「アバよ」が導き出されている。
 「カバよ」は「アバよ」と音だけが通い合っている。そして「アリゲーター」は「カバ」とアフリカの動物という「意味」でつながる。「意味」でつながることで、逆に無意味になる。--その瞬間の音楽。これが好きなのだ。

 ことばは「意味」になったり、「無意味」になったりして動いていく。その動きが、とても好きなのである。
 あるいは、言い直した方がいいのかもしれない。
 ことばが「意味」になろうとするとき、それを拒絶し、無意味に還元してしまう--その瞬間に、つかみどころのないエネルギーを感じ、そこに音楽の自由を感じ、そこ響きにひかれる、と。

 1連目から振り返る。

春がきた 終末の春がひらく
破滅するために花が咲きみだれ 草木は
若葉から緑に 暗緑色の炎にかわる
桜の花はとっくに散ってしまったのに
桜の花の記憶がまったくない
これは不思議な夢を見ているようなものだ

 昭和20年の6月。戦争の末期に感じている何か。不安。「破滅するために花が咲きみだれ」ということばのなかの「破滅するために」。特に「ために」ということばが、とても痛烈に響いてくる。どうしようもない暗さ。それが「花」といっしょにあること、「春」のいのちといっしょにあることの不思議さ。それは確かに「夢」なのかもしれない。
 この1連目を受けて、2連目は、「意味」のなかへ、ぐいと入っていく。

過去も未来もない
「今」という点の連続

 時間が「時・間」にならない。「間」が欠落する。それは昭和20年の「意味」であったかもしれない。いや、あったにちがいないと思う。
 だが、こういう「意味」のなかに意識が進んで行くと、「人生」が「意味」そのものになっていくようで、とても重苦しい。
 「意味」はさらにつづいていく。

過去も未来もない
「今」という点の連続
その点と点をつなぐ糸はからまり ぼくの指では
ほぐせない
糸がもつれ からまっているうちは
ぼくは人間の皮をかぶっていられるのかもしれない

 「時間」と「人間」。「今」、ここに存在すること。存在させられること。そこから「意味」は幾つでも出てくるだろうと思う。任意に「意味」が捏造できるだろうと思う。だからこそ、それを田村は一気に破壊する。

アバよ カバよ アリゲーター

 この音楽は、私には「アバよ カバよ ありがたや」にも聞こえる。「ありがたや」は「ありがたや」で「意味」になるかもしれないけれど、「アバよ」「カバよ」という音の連続に影響された、「アリゲーター」「ありがたや」という無意味な音の重なりによって「意味」が笑われると思う。

 「笑い」というのは、「意味」の拒絶、拒否であると思う。

 こういう「笑い」をくぐり抜けて、田村は、2連目で書いた「過去も未来もない/「今」という点の連続」という昭和20年の「意味」から遠ざかる。そして、昭和20年の「肉体」になる。その部分が、また、非常に美しい。

この年の春から初夏にかけて
ぼくは不思議な夢ばかり見ていた
桜の記憶もなければ
梅雨の記憶もない
雨にぬれる
という人間的感覚を失ってしまったのか

 この「雨にぬれる/という人間的感覚を失ってしまったのか」で、私は、ふるえる。あ、人間は「肉体」であると同時に「自然」なのだ、ふいに気がつく。「自然」と常に「交感」しているだ。
 この感動が、最後の3連で、もう一度強烈によみがえってくる。

夜は
「線の行者」村上華岳の芸術論を読んで

すべてが美しすぎる という
破滅の意味を体験する

夢がない
こんな夢を見たのは生まれてはじめてだ

 




20世紀詩人の日曜日
田村 隆一
マガジンハウス

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河津聖恵『新鹿』

2009-04-25 08:54:26 | 詩集
河津聖恵『新鹿』(思潮社、2009年03月25日発行)

 河津聖恵『新鹿』は紀州の人と風景と出会うことで書かれた詩集である。紀州といえば、熊野、熊野といえば中上健次である。河津は、中上健次とも向き合っている。
 そのせいだろうか、この詩集では、いままで知っている河津ではない新しい河津に出会うことができる。中上健次をときどき強く感じる。私が中上健次を(つまり、中上と向き合っている新しい河津を)見るのは、「湯ノ峰」次の部分である。

なかは危うい掛け金一個
どんと押されれば脆い いや囲いの板にもう隙間が空いている
“裸体をさらすのだな……”(囁き)
川の女神のように ではなく
ここに辿り着いたあまたの病み傷ついたニンゲンたち
醜い餓鬼となった小栗判官のシルエットまでうちそろい
“ラタイをさらしたのだな!”(コーラス)
たちこめる硫黄の匂いは千年という時の体温である

 括弧のなかにいれられた「コーラス」。声はひとりのものではない。声はいつでもコーラスであり、そこにはあらゆるニンゲンの「千年」の「時」がある。一人に出会うことで、実は、その土地に生きてきた複数の、声なき声にであう。「コーラス」は集団の声だが、それは「声なき声」である。ひとりの時は聞こえない声。集まることで聞こえる声。
 この、集まる、ということは特別なことである。

濁った(七色になるというが今青に近い)湯を 抱くようにかきまぜる
あたたかい
芯から(地獄から)あたたかい
救われるだろうか 救ってください 救ってやれ
私が私を赦しはじめる 蘇生のささやかで深い意味を知る
血くだがほどかれ 希望の幻は頬をへめぐって

 集まったものは、矛盾を抱えている。それはただ集まったものだから、いろいろなものをふくんでいる。

芯から(地獄から) 

 「天国から」あるいは「あの世から」ではなく、「地獄から」。すべてが集まるというのはそれは否定的なものをも含むのだ。それは、「地獄」をふくんでいるから、あたたかい。「精神」のあたたかさではなく、血のあたたかさだ。
 許しをもとめるものの、あたたかさ。
 そしてそれが、ぶつかりながら「救われるだろうか 救ってください 救ってやれ」とうごめく。
 「地獄」を「救う」、「赦す」。そうすることで、「血くだ」(血管)が「ほどかれ」、つまり、あらゆる血が、「血」そのものの「あたたかさ」につながる。「蘇生」するとは、いちばん最初の「血」につながること。「血」のあらゆる「歴史」につながることだ。あらゆる「血の歴史」につながり、そこから自分が失っていた力をとりもどす。「いのち」の「つながり」そのものになる。
 蘇生は「新しい血」になるのではない。延々とつづく、いわば源流の血をとりもどすことなのだ。源流の血は、真新しい鼓動に励まされて噴出する。そこに鼓動がかかわるがゆえに、それは「あたたかい」。肉体が「血」を押し出しているのだ。
  そのとき、「血」が「精神」にかわる。いや、「精神」を超越する。純粋に「肉体」になる。「肉体」そのものとして流れる。

 この「地獄」と「血」、そして「肉体」の関係は、「新鹿(二)」でも繰り返し書かれている。

新鹿はどこか
あたしかとは何か
ジャズのようにいのちの応答を呼び覚ます問いかけ
--もっと別の方法はないか?
(深い声がはじまる)

 「コーラス」とは「深い声」である。それは「深い」がゆえに、つまり「地獄」をふくむあらゆる血、源流にふれる血であるがゆえに、自分の血をささえ、自分の「血くだ」をかけめぐる。そのとき、ひとは「血の歴史=いのち」そのものと「応答」するのだ。
 そこから詩ははじまる。

自身を救い人をも救うそれはきっとある
この世界もまた輝く物質ならば
触れ 持ちあげ 動かすことができるはずだ
(私の唇がうごいていく)
昨日見た翡翠色の大塔川で動いていた必然のショベルカーのように!

 (私の唇がうごいていく)。この一行がすごい。血の源流に触れ、そこからいちばん純粋な血を取り戻す。その血、そのいのちは精神ではなく、「肉体」である。だから、それを取り戻す時、動くは「頭」ではなく、「肉体」そのものである。「唇」がうごく。「唇」がことばを受け継ぎ、そのまま、ことばは唇をとおることで、声になり、語りになる。語りとは、「頭」に働きかけることばではなく、「肉体」そのものに働きかけ、「肉体」を解放する(ときはなつ、ほどく)ものでもある。
 だから、次のようなことが起きる。

眼下のさむい薄青の海から
私たちは海鳴りを聴きとどける
かつてここに立ったひとの「うつほ」は 今もこのように静かに在る
根源的に、ある
(眼の裏が共鳴している)

 共鳴。
 それは「眼」ではなく、耳が受け取るもの、あるいは「喉」(声)が受け渡すもの。それが「眼」とともにある。
 「根源的」なものに触れるのは「頭」ではなく、「肉体」。ここでは、「眼の裏」。しかも、そのとき「眼」は「眼」を超越する。「眼」であることを越境して、他の肉体につながり、他の肉体の機能を自分のものにしてしまう。他の肉体と融合して、あたらしい「肉体」、名付けられていない「肉体」になる。「いのち」になる。





神は外せないイヤホンを
河津 聖恵
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(65)

2009-04-25 00:28:06 | 田村隆一

 『ぼくの航海日誌』(1991年)は、田村の誕生から1991年までの半生を描いている。自伝である。自伝を書くことで田村は何をしようとしたのだろう。最後におさめられている「二月 白」。その最後の部分。

ぼくにとって現在は
白という色彩 現在を指で触れたかったら
ユトリロの色彩を見るがいい

白という色を産みだすために
ただそれだけのために
ぼくは詩を書く

一行の余白
その白
その断崖を飛びこえられるか



 田村の「白」とユトリロへのこだわりは『新世界より』の「白の動き」にすでに書かれている。田村の自伝が、最終的に描き出しているのは、その「白」への強い希求である。「白」とはいったいどんな色なのだろう。
 それは、たぶん「灰色」と関係している。田村には『灰色ノート』という詩集がある。「白」はその「灰色」と連動している。「白」は「灰色」からうまれてくるのか。あるいは、「灰色」は白からうまれてくるのか。

 「白」と「灰色」のあいだで、動きだそうとする田村がいる。『ぼくの航海日誌』は、その動きだすための準備のように見える。

古い年は過ぎ
新しい年がくる その新しい年も
またたくまに
古くなるだろう ぼくらは
過去をつくりながら地上を旅するのだが
どこの国へいっても出会うのは過去ばかり
未来は
ぼくらの背後から追跡してくる

 「未来」を「白」を手にいれるには、「過去」を「灰色」を「肉眼」で見つめなおさなくてはならない。「過去」と呼ばれるものと「いま」との「間」のなかにある動き、それを見極めようとしたのだと思う。





青い廃墟にて―田村隆一対話集 (1973年)
田村 隆一
毎日新聞社

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ガス・ヴァン・サント監督「ミルク」(★★★★)

2009-04-24 10:57:02 | 映画
監督 ガス・ヴァン・サント 出演 ショーン・ペン、エミール・ハーシュ、ジョシュ・ブローリン

 ゲイを主人公にした映画は、いまでは珍しくない。けれども、そうした映画のなかにあっても、この映画はとびぬけて風変わりである。明るい。それも、コメディー、笑いの明るさではなく、希望に満ちた明るさなのだ。
 とても不思議である。
 ハーベイ・ミルクという政治家が暗殺されたことは、周知の事実である。予告編やチラシで説明されている。そして、映画そのものも、ショーン・ペンが「私が暗殺されたらこのテープを公開してくれ」と自分の歴史をテープに吹き込むところから始まる。ミルクが死ぬまでの映画であることは、あらかじめ知らされている。それにもかかわらず、明るい。途中に、ミルクの恋人が首吊り自殺する。それにもかかわらず明るい。
 なぜなのだろうか。
 ハーベイ・ミルクが変化していくからである。最初は、ゲイであることを隠している。隠して、保険会社で働いている。地下鉄の出口で偶然ひとりの男に出会う。そこから変わりはじめる。ニューヨークを捨てる。カリフォルニアへ引っ越す。ゲイが行き交う街でカメラ屋を開く。多くの仲間に出会い、同時に、そうした仲間があつまる社会にあっても、その社会そのものを弾圧する力があることを知る。バーに警官が殴り込み、仲間を一斉に摘発(?)する。
 そういう現実に直面して、ミルクは「ことば」を獲得していく。
 彼が最初に発したことば。「私は、ハーベイ・ミルクだ。みんなをリクルートしたい」。映画では「リクルート」を「勧誘」と訳していたが、これは単なる「勧誘」ではなく、「兵士として」勧誘したい、という意味である。つまり、いっしょに戦おうという意味である。戦いへ誘っているのである。自分たちを弾圧するものと戦おうと誘っているのである。べつなことばでいえば、いっしょに戦おうだけではなく、自分は戦争を組織する。それに参加してくれ、といっているのである。自分がリーダーになる。責任を持つ。だから、この戦いに参加してくれ、というのである。
 これは、彼が、地下鉄の出口で男を誘った時のことばとはまったく異質である。恋人を誘う時、彼は「39歳の最後の夜をひとりで過ごすのはさびしい」と誘った。自分を助けてくれ、と「弱い」部分をさらけだして、助けを求めた。
 しかし、いまは違うのだ。ゲイが置かれている「弱さ」は社会的につくられたもの、差別である。「弱さ」を強いるもの戦い、戦いをとおして強くなろう、と彼は訴える。
 社会への通路を閉ざし、つまり社会から隠れて、恋人へ愛を囁き、甘えていたことばから、社会と向き合うための「ことば」への変化。それが「リクルート」のひとことに集約されている。
 ことばの変化は、当然、人間関係の変化にもつながる。ミルクは恋人を失ってしまう。けれども、ミルクは引き返さない。つぎつぎに、新しい「ことば」を獲得していく。「論理」を獲得していく。「感情」(恋愛)ではなく、「論理」(正義)で、ひとと向き合う。たとえば、教師からゲイを追放しようとする政治家との討論。「ゲイではない教師が犯す変質的性犯罪の割合は?」そう問うことで、ゲイ追放を訴える政治家が「論理」ではなく、自分の感情(嗜好)だけでことばを発していることを明らかにしていく。それはあらゆる状況で通じるものではないが、通じようが通じまいが、つまり、それがどういう状況であろうと、ミルクは「論理」の正しさで戦う。
 ことばは「武器」なのである。「論理」は武器になりうるのである。
 だから、ひとは「ことば」を恐れる。「ことば」をたとえば銃弾という武器で押さえようとする。そして、実際に、ミルクはその銃弾によって命を奪われる。
 それでも、この映画は明るい。
 人間のことばは変わりうる。つまり、人間は変わりうる。そして、ことばによって社会は変えられるということを語るからである。
 ことばを持つ国は強い。アメリカは、確かに強い国だと、この映画を見て思った。オバマの背後にはキング牧師の「私には夢がある」という美しいことばがある。それは「私は新兵をつのりたい(リクルートしたい)」というミルクへとつながる。個人個人の夢、ひとりひとりの夢が組織化され、戦いを挑む時、オバマの「われわれはできる」という確信に「チェンジ」する。
 激変の時代に、過去から、激変を戦ったことばが「未来」として噴出してきた。そういう鮮やかな印象がこの映画を明るいものにしている。

 ショーン・ペンの演技もすばらしかった。演じているというより、スクリーンのなかで生きていた。恋人と出会った歓び、そこから出発して、差別への怒り、怒りから戦いへ、戦いから正義へ、未来へと動いていく変化が、生きている感じでつたわってくる。ショーン・ペンはミルクを演じたのではなく、敬意を持って、彼の人生を生きたのだと思う。



もう1本ショーン・ペンを見るなら……。
イーストウッド監督の傑作。

ミスティック・リバー 特別版 〈2枚組〉

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『田村隆一全詩集』を読む(64)

2009-04-24 00:42:02 | 田村隆一

 「新世界より」には不思議な1行がある。

第二次世界大戦後は 王様は
数少なくなってしまって そのかわり
クレヨンも二十四色から数百色
コンピューターによれば赤だけで三千色
これでは絵も描けないし 舌も出せない

 この「舌」は何?
 「舌」ということばが田村の詩のなかで、どんなふうにつかわれているか分類・分析すればわかるだろうか。
 「想像の舌」では、

きみの舌をできるだけ長くのばせ
その舌が

どんな地平線に
どんな水平線に
触れられるものか試してみるんだ

 と書かれていた。
 「舌」はことばかもしれない。「舌」をつかって、ことばを発する。「舌」はことばの「肉体」かもしれない。
 「想像の舌」は「苦み」「痛み」に触れた。味覚と触覚。その融合。そして、それは「ことば」のなかで姿をあらわした。
 どんなことがらも「ことば」のなかで起きるのである。

 「沈める都市」の「2」の部分。

人の耳は海の色の変調が見えない
人の目は岩礁に砕かれる白い波頭が聞えない

 こう書く時、その反語として、田村には「肉耳」には海の色の変調が見える。「肉眼」には岩礁に砕かれる波頭が聞こえるという意識がある。
 そうであるなら、次の部分は、どんな反語を隠しているのだろうか。

まして
雪の上の足跡
草原の微風
野の花ヒースの荒野
猫の目スノー・ドロップ
森の小鳥の海鳥の裂かれた舌
人の耳も目も
また舌も
観察することも批評することも
できっこない まして創造することは

 もし、人間が「肉眼」「肉耳」を、そして「肉舌」を獲得できたら、ひとは雪の上の足跡を聞くことができる、草原の微風を見ることができる、ヒースの荒野、猫の目、小鳥の舌を観察することはもちろん批評もできる。さらには、創造することができる。
 「肉眼」「肉耳」「肉舌」は創造するのである。ことばは、創造に従事するのである。
 創造とは何か。
 「沈める都市」の前半。

その海は生物の母胎
生物を殺戮する悪の女神

生物は海で創造され
生物は海で破滅し

創造から再創造へ
破滅によって再生する

 「肉舌」は、あるいは「肉ことば」といってしまおう。「肉ことば」はすべてを破滅させ、同時に、破滅させることで再生させる。破滅が、創造である。破壊が創造である。


 そして。

 「新世界より」にもどろう。「肉ことば」は数が多ければいいのではない。クレヨンの数、赤だけでも三千色もあるコンピューターの色のように、ひとつのことに属する「ことば」が3000あればいいのではない。「王」のように、わがままな、独裁的であれば、それは数少なくていいのだ。
 だれにも奉仕しない独裁者。君臨するひと。王。
 そのことば、「肉ことば」だけが、世界を創造する。破壊しながら、あたらしく創造する。

 そんな夢が、祈りが「舌」ということばの源をささえている。




田村隆一―断絶へのまなざし (1982年)
笠井 嗣夫
沖積舎

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望月遊馬「はじける豆たち」、河野聡子「ポチピ」

2009-04-23 10:07:26 | 詩(雑誌・同人誌)
望月遊馬「はじける豆たち」、河野聡子「ポチピ」(「ガニメデ」45、2009年04月01日発行)

 望月遊馬「はじける豆たち」は「にぎりめし」「しめじ」「とうふ」という連作が並んでいる。ことばが、とても静かである。
 「とうふ」という作品がとてもいい。

白く、ねぎと、オクラと、削り節がそえてある。わかれながら、みちている。手をかさねると白くあえぐので、ねぎをかけてなだめると静かになる。流れるようにふれると、オクラや、削り節がふってくる。とうふのうちがわに眼がある。季節はずれの雪があわいのなかを抜けていく。羽織りが、とうふをまもっている。はがしていくとあられもない、くやしさが、ぶらさがっている。

 冷や奴。薬味はねぎ、オクラ、削り節。それを食べる時の感じを、人間の側ととうふの側から書いている。人間の側から書きはじめている。だが、実際に、食べはじめるとなると、人間の側ととうふの側という境界線が揺らぐ。「手をかさねると白くあえぐので」がとてもおもしろい。とうふから滲み出る水分を、手をとうふの肌にそえるようにして、器から逃がす瞬間のことなのだと思うのだが、実際に手がとうふにふれることで、とうふの声を聞く。とうふの肉体を感じる。「手をかさねる」の静かさと「あえぐ」の深さが、触れ得ぬもに触れる禁忌のようなまぶしさに輝く。
 この深さに触れてしまえば、もう、人間の側にとどまりつづけることはできない。
 「とうふのうちがわ」に入り込んで、そこから世界をみつめなおすことになる。
 もし、あなたがとうふの内側にいたら、何が見えるだろう。何を感じるだろう。降りしきる雪のなかにひとりとじこめられている。その雪が、外側から、「羽織」でも脱がすように、「白」を脱がされる。脱がされても、どこまでいっても「白」なのだけれど、内部の「白」は、やっぱり「あられもない」。
 この瞬間を、とうふは「くやしい」と感じている。
 いいなあ、とうふになってみたいなあ、と思った。とうふになって、ここに書かれている「くやしさ」を味わってみたい。



 河野聡子「ポチピ」は、ちょっとわからない。そして、おかしい。前半の2連。

サトウさんのビルに行きたい、何度かそういった
サトウさんのビルはすこし離れた海に立って入り口に波が打ち寄せている
まだポチに乗れないから駄目、いつでもポチといっしょじゃないと駄目、ポチと海に出れる日が来たらサトウさんちにいってもいい、といわれた

その日からポチ改造に取り組むときめた、ポチと海に出られるほど大きくなればサトウさんのビルに行く、海は青と灰色でうねる、海から突っ立つビル群の屋上からカガミヤシの胞子が飛んで行くのをみる、光をはねかえしている、半月のかたちをしたカガミヤシの胞子の群れが波に乗る、カガミヤシはカガミでもなければヤシでもなく、胞子はイチョウの葉に似ている、海はビルの入口ドアから三段下で、大きなからだの端っこを波うたせている、カガミヤシの半月は波に乗ってすぐ先の、サトウさんのビルへたどりつく、いまにもたどりつく
 
 望月の詩では「手」が「人間」と「とうふ」を分け、同時に接点になっていた。「手」でふれることをとおして、人間の側からとうふの側へと視点が移っていった。
 そういう移行の分岐点が、河野の作品では何にあたるのか、私にはわからない。
 わからないのだけれど、不思議に魅力的である。
 だいたい「ポチ」がわからない。「犬」のようなのだが、「犬」そのものというよりも、人間と犬との関係を「ポチ」と呼んでいるような感じがする。
 対象があって、私がある、という感じでことばが動いていっているわけではないのだと思う。対象、私という分離は、「客観」の問題なのだが、河野のことばはこの「客観」を欠いている。そして、そこからおもしろいことがはじまるのだ。
 カガミヤシの部分に、わかりやすい形で「客観」の欠如(排除、といいなおすと、たぶん河野の思想を明確にできると思う)のおもしろさがでている。「カガミヤシはカガミでもなければ、ヤシでもなく」。わざわざ、どうでもいい(?)といえば語弊があるかもしれないけれど、わざわざ「客観」をことばのなかに持ち込んでいる。それも「客観」と呼ぶにはあまりにもばかばかしい「客観」である。そんなことは言われなくても誰もが知っている。いや、知らなくても見当がつく。それをわざわざ書く。
 詩は、いつでも、こういう「わざと」のなかにある。「わざと」から出発する。
 この詩、「カガミヤシ」の詩だっけ? 違うね。
 ことばは「わざと」違う方向へ動いているのだ。違う方向へ動いていくことで、「ポチ」と「私」と「サトウさんのビル」「海」のあいだに、距離をつくりだす。それを「わざと」離して見せる。--対象からの「分離」が「客観性」の土台だが、そういう土台を「わざと」つくりだし、「客観性」なんて、わざとらしいものであって、重要ではない、というのだ。
 そんなものは、どうでもよくて、「ポチ」「私」「サトウさんのビル」「海」の関係、どうやったらその距離を縮め、「ひとつ」になれるかを河野は考えている。
 そして、その「ひとつ」というのは、「場」のことであるよりも、関係そのもののことである。離れていても「ひとつ」、いっしょにいても「複数」ということはあるのだ。そして、離れていても「ひとつ」ということは、別なことばで言えば、「ひとつ」の感じ・考えを共有するということでもある。関係は、「感じ・考え」の共有のなかにある。「感じ・考え」の共有が「関係」である。
 カガミヤシのくだりは、そういう「感じ・考え」の共有を「わざと」つくりだすためのものである。「カガミヤシはカガミでもなければヤシでもなく」というどうでもいい「事実」の「共有」が、この作品の全体の、あるかないかわからないような「関係」(ポチ、ポチピって何なのさ)を「ほんもの」に変えていくのだ。「ほんもの」の土台として、ほかの部分をささえるのだ。

ポチボートを作ろうよとポチにいった、材料がありません、繊維強化プラスチック、液晶ポリマー、ナノうんたらポチ用語が連発された、ポチをさえぎってバナナの皮と牛乳パックはどうよときいた、バナナの皮と牛乳パックで二十五分の一のポチボート模型を成型した、二十五分の一ポチと自分は消しゴムで削った、歩地はセンサーをかざして遠くを見る様子になった、ためらったふりをした

 「繊維強化プラスチック、液晶ポリマー、ナノうんたら」「バナナの皮と牛乳パック」「二十五分の一」。わざと導入された「客観」が「関係」という主観的なものをささえる「共有」基盤になるという、ブラックな笑い。
 もしかすると、河野は「共有」すべき「客観」はとっくのむかしに崩壊している、と、笑い、そういうものを必要としない「関係」を探しているのかもしれない。



時計一族
河野 聡子
思潮社

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