詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川朱実「驟雨」「麦雨」

2014-06-30 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「驟雨」「麦雨」(「CROSS ROAD」3、2014年05月31日発行)

 北川朱実「驟雨」「麦雨」せ独立した作品なのだが、つづけて読むとおもしろい。
 「驟雨」には「幼児」が出てくる。

突然降り出した雨に
目を輝かせて飛び出した幼児は

ずぶ濡れたまま
うれしい届け物を受け止めるかのように
両腕を広げて

自転から ゆっくり
とり残されていく

両手で
すくってもすくっても
ひとつの形にならないもの

 3連目の「自転」は地球の自転のことか。地球の動き、この世の動きから離れて、自分の世界に没頭する。何かをすくいとろうとして。何かの形を求めて。
 でも、すくいとれないね。

私は知っている
天からこぼれるものは
ふいに大事なことを思い出して
中空で立ち止まることを

 うーん、大事なものか……。そうなんだろうけれど、そしてここに詩のポイントがあるんだろうけれど、こういう「思わせぶり」な書き方は、私は、身構えてしまうなあ。
 ということは、おいておいて。
 この「自転」から取り残された幼児を読んだあとで、「驟雨」の「父」を読むと……。

五月雨
半夏雨
麦雨

父は
口の中を雨でいっぱいにして
機嫌よく笑い

そのたびに
私たちは
一日の端でクイになった

父が行方をくらます前は
きまって雨になった

 雨が降ると父はどこかへ出かけてしまうらしい。(それで、緊張して「私たち=母と北川か」は「クイ」のように動けなくなる。雨に夢中になって、それを両手で受け止めようとしている「幼児」が、ふいに思い出される。それを見ている北川も思い出される。
 「驟雨」では「私は知っている」と書かれていたが、「麦雨」では「私は知っている」は書かれていないが、「知りすぎている(わかりすぎている)」ために、「知っている」とは書けないのだ。

幕が上がる前のブザーみたい
大声で語る夢は

激しく降ったかと思うと止み
止んだかと思うと降り出す雨に似て

 「雨に似て」どうしたんだろう。「述語」がない。「述語」は北川の「肉体」のなかでのみ動いている。あまりにリアルに動くので、それを書きあらわすことばがない。動いていることが読者にわかればいい--という判断である。
 この「述語」の省略に、北川の詩がある。
 この中断は、

ふいに大事なことを思い出して
中空で立ち止まることを

 と「驟雨」で書かれていた「中空で立ち止まる」に似ている。
 で、「立ち止まる」ことで、その一瞬、北川は「父」になる。「父」と一体になる。「父」がわかる。
 そこに、「自転から ゆっくりと/とり残されていく」という感覚も重なる。
 世界の動きから離脱して、「いま/ここ」ではないものに、だれもが触れる瞬間がある。
 そういう「父」を思い出すと、それは「驟雨」の「幼児」に似ている。
 そして、そういうことを「発見」し、ことばにすることで、北川は「幼児」と「父」を自分に引き寄せる。

 散文家の北川は対象にぐいぐいと迫っていくが、詩を書くときは対象の脇に立って、「知っている」(わかっている)と相手を受け止める--そんな感じがする。


ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ
北川 朱実
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(9)

2014-06-30 09:39:52 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(9)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「この道は」は短い詩なので全行引用する。

あめのこと
あめこんこんとよんでいた
とおいむかしのにおいがする
みちばたにくさばなゆれて
あめこんこんかすかにゆれて
わたしはわたしのなくなるような
わたしがわたしでなくなるような
かすかなかすかなおもいのなかを
あめこんこん
あめこんこん
いつかだれかのあるいたみちを

 同じことばが繰り返されている。ただし、逆に最後の行は「いつかだれかのあるいたみちを」はことばが足りない。「歩いている」が省略されているのだろうか。たぶん、そうだろう。(二行目が「よんでいた」だから、最終行も「歩いていた」と過去形かもしれないが。)
 そして、この同じことば、同じようなことばの繰り返しのなかに、微妙な違いもある。

わたしはわたしのなくなるような
わたしがわたしでなくなるような

 似ているが、とても違う。「わたしのなくなるような」では「わたし」が消えてしまう。「わたし」が存在しなくなる。「わたしでなくなるような」は「わたし」が「わたしでなくな」り、わたしではない「だれか」になる、ということかもしれない。「わたし」は「だれか」になって存在している。
 そして、この「わたしではないだれか」という人間が、最終行の「だれか」ということになる。「わたし」は「だれか」になって、「だれか」の歩いた道を、歩いている。そのとき「わたし」は、その世界からはじき出されて「だれか」が「ひとり」になっているのか。「わたし」は「だれか」に統合されて「ひとり」になっているのか。厳密に考えずに「ひとり」になっている、とだけ感じればいいのかもしれない。

わたしはわたしのなくなるような
わたしがわたしでなくなるような

 では、「わたし」は「無(0人)」になるか、「ふたり」になってしまうが、最終行では「ひとり」になっている。「だれか」と「一緒」なのだけれど、「一緒」であることによって「ひとり」になっている。
 で、その「ひとり」が「歩いている(歩いていた)」。
 これでいいのかな?
 いいのかもしれない。
 けれど、何かがひっかかる。

 「歩いている」は省略されている。ここにひっかかる。ほんとうに「歩いている」が省略されているのか。もしかしたら違うのではないだろうか。歩いていないのではないだろうか。
 じゃあ、どうしている?
 私は、「みち」になっている、と感じた。瞬間的に思った。
 「わたしのなくなる」(わたしはなくなる)、「わたしでなくなる」はほかの「だれか」になるということではないのかもしれない。「だれか」を通り越して、その「場」になる。その「場」には「みち」がある。そして、雨が降っている。「あめこんこん」と声がする。そこには草花が揺れている。

 いつかだれかのあるいた「みち」になるような、その道になって、「あめこんこん」という声を出しているひとを歩かせている。
 池井は「みち」と一体になっている。そこには「あめこんこん」というひとがいて、「わたし」はいない。「あめこんこん」という「声」そのものが「わたし」であって、人間の形を超えて、「そこ」という「場」と「時」の全体をつくっている。


冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(100)

2014-06-30 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(100)        

 「デマラトス」は複雑な詩である。デマラトスはギリシャ人だが、ペルシャ人に助言し、ギリシャ遠征に来ている。祖国征服の方策を練っている。祖国と戦っている。

日々デマラトスの胸騒ぎは止まぬ。
悩み果てなく、思いは尽きず、
ひと日ひと日が大石の重さ。
悩み果てなく、思いは尽きず、
かた時たりとも喜びのひまはない。
この感じを喜びとはとても言えまい。
(いや喜びではない。喜びと認められるか。
どうして喜びといえる? 最悪の苦悶なのに)
デマラトスはみきわめた。万に一つの間違いもなく
いまから始まる戦闘の勝利者はギリシャだ」

 祖国が勝つ--自分は負けるが、祖国は勝つ。その矛盾のなかで、デマラトスは「よろこび」を感じてしまう。祖国の方に、こころが動いてしまう。動きながら、それでいいのか、と苦悩する。ギリシャは自分を追放した、それなのにギリシャが勝つと思うと喜びがあふれてしまう。
 この心情をカヴァフィスは印象的に描いている。
 「悩み果てなく、思いは尽きず、」という行が繰り返される。ことばは「散文」(ギリシャ征服の方策を考えることば)にはならず、「歌」になってしまっている。「苦悩」も「歌」になっている。どんなことばも繰り返すと、そこにリズムが生まれ、そのリズムに乗ってことばが歌になる。歌がさらに感情を煽り、感情を酔わせ、理性を遠ざける。

(いや喜びではない。喜びと認められるか。
どうして喜びといえる?

 この「こころの声」の「喜び」ということばの繰り返し。喜びでは「ない」「認められるか(認められない)」「言えるか(言えない)」という「意味」の繰り返し。「意味」さえも繰り返され、歌(音楽)にしてしまう、こころの躍動。ここには理性が否定されるときの快感があるとさえ言える。
 この矛盾が、「最悪の苦悶なのに」ということばを「最上の喜びなのに」という「本音」をこころの奥底に弾けさせる。
 そういう「反語」をとおって、「万に一つの間違いもなく」という確信が生まれる。もう、「喜び」は抑えられない。
 この詩の感想の初めに、私はこの詩は「複雑」と書いたが、「複雑」に見えるものこそ単純かもしれない。純粋な輝きに満ちているかもしれない。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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河邉由紀恵「くらげ」、秋山基夫「山頭火の闇に倣って」

2014-06-29 23:05:17 | 詩(雑誌・同人誌)
河邉由紀恵「くらげ」、秋山基夫「山頭火の闇に倣って」(「どぅるかまら」16、2014年06月10日発行)

 河邉由紀恵「くらげ」はの納屋でまどろんでいる女を描いている。「はあはあ」という声が書かれているのでセックスしているのかもしれない。セックスのあとかもしれない。その納屋のくらい闇の遠くにゆれる海が広がっている、と詩には書いてあるが、それはほんとうの海なのか、まぼろしなのか、よくわからないが……。

おんなのほそいながい
髪とかみのあいだを
とよとよとよと
海のみずがぬけてゆく

るうるいなるい
海のみずにゆれるおんなの髪は
たっぷりみずをふくんで
うみの藻のようにゆれてながれる

おんなのかたやうじなやちぶさ
うでやはらやあしやおんなのうちまたのおくの
しづもりのあいだをぬうるいなるい
海のみずがひかしてゆき

おんなはもうわたしからはなれている
ぬうるいなるいみずのなかで
どうしようもなくとおく
しずかにゆれるくらげのように

 漢字がどんどん減ってゆき、かわりに「ぬうるいなるい」というねっとりと引き延ばされた音のなかを動くひらがなが揺れる。イメージになるというよりも、「音」そのものになっていく。「うでやはらやあしやおんなのうちまたのおくの」というのは漢字まじりで書けば妙に味気ないかもしれない。「流通言語」のセックスの世界になってしまうかもしれない。けれど、ひらがなで音がなだれていくと、そこに「やはら(やわら)かい」なにかがまじり、触覚の世界になって「ぬうるいなるい」に溶け込んで行く。
 「おんなはもうわたしからはなれている」というのは、セックスの快感(余韻)のなかで、「おんな」は「わたし」とは別なものになって、別なものになりながら、それでも「触覚」(皮膚感覚/触れあう感覚)で接続しているのか。体温のように、息のように、からみついているのか。揺れているのか。
 「くらげ」というのは「ふわふわ」な感じと同時に、透明/半透明な印象もあるが、そのつかみどころのない感じが、「ぬうるいなるい」と通じる。私は「くらげ」にさわったことはないが、「るうるいなるい」感触だろうなあ、と思ってしまう。



 秋山基夫「山頭火の闇に倣って」はいくつかのパーツから成り立っているが、「念彼観音力」という作品が、私にはおもしろかった。

三沢浩二の詩に呼びかけると窓の向うに詩の情景が現れる
突堤の尖端で三沢が釣り竿を大きく振って針を投げている
夏の太陽がふりそそぎかれの麦藁帽子が金色に光っている
ふんわりと観音がお姿を見せ波の上に立って瞑想している
おーいと呼ぶと観音は邪魔な声など聞こえないふりをする
海老も鯛も平目もワカメも亀も順に食べていく因果なのだ

 三沢浩二の詩というのは、三沢浩二が釣りをしているところを描いた「自画像」のようなものだろうか。三沢が釣りをしているのだが、その姿が秋山には観音に見えるということか。麦わら帽子の金色の光は御光というところ。その三沢に向かって秋山は「おーい」と呼ぶが、詩のなかなので、知らん顔。
 いいなあ。これは。
 詩と現実が、秋山のことばのなかで交錯し、ひとつになる。
 ことばを読むというのは、こういう「誤読」の瞬間がいちばん幸福だ。それこそ観音を見た気分だなあ。
 「海老も……」の行は、よくわからないが(わからなくても私は気にしない)、三沢というのは、釣りをすることが好きなのであって、釣果のことは気にしないのだろう。三沢の投げた餌を「海老も鯛も」食べるだけではなく、ワカメも針にくらいついてくる。それはそれでいいのだと、釣りを超越しているのだろう。それが観音にも通じるのだろう。
 「この世」は「因果」でできているかもしれないけれど、因果というものは「意味」と同じで、それをみつけだすから「因果」になるだけ。
 三沢という人間を私は知らないけれど、この詩を読んでいると、秋山を通り越して、知らないはずの三沢が見えてくる。それが、とてもおもしろい。
秋山基夫詩集 (現代詩文庫)
秋山 基夫
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(8)

2014-06-29 09:27:57 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(8)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「柳河行」は、公立校の入学試験に失敗した池井が、中学最後の春休みに北原白秋のふるさと、柳川を旅行したときのことを書いている。白秋は、池井が大好きな詩人だ。初期のころの「雨の日の畳」(だったかな?)などを読むと、ことばが古くさくて、まさに白秋--と私は感じていた。私は中学のときから池井の詩を読んでいた。旅行には母親が同行している。

柳河では呑子舟で『思ひ出』のままの掘割を巡った。水底の欠け茶
碗一つにも白秋の息吹を感じた。生家には白秋が隆吉少年の頃に使
っていた文机が窓際にあり、やはりなまなましい吐息を感じた。来
て良かった、と思った。立ち去り難い生家の朽ちかけた海鼠壁の一
片をそっと剥ぐと、母はもう一片を素早く●ぎ取りちり紙に包み私
のポケットに捩じ込んだ。とんでもない母子だった。掘割に沿い私
たちは夢のように経巡り歩いた。『思ひ出』のままの様々な花々が
咲き競っていた。私は道々それらを母へ解説し、解ったのかどうな
のか母は逐一うなずいていた。私は中学の制服姿、母は着物のよそ
ゆき姿だった。
    (注 ●は「腕」の「月」が「手へん」、もぎ取る、と読ませるのだと思う)

 「時効(?)」になった白秋の生家の壁を剥ぎ取ったことが書いている部分がおもしろい。池井は白秋が大好きだから、その思い出に、思わず壁を一片剥ぎ取った。それを母はとがめずに、もう一片、池井のために剥ぎ取った。それを「ちり紙に包み」というのが、なんとも温かい。そのときの様子がしっかりととらえられている。
 私は池井の母には一度会ったことがある。顔も何も覚えていないが、会っている。大学受験の帰りに、私は池井の家へ立ち寄った。試験はまったくできなかった。就職してしまえば、四国へは来ることもないと思い、私はどう連絡をとったのか忘れたが、坂出の池井の家に立ち寄り一泊している(二泊だったかもしれない)。そのときに会っているが、ほんとうに何も覚えていない。
 だが、この詩を読むと、そうか、こんなふうに池井のことを心底愛していたのか、大事に見守っていたのか、と気づく。そういう愛のひろがりのなかで、私も、そのとき受け入れてもらったのだろうと思う。
 こんなことは、まあ、詩の感想にはどうでもよいようなことなのだけれど、そういうことを急に書きたくなった。そういう気持ちを誘う、ことばの動きが池井のこの詩にはある。あったことをただ書きつないでいるだけ。何の工夫もないエッセイのようでもある。が、その工夫のなさがいいのだ。とても自然だ。ただこういうことがあった--と、それをそのまま書くとき、池井は母をそのまま肯定して、一緒にいる。
 これは、たぶん、柳川に同行した母親も同じだろう。受験に失敗し、気落ちしている池井。詩ばっかり書いていて、ほかの勉強をしなかったからなのかもしれないが(ほんとうは優秀なのに、詩にのめりこんだために受験に失敗したのだろう)、それをそのまま受け入れている。受け入れるだけではなく、励ましている。
 池井は、花々を見て、それを説明する部分で、「私は道々それらを母へ解説し、解ったのかどうなのか母は逐一うなずいていた。」という具合に、ちょっと母親を軽蔑(?)するような、軽い感じで書いているが、母親には解るのだ。池井の言っている「解説」がわかるのではなく、息子が知っている限りのことを夢中になって「解説しているということ」がわかり、うなずぐのである。花の解説なんかは、母にはどうでもいい。息子が自分のために解説しているということ、その「事実」が「真実」なのだ。そうやって、池井のことばのなかから「真実」を引き出し、育てている。
 壁の剥ぎ取りも同じ。心底愛する白秋の家の「一部」をもっていたいという池井の欲望を、ただ欲望として肯定しているのではない。そういう欲望は「真実」であると後押ししている。息子の欲望に「間違い」はない、そう後押ししている。息子のするあらゆることを「真実」にしてしまう力が母親にはある。
 その力と一緒に池井は生きてきた。
 こんなことは、18歳の私にはわからなかったが、私も、その池井の母の何かに触れたんだなあ、と思い出すのである。

 詩の最後に、こんなことも書いてある。

楽しかった思い出はやがて詩となり、私は初めて「詩学」へ投稿し
た。その詩「春埃幻想」は「詩学」史上最高点で第一席となった。
選者は山本太郎、宗左近、中桐雅夫、嵯峨信之。皆物故され「詩
学」も無くなってしまったが、先達四氏の合評を震える指で頁繰り
つつ仰ぎ見たあの興奮はあの日のままに。未踏への憧れは今もなお
私の胸に。

 この「詩学」を私は、池井の家に押しかけて一泊したときにみせてもらった。そのことも思い出した。それをみせてくれたときの池井のことばを覚えているわけではないが、あのときの「声」は「真実」だったと思い出す。

 うまく言えないが、池井にとって「真実」を語ることは「必然」なのだ。
 「現代詩」は「わざと」感覚をつくりだす、ことばで「いま/ここ」にないものを生み出すことを仕事としているが、池井はそういう「わざと」から離れて、「真実」を「真実」にするためにことばを動かしている。
 「真実」に「する」という意識は、しかし、ないだろうなあ。
 書かなければいけないことを書くと、それは「必然」として「真実」になってしまう。「真実」というのは平凡だから、ついつい見落としてしまうが。そして、おもしろみも欠けていることが多いので、そのそばを通りすぎてしまうものだが。立ち止まってみつめると、なんともいえず静かな気持ちになる。
 「真実」と一緒にいると、静かに落ち着く。そんなことを、きょうは感じた。


冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(99)

2014-06-29 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(99)          

 「コマギネの詩人クレアンドロス・イアソンの憂鬱、紀元五九五年」に書かれているのは、美貌の衰えを「ことば」で救おうとする詩人のことが描かれている。

わが身体と美貌の衰亡は
齢の刃の容赦ない切り傷。
だが勝負を投げぬよ、私は。
きみを頼る、「詩の心得」くん、
きみはくすりの心得を知る。
「言語」と「想像」には痛みを救う力がある。

 だが、ここに書かれているのはほんとうに美貌の詩人の姿なのか。
 私には、どうも違うように見える。内部からあふれてくる「欲望」のようなものが感じられない。「わが身体」と書かれているが、その「身体」は「比喩」のように感じてしまう。「齢」も「肉体」ではなく「時間」の「比喩」のように思えてしようがない。
 「詩の心得」の、「心得」がそう感じさせるのかもしれない。
 詩は「心得」ではない。この「心得」を別のことばで言いなおすと、きっと「亡命ビザンチン貴族の詩作」につかわれていた「作法」ということばになるだろう。
 「ビザンチン」では「私の詩の厳しい作法が勘に障って」という文脈でつかわれていたが、詩は「作法」よりもむしろ「勘」の方にある。「人間」の「肉体」の内部の、未分化の生理的反応のような力にある。詩が「痛みを救う」としたら、それは「痛み」よりも深いものをことばでつかみとることで「痛み」を消すのであって、それは浅い傷の痛みを、深い傷の「痛み」で消すのに似ている。深い傷ができた、重傷になったから、軽傷の傷の「痛み」の存在理由がなくなったということ。--詩人なら、そういうことは知っているはずだ。それなのに、ここでの詩人は「想像」で身体の痛み(美貌の喪失)は処理できると考えている。カヴァフィスらしくない。
 なぜ、こんな詩を書いたのか。理由がふたつ考えられる。「わが身体」と書かれてるが、それは「身体」ではない。自分の「肉体」ではないということ。もうひとつは、カヴァフィスが書こうとしたのは、「詩の心得」というような観念に対する批判である。「「詩の心得」くん」の「くん」という敬称の軽さに皮肉があふれている。
 「わが身体の美貌の衰亡」は「詩という身体の美貌と衰亡」なのだろう。「紀元五九五年」のコマネギについては中井久夫が注釈で歴史を書いているが、「没落直前の頽唐期」という。都市が没落するとき、文化が没落する。詩も没落する。詩の没落は「作法」の確革新を怠ったときである。「心得」だけで詩を作ろうとするときである。
 「言語」と「想像」には痛みを救う力がある--というのは、嘘だろう。「肉体」と「現実」こそが痛みを救う。初めてのことだけが、ことばを活性化させる。「作法」「心得」を捨てて、素手で「現実」をつかもうとして、「ことばの素手」が形を変えるとき、その変化する「ことばの肉体」が詩なのだ。(と、私は書きたいが、これは私の先走りかもしれない。この詩の感想を逸脱しているかもしれない。)



中井久夫の訳詩『リッツォス詩選集』が発行されます。
2
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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池井昌樹『冠雪富士』(7)

2014-06-28 09:16:10 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(7)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「喜望峰」は子どものときに大好きだったバターの思い出を書いている。大好きだったバターの味がある日、変わってしまった。そして、それ以後、同じ味を二度と味わっていない。そのバターに半世紀ぶりに出会った。内田百間(正しくは「門」構えに「月」だが表示できないので代用)の文庫のなかに、そのバターは出てきた。

           百間先生の「バタ」は遠く喜望峰を経て船
で運ばれてくる缶詰だから独特の強い塩味があった。私はその頁の
前で釘付けとなった。靴墨のような缶詰の蓋の厳めしい模様と得体
の知れない外国語、蓋を剥がした油紙の滲んだ手触り、パンに擦れ
ば陽光のように忽ち明るく華やかに蕩け出す琥珀色、

 百間の文章が池井の記憶になって動いている。「靴墨のようなから」始まる、たたみかけるような、指にからみついてくるようなリズムがいいなあ。漢字のまじり具合が、とても古めかしくて、そうか昔はバターはこういう感じだったのか、と思う。
 「パンに擦れば陽光のように忽ち明るく華やかに蕩け出す」は百間のことばか、池井のことばかわからないが、「蕩け出す」と「華やか」が一緒になるところに、「肉体の愉悦」のようなものを感じる。「陽光」「明るい」「琥珀色」は視覚を刺戟するが、そこに「蕩け出す」が加わると、眼で見ているというよりも、胃で見ているという感じになる。池井は何でも胃袋で昇華してしまうのだ。(若いときの池井は、凄まじい肥満体であった。)こういう「肉体感覚」に満ちた描写、ことばの動きはいいなあ。バターを忘れて、バターを食べている太った池井が目の前に浮かんでくる。その池井の肌からバターのとけた色がにじみ出している。そして池井の肉体を蕩けさせている。
 蕩けるには、なにか輪郭をなくす(輪郭をはみだす)という感じがあって、幸福というのは「蕩ける」ことなんだなあ、と思う。輪郭をなくして、何でも受け入れて豊かになっていくことなんだなあ、と思う。(その直前に出てくる、靴墨、厳めしい蓋との対比が、より強く、そう感じさせる。)
 また、この「蕩ける」は、私が池井について書くときつかってきた表現でいうと「放心」に似ている。自分がどうなってもいい、という感じで、すべてを開け放つ感じにも似ている。開放と放心と蕩けるは、池井のなかでは、どこかでつながっていると思う。
 で、この描写は、実は、次のようにつづいていく。

                        琥珀色を透か
して生き活きた生家での幼年時の刻々がありありと蘇ってきた。祖
父はかつて郷里の商戦会社を営んでいたから大陸との交易があり、
喜望峰を巡り大陸を経てもたらされた塩気の強いバターは我が家の
常備菜だったのだろう。その祖父も、祖母も父も疾うに逝き、息子
たちが巣立ち、異境を転々とする日日の生計の果てに、思い掛けな
いこんな遠くで、私はあのバター付きパンを再び手にしていたのだ
った。

 思い出すのはバターの味だけではなかった。
 バターを思い出したとき、祖父の「暮らし」を思い出した。そして、そこに「暮らし」が見えてきたとき、自分が好んだものの「正体」を知った。祖父がいて、その祖父が「世界」とつながっているから、バターがあったのだ。人と暮らすということは、広々とした世界へつながっていくことだ。広々とした世界とつながると、池井は「蕩ける」のだ。
 それは、バターを思い出しているのか、祖父を思い出しているのかわからない。
 いや、「わからない」のだけれど、「わかる」。
 祖父がバターであり、バターが祖父であり、その一体になったものが世界だ。
 何かを思い出すとき、その何かと一緒に生きている「人」をも思い出す。そして、その「人」こそが「世界」だったと、「わかる」。祖父がいて、父がいて、世界は海を越えて、喜望峰を越えて広がっていく。どこまでも、誰かが、何かをつなげている。「一つのもの」(たとえばバター)は必ずほかの誰か、ほかの何かと「一緒」に存在する。その「一緒」のなかに、池井はいつも「蕩け」てゆく。
 こういうことを池井は抽象的な概念ではなく、バターの具体的な味として、バターの缶詰の具体的な手触りとして、肉体で覚えている。その覚えているものと池井は正直に向き合っている。

 正直が、そこに起きていることのすべてを「必然」にかえる。喜望峰を越えてきたバターが好きというのは、偶然ではなく、池井にとっては「必然」。祖父がいて、父がいるという「暮らし」が「必然」であると同じことなのだ。
 あ、こんなふうに、私は正直には書けないなあ、と思う。
 この「必然」の「正直」にたどりつくまでに、池井がどんなふうに生きてきたのか。それは「わからない」けれど、ことばのなかにある「正直」と「必然」がとても静かに伝わってきて、これはすごい詩だなあ、と読むほどに感動する。



冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(98)

2014-06-28 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(98)          2014年06月28日(土曜日)

 「アレクサンドロス・バラスの寵童」は、バラスの寵愛を受けた青年の「声」がいきいきと描かれている。その声(主張/主観)がいきいきしているのは、彼の「声」が彼ひとりのものではないからだ。彼の「声」なのだが、そこには「世間の声」(人間のずるい智恵)が紛れ込んでいる。

おれは戦車の車軸の折損でくだらぬ競技に負けが
いっこう気にしておらぬよ。
今晩は徹夜で大酒を食らう。
すてきなバラの花のしとねに寝てだぞ。

 と、前半は、バラスと寝る(寵愛を受ける)から競技の敗北なんか気にしないという負け惜しみのようなものだが、後半になると、調子がかわる。「寵愛」を受けるとは、どういうことか。人がだれかを寵愛するとどうなるか、そういうことが寵愛を受けたものしかわからない(けれど、聞かされればなるほどと納得する)ことばで語られる。

バラスはおれさまにぞっこん。そこがバラスのヨワイとこ。
見ていろ、きっとな、明日はだ、競技に不正があったとなる。
(こっそり噂を流すなんてケチなこと おれはせんがの、
したらゴマスリどもはおれの片輪の戦車を一位にしかねぬよ)

 彼はただ戦車の車軸が折損したとだけ、バラスに言う。それをかわいそうに思ったバラスは、なんとかなぐさめようとする。そして、おまえが負けたのは不正があったからだと言う。そういうでっちあげをしてしまうというのが、「ぞっこん」ということであり、「ヨワイ」ということ。まず彼のことを優先して考えてしまう。「事実」を無視してしまう。--たしかに王なら、それくらいのことはするかもしれない。だれも王に対して反論しないだろうから。ここには「自負」とともに、世間の批評、やっかみも入っている。あいつは、王のお気に入りだから云々。
 世間の目を知っているからこそ、彼は戦車の車軸が折損したという事実を告げるだけ。不正があったとは、言わない。言わないからこそ逆に王が肩入れしてくれる。代わりに言ってくれる。
 彼はまた世間の眼のずるさも知っている。もし自分で不正があった言えば、まわりの人間がそれを拡大し、事実を作り替えて王に進言する。車軸が折れて走れないのに一位にしてしまう、ということさえ起きかねない。それでは、王の寵愛を受けている意味がなくなる。王に愛されているのか、ゴマスリどのも保身に利用されているのかわからない。愛されるのはいいが、他人に利用されるのはいやだ。
 この強いこころが、「見ていろ」と「きっと」にあらわれている。彼はバラスの性格も何もかも熟知している。王さえも思いのままに動かすことができる。
 寵愛するものは、寵愛されるものの奴隷のように動く。--これも世間の声か。



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ジャ・ジャンクー監督「罪の手ざわり」(★★★)

2014-06-28 00:19:35 | 映画
監督 ジャ・ジャンクー 出演 チアン・ウー、チャオ・タオ、ワン・バオチャン、ルオ・ランシャン

 四つの物語が描かれる。最初の最初と、最後の最後で、そのうちの四つの物語の主人公(一人は脇役?)が一瞬交錯するが、基本的には四つの物語に関連性はない。――はずなんだけれど、ちょっとややこしいなあ、この映画のやっていることは。実は、深い深いところで関連性がある。 四つの物語の主人公は孤立している。人が(友人や家族)がすぐそばにいるの
に孤立している。何か、帰る場所がない、という感じが共通している。
 最初の主人公はみんなから慕われているにも関わらず、疎外されている。不正に怒っていて、その不正に対して住民のすべてが不満を持っているにも関わらず、不満が組織化されない。怒りのために団結するということがない。「共産党」の中国において、そういうことが進んでいる。面倒くさいことをせずに、権力になびいて小銭をもらった方が楽、ということだろう。
 二番目の男は、強盗で金を稼いで家族を養っている。三番目の女性はサウナで働いているのだが、恋愛中の妻子持ちの男は優柔不断なうえ、サウナの客からは金で売春を強要される。四番目の青年は、恋人には子供がいて、子供のために接客業をやめられないことを知る。さらには、母親からは仕送りが少ないと叱られる。
 いわゆる格差社会の、所得の少ない人間が真摯に生きようとしても生きられない苦しさで、離れながらつながっている。連帯できない、帰る場所がない(愛情をもって受け入れてくれる人がいない)というところで、すれ違うように関係している。
 彼らを分断しているのは、まあ、金(カネ)だね。
 ということを書いていくと、あまりおもしろくないしなあ。
 もうひとつのつながりを書いてみようか。
 映画の途中に、主人公たちが「京劇」を見る。「見る」というわけでもないかもしれないが、ときどき京劇が挿入される。それも路上での、田舎芝居のような感じの京劇である。そこでは、たとえば誰かが裁判官に訴えている。体制に対する怨念みたいなものを発散し、それを市民が芝居のなかで共有している。
 この感覚だね。
 四人の主人公の、悲しみ、怒りのようなものを、この映画は、路上の京劇とそれを見る市民との関係のようにして描いている。その悲しみ、怒り、わかるよ。よく言ってくれた、とこころのなかで感じ、少し救われるのかな・・・。
 監督がやろうとしていることがわからないでもないが(いや、とてもよくわかるが)、一人に絞って描いた方が「感情移入」できる。散らばって行く感情、どこまで行ってもたどり着けないつらさというのは、見ていてつらい。
 「長江哀歌」のような、生活の美しさも作品を貫いていない。監督は「京劇」のなかで中国人の心情を貫いているというかもしれないが、うーん、京劇に疎い私には、それはわからなかった、と言い直せばいいのかなあ。
 冒頭の、トラックが転倒し、トマトが道路に転がっているシーンの赤の色なんかはきれいなんだけれどなあ。最初の主人公が、そのトマトを手の中で動かすシーンなんか、とても好きなんだけれどなあ。
(KBCシネマ2、2014年06月22日)

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朝倉裕子「ひび」「次は」

2014-06-28 00:16:00 | 詩(雑誌・同人誌)
朝倉裕子「ひび」「次は」(「火曜日」118 、2014年06月30日発行)

 朝倉裕子「ひび」「次は」を読んで、ちょっと不思議な感じがした。2篇、つづけて引用する。

ひび

両の手をあわせて
水をすくう形の器がある
細い糸を這わせたような筋は
ひび
もうすぐ割れる時がくる
粥をよそっているときか
汁をすすっているときか
ぽっかり
ふたつに開いて
なかから流れ出る
隠すひまもなく



次は

カサブランカのおちょぼ口
あした 咲きます

 2篇の成立過程を知らないのだが、つづけて読むとカサブランカが陶器の花に見えてくる。陶器の器がある日、ひびに沿って割れるように、カサブランカがひびにあわせて口の方から割れて開く。
 それだけではなく、その前の「ひび」に描かれている器が何か花のようにも思えてくる。器が割れて、それぞれが花弁のように広がる。
 
 さらに、「ひび」の書き出しの「両の手をあわせて」ということばにひっぱられるように、「器」と「カサブランカ」が、もしかすると朝倉なのかなあという思いも浮かんでくる。
 朝倉は水をすくうとき、両手をあわせて救うんだな。掌の筋は、細い糸を這わせたよう。その筋の一本一本に朝倉の人生が刻まれている。
 もし、掌が割れるということがあったとしたら、それはどういうことなんだろう。
 わからないけれど、カサブランカの花が開くように、掌もまた花のように開いてほしいと思う。そういう気持ちを誘う。
外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集 (象形文字叢書)
梅田 智江/谷内 修三
書肆侃侃房
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池井昌樹『冠雪富士』(6)

2014-06-27 11:06:28 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(6)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「幼心」は幼かったときの思い出を書いてる。「日曜の朝は嬉しかった。」なぜか。牛乳が飲めたからである。その牛乳の描写がすばらしい。

                      水滴を弾いた分厚
い壜の広口から直に飲むその液体は驚くばかり濃く甘く、陶然とな
った。一滴残らず搾るように飲み干して、すっかり味の無くなるま
で広口を綺麗に舐ぶった。

 「陶然となった」というのは、私の感覚では子どものことばではない。大人のことばである。(大人のことばであるけれど、まあ、私はつかわない。)大人のことばであるというのは、つまり、ここに書かれていることは「思い出」であることの証拠になるのだが……。
 その「思い出」を、それでは池井は「大人のことば」で書いているかというと、そうではない。子どもの「肉体」で書いている。

すっかり味の無くなるまで

 あ、ここが、いいなあ。
 壜をなめる。最初は味がある。それがだんだん薄くなる。池井は「味が無くなる」と書いているけれど、私の感覚では、だんだん「ガラス(壜)」の味がしてくる。冷たく、硬い感じ。
 だから、私の「味」と池井の「味」、「味」をつかみとる「肉体」は違うのかもしれないけれど、「味の無くなる」の「なる」が、きっと「共通」していて、そこにひっぱられていくのだろう。
 「無くなるまで」味を追い求める。この「まで」の執着心のあとに「綺麗」があらわれる。欲望は最後まで満たされると、何か、欲望のなかがぱっと割れて空っぽになったように透き通る。その感じが「綺麗」なんだな。壜の口の透明な輝きと、池井のなかにある欲望が透明になる感じがつながる。「綺麗」ということば、こんな具合につかうんだね。

 このあと池井は牛乳瓶の蓋でメンコをしたというような記憶を書き、そこから蓋の絵について書きはじめる。そこからがまた、とてもいい感じだ。

                     蓋には鳩の絵がやや
ぶれ気味に刷られていた。フジハト牛乳という地元の小さな製菓店
だった。フジとは窓の遠くに霞んでいる姿美しい飯野山--讃岐富
士のことだった。

 ここには池井の「思い」というよりも、幼いときに池井が暮らした「土地」に生きている「思い」が自然な形で広がっている。
 飯野山の姿が美しい。それを見ながら、池井の周りの人は「讃岐富士」と言っていた。それは池井が生まれるはるか前からそうなのだろう。富士に似た美しい山を「富士」と呼びたい。自分の(讃岐の)富士と呼びたい。そういう「欲望」の「綺麗」な形が、そこにある。
 それは何でもないような、ささやかな夢なのだけれど、そういう「命名」の仕方のなかに、「見えない人」が動いている感じ、人が暮らして互いの「夢」を動かしいてる感じがして、おもしろい。「飯野山」という名前があるのに讃岐「富士」と、富士山に結びつけて自分の見ているものを「大事」にする感覚。それが「綺麗」だ。人は、そんなふうに「自分」というものを大切にして生きている。ここには、不思議な、生きている人間の「温み」がある。あたたかさ、そのものがある。それを呼吸し、自分を整えている池井が「無意識」のまま書かれている。

 この、自分を整える、欲望を夢に整えて、美しいものに育てる--というのは、もう一つ別のエピソードでも語られる。日曜の朝食のあとには「葡萄が出た。」その葡萄の思い出。

食べ終えた葡萄の皮を一升壜に詰め、父が菜箸で突っ突き始めた。
葡萄酒を造るのだという。おさな心はまたときめいた。姉と弟は代
わる代わる壜の中を夢中で突いた。

 葡萄の皮から葡萄酒を造る--いま、ここにないものが新しく生まれる。いまあるものを、どこまでもつかい尽くして新しいものをつくる。そういう「暮らしの智恵と夢」が「暮らし」そのものを整える。人間の生き方そのものを整える。あのとき、整えた人間の暮らしの温みを、いま、池井は「ことば」でもう一度整えなおしている。

 この詩集のどの詩にも、いわゆる「現代詩」っぽい、新しい、人を驚かせるような「わざと」はない。けれども、そこには人間が生きているときに発してしまう「体温」の温みがあり、しかもその「体温」をていねいに整えるときの「生き方」の自然な美しさがある。

                葡萄酒は完成したかしなかった
のか。私の奥処には何事か指折り数え待ち侘びるおさない興奮が酵
母のように今もなお微かに弾ける。父は死んだし、あの家も、フジ
ハト牛乳も疾っくのむかしに絶えてしまったが。

 「完成」は問題ではない。「完成」をめざして「暮らし(生き方)」を整えるということが美しいのだ。父が死んでも、その「生き方」の美しさは池井と「一緒に」生きている。「フジハト牛乳」がなくなっても、牛乳をのんだときの幸福と、「フジハト」という名前に籠められた「暮らしの夢」は池井のなかで生きている。それが、こんなふうにことばになって、いま、しっかりと、ここに「ある」。

 池井は、これからももっともっとすばらしい詩を書き、すばらしい詩集を生み出すだろうけれど、この詩集は、これから始まる「人間の温み」(暮らしを整えて生きる美しさ)の出発点であり、到達点ともなる詩集だ。
 (まだまだ感想を書くつもりだが、そう書いておく。)

冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(97)

2014-06-27 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(97)          2014年06月27日(金曜日)

 「ここに始まる」は、カヴァフィスの得意な男色の詩。許されない愛の夜をすごした二人が、朝、ひと目を忍んで宿から街へ出る。ふたりを見れば「さっき どういうたぐいの寝床を共にしたかが」他人にわかるだろうと思いながら。そういう描写のあとに、

だが、詩人の人生には何たる貢献。
明日か明後日か、何年のちか、いつの日か、
詩人は、今ここに始まる力強い詩の
何行かに現実の声を与えるはずだ。

 このカヴァフィスの感想には、おもしろい点がふたつある。
 ひとつは「明日か明後日か、何年のちか、いつの日か、」という「時間」の区別のなさ。「明日」と「何年のち」は「時間」的にはまったく違う。「きょう」を基準に言うと、「明日」は近いし、「何年かのち」は遠い。でも、思い出す人間にとっては、「過去」はいつでも「すぐ近く」にある。どんなに遠いところにある時間でも、思い出すときはすぐそばにある。「そば」というよりも「肉体の内部」(隔たりのないところ)にある。
 「いつの日か」という「特定」できないことでさえ、ひとは、それを思い出すことができる。明日か、明後日か、何年のちか、あるいは、いつの日か。
 そのとき、何が起きるのか。「詩」という「事件」が起きる。「いま」語ることばのなかに、「過去」が「いま」よりもあざやかにあらわれる。「いま」を「過去」に変えてしまって、ことばが感覚をひっかきまわす。いや「過去」が「いま」を突き破って、時間を「未来」へと押し進める。
 で、そのことばをカヴァフィスは「ことば」とは言わずに「声」と書いている。これがおもしろい点のふたつめ。カヴァフィスは、いつも「声」を聞いている。「声」がカヴァフィスには聞こえてしまうのだろう。
 引用が逆になるが、詩の冒頭にもどってみる。

ふたりはゆるされぬ愛を満たした。
起きて、素早く服を着けた、ものも言わずに。

 「ものも言わずに」とあるが、「耳」は聞いてしまっている。相手が何を言ったかを。また、相手が何を聞いているか、つまり自分の無言の声さえも聞いている。互いが「聞こえている」からこそ、「ものも言わずに」動く。
 それから通りに出て、ふたりを見つめる誰かの、やはり実際には口に出されなかった「声」を聞いてしまう。ふたりを見つめる誰かが隠れているときさえ、ふたりは見つめるひとの「声」を聞いてしまう。
 それは、自分の「肉体」の内部から聞こえてくる声と絡み合ってひとつになっている。だからこそ「ものも言わずに」いる。「ものが言えず」にいる。言ってしまえば、それが「現実の声」になる。



中井久夫の訳詩『リッツォス詩選集』が発行されます。
20年ぶりの訳詩の出版です。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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池井昌樹『冠雪富士』(5)

2014-06-26 10:51:06 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(5)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「草を踏む」に書かれていることば(情報)は非常に少ない。全行引用する。

いつだったかな
おまえとは
このよのくさをふみしめた
ことがあったな

おまえとはだれだったのか
わたしとはだれだったのか
どんなあいだがらだったのか
なんにもおぼえていないのに

どこだったかな
ふたりして
このよのくさのうえにいた
ことがあったな

 いまはじまったばかりのような
 すっかりおわってしまったような
 めもあけられないまばゆさのなか
 こころゆくまでみちたりて

すあしでくさにたっていた
ことがあったな
ただそれだけのことだけが
ただそれだけのことなのに

 同じことが繰り返しか書かれている。「おまえ」も「わたし」もわからない、「いつ」「どこ」かもわからない。わかっているのは草を踏んだということだけ。
 この詩の、どこが詩? どこが、優れているところ?
 聞かれても、答えるのは難しい。
 でも、この詩のリズムに、自然にのみこまれていく。読んでいて、こころが落ち着く。それが詩なんだなあ、と思う。読んで、こころが落ち着く。何かを納得する、ということが。

 と、書いてしまうと、あ、これは批評ではないし、感想にもなっていないかもしれない。
 で、もう少し、書いてみる。

 この詩には、実は「わからない」ところがある。

このよのくさをふみしめた

このよのくさのうえにいた

 「このよ」って、何? 漢字をあてはめれば「この世」になるだろう。「この世」は生きている世界。でも、これって、あたりまえ。「あの世」の草を踏むなんてことは、できない。
 なぜ、「この世」と書いたのか。
 それは、池井には「この世」であるかどうか、よくわからないからだ。「いつ」「どこ」もわからなければ「おまえ」「わたし」がだれなのかもわからない。なにもわからないのだから、「この世」であるかどうかもわからない。
 「この世」を「あの世」と比べるのではなく、「この世」を「現実」と言い換えるなら、もしかすると草を踏んだのは「夢の世(国)」かもしれない。「夢」だけれど、それは生きている世界なので「この世」と言ったのか。
 けれど、そんなロジックの世界を書いているわけではない。
 池井は、ほんとうにそれが「どこ」「いつ」かわからない。
 けれど「草を踏んだ」という「こと」だけははっきりしている。だから、その「こと」を基準にして「この世」と書いたのだ。
 あらゆる「こと」は「この世」で起きる。

 「こと」について考えてみる。
 「こと」にはひとりでできる「こと」がある。また何人かでする「こと」がある。
 池井がこの詩で書いてるのは、「おまえ」と「わたし」の二人でした「こと」である。「こと」は共有された。「こと」のなかに、「おまえ」と「わたし」が一緒にいた。
 そのとき二人が考えたこと、感じたことは違っているかもしれない。しかし、草を踏んだということは共通している。草をとおして、二人は、そのとき「生きた」。
 それはどこから始まったことか、あるいはどこへ進んでゆくことか、まったくわからないが、たしかにあった。

 最後の連で「それだけのこと」が繰り返されている。「こと」が繰り返されている。
 この詩でほんとうに繰り返されているのは、「こと」なのだ。
 だから、と言ってしまうと、きっと乱暴するぎるのだが、

いつだったかな
おまえとは
このよの「みずをのんだ」
ことがあったな

 と、この詩を書きなおして読んでもいいのだ。誰かと何かを一緒にした「こと」。その「こと」を思い出すとき、「この世」は「いまはじまり」、「この世」は「すっかりおわる」。はじまりと終わりが「こと」のなかで出会い、「永遠」になる。
 「永遠」が「この世」にあるのか、それとも別の世にあるのか、私はわからないが、はじまりと終わりの区別がないのが「永遠」だろう。そして、それは「こと」のなかにある。
 「こと」というのは、池井の場合、だれかと「一緒に」すること、あること、なのだ。同じことばをくりかえしてしか言えない何かなのだ。それが「この世」の仕組みなのだ。その「この世」の「仕組み」を池井は書いている。その「仕組み」が動かない限り、世界は「この世」ではない。そのことを強調したくて、いけいは「この世」ということばをつかっている。

 でも、こんなことは、どうでもいい。
 ただ、ここに書いてあることばをくりかえし読んでいるだけでいい。
 選び抜かれたことばが、ただ、そうあるように、そこにある。「ありのまま」のことばがそこにある。かっこいいことばで人を驚かそうというような「作為」がない。「現代詩」の重要な「要素」である「わざと」がここにはない。
 ことばから「わざと」を取り去ると、こんなに純粋になるという、美しい姿、そのうつくしさが、ここにある。


冠雪富士
池井 昌樹
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(96)

2014-06-26 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(96)          

 「亡命ビザンチン貴族の詩作」は、不思議な音楽に満ちている。亡命した貴族が詩をつくる。その詩は、簡単に言うとつまらない。それが証拠に「亡命ビザンチン貴族」という「肩書」はあっても、個人の名前がない。詩も、その個人の名前も残っていないのだ。
 カヴァフィスはここでは何を書こうとしているのか。詩人は少ない。詩を作る人は多くても、詩人はいない。そういう事実だ。そして、では、どんな詩がつまらないかというと、次のような感じ。

粗忽者じゃな、我輩を粗忽と罵る輩は。
重大事項はすべてきわめて真剣に処理していたぞ。
教父、聖典、公会議の決議に
わしほど通じていたものがあろうか。

 「教父、聖典、公会議の決議に」通じている。だから、自分は、それなりに重大な人物であり、粗忽者ではない--こういう奇妙な「うぬぼれ」の書く詩はつまらない。だいたい詩とは、「粗忽」とは無関係。ミスとは無関係。粗忽であっても、そこに強い感情が動いていれば、それは詩だ。また、その詩は自分のことをほめあげるだけで、他人を語らないのもつまらない。つまり、他人を発見しない。他人を描けない。他人のように強烈な、自分のなかにある感情(主観)があふれないと、そのことばは詩にならない。
 --と、書いてくると。あれ?
 この詩は亡命ビザンチン貴族の書いたことばのはずなのに、いつのまにかカヴァフィスの詩人全般への批判、カヴァフィス詩の自己主張になっているのだが……。
 おもしろいのは、カヴァフィスはつまらない詩人を批判するときに、単になぜ詰まらないかを書くだけでは終わっていないことだ。カヴァフィスは、そのつまらない詩人の「口調(ことばのリズム)」を再現してみせる。つまらない詩人になりきって、つまらない詩人の声を「主観」としてことばにしてしまう。
 「教父、聖典、公会議の決議に/わしほど通じていたものがあろうか。」と主張するつまらない詩人は、きっと「詩にわしほど通じていたものがあろうか。」と平然と言うに違いない。
 で、その詩の後半は、まさにそんな感じ。

言わせてもらうが、ここまでやれる者はいまい、
コンスタンティノスポリスの学者諸氏でな。
私の詩の厳しい作法が勘に障って
奴等がおれの詩を駄目というのじゃ。

 カヴァフィスはほんとうに耳のいい詩人だ。つまらない詩人は「作法(論理/意味)」を書くが、そのことばが出てくるときの「作法」さえもつまらない詩人の「主観(声)」としてつかみだし、嘲笑している。そういうことができる詩人だ。



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『リッツォス詩選集』予約受け付けしています

2014-06-25 22:07:09 | 詩集
『リッツォス詩選集』(中井久夫訳、作品社)の予約受け付けが始まりました。
このブログに掲載した訳詩、そのとき私が書いた感想が一冊になりました。
ブログの感想と比べると大幅な加筆、修正があります。
ぜひ読んでください。

予約するには、下の画像をクリックするとAMAZONのページが表示されますので、ページの右側にある「予約する」ボタンを押して必要事項を書き込んでください。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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