詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木一人「「正義」と「利益」の間 問われる選択」

2022-03-31 10:49:00 |  自民党改憲草案再読

鈴木一人「「正義」と「利益」の間 問われる選択」(読売新聞、2022年03月31日朝刊・14版・西部版)

 ロシア・ウクライナ問題に関連して、東大教授・国際政治学が「「正義」と「利益」の間 問われる選択」という文章を読売新聞、2022年03月31日朝刊・14版・西部版に書いている。
 学者の文章なので、あたりまえだが破綻がない。論理が完結している。こういう文章を読むと、反論のしようがない。反論したところで、それはすでに鈴木のなかでは折り込み済みのことなので、即座に論破することばを展開するだろう。そういうことが「見えてしまう」文章で、つまらない。
 このことは後で再び書く。
 鈴木が文章が、文章のなかで完結し、どこにも「間違いがない」ということを承知した上で、しかし、私はあえて書いておきたい。「間違える権利」をもったふつうの市民(学問からはほど遠い人間)として、疑問を書いておく。
 鈴木はロシアに対する「経済制裁」について、ふたつの誤解がある、と指摘する。
↓↓↓↓↓
 第一の誤解は、この制裁の目的に関するものである。制裁の目的はロシアの攻撃を止めることでも、プーチン政権を倒すことでもない。その目的は戦争のコストを上げることである。経済制裁により外貨の獲得や半導体の調達が難しくなることで、戦争を続けることを難しくさせることが目的である。
↑↑↑↑↑
 これは、とても論理的だ。鈴木の「誤解」という指摘に、そうか、誤解だったのか、と気づく。
 でもね、私はばかだから、「私が誤解していたのか」で終わらない。
 鈴木は、ここで「戦争のコスト」ということばをつかっている。つまり、戦争には金がかかる。軍備に「外貨」や「半導体」がどれだけ重要なものなのか、鈴木は書いていないので追及のしようがないが。
 私が「戦争のコスト」で最初に思い浮かべるのは、武器の材料、軍備を動かす燃料である。鉄などの原料がロシアにどれだけあるか知らないが、石油などの燃料はかなりある。輸出しているくらいだからである。たぶん、燃料には困らない。
 一方、戦争というのはロシアだけが武器を消費する、燃料を消費するわけではない。相手国も消費する。ウクライナは、どれだけ武器を自前で調達できるのか。NATO加盟国から武器の支援がつづいているようだが、それはいつまでつづけられるのか。
 この問題は、どうやって武器を調達するかという問題につながる。戦争は武器を消費し続ける。つまり、武器を増産し続けなければならない。そのとき、その武器の増産で「儲ける人間」がどこかにいるはずだ。
 鈴木は、この「利害関係(経済関係)」を省略して「論理」を「完結」させている。「論理」を「閉じている」。
 これは逆の見方をすれば、鈴木は「武器商人」を支援する論理を展開しているということである。「武器商人」、武器を売ることで利益を上げているひとのことを見ずに、ロシアがどこまで戦争を遂行できるか。経済破綻で、遂行できなくなるだろう。そういう方向へ追い込むために、「経済制裁」は有効である、と言っているのである。「経済」であるかぎりは、利潤についてふれないかぎり経済を語ったことにはならないと思う。
 鈴木の「論理」は「ずるい論理」である。
 
 鈴木が指摘する第二の「誤解」。
↓↓↓↓↓
 第二の誤解はSWIFT制裁に関するものである。SWIFTからロシアを切り離すことは「金融版核兵器」などと呼ばれるが、それは適切ではない。SWIFTは送金情報を電子化して通信する仕組みであり、SWIFTから切り離されてもファックスなどの手段で送金はできる。送金の手間は増えるという問題はあるが、送金はできる。むしろ、送金を止める効果があるのは米国による金融制裁であり、制裁対象となった銀行ではドルの取引が出来なくなる。
↑↑↑↑↑ 
 こういうことは、まったく想像もできないことなので、そうなのだろうと思って読んだ。
 私が気になったのは、最後の「結論(?)」部分。
↓↓↓↓↓
 制裁によって撤退を余儀なくされた日本企業も、そのビジネスを失い、利益を得られなくなる。しかし、自国企業の損害のために制裁しないという選択をすれば、それだけ戦争が長引くことになる。経済的利益と政治的正義の中で何を選択するかが問われている。
↑↑↑↑↑
 ここで初めて「利益」ということばが出てきた。最後まで鈴木は「利益」ということばを隠して文章を書いていたのだが、どうしてもつかわざるを得なくなった。「政治的正義」のように「経済的正義」ということばをつかえればいいのだが、それができない。
 だから、ここから逆に、「経済的正義」とは何か、という視点から、今回の問題を探っていけば違うものが見える。鈴木が必死になって隠しているものが見える、ということである。
 鈴木が懸命に隠している「経済的正義」が、いまの世界を考えるときの、重要なキーワードなのだ。
 「利益」に関して言えば、最初に書いたように、武器商人(軍需産業)は戦争がある限り「利益」を上げ続けることができる。そして、その戦争を有利に進めるために「経済制裁」という名の「経済戦争」が続くとき、軍需産業以外の企業は「利益(経済利益)」が制限される。これは、ロシアも他の国も同じ。そして、この企業の経済的利益が損なわれるとき、それは市民の利益が損なわれることでもある。物価が高くなる。いままで買っていたものが買えない。いままでとは違う生活をしなければならない。「経済的正義」は、どこへいった? 「経済的正義」は、どこにある?
 軍需産業はもうかる。利益がある。それ以外の企業、ふつうの市民は経済的に苦しむ。これが「経済的正義」と言えるか。軍需産業の利益のために、市民は経済的に苦しまなければならないのか。軍需産業は、利益を確保するために、世界で戦争を仕組んでいるのではないのか。

 さらに飛躍して、こう考えることができる。
 いま世界中で貧富の格差が拡大している。巨額を抱えた富裕層がいる一方、毎日の食事にも困るという貧困層がいる。こういう状況は「経済的正義」といえるのか。「資本主義の正義」とは、こういうことなのか。
 「経済的正義」を求めてというか、「経済的不正義」に対する抗議として、世界でいろいろな問題が起きている。アメリカへのテロ攻撃も「政治的正義」の問題であると同時に「経済的正義」の問題でもあるだろう。アメリカは世界の貧富の格差是正にも目を向けろ、アメリカの利益だけを優先するな。

 私の書いていることは「間違っている」。だいたい「経済的正義」ということばなんか、ない、とひとは言うかもしれない。
 私は「学者」ではないので、そういうことは気にしない。私は私の知っていることばで、私の感じていることを書く。それが「学会(?)」で通用しないことばだとしても、そんなことは私の問題ではない。「学者」ではないのだから。
 それに。
 「間違い」について言えば、民主主義とは「間違い」(自分とは違う意見)の存在を受け入れることだから、「間違い」を受け入れられない社会にこそ問題があるということになるだろう。
 こういう例が適切かどうかわからないが。
 たとえば同性愛はかつては、道徳問題としてだけではなく、法律で禁止されていた国もある。「同性愛禁止=正義」だった時代がある。いまでも、そう考えている人間もいる。でも、少しずつ、世界は寛容になってきている。かつては「間違い」だったものを「間違い」とは呼ばなくなってきている。
 「同性愛禁止=正義」を「戦争」と結びつけて考えると、とても興味深いことがわかる。軍隊に同性愛者がいたら、風紀が乱れる。軍隊の統制がきかなくなる、という意見があるかもしれない。でもね。軍隊が必要ない、戦争なんかない世界があるなら、その軍隊のない世界の方が「正義」であり、軍隊に頼って世界を支配するのは「間違い」。軍隊の統制を乱し、戦争の遂行を不可能にする「同性愛ことが正義」ということになるだろう。「同性愛」から「同性」ということばを省いて「愛こそが正義」ということになるだろう。
 私は鈴木の学生(鈴木に教えてもらっているわけではない)ので、鈴木からどんな「採点」をされようと、ぜんぜん気にならない。ほかの「学者」から、何を言われても気にならない。
 「完結した論理」をつついて、ここが私の知っている日常の考え方では理解できない、ほころびをつくってみせる、というのが私のことばの動かし方だ。

 

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石毛拓郎「このミツバチとまれ」

2022-03-30 10:18:24 | 詩(雑誌・同人誌)

石毛拓郎「このミツバチとまれ」( 「sprit 」5 、2022年03月15日発行)

 石毛拓郎「このミツバチとまれ」には「1990年8月15日 旧盆の宵、片山健さんへの画賛」というサブタイトルがついている。私は片山の絵を意識して見たことはない。さらに、1990年は、もう30年以上も前のこと。まさか、1990年のことを思い出して石毛がこの詩を書いたわけではないだろうから、いまここで感想を書くことに意味があるかどうかわからない。まあ、感想に意味などないのだが。
 それに一読したところ、ぜんぜん、おもしろくない。石毛は、なぜこの詩を、いま、「sprit 」に発表しようとしたのか、さっぱりわからない。
 じゃあ、私は、なぜ、これから感想を書こうとしているのか。そうだなあ。最近読む詩が、身近に感じられない。ことばが、とても遠く感じられる。石毛のことばは、妙になつかしい。石毛が片山健を思い出し、ふと、その詩を発表してみようと思ったのに似ているかもしれない。書くことはない。しかし、書いたものがある。その書いたものを通して、過去を思い出してみる。
 ということを考えていると、不思議な気持ちになるのだ。
 私がこれから書くこと。それは、もしかしたら、私がすでに書いたことかもしれない。そんなことは現実にはありえないのだが、ありうる、これから起こりうるかもしれない。書いてみないと、わからない。

真っ盛りの夏
腐りかけていく水蜜桃
甘ったるい咽喉の奥を とろけていく
けだるい白昼の夢をみた
夢で 庭にはびこる一面の蔓草が
軒下めざして
いっせいに笑った
さらに かぶりつこうとした
おまえのくちびるが 一瞬うろたえた
ひと口 齧ったところから
ミツバチが 飛びたったのだ
このミツバチ とまれ
このミツバチ とまれ
---まさか? そうだな、水蜜桃に蜂はやってこない。

 現実というか、事実がある。しかし、それは「常識」で考えると、どうもありえないことである。「まさか?」ということがある。
 さて、ここから、どうするか。
 「おまえ」というのは絵に描かれている人間かもしれないし、石毛が石毛自身を客観化して「おまえ」と呼んでいるのかもしれないのだが、いずれにしても「対象」である。そして、その「対象」の存在を手がかりに、「世界」ではなく、「対象」のなかに入っていく。「対象」のなかに「世界」を引きずり込む。「世界内存在」ではなく、逆に「自己内世界」

花と果実をまちがえたミツバチは ささやく
おまえのこころに 清らかな水密は棲まぬ と
わたしは 想いもよらなかったのだ
---清流に、魚は近づかぬとよ。
すると 粘膜は熟れて
「桃源郷」の甘い果肉の 残り香が
すべての虫の神経を 狂わせる
おまえの五感も生きものであることを 知らしめる

 「わたし」と「おまえ」が交錯する。その区別のなさのなかに、「清流に、魚は近づかぬ」という「腐った水蜜桃」とは違うものがあらわれてくるのだが、その瞬間に「腐った水蜜桃」こそが貴重な魚を棲むところにも見えてくる。「清らか」であることよりも「腐っている」ことが重要なのだ、というふうに整理してしまっては、しかし、おもしろくない。こういうことは、論理として突き詰めては何にもならない。瞬間的な錯誤のなかに、瞬間的にだけ存在するヒントとして何かを感じればいいだけだ。
 この錯誤を、石毛は「狂わせる=狂い」ということばをつかみとり、それから

おまえの五感も生きものであることを 知らしめる

 へと飛躍する。「おまえ/わたし」が生きているのではなく、「五感」が生きている。これは「わたし(おまえ)内五感」ではなく、逆に「五感内おわたし(おまえ)」という世界である。「わたし/おまえ」がいるから「五感」があるのではなく、「五感」があるから「わたし/おまえ」が存在しうるのである。
 こんな「分離」(整理)などせずに、「わたし/おまえ」と「五感」は同じもの、区別してはダメ、と言ってしまった方が簡単かもしれない。
 別なことばで言えば「わたし即おまえ即五感」。この「即」の認識が、ここにはある。
 これは、さらに、こう展開していく。

このミツバチ とまれ
このミツバチ とまれ
---仮に、清らかな水密に、われらが魅せられ
   棲みついてしまったとしても---。
にわかに 信じがたい気配を
けだるい午後の 水蜜桃のにおいのなかにみつけて
わたしは にこりとするだろう
しきりに ミツバチがささやきはじめる
秘められた 果肉の爛熟のなかに
おまえは こそりとミツバチと同棲する

 片山の絵がどういうものか知らないが、私は水蜜桃をかじっている少年の絵を思い浮かべる。石毛は、その水蜜桃からミツバチが飛び出してくるように書いているが、私は、逆に少年の口から(肉体から)ミツバチが飛び出し水蜜桃に食らいついている(とまっている)絵を想像した。「わたし/おまえ」は水蜜桃を食べているのではない。「わたし/おまえ」はミツバチになって水蜜桃を食べている。
 「わたし即おまえ即ミツバチ」。そしてこれはさらに「わたし即おまえ即ミツバチ即水蜜桃」「腐っている即清澄」へとも展開する。個別の存在、あるいは状態は消え「即」だけがのこる。
 私の想像は間違っているだろう。
 しかし、間違いのなかにだけある「ほんとう」というものもある。これを「即」ということばで、昔の日本語(あるいは、中国語?)はあらわした。
 
 と、ここまで、ことばを動かしてきて。
 こういうことは、石毛の詩について触れたときに書いたことはなかったかもしれないが、過去に書いた記憶があるなあ、と思い出す。もしかすると、そのことは石毛につながっていたのかもしれない、というようなことを、ふと思うのだ。
 この「即」を「ミツバチ」と言いなおせば、私が、いま石毛の詩を読んでいる気持ちと、重なる。「この即 とまれ」と言いたい感じ。

 


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Estoy loco por espana(番外篇156)Obra,Javier Messía

2022-03-29 18:13:13 | estoy loco por espana

Javier Messía 
CONCIENCIA

No sé de qué material está compuesta la obra de Javier Messía.
Lo que sí sé es que hay una división e integración.
Mientras la pantalla está dividida, el acto de división constituye el todo.
Líneas verticales y horizontales. Verde azulado y rojo dorado. Colores complementarios. Opuestos.
Y en cada área, también hay algo incontrolable.
Hay baches. ¿Se trata de un trozo de pintura, o es la protuberancia del material debajo de la pintura?
No lo sé, pero ahí también coexiste algo contradictorio.
Me gustaría verlo directamente con mis propios ojos, no a través de fotografías.


Javier Messíaの作品が、どんな素材で構成されているか、私は知らない。
わかるのは、分割と統合があるということ。
画面を区切りながら、その区切るという行為が全体を構成している。
縦の線と横の線。青緑と金赤。補色。相反するもの。
そして、それぞれの領域には、なにかしら制御できないものもある。
でこぼこがある。それは絵の具の塊なのか、それとも絵の具の下の素材のでこぼこなのか。
わからないが、そこにも、何かしら相反するものが共存している。
写真ではなく、自分の目で、直接見てみたい。

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「ことば」はどこへ行くのか

2022-03-28 17:50:33 |  自民党改憲草案再読

 2022年03月25日の読売新聞(14版、西部版)1面に、バイデンがワルシャワで演説したという記事がある。
↓↓↓↓↓
 【ワルシャワ=横堀裕也】米国のバイデン大統領は26日、ポーランドの首都ワルシャワで演説し、ウクライナ侵攻を命じたロシアのプーチン大統領について、「この男が権力の座にとどまってはならない」と非難した。「自由を愛する国々はこの先何十年と結束を保たなければならない」と述べ、民主主義陣営に向けて、ロシアへの対抗とウクライナ支援を呼びかけた。
↑↑↑↑↑
 読売新聞は見出しで「権威主義へ対抗 訴え」とバイデンの演説を擁護しているが、「この男が権力の座にとどまってはならない」ということばはバイデンが言うべきことばではないだろう。プーチンと交渉する意思があるなら、絶対に言ってはならない。それが「外交」の基本だろう。「外交」は「ことば」でおこなうものである。
 これは、こう考えてみればいい。バイデンが、たとえば岸田のことを批判して「この男が権力の座にとどまってはならない」と言ったとしたら、では、今後の日米関係を交渉するのに、いったい誰を相手に交渉するのか。
 さらに、プーチンがアメリカの政策(NATOによるヨーロッパ支配)を批判する過程で、バイデンを「この男が権力の座にとどまってはならない」と言ったら、ロシア・ウクライナで起きている問題はどうなるのか。
 日本では(そして、たぶんアメリカの主張する自由主義/資本主義、別の見方をすればアメリカの軍事産業支援システムが横行している国では)、アメリカが「自由を愛する国々」の代表であり、バイデンはそのリーダーということになるが、ロシアやアメリカの経済制裁に苦しんでいる国から見れば、バイデンはアメリカの軍需産業を利用している権力者であるだろう。そういう国から見れば「バイデンが権力の座にとどまってはならない」ということになる。
 ある国の代表者に対して「この男が権力の座にとどまってはならない」と言った瞬間から、「ことば」による交渉は不可能になる。
 これはだから、ことばを変えて言えば、バイデンがプーチンとの「交渉」を拒絶するという宣言になる。「ことば」ではプーチンと「交渉」しない。
 では、何で交渉するのか。「武力」と「資本力」である。そして、「武力」こそ、アメリカはいまは直接行使していないが、「資本力」を行使した「経済戦争」を遂行している。他の国にもその「経済戦争」に参加するように促し、それにしたがって多くの国が「経済戦争」に参加している。
 「経済制裁」は「経済戦争」ではない、という人がいるかもしれない。
 しかし、実際に起きていることはどうか。ガソリンをはじめ物価高がはじまっている。これは、これから先拡大する。ほしいものが買えない、という状況が進む。そのとき為政者はどういうか。いまはロシアと戦争状態にある。この戦争を勝ち抜くまでは(ロシアを同じ経済システムで支配してしまうまでは)、「ほしがりません、勝つまでは」の精神で、この戦争に協力しなければいけないと言うのである。
 こういうとき、いちばん困るのは「資源」のない国である。
 アメリカもロシアも広大な土地と資源を持っている。日本には何もない。アメリカもロシアも、それなりにもちこたえることができる。しかし、日本はもちこたえられない。ロシアは、ロシアの内部で「資源」を分配すればいいだけだから、かなりもちこたえるだろう。アメリカは、世界の国に「資源」を分配するか。どうしたって、アメリカの内部での「資源」を分配を優先することになるだろう。その結果として、「アメリカの資源分配システム」が世界を支配することになるだろう。いまアメリカの軍需産業の金儲け主義が、世界の軍需を支配しているように、すべての分野でアメリカの世界支配がはじまる。
 脱線した。
 「この男が権力の座にとどまってはならない」ということばをロシアは(そして、他の国は)どう受け止めたのか。
 読売新聞には、アメリカの反応を書いている。
↓↓↓↓↓
 米ホワイトハウス関係者は「『プーチンの他国への力の行使が許されるべきではない』というのが大統領の発言の趣旨だった。体制転換について語ったものではない」と米メディアへの釈明に追われた。
↑↑↑↑↑
 「釈明に追われる」ようなことばは、すでに「外交のことば」ではない。
 それはそれとして。
 では、日本(岸田政権)は、このことばについて、どう言っているか。何か言ったのかもしれないが、読売新聞には何も書いていない。他国の反応も書いていない。これは、おかしいだろう。他国の反応はともかく、最低限、岸田がバイデンのことばをどう受け止め、それを岸田自身のことばでどう言いなおすか。そのことはジャーナリズムの仕事として、絶対にすべきことである。
 「外交」は、ある意味では「嘘のつきあい」である。ことばによる「ごまかしあい」である。これを「妥協」ということもできるが、あくまで「ことばの戦争/思想の戦争」であって、そこでは勝っても負けても、それぞれの国民が命を落とすことはない。
 その「最後の一線」のようなものをバイデンは踏み越えた。このことに対して岸田が沈黙しているのだとしたら、その責任は重い。米メディアさえ、追及している。読売新聞ははっきりと「米メディアへの釈明に追われた」と書いている。為政者のことばを追及するのがジャーナリズムの仕事だからである。読売新聞は、その仕事をアメリカのメディアに任せっきりにしている。
 「ことば」を取り戻すことが、「平和」へ踏み出す一歩であるべきだ。

 さらに思いついたまま書いておくと。
 アメリカは、西欧諸国にウクライナへの武器支援を促し、武器支援をした国の軍備の穴埋めにアメリカの軍備を売りつけるという商売(金儲け)をしているように私には見える。(実際の取引を確認したわけではない。)今回のバイデンの発言は、実際にプーチンとバイデンが交渉するわけではない(おこなわれているのは、ゼレンスキーの代理とプーチンの代理の交渉、アメリカ以外の国の仲介による交渉である)ことを「利用」した発言とも言える。アメリカが武力戦争に直接参戦しないように、アメリカはロシアとの直接交渉には参加しない。陰から「おいしい部分」だけをつまみ食いしようとしている。バイデンの「この男が権力の座にとどまってはならない」は、ある意味では「ことば(外交)」の後方支援なのである。後方支援にとどまっている限り、攻撃されるおそれはない、という「安心感」に居すわって、バイデンは発言している。
 この、なまくらな(直接は何もしないが、影響力は行使する)というアメリカの無責任な姿勢は、もっと追及されるべきことである。

 

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Estoy loco por espana(番外篇156)Obra, Joaquín Lloréns

2022-03-28 12:17:40 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Lloréns
Técnica. Hierro óxido 70x40x42 S. 34&36

Me siento mareado, como si hubiera entrado en un laberinto tridimensional.
Por qué el mareo?
Normalmente, en un laberinto, uno tiene la ilusión de que es el mismo lugar en el que ha estado antes, y que sólo está dando vueltas por el mismo sitio.
Sin embargo, este no es el caso de la obra de Joaquín. Debería ser el mismo trabajo, pero parece diferente.
Es realmente el mismo trabajo?
No, no lo es. Son dos porque son "34&36". Pero son del mismo tamaño. ¿Son realmente dos?
Lo miro una y otra vez, sin saber.
No porque quiera entender, sino porque quiero seguir sin estar seguro.
Al igual que el placer del laberinto está en la huida, pero también en estar atrapado allí durante mucho tiempo.

¿Realmente quiero a esa persona? No sólo no le quiero, sino que incluso podría odiarle.
Así es el laberinto del amor, un misterioso desconcierto.
¿Quiero escapar de este laberinto o quiero quedarme atrapado en él para siempre?
No lo sé.

Quizá el arte consista en descubrir el "no saber".

 

立体の迷路、迷宮に迷い込んだような目眩に襲われる。
なぜ、目眩なのか。
ふつう、迷宮では、ここはさっききたところ、同じところをまわっているだけという錯覚に襲われる。
しかし、この作品では違う。同じ作品のはずなのに、違って見える。
これは、ほんとうに同じひとつの作品?
いや、そうではない。「34&36」だからふたつある。でも、同じ大きさ。ほんとうにふたつ?
わからないまま、何度も何度も見る。
それは、わかりたいからではなく、わからないままでいたいから。
迷宮の楽しみが、脱出であると同時に、ずっとそこに閉じ込められることにあるように。

私はほんとうにあの人を愛しているのだろうか。愛していないだけではなく、憎んでいるかもしれない。
そういう恋愛の迷宮のような、不思議な困惑。

芸術は、「わからない」ということを発見するためにあるのかもしれない。

 

 

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季村敏夫「坂 鈴木創士へ」

2022-03-27 11:53:22 | 詩(雑誌・同人誌)

季村敏夫「坂 鈴木創士へ」(「ぶーわー」47、2022年03月15日発行)

 季村敏夫「坂 鈴木創士へ」は追悼詩なのだろう。私は鈴木創士を知らない。詩の後半に出てくるエミルも知らない。だから、これから書くことは半分は(半分以上は)いいかげんなことなのだが。
 でも、書いておきたい。

骨壺が片づけられる
のこされたものを
ゆするものがある

思い出せないから
ざわめきをしずめ
破片の月をつき放つ

 焼骨後、散骨したのだろう。「のこされたものを/ゆする」とは、最後の骨(骨の破片の灰)まできちんと撒く、ということだろう。
 こういうとき(特に散骨とはかぎらず、人が死んだとき)、生き残った人は何を思うだろうか。思い出すだろうか。

思い出せないから

 この一行が、とても重い。「思い出せない」ことがあるのか、それともそれは季村が知らないけれど、他の人が知っていることなのか。
 誰かが、鈴木の思い出を語る。しかし、その思い出に重なるものが季村にはない。思い出せないけれど、なぜか、こころがさわぐ。
 そういう体験が、私にもある。
 父が死んだ。それから何日してだろうか。姉が「死ぬ前、家の前の道から、碁石が峰をじっと見ていた」と言った。碁石が峰というのは、私のふるさとでいちばん高い山の名前である。私は、そのあと父が立っていた道に立って碁石が峰を見た。それは、始めてみる碁石が峰だった。碁石が峰はいつでも見ていた。でも、その日、父が見ることで隠していた碁石が峰が、父の視線がなくなったために、ふいに新しい姿として目の前に見えた。
 人が存在するとき、その人が隠しているものがある。世界は私が見ている通りではない。どこかに、それぞれの人間が隠している世界がある。
 あのとき、私のこころは、そんなふうに「ざわめいた」。
 それを「しずめる」のには、かなり時間がかかった。
 そして、その「しずめる」というのは、何というか、いま父が隠していた碁石が峰が見えたという印象が消え、いつも見ている(見ていた)碁石が峰があらわれるのを待つということだった。
 私の思ったことは、錯覚である。世界は何一つ変わっていない。新しいものなど何もない。しかし、一瞬、錯覚したことを、私は忘れることができない。

破片の月をつき放つ

 最後の一片は月の形をしていたのだろう。その月は、満月ではなく、きっと三日月よりももっと薄い月。それは、きっといつでも思い出すことができる。だが、それが鈴木のすべてではない。すべてではないけれど、すべてを象徴するものとして思い出す。何かを「象徴」として思い出すとき、悲しいけれど、実は「思い出せない」ものもあるのである。「思い出せないもの」があるから、それを含めて「象徴」にしてしまう。そうすることで、自分のこころをしずめる。
 詩の後半は、この詩のクライマックスというべきことばなのだが、私は、それについて感想を書けない。鈴木についてもエミルについても何も知らないからだ。ただ、こういうことは、できる。
 あ、季村は、季村が隠していたものをいま、無防備にさらけだしている。正直にさらけだしている。そういう正直は、私にはわかるはずがない。一瞬、何かが見え、すぐに消えていく。そういうものが、ここにある。それは、私の体験で言えば、道に立って父の見た碁石が峰を見たと感じた錯覚に似ている。

真昼の窓
灰も目覚めているのか
生きものとして
つき放たれ
六月の空を滑り落ちる
エミル きみのシャツから
月のマークが剥がれ
薄い翅となって
後ろを向いてひるがえる
ばんざい ばんばんざい
東亜 トア ロード
誰も彼も
似たように合一する蒼天
旭日旗は透明
すりきれた翅は後退する

 

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ケネス・ブラナー監督『ベルファスト』

2022-03-26 17:09:36 | 映画

ケネス・ブラナー監督『ベルファスト』(★★★★★-★か★★★★+★) (2022年03月26日、キノシネマ天神、スクリーン1)

監督 ケネス・ブラナー 出演 モノクロフィルム

 この映画の最大の特徴は、モノクロ、ということである。モノクロではないシーンもあるのだが、基本はモノクロ。このモノクロの画面が、ここに描かれているのは「記憶」だと告げる。「記憶」というのは、どんな記憶であれ、整理されている。それが変わってしまうことがない。言いなおすと、これから何が起きるのか、ストーリーはどう展開するのか、という「なぞ」がない。「なぞ」だけがもつ魅力がない。
 そのかわりに、「細部」がある。そして、その「細部」というのは「失われた細部」である。いまも残っている「細部」ではない。「失われた細部」ではあるけれど「忘れられた細部」ではない。この具体性を「懐かしい」という。
 それはそれでいいんだけれど。
 見ながら、いまではなく、別の時代に見たなら、もっと感動しただろうなあと思わずにはいられなかった。
 どういうことかというと、私は、どうしても「ベルファスト」ではなく、「ウクライナ」を思い浮かべてしまうのだ。ベルファストで起きたこととウクライナで起きていることは、問題はまったく違うはずなのだけれど、重なって見えてしまう。なぜかというと、ウクライナでも、多くの市民は何が起きているかはやっぱりわからないのではないかと思うのである。市民には、日常しかない。その日常というのは、宗教対立(武力対立)ではなくて、日々の仕事をすること、お金がないこと、学校へ行くこと、女の子にこころをときめかせること、おじいちゃんが病気になること……と、いつでも、どこでも変わりがない。そこへ、自分が望んでいない「武力対立」が踏み込んでくる。ああ、日常はどうなってしまうんだろう、と思う。
 それは「日常とは何だろう」という思いでもある。
 日常とは何か。簡単に言えば「細部」である。そして、その「細部」は他人にとってはどうでもいいことである。父親は出稼ぎに行っている。稼いだ金は競馬につかってしまう。お母さんが泣いている。宿題がわからない。おじいちゃんは、算数のごまかしかたを教えてくれる。好きな女の子の隣の席に座りたい。……という、どうでもいいことが、かけがえのない「日常」というものなのである。そして、それは、不思議としかいいようがないのだが「団結」できないものなのだ。「集団」で守ることができないものなのだ。「集団(たとえば、ふるさと、ベルファストという街、その住民)」の力では守ることができないものなのだ。「日常」はあくまで個人のものであり、それはいつでも簡単に、「日常よりも大切なものがある」という考えによって破壊されてしまうのだ。
 「日常」とは「細部」であり、「細部」とは「個人」のものであるから、そこには概念では整理できないもの、統一できないものがある。
 で、ね。
 それが、この映画では、なんというか「整理」できないはずのものが、とてもていねいに「整理」され、こういう「日常」が失われました、と描き出すのだけれど。
 そこに、私は、つまずいてしまう。
 なぜかなあ。
 私なりに考えれば(私は宗教には疎いので、ただ想像するだけなのだが)、ここにはベルファストを去らなければならなかった一家の背後にある「宗教対立の日常」が描かれていない。カトリックとプロテスタントの対立があったと簡単に説明されるが、その対立の最前線の「日常」というものが描かれてない。
 それを描き始めると、映画はまったく違ったものになってしまう。
 そこに問題がある。描き方では、まったく違ったものになってしまうことを承知で、「記憶」を整理している。整理しすぎている。「家族(家庭)」のなかにまで踏み込んでくる「暴力」を描いてはいるが、それは「踏み込まれた家庭」の視点からのみ描かれていて、「踏み込んで行く暴力」の側の「日常」の視点がない。それがないと「世界」が立体的にならない。
 まあ、これは欲張りすぎた見方かもしれない。

 というのも。

 やっぱり、ラストシーンでは、どうしても涙をこらえることができない。バスで街を出て行く一家。それを見送る老いたおばあちゃん(ジュディ・デンチ)。「振り返ってはダメ」と言う。その声は聞こえないはずなのに、主人公の少年はバスの中から、振り返ってしまう。まるで、その声が聞こえたかのように。子供というのは、してはいけない、と言われたことをしてしまうものだが、そのしてはいけないと言われたことをするかのように。(ふつうは、してはいけないと言われたことをするのは、なんというか、欲望の、本能のようなものだけれど、この映画では、それは生々しい欲望とは違うのだけれど。)
 いつでも、どこにでも「矛盾」はある。その「矛盾」が、ラストシーンで、美しく昇華される形で描かれている。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇155)Obra, Calo Carratalá

2022-03-26 10:25:21 | estoy loco por espana

Selva de hierro, Acrilico sobre plancha de metal, 150 cm diámetro . Año 2018

Selva de hierro verde N 4 . Acrilico sobre plancha de hierro .formato 150 cm de diámetro Año 2022


Dos "selvas" de composición casi idéntica.
Me atrae más la selva marrón.
Esto se debe a que nunca había visto un cuadro como éste.
El aire es seco y la luz es ligera.
Pero no es la luz retratada por los impresionistas.
Escribo eso e inmediatamente pienso, no, prefiero tener una selva verde.
En el aire pesado y húmedo, la luz permanece en el verde en lugar de moverse.
Esta tampoco es la luz que retratan los impresionistas.
Como un espejo, capta la luz en la distancia y permanece inmóvil.

Cuando estás en esta luz, también ves algo más que la luz.
El agua.

En ninguno de los dos cuadros se representan los árboles de forma concreta.
Una masa de colores. Tal vez la selva sea una masa.
Los árboles individuales están profundamente entrelazados entre sí.
Nunca se separan. Lo que los mantiene unidos es el "agua".
El agua fluye por el interior de los árboles. El agua existe fuera de los árboles en forma de humedad.
El agua está en todas partes.
El agua en la superficie del lago lo acentúa.
Aparte del agua que se extiende horizontalmente, parece que hay agua que se mantiene verticalmente en el suelo.
Los árboles están al revés en la superficie del lago, y el agua en posición vertical refleja los árboles en el suelo.
El suelo es el "espejo".
De este modo, lo horizontal y lo vertical se fusionan.
Hay una quietud y una fuerza que sólo la fusión ha logrado.


ほぼ同じ構図の2枚の「ジャングル」。
私は茶色いジャングルの方に、引きつけられる。
こういう絵を見たことがないからだ。
空気が乾いていて、光が軽い。
しかし、それは印象派の描く光ではない。
そう書いて、すぐに、いや緑のジャングルの方がいいなあ、と思う。
重たく湿った空気のなかで、光は動くというよりも、緑の上にとどまっている。
これも、印象派の描く光ではない。
鏡のように、遠いところにある光を受け止めて、動かずにいる。

この光の中にいると、光とは別なものも見えてくる。
水だ。

どちらの絵も、木々は具体的には描かれない。
色の塊。ジャングルとは、塊のことなのかもしれない。
木々の一本一本は、たがいに深く絡み合っている。
決して切り離されない。繋いでいるのは「水分」である。
水は、木々の内部を流れる。水は、木の外部では湿度として存在する。
水は、いたるところにある。
湖面の水がそれを強調している。
水平に広がる水とは別に、地上には垂直に立ち上がる水があるように感じられる。
湖面の逆さまの木々を、垂直に立つ水面が木々を地上に映し出す。
地上こそが「鏡」なのだ。
そうやって、水平と垂直が融合する。
融合したものだけが獲得した静けさと、強さがある。

 

 

 

 

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情報は「公開」されているか

2022-03-25 12:12:42 |  自民党改憲草案再読

情報は「公開」されているか

 北朝鮮のミサイル発射について記事を読んだときも感じたことだが、「情報」は完全に公開されているのか、非常に疑問に思う。
 たとえば、2022年03月25日の読売新聞(14版、西部版)の2面に、コロナワクチンについて「4回目接種 5月にも/政府方針 感覚短縮 議論へ」という記事がある。
↓↓↓↓↓
 政府は24日、新型コロナウイルスワクチンの4回目接種を巡り、当初の想定から1か月前倒しし、5月にも始める方向で検討に入った。昨年12月に開始した3回目接種からの間隔を当初の「6か月以上」の想定から短縮するかどうかについて、厚生労働省の専門家分科会で議論する。
 専門家分科会は24日、政府が4回目接種を公費で行う「臨時接種」として準備を開始することを了承した。厚労省は分科会で、4回目も米ファイザー製か米モデルナ製を使用し、3回目との間隔は「6か月以上を基本としつつ、諸外国の動向を踏まえ改めて検討する」との案を示した。
↑↑↑↑↑
 すでにファイザーが「4回目接種」を米政府に要請したというようなニュースが先日あったが、読みながら思うのは、えっ、コロナ感染は終息しないのか、ということである。まだまだ拡大すると「専門家」あるいは「政府関係者」は見ているのか。
 その根拠は?
 オミクロン株のときもそうだったが、「感染力が強い」という報道があり、あっというまに感染は拡大した。感染力が強いという情報は正しかったわけだが、なんというか……そんなに危険なことがわかっているなら、もっと他の方法があっただろうと思うのに(たとえばワクチン接種を急ぐとか、規制を厳しくするとか)、どうも対策が「後手後手」になっている。
 「4回目を前倒し」という計画を持っているということは、「コロナの第6波」は確実にやってくるという「情報」がどこかにあるということなのではないのか。もしそうであるなら、それをきちんと知らせるべきではないのか。
 日本では「規制解除」政策が取られたが、それでよかったのか。
 たとえば、ここ数日の新規感染者。読売新聞の報道では、
22日、2万0231人、
23日、4万1038人、
24日、4万9930人、
 と増えている。それなのに、25日の新聞(web 版)は「都内8875人、医療提供体制の警戒レベルを引き下げ」という見出し。
↓↓↓↓↓
 国内の新型コロナウイルス感染者は24日、全都道府県と空港検疫で4万9930人確認された。死者は126人、重症者は前日より25人減の891人だった。東京都の感染者は8875人で、1週間前から414人増え、3週間ぶりに前週の同じ曜日を上回った。病床使用率は28・7%で、約2か月ぶりに30%を下回った。都は4段階で評価する医療提供体制の警戒レベルを最も深刻なレベルから1段階引き下げた。
↑↑↑↑↑
 見出しに「嘘」は書いていないが、なぜ「医療提供体制の警戒レベルを引き下げ」の方に注目させる? 「印象操作」ではないのか。
 ふつうの市民が知り得ない「情報」がどこかにあり、私たちは、その「情報」にふりまわされて「現実」を見ていないか。
 だいたい、読者が前の日の新聞を引っ張りだしてきて、ほんとうに減っているのか増えているのか確かめないといけないというのは、「情報」のあり方としておかしいだろう。
 日本の感染状況だけに限らない。累積感染者はフランスは2468万人、イギリスも2000万人を超え、あのドイツでさえ2000万人目前。隣の韓国も1000万人を超えた。この状況を分析した「情報」がどこかにあるはずだが、それが伝わってこない。
 コロナ感染のような、実際に「身近な問題」でもこうなのだから、ロシア・ウクライナ情報になると、「見えない情報」が無数にあるはずだ。
 たとえば、アメリカの軍需産業は、今回の問題でいくら儲かっているのか。(儲かると予測を立てているのか。)あるいは、スイスまでロシアへの経済制裁に参加したが、スイスの銀行でさえ、今回のコロナの影響で経営が苦しくなっているのか。
 もっと身近なことを言えば。
 ロシアからの天然ガス、石油の輸入がストップすることで、日常消費の物価はどれくらい上がるのか。ガス代、電気代だけではないだろう。きっと「想定」があるはずだ。その「想定情報」を知っているのは誰までなのか。なぜ、市民は知らされないのだろうか。
 原料の値上げを、企業は商品(サービス)の値上げに転嫁できる。赤字にならずに方法がある。しかし市民には対処方法がない。どれが適正な値上げなのかも判断できない。きっと「便乗値上げ」によってもうかる企業も出てくるはずだ。「いまは消費者が苦しいとき。企業は内部留保している利益をいまこそ市民のために提供しよう」というような企業が出てくるとは思えない。トヨタがその「旗振り」を買って出るとは思えない。連合か、企業に「内部留保を吐き出せ」と要求するようには思えない。

 ネット上ではいろいろな「ことば」が飛び交っているが、「情報」はどこにあるのか。見極めることがむずかしい。「情報」を探し出すのがむずかしい。
 私は貧乏なので新聞は一紙しか取っていないが、複数の新聞を読み比べれば何かもっとわかるかもしれない。ネット時代で「情報」があふれているようにみえるが、実際は、情報をあふれかえさせることによって、ほんとうに大切な情報を隠すという操作がおこなわれているかもしれない。

 

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Estoy loco por espana(番外篇154)Obra Luciano González Diaz

2022-03-25 11:13:45 | estoy loco por espana

Obra, Luciano González Diaz

Tiene una forma muy extraña.
Primero, pienso en una mano. Hay una paloma en la palma de su mano. Esa paloma aún no es una paloma completa. Está tratando de transformarse en una hermosa paloma.
Tiene una fuerza muy extraña.

Luciano escribe acompañando esta pieza sobre la transformación de la oruga (un gusano de seda)en mariposa.
Al leer esas palabras, imagino una mano transformándose en paloma.
Cada etapa de crecimiento tiene su propio "significado" y su propia "belleza".
No sólo es bella la forma final completada (mariposa o paloma).
La "voluntad" de transformarse en algo en sí misma es hermosa.

El anillo redondo es la tierra, pero al mismo tiempo me parece un capullo y un huevo.
Cuando pienso en lo que está ocurriendo en Ucrania en estos momentos, esta obra transmite la sensación de estar esperando el nacimiento de la paloma, la mensajera de la paz.
Luciano espera que su obra (su mano) se transforme en una paloma.
Es la mano humana la que nutre a la paloma.
Luciano espera que el arte, la belleza creada por las manos humanas, se convierta en un mensajero de la paz.


とても不思議な形をしている。
まず、手を思う。手のひらの中鳩がいる。その鳩は、まだ完全な鳩ではない。鳩になろうとしている。
そこに、とても不思議な強さがある。

ルシアーノは、この作品に添えて、毛虫が蝶に変身することを書いている。
そのことばを読みながら、私は、手が鳩に変身することを想像した。
どの成長段階にも、それぞれの「意味」があり、「美しさ」がある。
完成された最終的な形(蝶や鳩)だけが美しいのではない。
何かになろうとする「意思」そのものが美しいのだ。

丸いリングは地球だが、同時に、繭にも、卵にも見える。
いまウクライナで起きていることを思うと、この作品から、平和の使者、鳩の誕生を待っている気持ちがつたわってくる。
ルシアーノは、作品が鳩に変身することを願っている。
その鳩を育てているのは、人間の手だ。
芸術、人間の手がつくりだす美が、平和の使者になることをルシアーノは願っている。

 

 

 

 

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ニュースではなく、情報の読み方(北朝鮮のミサイル報道)

2022-03-25 10:26:51 |  自民党改憲草案再読

ニュースではなく、情報の読み方

 新聞には「ニュース」があふれている。たとえば、2022年03月25日の読売新聞(14版、西部版)の1面のトップは「北、新型ICBM級発射/最高高度6000キロ超 最長71分飛行/北海道沖150キロEEZに」という見出しと記事。ニュース(事実)は、見出しを読めば十分にわかる。しかし、私が注目したのは「ニュース/事実」ではない。
 本記に連動して「許されぬ暴挙」と岸田が批判したという記事がある。そこにこんなことが書いてある。(番号は、私がつけた。一部補足)
↓↓↓↓↓
 ①北朝鮮からミサイル発射予告はなかった。航空機や船舶への被害や国内への落下物は確認されていない。②政府は「領域内落下や我が国上空通過が想定されなかった」(松野氏=官房長官)とし、ミサイル発射などを知らせる全国瞬時警報システム「Jアラート」はつかわなかった。
↑↑↑↑↑
 ①の「発射予告はなかった」は、どこから得た情報なのか。書かれていない。まさか読売新聞に北朝鮮が予告してくるわけはないから、きっと、政府関係者から得た「情報」なのだと思う。次の「国内の被害は確認されていない」というのも、読売新聞が独自に調査した結果ではなく、政府関係者の発表(?)を書いている。
 さて。
 ②だが、とても奇妙だ。安倍が首相の時代、何度も「Jアラート」が発令され、ビルのなかで頭を抱える避難行動(?)が報道されたが、あれは「領域内落下や我が国上空通過が想定され」たからだということになるが……。どうして、そういうことが「想定」できたのか。
 ①とあわせて考えると、北朝鮮から「発射予告」があったから、そういうことができたのではないのか。当時も、発射日には安倍がかならず官邸にいて、すぐ記者会見をした。まるで「発射情報」を事前に把握していたのではないのか、ということが言われた。
 (私は「発射予告があった」と推定していた。どこに落下するかも、きっと「予告」があったと思う。落下物で船舶が被害を受けると問題になるだろうから、そういうトラブルは北朝鮮だって回避しようとするだろう。)
 今回は、それがなかった。なぜか。たぶん、世界の目が「ロシア・ウクライナ」に向いているので、その目を北朝鮮に向けさせるには、いままでとは違った「衝撃」が必要と北朝鮮が判断し、あえて予告をしなかったのだろうと思う。
 あるいは、北朝鮮から予告はあったが、その「情報」は不十分で、たとえば、いままでのように日本のEEZ圏外に落下すると「想定」してしまったのかもしれない。その「想定間違い」を指摘されると問題になるので(想定能力がないと判断されてしまうので)、「予告はなかった」「想定しなかった」「Jアラートはつかわなかった」という「ストーリー」を読売新聞にリークしたのかもしれない。(「予告」はほんとうはあったが、見落としていたのかもしれない。)
 問題は、ここから。
 もし、読売新聞に載っている、この「作文(ニュースの裏話)」が「事実」だとしたら、予告がなかったから適切な対処ができなかったというのが事実だとしたら、これは、もうむちゃくちゃだね。
 実際に戦争が起きれば、北朝鮮は日本対して、「〇〇へ向けてミサイルを発射する」と予告してから発射するわけではないだろう。突然、発射するだろう。そうすると、日本のシステムでは、そのミサイルがどこに飛んでくるか推測できない。「Jアラート」も発令できない。ビルのなかで頭を抱え、避難するということももちろんできない。「Jアラート」なんか、役に立たないのだ。
 「予告されなかった発射」のときこそ、あらゆることを想定し、即座に「Jアラート」を発令してこそ、「Jアラート」の意味がある。「予告されなかった」などと、平気で「内輪話」をもらしたのは誰か、そして、こんな「内輪話」をもらしてしまえば、そこからどんな問題が浮き彫りになるか考えない読売新聞の記者はどうかしている。きっと「私だけが聞き出した特ダネ」と思って、大はしゃぎで書いたのだろう。編集者も、その大はしゃぎに載ってしまったのだろう。(ウェブ版では、岸田の談話の記事の後半、つまり「予告云々」の部分は、私が読んだ限りでは省略されている。)

 さらに。
 この朝刊の記事は、かなり混乱している。この「作文」の前には、こういう事実がある。https://www.yomiuri.co.jp/politics/20220324-OYT1T50224/ 
↓↓↓↓↓
 政府は24日午後、北朝鮮から発射された弾道ミサイルの可能性がある飛翔体が同日午後3時35分に、青森県沖の排他的経済水域(EEZ)内に落下する見込みだと発表した。船舶への注意を呼びかけている。
 政府は24日午後、北朝鮮から発射された飛翔体が落下したとみられると発表した。
↑↑↑↑↑
 時系列で整理すると。(読売新聞の記事を参照)
①24日午後2時33分、北朝鮮がミサイル発射
②(時間不明)日本が、午後3時35分にミサイルが青森沖に落下すると注意発令
③午後3時44分、ミサイルが落下
 ミサイル発射がわかった段階で、落下地点を予測して、政府は船舶に注意を呼びかけている。それは正しい行動なのだが、では、以前は、どうしていたのか。北朝鮮がミサイルを発射した、それで「Jアラート」と発令したということは聞いたことがあるし、新聞でも写真つきで避難行動が報道されたが、「船舶に注意した」という記事は書かれていない(私は読んでいない)。つまり、「予告」にしたがい、事前に船舶には注意を呼びかけていたが、それを秘密にしていたということだろう。つまり、安倍の「Jアラート」と市民の避難活動をアピールするために、船舶へも注意してきたことを隠していたということだろう。
 少し考えてみればいい。こんな記事がある。
https://www.yomiuri.co.jp/world/20220325-OYT1T50170/
↓↓↓↓↓
【ソウル=上杉洋司】北朝鮮国営の朝鮮中央通信は25日、金正恩朝鮮労働党総書記の命令に基づき、北朝鮮が24日に新型の大陸間弾道ミサイル(ICBM)「火星砲17」を試射したと伝えた。正恩氏が現地で試射の全課程を指導した。北朝鮮が24日に発射し、日本の排他的経済水域(EEZ)内の日本海に落下したミサイルを指すとみられる。
↑↑↑↑↑
 北朝鮮のやっていることは、金のことばにしたがえば「試射」であり、「実戦」ではない。「試射」で誰かが犠牲になれば(外国人が死んでしまえば)、それは大問題になる。だから、「試射」の前には「試射する」と「予告」するだろう。
 予告したのに、事故を回避しなかったとしたら、その責任の一端は回避しなかった方にある、と言い逃れができる。
 大きな犠牲が出るかもしれないときは、責任者は、それくらいのことはするだろう。

 ここからも、安倍は、北朝鮮の「予告」を自分の保身のために利用したいたことがわかるのだが(推測できるのだが)、「情報」がここまで操作されたものであるなら、私たちは、ていねいに「情報」を読み解く努力をしないと、完全にだまされていしまう。いま、何が起きているか、さっぱりわからなくなる。

 さっぱりわからなくなる、といいながら、私が読売新聞を「愛読」しているのは、今回の「予告はなかった」のような、おもわぬ「作文」が読売新聞には満載されているからだ。「私は、政府筋からこんな情報をつかんだ」と「リークされた情報」を得意になって書いているからである。政府のなかで何が起きているか、政府が何をしようとしているか、それを推測するのに、とても役立つからである。
 私の推測は「妄想」かもしれないが、私は私の「ことばの論理/自律性」を頼りに、考える。

 

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「ことば」は、どこへ行ってしまったのか。

2022-03-24 10:25:59 |  自民党改憲草案再読

 読売新聞2022年03月24日の朝刊(14版・西部版)1面に、国際部長・五十嵐文の「持久戦の覚悟がいる」という論文(?)が載っていロシアのウクライナ侵攻1か月、ゼレンスキーの国会演説を踏まえての文章である。
 そこに、こういう数行がある。
↓↓↓↓↓
 持久戦の覚悟がいる。日米欧はエネルギー調達難などの返り血を浴びても、対露圧力を維持できるか。アジアでは、台湾を武力統一する構えの中国を思いとどまらせることができるかどうかにつながる問題だ。
↑↑↑↑↑
 私は、こういうときだからこそ、ことばは慎重につかうべきだと思う。
 五十嵐は「返り血を浴びる」ということばをつかっている。「返り血を浴びる」には、①直接的な意味と、②比喩的な意味とがあると思う。
 ①は敵を切る。そのとき血が流れる。それが自分のからだを汚す。
 ②は、何かをすることで、それが痛みをともなう。たとえば、ロシアに日米欧が経済制裁をする。すると、ロシアが原油、天然ガスなどの供給をとめる。その結果、燃料を輸入に頼っている日本は打撃を受ける。
 今回の意味は、②である。
 問題は、実際に戦争が起きている、人の血が流れているときに、②の意味で、比喩的にことばをつかうことの「意義」である。「困難が生じる」ということの「強調」ではなく、もっとなまなましい感じがする。
 どこかで、日本(日本人)も、どこかで実際に「血を流す」必要がある、日本も「戦場」なのだ、という印象を引き起こす。たしかに「経済戦争」という側面はあるが、どうしたって、そういう「目に見えない血」ではなく、人間が実際に流す血を連想させる。
 その結果として、私は、「これではまるで戦争をあおっているようだなあ」と感じる。不必要に「血」ということば、「死」を連想させることばは、こういうときには避けないといけない。感情が先走りしてしまう。少なくとも、言論に携わる人間が、こんな煽情的なことばを安易につかってはいけない。
 で、思うのは。
 私は「安易につかってはいけない」と書いたが、五十嵐は「安易につかっている」のではないかもしれない。意図的に、戦争へ向けて、読者の感情に訴えかけようとしているのだ。
 それは、それにつづく台湾問題についての文章を読めば明らかだ。
 「台湾を武力統一する構えの中国」と書いているが、その根拠は何か。中国が「台湾を武力統一する」という方針を掲げているのか。軍備を増強している、台湾の近くで中国軍が活動している、ということなら、アメリカも日本も同じだろう。どこまでを「台湾の近く」と定義するかはむずかしいが、アメリカ海軍が太平洋の西の端までやって来ているのだから、中国海軍が東シナ海へ進出したとしても、批判されることではないだろう。何もアメリカの西海岸まで中国海軍が出かけていくわけではない。グアムやハワイ近海で活動しているわけではない。
 中国から見れば、アメリカは台湾を利用して、中国大陸に軍事的圧力をかけようとしている、と見えるかもしれない。
 「軍事的な境界線」というのは、とてもあいまいである。それまで活動していなかったところで軍備を展開すれば、それが他方にとって脅威であるというのであれば、つまり、中国海軍が東シナ海(太平洋)に進出してくることがアメリカにとって(あるいは日本にとって)脅威であるというのであれば、NATOの東方拡大はロシアにとって脅威だろう。
 ロシアが脅威だからNATOは東方拡大の必要があるというのなら、中国はアメリカ海軍が脅威だから(台湾を占領するのではないか、台湾にアメリカ軍の基地を造るではないか)、対抗措置として太平洋に進出していると言うだろう。
 五十嵐は、アメリカの政策にそのまま同調しているから、ここでも「台湾を武力統一する構えの中国を思いとどまらせることができるか」と書いているのだが、ロシア・ウクライナ問題が緊急事態なのに、いま、ここで、わざわざ台湾問題を持ち出してくるのは、ウクライナ問題を台湾問題に利用しようとしているからではないのか。
 問題は、ロシアではない。ロシアについては、もう経済制裁で追い込んだ。問題は中国なのだ、ということだろう。
 連動して、「ウクライナ支援/大統領演説にどう答えるか」という社説では、こう書いている。(筆者は明記されていない。)
↓↓↓↓↓
 中国は、東・南シナ海で軍事的な行動を活発化させている。日本は各国と連携し、力による一方的な現状変更は決して認めないという国際ルールを踏まえた立場を明確にしていくことが重要だ。
↑↑↑↑↑
 いま、いちばん考えなければならない問題は、ロシア・ウクライナ問題である。それに専念にしてことばを動かすべきなのに、ここでも中国を引っ張りだしてきている。
 だいたい「力による一方的な現状変更は決して認めないという国際ルール」と書いているが、その「現状」はどうやってつくられたものなのか。アメリカの軍事力が一方的につくりだした「現状」をそのまま固定するということではないか。
 沖縄のアメリカ軍基地、北方四島のロシアの占有。その「現状」もまたアメリカやソ連が結託してつくった「ルール(戦略図)」であるだろう。その「現状」を改善するために武力をつかってはいけないというのは、それはそれで「正論」だが、それが「正論」であるためには、「現状」が果たして「正しい」ものなのかを検討していく「場」が必要だ。「ことば」による「場」を確立することが大切だ。
 こういうときに「返り血を浴びてでも、持久戦を戦い抜く覚悟がいる」というような、「いさましいことば」で「見得を切る」のは、どうしたっておかしい。
 ロシアに冷静になれ、とほんとうに説得する気持ちがあるなら、まず、ロシアに言及することばは冷静でなければならない。五十嵐の論文は、ロシアに直接語りかけることばではないから冷静である必要はないというのかもしれないが、そういう姿勢がおかしい。読者にも、「読売新聞は冷静に思考している」とつたえないといけない。逆のことをしている。ウクライナの次は台湾だ、台湾の次は日本が戦争で支配されるとあおっている。
 いま、いちばん避けなければならないのは、こういう「戦線拡大」である。「戦線拡大」をあおることばは避けなければならない。「返り血を浴びる」には、「①は敵を切る。そのとき血が流れる。それが自分のからだを汚す。」があることを思い起こそう。五十嵐は、間接的に、台湾有事のときは、日本は中国人と戦い、返り血を浴びる(中国人を殺す)ことが重要だ、その準備をしようと言っているのだ。私の「読み方」が「誤読」なら「誤読」でかまわないが、そういう「誤読」をされないようにことばを選んで書く、ということが、いまジャーナリズムに求められている。

 

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電力需要逼迫?

2022-03-23 10:14:42 |  自民党改憲草案再読

 読売新聞2022年03月23日の朝刊(14版・西部版)に、関東、東北で電力需要が逼迫している、というニュース。「電力逼迫 停電は回避/東電管内 使用率一時100%超/きょうも節電要請」という見出し。
 でも、なぜ?
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 今回の需給逼迫は、16日に福島県沖で起きた地震により、一部の火力発電所が停止したことが大きい。22日の気温低下で暖房などの電力需要が膨らみ、対応できなくなった。
↑↑↑↑↑
 これだけでは、理由がわかりにくい。2面に解説が載っている。東電の説明によると、
↓↓↓↓↓
 16日の福島沖地震では、計13基の火力が停止した。その後は7基が再稼働したものの、6基は動かないままだ。設備の被害が主因とされる。(略)現状で失われている供給力は計約450万キロ・ワットと、東京電力と東北電力管内の需要の1割弱を占める。
↑↑↑↑↑
 かなりわかりにくい。火力発電所が6基稼働していない。そのために450万キロ・ワットの電力不足が起きる可能性があった。6基で発電している量は、450万キロ・ワットで、それは全体の使用料の1割。
 では、全体は?
↓↓↓↓↓
東電は先週時点で、22日の最大需要を4100万キロ・ワットと見込んだ。(略)それが、前日までの天気予報で東京都を中心に想定以上の寒さになることが判明。東京電力管内の需要は4500万キロ・ワットにまで膨れあがった。
↑↑↑↑↑ 
 4500万キロ・ワットの電力需要が見込まれるのに4100万キロ・ワットの供給力しかない。不足の400万キロ・ワットは、稼働していない火力発電所(6基)が担っていたことになる。しかし、記事の最初の方には6基で450万キロ・ワットと書いてある。50万キロ・ワットは、何処へ消えた? 稼働していたら50万キロ・ワットの余裕があったはずだと言うこと?
 どうも、書いている「事実」に疑わしいところがある。不足すると書かれている450万キロ・ワットは、予想される需要4500万キロ・ワットの1割であって、実際の発電量ではないのかもしれない。
 では、実際の6基の発電総量は? わからない。何かが隠されている。
 4100万キロ・ワット+400万キロ・ワット=4500万キロ・ワット。これではぎりぎりだね。それで50万キロ・ワットの上乗せ(余裕)が必要ということで、最初の「450万キロ・ワット」という数字が導き出されているのかなあ。しかし、その不足分はどうした?
↓↓↓↓↓
22日に西から東へ実質的に融通できたのは約60万キロ・ワットにすぎず、不足分の解消には至らなかった。
↑↑↑↑↑
 じゃあ、実際、どれだけ足りない?
4500万キロ・ワット-(4100万キロ・ワット+60万キロ・ワット)=340万キロ・ワット
 でも、「節電」のおかげで、停電にまではいたらなかった。
 なんともわかりにくい。

 私なりに整理しなおすと、22日の電力総需要量は4500万キロ・ワット。しかし、東電には4100万キロ・ワットの発電能力しかない。他の電力会社から融通してもらえるのは60万キロ・ワット。340万キロ・ワット足りない。節電してもらうしかない。そして節電してもらって「停電」を回避できたということになるが。
 途中に出てきた「450万キロ・ワット」「400万キロ・ワット」と火力発電6基との関係が、どうもおかしい。数学的、というより、算数的に、説明になっていない。私の足し算、引き算能力では、数字の「意味」がわからない。だいたい、「16日の福島沖地震では、計13基の火力が停止した。その後は7基が再稼働したものの、6基は動かないままだ」という記事からは、東電の火力発電所の「総基数」がわからない。まさか7基で4100万キロ・ワットを発電しているわけではないだろう。さらに何基あるかわからないが、そのすべてが100%の出力(?)で発電しているわけでもないだろう。残りのすべてが100%稼働しても、なおかつ400万キロ・ワット不足するのか。
 隠されている数字が多すぎて、「事実」がわからない。
 でも、その「わかりにくい事実」のあとに、とても「わかりやすい」文章がある。その「わかりやすい」文章を導き出すために、ややこしい文章(事実関係が不明な、数字の羅列)があったのだ。
 この読売新聞の記事は、何が書きたかったの。
↓↓↓↓↓
 原子力発電の再稼働を先送りしてきたツケも大きい。国内で稼働する原発は現在、西日本に集中している。東日本大震災の影響を大きく受けた東京電力や東北電力は再稼働しておらず、主要な電源を火力に頼っている。災害が需給の逼迫をもたらしやすい構造にある。
↑↑↑↑↑ 
 原発の再稼働が必要だ、というための「論拠」として書かれた記事なのだ。「作文」なのだ。
 その証拠に、23日の社説「電力逼迫警報/供給体制の強化が不十分だ」の最後には、こう書いてある。
↓↓↓↓↓
 供給増には、出力が安定した原子力発電所の活用が有効だ。政府は安全性が確認できた原発の再稼働を後押ししてもらいたい。
↑↑↑↑↑ 
 私には、これは、どうみたって原発にこだわる自民党の政策の後押しにしか見えない。「電力需要逼迫」は事実なのか。原発再稼働を誘導するための「演出」ではないか、とさえ妄想するのである。
 なぜ、そんな妄想をするか。
 安倍は、ロシア・ウクライナ問題に関連して「核共有構想/核シェア構想」を持ち出した。それは単にアメリカの核を借りるということで終わるのではなく、きっと自前の核にもつながる。日本でつくって、アメリカに提供する、ということも含まれるかもしれない。核兵器をつくるには、原料確保のために原発が必要なのだ。
 プーチンは「核使用」をちらつかせたが、安倍あたりは、それに対して恐怖心をもつというよりも、「対抗手段として日本も核を持つべきだ」という主張を展開できるチャンスと受け止めて、はしゃいでいないか。そのはしゃぎに便乗し、原発の必要性を訴えるために「電力需要逼迫」を騒いでいるのではないのか。

 そういうことと、関係がないようで、関係が深そうなのが、経済面に載っている「円安」の記事。6年ぶりに120円台。
 輸入に頼る日本は、これから「物価高」に苦しむことになる。輸出産業は、円安で輸入が拡大するだろうが(トヨタはそれを見越して春闘の賃上げに応じたのかもしれない)、庶民は値上げラッシュに苦しむ。電気代、ガス代も、原料が輸入頼みだから、どんどん上がる。これも「原発再稼働」に利用されるだろう。
 ロシア・ウクライナ問題も、大地震も、自民党と大企業は、「自己利益」のために利用しようとしているようにしか見えない。

 だいたいねえ。
 11年前の東日本大震災で、いったん地震が起きればどういうことになるのか、電力会社は想定できたはず。原発に頼らない発電体制を確立しないことには、電力不足になるのはわかっていたはず。その対策を、まさか「火力発電」だけでまかなえると考えるはずがないだろう。地震のときは火力発電だって被害を受けるのだから。
 11年間、何もせず、原発再稼働を頼みに経営してきた。いま、再び、原発をアピールする好機だ、と思っているのだろう。原発が稼働中だったらどうなったか、などと考えないのだろう。
 ウクライナ問題では、ロシアが原発を攻撃したと騒いでいるが、日本が原発を攻撃されたらどうなるかは考えないのだろう。原発を動かして金儲けができればいい。原発を稼働させて核の原料を確保すれば、自民党が会社を支えてくれる、としか考えないのだろう。
 私は「懐疑派」というよりも「邪推派/妄想派」の人間だから、どうしてもそんなことを考える。

 

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細田傳造『まーめんじ』(4)

2022-03-22 20:46:45 | 詩集

細田傳造『まーめんじ』(4)(栗売社、2022年03月03日発行)

 03月21日の朝日カルチャー講座の最後に、細田傳造『まーめんじ』の「不幸」を紹介した。時間をかけて読みたかったが、時間が少なく、コピーを配って、少し感想を聞いた。何歳くらいの人が書いたと思う? 「70代後半、もしかすると80歳すぎかも」とひとりが答えた。これは、私には、衝撃的だった。その「推論の根拠」までは聞けなかった。もうひとりが「目がよく見えるということが、どうして不幸なのか、わからない。つかまるかもしれない、が出てくるが、これがわからない」と言ったからだ。
 「鼻がよすぎるが不幸、というのはわかる?」
 「それは、わかる」
 さて、どうしたものか。
 「不幸」は長い詩である。全行を引用する。

不幸だなあ
このとしで
目がよう見えるということは
二百メートル先の堤防の上を
こっちへ歩いてくる娘っこの
唇の薄すぎるのが見える
二百メートル先の堤防の下の
荒れ草の中に
一枚の花畑が見える
白い花が枯れかかっている
花畑の中に
アジアの大陸が見える
白い花の未熟な果実に
薄い切り傷がある
このとしで
目がよく見えるということは
とても不幸だ
つかまるかもしれない
おまけに
鼻がよすぎるということは
ほとんどアウトだ
市ヶ谷にいる孫の顔を見にいけない
五月の空襲で
河田窪の牛小屋で
牛のきんたま丸焼けで
臭くって臭くって
堪らなかった
アメリカ火炎の残臭を
このとしまで
覚えているのは
とても不幸だ
ガスマスクをして
河田の
交番の前を通ったら
つかまるねぜったいに
不幸だなあ

 「鼻がよすぎるのが不幸というのがわかるという理由は?」
 「それが記憶だから。このとしまで/覚えているのは/とても不幸だ、から記憶だとわかる」
 「そうだったら、目が見えすぎて不幸、というのも記憶ではないだろうか」

 これからあとは、私が大急ぎで追加したこと。時間がなくて、質疑応答という形で、受講生のことばを引き出すことができなかった。
 私が講座でしたいことは、私の「解釈」を語るのではなく、受講生の中からことばが生まれてくるのを手伝うことなので、私の「解釈/誤読」を語るつもりはなかったが、時間に追われて、手抜きをしてしまった。その手抜きの過程でも、さらに手抜きをしたので、補足の形で書いておく。
 五月の空襲(東京大空襲)で焼けた牛小屋、牛の匂いが強烈に記憶に残っている、忘れられない。鼻の記憶を「鼻がよすぎる」というのなら、「目がよすぎる」は目の記憶が消えない、ということにはならないだろうか。目に焼きついて離れない、ということばがあるが、それに似たことを細田は「目がよすぎる」と言っているのではないだろうか。
 そこから類推すると、「娘っこの/唇が薄すぎるのが見える」は、娘っこの薄い唇が忘れられない、ということにならないだろうか。そして、牛小屋の火事と組み合わせて考えると、その娘は細田にとっては大事な存在、愛情の対象だったのではないだろうか。さらに、「薄い唇」はその娘の魅力的な部分だったのか、あるいはもしその唇がもっと厚かったらさらに魅力的だったのにという残念な気持ちがあったのかも、と私は考えたりする。「牛のきんたま」と細田はわざわざ書いている。「薄い唇」は娘の「牛のきんたま」のようなものだったかもしれない。人は、かならずしも「美しいもの」だけを記憶するわけではないからね。「荒れ草の中に/一枚の花畑が見える」のは、細田はその娘と、「花畑」でセックスをしたのかもしれない。「アジアの大陸が見える」は娘が「アジアの大陸の出身者」だったからかもしれない。
 細田には、忘れられない「記憶」があるのだ。そして、その「記憶」のなかには「つかまるかもしれない」という恐怖も含まれる。「日本人ではない(アジアの大陸の出身者である)」というだけの理由で「つかまった人」がいる。その人たちに、細田はつながっているのかもしれない。
 でも、なぜ、つかまったのだろうか。どんな悪事をしたのだろうか。
 もし、それが「悪事」というのなら、それは「ガスマスクをして街を歩くこと」(不安を全身であらわして街を歩くこと)かもしれない。人の不安は、他人の不安をあおる。不安を語る、ということも「つかまる」理由だったかもしれない。
 不安を抱えて歩いている、他の人とは違う感情を隠して歩いている、というだけで人が「つかまった」時代があったのだ。
 牛が焼ける激しい悪臭が忘れられない、娘の薄い唇が忘れられないように、「つかまるかもしれない」という思った不安も、細田には忘れられない記憶なのだ。

 わからないことばにであったとき、わかることばを頼りに、わからないことばに近づいていってみることが大切なのだと思う。
 詩を読むことは、詩に読まれることなのだ。この詩のことばから、私のことばを見つめなおせば、そこにはどんな私が存在するのか。詩にみつめられ、私は私のことばをどこまで組み立てなおすことができるのか。
 「アジアの大陸」を、「アジアの大陸の人」を、私は、どう見ていたか。その「記憶」を、見つめなおしてみなければならない。

 

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Estoy loco por espana(番外篇153)Obra Joaquín Llorens

2022-03-21 09:28:10 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Lloréns Técnica. Hierro 89x30x22 S. 3.

Cuando vi esta foto me sorprendió.
Las tres esculturas están dispuestas de manera que están unidas entre sí. Como si fueran una sola obra de arte.
Ya los he visto uno por uno. Me recordó a un pacificador o a un caballero. La situación en Ucrania me hizo pensar así.
Cuando las tres piezas se juntaron, me parecían siluetas de una ciudad futurista tranquila y abstracta.
Si me extiendo en la asociación de caballeros, podría ser filas organizadas o una ciudad amurallada, pero hay una quietud, como si sólo se oyera el silencio.
Hay una sensación de urgencia. Hay un aire de urgencia. Hay una fuerte sensación de intención.
Por el momento, mis palabras no se mueven más.
Por otro lado, también pienso esto.
No se puedo entender ninguna obra de arte si no las veo realmente.
Dará una impresión diferente según el lugar donde se instale (el espacio en el que se exponga), el ángulo desde el que se mire, la luz de ese día y el sonido del entorno.
Al mismo tiempo, debe haber algo que aparezca más allá de las diferencias.
Sólo puede entenderlo si está allí en ese momento y lugar.
Por eso quiero ir pronto a España para ver las obras de Joaquin.

この写真を見たとき、私はびっくりしてしまった。
三つの彫刻がくっつくように並べられている。あたかもひとつの作品のように。
私はすでに一体ずつの作品を見ている。平和を守る見張り人、あるいは騎士を連想した。ウクライナの状況がそう思わせたのだ。
三つがあつまると静かな、抽象的な未来都市のシルエットに見えた。
騎士の連想を拡大していけば、組織化された隊列、あるいは城壁都市ということになるかもしれないが、沈黙しか聞こえてこないような静けさがある。
緊迫感がある。緊迫した空気がある。強い意思を感じる。
いまは、それ以上ことばが動かない。
一方、こういうことも思う。
どんな作品もやはり現実に見てみないとわからない。
設置さている場所(展示されている空間)、見る角度、その日の光、周囲の音によっても違った印象になる。
そして、その場、その時によって違うと同時に、違いをこえてあらわれるものがあるはずだ。
それは、その場、その時にいないとわからない。
だから、はやくスペインへ行って、作品を見たいと思う。

 

 

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