鈴木一人「「正義」と「利益」の間 問われる選択」(読売新聞、2022年03月31日朝刊・14版・西部版)
ロシア・ウクライナ問題に関連して、東大教授・国際政治学が「「正義」と「利益」の間 問われる選択」という文章を読売新聞、2022年03月31日朝刊・14版・西部版に書いている。
学者の文章なので、あたりまえだが破綻がない。論理が完結している。こういう文章を読むと、反論のしようがない。反論したところで、それはすでに鈴木のなかでは折り込み済みのことなので、即座に論破することばを展開するだろう。そういうことが「見えてしまう」文章で、つまらない。
このことは後で再び書く。
鈴木が文章が、文章のなかで完結し、どこにも「間違いがない」ということを承知した上で、しかし、私はあえて書いておきたい。「間違える権利」をもったふつうの市民(学問からはほど遠い人間)として、疑問を書いておく。
鈴木はロシアに対する「経済制裁」について、ふたつの誤解がある、と指摘する。
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第一の誤解は、この制裁の目的に関するものである。制裁の目的はロシアの攻撃を止めることでも、プーチン政権を倒すことでもない。その目的は戦争のコストを上げることである。経済制裁により外貨の獲得や半導体の調達が難しくなることで、戦争を続けることを難しくさせることが目的である。
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これは、とても論理的だ。鈴木の「誤解」という指摘に、そうか、誤解だったのか、と気づく。
でもね、私はばかだから、「私が誤解していたのか」で終わらない。
鈴木は、ここで「戦争のコスト」ということばをつかっている。つまり、戦争には金がかかる。軍備に「外貨」や「半導体」がどれだけ重要なものなのか、鈴木は書いていないので追及のしようがないが。
私が「戦争のコスト」で最初に思い浮かべるのは、武器の材料、軍備を動かす燃料である。鉄などの原料がロシアにどれだけあるか知らないが、石油などの燃料はかなりある。輸出しているくらいだからである。たぶん、燃料には困らない。
一方、戦争というのはロシアだけが武器を消費する、燃料を消費するわけではない。相手国も消費する。ウクライナは、どれだけ武器を自前で調達できるのか。NATO加盟国から武器の支援がつづいているようだが、それはいつまでつづけられるのか。
この問題は、どうやって武器を調達するかという問題につながる。戦争は武器を消費し続ける。つまり、武器を増産し続けなければならない。そのとき、その武器の増産で「儲ける人間」がどこかにいるはずだ。
鈴木は、この「利害関係(経済関係)」を省略して「論理」を「完結」させている。「論理」を「閉じている」。
これは逆の見方をすれば、鈴木は「武器商人」を支援する論理を展開しているということである。「武器商人」、武器を売ることで利益を上げているひとのことを見ずに、ロシアがどこまで戦争を遂行できるか。経済破綻で、遂行できなくなるだろう。そういう方向へ追い込むために、「経済制裁」は有効である、と言っているのである。「経済」であるかぎりは、利潤についてふれないかぎり経済を語ったことにはならないと思う。
鈴木の「論理」は「ずるい論理」である。
鈴木が指摘する第二の「誤解」。
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第二の誤解はSWIFT制裁に関するものである。SWIFTからロシアを切り離すことは「金融版核兵器」などと呼ばれるが、それは適切ではない。SWIFTは送金情報を電子化して通信する仕組みであり、SWIFTから切り離されてもファックスなどの手段で送金はできる。送金の手間は増えるという問題はあるが、送金はできる。むしろ、送金を止める効果があるのは米国による金融制裁であり、制裁対象となった銀行ではドルの取引が出来なくなる。
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こういうことは、まったく想像もできないことなので、そうなのだろうと思って読んだ。
私が気になったのは、最後の「結論(?)」部分。
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制裁によって撤退を余儀なくされた日本企業も、そのビジネスを失い、利益を得られなくなる。しかし、自国企業の損害のために制裁しないという選択をすれば、それだけ戦争が長引くことになる。経済的利益と政治的正義の中で何を選択するかが問われている。
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ここで初めて「利益」ということばが出てきた。最後まで鈴木は「利益」ということばを隠して文章を書いていたのだが、どうしてもつかわざるを得なくなった。「政治的正義」のように「経済的正義」ということばをつかえればいいのだが、それができない。
だから、ここから逆に、「経済的正義」とは何か、という視点から、今回の問題を探っていけば違うものが見える。鈴木が必死になって隠しているものが見える、ということである。
鈴木が懸命に隠している「経済的正義」が、いまの世界を考えるときの、重要なキーワードなのだ。
「利益」に関して言えば、最初に書いたように、武器商人(軍需産業)は戦争がある限り「利益」を上げ続けることができる。そして、その戦争を有利に進めるために「経済制裁」という名の「経済戦争」が続くとき、軍需産業以外の企業は「利益(経済利益)」が制限される。これは、ロシアも他の国も同じ。そして、この企業の経済的利益が損なわれるとき、それは市民の利益が損なわれることでもある。物価が高くなる。いままで買っていたものが買えない。いままでとは違う生活をしなければならない。「経済的正義」は、どこへいった? 「経済的正義」は、どこにある?
軍需産業はもうかる。利益がある。それ以外の企業、ふつうの市民は経済的に苦しむ。これが「経済的正義」と言えるか。軍需産業の利益のために、市民は経済的に苦しまなければならないのか。軍需産業は、利益を確保するために、世界で戦争を仕組んでいるのではないのか。
さらに飛躍して、こう考えることができる。
いま世界中で貧富の格差が拡大している。巨額を抱えた富裕層がいる一方、毎日の食事にも困るという貧困層がいる。こういう状況は「経済的正義」といえるのか。「資本主義の正義」とは、こういうことなのか。
「経済的正義」を求めてというか、「経済的不正義」に対する抗議として、世界でいろいろな問題が起きている。アメリカへのテロ攻撃も「政治的正義」の問題であると同時に「経済的正義」の問題でもあるだろう。アメリカは世界の貧富の格差是正にも目を向けろ、アメリカの利益だけを優先するな。
私の書いていることは「間違っている」。だいたい「経済的正義」ということばなんか、ない、とひとは言うかもしれない。
私は「学者」ではないので、そういうことは気にしない。私は私の知っていることばで、私の感じていることを書く。それが「学会(?)」で通用しないことばだとしても、そんなことは私の問題ではない。「学者」ではないのだから。
それに。
「間違い」について言えば、民主主義とは「間違い」(自分とは違う意見)の存在を受け入れることだから、「間違い」を受け入れられない社会にこそ問題があるということになるだろう。
こういう例が適切かどうかわからないが。
たとえば同性愛はかつては、道徳問題としてだけではなく、法律で禁止されていた国もある。「同性愛禁止=正義」だった時代がある。いまでも、そう考えている人間もいる。でも、少しずつ、世界は寛容になってきている。かつては「間違い」だったものを「間違い」とは呼ばなくなってきている。
「同性愛禁止=正義」を「戦争」と結びつけて考えると、とても興味深いことがわかる。軍隊に同性愛者がいたら、風紀が乱れる。軍隊の統制がきかなくなる、という意見があるかもしれない。でもね。軍隊が必要ない、戦争なんかない世界があるなら、その軍隊のない世界の方が「正義」であり、軍隊に頼って世界を支配するのは「間違い」。軍隊の統制を乱し、戦争の遂行を不可能にする「同性愛ことが正義」ということになるだろう。「同性愛」から「同性」ということばを省いて「愛こそが正義」ということになるだろう。
私は鈴木の学生(鈴木に教えてもらっているわけではない)ので、鈴木からどんな「採点」をされようと、ぜんぜん気にならない。ほかの「学者」から、何を言われても気にならない。
「完結した論理」をつついて、ここが私の知っている日常の考え方では理解できない、ほころびをつくってみせる、というのが私のことばの動かし方だ。