野村喜和夫『閏秒のなかで、ふたりで』(ふらんす堂、2017年06月26日発行)
野村喜和夫『閏秒のなかで、ふたりで』の「閏秒」は「閨房」に似ている。「閨房」を暗示しているのだろう。「閨房」なんて、もうだれもつかわないことばだけれど。そして、このもうだれもつかわないことばというのが、たぶん、ミソだな。
詩集の帯に「エロい詩集」と書いてあるのだが、この「エロい」というのも、もうだれもつかわない。とまでは言えないけれど、古くさいね。口に出すのに、ちょっとためらう。言うと年がばれそう。ばれそうも何も、年なんて知られてしまっているのだけれど、ちょっと「ミエ」が、そのことばをためらわせる。
で。
こういうこと。
だれもが知っている。誰もが言ったことがある。けれど、いま、それをことばにして言うのにはちょっとためらいがある。こんなことを言うと古い人間と思われそう。でも、肉体はそういう古いことばと通い合い、妙にくすぐったい。何かを思い出させてくれる。あ、知っている、という感じで伝わってくる。
もっとも「閨房」なんて、たぶん野村も自分で言うというよりも、聞いて覚えたことばだと思うけれど。つまり「耳年増」のことばに属すると思うけれど。
そして、そのことが、とても重要。
セックスというのは実際の体験以上に、「耳」で聞いて妄想を膨らませ、その妄想へ向かって突き進んでいくという一面がある。
何にも聞かずに、ただ本能でセックスしてしまえば、きっと「交尾」になってしまう。動物になってしまう。ことばがあって、そのことばが「交尾」を「セックス」にかえるのだ。
「閨房」だとか「エロい」ということばが、肉体のなかに「性器」以外のセックスのを生み出すのだと思う。自分が知っているだけではなく、人間のいのちが知っているものが、そこに混じり混んでくる。みんなが知っていることと、自分だけが知らなかったこと(未経験のこと)が、ことばのなかで交錯し、ことばと体験の両方をたがやしながら、それが「セックス」そのものになる。
注釈なしでも、これは妊婦とのセックスを書いていることがわかる。
なぜって、そこには「聞いた」ことばしか書かれていないからである。知っている「事実」しか書かれていないからである。
「ペニス」という直接的なことば、「マイク」というありふれた比喩。そこから「声を集める」というありふれた動詞。
さらに「親殺し」というギリシャ悲劇からつづく絶対的な憧れ。
さて。
こういう「わかりきった」ことが書かれている詩集からは何を読み取ればいいのだろう。もし、この詩集を「おもしろい」と呼ぶなら、何を根拠に「おもしろい」と言えばいいのだろう。
内容なんかではないね。
前半にもどって読み直してみる。
「夏あみ、だぶつ」が「なみあみだぶつ」に聞こえる。その前の「何もすることがなく、」の「な」の繰り返しが「夏」を呼び出し、それがつづいて「なみあみだぶつ」を呼び出す。
ここには「事実」ではなく「語り口」だけがある。
「なみあみだぶつ」はともかく「なつあみだぶつ」なんていうのは、ことばとしてすら存在しないからね。
と、書きながら、あ、「ここだね」と私は思う。詩の「ポイント」はここにある。「ペニス」を「マイク」と呼ぶのは、もうすでにありきたり、既成の「比喩」。比喩ですらなくなっている。
「なみあむだぶつ」というのもすでに存在することば。しかし、そこに「夏」をくっつけて「夏あみだぶつ」と言った人はいない。(たぶん。)つまり、そこには、まだ書かれていなこと、ことばになっていないことばがある。詩がある。
こういうことを「書かれていないことば」というふうに言ってしまうと「おおげさ」すぎるかもしれないけれど。
でも、たぶん、ここに野村のことばを「詩」として存在させる力がある。
「夏みあだぶつ」を「なみあみだぶつ」と感じさせるのはなぜか。
ことばにリズムがあるからだ。
リズムというのは、別なことばで言いなおすと「語り口」。
「語り口」が野村のことばを「詩」にしている。
これは、まあ、漫才や落語のようなもの。
「ストーリー」は知っている。何度も聞いている。けれど、その何度も聞いているものを人はさらに何度も聞く。それは「意味」を知りたいからではない。「語り口」を聞きたいからである。だれそれの「語り口」がいい、と「ストーリー」とは違うもので、ことばのあり方を評価するときもある。
「意味」がもしあるとすれば「ストーリー」にではなく、「語り口」にこそ「意味」がある。同じように「詩」があるとすれば、「ストーリー」にではなく、その「語り口」に詩があるということ。
野村の語り口は「なめらか」なのだ。そして「軽い」。
つまずかない。
これが、快感。
と言った先から、ちょっと違うことを言うと。
この作品では、読点「、」が散りばめられている。「呼吸」の「息継ぎ」のようなものが、「文章」を寸断するようにしてさしはさまれている。それは「なめらか」ではないのだが、この作品の場合「なめらかではない」という逆の「なめらかな」リズムになっている。
ちょっとおもしろい。
「つまずき」もそれを繰り返せば、新しいリズムになる。
「なのりそ川」というのは「な……そ」という「古文」の「禁止」の構文だと思うのだが、そういうような、あるのかないのかわからない、けれどどこかで聞いた感じのことばを「読点」のようにつかってリズムをつくりだす詩(それを語り口にする詩)もある。
野村は、もう職人というか、詩の芸人になっている。それが嫌いという人もいるかもしれないが、私は、その軽さが持つ強さ、軽さだけが持つ強さが好きである。
野村喜和夫『閏秒のなかで、ふたりで』の「閏秒」は「閨房」に似ている。「閨房」を暗示しているのだろう。「閨房」なんて、もうだれもつかわないことばだけれど。そして、このもうだれもつかわないことばというのが、たぶん、ミソだな。
詩集の帯に「エロい詩集」と書いてあるのだが、この「エロい」というのも、もうだれもつかわない。とまでは言えないけれど、古くさいね。口に出すのに、ちょっとためらう。言うと年がばれそう。ばれそうも何も、年なんて知られてしまっているのだけれど、ちょっと「ミエ」が、そのことばをためらわせる。
で。
こういうこと。
だれもが知っている。誰もが言ったことがある。けれど、いま、それをことばにして言うのにはちょっとためらいがある。こんなことを言うと古い人間と思われそう。でも、肉体はそういう古いことばと通い合い、妙にくすぐったい。何かを思い出させてくれる。あ、知っている、という感じで伝わってくる。
もっとも「閨房」なんて、たぶん野村も自分で言うというよりも、聞いて覚えたことばだと思うけれど。つまり「耳年増」のことばに属すると思うけれど。
そして、そのことが、とても重要。
セックスというのは実際の体験以上に、「耳」で聞いて妄想を膨らませ、その妄想へ向かって突き進んでいくという一面がある。
何にも聞かずに、ただ本能でセックスしてしまえば、きっと「交尾」になってしまう。動物になってしまう。ことばがあって、そのことばが「交尾」を「セックス」にかえるのだ。
「閨房」だとか「エロい」ということばが、肉体のなかに「性器」以外のセックスのを生み出すのだと思う。自分が知っているだけではなく、人間のいのちが知っているものが、そこに混じり混んでくる。みんなが知っていることと、自分だけが知らなかったこと(未経験のこと)が、ことばのなかで交錯し、ことばと体験の両方をたがやしながら、それが「セックス」そのものになる。
ぼくは、ペニスを入れて、
胎児の、すぐそばに、
マイクみたいに近づけて、近づけて、
そっと、採集、するんだ、
「超人」の、
「星の子供」の、
大きすぎる頭から洩れる、
親殺しのささめきを。 「(ある日、突然)」
注釈なしでも、これは妊婦とのセックスを書いていることがわかる。
なぜって、そこには「聞いた」ことばしか書かれていないからである。知っている「事実」しか書かれていないからである。
「ペニス」という直接的なことば、「マイク」というありふれた比喩。そこから「声を集める」というありふれた動詞。
さらに「親殺し」というギリシャ悲劇からつづく絶対的な憧れ。
さて。
こういう「わかりきった」ことが書かれている詩集からは何を読み取ればいいのだろう。もし、この詩集を「おもしろい」と呼ぶなら、何を根拠に「おもしろい」と言えばいいのだろう。
内容なんかではないね。
前半にもどって読み直してみる。
ある日、突然、
何もすることがなく、
夏あみ、だぶつ、
ああいっそ、
妊婦とセックス、して、
みたい、ぼくは、すてきだろうなあ、
まるく膨らんだ、すいかのような、
おなか、ちたちた、舌で、
登ったり、駆け下りたり、
「夏あみ、だぶつ」が「なみあみだぶつ」に聞こえる。その前の「何もすることがなく、」の「な」の繰り返しが「夏」を呼び出し、それがつづいて「なみあみだぶつ」を呼び出す。
ここには「事実」ではなく「語り口」だけがある。
「なみあみだぶつ」はともかく「なつあみだぶつ」なんていうのは、ことばとしてすら存在しないからね。
と、書きながら、あ、「ここだね」と私は思う。詩の「ポイント」はここにある。「ペニス」を「マイク」と呼ぶのは、もうすでにありきたり、既成の「比喩」。比喩ですらなくなっている。
「なみあむだぶつ」というのもすでに存在することば。しかし、そこに「夏」をくっつけて「夏あみだぶつ」と言った人はいない。(たぶん。)つまり、そこには、まだ書かれていなこと、ことばになっていないことばがある。詩がある。
こういうことを「書かれていないことば」というふうに言ってしまうと「おおげさ」すぎるかもしれないけれど。
でも、たぶん、ここに野村のことばを「詩」として存在させる力がある。
「夏みあだぶつ」を「なみあみだぶつ」と感じさせるのはなぜか。
ことばにリズムがあるからだ。
リズムというのは、別なことばで言いなおすと「語り口」。
「語り口」が野村のことばを「詩」にしている。
これは、まあ、漫才や落語のようなもの。
「ストーリー」は知っている。何度も聞いている。けれど、その何度も聞いているものを人はさらに何度も聞く。それは「意味」を知りたいからではない。「語り口」を聞きたいからである。だれそれの「語り口」がいい、と「ストーリー」とは違うもので、ことばのあり方を評価するときもある。
「意味」がもしあるとすれば「ストーリー」にではなく、「語り口」にこそ「意味」がある。同じように「詩」があるとすれば、「ストーリー」にではなく、その「語り口」に詩があるということ。
野村の語り口は「なめらか」なのだ。そして「軽い」。
つまずかない。
これが、快感。
と言った先から、ちょっと違うことを言うと。
この作品では、読点「、」が散りばめられている。「呼吸」の「息継ぎ」のようなものが、「文章」を寸断するようにしてさしはさまれている。それは「なめらか」ではないのだが、この作品の場合「なめらかではない」という逆の「なめらかな」リズムになっている。
ちょっとおもしろい。
「つまずき」もそれを繰り返せば、新しいリズムになる。
ぼくが上になり きみを組み敷いて
みみと川 なのりそ川 うしろで鳴く蚊の暗さとともに
きみが上になり ぼくに騎馬して
あさむつの橋 あまひこの橋 水の母のまぼろしの傷もあらたに
ぼくが胡座をかき きみを抱っこして
ほこ星 ふさう雲 こぼれてくる光の蝶をかぞへながら 「エクササイズ 2」
「なのりそ川」というのは「な……そ」という「古文」の「禁止」の構文だと思うのだが、そういうような、あるのかないのかわからない、けれどどこかで聞いた感じのことばを「読点」のようにつかってリズムをつくりだす詩(それを語り口にする詩)もある。
野村は、もう職人というか、詩の芸人になっている。それが嫌いという人もいるかもしれないが、私は、その軽さが持つ強さ、軽さだけが持つ強さが好きである。
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