詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『百枕』(31)

2010-08-31 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(31)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「後記」にも3句書かれている。

枕との旅ななそとせ唯朧

枕これ夢の器ぞ花の昼

枕より進まぬ噺暮遅き

 高橋にとって「枕」と「ことば」は同じものかもしれない。「ことば」とともに旅をして70歳になる。「ことば」は、そして「夢の器」でもある。「ことば」なしには「夢」か語れない。
 高橋のことばの特徴はなんだろうか。この句集は、いわば一人連歌であり、連歌をともなった「古典細道」とでもいうべき「紀行文」かもしれない。高橋は古典のさまざまな「ことば」(夢の器)を旅する。そのとき、寄り添うのは「古典」の作者であり、あるいは歴史である。故事である。
 高橋と同伴者は、共生者であり、また共犯者でもある。それも互いを犯すのである。
 助けてもらいながら、助けてくれたひとを犯す。
 高橋は、たとえば「古語」を見つけ出し、いま、新しく句の中に取り込む。そのとき、高橋は「古語」を死からすくい上げ、いのちを吹き込みながら、その古語を高橋の色に染め上げる。高橋の好みのスタイルに仕立て上げる。セックスの相手を自分の好みのスタイルに仕立て上げ、こんな色っぽい人間になった、と自慢するようなものである。
 一方、耕され、犯された「古語」の方も、だまってはいない。したがったふりをして、ひそかに反撃をねらっている。知らないうちに、高橋も、その「古語」に影響され、そのスタイルになっていく。
 いま生きて、ことばを書いているのが高橋なので、高橋が一方的に何かをしているように見えるけれど、きっと高橋の内部で変化が起きているはずである。ことばを書くということは、書いたことばによって、自分の「肉体」が変化してしまうことでもある。自分の「肉体」がどうなってもかまわないと覚悟しないかぎり、ことばは書けない。
 セックスも、極端な例になるかもしれないが、誰かを犯す。それは犯した方の一方的な暴力に見えるが、そういうときでも、そのセックスで犯した方も変わってしまうことがあるのだ。そういうやり方が病みつきになったり、あるいは逆のことに目覚めたり。どんなことでも一方的に何かがおこなわれるということはない。
 ことばの場合、それは、つぎのことばがどうなるかわからないという意味で、もっと「共犯者」の度合いが強いかもしれない。
 高橋がこの句集(紀行文風のの俳文)のあと、どんなことばを動かすことになるのか、高橋も、高橋によって書かれたことばも、わからない。だれも、どうなるかなどわからない。ただ、同じものは書かれない。どうしても次は違ったものを書かざるを得なくなる。そういう変化を人間にもたらすのが、ことばである。

 この高橋の俳文の特徴--それにもどろう。
 ひとつは、すでに書いたが「古典」「古語」(雅語)の発掘にある。もう一つは「造語」にある。
 「古語」を耕しているうちに、「古語」だけでは書き表せないものがでてくる。「古語」を犯すことによって、高橋が逆に犯され、新しい「何か」に目覚めてしまうのだ。いままでなかったものに目覚めてしまうのだ。それは「古語」からの逆襲のようなものである。高橋のことばを「変形」させ、高橋の「肉体」を変形させ、高橋を突き破って「生まれてしまう」のである。
 このエネルギーの噴出、逸脱--それを私は「誤読」と呼ぶのだけれど。
 そういう「造語」(誤読)と「古典(古語)」が共犯して、「文学」を犯す。「文学」に新しいものをねじ込む。それが今回の高橋の俳文というものだと思う。
 これは新しいスタイルの俳文なのだ。

 そして、その紀行俳文の果て、未知の荒野にあらわれる輝き、新しいいのち--それを高橋は「夢」となつかしいことばで呼んでいる。この「夢」を枕にして眠るものは、いつか、かならず、その高橋の「夢」によって己の夢を攪拌されることになる。
 覚悟せよ。



 アマゾン・コムのアフィリエイトシステムでは、高橋睦郎『百枕』は検索できない。
 高橋の「夢」に同行し、それにいつか乗っ取られてもかまわないという覚悟のある人は、書肆山田へ直接注文し講読してみてください。書肆山田は、
 東京都豊島区南池袋2-8-5-301
 電話 03-3988-7467
 在庫の有無は、私は確認していません。




詩人の買物帖
高橋 睦郎
平凡社

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高橋睦郎『百枕』(30)

2010-08-30 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(30)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕の果て--十二月」。

夜よるの枕の果てや虚ナ枕

 高橋の詩(俳句)にかぎらないことだが、知らないことばがたくさん出てきて、私は困ってしまう。
 「虚ナ枕」(むなまくら)。枕というものは、それに乗せる頭があってのもの。夜に夜を重ね、いま、その枕は乗せるべき頭を持たない--つまり、枕の主(?)は死んだということ?
 うーん。発句にはなんだが、似つかわしくないように思えるのだが……。
 あるいは、夜に夜を重ね、ペちゃんこになってしまった、中身がなくなってしまったということか。このとき、枕の中身は「蕎麦殼」なんかじゃなくて、「夢」になるかもしれない。夜に夜を重ね、夜ごと、「夢」を送りつづけてきた枕。もう送り届ける「夢」もなくなった、かな?

枕に謝す三百六十五夜の寝(しん)

 眠りは、単なる眠りではなく、そこには「夢」も入っている。一年三百六十五日、「夢」を届けてくれたことに対する感謝かもしれない。

夜々の寝(い)の一年分や枕垢

一とせの夢の果てとや枕垢

 枕からは「夢」をもらった。人間がお返しできるのは、「垢」。という意味であるかどうかはわからないけれど、この句は、いいなあ。つかいつづけられた枕が人間の垢で光っている。「俗」の強さがある。暮らしの根強さがある。
 華麗な、文学の教養がないとわからない句も、それはそれでかっこいいけれど、文学の知識がなくてもわかる、こういう句が好きだなあ。

 高橋は、最後のエッセイで「よ」という音について書いている。世・齢・代・米、ねして夜。

夜は詩の時間であるから、試作することを詠(よ)むというが、それは夜の中にある魂を呼ばい、呼び寄(よ)せることだろう。夢もその元は夜目(よめ)または夜見(よみ)ではなかろうか。そしてもちろん、原始古代人が永遠の住まいと考えた黄泉(よみ)の国がある。

 夜から、連想として夢へ。その夢から「夜目」「夜見」をへて、「黄泉」へと動いていくことば。こういう運動を私は「誤読」と呼んでいるのだが、そこにはある不思議なエネルギーがある。逸脱していくエネルギーがある。逸脱するエネルギーがないと、「誤読」できない。

 その最後の「夢」。高橋の今回の句集(+エッセイ)は連載形式で書かれたものである。今回が最終回。そこで、高橋は、究極の「夢」を書いている。「夢」を見たまま、永遠に目覚めぬという「夢」を。

われをまつ晦枕年の淵

 そのことについて書かれた文章の一部に、

永劫つづく苦の輪廻の大車輪から弾き出され、全き無となりおおせることこそ、生という迷妄に搦め取られた人間なる者の大理想だろうから。

 「苦の輪廻」「生という迷妄」。それはやはり「誤読」というものだろう。
 そして、それから解放され「全き無」になる。--でも、それは「誤読」ではない、とだれが言えるだろう。また「無」が、形が定まっていないだけの状態、エネルギーがありあふれて形になることができない状態である、と言うこともできるのではないだろうか。 
 死は「誤読」からの解放ではなく、「誤読」のリセットである。それは詩が「誤読」を炸裂させることで「誤読」をリセットするのと、ほぼ同じ意味である。
 たとえば、今回の連載で高橋の句は「おわる」。続きがない。高橋のことばは、おわった瞬間「全き無」の状態にある。けれど、一連のことばを読んできた私にとっては、新しく書かれることのないページの中に、これまで読んできた句のエネルギーが形のないまま(無のまま)うごめいている。
 いま、それに、私は形を与えることができない。いままで私が書いてきたことも「形」にはなっていないのだが、それはしかし、永遠に形がないままであるとは言えない。いつか、きっと、何か--高橋のことばとの連絡もわからないまま、別のことばになってあらわれるはずである。
 そういう体験が読むということだ。
 読み終わって「誤読」をリセットする。高橋の、この句集とは関係ないところで、突然高橋の句とエッセイが、まだ書かれていなかったことばとして噴出してくる。そういうことがきっとある。書かれなかった高橋の句が、どこか別の場で、新しく生まれる。それはいつになるかわからないけれど、そういうことがあるから(そういうことを引き起こすために)、本は読まれるべきなのだと思う。
 --というのは、私の「誤読」に対する永遠の「夢」である。





姉の島―宗像神話による家族史の試み
高橋 睦郎
集英社

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高橋睦郎『百枕』(29)

2010-08-29 12:14:24 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(29)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕狩--十一月」。
 「枕狩」とはなんだろう。私はそのことばをはじめてみた。わからないなりにあれこれ想像してみると、品のない人間なので、どうしても品のないことを考える。どうしても「下ねた」になってしまう。

狩鞍の冬となりけり木根枕

夜興引(よこびき)のよべの枕か五郎太石(ごろたいし)

狩さまざま中に極みは真暗狩

 この三句目、「極みは真暗狩」が、とくに「下ねた」っぽい。「枕」は、ここには出てこないのだが、なぜか真っ暗闇での「夜這い」(あ、前の句にあるのは「夜這い」じゃなくて「夜引く」だね)の醍醐味(?)は相手が違っているかもしれないということ。でも、それが思いもかかずというか、予想を裏切っていい相手ということもあるだろう。
 というようなことを勝手に妄想していたら……。
 冬は獣の肉がうまい上に毛が抜けにくいので、狩りは冬に集中する、と書いたあとで高橋はつづけている。

夜間、猟犬を連れて睡眠中の獣を襲う夜引(よびき)、夜興引(よこびき)が多かった。狩枕といえばその折の仮眠の枕、これは文字通り仮枕に通じる。これを転倒させて枕狩といえば、にわかに艶がかってくる。色ごとにいわゆる百人切・千人切の様相を帯びるからだ。

 あ、「枕狩」も、「狩枕」の積極的「誤読」から派生した、いわゆる造語だね。そして、そういうときの想像力の暴走、逸脱というのは、どうも人間に共通のものを含むようである。
 この不思議な「共有(共通)感覚」があるから、ことばは暴走することを許されるのかもしれない。
 想像力というのは、ものをねじ曲げて、「共有(共通)感覚」を浮かび上がらせるものかもしれない。「誤読」には必ず「共有(共通)感覚」がある--と書いてしまうと、これは私の「我田引水」になるかもしれないけれど。(私はいつでも「誤読」だけが正しい--と自己弁護しているのだから。)

狩り誇る枕の数や恋の数

 恋は「数」ではないはずなのだけれど、やっぱり「数」にあこがれる。「数」がうらやましい。なぜだろう。

枕狩百千(ももち)を狩ると一つ狩る

一生(ひとよ)かけ狩らん枕ぞただ一つ

 「数」にあこがれるくせに、「一つ」はそれはそれで、いいなあ、とも思う。人間は(私は?)わがままにできているらしい。

恋狩のなれの果てとよ常(とこ)枕

 「なれの果て」と言い切る強さがいいなあ。「なれの果て」までいける人間は、いったい何人いるだろう。



 反句。

枕知らぬ狩処女(かりをとめ)汝(なれ)恋知らず

 これはギリシャ神話の、アクタイオーン。(高橋が、エッセイできちんと説明している。)そうか、恋も知らずに無残な最後をとげるのも、それはそれで、あっぱれ、という気がする。
 でも、これは「処女(をとめ)」だからだねえ。残酷は、被害者が美しいとき、なぜか耽美にかわる。これは世界に共通する感覚だと思う。血は白い肌にこそ似合うのだ。


宗心茶話―茶を生きる
堀内 宗心,高橋 睦郎
世界文化社

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高橋睦郎『百枕』(28)

2010-08-28 10:58:25 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(28)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「秋枕--十月」。

人の秋枕の秋やしみじみと

 「しみじみと」ということばは、こんなふうに静かにつかうと、ほんとうにしみじみとしてくる。秋は人が恋しくなる。

暮残る枕白しよ秋もすゑ

 「白」という色は不思議だ。暗くなっていくなか、ぽつんと残されると、そのまずしさがつらくなる。何色にも染められずに取り残されたむなしさを、受け止める相手もいないまま、吐き出している。

いなづまと交す枕や小傾城

 この句については、高橋がエッセイで注解(?)している。去来の「いなづまやどの傾城とかり枕」という句に刺激を受けて書いた句であることがわかる。去来の句を注解は別にして、高橋は、次のように書いている。

 いなづまはいまは稲妻と書くが、ほんらいは稲夫とあるべきところ。晩夏から初冬にかけてのいなづまは天の射精とされ、これが地の卵巣たる稲田に走ることにより、稲に実が入るものと考えられた。そのいなづまが稲田ならぬ遊廓に通うとなると、どの傾城と仮枕するのだろうか、という。

 後半が注解の本筋なのだが、その前段がとてもおもしろい。いなづまは天の射精か。そんなことは、ないね。いまの科学からみると「誤読」だね。しかし、それがおもしろい。「誤読」のなかには「事実」ではなく、「祈り・願い」としての「真実」が含まれている。「考えられた」ということばが、その「しめ」に出てくるが、そうなのだ、ひとは考えたいのだ。考え、それをことばにすることで、その考えが「事実」にかわってほしいと祈るものなのだ。
 「誤読」のことばの運動には「事実」はない。そのかわり「こころの真実」がある。あるいは、ちょっと言い換えて、「誤読」のことばのなかには「真実」はない。そのかわり「こころの事実」がある、と言うこともできる。「事実」と「真実」というのは、それくらいの違いだろうと思う。
 さらにおもしろいのは、ひとはいつでも「誤読」のことばに乗っかって、「誤読」を加速させるということだ。
 いなづまが天の射精と考えたあと、それが遊廓に通う。あれっ、稲が卵巣じゃなかったの? 射精して、受精して、実になる--それが「こころの真実・事実」ではなかったの? 遊廓は、射精をするところではあっても、受精し、妊娠し、出産するところではない。妊娠せず、出産せず--つまり、男にとって、ただ射精するだけのところであるはずだ。「こころの真実・事実」、つまり「夢」が微妙に逸脱している。
 逸脱しているのだけれど、うーん、それを普通、逸脱とは言わないね。「夢」が加速し、逸脱していくことを、人間は好んでしまうのかもしれない。それがスケベな逸脱なら、「こころの真実・事実」は「こころ」ではなく「肉体」の「真実・事実」の方を優先するのかもしれない。「こころの真実・事実」は実は「こころ」ではなく「頭」が「考えた」ことにすぎなくて、ことばとは無縁であるはずの「肉体」の方が、「ことば」にならない「人間の真実・事実」という「夢」をつかみとるのかもしれない。
 天と地の生理、自然の摂理もの大事だけれど、それだって、よくよく見れば人間の「生理」の比喩である。天の射精、稲の受精のなかに人間の「生理」が紛れ込んでいる。「誤読」は「人間の生理」によってまぎれもない「事実・真実」になる。その「事実・真実」から、「肉体」がまた別の方向に勝手に動いたってかまうものか。
 あ、こんな面倒くさいことを高橋は書いているわけではないのだけれど、私は高橋のことばから、そんなふうに「誤読」を拡大してしまう。
 「読む」というのは「正解」をしるためのものじゃないね。あくまでも「誤読」をつづけるためのものだ。「正解」に納得ができなくて、ひとは「書く」。書きながら「誤読」を拡大する。

 「正解」にも「誤読」にも、詩、はない。詩は、「誤読する」という「動詞」のなかにある。



 反句。

鯔子(からすみ)の枕ざまなる見事さよ

 これは去来の故郷が長崎であることに由来する。去来の句の遊廓が「長崎」であると見て、長崎の珍味カラスミをもっきてたのだ。カラスミを枕にみたてているのだ。枕ほどもあるカラスミを私は見たことがないが、こえふとった立派なものを賞讃している。--だけではないかもしれない。カラスミはボラの卵巣。あら、それは射精を待っている? 誘っている? そういう意味での「枕」?
 --こんな読み方は「誤読」を通り越しているのだけれど、そんなふうに逸脱を誘いつづけることば、それが私には楽しい。
 立派な卵巣だねえ。で、射精は? 女は「見事さよ」と言ってくれるかなあ。
 私は下品だなあ、と反省しながらも、こういう下品を受け入れてくれるのも俳句のおもしろさのひとつであると勝手につけくわえておこう。



日本の川
大西 成明,赤江 瀑,高橋 治,高橋 睦郎,大庭 みな子,北村 想
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高橋睦郎『百枕』(27)

2010-08-27 13:48:07 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(27)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕討--九月」。
 「枕討」は高橋の造語である。高橋がエッセイに、そう書いている。寝取られ男が、腹いせに枕を討つ、という「意味」である。
 私はこういう逸脱が好きである。それは逸脱であると同時に「誤読」である。不義・密通の話は昔からあるが、寝取られ男が腹いせに枕を討つということは、きっとだれもしていない。していれば、その行為に相当することばがあるはずである。ひとはだれでも自分のしたことは語りたいものである。実際にしなくても、したいと思ったことは語りたいものである。

雷(いかづち)を逐うて失せしを枕討

枕討人数踏ン込む露の宿

人憎し枕憎しや残る蝿

 「枕憎し」の「憎し」がおもしろいなあ。枕が何かをしたわけではない。何かをしたのはあくまで人間である。その人間が憎いのだけれど、そこに人間がいなければ、枕にやつあたりしてしまう。枕がなければ不義・密通はありえない。枕のせいで不義・密通がおこなわれる。
 --こんなことは、「誤読」である。
 でも、そんな「誤読」をしないことには、こころの行き場がないのである。「誤読」はこころを救済するのだ。
 もし、江戸時代に高橋が生きていて「枕討」ということばを書いていたら、きっと何人もの男が「枕討」をしたに違いない。
 ことばは現実を変えていく力を持っている。

人は逃れ枕は討たれ秋深む

 この「秋深む」はいいなあ。人事と自然は無関係である。男が枕に仇討ちをしている。それだ何かが変わるわけではない。まあ、男のこころはいくらか晴れるのかもしれないけれど、そんなことは「思い込み」(誤読)である。そういう「誤読」の世界のとなり(?)に「秋深む」がある。となりというのは、へんだなあ。「誤読」を呑み込む(受け入れ、消化して)、秋が深まっていく。

枕捨てて落チ行く先や夜々の月

 これもいいなあ。「枕捨てて」の枕は実際にある枕だね。そして、これから迎える夜ごとの枕はどうだろう。時に「草枕」、時に「肘枕」--ではセックスはできないか……。まあ、枕なんて、セックスはできるからね。と、いうことろが、おかしい。
 枕はいくら仇討ちされても、恋には関係ない。恋にはひびかない。
 さて、どうしよう。



 反句、

この枕なくばあらずよ秋の翳

 「この枕」か。どんなものでも、思いがこもると「この」と呼ばれてしまう。「この」女、「この」男がつかった、「この」枕。
 「この」はこの句には欠かせない。




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高橋睦郎『百枕』(26)

2010-08-26 11:03:18 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(26)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕占--八月」。
 「枕占」は「夢占い」に同じ、と高橋は書いている。「枕占」が高橋の造語かどうかはわからない。造語と思いたい。

秋や今朝枕をたのみ何占ラふ

 夢占い--その夢は夜見るものだけれど、ここで高橋が書いているのは、真夜中に見た夢の占いだろうか。それとも、目覚める寸前に見た朝の夢だろうか。それとも、夢を見なかった。見なかった夢を捏造して、それを占うのか。
 「たのみ」のひとことが、夢の捏造を思い起こさせる。
 私の「誤読」だろうけれど、私は「誤読」をしたくてことばを読む。「誤読」ができると、とてもうれしい。
 詩は、たぶん、いま、ここから、いま、ここへ逸脱していく瞬間に輝くものだ。
 「誤読」ではないときは、それまでの私のことばの運動が、たとえば高橋のことばの運動にであうことで成り立たなくなり、はっと目覚めるときである。古い「誤読」が否定され、「真実」が突然あらわれてくる。--そのとき、それは「真実」であっても、私からすれば、いま(過去)からの逸脱である。
 「誤読」が詩人のことばで否定されるか、逆に私が詩人のことばを「誤読」してとんでもないところへ行ってしまうのか--どちらにしろ、そこには「誤読」がからんでいる。「いま(過去)」の否定がからんでいる。
 朝、目覚める、というのは、いわば「夜」の否定である。「夢」の否定である。「夜」と「夢」から逸脱していくことが目覚めるということである。どこへ逸脱していくのか--それを占いたいというのは、占いに身をまかせるということでもある。身をまかせることを「たのむ」とも言う。
 だれもが、いま、ここではなく、どこかへ行ってしまいたいのだ。

迎火や寝慣れ枕を縁の先

 迎え火を、寝ころんで見ているのだろうか。寝慣れた枕を縁側に出して、ごろり、と涼をとりながら。
 「寝慣れ枕」は、自分が慣れているということだろうか。それとも、迎え火に誘われて、遠い国から帰ってくる愛しい人がつかっていた枕だろうか。長い旅だっただろう、さあ、いつもの枕で休んでください、というのだろうか。

此ノ君の枕の別れ今日や明日

 竹でつくった籠枕。「別れ」は季節が夏から秋にかわるからだけれど、「君」が出てくると、竹であんだ籠枕だけではなく、いろっぽいものもただよってくる。
 ことばはいつでも、複数のことがらを行き来する。
 だからこそ、「占い」というものも必要なのかもしれない。「此ノ君」は竹? それとも愛しい人? 占いは、たぶん、占ってほしいひとの「希望」にあわせて選ぶ「誤読」かもしれない。
 ひとは、自分ののぞむように「世界」を理解したいのだ。だれもが「誤読」したがっているのだ。



枕とも筮(ぜい)ともならず竹の花

 数十年に一度花を咲かせて枯れていく竹。その花は生きてきた証か、死への旅立ちの印か。同じことを、違うことばで言うことができる。だから、ひとつのことは必ず「誤読」できる。

 これは、「誤読」しかできない私の、強引な自己弁護にすぎないかもしれないけれど。



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高橋睦郎『百枕』(25)

2010-08-25 11:54:05 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(25)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕川--七月」。
 「枕川」は高橋の造語。川の名前。その川を高橋は廓のなかを流れさせている。

枕川明易き夜を重ねつつ

明易き枕いくたび裏返し

 遊女の眠られぬ夜の感じが、「枕いくたび裏返し」という動作のなかにしっかりおさまっている。遊女にかぎらず、夏の夜は寝苦しく、熱のある枕を何度もひっくりかえし、少しでも涼しくなろうとする。客のいない遊女は、何を考えるだろう。何を思ったかではなく、枕を裏返すという、だれにでも通じること(だれもがしたことがあること)が、遊女をぐいと引き寄せる。こういう単純な動きが俳句ではとても強く働く、と思った。

枕川夏涸れ恋のいろくずも

 エッセイのなかに、高橋は、客の取れなくなった遊女について、「客離れ」と書いて「客がれ」と読ませている。その「かれる」が「夏涸れ」の「かれる」と重なり合う。
 句の「夏涸れ」よりも、私は「客離れ」の「かれる」に、はっ、とした。
 日本語は美しい。日本語は深い、と思った。
 客がつぎつきにつくときは「かれる」ではなく、きっと水がこんこんと湧いてくる感じなのだろうと思う。
 そういうときは、枕の上の頭の中では、楽しい夢もこんこんと湧いているだろう。
 「かれる」ということばが書かれているのだが、なぜか湧くということばを思い出してしまう。
 川の水も、もとへ逆上れば、こんこんと湧く水である。--そういう思いがあるからこそ、「涸れる」がより強烈になるのかもしれない。



 反句。きのう読んだ句の明るさにどこか似ている。いま、ここから遠くへ動いていく、そのさわやかさが気持ちいい。

枕川渡り夏越の祓へせん



柵のむこう
高橋 睦郎
不識書院

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高橋睦郎『百枕』(24)

2010-08-24 12:51:04 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(24)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕船--六月」。

 枕船(まくらぶね)とは、湯に浮かべて頭を乗せる、長さ一尺五寸ほどの丸太ん棒様のもののことらしい。

 エッセイで高橋はそう説明している。そのことばを伊豆の出湯に浮かべ、書かれたのが「枕船」の句である。

さみだるる朝のいでゆの枕船

枕船一尺五寸さみだるる

 露天風呂。雨に濡れて温泉につかっている。何も考えず、頭は「枕船」にあずけている。「さみだるる」のなかに「みだるる」夜の思い出があるかもしれない。記憶を、雨にたたかせている。体の疲れは温泉の温かさがほぐしてくれる。そして頭の疲れは雨が覚ましてくれる。

浮むれば木枕も船うつぎ散る

 「うつぎ」は風景の描写だけれど、その白い花びらは、つづけて高橋の句を読んできた私には違った花、男の精の花のようにも感じられる。



 反句は、ぐっと明るく広がる。

枕船真昼の夢を夏の果て

 五月雨のあと、夏の雲の峰。その向こうまで、夢は明るく広がる。高く高くのぼっていく。「枕船」の強さ(硬い感じ)が、夢を支える頑丈な土台のように思える。湯船に浮いているのだけれど……。





王女メディア
エウリーピデース,高橋 睦郎
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高橋睦郎『百枕』(23)

2010-08-23 12:31:35 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(23)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕売--五月」。

夏始なりたきものに枕売

 「枕売」という商売があるとは知らなかった。枕だけ売り歩いて、それで商売になるんだろうか--と思っていたら、高橋はエッセイでいろいろ書いている。枕と色事はつきもので、色も売り歩いた、と。
 で、枕売りなりたいのは、単なるすけべごごろから?
 どうも違う気がする。

枕売さぞ青葉さす若衆かな

 「青葉さす」が美しい。そして、それが美しいのは「若衆」が美しいからだ。高橋の、発句の人物は、枕を売りながら色も売るということがしたいというより、「青葉さす」と形容されるような若衆にこそなりたいのだろう。
 そういう、自己を超える夢があるからこそ、ここでの句は「荘子」の、荘周と蝶の夢にもつながっていく。「枕という人類が産んだ最も奇怪(きっかい)な道具をあいだに置いて、荘周が蝶になることと蝶が荘周になるとこととは、一つことではあるまいか。」
 枕売が「青葉さす若衆」と想像することは、自分自身がその「青葉さす若衆」となって枕を売り歩くことそのものなのだ。

枕買うてまづ試みん一昼寝

風涼し枕と二人寝んとこそ

 そして、そういう夢を見るのは、また「枕を買う」人物にもなることでもある。枕を売るひと、枕を買うひと--それは「ひとつ」である。そこでは枕の売り買いだけではなく、それにつづくすべてのことが夢見られている。
 「昼寝」というより、昼日中、明るい光の中で見る「目覚めている意識の夢」、つまり明確な願望である。
 このさっぱりした感じはいいなあ。



 反句、

荘周の枕も薄蚊吐く頃ぞ

 「薄蚊」とはなんだろう。私には見当がつかない。「うすか」と読むのだろうか。
 わからないままこんなことを書いていいのかどうか。
 蚊は不思議で、どこからともなくあらわれる。衣服や、寝具や、何やかやの「ひだ」のようなところにひそんでいるのだろうか。隠れているものが、ふいにあらわれてくる。そして、そのうるさい音に、現実を知らされる。
 荘周の蝶の夢は美しいが、それとは対照的な、うるさい現実の蚊--そのとりあわせに、俳諧の不思議なおもしろさを感じる。荘周の、文学的な夢を笑い飛ばす(破壊する)現実の「俗」。
 高橋は、「青葉さす」若衆になりたいと思った人物を、からりと笑っているのかもしれない。




柵のむこう
高橋 睦郎
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高橋睦郎『百枕』(22)

2010-08-22 12:39:58 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(22)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕大刀--四月」。

刎頸の花の友こそ枕大刀

 いきなり過激な句で始まる。疑問は、首を刎ねるのになぜわざわざ「枕大刀」? 「大刀」とはいうものの、枕元に置くのだから小振りなのでは、などと歴史にうとい私は勝手に想像してしまうのだが……。
 エッセイで、このあたりの疑問を高橋はていねいに解説している。一連の句は、実は本能寺の変を題材にしている。信長は秀光の急襲にあい、自害する。

もちろん、割腹に用いたのも枕大刀だったろう。この時、蘭丸に介錯させたとすれば、比喩的に蘭丸こそが信長の枕大刀だったともいえる。

 そして、その解説は、次のようにも言う。

信長・蘭丸の衆道関係においても、蘭丸が大刀で信長が鞘であった可能性もなしとはしない。

 へえ、そうなのか。ちょっとびっくりした。そして、あ、もしかして、このことが書きたくて句を書き、エッセイを書いたのかもしれない、とふと思った。
 「刎頸の友」から書きはじめなければならないのは、そのためだね。



 反句、

枕大刀要らぬ世めでた遅桜

 これは「乱世」ではない「この世」をめでる句--と単純に受け止めていいのだと思う。ここにもっと別の意味があると、せっかくエッセイで書いた信長・蘭丸の関係がかき消されてしまう。



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高橋 睦郎
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高橋睦郎『百枕』(21)

2010-08-21 12:36:48 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(21)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕経--三月」。「源氏物語」を夢中になって読んだ「更級日記」の少女を題材にして詠んだ句。その連作。

彼岸波(ひがんなみ)ひねもすのたり枕経(まくらぎやう)

彼岸此岸(しがん)霞わたれり波枕

生き死にの境朧や波枕

 「枕経」は死者の枕元で死者をおくるためのものだが、「人間畢竟ずるに死生一如(ししょういちにょ)、生者に枕経してはいけないということはあるまい」(高橋のエッセイ)で、「源氏物語」に夢中になっている少女に「枕経」をしている--そこから句は始まる。
 その「枕経」が、「波枕」へとすっと動いてゆく。「ひねもすのたり」「霞」「朧」をとりこみながら、「生死の境」が消えていく。「更級日記」の少女には、「彼岸」(あの世、源氏の世界)と「此岸」(現実の世界、法華経を勉強しなければならない)の区別はなくなる。いや、なくなるわけではないのだが、自分で「現実」を否定して、「彼岸」へと行ってしまうのだ。
 「源氏物語」を読んでいるとき、「読む」という行為において少女は生きている。けれど「物語」に夢中になるとき、少女は「現実」にはいない。「現実」は「死」んだ状態であり、「彼岸(虚構)」を生きている。生きることが(読むことが)死ぬこと(現実から乖離してしまうこと)であり、その死を生きることこそ、少女にとってはすべてなのである。
 少女にとっての「死生一如」は、そんなところだろう。

 この句の連作でおもしろいのは(エッセイで書いていることだが)、その「経」から「経」を読むひとへと視点が動いていくことである。いつのまにか「源氏」を読む少女はどうでもよくなり、経を読んでいるのはだれ? というより、どんなひと? へと関心が動いていく。
 この逸脱。そして、この逸脱の仕方に高橋の独自性が出る。高橋は、それは高橋の独自性ではない--と装うために、「枕草子」を引用し、田中裕明の句を引用し、ロシア正教の僧までもちだしている。僧は美僧でなければならない、声がよくなければならない。
 そして、反句。

枕経美僧に誦させ朝寝坊

 さて、朝寝坊の理由は? まさか「源氏」を読んでいたからではないよね。ここで朝寝坊しているのは「少女」ではなく、高橋なのだから。
 そして、昨夜、高橋はほんとうに「死んだ」んだよね。つまり、彼岸へ旅したんだよね、だからその経は、その「死んだ」高橋を彼岸へおくり、眠っている高橋を「生」の現実へ呼び戻す経でもある。目覚めながら、うーん、美僧がそばにいる、と思いながら、倦怠感を楽しんでいるのだろう。 





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高橋睦郎『百枕』(20)

2010-08-20 08:54:37 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(20)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕神--二月」。
 「枕神」とは、高橋のエッセイによれば、

枕神とは夢枕に立つ神のこと。とすれば、それにふさわしい動詞は「立つ」。

 そしてそこから、二月、立春、佐保姫という連想がつづき、そこから

佐保姫の春立ちながらしとをして
  霞のころも裾はぬれけり

という句の付合が紹介され、さらにさらに連想はかけめぐる。その連想は高橋の書いている句の「補足」のようなものだが、その展開を読んでいると、やはりこの句集は「ひとり連歌」だなあ、という気がしてくる。
 ふつう俳句はある現実世界と向き合い、そこで動いたことばだが、連歌の場合、必ずしも現実世界とは向き合わない。向き合うのは、前句のことば--ことばがつくりだす世界である。前のことばがつくりだす世界を、つぎのことばでどう展開していくか。どこまで想を自由に、闊達に動かしていくことができるか。
 しかも、そこでは「場」が重視される。ことばをどこへでも動かしていけばいいというのではない。調和を保ちながら、なおかつ動いていく。停滞しない。

 --というようなことは、わきにおいておいて……。いや、そのちょっと「場」をずらした「わき」こそが「ほんとうの場」であるかもしれないが……。

春立つや衾マをかづく枕上ミ

 「枕神」「枕上」「枕紙」。そこに「衾」が出てきて、「春」が出てきて、わざわざエッセイでは「立つ」と括弧付きの動詞が書かれていたが……。
 あ、私はとても俗な人間だから、ついつい「佐保姫」がどんな神様かは別にして、違う方へ違う方へ思いが動いてしまう。高橋は意地悪(?)だから、やっぱりそういう方向へことばを動かしている。エッセイでも「枕紙」について、説明して、徐々に徐々に、話を身近なことがら、「神様」ではなく「人間」の方へもっていく。まあ、昔は「神様」はとてもくだけていたから、「神様」であっても「人間」なのかもしれないが。

折り数え枕おぼろや春おぼろ

春かさね枕かさねし古頭ラ

 「おぼろ」は春だけではない。「かさね」るのは春だけではないなあ。



 反句、

枕紙白きがままに春闌けぬ

 さて、この「白きがままに」はなぜでしょう。そして、その「紙」の「目的」はなんだったのだろう。
 高橋は

詩と交われない詩人にとって、枕紙は永遠に無染(むぜん)の白紙(タブラ・ラサ)のままだろう。

 と、またしても意地悪(?)を書いている。高橋は「詩と交われない詩人」ではないし、詩と交わっているからこそいくつもの句が書かれている。ここでは「事実」が書かれているのではなく、「交わる」ということばこそが書かれているのだ。
 「交わる」という文字、ちゃんと見た?

 句の「内容・意味」にも大切なもの、高橋の「思想」は当然含まれているが、「内容・意味」から逸脱していくことば、ことばそのものを隠されている。どうぞ、「誤読」して、どうぞ「逸脱」して、かってにいやらしいことを考えてね。でも、それは私(高橋)の「連想(思想)」ではなく、句を読んだ読者(たとえば谷内)のかってな「連想」だよ、といいたくて、

「交わる」という文字、ちゃんと見た? マクラガミって「枕紙」だよ、わかる?

 と、「わざと」ささやく。
 私は、こっちの方の「わざと」に、詩の本質があるかもしれない、とときどき考えてしまう。
 作品の「内容」ではなく、それをあらわすためにつかうことばの、「わざと」誤解を誘うようなつかい方、ことばの選び方にこそ、詩の本質があると思うことがある。




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高橋睦郎『百枕』(19)

2010-08-19 11:46:47 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(19)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕炭--一月」。「枕炭」ということばを私は知らない。しかし、文字を見た瞬間、見当がついた。炭をつかった種火、灰の下につつんで残しておく火のついた炭のことだろう、と思った。

跳ネ炭も更けて枕の欲しき頃

枕炭埋(い)け寝(い)ぬることのみ残る

 これは、雪国の、田舎育ちの私にはなつかしい光景である。炭はときどきはじける。最初は活気がある。けれど、だんだん静かになってくる。火鉢を囲んで活発に話していた話もだんだんけだるくなってきた。もう、寝ようか。種火の炭を大事に灰の奥に埋めた。もう寝るだけだ……。
 「枕炭埋け」ということばもあるし、たぶん、そのことだろう。

先づたのむ枕炭あり吹雪く夜も

 この「頼む」は「頼もしい」に通じる。同じだ。動詞と形容詞がかよいあい、ことばがふくらむ。豊かになる。こういう瞬間、何か、ほっとする気持ちになる。
 俳句のように短いことばの文芸には、こういうことばがとてもあっている。形容詞を動詞で言い換える。動詞を形容詞で言い換える。名詞を動詞で言い換え、動詞を名詞で言い換える。そのとき、意識が耕される。



 反句が、とても華麗である。

雪女郎目のさながらに枕炭

 あ、その目がなつかしい、たのもしい、なんて騙されて--あ、騙されてみたいねえ。しかし。
 いろっぽい。

 エッセイのなかに紹介されていた蕪村の句もとても好きだ。

埋火や終(つい)には煮ゆる鍋のもの

 灰の下に隠された炭の火。それは意外に力がある。無駄にしてはもったいないから鍋をかけておく。そうすると、その鍋がついに煮える。
 雪女の目の奥で燃えている「愛」も「憎しみ」も、そんな力を持っているかもしれない。



日本のこころ〈地の巻〉―「私の好きな人」
田辺 聖子,山折 哲雄,堺屋 太一,高橋 睦郎,平山 郁夫
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高橋睦郎『百枕』(18)

2010-08-18 12:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(18)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕木--十二月」。

うちつづく幾枕木の霜の朝

 枕木の霜。これは美しいなあ。レールの冷たい白は均一な、すきまのない白。枕木の下のバラストは荒々しく、すきまも目立つ。けれど枕木の上の霜はきめの細かい輝き。ほんものの木をつかった枕木だね。まだ眠りのなかにある街、夢からつづいているような長い線路。

枕木の原木(もとき)の山も眠る頃

 「山眠る」だけならおもしろくない。「頃」がとてもおもしろい。意味的には「季節」ということになるのだが、「頃」には時間に巾をもたせて、漠然とさししめす感じもある。その「漠然」とした印象が、山が具体的に目の前にあるという印象をかき消す。「原木の山」は、どこかにある山、想像している山である。その想像の先にある山がきっと眠るころ--と想像している。真冬ではなく、冬に入る季節なのだ。街(駅のあるところ)はまだ冬には早い。けれど、きっと枕木の原木の山はもう冬に入っている(山眠る季節に入っている)ころだろう、と想像している。「頃」があるため、「山眠る」が現実ではなく、想像であること、推測であることが明確になり、それがこの句を逆に強いものにしている。想像とは、思いが遠くまでゆくことである。山の遠さが、「頃」によってはっきりしてくる。

枕木を数へ年逝く寝台車

 寝台車(列車)のがたんがたんはレールの継ぎ目の音であり、枕木の数とは関係ないのだが、この句を読むと、枕木の数をがたんがたんと数えながら寝台車が走っている(寝台車のなかで枕木の数を数えながら眠っている)という感じがする。その数を数えながら、今年が行き、新しい年がくる。そのとき、枕木は線路を支えているだけではなく、その「枕」は寝台車で寝ているひとの「枕」そのものと重なる。
 ことばは、間違いながら(間違えながら?)、入れ代わる。重なり合う。



 反句、

枕木に年つもりけり鉄道史

 「枕木」のかわりに「レール」でも「鉄道史」が変わるわけではない。けれども、やはり「枕木」がいい。二本のレールではなく、何万本もある枕木--そのそれぞれに、それぞれの「年」が、つまり「歴史」がある。
 この句に先立ち、高橋は若くして戦死した叔父、鉄道員だった叔父の思い出を書いているが、「枕木」は死んでいった多くの、無名の若者をも連想させる。無名のひとりひとりにも、それぞれの「年」、つまり「歴史」がある。そのことに思いをはせている高橋--その視線のやさしさがにじむ。



すらすら読める伊勢物語
高橋 睦郎
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高橋睦郎『百枕』(17)

2010-08-17 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(17)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕絵--十一月」。「枕絵」ということばを、私はつかったことがない。読んだ記憶も、もちろん、ない。ないのだけれど、その文字を読んだ瞬間、とくに「絵」が「正字」で書かれていて複雑だったりすると(高橋は「正字」をつかっている)、「絵」のときよりももっと濃厚に、あるイメージが浮かんでくる。この「絵」は「春画」だ。この「直感」には「枕=セックス」という意識も反映しているのだけれど、不思議なことに、こういう「直感」というのは間違いを犯さない。絶対に的中する。これは、なぜだろう。
 --というようなことは、文学とは関係ないことだろうか。関係なさそうでいて、とても関係があるように、私には思える。
 発句。

枕絵に行き当りけり冬支度

 これが「秋支度」だったら、どうだろう。「枕絵」が春画だとしても、その春画がすっきりと「本能」のなかから立ち上がってはこない。冬--寒くなって、ひとの温もりが恋しいという感じのなかで「枕絵」があらわれると、「寒い、寒い」といいながらも、互いの衣服をはだけさせてセックスをしはじめる感じと重なり、「春画」が自然に感じられる。
 「枕絵」が「春画」であることは、季節には関係がないのだが、それでもどの季節、どのようなことばとともにつかわれるかによって、「本能」に働きかけてくる力の度合いが違う。
 「枕絵(春画)」と「冬支度」か。ぴったりだなあ。そう「本能」が感じるとき、その句はすばらしく輝いて見える。「行き当りけり」もいいなあ。それは探していたのではない。偶然、でてきたのだ。この偶然の感じが、なんともなつかしい。そして、そのなつかしさが「枕絵」を活気づかせる。「行き当りけり」だからこそ、「枕絵」が「春画」だとより明確にわかる。もしそれが「春画」ではなくても、「春画」だと「誤読」してしまう。私の「本能」は。
 この句には、そういう「本能」に働きかけてくることばが、とても自然に動いている。だから、とても好きだ。

 ことばには、「意味」がわからなくても、「直感」でわかることばがある。「本能」が反応してしまうことばがある。そして、その反応はたいてい「正しい」。それが「誤読」であっても、何かしら「正しい」ものを含んでいる。「本能」の運動の方向性(ベクトル)として……。
 そうして、そういう「直感」が「正しい」とわかったとき、文学はとても楽しい。あ、これこそ私が感じていたこと--と他人が書いたことばなのに、そう思ってしまう。作者は私を勘違いしてしまう。まるで自分が書いたことばだと思ってしまう。「誤読」してしまう。
 「直感」で読む「文学」のよろこびは、「本能」が「正しい」とわかるよろこびと同じである。してはいけないのだけれど、それをしてしまう。たとえば「春画」によろこびを感じるというのは「わいせつ」であって、そうしない方が倫理的(?)には正しいと言われるようなことがらなのだけれど、「本能」はよろこぶねえ。そして「春画」があるということは、そういう「本能」を肯定した仲間(?)がいるという証拠だねえ。こういう「本能」をかかえた人間はひとりではない--自分がひとりではないという安心のよろこび。そう「誤読」するよろこび。
 同じ罪を犯すよろこび。
 文学というのは、「いま」「ここ」から逸脱していくこと。罪を犯すこと。逸脱を肯定すること。そういうものを求める「本能」が「直感」として何かをつかみ取り、それがつかみとったものそのものだったときの、うれしさ。

 あ、これは高橋の「枕絵」連作とは、それこそ関係ないことなのだけれど、きょう私が感じたのは、そういうことだ。

枕絵の防虫香も今朝の冬

 この句も大好きだ。「枕絵」は視覚。「防虫香」は嗅覚。「今朝の冬」は触覚(寒い、と感じる肌の感覚)。「枕絵」が視覚にとどまらず、嗅覚や触覚と接触・融合して「肉体」そのものにひろがっていく。

枕絵を畳の上や神の留守

 「神の留守」は「神無月」だからそう書いたというかもしれないけれど、ねえ、ちょっと違うことも考えるよね。「いやらしい、そんなものを広げて」と怒る「家の神」の留守。こっそりとではなく、畳の上に堂々と広げている。どれがいいかなあ、と吟味している。おかしいね。俳諧だねえ。



枕絵を並べひさぐや返り花

 うーん。「ひさぐ」か。こんなふうしてつかうのか。
 これ以上書くと、怪しいことになりそうなので、きょうの感想はここまで。






高橋 睦郎,高岡 一弥,森田 拾史郎
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