高橋睦郎『百枕』(31)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)
「後記」にも3句書かれている。
高橋にとって「枕」と「ことば」は同じものかもしれない。「ことば」とともに旅をして70歳になる。「ことば」は、そして「夢の器」でもある。「ことば」なしには「夢」か語れない。
高橋のことばの特徴はなんだろうか。この句集は、いわば一人連歌であり、連歌をともなった「古典細道」とでもいうべき「紀行文」かもしれない。高橋は古典のさまざまな「ことば」(夢の器)を旅する。そのとき、寄り添うのは「古典」の作者であり、あるいは歴史である。故事である。
高橋と同伴者は、共生者であり、また共犯者でもある。それも互いを犯すのである。
助けてもらいながら、助けてくれたひとを犯す。
高橋は、たとえば「古語」を見つけ出し、いま、新しく句の中に取り込む。そのとき、高橋は「古語」を死からすくい上げ、いのちを吹き込みながら、その古語を高橋の色に染め上げる。高橋の好みのスタイルに仕立て上げる。セックスの相手を自分の好みのスタイルに仕立て上げ、こんな色っぽい人間になった、と自慢するようなものである。
一方、耕され、犯された「古語」の方も、だまってはいない。したがったふりをして、ひそかに反撃をねらっている。知らないうちに、高橋も、その「古語」に影響され、そのスタイルになっていく。
いま生きて、ことばを書いているのが高橋なので、高橋が一方的に何かをしているように見えるけれど、きっと高橋の内部で変化が起きているはずである。ことばを書くということは、書いたことばによって、自分の「肉体」が変化してしまうことでもある。自分の「肉体」がどうなってもかまわないと覚悟しないかぎり、ことばは書けない。
セックスも、極端な例になるかもしれないが、誰かを犯す。それは犯した方の一方的な暴力に見えるが、そういうときでも、そのセックスで犯した方も変わってしまうことがあるのだ。そういうやり方が病みつきになったり、あるいは逆のことに目覚めたり。どんなことでも一方的に何かがおこなわれるということはない。
ことばの場合、それは、つぎのことばがどうなるかわからないという意味で、もっと「共犯者」の度合いが強いかもしれない。
高橋がこの句集(紀行文風のの俳文)のあと、どんなことばを動かすことになるのか、高橋も、高橋によって書かれたことばも、わからない。だれも、どうなるかなどわからない。ただ、同じものは書かれない。どうしても次は違ったものを書かざるを得なくなる。そういう変化を人間にもたらすのが、ことばである。
この高橋の俳文の特徴--それにもどろう。
ひとつは、すでに書いたが「古典」「古語」(雅語)の発掘にある。もう一つは「造語」にある。
「古語」を耕しているうちに、「古語」だけでは書き表せないものがでてくる。「古語」を犯すことによって、高橋が逆に犯され、新しい「何か」に目覚めてしまうのだ。いままでなかったものに目覚めてしまうのだ。それは「古語」からの逆襲のようなものである。高橋のことばを「変形」させ、高橋の「肉体」を変形させ、高橋を突き破って「生まれてしまう」のである。
このエネルギーの噴出、逸脱--それを私は「誤読」と呼ぶのだけれど。
そういう「造語」(誤読)と「古典(古語)」が共犯して、「文学」を犯す。「文学」に新しいものをねじ込む。それが今回の高橋の俳文というものだと思う。
これは新しいスタイルの俳文なのだ。
そして、その紀行俳文の果て、未知の荒野にあらわれる輝き、新しいいのち--それを高橋は「夢」となつかしいことばで呼んでいる。この「夢」を枕にして眠るものは、いつか、かならず、その高橋の「夢」によって己の夢を攪拌されることになる。
覚悟せよ。
*
アマゾン・コムのアフィリエイトシステムでは、高橋睦郎『百枕』は検索できない。
高橋の「夢」に同行し、それにいつか乗っ取られてもかまわないという覚悟のある人は、書肆山田へ直接注文し講読してみてください。書肆山田は、
東京都豊島区南池袋2-8-5-301
電話 03-3988-7467
在庫の有無は、私は確認していません。
「後記」にも3句書かれている。
枕との旅ななそとせ唯朧
枕これ夢の器ぞ花の昼
枕より進まぬ噺暮遅き
高橋にとって「枕」と「ことば」は同じものかもしれない。「ことば」とともに旅をして70歳になる。「ことば」は、そして「夢の器」でもある。「ことば」なしには「夢」か語れない。
高橋のことばの特徴はなんだろうか。この句集は、いわば一人連歌であり、連歌をともなった「古典細道」とでもいうべき「紀行文」かもしれない。高橋は古典のさまざまな「ことば」(夢の器)を旅する。そのとき、寄り添うのは「古典」の作者であり、あるいは歴史である。故事である。
高橋と同伴者は、共生者であり、また共犯者でもある。それも互いを犯すのである。
助けてもらいながら、助けてくれたひとを犯す。
高橋は、たとえば「古語」を見つけ出し、いま、新しく句の中に取り込む。そのとき、高橋は「古語」を死からすくい上げ、いのちを吹き込みながら、その古語を高橋の色に染め上げる。高橋の好みのスタイルに仕立て上げる。セックスの相手を自分の好みのスタイルに仕立て上げ、こんな色っぽい人間になった、と自慢するようなものである。
一方、耕され、犯された「古語」の方も、だまってはいない。したがったふりをして、ひそかに反撃をねらっている。知らないうちに、高橋も、その「古語」に影響され、そのスタイルになっていく。
いま生きて、ことばを書いているのが高橋なので、高橋が一方的に何かをしているように見えるけれど、きっと高橋の内部で変化が起きているはずである。ことばを書くということは、書いたことばによって、自分の「肉体」が変化してしまうことでもある。自分の「肉体」がどうなってもかまわないと覚悟しないかぎり、ことばは書けない。
セックスも、極端な例になるかもしれないが、誰かを犯す。それは犯した方の一方的な暴力に見えるが、そういうときでも、そのセックスで犯した方も変わってしまうことがあるのだ。そういうやり方が病みつきになったり、あるいは逆のことに目覚めたり。どんなことでも一方的に何かがおこなわれるということはない。
ことばの場合、それは、つぎのことばがどうなるかわからないという意味で、もっと「共犯者」の度合いが強いかもしれない。
高橋がこの句集(紀行文風のの俳文)のあと、どんなことばを動かすことになるのか、高橋も、高橋によって書かれたことばも、わからない。だれも、どうなるかなどわからない。ただ、同じものは書かれない。どうしても次は違ったものを書かざるを得なくなる。そういう変化を人間にもたらすのが、ことばである。
この高橋の俳文の特徴--それにもどろう。
ひとつは、すでに書いたが「古典」「古語」(雅語)の発掘にある。もう一つは「造語」にある。
「古語」を耕しているうちに、「古語」だけでは書き表せないものがでてくる。「古語」を犯すことによって、高橋が逆に犯され、新しい「何か」に目覚めてしまうのだ。いままでなかったものに目覚めてしまうのだ。それは「古語」からの逆襲のようなものである。高橋のことばを「変形」させ、高橋の「肉体」を変形させ、高橋を突き破って「生まれてしまう」のである。
このエネルギーの噴出、逸脱--それを私は「誤読」と呼ぶのだけれど。
そういう「造語」(誤読)と「古典(古語)」が共犯して、「文学」を犯す。「文学」に新しいものをねじ込む。それが今回の高橋の俳文というものだと思う。
これは新しいスタイルの俳文なのだ。
そして、その紀行俳文の果て、未知の荒野にあらわれる輝き、新しいいのち--それを高橋は「夢」となつかしいことばで呼んでいる。この「夢」を枕にして眠るものは、いつか、かならず、その高橋の「夢」によって己の夢を攪拌されることになる。
覚悟せよ。
*
アマゾン・コムのアフィリエイトシステムでは、高橋睦郎『百枕』は検索できない。
高橋の「夢」に同行し、それにいつか乗っ取られてもかまわないという覚悟のある人は、書肆山田へ直接注文し講読してみてください。書肆山田は、
東京都豊島区南池袋2-8-5-301
電話 03-3988-7467
在庫の有無は、私は確認していません。
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