詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(9)

2014-03-31 23:59:59 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(9)          2014年03月31日(月曜日)

 「大いなる拒絶をなせし者……」とは法王を辞したる者のことであり、

言わねばならぬ日がいつかは来る、
大いなる肯定さもなくば大いなる拒絶を。

 と、はじまるが「注釈」に中井久夫はかなり珍しいことを書いている。

原文の第一行の「一部の者には(決断を迫られる時が来る)」をどうしても入れることができなかった。

 「法王」に選ばれるひと(あるいは資格のあるひと)はごくわずか。「一部の者」である。その「一部の者」を中井は訳詩のなかで省略した。なぜだろう。日本語の場合、主語はしばしば省略される。主語が「無意識」のまま共有される。もちろんこれは、共有する者がいる(共有される場がある」ということが前提なのだが。
 主語が省略されることで、主語が限定されない。法王のかわりに「私」を組み込むことができる。この場合「私」とは一般名詞である。省略される「私」は省略されることで「硬い枠」をなくして、だれの「無意識(本能)」にも溶け込むようにして、もぐりこむ。そして、そこで展開する「動詞」は「私の動詞(肉体)」として動く。主語が「法王」ではないために、また、そこで書かれている他の動詞が「私」を「法王」にしてしまう。読者の気持ちが「法王」をめざす人間の気持ちになって動く。もちろん「一部の者」とは「私」とは別人なのだから、それがあっても作品のなかの「私」と読者の「私」は重なるのだけれど、重なり方が少し違う。「一部の者」があると、まずその「一部の者」を想像してしまう。その一瞬の想像力の動きが、作品の「私」と読者の「私」の間にすきまをつくる。すぐに法王に指名されそうになった「私」に集中できない。
 中井久夫の訳を読むと、ときどきこういう「読者をその気にさせる」ことばに出合う。詩を読んでいるというよりも、ドラマを見ている、ドラマを見ながらその登場人物になる感覚と言えばいいだろうか。
 そこで何かが起きて、そのことに対して、登場人物のこころが動く。そのこころの動きにそって読者が詩の世界へ入っていく感じだ。だから、そのあとにつづく世界もドラマが主体になる。まず、起きていることを明確にし、そのことを中心に動くこころは読者に想像させる。これは、またカヴァフィス自身の方法である。

拒絶者は悔いぬ。もう一度聞かれても
「拒絶」というはずだ。拒絶こそ正解。
だが、この拒絶は下にひきずりおろしつづける、その者を、一生涯。

 一生涯、下にひきずり下ろされた人間がどう思うか、それは書かない。その書かれていないことを、読者は「私」の問題として向き合うことになる。
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川田絢音「燕」

2014-03-31 09:43:11 | 詩(雑誌・同人誌)
川田絢音「燕」(「現代詩手帖」2014年04月号)

 きのう読んだ林芙美子の詩に何か似ている。書いていることが視力以外のものでとらえられている。視力以外のものなのだけれど、視覚化されている。

黒と白の怖い縞が見え
鉄格子のくらやみに
きみが燕になってもどっている

 牢獄(?)に閉じ込められている。明かり取りの窓には鉄格子。その光というのか、影というのか、縞模様が壁に描き出される。そのほかの部分は「くらやみ」、といってもぼんやりした明るさはあるだろう。そこへ「燕」がもどってくる。
 これは実際に牢獄のなかへ燕がやってきたということではないだろう。空に燕が飛ぶ季節になった。そして燕を鉄格子越しに見た、ということなのだろう。
 でも。
 私は壁に映った鉄格子の縞のシルエット、白い光の小さな空のなかに燕の影が横切って映る--という形で風景をとらえた。その影は光の白い部分からはみだすと(広い空を飛ぶと)どうしても、牢獄の闇のなかを飛んでしまうことになる。その白い光の形の宙を横切る影、闇のなかへと飛んでいく影を見ながら、牢獄のなかの人物は外の世界を、視力ではなく、想像力で見る。視力だけで見える外の世界は小さな空だけだが、想像力でならほかのものも見える。

泥で描かれた子供たちの絵は
声もなく待つものもない
剥きだしの眼になって雲は絶えている

 「泥で描かれた」絵は、どこにあるか。おそらく牢獄の外の壁に描かれている。それは牢獄のなかからは見えない。牢獄に入る前にそれを見てきたのか。そうではなくて、想像力で牢獄のなかの人物はそれを見ている。壁に、泥で絵を描いてしまう子供たち。それはいつの時代にも、どこの国にもいる。牢獄のなかのひとは、絵を描くことを見ているのかもしれない。想像力のなかで、子供に還っているのかもしれない。
 雲は、遠いところで、壁に絵を描く子供たち、牢獄のなかにいる人を見ている。見ては、通りすぎる。「剥きだしの眼になって雲は絶えている」という一行は、川田がどういうイメージを想像して動かしたことばなのかわからないのだけれど、私には雲のない空に目が剥き出しの状態で浮かんでいるものが思い浮かぶ。その目は当然、牢獄ものぞく。--そうであるなら(と書くと、少し論理のたがをはずすことになるが……)、その雲は牢獄にいる人を眺めるのだから、その目は、もしかすると牢獄のなかにいるひとの現実の目、肉眼になるかもしれない。想像力が肉眼を雲のない空の高みにまで運んでしまう。その高みから、牢獄のなかをのぞく。牢獄のなかにいる男をのぞく。(男、と私は思わず書いてしまったが、女かもしれない。)
 そして、この「のぞく-のぞかれる」という関係が成立するとき、牢獄の内と外という関係も消えてしまう。想像力のなかでは、ふたつの世界を隔てるための「壁」がない。そして「壁」というものがなくなると、そこに「時間」だけが浮かび上がってくる。

川は流れ
戦争の匂いは消えても
もう遊べなかった

幼い胸に毒が刺さって
帰るところではないのに
テレジーンで
眼を伏せて小さな燕

 あるいは、と突然書いてしまうが。
 1連目の「きみが燕になって戻っている」は、詩を書いている川田(私)という存在かもしれない。私(川田)が牢獄のなかにいるひとにかわって、詩を書いている。そこでは、川田は「きみ」になる。
 この主客の交代(融合?)は、現実の壁(牢獄)と外の世界の交代(融合/いれかわり)、現実と想像力の世界の交代(融合)にも通じる。
 そして、そこに「期限」のない「時間」が浮かび上がる。戦争のために投獄された。戦争が終わって釈放されても、それは「自由」とは少し違った。失われた「時間」が、どうしても「いま」のなかへあらわれてきてしまう。
 その「時間」に困惑している「燕(私=川田)」の姿が見える。


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中井久夫訳カヴァフィスを読む(8)

2014-03-30 21:39:06 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(8)          2014年03月30日(日曜日)

 「老人の魂」の、肉体のとらえ方が私にはよくわからない。

擦り切れ、ボロになった身体の中に
老人の魂が座っている。

 この書き出しは、最終行で言いなおされている。

糸の見えるまですりきれた年代ものの皮膚の内側に。

 「身体の中」と「皮膚の内側」が重なり合う。そして、その皮膚は「糸の見えるまで」と具体的に「ボロ」の状態が説明される。
 布は新しいとき(若いとき)、目がつまっている。たしかに糸は見えない。
 「ボロ」というとき、私は、破れたりほつれたりしているものを想像するが、「糸の見えるまで」というのは、そういう状態とは少し違うようである。乱暴に扱ったためにボロになったのではなく、丁寧に扱ってきたけれど、だんだんやせて、糸そのものが細くなって織り目が見えてくる。それはほんとうにボロなのだろうか。年代物の貴重な品物のように思えてくる。

 そう思ったとき、詩のなかほどにある行が輝いて見える。

生活をいたく愛し

 「愛する」とは大切にすること。ただ愛するのではなく「いたく愛する」。「甚し」、激しく--これは真剣にということかもしれない。「とても」を超えている。「貴重なものとして」という価値判断が働いているかもしれない。
 そして、この「いたく」は「甚だしく」という意味を超えて、私には「痛く」という具合にも感じられる。自分の身体が「痛む」くらいに真剣にと読みたい。自分の肉体を犠牲にしても守り抜いた価値、という印象がある。
 肉体の痛みのように、魂の痛みを感じている。老人の魂の「痛み」が、老人の肉体をすかして見えると言いたくなる。
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セバスティアン・レリオ監督「グロリアの青春」(★★★★)

2014-03-30 20:52:38 | 映画
監督 セバスティアン・レリオ 出演 パウリーナ・ガルシア、セルヒオ・エルナンデス、マルシアル・タグレ

 この映画を楽しむには、かなりの度胸がいる。
 離婚した女が主人公。58歳。子供は独立して、距離を置いている。アパートに独り暮らし。金は、まあ、ある。困らない。でもさびしい。子供たちは相手にしてくれない。男も相手にしてくれない。恋愛がしたい。男がいない。で、ディスコに通っているのだが、そこで海軍の将校だった男と出会う。彼もまた離婚している。(している、はずである。離婚したが元の妻や子供たちの面倒をみている、という「ずるずる」した現実がある。)
 で、妻子に度胸を試されるのが、セックスシーン。女(グロリア)の体も、もう58歳なので、見ていてきれいとは言えないのだが、男の方も醜い。太った腹をコルセット(?)で固くしめつけて肥満を隠している。それがセックスのとき、グロリアに「これ、何?」と言われて、それをはずして(当然か)ベッドに入るのだが。
 セックスというものは別に他人にみせるためのものではないのだから、醜かろうが、コッケイだろうが関係ないはないのだが……それは「現実」の話であって、これが映画になると、ちょっと違うよねえ。実際に性交するかどうかではなく、それが官能的に見えるかどうか、つまり観客に、セックスはやっぱり重要、楽しい、美しい、してみたいと思わせることができるかどうかが大切。
 ここでこんな例が適切かどうかわからないが、ジェーン・フォンダとジョン・ボイトの「帰郷」。ジョン・ボイトは戦争で負傷して性器が勃起しない。そのジョン・ボイトとジェーン・フォンダのセックスシーン。ジェーン・フォンダが実に美しい。その官能に満ちた姿態に、ジョン・ボイトが「きれいだ」と声を洩らすのだけれど、そうか、セックスというのは性器の結合にこだわるわけではないのだ、ということを教えてくれる。官能は性器の結合だけではないと、わかる。
 それに比べると、いやあ、比べてはいけないのだけれど、ほんとうにがっかりする。こんな醜い体を引き合わせて、快楽をつかみださなければならないのか、快楽のために肉体はこんなにみっともない現実を生きているのか……。
 このシーンを、やっぱりセックスは美しい、と感じて見ることができるならば、まあ、印象はずいぶん違ってくるだろうなあ。
 しかし、ね。
 実は、このセックスシーンは、どうも醜く撮ってある。わざと美しくない形で映像化されている。二人はセックスはするはするのだが、そしてちゃんと絶頂に達するは達するのだが、どうも不全感がある。気持ちが完全に一致したのではない。(ここが「帰郷」の美しさとまったく違うところ。)その気持ちのすれ違いがセックス以外のところでも少しずつ出てきて、それがどうしようもなく積み重なって、ふたりを引き離してしまう。そういうリアリティーあふれる映画なのである。
 で、ちょっと逆戻りする形になるが、もう一度セックス描写。二人が実際にセックスをしてみせるシーンは、もう一度出てくる。グロリアが男を椅子に押し倒して、コルセットをはずし、女性上位の形で男を犯す(?)。このシーンが、とても官能的なのである。醜くない。一体になった、という輝かしさがある。
 男は押し倒されるまでで、その後はグロリアしか見えないから、これは女が主導権を握っているとき、男を支配しているとき、この恋は美しいという、映画の「根幹」を暗示しているのでもあるけれど。--グロリアは男を支配しつづけられない。男は、元の妻と子供たちのことをどうしても気にかけてしまう。グロリアが男をかまってくれないと、すねて、ひとりでホテルから帰ってしまうというようなところもある。チェックアウトもしないで、ひとりで帰ってくような子供っぽいところがある。
 それやこれやで、まあ、二人はわかれてしまう。わかれてしまって、また孤独になったグロリアは男を探しにまたディスコへ出かけていく……。ストーリーとしては、そういう感じ。ハッピーエンドではないのだ。
 度胸がいるでしょ? これを見て、「よし、幸福になるぞ」、男をあさって生きていくぞ、と思う女性が何人いるか。離婚して、あたらしい女と暮らしはじめるぞ、女を幸せにして自分も幸せになるのだと夢をもつ男が何人いるか。

 しかし。しかし、なのである。
 奇妙に引き込まれてしまう。グロリアを演じたパウリーナ・ガルシア。何だか演技を見ている気がしない。58歳の孤独な女の肉体をそのまま見ている感じ。手触りがある。男のまなざしに触れて、「私って、まだもてるかも」と顔が輝く瞬間とか、「あの男、嘘をついた、裏切った」と気づいて急に体の芯ががっしりと屹立する感じとか。絶品(?)は、昔の夫、息子、娘との食事のシーン。(息子の誕生日のパーティー)いまの恋人を連れていったにもかかわらず、昔の家族の雰囲気に溶け込んで、「ああ、家族って幸せ」と感じる表情とか。女の七変化。これを完全に演じきっている。なりきっている。
 この肉体を引き受けて生きる度強があるなら、この映画は傑作だろうなあ。度胸のない人は、見ないことをお勧めする。
                     (2014年03月30日、KBCシネマ1)





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林芙美子「歴史」

2014-03-30 10:13:00 | 詩(雑誌・同人誌)
林芙美子「歴史」(「現代詩手帖」2014年04月号)

 林芙美子「歴史」を読みながら、とても不思議な気持ちになった。「未収録詩篇」の一篇である。

悠々と来たり 悠々と去りゆく 夏の雲よ
私達に様々なおもひを植ゑるて流れてゆく夏の雲よ
疲労と成熟と そして再び
秋の新しい雲が流れて来ようと してゐる
刈草の愉しいすえた匂ひ
雁のさゞざき
夏の雲よ もうお前はかなり遠くまで行つてしまつた
入道雲 うろこ雲 鰯雲
悠々と彼方へ去つてゆく
思想を残して 観念を残して
白い虹の向うへ               (「あらくれ」一九三八年十月)

 書いてあることばは全部わかる。情景もそのまま思い浮かぶ。「夏の雲よ もうお前はかなり遠くまで行つてしまつた」というのは美しい行だなあ、と思う。
 思うのだが。
 さて、このとき私が思い浮かべている情景というものはどういうものだろう。遠いところ、目に見える空のいちばん遠く、たとえば水平線の方向とか山の端っことか、そういうところに夏の雲が見えるのか--違うなあ。この行を読むとき、私には夏の雲は見えない。そこには存在しない。ただ澄みきった青い空がある。大げさに言うと、「無」がある。夏の雲という興奮が去ってしまって、無がある。
 存在しないから「遠くへ行つてしまつた」と思う。想像する。見ているのではなく、想像している世界--それが、詩、ということになる。
 読み返してみると、すべてが「想像」なのだとわかる。「写生」ではなく、「現実」ではなく、頭の中で構成された世界だとわかる。
 私は、「悠々と来たり 悠々と去りゆく 夏の雲よ」というものを見たことがない。夏の雲というと「入道雲」がすぐに思い浮かぶ。それがむくむく沸き上がるのを見たことはある。その沸き上がる漢字を「来る」と言い換えることには違和感はない。けれど、それは「悠々」かなあ。私は、言わないなあ。そして、それは「悠々と去りゆく」というのとも違うなあ。でん、と居すわっている。入道雲は「流れて」はゆかない。「私達に様々なおもひを植ゑるて」ということはあっても、「流れてゆく」とはつながらない。
 もし「流れてゆく」とすれば、それは目の前の空を流れていくのではなく、「様々なおもひ」のなかを流れていく。意識のなかを流れてゆく。去ってゆく。
 「刈草の愉しいすえた匂ひ」をかいだときに、「雁のさゞざき」を聞いたときに--つまり、目ではなく、ほかの感覚器官が新しい何か(雲以外のものにふれたとき)、言い換えると夏の雲がそこにないと認識したときに、「夏の雲が去りゆく」。
 これは、おもしろいなあ。
 ほんとうに、そうだなあ。
 「秋の新しい雲が流れて来ようと してゐる」という行は、秋の雲がそこにはまだ存在していないと語っている。存在するのは「刈草の愉しいすえた匂ひ/雁のさゞざき」であって、秋の雲ではない。
 存在しないものが、存在するものと交錯しながら動いている。その「動き」が見えるのだ。「動き」を肉体が感じるのだ。
 これは、とても観念的なことばの運動だ。繰り返しになるが「写生」のことばではない。書かれていることばがあまりにもわかりやすいので、実際の夏の雲(入道雲)や秋の雲(うろこ雲、鰯雲、--どう違う?)を思い浮かべ、「去りゆく」「流れる」「遠くまで行ってしまう」というようなことばに刺戟されてセンチメンタルな気分にそまるが、そのセンチメンタルというのは、とても観念的なものだ。

思想を残して 観念を残して
白い虹の向うへ

 「思想」「観念」というあからさまに観念的なことばが、この世界が観念そのものであると語っている。さらに「白い虹」がそれを補う。「白い虹」って見たことある? 私は虹色(七色)の虹しか知らないし、それがはっきり七色かといわれると五色くらいしかわからないのだけれど、みんなが七色と言っているので、ついついそれにあわせて七色と言うだけである。
 自分の目に見えないことでも、ことばにできてしまうし、ことばにしてしまうと、それに思考をあわせてしまう。いや、肉体をねじまげてしまう。虹は、七色に見える、と肉体を説得してしまう。--これは、私だけの癖なのかもしれないけれど。
 
 で、詩にもどると。
 あ、そうか、「歴史」か……と「タイトル」にぶつかる。林は最初から夏の雲、秋の雲という「日本の風景」を描いているわけではないのだ。そういう意識はないのだ。季節の変化ではなく、「歴史」を見ている。
 大雑把に言ってしまうと、季節の変化というのは「期間」が短い。日本では1年で季節が一巡する。ところが「歴史」というのは「期間」が長い。1年で繰り返される(一巡してきたと勘違いする)ことも起きるかもしれないが、もっと長い十年、二十年、あるいは百年という単位で何かが交錯し、そういうことに出合うと「歴史は繰り返す」というようなことを実感する。
 林は、そういう「長い時間」を見ている。「時間の流れ」、事件の関連を見ている--ということが、ふっとわかる。
 そういう感じで、時間を感じる瞬間が、たしかにあるなあ、とも思う。
                          






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中井久夫訳カヴァフィスを読む(7)

2014-03-29 23:59:59 | 詩集
中井久夫訳カヴァフィスを読む(7)          2014年03月29日(土曜日)

 「第一段」は青年詩人エウメネスがこぼした「愚痴」に大詩人エオクリトスが答えるという形の詩。カヴァフィスは自身をエウメネスに見立てているのか。若い詩人をエウメネスに見立て、エオクリトスになりかわって青年を励ましているのか。後者と読みたい。エウメネスは詩の第一段にたどりついただけで、詩の高みにのぼれない、と愚痴を言う。

「ことばをつつしめ、
神をけがすことばぞ。
段一段にいることを
幸せとし誇りに思え。
ここまで来るのもよくせきこと。
きみの仕事はさてもあっぱれ。」

 「ぞ」ということばの強い響きがこころよい。さらに「よくせきこと」「あっぱれ」という代言止めのことばが、きっぱりとした印象を与える。よくせきこと「である」、あっぱれ「である」の「で・ある」が省略されている。省略することで、それがエウメネスの状態をあらわすだけではなく、テオクリトスの「意思」であることを証明する。テオクリトスが「よくせきこと」「あっぱれ」というから、それが「よくせきこと」「あっぱれ」になる。「ある」が「なる」にかわる。その「なる」にテオクリトスが深く関係している。この関与が対話の神髄だ。

市の理事会はりっぱな立法家ぞろい。
ヤクザな人物 歯牙にもかけぬ。

 最後の部分の、この二行がおもしろい。特に、「ヤクザな……」という行に「を」という助詞が省略されているところが、とてもおもしろい。「を」はあってもなくても、「意味」はかわらない。ところが「を」がないと印象が変わる。
 「を」がある方が「散文」に近い。「意味」がすっきりする。「を」がないと「歌」になる。「意味」以上のものがあらわれてくる。「わかりきった断定」(共有された断定)というものが、そこにあらわれる。
 きみはすばらしい詩人なんだ、ということがテオクリトスだけの判断ではなく、人々に共有された「認識」として、そこに浮かび上がる。「歌」は共有された認識である。
 そういう共通認識を、テオクリトスは彼自身のことばとして繰り返す。

ここまでくるのも並たいていじゃない。
きみの仕事はすばらしいんだ」

 ここを読むと、いままで書いてきたこととは逆になるが、カヴァフィスがカヴァフィス自身を鼓舞しているという気にもなる。どちらと読んでもいいのだろう。


カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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池井昌樹「内緒」

2014-03-29 10:48:31 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「内緒」(「破氷船」24、2014年02月28日発行)

 池井昌樹「内緒」は、わかるのか、わからないのか、よくわからないけれど、そういうあいまいさこそが「わかる」ということかもしれない。

いなかのいえのひだまりに
しんぶんがみひろげ
あつあつコロッケたべたっけ
かあちゃんと
くすくすわらってたべたっけ
まだかえらないとうちゃんや
じいちゃんばあちゃんいぬのコロ
みんないっしょでたべたっけ

 これは田舎の家でのある光景。家族でコロッケを食べている。「ひだまり」というから縁側かどこかだろう。なんとなく幸せで「くすくすわらって」いる。何が楽しいかわからないけれど、きっといっしょに食べるということがうれしいのだ。
 そういう「うれしい」がわかる。コロッケを「食べる」がわかる。
 でも、「まだかえらないとうちゃん」は、どうしたの? まだ帰らないなら、コロッケを食べられない。それなのに「みんないっしょでたべたっけ」。矛盾しているねえ。ことばを論理で追うと矛盾しているが、感覚的には矛盾しない。「とうちゃん」はいるときもあれば、いないときもある。ほかの家族もいるときもあれば、いないときもある。そして、いないときも、そこにいる感じがする。
 いま、ここにいなくても、いる。この矛盾が家族であり、その矛盾を「ひとつ」の世界にしてしまうのが、コロッケを「食べる」という動詞。「いっしょ」にという感覚。とうちゃんがいないときは、とうちゃんにも食べさせたいね、とうちゃんには内緒だよ、という矛盾した会話が家族。まだかえらない「とうちゃん」は、ときには「かあちゃん」であったり、「じいちゃん、ばあちゃん」であったりするかもしれないが、そういう「入れ換え」が可能なのが家族。だれかを思い、だれかには「内緒」で、それでも「みんないっしょ」というのが、「家族」。
 池井にとって「内緒」の「緒」は「一緒」の「緒」、「内証」と「証」の漢字をあてると違ったものになるのだろう。

いなかのいえのひだまりに
それからなにがあったのか
それからコロはいなくなり
そふぼもちちもいないくな
ははをしせつにおいやって
いまはもぬけのからのいえ
いなかのいえのひだまりを
いまごなぼくはおもうのだ
あとかたもないこのぼくは
かあちゃんと

 「それからなにがあったのか」。何があったかは、池井が書かなくても誰もがわかっている。「コロハいなくなり」「そふぼもちちもいなくなり」の「いなくなり」がどういうことか、だれもが「わかる」。わかっているから、ことばでは書かない。
 ひとは、わかっていることしか書けないが、同時にわかっていることは書かない。書かなくてもわかることは、書く必要がない。
 それでも、それのまわりのことは書いてしまう。
 何を書いているのだろう。
 「あったこと」を書いているのかな? まわりに「あったこと」。田舎の家で「あったこと」。でも「なにがあったのか」。うーん、ここでも循環してしまう。この循環は矛盾?

 その一方で、最後の「あとかたもないこのぼくは/かあちゃんと」。このしり切れとんぼの2行をどう読む? あとに、どんな「動詞」を補う?
 動詞を補う前に、「あとかたもないこのぼく」をどうとらえるといいのか。「ぼく」は詩を書いている池井。それなのに「あとかたもない」というのは矛盾。いや、これは、田舎の家にはいないということなのだから、矛盾ではないのかも。
 えっ、そうなのか?
 では「かあちゃん」は、どこに? 施設に? そうではなく、「いなかのいえのひだまり」に「いる」。そして、そのとき「いなかのいえのひだまりに」は「あとかたもない」はずの、このぼく(東京にいる池井)の、その「コロッケをいっしょにたべた」という「思い出」が「かあちゃん」と「いっしょに」「いる」。
 「なにがあったのか」書かなくてもわかるように、「いっしょにいる」がわかるから、書かないのだ。いや、池井の場合は、それは「本能」として「書けない」のだ。「本能」は「書けない」を選んでしまうのだ。

 私の書いた感想が正確がどうかわからない。書きながら、わからない。けれど、池井が田舎の家を思い出し、日だまりを思い出し、コロッケを家族でいっしょに食べたことを思い出し、「かあちゃん」もそれを思い出しているだろうなあ、ということはわかる。
 池井の肉体のなかで、そして「かあちゃん」の肉体のなかで起きている「こと」は、わかる。
 「わからない」があるからこそ、逆に、つよく「わかる」。

 私は実は大学受験のかえりに、坂出の池井の家に遊びに行ったことがある。「かあちゃん、とおちゃん、ねえちゃん」がいたことをおぼえている。顔はおぼえていない。そこで、「かあちゃん」から「食べ物では何が好き?」と聞かれ「キャベツの刻んだものが好き」と答えたら、夕食にとんかつが出た。えっ、そういうつもりで言ったのではなく、ほんとうにキャベツを刻んだ、単なる野菜が好きだったのだが。私の田舎の家ではとんかつなんか食べないから、とんかつを食べたいとは思いもしなかった。そうか、池井の家ではとんかつを食べるのか、と思った。そのとんかつのおかげで、私は旺文社のテストで合格率4%以下の大学に合格することができた。(時系列が逆?)そんなふうに、ときどき思い出す。「とおちゃん」は厳格で、「ねえちゃん」はピアノが上手だった。風呂はなぜか浴槽がふたつあった、ということもおぼえている。その思い出と「いっしょ」に、池井の田舎の家は、私の肉体になっている。
                          
これは、きたない (1979年)
池井 昌樹
露青窓
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(7)

2014-03-29 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(7) 
         
 「第一段」は青年詩人エウメネスがこぼした「愚痴」に大詩人エオクリトスが答えるという形の詩。カヴァフィスは自身をエウメネスに見立てているのか。若い詩人をエウメネスに見立て、エオクリトスになりかわって青年を励ましているのか。後者と読みたい。エウメネスは詩の第一段にたどりついただけで、詩の高みにのぼれない、と愚痴を言う。

「ことばをつつしめ、
神をけがすことばぞ。
段一段にいることを
幸せとし誇りに思え。
ここまで来るのもよくせきこと。
きみの仕事はさてもあっぱれ。」

 「ぞ」ということばの強い響きがこころよい。さらに「よくせきこと」「あっぱれ」という代言止めのことばが、きっぱりとした印象を与える。よくせきこと「である」、あっぱれ「である」の「で・ある」が省略されている。省略することで、それがエウメネスの状態をあらわすだけではなく、テオクリトスの「意思」であることを証明する。テオクリトスが「よくせきこと」「あっぱれ」というから、それが「よくせきこと」「あっぱれ」になる。「ある」が「なる」にかわる。その「なる」にテオクリトスが深く関係している。この関与が対話の神髄だ。

市の理事会はりっぱな立法家ぞろい。
ヤクザな人物 歯牙にもかけぬ。

 最後の部分の、この二行がおもしろい。特に、「ヤクザな……」という行に「を」という助詞が省略されているところが、とてもおもしろい。「を」はあってもなくても、「意味」はかわらない。ところが「を」がないと印象が変わる。
 「を」がある方が「散文」に近い。「意味」がすっきりする。「を」がないと「歌」になる。「意味」以上のものがあらわれてくる。「わかりきった断定」(共有された断定)というものが、そこにあらわれる。
 きみはすばらしい詩人なんだ、ということがテオクリトスだけの判断ではなく、人々に共有された「認識」として、そこに浮かび上がる。「歌」は共有された認識である。
 そういう共通認識を、テオクリトスは彼自身のことばとして繰り返す。

ここまでくるのも並たいていじゃない。
きみの仕事はすばらしいんだ」

 ここを読むと、いままで書いてきたこととは逆になるが、カヴァフィスがカヴァフィス自身を鼓舞しているという気にもなる。どちらと読んでもいいのだろう。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(6)

2014-03-28 23:59:59 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(6)          2014年03月28日(金曜日)

 「ろうそく」は死者にささげる灯明を描いているのだが、老いた男色家の自画像のようにも見える。ろうそく暖かい輝きに目がゆき、その描写をしがちである。カヴァフィスも一連目では「金色に輝く」と書いているのだが、それは二連目以降の弱々しいろうそくを対照的に浮かび上がらせるためである。

過ぎた日 過去に置き去った日は
燃え尽きたろうそくの陰々滅々の列。
いちばん手前のは まだくすぶっているが
曲がって 溶けて もう冷たい。

 まだ、死なずに生きている。だから死者に灯明をささげることができるだが、思い出すのは過ぎ去った日々。「置き去った日」というのは、「老人」の「楽しまずに過ごした歳月」を思い起こさせる。あるいは「強く賢く見目よかった時」を思い起こさせる。その記憶があるからこそ、最後の火をともしながら、形がくずれてしまったろうそくが目にさわる。「もう冷たい」がきびしい。火がともっているのだから冷たくはないはずである。熱があるはずである。しかし、「もう」を感じ取っている。詩人とは、現実にあるものをとおして、これから起こることを見てしまう人のことである。
 カヴァフィスは、これから起きる老年をろうそくに見ている。

見たくない、過ぎた日のろうそく。恰好も悲しい。
もとの光を思えば いっそう悲しい。
私は前を見る、私の燃えて輝くろうそくを。

ふりむきたくない。見たくない、怖い。
黒い列がなんと速く伸び、
なんと早く また一本 死んだろうそくが仲間に加わることか。

 「もとの光」の「もとの」は「過去の」という意味と同時に「本来の」という意味を含んでいるだろう。「過去の」輝きこそ「本来の」輝きである。それに対して「いまの」輝きは「本来のものではない」。「怖い」というのは、年をとると「本来」ではなくなるということをも意味する。ほんとうのカヴァフィスを失っていく、「本来」を失うことが怖いのである。
 最後の「仲間」ということばが、ろうそくを「もの」から「人間」にかえる。そして、そこに男色のかなしい秘密がある。単なる「列」ではないのだ。共有した秘密があるのだ。それが「列」を「仲間」にかえる。
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白井知子「落とし主はだれでしょうか/お母さん」

2014-03-28 09:39:24 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「落とし主はだれでしょうか/お母さん」(「幻竜」19、2014年03月20日発行)

 白井知子「落とし主はだれでしょうか/お母さん」は5つの部分から成り立っている。そのうちの「(エルベ河をさかのぼる)」。

ドイツ東部のドレスデン
第二次大戦末期 連合軍から 徹底した無差別爆撃をうけ
中心部は ほぼ灰塵にきした街
あなたは ドレスデンを流れるエルベ河を
船でさかのぼったとき
花柄の大判のスカーフを手すりに巻きつけてしまい
そのまま忘れてきたと 残念がっていた
それを 大事にたたんで
とあるリトアニアの青年が自宅まで持ちかえり
ユリさんかしら リナさんかな 母親への誕生日 驚かせようと
錆びた電気スタンドを磨き
あなたのスカーフは
息をのむような
華やかなショールになっている

 「あなた」と呼ばれているのは、詩の全体を読むと、最初の部分に書かれている「マダム・ヴィオレ」ということになるかもしれない。しかし、名前にこだわる必要はないだろう。詩のなかでも、青年の母親は「ユリさんかしら リナさんかな」と特定はされていない。「お母さん」でいい。お母さんは、方々で忘れ物(落とし物)をする。してしまった。そういう話を娘に語る。娘はそれを思い出して、ことばに書きこめた。それが、この詩。詩を書きながら、白井はだれであるかわからないひとから聴いたことを思い出しているのかもしれない。もしかしたらその娘に会って、母の思い出話を聞かされたのかもしれないが、それはほんとうにその娘の母の話だったのか、あるいは娘が母から聴いただれかの話だったのか、わからない。わからなくてもいいのである--と書くと、白井に叱られるかもしれないけれど、実際にあったことを書いているのだと抗議を受けるかもしれないけれど。
 わからなくてもいい。だれの体験かわからなくてもいい。
 スカーフを船の手すりに巻きつけて(風が強かったのか、あまりにも晴れ渡っていて暑かったのか)、それをそのまま忘れてしまった。その忘れていったスカーフが拾われてスタンドのシェードになった。その「こと」と「スカーフ」がわかればいい。スカーフがシェードにしたくなるような美しいものだった、と想像できればいい。スカーフの美しさを、なんとかスカーフ以外の形にしてあらわしてみたいと思った青年がいた、ということがわかればいい。
 それでは、スカーフを忘れてしまった「おかあさん」がかわいそう? そうかもしれない。しかし、違うことも考えられる。

 世界は 未知の人と人とのつながりが
 ほのかに さりげなく ひそんでいる
 淡い微光が さらさらと 流れてくる

 「もの(スカーフ)」が動いていくとき、そこに「人と人とのつながり」がある。その「人」が互いに「未知」であっても、つながっていく。そのとき、人は人を知らないだけではなく、実は、その「つながり」そのものをも知らない。スカーフが「どんな形」で利用されているか、スカーフが何に変化しているかも知らない。世界は「未知」へと動いてく。その動きに人は知らずに参加している。
 こういう理屈(説明?)は書かなくてもいいことかもしれない。書かずに、読者の想像に任せればいいことかもしれない。
 けれども、白井は書きたいのだ。
 「未知の人と人とのつながり」を書きたい。だから、そのあとの部分でも、ある物語が書かれたあと「未知の人と人とのつながり」に似たことばが必ず書き添えられる。一度書けばわかることでも、何度でも何度でも書きたい。
 人のキーワードにはあまりにも肉体になってしまっているために書き忘れてしまうものと、何度書いても書いたことを忘れてしまうほど繰り返してしまうものがある。「さっき、それ聞いたよ」「えっ、そうだった?」という感じである。ことばにした感覚がない。ことばという感覚がない--という意味では、一度も書かれないことばと同じなのである。
 では、なぜ、書いたことを忘れてしまうのだろう。
 「未知の人と人とのつながり」と白井は書いているが、そこには「他人」が動いているだけではないのだ。スカーフを忘れたお母さんと、それを拾った青年が互いに未知であり、その二人が「つながり」をもっただけではないのだ。そこには青年の「おかあさん」もつながってくる。そして何よりも、そのことを書くことで白井自身が「つながり」のなかに含まれてしまう。この無意識の白井こそ、白井のことばこそが「つながり」なのである。「つながり」ながら、でも、そのとき白井は消えるのである。白井は、いない。無意識だから、消えてしまってもそのことに気がつかない。
 白井は、スカーフを忘れたお母さん、スカーフを拾った青年、シェードをプレゼントされたお母さん、スカーフそのものになっている。「つながり」、「つながる」という「こと」になってしまっている。
 「つながり」が白井の「肉体」。「つながり」に「なる」ということが白井の肉体のあり方。
 「つながり」という「肉体」になりたい、その、ことばにしないかぎり存在しない「肉体」、そういうものに突き動かされているから、何度でも書く。その瞬間その瞬間の「欲望(本能)」なのだ。本能は何度でも押し寄せる。
 「本能(欲望)」というのは隠していても見える。それは逆に言えば、「本能」というのは剥き出しにしていても、本人は剥き出しにしているとは気がつかないもののことである。
 こういう正直って好きだなあ。裸よりももっと裸でつややかだ。
 正直な本能というものは、iPS細胞のように、どんなものにもなりうる。別な存在になって、いちばん美しい形になって動いていく。別なものに「なる」というのがiPS細胞の本能であり、それを人は「可能性」と呼ぶ。
 本能(欲望)は可能性と同義語なのである。
 こういう正直というのは、それこそ「未知の人」にも直接つたわる。その人が「頭」で何を考えているかわからなくても、人は他人の本能(肉体)がわかる。腹が減っているとか、血を流して苦しんでいるとか、そういう肉体の動きは「動詞」そのものとしてつたわってくる。何になりたいかが、わかる。何か自分の知らないものに変わりうる「可能性」だとしたら、それに触れてみたくなるよね。それに触れれば、自分も変われる。iPS細胞を自分の肉体に組み込めば、自分の肉体の不十分なところがかわっていくという可能性……。その夢。
 そういうことにつながる「本能」を無防備のままさらして(?)、白井は世界の人と出会っているのだなあ、その出会いが詩のことばになるのだなあ。白井のあった人で、白井を嫌いという人はいないだろうなあ。私は白井とは面識がないけれど、白井のことばを読むと、そういう「正直」だけが触れあう出会いを目撃している(出会いに参加している)ような気持ちになる。                          



地に宿る
白井 知子
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(5) 

2014-03-27 23:59:59 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(5)          

 「サルベドンの葬儀」。サルベドンはゼウスの息子。神の死を描いているのだが。

肌を白くし、真珠の櫛で
漆黒の黒髪をくしけずる。
美しい手足を伸ばし 整える。

こうすれば さながら青年王。
戦車を御する王のよう。
二十五歳か六歳か。

 まるで若い人間の肉体のよう。「肉感的」だ。こうしたことば運びが「男色」のにおいを放つ。
 「肌を白くし」は「肌の汚れを落とし」、あるいは「肌を洗い清め」という感じなのだろうけれど、「白くする」ということばのなかに、その肌が白く輝いているときがいちばん美しいという思いがある。肌を「白い」と見ている目が動いている。「汚れを落とす」や「洗い清める」では、いちばん美しい状態がどんなものであるかわからない。その美しさに何を見ていたのかがわからない。髪をくしけずるのも、その髪がいちばん美しい状態を知っているからだ。手足をのばすのも、すっきりと伸びた手足の美しさを知っているからだ。ここには悲しみよりも、何か、その美しい肉体に触れるよろこび、自分の手で青年が美しくなっていくのを確かめるよろこびがある。「こうすれば」は「こうしたい」という愛欲を含んでいる。
 そして、この「こうしたい」という願望が死者を「青年王」に変える。
 カヴァフィスにとってゼウスの息子ではなく、サルベドンは「青年王」だったのだ。人間だったのだ。そして、カヴァフィス自身は、その青年王の奴隷だ。青年王の戦車の馬でもいい。近くにいて、その肉体を感じるとき、カヴァフィスに官能が走る。
 「二十五歳か六歳か」。このあいまいなことばもおもしろい。「ほんとう」を知らない。つまりカヴァフィスは青年とは知り合いではない。「こうすれば」と同じように、願望がまじっている。彼がどういう人間なのか。白い肌、漆黒の豊かな髪、美しく伸びやかな手足。それは肉眼で見て知っているが、それ以外のことは知らない。知らないがゆえに、青年に惹きつけられていくこころがなまなましい。年齢が特定されると、想像しているこころの動きが小さくなる。いま、こころに起きている「こと」という感じが薄れる。

さて市から腕のたつ石膏と
有名な彫刻家がやってきて
墓と墓誌をつくったと--。

 最後の「……と--。」このあとには「言われる」が省略されているのだろう。そこには自分だったらこうするのに、という思いが隠れている。それもなまなましい。
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ジェフ・ニコルズ監督「マッド」(★★★★★)

2014-03-27 10:22:47 | 映画
監督 ジェフ・ニコルズ 出演 マシュー・マコノヒー、タイ・シェリダン、ジェイコブ・ロフランド、リース・ウィザースプーン

 アメリカ版「泥の河」という感じのする映画である。水上生活者が出てくること、こどもが大人の世界をかいま見ることが似ている。大きく違うのは、主人公たちの年齢である。「マッド」の方が少年の年齢が高い。14歳。大人の世界の複雑さが、「泥の河」よりも濃厚に描かれる。
 この映画でいちばん引きつけられるのは、仕事をするということがきちんと描かれているということ。主人公の少年は父親の仕事を手伝うことで金をもらってる。朝、魚を積む仕事に遅れた。そうすると賃金を半分しかもらえない。「10ドルのはずだ」と不平をいうと「積み荷の仕事をしていない」と拒否される。主人公の友達も、いっしょに暮らしている叔父の貝取りの手伝いをしている。そういう日々の積み重ねがあって……。
 主人公がボートのエンジンを盗む。少年は廃棄物(くず)だ、と主張する。それに対して父親は「その男はその廃棄物で生活している。生活の手段を盗むのはいけない」というようなことを言う。盗みはいけないことであるが、なぜ、それがいけないのか、それをきちんとことばで説明する。生活する、生きるとはどういうことかを言って聞かせる。ここが、とてもいい。
 少年には大人たちのやっていることが、よくわからない。愛し合っている。それでも、わかれる。愛し合っている、それがわかっているのに裏切る。裏切られても、まだ愛しつづける。そして、そこに生きるための仕事をしなければならないということもからんでくる。それは、思ったようには、うまくかみあわない。--どうしてなのか、それは少年にはわからない。たぶん、大人にもわからない。
 そのわからないものに、わからないまま、向き合っている。
 この「わからない世界」に、「よそもの」が突然あらわれる。マシュー・マコノヒー。人を殺したらしいことがだんだんわかってくる。恋人がいて、その恋人のために相手の男を殺した。そこに、少年は一種の「純粋さ」を見出す。少年は「純粋さ」(愛)を信じたいのである。それは唯一少年に「わかる」世界なのだ。で、少年は「純粋」な生き方の夢のために、マシュー・マコノヒーのために行動する。リース・ウィザースプーンに手紙を届けたりしながら、連絡役をつとめる。
 ところが、少年が夢へ見た「純粋な世界」も純粋ではなかった。リース・ウィザースプーンはマシュー・マコノヒーとほんとうにいっしょに逃げるつもりはない。マシュー・マコノヒーも自分では行動せずに、大事なことは全部少年にやらせている。少年を利用している。少年に泥棒までさせている。
 少年は、何もかもが「間違っている」と感じる。自分の信じているものはどこにもない、と感じる。「恋人(ガールフレンド)」と思っていた少女は少年を恋の相手などとは思っていなかった……。
 でも、そうではなくて。ひとはひとを裏切っているようにみえても、どこかで真剣にひとのことを考えて行動する瞬間がある。それは本人が気づかないときに、そうされている。本気で心配され、本気で誰かのために動いている。
 少年がカワマムシ(?)に噛まれて倒れたとき、マシュー・マコノヒーは少年を病院へ運ぶ。自分が追われていることも忘れて、少年を病院へ運ぶ。このときのマシュー・マコノヒーの真剣な表情、真剣を動きがとても輝かしい。(「ダラス・バイヤーズ・クラブ」の演技よりも、この映画の演技が美しい。)少年は、それを自分の目では見ていない。これが、この映画の、深さである。強さである。観客だけが、それを知っている。観客だけに伝えればいいことは、くだくだと映画のなかで説明しないのだ。
 で、ここから思い返すとき。
 父親が少年に盗みをするなんて、と怒るとき。あの父親の表情、さらに母親の表情も非常に美しい。少年は、がらくたを盗んだくらいでなぜ怒るんだと不満な顔をしている。少年には、両親の美しさが、そのときにはわからない。マシュー・マコノヒーに命を助けられた今なら、わかるかもしれない。
 見ているその瞬間も何かいい感じだなあと思うけれど、それをどう語っていいのかわからなず、あとから思い起こすとさらに美しく輝くシーンが、この映画には多い。たとえば、主人公の友達と叔父との会話。潜水具を片づける手伝いをしているとき、友達は「潜水帽がくさい」と言う。汗のにおいだね。その即物的な反応に、叔父が笑う。「それが働くってことだよ」とは言わないが、その言わなかったことばが観客にだけつたわる。その美しさ。
 ラストシーンも好きだなあ。殺し屋の銃撃を逃れてきたマシュー・マコノヒーとサム・シェパード。船は河を下って、海にたどりつく。広々とした光。何があるというわけでもないけれど、自分の思う通りに生きてきて、その「流れ」の果てに、広い光につつまれる。河は流れ、海に至る。そのだけのことなのだけれど、主人公の少年も、やがけそういう広い明るいところへたどりつくのだな、たどりついてほしい、と思わず祈ってしまうシーンである。

 この映画には、ほかにもいろいろ書きたいことがある。マシュー・マコノヒーの演技については少し書いたが、前半の、うさんくさい、けれど不思議に「男」のにおいを感じさせる演技。マシュー・マコノヒーに比べると、少年の父親には、父親のにおいはあっても男のにおいがない。不良っぽさと、純粋さ。父親とは違っただなしのなさ。それが少年を助けるとき、集中力の強い輝きにかわる。その激変を具体化する演技のすばらしさ。
 リース・ウィザースプーンも、「キューティ・ブロンド」をやっていたミーハーお姉ちゃんと同一人物とは思えない生活感。モテルの廊下で外をぼんやりみつめ、そこにマシュー・マコノヒーを見つけたときの表情、あるいはバーで男といっしょに飲んでいるのを少年に見られた目。いいなあ。疲労その底を、別の感情が、一瞬すばやく駆け抜ける。
 水の風景、特に主人公の友達の叔父が貝取りをするシーン、泥が舞い上がるシーンの薄暗さ。その質感がいいなあ。自分の領分をここ、と決めて働いている叔父の肉体と一体になっている。
 華やかさはない。クライマックスの銃撃戦さえ、ぜんぜん劇的ではない。ドラマチックではないのだが、そのドラマの欠落(カタルシスの欠落)が、映画そのものをどっしりと落ち着かせている。小さな作品なのだが、思い返すと(感想を書きはじめると)、その重さにたじろいでしまう作品である。

 映画からは少し離れるのだが、いま、こどもたちはどんな仕事をしているのだろう。私のこども時代は、田舎だったせいかもしれないが、田や畑の仕事を手伝わされた。学校からかえると、畑へ行って耕す、というようなことは日常的だった。この映画のなかで少年たちが父親の仕事を手伝っている感じそのままだったが、今は、どうなのだろう。
 仕事をするということを肉体でおぼえないうちに、就職すると、何かが違ってくるなあと思う。余分なことかもしれないけれど、ふと、思った。
                      (2014年03月26日、KBCシネマ1)





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中井久夫訳カヴァフィスを読む(4)

2014-03-26 23:59:59 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(4)
          
 「祈り」は嵐の日の遭難と、息子の無事を祈る母の姿を描いている。

背の高いローソクに火をともした。
はやく帰ってきますように 海がなぎますようにと

祈り 風の音にも耳をそばだてた。
母がいのり こいねがう その間、

母の待つ子の永久に帰らぬを知るイコンは
じっと聴いていた、哀しげに 荘重に。

 「背の高い」ろうそく。そのその高さ(長さ)は母親の気持ちの深さと一致する。こころが「もの」として具体的に描かれている。気持ちを「もの」に代弁させている。ここに「劇」のはじまりがある。
 祈る母とその祈りを聞くイコンとの劇。
 イコンの方の描写でおもしろいのは、「母の待つ子の永久に帰らぬを知るイコン」という部分。「帰らぬを知る」が強い。これは「帰らぬことを知る」の「こと」が省略された形だが、「こと」という名詞が省略されているために、その「こと」が固まらない。不定形のまま「動いている(事件が起きている)」という印象が強くなる。
 中井久夫の訳には、こういうことばの省略が多い。論理的な印象を最小限に抑え、何が起きているのかを直接あらわそうとする姿勢が見える。
 その直前の「母の待つ子の」という「の」の連続が、また、興味深い。「母が待つ子の」「母の待つ子が」とは印象が微妙に違う。格助詞「が」がないと、だれが主格なのか一瞬わからなくなる。母と子が一体化して、分離できないということが、直につたわってくる感じがする。
 先に書いた「こと」のなかには、この「母と子」の一体となったものが含まれている。嵐の沖で起きていることは、世の中の「現象」としては息子の遭難(息子の溺死)であるけれど、母親にとっては、それは自分の溺死なのである。自分の溺死であるからこそ、「こと」という名詞で客観化できないのだ。
 そこでは、まだ事件は「完了」していない。つづいている。
 つづいているから、イコンは「じっと」している。「荘重」にならざるを得ない。

 二行一連の詩の構造だが、最後の連をのぞいては倒置法になっている。一行目に句点がある。最後だけ逆になっている。ただし、その最後の一行は、その行自体が倒置法になっている。このリズムの変化もおもしろい。「哀しげ」「荘重」というふたつのことばが、最後にろうそくの明かりのように浮かび上がる。

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高塚謙太郎「夏の思い出」

2014-03-26 11:02:52 | 詩(雑誌・同人誌)
高塚謙太郎「夏の思い出」(「ウルトラ」15、2014年03月20日発行)

 高塚謙太郎「夏の思い出」には、非常に印象的な1行がある。

うら声のひびきのいろとりどりは傘とひらくさ

 「意味」は、……考えない。「意味」というのはつくりだそうとすれば、いくつでもつくりだせる。この1行だけではな何のことかわからないのだけに、どこまでも気楽に「誤読」できる。
 とはいうものの。
 「誤読」したいという気持ちを起こさせる行と、そういう気持ちにならない行というものがある。この行は、非常に「誤読」をそそる。だから、こまっている。こまったまま、この1行が印象的と書いたのだが。
 何が印象的か。音である。
 「ら行」のゆらぎ、「ら行」が「ど」という濁音とまじりあい、音につややかさがあふれる。ひとによって発声(発音)の仕方はちがうだろうけれど、そしてT(D)の音は「ら行」をL、Rのどちらとも馴染むけれど、私の場合濁音(D=ど)のときはRの方がはるかに発音しやすい。Rの方が子音の発声する場所がのどの奥に近い。舌は口蓋の奥にひっこむ。濁音はのどの奥を膨らませる感じがあり、そのためにRが近しい感じになる。いっぽう清音(T=と)の方はLが馴染みやすい。TもLも、両方とも舌が歯の近くにやってくる。
 さらにいえば、私の場合、ら行をL、Rでつかいわけるとき、あとに来る母音によって発音の難易度(?)がかなりちがう。Rを巻き舌で発音しようとすると、「り」はかなり意識してしまう。「り」はLの方が発音しやすい(省力的に発音できる)。ただし、その前にDがあるとRの方が楽である。ひらがなで書いてしまうと、そしてそれを五十音図にあてはめてしまうと、この発声器官の問題はごちゃごちゃになるのだが……。アルファベットで書いてみると、「いろとりどり」は、私の発音では

I・LO・TO・LI・DO・RI

になる。「I・RO・TO・LI・DO・RI」もありえるけれど、「ろ」のつぎの「ど」を考えるとLの方が省エネ発音ができる。最後の「り」を「LI」で発音するときは、濁音の「ど」の子音「D」はかなり弱い音になってしまう。

 あ、なんだか、ごちゃごちゃと、わけのわからないことを書いているのだけれど。
 この音の交錯する感じ(音といっしょに肉体が微妙に交錯する感じ)が、「意味」そのものをもかきまぜる感じにつながる。「意味」を考える前に、私は、そこにある音に反応して「快感」を感じている。「肉体」の快感が先にあって、それから「意味」を考えるのである。(ここでは、まだ「意味」については何も考えていないけれど。)
 「うら声」が「ひびき」という濁音を含む音によっていったん「肉体」の内部にも反響したあと、「ひらくさ」と解放されるのも楽しい。
 --この「肉体のよろこび」(声を出すときよろこび、聞くときのよろこび)を、なんとか、この1行にからませたいなあ、どうすればからんでくるのかなあ……というようなことを考えたくなるのである。(と、書きながら、私は、まだ「意味」を考えていない。たぶん、これからあとも考えない。)

 その前の1行は

壷はいろがみの暗さにそうて笑うが

 なのだが、これも不思議だなあ。私の好みとしては、「いろがみ」の「が」、「笑うが」の「が」は鼻濁音でなければならないのだが、高塚はどう発音するのかな? 鼻濁音の場合、音がゆっくり「肉体」に広がっていくね。息といっしょに外に出るだけではなく、鼻腔に振動がしばらく残る。この感じと「そうて」の「う」がとても似合う。「そって笑うが」だったら「が」は破裂音でもいいけれど。

 どんどん脱線してしまうが。
 私は黙読しかしないのだが、黙読しながらも、その音を目以外の肉体は読んでいて、音が肉体に気持ちよくないと先へ進めない。音の聞こえて来ないことばは読むことができない。そして、音が聞こえると、それだけで何かを「誤読」したくなってくる。

くちびるが散ったのでつゆのあとさきも捻れて
はなびらを思い出し晴れに白くしろく吸いつく

 よくわからないが、そこには男と女がいて(同性であってもいいけれど)、肉体が近づいたり離れたりしている。ふれあっている。この「ふれあい」のなまなましい感覚が、発音の音の交錯にとても似ている。
 高塚が何(どんな意味)を書いているか、私にはわからないが、そのことばの「音」そのものが肉体となって、ふたりの人間をつないでいる。
 そう「誤読」してしまう。

まぶしい日曜日の朝のくらいいつも白いみたいに
そこまでさらっていくとぬれた微熱が折られて

 という3連目の2行は、それまでのふれあって、互いの体温を感じるような軟らかさを欠いていて(音もざらざらしていて)好きになれないが、

われたばかりの壷をひろって花ともえよう

はだらいろにいろづいた紙のほそいのどにふるえてろ

 というのも、音が肉感的だなあ。

 「お家たんじょう」の次の2行、

お米をといでおいてくださいなおこめをくださいな
念じるなかからひろがるわっわたしたちの家が

 の「おこめ」は「おめこ」と読んでしまいそう。読みたい。とういようなところから、「家」が見えてくる。「おめこ」ではな、「おこめ」だ、と高塚は叱るかもしれないが、私は気にしない。書き出しの、

目をこすって立っていろよ姉のゆびすじのごとく
入り婿をひらいたり閉じたりするそのゆびの

 これって、どうしたってセックスを連想させるからね。高塚の詩の、あることばの響きは「誤読」を誘ってなまめく力を持っている。
 これは高塚の魅力のひとつだね。
                          


さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(3)

2014-03-25 23:59:59 | カヴァフィスを読む
カヴァフィスを読む(3)               

 「アキレスの馬」。

パトロクロスの死を見て
アキレスの馬は泣きだした。
ああ、勇敢な勇士、それもあんなに若くて--。
馬たちは不死だったが
死の仕業を見せつけられて動転した。

 中井久夫の訳は、ことばの選び方が複雑である。「馬は泣きだした」の「泣く」は、ふつうは人間につかうことばであって、動物の場合はつかわない。「泣く」が感情をあらわすからだ。動物には人間の感情はないから「泣く」とは言わない。
 けれども、詩だから、流通言語ではないのだから、そういう逸脱が許される。また、そういう逸脱が詩というものなのだろうと思う。
 この書き出しでは、「泣く」以外にも、「動転した」にも私は何か似たような感じをもった。人間には「動転した」という表現はあっても、動物にはどうだろう。つかわれているのを読むと「意味」はわかるが、自分では書かないなあ(言わないなあ)と思う。もっと動物っぽい制御できない動きをあらわす動詞をつかうと思う。めちゃめちゃに飛び跳ねた、制止を振り切って逃げようとした、とか。--そういう激しい動きを「動詞」そのものではなく、「動転」という「名詞」で表現している。(動転するは、「動転」という名詞から派生した動詞だと私は思う。ことばとしては動詞よりも名詞の方が先に成立していると思う。)このために、何か、その「動転した」が人間的に見える。理性で自分を見つめなおしている感じがする。そのために、馬が人間に見えてくる。
 「見せつけられて」にも何かそれに通じるものがある。何かを単に見るのではなく、見せつけられる。そこには見せつける人間がいる。見せつける人間がいて、見せつけられる人間もいる。
 ここでは人間と動物(馬)が区別のない「肉体」のように動いている。まるで神話である、と思っていると……。

ゼウスは 不死の馬の涙をみそなわし
哀れを催され のたもうた。「ペレウスの結婚式での
わしのふるまい、軽率じゃった。

 「みそなわす」「のたもう」という現代ではつかわない「文語」っぽい表現が出てくる。「じゃった」という「口語」も出てくる。
 一篇の詩のなかで「調子」の違うことばがぶつかりあう。そのぶつかりあいが、事件そのものの何か以上に、「こころ」を感じさせる。そこで何が起きているか以上に、その起きたことを見た「こころ」で何が起きているのかを教えてくれる。中井久夫の訳は、「こころ」で起きていることを訳で再現している。


カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ベトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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