詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ことばと報道

2018-08-31 11:08:53 | 自民党憲法改正草案を読む
ことばと報道
             自民党憲法改正草案を読む/番外222(情報の読み方)

 2018年08月31日の読売新聞(西部版・14版)の2面。

もんじゅ廃炉へ一歩/燃料1本目取り出し

 という見出し。これは30日の夕刊(1面)の「もんじゅ燃料取り出し/30年間の廃炉作業開始」の続報である。

 この記事を読みながら、私は、別の事故と、その報道のことを思い出した。東海村JOC臨界事故である。ウランを精製する過程で、作業員が被曝し、後に死亡している。
 この事故が起きたときの「記者会見」のことを私は覚えている。テレビで放送されたからだ。私はたまたま職場でテレビを見た。
 動燃側は「事故」とは言わずに「事象」ということばをつかった。
 記者の側から「なぜ事故とは言わないのか」と「ことば」を問題にする発言があった。動燃側は、「全容が解明されていないので」というような奇妙な答え方をした。
 人は何かをごまかすとき(隠すとき)、「ことば」で隠す。だから、いつでも「ことば」を問題にしないといけない。
 「事象と言うのはなぜなのか、なぜ事故と言わないのか」と問うた記者の質問は重要だ。
 しかし、このとき、その場にいた記者は、もうひとつの大事な「ことば」を聞き漏らしている。問い詰めていない。
 マニュアル通りに作業していれば起きない事故なのに、どうして事故が起きたのか。
 動燃は、私の記憶によれば、

普通はつかわない用具(道具)で作業した

 と答えている。
 これを聞いて、テレビを見ていた私と同僚は「普通はつかわないものが、なぜ、そんなことろにあるのか」「(動燃で)普通はつかわないものとは何なのか」と、思わず声をあげてしまったのだが、記者は質問していない。
 その後、その普通につかわないものとは「バケツ」であったことが報道されている。つまり、作業員はマニュアルに従わずに、バケツで作業し、被曝した。
 なぜマニュアル通りに作業しないかと言えば、きっと「効率」が悪いからだろう。「生産性」を優先する「働き方」がそのころからあったということだろう。

 いま、なぜ、こういうことを書くのかというと。

 「障害者雇用率」について書いたときも触れたが、「ことば」に対してジャーナリストが鈍感になっていると思うからだ。(そのことに最初に気づいたのが、東海村JOC臨界事故である。)
 いまのことばは「具体的」には何を指しているのか、ということを問い詰めない。自分自身のことばで言いなおそうとしていない。ことばといっしょに「肉体」を動かしていない。「抽象的」な表現にごまかされて、「事実」を見落としているとしか思えないからだ。
 「障害者雇用」に関して言えば、雇用率を達成していない企業は「制裁金」を課せられているはずである。その金額はいくらくらいなのか。企業はいくら負担しているのか。一方で、省庁が「障害者雇用」の名目で受け取った補助金はいくらなのか。給料の明細から、補助金の流れがわかるはずである。そういうことを調べるのは面倒くさいが、それを調べて「ことば」にしてもらいたい。「金の流れ」がどこにも記録されていないということはありえないはずだからである。「事実」はいつでも「細部」にある。
 単に「雇用率」をごまかしていただけではなく、そこには金が動いている。巨額の金であるはずだ。そんな処理を「担当者」が「自己責任(自己判断)」で操作できるはずがない。国ぐるみの、つまり安倍が「独裁指揮」して、そうなっているのだ。安倍が「独裁指揮」していないと言い張るなら、その周辺が、安倍に「忖度」して、そういうことをしている。
 ジャーナリズムは「安倍3選」報道に忙しいが、いま起きている「事件」をもっと丁寧に解明してもらいたい。「一般の市民がつかっていることば(具体的なことば)」で「事実」を明るみに出してほしい。
 少し書いたが、雇用した障害者の人数の数え方が「整数」でないのはなぜなのか、というところを解明するだけでも、日本がどんなに差別的か(生産性優先の政策をとっているか)がわかるはずだ。あらゆるところで2012年の「自民党憲法改正草案」が先取り実施されているのだ。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(54)

2018-08-31 09:52:40 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
54 海辺の墓

 死は、また「古典(ことば)」とは別の形をとることがある。

難破者は無名者 その墓標に櫂を立てた

 と始まる詩は、ギリシアの習慣を読み込んだものか。しかし、

人はみんなみんな 人生という海の難破者
名ある人とても その事跡はやがて忘れられる
波だけが燿き暗み 葬いの歌をうたいつづける

 こういうことばの展開を読むと、ギリシアの兵士ではなく日本の漁師が目の前に浮かんでくる。自然と調和して生きる人間が見えてくる。
 しかし、自然は人間のいのちとは無関係に存在する非情ではないのか。
 人間は「有情」の存在である。しかし人間の情とは関係なく、ただ存在する。非情だ。人間は自然に情を託すが、自然はそんなものに見向きはしない。
 「波だけが燿き暗み 葬いの歌をうたいつづける」というのは人間の「思い入れ」に過ぎない。「燿き暗み」という対比は人間の見方である。「葬いの歌をうたいつづける」も、そう願う人間のことばにすぎない。
 書かれていることばとは裏腹に、私は、そう思ってしまう。
 死も自然も非情なものだ。だから悲劇が生まれる。
 高橋のこのことばは、あまりにもセンチメンタルだ、とも思う。日本的な抒情だ、と。「忘れられる」(断絶)と「うたいつづける」(継続/連続)の「対句」構造は、「和歌」の抒情である。
 ギリシアの透徹した視線、「情」を排除して世界の構造をとらえるという視線の徹底さを欠いている。
 ギリシアのなかにふいに、高橋が抱え込んでいる日本の自然が噴出してきた、という印象を持った。












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高橋睦郎『つい昨日のこと』(53)

2018-08-30 09:14:50 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
53 墓碑の註釈 ケラメイコス

 人は老いたら死ぬ。しかし、その死を自分のことばで語ることはできない。つまり「体験する」ということはできない。
 そしてさらに奇妙なことに、老いて死んで行くときに、もうひとつ「体験する/経験する」ことのできないものがあることに気がつく。
 「若くして死ぬ」ということだ。
 死は人間にとって必然だが、年老いてしまったら「若くして死ぬ」ということは絶対に不可能になる。
 この詩は、そういう矛盾、あるいは眩暈を思い起こさせる。

夏には生よりも死が似合う それも老いた死より若い死
神神に深く愛された者とは いみじくも言い得たものよ

 若い死者が神々に愛されたかどうかはわからないが、少なくとも生き残った年老いた人からは愛された。ひとは死者を悼む。つまり、愛していたと告げる。そのとき、そう告げる人はたいてい若い人ではなく、年取った人である。

若く死に損ねたからには 悼まれる側でなく悼む側に回ろう

 だが、「悼む」とは、どういうことだろう。どういう「動詞」なのだろうか。
 「遺志を引き継ぐこと」以上の悼みはないと思うが、若い死者の遺志を引き継ぐことは、年老いた人間には不可能だ。若い人の「遺志」は完結していない。どう変化していくかわからないまま終わってしまったのだから。
 悲しむことしかできない。「愛していた」と過去形で告げることしかできない。それは残されたものの自己愛--自分へのあわれみでしかない。
 「引き継ぐ」としたら、やはり「古典」という死、古典の中で動いているいのち(ことば)しかない。

 ギリシアの死は、高橋を攪乱する。真夏の強い光が、隠しておきたいものをあばいてしまう。





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「原則として」は誰が思いついた?(障害者雇用率の問題点)

2018-08-29 19:20:19 | 自民党憲法改正草案を読む
「原則として」は誰が思いついた?(障害者雇用率の問題点)
             自民党憲法改正草案を読む/番外221(情報の読み方)

 2018年08月29日の読売新聞(西部版・14版)。1面の見出し。

障害者雇用水増し27省庁/計3460人 検診結果で算入も

 奇妙な話である。記事には、こう書いてある。

総務省や防衛省では健康診断の結果をもとに視力や聴力が悪いなどの理由で障害者として算入し、本人が障害者として算入されていることを知らないケースもあった。

 こんなことが「独断」でできるのか。誰かが「指示」したのではないのか。だいたい健康診断の結果というのは「個人情報」のはずである。他人が勝手に見ることはできない。診断した医師が結果を他人に伝えたのなら、それは「守秘義務」に違反するのではないのか。それは問題にならないのか。業務に支障をきたすほど検査結果が悪いのなら、本人が「障害」を知らないというとこはないだろう。(私の会社では、診断結果は封印された状態で個人あてに郵送されてくる。だからといって、会社が内容を知いないと言えるかどうかはわからないが。)
 私は、絶対に「指示」があるはずだと見る。
 そう思ってさらに新聞を読み進むと。3面に、こんな記事が出てくる。各省庁が障害者雇用状況をまとめる際に、厚労省が通知を出しているという。

毎年の通知では身体障害者について「原則として障害者手帳を持っている人」といった内容を記載。厚労省の担当者は「手帳でなくても診断書でもよい、という意味で『原則として』という言葉をつけた」と説明するが、この文言を誤解し、拡大解釈した省庁担当者は多いと見られ、『原則として』という表記があったので、手帳などの資料で確認しなくてもいいと思った」と、文科省の担当者は明かす。

 厚労省の「担当者」、文科省の「担当者」に責任(?)を押しつけているような書き方だが(当然のことながら、担当者の名前は書かれていないが)、こんなことは、一般の企業ではありえないだろう。
 「通知」があり、そこに「見慣れないことば(いままで存在しなかったことば)」が書き加えられていたら、その「意味」を確認する。あとで、「そういう意味ではない(確認せずに、独断で判断するな)」と指摘されたら困るからである。「責任」を押しつけられたら、困る。ことが法律や金にかかわることなら、なおさらそうである。絶対に、独断で「健康診断書」の数値で、ある人を「障害者」と判断するということはしないはずだ。
 これは「通知」を出す方もそうである。「担当者(個人)」が独断で、そういうことをするはずがない。「健康診断書で判断してもいい、読めるのだけれど、健康診断書はどうやって入手するのか、判断した結果を該当者に伝えなくていいのか」という質問がきたときに困るだろう。
 「担当者」が個人でできることではない。
 だいたい問題になっている「人数」が大きすぎる。たまたまひとり、ふたり含まれているというのではない。
 読売新聞は1面では、問題の障害者の数を「3460人」と書いているが、3面では概数で「3400人分」と書いている。下二桁よりも「人」か「人分」かの方が問題である。1面のグラフには「1022・5人」とか「603・5人」という数字が見える。人間に「0・5人」という数え方はない。どんな人も「1人」である。なぜ「0・5人」という数え方があるかというと、障害の程度に応じて勤務時間が短い人も出てくるので、その勤務時間にあわせてある人を「0・5人」と数えているからだろう。(自民党の得意な「生産性」を基準にして、そういう数え方をするのだろう。)ということは、実際に水増しされた「障害者」は3460人ではないということだ 。「0・5人」として数えられた人が複数いるはずだ。ここにも、とんでもない「嘘」が隠されている。

 障害者雇用に関して言えば、一般の企業では雇用すると国から補助金が出るはずである。国の機関であっても補助金が出るだろうと私は思う。「0・5人」というような数え方をするのは、補助金が「人」というよりも「勤務時間(労働時間)」との兼ね合いで算出されるからだろう。勤務時間で算出しているということは、国の機関であっても、補助金が支出されているということを意味するだろう。
 そうすると、ここにもうひとつ大きな問題がある。「補助金」は何につかった? その総額は? その金はだれの「懐」に入った? まさか「担当者」が猫ばばしているとは考えられない。
 ここからも、この「水増し」は「担当者」個人がおこなったものではないということが推測できる。国家ぐるみでおこなわれた「犯罪」なのだ。私たちの税金が「障害者雇用」の名目で、政権のどこかに「横流し」されているのだ。
 森友学園事件では、「犯人」は佐川ひとりに押しつけられた形だが、今回も「担当者」を「犯人」に仕立てて、「安倍は何も知らない(無罪)」ということにするつもりなのかもしれない。最高責任者なら、「知らない」ということも「罪」なのだ。「知らない」ことも責任をとらなければならないのが、最高責任者である。

 安倍とマスコミは、どうやって「犯人」を「担当者」に押しつけるか。今後はそのことに注目しながらニュースを読む必要がある。「ことば」のなかには、必ず「情報」が隠れている。







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クラウス・レーフレ監督「ヒトラーを欺いた黄色い星」(★★★★)

2018-08-29 18:12:00 | 映画
クラウス・レーフレ監督「ヒトラーを欺いた黄色い星」(★★★★)

監督 クラウス・レーフレ 出演 マックス・マウフ、アリス・ドワイヤー、ルビー・O ・フィー、アーロン・アルタラス、ビクトリア・シュルツ

 とても地味な映画である。なぜ地味かというと、ヒトラー政権下のベルリンに潜伏し生き延びたユダヤ人を描いているからである。潜伏するということは、社会と隔離されること。つまり情報がない。彼らが見聞きするのは世界の一部に過ぎない。いまのようにネットがないのはもちろんだが、テレビもない。ラジオはあるが自由に聞けるわけではない。
 だから、劇的なことは起こらない。唯一、友人が電話をかけた後、ゲシュタポに逮捕されるくらいである。幾分のはらはらはあるけれど、彼らが生き延びることはすでにわかっている。経験者が証言しているのだから、彼らが死ぬはずがない。
 それなのに。
 引き込まれる。私は自動販売機で買ったアイスコーヒーを一口飲んだだけで、後は飲むのを忘れてしまった。
 なぜなんだろうか。
 そこに描かれていることが「事実」だからである。そして「事実」というのは不思議なことに「全体」がなくても成立する。いや、ユダヤ人虐殺という「全体」はすでにだれもが知っているから、「全体」がないということにはならないが。しかし、この映画に登場する人たちは、生き延びているあいだ(潜伏しているあいだ)、「全体」を知らない。知らないというよりも「わからない」。
 匿ってくれる人がいるにしろ、その人がいつまで匿ってくれるのか、それが「わからない」。いつ隠れ家を出て行かなければならないのか、隠れ家を出てしまったらどうなるのか、「わからない」。
 「わかる」のは、いま、自分が生きているということだけだ。生きていくために何をしなければならないか、それを考えなければならない。それだけが「わかる」。「わかる」ことだけが「事実」として目の前にある。それ以外に「世界」がない。
 そして、「わかっている」のに、やはり失敗もする。身分証明証の偽造をしながら、せっかくつくった証明書をストーブで燃やしてしまうということもある。鞄を電車の中に忘れるということもある。
 この緊張感が、「映画」のように緊張感を誇張するのではなく、淡々と描かれる。映画なのに、である。そこに引き込まれる。「映画」を見ているのではなく、「事実」を見ているという気持ちになる。
 さらに、映画を見終わった後、これは「事実」のほんの一部に過ぎないということも知らされる。四人が証言しているだけなのだから。語られない「事実」がもっともっとあるのだ。語られないことがあって、いまがある。そのことにも衝撃を受ける。
 それにしても、人間とはすごいものだと思う。どんなときにも、自分自身の考えを持ち、自分で行動する力がある。嘘をつくことを含めて、人には生きる力がある。生き延びた人が主人公なので、それを支えた人は「脇役」に徹しているが、「脇役」の人もそれぞれが考えて生きている。最後に「ユダヤ人を匿うのは、ドイツ(国家)を救うためだ」と言われたとひとりが語る。アメリカで講演するときは、匿ってくれた人の名前をひとりひとり挙げる、と女性が証言する。女性が必ず名前をあげるというドイツ人もまたヒトラーの政権下を生き延びた人なのだと知らされる。
 映画の登場人物は、歴史に名前を残す「立派な人」ではない。でも、そうであることが、立派なのだ。生きている、生きるために自分でできることをする、ということがかけがえのないことなのだ。

 ひるがえって。
 いま日本で、安倍独裁政権を「生き延びる」人が何人いるか。日本のために「生き延びる」人が何人いるか。日本のために、というのは、世界のために、でもある。どうやって安倍独裁政権を「生き延び」、未来を生きるのか、そのことを問われたような気持ちにもなった。
 (2018年08月29日、KBCシネマ2)




 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(52)

2018-08-29 08:40:40 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年08月29日(水曜日)

52 倖せ それとも

 「古典/死」は「若々しい」というのは、矛盾に見えるかもしれない。しかし、矛盾ではない。「事実」だ。
 高橋は、こう書いている。

Kourous たちよ Koreたちよ
あなたがたは人間にして 神神
あなたがたのかけがえのない 尊い犠牲によって
かろうじて いまここに私たちは在るのだから

 「いまここに」「在る」。「いまここを」経験する。体験する。そうすることで私たちは老いていく。古びて行く。肉体も経験(体験)も古びていく。
 しかし人間には経験(体験)することができないことがある。だれもが死ぬが、死を経験/体験することはできない。それをことばにはできない。いつまでたっても、それはたどりつけない未知の部分だ。
 「過去」もそうなのだ。「人間/神」として生きた人がいる。その人は死んでしまった。それは「知る」ことができるが、経験/体験ではない。ただ、ことばを通して経験/体験したと勘違いするだけのことである。
 やはり「未知」なのだ。
 だから若々しい。

 経験/体験できないけれど、「事実」として、「いま、ここに」「在る」ものが「古典」という不思議な「死」である。

 途中を省略する。

その結果 私たちは永遠に宙ぶらりん

 「ことばになった死(古典)」と「体験するのにことばにできない死」のあいだが、「宙ぶらりん」の状態を生きる。死んだ人のことばを引き継ぐというのは、「名づける」ときの若さを引き継ぐことだ。語ることの情熱を引き継ぐことだ。
 自分の死をことばにできないのなら、死んだ人のことばの、その動いていく動きの中に「死(生き方)」をつかみとるしかない。「古典」は「生き方」だから、いつも「若々しい」。






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由良佐知子『遠い手』

2018-08-28 12:05:34 | 詩集
由良佐知子『遠い手』(澪標、2018年08月08日発行)

 由良佐知子『遠い手』の「ひらく」に惹かれた。

乳房をまさぐる赤児のように
枯れ葉のなかに手を入れる
ふっくらとした ちからで
土を押しあげる
蕗のとう
受けつぐ場所を萌黄に灯す

震う大気を合図に
シデの新芽は
固く折りたたんだ葉をほぐす

規則あるものからはみだそうと
てんでばらばらに
春は開く

押しあげたあなたは
なにもかも
忘れていいのだ

 蕗の薹を描いている。「乳房をまさぐる赤児のように」というのは一種の「定型」だが、定型からはじめることで、不思議な静かさをひきよせている。「受けつぐ場所を萌黄に灯す」は美しい。
 詩は、いつでもこういう美しい行を持っている。
 でも、引き寄せられたのは、そこではない。
 三、四連目がいい。
 「規則」から「はみだす」を「てんでばらばら」と言いなおしている。口語で言いなおすことで、たぶん由良の「肉体」が開いたのだと思う。「肉体」のなかにあることばが解き放たれて、跳びだしてくる。
 「押しあげたあなた」の「押しあげた」は一連目の「土を押しあげる」を踏まえている。そのあと、

なにもかも
忘れていいのだ

 ここが感動的だ。
 「忘れていいのだ」と由良は書いているが、何を忘れるというのだろうか。「忘れる」という限りは、覚えているものがあるはずだ。由良は、蕗の薹は何を覚えているというのだろうか。「乳房」とか「受けつぐ」ということばを手がかりにすれば「いのち」がつながっているということを「覚えている」ということになるかもしれない。
 しかし、そういうことは、どうでもいい。
 「なにもかも/忘れていいのだ」から。
 では、このなにもかも忘れるというのは、どういうことなのだろうか。
 新しく生まれる。生まれ変わる、ということだ。ぜんぜん知らないものに。自分の予想もしていないものに。あるいは「親」が予想(期待)もしていないものに、と言えばいいだろうか。
 すべてを裏切って、蕗の薹は蕗の薹でなくなってしまってもいいのだ。

 私は由良のことを一切知らない。由良にこどもがいるかどうかも知らない。けれど、あ、これは母親になった人間にしか言えないことばだなと感じた。
 母の胎内で育ってきた、母親の肉体の中から生まれてきた。それは事実だが、そういう事実はどうでもいい。おぎゃーと泣き叫んだときから、ひとは自分の声をもつ。その声を信じて生きればそれでいい。何になろうが、それは生まれてきたこどもの自由だ。「規則」なんて気にしないで「てんでばらばら」に生きればいい。
 これは母親にしか言えない、強いことばだ。

 「毬」の前半も好きだ。

茶色い毬栗を写す
棘とげ一本いっぽん描いていく
青い毬を
隠れる実を
身になる前の
朝もやの栗林
無数に蒸れる花房
群がる蜂
さんざめく羽音

 「時間」が逆に動いている。茶色い栗を写生しているのに、その「表面」ではなく、栗の毬が茶色になるまでの時間をさかのぼって見つめなおしている。いま、ここにあるものが、いまここにやってくるまでの「時間」を自分の時間を見つめなおすように思い出している。写生とは、そういう目に見えない時間を立ち上がらせることだ。
 こどもの成長を見守るというのは、こういう視線を持つことかもしれない。
 どんな成長にも「規則」が知らず知らずに入り込む。そう知っているからこそ、「規則」を突き破って、「てんでばらばら」に、新しいところへ踏み出せと言っているのだ。



遠い手
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(51)

2018-08-28 08:42:36 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
51 眠りの中で

 「こんどの旅も よく眠った」と書き出されるこの詩には、死への親和が明確に書かれている。二度の旅のあいだに、高橋は三十歳から八十歳に変化している。年齢だけではなく、ほかにも違いがある。

見守っているのが 愛の神ではなく
愛の神のふりをした 死の神だったこと

 三十歳のときは「愛の神」に見守られて眠った。八十歳のいまは「愛の神のふりをした 死の神」に見守られて眠った、という。死ぬ年齢に近づいたから「死の神」に見守られている、というのではない。
 高橋が〇歳から三十歳までのあいだに読んだ「古典」と、三十歳から八十歳のあいだに読んだ「古典」を想像してみればわかる。後者の方が圧倒的に量が多いだろう。つまり、圧倒的な死と高橋は向き合ってきた。その死との向き合い方の違いが、死への親和を誘う。死の神がやってくるのではなく、死の神を高橋が招いている。
 なぜ、死の神を招くのか。高橋は、こう書いている。

うつらうつら眠りつつ 私は気づいていた
死の神が 愛の神よりはるかに優しく
はるかに若わかしいこと

 「若い」からこそ招いたのだ。「若い(若わかしい)」の定義はむずかしい。「可能性」があるということが、その定義のひとつになるだろう。自己を捨てて、何者かにかわっていく力だ。
 「古典」は古い。動かない。しかし、それは「古典」を「名詞(存在)」として見つめるからである。「古典」を「名づける」という「動詞」としてとらえなおせば、高橋の書いていることがわかる。
 どんなふうに名づけようが、名前は古びる。比喩は定型化する。しかし、「名づける」「比喩を生み出す」という動詞は、つねに「いま」として動いている。ことばを読むとき、そこに「名詞(もの)」があらわれてくると同時に、そのまわりには「動詞(行動)」が動いている。「動詞」のなかには「過去」はない。固定化されたものはない。動くことが「動詞」だからだ。それはいつも「いま」を生み出す。
 そういう力そのものと高橋は向き合っている。「死の神」だけれど、それは「生まれつづける」存在だ。「愛の神」も生まれつづけるだろうが、それは死んで行く神でもある。「死の神」は死んでいるだけに、さらに死ぬというとはない。生まれつづけるしかないのが「死の神」だ。





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ESTOY LOCO POR ESPANA(9) (番外)

2018-08-28 08:07:26 | estoy loco por espana



facebookで見つけたMarisa Calderón Fernándezの絵。
新しい墨絵という感じ。
色の感じも新鮮。
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ESTOY LOCO POR ESPANA(8) (番外)

2018-08-28 07:59:18 | estoy loco por espana



Joaquinのスケッチを見るのは初めて。
温かくて興味深い。
ホアキンににとって、鉄は幼なじみのようだ。
ともに生きて、ともに成長し、強く美しくなる。

es la primera vez que veo bosquejo dibujados por joaquin.
calido e interesante.
para joaquin, el hierro parece ser un amigo de la infancia.
joaquin y hierro ambos viven, crecen juntos, se vuelven mas fuertes y mas bellos.
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また出てきた「静かな環境」

2018-08-27 16:58:47 | 自民党憲法改正草案を読む
 2018年08月27日の西日本新聞夕刊に「翁長氏の県民葬10月9日に」という記事が載っている。

 県議会の一部会派は当初、9月30日投票の知事選より前となる四十九日の法要前の開催を求めていたが「政治日程とは切り離し、静かな環境で開催すべきだ」との意見が与野党内で強まっていた。

 また「静かな環境」という表現が出てきた。
 安倍が持論を押し通す時に繰り返し使われている。
 天皇の生前退位を巡る審議(有識者会議)、日ロ首脳会談(山口で開かれた大失態の会談)、それから次の天皇の即位の日(これは統一選に配慮)という具合。
 民主主義とは「静か」ではなく「騒がしい」もの。つまり、批判、反対意見が飛び交うもの。そういうものを封じ込めて、安倍は独裁を推し進める。
 知事選前に「沖縄県民葬」がおこなわれれば、県民は翁長知事を思い出す。民意が翁長知事路線に傾く。自民党の候補が苦戦する(負けるかもしれない)。だから、県民葬は知事選の後に、と考えているようだ。
 「静かな環境」というのは、民主主義を否定するために使われている。
 「静かな環境」という暴力(独裁)を許してはならない。


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さとう三千魚『貨幣について』

2018-08-27 10:20:10 | 詩集
さとう三千魚『貨幣について』(書肆山田、2018年08月20日発行)

 さとう三千魚『貨幣について』はタイトルが即物的だ。詩から遠い。そして、そのなかに書かれている作品も即物的だ。

わたしは
昨日

忙しく働いて

夕方に
神田の

かめやで
冷し天玉蕎麦を食べた

四二〇円だった

それから深夜
銀座線の終電に間に合わず

京浜東北線で蒲田にでて
タクシーで

新丸子まで帰った

帝都自動車交通
二六二〇円だった

 即物的だが、とてもおもしろい。改行せずに、散文形式で書いてもおもしろいと思うが、改行が効果的だと思う。ことばが、独立(切断)とつながり(接続)のあいだで、新しい形を見せている。「神田」が出てきたときは、そうでもなかったが、「かめや」以後、固有名詞が世界を「異化」する。「異化」するといっても、何と言えばいいのか、ちょっと存在がくっきり見えるということくらいなのだけれど。
 で。
 「冷し天玉蕎麦/四二〇円」「帝都自動車交通/二六二〇円」と、そのときかぎりの「一回性の固有名詞」にお金が結びついている。これがおもしろい。ものにはみんな値段がついている、ということが、意識を刺戟する。
 「忙しく働いて」には値段がついていないが、ほんとうは隠れている。労働に値段がついているからこそ、さとうは蕎麦代、タクシー代を払うことができる。蕎麦代、タクシー代が支払われたということは、それを提供してくれた労働に対して金を払ったということであり、それは蕎麦を食べる、タクシーに乗るという「肉体の動き」とは別の動きによって、お金の向こう側にいる人とつながるということでもある。
 そういうことを一生懸命書いているのではなく、ぽつん、ぽつんと、なんでもないことのように書いている。ぽつん、ぽつんの、連続性を強調しないリズムがおもしろい。たぶん、詩はそこにある。
 書き方によっては、さとうの「資本論」になるのだが、「資本論」にしないで、「事実」そのものにしている。
 ものの値段が出てこない詩もあるのだが、私は値段が書かれている詩の方が好きだ。「資本論」になることを拒んで、「事実」でとどまっているという感じがいい。「論理(あるいは関係という抽象)」を拒否することで、世界を「事実」にひきもどすと言えばいいのか。

一昨日はわたし

昼に
門前仲町の

日高屋で
生中と空豆を食べた

生中が三一〇円
空豆が一七〇円

レバニラ定食が六五〇円

それから夜に
神田の

葡萄舎で芋焼酎を飲んだ

賢ちゃんと
賢ちゃんの姉さんにも

焼酎をご馳走した
三六〇〇円だったかな

 「ご馳走」という「関係」を浮かび上がらせることばの後に、それを否定するかのように「三六〇〇円」が即座につながるところがとてもいい。「だったかな」というのは、さとうの「人間性」をあらわしていて、それもおもしろい。「貨幣」のもっている「暴力性」を、そっと包み込んでいる。しまいこんでいる。

 貨幣がクレジットカード(マネーカード)にとってかわり、それが「電子決算」にかわりつつあるけれど、すべてが電子決算になり、貨幣が消えてしまうと、この「暴力」と「やさしさ」の関係が見えなくなるなあ、と思ったりする。
 だから、これは「いま」書かれなければならない詩なのだと思う。


貨幣について
クリエーター情報なし
書肆山田




*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(50)

2018-08-27 09:14:15 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
50 崖 シンタグマ広場

 高橋は「現実」を書いていない。死を書いている、という視点から読む。また「読み方」を変えるかもしれないが、きょうはそういう視点から読んでみる。

店の名はO Tzizikas O Mermigas  戯れに訳して蝉蟻亭
もちろん出どころはアイソポス 遊び好きも働き者も歓迎というところか

 ここでも問題は「名(店の名)」。「名づける」である。店の名前は「現在」の名前である。しかし「出典」は古典。アイソボスは、イソップか。蝉と蟻。蝉は遊び者、蟻は働き者。「比喩」は「名づける」という動詞を先鋭化したものだ。ひとつの特徴を引っ張りだし、「名」の代わりにする。
 そんな「ことば」の「歴史」と高橋は向き合っている。

カラフの白ワインを傾ける ドルマデスとギリシアサラダの皿をつつく

 という「現実」も出てくるが、高橋のことばはすぐに「現実」を離れる。「歴史(過去)」へと向かい、そこから「いま」「ここ」にない「真実」を取り出す形で動く。「死んでしまった真実」にことばをあたえる。もう一度「事実」にしようとする。

飲みながら食べながら思うのは崖 アイソポスが群衆から突き落とされたという
落とされた理由は吐きつづけた嘘 むしろ嘘に包まれた聞きたくない真実
逆に私が書いてきたのは真実めかした嘘 崖落としにも価しまい

 「嘘」とは「比喩」のこと。「比喩」のなかには「真実」がある。「真実」とは見なければならないものだが、見たくないものでもある。「現実」という事実の絡み合いの中に隠しておきたいこともある。隠しておいて、その都度、都合にあわせて「真実」をとりだしたい、つまり「名づける/ことばにする」ことで、それを共有するというのが人間の生き方だろう。
 「ことば」は「現実」のなかでは揺れ動く。
 詩は、そうではない。「揺れ動かない」何か、「個人的な事実」を語る。高橋の「個人的事実」とは「文学」にほかならない。つねに「古典」が高橋のことばを突き動か。死(歴史としての文学のことば)が高橋の「現実」だからである。
 ギリシアを旅しながら、高橋は暗喩としての「死」と向き合っている。







つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社




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高橋睦郎『つい昨日のこと』(49)

2018-08-26 09:30:14 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
49 男と女

男どもよ この妾を 砂浜から道へ抱え挙げよ
日の昇るトロイアに向けての 朗読祭の終わり
満月のように豊かに肥った老女優は 宣うたものだ
しかし こんにち男の名に価する男はいるのか

 と始まるこの作品も「47 詩人と盲目」の続篇。
 女の名に値する女はいるが、男の名に値する男はいない。それは「こんにち」だけのことではない。

そもそもいたのか あの輝かしかった神話時代にも
デルポイのアポロンの股間は 小児の皮かむり

 男根だけが男の値ではないが、男根と男を同じものとする見方は根強い。神話時代からこんにちまでつづいている。しかし、こういうことを語ってみてもおもしろくない。
 
 もう一度「名」ということばに目を向けてみる。「名」は「名づける」という「動詞」といっしょに動いている。「名」の奥には「名づける」という動詞が隠れている。そして、「名」として表にあらわれてきたものは、「ことば」だ。
 「ことば」はいったん表にあらわれると「事実」を規定し始める。「事実」をあらわす(つたえる)ための「ことば」が「事実」を型にあてはめてしまう。「型にはまった事実」を「現実」と呼ぶ。「現実」が大手をふるい、「事実」は遠ざけられる。あるいは「永遠」は遠ざけられる。「真理」が隠される、と言いなおしてもいい。
 そういう状況のなかで詩を読む。つまり「ことば」をあたらしく生み出す。これはむずかしい仕事だ。

 見方を変えなければならないのかもしれない。

 高橋が向き合っているのは「現実」という「現象」、いいかえると「現象」としての「現実」ではなく、「ことば」そのものである。「ことば」は神話時代からかわらない。いや、ことばは変わりつづけている。神話時代のことばはない、というかもしれない。それが問題なのだ。高橋は「いま生きていることば」ではなく、死んでしまった「神話時代のことば」と向き合っている。「名づけられたこと(ば)」と向き合っている。
 高橋のことばには、死のにおいがする。古いこわばりと冷たさがある。特にこの詩の男と女の定義は、古すぎる。ほんとうに高橋の詩に触れるには、その「古くささ」そのもの、死んでしまったもの、「歴史」と「文化」を見つめるようにして読まないといけない。



つい昨日のこと 私のギリシア
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上手宰『しおり紐のしまい方』

2018-08-26 01:01:10 | 詩集
上手宰『しおり紐のしまい方』(版木舎、2018年06月12日発行)

 上手宰は堅苦しいことばを書く詩人と思っていたが、そうではなかった。ことばの運動の中に「論理」があり、それが堅苦しいという印象になっていたのかもしれない。そんなに複雑な論理ではないのだが。むしろ、それは論理というよりも、ことばをつかって「仮構/虚構」の運動を展開するというものだ。
 巻頭の「詩集」という作品。

紙を操る音が聞こえる
誰かが私を読んでいるのだ
だがどこが開かれているのかを
私は知らない

 これは「現実」というよりも「空想」である。実際に音が聞こえるのではない。誰かが上手の詩集を読んでいる。そのときページがめくられる。だから音がするはずだ、という認識から出発して、ことばでそれを現実に変えようとしている。「現実」よりもさきに「認識」がある。だから「論理」があると、私は思ったのかもしれない。もう、そのころの上手の詩を思い出せないのだけれど。

 「認識」から始まり、始まったことばの運動をどこまでつづけて行けるか。そのときの運動を支えるのは何かが問題になる。

 「鹿鳴」という作品。

嘘はその場で食べてしまえばおいしく終わるが
丹精して育てればこの世を豊かにする

 この「嘘」に対する「認識」が正しいかどうかは問題ではない。それをどこまで「育てる」かが問題なのだ。「育てる」と「豊か」は、このとき同義語である。嘘がどこまで膨らむか、その膨れ具合を「豊か」と読んでいる。嘘が育っていかなければ、その嘘は貧しいということ。嘘は否定されていない、というのが出発点である。ことばがどれだけ展開するか、その広がりが「豊かさ」を判断する物差しである。
 つまり、いま書いたことを、どう書き直すことができるか。
 上手は、こうつづける。

嘘はこの世に実在しない物体なので
柔らかさが夢と似ている

 嘘はこの世に存在しないわけではない。嘘はこの世に実在するが、それは物体ではない。上手のことばは「論理」を巧みにずらしている。ずらすことでことばの「展開」をうながしていることになる。夢もまたこのよに実在するが、それは物体ではない。文体ではないから、柔らかい。物体にも柔らかいものがあるが、存在しないものは「固さ」を持ち得ない。だから「柔らかい」と仮に名付けられる。認識される。認識上、そういうことばが割り振られるこれは「論理」というより「認識の仕方」である。「展開する」というよりも「整える」という感じ。増殖していかない。ことばが暴走しない。「嘘」はことばの暴力であるはずなのに、力をなくしてしまう。「仕方」というのは、妙に落ち着いて静かなものである。
 このあと、上手流の「仕方」で、上手は「嘘」と「恋愛」、あるいは「生命の持続」を「鹿」をとおして整える。

弱いのに雌を得た雄がいたとしたら
だまされたいほど美しい嘘があったのだ

一生だましつづけてくれている雄がいとしい
目から涙を流して雌鹿が立っている

 鹿ではなく、人間の女と男と読めば、それは「この世のこと」になるかもしれない。実際、上手は「嘘」ではなく「比喩」を書いているのだろう。「比喩」と思えばこそ、真剣に「思い」を託す。
 その「結論」は、私にはどうでもいいことのように思えた。上手には申し訳ないが、ことばの運動にとって「結論」というのは、存在しない。動けるだけ動くだけなのだから。それに「仕方」を見てもしようがないなあ、という気持ちにもなった。
 だから「結論」についての感想は書かない。「結論」や「意味」というものは、人それぞれのものだから、他人が批評しようがどうしようが、変わりようがないからだ。
 私がこの詩の感想を書いているのは、次の二行が美しいと思ったからだ。

お前の細い脚に 触れていいかな
追いつけなくなれば倒れて空を見上げるだけ

 なぜ美しいか。「認識の仕方」から解放されている。つまり、ここに書かれてる二行こそが「嘘」だからである。雄の鹿が雌の鹿に言った、いわば命がけの嘘。「口説き」だからだ。
 「嘘」に対する「認識(の仕方)」なんか、どうでもいいとは言わない。でも、「認識」を「論理」として展開するのではなく、「嘘」そのものを書けばいいのだと思う。
 そうすれば、ことばはおのずと「豊か」になる。「豊か」というような解説はいらない。「論理」ではなく、「嘘」そのもののなかに上手の「本能/欲望」を溢れさせるべきなのだ。「仕方」に整えられてしまうと「事実」が貧弱になる。「整えられない」ものが詩なのだ。



上手宰詩集 (新・日本現代詩文庫)
クリエーター情報なし
土曜美術社出版販売
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