詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉田大八監督「敵」(★★★★)

2025-01-17 17:34:44 | 映画

吉田大八監督「敵」(★★★★)(Tjoy博多、スクリーン4、2025年01月17日

監督・脚本 吉田大八 出演 長塚京三、瀧内公美、河合優実

 主人公の年齢が何歳かわからないが、大学教授をやめたあとなので、かなりの高齢。妻が死んで一人暮らしだが、きちんと生活している。その生活が(あるいは、その見る世界が)徐々に変化していく。その変化の過程がなかなか見応えがあるのだが、それは冒頭から暗示されている。そのことに私はいちばん興味を持った。
 朝起きて、朝食をつくって食べる。最初の朝食は、鮭を焼いたものがメインである。この焼いている鮭をアップで見せる。そんなにアップにしなくても鮭とわかるのだが、「わかる」を超えて、鮭であることを主張する。言い換えると、鮭が「自己主張する」。これは、ほかの料理をする部分でも同じ。蕎麦をつくる。そのときの、湯掻いて、水で洗って、という手順、その蕎麦の形。あるいはネギを切るときの包丁、刻まれたネギ。料理番組(料理映画)ではないのだから、こんなにアップにする必要はない。でも、アップ。それは主人公が細部にこだわっているというよりも、細部の主張に押し切られているという感じ。この自分以外のもの、しかも、何かの細部に押し切られるという感じが少しずつ強くなっていく。細部の積み重ねが現実であるというよりも、細部が現実の統一感を破壊して、細部が全体になっていく感じ……。
 その結果、それまで主人公が知っている(統制、あるいは支配していると思っていた)世界が現実なのか、それともその統制を突き破ってあらわれた細部が現実なのか、徐々にわからなくなってくる。
 これを、女との関係に絞って(というわけではないが、中心に)突き動かしていくところが、すけべで、リアルでとてもいい。知っている(支配していると思っている)現実を突き破って動く女は、現実であって、現実ではない。想像、あるいは妄想なのだが、想像や妄想というのは、現実ではないからこそ、男を乗っ取ってしまう。男は、男の頭のなかにあらわれた女に、自在に動かされる。反論できない。女を制御できない。
 主人公を大学教授をやめた男にしたのも「効果的」だ。彼は、現実よりも、彼の頭のなかにある世界の方を「真実」だと思っている。それは日本の現実よりも、フランス文学、とくに演劇のなかにあらわれたものを「真実」と思っている姿の反映かもしれないのだが。
 このなかで、とくにおもしろかったのが、河合優実。「透明な不透明感」を生かして、男をだます。バーのマスターの姪で大学生という設定だが、ほんとうかどうかわからない。男をだまして金を引き出すと、バーのマスターといっしょに姿を消してしまうところをみると、偽学生だろう。これを巧みに演じていた。「あんのこと」「ナミビアの砂漠」は主演ででずっぱりだったから、見ていてちょっとめんどうくさくなったが、この映画のように、ふっとでてきて、「私は主演ではないから」とぱっと消えていく方が「ほんもの」という感じが強く残る。杉村春子が「わき」を演じたときの感じに通じるかもしれない。一瞬、「ほんとう」があればいい。男に「バタイユ」から攻め始めるといか、男を「バタイユ」を利用して釣り上げるところなんか、いいなあ。河合優実が演じる偽女子学生がバタイユの「青空」を理解しているかどうかはわからないが、(筒井康隆の小説が、そうなっているだけなのかもしれないが、原作がどうなっているかを忘れて河合優実を見てしまう。)、男はフランス文学専攻だから、もう「青空」だけで、その主人公になってしまう。性と死の世界、その中心のエロスにどっぷりつかってしまって、まあ、進んでおぼれていく感じになるのだが。だから、その後のプルースト、「失われた時を求めて」をめぐるやりとりなど、河合優実との会話というよりも、すでに男の「妄想」なのだが、ほんとうに「妄想」なのか、現実なのかわからないように、うまく撮っている(演じている)。それが現実か妄想かわからないのは、ちょっと最初にもどって言うと、ここでも河合優実がほとんど「アップ」だからである。「アップ」がリアル性を強調し、かってに動き出すのである。河合優実の「全体」が見えないが、だからこそ効果的なのである。
 「全体」ではなく「部分」に過ぎないのに、それが「全体」になっていく、というのは、「敵」の存在を知らせるメール、あるいは「双眼鏡」などによっても展開されていくのだが、この恐怖は、クライマックスで加速する。このクライマックスも男の家に局限された「アップ」であり、「全体」は描かれないのだが、そして、それがぱっと終わるのもとてもいい。
 最近、私が関心を持ってみた映画は、なぜか監督が脚本も書いている。この映画もそうなのだが、吉田大八のいいところは、「完璧な脚本だろう」という具合に、脚本が自己主張しないところだなあ。クライマックスのシーンなど、脚本で読めば「たわごと」の類だろうけれど、映像になると、いやあ、ほんとうに怖い。もっとも、この恐怖は、若い人にはわからないかもしれない。私が主人公に近い年齢だからかもしれない。そして、変な言い方だが、吉田大八は私より若いはずだが(「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を見たのが最初の映画なので、かってにそう思っているのだが)、まだ若いのに、老人の恐怖がわかるのかと驚きもした。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「シネマ歌舞伎 ぢいさんばあさん」(★★★)

2025-01-04 17:50:03 | 映画

「シネマ歌舞伎 ぢいさんばあさん」(★★★)(2025年01月03日、キノシネマ天神、スクリーン1)

出演 片岡仁左衛門、坂東玉三郎、中村勘三郎

 正月なので、歌舞伎でも。でも歌舞伎は高いし、福岡では見ることができないので、「シネマ歌舞伎」で、その気分だけでも……。
 たいへんな人気だった。私のように考えたひとが多いのか、片岡仁左衛門、坂東玉三郎、中村勘三郎という人気者の顔合わせに惹かれたのか。指定席なのに、入場前に列を作らされた。入場をスムーズにするためとか。(私のような高齢者が多いからかもしれない。入場も時間がかかったが、出るときはもっと時間がかかった。立ち上がり、コートを着て、手袋をして、忘れ物がないか確認して……。)
 映画は、というと。
 うーん、歌舞伎そのものをあまり見たことがないから、私の視点が的確かどうかわからないのだが。
 シネマ歌舞伎は、たしかに見やすい。表情もアップで見ることができる。あ、こんなところに体の動かし方に気を配っている、なるほどなあ、と関心もする。若いときのじいさんというのも変だけれど、片岡仁左衛門の座ったときの背中(背筋)の線がいかにも若くて美しい。じいさんになったときの、膝、腰の曲げ方というか角度も、品がある。とても美しく見える角度を保っている。乱れない。この姿勢の「維持」というのがすごいものだなあと思いながら見た。
 でも。
 歌舞伎だけに限らず、芝居というのはやっぱり「映画」ではだめだなあ。「空気」が動かない。先に書いた片岡仁左衛門の肉体、それが動くとき舞台の上の空気も動く。その空気の動きが劇場全体に広がっていく。それはちょっといいようのないものだが、何かしら直覚できる微妙なものがある。そばにいるわけではないのだが、役者の肉体が動くとき、それにともなって動く空気が私にまで伝わってくる。もちろんほかの観客にもつたわっていて伝わった感じが劇場の閉ざされた空気のなかで増幅する。これが感動になる。
 そして、それは何といえばいいのか、役者にも跳ね返っていく。たとえば、「じいさんばあさん」では、第三幕の、ふたりが「つらいことがあったけれど、幸せだねえ、これからもっと幸せになろうねえ」と語り合うシーン(実際に、そう言うわけではないが)では、歌舞伎座なら、きっと観客がすすり泣き、そのこらえてもこらえてもこらえきれない震えが役者に伝わり、また観客に跳ね返ってくるというような「共有感覚」が生まれる。
 観客が役者に声をかけ(大向こう.、と言うのだったっけ?)、役者が「どうだいいだろう」というように観客を見渡す、といような応答も生まれる。
 それが、シネマ歌舞伎では、生まれない。
 これは、「声」についても言えることで、スピーカーで増幅され、役者の口とは違うところから響いてくる「音」も、なんだか奇妙である。はっきり聞こえるが、はっきり聞こえればいいというものではない、ということだろうなあ。
 歌舞伎を見る予習(?)なら、それでいいかもしれないが、シネマ歌舞伎で歌舞伎を見た気持ちになったら、それは大事なものを見逃すことになるかもしれない。
 しかし、まあ、片岡仁左衛門は、うまいね。やっぱり「花」があるね。映画のアップが芝居を損ねない。スクリーンをしっかり引き締める。


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スティーブ・マックイーン監督「占領都市」

2025-01-03 20:14:27 | 映画

スティーブ・マックイーン監督「占領都市」(★★★★★)(2025年01月02日、キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 スティーブ・マックイーン 原作・脚本 ビアンカ・スティグター 撮影 レナート・ヒレヘ ナレーション メラニー・ハイアムズ

 これが映画か、と質問されたら、「映画ではないかもしれないが、映画にしたい」と私は答えると思う。役者は出てこない。カメラも、ふつうの映画のように演技をしない。演技することを拒んでいる。ナレーションも感情を刺戟しない。
 映画の舞台はアムステルダム。かつてナチスが占領し、多くのユダヤ人を殺害し、またアウシュビッツへ強制移送した。そのナチス占領時代にユダヤ人が住んでいた場所(生活していた場所)が、いまどうなっているかを映し出す。名称がかわったところもあるが、そのままのところもある。なくなった施設もあるが、そのままのものもある。そして、そこに住んでいたユダヤ人はどういうひとだったかを、たんたんと語る。
 印象的なことばがある。「消滅した(なくなった)」。英語で何といったか。字幕ではどうだったか。正確には覚えていないが、そういうことばがその場所、そこに住んでいたひとを紹介したあとに、繰り返される。
 生きていたひとがいない。かつて書店だったところが書店ではなくなっている。しかし、それを思い出すことができる。思い出すだけではなく、そこから何ごとかを考えることができる。そして、それはただたんに「できる」ではなく、「しなければならない」ことである。思い出し、考えるとき、消滅したもの(なくなったもの)は、はっきりとそこに存在し続けることができる。それは消滅した(なくなった)のではなく、消滅「させられた」、無に「された」のである。そのことも思い出さ「なければならない」し、考えなければ「ならない」。
  椅子に座ってみつめているだけでは、何も起きない。スクリーンをみつめ、そこに映し出されていないひと、もの、ことを、思い出し、考えるとき、それは「映画になる」。私の知らないひとが、動き始める。「映っていない何か」が見えてくる、そういう映画である。
 その「新しく見えてきた何か」が、あまりに多くて、何を見たか、語ることがむずかしい。いままで見ようとして見えなかったもの、それを見せてくれるのが映画だとすれば、これこそ、まさに映画である。
 それにしても不思議だ。
 ナチスがアムステルダムを占領していたときから、まだ百年もたっていない。それなのに、この映画を見始めた瞬間には、ナチスが占領していたことがなかったかのようにさえ見えてしまう。この「錯覚」を、スティーブ・マックイーン監督は、しずかに、しかししっかりと揺さぶる。そして、最後には、アムステルダムの街が、一度も見たことがないものの姿であらわれてくる。「歴史」に目を向けさせる。「歴史」は、未来を考えるとき、より正確な形であらわれてくる。ひとの人生が百年と仮定して、その百年は「過去の百年」を見つめなおしつづけることでしか築いていくことができない。
 ラスト近くのシーン。路面電車(トラムというのだろうか)が走っていく。運転席から見える「前方」が映し出される。反転して、後ろ(進んできた方)が映し出される。横(左右)が映し出される。どちらかだけが電車の進んでいる方向を教えるわけではない。すべてが絡み合っている。「過去」は捨て去ることはできない。「いま」の「周辺」も捨て去ることはできない。「未来」へ進むためには、すべてを正確に認識ないといけない。そうしないと「脱線」してしまう。
 (まだ肉体の中に「興奮」が残っている。興奮が音を立てて騒いでいる。もう一度、ゆっくり感想を書き直さないといけない、とも思う。)

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリストファー・ザラ監督「型破りな教室」(★★★★)

2024-12-27 22:30:08 | 映画

クリストファー・ザラ監督「型破りな教室」(★★★★)(KBCシネマ、スクリーン2、2024年12月27日)

監督 クリストファー・ザラ 出演 エウヘニオ・デルベス、ダニエル・ハダッド、ジェニファー・トレホ、ダニーロ・グアルディオラ、ミア・フェルナンダ・ソリス

 「いつも心に太陽を」(ジェームズ・クラベル監督、シドニー・ポワチエ主演)のメキシコ版、小学校版といえばいいのかもしれない。
 映画の中に、妹か弟かわからないが、幼い兄弟が生まれたために学校へ通うことを断念する少女が出てくるが、私は、なんとなく自分の小学生時代に重ねて見てしまった。私は末っ子で兄たちとは年が離れていたこと、病弱で農作業の手伝いをあまりできなかったことが重なり、兄たちの子供(私の甥、姪)の子守をすることが多かった。あやすのはもちろん、ミルクをやる、襁褓を換えるのも得意である。(甥、姪が生まれたころ、いちばん年の近い姉は中学を卒業しており、集団就職で、すでに家にはいなかったから、そういう仕事がまわってきたのである。)
 また、父の弟の息子(いとこ)のことも思い出した。彼はとても優秀な成績だったのだが、父親が胃がんで死んだため、中学を卒業すると地元の小さな工場に就職した。母と弟ふたりをおいて都会に就職することはむずかしかった。田畑の仕事をする人間がいなくなるからである。そのとき、彼がどんなことを考えていたか、私は知らない。葬儀やなにかで帰省し、会ったとき「家に遊びにきて、板戸に『海外特派員になりたい』と落書きしていったのが、まだ残っている」などとからかわれたりするから、彼もまた、そういう夢をもっていたのかもしれない。
 私は病弱ということもあって(とても30歳までは生きられないだろうと思っていたこともあって)、高校へは進学したが、大学へいくことなど考えていなかった。兄弟だけではなく、親類のなかでも高校へ進学したのは、私が最初だった。とても貧しかったのである。
 学校は好きではなかったが、忘れられないことがひとつある。小学校には、図書室というか、本棚を置いた部屋があり、そこにはずらりと本が並んでいた。その本は、なんでも、故郷の市出身のひとが、東京でベビー用品の会社を経営し、その利益を故郷に還元するために、各小学校に毎年本を贈っている。その本だという。「シートン動物記」の全巻を読んだのを覚えている。読んだ本のことはほとんど忘れているが、その本を贈ってくれた見知らぬひとのことは、どうしても忘れられない。いつかは、そういうひとになりたいとも思った。そのひとがいなかったら、本を読む喜びを知らなかった。とても感謝している。
 いま思い返せば、あのころから私は本が好きだったのだと思う。でも、なかなか本を読むことはできなかった。仕事をするようになって、本が買えるようになって、将来は本を読んで暮らしたいと夢みていたが、いまは視力が低下して読むのがむずかしい。
 そんなこともあって。
 この映画では、私は、学校へ行くことを中断した少女のことがとても気になる。あのあと少女は、子守から解放されて、好きな本を読むことができるようになったのだろうか。本を読みながら、自分のことばをみつけ、何かを語り始めただろうか。どうか、そうあってほしいと願わずにはいられない。
 本を読むことは、ことばを知ること。考えるということを学ぶこと。
 そこからちょっと進んで、もうひとつ、この映画でどうしても忘れられないのが、廃品を回収し、そこから金目のものを売って生活している父娘の、その父のことである。彼は娘の才能に気がついていない。娘に夢を見させても、結局、この現実にもどってくるしかない。夢を見た分だけ、傷が深くなると感じている。ところが、娘が望遠鏡を自分でつくったこと、一生懸命勉強していたことを知る。ああ、この娘の夢をかなえてやりたいと思う。(「リトル・ダンサー/ビリア・エリオット」の父親のよう。)だが、どうしていいかわからない。娘に語りかけることばもみつからず、泣いてしまう。
 あのとき、あの父親の「肉体」のなかで、どんな「ことば」が動いていたのだろう。
 人間なのだから、だれもが思想(ことば)をもっている。その「ことば」を、どうして私は聞き取れないのだろう、と悔しくなる。あの父親の「ことば」にならない声を、「ことば」にできたらどんなにいいだろうと思う。あの父親は、こういいたかったのだ、と「代弁」できたら、どんなにうれしいだろう。その「ことば」を少女に聞かせてやりたい。私が代弁しなくても、少女はちゃんと父親の「ことば」を聞き取っている。受け止めている。それがわかるからこそ、私は悔しくなる。その父親の「ことば」をきちんとすくいとれない私の「ことば」というものは、とてもつまらない「ことば」にすぎないのだ。少女は、ちゃんと「ことば」を聞き取る耳(肉体)をもっているのに、私には、それがない。
 これは、私自身の父や母についても思うのである。人間だから、幸せになることを願って生きていたと思う。その父や母の、声にしなかった「ことば」を、私は語ることができない。もうすぐ父が死んだ年齢に近づく。肺がんで死んだ兄は、死ぬ前に「父が死んだ年と同じだ」と言ったが、ああ、そうなのか、我が家の男の寿命は、その年なのかと思った。同時に、父と兄は、仲がいい関係には見えなかったが、死ぬ前に父のことを思い出しているなら、そしてそこから兄自身のことを思っているなら、やはりどこかで「ことば」を共有していたのだとも思う。
 私はいったいどんな「ことば」を両親と共有しているのだろうか。共有しているとしたら、それをどんなふうに表現できるだろうか、とも考えてしまう。

 書きたいことだけ書いて、ふっと思い出せば。
 この映画では、いろいろなことばを先生と生徒が、そして生徒同士が「共有」している。たとえば、ものの「密度」。体積と、体重。「密度」をはかるためには、どうすればいいか。数字も、計算も、みんな「ことば」。担任の先生が沈んだ水をためたおけ、校長先生も沈んだおけ、そのときの7センチと10センチの水位の高さの差。そして、そのときの水の輝き。それも「ことば」。共有できる「ことば」を求めあう、その共有のたしかさを確認するのが学校というものなのだろう。
 これは「いつも心に太陽を」でも、あったなあ。最初、ポルノグラフィーを読ませる。生徒が興奮しながら「ことば」を、あるいは「読む」ことを身につけていく。ある日、「チャタレイ夫人の恋人」を読ませる。すると生徒が「なんてきれいなことばだ」と声を漏らしてしまう。「ことば」は共有するためにある。
 そして、また、思うのである。私は和辻哲郎やプラトンの「ことば」が好きだが、そうしたことばを読みながら、やっぱり父と母につながる「ことば」を探している。「ことば」を探すために、生んでくれたのだと思うのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カルラ・シモン監督「太陽と桃の歌」(★★★★+★)

2024-12-21 22:10:13 | 映画

カルラ・シモン監督「太陽と桃の歌」(★★★★+★)(KBCシネマ、スクリーン2、2024年12月20日)

監督 カルラ・シモン 出演 ジョゼ・アバッド、アントニア・カステルス、ジョルディ・プジョル・ドルセ

 予告編にもあったのだが、母親が息子を平手打ちする。父親が加勢して、息子を叱ろうとする。一瞬何か言いかける。その父親にも母親(妻)が平手打ちをくわせる。言いかけたことばを封じてしまう。このシーンが、とてもいい。息子、父親、母親には、それぞれ言い分がある。そして、それは明確にことばにするのはなかなかむずかしいのだが、ことばにしなくたって三人にはそれがわかる。家族だから。そして、それを見ている私は彼らの家族ではないのだが、やはり、わかってしまう。ここには、「がんこもの」の「思想」が「肉体」として動いている。
 どのシーンもそうなのだが、ほんとうに「言いたいこと」は明確に言語化されない。冒頭の「契約書」の部分は別だが、あとはことばにならない。ことばにしてみたって、何も解決しないことがわかっているからだ。そして、みんなが、それぞれに苦しんでいることを互いに理解しているからだ。みんなでいっしょに働いてきた、桃をつくってきたからだ。いっしょに働く喜びと苦しみ、というふうに「要約」してはいけない何か、「要約できない何か」がある。
 それは、たとえていえば、ある日の家族パーティー。家族の写真を撮る。それは今風にスマートフォンをつかって撮るのだが、そのパーティーの準備のシーンが、ああ、いいなあ、と思わずつぶやいてしまう。主人公の父親が、カタツムリを網のようなもの(網ではなく、棒に見えたが)の上にカタツムリを並べる。その上に枯れ木(枯れ草)をかぶせる。火をつける。カタツムリが焼き上がる。それを父親が全部、コントロールしている。父親が料理している。日本で言えば、鍋料理を父親がコントロールする(鍋奉行)のようなものかもしれないが、ここに「父の矜恃」のようなものが集約されている。みんな、それを尊重している。
 それは、すべてのことにおいて、そうなのである。父親の生き方に息子や娘、それに母、さらには父親の父親(祖父)も何らかの形で「反発」している。それはたとえば、祖父がイチジクを摘んで、地主のところへ付け届けをするような形で表現されている。この祖父の行為は、父親が祖父に車を運転させない(車を動かせないように、ほかの車で封鎖する)という形で、「実力」で拒絶される。祖父はもちろん納得できないが、納得できないけれど、受け入れ、尊重もしている。
 こういうことが繰り返し、描かれる。冒頭に書いた息子への平手打ちの前には、息子が内緒で栽培している大麻を父親が燃やしてしまう。それに怒って、息子はしなくてはいけない仕事を放棄するというか、逆のことをしてしまう。いったん水門を閉じながら、父に仕返しするために水門を開ける。してはいけないとわかっているけれど、してしまう。そうしないではいられない。
 このときの気持ちは、ことばにはされない。でも、わかる。それが、とてもいい。
 これとは逆に、正面切ってことばにされる行為がひとつ描かれる。それはスペイン政府に対する農業従事者の不満である。(これは、あるいはEUに共通の問題かもしれないが……)。農産物が安い。とても金にならない。働けば働くほど赤字になる。彼らを苦しめるのは、単に農産物が安いということだけではない。その安い農産物よりも安い「輸入品」が市場を支配しているからだ。(このことは、明確には言語化されてはいないが)。このことに対して、主人公たちはデモをする。収穫した桃、いのちと同じほど大切な桃を道路にばらまき、車でつぶしてしまう。このときの、農家のひとの悲しみ、やりきれなさ……。
 と、書いて、私は、立ち止まる。政府に対する批判はことばにされる。しかし、自分が育てたものを廃棄する苦しさ、かなしさ、やりきれなさは、やはり「言語化」はされていない。この語られなかった「ことば」、それは語られなかったからといって存在しないわけではない。存在する。そして、単に存在するだけではなく、共有されている。カルラ・シモン監督は、それを共有しているからこそ、「ことば」ではなく、映像で、役者の肉体で、そこにある桃や大地の姿でリアルに再現している。

 私は、貧乏な農家で育った。病弱だったこともあり、農作業のすべてにわたって手伝ったわけではないし、わりと若いときに家を出てしまったので、知らないこともたくさんあるが、なかでも知らないのは、たとえば父や母が何を思っていたか、それをあらわす「ことば」を知らない。人間だから、ことばにしなくても「思想」はある。語らなくても「思想」はある。それを、この映画のようにリアルに表現する方法を私は知らない。父と母の「ことば」を知らない。知らないまま、父が死に、母が死んだ年齢に近づいている。私がつかっている「ことば」なんかは、そういう意味では「嘘」でしかないのだ。そんなことも考えさせられた。
 そんなこともあって、私は、知らず知らずに泣いてしまった。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン「二つの季節しかない村」(★★★★★)

2024-11-29 22:07:20 | 映画

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン「二つの季節しかない村」(★★★★★)(KBCシネマ2、2024年11月26日)

監督 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 出演 デニズ・ジェリオウル、メルベ・ディズダル、ムサブ・エキチ、エジェ・バージ

 冒頭、主人公の教師が雪のなかを村へ帰ってくる。このときの雪。これが、絶望的に冷たい。美しくはない。ただ冷たいだけである。雨が混じっていて、やりきれない音が聞こえる。白く輝く雪ではなく、灰色に沈む雪。この「灰色」がこの映画のテーマであると私は直感する。この雪に似た雪は、一度映画で見たことがある。「スウィートヒアアフター」(アトム・エゴヤン監督)。この映画もまた灰色の冷たい雪、凍った雪が私を閉じ込めて放さない。
 「二つの季節しかない村」には、小学校の校庭で雪をぶつけ合う楽しいシーンもあるのに、その楽しさは人間を解放しない。そんなものは「まぼろし」だと言っているようにさえ思える。そこに住む人間を長い間、ただ閉じ込めるだけの冷たい雪。それは人間を屈折させる。動き始めた肉体は、その動きに身を任せ、解放されるという具合にはいかない。奇妙にゆがむ。もっと美しい動きがあるはずなのに、そしてそれをみんな自覚しているというか、直感しているのに歪む。他人がうらやましい、他人がねたましい。
 最初、それは非常に「なまなましい形」であらわれる。主人公の教師が教室で生徒に質問する。優秀な生徒(少女)が二人いて、彼女たちは手を挙げて質問に答える。教師は、彼女たちなら間違えずに答えるとわかっていて、彼女たちを指名する。予想通り、正解が返ってくる。授業がスムーズに進む……はずが、ひとりの男子生徒が先生に語りかける。「先生は、いつも二人を指名する。(依怙贔屓だ)」と批判する。この正直な直感と反発。そのなかで人間は歪む。この男子生徒が実際に行動を起こすわけではないが(だから、ここにテーマが暗示されていると直覚する観客は少ないかもしれないが)、登場人物たちは、まさにこの生徒のことばを支えている直覚を具現化するように動く。その場合、それはたいていは、してはいけないとわかっているのに、してはいけないからとわかっているからこそ、それをしてしまう、という形をとる。「先生は、依怙贔屓をしている」というようなことは、「おとな」になれば面と向かっては言わない。でも、陰口は言う。その「陰口」の世界とでもいえばいいのか。
 それは簡単に言いなおせば、冒頭の「灰色の雪」の、その「灰色」の世界である。「灰色」は単調な色なのだが、その単調さのなかに、なんとも強情なものが隠れていて、それが灰色に濃淡を与える。この濃淡の変化こそが「人間のいのち」であるというのが、たぶんヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の、「主張」である。
 これは「雪の轍」にもみられた、長い長い「対話」に象徴的にあらわれている。対話を通して、二人の話者は「結論」というか、「妥協点」に到達するわけではない。対話の目的は、対話の理想とは逆に、「自己主張を譲らない」という一転に向けて加速する。話せば話すほど、いや、この映画では「話さない」という形でも「自己主張を譲らない」という姿勢が貫かれるのだが、これはもうこうなってしまうと、絶対に「純白」や「黒」という具合には話が進まない。ただ「灰色」の濃淡をどれだけ認識できるかにかかってくる。それは観客もそうであるし、登場人物にそうなのである。
 主人公は男は、結婚相手の女性を紹介される。結婚する気はない。だから、その女を友人の男に紹介する。女と友人は親しくなり始める。そうすると主人公は、それまでその気がなかったのに、その女のことが気になる。絶対に「好き」なわけでもない、愛しているわけでもないのだが、女を奪ってみたくなる。そんなことはしてはいけないとはわかっている。わかっているからこそ、よけい、そうしたくなる。そして、いったん、そういうふうに動き出すと、それを止めることができない。女は女で、主人公が友人を裏切って、主人公が女に接近してきたことをわかっていながら、男と寝てしまう。そんなことをすれば、絶対に友人にわかってしまうとわかっていながら、そうしてしまう。そして、それからまた複雑な関係というか、複雑な「やりとり」がある。灰色が灰色のまま揺れ動く。暗くなり、それでも明るさを求めて動き回る。これは、もう、どうすることもできない。
 ただ、それだけである。こうした「暗さ(灰色のやりきれなさ)」を納得できるかどうか。それは、もしかすると冒頭の雪のシーンを体験したことがあるかどうかと関係するかもしれない。ある風土、ある季節、それを知らない人間には、到底理解できない何かがあるかもしれない。人間の力では変えることのできないものがある。そして、それは自然(季節)の問題だけではなく、自分自身の肉体のなかにも潜んでいる。潜んでいるだけではなく、あらわれてしまう。あらわれることを抑制することができない。それは「欲望」の解放と簡単に言うことはできない。あらわれてしまったものが、逆に「欲望」の抑制であるかもしれないのだ。そうした矛盾を納得できるかどうか。問われるのは、そういうことだろうと感じる。書いているうちに、この灰色のなかに潜む黒の不思議な輝き、そこにもどうすることもできない喜び、愉悦があるということばを挿入したいのだが、それをどこに挿入すればいいのかわからないまま、私のことばは動いてしまう。
 「灰色」というと白が美しく黒が汚いという視点で整理するとわかりやすくなるのだが、そういうわかりやすさとは裏腹に、あの黒にこそどうしようもない美しさ、絶対的な欲望の強さがあるということを納得できるかどうか。そうなのだ。私は、ある意味でこの映画のもうひとりの主役の少女の、絶対に自分の悪を認めようとしない強さのなかに、恋することの美しさ以上の力を感じ、魅了されるのだ。主人公の男の「物語」など平気で破ってしまう絶対的な力、そしてそれが自然であるということの強さ。
 「スウィートヒアアフター」も、映画が進めば進むほど、見てはいけないものを見るしかなくなる人間のやりきれなさを、ただじっくりと描いていたが、雪にはそういうことを強いる力があるのかもしれない。雪には、人間に耐久性をもたらす力があるかもしれない。雪を知らないひとは、この不思議な、いやあ力の動きが好きになれないかもしれないなあ。私は、その力が好きであるとは言えないけれど、妙に納得し、その存在に「親近感」を覚える。雪深い山の中で育ったせいかもしれない。

 と、ここまで書いて。
 ほんとうは書いてはいけないことなのだけれど、この映画の主人公のように、してはいけないと思うからこそ、書いておきたいこともある。この映画の主人公を苦しめる女生徒のような「存在」を私は知っている。それは、この映画のように「事件」にはならなかったが、雪の抑圧というのは、そういう少女を生んでしまうのかもしれないとも思った。そうしたことも、この映画を見ている間中、私の意識を突き動かしていた。その当時、私はまだ少女と同じ少年だったから(同級生だったから)、その少女のなかに動いていた絶対的な情念の力など理解できなかったが、いまならわかるような気がするのである。

 人間は、簡単には「整理」できない。整理できないものを、整理しないで、突きつけてくる。提出する。こういうことができるのは、たいへんな力業だと思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリバー・パーカー監督「2度目のはなればなれ」

2024-10-26 17:15:28 | 映画

オリバー・パーカー監督「2度目のはなればなれ」(★★★★、キノシネマ天神、スクリーン2、2024年10月26日)

監督 オリバー・パーカー 出演 マイケル・ケイン、グレンダ・ジャクソン

 映画がはじまってすぐ、あれっと思う。映像が少しかわっている。いまの映画は「市民ケーン」以降、スクリーンの全体がくっきりと映し出されるのがふつうである。ところが、この映画は、「ぼける」。遠景に焦点があたっているときは近景がぼける。近景に焦点があたっているときは遠景がぼける。言いなおせば、「視野」が狭い。しかし、「視野が狭い」という印象はおきない。たぶん、「視覚」というものは、そういうものなのだろう。見たいものを見る。見たくないものは、存在していても見ない。これは、高齢になるとますますその傾向が強くなるから、映画は「老人の視点(老人の視野)」を強調しているともいえる。
 で、これは私がうっかりしていたのだが、最後は、その「狭い視野」が消えて、言いなおすと「ぼやける」が消えて、全部がくっきり映し出されていたかもしれない。これは私の目が「ぼやける/くっきり」の世界になれてしまって、そのことを意識しなくなったのかもしれないが、そうではなくて、ほんとうに「全部がくっきり」にかわっていたのかもしれない。そして、その「全部がくっきり」が、主人公のかかえていた問題が解決した、ハッピーエンディングになったということを象徴しているかもしれない。だから、このことは、最後のシーンの「くっきり」は保留にしておくが……。

 この映画で、私がいちばん感動したのは、主人公がノルマンディーで元ドイツ兵と出会うシーンである。かつての敵。殺し合った関係。しかし、そのとき、そこに「憎しみ」は存在しない。ただ「悲しみ」だけが共有される。不思議な「和解」が一瞬にして、全体をつつむ。
 何があったのか。
 主人公が、ふと漏らすことばがある。「無駄なことをしてきた」。何が無駄だったのか。殺し合ったことである。戦争の過程で、何人もの人間が死んだ。殺そうとして殺した人間(敵)もいるが、殺すつもりがなかったのに死なせてしまった人間もいる。ただ戦争を遂行する(兵士の役割を果たす)ということだけを考えていたのだが、それが仲間を死に追いやったということもある。もし戦争をしなかったら、そういうことはなかったのである。
 それはイギリス人もドイツ人もかわらないだろう。悲劇を体験してきた人間だけが共有する「実感」だろう。
 このことを、多くのことばをつかわず、ただ見つめ合い、テーブルの上で手を重ね合うという行動だけで表現していた。とても美しい。
 この、主人公の漏らした「無駄」ということばを、主人公の妻は、こんな形で繰り返す。
 「戦後、私たちはいっしょに生きてきた。してきたことは、小さな、つまらないことかもしれない。しかし、そこに無駄はひとつもなかった」。このときの「戦後(戦争が終わったあと)」という一言が、とても強い。私の胸には、ずしりと響いてきた。
 この「無駄」が「呼応」する。いろいろな「名目」はあるだろう。しかし、だれかを「殺す」ということほどの「無駄」はない。そういう「無駄」をしなくても、ひとは生きていける。華々しい出来事は何もないかもしれない。しかし、同時に、華々しい「無駄」もないのである。それが「生きる誇り」(生きてきた誇り)である。その「誇り」を取り戻すために、主人公は、共同墓地へ行く。友の墓の前で祈る。彼に同行する男も、また同じように。そのとき、その男が毎日繰り返し口にしてきた詩が語られる。それは、死んでしまった人間への、「もう無駄はしない」という強い決意のように迫ってくる。

 あらゆる世界で「無駄」が排除されようとしている。「話し合っても無駄」(戦争しかない/武力行動しかない対立解消の手段はない)というのが、「戦争支持者」の主張だろう。「話し合い」は彼らから見れば「時間の無駄」なのかもしれない。しかし、その「無駄」をつづけつづければ、それは無駄ではなくなる。何があっても武器はとらないということをつづきつづければ、戦争はおきない。人間が「無駄に」死んでいくことはない。
 戦争で、実際に親しい人間を失ったひとだけが「無駄」に気がつくというのでは、あまりにも悲しすぎる。
 この映画は、いま拡大しつづける戦争に対して、何か有効なことをなしうるか。この映画が与える高価は「無駄」(無力)でしかない、というひともいるだろう。だが、そうであったとしても、この映画に加わったひとは言うだろう。「私のしたことは、ちいさなことである。しかし、私は何一つとして無駄なことはしていない」と。
 で、もうひとつ、忘れがたいシーン。
 主人公を助けるアフリカ系の元兵士。彼は、こころの傷のために、少し主人公たちに迷惑をかける。それが次の朝、主人公にであって謝罪する。それに対して主人公が何か言う。それに答えて、元兵士が何か「立派なこと」を言おうとする。そのときの態度が、いわゆる「軍人風」である。この態度を主人公が、静かに批判する。「そういう軍隊式の反省はやめろ」と。「きみは病んでいる」と。
 ああ、いいなあ。
 「戦争反対」は世界中で叫ばれている。安倍も叫んだし、岸田も訴えた。石破も言うだろう。しかし、そのときの「戦争反対」ということばの奥に動いているのは、どういう精神か。たとえば「祖国のために亡くなった兵士の精神を忘れない」というとき、そこにはたとえば主人公の友人の「死ぬのはいやだ、死ぬのは怖い」という気持ちは含まれているか。含まれていないだろう。「祖国のために亡くなった兵士の精神を忘れない、そのいのちを無駄にしない」というとき、それは新たな「無駄」をするということだろう。

 声高ではない。だが、はっきりと「ことば」が聞こえる。こういう映画をつくることができるひとがいることに、深く感謝したい。「私は何一つ無駄なことはしなかった」といえるのはすばらしいことだ。
 この映画のなかの主人公の、友人の墓に祈ること、それは「無駄」ではない。もしなにかしてきたことのなかに「無駄」があったとしても、その「無駄」は、その瞬間にすべて消えた。「ぼやけ」ていたものは何一つなくなり、世界は「くっきり」したものにかわった。この「くっきり」を感じたから、私は、主人公がフランスから帰ってくるシーン以後、スクリーンに「ぼける/くっきり」の差を感じなくなったのかもしれない。
 もう一度見るということはないから、私がそう感じた通りの撮り方だったかわからないのだが。


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥山大史監督「僕はイエス様が嫌い」(★★★)

2024-09-29 11:51:19 | 映画

奥山大史監督「僕はイエス様が嫌い」(★★★)(キノシネマ天神、スクリーン3、2024年09月28日)

監督 奥山大史 出演 佐藤結良、大熊理樹

 冒頭、おじいさんが障子に穴をあけて、外を覗いている。このシーンがラストで少年にかわる。少年が障子に穴をあけて、外をのぞく。おじいさんが何を見たかは描かれない。少年が見たのは、少年が大好きな友人と雪の上でサッカーをしている姿である。
 このシーンは、「ぼくのお日さま」を思い出させる。「見る」とは、何か、ということを考えさせる。
 見る。目で見る。だから、目が直接見ることができないものは、自分の目である。しかし、目で見るとき、そこには「自分」が反映される。つまり、それは単に「自分以外」を見るのではなく、実は「自分」を見ることでもある。
 少年は、障子の穴をとおして、彼と友人が夢中になって(ほかのだれも見えない)になって、サッカーをしているのを見る。そこに自分がいるのだけれど、自分がいない。そして、たぶん、そこには友人もいない。ただ「楽しい」、あるいは「うれしい」が「ある」。「自分」は「無」になり、そこに「楽しい、うれしい」が輝いている。「好き」とは、こういことなんだなあ、と思う。
 「ぼくのお日さま」では、主人公の少年は少女がスケートをしているのを見る。コーチが回転しながらジャンプする、その仕方を教えている。それを見た少年は、少女が教えられた方法を試してみる。このとき少年は少年でありながら、少年ではない。回転しながらジャンプするという「行動(運動)」そのものになっている。自分の肉体の動きを確かめるとき、少女の肉体の動きを確かめていると書くと書きすぎだが、「人間の肉体の動き」(何かを実現する喜び)を確かめているとはいえる。そこには「自他」の区別は存在しない。「自他」を超える「無」の喜びがある。
 奥山大史のとらえようとしているのは、何か、そうしたものである。「無」、あるいは「空」と呼んだ方がいいのかもしれないが、いま、多くの人が見失っている「絶対的喜び(幸福)」をつかもうとしている。提示しようとしている。
 大好きな友達が死んでしまったのに、そこに「よろこび」が表現されるというのは「矛盾」かもしれないが、「悲しみ」を超えてしまう「よろこび」、その純粋さ、透明さが、この「僕はキリスト様が嫌い」でも、とてもよくあらわされている。
 (★が三つになってしまったのは、たぶん「ぼくのお日さま」があまりにすばらしくて、その「反動」のようなものかもしれない。)
 このラストシーン、スクリーンの下の方に「白い何か」がゆらゆら揺れている。これを映画の「キリスト」と結びつけ、「神様が見ている」と言う人がいたが、(「神の視点から見た世界、神はいつでも人間を見守り祝福している」という人がいたが)、私は無神論者なので、そんなふうには見ることはできない。あれは、あくまで障子の穴の、その周辺の紙である。少年の「我」が消え、「無(空)」になったから、あのシーンが見えるのである。もし、どうしても「神」と結びつけなければならないとしたら、「無我」の瞬間、少年は「神」になっていると言えばいいだろうか。「神」にひとしい存在、「自己主張」が消えた視点になっていると言えばいいだろうか。
 主人公の少年は、死んだ友人への「弔辞」を読んだあと、祈祷台(?)にあらわれた小さなキリストを拳で叩きつぶす。「友人を死なせてしまうキリストなんか許せない」という気持ちか。でも、もし「神」がいるとするなら、そういう「神への憎しみ」さえも許してしまうのが「神」というものだろう。裏切ろうが、迫害しようが、人間を許し、受け入れるのが神だろう。
 悲しみを受け入れる。そして悲しみのなかで楽しかったこと、うれしかったことを思い出すほどつらいことはないのだが、不思議なことに、その悲しいときに楽しかったこと、うれしかったことを思い出すことができるということが、人間を「生かす」力となっている。少年は、ラストシーンで、それを語るわけではないが、感じている。そういうことを教えてくれるとても美しいシーンである。
 こういう純粋な透明感をそのまま具体化できるというのは、現代では、とても貴重なことだと思う。奥山大史という監督は、初めて知ったが、これからも作品を見続けたいと思う。

 奥山大史監督の特徴は、「白」にいろいろな白があるということを知っていることだ。雪の美しさ、悲しさはもちろんだが、障子のほのかな白の変化、白い花だけではなく、青い花のなかにもひそんでいる白も含めてとても美しい。黒のなかには無数の色がある、無数の色があつまり黒になると言うが、白のなかにも無数の色がある。奥山大史の、その無数の色は「光の無数の色」なのだろう。だから、最後にその無数の色があつまると、何もない「透明な光」「純粋な光」そのものになる。
 書いていたら、★4個、あるいは5個にしたくなってきた。
 いい映画というのは、こういう変化を引き起こす映画のことかもしれない。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(3)

2024-09-24 06:49:37 | 映画

 ユーチューブ「シネマサロン、ヒットの裏側」批判のつづき。(この記事の下に、1、2があります。)
 https://www.youtube.com/watch?v=ywPcv9iU9LM

 美、純粋、透明などいろいろな「概念」が指し示すものをつかみとるには「直覚」が必要だ。美や純粋、透明といったものを「論理」で説明しても、それは単なる「論理」であって「本質」ではない。それは「論理」で説明してもしかたがないものである。直覚できるかどうかが問題である。
 こういうことを書きながら、「シネマサロン、ヒットの裏側」ユーチューバーの語っていることを、ことばで批判するのは、まあ、矛盾のようなものであるが、書いておく。
 「シネマサロン、ヒットの裏側」ユーチューバーは、簡単に言えば、透明、純粋、美に対する直覚が欠如している。彼らには、透明、純粋、美を理解することはできない。
 とりわけ「好き」ということがもつ純粋さ、透明さ、その美しさを直覚することができない。
 この映画「ぼくのお日さま」は別のことばで言えば、「ぼくは、ぼくのお日さまが大好き」である。大好きなものを「お日さま」と呼んでいる。好きな対象は「お日さま」であると直覚して、言っている。「お日さま」ということばを聞いて、あ、少年は「お日さまが好き」なんだと直覚できなければ、それから先は、何もわからないだろう。
 で、この「好き」ということば、それが何回この映画につかわれているか私は意識していないが、一回だけ、忘れられないシーンがある。
 少年がフィギュアスケートかアイスホッケーか、選択に迷ったとき、父が「おまえが好きな方にすればいい」という。この「好き」をどれだけ「実感」として直覚できるか。少年はフィギュアを選ぶが、その選択を後押しするのが少年の直覚であり、そこには少年自身が純粋な形で具体化されている。
 これは、たとえて言えば「リトルダンサー」の少年がボクシングではなく、ふと見てしまった少女たちのバレエからバレエに目覚めるような、直覚である。それは本能である。説明はできない。
 で、私は、最初の感想に、このとき父親が吃音であることがこの映画の唯一の欠点であると書いたのだが、吃音をとおして父が少年の「好き」を応援していることを強調するのが、なんともいえず「下品」に感じたのだ。ただ単純に、「好きにすればいい」の方が不純なものが混じらない。あ、父親も吃音なのか、というようなどうでもい感想が混じりこまないだろう。

 ことばに関して言うと。

 「シネマサロン、ヒットの裏側」は脚本について、いろいろ難癖をつけているのだが、そのひとつひとつがあまりにもばかばかしい。たとえば、スケートのコーチが仕事をやめてどこかへ引っ越すのだが、その直前の会話から「客(教えている生徒)がたったひとりなのか」(ひとりの客、少女を失っただけで、仕事がなくなるのか)というようなことを言う。しかし、「生徒がひとり」とは、どういうことだろうか。映画では、生徒がひとりとはどこにも描かれていない。だいたい、コーチは、少女と少年のふたりを教えている姿をとおして描かれているが、生徒がふたりだけかどうかわからない。ほかの部分は「省略」されている。スケート場の他のスタッフが登場しないことについても疑問を語っているが、そういうものを描く必要を感じていないから映画は省略しているだけである。
 省略に関して言えば、たとえば少女の家庭はどうなっているのか。父や兄弟はいないのか。少女のかわりに母親がコーチに対して、コーチの解任を伝えるのだが、父親が登場しないことを理由に、少女は「母子家庭」のこどもであり、ひとりっこであると言えるか。
 あるいはコーチの連れ合いが「家業をつぐために北海道に帰って来た」というが、そのとき彼の両親は、あるいは兄弟はどこにいるか説明がないから、彼がガソリンスタンドを経営していることになるのか。そんなことはないだろう。映画に限らず、どんな作品でも、その作品が必要としないものは省略する。
 映画には描かれていないが、北海道の小さな街で(といってもスケート場がある大きな街だが)、その小さな街で「スケートのコーチはゲイである」ということが知れ渡ったら、それを嫌って生徒を引き上げさせる両親というのはいるかもしれない。ひとりの客を失ったのではなく、多くの客を失ったのかもしれない。そう考える方が自然だろう。舞台になっている北海道の街をゲイに対して不寛容な街であるというわけではないが、少数派を受け入れない(歓迎しない)という雰囲気は、どこにでもある。日本政府からして、同性婚を認めていないではないか。コーチは「ひとりの客」を失ったのではなく、その「ひとり」を含む多くの客(生徒)を失ったのである。その結果として、少年をも教えることができなくなった。でも少年がフィギュアが好きなことを直覚しているコーチは、少年にスケート靴をプレゼントして立ち去る。少年にフィギュアが好きなままでいてもらいたいと思うから靴を残していく。その悲しい美しさ。そこにはフィギュアを愛しているコーチのこころも描かれている。
 映画で説明していない部分は「存在しない」のではなく、単に「省略」されているにすぎない。コーチが、最初は「靴はやるんじゃない、貸すんだ」と言ったことを思い出すがいい。そして、そこから靴を残していく気持ちを想像すればいい。また、それを受け取る少年の気持ちを想像すれば、彼がその後なにを選択するかがわかる。想像できる。説明がないものを想像できないのは、想像力の欠如である。
 コーチと連れ合いの関係をゲイの関係である、ふたりは同性愛者であるということを、ユーチューバーは語っているが、映画のなかで二人がセックスをするわけではない。ひとつのベッドに寝ているが、ひとつのベッドに寝ればかならずゲイであるとは言えないだろう。それなのに、ゲイであると断言する。登場人物がゲイであることは想像できても、映画に登場しない人物が彼らの周りには存在するということを想像する能力が、彼らには欠けている。
 テーマではないことがらに関することは想像しても、テーマについては想像しない。簡単に言えば、彼らの想像力は「下品」である。「品がない」。
 想像力の欠如はラストシーンについても言える。ここでは具体的なことばは何一つ明確になっていない。だから、そこから何を想像するかは観客に任されているのだが、彼らがハッピーエンドを想像できなかったからといって、ハッピーエンドではないとは言えない。すでに書いたように、あれ以上のハッピーエンドはない。描かれていない部分から何をつかみ取るか。何を直覚するか。それには、そのひとの「品」が影響する。私は私に品があるとは思わないが、彼らは「下品」だと思う。
 少年と少女が、コーチから「フィギュアが好き」という気持ちを引き継がなかった(受け取らなかった)と想像してしまうのは、あるいはコーチから「フィギュアが好き」という気持ちを引き継いだと想像できないのは、「シネマサロン、ヒットの裏側」のユーチューバーに、何かが「好き」になった経験がないからだろう。あるいはそういう経験があったとしても、そのときの気持ちを自分自身でしっかり確かめ、確実にするという意識がないからだろう。自分、そして生活を見つめなおさないことを「品がない」というのである。

 脱線するが。
 「世界のおきく」を批判して、地主農家(?)が主人公たちに対して怒ったとき、肥だるを手で持って、糞尿をぶちまけるというシーンがある。そのシーンに対して「シネマサロン、ヒットの裏側」のユーチューバー「手で持つなんて汚い。不自然。足で蹴れ」というような批判をしていた。このことについては「世界のおきく」について書いたときに触れたが、肥だるは貴重品である。大事な道具である。そういうことを理解している農家のひとが、いくら怒ったからといって足で蹴ったりはしない。壊れたら大変である。そういう配慮をするのが「品」というものである。問題のユーチューバーには「生活の品」というものがない。「生活」が反映されていない。「きちんとした生活」が反映されれば、そこにおのずと「品」あらわれる。

 「品」とたぶん関係すると思うが。
 この映画の映像の美しさは10年に一作の美しさである。10年に一本の映画である。この映画以前に、10年に一本の映画と書かずにはいられなかった作品は「長江哀歌」である。あの映画も、映像が透明だった。どこにもゆるぎがなく、人間をしっかりととらえていた。人間に密着している。壁にのこる雑巾の痕、壁に密着したテーブルを雑巾で拭くと、そのときの「拭き痕」が壁にのこる。毎日、テーブルを拭いていたから壁に拭き痕が残ったのだ。その美しさ。毎日テーブルを拭いているという生活の品、暮らし方の品がのこる映像が象徴的だが、どの映像も、それをみつめる人間の生活に密着している。落ち着いている。けっして作為的ではない。「品」というのは、そういう形であらわれる。
 柳宗悦やバーナード・リーチが言った「民芸の品」に通じるかもしれない。
 きちんと暮らしていれば、おのずと「品」はあらわれる。
 少年は、アイスホッケー、フィギュア、野球をやる。そのなかで、彼は何を選んだか。ラストシーンには、それが描かれている。何を選んだと想像するかは、観客の「品」によって違うだろう。その選択を「好き」と思うかどうは、観客の「品」によって違うだろう。

 書いてはいけないことまで書いたかもしれないが、思ったことは書いておくしかない。「シネマサロン、ヒットの裏側」の「批評」があまりにもむごたらしいので、書かずにはいられなかった。


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(2)

2024-09-24 00:55:41 | 映画

(この記事の下にある「ぼくのお日さま」の感想のつづきです。先に下の記事を読んでください。)

 私は他人の批評は読まないのだが、ある人が、ユーチューブの「ぼくのお日さま」の批評について、わざわざ教えてくれた。
 「シネマサロン、ヒットの裏側」
 https://www.youtube.com/watch?v=ywPcv9iU9LM
 これが、とんでもない「批評」。
 「最後の詰めが甘い」というのだが、その詰めのシーンで彼らはいちばんのポイントを見落としている。ラストシーンは、少女が遠くから歩いてくる。少年がその姿を見つける。ふたりは、久々に出合う。そのとき少年は何かを語ろうとする。そこで映画は終わる。少年が何を語ったかは、わからない。
 でもねえ。
 この少年は何を持っていたか。ただ学生鞄を持っていただけか。胸に大事にかかえていたのは何か。それはコーチがくれたスケート靴である。それを袋(鞄?)にいれてかかえている。コーチが少年にスケート靴を渡したときの袋(ケース?)の色は覚えていないが、同じ色だったかもしれない。違っていたかもしれない。しかし、どう見てもスケート靴を入れている袋にしか見えない。野球のグラブやバットが入った袋ではない。
 少女はスケート場から帰ってくる。少年はスケート場へ向かっている。少年は再びスケート(フィギュア・スケート)を始める気持ちになったのだ。そして、初めてその気持ちとなったときと同じように少女に出会ったのだ。少年は少女を、少年が初めて少女を見たときの目で見ている。そして、そこで「初めてのことば」を交わすのだ。これ以上に美しいハッピーエンドはない。
 さらに。
 驚いたことに、このユーチューバーたち(3人)は、一種の裏切りをした少女がどう立ち直っていくか(こころに傷を背負っていく)というようなことを語っているのだが、まあ、なんというか。「不潔な理想」だ。男の願望丸出しの感想。少年を、そしてコーチを裏切った少女には、罪の意識を持ってほしい、と思っているようだ。
 少女に、そんな「責任感」を押しつけて、いったいどうなるのだ。
 どうして、いろいろなことがあったけれど、スケートをつづけて立派な選手になってほしいと思わないのだろう。
 コーチが北海道を離れようが、少年がたとえスケートをやめようが(実際は、やめはしない)が、そんなことは少女には関係がない。少女は自分の気持ちに純粋にしたがっただけ。スケートが好きだし、コーチが好きだから、ちょっと自分の方を向いてほしかっただけ。裏切りも、自分をもっとみつめて、という叫び。幼いから、それをことばにできないだけ。
 少年は、そうした少女の「こころ」を知っているかどうか、わからない。少女の裏切りの背後に何があったかも、はっきりとは知らないはずである。
 でも、少年がスケートを再開すれば、それは少女の励みになる。そうなることは、見ている観客にはわかる。ふたりがペアでアイスダンスをするかどうか、そんなことは関係がない。ただ、ふたりはスケートをする。スケートをすれば、それだ楽しい。その喜びが、もう一度始まるのだ。
 「不純な中年(もう、高年?)」の、時代後れの「少女観」が、映画を台無しにしている。上記のURLの感想を聞くと、ただただあきれる。「世界のおきく」のときも、信じられないようなことを語っていた。はっきり書いておこう。上記のユーチューバーたちは、映画業界で金稼ぎをしているだけの人間である。


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)

2024-09-23 16:00:22 | 映画

奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(2024年09月23日、キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 奥山大史 出演 越山敬達、忍足亜希子、池松壮亮

 傑作。
 冒頭の初雪のシーン。とても美しい。透明な空気のなかの水分が結晶して、舞うように空から降ってくる。それが繊細で、美しい。純粋そのものが結晶になって舞っている感じ。みつめる少年の目が、同じように透明で純粋で美しい。
 この印象が、最初から最後まで、まっすぐにつづく。
 ひたすら透明、ひたすら美しい。純粋。
 少女の嫉妬、そしてそこからはじまる「裏切り」さえも透明で美しい。この場合の透明は、何もかもがはっきり見えるということである。はっきり見えるから、それを否定できない。少女は自分の気持ちを裏切ることなどできない。純粋な気持ちが、嫉妬さえも貫くのである。嫉妬が間違っているといえない。嫉妬を間違っていると言えるのは、嫉妬をしたことがないひとだけである。
 こんなことは、しかし、書く必要はないなあ。
 なんの説明も必要としない。
 透明で純粋で美しい、と書けば、それでおしまい。
 この透明さ、純粋な美しさを、最初から最後までつらぬけるのは大変な技量である。人間をみつめる目がまっすぐなのだとわかる。カメラワークに演出がなく、それが映画をいっそう純粋なものにしている。
 唯一、私が気に食わなかった点をあげるとすれば。少年の父親が少年と同じように吃音であること。これは、なんともいえず不自然だった。
 しかし、傑作。今年のベスト1の映画。


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呉美保監督「ぼくが生きてる、ふたつの世界」(★★★+★)

2024-09-22 13:24:24 | 映画

呉美保監督「ぼくが生きてる、ふたつの世界」(★★★+★)(2024年09月22日、KBSシネマ、スクリーン2)

監督 呉美保 出演 吉沢亮、忍足亜希子

 「侍タイムスリッパー」の対極にある映画。「侍タイムスリッパー」は幕末を生きていた侍が現代にタイムスリップしてきて「時代劇」を体験する。江戸時代と現代、現実と虚構というふたつの世界を主人公が生きている。
 一方の「ぼくが生きてる、ふたつの世界」は、耳と口が不自由な両親から生まれた主人公が、耳が聞こえる世界と、耳が聞こえない人の世界をつなぐ。「ふたつの世界」を生きているという意味では似ている。
 しかし。
 「ぼくが生きてる、ふたつの世界」を紹介する記事は、私の読んだ限り(あるいはたまたま知人から聞いた範囲内では)、五十嵐大の自伝的エッセイ「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと」を題材にした映画であり、主人公は「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を生きているという具合にとらえているのだが。
 このとらえ方は、違っていると思う。私は呉美保の作品には何か引きつけられる部分があって、その私が感じている引きつけられる部分が、いま世間で言われている「解説(感想)」とはずいぶんかけ離れている感じがする。それで、ほんとうなのか、という気持ちもあり、映画を見た。(呉は、個人の意識(認識)を深く掘り下げるタイプの作風ではなく、人間の「幅」を広げるタイプの作風だと思う。)
 そして、やっぱり違っていた。
 「ぼくが生きてる、ふたつの世界」は、たしかに簡単に説明すれば、主人公が体験した「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を描いている。私は見が聞こえない人、口がきけない人と対話したことがないので(手話も知らないので)、私が知っている世界は「聴こえる世界」であって「聴こえない世界」ではないから、このふたつの世界を体験しているということはそれだけで、そこから教えられることは多いのだが。
 でも、この映画を「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を生きている主人公を描いているというだけでは、この映画を語ったことにはならない。
 たまたま、この映画の主人公は、「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を描いているが、そういう定義でなら、「侍タイムスリッパー」も「武士の世界(幕末)」と「現代」という「ふたつの世界」を生きているということもでき、そこには違いがなくなってしまう。だいたい、ひとはそれぞれ独自の世界を生きている(というか、人はだれでも自分を主人公とする世界を生きている)という言い方をしてしまえば、そして、それぞれの独自の世界を生きていることを認める(マルチ世界を認め、尊重し合う)という方向へ論理を展開していけば、それは、どんな「現実」についても言えることである。こんな抽象的なことを言っても始まらない。
 だいたい、呉美保の映画は、そういう「抽象的説明(解説?)」とは遠い「リアル」な描写そのものに基本がある。抽象的な道徳倫理にくくってしまって、そこから何かを語っても、この映画を語ったことにはならないだろう。
 これまで書いてきた「ふたつの世界」は、実は「主人公が体験した世界」と言いなおせば「ひとつの世界」である。それを「ふたつ」に分割しているのは主人公ではなく、その映画を見ている観客が聴こえるか、聴こえないかの視点である。それは裏を返せば「私は聴こえる」という「ひとつ」の世界からみた世界、いままで気がつかなかった世界というにすぎなくて、それは「ふたつ」と数えてはならないものである。単に、「見てこなかった世界、見ようとしなかった世界」である。それをふくめて「世界はひとつ」と言ってしまえば、それでおしまい。
 なぜ、「ぼくが生きてる、ふたつの世界」なのか。
 この日本語は、ふたつの意味をもっている。ひとつは「ぼくが主人公として体験した世界」という意味であり、もうひとつは「ぼくが主人公として生きている世界」である。後者には、実は、もうひとり「主人公」がいる。
 この映画に関して言えば、「母親」である。「母親の世界の中でぼくが主人公として動いている」。主人公「ぼく」は、このことを知らなかった。だれでも自分を主人公と考える(自分中心に考える)から、「ぼくは聴こえる世界」を生きるとと同時に、「聴こえない人のいる世界にも足を踏み入れ、そのひとたちを助けたりする」ことになる。そう考える。しかし、母親にとって「聴こえる世界」はない。「聴こえない世界」しかない。補聴器をつかって主人公の声を聞くことがあっても、それはあくまでも「聴こえない世界」でのひとつのエピソード。その「母の世界」で「母」は主人公であるのはもちろんだが、それだけでは終わらない。「母の世界」のなかで、主人公は「母」ではなかった。「ぼく」だった。「はは」は「ぼく」を主人公にするために生きていた。母にとって主人公は「ぼく」だった、と主人公が気づく。
 これが、この映画のテーマ、呉のテーマである。呉がくりかえし描く「家族」とは何かというテーマである。「私ではない、相手が主人公なのである」。「他人が主人公の世界」。そういう世界でも、私たちは実は生きているのである。
 ラストシーン直前。ぼくと母が列車の中で手話で話している。そのあと母が、ぼくにありがとうという。みんなが見ているところで手話で話してくれて、うれしかったというようなことを言う。こここそが、ほんとうのクライマックス。列車の中で手話で話しているとき、ぼくは「主役」ではなくかった。母が主役であり、ぼくは「脇役」だった。だが、「脇役」もできるというのが「主役」の強みであり、「脇役」は「主役」にはなれない。「母の世界」のなかで「主役」のぼくが「脇役」になり、母を「主役」に引き上げている。母は、それをほんとうにびっくりし、こころから喜んでいる。森進一の歌った「おふくろさん」ではないが、自分ではなく他人のために何かをするとき、そのときこそ、人間は「主役」になっているのである。「人間」になっているのである。
 主人公は、両親のために苦労させられていると感じていた。「こんな家に生まれたくなっかた」と思っていた。しかし、両親は違ったのだ。「生まれてきてくれてありがとう。おまえが私たちの主人公」と思って生きてきたのである。そして「主人公」のおまえが、主人公をやめて「脇役」になる。その瞬間、それは母が主役になるというより、ふたりが「主役」になる、「家族が主役になる」という瞬間なのだ。
 私は映画ではめったに泣かないが、思わず泣いてしまう瞬間がある。呉の、この映画でも、母が「ありがとう」と言ったあと、生きてきた苦しみが何もかも消えてしまったというような、さっぱりした後ろ姿で駅のホームを歩いていくのを見たとき、私は主人公が泣きだす前に泣いてしまった。
 あの忍足亜希子の後ろ姿、歩く姿は、もう一度見てみたい。あの瞬間までは、なんというか、映画のチラシやネットの解説がまくしたてているように「耳と口が不自由な両親をもつ主人公が体験した、聴こえる世界と聴こえない世界」をリアリティーにこだわって描いていた映画だったが、そのリアリティーは「ぼく」が見たリアリティーだけではなく、「母」の見たリアリティーでもあったのだと断言し、その世界で「ぼく」という主人公はどう母から見えていたかを教える。「ぼく」が思い出すのは母の笑顔、「主人公=ぼく」が幸福だったとき、母は「脇役」から「主役」にかわる。それを変えることができるのは「ぼく」だけなのである。
 多くの人は(私も含めてだが)、もしかしたら、私は「誰かの世界のなかで主人公しもしれない(主人公だったのだ)」と気づくことはない。だが、「世界」は、そんな不思議に満ちている。
 ホームを歩く忍足亜希子の後ろ姿までは、すこし紋切り型かもしれない。しかし、このシーンはほんとうに美しい。このシーンのために★を追加した。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安田淳一監督「侍タイムスリッパー」(★★★)

2024-09-14 22:32:06 | 映画

安田淳一監督「侍タイムスリッパー」(★★★)(2024年09月14日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン9)

監督 安田淳一 出演 山口馬木也

 一館上映で始まった映画だが、人気が人気を呼び、全国で上映されるようになった作品とか。
 予告編を見た印象は、とても効率よくつくられた作品。スクリーンに映っているシーン以外に「余分」はない、という感じだったが、本編を見てもその印象は変わらない。ていねに、しっかりとつくられた映画だが、なんというか「奥行き」がない。カメラに写っているシーン以外に、何もない。もちろん、それでもいいのだが、私は「余分」を期待して映画を見ている。「余分」がないと、味気ない。100点の映画だが、それはミスがないという意味でしかない。
 スタッフ一覧を見てみると。
 安田淳一が監督、脚本、撮影、編集と四役をこなしている。(もっと、こなしているかもしれない)。それがこの作品の特徴を語るすべてである。すべてのことが、安田淳一の「視点」で統一されている。だから、乱れようがない。ミスしようがない。100点になるしかないのである。
 私が唯一、これはおもしろい、と思ったのが、主人公が講演会か何かのポスターを見て、自分が江戸時代から現代にタイムスリップしてきたことを理解するシーンである。ポスターの文字が「活字」であることに驚くこともなく、江戸時代が終わったということに驚くこともない。あっという間に「状況」を理解してしまう。その「理解力」の速さを、巧みに描いている。状況が理解できずにドタバタするのは、紛れ込んだ京都・太秦の映画(テレビ)撮影現場の一瞬だけである。
 で、このことが象徴的なのだが。
 登場する人物が、みんな、「ストーリー」を「理解」してしまっている。「理解」にしたがって、それを表現している。まあ、それでもいいのだろうけれど、私が期待するのは、やっぱり登場人物が何が起きるか「知らない」という芝居なのだ。何も知らず、すべてが初めて体験する、という「人間の生き方」なのだ。役者を、生きている人間を見たいのだ。私は。それが、この映画には完全に欠落している。
 たとえば。
 映画のなかに、主人公が仇(?)と出会い、一緒の映画に出ることになり、その一シーンとして釣りをするところがある。映画はただ背中をうつすだけ、会話はとらないという条件で撮影されている。ふたりは、セリフではなく、思っていることを語り合う。それは一首のけんかなのだが、背中をとっているスタッフが「こころが通い合っているいい演技だ」みたいなことを言う。人間というのは、そういういい加減な存在なのだが、そのいい加減さがいかされていない。これと同じシーンを、私は別の映画で見た記憶があるが、それがなんだったか思い出せない。こういう裏話みたいなもので、映画の秘密をばらすのだが、それさえも「型通り」である。つまり、「いい加減」さが、どこにもない。
 だからね、100点だけれど、50点なのだ。

 どうでもいいことだが。
 予告編で、呉美保の映画を見た。タイトルは忘れたが、あ、呉美保だと、こころのなかで叫んだ。なんだったか、タイトルは忘れたが、第一作は、たしか彼女自身が脚本を書いたものだったと思う。その脚本が、いいなあ、と思った。人間のとらえ方に、みょうな深さがある。奥行きがある。そのあとも何本か見たと思うが、何かしら、印象に残るシーンがあった。
 今度は、どうなんだろう。
 思わず、こういう関係ないことを書いてしまわせるのが、安田淳一監督「侍タイムスリッパー」であった。


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダビッド・プジョル監督「美食家ダリのレストラン」(★★)

2024-08-25 16:36:51 | 映画

ダビッド・プジョル監督「美食家ダリのレストラン」(★★)(KBCシネマ、スクリーン2)

監督 ダビッド・プジョル 出演 ホセ・ガルシア、イバン・マサゲ、クララ・ポンソ

 主人公の設定は、スペイン人なのか、フランス人なのか。よくわからないが、なんとも「フランス味」の強い映画だ。妻は出てこないが、娘が出てきて、フランス語でやりあうが、もしかすると登場しない妻がフランス人なのかも。というような、映画とは関係ないことを思ってしまうなあ。
 私は、ダリの作品はそんなに多く見ていないのでわからないが。
 映画の、ひとつの見せ場に、主人公が「ダリの魅力」を語るところがある。これが、さらに輪をかけて「フレンチ」の味。フランスから来たグルメ評論家がダリを批判するので、それに対して反論するのだが、そのことばの動きが「フランス現代思想」っぽい。と言っても、私はその当時のスペインの思想(さかのぼってのスペインの思想)もフランスの当時の思想も「現代思想」も知らないのだけれど。
 なんとなく。
 いやあ、スペイン人は、こんなに「論理的」には話さないだろうなあ。だからこそ、このシーンがスペイン語ではなく、フランス語で交わされるのかもしれない。
 ひるがえって。
 フランス語で論理が展開されたから、フレンチと感じたのか。これは、少し重要な問題かもしれないなあ。
 私は最近スペイン語を学んでいるのだが、「読んだらわかる」でも「書くことはできない」文体というものがある。「Te gusto?」というのは、読んだときはびっくりするが、まあ、理解できる。しかし、それを言ったり書いたりするとなると、ちょっと恥ずかしくて言えない。書けない。そういうことが、どの言語にもあって、そういうことは「思想の文体」「論理の文体」にも影響していると思う。そして、行動(肉体)の文体にも。
 その「行動の文体」で言えば、シェフの弟が反フランコ運動(?)で逃亡するとき、兄が一緒に逃げるのがスペインぽいかなあ。フランス人は、弟思いの兄でも一緒に逃げたりはしないだろうなあ。「お前のかって」がフレンチの兄弟関係かなあ、とかって想像している。
 結婚式の披露宴の料理(デザート?)にチュッパチャプスをつけるというのは、まあ、スペインぽいが、女がシェフの愛を知って、厨房でセックスをする、というのはフレンチかなあ。その二人がウェデングケーキにまみれるというのはスペイン風か、フレンチか、よくわからないが。セックスをのぞいた男が告げ口をするというのは、スペインかも。フランスでは、「他人のことは知ったことではない」だろうし、これがイギリスなら知っていても本人が言わない限り「なかったこと」になるだろうなあ。
 これも、かってな想像だけど。
 バルセロナ(舞台の近くがバルセロナ)とマドリッドでは、それぞれのひとの人格もずいぶん違うと思うが、シェフの生真面目な感じは、これはバルセロナだね。新しい料理を思いついて、そのたびにノートをとる、というのはスペイン人というよりはバルセロナ人かなあ。碁盤の目のようなバルセロナの通りと、マドリッドの勝手気ままな道路の交錯の違いなんかも思い出した。
 ほかにも、ガラがロシア人(だったっけ?)という関係もあって、スペイン語、フランス語、ロシア語が飛び交う映画なのだが、もしかするとロシア人の「特徴」も見えるようになっているのかもしれない。アラカルト料理のように、アラカルト人種の違いを教えてくれる映画かもしれない。その土地その土地に、その土地の味(料理)があるように、その土地その土地に、そこにふさわしい人間がいる。
 というのは、「日本人風の見方」かもしれないが。


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アレクサンダー・ペイン監督「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」(★★★)

2024-06-24 16:05:08 | 映画

アレクサンダー・ペイン監督「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」(★★★)(2024年06月24日、キノシネマ天神・スクリーン3)

監督 アレクサンダー・ペイン 出演 ポール・ジアマッティ、ダバイン・ジョイ・ランドルフ、ドミニク・セッサ

 この映画は100点満点で採点すると102点の映画である。100点ではもの足りず、プラスアルファをつけたくなる。やっていることはすべてわかる。どこにも「欠点」はない。完璧。完璧というだけではおさまらない。しかし、★は三個。100点を上回るのだけれど、手放しでは称賛できない。
 どういうことかというと。
 映画が始まってすぐ、あっと息を飲む。そして、たぶん2秒か3秒後に、この映画のすべてがわかる。
 映画の最初は会社のトレードマーク。くすんでいる。ぼやけている。ここで、あれっと思う。そして、それに追い打ちをかけるのが、フィルム上映のときにあった、ノイズ。古くなった映画(いわゆる二番館で上映する映画)のフィルムは、すりへって傷ついている。画面にも雨が降るし、ノイズがまじり音は不鮮明。最初のトレードマークのすり切れた感じは、この「二番館上映」という印象を蘇らせ、ノイズはそれを決定的にする。
 これが、すべて。(で、102点の「+2点」は、この映画の本編が始まる前の、傷、ノイズに対する+アルファ、ということ。)
 映画は、「二番館」が華やかだった(?)半世紀前を思い出させ、そして、そこに描かれるのも半世紀前の世界である。雪の降り方(除雪の仕方)からして1970年代である。大学、寄宿舎の、木の色合い、光も何もかもが70年代。ああ、なつかしい。そこで展開される「青春」、さらに「大人の苦悩」、そして、その「交流」も70年代そのもの。ダスティン・ホフマンが主演した「小さな巨人」までもが、映画のなかの映画として登場する。
 これじゃあ、感動せずにはいられない。自分の「青春」に重ね合わせて、何もかもに納得し、こころがふるえてしまう。
 でも、というか、だからこそ、私は一方で、いやな気持ちになる。
 なぜ、いま、この映画? 70年代の、アメリカの青春、その周辺の光と影? いまも同じ問題が、同じ形で存在する? しないと思う。ということは、そこに描かれている「未来」というか「決断」も、いまでは「無効」ということだろう。人間の「生き方(正直)」が変わらないものだとしても、そして、そういう古くならないもののなかにこそ新しいものがあるのだとしても(まるで、小津安二郎の「宗方姉妹」の田中絹代のせりふみたいだが)、70年代を舞台にして描いたのでは、「現在の映画」とはいえないだろう。「現在」に対して何かを語りかけることにはならないだろう。
 単に、「私はこんなに完璧に映画をつくることができる」という監督の声が聞こえてくるだけである。それに対して「はい完璧です。完璧以上です」という以外にないのである。
 思い出すのは、「スティング」(ジョージ・ロイ・ヒル監督、ポール・ニューマン+ポール・ニューマン主演)である。あの映画も「完璧」だった。しかし、やはり、なぜ、「現在」この映画を、こんなふうに撮るのか、という疑問が残った。
 で。
 「ホールドオーバーズ」と「スティング」を並べてみたとき、そこに「共通項」があることもわかる。どちらも「現在」を舞台にしているのではなく、半世紀ほど前を舞台にしている。つまり、その登場人物たちは、いずれの場合も「映画に描かれている時代」を直接は知らず、完全に「架空」のものとして向き合うことができる。映画のなかで何が起きようと(映画のなかで、どんな演技をしようと)、それは「現在の彼ら」とは無関係である。完璧な「フィクション」として演じることができる。「あんな演技、あんな表情は、いまとは無関係である」という批判は、誰にも通じない。だって、映画のなかの世界が「いま」ではなく「50年前」という過去なのだから。
 この映画が「スティング」よりも始末に悪いのは、「完璧なフィクション」であるにもかかわらず、そこに「人間性」をからませて、観客を感動させようとしているからである。
 これでは、だめ、と私は書かずにはいられない。
 これは、ある意味では「あんのこと」(入江悠監督、河合優実主演)の対極にある映画なのである。「あんのこと」は、とても感想を書く気持ちになれないほど、暗い映画、登場人物の誰にも共感できない映画なのだが、そこには映画を通して現在と関わり合いたいという欲望が、むき出しの形で存在している。そういう「むき出しの欲望」がないからこそ、「ホールドオーバーズ」は「完璧」なまま、映画を終わることができるのだ。
 いまは、もう見ることのなくなった「THE END」の文字に、私は笑い出してしまった。


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする