詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ブラディ・コーベット監督「ブルータリスト」(★★★★★)

2025-02-21 21:56:56 | 映画

ブラディ・コーベット監督「ブルータリスト」(★★★★★)(2025年02月21日、キノシネマ天神、スクリーン3)

監督 ブラディ・コーベット 出演 エイドリアン・ブロディ、ガイ・ピアース

 映画のポスターを見た瞬間に、「あ、見たい」と思った。こういうことは、久しぶり。ポスターのどこがよかったか。スタイリッシュ。そのひとことにつきる。
 昔、レイアウトの仕事をしていたとき、いちばん参考になったのが「建築雑誌」。なんともかっこいい。ゆらぎがない。さすがに「建築」である。強固でなければいけない。建築の「強固さ」が、そのままレイアウトの奥底に根付いている。
 で、この映画。
 最初のクレジットもかっこいいねえ。クレジットは、ふつう、縦に流れる。でも、この映画では、横によぎっていく。そうすると、なんというか「ゆらぎ」がない。目は文字を追いかけるのだけれど、ゆったりと眺めていることができる。不思議な安心感がある。足が地についている感じ。
 しかし、安定だけでは、つまらないね。だから、画面は突然「不安定」な映像も見せる。はじめてみる「自由の女神」。立っていない。空からのぞいている。斜めだ。
 これだね。
 とても安定している、絶対に揺らがないはずなのに、揺らぐ。その「揺れ」をいちばん大きく揺らして見せるのが、セックスシーン。
 妻が、骨粗鬆症の影響で、ベッドの中で突然苦しみだす。痛くてたまらない。その苦痛を救うために、エイドリアン・ブロディがドラッグを注射する。妻の痛みが消え、そこからセックスがはじまるのだが、このシーンで、私は思わず声を上げた。なんだ、このセックスシーンは。いろいろなセックスシーンを見たが、こういうのは初めてである。(この映画にはセックスシーンが、そのほかにも何回かあるが、セックスシーンの中では最後の、この妻とのシーンが、ほんとうにびっくりする。)
 えっ、なぜなんだ、どうしてなんだ。
 色がついていたかどうかわからないが、思い出せない。「絶対的なモノクロ」。光と影しか存在しない。そのどちらも透明で、複雑に交錯するのだが、複雑さを忘れる。肉体も、その光と影になってしまう。その光か影か、わからないものに「昇華」してしまう。でも、ただ美しいかというと、そうではないのである。かなしくて、そのかなしさのために、なんだか、胸がドキドキしてしまう。
 もしかしたら、と思っていたら、やっぱりそうだった。
 もう、それ以上は書かない。
 「謎解き」は、その直後にわかるのだけれど、これはほんとうに、びっくりしたなあ。

 セックスシーンのことばかり書きつづけてもしようがないので、ほかのことも書いておく。
 「建築」がらみでいえば、書斎を改装するときの、エイドリアン・ブロディが床を掃除するシーンが、とてもいい。あ、ここからはじまるのか、と目を見開かされた。そのあとの、書棚の扉を一斉に開いて見せるシーンも、とても美しい。光と影が、ほんとうに鮮やかに動く。
 セックスシーンでも書いたが、この映画は、光と影を動かして見せる。
 「建築」は外面と同時に内面だが、この映画では、建物の内部で光と影を動かして見せる。内部にこそ、光と影がある、ということを明確に描いて見せる。
 特徴的なのが、新しいビルの模型をつかって主人公が内部を説明するシーン。懐中電灯をつかって太陽光線の動きを再現する。天井の窓に懐中電灯がくる。そのとき、内部で何が起きている。これは、このときは見せない。ただ、それを見つめるガイ・ピアースを映し出している。身動きできずにいる。
 いいねえ、このシーン。ガイ・ピアースは、「見た」のである。
 その「見たもの」を手に入れるために、エイドリアン・ブロディ、ガイ・ピアースはイタリアへゆく。大理石が必要なのだ。打ちっぱなしのコンクリートの建築のなかに、おかれる一個の大理石。それはイタリアの彫刻の大理石というよりも、ギリシャ彫刻向けの大理石かもしれない。人間の肌のような大理石だ。
 そして、ここでは大理石の切り出し場の山と、その内部(というか、切り出す過程でできた地下)が、もうひとつの光と影を生み出している。そこには、光は入ってこない。人間のつくりだした光が影を生み出している。
 そういうところから運んできた大理石、その大理石に光と影が交錯すると、どうなるか。
 まあ、これは、映画を見てください。美しい。そうなるのはわかっているけれど(書斎を改装したときから見当がつくけれど)、やっぱり息を飲む。私にはつくりだせない絶対的な美が、そこにあらわれる。予想していたことが、予想通りに起きると、たいていの場合は少しがっかりするものだが、この映画では違う。このシーンでは、なぜか、ほっと安心する。
 そのほか、車(バス、列車)が走るシーンも、非常にいい。両側にひろがる風景と、どこまでもどこまでもつづいていきそうな道(線路)が「不吉」である。大地は揺れないのに、何かとんでもないことが起きる、と不安になる。不安にさせる映像である。
 不安に耐える覚悟があるか、どうか。
 覚悟があるなら、見てください。不安(恐怖とは違う)は嫌い、というひとは、耐えられないかもしれない。音楽も。
 不安を克服して、強固が存在する、ということを学ぶ映画かもしれない。
 
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「聖なるイチジクの種」(その2)

2025-02-19 22:31:09 | 映画

「聖なるイチジクの種」(その2)

 「聖なるイチジクの種」について書いたとき、出演の最初に「スマートフォン」と書いた。その理由を書いておきたい。

 この映画は、一種の「推理ドラマ」である。つまり、消えたピストルを盗んだのはだれか、という「謎解き」がひとつのストーリーになっている。私は、どういうわけか、こういう「謎解き」の仕掛けが、すぐに目についてしまう。でも、この映画では、目についたからといって、それが目障りではない。
 最初に目を引くスマートフォンは、父親と母親がテレビを見ているのに対して、ふたりのこどもがスマートフォンを見ている、そのスマートフォン。姉の方はニュースを見ているかどうかわからない。しかし、妹は、若者が撮った警官と若者の対立の動画を見ている。そして、姉に「動画を見ろ」とメールで知らせる。
 これが、とてもいい。
 妹はヘッドフォンで動画を見ている。当然、音は聞こえないから、両親は、娘たちが何を見ているかわからない。ニュースには関心がなくて、音楽でも聞いていると思っているかもしれない。姉は、ヘッドフォンをつかっていないので、妹がメールを送ったとき、着信音が鳴る。しかし、両親は気にしない。メールの着信音は日常の音だからである。そばにいるのにメールで連絡してくる妹に、姉は不審な目を向ける。妹は、音が聞こえないように、動画を見ろ、と勧める。
 これは、この映画の全体を「暗示」している。つまり、この段階で、だれが銃を盗んだか(盗むことになるか)、わかる。妹が、家族の中で、いちばん「秘密」を生きることができる人間なのである。
 このシーンだけで、私は、この映画に魅了された。とりこになった。
 とても巧みな脚本だし、その巧みさを押しつけていない。最近は監督と脚本の両方をこなすひとが増えているが、この監督は「脚本」を押しつけず、ちゃんと役者に演技で昇華させ、画面全体を映画にしている。
 電波の届かない荒野での「どたばた」みたいなおもしろさは前回書いたから省略するが、「謎解き」に関係するスマートフォンがらみのシーンが、もうひとつある。
 父親が家族全員のスマートフォンを取り上げる。だれかから家族に電話がかかってきたら、父親が電話に出るつもりである。電話の相手がピストルの盗難に関係しているかもしれないからだ。そのために、家族に「暗証番号」を聞く。
 姉は「2003」だったかなんだか、数字を言う。きっと生まれた年だな。声に出して言うので、家族の全員に知られてしまう。妹は、母と姉には知られたくない。秘密を守りたい。だから、父親だけに、紙に書いて知らせる。声には出さない。母は「知ってるでしょう」と言う。ここでも、妹の、スマートフォンへの向き合い方が際立っている。なんというか、「熟達」している。「慎重」である。「嘘」というか「秘密」を生きることを、本能的に知っている。母や姉を味方にしないといけないのだが、その母や姉に対しても、まだ「秘密」を残すのである。こういうことは、少年(男)にはできない。前回、家族に父親以外に男がいれば、映画が違ってくると書いたのは、そういう意味である。
 で、こうした「伏線」どおりに妹が銃を盗んで隠したのだが。
 あとひとつ。家族の情報、父親が何をしているか、どこに住んでいるかというような情報がインターネット上に拡散される。それを知らせるのが、やはり妹である。これも、とても大切なポイント。妹は、偶然それを見つけたのではない。当然、だれかに教え、そのだれかをとおしてアップさせたのだ。そして、だれかがそのことに気づく前に、その少女が家族に知らせる。いつもインターネットを見ているから、「第一発見者」が少女であっても、少女は疑われない。そういうことまで熟知して、行動している。
 彼女のしたことは、ある意味では、家族(特に父親)への裏切りであるけれど、この映画の制作者は、そういう「裏切り」を若い人に期待している。肉親であっても、裏切る必要があるときは、裏切る。
 と、ここまで書いて、少し脱線するのだが。
 この「生き方」は、日本人にはむずかしいかもしれない。どうしても「肉親への愛」というものが顔を出してしまうだろう。
 でも、さすがは「コーラン」の国である。コーランの信者は、神と直接関係を結ぶ。神と自分の間には、だれも介在しない。こうした吹っ切り方ができるのは、どこかにコーランの影響があるのだと思う。
 で、もとにもどって。スマートフォンとインターネット。
 日本では、インターネットの「情報」は、変な具合に悪用されているが、権力と戦う手段として、うまくつかえば、ほんとうにうまくつかえるのだ。有効なのだ。そして、それを有効にするかどうかは、使い手の「意識」にかかっている。
 そんなことを教えてくれる映画でもあった。
 スマートフォンで撮影されたテヘランの、警官と若者の対立の様子、警官の暴行シーンに「真実」を見るだけでなく、監督が末っ子の少女に託した「生き方」(しぶとさ、秘密の生き方)にこそ、目を見張るべきだろうと思った。

 
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ティム・フェールバウム監督「セプテンバー5」(★★★)

2025-02-18 22:45:46 | 映画

ティム・フェールバウム監督「セプテンバー5」(★★★) (2025年02月18日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン3)

監督 ティム・フェールバウム 出演 ピーター・サースガード、ジョン・マガロ

 誰もが「結末」を知っている。そういう「現実」をどう描くか。
 この映画と、「ユナイテッド93」は、どこが違うか。
 「ユナイテッド93」は飛行機が墜落し、上客全員が死ぬのはわかっている。しかし、私は「がんばれ、がんばれ」と、最後は声を出しそうになった。もしかしたら飛行機の墜落は避けられるではないか、と期待してしまった。映画なんだから、「結末」が現実と違ったっていいじゃないか、と思ってしまった。
 ところが、この映画では、そんなことは起きない。
 なぜなんだろうなあ。
 「報道」に対する葛藤があまりにも淡々としているからかもしれない。登場人物の動きもスムーズすぎる感じがする。唯一おもしろかったのは、クルーの何人かが、同じ部屋でボクシングの試合を見ている。アメリカの選手のパンチがヒットしたのか。彼らが声を上げる。瞬間「君たち!」とボスが叱る。そこだけだなあ。
 あとは、内部対立がない。
 スポーツ担当と報道(ニュース担当)の対立も一瞬だけだ。あんな簡単に報道部門が引っ込むとは思えないなあ。
 いちばんのメーンの「裏取り」も、ひとりが疑問を投げかけるだけ。正式の社員ではない(と思う)ドイツ人女性(通訳)の「証言(伝聞)」だけで、それを「事実」と思い込むのは、ちょっと無理がないか。ここに描かれているのは、ほんとうに「事実」なのか、と思ってしまう。
 「誤報」をほかのテレビがすぐにそのまま「追いかけた」というのも、描き方が甘いなあ。ほかのテレビも「裏を取る」作業をするはず。それが全然描かれず、ただ他の局も一斉に「人質が解放された」と報道する(した)というのはなあ。せめて、他の報道機関の動きを組み合わせて描いてほしかった。
 「事実」を「事実」と認定する(判断する)には、もっと慎重でなければならないはずだ。50年前は、違ったのだろうか。
 それに。
 まあ、この映画はテレビマンがどう動いたかがテーマだからそれに絞ったのはそれでいいのかもしれないがし、私は、市民の反応があればよかったと思う。あの中継を、市民はどう見たのか。それが一度も描かれない。
 いまは特に、報道をどう受け止めるかが、とても重要な問題となっているのだから、そういう「現代的視点」が必要だと思う。「過去」をそのまま描くのではなく。

 
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モハマド・ラスロフ監督「聖なるイチジクの種」(★★★★★)

2025-02-14 22:35:56 | 映画

モハマド・ラスロフ監督「聖なるイチジクの種」(★★★★★) (2025年02月14日、キノシネマ天神、スクリーン3)

監督・脚本 モハマド・ラスロフ 出演 スマートフォン、ミシャク・ザラ、ソヘイラ・ゴレスターニ、マフサ・ロスタミ、セターレ・マレキ

 一か所、思わず笑い出してしまうほど感心した。
 主人公たちが(主人公の夫が)「権力の犬」として狙われ、テヘランから脱出する。その過程で反権力に見つかり、カーチェイスがあり、争いになる。反権力のふたりがスマートフォンで動画を撮り、「SNSで拡散する」と脅す。しかし、そこは荒野のまんなかで電波が届かない。主人公の娘が「ここは電波が届かない。動画を発信できない」と叫ぶ。それが引き金になって反権力の二人が主人公の銃の前に屈してしまう。
 笑ってはいけないのだが、なんとも「象徴的」である。
 この映画は、ヒジャーブの身につけ方が不十分という理由で逮捕された女性の不審死が引き金となり、暴動が起きた事件をテーマにしているのだが、そのときのスマートフォンで撮られた動画が映画にも挿入されている。とても重要な働きをしている。
 それ以外も、家族の連絡(家族内の秘密の会話を含む)、友人との連絡、そしてはっきりとは描かれていないが、家族のひとりと反権力側のだれかとの連絡にもつかわれている。
 映画そのもののストーリーは、主人公が護身用に持っていた銃が紛失することを引き金に、社会問題と家族問題(世代間問題)が交錯する形で展開するのだが、その銃よりも、スマートフォンの方がパワーを持っている。ただし、パワーを持っているというけれど、それが有効につかわれたときパワーを発揮するのであって、必ずしも「万能」ではない。それは私が最初に書いた部分が、とても象徴的にあらわしている。私が笑い出したのは、その皮肉があまりにも強烈だったからである。
 こんなことを書くのは、私の考えていること、大切に思っていることを放棄してしまうことになるのだが。
 そうだなあ。
 やっぱり「革命」というのは、民主主義では「限界」があるのだ。どうしたって「力」で権力を倒さない限り成功しない。権力は、どんな権力であれ、自由を弾圧する。自由を弾圧しない権力が存在しないのは、トランプを見ればわかる。この映画も、最終的に「勝利」するのはスマートフォンではなく、みんなが憎んでいた「銃」なのである。銃がなければ、問題は解決できなかった。(チェ・ゲバラは、つまり、正しい、というしかない。)
 これはつらい「結論」だが、救いは「革命」の引き金を引くのは一番若い人間であるということだ。すべては、これから生きていく若い人の知性と決断にかかっている。

 それにしても。
 私たちが毎日つかっているスマートフォンはなんなのだろうか。自分を守るための「武器(命綱)」なのか。相手を攻撃するための「武器」なのか。
 たとえば。
 この映画でつかわれているスマートフォンが撮影したと思われる映像。それは全部ほんものだと思うけれど、何か、捜査されることがあった場合、捜査機関が撮影者を攻撃するために利用することもある。必ずしも捜査機関を追及する(追及することで自分の安全を守る)ときにだけ有効とは限らない。何よりも、捜査機関が、捜査の過程で「スマートフォンの映像そのものを加工し、動画は捏造だと主張するのにつかわれるかもしれない。そうなってくると、「泥仕合」。デジタル加工について何も知らない私なんかには「真偽」がわからない。
 「情報」をどう見極めるか。これは、この映画のもうひとつのテーマでもある。
 主人公は「情報分析」の専門家なのに、家族の中で起きてことの「情報」を的確に分析し、真実を見つけ出せず、いわば「自滅」していく。
 その過程で、いまはもうどこかに消えてしまったカセットテープや、スピーカー、さらにはひとが住んでいない「廃墟」が存在感をしめすところが、まあ、おもしろくもある。「娯楽映画」ではないのだけれど。

 さらに、もうひとつ。
 この映画は、おとこ対おんな、の戦い(父対母の戦い、夫対妻の戦い)をも含んでいるのだが、一家の「構成」をおとこひとり(父・夫)、おんな三人(母・妻、むすめ二人)にしているのも、とても興味深い。同じ四人家族でも、子供がおとことおんなだったとしたら、この映画の展開は違ってきただろう。
 監督は、若い世代を激励すると同時に、おんなたちの「革命」を応援しているのだと思う。
 
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ジェシー・アイゼンバーグ監督「リアル・ペイン 心の旅」(★★★★★)

2025-02-02 22:36:29 | 映画

ジェシー・アイゼンバーグ監督「リアル・ペイン 心の旅」(★★★★★)(2025年02月02日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン9)

監督・脚本 ジェシー・アイゼンバーグ 出演 ジェシー・アイゼンバーグ、キーラン・カルキン

 いまは「キネ旬」を読んでいないのでわからないが、昔なら、キネ旬のベスト1に選ばれるような映画かもしれないなあ。淡々としていながら、深みがある。「ハリーとトント」のような感じを思い出した。
 ジェシー・アイゼンバーグは、新しいタイプのウディ・アレンかもしれない。ウディ・アレンは女優のつかいかたがうまかったが、ジェシー・アイゼンバーグはどうか。ちょっと、この映画だけではわからないが、キーラン・カルキンの描き方(役どころ)が、ちょっと「おんなっぽい」。その魅力を引き出している。このときの「おんなっぽい」というのは、まあ、「わがまま」のことなんだけれど。「わがまま」を言い出すと、抑えが利かない。その描き方、演じ方、演技の引き出し方が、どこかウディ・アレンに似ている。
 「わがまま」というのは、主観の問題だから、私の感じている「わがまま」と、他人の感じている「わがまま」は違うかもしれない。女性から見れば、ウディ・アレンの方が「わがまま」かもしれないけれどね。そこは、深入りせずに、ただ「わがまま」だけれど、それを許すひとがいないと、「わがままな人格」は破綻するかもしれないというところまで、イキイキと演じさせている。これが、なかなかいい感じなのである。実際にキーラン・カルキンのような人間が友達だったら困ることがあるかもしれないけれど、ひきつけられるね。そういう要素を引き出す演出方法がいいんだろうなあ。
 ジェシー・アイゼンバーグの描き方(演じ方)と対照的なのも、非常に効果的だ。ウディ・アレンのようにでしゃばらない点で、ウディ・アレンよりも「上」をいくかもしれない。これからどんな映画をつくるのか、とても楽しみだ。
 最初に余分なことを書きすぎたかも。
 映画は、「映像の情報量」が、とても適切である。ノイズが必要な部分にはノイズを入れ、雑音を拒絶する部分では雑音を排除している。しかも、その排除の仕方がとても自然で、違和感がない。墓地のシーンは、とてもすばらしい。こんなたとえでいいのかどうかわからないが、まるである日のランチのような感じ、ランチだから目くじらを立てることもないのだけれど、あるひとのマナーが気に食わない。それについてひとりが批判する。そのあとの、雰囲気。それが作為(演出)としてあるのではなく、まるで実際に起きたことのように、そのまま放り出されている。その放り出し方の、情報量が、ほんとうにしっかりしている。
 ここをポイントにして、「観光ツアー(と呼んでしまうのに抵抗があるけれど)」が「観光ツアー」ではなくなる。観光抜きの「ツアー」になる。しかも、それは過去を訪ねるツアーになる。他人の過去ではなく、自分の過去を訪ねる。このとき「自分の過去」には、矛盾した言い方になるが「自分以外の人間」が含まれてくる。過去は消えない。過ぎ去りはしない。「いま」、自分と共にある。
 ユダヤ人収容所を訪ねる部分はクライマックスなのだが、そのクライマックスよりも、私はその後の祖母の家を訪ねるシーンに非常に感心した。収容所を見たあと、ことばをうしなう。沈黙が人間を支配する、というのは、傲慢な言い方になるかもしれないが、私にも想像できる。きっとことばを失うだろう。何も言えず、いまみてきた沈黙の激しい叫びにつつまれてしまうだろ。沈黙が大きすぎて、声を出しても、それは沈黙に消されてしまうだろうということは、想像できる。
 しかし、その後。
 祖母の住んでいた家を訪ねる。そこにはポーランド人が住んでいる。ここではじめてポーランド人との接触が描かれるのだが、その接触の近づき方、そして離れ方が、いやあ、びっくりする。そうするしかないのだが、そうするしかないその姿の中に、「痛み」と同時に「安らぎ」がある。生きていくということは、「痛み」と「安らぎ」を共存させることである。そのために、どんな工夫をするか。どんな行動を一歩とするか。
 ちょっと、涙が出ますね。
 号泣というのではない。こらえきれないというのではない。つまり、涙をこらえなければ、というような意識を刺戟しない。ふっと、涙がこぼれ、あ、私は泣いてしまったと気づく感じ。
 いいなあ、この映画。
 映画を見た知人の話では、デミー・ムーア主演の「サブスタンス」が非常にすばらしいらしいけれど、私は、その予告編すら見ていない。そうした作品を見ない内にいうのは変だけれど、「リアル・ペイン」が何かの賞をとるとうれしいなあ、と思う。

 

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ペドロ・アルモドバル監督「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」(★★★★+★)

2025-02-01 23:58:34 | 映画

ペドロ・アルモドバル監督「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」(★★★★+★)(2025年02月01日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン1)

監督 ペドロ・アルモドバル 出演 ティルダ・スウィントン、ジュリアン・ムーア

 前半、あ、この映画は、ちょっとどうかな……、と思った。単調である。アップが多く、映像の色彩情報が妙に少ない。そのため現実感がしない。
 ところが。
 ふたりが郊外(いなか?)の別荘へ行ってからが、とてもいい。発端は、ティルダ・スウィントンが安楽死のための薬を家に忘れてきたことに気づくこと。ジュリアン・ムーアは「あした取りに戻ろう」と言うのだが、ティルダは受け入れない。このときのティルダの緊張感というか、焦りというか、それしか意識できないという感じが真に迫っていて、そこから映画のスピードが加速していく。目が離せなくなる。
 ふたりの顔の対比もきわだってくる。
 死を覚悟しているというか、死を望んでいるティルダが、徐々に落ち着いてくる。安定してくる。死んでいくのはあたりまえ、という感じで生きている。薬を忘れたと大慌てしたときとはまったく違ってくる。大慌てしたことによって、なんというか、「峠を越した」感じになる。それが、すごい。
 ジュリアンの方は、感情が揺れ動く。まるで彼女の方が死んでいくかのようだ。
 で、思うのだが。
 こういうとき、どちらの役の方が演じるのがむずかしいのだろう。感情のゆれを演じわけるジュリアンの方がむずかしいと一瞬思うが、逆かもしれない。人間はだれでも感情が動き、その感情が顔に表れるとき、そのひとと一体化してしまう。同調してしまう。自分がジュリアンになった気持ちになる。観客を誘い込めばいいわけだから、むしろ簡単かもしれない。「変化」を演じればいいのだから。
 ところが、ティルダの方は「変化」してはいけないのだ。ほんとうは、彼女の肉体のなかで、こころのなかで激しい変化があるのに、それを表面に出してはいけない。しかも同時に、隠している、押さえているという印象をどこかで与えなくてはいけない。それも、あの、アップの連続のスクリーンのなかで。
 彼女はまた、母ティルダと不仲の娘も演じているのだが、そのそっくりであり、かつ違っているという感じも、非常に少ない動きのなかで演じ分けている。
 これは、ある意味で、映画を見るというよりも、演技を見るための映画だなあ。
 で、ね。
 私くらいの年齢になると、どうしても死のことを思う。私は痛みが非常に苦手だから、こんなに痛いなら死にたいと思うときがある。網膜剥離の手術をしたときは、手術後がこんなに痛いなら「目は見えなくなってもいいから、もう目を摘出して」と言おうと思ったが、いや、もう一回手術するともっと痛いかもしれないと、「論理的」に考え、ナースボタンを押すのをやめた記憶があるのだが。そんなふうに、感情・意識は、動いてしまうものなのだ。
 脱線したが。
 ともかく、死を考える。そうするとき、私にはあんな風には振る舞えないなあと思い、なおさら、ティルダの演技力に驚く。映画を見始めたときから、もうティルダが死んでいくのはわかっている。その、わかりきったことを演じきり、視線を引きつけるというのはすごい。ジュリアンの方は、ほら、どんな風に感情が動くか想像できないから、その動きに自然と引きつけられるのだから。そして、揺り動かされるのだから。
 これを際立たせるためには、やっぱり、あの単純な色彩計画、アップの連続が必要だったんだなあ。
 ★一個を追加しているのは、ジョン・ヒューストン監督「ザ・デッド」が引用されているから。あの映画の雪の美しさ。それが、引用だけではなく、再現されていて、それに感動した。余談の余談だが、私はジェームズ・ジョイス「ダブリン市民」が好きで、ダブリンまで行き、「ザ・デッド」のホテルに泊まったのだ。そんなことも思い出した。この映画が、アルモドバル監督なのに「英語」を話すのも、そういうことが関係しているかもしれない。そうか、アルモドバルもジョン・ヒューストンとジョイスが好きなのか、と親近感を覚えたのだった。
 

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吉田大八監督「敵」(★★★★)

2025-01-17 17:34:44 | 映画

吉田大八監督「敵」(★★★★)(Tjoy博多、スクリーン4、2025年01月17日

監督・脚本 吉田大八 出演 長塚京三、瀧内公美、河合優実

 主人公の年齢が何歳かわからないが、大学教授をやめたあとなので、かなりの高齢。妻が死んで一人暮らしだが、きちんと生活している。その生活が(あるいは、その見る世界が)徐々に変化していく。その変化の過程がなかなか見応えがあるのだが、それは冒頭から暗示されている。そのことに私はいちばん興味を持った。
 朝起きて、朝食をつくって食べる。最初の朝食は、鮭を焼いたものがメインである。この焼いている鮭をアップで見せる。そんなにアップにしなくても鮭とわかるのだが、「わかる」を超えて、鮭であることを主張する。言い換えると、鮭が「自己主張する」。これは、ほかの料理をする部分でも同じ。蕎麦をつくる。そのときの、湯掻いて、水で洗って、という手順、その蕎麦の形。あるいはネギを切るときの包丁、刻まれたネギ。料理番組(料理映画)ではないのだから、こんなにアップにする必要はない。でも、アップ。それは主人公が細部にこだわっているというよりも、細部の主張に押し切られているという感じ。この自分以外のもの、しかも、何かの細部に押し切られるという感じが少しずつ強くなっていく。細部の積み重ねが現実であるというよりも、細部が現実の統一感を破壊して、細部が全体になっていく感じ……。
 その結果、それまで主人公が知っている(統制、あるいは支配していると思っていた)世界が現実なのか、それともその統制を突き破ってあらわれた細部が現実なのか、徐々にわからなくなってくる。
 これを、女との関係に絞って(というわけではないが、中心に)突き動かしていくところが、すけべで、リアルでとてもいい。知っている(支配していると思っている)現実を突き破って動く女は、現実であって、現実ではない。想像、あるいは妄想なのだが、想像や妄想というのは、現実ではないからこそ、男を乗っ取ってしまう。男は、男の頭のなかにあらわれた女に、自在に動かされる。反論できない。女を制御できない。
 主人公を大学教授をやめた男にしたのも「効果的」だ。彼は、現実よりも、彼の頭のなかにある世界の方を「真実」だと思っている。それは日本の現実よりも、フランス文学、とくに演劇のなかにあらわれたものを「真実」と思っている姿の反映かもしれないのだが。
 このなかで、とくにおもしろかったのが、河合優実。「透明な不透明感」を生かして、男をだます。バーのマスターの姪で大学生という設定だが、ほんとうかどうかわからない。男をだまして金を引き出すと、バーのマスターといっしょに姿を消してしまうところをみると、偽学生だろう。これを巧みに演じていた。「あんのこと」「ナミビアの砂漠」は主演ででずっぱりだったから、見ていてちょっとめんどうくさくなったが、この映画のように、ふっとでてきて、「私は主演ではないから」とぱっと消えていく方が「ほんもの」という感じが強く残る。杉村春子が「わき」を演じたときの感じに通じるかもしれない。一瞬、「ほんとう」があればいい。男に「バタイユ」から攻め始めるといか、男を「バタイユ」を利用して釣り上げるところなんか、いいなあ。河合優実が演じる偽女子学生がバタイユの「青空」を理解しているかどうかはわからないが、(筒井康隆の小説が、そうなっているだけなのかもしれないが、原作がどうなっているかを忘れて河合優実を見てしまう。)、男はフランス文学専攻だから、もう「青空」だけで、その主人公になってしまう。性と死の世界、その中心のエロスにどっぷりつかってしまって、まあ、進んでおぼれていく感じになるのだが。だから、その後のプルースト、「失われた時を求めて」をめぐるやりとりなど、河合優実との会話というよりも、すでに男の「妄想」なのだが、ほんとうに「妄想」なのか、現実なのかわからないように、うまく撮っている(演じている)。それが現実か妄想かわからないのは、ちょっと最初にもどって言うと、ここでも河合優実がほとんど「アップ」だからである。「アップ」がリアル性を強調し、かってに動き出すのである。河合優実の「全体」が見えないが、だからこそ効果的なのである。
 「全体」ではなく「部分」に過ぎないのに、それが「全体」になっていく、というのは、「敵」の存在を知らせるメール、あるいは「双眼鏡」などによっても展開されていくのだが、この恐怖は、クライマックスで加速する。このクライマックスも男の家に局限された「アップ」であり、「全体」は描かれないのだが、そして、それがぱっと終わるのもとてもいい。
 最近、私が関心を持ってみた映画は、なぜか監督が脚本も書いている。この映画もそうなのだが、吉田大八のいいところは、「完璧な脚本だろう」という具合に、脚本が自己主張しないところだなあ。クライマックスのシーンなど、脚本で読めば「たわごと」の類だろうけれど、映像になると、いやあ、ほんとうに怖い。もっとも、この恐怖は、若い人にはわからないかもしれない。私が主人公に近い年齢だからかもしれない。そして、変な言い方だが、吉田大八は私より若いはずだが(「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を見たのが最初の映画なので、かってにそう思っているのだが)、まだ若いのに、老人の恐怖がわかるのかと驚きもした。

 

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「シネマ歌舞伎 ぢいさんばあさん」(★★★)

2025-01-04 17:50:03 | 映画

「シネマ歌舞伎 ぢいさんばあさん」(★★★)(2025年01月03日、キノシネマ天神、スクリーン1)

出演 片岡仁左衛門、坂東玉三郎、中村勘三郎

 正月なので、歌舞伎でも。でも歌舞伎は高いし、福岡では見ることができないので、「シネマ歌舞伎」で、その気分だけでも……。
 たいへんな人気だった。私のように考えたひとが多いのか、片岡仁左衛門、坂東玉三郎、中村勘三郎という人気者の顔合わせに惹かれたのか。指定席なのに、入場前に列を作らされた。入場をスムーズにするためとか。(私のような高齢者が多いからかもしれない。入場も時間がかかったが、出るときはもっと時間がかかった。立ち上がり、コートを着て、手袋をして、忘れ物がないか確認して……。)
 映画は、というと。
 うーん、歌舞伎そのものをあまり見たことがないから、私の視点が的確かどうかわからないのだが。
 シネマ歌舞伎は、たしかに見やすい。表情もアップで見ることができる。あ、こんなところに体の動かし方に気を配っている、なるほどなあ、と関心もする。若いときのじいさんというのも変だけれど、片岡仁左衛門の座ったときの背中(背筋)の線がいかにも若くて美しい。じいさんになったときの、膝、腰の曲げ方というか角度も、品がある。とても美しく見える角度を保っている。乱れない。この姿勢の「維持」というのがすごいものだなあと思いながら見た。
 でも。
 歌舞伎だけに限らず、芝居というのはやっぱり「映画」ではだめだなあ。「空気」が動かない。先に書いた片岡仁左衛門の肉体、それが動くとき舞台の上の空気も動く。その空気の動きが劇場全体に広がっていく。それはちょっといいようのないものだが、何かしら直覚できる微妙なものがある。そばにいるわけではないのだが、役者の肉体が動くとき、それにともなって動く空気が私にまで伝わってくる。もちろんほかの観客にもつたわっていて伝わった感じが劇場の閉ざされた空気のなかで増幅する。これが感動になる。
 そして、それは何といえばいいのか、役者にも跳ね返っていく。たとえば、「じいさんばあさん」では、第三幕の、ふたりが「つらいことがあったけれど、幸せだねえ、これからもっと幸せになろうねえ」と語り合うシーン(実際に、そう言うわけではないが)では、歌舞伎座なら、きっと観客がすすり泣き、そのこらえてもこらえてもこらえきれない震えが役者に伝わり、また観客に跳ね返ってくるというような「共有感覚」が生まれる。
 観客が役者に声をかけ(大向こう.、と言うのだったっけ?)、役者が「どうだいいだろう」というように観客を見渡す、といような応答も生まれる。
 それが、シネマ歌舞伎では、生まれない。
 これは、「声」についても言えることで、スピーカーで増幅され、役者の口とは違うところから響いてくる「音」も、なんだか奇妙である。はっきり聞こえるが、はっきり聞こえればいいというものではない、ということだろうなあ。
 歌舞伎を見る予習(?)なら、それでいいかもしれないが、シネマ歌舞伎で歌舞伎を見た気持ちになったら、それは大事なものを見逃すことになるかもしれない。
 しかし、まあ、片岡仁左衛門は、うまいね。やっぱり「花」があるね。映画のアップが芝居を損ねない。スクリーンをしっかり引き締める。


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スティーブ・マックイーン監督「占領都市」

2025-01-03 20:14:27 | 映画

スティーブ・マックイーン監督「占領都市」(★★★★★)(2025年01月02日、キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 スティーブ・マックイーン 原作・脚本 ビアンカ・スティグター 撮影 レナート・ヒレヘ ナレーション メラニー・ハイアムズ

 これが映画か、と質問されたら、「映画ではないかもしれないが、映画にしたい」と私は答えると思う。役者は出てこない。カメラも、ふつうの映画のように演技をしない。演技することを拒んでいる。ナレーションも感情を刺戟しない。
 映画の舞台はアムステルダム。かつてナチスが占領し、多くのユダヤ人を殺害し、またアウシュビッツへ強制移送した。そのナチス占領時代にユダヤ人が住んでいた場所(生活していた場所)が、いまどうなっているかを映し出す。名称がかわったところもあるが、そのままのところもある。なくなった施設もあるが、そのままのものもある。そして、そこに住んでいたユダヤ人はどういうひとだったかを、たんたんと語る。
 印象的なことばがある。「消滅した(なくなった)」。英語で何といったか。字幕ではどうだったか。正確には覚えていないが、そういうことばがその場所、そこに住んでいたひとを紹介したあとに、繰り返される。
 生きていたひとがいない。かつて書店だったところが書店ではなくなっている。しかし、それを思い出すことができる。思い出すだけではなく、そこから何ごとかを考えることができる。そして、それはただたんに「できる」ではなく、「しなければならない」ことである。思い出し、考えるとき、消滅したもの(なくなったもの)は、はっきりとそこに存在し続けることができる。それは消滅した(なくなった)のではなく、消滅「させられた」、無に「された」のである。そのことも思い出さ「なければならない」し、考えなければ「ならない」。
  椅子に座ってみつめているだけでは、何も起きない。スクリーンをみつめ、そこに映し出されていないひと、もの、ことを、思い出し、考えるとき、それは「映画になる」。私の知らないひとが、動き始める。「映っていない何か」が見えてくる、そういう映画である。
 その「新しく見えてきた何か」が、あまりに多くて、何を見たか、語ることがむずかしい。いままで見ようとして見えなかったもの、それを見せてくれるのが映画だとすれば、これこそ、まさに映画である。
 それにしても不思議だ。
 ナチスがアムステルダムを占領していたときから、まだ百年もたっていない。それなのに、この映画を見始めた瞬間には、ナチスが占領していたことがなかったかのようにさえ見えてしまう。この「錯覚」を、スティーブ・マックイーン監督は、しずかに、しかししっかりと揺さぶる。そして、最後には、アムステルダムの街が、一度も見たことがないものの姿であらわれてくる。「歴史」に目を向けさせる。「歴史」は、未来を考えるとき、より正確な形であらわれてくる。ひとの人生が百年と仮定して、その百年は「過去の百年」を見つめなおしつづけることでしか築いていくことができない。
 ラスト近くのシーン。路面電車(トラムというのだろうか)が走っていく。運転席から見える「前方」が映し出される。反転して、後ろ(進んできた方)が映し出される。横(左右)が映し出される。どちらかだけが電車の進んでいる方向を教えるわけではない。すべてが絡み合っている。「過去」は捨て去ることはできない。「いま」の「周辺」も捨て去ることはできない。「未来」へ進むためには、すべてを正確に認識ないといけない。そうしないと「脱線」してしまう。
 (まだ肉体の中に「興奮」が残っている。興奮が音を立てて騒いでいる。もう一度、ゆっくり感想を書き直さないといけない、とも思う。)

 

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クリストファー・ザラ監督「型破りな教室」(★★★★)

2024-12-27 22:30:08 | 映画

クリストファー・ザラ監督「型破りな教室」(★★★★)(KBCシネマ、スクリーン2、2024年12月27日)

監督 クリストファー・ザラ 出演 エウヘニオ・デルベス、ダニエル・ハダッド、ジェニファー・トレホ、ダニーロ・グアルディオラ、ミア・フェルナンダ・ソリス

 「いつも心に太陽を」(ジェームズ・クラベル監督、シドニー・ポワチエ主演)のメキシコ版、小学校版といえばいいのかもしれない。
 映画の中に、妹か弟かわからないが、幼い兄弟が生まれたために学校へ通うことを断念する少女が出てくるが、私は、なんとなく自分の小学生時代に重ねて見てしまった。私は末っ子で兄たちとは年が離れていたこと、病弱で農作業の手伝いをあまりできなかったことが重なり、兄たちの子供(私の甥、姪)の子守をすることが多かった。あやすのはもちろん、ミルクをやる、襁褓を換えるのも得意である。(甥、姪が生まれたころ、いちばん年の近い姉は中学を卒業しており、集団就職で、すでに家にはいなかったから、そういう仕事がまわってきたのである。)
 また、父の弟の息子(いとこ)のことも思い出した。彼はとても優秀な成績だったのだが、父親が胃がんで死んだため、中学を卒業すると地元の小さな工場に就職した。母と弟ふたりをおいて都会に就職することはむずかしかった。田畑の仕事をする人間がいなくなるからである。そのとき、彼がどんなことを考えていたか、私は知らない。葬儀やなにかで帰省し、会ったとき「家に遊びにきて、板戸に『海外特派員になりたい』と落書きしていったのが、まだ残っている」などとからかわれたりするから、彼もまた、そういう夢をもっていたのかもしれない。
 私は病弱ということもあって(とても30歳までは生きられないだろうと思っていたこともあって)、高校へは進学したが、大学へいくことなど考えていなかった。兄弟だけではなく、親類のなかでも高校へ進学したのは、私が最初だった。とても貧しかったのである。
 学校は好きではなかったが、忘れられないことがひとつある。小学校には、図書室というか、本棚を置いた部屋があり、そこにはずらりと本が並んでいた。その本は、なんでも、故郷の市出身のひとが、東京でベビー用品の会社を経営し、その利益を故郷に還元するために、各小学校に毎年本を贈っている。その本だという。「シートン動物記」の全巻を読んだのを覚えている。読んだ本のことはほとんど忘れているが、その本を贈ってくれた見知らぬひとのことは、どうしても忘れられない。いつかは、そういうひとになりたいとも思った。そのひとがいなかったら、本を読む喜びを知らなかった。とても感謝している。
 いま思い返せば、あのころから私は本が好きだったのだと思う。でも、なかなか本を読むことはできなかった。仕事をするようになって、本が買えるようになって、将来は本を読んで暮らしたいと夢みていたが、いまは視力が低下して読むのがむずかしい。
 そんなこともあって。
 この映画では、私は、学校へ行くことを中断した少女のことがとても気になる。あのあと少女は、子守から解放されて、好きな本を読むことができるようになったのだろうか。本を読みながら、自分のことばをみつけ、何かを語り始めただろうか。どうか、そうあってほしいと願わずにはいられない。
 本を読むことは、ことばを知ること。考えるということを学ぶこと。
 そこからちょっと進んで、もうひとつ、この映画でどうしても忘れられないのが、廃品を回収し、そこから金目のものを売って生活している父娘の、その父のことである。彼は娘の才能に気がついていない。娘に夢を見させても、結局、この現実にもどってくるしかない。夢を見た分だけ、傷が深くなると感じている。ところが、娘が望遠鏡を自分でつくったこと、一生懸命勉強していたことを知る。ああ、この娘の夢をかなえてやりたいと思う。(「リトル・ダンサー/ビリア・エリオット」の父親のよう。)だが、どうしていいかわからない。娘に語りかけることばもみつからず、泣いてしまう。
 あのとき、あの父親の「肉体」のなかで、どんな「ことば」が動いていたのだろう。
 人間なのだから、だれもが思想(ことば)をもっている。その「ことば」を、どうして私は聞き取れないのだろう、と悔しくなる。あの父親の「ことば」にならない声を、「ことば」にできたらどんなにいいだろうと思う。あの父親は、こういいたかったのだ、と「代弁」できたら、どんなにうれしいだろう。その「ことば」を少女に聞かせてやりたい。私が代弁しなくても、少女はちゃんと父親の「ことば」を聞き取っている。受け止めている。それがわかるからこそ、私は悔しくなる。その父親の「ことば」をきちんとすくいとれない私の「ことば」というものは、とてもつまらない「ことば」にすぎないのだ。少女は、ちゃんと「ことば」を聞き取る耳(肉体)をもっているのに、私には、それがない。
 これは、私自身の父や母についても思うのである。人間だから、幸せになることを願って生きていたと思う。その父や母の、声にしなかった「ことば」を、私は語ることができない。もうすぐ父が死んだ年齢に近づく。肺がんで死んだ兄は、死ぬ前に「父が死んだ年と同じだ」と言ったが、ああ、そうなのか、我が家の男の寿命は、その年なのかと思った。同時に、父と兄は、仲がいい関係には見えなかったが、死ぬ前に父のことを思い出しているなら、そしてそこから兄自身のことを思っているなら、やはりどこかで「ことば」を共有していたのだとも思う。
 私はいったいどんな「ことば」を両親と共有しているのだろうか。共有しているとしたら、それをどんなふうに表現できるだろうか、とも考えてしまう。

 書きたいことだけ書いて、ふっと思い出せば。
 この映画では、いろいろなことばを先生と生徒が、そして生徒同士が「共有」している。たとえば、ものの「密度」。体積と、体重。「密度」をはかるためには、どうすればいいか。数字も、計算も、みんな「ことば」。担任の先生が沈んだ水をためたおけ、校長先生も沈んだおけ、そのときの7センチと10センチの水位の高さの差。そして、そのときの水の輝き。それも「ことば」。共有できる「ことば」を求めあう、その共有のたしかさを確認するのが学校というものなのだろう。
 これは「いつも心に太陽を」でも、あったなあ。最初、ポルノグラフィーを読ませる。生徒が興奮しながら「ことば」を、あるいは「読む」ことを身につけていく。ある日、「チャタレイ夫人の恋人」を読ませる。すると生徒が「なんてきれいなことばだ」と声を漏らしてしまう。「ことば」は共有するためにある。
 そして、また、思うのである。私は和辻哲郎やプラトンの「ことば」が好きだが、そうしたことばを読みながら、やっぱり父と母につながる「ことば」を探している。「ことば」を探すために、生んでくれたのだと思うのである。

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カルラ・シモン監督「太陽と桃の歌」(★★★★+★)

2024-12-21 22:10:13 | 映画

カルラ・シモン監督「太陽と桃の歌」(★★★★+★)(KBCシネマ、スクリーン2、2024年12月20日)

監督 カルラ・シモン 出演 ジョゼ・アバッド、アントニア・カステルス、ジョルディ・プジョル・ドルセ

 予告編にもあったのだが、母親が息子を平手打ちする。父親が加勢して、息子を叱ろうとする。一瞬何か言いかける。その父親にも母親(妻)が平手打ちをくわせる。言いかけたことばを封じてしまう。このシーンが、とてもいい。息子、父親、母親には、それぞれ言い分がある。そして、それは明確にことばにするのはなかなかむずかしいのだが、ことばにしなくたって三人にはそれがわかる。家族だから。そして、それを見ている私は彼らの家族ではないのだが、やはり、わかってしまう。ここには、「がんこもの」の「思想」が「肉体」として動いている。
 どのシーンもそうなのだが、ほんとうに「言いたいこと」は明確に言語化されない。冒頭の「契約書」の部分は別だが、あとはことばにならない。ことばにしてみたって、何も解決しないことがわかっているからだ。そして、みんなが、それぞれに苦しんでいることを互いに理解しているからだ。みんなでいっしょに働いてきた、桃をつくってきたからだ。いっしょに働く喜びと苦しみ、というふうに「要約」してはいけない何か、「要約できない何か」がある。
 それは、たとえていえば、ある日の家族パーティー。家族の写真を撮る。それは今風にスマートフォンをつかって撮るのだが、そのパーティーの準備のシーンが、ああ、いいなあ、と思わずつぶやいてしまう。主人公の父親が、カタツムリを網のようなもの(網ではなく、棒に見えたが)の上にカタツムリを並べる。その上に枯れ木(枯れ草)をかぶせる。火をつける。カタツムリが焼き上がる。それを父親が全部、コントロールしている。父親が料理している。日本で言えば、鍋料理を父親がコントロールする(鍋奉行)のようなものかもしれないが、ここに「父の矜恃」のようなものが集約されている。みんな、それを尊重している。
 それは、すべてのことにおいて、そうなのである。父親の生き方に息子や娘、それに母、さらには父親の父親(祖父)も何らかの形で「反発」している。それはたとえば、祖父がイチジクを摘んで、地主のところへ付け届けをするような形で表現されている。この祖父の行為は、父親が祖父に車を運転させない(車を動かせないように、ほかの車で封鎖する)という形で、「実力」で拒絶される。祖父はもちろん納得できないが、納得できないけれど、受け入れ、尊重もしている。
 こういうことが繰り返し、描かれる。冒頭に書いた息子への平手打ちの前には、息子が内緒で栽培している大麻を父親が燃やしてしまう。それに怒って、息子はしなくてはいけない仕事を放棄するというか、逆のことをしてしまう。いったん水門を閉じながら、父に仕返しするために水門を開ける。してはいけないとわかっているけれど、してしまう。そうしないではいられない。
 このときの気持ちは、ことばにはされない。でも、わかる。それが、とてもいい。
 これとは逆に、正面切ってことばにされる行為がひとつ描かれる。それはスペイン政府に対する農業従事者の不満である。(これは、あるいはEUに共通の問題かもしれないが……)。農産物が安い。とても金にならない。働けば働くほど赤字になる。彼らを苦しめるのは、単に農産物が安いということだけではない。その安い農産物よりも安い「輸入品」が市場を支配しているからだ。(このことは、明確には言語化されてはいないが)。このことに対して、主人公たちはデモをする。収穫した桃、いのちと同じほど大切な桃を道路にばらまき、車でつぶしてしまう。このときの、農家のひとの悲しみ、やりきれなさ……。
 と、書いて、私は、立ち止まる。政府に対する批判はことばにされる。しかし、自分が育てたものを廃棄する苦しさ、かなしさ、やりきれなさは、やはり「言語化」はされていない。この語られなかった「ことば」、それは語られなかったからといって存在しないわけではない。存在する。そして、単に存在するだけではなく、共有されている。カルラ・シモン監督は、それを共有しているからこそ、「ことば」ではなく、映像で、役者の肉体で、そこにある桃や大地の姿でリアルに再現している。

 私は、貧乏な農家で育った。病弱だったこともあり、農作業のすべてにわたって手伝ったわけではないし、わりと若いときに家を出てしまったので、知らないこともたくさんあるが、なかでも知らないのは、たとえば父や母が何を思っていたか、それをあらわす「ことば」を知らない。人間だから、ことばにしなくても「思想」はある。語らなくても「思想」はある。それを、この映画のようにリアルに表現する方法を私は知らない。父と母の「ことば」を知らない。知らないまま、父が死に、母が死んだ年齢に近づいている。私がつかっている「ことば」なんかは、そういう意味では「嘘」でしかないのだ。そんなことも考えさせられた。
 そんなこともあって、私は、知らず知らずに泣いてしまった。

 


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ヌリ・ビルゲ・ジェイラン「二つの季節しかない村」(★★★★★)

2024-11-29 22:07:20 | 映画

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン「二つの季節しかない村」(★★★★★)(KBCシネマ2、2024年11月26日)

監督 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 出演 デニズ・ジェリオウル、メルベ・ディズダル、ムサブ・エキチ、エジェ・バージ

 冒頭、主人公の教師が雪のなかを村へ帰ってくる。このときの雪。これが、絶望的に冷たい。美しくはない。ただ冷たいだけである。雨が混じっていて、やりきれない音が聞こえる。白く輝く雪ではなく、灰色に沈む雪。この「灰色」がこの映画のテーマであると私は直感する。この雪に似た雪は、一度映画で見たことがある。「スウィートヒアアフター」(アトム・エゴヤン監督)。この映画もまた灰色の冷たい雪、凍った雪が私を閉じ込めて放さない。
 「二つの季節しかない村」には、小学校の校庭で雪をぶつけ合う楽しいシーンもあるのに、その楽しさは人間を解放しない。そんなものは「まぼろし」だと言っているようにさえ思える。そこに住む人間を長い間、ただ閉じ込めるだけの冷たい雪。それは人間を屈折させる。動き始めた肉体は、その動きに身を任せ、解放されるという具合にはいかない。奇妙にゆがむ。もっと美しい動きがあるはずなのに、そしてそれをみんな自覚しているというか、直感しているのに歪む。他人がうらやましい、他人がねたましい。
 最初、それは非常に「なまなましい形」であらわれる。主人公の教師が教室で生徒に質問する。優秀な生徒(少女)が二人いて、彼女たちは手を挙げて質問に答える。教師は、彼女たちなら間違えずに答えるとわかっていて、彼女たちを指名する。予想通り、正解が返ってくる。授業がスムーズに進む……はずが、ひとりの男子生徒が先生に語りかける。「先生は、いつも二人を指名する。(依怙贔屓だ)」と批判する。この正直な直感と反発。そのなかで人間は歪む。この男子生徒が実際に行動を起こすわけではないが(だから、ここにテーマが暗示されていると直覚する観客は少ないかもしれないが)、登場人物たちは、まさにこの生徒のことばを支えている直覚を具現化するように動く。その場合、それはたいていは、してはいけないとわかっているのに、してはいけないからとわかっているからこそ、それをしてしまう、という形をとる。「先生は、依怙贔屓をしている」というようなことは、「おとな」になれば面と向かっては言わない。でも、陰口は言う。その「陰口」の世界とでもいえばいいのか。
 それは簡単に言いなおせば、冒頭の「灰色の雪」の、その「灰色」の世界である。「灰色」は単調な色なのだが、その単調さのなかに、なんとも強情なものが隠れていて、それが灰色に濃淡を与える。この濃淡の変化こそが「人間のいのち」であるというのが、たぶんヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の、「主張」である。
 これは「雪の轍」にもみられた、長い長い「対話」に象徴的にあらわれている。対話を通して、二人の話者は「結論」というか、「妥協点」に到達するわけではない。対話の目的は、対話の理想とは逆に、「自己主張を譲らない」という一転に向けて加速する。話せば話すほど、いや、この映画では「話さない」という形でも「自己主張を譲らない」という姿勢が貫かれるのだが、これはもうこうなってしまうと、絶対に「純白」や「黒」という具合には話が進まない。ただ「灰色」の濃淡をどれだけ認識できるかにかかってくる。それは観客もそうであるし、登場人物にそうなのである。
 主人公は男は、結婚相手の女性を紹介される。結婚する気はない。だから、その女を友人の男に紹介する。女と友人は親しくなり始める。そうすると主人公は、それまでその気がなかったのに、その女のことが気になる。絶対に「好き」なわけでもない、愛しているわけでもないのだが、女を奪ってみたくなる。そんなことはしてはいけないとはわかっている。わかっているからこそ、よけい、そうしたくなる。そして、いったん、そういうふうに動き出すと、それを止めることができない。女は女で、主人公が友人を裏切って、主人公が女に接近してきたことをわかっていながら、男と寝てしまう。そんなことをすれば、絶対に友人にわかってしまうとわかっていながら、そうしてしまう。そして、それからまた複雑な関係というか、複雑な「やりとり」がある。灰色が灰色のまま揺れ動く。暗くなり、それでも明るさを求めて動き回る。これは、もう、どうすることもできない。
 ただ、それだけである。こうした「暗さ(灰色のやりきれなさ)」を納得できるかどうか。それは、もしかすると冒頭の雪のシーンを体験したことがあるかどうかと関係するかもしれない。ある風土、ある季節、それを知らない人間には、到底理解できない何かがあるかもしれない。人間の力では変えることのできないものがある。そして、それは自然(季節)の問題だけではなく、自分自身の肉体のなかにも潜んでいる。潜んでいるだけではなく、あらわれてしまう。あらわれることを抑制することができない。それは「欲望」の解放と簡単に言うことはできない。あらわれてしまったものが、逆に「欲望」の抑制であるかもしれないのだ。そうした矛盾を納得できるかどうか。問われるのは、そういうことだろうと感じる。書いているうちに、この灰色のなかに潜む黒の不思議な輝き、そこにもどうすることもできない喜び、愉悦があるということばを挿入したいのだが、それをどこに挿入すればいいのかわからないまま、私のことばは動いてしまう。
 「灰色」というと白が美しく黒が汚いという視点で整理するとわかりやすくなるのだが、そういうわかりやすさとは裏腹に、あの黒にこそどうしようもない美しさ、絶対的な欲望の強さがあるということを納得できるかどうか。そうなのだ。私は、ある意味でこの映画のもうひとりの主役の少女の、絶対に自分の悪を認めようとしない強さのなかに、恋することの美しさ以上の力を感じ、魅了されるのだ。主人公の男の「物語」など平気で破ってしまう絶対的な力、そしてそれが自然であるということの強さ。
 「スウィートヒアアフター」も、映画が進めば進むほど、見てはいけないものを見るしかなくなる人間のやりきれなさを、ただじっくりと描いていたが、雪にはそういうことを強いる力があるのかもしれない。雪には、人間に耐久性をもたらす力があるかもしれない。雪を知らないひとは、この不思議な、いやあ力の動きが好きになれないかもしれないなあ。私は、その力が好きであるとは言えないけれど、妙に納得し、その存在に「親近感」を覚える。雪深い山の中で育ったせいかもしれない。

 と、ここまで書いて。
 ほんとうは書いてはいけないことなのだけれど、この映画の主人公のように、してはいけないと思うからこそ、書いておきたいこともある。この映画の主人公を苦しめる女生徒のような「存在」を私は知っている。それは、この映画のように「事件」にはならなかったが、雪の抑圧というのは、そういう少女を生んでしまうのかもしれないとも思った。そうしたことも、この映画を見ている間中、私の意識を突き動かしていた。その当時、私はまだ少女と同じ少年だったから(同級生だったから)、その少女のなかに動いていた絶対的な情念の力など理解できなかったが、いまならわかるような気がするのである。

 人間は、簡単には「整理」できない。整理できないものを、整理しないで、突きつけてくる。提出する。こういうことができるのは、たいへんな力業だと思う。

 

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オリバー・パーカー監督「2度目のはなればなれ」

2024-10-26 17:15:28 | 映画

オリバー・パーカー監督「2度目のはなればなれ」(★★★★、キノシネマ天神、スクリーン2、2024年10月26日)

監督 オリバー・パーカー 出演 マイケル・ケイン、グレンダ・ジャクソン

 映画がはじまってすぐ、あれっと思う。映像が少しかわっている。いまの映画は「市民ケーン」以降、スクリーンの全体がくっきりと映し出されるのがふつうである。ところが、この映画は、「ぼける」。遠景に焦点があたっているときは近景がぼける。近景に焦点があたっているときは遠景がぼける。言いなおせば、「視野」が狭い。しかし、「視野が狭い」という印象はおきない。たぶん、「視覚」というものは、そういうものなのだろう。見たいものを見る。見たくないものは、存在していても見ない。これは、高齢になるとますますその傾向が強くなるから、映画は「老人の視点(老人の視野)」を強調しているともいえる。
 で、これは私がうっかりしていたのだが、最後は、その「狭い視野」が消えて、言いなおすと「ぼやける」が消えて、全部がくっきり映し出されていたかもしれない。これは私の目が「ぼやける/くっきり」の世界になれてしまって、そのことを意識しなくなったのかもしれないが、そうではなくて、ほんとうに「全部がくっきり」にかわっていたのかもしれない。そして、その「全部がくっきり」が、主人公のかかえていた問題が解決した、ハッピーエンディングになったということを象徴しているかもしれない。だから、このことは、最後のシーンの「くっきり」は保留にしておくが……。

 この映画で、私がいちばん感動したのは、主人公がノルマンディーで元ドイツ兵と出会うシーンである。かつての敵。殺し合った関係。しかし、そのとき、そこに「憎しみ」は存在しない。ただ「悲しみ」だけが共有される。不思議な「和解」が一瞬にして、全体をつつむ。
 何があったのか。
 主人公が、ふと漏らすことばがある。「無駄なことをしてきた」。何が無駄だったのか。殺し合ったことである。戦争の過程で、何人もの人間が死んだ。殺そうとして殺した人間(敵)もいるが、殺すつもりがなかったのに死なせてしまった人間もいる。ただ戦争を遂行する(兵士の役割を果たす)ということだけを考えていたのだが、それが仲間を死に追いやったということもある。もし戦争をしなかったら、そういうことはなかったのである。
 それはイギリス人もドイツ人もかわらないだろう。悲劇を体験してきた人間だけが共有する「実感」だろう。
 このことを、多くのことばをつかわず、ただ見つめ合い、テーブルの上で手を重ね合うという行動だけで表現していた。とても美しい。
 この、主人公の漏らした「無駄」ということばを、主人公の妻は、こんな形で繰り返す。
 「戦後、私たちはいっしょに生きてきた。してきたことは、小さな、つまらないことかもしれない。しかし、そこに無駄はひとつもなかった」。このときの「戦後(戦争が終わったあと)」という一言が、とても強い。私の胸には、ずしりと響いてきた。
 この「無駄」が「呼応」する。いろいろな「名目」はあるだろう。しかし、だれかを「殺す」ということほどの「無駄」はない。そういう「無駄」をしなくても、ひとは生きていける。華々しい出来事は何もないかもしれない。しかし、同時に、華々しい「無駄」もないのである。それが「生きる誇り」(生きてきた誇り)である。その「誇り」を取り戻すために、主人公は、共同墓地へ行く。友の墓の前で祈る。彼に同行する男も、また同じように。そのとき、その男が毎日繰り返し口にしてきた詩が語られる。それは、死んでしまった人間への、「もう無駄はしない」という強い決意のように迫ってくる。

 あらゆる世界で「無駄」が排除されようとしている。「話し合っても無駄」(戦争しかない/武力行動しかない対立解消の手段はない)というのが、「戦争支持者」の主張だろう。「話し合い」は彼らから見れば「時間の無駄」なのかもしれない。しかし、その「無駄」をつづけつづければ、それは無駄ではなくなる。何があっても武器はとらないということをつづきつづければ、戦争はおきない。人間が「無駄に」死んでいくことはない。
 戦争で、実際に親しい人間を失ったひとだけが「無駄」に気がつくというのでは、あまりにも悲しすぎる。
 この映画は、いま拡大しつづける戦争に対して、何か有効なことをなしうるか。この映画が与える高価は「無駄」(無力)でしかない、というひともいるだろう。だが、そうであったとしても、この映画に加わったひとは言うだろう。「私のしたことは、ちいさなことである。しかし、私は何一つとして無駄なことはしていない」と。
 で、もうひとつ、忘れがたいシーン。
 主人公を助けるアフリカ系の元兵士。彼は、こころの傷のために、少し主人公たちに迷惑をかける。それが次の朝、主人公にであって謝罪する。それに対して主人公が何か言う。それに答えて、元兵士が何か「立派なこと」を言おうとする。そのときの態度が、いわゆる「軍人風」である。この態度を主人公が、静かに批判する。「そういう軍隊式の反省はやめろ」と。「きみは病んでいる」と。
 ああ、いいなあ。
 「戦争反対」は世界中で叫ばれている。安倍も叫んだし、岸田も訴えた。石破も言うだろう。しかし、そのときの「戦争反対」ということばの奥に動いているのは、どういう精神か。たとえば「祖国のために亡くなった兵士の精神を忘れない」というとき、そこにはたとえば主人公の友人の「死ぬのはいやだ、死ぬのは怖い」という気持ちは含まれているか。含まれていないだろう。「祖国のために亡くなった兵士の精神を忘れない、そのいのちを無駄にしない」というとき、それは新たな「無駄」をするということだろう。

 声高ではない。だが、はっきりと「ことば」が聞こえる。こういう映画をつくることができるひとがいることに、深く感謝したい。「私は何一つ無駄なことはしなかった」といえるのはすばらしいことだ。
 この映画のなかの主人公の、友人の墓に祈ること、それは「無駄」ではない。もしなにかしてきたことのなかに「無駄」があったとしても、その「無駄」は、その瞬間にすべて消えた。「ぼやけ」ていたものは何一つなくなり、世界は「くっきり」したものにかわった。この「くっきり」を感じたから、私は、主人公がフランスから帰ってくるシーン以後、スクリーンに「ぼける/くっきり」の差を感じなくなったのかもしれない。
 もう一度見るということはないから、私がそう感じた通りの撮り方だったかわからないのだが。


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奥山大史監督「僕はイエス様が嫌い」(★★★)

2024-09-29 11:51:19 | 映画

奥山大史監督「僕はイエス様が嫌い」(★★★)(キノシネマ天神、スクリーン3、2024年09月28日)

監督 奥山大史 出演 佐藤結良、大熊理樹

 冒頭、おじいさんが障子に穴をあけて、外を覗いている。このシーンがラストで少年にかわる。少年が障子に穴をあけて、外をのぞく。おじいさんが何を見たかは描かれない。少年が見たのは、少年が大好きな友人と雪の上でサッカーをしている姿である。
 このシーンは、「ぼくのお日さま」を思い出させる。「見る」とは、何か、ということを考えさせる。
 見る。目で見る。だから、目が直接見ることができないものは、自分の目である。しかし、目で見るとき、そこには「自分」が反映される。つまり、それは単に「自分以外」を見るのではなく、実は「自分」を見ることでもある。
 少年は、障子の穴をとおして、彼と友人が夢中になって(ほかのだれも見えない)になって、サッカーをしているのを見る。そこに自分がいるのだけれど、自分がいない。そして、たぶん、そこには友人もいない。ただ「楽しい」、あるいは「うれしい」が「ある」。「自分」は「無」になり、そこに「楽しい、うれしい」が輝いている。「好き」とは、こういことなんだなあ、と思う。
 「ぼくのお日さま」では、主人公の少年は少女がスケートをしているのを見る。コーチが回転しながらジャンプする、その仕方を教えている。それを見た少年は、少女が教えられた方法を試してみる。このとき少年は少年でありながら、少年ではない。回転しながらジャンプするという「行動(運動)」そのものになっている。自分の肉体の動きを確かめるとき、少女の肉体の動きを確かめていると書くと書きすぎだが、「人間の肉体の動き」(何かを実現する喜び)を確かめているとはいえる。そこには「自他」の区別は存在しない。「自他」を超える「無」の喜びがある。
 奥山大史のとらえようとしているのは、何か、そうしたものである。「無」、あるいは「空」と呼んだ方がいいのかもしれないが、いま、多くの人が見失っている「絶対的喜び(幸福)」をつかもうとしている。提示しようとしている。
 大好きな友達が死んでしまったのに、そこに「よろこび」が表現されるというのは「矛盾」かもしれないが、「悲しみ」を超えてしまう「よろこび」、その純粋さ、透明さが、この「僕はキリスト様が嫌い」でも、とてもよくあらわされている。
 (★が三つになってしまったのは、たぶん「ぼくのお日さま」があまりにすばらしくて、その「反動」のようなものかもしれない。)
 このラストシーン、スクリーンの下の方に「白い何か」がゆらゆら揺れている。これを映画の「キリスト」と結びつけ、「神様が見ている」と言う人がいたが、(「神の視点から見た世界、神はいつでも人間を見守り祝福している」という人がいたが)、私は無神論者なので、そんなふうには見ることはできない。あれは、あくまで障子の穴の、その周辺の紙である。少年の「我」が消え、「無(空)」になったから、あのシーンが見えるのである。もし、どうしても「神」と結びつけなければならないとしたら、「無我」の瞬間、少年は「神」になっていると言えばいいだろうか。「神」にひとしい存在、「自己主張」が消えた視点になっていると言えばいいだろうか。
 主人公の少年は、死んだ友人への「弔辞」を読んだあと、祈祷台(?)にあらわれた小さなキリストを拳で叩きつぶす。「友人を死なせてしまうキリストなんか許せない」という気持ちか。でも、もし「神」がいるとするなら、そういう「神への憎しみ」さえも許してしまうのが「神」というものだろう。裏切ろうが、迫害しようが、人間を許し、受け入れるのが神だろう。
 悲しみを受け入れる。そして悲しみのなかで楽しかったこと、うれしかったことを思い出すほどつらいことはないのだが、不思議なことに、その悲しいときに楽しかったこと、うれしかったことを思い出すことができるということが、人間を「生かす」力となっている。少年は、ラストシーンで、それを語るわけではないが、感じている。そういうことを教えてくれるとても美しいシーンである。
 こういう純粋な透明感をそのまま具体化できるというのは、現代では、とても貴重なことだと思う。奥山大史という監督は、初めて知ったが、これからも作品を見続けたいと思う。

 奥山大史監督の特徴は、「白」にいろいろな白があるということを知っていることだ。雪の美しさ、悲しさはもちろんだが、障子のほのかな白の変化、白い花だけではなく、青い花のなかにもひそんでいる白も含めてとても美しい。黒のなかには無数の色がある、無数の色があつまり黒になると言うが、白のなかにも無数の色がある。奥山大史の、その無数の色は「光の無数の色」なのだろう。だから、最後にその無数の色があつまると、何もない「透明な光」「純粋な光」そのものになる。
 書いていたら、★4個、あるいは5個にしたくなってきた。
 いい映画というのは、こういう変化を引き起こす映画のことかもしれない。

 

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奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(3)

2024-09-24 06:49:37 | 映画

 ユーチューブ「シネマサロン、ヒットの裏側」批判のつづき。(この記事の下に、1、2があります。)
 https://www.youtube.com/watch?v=ywPcv9iU9LM

 美、純粋、透明などいろいろな「概念」が指し示すものをつかみとるには「直覚」が必要だ。美や純粋、透明といったものを「論理」で説明しても、それは単なる「論理」であって「本質」ではない。それは「論理」で説明してもしかたがないものである。直覚できるかどうかが問題である。
 こういうことを書きながら、「シネマサロン、ヒットの裏側」ユーチューバーの語っていることを、ことばで批判するのは、まあ、矛盾のようなものであるが、書いておく。
 「シネマサロン、ヒットの裏側」ユーチューバーは、簡単に言えば、透明、純粋、美に対する直覚が欠如している。彼らには、透明、純粋、美を理解することはできない。
 とりわけ「好き」ということがもつ純粋さ、透明さ、その美しさを直覚することができない。
 この映画「ぼくのお日さま」は別のことばで言えば、「ぼくは、ぼくのお日さまが大好き」である。大好きなものを「お日さま」と呼んでいる。好きな対象は「お日さま」であると直覚して、言っている。「お日さま」ということばを聞いて、あ、少年は「お日さまが好き」なんだと直覚できなければ、それから先は、何もわからないだろう。
 で、この「好き」ということば、それが何回この映画につかわれているか私は意識していないが、一回だけ、忘れられないシーンがある。
 少年がフィギュアスケートかアイスホッケーか、選択に迷ったとき、父が「おまえが好きな方にすればいい」という。この「好き」をどれだけ「実感」として直覚できるか。少年はフィギュアを選ぶが、その選択を後押しするのが少年の直覚であり、そこには少年自身が純粋な形で具体化されている。
 これは、たとえて言えば「リトルダンサー」の少年がボクシングではなく、ふと見てしまった少女たちのバレエからバレエに目覚めるような、直覚である。それは本能である。説明はできない。
 で、私は、最初の感想に、このとき父親が吃音であることがこの映画の唯一の欠点であると書いたのだが、吃音をとおして父が少年の「好き」を応援していることを強調するのが、なんともいえず「下品」に感じたのだ。ただ単純に、「好きにすればいい」の方が不純なものが混じらない。あ、父親も吃音なのか、というようなどうでもい感想が混じりこまないだろう。

 ことばに関して言うと。

 「シネマサロン、ヒットの裏側」は脚本について、いろいろ難癖をつけているのだが、そのひとつひとつがあまりにもばかばかしい。たとえば、スケートのコーチが仕事をやめてどこかへ引っ越すのだが、その直前の会話から「客(教えている生徒)がたったひとりなのか」(ひとりの客、少女を失っただけで、仕事がなくなるのか)というようなことを言う。しかし、「生徒がひとり」とは、どういうことだろうか。映画では、生徒がひとりとはどこにも描かれていない。だいたい、コーチは、少女と少年のふたりを教えている姿をとおして描かれているが、生徒がふたりだけかどうかわからない。ほかの部分は「省略」されている。スケート場の他のスタッフが登場しないことについても疑問を語っているが、そういうものを描く必要を感じていないから映画は省略しているだけである。
 省略に関して言えば、たとえば少女の家庭はどうなっているのか。父や兄弟はいないのか。少女のかわりに母親がコーチに対して、コーチの解任を伝えるのだが、父親が登場しないことを理由に、少女は「母子家庭」のこどもであり、ひとりっこであると言えるか。
 あるいはコーチの連れ合いが「家業をつぐために北海道に帰って来た」というが、そのとき彼の両親は、あるいは兄弟はどこにいるか説明がないから、彼がガソリンスタンドを経営していることになるのか。そんなことはないだろう。映画に限らず、どんな作品でも、その作品が必要としないものは省略する。
 映画には描かれていないが、北海道の小さな街で(といってもスケート場がある大きな街だが)、その小さな街で「スケートのコーチはゲイである」ということが知れ渡ったら、それを嫌って生徒を引き上げさせる両親というのはいるかもしれない。ひとりの客を失ったのではなく、多くの客を失ったのかもしれない。そう考える方が自然だろう。舞台になっている北海道の街をゲイに対して不寛容な街であるというわけではないが、少数派を受け入れない(歓迎しない)という雰囲気は、どこにでもある。日本政府からして、同性婚を認めていないではないか。コーチは「ひとりの客」を失ったのではなく、その「ひとり」を含む多くの客(生徒)を失ったのである。その結果として、少年をも教えることができなくなった。でも少年がフィギュアが好きなことを直覚しているコーチは、少年にスケート靴をプレゼントして立ち去る。少年にフィギュアが好きなままでいてもらいたいと思うから靴を残していく。その悲しい美しさ。そこにはフィギュアを愛しているコーチのこころも描かれている。
 映画で説明していない部分は「存在しない」のではなく、単に「省略」されているにすぎない。コーチが、最初は「靴はやるんじゃない、貸すんだ」と言ったことを思い出すがいい。そして、そこから靴を残していく気持ちを想像すればいい。また、それを受け取る少年の気持ちを想像すれば、彼がその後なにを選択するかがわかる。想像できる。説明がないものを想像できないのは、想像力の欠如である。
 コーチと連れ合いの関係をゲイの関係である、ふたりは同性愛者であるということを、ユーチューバーは語っているが、映画のなかで二人がセックスをするわけではない。ひとつのベッドに寝ているが、ひとつのベッドに寝ればかならずゲイであるとは言えないだろう。それなのに、ゲイであると断言する。登場人物がゲイであることは想像できても、映画に登場しない人物が彼らの周りには存在するということを想像する能力が、彼らには欠けている。
 テーマではないことがらに関することは想像しても、テーマについては想像しない。簡単に言えば、彼らの想像力は「下品」である。「品がない」。
 想像力の欠如はラストシーンについても言える。ここでは具体的なことばは何一つ明確になっていない。だから、そこから何を想像するかは観客に任されているのだが、彼らがハッピーエンドを想像できなかったからといって、ハッピーエンドではないとは言えない。すでに書いたように、あれ以上のハッピーエンドはない。描かれていない部分から何をつかみ取るか。何を直覚するか。それには、そのひとの「品」が影響する。私は私に品があるとは思わないが、彼らは「下品」だと思う。
 少年と少女が、コーチから「フィギュアが好き」という気持ちを引き継がなかった(受け取らなかった)と想像してしまうのは、あるいはコーチから「フィギュアが好き」という気持ちを引き継いだと想像できないのは、「シネマサロン、ヒットの裏側」のユーチューバーに、何かが「好き」になった経験がないからだろう。あるいはそういう経験があったとしても、そのときの気持ちを自分自身でしっかり確かめ、確実にするという意識がないからだろう。自分、そして生活を見つめなおさないことを「品がない」というのである。

 脱線するが。
 「世界のおきく」を批判して、地主農家(?)が主人公たちに対して怒ったとき、肥だるを手で持って、糞尿をぶちまけるというシーンがある。そのシーンに対して「シネマサロン、ヒットの裏側」のユーチューバー「手で持つなんて汚い。不自然。足で蹴れ」というような批判をしていた。このことについては「世界のおきく」について書いたときに触れたが、肥だるは貴重品である。大事な道具である。そういうことを理解している農家のひとが、いくら怒ったからといって足で蹴ったりはしない。壊れたら大変である。そういう配慮をするのが「品」というものである。問題のユーチューバーには「生活の品」というものがない。「生活」が反映されていない。「きちんとした生活」が反映されれば、そこにおのずと「品」あらわれる。

 「品」とたぶん関係すると思うが。
 この映画の映像の美しさは10年に一作の美しさである。10年に一本の映画である。この映画以前に、10年に一本の映画と書かずにはいられなかった作品は「長江哀歌」である。あの映画も、映像が透明だった。どこにもゆるぎがなく、人間をしっかりととらえていた。人間に密着している。壁にのこる雑巾の痕、壁に密着したテーブルを雑巾で拭くと、そのときの「拭き痕」が壁にのこる。毎日、テーブルを拭いていたから壁に拭き痕が残ったのだ。その美しさ。毎日テーブルを拭いているという生活の品、暮らし方の品がのこる映像が象徴的だが、どの映像も、それをみつめる人間の生活に密着している。落ち着いている。けっして作為的ではない。「品」というのは、そういう形であらわれる。
 柳宗悦やバーナード・リーチが言った「民芸の品」に通じるかもしれない。
 きちんと暮らしていれば、おのずと「品」はあらわれる。
 少年は、アイスホッケー、フィギュア、野球をやる。そのなかで、彼は何を選んだか。ラストシーンには、それが描かれている。何を選んだと想像するかは、観客の「品」によって違うだろう。その選択を「好き」と思うかどうは、観客の「品」によって違うだろう。

 書いてはいけないことまで書いたかもしれないが、思ったことは書いておくしかない。「シネマサロン、ヒットの裏側」の「批評」があまりにもむごたらしいので、書かずにはいられなかった。


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