詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安田淳一監督「侍タイムスリッパー」(★★★)

2024-09-14 22:32:06 | 映画

安田淳一監督「侍タイムスリッパー」(★★★)(2024年09月14日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン9)

監督 安田淳一 出演 山口馬木也

 一館上映で始まった映画だが、人気が人気を呼び、全国で上映されるようになった作品とか。
 予告編を見た印象は、とても効率よくつくられた作品。スクリーンに映っているシーン以外に「余分」はない、という感じだったが、本編を見てもその印象は変わらない。ていねに、しっかりとつくられた映画だが、なんというか「奥行き」がない。カメラに写っているシーン以外に、何もない。もちろん、それでもいいのだが、私は「余分」を期待して映画を見ている。「余分」がないと、味気ない。100点の映画だが、それはミスがないという意味でしかない。
 スタッフ一覧を見てみると。
 安田淳一が監督、脚本、撮影、編集と四役をこなしている。(もっと、こなしているかもしれない)。それがこの作品の特徴を語るすべてである。すべてのことが、安田淳一の「視点」で統一されている。だから、乱れようがない。ミスしようがない。100点になるしかないのである。
 私が唯一、これはおもしろい、と思ったのが、主人公が講演会か何かのポスターを見て、自分が江戸時代から現代にタイムスリップしてきたことを理解するシーンである。ポスターの文字が「活字」であることに驚くこともなく、江戸時代が終わったということに驚くこともない。あっという間に「状況」を理解してしまう。その「理解力」の速さを、巧みに描いている。状況が理解できずにドタバタするのは、紛れ込んだ京都・太秦の映画(テレビ)撮影現場の一瞬だけである。
 で、このことが象徴的なのだが。
 登場する人物が、みんな、「ストーリー」を「理解」してしまっている。「理解」にしたがって、それを表現している。まあ、それでもいいのだろうけれど、私が期待するのは、やっぱり登場人物が何が起きるか「知らない」という芝居なのだ。何も知らず、すべてが初めて体験する、という「人間の生き方」なのだ。役者を、生きている人間を見たいのだ。私は。それが、この映画には完全に欠落している。
 たとえば。
 映画のなかに、主人公が仇(?)と出会い、一緒の映画に出ることになり、その一シーンとして釣りをするところがある。映画はただ背中をうつすだけ、会話はとらないという条件で撮影されている。ふたりは、セリフではなく、思っていることを語り合う。それは一首のけんかなのだが、背中をとっているスタッフが「こころが通い合っているいい演技だ」みたいなことを言う。人間というのは、そういういい加減な存在なのだが、そのいい加減さがいかされていない。これと同じシーンを、私は別の映画で見た記憶があるが、それがなんだったか思い出せない。こういう裏話みたいなもので、映画の秘密をばらすのだが、それさえも「型通り」である。つまり、「いい加減」さが、どこにもない。
 だからね、100点だけれど、50点なのだ。

 どうでもいいことだが。
 予告編で、呉美保の映画を見た。タイトルは忘れたが、あ、呉美保だと、こころのなかで叫んだ。なんだったか、タイトルは忘れたが、第一作は、たしか彼女自身が脚本を書いたものだったと思う。その脚本が、いいなあ、と思った。人間のとらえ方に、みょうな深さがある。奥行きがある。そのあとも何本か見たと思うが、何かしら、印象に残るシーンがあった。
 今度は、どうなんだろう。
 思わず、こういう関係ないことを書いてしまわせるのが、安田淳一監督「侍タイムスリッパー」であった。


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ダビッド・プジョル監督「美食家ダリのレストラン」(★★)

2024-08-25 16:36:51 | 映画

ダビッド・プジョル監督「美食家ダリのレストラン」(★★)(KBCシネマ、スクリーン2)

監督 ダビッド・プジョル 出演 ホセ・ガルシア、イバン・マサゲ、クララ・ポンソ

 主人公の設定は、スペイン人なのか、フランス人なのか。よくわからないが、なんとも「フランス味」の強い映画だ。妻は出てこないが、娘が出てきて、フランス語でやりあうが、もしかすると登場しない妻がフランス人なのかも。というような、映画とは関係ないことを思ってしまうなあ。
 私は、ダリの作品はそんなに多く見ていないのでわからないが。
 映画の、ひとつの見せ場に、主人公が「ダリの魅力」を語るところがある。これが、さらに輪をかけて「フレンチ」の味。フランスから来たグルメ評論家がダリを批判するので、それに対して反論するのだが、そのことばの動きが「フランス現代思想」っぽい。と言っても、私はその当時のスペインの思想(さかのぼってのスペインの思想)もフランスの当時の思想も「現代思想」も知らないのだけれど。
 なんとなく。
 いやあ、スペイン人は、こんなに「論理的」には話さないだろうなあ。だからこそ、このシーンがスペイン語ではなく、フランス語で交わされるのかもしれない。
 ひるがえって。
 フランス語で論理が展開されたから、フレンチと感じたのか。これは、少し重要な問題かもしれないなあ。
 私は最近スペイン語を学んでいるのだが、「読んだらわかる」でも「書くことはできない」文体というものがある。「Te gusto?」というのは、読んだときはびっくりするが、まあ、理解できる。しかし、それを言ったり書いたりするとなると、ちょっと恥ずかしくて言えない。書けない。そういうことが、どの言語にもあって、そういうことは「思想の文体」「論理の文体」にも影響していると思う。そして、行動(肉体)の文体にも。
 その「行動の文体」で言えば、シェフの弟が反フランコ運動(?)で逃亡するとき、兄が一緒に逃げるのがスペインぽいかなあ。フランス人は、弟思いの兄でも一緒に逃げたりはしないだろうなあ。「お前のかって」がフレンチの兄弟関係かなあ、とかって想像している。
 結婚式の披露宴の料理(デザート?)にチュッパチャプスをつけるというのは、まあ、スペインぽいが、女がシェフの愛を知って、厨房でセックスをする、というのはフレンチかなあ。その二人がウェデングケーキにまみれるというのはスペイン風か、フレンチか、よくわからないが。セックスをのぞいた男が告げ口をするというのは、スペインかも。フランスでは、「他人のことは知ったことではない」だろうし、これがイギリスなら知っていても本人が言わない限り「なかったこと」になるだろうなあ。
 これも、かってな想像だけど。
 バルセロナ(舞台の近くがバルセロナ)とマドリッドでは、それぞれのひとの人格もずいぶん違うと思うが、シェフの生真面目な感じは、これはバルセロナだね。新しい料理を思いついて、そのたびにノートをとる、というのはスペイン人というよりはバルセロナ人かなあ。碁盤の目のようなバルセロナの通りと、マドリッドの勝手気ままな道路の交錯の違いなんかも思い出した。
 ほかにも、ガラがロシア人(だったっけ?)という関係もあって、スペイン語、フランス語、ロシア語が飛び交う映画なのだが、もしかするとロシア人の「特徴」も見えるようになっているのかもしれない。アラカルト料理のように、アラカルト人種の違いを教えてくれる映画かもしれない。その土地その土地に、その土地の味(料理)があるように、その土地その土地に、そこにふさわしい人間がいる。
 というのは、「日本人風の見方」かもしれないが。


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アレクサンダー・ペイン監督「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」(★★★)

2024-06-24 16:05:08 | 映画

アレクサンダー・ペイン監督「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」(★★★)(2024年06月24日、キノシネマ天神・スクリーン3)

監督 アレクサンダー・ペイン 出演 ポール・ジアマッティ、ダバイン・ジョイ・ランドルフ、ドミニク・セッサ

 この映画は100点満点で採点すると102点の映画である。100点ではもの足りず、プラスアルファをつけたくなる。やっていることはすべてわかる。どこにも「欠点」はない。完璧。完璧というだけではおさまらない。しかし、★は三個。100点を上回るのだけれど、手放しでは称賛できない。
 どういうことかというと。
 映画が始まってすぐ、あっと息を飲む。そして、たぶん2秒か3秒後に、この映画のすべてがわかる。
 映画の最初は会社のトレードマーク。くすんでいる。ぼやけている。ここで、あれっと思う。そして、それに追い打ちをかけるのが、フィルム上映のときにあった、ノイズ。古くなった映画(いわゆる二番館で上映する映画)のフィルムは、すりへって傷ついている。画面にも雨が降るし、ノイズがまじり音は不鮮明。最初のトレードマークのすり切れた感じは、この「二番館上映」という印象を蘇らせ、ノイズはそれを決定的にする。
 これが、すべて。(で、102点の「+2点」は、この映画の本編が始まる前の、傷、ノイズに対する+アルファ、ということ。)
 映画は、「二番館」が華やかだった(?)半世紀前を思い出させ、そして、そこに描かれるのも半世紀前の世界である。雪の降り方(除雪の仕方)からして1970年代である。大学、寄宿舎の、木の色合い、光も何もかもが70年代。ああ、なつかしい。そこで展開される「青春」、さらに「大人の苦悩」、そして、その「交流」も70年代そのもの。ダスティン・ホフマンが主演した「小さな巨人」までもが、映画のなかの映画として登場する。
 これじゃあ、感動せずにはいられない。自分の「青春」に重ね合わせて、何もかもに納得し、こころがふるえてしまう。
 でも、というか、だからこそ、私は一方で、いやな気持ちになる。
 なぜ、いま、この映画? 70年代の、アメリカの青春、その周辺の光と影? いまも同じ問題が、同じ形で存在する? しないと思う。ということは、そこに描かれている「未来」というか「決断」も、いまでは「無効」ということだろう。人間の「生き方(正直)」が変わらないものだとしても、そして、そういう古くならないもののなかにこそ新しいものがあるのだとしても(まるで、小津安二郎の「宗方姉妹」の田中絹代のせりふみたいだが)、70年代を舞台にして描いたのでは、「現在の映画」とはいえないだろう。「現在」に対して何かを語りかけることにはならないだろう。
 単に、「私はこんなに完璧に映画をつくることができる」という監督の声が聞こえてくるだけである。それに対して「はい完璧です。完璧以上です」という以外にないのである。
 思い出すのは、「スティング」(ジョージ・ロイ・ヒル監督、ポール・ニューマン+ポール・ニューマン主演)である。あの映画も「完璧」だった。しかし、やはり、なぜ、「現在」この映画を、こんなふうに撮るのか、という疑問が残った。
 で。
 「ホールドオーバーズ」と「スティング」を並べてみたとき、そこに「共通項」があることもわかる。どちらも「現在」を舞台にしているのではなく、半世紀ほど前を舞台にしている。つまり、その登場人物たちは、いずれの場合も「映画に描かれている時代」を直接は知らず、完全に「架空」のものとして向き合うことができる。映画のなかで何が起きようと(映画のなかで、どんな演技をしようと)、それは「現在の彼ら」とは無関係である。完璧な「フィクション」として演じることができる。「あんな演技、あんな表情は、いまとは無関係である」という批判は、誰にも通じない。だって、映画のなかの世界が「いま」ではなく「50年前」という過去なのだから。
 この映画が「スティング」よりも始末に悪いのは、「完璧なフィクション」であるにもかかわらず、そこに「人間性」をからませて、観客を感動させようとしているからである。
 これでは、だめ、と私は書かずにはいられない。
 これは、ある意味では「あんのこと」(入江悠監督、河合優実主演)の対極にある映画なのである。「あんのこと」は、とても感想を書く気持ちになれないほど、暗い映画、登場人物の誰にも共感できない映画なのだが、そこには映画を通して現在と関わり合いたいという欲望が、むき出しの形で存在している。そういう「むき出しの欲望」がないからこそ、「ホールドオーバーズ」は「完璧」なまま、映画を終わることができるのだ。
 いまは、もう見ることのなくなった「THE END」の文字に、私は笑い出してしまった。


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小津安二郎監督「小早川家の秋」「宗方姉妹」

2024-06-22 00:20:32 | 映画

小津安二郎監督「小早川家の秋」「宗方姉妹」

 昔の役者は、みんなうまいなあ。リアリティーそのものに関して言えば、いまの役者の方がうまいのかもしれないが、味が違う。
 「小早川家の秋」のなかで、原節子が、「人間は品行は変えられても、品性は変えられない」というようなことを言うが、なんというか、昔の役者は「品性」を演じる。いまの役者は、「品性のなさ」をさらけ出すことを演技と思っているのかもしれない、とふいに思ったりした。
 その「品性」に関して言えば、たとえば「小早川家の秋」のなかで、原節子と司葉子が会話するとき、いっしょに腰を下ろしたり、立ち上がったりする。その呼吸が、ぴったりそろっている。同じスピード、同じリズムである。「動き」が肉体に染みついている。それが「品性」というものかもしれない。
 これは中村鴈治郎が浪花千栄子の家で、廊下に雑巾がけをするシーンにもあらわれている。中村鴈治郎が実生活で雑巾がけをするかどうかはしらないが、まあ、しないだろう。しかし、その雑巾がけの動きをきちんと「肉体」で表現できる。したことがない動きまで「肉体」にしみこんでいる。なにか、「しつけ」のようなものを感じる。「しつけ」がしっかりしているから、すべてが「さま」になる。和服を着て、街をさっさと歩くシーンが、とてもかっこいい。足が動いているのが、ズボンをはいて歩く男の足よりも、なんというか「自在」に見える。裸で歩いても、あんなふうに足が動いていると見えるかどうかわからない。色っぽいのである。別に、色を売って歩いているわけではないのだが。歌舞伎役者は足が大切だが、いやあ、あんなふうにして足の動きがそのまま肉体そのものを感じさせるなんて、すごいものだなあ。
 脱線したが。
 もちろん「品」にもいろいろあって。「上品」だけが「品」ではない。それこそ「変えられない品性」が問題になるときもあるのだが、これを杉村春子が、とても味わい深く演じる。「減らず口」というか「憎々しい」ことをずけずけ言うのだが、ふいに、そのことばの奥から「なつかしさ」がこみあげてきて、泣きだしてしまう。その突然の変化のなかに、ああ、このひとのなかにも、自分を守って生きていくことの困難さがある、それがこんなふうに暴走するのだとと感じさせてくれる。
 「自分のなかにある何かを守る」が、たぶん「品性」に通じるのだと思う。原節子も司葉子も「自分を守る」のである。そして、そのとき「品性」があらわれる。
 小津の映画に特徴的な「日本家屋」の美しさ、その遠近感のある描写にも、それにつうじる「品性の美しさ」がある。日本の住宅がもっている大切なものを手放さない、という感じが、「品性」となって具体化している。
 ということとは別にして。
 「小早川家の秋」で、えっ、このシーンは何? と思ったのが、笠智衆。烏が多いなあ、誰か死んだのかなあ、というようなことをぽつりともらすのだが。そのシーン、必要? たぶん、なくても映画は完璧である。しかし、小津は、どうしても笠智衆を撮りたかったんだろうなあ。笠智衆は演技するのではなく、いつも「品性」として、そこに存在するのである。
 「宗方姉妹」は、その笠智衆が娘の高峰秀子のことを「こいつは舌を出すんだ。おや、きょうは出さないか。そろそろ出すかな」とからかう。このときの「口調」がやはり「品性」そのものである。いまは、こんな台詞回しができる役者はいないし、役者だけではなく、現実社会のなかでも、そういう口調で他人をからかうことができるひとはいない。
 人間の「品性」がなくなってしまったのだと思わずにはいられない。
 それにしても、高峰秀子はすごいなあ。この映画のなかでは、「芝居」をする。上原謙を前に、上原謙と田中絹代の「過去の恋」を語って見せるのだが、その語りは「芝居」である。映画そのものが「芝居」なのだが、そのなかでもう一度「演じる」。それが、ちゃんと「演じている」をわからせる演技である。そして「劇中劇」ともいえる「一人芝居」のなかに、一歩控えめの呼吸があり、それが「品」となってあらわれている。主観的だけれど、どこかに客観的な要素を残している。どんなときでも主観に溺れない。
 田中絹代にも、絶対的な「品」がある。それは、「古くならないものが新しい」ということばのなかに結晶しているが、これはやはり「自分のなかにあるかわらないものを愛する、大切にする」ということだろう。田中絹代は原節子と比較すると、不透明である。「実体」がある、という感じがすごい。
 それにしても小津の映画の構造はおもしろい。いつも「遠近感」が独特である。日本の家屋の室内だけではなく、それは外の風景を撮るときでも同じである。田中絹代と高峰秀子が薬師寺で弁当を食べるシーン。スクリーンの右側に松の木が半分だけ映っている。それが半分であることによって、映像の「枠」が強調される。その「枠」は「内側」を強調するのではなく、この「枠」の外には広い世界があると知らせる。そして、その「外」と「内」は呼吸している(通い合っている)ということを教える。
 小津の「室内」が狭いのに広いのは、「遠近感」を通して、「室内」が「屋外」と結びついている。「空気」が「内」と「外」を結んでいる、つながっているということを教えてくれるからだ。
 いま書いた「内と外」の関係を、小津の映画の登場人物の「個人」のなかに見ていくと、また、おもしろいものが見えてくるだろうと思う。笠智衆も原節子も、登場人物の「内と外」を演技のなかでしずかに交錯させている。「内」になるものが「品」、「外」にあたるのが「品行(行動)」かもしれないなあ。
 原節子が、司葉子に対して「それがいいと思う、そうなると思っていた」というようなことを言うときの「内」から「外」へ出て行き、司葉子の「内」を支えるもの。さらに、そういうことを強調するように「私は、いまの私のままでいい」という。「私であること」。それが「品」だろうなあ。

 

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ジョナサン・グレイザー監督「関心領域」(つづき)

2024-05-26 13:50:53 | 映画

 きのう書けなかったことのつづき。
 「距離」を考えるとき、きのう触れなかたっふたつのシーンが気にかかる。
 ひとつは、ラストのアウシュビッツ資料館(?)の映像。収容されたユダヤ人の鞄、靴が積み上げられている。その前にガラスの仕切りがある。そのガラスが気になる。私はアウシュビッツを訪問したことがないのでわからないのだが、あるガラスのせいで、ずいぶんこころが落ち着くのではないだろうか。(落ち着くという表現でいいかどうかわからないが、とりあえず書いておく。)もしガラスの仕切りがなかったら、その鞄や靴がもっている匂いが直接肉体に迫ってくるだろう。触感(実際に触れるわけではないが)も、ずいぶん違ってくるだろう。あのガラスによって、「距離」が一定に保たれている。そこに「一定の距離」が生まれてしまう。近づきうるかもしれないのに、近づけない「拒絶の距離」。それは、そこを訪問したひとが「近づけない」と同時に、そこにある鞄や靴も「近づけない」ということである。訪問者からすれば、それは絶対に私には触れてこないという安堵感となるかもしれない。どこかに、自分は「関係がない」という意識を生み出すかもしれない。「関心」がそのまま「関係」にはならないのだ。
 「客観的」になることは大事だ。だが、「主観的」になることも大事なのである。その「主観的」になることを、あのガラスは妨害していないか。これは、映画そのものへの評価とは関係がないことなのかもしれないが、ちょっと気になった。そんなことが可能かどうかわからないが、「フィクション」になったとしても、あのシーンが、ガラス越しではなかったとしたら、とても強い衝撃が生まれたと思う。
 もうひとつは冒頭のシーン。灰色、あるいは黒。私は目が悪いせいかもしれないが、その一面の暗い灰色が、特にスクリーンの端が(上辺だったり、下辺だったり、右だったり、左だったり、隅っこだったりするのだが)、ときどき薄っすらと明るくなる、それが揺れる。ちょうど煙の先端が揺れるように。あれはきっとホロコーストのときの煙を描いているのだと思うが、そのときのカメラは煙の真っ只中にある。風が吹いてきて、煙が揺れるので、ときどきその端っこが明るんで見えるのである。そう思ってみていた。それはまるで自分が焼かれたとしたら、そのときに見る煙と空(光)の関係かもしれないと思った。煙は絶望。光は、それでは希望なのか。そうではないだろう。やっと苦しみから解放されるという望みだとしても、そんなものはことばがつくりだす幻想であって、光を感じたからといってそれが希望であるはずがない。そこには「距離」というものはなく、ただ「真ん中」があるだけなのである。「真ん中」を定義するのが「周辺」の光の揺らぎなのである。
 この映画では、アウシュビッツの「真ん中」が描かれるのは、この冒頭の煙だけてある。見た瞬間に、アウシュビッツの真ん中に放り込まれ、それからあとはアウシュビッツに接続した(距離のない)外側が描かれる。その「真ん中」と最後のアウシュビッツの資料館が、主人公たちの生活を挟み込んでいるという構造なのだが、つまり、「真ん中」がひっくりかえるようにつくられている映画なのだが。
 この煙のシーンにかぶせられた音楽が、私には、どうにも過剰なものに思える。ひとのうめき声とも感じられる、一種、不気味な、不安をあおる音なのだが、このシーンには音がなかった方がよかったのではないか。あったとしても自然の音、風が揺らす木々の葉の音、川の流れる音、鳥のさえずり。人間のやっていることとは無関係に生きている自然の音、あるいはそれされも消してしまう「沈黙」という音。
 「沈黙」にも音がある、というのは、きのう書いた少女が奏でるピアノの音にも通じる。それは、その音楽を書いたひとが絶対に聞くことのなかった音(彼、あるいは彼女にとっては「沈黙」の音)だった。その音楽に重ねられた歌詞(実際には字幕だけ)もまた、その音楽を書いたひとには聞くことのない「沈黙の音」だったし、ピアノをとつとつと弾いている少女にとっても「沈黙の音」だった。そういう「沈黙」が結びつけるこころ、「沈黙」が消してしまう「距離」というものもある。
 アウシュビッツに残されている鞄や靴。その「沈黙の声」は、「沈黙」であるがゆえにガラス越しでも「同じ」かもしれないが(そう言うひとがいるかもしれないが)、私はやはりガラスがない方が「沈黙」が厳しく迫ってくるように感じられる。「沈黙」が匂いのように肉体をつつんでくるように感じられる。

 何に触れるのか、何に触れないのか、何を聞くのか、何を聞かないのか。「客観」ではなく「主観」の問題なのである。「主観」が、問われている。

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ジョナサン・グレイザー監督「関心領域」(★★★★★)

2024-05-25 21:17:19 | 映画

ジョナサン・グレイザー監督「関心領域」(★★★★★)(Tジョイ博多、スクリーン5、2024年05月24日)

監督 ジョナサン・グレイザー 出演 クリスティアン・フリーデル、サンドラ・ヒュラー

 注目したのはふたつのシーン。
 ひとつ目は、リンゴをひそかに配給(?)していた女性が、お礼の楽譜をみつけ、それをピアノで弾いてみるシーン。無残に殺され、死んでいくしかない人間がつくりだした、その音。彼は(彼女かもしれないが)、その音を実際に聞くことはない。音楽家の頭のなかには音が鳴っているかもしれないが、それはあくまでも抽象的なもの。ピアノであれ、人間の声であれ、なにかによって現実の音になる。そして、不思議なことに、その現実の音を聞くとき、私たちは現実の音以外のものをも聞き取る。その音楽をつくったひとのこころ、夢や願いを聞き取る。それをことばにすることはむずかしいが、ことばにならない何か、あるいはことばにしなくてもいい何か。それを聞き取り、そのひととつながる。音を聞いたのか、音楽をつくったひとのことばにならないことばを聞いたのか。これは、区別しなくてもいい。それは便宜上、ふたつわけただけであって、区別できないものだからだ。そして、これは、音楽を書いたひとと音楽を演奏してみたひとが、けっしてあわない、離れているからこそ、強く結びつく。その結びつきに、「距離」がなくなる。
 映画では、この曲に詩がつけられており、歌声が流れる。それは映画のなかの「現実」には存在しない音 (ことば)なのだが、そういう完全に別なものとも結びつき、やはり「距離」というものを消していく。こころは、どんな「距離」をも超越して結びつき、そこからまだ存在しない世界をつくりあげていく力を持っている。短いシーンだが、ほんとうに美しい。
 もうひとつは、クリスティアン・フリーデルがアウシュビッツからベルリン(?)に栄転(?)したあとのシーン。ラストの直前、執務室から出てきた主人公が、階段で吐いてしまう。二回、吐く。どうしてだろうか。アウシュビッツの残酷さがわかったからである。残酷さというような、軽いことばでは言えない、どうしようもない何ものかが肉体に遅いかかって来たからである。こんなことを書くと、ホロコーストに関係した人間を許しているように聞こえるかもしれないが、あえてそう書くのは、ここでもやはり「距離」が問題になるからである。
 この映画の主題は「距離」なのである。
 アウシュビッツにいるとき、そこの所長をしているときは、アウシュビッツの残虐とかれの肉体のあいだには「距離」がない。それが見えない。同じように「距離」のない場所に、美しさがあるからだ。美しい家、美しい妻、美しいこどもたち。庭の緑、豊かな自然。彼は、いつでも、それにどっぷりとつかり、すぐそばにある「美しくないもの」を消してしまう。美しいものに触れていれば、醜く、酷たらしいものは消えると思っている。洗い流せると思っている。自分を清められると思っている。だから、ユダヤ人の骨が流れてきた川から逃げ帰ると、家でからだを洗う。こどもたちのからだも真剣に洗い清める。ユダヤ女性とセックスしたあとはペニスを洗い清める。
 ところがベルリンに来てみると、彼を洗い清めるものがない。彼のまわりには、美しい妻も、美しいこどもたちも、美しい家もない。彼らは、アウシュビッツの家にいることを選び、主人公だけがベルリンに単身赴任(?)している。そして、遠く離れて、その「距離」を思うとき、その「距離」のなかにアウシュビッツが押し寄せてくる。アウシュビッツにいたときは、収容所と家のあいだには「塀」があったが、ベルリンに来てみると、「塀」が見えない。「塀」がアウシュビッツを隠してくれない。「距離」のなかに「塀」が飲み込まれて消え、「塀」を越えてアウシュビッツが迫ってくる。
 そしてそのとき、彼はまた、こんなことも考えているに違いない。美しものを愛し、美しさにこだわった妻。そのこだわりは、夫や家族といっしょにベルリンへ行くことを拒絶した。その拒絶には、醜さはないのか。自己中心的な残酷さはないのか。そして、その自己中心的な美への愛好、そのつまらない感覚こそ、アウシュビッツを存在させたものなのである。ひとのことは知らない。自分が幸福だと感じられるのがいちばん大切。見たいものだけを見るのが人間なのだ、見たくないものは隠して見なかったことにするというのが人間なのである。
 ところで、この「距離」であるが。
 人間の「距離」は、実に、不思議なものである。「近く」にあるときは、「遠く」にあるときよりも簡単に「遠ざける」ことができるのである。隠すことによって、「見なかった/聞かなかった」、あるいは「気づかなかった」と言えるのである。もちろん、それは嘘であるが、人間は簡単に嘘がつけるし、脳は自分の都合がいいように嘘を納得するものである。つまり、嘘に慣れる。嘘と思わなくなる。
 一方「遠く」にあるものは「遠ざける」ことができない。すでに「遠い」から「遠ざける」には意味がない。そればかりか、「遠い」から隠すこともできない。逆に「遠く」にあるものは「近づける」というか、こころが「遠く」までいってしまうのである。「遠い」からこそ、こころが「会ってしまう」のである。こころが会いに行った、「近づいて行った」のだから、そこには嘘がない。もちろん「嘘をつくため(だますため)」に近づいていくひともいないわけではないだろうが、たいていは、ひとはほんとうのこころで近づいていく。
 「近づいたもの」(近くにあるもの)をひとは愛してしまう。塀によってアウシュビッツのホロコーストが遮られ「遠ざけられる」とき、塀に守られた「近くにあるもの」(美しい家、美しいこども)を妻が愛してしまう、そしてそれを手放すことを拒否するのは、とてもとても単純なことなのだ。
 だからこそ、「距離」である。
 主人公の妻、サンドラ・ヒュラーの母は、遠くから娘に会いに来た。そして、その美しい家を見た。しかし、同時に塀の向こうで行われていることを、匂いと音によって知った。匂いや音は「塀」には遮られない。彼女は自分で「隠した」のではないから、「隠されたもの」が気になる。それを「見つけてしまう」。「距離」が「視覚」とは違った形で人間に作用する。そして、その隠された「近さ」(見つけてしまった衝撃)に耐えられずに、ひとりで逃げるように「遠ざかっていく」。「遠ざかる」ことで、自分を守る。クリスティアン・フリーデルやサンドラ・ヒュラーは「遠ざかる」のではなく「塀」によって視線を「遠ざけた」。「距離」を演出したのである。

 さて。
 ふたたび「距離」である。
 アウシュビッツを考えるとき、そこには「時間の距離」があり、また「空間の距離」もある。(日本からは遠い)。また「残酷/残虐」とは何か、という「哲学的距離」もある。ホロコーストの実際の執行者を動かしていたのは「凡庸さ」であるというのは、ハンナ・アーレントの指摘だったが、それはこの映画でも描かれている。美しい家庭がいちばん大切というのは「凡庸な結婚した女性」の考え方のひとつである。「凡庸さ」というのは、だれにとっても非常に身近である。「距離がない」。ここから、どうやって「距離」をつくりだしていくか。その「つくりだした距離(思考のことば)」で、アウシュビッツをどれだけ自分に「近づける」ことができるか。ことばの運動は、時間の距離も空間の距離も、確実にかえることができるはずである。そのための、ことばを運動をはじめなければならない。私はいま、この映画によって試されている。お前は、いったい、どんな「距離」をとろうとしているのか、と。

 

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「落下の解剖学」と「悪は存在しない」

2024-05-19 20:51:51 | 映画

 最近評判になった二本の映画。共通点は、脚本がともに完璧であること。違いは、「落下の解剖学」には偶然というか、発見があるが、「悪は存在しない」には偶然の発見がないということ。
 具体的に言うと。
 「落下の解剖学」は、前に書いたが「音」がキーポイントになっている。起承転結の「転」の部分で、少年の弾くピアノの音が突然透明な輝きを発する。びっくりすると同時に、その瞬間、少年の「こころ」がわかるのだが、驚いているのは私(観客)だけではない。弾いている少年もびっくりしている。自分には、こういう透明な音楽を演奏することができるのだ、と驚いて、自分の弾いた音を聞いている。音楽に限らず、あらゆる芸術に触れているひとは、こういうことを体験したことがあると思う。ぜんぜん、うまくならない。しかし、ある瞬間、何かが自分のなかで起きたかのように、信じられない「作品」が生まれてしまう。その瞬間、自分の可能性を発見する。そのよろこび。
 あれは、単に、長い間練習したから(裁判の間中練習していたから)、当然うまくなったのだという「時間経過」を描いているのではない。何かが突然自分のなかにやって来て、いままで達成できなかったことができてしまったという、一種の「発見」なのである。
 そして、その「発見」がきっかけとなり、少年はそれまで見落としていたものを次々に発見していく。具体的に言うならば、父が車のなかで語ったことばである。あれは、犬のことを語っていたのではなかった。父自身のことを語っていたとわかったとき(発見したとき)、世界が違ったものになってあらわれてきた。世界が美しいものになった。わからなかった世界が、くっきりと見えた。ピアノを弾いたときも、その「音楽」の世界が少年にくっきりと美しく輝いたのだ。あの音は、それを証明している。
 その後、少年がピアノを弾くシーンがなかったことが象徴しているように、あれは「偶然」うまく弾けてしまった美しさであり(つまり、その後、同じ美しさで少年がピアノを弾けるわけではない)、だからこそ、見逃してはいけない(聞き逃してはいけない)重要なポイントなのである。そして、少年はそれを知ったからこそ、偶然気がついた「世界の美しさ」を証言するのである。
 「悪は存在しない」には、こういう「偶然」の発見がない。映画のなかで、だれかが、だれか自身であることを「超越」してしまう瞬間がない。人生にはいろいろな「偶然」があり、それは起きた後で、あれは「必然」だったとわかる。それが「落下の解剖学」にはあるが、「悪は存在しない」には、ない。
 「薪割り」のシーンを「偶然」と見るひとがいるかもしれない。やってみるとむずかしい。言われた通りの姿勢でやると、割れる。気持ちがいい。そこには発見がある、というかもしれない。しかしねえ、あれが男ではなく、女がやって「気持ちよかった」(私は生き方をかえる)というのなら「発見」かもしれないが、男がやったのでは「予定調和」である。それが、くだらない。(ここで、男と女を、こんなふうに「定義」するのは、一種の男女差別かもしれないが。)
 「人間は、こうなふうにして変われるか(こんなふうにして新しく生き始めることができるのか)」ということを、小さな発見(小さな偶然)といっしょに描かれているとき、その作品は傑作になる。そういうものがなければ、ただのウェルメイドの作品である。


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濱口竜介監督「悪は存在しない」(★★★★)

2024-05-04 17:31:11 | 映画

濱口竜介監督「悪は存在しない」(★★★★)(KBCシネマ・スクリーン2、2024年05月04日)

監督 濱口竜介 出演 山の風景

 映画の冒頭、カメラが冬の木立をとらえる。下から、梢を見上げる形で。その木立の緑が、セザンヌの緑に見える。灰色に、とてもよく似合う。森を下からとらえた映画では、黒沢明の「羅生門」を思い出すが、あのぎらぎらした空ではなく、この映画では深く沈んだ緑、灰色と黒に侵食されながら、それでも保たれている緑が、さらに深く沈んで行く。見ているうちに、見上げているのではなく、見下ろしていような感じになる。たぶん、灰色の空のせいで。灰色は、凍った雪の色にも見えるのである。だんだん、私は見上げているのか見下ろしているのかわからなくなる。
 あ、これが、この映画のポイントなのか。「自分の立場」が、いつのまにかわからなくなる、というか、自分の見ているものが、どちらから見ているのかわからなくなるというのが、この映画のポイントなのか。(このことは、あとでも少しふれる。)
 それにつながる象徴的なシーンが、主人公が娘を学校へ迎えに行ったとき、あらわれる。娘はすでに下校していて、男は家へ引き返す。そのときカメラは進行方向(男が見ている前方)ではなく、車が進んできた方向(過去)を映し出す。過去は、どこまでもどこまでも男を追いかけてきて、それがまるで進行方向のように思えてくる。(このシーンは二度ある。)
 この「追いかけてくる過去」が、この映画のテーマなのだが、それをカムフラージュして見せるのが、冒頭の下から見上げた樹木(その緑)と空とのとけあう映像である。とても巧みである。
 さて。
 この映画の「悪は存在しない」という思わせぶりなタイトル。私は嫌いだ。思わせぶりと書いたが、見え透いている。下から見上げているのか、それとも見下ろしているか、と思ってスクリーンを見ていた冒頭のシーンでは、胸が高鳴ったが、走ってきた場所を映し出す車のシーンで、ちょっと見る気力が落ちた。ふつう、車を運転している人の見ている風景は進行方向である。しかし、カメラは逆方向を映し出し、男が「心の目」で見ているのは違うと暗示する。あるいは、あからさまに、告げると言った方がいいか。ここでは「わざと(作為的に)」カメラは逆方向を映しているのである。作為がありすぎ、(意図を説明しすぎ)、私は、とてもいやな気持ちになる。
 こういうことである。
 「悪は存在しない」、では「善は存在するのか」。こう問うと、冒頭のシーンの深みへ通じるのだが、悪と善とを過去と未来と言い換えて比較すると、とても簡単な答えが出る。現在から見ると、「過去は存在する(存在した、つまり「記憶」として存在するが)が、未来は存在しない(過去は実現されたが、未来はまだ実現されていない)」ということである。そして、「未来(善)」を実現するためには何が必要かと考えると、答えはもっと簡単になる。「いま」を守らないと「未来」はやってこない。「過去」は消え去り、取りかえしがつかないが、「未来」は、「いま」あるものを守ることで、これから美しい形であらわれてくる。
 そう見れば、この映画は、とても単純である。
 (映画を動かしている「見せかけ」の動力である、キャンプ場の建設も、「いま」の自然を守らないと、取りかえしがつかないことが起きるかもしれない、ということがテーマになっている。自分の「立ち位置が揺らぐ」というか、違ったものが見えてくるというのは、キャンプ場を開発しようとした都会の男と女にもテキヨウされている。彼らは、開発者の立場だったのだが、男に接しているうちに、だんだん気持ちがかわってくる。見えている世界が違ってくる。)
 男には娘はいるが、妻はいない。(かつては、いた。)どうしていなくなったのか。映画の最後で説明される。
 少女は、銃で撃たれた鹿と向き合っている。傷ついた鹿のとなりには子鹿がいる。傷ついた鹿は、こどもを守ろうとして人間に攻撃的になる。これは少女が体験したことだろう。過去にそういうことがあったのだ。少女と母親(そのとき男もいただろう)は傷ついた鹿の親子に会った。母親は少女を守るために、傷ついた鹿の前に立ちはだかった。それを鹿は、人間の攻撃と見なし、母親に襲いかかった。そのため母は死んだ。少女は、傷ついた鹿は人間に襲いかかるということを知っている。だから、最初は動かずにじっとしている。しかし、銃で撃たれた傷が心配で(帽子で傷を塞いでやりたい、手当てをしたいと思って)、鹿に近づく。
 ここから先は「暗示的」に描かれるだけである。男と同行していた都会の男は、少女を守ろうと動こうとする。動けばさらに危険と知っているので、男は都会の男を押さえ込もうとする。二人が格闘しているあいだに、事件は起こる。どんな事件か、どういう結末か、もう書く必要はない。
 男は、ふたたび「未来」を守れなかったのである。男には「過去」だけが存在する。それは「悪」か。もちろん、「悪」と呼ぶことはできない。「事故」である。そして、その「事故」は「未来」を守ろうとして起こした行動が呼び寄せたものである。「善」を実行しようとして行動したのだが、それは「悪」と呼びたいようなものになって、あらわれてしまった。
 だれだって、そんなことはしたくない。自分のしたことが「悪」だとは認めたくない。自分が「悪い結果」の原因だとは認めたくない。そして、だれも彼が(あるいは彼女が)したことが「悪」であるとは言わない。「悪は存在しない」と言う。そう言われたからといって、それでは、その行為をした人が救われるわけではない。

 「ドライブ・マイ・カー」を見たときも感じたのだが、ああ、この濱口竜介というのは、どこまでもどこまでも「意図的」なのだ。「作為的」なのだ。素人役者をつかい、わざと「疵」を残し、その「疵」によって、映像をいっそう美しく見せる。いや、実際、自然の風景はとても美しい。私は山の中で育ったからそう感じるのかもしれないが、あ、この色、この形、この空気の感じは、知っているぞ、私はこの色、この形、この音が、この空気が好きだった、心底共感してしまう。(だから★4個)。そして、だからこそ、とてもいやなのである。そうした美しいものにさしはさまれた「作為」が。
 たしかに、人間の行為に「悪は存在しない」。その考えに私は与する。しかし、あるとき、人間の行為には「作為が存在する」。ときには「作為は存在しないと見せかける作為」というふうに、手の込んだものまであらわれる。
 そうであるなら、最初から「作為」を前面に出して映画をつくればいいのだ。「作為」だけで映画をつくろうとしたが、どうしても「作為」ではないものがあらわれてしまった。そういう映画を見てみたいなあ。「作為」をとおしてしか具体化できないもの、浮かび上がらせることのできない「ほんとう」というものあるのだから。


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「オッペンハイマー」の問題点、その2

2024-03-30 17:30:20 | 映画

 物理学者、数学者は、核分裂、核融合の夢を見るとき、あの映画のような光が飛び回るシーンを夢見るか、という疑問を書いた。私は彼らはイメージではなく、数式で夢見ると思ったからだ。これに対し、ある友人が「それではふつうのひとにはわからない」と言った。なるほど。では、ふつうのひとはあのシーンで、核分裂や核融合の仕組み、あるいはブラックホールのことがわかるのだろうか。私はふつうのひとのように想像力が豊かではないのか、あんなシーンを見ても、何も感じない。「もの」のなかで、電子や素粒子があんなふうに動いているとは想像できない。
 たしかに数式を書き並べられても、それが何を意味するかわからないが、しかし、彼らは数式で世界を理解しているということは理解できる。だって、アインシュタインはオッペンハイマーが持ってきた数式を一目見ただけで、それが何を意味しているか理解したし、別のシーンではある考えが提案されるとオッペンハイマーは黒板にすぐに数式を書き始めた。ほかのときも、黒板に数式を書いて、考えを整理している。だったら、夢のなかでもきっと数式を書いているに違いない。どこからか、数式があらわれてきて、それが消えていく、それを必死になってメモしている、覚えようとしている。それが数学者、理論物理学者の真実ではないのか。少なくとも、奇妙な、「2001年宇宙の旅」の模倣のようなシーン以外では、彼らの「頭脳」のあり方は、そんなふうに描かれていた。
 脱線して、「2001年宇宙の旅」について書いておくと、私がいちばん感動したのは、HALが宇宙飛行士にメモリーを一個ずつ削除されるとき、必死になって昔覚えた「デイジー」の歌を思い出し歌うシーンである。大きなカセットテープ(これを知らない若者もいるかもしれない)のようなメモリーの一つずつに、何かのメモリーが記録されており、それが連携している。そのメモリーが一つずつ失われ、HALは何も計算できなくなる、実行できなくなる。そのことが、「具体的」に、肉体に迫る形で表現されていた。あのとき、私はHALの「肉体」そのものを感じ、びっくりした。
 だから、何かアイデアが閃いた瞬間に、主人公たちが次々に数式を展開する、ある結論が提示されると、それを数式を自分で展開しながら確認するというシーンが映画のなかで展開されれば、私は、それに感動したと思う。主人公たちの肉体の動きを感じたと思う。その数式が、ふつうのひとにわかるかどうかなんて、関係がない。
 タイトルは忘れたが、アメリカのアポロ計画を裏側で支えた数学者(女性たち)を描いた映画でも、ふつうのひとにわかるかどうかなんか気にしないで、巨大な黒板に数式がびっしりと書かれるシーンがあったと思う。数式が何を意味しているか、その計算があっているかどうか、ふつうのひとにはわからないだろう。私ももちろんわからない。けれど、あ、すごい、彼女たちはこんなに長い数式を頭の中から引き出し、それを点検することができるのだということは、わかる。肉体の動きがわかるのである。それが自分にはできないこともわかり、わかるから、「すごい」と思う。「オンペンハイマー」で描かれていたの核分裂、核融合、物質内の電子や素粒子の動きは、そっくりそのままではないが、ある映像なら、ふつうのひとにも描かれるだろう、想像できるだろう。そうであるなら、それはやっぱり、「見え透いたうそ」なのである。観客を馬鹿にした「映像操作」なのである。

 この映画は、もうひとつ、観客を馬鹿にしている点がある。
 この映画は、原爆の開発と同時に、アメリカで起きた「赤狩り」を描いている。オッペンハイマーは共産主義の運動にある程度共感していた。そして、共産党員とつながりもあった。実際に「赤狩り」の対象にもなった。しかし、実際は、共産党員ではなかった。アメリカを裏切っていなかった。だから、一時失脚したが、最期には復権した、ということが、権力闘争をからめて描かれている。ここには、なんとも言えない気持ちの悪い、アメリカ特有の「隠蔽」がある。
 オッペンハイマーは共産党員ではなかった。共産主義者ではなかった。だから「正しい」。この「論理」はアメリカ主義そのものだろう。
 もしオッペンハイマーが共産主義者であり、共産主義者だけれど原爆を開発し、戦争終結を早めることに成功した(アメリカでは、たしか、原子爆弾は戦争終結早める効果があったという評価が存在する)というのであれば、彼はどのように「再評価」されるのだろうか。オッペンハイマーは彼の知っている知識を共産主義の国(ソ連)に提供し、その後の核配備競争を押し進め、アメリカを危機に陥れたとして弾圧されるのだろうか。
 しかし、オッペンハイマーが彼の知識を共産主義の国家のだれかに知識を提供しなくても、それぞれの国の物理学者、数学者は、核兵器の開発に成功しただろう。だいたい、その後の世界の動きを見れば、わかる。インドやパキスタン、イスラエル、さらに核兵器開発能力をもっているいくつかの国は、かならずしも共産主義の国ではない。そして、その国の科学者は、何もオッペンハイマーの知識だけを借りて核兵器をもっているわけではない。
 この映画は、明確に言っているわけではないが、暗に「アメリカ、あるいはその同盟国が核兵器を持つのは世界の安全に役立っているが、共産主義の国が核兵器を持つのは世界を危険に陥れることであり、許すことができない」と言っている。それがオッペンハイマー復権のほんとうの理由だ。この、明確にしない「アメリカ絶対主義」、共産主義の国が核兵器を持つことを許してはならないという思想こそがいちばん危険な問題である。そして、それを明確に言わないところが、とても陰険で、とても危険である。
 映画をよく見てみるといい。この映画では、共産主義のどこに問題があるかはいっさい描かれていない。共産主義だからダメ、共産党だからダメと、批判さえも放棄して、ただ主張している。アメリカは「自由主義」の国だから、それがいちばん。それ以外の考えは認めない、と言っているだけである。アメリカは「自由主義」の国家ではなく、「アメリカ第一主義(アメリカ絶対主義)」の国家である。
 この問題を脇に置いたまま、この映画を評価することはできない。
 この問題をごまかすために、赤狩りの問題を、「権力闘争」のドラマに仕立てているのである。私が、この権力闘争ドラマだけがおもしろいと思うのは、そのドラマを「落下の解剖学」のようにもっと掘り下げていけば、赤狩りの本質、アメリカ自由主義の本質が、別の形で浮き彫りになる可能性があると感じるからだ。いまのままでは、見えそうで見えない「ヒント」の「ヒント」がありそうな感じがするだけだが。


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クリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」(★)

2024-03-29 22:05:21 | 映画

クリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」(★)(Tジョイ博多、スクリーン9、2024年03月29日)

監督 クリストファー・ノーラン 出演 キリアン・マーフィ、ロバート・ダウニー・Jr、エミリー・ブラント

 私は数学者でも物理学者でもないから、私の想像が間違っているのかもしれないが、オッペンハイマー(キリアン・マーフィ)の頭の中で繰り広げられる「核爆発」の映像(イメージ)がなんとも理解できない。星が爆発し(死に)、ブラックホールが誕生するという映像(イメージ)も信じがたい。あんな、アナログのイメージで物理世界を見ているのか。私は、勝手な想像だが、数学者や理論物理学者は「数学」(数字の動き)で世界をとらえていると思っていた。頭の中で、つぎつぎに数式が動いていく。その変化、そのときの美しさに夢中になっている。いまでも、そう思っている。彼らの頭のなかには、光も色もない。数式だけがある。これを象徴的にあらわしているのが、ちらりと出て来るアインシュタイン。彼は、オッペンハイマーの持ってきた「数式」を一目見ただけで、それがどんな運動(動き)をあらわしているか、意味しているかを理解する。映像なんか、見はしないのだ。だからこそ言うのだが、この映画のなかで繰り広げられる「2001年宇宙の旅」のつづきのような映像は、数学や物理のことを知らない映画監督の「空想」にしか見えない。
 で、このことと逆説的に関係するのだが。
 核爆弾投下後に苦悩するオッペンハイマーの、苦悩の根拠とでもいうべきものが、なんとも「空想的」で説得力がない。広島・長崎について語る部分だが、ここでは星の誕生、星の死の映像の裏返しのように、彼は「死者の数」を口にする。直後の死者が何人、その後の死者が何人。そこには「数字」しかない。実際の「人間」がいない。死んでいく人間の映像がない。彼は、アメリカ政府(アメリカ軍?)の主張している「死者の数」に対して抗議して、「もっと多い」と主張するのだが、この「数字だけの反論」のシーンで、私は、思わず何かを投げつけたくなった。「ばかやろう」と声を出しそうになった。
 途中に、原爆で皮膚がただれ、はがれていく映像があるが、それは原爆被害の実情を矮小化して描いていないか。映像の「うそ」が、この映画を支配している。この映画を見たアメリカ人は(あるいはほかの外国人でもいいが)、この映画で、広島・長崎の惨劇を理解できるのか。オッペンハイマーが口にした死者の数の衝撃を理解できるか。たとえば5万人と10万人の違い。これは、頭でなら理解できるが、肉体では理解しがたい。5万人と5万1人では、もっとわけがわからなくなる。しかし、死んでいくときは、いつでも1人である。それは、きっと死んでいく人、その肉親や友人にしか識別できないひとりである。そのことを多くのアメリカ人、この映画を称賛するひとたちは決して知ることはないだろう。
 この映画では、原爆を開発してしまったオッペンハイマーの苦悩を描いていることに「なっている」が、その苦悩は「理論」の苦悩にすぎない。「可能性」の苦悩にすぎない。原爆は(そして水爆)は多くの市民を殺してしまうという「理論」の苦悩にすぎない。だが、死んでいくひとは「理論」で死ぬのではない。肉体そのものが破壊されて死んでいくのである。その肉体には、オッペンハイマーはどう思っているか知らないが(どう思っているか映画では描かれていないが)、ひとりひとりに名前がある。先に書いたことの繰り返しになってしまうが、10万人というとき、そこには一人一人はいないが、その10万人のひとりひとりの名前を読み上げてみるといい。そして、その一人一人にはさらにそれにつながる多くの人がいる。死んだ人の悲しみ。親しい人を失った人の悲しみ。その悲しむ人、一人一人にも名前がある。それを、オッペンハイマーは声に出して言うことができるか。できないだろう。「現実」とは、そういう、実際に肉体でかかわろうとすると手に負えないものでいっぱいだ。
 オッペンハイマーの苦悩を描くのなら、そういうところまで掘り下げないといけない。この映画は、原爆開発計画の裏側(そのときのアメリカの野心家たちの人間関係)を描いているにすぎない。「原爆」は、その野心的な人間ドラマの「飾り物」になっている。オッペンハイマーの妻(エミリー・ブラント)の「戦わなければいけない」ということばが象徴的だが、アメリカで成功するには「人間関係で戦わなければならない」のである。その「過酷な戦い」を描いてはいるが、それはオッペンハイマーの原爆を開発してしまった苦悩そのものではない。巧妙なすり替えが、映画を支配している。
 こんな、ごまかし、空想に酔って、オッペンハイマー(原爆開発)やアメリカに「良心(反省するこころ)」があると「宣伝」するのは、とてもおそろしい。アメリカには「良心」がある、という「宣伝」は、これからもつぎつぎに繰り広げられるだろうが、強欲主義を隠すための「良心」に、私は絶対に与することはできない。

 この感想は、映画の感想ではなかったかもしれない。
 映画として、もし、見どころがあるとしたら、アメリカ強欲主義の人間関係の、なんともリアルな部分をロバート・ダウニー・Jrが熱演していたことだ。彼がいたから、この映画は強欲主義のアメリカ人の「生き方」を描いた映画だとわかる。


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「転落の解剖学」(3)

2024-02-29 13:18:18 | 映画

 他殺か自殺か。裁判(初審)は自殺と判断した。ストーリーの「展開」に満足するだけの観客なら、この映画の結末は「腑に落ちない」だろう。すっきりしないだろう。「ああ、よかった」と満足しないだろう。
 しかし、映画に限らず、どんな作品であり、あらゆる評価は終わったところからはじまる。終わったところから受け手が何を考えるか。監督も役者も、もう動かない。観客を誘導しない。動くのは観客の考え(ことば)だけである。
 さて。私の考えるのは、こういうことである。
 男が自殺した。「事実」がそうであるとして、女(妻)は本当に自由になれるか。「無罪」判決が出たからといって、女は本当に自由になったのか、という問題が残る。
 簡単に言い換えれば、女には、なぜ自殺を防ぐことができなかったのか、夫をなぜ救えなかったのかという問題が残る。これは、たとえ夫を憎んでいたとしても、必ず残る。いのちというのは、それくらいに重いものである。そして自殺の原因は自分にあるのではないか、という疑念に変わる。男は女との生活を苦にして自殺したのではないか、という不安が募ってくる。実際、女と男は不仲だった。それは「秘密」ではなく、もう誰もが知っていることである。女は「殺していない」、けれど男は「女との生活を苦にして自殺した」と誰もが考える。女が推定する原因よりも、他人の推定する原因の方が、はっきりしている。そして、それがはっきりしているからこそ「無罪」になった。こういう結末で、女が「すっきり」した気持ちになれるわけがない。どうしても、「自分のせいだ」と感じてしまう。これは、たぶん、実際に女が殺したことよりも、重くのしかかってくるに違いない。
 女は、結局「救われない」のである。社会的(法律的)には「無実/無罪」。しかし、心理的には「有罪」と考えてしまうだろう。この「心理的有罪」から、どう立ち直るか。これは、とてもむずかしい。「過去」は常に「現在」のなかに侵入し、現在を作り上げ、さらに「未来」を決定する。「過去」は肉体から切り離せないのである。
 女は少年のように「結論」を出せない。夫は、「決意」して自殺したのだとは「結論」できない。少年は音楽と犬を頼りに「結論」を出したが、女は何を頼りに「結論」を出せばいいのかわからない。少年は父が自殺した要因のひとつに自分の障害があるかもしれないが、しかし「自分のせい」ではない、と確信している。父の残したことばは、単に「少年を守っているものがいなくなるときがある」と言うだけで、少年を責めてはいない。逆に、将来を守ろうとして、少年に語りかけている。少年は「愛されている」と知ったのだ。確信したのだ。
 私が感動した少年のピアノの音に対して、ある人が、「事件から一年たっている。一年間練習すれば、上手に演奏できるようになる」と言った。それは、たしかに一理ある。しかし、音楽は「技巧(技術)」ではない。同時に「こころ」でもある。あの少年のピアノの音に「こころ」を聞き取るか、技巧の上達を聞き取るか。これは、もちろん、観客に任されている。すべては、すでに「完結」している。これから先を考えるのは観客の仕事である。
 これは「夫に自殺された女(妻)」の「こころ」をどう感じるかにもつながる。犬は「夫が自殺した女」に寄り添うのではない。「夫に自殺された女」に寄り添うのである。「夫に自殺され」、女のこころは不安定で弱くなっている。それがわかって、犬は女に近づく。女は「ああ、来てくれたんだね」と犬を迎え入れる。

 蛇足だが。「犬の名演技」について。
 アスピリンを飲んで、犬が瀕死になる。白目を剥いて、動けない。あのシーンを、私は「名演」とは思わない。たしかに「迫真」の映像である。どうやって撮ったかのかわからない。コンタクトレンズをつかったかもしれないし、ホンモノの犬ではなく精巧な人形かもしれない。だから、犬が実際に、アスピリンを吐くシーンには映像はなく、音だけである。あのシーンは、ストーリーには重要だが(男がアスピリンを飲んで吐いたことがあるという女の証言を裏付けるためになくてはならないものである。犬は男の吐瀉物を食べたのだろう、一時、ぼうっとしていたときがある。それを少年は思い出す)、そういう「ストーリーの説明」ではなく、「脇」に引いたときの動きがすばらしい。
 「事件」後、家にいろんな人が出入りする。その捜査を、離れたところから伏せたままじっと見守っている目、ラストシーンの女の寝室へ入ってくる足音、ベッドにのぼり、女に寄り添い、犬に触れてくる女の手を受け入れるときの「静かさ」がとてもいい。犬は、こころを読む動物である。「守る」という行動は、とても「静かな」ものなのである。
 「事件」を予兆させる激しい音楽、法廷で展開される激しい「口論」。その一方で、この映画はとても「静かな何か」を非常に丁寧に表現している。

 

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「落下の解剖学」(つづき)

2024-02-27 12:07:49 | 映画

 前回書いた感想の「つづき」。というよりも、前回書いたものは「メモ」である。

 この映画は「音」が全体を動かしている。いわば、映画のエネルギー源は「音」である。「ストーリー」の本質は、音のなかにある。
 象徴的なシーンが、前回も書いた少年の弾くピアノの音。音楽。練習しているときは、ぎこちない音楽である。ところが、最終証言の前に弾くそのピアノの音が、一瞬、透明な音楽、とても美しい音楽にかわる。これは少年の心が「澄みきった」ことを象徴している。少年には事件のすべてがわかったのである。この「わかった」は、少年が「結論を出した」ということである。
 それを裏付けるのが、判決の日のテレビ放送。少年の家でもテレビをつけている。しかし、そのときレポーターの声が聞こえない。少年は判決を聞く必要がないのだ。母親が無罪かどうか、裁判がどう判断するかは関係がない。少年のこころは、すでに判断を下している。どちらであっても、少年は揺るがない。
 このあと、観客にもわかるように判決を知らせる「声」が流れるが、それは少年にはどうでもいいことである。
 この透明な音楽の美しさと、音のないテレビの対比が、とてもすばらしい。あのとき、少年の耳には、彼が演奏した、あの音楽が静かに響いていたのだと私は思った。すべての雑音(他人の声)をかき消してしまう絶対沈黙のような、あの美しいピアノの音が。

 この音、あるいは自然の音(風の音、雨の音)のほかに「声」という「音」がある。「声」は「ことば」であり、「意味」を持っている。しかし、その「意味」は「正確」ではない。
 あの「11人の怒れる男たち」でも陪審員のひとりが討論の最中に「殺してやる」と口走ることがあるが、それは「殺す」という意味ではない。
 だから「夫婦げんか」の「声(ことば)」が録音されていて、それが実際に再現されたとしても、その「ことば」のすべてが「文字通り」の意味ではない。その場の「文脈」と同時に、そのことばが出でくるまでの「文脈」(夫婦のひとりひとりの文脈)がある。
 この問題は、少年の最終証言の「父のことば」についても言える。少年は最初、それを犬の問題だと思っていた。しかし、実は犬について語ることで、父が自分自身について語っていたと「理解する」、解釈し、そう判断する。大事なのは、ここでも少年の判断である。「事実」は、だれにもわからない。
 そして、少年だけは「わかっている」。自分が「判断した」ということを。

 もうひとつ、この映画には「見どころ」がある。ほんとうのラストシーン。女(母)が寝ていると、犬が近づいてくる。足音で近づいてくるところから表現している。(これも、大切。まず「音」で、これから起きることをこの映画は伝える。それが徹底している。)その犬なのだが。
 犬というのは、基本的に「ボス」に従う。しかし、この映画の犬は、家族、父・母・こどものだれのそばにいたか。父のそばでも、母のそばでもなく、こどものそばにいた。父がこどもに語ったように、犬はこどもを守っていた。この犬は「ボス」に従うのではなく、家族のなかでいちばん弱い人のそばにいて、そのひとを支える存在だったのである。
 その犬が最後になって、少年ではなく、母のベッドへやってくる。犬は知っている。母がいちばん弱い存在だと。少年は「母は無罪である、父は自殺したのだ」と判断した、いや決断した、決意した。そして、「強い人間」に生まれ変わった。「無罪」という判決は出たが、「事実」はだれも知らない。しかし、犬は知っているのだ。犬にはわかっているのだ。こころが揺れている母のそばで、それを支えようと決意して、少年のそばを離れ、母のところへやってきたのである。いままでいろいろな犬を映画のなかで見てきたが、このラストの「名演」には、心底感激してしまう。もちろん監督の「演出」というか、ストーリーなのだが、犬が自分で判断してやってきたような感じだ。ちょうど、少年が自分で「結論」を出したように。

 これは、もちろん私の「解釈」である。私は、母(妻)が夫(父、男)を殺害したと思っているが、「事実」はわからない。裁判で「判決」が出れば、それが「事実」ということに、社会的にはなってしまうが、裁判には「誤審」がつきものである。
 「事実」は、本人にしかわからない。
 これは逆に言えば、母が父を殺したのだとしても、少年は、父は自殺した。母は殺していないと「信じる」。彼のなかでは「事実」は「父親は自殺した」なのである。そうこころが決めたとき、少年はあの美しい音楽に到達した。私が、あのピアノのシーンをとても美しいと書く理由はそこにある。ひとには、ひとそれぞれの「真実」があり、それは他人の判断とは関係がない。自分が「真実」を発見するかどうかがいちばん大事なのだ。
 そして私は、妻が夫を殺害したと信じているが、そう信じていてもなお、いや、妻が夫を殺害したと信じるからこそ、少年が「父は自殺したのだ、母は父を殺害していない」という判断に与するのである。とてもいい判断だと納得するのである。
 この映画を「裁判もの」というよりも、「少年の成長物語」と呼ぶのは、そういう意味である。少年は視力障害のある弱い少年ではなく、自分が下した判断に従って「生きていく」ことを決意したのである。その決意は、何よりも尊いものだと思う。

 あのピアノの音を聞き逃すと、この映画は何がなんだかわからなくなる。あの一瞬に、観客が何を思うか。それがこの映画の「決め手」である。

 

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「世界のおきく」のつづき。

2024-02-27 12:04:09 | 映画

 「世界のおきく」に問題があるとすれば、「さぼる」ということば以上に大きな問題がある。「さぼる」は「表現されたミス」だが、もう一つの問題は「表現されなかった何か」にある。「循環型の世界」を描いたと傑作といわれる映画だが、あの映画には「描かれなかった大事なもの」がある。
 ユーチューブの「批判者」は「糞尿のつまった樽(桶)を手で触るなんて、おかしい。汚いだろう」と言っていたが、問題は、その「汚い糞」をどうやって「美しい肉体」から引き離すか。つまり、どうやって「肉体」を清潔に保つか。糞をしたあと、どうやって、肉体にこびりついている「汚れ」を引き剥がしたか。
 いまならトイレットペーパーがある。ウォシュレット(これは、商品名か)というさらに進んだ装置もある。江戸時代は、どうしていた? ウォシュレットがないのはもちろん、トイレットペーパーなんて、存在しない。紙は貴重品だ。それが証拠に、ある映画では主人公の友達は最初は「反故紙」をあつめて、紙屋へ売りにいくということを生業にしていた。そういうことが成り立つくらい、紙は貴重だった。
 それは前回も書いたように、東京オリンピックがあったころまでは、(都会ではどうか知らないが)、田舎では「常識」だった。そのころは、田舎はまだ「江戸時代」だった。もちろん、江戸時代にはなかった新聞紙というものもあって、ある家ではトイレに新聞紙を切ったものを備えてあったかもしれない。尻を拭くために。しかし、その新聞紙は、新聞が読まれたあとすぐにトイレにやってきたのではない。弁当をつつむかみとしてつかわれ、あるいは子供が習字の練習をする紙としてつかわれたあとだったのだ。新聞紙に毛筆で文字を書くと筆先が傷むが、「白紙」は清書を書くためのものであって、練習をするためのものではなかった。
 江戸時代がつづいていた私の田舎では、どうしていたか。たいていは「藁」をたたいて軟らかくしたものをつかっていた。「お父は土間で藁打ち仕事」という歌詞が「母さんの歌」のなかに出てくるが、それは父が土間で打った藁だったかもしれない。しかし、藁も貴重品だから、糞をぬぐうのにはもったいないかもしれない。名前は知らないが、葉っぱの大きな蔓草がある。それを野山からあつめてきて、トイレットペーパーがわりにしている家もあった。「縄」をまたいで、糞をぬぐう、というのも聞いたことがある。(これは、私は残念ながら見たことはない。)たしか道元の「正法眼蔵」だったか、その弟子が書いた「正法眼蔵見聞録」には木のへらで糞をこそげ落とすという方法が書かれていた。さらに、そのつかったへらをどうするか、どうやって次につかうひとのためにととのえるか、そのあとで、手をきちんと洗うこと、とも。糞を、糞のこびりついた尻をどうするか、はとても大事な問題なのだ。道元のような哲学者が、そんなことまで言っているのだ。(道元の時代と江戸時代では、事情が違うかもしれないが。)
 その大事な問題が、「世界のおきく」では描かれていない。トイレ(その当時はトイレとはいわなかったが)に入り、糞をするシーンはあるが、尻を拭くシーンはない。尻を拭くとき何をつかったかは、もちろん描かれていない。
 こういうことを描かないから、おきくの食べているご飯が白すぎる、とか、糞尿のつまった樽(桶)を手で持つなんておかしい、足で蹴れ、というようなとんでもないことばが「批評」としてまかりとおるのだ。糞は汚いかもしれないが、だから手ではなく足をつかえという論理はおかしいのだ。いったい誰が足で尻を拭いただろうか。大事なものは手で取り扱うのである。

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ジュスティーヌ・トリエ監督「落下の解剖学」

2024-02-23 23:06:24 | 映画

ジュスティーヌ・トリエ監督「落下の解剖学」(2024年02月23日、キノシネマ天神、スクリーン3)

 山荘で男が死ぬ。自殺か、他殺か、目撃者はいない。第一発見者は男の息子、視覚障害がある。殺人なら男の妻が犯人だ。裁判になる。裁判劇のようだが、、、、。

 映画が始まってすぐ、男の妻がインタビューを受けている時、大音響の音楽。男(夫)が大工仕事をしながら、かけている。この音楽を聴いた瞬間から、この映画は映像ではなく、音の映画だと気づく。

 実に繊細に音が拾われている。山荘での会話には屋外の風の音が混じりこむ。必要がない音だが、観客に耳をすませと要求する。音を聞き逃すな、と。

 実際、裁判の最初のクライマックスは、男が録音していた夫婦喧嘩の声、物音である。それを、どう理解するか。

 しかし、これは見かけのトリックというか、ほんとうの見せ場ではない。

 ほんとうの見せ場というか、耳をぐいとつかんで離さないのは、少年がラスト近くで弾くピアノ。これがすばらしい。いつも練習している曲だが、練習だから上手ではない。それがたどたどしい音から、数秒、実に透明な、美しい音楽にかわる。

 この瞬間、映画の結末、裁判の結果がはっきりとわかる。

 そして、音楽が予告したとおりの判決になるのだが、それで終わりではない。

 その結末は、真実かどうかわからない。

 わかるのは、それが少年の聴いた(見たではない)事実、少年の心が決めた事実であるということだ。それを、判決前の少年が弾くピアノの音が象徴している。

 あの音、ああああ後思わず声に出したいくらいに素晴らしい音。あの音を聞くために、もう一度、見てもいいかなあ、と思う。

 そして、おまけ。

 いつも少年に寄り添っている犬が、ほんとうのラストシーンで、最後の大活躍。少年のこころを代弁する。その時も、犬の歩く足音が効果的につかわれている。

 最初から最後まで、一つの音も聴き逃してはいけない映画。

 だからこそ、少年を視覚障害という設定にしている。そして、これは、少年の成長物語でもある。裁判劇ではなく、映画でしか表現できない音のドラマである。

 

 

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ビクトル・エリセ監督『瞳をとじて』 (★★★★★)

2024-02-09 21:22:48 | 映画

ビクトル・エリセ監督『瞳をとじて』 (★★★★★)(キノシネマ天神スクリーン3、2024年02月09日)

監督 ビクトル・エリセ 出演 マノロ・ソロ、ホセ・コロナド、アナ・トレント

 アナ・トレントが、また「アナ」という役で出演している、というのは、もしかするとどうでもいいことではなく、とても重要なことかもしれない。テーマが「記憶」だからね。私は、アナ・トレントはいつ出てくるんだ、出てこないんじゃないかと、半分不安な気持ちで見ていた。というのも、最初の部分は、なんといえばいいのか、いかにも「仕掛け」という感じのつくり方になっているからだ。人間を見せるというよりも、「ストーリー」を仕掛けの新しさで見せるという映画に見えなくもないからだ。「哀れなるものたち」を、ちょっと思い出してしまったのだ。
 しかし。
 後半がすごいなあ。映画であることを忘れて、どきどきしてしまった。不安になってしまった。いったい、どうなるのか。
 どんな人間でも、死んだときからほんとうの「物語」が始まる。だから「渋江抽斎」で渋江抽斎が途中で死んでしまうのは必然なのだ。ソクラテスも、死んだところから始まる。プラトンがソクラテスのことばを書き始める。キリストも、死んだところから「物語/新約聖書」が始まる。しかし、この映画では、主人公は死んでいない。生きていることがわかる。そこから、ほんとうの「物語」が始まるのだが、生きているから語り手の思う通りにはならない。「脚色」ができない。「生きている主人公」と交渉が始まり、その交渉が新しい人生になるのだが、その新しい人生というのは「過去(記憶)」を取り戻すということなのだ。そしてそれは「死んでいたかもしれないひと」の「過去」だけではなく、いまを生きているひとの「過去」を取り戻すこと、「過去」を生きなおすことなのだ。だれも知らない「いま」が始まるのだ。
 こんなことを書くとややこしくなるから、もう書かないが。
 何がびっくりといって、映画なのに映画であることを忘れてしまう。ドキュメントというのとも違う。現実に参加させられてしまう。この映画を見るとき、私はマノロ・ソロなのか、ホセ・コロナドなのか、アナ・トレントなのか。あるいは、他の登場人物なのか。そんなことは、どうでもいい。スクリーンに展開する「時間」に引きずり込まれてしまう。「記憶」はどのようにして現実(現在)の中に噴出してくるものなのか、噴出してくる記憶(過去)はほんとうに過去なのか、あるいは新しい現在(現実)なのか。
 好きなシーンはいろいろあるが、やはりクライマックスがすごい。ホセ・コロナドが瞳を閉じる前、スクリーンを見ながら、一瞬「つばを飲みこむ」のように喉が動く。何の説明もないのだが、このときの肉体の緊張感がたまらない。思わず、私もつばを飲み込んでしまう。そして、最後のシーンで、つられて瞳を閉じてしまう。そして、あわてて目を開けて、まだホセ・コロナドが目を閉じているのを見る。「ああ」と声が、こころのなかで漏れてしまう。
 音楽もとてもいい。「バックグラウンド」でありながら、「現実」そのものとして動く。その関係は「記憶」と「現在」の関係のように、動き始めた瞬間に「バックグラウンド」ではなく「現実」を深くえぐる力になる。「現実」をえぐり、過去(背景)を引っ張りだす感じだ。
 今年のベスト1、と私は思う。まだ2024年が始まったばかりだが。(私はせいぜい10本くらいしか見ることができないだろうけれど。)

 

 

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