詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

オリバー・パーカー監督「2度目のはなればなれ」

2024-10-26 17:15:28 | 映画

オリバー・パーカー監督「2度目のはなればなれ」(★★★★、キノシネマ天神、スクリーン2、2024年10月26日)

監督 オリバー・パーカー 出演 マイケル・ケイン、グレンダ・ジャクソン

 映画がはじまってすぐ、あれっと思う。映像が少しかわっている。いまの映画は「市民ケーン」以降、スクリーンの全体がくっきりと映し出されるのがふつうである。ところが、この映画は、「ぼける」。遠景に焦点があたっているときは近景がぼける。近景に焦点があたっているときは遠景がぼける。言いなおせば、「視野」が狭い。しかし、「視野が狭い」という印象はおきない。たぶん、「視覚」というものは、そういうものなのだろう。見たいものを見る。見たくないものは、存在していても見ない。これは、高齢になるとますますその傾向が強くなるから、映画は「老人の視点(老人の視野)」を強調しているともいえる。
 で、これは私がうっかりしていたのだが、最後は、その「狭い視野」が消えて、言いなおすと「ぼやける」が消えて、全部がくっきり映し出されていたかもしれない。これは私の目が「ぼやける/くっきり」の世界になれてしまって、そのことを意識しなくなったのかもしれないが、そうではなくて、ほんとうに「全部がくっきり」にかわっていたのかもしれない。そして、その「全部がくっきり」が、主人公のかかえていた問題が解決した、ハッピーエンディングになったということを象徴しているかもしれない。だから、このことは、最後のシーンの「くっきり」は保留にしておくが……。

 この映画で、私がいちばん感動したのは、主人公がノルマンディーで元ドイツ兵と出会うシーンである。かつての敵。殺し合った関係。しかし、そのとき、そこに「憎しみ」は存在しない。ただ「悲しみ」だけが共有される。不思議な「和解」が一瞬にして、全体をつつむ。
 何があったのか。
 主人公が、ふと漏らすことばがある。「無駄なことをしてきた」。何が無駄だったのか。殺し合ったことである。戦争の過程で、何人もの人間が死んだ。殺そうとして殺した人間(敵)もいるが、殺すつもりがなかったのに死なせてしまった人間もいる。ただ戦争を遂行する(兵士の役割を果たす)ということだけを考えていたのだが、それが仲間を死に追いやったということもある。もし戦争をしなかったら、そういうことはなかったのである。
 それはイギリス人もドイツ人もかわらないだろう。悲劇を体験してきた人間だけが共有する「実感」だろう。
 このことを、多くのことばをつかわず、ただ見つめ合い、テーブルの上で手を重ね合うという行動だけで表現していた。とても美しい。
 この、主人公の漏らした「無駄」ということばを、主人公の妻は、こんな形で繰り返す。
 「戦後、私たちはいっしょに生きてきた。してきたことは、小さな、つまらないことかもしれない。しかし、そこに無駄はひとつもなかった」。このときの「戦後(戦争が終わったあと)」という一言が、とても強い。私の胸には、ずしりと響いてきた。
 この「無駄」が「呼応」する。いろいろな「名目」はあるだろう。しかし、だれかを「殺す」ということほどの「無駄」はない。そういう「無駄」をしなくても、ひとは生きていける。華々しい出来事は何もないかもしれない。しかし、同時に、華々しい「無駄」もないのである。それが「生きる誇り」(生きてきた誇り)である。その「誇り」を取り戻すために、主人公は、共同墓地へ行く。友の墓の前で祈る。彼に同行する男も、また同じように。そのとき、その男が毎日繰り返し口にしてきた詩が語られる。それは、死んでしまった人間への、「もう無駄はしない」という強い決意のように迫ってくる。

 あらゆる世界で「無駄」が排除されようとしている。「話し合っても無駄」(戦争しかない/武力行動しかない対立解消の手段はない)というのが、「戦争支持者」の主張だろう。「話し合い」は彼らから見れば「時間の無駄」なのかもしれない。しかし、その「無駄」をつづけつづければ、それは無駄ではなくなる。何があっても武器はとらないということをつづきつづければ、戦争はおきない。人間が「無駄に」死んでいくことはない。
 戦争で、実際に親しい人間を失ったひとだけが「無駄」に気がつくというのでは、あまりにも悲しすぎる。
 この映画は、いま拡大しつづける戦争に対して、何か有効なことをなしうるか。この映画が与える高価は「無駄」(無力)でしかない、というひともいるだろう。だが、そうであったとしても、この映画に加わったひとは言うだろう。「私のしたことは、ちいさなことである。しかし、私は何一つとして無駄なことはしていない」と。
 で、もうひとつ、忘れがたいシーン。
 主人公を助けるアフリカ系の元兵士。彼は、こころの傷のために、少し主人公たちに迷惑をかける。それが次の朝、主人公にであって謝罪する。それに対して主人公が何か言う。それに答えて、元兵士が何か「立派なこと」を言おうとする。そのときの態度が、いわゆる「軍人風」である。この態度を主人公が、静かに批判する。「そういう軍隊式の反省はやめろ」と。「きみは病んでいる」と。
 ああ、いいなあ。
 「戦争反対」は世界中で叫ばれている。安倍も叫んだし、岸田も訴えた。石破も言うだろう。しかし、そのときの「戦争反対」ということばの奥に動いているのは、どういう精神か。たとえば「祖国のために亡くなった兵士の精神を忘れない」というとき、そこにはたとえば主人公の友人の「死ぬのはいやだ、死ぬのは怖い」という気持ちは含まれているか。含まれていないだろう。「祖国のために亡くなった兵士の精神を忘れない、そのいのちを無駄にしない」というとき、それは新たな「無駄」をするということだろう。

 声高ではない。だが、はっきりと「ことば」が聞こえる。こういう映画をつくることができるひとがいることに、深く感謝したい。「私は何一つ無駄なことはしなかった」といえるのはすばらしいことだ。
 この映画のなかの主人公の、友人の墓に祈ること、それは「無駄」ではない。もしなにかしてきたことのなかに「無駄」があったとしても、その「無駄」は、その瞬間にすべて消えた。「ぼやけ」ていたものは何一つなくなり、世界は「くっきり」したものにかわった。この「くっきり」を感じたから、私は、主人公がフランスから帰ってくるシーン以後、スクリーンに「ぼける/くっきり」の差を感じなくなったのかもしれない。
 もう一度見るということはないから、私がそう感じた通りの撮り方だったかわからないのだが。


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奥山大史監督「僕はイエス様が嫌い」(★★★)

2024-09-29 11:51:19 | 映画

奥山大史監督「僕はイエス様が嫌い」(★★★)(キノシネマ天神、スクリーン3、2024年09月28日)

監督 奥山大史 出演 佐藤結良、大熊理樹

 冒頭、おじいさんが障子に穴をあけて、外を覗いている。このシーンがラストで少年にかわる。少年が障子に穴をあけて、外をのぞく。おじいさんが何を見たかは描かれない。少年が見たのは、少年が大好きな友人と雪の上でサッカーをしている姿である。
 このシーンは、「ぼくのお日さま」を思い出させる。「見る」とは、何か、ということを考えさせる。
 見る。目で見る。だから、目が直接見ることができないものは、自分の目である。しかし、目で見るとき、そこには「自分」が反映される。つまり、それは単に「自分以外」を見るのではなく、実は「自分」を見ることでもある。
 少年は、障子の穴をとおして、彼と友人が夢中になって(ほかのだれも見えない)になって、サッカーをしているのを見る。そこに自分がいるのだけれど、自分がいない。そして、たぶん、そこには友人もいない。ただ「楽しい」、あるいは「うれしい」が「ある」。「自分」は「無」になり、そこに「楽しい、うれしい」が輝いている。「好き」とは、こういことなんだなあ、と思う。
 「ぼくのお日さま」では、主人公の少年は少女がスケートをしているのを見る。コーチが回転しながらジャンプする、その仕方を教えている。それを見た少年は、少女が教えられた方法を試してみる。このとき少年は少年でありながら、少年ではない。回転しながらジャンプするという「行動(運動)」そのものになっている。自分の肉体の動きを確かめるとき、少女の肉体の動きを確かめていると書くと書きすぎだが、「人間の肉体の動き」(何かを実現する喜び)を確かめているとはいえる。そこには「自他」の区別は存在しない。「自他」を超える「無」の喜びがある。
 奥山大史のとらえようとしているのは、何か、そうしたものである。「無」、あるいは「空」と呼んだ方がいいのかもしれないが、いま、多くの人が見失っている「絶対的喜び(幸福)」をつかもうとしている。提示しようとしている。
 大好きな友達が死んでしまったのに、そこに「よろこび」が表現されるというのは「矛盾」かもしれないが、「悲しみ」を超えてしまう「よろこび」、その純粋さ、透明さが、この「僕はキリスト様が嫌い」でも、とてもよくあらわされている。
 (★が三つになってしまったのは、たぶん「ぼくのお日さま」があまりにすばらしくて、その「反動」のようなものかもしれない。)
 このラストシーン、スクリーンの下の方に「白い何か」がゆらゆら揺れている。これを映画の「キリスト」と結びつけ、「神様が見ている」と言う人がいたが、(「神の視点から見た世界、神はいつでも人間を見守り祝福している」という人がいたが)、私は無神論者なので、そんなふうには見ることはできない。あれは、あくまで障子の穴の、その周辺の紙である。少年の「我」が消え、「無(空)」になったから、あのシーンが見えるのである。もし、どうしても「神」と結びつけなければならないとしたら、「無我」の瞬間、少年は「神」になっていると言えばいいだろうか。「神」にひとしい存在、「自己主張」が消えた視点になっていると言えばいいだろうか。
 主人公の少年は、死んだ友人への「弔辞」を読んだあと、祈祷台(?)にあらわれた小さなキリストを拳で叩きつぶす。「友人を死なせてしまうキリストなんか許せない」という気持ちか。でも、もし「神」がいるとするなら、そういう「神への憎しみ」さえも許してしまうのが「神」というものだろう。裏切ろうが、迫害しようが、人間を許し、受け入れるのが神だろう。
 悲しみを受け入れる。そして悲しみのなかで楽しかったこと、うれしかったことを思い出すほどつらいことはないのだが、不思議なことに、その悲しいときに楽しかったこと、うれしかったことを思い出すことができるということが、人間を「生かす」力となっている。少年は、ラストシーンで、それを語るわけではないが、感じている。そういうことを教えてくれるとても美しいシーンである。
 こういう純粋な透明感をそのまま具体化できるというのは、現代では、とても貴重なことだと思う。奥山大史という監督は、初めて知ったが、これからも作品を見続けたいと思う。

 奥山大史監督の特徴は、「白」にいろいろな白があるということを知っていることだ。雪の美しさ、悲しさはもちろんだが、障子のほのかな白の変化、白い花だけではなく、青い花のなかにもひそんでいる白も含めてとても美しい。黒のなかには無数の色がある、無数の色があつまり黒になると言うが、白のなかにも無数の色がある。奥山大史の、その無数の色は「光の無数の色」なのだろう。だから、最後にその無数の色があつまると、何もない「透明な光」「純粋な光」そのものになる。
 書いていたら、★4個、あるいは5個にしたくなってきた。
 いい映画というのは、こういう変化を引き起こす映画のことかもしれない。

 

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奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(3)

2024-09-24 06:49:37 | 映画

 ユーチューブ「シネマサロン、ヒットの裏側」批判のつづき。(この記事の下に、1、2があります。)
 https://www.youtube.com/watch?v=ywPcv9iU9LM

 美、純粋、透明などいろいろな「概念」が指し示すものをつかみとるには「直覚」が必要だ。美や純粋、透明といったものを「論理」で説明しても、それは単なる「論理」であって「本質」ではない。それは「論理」で説明してもしかたがないものである。直覚できるかどうかが問題である。
 こういうことを書きながら、「シネマサロン、ヒットの裏側」ユーチューバーの語っていることを、ことばで批判するのは、まあ、矛盾のようなものであるが、書いておく。
 「シネマサロン、ヒットの裏側」ユーチューバーは、簡単に言えば、透明、純粋、美に対する直覚が欠如している。彼らには、透明、純粋、美を理解することはできない。
 とりわけ「好き」ということがもつ純粋さ、透明さ、その美しさを直覚することができない。
 この映画「ぼくのお日さま」は別のことばで言えば、「ぼくは、ぼくのお日さまが大好き」である。大好きなものを「お日さま」と呼んでいる。好きな対象は「お日さま」であると直覚して、言っている。「お日さま」ということばを聞いて、あ、少年は「お日さまが好き」なんだと直覚できなければ、それから先は、何もわからないだろう。
 で、この「好き」ということば、それが何回この映画につかわれているか私は意識していないが、一回だけ、忘れられないシーンがある。
 少年がフィギュアスケートかアイスホッケーか、選択に迷ったとき、父が「おまえが好きな方にすればいい」という。この「好き」をどれだけ「実感」として直覚できるか。少年はフィギュアを選ぶが、その選択を後押しするのが少年の直覚であり、そこには少年自身が純粋な形で具体化されている。
 これは、たとえて言えば「リトルダンサー」の少年がボクシングではなく、ふと見てしまった少女たちのバレエからバレエに目覚めるような、直覚である。それは本能である。説明はできない。
 で、私は、最初の感想に、このとき父親が吃音であることがこの映画の唯一の欠点であると書いたのだが、吃音をとおして父が少年の「好き」を応援していることを強調するのが、なんともいえず「下品」に感じたのだ。ただ単純に、「好きにすればいい」の方が不純なものが混じらない。あ、父親も吃音なのか、というようなどうでもい感想が混じりこまないだろう。

 ことばに関して言うと。

 「シネマサロン、ヒットの裏側」は脚本について、いろいろ難癖をつけているのだが、そのひとつひとつがあまりにもばかばかしい。たとえば、スケートのコーチが仕事をやめてどこかへ引っ越すのだが、その直前の会話から「客(教えている生徒)がたったひとりなのか」(ひとりの客、少女を失っただけで、仕事がなくなるのか)というようなことを言う。しかし、「生徒がひとり」とは、どういうことだろうか。映画では、生徒がひとりとはどこにも描かれていない。だいたい、コーチは、少女と少年のふたりを教えている姿をとおして描かれているが、生徒がふたりだけかどうかわからない。ほかの部分は「省略」されている。スケート場の他のスタッフが登場しないことについても疑問を語っているが、そういうものを描く必要を感じていないから映画は省略しているだけである。
 省略に関して言えば、たとえば少女の家庭はどうなっているのか。父や兄弟はいないのか。少女のかわりに母親がコーチに対して、コーチの解任を伝えるのだが、父親が登場しないことを理由に、少女は「母子家庭」のこどもであり、ひとりっこであると言えるか。
 あるいはコーチの連れ合いが「家業をつぐために北海道に帰って来た」というが、そのとき彼の両親は、あるいは兄弟はどこにいるか説明がないから、彼がガソリンスタンドを経営していることになるのか。そんなことはないだろう。映画に限らず、どんな作品でも、その作品が必要としないものは省略する。
 映画には描かれていないが、北海道の小さな街で(といってもスケート場がある大きな街だが)、その小さな街で「スケートのコーチはゲイである」ということが知れ渡ったら、それを嫌って生徒を引き上げさせる両親というのはいるかもしれない。ひとりの客を失ったのではなく、多くの客を失ったのかもしれない。そう考える方が自然だろう。舞台になっている北海道の街をゲイに対して不寛容な街であるというわけではないが、少数派を受け入れない(歓迎しない)という雰囲気は、どこにでもある。日本政府からして、同性婚を認めていないではないか。コーチは「ひとりの客」を失ったのではなく、その「ひとり」を含む多くの客(生徒)を失ったのである。その結果として、少年をも教えることができなくなった。でも少年がフィギュアが好きなことを直覚しているコーチは、少年にスケート靴をプレゼントして立ち去る。少年にフィギュアが好きなままでいてもらいたいと思うから靴を残していく。その悲しい美しさ。そこにはフィギュアを愛しているコーチのこころも描かれている。
 映画で説明していない部分は「存在しない」のではなく、単に「省略」されているにすぎない。コーチが、最初は「靴はやるんじゃない、貸すんだ」と言ったことを思い出すがいい。そして、そこから靴を残していく気持ちを想像すればいい。また、それを受け取る少年の気持ちを想像すれば、彼がその後なにを選択するかがわかる。想像できる。説明がないものを想像できないのは、想像力の欠如である。
 コーチと連れ合いの関係をゲイの関係である、ふたりは同性愛者であるということを、ユーチューバーは語っているが、映画のなかで二人がセックスをするわけではない。ひとつのベッドに寝ているが、ひとつのベッドに寝ればかならずゲイであるとは言えないだろう。それなのに、ゲイであると断言する。登場人物がゲイであることは想像できても、映画に登場しない人物が彼らの周りには存在するということを想像する能力が、彼らには欠けている。
 テーマではないことがらに関することは想像しても、テーマについては想像しない。簡単に言えば、彼らの想像力は「下品」である。「品がない」。
 想像力の欠如はラストシーンについても言える。ここでは具体的なことばは何一つ明確になっていない。だから、そこから何を想像するかは観客に任されているのだが、彼らがハッピーエンドを想像できなかったからといって、ハッピーエンドではないとは言えない。すでに書いたように、あれ以上のハッピーエンドはない。描かれていない部分から何をつかみ取るか。何を直覚するか。それには、そのひとの「品」が影響する。私は私に品があるとは思わないが、彼らは「下品」だと思う。
 少年と少女が、コーチから「フィギュアが好き」という気持ちを引き継がなかった(受け取らなかった)と想像してしまうのは、あるいはコーチから「フィギュアが好き」という気持ちを引き継いだと想像できないのは、「シネマサロン、ヒットの裏側」のユーチューバーに、何かが「好き」になった経験がないからだろう。あるいはそういう経験があったとしても、そのときの気持ちを自分自身でしっかり確かめ、確実にするという意識がないからだろう。自分、そして生活を見つめなおさないことを「品がない」というのである。

 脱線するが。
 「世界のおきく」を批判して、地主農家(?)が主人公たちに対して怒ったとき、肥だるを手で持って、糞尿をぶちまけるというシーンがある。そのシーンに対して「シネマサロン、ヒットの裏側」のユーチューバー「手で持つなんて汚い。不自然。足で蹴れ」というような批判をしていた。このことについては「世界のおきく」について書いたときに触れたが、肥だるは貴重品である。大事な道具である。そういうことを理解している農家のひとが、いくら怒ったからといって足で蹴ったりはしない。壊れたら大変である。そういう配慮をするのが「品」というものである。問題のユーチューバーには「生活の品」というものがない。「生活」が反映されていない。「きちんとした生活」が反映されれば、そこにおのずと「品」あらわれる。

 「品」とたぶん関係すると思うが。
 この映画の映像の美しさは10年に一作の美しさである。10年に一本の映画である。この映画以前に、10年に一本の映画と書かずにはいられなかった作品は「長江哀歌」である。あの映画も、映像が透明だった。どこにもゆるぎがなく、人間をしっかりととらえていた。人間に密着している。壁にのこる雑巾の痕、壁に密着したテーブルを雑巾で拭くと、そのときの「拭き痕」が壁にのこる。毎日、テーブルを拭いていたから壁に拭き痕が残ったのだ。その美しさ。毎日テーブルを拭いているという生活の品、暮らし方の品がのこる映像が象徴的だが、どの映像も、それをみつめる人間の生活に密着している。落ち着いている。けっして作為的ではない。「品」というのは、そういう形であらわれる。
 柳宗悦やバーナード・リーチが言った「民芸の品」に通じるかもしれない。
 きちんと暮らしていれば、おのずと「品」はあらわれる。
 少年は、アイスホッケー、フィギュア、野球をやる。そのなかで、彼は何を選んだか。ラストシーンには、それが描かれている。何を選んだと想像するかは、観客の「品」によって違うだろう。その選択を「好き」と思うかどうは、観客の「品」によって違うだろう。

 書いてはいけないことまで書いたかもしれないが、思ったことは書いておくしかない。「シネマサロン、ヒットの裏側」の「批評」があまりにもむごたらしいので、書かずにはいられなかった。


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奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(2)

2024-09-24 00:55:41 | 映画

(この記事の下にある「ぼくのお日さま」の感想のつづきです。先に下の記事を読んでください。)

 私は他人の批評は読まないのだが、ある人が、ユーチューブの「ぼくのお日さま」の批評について、わざわざ教えてくれた。
 「シネマサロン、ヒットの裏側」
 https://www.youtube.com/watch?v=ywPcv9iU9LM
 これが、とんでもない「批評」。
 「最後の詰めが甘い」というのだが、その詰めのシーンで彼らはいちばんのポイントを見落としている。ラストシーンは、少女が遠くから歩いてくる。少年がその姿を見つける。ふたりは、久々に出合う。そのとき少年は何かを語ろうとする。そこで映画は終わる。少年が何を語ったかは、わからない。
 でもねえ。
 この少年は何を持っていたか。ただ学生鞄を持っていただけか。胸に大事にかかえていたのは何か。それはコーチがくれたスケート靴である。それを袋(鞄?)にいれてかかえている。コーチが少年にスケート靴を渡したときの袋(ケース?)の色は覚えていないが、同じ色だったかもしれない。違っていたかもしれない。しかし、どう見てもスケート靴を入れている袋にしか見えない。野球のグラブやバットが入った袋ではない。
 少女はスケート場から帰ってくる。少年はスケート場へ向かっている。少年は再びスケート(フィギュア・スケート)を始める気持ちになったのだ。そして、初めてその気持ちとなったときと同じように少女に出会ったのだ。少年は少女を、少年が初めて少女を見たときの目で見ている。そして、そこで「初めてのことば」を交わすのだ。これ以上に美しいハッピーエンドはない。
 さらに。
 驚いたことに、このユーチューバーたち(3人)は、一種の裏切りをした少女がどう立ち直っていくか(こころに傷を背負っていく)というようなことを語っているのだが、まあ、なんというか。「不潔な理想」だ。男の願望丸出しの感想。少年を、そしてコーチを裏切った少女には、罪の意識を持ってほしい、と思っているようだ。
 少女に、そんな「責任感」を押しつけて、いったいどうなるのだ。
 どうして、いろいろなことがあったけれど、スケートをつづけて立派な選手になってほしいと思わないのだろう。
 コーチが北海道を離れようが、少年がたとえスケートをやめようが(実際は、やめはしない)が、そんなことは少女には関係がない。少女は自分の気持ちに純粋にしたがっただけ。スケートが好きだし、コーチが好きだから、ちょっと自分の方を向いてほしかっただけ。裏切りも、自分をもっとみつめて、という叫び。幼いから、それをことばにできないだけ。
 少年は、そうした少女の「こころ」を知っているかどうか、わからない。少女の裏切りの背後に何があったかも、はっきりとは知らないはずである。
 でも、少年がスケートを再開すれば、それは少女の励みになる。そうなることは、見ている観客にはわかる。ふたりがペアでアイスダンスをするかどうか、そんなことは関係がない。ただ、ふたりはスケートをする。スケートをすれば、それだ楽しい。その喜びが、もう一度始まるのだ。
 「不純な中年(もう、高年?)」の、時代後れの「少女観」が、映画を台無しにしている。上記のURLの感想を聞くと、ただただあきれる。「世界のおきく」のときも、信じられないようなことを語っていた。はっきり書いておこう。上記のユーチューバーたちは、映画業界で金稼ぎをしているだけの人間である。


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奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)

2024-09-23 16:00:22 | 映画

奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(2024年09月23日、キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 奥山大史 出演 越山敬達、忍足亜希子、池松壮亮

 傑作。
 冒頭の初雪のシーン。とても美しい。透明な空気のなかの水分が結晶して、舞うように空から降ってくる。それが繊細で、美しい。純粋そのものが結晶になって舞っている感じ。みつめる少年の目が、同じように透明で純粋で美しい。
 この印象が、最初から最後まで、まっすぐにつづく。
 ひたすら透明、ひたすら美しい。純粋。
 少女の嫉妬、そしてそこからはじまる「裏切り」さえも透明で美しい。この場合の透明は、何もかもがはっきり見えるということである。はっきり見えるから、それを否定できない。少女は自分の気持ちを裏切ることなどできない。純粋な気持ちが、嫉妬さえも貫くのである。嫉妬が間違っているといえない。嫉妬を間違っていると言えるのは、嫉妬をしたことがないひとだけである。
 こんなことは、しかし、書く必要はないなあ。
 なんの説明も必要としない。
 透明で純粋で美しい、と書けば、それでおしまい。
 この透明さ、純粋な美しさを、最初から最後までつらぬけるのは大変な技量である。人間をみつめる目がまっすぐなのだとわかる。カメラワークに演出がなく、それが映画をいっそう純粋なものにしている。
 唯一、私が気に食わなかった点をあげるとすれば。少年の父親が少年と同じように吃音であること。これは、なんともいえず不自然だった。
 しかし、傑作。今年のベスト1の映画。


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呉美保監督「ぼくが生きてる、ふたつの世界」(★★★+★)

2024-09-22 13:24:24 | 映画

呉美保監督「ぼくが生きてる、ふたつの世界」(★★★+★)(2024年09月22日、KBSシネマ、スクリーン2)

監督 呉美保 出演 吉沢亮、忍足亜希子

 「侍タイムスリッパー」の対極にある映画。「侍タイムスリッパー」は幕末を生きていた侍が現代にタイムスリップしてきて「時代劇」を体験する。江戸時代と現代、現実と虚構というふたつの世界を主人公が生きている。
 一方の「ぼくが生きてる、ふたつの世界」は、耳と口が不自由な両親から生まれた主人公が、耳が聞こえる世界と、耳が聞こえない人の世界をつなぐ。「ふたつの世界」を生きているという意味では似ている。
 しかし。
 「ぼくが生きてる、ふたつの世界」を紹介する記事は、私の読んだ限り(あるいはたまたま知人から聞いた範囲内では)、五十嵐大の自伝的エッセイ「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと」を題材にした映画であり、主人公は「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を生きているという具合にとらえているのだが。
 このとらえ方は、違っていると思う。私は呉美保の作品には何か引きつけられる部分があって、その私が感じている引きつけられる部分が、いま世間で言われている「解説(感想)」とはずいぶんかけ離れている感じがする。それで、ほんとうなのか、という気持ちもあり、映画を見た。(呉は、個人の意識(認識)を深く掘り下げるタイプの作風ではなく、人間の「幅」を広げるタイプの作風だと思う。)
 そして、やっぱり違っていた。
 「ぼくが生きてる、ふたつの世界」は、たしかに簡単に説明すれば、主人公が体験した「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を描いている。私は見が聞こえない人、口がきけない人と対話したことがないので(手話も知らないので)、私が知っている世界は「聴こえる世界」であって「聴こえない世界」ではないから、このふたつの世界を体験しているということはそれだけで、そこから教えられることは多いのだが。
 でも、この映画を「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を生きている主人公を描いているというだけでは、この映画を語ったことにはならない。
 たまたま、この映画の主人公は、「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を描いているが、そういう定義でなら、「侍タイムスリッパー」も「武士の世界(幕末)」と「現代」という「ふたつの世界」を生きているということもでき、そこには違いがなくなってしまう。だいたい、ひとはそれぞれ独自の世界を生きている(というか、人はだれでも自分を主人公とする世界を生きている)という言い方をしてしまえば、そして、それぞれの独自の世界を生きていることを認める(マルチ世界を認め、尊重し合う)という方向へ論理を展開していけば、それは、どんな「現実」についても言えることである。こんな抽象的なことを言っても始まらない。
 だいたい、呉美保の映画は、そういう「抽象的説明(解説?)」とは遠い「リアル」な描写そのものに基本がある。抽象的な道徳倫理にくくってしまって、そこから何かを語っても、この映画を語ったことにはならないだろう。
 これまで書いてきた「ふたつの世界」は、実は「主人公が体験した世界」と言いなおせば「ひとつの世界」である。それを「ふたつ」に分割しているのは主人公ではなく、その映画を見ている観客が聴こえるか、聴こえないかの視点である。それは裏を返せば「私は聴こえる」という「ひとつ」の世界からみた世界、いままで気がつかなかった世界というにすぎなくて、それは「ふたつ」と数えてはならないものである。単に、「見てこなかった世界、見ようとしなかった世界」である。それをふくめて「世界はひとつ」と言ってしまえば、それでおしまい。
 なぜ、「ぼくが生きてる、ふたつの世界」なのか。
 この日本語は、ふたつの意味をもっている。ひとつは「ぼくが主人公として体験した世界」という意味であり、もうひとつは「ぼくが主人公として生きている世界」である。後者には、実は、もうひとり「主人公」がいる。
 この映画に関して言えば、「母親」である。「母親の世界の中でぼくが主人公として動いている」。主人公「ぼく」は、このことを知らなかった。だれでも自分を主人公と考える(自分中心に考える)から、「ぼくは聴こえる世界」を生きるとと同時に、「聴こえない人のいる世界にも足を踏み入れ、そのひとたちを助けたりする」ことになる。そう考える。しかし、母親にとって「聴こえる世界」はない。「聴こえない世界」しかない。補聴器をつかって主人公の声を聞くことがあっても、それはあくまでも「聴こえない世界」でのひとつのエピソード。その「母の世界」で「母」は主人公であるのはもちろんだが、それだけでは終わらない。「母の世界」のなかで、主人公は「母」ではなかった。「ぼく」だった。「はは」は「ぼく」を主人公にするために生きていた。母にとって主人公は「ぼく」だった、と主人公が気づく。
 これが、この映画のテーマ、呉のテーマである。呉がくりかえし描く「家族」とは何かというテーマである。「私ではない、相手が主人公なのである」。「他人が主人公の世界」。そういう世界でも、私たちは実は生きているのである。
 ラストシーン直前。ぼくと母が列車の中で手話で話している。そのあと母が、ぼくにありがとうという。みんなが見ているところで手話で話してくれて、うれしかったというようなことを言う。こここそが、ほんとうのクライマックス。列車の中で手話で話しているとき、ぼくは「主役」ではなくかった。母が主役であり、ぼくは「脇役」だった。だが、「脇役」もできるというのが「主役」の強みであり、「脇役」は「主役」にはなれない。「母の世界」のなかで「主役」のぼくが「脇役」になり、母を「主役」に引き上げている。母は、それをほんとうにびっくりし、こころから喜んでいる。森進一の歌った「おふくろさん」ではないが、自分ではなく他人のために何かをするとき、そのときこそ、人間は「主役」になっているのである。「人間」になっているのである。
 主人公は、両親のために苦労させられていると感じていた。「こんな家に生まれたくなっかた」と思っていた。しかし、両親は違ったのだ。「生まれてきてくれてありがとう。おまえが私たちの主人公」と思って生きてきたのである。そして「主人公」のおまえが、主人公をやめて「脇役」になる。その瞬間、それは母が主役になるというより、ふたりが「主役」になる、「家族が主役になる」という瞬間なのだ。
 私は映画ではめったに泣かないが、思わず泣いてしまう瞬間がある。呉の、この映画でも、母が「ありがとう」と言ったあと、生きてきた苦しみが何もかも消えてしまったというような、さっぱりした後ろ姿で駅のホームを歩いていくのを見たとき、私は主人公が泣きだす前に泣いてしまった。
 あの忍足亜希子の後ろ姿、歩く姿は、もう一度見てみたい。あの瞬間までは、なんというか、映画のチラシやネットの解説がまくしたてているように「耳と口が不自由な両親をもつ主人公が体験した、聴こえる世界と聴こえない世界」をリアリティーにこだわって描いていた映画だったが、そのリアリティーは「ぼく」が見たリアリティーだけではなく、「母」の見たリアリティーでもあったのだと断言し、その世界で「ぼく」という主人公はどう母から見えていたかを教える。「ぼく」が思い出すのは母の笑顔、「主人公=ぼく」が幸福だったとき、母は「脇役」から「主役」にかわる。それを変えることができるのは「ぼく」だけなのである。
 多くの人は(私も含めてだが)、もしかしたら、私は「誰かの世界のなかで主人公しもしれない(主人公だったのだ)」と気づくことはない。だが、「世界」は、そんな不思議に満ちている。
 ホームを歩く忍足亜希子の後ろ姿までは、すこし紋切り型かもしれない。しかし、このシーンはほんとうに美しい。このシーンのために★を追加した。

 

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安田淳一監督「侍タイムスリッパー」(★★★)

2024-09-14 22:32:06 | 映画

安田淳一監督「侍タイムスリッパー」(★★★)(2024年09月14日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン9)

監督 安田淳一 出演 山口馬木也

 一館上映で始まった映画だが、人気が人気を呼び、全国で上映されるようになった作品とか。
 予告編を見た印象は、とても効率よくつくられた作品。スクリーンに映っているシーン以外に「余分」はない、という感じだったが、本編を見てもその印象は変わらない。ていねに、しっかりとつくられた映画だが、なんというか「奥行き」がない。カメラに写っているシーン以外に、何もない。もちろん、それでもいいのだが、私は「余分」を期待して映画を見ている。「余分」がないと、味気ない。100点の映画だが、それはミスがないという意味でしかない。
 スタッフ一覧を見てみると。
 安田淳一が監督、脚本、撮影、編集と四役をこなしている。(もっと、こなしているかもしれない)。それがこの作品の特徴を語るすべてである。すべてのことが、安田淳一の「視点」で統一されている。だから、乱れようがない。ミスしようがない。100点になるしかないのである。
 私が唯一、これはおもしろい、と思ったのが、主人公が講演会か何かのポスターを見て、自分が江戸時代から現代にタイムスリップしてきたことを理解するシーンである。ポスターの文字が「活字」であることに驚くこともなく、江戸時代が終わったということに驚くこともない。あっという間に「状況」を理解してしまう。その「理解力」の速さを、巧みに描いている。状況が理解できずにドタバタするのは、紛れ込んだ京都・太秦の映画(テレビ)撮影現場の一瞬だけである。
 で、このことが象徴的なのだが。
 登場する人物が、みんな、「ストーリー」を「理解」してしまっている。「理解」にしたがって、それを表現している。まあ、それでもいいのだろうけれど、私が期待するのは、やっぱり登場人物が何が起きるか「知らない」という芝居なのだ。何も知らず、すべてが初めて体験する、という「人間の生き方」なのだ。役者を、生きている人間を見たいのだ。私は。それが、この映画には完全に欠落している。
 たとえば。
 映画のなかに、主人公が仇(?)と出会い、一緒の映画に出ることになり、その一シーンとして釣りをするところがある。映画はただ背中をうつすだけ、会話はとらないという条件で撮影されている。ふたりは、セリフではなく、思っていることを語り合う。それは一首のけんかなのだが、背中をとっているスタッフが「こころが通い合っているいい演技だ」みたいなことを言う。人間というのは、そういういい加減な存在なのだが、そのいい加減さがいかされていない。これと同じシーンを、私は別の映画で見た記憶があるが、それがなんだったか思い出せない。こういう裏話みたいなもので、映画の秘密をばらすのだが、それさえも「型通り」である。つまり、「いい加減」さが、どこにもない。
 だからね、100点だけれど、50点なのだ。

 どうでもいいことだが。
 予告編で、呉美保の映画を見た。タイトルは忘れたが、あ、呉美保だと、こころのなかで叫んだ。なんだったか、タイトルは忘れたが、第一作は、たしか彼女自身が脚本を書いたものだったと思う。その脚本が、いいなあ、と思った。人間のとらえ方に、みょうな深さがある。奥行きがある。そのあとも何本か見たと思うが、何かしら、印象に残るシーンがあった。
 今度は、どうなんだろう。
 思わず、こういう関係ないことを書いてしまわせるのが、安田淳一監督「侍タイムスリッパー」であった。


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ダビッド・プジョル監督「美食家ダリのレストラン」(★★)

2024-08-25 16:36:51 | 映画

ダビッド・プジョル監督「美食家ダリのレストラン」(★★)(KBCシネマ、スクリーン2)

監督 ダビッド・プジョル 出演 ホセ・ガルシア、イバン・マサゲ、クララ・ポンソ

 主人公の設定は、スペイン人なのか、フランス人なのか。よくわからないが、なんとも「フランス味」の強い映画だ。妻は出てこないが、娘が出てきて、フランス語でやりあうが、もしかすると登場しない妻がフランス人なのかも。というような、映画とは関係ないことを思ってしまうなあ。
 私は、ダリの作品はそんなに多く見ていないのでわからないが。
 映画の、ひとつの見せ場に、主人公が「ダリの魅力」を語るところがある。これが、さらに輪をかけて「フレンチ」の味。フランスから来たグルメ評論家がダリを批判するので、それに対して反論するのだが、そのことばの動きが「フランス現代思想」っぽい。と言っても、私はその当時のスペインの思想(さかのぼってのスペインの思想)もフランスの当時の思想も「現代思想」も知らないのだけれど。
 なんとなく。
 いやあ、スペイン人は、こんなに「論理的」には話さないだろうなあ。だからこそ、このシーンがスペイン語ではなく、フランス語で交わされるのかもしれない。
 ひるがえって。
 フランス語で論理が展開されたから、フレンチと感じたのか。これは、少し重要な問題かもしれないなあ。
 私は最近スペイン語を学んでいるのだが、「読んだらわかる」でも「書くことはできない」文体というものがある。「Te gusto?」というのは、読んだときはびっくりするが、まあ、理解できる。しかし、それを言ったり書いたりするとなると、ちょっと恥ずかしくて言えない。書けない。そういうことが、どの言語にもあって、そういうことは「思想の文体」「論理の文体」にも影響していると思う。そして、行動(肉体)の文体にも。
 その「行動の文体」で言えば、シェフの弟が反フランコ運動(?)で逃亡するとき、兄が一緒に逃げるのがスペインぽいかなあ。フランス人は、弟思いの兄でも一緒に逃げたりはしないだろうなあ。「お前のかって」がフレンチの兄弟関係かなあ、とかって想像している。
 結婚式の披露宴の料理(デザート?)にチュッパチャプスをつけるというのは、まあ、スペインぽいが、女がシェフの愛を知って、厨房でセックスをする、というのはフレンチかなあ。その二人がウェデングケーキにまみれるというのはスペイン風か、フレンチか、よくわからないが。セックスをのぞいた男が告げ口をするというのは、スペインかも。フランスでは、「他人のことは知ったことではない」だろうし、これがイギリスなら知っていても本人が言わない限り「なかったこと」になるだろうなあ。
 これも、かってな想像だけど。
 バルセロナ(舞台の近くがバルセロナ)とマドリッドでは、それぞれのひとの人格もずいぶん違うと思うが、シェフの生真面目な感じは、これはバルセロナだね。新しい料理を思いついて、そのたびにノートをとる、というのはスペイン人というよりはバルセロナ人かなあ。碁盤の目のようなバルセロナの通りと、マドリッドの勝手気ままな道路の交錯の違いなんかも思い出した。
 ほかにも、ガラがロシア人(だったっけ?)という関係もあって、スペイン語、フランス語、ロシア語が飛び交う映画なのだが、もしかするとロシア人の「特徴」も見えるようになっているのかもしれない。アラカルト料理のように、アラカルト人種の違いを教えてくれる映画かもしれない。その土地その土地に、その土地の味(料理)があるように、その土地その土地に、そこにふさわしい人間がいる。
 というのは、「日本人風の見方」かもしれないが。


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アレクサンダー・ペイン監督「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」(★★★)

2024-06-24 16:05:08 | 映画

アレクサンダー・ペイン監督「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」(★★★)(2024年06月24日、キノシネマ天神・スクリーン3)

監督 アレクサンダー・ペイン 出演 ポール・ジアマッティ、ダバイン・ジョイ・ランドルフ、ドミニク・セッサ

 この映画は100点満点で採点すると102点の映画である。100点ではもの足りず、プラスアルファをつけたくなる。やっていることはすべてわかる。どこにも「欠点」はない。完璧。完璧というだけではおさまらない。しかし、★は三個。100点を上回るのだけれど、手放しでは称賛できない。
 どういうことかというと。
 映画が始まってすぐ、あっと息を飲む。そして、たぶん2秒か3秒後に、この映画のすべてがわかる。
 映画の最初は会社のトレードマーク。くすんでいる。ぼやけている。ここで、あれっと思う。そして、それに追い打ちをかけるのが、フィルム上映のときにあった、ノイズ。古くなった映画(いわゆる二番館で上映する映画)のフィルムは、すりへって傷ついている。画面にも雨が降るし、ノイズがまじり音は不鮮明。最初のトレードマークのすり切れた感じは、この「二番館上映」という印象を蘇らせ、ノイズはそれを決定的にする。
 これが、すべて。(で、102点の「+2点」は、この映画の本編が始まる前の、傷、ノイズに対する+アルファ、ということ。)
 映画は、「二番館」が華やかだった(?)半世紀前を思い出させ、そして、そこに描かれるのも半世紀前の世界である。雪の降り方(除雪の仕方)からして1970年代である。大学、寄宿舎の、木の色合い、光も何もかもが70年代。ああ、なつかしい。そこで展開される「青春」、さらに「大人の苦悩」、そして、その「交流」も70年代そのもの。ダスティン・ホフマンが主演した「小さな巨人」までもが、映画のなかの映画として登場する。
 これじゃあ、感動せずにはいられない。自分の「青春」に重ね合わせて、何もかもに納得し、こころがふるえてしまう。
 でも、というか、だからこそ、私は一方で、いやな気持ちになる。
 なぜ、いま、この映画? 70年代の、アメリカの青春、その周辺の光と影? いまも同じ問題が、同じ形で存在する? しないと思う。ということは、そこに描かれている「未来」というか「決断」も、いまでは「無効」ということだろう。人間の「生き方(正直)」が変わらないものだとしても、そして、そういう古くならないもののなかにこそ新しいものがあるのだとしても(まるで、小津安二郎の「宗方姉妹」の田中絹代のせりふみたいだが)、70年代を舞台にして描いたのでは、「現在の映画」とはいえないだろう。「現在」に対して何かを語りかけることにはならないだろう。
 単に、「私はこんなに完璧に映画をつくることができる」という監督の声が聞こえてくるだけである。それに対して「はい完璧です。完璧以上です」という以外にないのである。
 思い出すのは、「スティング」(ジョージ・ロイ・ヒル監督、ポール・ニューマン+ポール・ニューマン主演)である。あの映画も「完璧」だった。しかし、やはり、なぜ、「現在」この映画を、こんなふうに撮るのか、という疑問が残った。
 で。
 「ホールドオーバーズ」と「スティング」を並べてみたとき、そこに「共通項」があることもわかる。どちらも「現在」を舞台にしているのではなく、半世紀ほど前を舞台にしている。つまり、その登場人物たちは、いずれの場合も「映画に描かれている時代」を直接は知らず、完全に「架空」のものとして向き合うことができる。映画のなかで何が起きようと(映画のなかで、どんな演技をしようと)、それは「現在の彼ら」とは無関係である。完璧な「フィクション」として演じることができる。「あんな演技、あんな表情は、いまとは無関係である」という批判は、誰にも通じない。だって、映画のなかの世界が「いま」ではなく「50年前」という過去なのだから。
 この映画が「スティング」よりも始末に悪いのは、「完璧なフィクション」であるにもかかわらず、そこに「人間性」をからませて、観客を感動させようとしているからである。
 これでは、だめ、と私は書かずにはいられない。
 これは、ある意味では「あんのこと」(入江悠監督、河合優実主演)の対極にある映画なのである。「あんのこと」は、とても感想を書く気持ちになれないほど、暗い映画、登場人物の誰にも共感できない映画なのだが、そこには映画を通して現在と関わり合いたいという欲望が、むき出しの形で存在している。そういう「むき出しの欲望」がないからこそ、「ホールドオーバーズ」は「完璧」なまま、映画を終わることができるのだ。
 いまは、もう見ることのなくなった「THE END」の文字に、私は笑い出してしまった。


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小津安二郎監督「小早川家の秋」「宗方姉妹」

2024-06-22 00:20:32 | 映画

小津安二郎監督「小早川家の秋」「宗方姉妹」

 昔の役者は、みんなうまいなあ。リアリティーそのものに関して言えば、いまの役者の方がうまいのかもしれないが、味が違う。
 「小早川家の秋」のなかで、原節子が、「人間は品行は変えられても、品性は変えられない」というようなことを言うが、なんというか、昔の役者は「品性」を演じる。いまの役者は、「品性のなさ」をさらけ出すことを演技と思っているのかもしれない、とふいに思ったりした。
 その「品性」に関して言えば、たとえば「小早川家の秋」のなかで、原節子と司葉子が会話するとき、いっしょに腰を下ろしたり、立ち上がったりする。その呼吸が、ぴったりそろっている。同じスピード、同じリズムである。「動き」が肉体に染みついている。それが「品性」というものかもしれない。
 これは中村鴈治郎が浪花千栄子の家で、廊下に雑巾がけをするシーンにもあらわれている。中村鴈治郎が実生活で雑巾がけをするかどうかはしらないが、まあ、しないだろう。しかし、その雑巾がけの動きをきちんと「肉体」で表現できる。したことがない動きまで「肉体」にしみこんでいる。なにか、「しつけ」のようなものを感じる。「しつけ」がしっかりしているから、すべてが「さま」になる。和服を着て、街をさっさと歩くシーンが、とてもかっこいい。足が動いているのが、ズボンをはいて歩く男の足よりも、なんというか「自在」に見える。裸で歩いても、あんなふうに足が動いていると見えるかどうかわからない。色っぽいのである。別に、色を売って歩いているわけではないのだが。歌舞伎役者は足が大切だが、いやあ、あんなふうにして足の動きがそのまま肉体そのものを感じさせるなんて、すごいものだなあ。
 脱線したが。
 もちろん「品」にもいろいろあって。「上品」だけが「品」ではない。それこそ「変えられない品性」が問題になるときもあるのだが、これを杉村春子が、とても味わい深く演じる。「減らず口」というか「憎々しい」ことをずけずけ言うのだが、ふいに、そのことばの奥から「なつかしさ」がこみあげてきて、泣きだしてしまう。その突然の変化のなかに、ああ、このひとのなかにも、自分を守って生きていくことの困難さがある、それがこんなふうに暴走するのだとと感じさせてくれる。
 「自分のなかにある何かを守る」が、たぶん「品性」に通じるのだと思う。原節子も司葉子も「自分を守る」のである。そして、そのとき「品性」があらわれる。
 小津の映画に特徴的な「日本家屋」の美しさ、その遠近感のある描写にも、それにつうじる「品性の美しさ」がある。日本の住宅がもっている大切なものを手放さない、という感じが、「品性」となって具体化している。
 ということとは別にして。
 「小早川家の秋」で、えっ、このシーンは何? と思ったのが、笠智衆。烏が多いなあ、誰か死んだのかなあ、というようなことをぽつりともらすのだが。そのシーン、必要? たぶん、なくても映画は完璧である。しかし、小津は、どうしても笠智衆を撮りたかったんだろうなあ。笠智衆は演技するのではなく、いつも「品性」として、そこに存在するのである。
 「宗方姉妹」は、その笠智衆が娘の高峰秀子のことを「こいつは舌を出すんだ。おや、きょうは出さないか。そろそろ出すかな」とからかう。このときの「口調」がやはり「品性」そのものである。いまは、こんな台詞回しができる役者はいないし、役者だけではなく、現実社会のなかでも、そういう口調で他人をからかうことができるひとはいない。
 人間の「品性」がなくなってしまったのだと思わずにはいられない。
 それにしても、高峰秀子はすごいなあ。この映画のなかでは、「芝居」をする。上原謙を前に、上原謙と田中絹代の「過去の恋」を語って見せるのだが、その語りは「芝居」である。映画そのものが「芝居」なのだが、そのなかでもう一度「演じる」。それが、ちゃんと「演じている」をわからせる演技である。そして「劇中劇」ともいえる「一人芝居」のなかに、一歩控えめの呼吸があり、それが「品」となってあらわれている。主観的だけれど、どこかに客観的な要素を残している。どんなときでも主観に溺れない。
 田中絹代にも、絶対的な「品」がある。それは、「古くならないものが新しい」ということばのなかに結晶しているが、これはやはり「自分のなかにあるかわらないものを愛する、大切にする」ということだろう。田中絹代は原節子と比較すると、不透明である。「実体」がある、という感じがすごい。
 それにしても小津の映画の構造はおもしろい。いつも「遠近感」が独特である。日本の家屋の室内だけではなく、それは外の風景を撮るときでも同じである。田中絹代と高峰秀子が薬師寺で弁当を食べるシーン。スクリーンの右側に松の木が半分だけ映っている。それが半分であることによって、映像の「枠」が強調される。その「枠」は「内側」を強調するのではなく、この「枠」の外には広い世界があると知らせる。そして、その「外」と「内」は呼吸している(通い合っている)ということを教える。
 小津の「室内」が狭いのに広いのは、「遠近感」を通して、「室内」が「屋外」と結びついている。「空気」が「内」と「外」を結んでいる、つながっているということを教えてくれるからだ。
 いま書いた「内と外」の関係を、小津の映画の登場人物の「個人」のなかに見ていくと、また、おもしろいものが見えてくるだろうと思う。笠智衆も原節子も、登場人物の「内と外」を演技のなかでしずかに交錯させている。「内」になるものが「品」、「外」にあたるのが「品行(行動)」かもしれないなあ。
 原節子が、司葉子に対して「それがいいと思う、そうなると思っていた」というようなことを言うときの「内」から「外」へ出て行き、司葉子の「内」を支えるもの。さらに、そういうことを強調するように「私は、いまの私のままでいい」という。「私であること」。それが「品」だろうなあ。

 

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ジョナサン・グレイザー監督「関心領域」(つづき)

2024-05-26 13:50:53 | 映画

 きのう書けなかったことのつづき。
 「距離」を考えるとき、きのう触れなかたっふたつのシーンが気にかかる。
 ひとつは、ラストのアウシュビッツ資料館(?)の映像。収容されたユダヤ人の鞄、靴が積み上げられている。その前にガラスの仕切りがある。そのガラスが気になる。私はアウシュビッツを訪問したことがないのでわからないのだが、あるガラスのせいで、ずいぶんこころが落ち着くのではないだろうか。(落ち着くという表現でいいかどうかわからないが、とりあえず書いておく。)もしガラスの仕切りがなかったら、その鞄や靴がもっている匂いが直接肉体に迫ってくるだろう。触感(実際に触れるわけではないが)も、ずいぶん違ってくるだろう。あのガラスによって、「距離」が一定に保たれている。そこに「一定の距離」が生まれてしまう。近づきうるかもしれないのに、近づけない「拒絶の距離」。それは、そこを訪問したひとが「近づけない」と同時に、そこにある鞄や靴も「近づけない」ということである。訪問者からすれば、それは絶対に私には触れてこないという安堵感となるかもしれない。どこかに、自分は「関係がない」という意識を生み出すかもしれない。「関心」がそのまま「関係」にはならないのだ。
 「客観的」になることは大事だ。だが、「主観的」になることも大事なのである。その「主観的」になることを、あのガラスは妨害していないか。これは、映画そのものへの評価とは関係がないことなのかもしれないが、ちょっと気になった。そんなことが可能かどうかわからないが、「フィクション」になったとしても、あのシーンが、ガラス越しではなかったとしたら、とても強い衝撃が生まれたと思う。
 もうひとつは冒頭のシーン。灰色、あるいは黒。私は目が悪いせいかもしれないが、その一面の暗い灰色が、特にスクリーンの端が(上辺だったり、下辺だったり、右だったり、左だったり、隅っこだったりするのだが)、ときどき薄っすらと明るくなる、それが揺れる。ちょうど煙の先端が揺れるように。あれはきっとホロコーストのときの煙を描いているのだと思うが、そのときのカメラは煙の真っ只中にある。風が吹いてきて、煙が揺れるので、ときどきその端っこが明るんで見えるのである。そう思ってみていた。それはまるで自分が焼かれたとしたら、そのときに見る煙と空(光)の関係かもしれないと思った。煙は絶望。光は、それでは希望なのか。そうではないだろう。やっと苦しみから解放されるという望みだとしても、そんなものはことばがつくりだす幻想であって、光を感じたからといってそれが希望であるはずがない。そこには「距離」というものはなく、ただ「真ん中」があるだけなのである。「真ん中」を定義するのが「周辺」の光の揺らぎなのである。
 この映画では、アウシュビッツの「真ん中」が描かれるのは、この冒頭の煙だけてある。見た瞬間に、アウシュビッツの真ん中に放り込まれ、それからあとはアウシュビッツに接続した(距離のない)外側が描かれる。その「真ん中」と最後のアウシュビッツの資料館が、主人公たちの生活を挟み込んでいるという構造なのだが、つまり、「真ん中」がひっくりかえるようにつくられている映画なのだが。
 この煙のシーンにかぶせられた音楽が、私には、どうにも過剰なものに思える。ひとのうめき声とも感じられる、一種、不気味な、不安をあおる音なのだが、このシーンには音がなかった方がよかったのではないか。あったとしても自然の音、風が揺らす木々の葉の音、川の流れる音、鳥のさえずり。人間のやっていることとは無関係に生きている自然の音、あるいはそれされも消してしまう「沈黙」という音。
 「沈黙」にも音がある、というのは、きのう書いた少女が奏でるピアノの音にも通じる。それは、その音楽を書いたひとが絶対に聞くことのなかった音(彼、あるいは彼女にとっては「沈黙」の音)だった。その音楽に重ねられた歌詞(実際には字幕だけ)もまた、その音楽を書いたひとには聞くことのない「沈黙の音」だったし、ピアノをとつとつと弾いている少女にとっても「沈黙の音」だった。そういう「沈黙」が結びつけるこころ、「沈黙」が消してしまう「距離」というものもある。
 アウシュビッツに残されている鞄や靴。その「沈黙の声」は、「沈黙」であるがゆえにガラス越しでも「同じ」かもしれないが(そう言うひとがいるかもしれないが)、私はやはりガラスがない方が「沈黙」が厳しく迫ってくるように感じられる。「沈黙」が匂いのように肉体をつつんでくるように感じられる。

 何に触れるのか、何に触れないのか、何を聞くのか、何を聞かないのか。「客観」ではなく「主観」の問題なのである。「主観」が、問われている。

コメント (1)
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ジョナサン・グレイザー監督「関心領域」(★★★★★)

2024-05-25 21:17:19 | 映画

ジョナサン・グレイザー監督「関心領域」(★★★★★)(Tジョイ博多、スクリーン5、2024年05月24日)

監督 ジョナサン・グレイザー 出演 クリスティアン・フリーデル、サンドラ・ヒュラー

 注目したのはふたつのシーン。
 ひとつ目は、リンゴをひそかに配給(?)していた女性が、お礼の楽譜をみつけ、それをピアノで弾いてみるシーン。無残に殺され、死んでいくしかない人間がつくりだした、その音。彼は(彼女かもしれないが)、その音を実際に聞くことはない。音楽家の頭のなかには音が鳴っているかもしれないが、それはあくまでも抽象的なもの。ピアノであれ、人間の声であれ、なにかによって現実の音になる。そして、不思議なことに、その現実の音を聞くとき、私たちは現実の音以外のものをも聞き取る。その音楽をつくったひとのこころ、夢や願いを聞き取る。それをことばにすることはむずかしいが、ことばにならない何か、あるいはことばにしなくてもいい何か。それを聞き取り、そのひととつながる。音を聞いたのか、音楽をつくったひとのことばにならないことばを聞いたのか。これは、区別しなくてもいい。それは便宜上、ふたつわけただけであって、区別できないものだからだ。そして、これは、音楽を書いたひとと音楽を演奏してみたひとが、けっしてあわない、離れているからこそ、強く結びつく。その結びつきに、「距離」がなくなる。
 映画では、この曲に詩がつけられており、歌声が流れる。それは映画のなかの「現実」には存在しない音 (ことば)なのだが、そういう完全に別なものとも結びつき、やはり「距離」というものを消していく。こころは、どんな「距離」をも超越して結びつき、そこからまだ存在しない世界をつくりあげていく力を持っている。短いシーンだが、ほんとうに美しい。
 もうひとつは、クリスティアン・フリーデルがアウシュビッツからベルリン(?)に栄転(?)したあとのシーン。ラストの直前、執務室から出てきた主人公が、階段で吐いてしまう。二回、吐く。どうしてだろうか。アウシュビッツの残酷さがわかったからである。残酷さというような、軽いことばでは言えない、どうしようもない何ものかが肉体に遅いかかって来たからである。こんなことを書くと、ホロコーストに関係した人間を許しているように聞こえるかもしれないが、あえてそう書くのは、ここでもやはり「距離」が問題になるからである。
 この映画の主題は「距離」なのである。
 アウシュビッツにいるとき、そこの所長をしているときは、アウシュビッツの残虐とかれの肉体のあいだには「距離」がない。それが見えない。同じように「距離」のない場所に、美しさがあるからだ。美しい家、美しい妻、美しいこどもたち。庭の緑、豊かな自然。彼は、いつでも、それにどっぷりとつかり、すぐそばにある「美しくないもの」を消してしまう。美しいものに触れていれば、醜く、酷たらしいものは消えると思っている。洗い流せると思っている。自分を清められると思っている。だから、ユダヤ人の骨が流れてきた川から逃げ帰ると、家でからだを洗う。こどもたちのからだも真剣に洗い清める。ユダヤ女性とセックスしたあとはペニスを洗い清める。
 ところがベルリンに来てみると、彼を洗い清めるものがない。彼のまわりには、美しい妻も、美しいこどもたちも、美しい家もない。彼らは、アウシュビッツの家にいることを選び、主人公だけがベルリンに単身赴任(?)している。そして、遠く離れて、その「距離」を思うとき、その「距離」のなかにアウシュビッツが押し寄せてくる。アウシュビッツにいたときは、収容所と家のあいだには「塀」があったが、ベルリンに来てみると、「塀」が見えない。「塀」がアウシュビッツを隠してくれない。「距離」のなかに「塀」が飲み込まれて消え、「塀」を越えてアウシュビッツが迫ってくる。
 そしてそのとき、彼はまた、こんなことも考えているに違いない。美しものを愛し、美しさにこだわった妻。そのこだわりは、夫や家族といっしょにベルリンへ行くことを拒絶した。その拒絶には、醜さはないのか。自己中心的な残酷さはないのか。そして、その自己中心的な美への愛好、そのつまらない感覚こそ、アウシュビッツを存在させたものなのである。ひとのことは知らない。自分が幸福だと感じられるのがいちばん大切。見たいものだけを見るのが人間なのだ、見たくないものは隠して見なかったことにするというのが人間なのである。
 ところで、この「距離」であるが。
 人間の「距離」は、実に、不思議なものである。「近く」にあるときは、「遠く」にあるときよりも簡単に「遠ざける」ことができるのである。隠すことによって、「見なかった/聞かなかった」、あるいは「気づかなかった」と言えるのである。もちろん、それは嘘であるが、人間は簡単に嘘がつけるし、脳は自分の都合がいいように嘘を納得するものである。つまり、嘘に慣れる。嘘と思わなくなる。
 一方「遠く」にあるものは「遠ざける」ことができない。すでに「遠い」から「遠ざける」には意味がない。そればかりか、「遠い」から隠すこともできない。逆に「遠く」にあるものは「近づける」というか、こころが「遠く」までいってしまうのである。「遠い」からこそ、こころが「会ってしまう」のである。こころが会いに行った、「近づいて行った」のだから、そこには嘘がない。もちろん「嘘をつくため(だますため)」に近づいていくひともいないわけではないだろうが、たいていは、ひとはほんとうのこころで近づいていく。
 「近づいたもの」(近くにあるもの)をひとは愛してしまう。塀によってアウシュビッツのホロコーストが遮られ「遠ざけられる」とき、塀に守られた「近くにあるもの」(美しい家、美しいこども)を妻が愛してしまう、そしてそれを手放すことを拒否するのは、とてもとても単純なことなのだ。
 だからこそ、「距離」である。
 主人公の妻、サンドラ・ヒュラーの母は、遠くから娘に会いに来た。そして、その美しい家を見た。しかし、同時に塀の向こうで行われていることを、匂いと音によって知った。匂いや音は「塀」には遮られない。彼女は自分で「隠した」のではないから、「隠されたもの」が気になる。それを「見つけてしまう」。「距離」が「視覚」とは違った形で人間に作用する。そして、その隠された「近さ」(見つけてしまった衝撃)に耐えられずに、ひとりで逃げるように「遠ざかっていく」。「遠ざかる」ことで、自分を守る。クリスティアン・フリーデルやサンドラ・ヒュラーは「遠ざかる」のではなく「塀」によって視線を「遠ざけた」。「距離」を演出したのである。

 さて。
 ふたたび「距離」である。
 アウシュビッツを考えるとき、そこには「時間の距離」があり、また「空間の距離」もある。(日本からは遠い)。また「残酷/残虐」とは何か、という「哲学的距離」もある。ホロコーストの実際の執行者を動かしていたのは「凡庸さ」であるというのは、ハンナ・アーレントの指摘だったが、それはこの映画でも描かれている。美しい家庭がいちばん大切というのは「凡庸な結婚した女性」の考え方のひとつである。「凡庸さ」というのは、だれにとっても非常に身近である。「距離がない」。ここから、どうやって「距離」をつくりだしていくか。その「つくりだした距離(思考のことば)」で、アウシュビッツをどれだけ自分に「近づける」ことができるか。ことばの運動は、時間の距離も空間の距離も、確実にかえることができるはずである。そのための、ことばを運動をはじめなければならない。私はいま、この映画によって試されている。お前は、いったい、どんな「距離」をとろうとしているのか、と。

 

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「落下の解剖学」と「悪は存在しない」

2024-05-19 20:51:51 | 映画

 最近評判になった二本の映画。共通点は、脚本がともに完璧であること。違いは、「落下の解剖学」には偶然というか、発見があるが、「悪は存在しない」には偶然の発見がないということ。
 具体的に言うと。
 「落下の解剖学」は、前に書いたが「音」がキーポイントになっている。起承転結の「転」の部分で、少年の弾くピアノの音が突然透明な輝きを発する。びっくりすると同時に、その瞬間、少年の「こころ」がわかるのだが、驚いているのは私(観客)だけではない。弾いている少年もびっくりしている。自分には、こういう透明な音楽を演奏することができるのだ、と驚いて、自分の弾いた音を聞いている。音楽に限らず、あらゆる芸術に触れているひとは、こういうことを体験したことがあると思う。ぜんぜん、うまくならない。しかし、ある瞬間、何かが自分のなかで起きたかのように、信じられない「作品」が生まれてしまう。その瞬間、自分の可能性を発見する。そのよろこび。
 あれは、単に、長い間練習したから(裁判の間中練習していたから)、当然うまくなったのだという「時間経過」を描いているのではない。何かが突然自分のなかにやって来て、いままで達成できなかったことができてしまったという、一種の「発見」なのである。
 そして、その「発見」がきっかけとなり、少年はそれまで見落としていたものを次々に発見していく。具体的に言うならば、父が車のなかで語ったことばである。あれは、犬のことを語っていたのではなかった。父自身のことを語っていたとわかったとき(発見したとき)、世界が違ったものになってあらわれてきた。世界が美しいものになった。わからなかった世界が、くっきりと見えた。ピアノを弾いたときも、その「音楽」の世界が少年にくっきりと美しく輝いたのだ。あの音は、それを証明している。
 その後、少年がピアノを弾くシーンがなかったことが象徴しているように、あれは「偶然」うまく弾けてしまった美しさであり(つまり、その後、同じ美しさで少年がピアノを弾けるわけではない)、だからこそ、見逃してはいけない(聞き逃してはいけない)重要なポイントなのである。そして、少年はそれを知ったからこそ、偶然気がついた「世界の美しさ」を証言するのである。
 「悪は存在しない」には、こういう「偶然」の発見がない。映画のなかで、だれかが、だれか自身であることを「超越」してしまう瞬間がない。人生にはいろいろな「偶然」があり、それは起きた後で、あれは「必然」だったとわかる。それが「落下の解剖学」にはあるが、「悪は存在しない」には、ない。
 「薪割り」のシーンを「偶然」と見るひとがいるかもしれない。やってみるとむずかしい。言われた通りの姿勢でやると、割れる。気持ちがいい。そこには発見がある、というかもしれない。しかしねえ、あれが男ではなく、女がやって「気持ちよかった」(私は生き方をかえる)というのなら「発見」かもしれないが、男がやったのでは「予定調和」である。それが、くだらない。(ここで、男と女を、こんなふうに「定義」するのは、一種の男女差別かもしれないが。)
 「人間は、こうなふうにして変われるか(こんなふうにして新しく生き始めることができるのか)」ということを、小さな発見(小さな偶然)といっしょに描かれているとき、その作品は傑作になる。そういうものがなければ、ただのウェルメイドの作品である。


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濱口竜介監督「悪は存在しない」(★★★★)

2024-05-04 17:31:11 | 映画

濱口竜介監督「悪は存在しない」(★★★★)(KBCシネマ・スクリーン2、2024年05月04日)

監督 濱口竜介 出演 山の風景

 映画の冒頭、カメラが冬の木立をとらえる。下から、梢を見上げる形で。その木立の緑が、セザンヌの緑に見える。灰色に、とてもよく似合う。森を下からとらえた映画では、黒沢明の「羅生門」を思い出すが、あのぎらぎらした空ではなく、この映画では深く沈んだ緑、灰色と黒に侵食されながら、それでも保たれている緑が、さらに深く沈んで行く。見ているうちに、見上げているのではなく、見下ろしていような感じになる。たぶん、灰色の空のせいで。灰色は、凍った雪の色にも見えるのである。だんだん、私は見上げているのか見下ろしているのかわからなくなる。
 あ、これが、この映画のポイントなのか。「自分の立場」が、いつのまにかわからなくなる、というか、自分の見ているものが、どちらから見ているのかわからなくなるというのが、この映画のポイントなのか。(このことは、あとでも少しふれる。)
 それにつながる象徴的なシーンが、主人公が娘を学校へ迎えに行ったとき、あらわれる。娘はすでに下校していて、男は家へ引き返す。そのときカメラは進行方向(男が見ている前方)ではなく、車が進んできた方向(過去)を映し出す。過去は、どこまでもどこまでも男を追いかけてきて、それがまるで進行方向のように思えてくる。(このシーンは二度ある。)
 この「追いかけてくる過去」が、この映画のテーマなのだが、それをカムフラージュして見せるのが、冒頭の下から見上げた樹木(その緑)と空とのとけあう映像である。とても巧みである。
 さて。
 この映画の「悪は存在しない」という思わせぶりなタイトル。私は嫌いだ。思わせぶりと書いたが、見え透いている。下から見上げているのか、それとも見下ろしているか、と思ってスクリーンを見ていた冒頭のシーンでは、胸が高鳴ったが、走ってきた場所を映し出す車のシーンで、ちょっと見る気力が落ちた。ふつう、車を運転している人の見ている風景は進行方向である。しかし、カメラは逆方向を映し出し、男が「心の目」で見ているのは違うと暗示する。あるいは、あからさまに、告げると言った方がいいか。ここでは「わざと(作為的に)」カメラは逆方向を映しているのである。作為がありすぎ、(意図を説明しすぎ)、私は、とてもいやな気持ちになる。
 こういうことである。
 「悪は存在しない」、では「善は存在するのか」。こう問うと、冒頭のシーンの深みへ通じるのだが、悪と善とを過去と未来と言い換えて比較すると、とても簡単な答えが出る。現在から見ると、「過去は存在する(存在した、つまり「記憶」として存在するが)が、未来は存在しない(過去は実現されたが、未来はまだ実現されていない)」ということである。そして、「未来(善)」を実現するためには何が必要かと考えると、答えはもっと簡単になる。「いま」を守らないと「未来」はやってこない。「過去」は消え去り、取りかえしがつかないが、「未来」は、「いま」あるものを守ることで、これから美しい形であらわれてくる。
 そう見れば、この映画は、とても単純である。
 (映画を動かしている「見せかけ」の動力である、キャンプ場の建設も、「いま」の自然を守らないと、取りかえしがつかないことが起きるかもしれない、ということがテーマになっている。自分の「立ち位置が揺らぐ」というか、違ったものが見えてくるというのは、キャンプ場を開発しようとした都会の男と女にもテキヨウされている。彼らは、開発者の立場だったのだが、男に接しているうちに、だんだん気持ちがかわってくる。見えている世界が違ってくる。)
 男には娘はいるが、妻はいない。(かつては、いた。)どうしていなくなったのか。映画の最後で説明される。
 少女は、銃で撃たれた鹿と向き合っている。傷ついた鹿のとなりには子鹿がいる。傷ついた鹿は、こどもを守ろうとして人間に攻撃的になる。これは少女が体験したことだろう。過去にそういうことがあったのだ。少女と母親(そのとき男もいただろう)は傷ついた鹿の親子に会った。母親は少女を守るために、傷ついた鹿の前に立ちはだかった。それを鹿は、人間の攻撃と見なし、母親に襲いかかった。そのため母は死んだ。少女は、傷ついた鹿は人間に襲いかかるということを知っている。だから、最初は動かずにじっとしている。しかし、銃で撃たれた傷が心配で(帽子で傷を塞いでやりたい、手当てをしたいと思って)、鹿に近づく。
 ここから先は「暗示的」に描かれるだけである。男と同行していた都会の男は、少女を守ろうと動こうとする。動けばさらに危険と知っているので、男は都会の男を押さえ込もうとする。二人が格闘しているあいだに、事件は起こる。どんな事件か、どういう結末か、もう書く必要はない。
 男は、ふたたび「未来」を守れなかったのである。男には「過去」だけが存在する。それは「悪」か。もちろん、「悪」と呼ぶことはできない。「事故」である。そして、その「事故」は「未来」を守ろうとして起こした行動が呼び寄せたものである。「善」を実行しようとして行動したのだが、それは「悪」と呼びたいようなものになって、あらわれてしまった。
 だれだって、そんなことはしたくない。自分のしたことが「悪」だとは認めたくない。自分が「悪い結果」の原因だとは認めたくない。そして、だれも彼が(あるいは彼女が)したことが「悪」であるとは言わない。「悪は存在しない」と言う。そう言われたからといって、それでは、その行為をした人が救われるわけではない。

 「ドライブ・マイ・カー」を見たときも感じたのだが、ああ、この濱口竜介というのは、どこまでもどこまでも「意図的」なのだ。「作為的」なのだ。素人役者をつかい、わざと「疵」を残し、その「疵」によって、映像をいっそう美しく見せる。いや、実際、自然の風景はとても美しい。私は山の中で育ったからそう感じるのかもしれないが、あ、この色、この形、この空気の感じは、知っているぞ、私はこの色、この形、この音が、この空気が好きだった、心底共感してしまう。(だから★4個)。そして、だからこそ、とてもいやなのである。そうした美しいものにさしはさまれた「作為」が。
 たしかに、人間の行為に「悪は存在しない」。その考えに私は与する。しかし、あるとき、人間の行為には「作為が存在する」。ときには「作為は存在しないと見せかける作為」というふうに、手の込んだものまであらわれる。
 そうであるなら、最初から「作為」を前面に出して映画をつくればいいのだ。「作為」だけで映画をつくろうとしたが、どうしても「作為」ではないものがあらわれてしまった。そういう映画を見てみたいなあ。「作為」をとおしてしか具体化できないもの、浮かび上がらせることのできない「ほんとう」というものあるのだから。


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「オッペンハイマー」の問題点、その2

2024-03-30 17:30:20 | 映画

 物理学者、数学者は、核分裂、核融合の夢を見るとき、あの映画のような光が飛び回るシーンを夢見るか、という疑問を書いた。私は彼らはイメージではなく、数式で夢見ると思ったからだ。これに対し、ある友人が「それではふつうのひとにはわからない」と言った。なるほど。では、ふつうのひとはあのシーンで、核分裂や核融合の仕組み、あるいはブラックホールのことがわかるのだろうか。私はふつうのひとのように想像力が豊かではないのか、あんなシーンを見ても、何も感じない。「もの」のなかで、電子や素粒子があんなふうに動いているとは想像できない。
 たしかに数式を書き並べられても、それが何を意味するかわからないが、しかし、彼らは数式で世界を理解しているということは理解できる。だって、アインシュタインはオッペンハイマーが持ってきた数式を一目見ただけで、それが何を意味しているか理解したし、別のシーンではある考えが提案されるとオッペンハイマーは黒板にすぐに数式を書き始めた。ほかのときも、黒板に数式を書いて、考えを整理している。だったら、夢のなかでもきっと数式を書いているに違いない。どこからか、数式があらわれてきて、それが消えていく、それを必死になってメモしている、覚えようとしている。それが数学者、理論物理学者の真実ではないのか。少なくとも、奇妙な、「2001年宇宙の旅」の模倣のようなシーン以外では、彼らの「頭脳」のあり方は、そんなふうに描かれていた。
 脱線して、「2001年宇宙の旅」について書いておくと、私がいちばん感動したのは、HALが宇宙飛行士にメモリーを一個ずつ削除されるとき、必死になって昔覚えた「デイジー」の歌を思い出し歌うシーンである。大きなカセットテープ(これを知らない若者もいるかもしれない)のようなメモリーの一つずつに、何かのメモリーが記録されており、それが連携している。そのメモリーが一つずつ失われ、HALは何も計算できなくなる、実行できなくなる。そのことが、「具体的」に、肉体に迫る形で表現されていた。あのとき、私はHALの「肉体」そのものを感じ、びっくりした。
 だから、何かアイデアが閃いた瞬間に、主人公たちが次々に数式を展開する、ある結論が提示されると、それを数式を自分で展開しながら確認するというシーンが映画のなかで展開されれば、私は、それに感動したと思う。主人公たちの肉体の動きを感じたと思う。その数式が、ふつうのひとにわかるかどうかなんて、関係がない。
 タイトルは忘れたが、アメリカのアポロ計画を裏側で支えた数学者(女性たち)を描いた映画でも、ふつうのひとにわかるかどうかなんか気にしないで、巨大な黒板に数式がびっしりと書かれるシーンがあったと思う。数式が何を意味しているか、その計算があっているかどうか、ふつうのひとにはわからないだろう。私ももちろんわからない。けれど、あ、すごい、彼女たちはこんなに長い数式を頭の中から引き出し、それを点検することができるのだということは、わかる。肉体の動きがわかるのである。それが自分にはできないこともわかり、わかるから、「すごい」と思う。「オンペンハイマー」で描かれていたの核分裂、核融合、物質内の電子や素粒子の動きは、そっくりそのままではないが、ある映像なら、ふつうのひとにも描かれるだろう、想像できるだろう。そうであるなら、それはやっぱり、「見え透いたうそ」なのである。観客を馬鹿にした「映像操作」なのである。

 この映画は、もうひとつ、観客を馬鹿にしている点がある。
 この映画は、原爆の開発と同時に、アメリカで起きた「赤狩り」を描いている。オッペンハイマーは共産主義の運動にある程度共感していた。そして、共産党員とつながりもあった。実際に「赤狩り」の対象にもなった。しかし、実際は、共産党員ではなかった。アメリカを裏切っていなかった。だから、一時失脚したが、最期には復権した、ということが、権力闘争をからめて描かれている。ここには、なんとも言えない気持ちの悪い、アメリカ特有の「隠蔽」がある。
 オッペンハイマーは共産党員ではなかった。共産主義者ではなかった。だから「正しい」。この「論理」はアメリカ主義そのものだろう。
 もしオッペンハイマーが共産主義者であり、共産主義者だけれど原爆を開発し、戦争終結を早めることに成功した(アメリカでは、たしか、原子爆弾は戦争終結早める効果があったという評価が存在する)というのであれば、彼はどのように「再評価」されるのだろうか。オッペンハイマーは彼の知っている知識を共産主義の国(ソ連)に提供し、その後の核配備競争を押し進め、アメリカを危機に陥れたとして弾圧されるのだろうか。
 しかし、オッペンハイマーが彼の知識を共産主義の国家のだれかに知識を提供しなくても、それぞれの国の物理学者、数学者は、核兵器の開発に成功しただろう。だいたい、その後の世界の動きを見れば、わかる。インドやパキスタン、イスラエル、さらに核兵器開発能力をもっているいくつかの国は、かならずしも共産主義の国ではない。そして、その国の科学者は、何もオッペンハイマーの知識だけを借りて核兵器をもっているわけではない。
 この映画は、明確に言っているわけではないが、暗に「アメリカ、あるいはその同盟国が核兵器を持つのは世界の安全に役立っているが、共産主義の国が核兵器を持つのは世界を危険に陥れることであり、許すことができない」と言っている。それがオッペンハイマー復権のほんとうの理由だ。この、明確にしない「アメリカ絶対主義」、共産主義の国が核兵器を持つことを許してはならないという思想こそがいちばん危険な問題である。そして、それを明確に言わないところが、とても陰険で、とても危険である。
 映画をよく見てみるといい。この映画では、共産主義のどこに問題があるかはいっさい描かれていない。共産主義だからダメ、共産党だからダメと、批判さえも放棄して、ただ主張している。アメリカは「自由主義」の国だから、それがいちばん。それ以外の考えは認めない、と言っているだけである。アメリカは「自由主義」の国家ではなく、「アメリカ第一主義(アメリカ絶対主義)」の国家である。
 この問題を脇に置いたまま、この映画を評価することはできない。
 この問題をごまかすために、赤狩りの問題を、「権力闘争」のドラマに仕立てているのである。私が、この権力闘争ドラマだけがおもしろいと思うのは、そのドラマを「落下の解剖学」のようにもっと掘り下げていけば、赤狩りの本質、アメリカ自由主義の本質が、別の形で浮き彫りになる可能性があると感じるからだ。いまのままでは、見えそうで見えない「ヒント」の「ヒント」がありそうな感じがするだけだが。


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https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

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