詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阿部はるみ『幻の木の実』

2013-09-30 11:39:26 | 詩集
阿部はるみ『幻の木の実』(書肆山田、2013年07月10日発行)

 「苦い芽」という作品がある。これは阿部自身にとってどういう位置を占める作品なのか、阿部はこの作品をどう思っているのか--は、よくわからないのだが、私は次の部分が好きだ。

蕗みその作り方は簡単だ
さっとゆでたふきのとうを
粗みじんに切る
みそ 酒 みりん 砂糖を入れた鍋が
フツフツしてきたら
ふきのとうを入れてまぜれば出来上がり

 簡単に書いてある。実際はふきのとうを粗みじんにきることも、鍋にみそ、酒、みりん、砂糖を入れて沸騰させることも、そんなに簡単ではない。それぞれに「適量」がある。それぞれをきちんとあんばいしなくてはいけない。阿部が簡単に書いてあるのは、その「作業」が阿部の「肉体」になってしまっていて、書く必要がないからだ。--ということは、逆の言い方をすると、ここでは「ことば」が書かれているように見えるけれど、実際は「肉体」が書かれているのであって、ことばは書かれていない。
 実際に蕗みそをつくってみればいい。みそって何みそがいいのかなあ。量は? 酒とみりんと砂糖か。どれくらい? すぐにつまずいてしまう。ここには「他人」につたえるための工夫がないのである。作業の言語化(論理化)がない。
 それでも、それがぱっと目に浮かび、「肉体」が反応してしまうのは、「肉体」が何か食べ物をつくったことをおぼえているからである。おぼえていることが反応して、阿部の肉体そのものと出会うのである。
 こういう出会いは、とても安心する。「正直」な人に出会ったときの安心感がある。
 詩はつづいていく。

旬が蕗みその美味さをわかるのは
あと何年先だろう
炊きたてのごはんにのせて食べてごらん
それは
朝ごとのかなしみを補ってあまりある

 「旬」というのは二月に生まれたこどもである。(前の連に書いてあった。)こどもが春の山菜をつかった食べ物をおいしく感じる、苦みをおいしいと感じるには、たしかに何年もかかるだろう。
 でも、どうして何年もかかるのだろう。また、なぜ苦みをおいしいと感じるのだろう。(私は実は「苦み」の類がこどものときから好きで、何年もかかったという感じはないのだが、一般に、苦みを好きになるには時間がかかると思われている。言われている。)きっと「蕗みそ」をつくる手順のように、料理をいろいろつくりながら手順を「肉体」がおぼえるように、いろいろなものを食べつづけることで「肉体」が味をおぼえる。そして、そのおぼえていた味が思い出されるとき、「おいしい」という感じが生まれる。その「おいしい」は「ことば」であるけれど、それは便宜上のものであって、これはほんとうは「おいしい」ではない--というと矛盾だけれど、ほら、「おいしい」と同時に「苦い」。何か、余分なもの、ひとつのことばではいえないものがまじっているでしょ? その、微妙なまじりぐあいというのは「ことば」ではなく、「肉体」が知っている何かである。
 なぜ、こんなことをごちゃごちゃと書いたかというと……。

 はっきりとは書いていないけれど、ことばと世界との関係というものと、阿部は向き合っていて、詩は、ことばをつかって世界をつかみとることだけれど、どこかにことばではつかみとれないものがあるということを阿部は感じている。それが阿部のことばの動きをささえていると感じるからである。ことばなんかいらないのに、ことばのないところに詩があるのに、という矛盾に立ち向かいながら詩を書いている感じがある。つまり、書きながら、ほんとうに書きたいものはことばになりきれていないという「もどかしさ」のようなものを抱えて書いているという感じがどこからかつたわってくる。
 で、そのことばと世界の認識という問題が、「睦月」に出てくる。阿部の理想がどういうものであるかが、そこに書かれている。

シャラの木の枝に吊るした皿のみかんを
メジロが啄んでいる
つがいで来ては交互に啄んでいる
一羽が食べているときべつの一羽は
そばの枝で見張っている
甘い という言葉の介在なしに
直接心地よいものを選びとっている

 「言葉の介在なしに」。ことばは不要なのだ。
 そして、つぎの「直接」。これが、「言葉の介在なし」を言い換えたもの(言いなおしたもの)である。
 「直接」が阿部の「肉体」であり、「思想」なのだ。肉体が直接何かを選びとる。ことばは、たぶん、つけたしてある。しょうがなしに、何かを説明するためにつかうのである。
 蕗みそにもどれば、蕗みそをつくるとき阿部はみそ、酒、みりん、砂糖といちいちことばにしない。粗みじんにするとき、それをいちいちことばにしない。肉体が直接それを選びとって動いている。それが「直接」になるまでには、苦みをおいしいと感じるまでにかかるくらいの「時間」がいるのかもしれないが、いったんその段階になると「時間」はきえる。そして、その作業が日常のありふれたことがらにみえても、それが「永遠」になる。なぜ「永遠」かというと「時間」がないからだ。「言葉の介在」がないからだ。そこには「直接」だけがある。

風のかすかなふるえのなかで
受け継がれた身ぶりをくり返すだけ
うす緑色の赤子のにぎりこぶしほどの体が
はずむように嬉嬉としてみえる
果肉は体内で無駄なく吸収され
啄みながらつぎつぎに排泄する
精密と単純がとても近くにある

 「精密と単純がとても近くにある」とは、「永遠」を言いなおしたものである。「真実」を言いなおしたものであるといってもいい。そして、「精密と単純がとても近くにある」というのは「無駄なく」と同じことを言っているのだが、どちらも「方便」であって、ほんとうは、そんなことばはいらない。「肉体」にとって、そういうことばは、それこそ「無駄」であり、「直接」を疎外するのもなのだけれど、そういう径路をとおらないと「直接」を示すことができない--この矛盾の中で、阿部の詩は動いている。

 めんどうくさいことを書いてしまったが、阿部の肉体がここにあり、その肉体が「直接」世界と結びつく(とても近い)になる瞬間を、阿部は書いている。「直接」結びついたとき、そこに「ことば」はいらないのだが、「ことば」はいらないという詩を書くためにことばを書いている。

幻の木の実
阿部 はるみ
書肆山田
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是枝裕和監督「そして父になる」(★★★★)

2013-09-29 17:07:53 | 映画
監督 是枝裕和 出演 福山雅治、尾野真千子、真木よう子、リリー・フランキー

 リリー・フランキーがとてもおもしろい。なんとなくだらしないのだが、そのだらしなさは余分なものをかかえこんだ豊かさ、あたたかなものをもっている。それは福山雅治の具現化する合理主義とはまったく違っている。合理主義では、余分なものはつぎつぎに削ぎ落とされる。合理主義とつきあうには、樹木希林が福山に対してみせたような「年寄りが余分なことを言ってしまって、許してくださいね」という対応方法(表面で誤りながら、心の底で馬鹿野郎、と関係を絶つ)が一般的なのだけれど、それでは「豊か/あたたか」という印象はなくて、「したたか」になってしまう。「したたか」を超えて「豊か/あたたか」になれるのは、すべてのことを「余分」とは考えないからである。約束の時間におくれるたびに、「妻が出掛けに時間をとって」と言い訳するが、それは「方便」であって、妻が時間をかけることを「合理的判断」で「悪い」と謝罪しているわけではない。世の中には、そういう「余分」がある、その「余分」を自分は拒絶しないということを、静かに語っているのである。「余分」をひとに与える、と言ってもいいかもしれない。「余分」はときには相手にはもっと「余分」であるから(福山に対しては「余分」すぎる)、ときには激しく嫌われるが、「余分」が必要なひとがいるし、必要なときもある。
 すこし補足すると。風吹ジュンに福山が電話をかけて、かこのあれこれを謝ろうとすると、風吹が「だれそれがかつらだとか、整形しているとか、そういうくだらない話をしたい」と応じる。その「くだらない」が「余分」。「余分」だけれど、それがないと「合理主義」に縛られてやっていられない。(「合理主義」のかたまりの福山の職業を建築家にしたのは、非常に理にかなっている。かないすぎているかもしれないが……。)
 リリー・フランキーが非常に印象に残るのは、その「余分」を「余分」が必要なときだけではなく、不必要なときにも自然ににじみださせるからである。「余分」が「肉体」になってしまっていて、ほんとうは「余分」を出してはいけないときにまで出してしまうからである。まるで状況を把握していない――というと矛盾だけれど、そういう感じで「余分」を出すことで、「役柄」を「役」にとじこめずに「人間」にしてしまっている。こんなにうまい役者だったのかと、私は感心してしまった。
 子役もうまいなあ。是枝はもともとこどもの演技を引き出すのが非常にうまいが、今回もびっくりしてしまう。リリー・フランキーのこどもを(ほんとうは福山のこども)を演じた黄升げんが福山に「なんで」とくり返すところなど、とてもいい。まるで台本を読んでいない(ストーリーを理解していな)みたいな、その場で突然芽生えた反抗心をそのまま捉えたような、とても気持ちがいいシーンだ。
 周囲の演技に比較すると福山は損をしている。「合理主義」を生きてきた人間にしては美形すぎるのである。美形が冷たさではなく、どこかで「甘さ」をもっていて、その「甘さ」はリリー・フランキーの「甘ったるさ」を強調することにはなっても、「非情」を浮かび上がらせない。最後の「非情」をつきやぶるところ(その前の、息子がカメラをいらないと言った理由をさとるところ)では、なんだかセンチメンタルの方が強くなるような気がする。そこが「見せどころ」なので、うーん、悩ましいね。もっと「肉体の無機質」を具現化している役者の方がクライマックスが泣けたかなあ……。(あ、劇場では、何人もの観客が泣いていたのだけれど……。)

 それとは別に。
 この映画にはとても不満なところがある。音楽が多すぎる。音楽がかってに「感情」をつくりすぎる。最後の近く、福山が息子に会いにリリー・フランキーの家へ向かうシーン。その冒頭の5秒くらい(?)間は音楽がなくて、ただ車が走る。あ、ここはいいなあ、やっと音楽に頼らない映像がでてきたぞ、と思った瞬間に音楽がはじまる。せめてあと5秒、音のない映像があると、見ている方の気持ちがすーっと空白になっていい感じなんだけれどなあ。
 どうしたって感情過多になってしまう映画なのだから、感情を空白にする工夫がもう少しあれば、もっと劇的になると思う。感情の空白という点では、風吹ジュンと福山の和解が「電話の声」だけというのはよかった。面と向かってあの台詞がやりとりされたら、話がまったく別になってしまう。
 スピルバーグがリメイク作品を撮るという話があるが、感情の空白をどう処理するか、それが楽しみだなあ。
 (2013年09月29日、天神東宝1)
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北川朱実『ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ』

2013-09-29 10:59:06 | 詩集
北川朱実『ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ』(思潮社、2013年09月20日発行)

 北川朱実は人と会ったときにこころが正直に動く。『死んでなお生きる詩人』は彼女の正直がとてもはっきりと打ち出された評論集だった。『ラムネの瓶、……』でも、他人と出会ったときのこころの動きがいい。
 「字が書けそうだった」は直接他人と会うわけではないけれど、やはり他人と出会う詩である。

道を歩いていると
とつぜん家と家との間にさら地があらわれた

 「とつぜん」の「さら地」に、人はいないが、人がいないことによって、人がいる。そこに「人がいたのだ」という意識の目覚めがあり、その瞬間に北川は他人に出会う。他人に出会うから、ことばが動く。
 すぐに、「ことば」が出てくる。

そこに何があったか
言葉は降ったのか
何一つ思い出せなかった

 この「言葉」は少しめんどうくさいものを含んでいる。言い換えると、多様な「意味」を含んでいて、すぐにはそれを特定できない。特定できないのだけれど、そういう多様な意味をもっているということは、「肉体」がぱっとつかんでしまう。「肉体」が納得してしまう。「言葉は降ったのか」の「意味」もわからないが、あ、このさら地に誰かがいて、そのときのことばが形のないまま気配として感じられる。その不在のことばに対して呼び掛けても、不在であるから返答のありようがないのだが、その返答がないということも含めて「肉体」はそこにたしかに他人がいたかもしれないと感じる。北川の「肉体」から「他人」をもとめて動きはじめる何かがあって、それが、ここに動いている。そして「言葉は降ったのか」という、複雑な「意味」をもったことばとなってあらわれている。
 「何一つ思い出せなかった」と北川は、何かを「おぼえている」。「おぼえている」ことがあって、それがとこばになって思い出されないときの、いわは「記憶のさら地」みたいな感じが、人がいたはずの「さら地」と重なる。その重なりを、北川は正直にうごくのである。
 ここから、北川は「文字」と「記憶」というソクラテスも問題にしていることがらにちょっと触れて、そこからまた別の「他人」に出会う。他人を出会いに引っ張り込むという方が近いかもしれないけれど。
 
文字をおぼえて
過ぎたことを忘れることができなくなった

書かなければ
あったことの多くを忘れるという

遠く ギニアの奥地で
一つの文字も持たずに
五千年を生きた部族

彼らの前をとおり過ぎた人々の頭蓋は
洗われ
磨かれ

休館日の図書館みたいな木のうろに
ひっそりとしまわれているというが

 「文字を持たない部族」。彼らはしかしことばを持たないわけではない。書かない、記録し、それをつかうということをしない。ひとは、何かを体験しても必ずしもそれを記録しない。記録を消すということもあるかもしれない。たとえば、家を壊し、そこを「さら地」にする。
 でも、「さら地」はほんとうに「さら地」になるのか。だいたい「さら地」の「地」はそこに最初からあったのであって、その上を人と建物か横切っていったにすぎないと考えると、それを「さら地」と呼ぶのも何か奇妙な感じがする。
 「さら地」には、すでに「ひと」が刻印されている。それがどんなに無人になろうとも。
 その「無」が、北川を揺さぶる。「無」によって、北川の「余分なもの(?)」が削ぎ落とされ、むき出しの「肉体」になる。
 そのとき、北川が頼りにしたのは、「文字を持たない部族」である。「他人」である。--というと、少し間違っていて(かなり間違っていて)、「さら地」にことばが残っていななこと(ことばが無であること)を媒介(?)にして、「無」を生きるものがありうることを北川は思い出すのである。
 そこではたまたま「ギニアの奥地」の「他人」が呼び出されているが、実際に北川がその人たちと「時間」を共有したかどうかはわからない。共有しなくても、たとえば北川にも「文字を持たない時代」があるから(こどものとき、文字をおぼえる前の時間がある)、「文字を持たない」ことがどういうことか、わかる。それを北川の「肉体」はおぼえていて、その「文字を持たない」感覚を「いま」に結びつける。
 その感覚と「さら地」が重なり合う。「文字を持たない」というのは「家」を持たないというのに等しい。人間が「ひとり」としてむき出しになる。「正直」になる。(むき出しの人間と、正直は、「一体」のものである。)「あたま」が「頭蓋(骨)」になってしまっても--なってしまうとき、消えたはずの何かが、ふいにあらわれる。正直が、と私はいいたいのだけれど、そのことを具体的に、論理的に書くことは私にはまだできない。「予兆(予感)」のようにして、そういうことを感じるのであって、ことばを「肉体」の奥から引っ張りだして形にはできない。
 北川も、そういうことを具体的に、論理的には書けないから、詩という、矛盾によって輝くものを利用して、ここにこうやって書いたということだろう。

 論理的に書けないからこそ(頭の理解しやすいようにかけないからこそ、というと何か申し訳ないことをいっているような感じもするが、否定的ではなく、肯定的に「逆説」を書いていると読んでください)、北川は、北川自身の「肉体」がおぼえていることへ引き返す。ギニアの部族の体験と北川自身の文字を持たないときの感覚をかさねあわせながら、さらに「肉体」のおぼえていることを思い出す。

頭蓋の鮮やかな傷も
彼らにとって
河の蛇行ほどのものかもしれない

今日
誰も書かなかった明け方の汽車に乗り
誰も書かなかった土地を旅した

ひらべったい文字を
川に向かって投げると

何かをこらえたように
いくつも水を切って見えなくなり

空を 白い貨物船が
律儀にゆっくりと航行していった

字が書けそうだった

 そうして、正直を発見するから、「書けそう」な気持ちになる。



ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ
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思潮社
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高橋優子『漆黒の鳥』

2013-09-28 10:10:14 | 詩集
高橋優子『漆黒の鳥』(思潮社、2013年09月20日発行)

 高橋優子『漆黒の鳥』は端正につくられた散文詩集である。なかほどにある「彼方の水」は高橋の最良の作品であるかと問われると、少し困るけれど、感想がいちばん書きやすいのでこの作品を取り上げる。キーワードがある。

 彼方で、水が光っている。その幽かな水音をともなっ
た照り返しのまばゆさに、眼を細めながら、現実の光で
はないと知っている。

 書き出しの部分だが、その「現実の光ではないと知っている」ということばの「現実」と「知っている」が高橋のことばを動かしている。
 ここに書かれている「現実」ということばは、複雑である。何か、入り乱れている。矛盾とは言えないかもしれないが、あいまいな、ことばにならないものを含んでいる。
 話者(高橋、ということにしておく)は、水の光を見ている。それは「照り返し」である。「照り返し」は「現実」の光ではない--というとき、「現実」は「照り返し」以前の光、つまり「発光体」を指すことになる。
 だからこそ、詩は、

          何処からか差し込む光によって、水
は輝いている。

 という具合につづく。「何処からか差し込む光」が「現実」である。このとき「現実」は「ほんとう(真実)」というものに近くなる。そして、水が照り返す光は、その「現実の光(真実の光)」に対して「虚構の光」ということになるかもしれない。しかし、これはあくまで「発光源」に対して「反射」を比較して、便宜上分けたことがらにすぎない。
 「現実」には一方には「発光源」があり、他方にそれを反射するものがある。その二つで「現実」はできている。それをつなぐものとして「水」がある。
 というのは、正しくなくて。
 (間違っていて、といいきっていいかどうかわからない。特に、私の場合、「誤読」こそが欲望/本能の真実を反映していると考えるので、ここでは間違いということばをつかいたくない。)
 ややこしい言い方になるが(私は、私にもよくわかっていないことを書こうとしているので、どうしてもややこしくなるのだが)、「発光源」と「反射」を区別して、一方を「現実ではない」と呼ぶとき、それは「私(高橋)」の「外」の現象であって、現象があるとき、同時にそれを観察する(把握する)「主体」というものもある。その「主体」の「現実」は、いったい、どうなるのか。無条件に「現実」であると言っていいのか。言い換えると、この詩のなかには「知っている」ということばが書かれている。これは「私は知っている」ということだが、「知っている」ということと、「知っていることの対象」との関係において、「知っている」を無条件で受け入れていいのか。「知っていることの対象(水の照り返し)」が「現実の光ではない」と「知る」とき、「私」をささえる「現実」とはなんだろう。何によって「私」の「現実(真実)」がささえられるのだろう。
 「われ思う、ゆえにわれあり」という二元論に従ってしまえば、こういう問題は簡単なのかもしれないけれど。
 問題は「現実の光ではない」ということばに逆戻りする。「現実の光である」と知るときは、たしかに「われ思う、ゆえにわれあり」という考え方は落ち着くのだが--一方に「現実のある」があり、他方にそれを認識する「われがある」のだが、「ない」ものを認識する、ないを認識するとはどういうことなのか、という問題が起きる。なぜ「ない」を認識できるか。
 どこかで「ある」ということを知っているから、それに比較して(?)「ない」というのだが、なぜ「ない」という否定形を借りてしまうのか。そういうものを借りずに「ある」ものだけで「現実」をなぜ把握することができないのか。書いてしまえないのか。
 「ある」では、物足りないのだ。
 ああ、この「物足りない」という表現のなかにも、「ない」がでてきて、ほんとうにめんどうくさいが、無理に言いなおせば「ある」ものだけではなく、そこには「不満」があるということになるのかもしれない。

 だんだん、ややこしくなってきた。いっそう、めんどうくさくなってきた。
 はしょってしまおう。

 高橋は、「現実」というものが「ひとつ」では「ない」ことを「知っている」。「現実」が複数の要素で「ある」ことを知っている。そして、それが複数であるからこそ、その複数のあいだをことばで歩き渡り、それをつなぎとめようとする。そして、そのとき高橋は「現実である」ものと「現実である」ものを集めてまわるのではなく、「現実ではない」ものと「現実ではないもの」をこそつなぎとめ、その連鎖のなかに「現実である」ものを封印する。「現実である」ものを、そのなかに確立する。
 また飛躍して言いなおすと。
 「現実ではないもの」を次々にあつめ、それによって虚構世界(存在しないのだからね)を作り上げ、その「虚構を作り上げる主体(私=詩人・高橋)」を唯一の「現実」にするのである。
 われ思う、ゆえにわれあり--ではなくて。
 われ虚構をつくる、ゆえにわれあり、なのだ。
 「現実ではない」ということを「知り」、その「現実ではない」ものを存在させることができるのは、「われ(高橋)」が存在するからである。高橋の存在を抜きにして、高橋の作り上げた「虚構」というものはない。

 まあ、こんなごちゃごちゃしたことを高橋は実際に書いているわけではない。詩のつづきを引用する。

         記憶の彼方からの影がつれてくる、
はかなさの縁を辿っておとずれるもの。あれほどに激し
く忘れようとした時間の影が、滲みだして、凝ったよう
になり、底深い光となって水に映えるのだろうか。密か
な水音を割って。

 「はかなさの縁」ということばがあるが、高橋は、私が先に書いたような、ごちゃごちゃしたことを「論理」に押しつけずに、「感覚」で引き受けてひっぱっていく。「光」を書きながら、直接見つづけるのはむずかしい「光」ではなく、プラトンのイデア論のように知らず知らずに「影」という目にやさしいものを利用して、「滲む」とか「凝る」とか「密か」とかいうものの方へ動いていく。
 「現実」にあるのは、「論理」が捨てる、そういう一種の非論理的なもの(論理の加速度を邪魔するようなもの)へと傾いていく。
 ややこしいのは--そんなふうに「現実」をとらえるにもかかわらず、そうやって構築された感覚世界もまた「虚構」であるということだ。

 こんなことは、いくら書いても堂々巡りを脱出することはできない。
 私は簡単に、高橋は「現実ではない」と「知る」という現実と私の関係を利用して、その「現実ではない」ものを積み重ね、そこに繊細な「虚構世界」をつくり、そこに高橋自身を住まわせている、と書けばよかったのかもしれない。
 こういう「虚構世界」の住人でありながら、高橋がすこし変わっているのは、高橋がそのとき「現実ではない」ということを認識していることである。「虚構」に溺れてしまうのではなく、「意識」(これは2段落目に出てくることば)とか「記憶」とか「時間」とか、「理性」に従属することばで高橋自身のことばの運動をささえるところにある。
 高橋は、だから、
 「われ思う、ゆえにわれあり」ということもできるのである。「理性/悟性」による自己の統合を生きている--たぶん、(あるいは、とも言ってみたい気がするのだが)高橋はそう主張し、私の感想を「誤読」と拒絶することになるだろうなあ……。



漆黒の鳥
高橋 優子
思潮社
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徳弘康代「これから先の人生のなかで、今が一番きれい」ほか

2013-09-27 12:49:06 | 詩(雑誌・同人誌)
徳弘康代「これから先の人生のなかで、今が一番きれい」ほか(「Down Beat」3、2013年09月10日発行)

 野村喜和夫『(芭(塔(把(波』(左右社、08月30日発行)のことばに酔ったあとは、ちょっと冷たいすっきりした水を飲むような感じで……。
 
 徳弘康代「これから先の人生のなかで、今が一番きれい」は、タイトルからすぐに連想できるように茨木のり子の詩を踏まえて書かれている。茨木の詩そのものも「意味」がつよいけれど、徳弘の作品も「意味」でぶつかっていく。

こんな幸運なわたしでも
一番きれいだったのは いつだったのかと
キレイじゃなくなり続けると思いながら
このさき生きていくには
平均寿命は延びすぎていて

そこでわたしは
こう思ってみることにしました

これから先の人生のなかで
今が一番きれい
これから先の人生のなかで
今が一番旬

そう思って毎日暮らして
キレイなしあわせなおばさんになって
やがて
キレイなしあわせなおばあさんになる

 徳弘に茨木批判の気持ちがあるかどうかわからないけれど、「あすが一番きれい」じゃないところがいいなあ。「あす」だと茨木の詩のように説教されている気持ちになる。「今が一番きれい」って、「うぬぼれ」を超えるものがある。「これから先」なんていいながら、そんなものを見ていない。拒絶している。「おばさん」から「おばあさん」にことばは変わっていっているが、いやあ、そんなの口先だけ。徳弘は自画像を「おばさん」とは捉えていないし、したがって「おばあさん」になるはずがないのだ。そういう「心意気」がきれいだ。他人に説教しない、というところが、とてもいい。
 引用した部分のことばをそのまま暮らしのなかで口にすれば、まわりのひとはバカにしたように笑うかもしれない。その他人をバカにしたようにして笑う、その笑いのなかに「きれい」がある。笑いながら、みんな「今が一番きれい」を自分のことと思うのだ。「あんたがきれいなら、わたしはもっときれいよ」と周りのひとは思って笑うのである。そこに「正直」がある。きれいな正直がある。



 金井雄二は「坂上」「坂下」の2篇を書いている。「坂下」の方が、私は好きである。「坂上」が茨木のり子だとすれば、「坂下」は徳弘康子である。

坂を下りきると
小さな十字路になっていた
そこを右に曲がった
細い道だった
民家があった
中で誰かが話しているのが聞こえた
どこにでも人はいるのだな、と思った

 へええ、家のなかから話し声が聞こえてきて、そのとき「どこにでも人はいるのだな」と思うのか。私はびっくりした。私はそんなふうに思ったことがなかった。
 それは、あえて言えば、徳弘が「これから先の人生のなかで/今が一番きれい」と思うのに似ている。そんなこと、いちいち思わない。めんどうくさいから、そういう意識がことばにならないようにして暮らしているといえばいいのかな? その、無意識に除外(排除)しているものを取り出して、ことばにしている。その動きに刺戟される。
 これは詩を読んでいる私だけの変化ではない。刺戟を受けるのは私だけではない。そう書いた金井自身も、自分のことばに刺戟を受けている。その刺戟の結果が、後半に出てくる。

両脇には樹がしげっていた
大きな欅もあった
欅はしゃべらない
ぼくは饒舌だった
詩のことをいっぱいしゃべった
高いところ
風が舞っていた
大きな樹の枝と枝が
ぶつかっていた
カッ
カッ
ガァ
ガァ
と言っていた

 「欅はしゃべらない」なら、ほかの木もしゃべらないはずであるけれど。
 家のなかに人がいるなら、樹木のなかに人がいてもいい。その人というのは、もちろん比喩だけれど。そして、そのとき木の「話し声」というのは家のなかから聞こえてくる声と同じで、よーく聞けば「意味」がとれるかもしれないけれど、「意味」なんかとらなくても「声」だけで「人がいる」の証拠になるね。
 だから。
 木の枝は、「カッ/カッ/ガァ/ガァ」で十分。木のなかに「人」でなければ「いのち」があって、それがしゃべっている。「家のなか」から聞こえてきたのも、「人の声」ではなく「いのちの声」なのだ。「いのち」をあいだに挿入すると「人の声」と「樹の声」が重なって動く。
 こういうことは、すべて「いま」という時間に起きる。そして、その「いま」が永遠になる。つまり、そういうことは「過去」にもあった。そして「これから先」にも起きる。だから、「今が一番」と思って生きればそれでいいのだ。




ライブレッドの重さについて
徳弘康代
詩学社
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野村喜和夫『(芭(塔(把(波』

2013-09-26 09:08:40 | 詩集
野村喜和夫『(芭(塔(把(波』(左右社、08月30日発行)

 野村喜和夫『(芭(塔(把(波』は2013年の収穫のひとつである。読みはじめてすぐ、興奮がはじまる。岡井隆が「注解する者」の連載を「現代詩手帖」で読みはじめたときの興奮と同じ興奮がある。
 帯に「金子光晴と待ち合わせ」と書かれている。私は金子光晴の読者ではないのでよくわからないのだが、野村は金子光晴がいたことのあるマレー半島を旅しながら詩を書いている。ときどき金子光晴のことばが出てくる。(1)金子光晴を注解しながらマレー半島旅しているのか、(2)マレー半島を注解しながら金子光晴を旅しているのか、(3)あるいは野村喜和夫を金子光晴が旅するとしたらこんな具合になるのか。
 (3)は、私は金子の読者ではないのでわからないが、読む人が読めばそういう感じになるかもしれない。

 ことばというものは、知らない土地と同じで、どんなに知らないことばでも知っていることがある。もちろんその知っていることには「誤解」も含まれる。で、それが「誤解」であるにしろ、ひとは「知っている」と思っていることを手がかりにことばに近づいていく。知らない土地であっても、たとえば「ここは食堂だな、みんなが食べているこれは辛そうだがきっとうまいぞ」と思って、「あれください」と注文するようなものである。そこでは、何が起きても「肉体」で受け止めるしかないのだが、これがねえ、快感である。それは、ことばにおいても。
 このやってみるしかない、やればなんとかなる、という感じの「生命力」がとても気持ちがいい。野村は「よし、詩を書くぞ(よし、あれを食うぞ)」とことばを動かしていく。それを読んでいると「よし、詩を読んでやるぞ」という気持ちになる。気持ちに誘われる。こういう気持ちが起きるだけで、その詩集は傑作である。
 「意味」だとか「価値」なんていうのは、あとからどうとでもつけくわえることができる。でも、この「よし、読んでやるぞ」というわくわく感、どきどき感は、あとからはつけくわえられない。最初が勝負。そして、それで決まりなのだ。

 もう、これ以上書くこともないのだが、それでは無責任なような気もするので、少しだけ「注解」みたいなものを書いてみる。「注解」といっても、私の「注解」は作品に対する注解ではない。私自身の気持ちに対する注解である。

婆(塔(把(波
馬(塔(把(葉

なんだろうこの(誘うような(導くような
私たちの足音そのもののような

 これは詩集の書き出し。詩集のタイトルは『(芭(塔(把(波』だが、書き出しは、それに似ているが少し違っていて、で、どこが違うかというと……という指摘をするのは目の悪い私には面倒くさいので省略するが、ね、違うでしょうそして違いながら、そこに違いがあることによって、

なんだろうこの(誘うような(導くような

 という気持ちに直接ふれてしまう。
 もう、これが野村によって書かれたことばであることを私は忘れてしまう。私は私の「肉体」のなかにある「婆(塔(把(波/馬(塔(把(葉」という「ずれ」のようなものを見てしまう。野村がそのひとつひとつのことばに対してどう思うかではなく、私の感覚。私がおぼえていること、思い出せることに夢中になる。
 詩は、

波に塔が
捉えられて老婆のように歩むのか
葉から馬の首が出て塔のように伸びるのかそれとも
塔なんてない干上がったヘドロ
のような老婆の皮膚がつづいているだけ
なのか卒塔婆のそよぎ
外の場の盛り上がり

 とつづいていく。
 私の「肉体」のおぼえていることを探っていくと、この野村の書いていることと同じことを思い出すわけではない。むしろ、まったく違うことを私はおぼえていて、思い出すはずなのだけれど、読む先から、そのことばが私の「肉体」のなかに入ってきて、私をつくりかえてしまう。私の「肉体」は、野村の書いていることばのとおりに何かをおぼえていて、それを思い出すことができる。
 「この味、からいよね」と言った瞬間に、「うん、でも辛さの奥に甘味があって、それが辛さをつつむから、誘い込まれていくよ」と言いなおされ、自分の感覚がそのことばによって修正されていく感じ。他人の感覚が自分の感覚をつくってしまう感じ。(小学校の低学年とき、親友が「○○ちゃん、かわいい」と言った瞬間、その子がかわいく見えるようなもんだね。)人間の感覚なんて、自覚している以上に他人にひっぱられてしまう。自己主張できるのは、体験をたくさんしてからだ。
 で、あ、野村は私よりはるかに多くの金子光晴を読んでいて、金子光晴を体験している--ということが、もう、この瞬間にわかってしまう。そして、私「肉体」が金子光晴を読むために作り替えされていくのを感じるのだけれど。
 こういうとき、決めては、リズム、スピード。
 野村のことばには、その両方がある。歯切れがよくて、どんどん加速する。そのことばにふれていると、いや、そうじゃないだろうと反論しているひまはない。そこから落ちこぼれないように突っ走ってついていくしかない。疾走というのはつらいものだけれど、野村というペースメーカーがいるので、ぜんぜんつらくない。というより、そのペースメーカーがほんとうにすばらしいので、私は私の「肉体」がおぼえていること以上、思い出せること以上のものを味わいながら疾走する。私は金子の読者ではないから、おぼえていることも、思い出せることもないのだが、知っている気持ちになってしまう。完全なる「誤読」。これがねえ、気持ちがいい。

 次のページへ行くと、さらにそれが強くなる。

             新宿からリムジンバスに乗る(fragile という赤
いタッグが網棚の荷物から垂れて(揺れて(ぶらぶら(おかしい(いつだって
私たちはfragile だが旅に出るときはとくにそう感じる(ふらっ(蛇(いるな
おいおいそんな自分をどこまでfragile なまま進んでいけるかそうしてどこ
まで道なる道へ放り込んで(穂(織り(込んでいけるか

 ことばが脱線しながら、その脱線は閉じられることなく、逆にとじられないことで脱線ではなく本筋になるように、「肉体」の奥へ入り込んでいく。fragile という外国語さえ、外国語としてつかみとられるのではなく(理解されるのではなく)、日本語まじりで「肉体」の奥からつかみなおされる。そう、それは「脱線」ではなく、「肉体の奥(いのちの根源)」から、ことばを捨てて「現実」をつかみなおす方法なのだ。
 外国語だけではない。「放り込む」という日本語さえ、「穂/織り/込む」という「ことばの肉体」とセックスして、かってにエクスタシーを味わってしまう。おいおい、先にゆくなよ、セックスっていっしょにゆくもんだろう--なんていうのは、バカなマッチョ思想。相手をいかせてこそセックスの醍醐味なんて、嘘八百のマッチョ思想。先にいってしまった方が勝ち。ついてこれないのはへたくそ、というのが、きっとジェンダーフリーのセックスだな。
 だって、ほら、
 というと野村に叱られるかもしれないけれど、野村がこんなふうに必死になってことばのセックスで金子を追いかけてみたって、金子は先にマレー半島にいってしまっている。そこには金子のことばが射精したあとの精液のようにべたべたとこぼれている。野村は、それに対して、これはあのときの、あの相手とのセックス--なんて注釈してみても、羨望と未練があふれてくるばっかり。
 さて、どうやって競争するか。早い者勝ちのセックスに立ち向かうか。わくわくするなあ。
 ねえ、野村さん、この詩集、私の名前で出していい? なんて言いたくなってしまうなあ。「あ、そんなことしたら盗作だよ」。いいじゃない、倒錯こそが真実をつかみとるための方法なんだから。倒錯は、もうそれだけでエクスタシーなんだから。

 なんだかわからない? あ、わからなくていいんです。私は楽しいんだから、この文書を読んでいるひとのことなんか気にしていられない。きっと野村だって、この詩を書いているときは、読者なんか気にしていない。と、思う。

芭(塔(把(波
野村 喜和夫
左右社
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大家正志「不実」ほか

2013-09-25 09:37:11 | 詩(雑誌・同人誌)
大家正志「不実」ほか(「space」1106、2013年06月20日発行)

 大家正志「不実」は書き出しが非常におもしろい。

その女はそのむかし手続きだった
丹念に詠み込まれ
手垢と唾と猜疑と丁重さで愛撫され
肉体が磨耗してからは
薄っぺらな皮膚ひとつで手続きというあってなきがごとくの労働をはたしていたが
肉体が削がれて
薄っぺらな皮膚一枚になったときようやく気づくことがあった

 「手続き」とは何か。まあ、手続きなんだねえ。目的があって(結果があって)、そのためにする何事か。それはつまらないことかもしれないけれど、丹念に(ていねいに)やらないとうまくいかない。そして、ややこしいことに、それは「手続き」であって、結果ではないので、だれも注目はしないね。
 そういうような、結果に飲み込まれて見えなくなるような、女。
 それをどうやって「具体的」にことばにするか。大家がやっているのは、具体性を排除し、具体性のまわりにあるものを「抽象」でつかみとる。「手続き」は繰り返されると見えなくなるのだから、見えるように書いてもしようがない。「見えないもの」は見えないまま、抽象的に書くしかない。抽象にまで高まったとき、「手続き」が完成するのかもしれないけれど--ただし、その「完成」はあくまで「結果」を重視する人間にとって、という意味。機械論で言えば「手続き」は正確な歯車になったとき完成するのだが、歯車は「結果」にとって存在しない。
 いま、私は「歯車」という比喩をつかったが--手続きは、まあ、そういう「比喩」のような、抽象的なものである。「抽象」化すると、なんでも「頭」には「わかった」ような気持ちになるからね。
 脱線したかな? この詩に戻って言えば、「丹念」「手垢」「猜疑」「丁重」そういうことばが抽象するなにごとか、抽象されることで欠落するものと残るもの--そのせめぎ合いのなかに「手続き」がある。せめぎ合いとして、「手続き」が肉体にせまってくる。「丹念」も「手垢」も「猜疑」も「丁重」も具体的なことは言っていないが、そのことばはいっしょに「つまらない手続き」のためにつかった「肉体」がふと思い出されてくる。
 ここがおもしろい。
 「結果」ではなく、「手続き」の抽象的な内容ではなく、そのときの「肉体」そのものの感じが、抽象をいやがってあらわれてくる。抽象で描かれるのだが、抽象はいやだよ、と抵抗するようにして「肉体」がうごめく感じがする。「磨耗」ということばが出てくるが、抽象によって「肉体」が「磨耗」する感じ。--その感じさえも「磨耗」という抽象で描かなければならないという矛盾。
 ここがおもしろい。 

 詩のつづき。

手続きそのものを疑うことは
薄っぺらな皮膚一枚になった事情そのものも疑わなければならないことで
女は
つい
薄っぺらな皮膚も削ぎ落としたのだが そのとき
ふかくにも
足もとの石の
そんなところにそんなものがあるなんておもいもかけない
足もとの石の空洞にはまりこんでしまった

 「石」に「空洞」があるというのは、矛盾であり、そこにまた別の詩があるのだけれど、(矛盾のあるところには必ずことば以前の、詩がある/思想があるのだけれど)、これからあとはしかし、あまり私にはおもしろくなかった。
 詩が「物語」へと動き、「肉体」と「抽象」のせめぎ合いのなかに「手続き」が消えながらあらわれるという感じが、なんだか薄められてしまう。「物語」は「結論」のための「手続き」のようなものだからかもしれない。
 「石」と「肉体」を出会わせてしまったのが、たぶん、ことばを希薄にさせたのだと思う。石に出会わずに、「肉体」とだけに世界が限定されると、きっと傑作になったのに、と残念でならない。



 草野早苗「カフェ」は駅の近くのカフェからみた風景。

のぼりの電車が左から
住宅街を引っ張ったまま
庭のアネモネを屋根に載せて走り去り
下りの電車が右から
工業地帯を引きずり
水蒸気を吐く煙突までぶら下げて走り去る

 「水蒸気を吐く煙突」まで書いてしまうと、「現実」が「真実」ではなく「ファンタジー」になびいてしまうが、風景を引っ張って列車が走り去るというのは、「肉体」と「下界」の関係を浮かび上がらせておもしろい。それぞれの列車が風景を引っ張って動くなら、草野の「肉体」もまた街のカフェやどこかの店のウインドーの商品を引っ張って動くのである。「目と喉と子宮」を検査して、その検査したという感じを肉体がおぼえているなら、なおさらである。

 丁海玉「路線図」は電車で見かけた女のことを書いている。だれだか思い出せない。女は文字もわからないまま「路線図」を見ている。その様子をながめながら、

柱の角にからだをひっこめたまま
記憶をたどる
もしかして目が合えば
どこの誰だったか
思い出すかもしれない

 「目が合う」は「肉体」が出会うということだろう。「肉体」は、わけのわからないことをすべてつなぎとめる。
 「肉体」が「肉体」と向き合い、「肉体」がおぼえていることを、ことばにするとき、そこに思想(詩)があらわれるということだ。



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谷内 修三
思潮社
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齋藤健一「秋」

2013-09-24 09:54:57 | 詩(雑誌・同人誌)
齋藤健一「秋」(「乾河」68、2013年10月01日発行)

 ある詩人の詩を好きになる。その好きな理由を説明するのはむずかしい。ある人を好きになり、その人のことを説明するのに似ている。自分がいいと思っているところに、ほかの人がおなじように惹かれるとはかぎらない。
 齋藤の詩に私が感じるのは、切断と、濃縮の度合いである。ことばが切断される。その瞬間、その切断されたことばがぎゅっと濃縮して、凝固する。孤立する。その密度が、遠いどこかにあるものを夢想して飛躍する--そういう印象が好きなのである。断片なのだけれど、断片がぶつかりあいながら、そこに劇を発生させる。
 「秋」という作品。

はらはらと散らばりあるくのだ。木造の高い駅舎。橙色
のネオンサイン。めいめいの眼の内に映り出るのだが何
もかもみえないのである。熟する無花果の汁。片意地な
油性味と似る如くに。押しつつむ群衆。ひとりぽっちだ
からだ。厚いハンカチと両膝の。しかして一様に笑って
いる。上弦は南中し発光する。奇妙に信号機の近くであ
る。

 あえて「物語」を重ね合わせれば、駅についた「私(書かれていない、無人称/非人称の人物)」が数人と連れ立って歩く。時間は夜。ネオンが見える。それぞれがばらばらのものを見ているので、見ていることにはならない。無花果が実っている。無花果をもいだときに出るねばねばした白い液のことを思ったりする。それはほかの人が見ているものとはまったく別の世界だろう。連れ(他人)と同じものが見えないのは、孤独だからである。そのあと、どこかに座っているのか。また列車に乗ったのかわからないが、膝の上にハンカチをのせて、みんな笑っている。上弦の月が南の空にでている。月に気づくとき、いつも信号が近くにあるのは奇妙だ。
 そういう、つれだって歩きながら孤立する感じを書いているのだと思うのだが、その孤立にあわせるように風景が次々に切断される。切断されて、そこで完結し、次の孤立へ飛躍していく。そこに、不思議なリズムと呼びかけがあって、それがさらにそれぞれの孤立を深める感じがする。
 そして、

        めいめいの眼の内に映り出るのだが何
もかもみえないのである。

 この齋藤の詩には珍しい長さのことばの前で、私は、ああ、美しいと思わず声を出してしまうのである。ここにある哲学の美しさ。それは「めいめい」ということばに凝縮している。
 「めいめい」が齋藤のキーワード(ことばの肉体の基本/思想の基本)である。
 「めいめい」は「銘々」である。「おのおの」である。それは別のことばで言えば「散らばり」である。接続していないのだ。「めいめい」が接続するとは言わない。「めいめい」がそれぞれの世界を生きている。「めいめい」のなかに、「めいめいの(それぞれの)」世界があって、それは「私」と「外」との関係で成り立っているが、「私」の「内(肉体/哲学/思想)」は「他」のひとのそれとはつながっていない、共同していない。「めいめい」の思想は「めいめい」のものであり、共有されていないから、それは「見た」ことにはならない。
 でも、それでも「世界」はあるじゃないか。
 あ、これが大問題だ。
 他人から孤立して「私」が存在する。そのときなぜ「世界」が存在するのか。「孤立」していても、「世界」なのか。
 齋藤は、「つながり」を信じていないのだ。切断だけを信じているのだ。そして、その切断というのは、人間の「肉体(思想)」を越えた運動なのである。たとえば、月。上弦の月は南の空に出る。それは人間の「思想」を越えた運動である。人間が悲しんでいようと喜んでいようと、無関係である。
 非情である。
 齋藤は、この非情の美と接続するのである。自然と一体になるのである。「私」を「人間」から孤立させ(切断し)、人間ではなく(非人称/無人称)の「自然の中の一個のもの」にして、そこで「自然」と「和音」を奏でる。
 詩のなかに突然「無花果」が出てくるが、それはたまたまそこに無花果があったということだろうけれど、さまざまなものとの出会いのなかから無花果を選ぶとき、そしてその無花果から油性味の汁をことばとして結晶させるとき、そこにほかの詩人とは違った「音楽」が響く。無花果と接続するとき、それ以外のものが切断される。切断される(切断する)力のさっぱりした切れ味--それがあって、凝縮がはじまる。きちんと切れていないと(痛みをなど無視して、ただすぱっと切れていないと)、切断されたものは、そこにあるものを核にして凝縮することができない。「過去(?)」をひきずっていては、凝縮がはじまらない。肉体になりきれない。
 非情な切断に向き合い、同時に、孤立して凝縮する--その運動のなかに「個性(肉体)」があるのだが、この齋藤の「肉体」は、読者「めいめい」の眼のなかに映り出るものであって、やはり共有されないものかもしれない。それでいいのである。むしろ、それ以外にはないのかもしれない。 

 もう一篇の「個人」。そのなかほど。

                     気圧が瓦
を黒くする。けれども乾きはじめる。海のちかくより順
順だ。

 この切断と飛躍が美しい。齋藤は、凝縮に必要な広がりを熟知している。「凝縮に必要な広がり」とは奇妙な言い方だが、ようするに手を広げすぎないということ。多くを抱え込むと凝縮できない。「めいめい」に、「めいめい」の凝縮できる「量」がある。齋藤は、その「適量」を知っている。
 「適量」というと、でも、いいかげんすぎるかもしれないなあ。少なければ(小さければ)凝縮できるというものでもないのだから。大きくても、広大でも、凝縮はできる。「秋」の「上弦は南中に発光する」のように。対象それぞれに、向き合い方、切断の仕方、「非情」の度合いが違っていなければならない。これが、むずかしい。そのむずかしいところを、齋藤は、いつも完璧に動く。


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谷内 修三
思潮社
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谷川俊太郎『こころ』(59)

2013-09-23 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(59)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「そのあと」は、まるできのう読んだ詩のつづきのように感じられる。

そのあとがある
大切なひとを失ったあと
もうあとはないと思ったあと
すべては終わったと知ったあとにも
終わらないそのあとがある

そのあとは一筋に
霧の中へ消えている
そのあとは限りなく
青くひろがっている

そのあとがある
世界に そして
ひとりひとりの心に

 「過去」は「記憶」され、「記憶」は忘れないように「記録」される。そして、「終わる」。でも、「終わり」にできない気持ちというものがある。「終わり」にできない気持ちがあるから「記憶」し、「記録」されるのかもしれないけれど、すべてに「終わり」というものがない。
 生きているからね。
 「終わりにしよう」と思ったときから「始まり」がある。

 2連目がおもしろいなあ。
 終わったあとも何かがつづいていて「霧の中へ消えている」。えっ、「終わり」って、そんなあいまいで頼りない感じだけ?と思ったら、すぐに明るい希望のように「限りなく/青くひろがっている」。これは「霧」が「青く」とも読めるのだけれど、私は、野原と青空を想像した。ひろびろと光が満ちている。その「青」は空の青であり、宇宙の青だと思った。ここで「宇宙」が出てくるのは、谷川の詩が私の「肉体」の中に入っているからだね。私の「肉体」は「青」から「宇宙」を思い出してしまう。
 そこに「そのあと」がある。「未来」がある。
 谷川は「ひとりひとりの心に」と書いている。私は「ひとりひとりの肉体に」と書き直したい。書き直して読んでしまう。
 それが、谷川の詩を読んだ、「そのあと」の私である。



 どこかで遠し番号を間違えたみたい。「日記」のタイトルは(59)になっているけれど、今回が(60)。「再読」は終わりです。



こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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絹川早苗『みなとから みなもとへ』

2013-09-23 09:29:12 | 詩集
絹川早苗『みなとから みなもとへ』(花梨社、2013年07月31日発行)

 ことばには何か不思議な呼び掛けあいがある。私はこれを「ことばの肉体」の呼び掛けと感じている。人間が、誰かを見て、なんとなく親しみを感じるように、ことばにもことばに対する「親密感」のようなものがある。そこには何か、奥深いつながりがある。そして、その見えない「つながり」が、あるとき「見えない」ままそこにある、と感じる瞬間--それをことばにしようとして(見えるようにしようとして)、詩は動く。

「その時 僕は<生まれる>ということが
まさしく<受け身>である訳を ふと諒解した。」
と 吉野弘さんは 言ったけれど
この国のことばは 受け身ではない

<生まれる>は 子どもが母親から胎生して出現すること
ウミ(産)とアレ(生)が合わさった語
神や人などが ぽっかりと出現してそこに在る意という
子どもは なにかとつてつもない力によって
しぜんに この世にあらわれてくるとでも
感じられたのだろうか

 吉野弘の詩は、日本語の「肉体」を探っていない。絹川はこれに異議をとなえている。日本語で考えるなら、日本語の「肉体」を探らないことには、日本語にならない。
 生まれるは「産む」「生まれる」が一体になっている。一体になった瞬間、そこから「ある(在る)」が出現する。だれが「産んだ」のか、ということはその瞬間から別の問題になる。「在る」ものは、そこから「生きはじめる」。
 ことばが入り混じりながら、自分の知っていることではないものを探しはじめる。「ことばの肉体」がおぼえているものを探しはじめる。

ただひとりのチチ ただひとりのハハから というより
カミの作意をも越えた
ヒトの考えなど及びもつかない
はるか 遠い 深いところから
この世に現れてきたとでも……

 この連にかぎらず、他の連のことばも、「意味」を追い求めすぎて窮屈なところがあるが、そのぶん「意味」はわかりやすい。ことばにならない何か、それを「ことばの肉体」はおぼえている。「はるか とおい深いところ」では何も言ったことにならないかもしれないけれど、しかたがない。ことばでは言えないことなのだから。そして、だからこそことばにしたくなるのだから……。
 「生まれる」ということばのなかに何かがあり、それは「はるか 遠い 深いところ」でつながっている。人間の「いのち」だけではない。

海から太陽が生まれようとしている
--海 膿み 熟み
姿をみせてきた朝日の
薔薇色の花弁のあたたかさ
やわらかさに包まれながら
いま まさに わたしは
ここに 生きて 在る

 海や太陽とつながっているだけではなく、「生まれる」は「膿み」「熟み」ともつながる。それはどこかに「膿み」のようなものをもっているのか。否定的な何かをもっているのか。「熟み」は、肯定的な感じが強いが熟しすぎると、それは膿のようにもなるから、膿は何かの完成した形かもしれないし……。
 そこには何かしら、矛盾や危険も含まれている。どこかに死のにおいもする。そういうものをどこかで意識しながら、それでもひとは「生まれてくる」のか。それとも、生まれてきたから、そういうことを考えるだけなのか。
 わからないまま「生きる」と「在る」がどこかで手をつなぐ。その「つなぎ目」に絹川がいる。絹川なら「ある」と言うか。

 「生まれる」「産む」「生る」「在る」「生きる」。「生まれる」と「生きる」は違うが、それがつながる。そんな具合に、いろいろなことばがつながる。同じ「遺伝子」を「肉体」のなかに共有する。
 それを絹川は探している。
 
 「擬音語・擬態語が満ちあふれた日」は東日本大震災のことを書いている。

バシッと押し上げられた地面がドーンと縦揺れ ダダダダダー グ
ラグラ グラッ ユサユサユサッと 横揺れすると 家も橋も鉄橋
も ガラガラ バリバリ バリッ みるまに崩れ瓦礫の山となる。

 よくわからないものを「擬音語・擬態語」でつかみとる。そのとき、その「音」のなかに「ことばの肉体」の萌芽のようなものがあるのかもしれない。「はるか 遠い 深いところ」でつながることば。
 しかし、その「つながり」をまったく見つけられないこともある。「放射能がジワジワ広がって」と書いたあとなのだけれど、その擬音語・擬態語に疑問を感じたのか、絹川は書き直している。

放射能は 擬音語・擬態語でさえとらえられない

 「ことばの萌芽」すら、そこにはない。「ことばの肉体」が放射能の前で「切断」されている。
 この発見は、とても重要であると思う。
 切断された「ことばの肉体」を、どうやって「接続」し、放射能を封印するか。これは、問題を提起することは簡単だが、答えを出すのはむずかしい。そのむずかしいことを、絹川は少しずつやっている。ことばの語源を「肉体」そのもののなかに探そうとしている。

紙の上の放浪者(ヴァガボンド) (21世紀詩人叢書 (6))
絹川 早苗
土曜美術社
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谷川俊太郎『こころ』(58)

2013-09-22 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(58)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「記憶と記録」は対句のようにしてことばが動く。

こっちでは
水に流してしまった過去を
あっちでは
ごつい石に刻んでいる

 最初の2行が「記憶」、次が「記録」ということになるのだろう。「ごつい石に刻んで」が、不思議となつかしい。「肉体」的である。これが10ギガのメモリーに書き込み、だったりすると、なんだかうさんくさい。「肉体」で苦労して石にことばを刻む。その肉体の動きがなつかしいのだ。きっとワープロで刻んだ記録--それもメモリーのなかに入ってしまうと、直接見えないので、もう何もおぼえていないに等しいね。
 おぼえる、思い出すは、「肉体」の仕事なのだ。
 で、肉体の仕事だから、たぶん石に刻んだことは、刻むことで肉体から捨てるということもできるのだと思う。メモリーに刻んだのでは、この「捨てる」ときの、さっぱり感がないね。「ざまをみろ」という感じが。
 (と、きょうは、前に書いた感想とはまったく違ったところへことばが動いているなあ、と思う。きのう、きょう、私に何か記憶しておかなければならないようなこと、記録しておかなければならないことがあったのかなあ……。ことばへの感想は、日々かわるものだなあ。)

記憶は浮気者
記録は律儀者

 そうとはかぎらないかもしれない、ときょうの私は思う。「記録」は変更がきかない。たしかに石に刻んだ文字はかわらない。だから「律儀者」。そうかな? 「記録」そのものはかわらなくても、それは書いた人(刻んだ人)がそう思うだけで、読んだ人は違うだろうなあ。最初は感動しても、あるときはバカだなあと思うかもしれない。「いま」とあわなくなってしまう「記録」というものがある。それでも「律儀者」という具合に重宝されるかというと、そうではなく、逆に抹消(削除)されるということもあるだろうなあ。「記憶」以上に「やっかい者」かもしれない。

だがいずれ過去は負ける
現在に負ける
未来に負ける

 負けたふりをして、身を隠していて、そのあと突然あらわれてくるという逆襲もあるな、きっと。

忘れまいとしても
身内から遠ざかり
他人行儀に
後ろ姿しか見せてくれない

 あるいは逆に、忘れようとしても忘れられず、体の奥にひそんでいて、ある瞬間に体を突き破って暴れ出し、その後ろ姿を呆然とみつめることしかできないということもあるかもしれない。
 そういうとき、「記憶」「記録」「過去」は「未来」になっている。

 谷川の詩の最後の「主語」は「過去」なのか「記憶」なのか「記録」なのか、断定はできないが、「記憶」「記録」を含めた「過去」なのだろうけれど、その「過去」と「対句」を構成するかもしれない「未来」のことを、私は、ふいに思ったのだった。

二十億光年の孤独
谷川 俊太郎
サンリオ
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高橋秀明『捨児のウロボロス』

2013-09-22 20:40:34 | 詩集
高橋秀明『捨児のウロボロス』(書肆山田、2013年09月10日発行)

 帯に「わがスカトロジー」とある。詩集にたくさんの「ウンコ」ということばが出てくる。私は昔から「ウンコ、ウンコ」と言って騒いだ記憶がない。口の両端を指でひっぱって「岩波文庫と言ってみろ」「いわなみ、ウンコ」という遊びも知らないわけではないが、実際にやって誰かをからかったことはないし、からかわれたこともない。なぜかなあ、と考えてみると……。私は田舎育ちで、ウンコというものが自分の日常から切り離されていなかったからである。ウンコが自然のひとつだったのである。ウンコを樽に担いで山野田圃へ運ぶというのは、こどももしなければならない仕事だったのである。ウンコは汚いけれど、暮らしの必需品であり、それは百姓にとっては土とかわりがあるものではないのだった。
 なぜ、こんなことを書くのかというと、高橋の書いている「ウンコ」を読んでも、それが「ウンコ」とは感じないからである。衝撃がないのである。

僕はウンコだ。磔にされたウンコだ。僕は四角く十字に磔された。
ああ。宇宙の渦状星雲=ウンコの僕が、十字にしかくく磔された。
                            (「磔されたウンコ」)

 「渦状星雲=ウンコ」の「=」には(である)というルビが打ってある。
 この「ウンコ」って「ウンコ」の必要があるのかどうかもわからない。「花」でもいいいだろう。「薔薇」にすると三島由紀夫になるのか。--と書いてしまうと、そうか、三島にとっては「薔薇」とか「松」とか、文学にあらわれてくる名詞は「ウンコ」だったのだなあ、ということがわかるのだが、これはまた別問題で……。
 うーん、なぜ「ウンコ」と書いたのかなあ。「ウンコ」にこだわっているのかなあ、ということは、ほんとうにわからない。
 唯一、私がおもしろいと思った「ウンコ」は「昔色エレジー」に出てくる。学校を舞台にしている。

家と学校の違いは何ですか?
家はウンコを出す便所(トイレ)
高所はウンコをガマンする便所(トイレ)
いまはその差も縮まりましたが
カーン カーン

 「ウンコ」と「便所」がセットで語られる。家ではウンコをするが学校ではしない。なぜか。いまなら「友達にくさいとからかわれる」というのが理由になるかもしれない。いまはどこも水洗トイレなので、ウンコをしてきても体は臭くないからからかおうにもからかえないだろうけれど。
 これは、私が、頭で考えたこと。
 実際の体験に則して言えば、家はそのまま田畑の仕事に結びついている「暮らし」の場であり、学校は「暮らし」から切り離された場所だった。だから「ウンコ」はしにくかったのだ。がまんする、というより、家ですませてしまって、学校ではしない。
 ということは。
 「ウンコ」が「ウンコ」として「生きる」場というのは、「暮らし」とはかけはなれた場なのである。ただし、このとき「暮らし」というのは「ウンコ」を必需品と感じる「暮らし」、昔の田舎の百姓の暮らしのことである。
 逆に言いなおすと、「ウンコ」が衝撃をもって受け取られるのは、「ウンコ」を切り離す思想が肉体となっている「暮らし」においてなのである。「ウンコ」が隠れれている場では「ウンコ」を語ることが詩になる。
 芭蕉の、

のみ虱馬が尿する枕元  (表記、未確認)

 は、のみや虱がいて、自分が寝る近くに馬小屋(牛小屋)があるような田舎の家では、それがどうしたの、という感じになってしまう。馬や牛の尿のにおい、ウンコのにおい、さらに人間のウンコのにおいが、いつもの暮らしなら、こういうことは詩にはならない。芭蕉はそういう「暮らし」をしていなかったから、そのことがおもしろかったのだろう。
 詩にもどると、「学校の便所」と「ウンコ」の組み合わせがおもしろいのは、学校が「暮らし」ではないから、「自然」ではないからである。だから、そこでは「ウンコ」が何かしらの「自然の反逆」となる。「自然」が、そういうところ暴れ出すと、「肉体」に反動がやってくる。
 この反動--ここではウンコを我慢するということなのだけれど、そのとき、「肉体」に刺戟がある。「肉体」の反応--それが「ウンコ」にとっての「自己主張」のようなものである。ウンコを我慢するとき、ウンコは出たがる。ウンコに意思があるわけではないが、そんなふうに感じる。そのウンコの意志(欲望/本能)と肉体(思想)の戦い(ここではウンコをしてはいけないという抑制)が、おもしろいのである。「ウンコの肉体」が「学校の肉体」とぶつかる。「暮らしの肉体(自然の思想)」が「学校の肉体(アンチ自然の肉体)」とぶつかる。そこに、「いのち」の戦いを感じるのである。
 大げさにいうと。

 でもね、高橋が書いている「ウンコ」のまわりにどういうことばが集まってきているかということを見ていくなら、いま私が書いたことがらは、そんなに見当外れでもないような気がするのである。高橋は「ウンコ」と何を戦わせようとしている。何に対して「ウンコ」を内側からぶちまけようとしているか……。

僕はウンコだ ほんとは血肉となるべき飢えや欲望の滋養を 泣い
て感傷にくだし続けた僕は だからウンコだ 父母なき捨児の分際
で「戦う」という名目を発熱しても 痰切れせぬ郷愁を抗生剤より
強く叩き出そうとしても 歳月に粘る因果の不毛は もはや鎮静が
きかぬ
                     (「黄色エレジー--咳するウンコ」)

 「欲望」「滋養」「感傷」「名目」「発熱」「郷愁」「抗生剤」。これらの漢字熟語(名詞)、そういう「ことば」を生み出す文化構造(自然構造じゃないよ)に抗っているのだなあ、ということが私には感じられる。
 だから、といっていいのかどうかわからないが、まあ、高橋の書いているスカトロジーというのは「正当」な形なのだと思うけれど。
 思うけれど。
 ここで、私の「肉体」からはぐいぐいぐい、とウンコのように疑問が出たがるのである。我慢しきれないのである。
 なんで「スカトロジー」?
 別なことばで言えば、何で外国語の「スカトロジー」ということばが出てくるのかなあ。文化構造に対して自然の肉体(肉体の自然/ウンコ」)をぶつける、そこから肉体の復権(自然の復権)へ動いていくというのは、「外国経由」でないと形にならないのかなあ。ウンコをするというのは、日本も外国も同じでしょ? 同じ「肉体」でしょ? その同じ肉体の問題、肉体の自然と、文化の肉体のせめぎ合いを、どうして日本語でことばにできないのかなあ。「スカトロジー」なんて言ってしまったら、それは「外国の思想(肉体)」で自分の「肉体(思想)」をととのえて提出することにならない?
 ウンコというような、赤ん坊も捨児もするようなことを、教養(外国語)経由で語るから、そのウンコは、もうぜんぜん汚くない。私はもともとウンコを汚いと考えるところで生まれ育っていないのでウンコということばに嫌悪感はないのだが--だからこそ、この教養主義的な高橋の「ウンコ」にはうさんくささを感じる。
 なまあたたかい、ほかほかの感じ、土の中でよみがえるいのちのような感じがしない水洗トイレ経由、殺菌済みの固形ウンコは、うさんくさいなあ。

捨児のウロボロス
高橋秀明
書肆山田
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谷川俊太郎『こころ』(57)

2013-09-21 23:15:13 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(57)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「ゆらゆら」は「ゆれる」こころを描いている。「ゆれる」というのは不安定な状態だが、谷川のこの詩は不安定な気持ちにならない。

ゆらゆら揺れる
揺れている
気づかずにいつの間にか
揺れ始めている

 ここまでは、「不安定」へつながることば。「気づかずに」「いつの間にか」というのは気持ちがよくてということもあるかもしれないが、「こころが揺れる」となれば、やはり「不安」の強い。これは、「流通イメージ」というものだろうけれど。

揺れている
木々が
こころが
私が
世界も
ゆるやかに揺れて
揺られて
不安

 ほら、やっぱり「不安」。
 それなのに、

でも赤ん坊のように
身をまかせて
ゆらゆら

 赤ん坊も、力のない感じ、弱い印象があるので、「不安」を増幅させるはずなのに、「身をまかせて」で印象ががらりと変わる。何か、愛情につつまれている感じになる。
 あ、そうか。
 激しくゆさぶられるのではなくて、「ゆらゆら」なら、どこかに「配慮」があるのかもしれない。そういう「感じ」がどこかにあって、その見落としているものを谷川はすばやくつかみとってくるのだろう。
 「身をまかせ」ることの不思議なあたたかさ。
 「身をまかせる」ように「こころをまかせる」と、こころのなかに「安心」が生まれるのだろう。「不安」が消えるのかもしれない。


大人になるまでに読みたい15歳の詩 全3巻
谷川 俊太郎,青木 健/和合 亮一/蜂飼 耳
ゆまに書房
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坂多瑩子『ジャム煮えるよ』

2013-09-21 09:07:08 | 詩集
坂多瑩子『ジャム煮えるよ』(港の人、2013年09月25日発行)

 一度書いたことかあるかもしれないが「母その後」という作品がとてもすばらしい。大好きだ。

多発性脳梗塞で
何もできなくなってしまった
母は
夢のなかでも
何もできなくて
下ばかり向いていたが
あるとき死んでしまってからは
急に元気になって
長電話したり
お茶したり
いまのとこ結構楽しげにしているけど
あんまり慣れすぎても
またまた
嫌みのひとつでもいいそうで
一度死んだんだから
老いたら子に従うとか
昔の人はいいこと言ったねえぐらい
言ってほしいとこだけど

 母親が死んでしまうと元気だったころの母親ばかり思い出してしまう。病気で動けなくなって死んでしまったからよけいに元気なときのことを思い出すのだろうか。

あるとき死んでしまってからは

 という「さっぱり」した感じの1行がとてもいい。この1行が全体を明るくしている。明るくしている--というのは変な言い方なのかもしれないが、じめじめしていない。
 私自身は病気で寝ついた両親を介護したことはないのだけれど、そしてこんなことを書くとどこかから叱る声が聞こえてくるかもしれないけれど、長い介護(看護)のあとは、「ああ、やっと死んでくれた。安心した」という気持ちがまじるものである。
 そんな気持ちがあるから、「あのとき、やっと死んだと思っただろう」と嫌みをいながら、死んだ母親が生き返ってくる。肉体のなかに、肉体としてよみがえってくるということがあるのだと思う。楽しい、うれしいことだけではなく、あまり思い出したくないような「嫌み」さえ言いそうな感じで。でも、それがきっと「暮らし」というものだったのだと思う。家族だから互いに支えあうのだけれど、そういうときだって嫌みくらいは言うね。肉体を「ちくり」とさしたりするね。それが「生きている」ということなんだねえ。
 でも、ときどき、そうい元気な母だけではなく、弱くなった母も思い出す。

わたしが眠ると
待ってましたとばかり
うろうろしている
あっ
ころんだ また

 これは深夜徘徊と転倒のことを書いているのかもしれないけれど、ほんとうはそういうことは忘れたい。忘れたいけれど忘れられない。そのとき坂多はほんとうに母のことを心配していたのだ。面倒だなあ、とこころのなかで少しは思ったかもしれない(死んでくれてほっとした、と思ったかもしれないけれど)、そんな具合に思いながらも、ふと目がいってしまう。そこに、愛がある。
 あ、また、ころんだ、だめじゃないか--というとき、その「だめ」は否定だけではないのである。愛がまったくなければ「ころんだ」ということさえ気にならない。
 同じように、と書くと--ほんとうは違うのかもしれないけれど。「やっと死んでくれた」と思うときの「やっと」には何か「だめ」というときの気持ちと通いあうものがある。否定しながら、否定の裏で、それを支えるこころが先走る。だから、「だめ」と否定する。
 そういう否定と肯定のいりまじって区別のつかないことばが、軽く、動く。
 この軽さはどこからくるか。
 「正直」からくると、私は感じている。「正直」というのは、構えていない、瞬間的なものだ。無防備に噴出してくるものだ。無防備というのは、他人からの批判に対して無防備という意味である。

 「家」という作品は、この詩集ではじめて読む(と、思う)。

テラサコチョウ参拾六番地
建坪参拾四坪
大正七年九月 七坪増築
昭和七年十月二十五日附届新設便所落
成ノ件使用承認ス
指令用紙で警察署長の印鑑

九〇年前のおうちの平面図があったから
テーブルの上にひろげてみた
よれっとしている
まん中がすりきれて
小さな穴
そのとなりが押し入れ
色分けされて
炊事場
どこもかしこも四辺形で
七〇年前のおよめさんが立ち上がった
およめさんだけは
ころんとまるく

 昔の建築届けは「便所落成」まで書くのか、届けるのか……。なんだかよくわからないが、あたたかく、なつかしい感じがする。このあたたかく、なつかしいというのは、生活がていねいにととのえられているということだと思う。ことばで、寸法で、はっきり意識する。
 前の詩の「あるとき死んでしまってからは/急に元気になって」というのも、母の思い出し方の、その「ととのえ方」というものがあることを教えてくれる。死んでしまった人間をどんな具合に思い出すか。そういうことに決まりというものはないのだが、坂多は「元気」な姿をまず思い出すという具合に、思い出し方を「ととのえて」いる。そうして、その「ととのえたことば(思想)」によって、動きはじめたことばを制御する。だから、あたたかい。
 この私の説明は、飛躍が多くて乱暴かもしれないけれど。
 きっと、そういう思い出し方(ことばのととのえ方)というのは、便所をつくったら警察に届けるというくらいの感じで、昔は、だれにでも共有されていたに違いないと思う。ありきたりのことが共有されて、それが「暮らしをととのえる」という思想になる。どこに便所をつくるか。--それは個人の「知恵」ではなく、「暮らしの知恵」であり、共有されることで一種の「安定」を生み出す。
 これは、もう思い出す人が少なくなったかもしれないけれど、そういう「知恵」というものは、「肉体」として昔は存在していた。
 で、昔の家。押し入れ、炊事場、どこもかしこも四辺形--のなかで、そのなかを動き回る「およめさん」の位置。うーん。この「およめさん」は坂多の母のことかな? 家の図面を見ると、そのときの「およめさん(坂多の母)」の行動が見えてくる。いつも同じ動き。同じにする「知恵」、同じに「ととのえる」知恵。

 その「ととのえることばの力」が坂多には引き継がれている。「肉体」として存在している。そういうことが、この二篇だけでもわかる。
 「あるとき死んでしまってからは」というのは乱暴な言い方に見えるかもしれないが、それは昔の警察に届けた便所のように、しっかりと「暮らし」としてととのえられている。「死んでしまって」といわないかぎり、ととのえられないものがある。
 突然飛躍するようだけれど。
 私は肉親のことを、あるいはとても親しいひとのことを「死んだ」と言わずに、「亡くなった」というひとの「肉体」を信じてはいない。他人に対しては「亡くなった」というけれど、「身内」に対しては「死んだ」というのが、「肉体(思想)」のととのえ方だとは思っている。「死んだ」といわないかぎり、言うことのできない「親しさ」というものがある。「便所の新設」の届け出、その承認、のようなものだ。

 何を書いているんだろう。論理がでたらめだ。--この「日記」を読んで、そう思う人がいると思う。それはそれで正しいのだけれど。つまり、私の書いていることは、でたらめなのだけれど……。私のことばではうまく説明できない(そして、この文章を読んででたらめだと感じる文体ではつかみきれない)、正直のととのえ方というものが「死んでしまった」と「便所の新設の届け出」のあいだにはあるのだ。それは、つながっているのだ。


ことばの「ととのえ方」について考えているのだけれど--今日書いたことは、だれにもつたわらないかもしれないなあ。




ジャム 煮えよ
坂多 瑩子
港の人
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谷川俊太郎『こころ』(56)

2013-09-20 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(56)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「絶望」という詩。この詩でも私は「本能」ということばをつかいながら読んでしまう。

絶望していると君は言う
だが君は生きている
絶望が終点ではないと
君のいのちは知っているから

 この「君」を私は、途中から「本能」と読んでしまう。

絶望していると君は言う
だが「本能」は生きている
絶望が終点ではないと
「本能」は知っているから

 引用した最終行では「本能」は「君のいのち」と入れ替わる。「いのち」が「本能」なのだ。あらゆる規制から無垢な「いのち」が「本能」なのだ。
 「絶望」は「本能」の近くにまでおしよせてくる何かである。
 それは「本能の肉体(いのち)」を傷つける前に、「こころ」を傷つける。「こころ」が傷ついて「絶望」する。その絶望に対して、「本能のいのち」は「本能の肉体」はまだ生きていると主張する。「本能のいのち」は「本能」に「肉体」があることに気がついている。知っている。

絶望からしか
本当の現実は見えない
本当の希望は生まれない
君はいま出発点に立っている

 この4行を、私の「本能」は次のように「誤読」する。

こころの絶望からしか
「本能」の現実(本能の肉体)は見えない
「本能のいのち」は生まれない
君の「本能」は出発点に立っている

 「本能のいのち」を生み出そうとしている。君の肉体のなかに、まだいのちになる前の「本能のいのち」がうごめいて、生まれようとしている。無垢で純粋な力が生まれようとしている。
 「絶望」は陣痛なのである。


地球へのピクニック (ジュニアポエムシリーズ)
谷川俊太郎
銀の鈴社
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