阿部はるみ『幻の木の実』(書肆山田、2013年07月10日発行)
「苦い芽」という作品がある。これは阿部自身にとってどういう位置を占める作品なのか、阿部はこの作品をどう思っているのか--は、よくわからないのだが、私は次の部分が好きだ。
簡単に書いてある。実際はふきのとうを粗みじんにきることも、鍋にみそ、酒、みりん、砂糖を入れて沸騰させることも、そんなに簡単ではない。それぞれに「適量」がある。それぞれをきちんとあんばいしなくてはいけない。阿部が簡単に書いてあるのは、その「作業」が阿部の「肉体」になってしまっていて、書く必要がないからだ。--ということは、逆の言い方をすると、ここでは「ことば」が書かれているように見えるけれど、実際は「肉体」が書かれているのであって、ことばは書かれていない。
実際に蕗みそをつくってみればいい。みそって何みそがいいのかなあ。量は? 酒とみりんと砂糖か。どれくらい? すぐにつまずいてしまう。ここには「他人」につたえるための工夫がないのである。作業の言語化(論理化)がない。
それでも、それがぱっと目に浮かび、「肉体」が反応してしまうのは、「肉体」が何か食べ物をつくったことをおぼえているからである。おぼえていることが反応して、阿部の肉体そのものと出会うのである。
こういう出会いは、とても安心する。「正直」な人に出会ったときの安心感がある。
詩はつづいていく。
「旬」というのは二月に生まれたこどもである。(前の連に書いてあった。)こどもが春の山菜をつかった食べ物をおいしく感じる、苦みをおいしいと感じるには、たしかに何年もかかるだろう。
でも、どうして何年もかかるのだろう。また、なぜ苦みをおいしいと感じるのだろう。(私は実は「苦み」の類がこどものときから好きで、何年もかかったという感じはないのだが、一般に、苦みを好きになるには時間がかかると思われている。言われている。)きっと「蕗みそ」をつくる手順のように、料理をいろいろつくりながら手順を「肉体」がおぼえるように、いろいろなものを食べつづけることで「肉体」が味をおぼえる。そして、そのおぼえていた味が思い出されるとき、「おいしい」という感じが生まれる。その「おいしい」は「ことば」であるけれど、それは便宜上のものであって、これはほんとうは「おいしい」ではない--というと矛盾だけれど、ほら、「おいしい」と同時に「苦い」。何か、余分なもの、ひとつのことばではいえないものがまじっているでしょ? その、微妙なまじりぐあいというのは「ことば」ではなく、「肉体」が知っている何かである。
なぜ、こんなことをごちゃごちゃと書いたかというと……。
はっきりとは書いていないけれど、ことばと世界との関係というものと、阿部は向き合っていて、詩は、ことばをつかって世界をつかみとることだけれど、どこかにことばではつかみとれないものがあるということを阿部は感じている。それが阿部のことばの動きをささえていると感じるからである。ことばなんかいらないのに、ことばのないところに詩があるのに、という矛盾に立ち向かいながら詩を書いている感じがある。つまり、書きながら、ほんとうに書きたいものはことばになりきれていないという「もどかしさ」のようなものを抱えて書いているという感じがどこからかつたわってくる。
で、そのことばと世界の認識という問題が、「睦月」に出てくる。阿部の理想がどういうものであるかが、そこに書かれている。
「言葉の介在なしに」。ことばは不要なのだ。
そして、つぎの「直接」。これが、「言葉の介在なし」を言い換えたもの(言いなおしたもの)である。
「直接」が阿部の「肉体」であり、「思想」なのだ。肉体が直接何かを選びとる。ことばは、たぶん、つけたしてある。しょうがなしに、何かを説明するためにつかうのである。
蕗みそにもどれば、蕗みそをつくるとき阿部はみそ、酒、みりん、砂糖といちいちことばにしない。粗みじんにするとき、それをいちいちことばにしない。肉体が直接それを選びとって動いている。それが「直接」になるまでには、苦みをおいしいと感じるまでにかかるくらいの「時間」がいるのかもしれないが、いったんその段階になると「時間」はきえる。そして、その作業が日常のありふれたことがらにみえても、それが「永遠」になる。なぜ「永遠」かというと「時間」がないからだ。「言葉の介在」がないからだ。そこには「直接」だけがある。
「精密と単純がとても近くにある」とは、「永遠」を言いなおしたものである。「真実」を言いなおしたものであるといってもいい。そして、「精密と単純がとても近くにある」というのは「無駄なく」と同じことを言っているのだが、どちらも「方便」であって、ほんとうは、そんなことばはいらない。「肉体」にとって、そういうことばは、それこそ「無駄」であり、「直接」を疎外するのもなのだけれど、そういう径路をとおらないと「直接」を示すことができない--この矛盾の中で、阿部の詩は動いている。
めんどうくさいことを書いてしまったが、阿部の肉体がここにあり、その肉体が「直接」世界と結びつく(とても近い)になる瞬間を、阿部は書いている。「直接」結びついたとき、そこに「ことば」はいらないのだが、「ことば」はいらないという詩を書くためにことばを書いている。
「苦い芽」という作品がある。これは阿部自身にとってどういう位置を占める作品なのか、阿部はこの作品をどう思っているのか--は、よくわからないのだが、私は次の部分が好きだ。
蕗みその作り方は簡単だ
さっとゆでたふきのとうを
粗みじんに切る
みそ 酒 みりん 砂糖を入れた鍋が
フツフツしてきたら
ふきのとうを入れてまぜれば出来上がり
簡単に書いてある。実際はふきのとうを粗みじんにきることも、鍋にみそ、酒、みりん、砂糖を入れて沸騰させることも、そんなに簡単ではない。それぞれに「適量」がある。それぞれをきちんとあんばいしなくてはいけない。阿部が簡単に書いてあるのは、その「作業」が阿部の「肉体」になってしまっていて、書く必要がないからだ。--ということは、逆の言い方をすると、ここでは「ことば」が書かれているように見えるけれど、実際は「肉体」が書かれているのであって、ことばは書かれていない。
実際に蕗みそをつくってみればいい。みそって何みそがいいのかなあ。量は? 酒とみりんと砂糖か。どれくらい? すぐにつまずいてしまう。ここには「他人」につたえるための工夫がないのである。作業の言語化(論理化)がない。
それでも、それがぱっと目に浮かび、「肉体」が反応してしまうのは、「肉体」が何か食べ物をつくったことをおぼえているからである。おぼえていることが反応して、阿部の肉体そのものと出会うのである。
こういう出会いは、とても安心する。「正直」な人に出会ったときの安心感がある。
詩はつづいていく。
旬が蕗みその美味さをわかるのは
あと何年先だろう
炊きたてのごはんにのせて食べてごらん
それは
朝ごとのかなしみを補ってあまりある
「旬」というのは二月に生まれたこどもである。(前の連に書いてあった。)こどもが春の山菜をつかった食べ物をおいしく感じる、苦みをおいしいと感じるには、たしかに何年もかかるだろう。
でも、どうして何年もかかるのだろう。また、なぜ苦みをおいしいと感じるのだろう。(私は実は「苦み」の類がこどものときから好きで、何年もかかったという感じはないのだが、一般に、苦みを好きになるには時間がかかると思われている。言われている。)きっと「蕗みそ」をつくる手順のように、料理をいろいろつくりながら手順を「肉体」がおぼえるように、いろいろなものを食べつづけることで「肉体」が味をおぼえる。そして、そのおぼえていた味が思い出されるとき、「おいしい」という感じが生まれる。その「おいしい」は「ことば」であるけれど、それは便宜上のものであって、これはほんとうは「おいしい」ではない--というと矛盾だけれど、ほら、「おいしい」と同時に「苦い」。何か、余分なもの、ひとつのことばではいえないものがまじっているでしょ? その、微妙なまじりぐあいというのは「ことば」ではなく、「肉体」が知っている何かである。
なぜ、こんなことをごちゃごちゃと書いたかというと……。
はっきりとは書いていないけれど、ことばと世界との関係というものと、阿部は向き合っていて、詩は、ことばをつかって世界をつかみとることだけれど、どこかにことばではつかみとれないものがあるということを阿部は感じている。それが阿部のことばの動きをささえていると感じるからである。ことばなんかいらないのに、ことばのないところに詩があるのに、という矛盾に立ち向かいながら詩を書いている感じがある。つまり、書きながら、ほんとうに書きたいものはことばになりきれていないという「もどかしさ」のようなものを抱えて書いているという感じがどこからかつたわってくる。
で、そのことばと世界の認識という問題が、「睦月」に出てくる。阿部の理想がどういうものであるかが、そこに書かれている。
シャラの木の枝に吊るした皿のみかんを
メジロが啄んでいる
つがいで来ては交互に啄んでいる
一羽が食べているときべつの一羽は
そばの枝で見張っている
甘い という言葉の介在なしに
直接心地よいものを選びとっている
「言葉の介在なしに」。ことばは不要なのだ。
そして、つぎの「直接」。これが、「言葉の介在なし」を言い換えたもの(言いなおしたもの)である。
「直接」が阿部の「肉体」であり、「思想」なのだ。肉体が直接何かを選びとる。ことばは、たぶん、つけたしてある。しょうがなしに、何かを説明するためにつかうのである。
蕗みそにもどれば、蕗みそをつくるとき阿部はみそ、酒、みりん、砂糖といちいちことばにしない。粗みじんにするとき、それをいちいちことばにしない。肉体が直接それを選びとって動いている。それが「直接」になるまでには、苦みをおいしいと感じるまでにかかるくらいの「時間」がいるのかもしれないが、いったんその段階になると「時間」はきえる。そして、その作業が日常のありふれたことがらにみえても、それが「永遠」になる。なぜ「永遠」かというと「時間」がないからだ。「言葉の介在」がないからだ。そこには「直接」だけがある。
風のかすかなふるえのなかで
受け継がれた身ぶりをくり返すだけ
うす緑色の赤子のにぎりこぶしほどの体が
はずむように嬉嬉としてみえる
果肉は体内で無駄なく吸収され
啄みながらつぎつぎに排泄する
精密と単純がとても近くにある
「精密と単純がとても近くにある」とは、「永遠」を言いなおしたものである。「真実」を言いなおしたものであるといってもいい。そして、「精密と単純がとても近くにある」というのは「無駄なく」と同じことを言っているのだが、どちらも「方便」であって、ほんとうは、そんなことばはいらない。「肉体」にとって、そういうことばは、それこそ「無駄」であり、「直接」を疎外するのもなのだけれど、そういう径路をとおらないと「直接」を示すことができない--この矛盾の中で、阿部の詩は動いている。
めんどうくさいことを書いてしまったが、阿部の肉体がここにあり、その肉体が「直接」世界と結びつく(とても近い)になる瞬間を、阿部は書いている。「直接」結びついたとき、そこに「ことば」はいらないのだが、「ことば」はいらないという詩を書くためにことばを書いている。
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