詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

王秀英『よその河』

2019-10-31 19:19:13 | 詩集
王秀英『よその河』(epoch叢書2)(東宝社、2019年08月01日発行)

 王秀英『よその河』の詩集のタイトルになっている作品。全行引用する。

韓国から来日して
日本人の友ができるのは
幸運だといえる

口数少ない彼女は
雲が流れるように
さざ波が揺れるように
寂しさを拭ってくれた

外国人には簡単に
家を貸してくれない日本で
友は保証人になり
悲しみを癒してくれた

初めて経験した地震の恐怖に
自分の家族のように
心配してくれた

四季折々の花見にも
たくさんの祭りにも
連れて行っては私の日本での生活を
豊かにしてくれた

いつしか二人とも白髪が増え
人生の夕暮れの窓際で
彼女は私の手を握りしめて言った

うちはあんたを
韓国人やと思ったことは一度もない
いつかて 日本人やと思ってたんや
そのくらいあんたが好きなんや

 最終連の四行で、私は、あれっと思った。違うのではないだろうか。そう思ってタイトルを読み直す。そうすると「究極の差別」という副題がついていた。読み始めたとき、それを目にしていたはずだが、読み進んでいる内に「どこにも差別なんか書いてないけどなあ」と思い、しだいに忘れていったのだ。そして完全に忘れたころ、最後の四行が突然あらわれる。
 ひとはだれでも「ひとり」である。他人とは完全に違う。違うことを認めて、それからいっしょに生きる方法を探す。「違う」と思わないかぎり、それはひとをひととして認めたことにはならない。これを差別という。
 このことを王が、はっきりと書いてくれたことに、ありがとうと私は言いたい。王が書かなかったら、こういう態度が「差別」であると気がつかないひとが大勢いるのだ。もしかすると「韓国人は韓国へ帰れ」とヘイトスピーチを繰り返しているひとと同じくらい多いかもしれない。「韓国人は韓国へ帰れ」と主張するひとの根拠は「日本に住むなら日本をヘイトしてはいけない(批判してはいけない、ではなくヘイトしてはいけない、と多くのひとがいう)」、つまり「同化しろ」ということである。それは裏を返せば「同化」するなら日本にいてもいい、「同化」したひとだけ受け入れるということである。そして、この「同化」は「日本人になれ」ということである。王の友人は「日本人になれ」とは言わずに「日本人やと思ってた」と言っているが、これは「日本人になっている」と思っていたということなのだ。「花見」に連れていってくれたのも、王が韓国人だからではなく、「日本人なら花見をする」という押しつけだったかもしれない。

 詩から少し離れるが、この「同化」を求める動きは、とても強くなっている。韓国人に対してだけではない。日本人に対しても「同化」を要求する動きがある。
 芸術とは、究極の「個人主義」である。「他人」とは違う表現をすることが「芸術」のはじまりである。それなのに愛知トリエンナーレでは、「自分の考えている日本人のやることではない」という判断で作品が批判され、企画が中止された。
 「天皇を崇拝しなければいけない、肖像を焼くというのは日本人のすることではない」「慰安婦の訴えを聞くことは、日本の歴史を貶めることである」という主張は、そういう批判をするひとたちと「同じ天皇観」「同じ歴史観」を持てということ、「天皇観」「歴史観」において「同化」しろ、ということだ。そしてこの一部の人間の「同化要求」に河村名古屋市長は賛同し、権力は「表現の自由」を侵してはならないという憲法規定を破った。憲法違反をした。
 大浦信行の作品とパフォーマンスは、私から見ると天皇中心主義にしか見えない。「流通言語」で言えば「スーパー右翼」の世界観だが、「スーパー」であるためにそれが理解されず、天皇は崇拝する対象であるという次元への「同化」を強要されたことになる。なんとも滑稽なことである。
 「同化」は、あくまで「同化」を求めるひとと同じ水準での「同化」でなくてはならないのである。

 ここから王の詩にもどって。
 もし王が花見のとき、「和歌」を詠んだとする。そしてそれが古今や万葉の歌をひきついだ「日本の伝統美」としての「和歌」ではなく、新しい美を気づかせてくれた作品だったらどうなるだろう。つまり「同化」を越えて、オリジナルな世界にまで達していたらどうなるだろう。そこには、どうしても韓国人のアイデンティティにつながる表現がふくまれ、その結果として、新しい世界(つまり、それまで日本人が気づかなかった情景)が出現するのだとしたら、どうなるだろう。きっと「違和感」をもって排除されるのではないだろうか。
 「地震」についても同じことが言える。地震は、日本人にとっても怖いものである。その日本人のように「怖い」と訴えるではなく、王が「あ、この揺れが地震というものですか。地球からバランス感覚を試されていると思うと愉快ですね」と言えば、王は「韓国人は、やっぱり日本人とは違う」と排除されたかもしれない。
 王の、友人への対応が、たまたま友人が考える「日本人」の姿と同じだった、王が日本に「同化」していると感じたから、王を受け入れていたというだけのことかもしれないのである。
 友人は、王にどんな傷を残したのだろう。
 「去りゆく」を読むと、最初はわくわくし、最後は寂しくなる。でも、それは王にとっての必然であり、私は望んではいけないことを望んだのだ。私の寂しさは私の必然であり、王の王の必然である。寂しいから母国語で夢を見るのだ。

日本語が降ってきた
雨の日は雨になって
雪の日は雪になって

日本語が流れてきた
太陽が昇ると朝は明るい声で
月が出る夜は優しい声で

人生半ば
初めて耳にした

日本語は時々胸を
凍らせたが
歳月と共に熟れていき

寂しい人に会ったときは
寂しい姿で
悲しい人に会ったときは
涙色で伝わってきた

言葉も歳をとり
私の老いに寄り添い
痩せてきた

夢の中ではもう
母国語だけが
吹雪いている

 ふたつのことばを行き来しなければならない寂しさを抱えながら、それでも王が日本語で詩を書いていてくれている。
 このことに、やはり私はありがとうといいたい。最初の二連の美しさは、日本語だけで育ってきた人間には書けないものだと思う。王が見つけてくれた美しさである。王が日本語につけくわえてくれた美しさである。







*

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英語民間試験はだれのためのもの?

2019-10-31 10:33:48 | 自民党憲法改正草案を読む
英語民間試験はだれのためのもの?
             自民党憲法改正草案を読む/番外301(情報の読み方)

 2019年10月31日の読売新聞(西部版・14版)に、萩生田の「身の丈」に応じた受験の続報が載っている。自民党内にも「受験機会に嵯峨できるのは問題があるのではないか」という声が出始め、試験実施を先送りにする案が出ているという。
 それをつたえる記事の最後の部分。(二面)

 政府内には「大多数の大学や高校の関係者は予定通りの実施を前提に準備している。受験機材などに巨額の投資をした試験団体から国が損害賠償を請求される恐れもある」(文科省幹部)と予定通りの実施を求める声も根強い。

 私は、怒っていいのか、笑っていいのかわからなくなるくらい悲しくなった。
 一番問題の「受験生」のことを、この発言をした「文科省の幹部」は考えていない。受験によって一生の全てがきまるわけではないだろうが、受験生は一生のすべてがかかっていると思い受験に臨む。その受験生のためなら、どんな犠牲があってもいいじゃないか。どうして、そう考えられないのだろう。
 それにしても「損害賠償を請求される恐れ」には、まいる。結局、「金」のことし考えないのが官僚であり、その「金」を中心に見ていくと、また違ったものも見えてくる。
 この文科省幹部は「受験機材などに巨額の投資をした試験団体」と書いているが、その「巨額の投資」はどこへ行ったのか。「受験機材」の製作、販売会社である。つまり、今回の「英語民間試験」では「受験機材関係者」が「利益」を上げることができる。いままで売れなかった機材が、年に一回(あるいは二回)つかわれるだけのために売れる。そのもうけは、きちんと「税金」のかたちで国に納められるかな? もしかすると「おかげで大もうけさせていただきました。これは気持ちばかりのものですが……」という具合に文科相幹部やそれにつながる政治家にも還元されるのではないのかな? 萩生田には、どんなメリットがあるのかな?
 きっと「萩生田さんは、機材メーカーからキックバックがあったからそれでいいだろうけれど、私ら試験問題をつくっている側には何のメリットもないじゃないですか。試験が延期になって大損した。どうしてくれるんですか」と苦情をいわれるのを恐れてるんだね。(これを言いなおしたのが、損害賠償請求だけれど)。そして、もしそういう苦情がよせられるのだとしたら。
 きっと、それは。
 民間英語試験を受ける受験生は、いつも検定試験を受けるひとの数よりはるかに多い。つまり受験料収入も莫大なはずである。なんといっても民間試験を受けないことには大学受験ができない。この民間試験期間の収益は、きちんと納税されるかな? やっぱり一部は官僚や政治家に還元されるのではないのかな? 萩生田がなんとしてでも民間試験を導入したいのは、「利益還元」を期待しているからじゃないのかな?
 私は、そんなことも考えるのである。

 ひとはいつでも本音がもれてしまう。どんなに隠しても、ことばには、そのひとの思っていることが出てきてしまう。
 だから新聞を読むのが楽しい。その日のニュースの量しだいで削除されてしまうかもしれないものが、ときどき「おまけ」のようにして残っている。そして、そういう部分にこそ、笑いだしたいような、泣きだしたいような、「むごたらしい本音」がむき出しになっている。言った本人は「隠して話している」つもりなんだろうけれど。 



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(2)

2019-10-31 08:49:59 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (聞きそびれた昨日の言葉は)

聞きそびれた昨日の言葉は
夕空にかかる虹のように美しい

 「聞きそびれた」のになぜそれが「美しい」とわかるのか。「美しい」は断定として書かれているが、ほんとうは「想像」である。美しいと「思っている」(考えられる)。つまり、思うこと、考えることが「美しい」つくりだす。そして思うこと、考えることを具体的にするのが「ことば」である。「聞きそびれたことば」と「ことばを想像することば」が出会っている。それこそ、聞きそびれたことばと嵯峨の「肉体」のなかにあることばが「虹」となって詩のなかに広がっている。
 この現実には存在しない美しさは、詩にとって、魔力である。いつも「嘘」という危険をはらんでいる。だから嵯峨は、その美しさを否定してみせる。

しかしその虹を地上に引き下ろしてみると
それは一条の縄でしかない

 具体的な「内容(意味)」よりも、「その」「それ」と繰り返される指示詞が、嵯峨のことばを動かす力になっている。前に書いたことを何度も意識しなおしている。論理的であろうとしている。その厳しさが、そのまま「美しい」を否定する。「縄」は「虹」とおなじように「比喩」にすぎない。「ことば」を論理が、いや、論理になろうとする力が支配している。

 この詩の構造、前に書いたものを、後で消す(否定する)という視点から、きのう読んだ詩を読み直すとどうなるか。

あらしに吹き折られた青い小枝のような
あなたの言葉で
避暑地の海を掻きまぜてこよう

 海を掻きまぜるとき海が否定するのではなく、もしかすると「青い小枝」を否定しようとしているのではないか。あるいは「吹き折られる」という悲劇的な美しさを否定しようとしているのではないか。そういうことも考えてみる必要がある。そこに、もしかすると嵯峨の抒情の「核」のようなものがあるかもしれない。


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鷹森由香『傍らのひと』

2019-10-30 22:36:19 | 詩集
傍らのひと
鷹森 由香
ふらんす堂



鷹森由香『傍らのひと』(ふらんす堂、2019年10月01日発行)

 鷹森由香『傍らのひと』は「記憶(思い出)」をどのように描くか。「記憶」がメーンのテーマではないかもしれないが、最近考えていることをどうしてもつづけて考えてしまう。
 「傍らのひと」の三連目。

ここ抜けてね 左に曲がって
この塀おぼえてる
あっマンション建ってる
陶器市とか古本市のときは
平野神社までずっと露天がつづいてね

 ぐいと引き込まれた。「ここ抜けてね 左に曲がって」という「肉体」の動きが「肉体」をゆさぶる。いや、これは正確ではないなあ。「肉体」そのものをゆさぶるというよりも、「肉体」の動きを「ことば」にして、それから「肉体」を動かしている。「ことば」を「肉体」が追いかけている。追いかけた上で、それが「正しい」と確認する。それを「おぼえてる」ということばで言い表す。ここに「対話」がある。ことばとことば。それからことばと肉体、の対話。
 その「記憶」を記憶になかったことが破る。「あっマンション建ってる」。これは、「意識」の反射なのだが、意識だけではなく「肉体」が動いている感じがする。目が、はっきりとマンションをとらえている。
 そのあと、おだやかに「記憶」がはじまる。「いま、ここ」にないものが思い出されている。
 このリズムがとてもいい。まるで、その世界に入っていくようだ。行ったことがないのに、そこに行ったような気持ち、これは「私の記憶だ」と言いたい気持ちになる。
 「おんな紋」もいいなあ。留袖、喪服に「紋」がついている。私は「家紋」だとばかり思っていたが、おんなの場合はそうではないのだという。

めったに広げることのない
留袖や喪服の背にひっそりと咲いている
わたしの桔梗紋
家紋とちがい
女紋は母から娘へと受け継がれていくという

 と簡潔に説明したあと二連目。

母 充子は京都 わら天神のほど近く
上八丁柳で育ったが
祖母 さかゑは高尾の紅葉のずっと奥
北山杉の木立に見え隠れする清流をたぐり
やがていきつく源流の
花背 芹生 山国といった集落に囲まれた
京北町上黒田村で生まれた
曾祖母 まつは日本海の波うち寄せる小さな町
久美浜より 嫁いできたという

 ここには鷹森自身の「肉体」は描かれていないが、女たちの「肉体」がつらなって動いている。京都の地理はわからないからテキトウなことを書くのだが、街中からだんだん山の中へ入り、山を越えて日本海側にまで達する。その長い距離を女たちは少しずつ移動してきた。三代の母が描かれるから、半世紀以上、一世紀近くかかっているかもしれない。そのなんとも静かな長い旅。それが風景、紅葉や清流だけではなく「地名」とつながる形で書かれる。「地名」とはなんだろうか。そこに生きている「人間」そのものをあらわしているような気がする。「地名」を聞いただけで思い浮かぶひとがいる。「他人」がいる。「他人」との「交流」が、固有名詞として刻み込まれている。
 私はなんだかうれしくなる。涙が出そうだ。
 何人もの「他人」がいるが、「母」はひとりだ。「他人」のなからからそれぞれの「母」は「ひとり」として生まれてきて、また「ひとり」を生むのだ。その繰り返しとつながりの、不思議な華やかさ。いくつもの地名が「母」から「娘」へのつながりを彩る。まるで、そこに書かれている「地名」は「母」が生み出した「娘」とでも言っているかのようだ。








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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(1)

2019-10-30 09:21:13 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(1)

                         2019年10月30日(水曜日)

小園

* (あらしに吹き折られた青い小枝のような)

あらしに吹き折られた青い小枝のような
あなたの言葉で
避暑地の海を掻きまぜてこよう

 「青い小枝」が印象に残る。「青い」はほんとうは「緑色の葉がついた小枝」、「若い小枝」ということになる。緑のかわりに青をつかうのは日本語の慣例だ。信号の青もよく見ると緑。「青」を「若い」の意味でつかう例には「青春」がある。
 そういう「無意識」を反映していると同時に、この「青い小枝」は「緑の小枝」「若い小枝」だと最終行がちぐはぐになる。
 「小枝」で「海」を掻きまぜるというのは、ちぐはぐな感じがする。小枝で掻きまぜるのは水溜まりや小川、せいぜいが小さな池だろう。
 でも「青い小枝」の「青」が海の青と重なる。「色」は違うが「音」が同じ。そのことが、ふっと、意識を引きつける。
 もう一度読み直してみると、「あらし」「青い」「あなた」と「あ」の音が響きあっていることがわかる。「避暑地の海」は「青い海」だったかもしれない。「青い」ということばの重複を避けるために「避暑地」が選ばれたのかもしれない。
 「青いあらし」は「青嵐」。このことばは、私には五月を連想させる。五月は避暑の季節ではない。どことなくちぐはぐである。そういうことも意識のどこかを掻きまぜる。
 また、この詩では、嵯峨は実際に避暑地の海を掻きまぜてはいない。あくまで「掻きまぜてこよう」と思っている。「思い」のなかで、いろいろなものが動いている。響きあっている。それは、まだ整えられていない。
 この整えられていない、ということが、もしかすると詩にとっては重要なことかもしれない。整えられてしまうと考えるということがなくなってしまう。
 さらにもう一度詩に引き返す。
 「青い小枝」は「あなたの青い言葉」かもしれない。「若い(青い)ことば」。整えられていないことば。「小枝」と「言葉」は音の重なりを含み、同時に「葉」のイメージも隠し持っている。嵯峨は、「あなた」が発した「詩」によって、「避暑地の海」という「定型」を壊したいのかもしれない。乱してみたいのかもしれない。

 というところから、私は、ことばをどうつづけていけるだろうか。
 いつものように、「計画」を立てずに、私はただ書いて行く。






*

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星野元一「家族」

2019-10-29 10:01:50 | 詩(雑誌・同人誌)
星野元一「家族」(「蝸牛」64、2019年10月20日発行)

 作田教子『胞衣』(思潮社、2019年09月15日発行)を読んだとき、そこに描かれている「情景」に違和感を覚えた。いまも、こういう情景があるのか、作田はそれをほんとうに見ているのか、思い出しているだけではないのか、思い出すということの中に「永遠」を限定していないか、というような違和感だ。
 星野元一「家族」も現在を描写しているとは言えない。思い出(記憶)の情景を描いている。でも、こんな情景がいまもあるのか、という疑問はわいてこない。どうしてだろう。
 と抽象的に語ってもしようがない。作品を引用する。

家族が並んでいた
竹竿にぶらさがって
風に吹かれて
ツユクサやヒルガオや
ホタルブクロなどが咲く庭先に
青い山も見えた

縞の山シャツ
紺の股引
しょっぱい褌
だぶだぶのモンペ
袖のついた前掛
艶のない襦袢
よれた腰巻
麻の葉のオシメ……
みんな並んで
こっちを見ていた
一座の顔見世のように

川から上がって来たのだ
フナやドジョウやメダカや
長い髪の川藻たちと
一風呂浴びてきたのだ
竹竿によじ登り
甲羅を干しているのだ
セミやトンンボと遊んだりして

鍬を振り上げて来た一座
お日さまが起きたら出かけ
寝たら帰ってくる一座
膝を叩き
頭を掻き
腕を組み
神棚や仏壇に
頭を擦りつけたりする一座

 具体的にどう違うのか説明は難しいが、吉岡実と西脇順三郎の関係を連想する。関係といっても読んだときの印象のことであって、ふたりの人間関係や作品の関係のことではない。吉岡の書いていることが「嘘」というのではないが、西脇の書いていることばの方が「ほんもの」というか、「実物の手触り」がある。音が強い。
 作田と星野では、やはり音の強さが違う。星野の方が、音を聞いたままに書いている。音とものがしっかり結びついている、という印象がする。
 作田の音と比較してみた江代充の音とも違う。江代は文体をぽきぽき折っている。江代の音は文体を折る音だとも言える。星野の文体は折れない。折れて、悲鳴を上げるということはない。
 あ、脱線した。
 作田と星野にもどろう。
 星野のことば「もの」には「修飾」がないのだ。だから強い音、ものそのものの「音」なのだ。
 二連目、「しょっぱい褌」「艶のない襦袢」「よれた腰巻」以外も、それぞれ名詞には「修飾語」がついているが、「修飾」という感じがしない。それは「修飾語」が単に非修飾語を飾っているだけではなく、「修飾語」自体が自己主張しているというか、主役になっているからだ。
 「しょっぱい褌」ということばに引きつけられるのは、それが「褌」だからではない。「しょっぱい」からだ。私は褌をなめて確かめたことはない。しかし「しょっぱい」がわかる。それはたぶん、自分のパンツの匂いを嗅いだことがあるからだ。あるいは小便をするとき手についてしまった小便の匂いを嗅いだことがあるからだ。そのとき、もしかするとちょっと指先をなめたかもしれない。なめなくても、「しょっぱい」とわかる。食べたものによって、それは「しょっぱい」ではなく「甘い」かもしれないが、ようするに、「肉体」から出てくるものは何かしら「匂い/味」を持っているということを知っている。小便は腎臓、膀胱を経由して出てくる「肉体」の老廃物。一方、汗腺から出てくる老廃物もある。汗。それは「しょっぱい」。汗と小便は似たところがあるから「しょっぱい」がよく分かるのだ。小便をなめたことがなくても、汗をなめたこと、汗が口の中に入ってきたことがあるから、納得できるのだ。
 そして、たぶんこういうとき、私は、汗の「しょっぱさ」だけではなく、汗が出るまでの「肉体のしょっぱさ(つらさ)」というようなことを思い出している。「肉体」を一生懸命に動かしたことを、肉体が思い出している。肉体のなかで何かが動いている。それは「記憶」というにはあまりにも漠然としているが、決して消えない「記憶」でもある。「肉体」になってしまっている何かである。
 同じことが「艶のない」とか「よれた」ということばでも起きるのだ。襦袢が艶がなくなるまでの時間、腰巻きがよれた状態になるまでの時間、そのなかで動いている「肉体」をこそ思い出すのだ。
 ことばと「肉体」との結びつき方が違うのだ。作田の場合は、ことばと結びついているのは「肉体」ではなく、「感情」や「理性」なのだ。星野の場合も「感情」や「精神」と結びついているかもしれないが、「感情」「精神」にととのえる前に、「肉体」ががっしりと結びついている。そういう印象がある。これは先に書いた吉岡と西脇についてもいえる。吉岡のことばは「頭」と結びついているが、西脇のことばは「肉体」と結びついている。「肉体」を見てしまうのだ。

舌を打つもの
小言をいうもの
ベロを出すもの
洟をたらすもの
みんな布切れになって
竹竿にぶらさがっていた

 「肉体」は「舌」「ベロ」「洟」と具体的に言いなおされる。「小言」は「声」だろう。だれもよほどのことがないかぎり「小言」の内容は覚えていない。けれど「小言」の口調、「声」、つまり「肉体」が動いたときに肉体から飛び出してくるものを忘れることはできない。それは「耳」をとおして「肉体」にしみついてくる。
 竹竿にぶらさがったもの、洗濯物を見ながら、星野は「家族」という抽象的な関係を見ているのではなく、生きている人間そのもの、「肉体」が生きているということを見ている。
 その最終連。

そっちはどうかね
お茶でも飲んでいかんかね
みんなニコニコとして
風に吹かれていた

 ほら、「人間」が見えてくるでしょ? だれかが家の前を通る。家は開けっ放しだから、外が見えるし、外から内部も見える。装飾をとりはらった「生きている」ままが見える。
 そういうとき、ひとはどうするか。近づき、ただことばを交わす。「そっちはどうかね/お茶でも飲んでいかんかね」。こういう会話をいまも田舎でするかどうか、私は知らないが、私が子どものときは、どこででもこういう声が聞こえた。
 そういうことも、私の「肉体」はしっかり覚えている。こういうことばはささやくようには言わない。遠く離れた「肉体」、自分の目的に向かって動いている「肉体」につたえ、気づかせるためには、大声を出さなければいけない。「万葉の声」のように。そうして、その声が聞こえたら、ひとは「にこにこ」と笑顔を見せるのだ。かすかにほほえむのではない。「肉体」の底から、全身で返事をするのだ。
 洗濯物を描いているのに、そこに「肉体」が見える。「肉体」の動きが見える。これが星野のことばの特徴だ。








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宮尾節子『女に聞け』

2019-10-28 11:52:30 | 詩集
女に聞け
宮尾節子
響文社


宮尾節子『女に聞け』(思潮社、2019年10月20日発行)

 宮尾節子『女に聞け』の巻頭の「女に聞け」は力強い。

わたしが
恥ずかしい、格好をしなければ
こんなにも
恥ずかしい格好をして、ひとりで踏ん張らなければ
あなたは、この世に生まれて、来れなかった。
わたしが
死ぬほど恥ずかしい姿を、ひと目にさらして
恥ずかしい声を、なんどもなんども肚から
絞り出して、(瞼の裏を菫色にして)命がけでいきまなければ
あなたは、ここに生まれて、来ていない。
恥ずかしい、それでも、どこにも逃げられない。逃げない。

 この「わたし」は「女」と言い換えることが、「女」と言い換えてはいけない。そのまま「わたし」ということばを引き受け、読者は「女」にならなければならない。もちろん私は「女」ではない。けれど、「女ではない」ということをこの詩から「私」を切り離してはならない。逆に「女ではない」からこそ、「女」を想像しなければならない。
 「誰が世界を語るのか」という詩に、

--当事者でないことを、恐れない

 という一行がある。そのことばが語っていることを私は私にあてはめなければならないのだと思う。
 つまり、私は女ではない、こどもを生んだことはない、ということを恐れない。こどもを生んだことはないが、こどを生んだことがある女と同じ気持ちで語らなければならない。「女ではないのに女の気持ちを語るな」という批判にひるんではならない。

当事者でないことを恐れない
--それは、想像することを恐れない、ということだ。
--それは、想像せよということだ。

わたしは想像する。
当事者について、想像する。
当事者ゆえに、語れないことを(言えないことを)。
当事者ゆえに、考えたくないことを。
当事者ゆえに、見たくないことを。
当事者ゆえに、思い出したくないこと(忘れたいことを)。
当事者ゆえに、恐れることを--。            (誰が世界を語るのか)

 「女に聞け」の「わたし」が語れないこと、考えたくないこと、見たくないこと、思い出したくないこと、恐れることは何か。
 語れないことは、宮尾にはないかもしれない。
 考えたくないこと、「日本がふたたび戦争をすること」。見たくないこと、「生んだ子どもが戦争で死ぬ姿」。思い出したくないこと、たとえば「子どもを産むときの恥ずかしい姿(?)」。でも、これは書いてしまっている。恐れること、「生んだ子どもが戦争で死ぬ姿」。
 私の想像は、違っているかもしれない。しかし違っていてもかまわないのだ。あるいは、私の想像は単に宮尾のことばをなぞっているだけのこと、ほんとうに自分で想像したことではないかもしれない。それでもいいのだと思う。ひとはそれぞれ違う人生を生きている。「同じ」はありえない。「違っている」と言われたら、もういちど想像すればいい。
 私は、そんなふうに、宮尾のことばに近づいていきたい。

けんぽうきゅうじょうに、ゆびいっぽん
おとこが、ふれるな。やかましい!
平和のことは、女に聞け。                     (女に聞け)

 私は「9条」を変えることを望んではない。この段階で、私は宮尾のいう「おとこ」ではない。
 そして、実際に「9条を変えるな、戦争に反対」というと、「北朝鮮が攻めてきたらどうするんだ、家族のために戦わないのか、それで男か」と男から非難されるということもある。「男なら、家族と国を守れ」。私は、そういうときは「男」でなくてもかまわないと思う。家族や国を守れないのは、男にとって「恥ずかしい」ことか。そうだとしたら、私はその恥ずかしさを引き受ける。宮尾が恥ずかしい姿をさらしてこどもを生んだように、私は恥ずかしい姿をさらして生きていくことを選ぶ。「いいじゃないか、みんなで恥ずかしい男になろう」と言ってみる。私は武器のつかい方を知らない。だから戦いたくても戦えない。「平和」は戦わないようにする以外に「方法」を知らない。そのことを言う。「女に聞け」と宮尾は言う。私は宮尾に、私のような人間を「女」の部類にいれてくれ、と言おう。

 「氷」という詩は、とても好きな詩だ。私はいつも、この詩に書かれているようなことを願っている。

思ったことを
言葉にする。

言葉にしたら、つぎは
口にしてみる。

口にしたら、つぎは
手足にしてみるの。

たとえば
氷、と書いて

汗をかきかき、自転車こぎこぎ
商店街に行って
「かき氷、ください」と
言えば。

「はい、いちご」と、お盆に
運ばれてきたガラス鉢の
氷は、手に冷たくて
舌に甘くて

 いつでも「ことば」を肉体にできるか、自分でそれができるかを確かめる。自分のことばがほんとうかどうかは、それしか確かめようがない。
 ちょっと前にもどって「恥ずかしい」を振りかえると。 
 「男なら、家族と国を守れ。戦わないなんて恥ずかしくないのか」と言われても、恥ずかしいとは思わなくなる。「いや、実際に銃を向けられたら、逃げるだけ。できるのは、早く逃げようと家族に言うだけ」と書いてしまうと、ぜんぜん恥ずかしくなくなる。できもしないこと、「家族を守るために戦う」と言うことの方を恥ずかしく感じる。できないことを言って、家族が先に殺されてしまったら、何の意味もなくなる。そっちの方が恥ずかしくないか?

 「林檎に政治をもちこむな」は、こう始まっている。

ちょっと 待て
林檎に政治をもちこむな
音楽に政治をもちこむな
文学に政治をもちこむな
芸術に政治をもちこむな

ちょっと待って
誰が
誰に 言ってるの?
誰が 林檎に言ってるの?

 「林檎」以外は、よく言われることである。宮尾はこのあと「反論」を書いているのだが、私は当事者ではないことを恐れる人間ではないので、むしろこう言いたい。

政治に林檎をもちこもう
政治に音楽をもちこもう
政治に文学をもちこもう
政治に芸術をもちこもう

 「そんなことでは、政治が成り立たない」と言われるだろう。「政治と文学(詩)」は違うと言われるだろう。知ってるさ。知ってるから、その「違う」ものを持ち込む。「違う」もので、そこにおこなわれていることを点検する。
 宮尾が「九条守れ」に「出産体験」を持ち込んだように、私は「九条守れ」に自分のことばの読み方を持ち込む。憲法学者(法律家)の読み方と違う。もちろん違う。「そんなむちゃくちゃなことを書いて恥ずかしくないか、そんなことを書くと恥をかくだけだぞ」という批判を私はもう聞き飽きた。「違っている」ことを私は「恥ずかしい」とは思わない。違っていて何が悪いのだろう。憲法は、自分を国から守るためのもの。自分を守りやすいように読む。
 みんながそうすればいい。「私は音楽がやりたいから、九条がないと困る、戦争が始まって爆音が飛び交うとピアニッシモの音が聞こえない」「自衛隊が憲法に明記されたら、私は大リーグのピッチャーになりたいから徴兵には行きたくないと言えるかどうかわからない、だから反対」。何を馬鹿なことを言っている、と言われるかもしれない。でも、それが自分のしたいことなのだから、それを言わないでなんになるだろう。みんながばらばらになればいい。ばらばらになれば、一致団結しないと成り立たない「戦争」は起こしようがない。
 せっかく母親が(女が)、恥ずかしい思い、痛い思いをして産んでくれたのだ。「ひとり」として生まれてきたのだ。最後まで「ひとり」を生き抜く、「ばらばら」で生き抜くのでなければ、母親にすまない。「ばらばら」のまま、いっしょに生きていくというのが、私の理想だな。






*

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(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
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旭日旗と大漁旗は同じものか

2019-10-28 09:28:58 | 自民党憲法改正草案を読む
旭日旗と大漁旗は同じものか
             自民党憲法改正草案を読む/番外300(情報の読み方)

 2019年10月28日の読売新聞(西部版・14版)は、韓国が、東京五輪に旭日旗を持ち込むことを禁止するようもとめる国会決議をしたことを取り上げて、二面、三面で「日本政府の主張」を補足しながら「代弁」している。
 その「論拠」が、つい最近、私がフェイスブックのサイトで体験したやりとりとそっくりなので、私は驚いてしまった。
 読売新聞によれば、政府は「旭日旗は古くから国内に定着しており、政治的主張や軍国主義の象徴には当たらない」と言っている。(「象徴」ということばが、ここにつかわれていることに注目したい。)
 これを読売新聞は、「旭日旗が大日本帝国陸軍の軍旗(略)、大日本帝国海軍の軍艦旗としてそれぞれ採用された」と明記した上で、こう「補足」している。(番号は私がつけた。)この「補足」が、私がネット上で対話したひとの主張とほぼ重なる。

①一般社会では、大漁旗や社旗などて古くから用いられている
②旭日は北マケドニア共和国の国旗、米アリゾナ州の州旗、ベラルーシ空軍の軍旗などにも見られる。

 ①は「不正確(不明瞭)」文章である。ことばを補えば

①旭日は一般社会では、大漁旗や社旗などて古くから用いられている

 になる、そうするとわかりやすくなるが、①②の「主語」は「旭日」であって、「旭日旗」ではない。
 「旭日」というのは「太陽」の「象徴」、あるいはそれをデザインしたものであって、「旗」そのものではなく「旗」を構成する一要素である。
 韓国が決議したのは「旭日旗」の持ち込み禁止であって、「旭日」デザインの排除ではない。もし「旭日」デザインを排除すれば、北マケドニア共和国は東京五輪に国旗を持ち込めなくなる。そんなことを韓国がもとめるわけがない。

 もし旗に「旭日」が描かれているだけで、それだけで「大日本帝国陸軍」「大日本帝国海軍軍艦」を指し示すのだとすれば、なぜ「大日本帝国陸軍」「大日本帝国海軍軍艦」は「大漁旗」を掲げなかったのか。あるいはいまの自衛艦隊は「北マケドニア共和国の国旗、米アリゾナ州の州旗、ベラルーシ空軍の軍旗」を掲げないのか。理由は簡単だ。「大漁旗」「北マケドニア共和国の国旗、米アリゾナ州の州旗、ベラルーシ空軍の軍旗」は「旭日旗」ではあり得ないからだ。
 「旭日」という「同じ象徴」をつかっていても、その「象徴」をつかったものが同じものを指し示すとは限らない。「象徴」と、それのつかい方(具体的なもの、行動)の関係を見極めなければならない。

 読売新聞は、ナチス党旗の「ガギ十字」との対比で、こういうことも書いている。

③旭日旗が日本文化に根ざす一方で、カギ十字は、ユダヤ人虐殺につながるナチスの人種差別思想が込められており、(略)ヒトラーは、カギ十字を「アーリア人」優越思想の象徴として用いた

 ここに「象徴」というこばが、ふたたび登場する。
 ③は「旭日旗」と書き始められているが、これは本来は「旭日旗」ではなく、「旭日」であり、「旭日が日本文化に根ざす」でないと、「カギ十字」とは対応しない。
 そしてもし「旭日が日本文化に根ざす」ということをほんとうに主張するのならば、「北マケドニア共和国の国旗、米アリゾナ州の州旗、ベラルーシ空軍の軍旗」の「旭日」も「日本文化に根ざす」と言わなければならなくなる。とても変である。だから、ここでは②でつかった「旭日」ということばはつかわずに「旭日旗」と言っているのである。
 「旭日」と「旭日旗」をつかいわけて論理をごまかしている。
 こういう論理は、「日本の伝統」などを口にしながら、結局、日本の伝統をバカにしている。大漁と安全を願って海に出る漁師の気持ちを踏みにじるものだ。漁師たちは日本陸軍や海軍、自衛隊とと同じ気持ちで漁に出るわけではないだろう。
 さらにこうも書いている。

④ユダヤ人虐殺への反省などから、戦後のドイツではカギ十字の掲揚が禁じられた。違反には金庫3年以下か罰金の刑が科せられる。

 「旭日旗」に関しては、そういう「法律」はない。だから五輪への持ち込みを「禁止」する必要はない、といいたいのだろう。

 さて。
 と私は思うのだ。
 「日の丸」という国旗があるのに、なぜ一部のひとたちは「旭日旗」を持ち込まないと日本を応援できないのか。「日の丸」の旗は「日本の象徴」ではないのか。「日の丸」の旗では、日本の「何」が「象徴」できないのか。何をあらわすことができないのか。
 さらに、「旭日」が日本文化に根ざす「象徴」なら、その「旭日」が描かれている「大漁旗」で応援してもよさそうなのに、なぜわざわざ「大日本帝国陸軍旗」「大日本帝国海軍軍艦旗」そのものである「旭日旗」にこだわるのか。
 どう考えても、この「旭日旗」でなければならないという「こだわり」はおかしいだろう。

 きのう御厨貴の文章に触れて「象徴」ということばのつかい方のいいかげんさに触れたが、「象徴」ということばは「象徴天皇」に代表されるように、「あいまいな」定義のまま流通している。「あいまい」であることを利用して「政治利用」されている。
 御厨は、天皇を「権威の象徴」と呼んだが、これは「即位の礼」のあとなので、なんとなく「権威」をそのまま受け入れてしまいそうになるが、たとえば平成の天皇の行動をみてみれば「権威の象徴」であったときがあるのだろうか。たとえば東日本大震災の被災地を訪問し、膝をついて被災者に語りかける。そのとき天皇は「悲しみの象徴」「絶望の象徴」「不安の象徴」「生きなければという決意の象徴」「寄り添いたいという多くの国民の象徴」ではなかったか。「権威」というものを捨てて、よりそう。膝をつくという姿勢が、そういうことを語っている。ノーベル賞受賞者に声をかけるときは「よろこびの象徴」でもあるだろう。戦没者追悼式、広島、長崎の原爆の日の追悼、沖縄慰霊の日の追悼では、「平和な日本がつづきますように」という「祈り、願いの象徴」ではないだろうか。「平和への祈り、願い」は力のない国民の、弱い人間の「象徴」でもある。
 勝手に「権威の象徴」などと決めてはいけない。御厨が天皇を「権威の象徴」と呼んだのは、安倍を「権力の象徴」と呼ぶためであり、それは「天皇への不可侵」を多くのひとが前提としていることを利用して、「権力への不可侵(権力を批判してはいけない)」のための「方便」(レトリック)なのだということを見抜く必要がある。御厨は、先の文章で、「私はこんなに安倍に仕えています」ということを安倍に語っているだけなのだ。そして、「みんなも安倍に仕えれば、安倍の引き立てにあい、幸せになれるんだよ、批判なんかしていたら貧乏人のままだよ」と笑っているのだ。
 あ、最後の方は怒りが収まらなくなって、ことばが暴走したなあ。でも、思ったことなのだから、そのまま書いておく。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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天皇は何の象徴か

2019-10-27 19:28:10 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇は何の象徴か
             自民党憲法改正草案を読む/番外299(情報の読み方)

 2019年10月27日の読売新聞(西部版・14版)に御厨貴が寄稿している。一面、二面にまたがる「地球を読む」というコラムだ。「即位礼に思う/令和の政治 始まる予兆」というタイトルで、即位礼で天皇に向かって安倍がことばを述べ、万歳をしたことについて、こういうことを書いている。

 天皇と総理大臣が距離感と緊張関係に改めて思いをいたしながら、一つの政治が終わり、新たなる政治が始まる予兆を感じた。わが国の「権威の象徴」である天皇と、「権力の象徴」たる総理とが、今後の進路へと思いを馳せつつ対面していたからだ。

 私はびっくりした。
 天皇はいつから「権威の象徴」になったのだろうか。日本国憲法は、

日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、

 と書いている。どこにも「(わが国の)権威の象徴」とは書いていない。天皇は「権威」ではない。
 さらに内閣総理大臣(総理)については、憲法は「行政権は、内閣に属する」(第65条)と定めたうえで、第66条で、

内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。

 と書いている。ここにも「権威の象徴」ということばはない。
 だいたい「法律の定めるところにより」という文言からわかるように、「総理」は「法律」に従わないといけない。そして、その法律をつくるのは「内閣」ではなく「国会」である。憲法は、大事なことから先に書く。国民、国会、内閣という順に書き起こされている。内閣総理大臣は、たかだか行政の長にすぎない。「権力」でもないし「権力の象徴」でもない。「権力」はあくまで「国民」が握っている。「国民主権」が日本の憲法の理念である。
 御厨は、これを勝手に、書き換えている。
 そして、その書き換えをおこなうとき「象徴」ということばを利用して、「天皇」と「総理」を向き合わせている。一体にさせようとしている。
 その「中心」に「距離感と緊張関係」という奇妙であいなまいなことばと「象徴」が動いている。
 「天皇の権威」というものを私は認めないが、国民の中には「全体的権威」ととらえるひともいる。そういう「意識」を抱き込みながら、御厨は、「権威」を後ろ楯に、総理を「権力の象徴」に仕立てようとしている。
 「距離感と緊張関係」いいながら、やろうとしているのは逆のことである。「距離感と緊張関係」を保つのではなく、「あいまいさ」を利用して、そこに存在するはずのものを入れ替えてしまう。のっとってしまう。
 読み直してみよう。

「権威の象徴」である天皇と、「権力の象徴」たる総理

 と御厨は書くが、このとき問題なのは「権威の象徴」と呼ばれた天皇は、憲法で国政に関する権能を封じられているのに対し「権力の象徴」と定義された安倍は国政に関する権能を持っているということだ。天皇が「象徴」であるがゆえに、権能を持たないと定義されていることをいいことに、安倍は、その封じられている「国政に関する権能」を「権威の象徴である天皇」にかわって執行するということなる。「権威の象徴」である天皇は「象徴」というあいまいなものであるだけに何もできないのに対して、「権力の象徴」である総理は「象徴」なのに「実働力」を持つ。
 これは、どう考えても変だろう。
 「象徴」である天皇に「権能」がないのなら、「象徴」である総理にのみ「権能」があるというのは、「象徴」のダブルスタンダードというものだ。「象徴」が「権能」というものを持たないのなら、「権力の象徴」としての総理も「権能」をもってはならない。そうしないと、「象徴」の「意味」が違ってしまう。
 もちろん同じことばでも「文脈」で「意味」が違うというときはある。しかし、ここで展開している御厨の「論」は「同じ文脈」とういか、「一つの文脈」である。
 こういう「ごまかし」が安倍の側近には非常に多い。ことばの「定義」をあいまいにずらしていく。国民がことばの「定義」をつきつめて考えないことを利用して、ごまかしを重ねる。
 これは「戦争法」を成立させたときに、非常にたくみにおこなわれた。「集団的自衛権」ということばの「集団」も「的」も「自衛」も、中学生以上ならだれでも「意味」は知っている。その知っているままの「意味」を重ねると、「集団で日本を守る」という具合に簡略化される。ほんとうは、同盟国であるアメリカが攻撃されたら、その攻撃を受けた場所がどこであろうと(アメリカ本土ではなく、中東であろうと)、それを日本への攻撃とみなして、アメリカといっしょになって、たとえば中東で戦う(中東へ自衛隊を派遣する)というものなのだが、多くの国民は「日本が中国や北朝鮮から攻撃を受けたら、アメリカはもちろん近隣の諸国と集団で日本を守る」と思い込んだのである。そして、日本を近隣諸国といっしょになって守って何が悪いのか、日本だけでは守れないから近隣諸国といっしょになって戦うための法律と思い込んだのである。(いまでもそう思っているひとが大勢いる。)
 いま、御厨がやろうとしていることは「象徴」ということばで「天皇」と「総理」を合体させ、「権力の象徴」と呼んだものを、そのまま「権威の象徴」にまで高めるということである。安倍を、権力者として定義するだけではなく、権威者としても定義し、「独裁」を絶対的なもの(不可侵のもの)にするということである。
 さすがに安倍に引き立てられて、平成の天皇を強制生前退位させるための根回しをした人間である。どこまでも安倍を持ち上げ、安倍を頂点とするヒエラルキーの「上部」に自分を位置づけようとしているのだろう。

 まったくムカムカする。こういう感情的なことは、論理を見えにくくするから書きたくないのだが、私はきょうは朝からムカムカしている。日中は感情をおさえて、冷静に対処しないといけないことをしていたのだが、その間中も思い出してはムカムカし、いま書き終わって、やっと少し落ち着いた。
 だが、ここで落ち着いてはいけない、とまた自分を叱っている。みんなで怒ろう。御厨のことばの「罠」を批判しよう。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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「表現の自由」その後

2019-10-25 22:12:25 | 自民党憲法改正草案を読む
「表現の自由」その後
             自民党憲法改正草案を読む/番外298 (情報の読み方)

 朝日新聞ブルデジタル版が、映画「主戦場」をめぐる記事を書いている。( 2019年10月24日20時51分、https://www.asahi.com/articles/ASMBS3RSXMBSUTIL010.html?fbclid=IwAR2JKWuYRjsDH2 _6bMNUsZ3dDdxMmpti _h7sodImGMS18jGtpdyvz3ck3dI)

慰安婦問題扱った映画、川崎市共催の映画祭で上映中止に

 という見出しの記事だ。
 以下はきのう10月24日にフェイスブックで書いたもの。ブログに転写し損ねたので、きょう転写しておく。

川崎市市民文化振興室の田中智子・映像のまち推進担当課長によると、提訴の件を主催者から知らされ、市役所内で検討の上で「裁判になっているようなものを上映するのはどうか」と主催者側に伝えたという。田中氏は「上映に介入したつもりはない。懸念を伝え、最終的には主催者が決定したものだ」と話した。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
 いちばん問題にしたいのは「介入したつもりはない」と「最終的には主催者が決定したものだ」という田中の言い方である。
 これは、頭のいいやくざの恐喝の方法と同じである。
 「お金を要求したことはない。最終的に金をはらうと言ったのは相手側であり、それは相手側の判断だ」
 誰が判断したかではなく、その判断へ導く過程を問題にしないといけない。

 そして、これはまた別な方向から見ると、安倍のやっていることと同じ種類の「導き方」と「言い逃れ」である。
 森友学園への土地売却、加計学園の設置認可。
 安倍は自分では何も関与していないという。「だれか」が勝手に安倍の意向を「忖度」した。判断は「部下」がやった。「当事者」がやった。安倍は何も悪いことはしていない。

 上に行くほど、「私は関与していない」「部下が自分の判断で行動した」と言い逃れる。
 これはすべて安倍が生み出した「言い逃れ」の方法である。

 「表現の自由」の現場にまで、こういう問題が押し寄せてきている。
 本来、行政は「表現の自由」を守る側に立たないといけない。
 法的に訴えられる可能性があるので、商業施設( 映画館) での上映は難しい。しかし、法の決着がついていないなら( 有罪と決まっていないのなら) 、つまり「推定無罪」と言える状況なら、「表現の自由」を守らないといけない。
 行政が守らないと、だれも守ってくれない。「弱者」を守るためにこそ、行政はあるのだ。
 公共施設は、行政のものではない。それを利用する市民( 国民) すのべのものである。すべての人間が利用できるものでなくてはならない。
 ある意見を持っているひとが「反対」といえば、それだけで施設がつかえなくなるという前例はでてきしまい、これがこれからどんどん広がっていく。

 とても危険なことである。

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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江代充『切抜帳』

2019-10-25 10:36:42 | 詩集
切抜帳
江代 充
思潮社


江代充『切抜帳』(3)(現代短歌社、2019年09月30日発行)

 また、江代充『切抜帳』にもどってみる。「思い出す」について考えてみる。
 「天使の詩」は、セッター犬と人間を描いている。

気持ちは飼い主のほうへ途切れるらしく
途中から小走りに走りながら
四つ足から後ろ足で立ち上がっては躍動し
まだかなり離れた人体のほうへ
その前足を持たせ掛けようとする
のちには白地にぶちの散った色違いのセッター犬を
かれが街なかでしばらくの間見続けるのは
この時の犬の動静に心うばわれ
そこから僅かな力を感じたからかも知れない

 「飼い主」は「人体」と言い換えられることで「客観的」な風景(情景)になる。犬の後ろ足はまだ地面に残っている。前足は宙に浮いて飼い主の方に向かっている。その様子が、「人体」ということばによって、一枚の写真のように固定してしまう。固定してしまうけれど、そこに引きつけられるのは、犬の「肉体」の動きの中に「力」の移動があるからだ。「力の移動」に、この「風景(情景)」を見ているひと(書かれていない主語としての私/江代)の「肉体」が重なるからである。「犬の動静に心うばわれ/そこから僅かな力を感じたからかも知れない」は、そういう「意味」だろう。
 問題は、それが最初に犬を見たときに感じたことではないということだ。

のちには白地にぶちの散った色違いのセッター犬を

 この一行の中にある「のちに」と「違い」ということばが、非常に繊細で美しい。ここに江代の特徴の一つがある。
 「のちに」ということばは「以前」と呼応する。つまり、ここでは明記されていない私が「以前」を思い出している。そして、「思い出」と「いま」とを比較して「違い」があることを発見する。同じ犬ではない。「色違い」の犬である。その「違い」の発見は、しかし、「同じ」を思い出させるための「補色」、あるいは「誘い水」のようなものである。
 何が同じなのか。
 犬が飼い主の(人体/肉体)方に、犬自身の「肉体」を「持たせ掛けようとする」動きだ。飼い主に向かって走ってる。そういう「力」が犬の動きの中に感じられる。それが「同じ」なのだ。
 この「思い出し方」が、きのう読んだ作田教子『胞衣』の「思い出す」とは違う。
 作田はあくまで「同じもの」を「思い出す」。そして、「同じ」をそのまま「いつでも、どこでも」という形にしてしまう。そして、「思い出す」ということ、それが「思い出」であることを強調しない。当然である。作田にとっては、「過去」はない。「永遠」があるだけだからだ。
 けれど江代は違う。「のちに」ということば、「時間の差(時間の違い)」を明確にした上で、「思い出している」という人間の運動を明確に書き記す。「いま、ここ」があると同時に「かつて、どこか、何か」が存在する。それを共存させることが「思い出す」ということである。「いま、ここ」と「かつて、どこか」が二重になる。その「二重」をつなぎとめるもの、つまり何かが「動き(力の移動)」である
 江代の詩は、つねに「移動」を含むが(視点が移動することによって、「物語」が変化していくが)、それは「いま、ここ」と「かつて、どこか」を「二重化」する運動(力)として江代が「存在している」ということを意味する。
 これは、だから、とても微妙な問題を浮かび上がらせることになる。

かれが街なかでしばらくの間見続けるのは

 このふいに登場する「かれ」とは誰なのか。たぶん最初に描かれている「飼い主」だろう。「かれ」はいまは犬を飼っていない。けれど街で犬を見かける。その犬はかつて彼が飼っていた犬のように、飼い主の肉体の方へ全身を預けようとしている。ああ、犬とは、こんなふうに飼い主を信頼するものなのか。
 だが、ほんとうか。
 最初の犬の動き(飼い主へ向かって走る姿)を見たのは、「書かれていない私/江代」ではないのか。江代は、同じ飼い主が別の犬を飼っているのを再び見ただけかもしれない。いや、書かれていなかった主人公が登場してきて、昔見たのと同じ情景(かつての飼い主は、かつての犬とは違った犬と遊んでいる)を見ている考える方が「かれ」ということばと自然につながるかもしれない。
 けれども、私は、「かれ」を「あのときの飼い主」と思いたいのである。飼い主が「かつての情景」を思い出し、その思い出すという行為のなかで、自分自身を「客観化」している。
 「客観としての思い出」。
 たぶん、それが作田との違いだ。作田は「主観」としての「思い出」を書く。江代は「主観としての思い出」を書くのではなく「客観としての思い出」を書く。だから、いつでも「抒情」とは違ったものがそこに入ってきてしまう。「主観」を拒んだような何かが入り込み、「思い出」の細部に「エッジ」のようなもの、「違和感」をまといつかせる。
 「人体」「動静」「僅かな力」ということばが、その「エッジ」をつくっている。「僅かな」も「力」も日常的につかうので「エッジ」という感じはしないかもしれないが、「僅かな」という修飾語で「力」のありようを限定し、細部に意識を向けさせている(強制している)部分が「エッジ」を感じさせる。
 そしてこの「客観としての思い出」を江代(この詩には書かれていない「私」という主語)と「かれ」が共有する。共有されることで「永遠」になり、その「永遠」に読者も巻き込まれていく。
 「客観」なのに「主観」のように複雑、あるいは「主観」なのに「客観」のように複雑に入り組んでいる(折れ曲がっている)のが江代のことばの動きなのだ。




*

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作田教子『胞衣』

2019-10-24 10:46:26 | 詩集
胞衣(えな)
作田 教子
思潮社


作田教子『胞衣』(思潮社、2019年09月15日発行)

 作田教子『胞衣』を読みながら、かなり奇妙な気持ちになった。作田が書いている情景は、私にはとてもよくわかる。しかし、そのわかるは別なことばで言いなおすと「思い出す」なのだ。「いま」起きていることが「わかる」のではなく、書かれていることを思い出すことができる、なのである。
 たとえば「みどり」の次の部分。

家への道は何通りもあった
川を渡り 民家の庭を横切り
桑の実をほおばり
暗くなっても家に着かない
空が高くなった分だけ草の背が伸びて
そこに埋もれるとわたしはいなくなる

 「民家」ということばは、私の「思い出」のなかにはないから(いまでも「民家」ということばを私はつかわないが)、全てを「思い出す」とは言えないのだが、ここに書かれているそれ以外のことは、はっきり思い出せる。「民家」のかわりに、キヨシの家とかキクコの家、ハジメの家という具合。さらには「桑の実」もミツコの家の(畑の)桑の実ということになる。
 私は、ここに書かれていることを子どものときに体験したことがある。
 だからこそ思うのだが、作田の書いているのはいったいいつのことなのだろう。作田が何歳なのか知らないが、過去のことを書いているのだろうか。もし過去のことを書いているとしたら、それはなぜなのだろう。
 それがさっぱりわからない。
 最近感想を書いた江代充『切抜帳』にも、いまも見かけるものとはとても思えないものが出てくる。たとえば「木切れの子」には、

牛やうまや飼い葉桶のある

 ということばがある。「牛やうまや飼い葉桶」を私は、もう何十年も見ていない。
 でも江代のことばに触れるときは「思い出す」というのはかなり違う。江代のことばの動かし方が「思い出す」という感じを裏切る、「思い出す」をひっくりかえすように、ぎくしゃく、折れ曲がっているからである。先の引用のつづき

牛やうまや飼い葉桶のある
あの仮設小屋の内側に宛てがわれている
新しく設えられた
よろこびの素材の板の一つに触れようとする

 江代が書いているのは「素材」ではなく、視線(肉体)の運動だからである。その運動のありようが特別変わっているということを知らせるために、あえて「古い素材(遠い記憶にある素材)」を利用している。「知っているはずのもの」なのに、そこでは「知らないこと」が起きている。いつ? 「いま」起きている。
 江代の詩が、古い題材をつかいながらも「現代性」を感じさせるのは、その「文体」の時間が「思い出」のなかで展開しているのではなく、「いま」を動かしているからだ。
 作田のことばの動きは「いま」を感じさせない。
 「明るい滅亡の日」という作品。

未生の(さよなら)を
母親は孕み
産み落とした瞬間から
その(さよなら)を殺める運命に
押し流される
永遠に死を孕む運命から
のがれようもなく
白日のもとに晒される覚悟

 こういう行は私の「思い出」にはない。「思い出す」ということはできない。私は「孕む」という動詞も、「産み落とす」という動詞も体験したことがないから、それは「思い出す」ということができないのだ。
 でも、「文学の記憶(ことばの記憶)」としてなら、「思い出す」ことができる。そこに書かれている「ことば」をすべて知っている。知らないことばはない。
 そして、そのために、「いま」起きているという感じがしない。
 「過去」にあった、という感じでもない。
 「いつでも」あること、という印象になってしまう。

 たぶん、こういうことなんだなあ、と思う。
 作田は「いま」を書いているのでもない。「過去」を書いているのでもない。「いつでも」を書いている。「永遠」を書こうとしている。そして、その「永遠」を書くためには、「文体」もまた「永遠」でなければならない。言い換えると、いつ読んでも、だれが読んでも「普遍」に通じる「スムーズ」な文体。
 実際、とても読みやすいのだ。読んでいて、つまずくことろがない。
 「くじら」の書き出し。

教室で泳ぐ くじら
潮を吹きあげて
ぼくを見守るように
頭上を泳ぐ
五時限目の明るい憂鬱の海
少し眠たい

トモダチは誰もくじらを見ない
センセイはくじらが見えない
くじらはとても元気だけれど
少しお腹がすいている
だから
低い声できゅうっと啼いた
ぼくは給食のパンを
頭上に放った

 「五時限目」「給食のパン」というようなことばが、教室の「永遠」を引き寄せる。「少し眠たい」も、同じだ。「時間」や「場所」が限定されているにもかかわらず「いつでも、どこでも」を呼び寄せる。つまり「思い出せること」を呼び寄せる。「思い出せる過去」は「過去」ではなく、「いま、ここ」なのだ。
 そういう哲学を完成させるために、「いつか、どこか」を特徴づける文体は遠ざけられ、「いつでも、どこでも」の文体が採用されている。

 そうなんだけれど。
 私は、ちょっと「いやだなあ」と思う。
 詩としては完成されているのだけれど、その完成が何かいやだなあを強くする。「いま」を破ることで、「新しいいま」を噴出させる「特別な文体」がほしいと思ってしまう。




*

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「のっとる」について(中立とは何か、その2)

2019-10-24 08:14:26 | 自民党憲法改正草案を読む
「のっとる」について(中立とは何か、その2)
             自民党憲法改正草案を読む/番外297(情報の読み方)

 新天皇が、「即位礼正殿の儀」で

憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。

 と言った。平成の天皇は「日本国憲法を遵守する」と言ったが、新天皇は違うことばで語っている。もちろんどう語るかは、天皇の自由だが、なぜ変えたのか、そのことを考えないといけない。
 きのう、そのことを書いた。
 読売新聞2019年10月23日朝刊(西部版・14版)には掲載されていなかったので、気づかなかったのだが、安倍は、このとき、こう言っている。

ただいま、天皇陛下から、上皇陛下の歩みに深く思いを致され、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、日本国憲法にのっとり、象徴としての責務を果たされるとのお考えと、我が国が一層発展し、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを願われるお気持ちを伺い、深く感銘を受けるとともに、敬愛の念を今一度新たにいたしました。

 ここに、天皇がつかった「のっとり」ということばが出てくる。「時系列」としてみれば、天皇が「のっとり」と言ったのだから、それを繰り返している、ということになるが、天皇も安倍も「そら」でことばを発しているわけではない。その場で「即興」でことばを発しているわけではない。
 つまり、天皇が「のっとり」と言ったから、安倍がそのことばを尊重して「のっとり」と言ったわけではない。
 事前に調整があったから、「のっとり」ということばが繰り返されているのである。

 これは、とても大事なことなのである。
 話は少し脱線するが「新約聖書」がある。キリストの目撃証言集である。その証言は「大筋」において共通しているが、表現は、そっくりそのままではない。使徒というのか、目撃者の書き残していることばは少しずつ違う。この違いはキリストが実在したということを証明している。キリストが「神の子」であったか、どうかはわからないが、キリストに会った人が、そのときのことを自分のことばで書いたから、どうしても「体験」のずれのようなものがことばに出てきてしまう。「テキスト」をコピーしているわけではないから、違いが出てくるのだ。もちろんテキストをコピーしても書き写しの間違いがあるかもしれないが、「新約聖書」の「ずれ」はコピーとはかけ離れている。
 同じことを語っても、自分のことばで語れば、そこに違いがある。これが「現実」というものである。
 ところが、「象徴の定義(日本国及び日本国民統合の象徴)」という表現と「(日本国)憲法にのっとり」という表現は、天皇と安倍とでぴったり一致している。これは、事前に「ことば」を調整したということである。

 天皇が先にことばを書き、それを安倍が踏襲したのか。
 私は、そうは考えない。
 天皇のことばは、かならず内閣で事前に点検している。つまり、「注文」がついている。言いたいことがあっても、そしてその機会があっても発言を封じられることがある。その例は『天皇の悲鳴』ですでに書いてきたので繰り返さないが、天皇が「自由」に発言しているわけではない。
 平成の天皇は「日本国憲法を遵守する」と言ったのに、新天皇は「のっとる」と言った。それは古川隆久が言うように「中立性」の表現ではなく、「遵守する」という厳格な意味を「あいまい」にするということである。
 「中立」とは「公平」「公正」を意味するだけではない。複数の意見があるとき、どれに賛成するかきめない、つまり「判断停止」にしておくという状態も「中立」と呼ばれることがある。どちらに加担するというわけではないので、「中立」と言い逃れることができる。
 平成の天皇は「護憲派」と見られていた。その根拠が、即位のときの、憲法を「順守する」ということばにあった。新天皇は、その「遵守する」を回避した。かわりに「のっとる」という動詞をつかった。
 これは、安倍が「遵守ではなく、もっとわかりやすいことばで」とか何とか言って、天皇の「遵守」発言を封じたということだろう。目的は、もちろん新天皇の憲法に対する態度を「あいまい」にするためである。「中立」ではなく、「あいまい」に、である。
 「あいまい」だから、もちろん「のっとる」は「遵守する」と同義であるということはできる。しかし、同義ではあっても「遵守する」と明言しているわけではないから、「遵守すると言ったじゃないか」とはだれも批判できない。

 読売新聞は、そういう「批判」を見越して、わざわざ古川に「のっとる」の「定義」を「中立性」と語らせている。この古川の「解釈」は、これから起きることの「露払い」の役割を果たしていることになる。
 憲法改正の動きは加速する。平成の天皇を強制的に沈黙させたあと、安倍の行動はどんどん横暴になっている。次々に嘘をついている。たとえば消費税増税にあたって「キャッシュレス(デジタルマネー)化」を推進するのは、消費者対策(減税対策)のためであると言っておき、キャッシュレス化が進んでいないと指摘されると「キャッシュレス化はインバインド対策(外国人観光客を増やすための対策)だった」と平気で言いなおす。たしかに外国人観光客対策にはなるだろうが、日本人消費者はどうなるのだ。
 キャッシュレス化は、キャッシュレス産業(小売店と消費者の間に入って金の管理するシステムを管理する企業)を儲けさせるためのものだとわかる。消費者に消費税の一部を還元するというのは、たしかに「嘘」ではないが、ほんとうの目的ではない。こういう「嘘」を少しずつ積み重ねて、社会を変えてしまう。
 この手口を警戒しないといけない。2012年の自民党改憲草案を現行憲法と比較してみればわかる。どうして書き換えないといけないのか、わかりにくい部分が非常に多い。「遵守する」を「のっとる」と言い換えたような、一見「わかりやすい」表現が多い。そういう「わかりやすい」を装った部分にこそ、「罠」がある。
 なぜ新天皇は「遵守する」ではなく「のっとる」ということばを強制的に言わせられたのか。そこにどんな「罠」があるか。古川が「解説してしまった」中立ということばを、私たちは「暮らし」のなかでどんなふうにつかっているか、というところから点検していかないといけない。

 


#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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天皇のことば(中立とは何か)

2019-10-23 11:08:39 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇のことば(中立とは何か)
             自民党憲法改正草案を読む/番外2965(情報の読み方)
 読売新聞2019年10月23日朝刊(西部版・14版)の三面、「スキャナー」に、平成の天皇と令和の天皇の「即位礼」のときのことばの比較が載っている。どこが違っているか。
 読売新聞は、三点指摘している。
 ①平成の天皇が「皇室典範」の定めるところによって皇位を継承すると言ったのに対して、令和の天皇は「皇室典範特例法」と言った。これは法律に変更があったからそう言ったまでで、何も問題はない。
 ②先の天皇への言及。これは対象者が違うのだから、違って当然である。
 ③憲法との関係について、平成の天皇は「日本国憲法を遵守し」と言った。平成の天皇は「憲法にのっとり」と言った。「遵守する」と「のっとる」はどう違うのか。「遵守する」は簡単に言えば「守る」、「のっとる」と「従う」になるかもしれない。ことばの「定義」は、ひとの暮らし方にかかわるから、簡単にはできないが、私はそう考えている。
 このことについて、読売新聞は、こう書いている。

平成のとき、上皇さまは「憲法を遵守」すると誓われた。この「遵守」には「守り、従う」という意味があり、保守派から「護憲派よりだ」との声が上がった。今回、陛下は「憲法にのっとり」と述べられた。

 「遵守(する)」は「定義」しているが、「のっとる」は定義していない。中途半端な表現だ。その上で、こうつづける。

皇室に詳しい古川隆久・日本大教授(日本近現代史)は「上皇さまは、憲法の『遵守』を強く打ち出されたことで、一部からは『護憲派』とみられるようになった。いまの陛下は、表現を軟らかくし、中立性を出すことで、政治的な議論に巻き込まれるのを避けたのではないか」と指摘している。

 「皇室に詳しい」というのは「皇室」のだれかに接触し、天皇の「意向」を確認したということだろうか。そうであるなら、そうはっきり言うべきだろう。古川の意見が、古川だけの個人的見解なら「皇室に詳しい」という「説明」は不要だろう。
 そのうえで言うのだが、古川の「定義」もなんだかあやふやである。「遵守」よりも「のっとり」が「表現が軟らかい」とはどういう意味だろうか。「どうとでも解釈できる」ということだろうか。
 きのう、高校国語から「文学」が排除されることについての思いを書いたが、「解釈の多様性」を受け入れる要素が「のっとり」の方が大きいということだろうか。
 これは「中立性」ということばへ引き継がれていくのだが、「中立」についても古川は「定義」していない。
 古川のいう「中立性」とは、安倍が「戦争ができるように9条に自衛隊の存在を明記する(内閣が指揮権を執る)」と改憲しようがしまいが、「改憲されるがままに」何も言わないということか。天皇は政治的発言を禁じられているから、いずれにしろ何もできない。「遵守する」といったところで、天皇にできることは何もない。何もできないというのは、何もしないということ、「中立」ということ。それなのに、わざわざ平成の天皇は「護憲派」であり、いまの天皇は「護憲派ではなく中立」と強調するのはなぜなのか。「中立」を、古川は、どう定義(解釈)しようとしているのか。
 憲法を変えないと変えるの間に「中立」というものはない。憲法を守ることこそが、憲法に対して「中立」である。憲法を守らない、と主張すれば、それは「違憲」である。憲法にどう向き合うかは「合憲」か「違憲」かしかない。それなのに、古川は「中立」という概念意を持ち込み、憲法を「遵守する」と言わないことを「中立」と呼んでいる。
 「中立」は「公平」とか「正しい」という「解釈(意味)」含むが、古川は「中立」を持ち込むことで、「護憲」を主張しないことが「公平」「正しい」と言いたいのだろう。こういうごまかしは「合憲(護憲)/違憲」という基本的な対立を隠すための薄汚い「方便」である。
 もし中立というものを問題にするなら、改憲案A、改憲案Bというものがあり、そのどちらに対しても「賛成/反対」を言わないことが中立である。そういう段階ではなく、「改憲」の動きがあるなかで、「護憲」であると明言しないことが「中立」であると定義するのは、間接的に、「護憲派」を否定することであり、同時に古川が「改憲派」であることを語っていることになる。
 先に書いたように「中立」は、公平とか、正しいとかの「意味」につかわれる。つまり「解釈」されるが、古川は自分は「中立(正しい/公平)」と宣伝した上で、「改憲派」は「正しい」へと世論を誘導しようとしている。読売新聞は、その「論理」を利用しようとしている。自分では何もいわず、「識者」に語らせることで、それこそ「中立」を装っていることにもなるだろう。
 きっと、「遵守する」から「のっとる」への変更は、これから「政治利用」されていくだろう。
 たぶん、この記事は天皇に対して何か言うというよりも、護憲運動に対して、「もう天皇はあてにできないんだよ。天皇は安倍寄りに方針転換したんだよ」と言いたいのだろう。そうすることで、改憲の動きを「推進」したいということだろう。つまり、「改憲派」は勝ったんだと「勝利宣言」したいのかもしれない。だが、私は、この「勝利宣言」には屈しない。

 別のことも書いておく。5月の即位のときも書いたのだが、「象徴の定義」についてである。
 平成の天皇も、令和の天皇も「日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たす」と言っている。「日本国及び日本国民統合の象徴」という表現は「日本国憲法」にはない。自民党の改憲草案(2012年)に出てくる。この定義は、安倍が5月に天皇が即位するとき、やはりつかっている。
 平成の天皇がつかっているから、令和の天皇がつかっても問題がないとはいえない。平成の天皇がそう言ったとき、まだ自民党改憲草案は存在しなかった。平成の天皇は日本国憲法を「簡略に」言いなおしたのだろう。ところが、その同じことばは自民党改憲草案に書かれることで違った意味を帯びている。「元首」という意味も含んでいる。それをそのまま安倍は令和の天皇に言わせている。すでに安倍は令和の天皇を「支配下」に置いているのである。
 天皇のことばは天皇が「基本」を書くだろうが、内閣の承認を経て発表されている。つまり「検閲」が存在する。そのことを考えると、天皇が「遵守する」ではなく「のっとる」という動詞をつかったことも安倍の「支配」という面からとらえなおしてみる必要がある。
 古川が言っているように「中立」ではなく、「護憲派ではない」ということを明確にするために「遵守する」と拒否し、「のっとる」と言わせたのだと考える必要がある。天皇の「口封じ」である。安倍の「沈黙強要作戦(独裁遂行作戦)」は、平成の天皇については完全に成功した。令和の天皇についても着々と進んでいる。

(追加)
 書き忘れたが、安倍もお祝いのなかで憲法に「のっとり」という表現を使っている。安倍が、平成の天皇の「遵守する」を「のっとる」に書き換え、それを新天皇に押し付けた「痕跡」を、私は読み取るのである。


 


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高橋順子『さくら さくらん』

2019-10-22 12:03:39 | 詩集
さくら さくらん
高橋順子
デコ


高橋順子『さくら さくらん』(deco、2019年11月04日発行)

 高橋順子『さくら さくらん』の帯に「くうちゃん 詩がおわらないよ」と書いてある。車谷長吉が死んだあとの作品を含んでいる。三部にわかれていて「Ⅲ」に車谷のことが書かれているが、他の作品にも車谷は隠れているだろう。
 たとえば「不幸なお尻」。

お遍路に行ってたくさん歩いたせいで
お尻が小さくなってしまった
歩きやすい体になったのか
椅子に座ると
しっかりした感じがなくなって 寒い
さてはわたしの幸福感はお尻にあったのか
不幸なお尻よ と嘆かずに
また歩こう
こんどは足の裏に幸福をつくる

 「お尻」を「車谷」に置き換えて読むと少し無理があるかもしれないが、「無理」なのはきっと車谷の自己主張(高橋のことばで言えば「甘えん坊」)が強いからだろう。
 とくに、

椅子に座ると
しっかりした感じがなくなって 寒い
さてはわたしの幸福感はお尻にあったのか

 に、そういうことを感じる。甘えられて、まといつかれて、いるときは「うるさい」(邪魔)という感じもするかもしれないが、いなくなると「バランス」がとれない。落ち着かない。「寒い」と体が感じるこころの寒さだ。

さてはわたしの幸福感は「車谷(の存在)」にあったのか

 こう読むと、とても落ち着く。
 このことばに先立つ「椅子に座ると」がとてもいい。「椅子に座る」のは何かをするためではない。何もしないために座る。何かをするために座ると、その何かに意識が集中して、「お尻」には気がつかない。何もしないから、いままで気にしなかった「お尻」の変化に気がつく。何もしないから、車谷の「不在」に気がつく。
 最後の一行は、きっと車谷が「足の裏」になってよみがえってくるという感じだろう。ひとりで歩いているが、ひとりではない。いつもいっしょにいる。そばにいるのでもなく、「足の裏」になって高橋を歩かせる。歩くことが、高橋にとって車谷に「なる」ことなのだ。
 「お尻」と同じように「足の裏」も普段は、それが自分の「肉体」とは気がつかないが、そして「足の裏」は他人に見せるものではないが、人間がそこに立っているとき、とても大切な場所だ。
 それは、「鈴が鳴っている」では、こう書かれている。

リュックの中には遺影と
鈴が入っている
お杖は鈴の紐を切って柩に納めた
お遍路に出て四日目にあなたはわたしと
歩きに来た わたしの杖が
あなたのリズムで地面を叩き始めた
そんなに息せききってわき目もふらず
生きた人 (わたしのことは
とろい女だと思っていただろうな)
あなたの鈴が鳴っている
お四国の空と土に共鳴したのだね
枯れた川の上の潜水橋を
五位鷺の影がうつる堤沿いを
あなたと歩いた 歩いている
いま歩いていて
鈴が鳴っている

 「あなたと歩いた 歩いている」という言いなおしがとてもいい。「足の裏」から「ことば」が立ち上がってきたのだ。

 感想を「意味」として書くことは難しいのだが、「愚かなうた」の「2」の五行に強く惹かれる。

朝の散歩のときハイタッチしていたおじいさんが親指立てて
「このごろ見かけないね」と言うので
「しにました」と答えると
おじいさんはややあって帽子をとり
「よろしく」と言った

 「ややあって」という呼吸、「帽子をとり」という肉体の動き。それから「御愁傷様」というような「定型」ではない「よろしく」ということば。
 どういう意味だろう。
 わからない。
 言ったおじいさんにも、わからないと思う。何か言いたいけれど、何と言っていいかわからない。でも「言わないといけない」という気持ちが、「肉体」の奥から気持ちを追いかけるようにやってきて、気持ちを追い抜いて声になってしまった感じがする。
 高橋は、それにどんな解釈も加えず、ただ、そのまま書いている。
 それは、まだ「意味」にはなっていないが、いつか、きっと忘れたこと「意味」になってもどってくる。「意味」というより「事実」となって、と言った方がいいかなあ。きっと、死んだ車谷がふっと「現実」にあらわれる瞬間のように、ある日、きっと。

 巻頭の「むくげの花」は、高橋と車谷の「自画像」だろう。どちらが「むくげの花びら」で、どちらが「桃いろの蝶」か。区別できないから、とても美しい。

大風が吹いた朝
桃いろの蝶の羽が 窓ガラスにくっついている
羽をひとつなくした蝶はどうしたかしら
となりのむくげの花に宿ったかしら
羽は窓ガラスに張りついたまま干からびていった
もとのお宿はまっ青に葉がしげり
花だったものと蝶だったものは互いにぐるぐる廻って
とりかえっこしてしまう
笑い声が起こって





*

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