詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三池崇史監督「十三人の刺客」(★★★★)

2010-09-30 11:04:30 | 映画
監督 三池崇史 出演 役所広司、山田孝之、伊勢谷友介、松方弘樹、松本幸四郎、稲垣吾郎、市村正親

 この映画がおもしろいのは、ストーリーがわかっていること。観客に、ではなく、登場人物に、わかっていること。
 役所広司をはじめとする13人は稲垣吾郎を殺すことで彼らのストーリーが完結することを知っている。完結させるために集まった。一方、市村正親の方は13人がもくろんでいるストーリーを知っていて、それをどう突き破るかを考える。稲垣吾郎を殺させない、というのが市村正親のストーリーであり、そのストーリーを役所広司も知っている。矛盾するストーリーがぶつかり、どちらかのストーリーにならないといけない、ということは役所広司も市村正親も知っている。
 能天気なことにというべきなのか、「主役」の稲垣吾郎だけがストーリーを知らない。役所広司が自分を殺そうとしていることも、市村正親がそれを阻止しようとしていることも知らない。ただ、市村正親が自分を守るために存在しているということだけを知っている。
 だからこそ、実際の死闘がはじまったとき、稲垣吾郎は思わず「本音」を言ってしまう。「おもしろいのう。いままで生きてきた中でいちばん楽しい」。稲垣吾郎は「観客」のようにストーリーを見ている。役所広司、市村正親らの死闘を映画を見るように、ストーリーの展開の一部を見るように見てしまう。
 観客とは、まあ、そういうものなのである。
 で、その観客(稲垣吾郎)を、どうやって「現実」へ引きこむか--ということに重なるようにして、観客(私を含む映画館に来ているほんとうの「観客」)をスクリーンに引きこむために、脚本家、監督、出演者はあれこれと工夫を凝らす。
 今回の場合、成功の第一は脚本にある。最初に書いたように、役所広司も市村正親もストーリーを知っている。いわば「ネタバレ」の映画である。登場人物がストーリーを最初から知っているのだから、当然、それを見るほんものの観客もストーリーを知っている。次に何が起きるか、ではなく、「どんなふうに」それが起きるかだけを楽しめる。ストーリーはあるのだけれど、ストーリーは関係ないのだ。映像だけが、役者の顔だけが、この映画の醍醐味なのだ。
 最後の50分(と言われているが、測ったわけではないので、知らない)のアクションについては多くのひとが語るだろうから、役者の「顔」について書いておこう。
 役所広司の顔にはどこかぬけたところがある。騙されていても、それを信じ込むような人間性が残っている。「さゆり」の、おんなに言い寄られたとき、脚本を読んでいるから振られるとわかっているはずなのに、まるで騙されていることに気づかず、その気になる役所広司の顔は傑作である。あの顔が、役所の持ち味である、と私は思うのだが、その、一種、ふわーっとした感じが、あいまいな「ふところ」を、「広い」ふところにかえる。13人という集団を「ふところ」によってまとめるという感じにする。
 なかなかやってこない稲垣吾郎、市村正親の行列に、待ち伏せというストーリーに疑心暗鬼になる仲間に、「あせるな」と「待つ」ことを諭す。そのたとえに「釣り」などを持ち出し、気持ちを「戦」からそらす。集中ではなく、ときに意識をほどく--その、ほどかれた意識のひろがりを、「広いふところ」「度量」というのだが……。
 一方、市村正親は、広がりを拒絶する顔である。集中する。稲垣吾郎に集中する。あらゆることを稲垣吾郎に集中させる。行列が分断され、人数が減ってしまえば、あらたにひとがそろうまで待って動く。常に「集中」の密度を一定に高める。それは一種の「狭量」なのだが、それが市村正親の目と、顔の小ささ(役所広司に比べると顔の大きさが半分に感じられてしまう)に凝縮する。マンガで書くと、きっと市村正親の顔の大きさ(面積)は役所広司の半分以下である。
 もうひとり、稲垣吾郎は、「おれはスマップ、本式の役者じゃないからね」と別次元の顔をしている。この別次元の顔が、なぜかストーリーにぴったりあてはまる。役所広司のやっていることも、市村正親のやっていることも関係ない。おれはおれの好きなことをやる。まさに、暴君だねえ。史上最大の暴君だねえ。市村正親に「迷わずに愚かな道を選べ」なんていうところはぞくぞくするねえ。市村正親の顔と噛み合わない--そこが、この映画を活性化させている。稲垣吾郎だけが白い服というのも、ひとりだけ特別に浮かび上がって効果的だ。単に身分をあらわしている以上の効果がある。白に、血の赤も似合うからねえ。
 役所広司の「度量」の顔が、その「度量」のなかに13人を抱き込むのに対し、市村正親の「狭量」の顔が、「狭量」を焦点として 300人を集結しようとするが、たずなを絞りきれない。そればかりか「背後」に隠れていなければならないはずの稲垣吾郎は勝手に「狭い」背中からはみだしていってしまう。
 結局、役所広司は13人で戦っているのに、市村正親はひとりで戦っている。こりゃあ、負けるね。

 顔についてばかり書いたので、ちょっと脚本にも。
 伏線でいちばん気に入っているのは、役所広司たちが道場で訓練をするところ。武士道精神できれいに戦うのではない。「そこで足を払え」などと、勝つために何をすればいいかを身につける。役所広司はそのときはそれを見ているだけだが、これがクライマックスでちゃんと生かされている。役所広司は市村正親に「道場でなら、おれとおまえは五分だが、ここでは違う」と言うやいなや、足で泥をはね上げ、目つぶしをくらわせて切りかかる。こういうのは、好きだなあ。いきなり泥をはねあげ、目つぶしをくらわせると「やぼ」だけれど、伏線があると、それが「肉体」になる。「思想」になる。「生きる」ために何をすべきか、いちばん大切な「いのち」を守るために有効なものこそ「思想」なのだという哲学に変わる。そして、これがまたこの映画のというか役所広司が具現化する全体のストーリーを貫く「思想」でもある。いちばん大切なふつうの人々のいのちを守るためにすること、それは武士道(市村正親が具現化するもの)よりも「有効」である。
 なんて、書いてしまうと、映画がつまらなくなるから、ここの部分は忘れて映画を見てください。役所広司、市村正親、稲垣吾郎の顔の違いを楽しんでください。



 下にリンクしている「十三人の刺客」は「原作」。


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朝吹亮二『まばゆいばかりの』(2)

2010-09-30 00:00:00 | 詩集
朝吹亮二『まばゆいばかりの』(2)(思潮社、2010年08月20日発行)

ねえ、さん
あなたの空隙はそのまま私
の触れることのできるすべてなのです               (「日録」)

 と、書くとき朝吹は「空隙」を認識できている。しかし、

さん、私はいったい
どこのあわいにあなたを追いかけているのか 

 と書き直すとき、「空隙」(あわい)は、どこにあるかわからない。不明・不在である。もともと「さん」と固有名詞を省略した敬称だけの存在である「あなた」は不明・不在である。「どこ」というものは存在しない。ただ「さん」という敬称の、その私ではないものへの「思い」の、そのベクトルのなかに存在する。
 方向と、運動、その総和としてのエネルギーのなかに存在するだけである。エネルギーには、もちろん「空隙」はない。だから、朝吹は、最初から「不可能」を書いているのである。「不可能」なことばの運動と、運動の方へ(?)駆り立てているのである。

 ここから、ことばはどこへいくことができるか。どんな地平を切り開くことができる。

 たぶん、松浦寿輝ならその地平と、さらにその向こうについて(つまり朝吹のことばが切り開く先について)、的確に表現できるだろうと思う。
 私は、この詩集はとてもすばらしいものだと思うけれども、ていねいに朝吹のことばを追いかけてはいけない。つまずく。そのつまずきのことを書いておく。
 「植物譜」という作品。その冒頭。

ない、あたらしい朝
なんて
光、あふれて青ざめる
何も
ない季節にも冬の朝という時間もあった冬の早朝の植物譜にはシモバシラが記憶されていてしかもこれは薄雪草ではないのだ

 この尋常ではない美しさは「シモバシラ」、とくに「薄雪草」という非日常の、記憶のことばに起因している。朝吹は、そういうことばをつかうかもしれない。そういう光景を見るのかもしれない。朝吹には日常かもしれないが、私には日常ではない。
 そこに、それこそ「朝吹」と「あなた」、空隙としての「さん」のようなものがあるのだけれど……。
 そして、その「空隙」(日常と、非日常の切断面のようなもの)のなかにあるのは、その美しさは、「もの」ではなく、「ことば」である。それも「もの」が失った「ことば」である。「シモバシラ」はまだ「もの」でありうるが、「薄雪草」は「もの」でもなけれ「ことば」でもない。「もの」が失った「ことば」である。
 私には、朝吹の詩は、「もの」が失った「ことば」を、「さん」のなに見つけ出し(そして、触れ)、その消えてしまった痕跡を追いかけているように見える。その失われた「ことば」を見る視力、そしてその消えてく「ことば」に触れる触覚の繊細さに、私はどきどきしてしまうが、一方でつまずいてしまう。

さんが笑いながら話すイタリアの思い出それは地誌だったり中世の図譜だったりリディア旋法の記譜だったりするのだが

 あ、それは最初から「ことば」であり、「もの」であったことはないのではないのか、と--こういう部分で感じてしまうのである。「地誌」「図譜」「記譜」。「もの」を記憶に定着させるための「誌」「譜」としての「ことば」。
 そのとき、私は感じてしまうのだ。
 たとえば「シモバシラ」。それは「シモバシラ」として存在したのか。「薄雪草」として、朝吹の「肉体」とかかわったのか。朝吹の肉体が最初に出会ったのは「シモバシラ」だったのか、「薄雪草」だったのか。そのことが、とても気になるのである。
 朝吹の「肉体」が知っているのは「シモバシラ」であり、「薄雪草」は「肉体」ではなく、たとば「地誌」「図譜」「記譜」につらなる「他人の記憶(記憶のためのことば)」としてやってきたものではないのか。
 そうであるなら、そこには最初から「空隙」(あわい)は存在する。

 切断と接続と、その接点としての生成--そんなふうにして朝吹のことばをとらえるとき、切断に対する朝吹のかかわりかたが、「切断する」という朝吹からの働きかけを欠いたものではないのか、最初から「切断されている」のではないのか、ということが、ふと気にかかり、そこにつまずくのである。
 切断する--そのとき、「もの」か「ことば」かどちらかわからないが、切断されるものは悲鳴を上げるだろう。肉体はその悲鳴を聞くだろう。その悲鳴は肉体を傷つけるだろう。--その悲しい体験が、私には朝吹のことばから感じられない。
 切断はすでに存在する。過去、というか、記憶として存在していて、そこではもう「悲鳴」は乾いていて、肉体に触れてこない。肉体に反逆してこない。たとえば血のように絡みついてきて、朝吹に「殺人者(切断者?)」の刻印(証拠?)を残さない。朝吹は、ようするに、手を洗わなくていい。体を洗い清めなくてもいい。
 「無罪」である。
 「無罪」が完璧に保証されている「場」に立って、ことばを動かしている。

 私の読み方は「誤読」を超えて、「いじわる」かもしれない。反省しなければ……と思うが、まあ、そんな反省とは無関係に、朝吹のことばは美しい。美しすぎるから、そしてその美しさは私の「いじわる」くらいでは傷つかないとわかっているから、私は、ついつい書いてしまう。

 何はともあれ、2010年を代表する詩集であることは間違いない。(と、私は確信している。)私の感想など無視して、ぜひ、詩集を手にして、実際に読んでください。



記号論 (1985年)
朝吹 亮二,松浦 寿輝
思潮社

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朝吹亮二『まばゆいばかりの』

2010-09-29 00:00:00 | 詩集
朝吹亮二『まばゆいばかりの』(思潮社、2010年08月20日発行)

 朝吹亮二『まばゆいばかりの』は奇妙な具合にはじまる。「贈りもの(さんの庭にはいっぽんの)」という詩の書きはじめ。

さんの庭にはいっぽんの巨樹があってけれどもそれはまだほんのこどもだからやわらかな小枝と葉をのぞかせているだけなのだがやがてほんとうの巨樹になっかつて森であった町をみおろすだろう

 「さんの」と書かれているが、これは何か。「朝吹」さんのように、冒頭に「名前」が省略されていると考えられる。なぜ、省略されているのだろうか。読者に知らせる必要がない、ということだけではない。朝吹自身にも言い聞かせる必要がない。朝吹は、そのだれかを名前のあるだれかのように区別する必要がない。それは朝吹の肉体となってしまっているひとである。
 しかし、「日録(終わらない世界の終わりのための)」には、その「区別のなさ」「肉体となっているひと」とは矛盾するような表現もでてくる。

ねえ、さん
あなたの空隙はそのまま私
の触れることのできるすべてなのです

 書かれなかった名前を「空隙」と呼ぶなら、たしかにそれは「そのまま私」。ここまでは、私が先に書いたことを言いなおしたものと言えるかもしれない。
 3行目が微妙である。
 「空隙」を「そのまま私」といっておいて、すぐ、それをずらしていく。「私/の触れることのできるすべて」。それは「私」ではない。「私の触れることのできるすべて」。「私」はもちろん「私」に触れることができるけれど、触れなければ存在しない(存在できない)「私」ならば、触れる主体としての「私」は、いったいどこに存在しているのか。
 わかったようで、わからない。
 「空隙」ということばが、たぶん、独特なのだ。それは「学校教科書」でいう「空隙」(空間、隙間)とは違うのだ。朝吹の「思想」そのもののことばであり、それは簡単には説明できない何かなのである。

ねえ、さん

 この呼びかけでは、読点「、」がいわば「空隙」をあらわしていることになる。ねえ、○○さん、というべきところに○○が存在しない。存在しないことを指して、朝吹は「空隙」と呼んでいる。しかし、これはほんとうに「空間」「隙間」と同じもの?
 「空隙(空間・隙間)」というとき、それは何かと何かの「空隙」であるはずだが、その何かと何かとはなに? 「あなた」が「不在」であり、かわりにそこに「空隙」が存在する--と読むとき、「あなた」のつくりだす「空隙」とは世界を構成するいくつもの存在そのものの関係性のなかにおける「空隙」ということになる。いまだ関係が構築されていない「もの」と「もの」との「空隙」。
 そして、そのような「空隙」、「もの」と「もの」との無関係を意識するとき、ちょっとおもしろいことが起きる。「空隙」を意識するということは、「もの」と「もの」とが離れているということを意識するということであり、その「もの」と「もの」とが離れていると意識するとき、意識のどこかで「もの」と「もの」とを結びつけいてる。「空隙」を挟んで、「もの」と「もの」が出会っている。「空隙」によって隔てられているものが、いま、意識によって逆に結びつけられている。
 と、ここまで書いてくると……。
 詩とは異質なものの出会いである、という定義が、朝吹のことばに重なってくる。
 「空隙」とは、朝吹にとって、

 詩

 そのものである。

 ところで、「空隙」とは何だろう。
 そのことを考えるとき、朝吹の書いていることばの動きは、いささか奇妙である。「ねえ、さん」には読点「、」という不思議な「空隙」があった。そして、1行目、2行目、3行目には改行という「空隙」がある。
 しかし、冒頭の「贈りもの」にもどると、そういう「空隙」はなく、かわりに「密着」がある。

さんの庭にはいっぽんの巨樹があってけれどもそれはまだほんのこどもだからやわらかな小枝と葉をのぞかせているだけなのだがやがてほんとうの巨樹になっかつて森であった町をみおろすだろうあかい木の実くろい木の実を飛び散らせ果肉も踏み散らしそれでも汗疹かかずに駆け抜けてゆく冬の獣たちいちまいいちまい葉の雫がおなじいくつも舞いあがってすこしいきぐるしいいつもすこし酸素や水素がおおすぎる私は人のはなしもあまりよくきかないでだから会話もとぎれがちで稀薄なそれでもここちよい時がながれていた

 句点「。」も読点「、」もない。文章がつづいている。密着している。つづいている(密着している)けれど、その密着のなかに、変なものが紛れ込む。これは密着しているが密着すべきではないという意識--「異質」という意識がまぎれこむ。そして、その「異質」を意識しながら、ことばは動いている。
 「空隙」と「密着」と「異質」が、朝吹のことばの運動のなかでは「ひとつ」なのである。そして、その三つが「ひとつ」であることが、



なのである。

 その三つを、

ねえ、さん
あなたの空隙はそのまま私
の触れることのできるすべてなのです

 という3行では、別なことばで書いていることになる。どれが「空隙」、どれが「密着」、どれが「異質」であるか、私にはまだいうことはできないが、それは、書かれなかったことばを含む「さん」と「あなた」と「私」である。
 書かれななかった「さん」を「あなた」と呼び、それが「そのまま私」と呼ぶとき、そこには朝吹の詩の「三位一体」の関係がある。切断し、同時に接続し、そのことによっていままで存在しなかったものを生成させるという運動としての、詩。

 朝吹のことば、詩は、そんなふうにして動いていく、と私には感じられる。「もの」(存在)をへめぐりながら、あるいは記憶をへめぐりながら、いやことばそのものをへめぐりながら、切断と接続と異質のなかで、不在の存在論を試みている、不在を生成させるということを試みていることばの運動のように感じられる。


*

 アマゾンのアフィリエイトの登録(?)が遅いのか、私の感想が早すぎるのかわからないが、この詩集もまだアマゾンでは買えないようだが、今年読むべき1冊であることはたしかだ。売り切れないうちに書店で注文することをお薦めします。


朝吹亮二詩集 (現代詩文庫)
朝吹 亮二
思潮社

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フィル・アルデン・ロビンソン監督「フィールド・オブ・ドリームス」(★★★)

2010-09-28 12:34:12 | 午前十時の映画祭

監督 フィル・アルデン・ロビンソン 出演 ケヴィン・コスナー、エイミー・マディガン、ギャビー・ホフマン、レイ・リオッタ

 公開当時、私はこの映画の緑に非常に驚いた。アメリカ映画ではじめて美しい緑を見たと思った。私は、イギリス映画の緑と日本の映画の緑は好きだが、アメリカ映画の緑は一度も美しいと思ったことはなかった。この映画で、ほんとうにはじめて美しいと思った。しかし、今回福岡天神東宝で見て、そんなに美しいとは思わなかった。(「ゴッド・ファーザー」のときは「黒」が汚いのに驚いた。)音も非常に悪かったから、これは劇場の問題かもしれない。それとも、その後、アメリカの緑が美しくなり、「フィールド・オブ・ドリームス」の緑の印象が弱まったのか……。
 私は、ただただ、あの懐かしい緑の美しさを見に行ったのだが、それが見られなかったので、映画そのものの印象もずいぶん悪くなった。もともと私はこの映画は好きではない。今度見て、好きではない、ということを確認しただけだった。

 何が好きではないか。何が嫌いか。
 この映画は映画ではなく、「小説」だからである。冒頭の「それをつくれば、彼は帰って来る」という台詞が、もうどうしようもなく「小説」である。つまり、ことばである。この映画はことばを追いつづけて進んでゆく。
 ことばを追いかけてシカゴへ行き、会うのは作家である。そして、その作家と野球場で見るもの「文字」である。ことばである。「音」でも「映像」でもなく「ことば」。ことばがケヴィン・コスナーを動かしていく。
 最初に見た20年前(?)は、緑の美しさに目を奪われて、ことばが主人公を動かしていくことにそんなに気を取られなかったが、緑がないとなると、もうことばがうるさくてしかたがない。
 途中に、文学作品の検閲とそれに対する抗議というシーンもあるが、これも「ことば」の問題であり、「小説」の問題であって、映画らしいところは何もない。
 そして、もっとも嫌いなのはラストシーンである。
 ケヴィン・コスナーと父親が和解をする。そのとき、ことばは消え、ふたりは無言でキャッチボールをする。この、ことばの否定の仕方、ことばのないところで「感動」を揺さぶる技巧--それが、またまた「小説」そのものである。「余韻」という、いやらしい美しさ。ぎょっとしてしまう。
 ことばで語ったあと、それを映像でなぞっている。
 この映画には「原作」があるようだが、まあ、小説の方が映画よりは感動的だろう。小説はなんといってもことばでできている。ことばでひとを動かしていくのは当然だから、そこにはことばに対する真剣さがあるだろう。
 映画は、映像に対する真剣さを欠いてしまっては、とてもつまらない。
                         (「午前十時の映画祭」34本目)




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池井昌樹『母家』(4)

2010-09-28 00:00:00 | 詩集
池井昌樹『母家』(4)(思潮社、2010年09月30日発行)

 詩は矛盾から成り立っている。それは池井昌樹の詩の場合も同じ。その矛盾のきわみは「本人」という作品かもしれない。

まわりにめいわくかけがちの
こまったおとこだったなああれは
きれいさっぱりはいにされ
こんなにちいさくなってしまった
ほんにんはでもいよいよげんき
くらいよみちをよみじへと
ひとりいそいそわがやへと
どんなにたのしかったか だとか
どんなにさびしかったか だとか
あとかたもないあたまのうえに
まんてんのほしちりばめながら

 「はいにされ」(灰にされ)、つまり死んでしまって骨を通り越し灰になっている。その男が「いよいよげんき」に歩いている。
 死んでいるの? 生きているの?
 死にながら、黄泉路(よみじ)を歩いている。まるで家へ帰るように。
 で、死んでいるの? 生きているの?

 こんなことは問うてみてもはじまらない。この男は死ぬことを生きているのである。

 と、書いてみても、なんの解決(?)というか、答え(?)にもならない。もし、詩に答えが必要なのなら、次のように考えればいい。
 「虹の彼方」という作品。(感じが難しいので、私のワープロでは変換できない。その部分は●(ルビ)という形で引用すると……。

あそこをわたしがあるいている
(略)
あのやまこえてたにこえて
にじのかなたへきえてしまった
にじのかなたへきえてしまった
わたしをおもいだしながら
こんなならくのそこなしの
まっくらやみのどのあたり
わたしはひとりあきらめている
わたしはあきらめきれないでいる
つきが●(み)ち
またつきが●(か)け
ひとが往(ゆ)き
またひとが生(あ)れ

 ここにあるわかりやすい(?)矛盾は「わたしはひとりあきらめている」と「わたしはあきらめきれないでいる」である。どっちなの? 両方を同時に生きることはできない。
 これを「矛盾」ではない形にするためには、どうすればいいか。「学校教科書」文法でも、矛盾しない文章にするにはどうすればいいか。
 「また」を挿入すればいい。「また」をつかって、ふたつの文章をつなげればいい。それにつづく4行の部分に出てくる「また」をここにもつかえばいいのである。実際、ここには「また」があるのだけれど、それは池井にとってはあたりまえすぎるので(肉体になってしまっている、思想になってしまっているので)、省略されているのだ。

わたしはひとりあきらめている
またわたしはあきらめきれないでいる

 こうしてみても矛盾に見えるかもしれない。そういう人は、私の昨日の「日記」を呼んでもらいたい。「また」は池井にとっては「まだ」であり、「なんどでも」であり、繰り返しなのだ。あきらめているつもりなのに、ほんとうは「まだ」あきらめきれない。(きれない、に「まだ」のニュアンスが濃く含まれている。)そしてそれはいまはじめての体験ではなく「また」同じ体験をしている。「また」同じことを、繰り返しているのだ。
 この「また」「まだ」「なんどでも」の繰り返しは、その行為をひとりの人間にあてはめると「しつこい」粘着質のものになってしまうが、世界は「また」「まだ」「なんどでも」の繰り返しで成り立っている。
 月は満ちては欠ける。その繰り返しは「まだ」おわらない。「また」同じことが繰り返されている。でも、そういうことに対して、人は「しつこい」とはいわない。そこには、そういう「法則」(真理)がある、とだけ思う。月は満ちて欠けて、また満ちる。そういう繰り返しが天体の真理である。
 そして、そういう「宇宙」の真理を基準にして言えば、人は死んで、また生まれる。何度死んでも「まだ」生まれてくる。
 繰り返しがあるだけだ。
 そして、その繰り返しのなかで「矛盾」は「真理」にかわる。「永遠」にかわる。「矛盾」を繰り返すことで、「真理」はやっと見えてくる。月が満ちたまま(満月のまま)だったら、見えない「真理」がある。満ちて欠けるという繰り返しのなかで見えてくるものがある。ひとが死んでいくだけでもみえてこないものがある。死んで、そして生まれてくるという繰り返し、その歴史のなかで見えてくるものがある。「矛盾」を突き破って見えてくるものがある。
 池井が見ているのは、そういう世界なのだ。

 「矛盾」を見つけるたびに、その「矛盾」のなかで、はてしない循環運動、円運動が繰り返される。
 そして、その「円」そのものとして池井は肥え太っていく。

 いまの池井のことはよく知らない。しかし、昔、池井はまるまると肥え太っていた。それは池井の無意識が選んだ「真理」だったのだと思う。「肉体」でまだ自覚していない「真理」を先取りしていたのだ。特にラーメンなどを食べたあとは丼をそのまま飲み込んだかと思うほど腹が膨れ上がり、でぶでぶの体が強調されたあのころの池井は醜くて、その醜さが不思議と純粋に輝いていたが、そういう矛盾は、まだことばを動かしはじめたばかりの池井の「肉体」がかってに先取りしていた「真理」というものだったのだろうと思う。
 いま、もし、池井がやせているとしたら、それは池井のこころが、まるまると肥え太っていることの反動かもしれない。



池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社

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池井昌樹『母家』(3)

2010-09-27 00:00:00 | 詩集
池井昌樹『母家』(3)(思潮社、2010年09月30日発行)

 池井はいつでも同じことを書いている。それは、しかし、どんな詩人だってそうなのだ。同じことしか書けない。
 池井の場合の同じこと--というのは、向き合って、見つめ合って、そのふたつのものがわからなくなる、区別がなくなるということかもしれない。
 「螢」という詩が私は好きだ。

だれかのむねのふかみへと
ひとすじつづくみちがあり
みちのかなたにもりがあり
こんもりとしたもりかげに
ちいさなちいさなひをともす
ほたるみたいないえがあり
それをとおくでみつめている
こんなにとおくでみつめている
だれかのむねのふかみから
しずかなみちがながれだし
あくるひへまたあくるひへ
はてないときがながれだし
あかねにそまるそらのした
だれもがひとりたどるころ
だまってそれをみつめている
いつまでもまだみつめている
あんなちいさな
ほたるのあかり

 「だれかのむねのふかみへと」と「だれかのむねのふかみから」は反対のことばである。論理的には反対だけれど、池井にとっては同じことだ。「だれかのむねのふかみへと」つづく道は、「だれかのむねのふかみ」からつづいているのだ。
 それはつながっている。
 いつでも、すべてがつながっている。つながっていないものはない。つながっているということは、そして池井にとって向き合っているということと同じである。向き合うことがつながるということである。
 そして、向き合うということは、みつめるということでもある。

 池井は何かを見つめる。それは、何かと向き合うということである。そして向き合ったとき、池井とその対象は「同じもの」ではないのだけれど、向き合うという行為のなかで、「違い」が消えて「同じ」だけがつながる。
 そして、その「同じ」とは「また」であり「まだ」である。「あくるひへまたあくるひへ」の「また」。「いつまでもまだみつめている」のまだ」。「また」は繰り返し。「まだ」は「いまで」ではなく「はてない」につながる「まだ」である。それは繰り返し繰り返し繰り返すものだから(また、また、また、とつづくものだから)、永遠に「まだ」なのだ。永遠におわらないのだ。
 「星菓」にも似た展開がある。

それからなんどもめをさまし
なんどもなんどもねむったけれど
ねてもさめてもおきられない
ねてもさめてもねむられない

 「また」は「なんどもなんども」である。
 そして、その繰り返しのなかでは、正反対のものが「同じ」になる。「おきられない」と「ねむられない」は「同じ」である。正反対--矛盾が、繰り返しのなかで溶け合い、区別がつかなくなる。それが「永遠」の意味でもある。



一輪
池井 昌樹
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グラント・ヘスロヴ監督「ヤギと男と男と壁と」(★★★)

2010-09-26 19:39:41 | 映画

監督 グラント・ヘスロヴ 出演 ヤギ、ジョージ・クルーニー、ジェフ・ブリッジス、ユアン・マクレガー、ケヴィン・スペイシー

 この映画、なんなんだろう。ほとんど実話に基づく物語――というのだけれど、「実話」って、ストーリーが? 俳優の個人的なことじゃないの? っていうのも変なんだけれど、映画を見ている気がしません。演技を見ている気がしない。あ、もちろん役者を個人的に知っているわけではないのだけれど。
 ジョージ・クルーニー。この映画に出るためにダイエットしたんだろうなあ。いい男だけれど、どこか間が抜けている。ついつい信用してしまいそう。目が真剣になればなるほど、間抜けな感じがして、間抜けゆえにだまされている感じがしない。雲を眼力で吹き飛ばすなんて、真似しちゃいたくなるねえ。いや、真似したんだけれど。あ、私にもできた――って、風が吹いただけなんだろうけれど。
 ジョージ・クルーニー。もわあああんとした声で、ラブ&ピースなんて、本当に言っていそう。ヒッピーが似合うなあ。花束が似合うなあ。長髪も一番似合っていたなあ。いつも長い髪? で、不精ひげ? うーん、不精が似合う。不精って自然でいいよなあ。
 ケヴィン・スペイシー。私は大好きな役者なんだけれど、妙に「ずるい」感じ、うさんくさい感じ、嘘つき――って感じがそのまま。若いころを演じるのに「かつら」まるわかりの安っぽいかつらででているところなんか傑作だなあ。私は嘘をつきません、嘘をつくときは嘘とわかるようにしています――って、それが嘘なんです。嘘のコツは、きっとすぐばれる部分をひとついれておくことだね。そうすると他がほんとうに見える。あ、逆もある。ほんとうを一つだけいれて、よりどころにする。今回は、かつらというほんとうの嘘を組み込むという巧妙さ。最後はちゃんと禿を見せてるから、なんだか信じちゃうんだようなあ、ケヴィンは嘘つきじゃない、と。とても、とても、とても変。
 ユアン・マクレガー。いつまでたっても巻き込まれタイプだねえ。自分から他人を巻き込んでゆくなんてありえないんだろうねえ。これじゃあ、ジョージ・クルーニーに「ジェダイ」とは・・・なんて説明されるんだろうなあ。「ジェダイのことなら私の方が専門」と言えない気の弱さがいいなあ。
 あ、それから、ヤギ。いいなあ。本物? もちろん、本物だろうけれど、眼力で殺されるヤギだけが演技をしている――と思った私でした。

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池井昌樹『母家』(2)

2010-09-26 00:00:00 | 詩集
池井昌樹『母家』(2)(思潮社、2010年09月30日発行)

 誰の詩にも、特別なことばがある。その詩人特有のことばがある。池井のその特別なことば(キーワード)のひとつに「あんまり」がある。「月の光」のなかにつかわれている。

わたしはけだものかもしれない
くらいめをしてかんがえこむと
みみもとで
だれかささやきかけるこえ
それはこえだがささやきだか
かぜのおとかもしれないけれど
それはあんまりやさしくて
あんまりあんまりくるしくて
たえられなくて
おおごえで
だれかよびつづけていたような
それはだれだかがれのかげだか
つきのひかりかもしれないけれど

 「あんまり」は「あまり」。余分、過剰。誰もがつかうことばかもしれないが、単なる過剰ではない。

それはあんまりやさしくて
あんまりあんまりくるしくて

 「やさしく(い)」と「くるしく(い)」は同じ性質のものではない。「やさしい」ものが「くるしい」ということは、私には、その具体例が思いつかない。「あんまり」やさしいものが、なぜ、「あんまりあんまり」くるしいものにつながるのか、わからない。
 池井の「あんまり」は、たとえば「やさしさ」というものがある容器に入っているとして(人間を感情や行為の入れ物と仮定して書いているのだが)、それに入りきれずこぼれるとき「あんまり」と言っているのではない。あふれるものが「あんまり」(あまり)ではない。
 あふれる--あふれたものが「あまり」と考えるとき、そのあまりの、たとえば「やさしさ」というものは、あまりのほかに、同時に「容器」のなかにもある。容器のなかにも「あさしさ」があり、そこからあふれて「容器」の外に「あ(ん)まり」がある。あふれつづけて、容器そのものが見えなくなる(忘れ去られる)ということがあるかもしれないが、ともかく容器はある。
 池井の「あ(ん)まり」は、それとは違う。容器のなかに「やさしさ」がやさしさとしてあり、「くるしさ」がくるしさとしてある、というのとは違う。
 池井の書いている「やさしさ(く)」「くるしさ(く)」は容器をこわして噴出していく。「やさしさ」「くるしさ」という定義を破壊して、ただ、源流からあふれる「いのち」そのものになってしまう。
 人間の「肉体」のなかには、ただ人間をこえていくものがある。それを池井はこの詩では「けだもの」と呼んでいるのだが、人間という枠をたたきこわしてあふれていく力、「いのち」があって、その「枠」がまだこわされていないときには、「枠」は「やさしさ」という容器、「くるしさ」とという「容器」のなかで、ひとつの名づけられたものとして存在するけれど、容器が壊れてしまうと名づけられない「流出」そのものになる。
 逆に言うと、「やさしさ」と名づけられたものが「やさしさ」という容器を叩きこわし、「やさしさ」でなくなる。そういうときの「流出」の力が「あんまり」なのである。
 池井が書いているのは「あんまり」であり、「やさしさ(く)」「くるしさ(く)」は仮にそう呼ばれているだけのものであり、区別がないのだ。あらゆるものの区別をなくしていくものの力の姿が「あんまり」である。区別がなくなるのは「やさしせ」「くるしさ」だけではなく、ささやき、こえ、かぜのおと、おおごえ、かぜ、つきのひかりも区別がなくなる。
 「ささやき」と「おおごえ」は反対のものである。「かげ」と「ひかり」も反対のものである。(やさしさとくるしさも反対のものだろう。)そういう反対のものさえも、反対でなくなる、区別がなくなる。その区別をなくす力が「あんまり」である。

 すべての「枠」(容器)--つまり「定義」が、内部から叩きこわされ、ただ「いのち」のとめどもない流れだけがある。その状態が「あ(ん)まり」なのだ。単なる「あまり」ではなく「あんまり」としか呼べないもの。
 名詞ではなく、副詞。用言の、その状態をあらわすのだ。
 「あんまり」のなかで、池井は、すべての「定義」を押し流されて、放心している。
 そのとき、人間をこえるもの、たとえば「つきのひかり」が池井をつつんでいる。人間をこえて存在するものと、「定義」以前の池井が向き合っている。そういう状態が「あんまり」ということばが出てくる「場」なのである。

 この「あんまり」は「あまり」のように余分なもの、複数の一部ではないことは、それが「ただ」ということばに置き換えられることがあることからもわかる。「あんまり」のかわりに「ただ」ということばがつかわれている詩がある。
 「瞳」。

わたしのむねのおくかには
かなしくふかいひとみがあって
さえざえとたださえざえと
ひとみはみひらかれるばかり

 さえざえと「あんまりあんまり」さえざえと--と書き直してみると、池井のことばの動きがより明確になる。
 「あんまり」の余剰は、あふれてしまって、ほかのものになるのではない。「やさしさ」が「くるしさ」になるわけではない。「ささやき」が「おおごえ」になるわけではない。
 あ、最初から、「ささやき」と「おおごえ」を例にひけばよかったのかもしれない。「ささやき」があふれれば、ふつうは、それはうるさい音(おおごえ)になることがある。ホールで観客がそれぞれささやけば、それは大声に匹敵するうるささになる。池井の「あんまり」は、その余剰は、そういうふうには動かない。
 逆である。
 いけいの「あんまり」は逆にどんどん単純になる。とうめいになる。存在しないものになる。とうめいな運動そのものにある。まるで、あふれることが、源流へかえるような感じである。
 この不思議な運動--矛盾としか呼べないもの。「あ(ん)まり」という複数と「ただ」という単数が同じという矛盾--そこに、池井の詩がある。



童子
池井 昌樹
思潮社

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池井昌樹『母家』

2010-09-25 00:00:00 | 詩集
池井昌樹『母家』(思潮社、2010年09月30日発行)

 池井昌樹の新しい詩集。もう、池井については何も書くことがないかもしれない。そう思うけれど、そして何度も書いてきたことをただ繰り返すだけなのかもしれないけれど、やはり書きたくなる。
 「魔法の小函」。祖父からもらった空き箱に夢中になり、落とし物をした。そのときの記憶を書いたものだ。大切なものなので、道順を思い出し、探し回った遠い町。

遺失物を見付けてくれたのは町内の深切であり魔法の小函ではなかった。(略)しかし、そのお陰で私はあの町の匂いを今でもありありと思い出すことができる。暖房などなかった朝のあの胸の空(す)く冷たさを、父の背の温もりを。思い出は書き留めたいと願った瞬間から跡形もない過去を脱して現在を生き始める。

 この部分はとても不思議である。「私はあの町の匂いを今でもありありと思い出すことができる」ということばにつづいて出てくるのは、本来、「におい」であるべきだ。どんなにおいがした? けれど、池井は「におい」を書かない。
 「胸の空く冷たさ」と「父の背の温もり」。「におい」のかわりに書かれているのは「冷たさ」と「温もり」である。どちらも嗅覚ではなく、触覚である。そうなのだ。池井は「におい(嗅覚)」と触覚を勘違いしている。混同している。区別がつかなくなっている。池井は、空気を「冷たい」と感じるときの「におい」がある、「背中の温もり」を感じるときも「におい」がする、と言い張るだろう。たしかに、「におい」はするだろうけれど、その「におい」はことばになっていない。「におい」はことばにならずに、かわりに触覚(肌の感じ)がことばになり、それを「におい」と勘違いしている。いや、この勘違いは、第三者(私、読者)からみたら勘違いになるだけで、池井の「肉体」のなかでは勘違いではない。
 書いているとおりなのだ。
 それはほんとうに「におい」なのだ。どれくらいはっきりしたにおいかというと、「あまい」とか「こげくさい」とか「みそのような」とか「りんごのような」とか言えないくらい池井自身の「におい」にからみついた「におい」、池井の「肉体」そのものの「におい」なのである。だれでも自分自身の「におい」はわからない--というのではない。そうではなくて、池井にはそれがわかりすぎるくらいわかっている。だから、説明しない。ことばにする必要を感じていないのだ。
 朝の冷たい空気のにおい。反対に、温かい父親の背中のにおい。冷たいと温かいのふたつのあいだに、すべてのものがそれぞれの「におい」になっている。どうして、それがわからない? 池井は、私の書いていることばを読みながら、そんなふうに怒りだすかもしれない。
 人間は不思議だ。人間はだれでも、ほんとうに知っていることはことばにできない。ことばにならない。知りすぎていて、それを説明する必要があるとは感じないからだ。その説明の必要がないことが「思想」なのである。わかりきったことが「思想」なのである。こんなことは、いま私が書いていることの説明にならないかもしれないが、たとえば「人を殺してはいけない」というのは、それが「わかりきった思想」であるのと同じである。ときどきどうして殺してはいけないのかと質問するひともあるようだが、そんな問題は説明する必要がない。どんなに説明したって、その説明は違っている。つまり、他人を納得させることはできない。「わかりきったこと」は「わからなくていい」ことでもあるのだ。
 「におい」というのは、池井にとって、そういうものである。
 朝の空気の冷たさ、父親の背中の温もり--それを「におい」と呼び、「あの町」のすべてと「ありありと」感じることが、池井の「思想」である。
 池井がそれを「ありあり」と感じるのは、「冷たさ」と「温かさ」という「幅」が「におい」のなかにあるからだ。「幅」(間)のなかで、あらゆることが起きるからである。単に存在しているのではなく、生まれてきて、動いていくものが、そこにひしめいている。そして、それは、

過去を脱して現在を生き始める。

 いつも、「現在」を生きている。「におい」(思想)に「過去」などない。ただ、「いま」があるだけである。「殺してはいけない」に過去がなく「いま」しかないのと同じである。そういうことは、ふつう、人はいちいちことばにしない。あるいはけっしてことばにしないというべきか。ことばにする必要がない、と言い換えるべきか。わかりきったことだからである。
 詩は--たぶん、そういう「わかりきったこと」を「わざと」ことばにすることなんだろうなあ。この「わざと」は「作為」をもって、という意味とは違う。むしろ、逆。何かにふいに突き動かされる。その瞬間、「肉体」のなかにすっかりとけこんでいたことばがふと動く。それは肉体を動かす。「におい」なんてないのに、「におい」を感じたように肉体に作用する。そういう何かが起きたとき、それを「わざと」ことばにする。ほんとうはことばにしなくていい。たいてい、ひとは、そういうことをことばにしないまま生きている。けれど、そのことばにしないもの、なかなかことばにならないものを、「わざと」(言い換えると、あえて、むりをして)ことばにする--そうすると、そこに詩があらわれる。
 「におい」ではないものを「におい」と書く。「わざと」書く。この「わざと」は「無意識」であり、「肉体」を脱いでしまうということでもある。裸になる。「なま」になる。いや、「生まれる前」になる--とも言い換えうるかもしれない。「生まれる前」のことなので、もちろん、その「わざと」には「技巧」などは入らない。「技巧」を無視した、絶対的な「わざと」である。そこでは「技巧」は拒絶、排除されている。
 この「わざと」の定義は矛盾している。しかし、矛盾の形でしか言えないことがあるのだ。池井が「冷たさ」「温かさ」を「におい」と書いたのと同じである。



*

 池井の『母家』はまだアマゾン・コムではとりあつかわれていない。近くの書店か出版社に直接講読を申し込んでください。

眠れる旅人
池井 昌樹
思潮社

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井宮陽子『豆腐とロバと』(2)

2010-09-24 00:00:00 | 詩集
井宮陽子『豆腐とロバと』(2)(詩遊社、2010年09月20日発行)

 井宮陽子『豆腐とロバと』のなかでは、ほんとうに正直な肉体が動いている。「元気な顔」という作品も、とても気持ちがいい。病気をして入院をしている詩なのに、あ、病気をして入院してみたい、という不謹慎(?)な気持ちになってしまう。

入院している私に
何か欲しいものある?
と聞いてくれるので
元気な顔と答えたら
みんな元気な顔を見せにきてくれた
だから私もお返しに
元気そうな顔をした
何人もお見舞いに来てくれたときは
本当に元気になったような気がした
けれど静かになると
もうヘトヘトで
ただ横になって
目を閉じるだけだった
眠ればいいのに
それもできなくて
元気な顔ばかり思い出していた

 誰が見舞いに来たか私は知らない。知らないけれど、その知らないひとの顔が見えるような気持ちになる。ヘトヘトに疲れているのに、眠るのではなく、知り合いの顔を思い出してしまう。その、不思議な興奮。よろこび。「元気な顔」と抽象的に書いてあるのに、それが見えてしまう。
 なぜだろう。

もうヘトヘトで
ただ横になって
目を閉じるだけだった

 ここに正直な肉体、肉体自身の声があるからだ。肉体は疲れたよ、もうだめだよ、と苦しんでいる。それなのに、こころは肉体を裏切って、友達の顔を思い出している。この矛盾、人間が肉体とこころをもったために起きてしまう矛盾が、どちらも正直に書かれているからである。
 遠慮していない。
 遠慮が必要のない正直さだ。遠慮がいらない、というのはとてもいいことだ。井宮の肉体とこころは互いに遠慮せずに自己主張する。そういう井宮だからこそ、他人(たとえば、夫、たとえば両親)とも遠慮のない正直な関係を築くことができる。それを正直なことばにして動かすことができる。
 夫との美しい関係は、「ポケット」で証明済みだが、「疲れていないときに、ね」が
大笑いしてしまうほど、遠慮がない。特別おかしなことを書いたつもりはないと井宮はいうかもしれないけれど、なんだか、私は蒲鉾が食べたくなってしまった。(詩集で読んでください。)

 両親との遠慮のない関係を書いたものに「残された手紙(二)」がある。父が結核で入院し、母は漢語に疲れている。「健康だけが取り柄と聞いて結婚したのに」と愚痴をこぼしていた母を覚えている。その母が手紙を残していてくれた。その母は、結婚に失敗したと後悔しているように見えたけれど……。

 残された手紙を読んでいると、そうでもなかった。「いえも仕事も子供たちのことも思わずに、そばにいれたらと思う」「病院に行っても人の目があり、手一つ握ることもできない」と母が言えば「早く帰って一緒に寝たい」と父が言っている。私が知っている両親に、こんな感情があったとは意外だった。けれど、これらの手紙を母が残した理由は自分たちのことを知ってほしい、そんな気持ちだったような気がする。

 「知ってほしい」。人は誰でも自分のことを知ってほしい。そのとき「遠慮」が消える。そこに美しさがある。「遠慮」をすてて「正直」になる。この正直は、真っ裸の肉体である。こころが「遠慮」という重い服を脱ぎ捨てると、生まれたての肉体が輝くのである。
 「ポケット」の温かさも、「ポケット」のなかで遠慮なく触れ合う手の温かさ、遠慮を捨てて、新しく生まれる手の血潮に満ちた温かさだ。

 父と墓前で「再会」する詩も、とてもあたたかい。

お父さんと同い年になったわ
五十八歳やで
若いんやから
まだまだ楽しまんとあかん
体に気ぃつけや
父は言った
私は下を向いて
うなずくのが精一杯だった

 井宮は何度下を向いて父のことばを聞いたのだろう。人は、父のことばを何度下を向いて聞くことがあるだろう。「遠慮」を静かに脱ぎながら、そのとき父は語りかけている。真っ裸で。そして、そのとき井宮がどんなに服で肌を隠していても、父には、生まれたときのままの正直な井宮の「はだか」の「肉体」が見えている。つまり、「こころ」が見えている。父は何でも知っている。そして、知っていることを娘に知ってもらいたい。だから、こ「こころ」には触れない。「体に気ぃつけや」と何も見えないふりをする。
 何もいわない--そのとき、いわないからこそ、そのいわなかったことばのなかに「私の過去」が噴出してくる。

 個性というのは、正直な、その人自身の「過去」「私生活」なのだ、とふと思った。いや、確信した。



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井宮陽子『豆腐とロバと』

2010-09-23 00:00:00 | 詩集
井宮陽子『豆腐とロバと』(詩遊社、2010年09月20日発行)

 井宮陽子『豆腐とロバと』の詩は「現代詩」の範疇には属さないかもしれない。たとえば、きのう読んだ八潮れん『ウーサ』のような詩集を「現代詩」という定義する場合には。--簡単に言うと、ことばを、いまあることばの規則から解放し、ことばの自由を取り戻すという運動からは遠い詩集ということになるかもしれない。
 けれど。
 井宮の詩が、そのことばが、ことばを「破壊」していないかといえば、そんなことはない。「破壊」の仕方が「現代詩」の流儀と違うというだけのことで、そこにはやはり「破壊」がある。つまり、それまでのことばの運動を破っていく強い力がある。
 「ポケット」という作品。

懐かしいね
古着の生理をしていた私は
夫と顔を見合わせて笑った
昔、夫が来ていたコートだ
結婚する前
私たちは仕事の帰りによく会った
寒いとき私は必ず
このトレンチコートのポケットに
手を入れた
二本も入れたら
大きくなってしまうと言ったが
ポケットの中の暖かさがうれしくて
あうとすぐに手を入れていた
私たちは今日一日のことを
話しながら歩いていたと思う
そのあいだ左側のポケットは
ずっと膨らんだままだった
あれから三十五年がたった
ポケットの中はまだ温もりが
残っているような気がした

 夫のトレンチコートが出てきた。いっしょに思い出も出てきた。どの行にも無理なことばづかいはない。「わざと」がない。素直に井宮の思い出と感情がつづられているだけのように見える。実際、正直に井宮は書いているのだが、その正直が肉体となって、ことばを「壊している」。つまり、井宮にしか書けないことを書いている。別の言い方でいうと「個性」がしっかりと打ち出されている。
 「二本も入れたら/大きくなってしまう」と「夫(恋人)」は言った。言ったけれど、「手を出せ」とは言わなかった。夫はそういう性格の人なのだ。そして、そういう性格であると知っているから(わかったから)、井宮は「会うとすぐに」ポケットに「手を入れていた」。「入れた」ではなく「入れていた」。つまり、ずーっと、何回も何回も「入れていた」。そして、歩きながら一日の出来事を語り合った。話したことは忘れているが、手を入れていたことを覚えている。そして、

そのあいだ左側のポケットは
ずっと膨らんだままだった

 あ、ここが、とても。てとても美しい。息が詰まるくらい美しい。
 ポケットに手を入れて、一日の出来事を語り合うとき、ポケットがどんな状態(膨らんでいるかどうか)なんて、見ていない。見ていないけれど、その見ていなかったものが、いま、見える。歩いているとき、誰が右側、誰が左側というようなことは意識しない。無意識に肉体が選んでしまう。井宮と恋人の場合、井宮が左側、恋人が右側。井宮が右手を恋人のポケットにつっこむ。そのために左側のポケットが膨らむ。
 ここには「私生活」が書かれている。無意識の「私生活」が書かれている。「私」というものが具体的に書かれている。井宮にしか書けない、井宮の具体的な記憶が書かれている。
 「左側」に。
 恋人のポケットに手を入れて歩いた--だけなら、「左側」にこだわらなければ、それは誰の記憶でもある。「左側」と書いた瞬間に、井宮の「過去」(私の個人的なことがら)が、ことばをつきやぶってあらわれてくる。
 どういうことか、というと。
 ねえ、(と、私は、この文章--つまり、私の文章を読んでいる、あなたに呼びかけてみる、質問してみる)。
 ねえ、あなたの場合はどうだった? 恋人と歩くとき、好きな人と歩くとき、あなたはどっち側? 右側? 左側?
 井宮の「個人的なことがら」にひっぱりだされるようにして、あなたの個人的な体験がひっぱりだされませんか?
 いまは、どう? 夫(妻)と歩くとき。不倫相手と歩くとき。同じ? つかいわけている?
 「左側」。この単純なことばが、過去の肉体をひっぱりだし、いまの肉体をもう一度目覚めさせる。左側って、どっち?
 どっちであっても、「文章」自体は成り立つ。けれど、そのとき「肉体」はどっちでもいいとはいわない。肉体が「文章」を破って、ことばをこうでないといけない、と主張している。
 ここには、そういう力がある。

 八潮のことばには「みだら」だの「からだ」だの「エクスタシー」だののことばがあったが、それは「文章」にすぎなくて、「みだら」は「みだら」の「意味」にとじこめられていた。
 井宮の「左側」はそうではない。「左側」なんて、みだらだもなんでもない。抽象的なというか、何にでも当てはめることのできる「意味」になってしまう小学生でも知っていることばである。そうであるけれども、その「左側」には、冷たくなった指先、その冷たさがしだいに温かくなっていくときの気持ちよさ、指が触れるときのうれしさ、絡まる指の力を感じるよろこび--そういうものが含まれている。「左側」を突き破って、井宮の記憶が動いている。
 その記憶が、その肉体が、井宮の肉体の記憶であるにもかかわらず、
 私の、
 記憶となって、私の肉体のなかによみがえる。

 私は井宮ではない。会ったこともない。井宮の夫ももちろん知らない。知らないのに、二人の「肉体」に起きたことがらを、自分の「肉体」に起きたことがらと勘違いしてしまう。「誤読」してしまう。
 こういう「誤読」。自他の区別を越えてしまって「誤読」を誘うことばこそ、詩である。こういう「誤読」が起きるときのことを、私は「ことばが壊れる」という。
 私は私の「肉体」と井宮の「肉体」が別のものであることをしっかり意識できるにもかかわらず、ことばがその意識を壊し、区別をないものにしてしまう。そのとき、これは私の「肉体」、詩に書かれているのは井宮の「肉体」であるということばの区別は「壊れている」。

あれから三十五年がたった
ポケットの中はまだ温もりが
残っているような気がした

 あ、何年前だろう。私の場合、そういうことがあったのは。私は古いコートをもっていないが、押し入れをひっくりかえして(押し入れもわが家にはないのだけれど)、古いコートを探したい気持ちになる。そしす、そのポケットに手を突っ込んでみたくなる。
 井宮のことばは、そんなことまで私に要求してくる。

 こんなむちゃくちゃなことを要求してくるなんて、井宮さん、あなたはことばのつかいたかをまちがっています。あなたのことばは壊れています。書いてはいけないこと(他人に要求してはいけないこと)を書いています。
 と、理不尽な反発をしてしまいたい。
 それくらいに、この詩が好き。大嫌いといわないと落ち着かないくらいに、ここに書かれていることばにひっぱりまわされてしまう。

 この矛盾、好きと大嫌いを繰り返して、大嫌いこそが大好きという意味なんだ、というような、論理の見境がつかなくなるような瞬間こそ、詩なんだなあ、と思う。




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八潮れん『ウーサ』

2010-09-22 00:00:00 | 詩集
八潮れん『ウーサ』(思潮社、2010年08月31日発行)

 ことばを破壊するのは難しい。八潮れん『ウーサ』を読みながら、そう思った。「ウーサ」の書き出し。

見失うというべきか 立ち戻るというべきか
もっと強烈に秘められた深い傾きから
めぐり流れる逸する常軌

 八潮はそう書いているのだが、ことば自身の粘着力が八潮の想像力をしばりつけている。破壊されることを拒んで、逆に八潮を閉じ込めている。八潮はどこへも行けない。ことばに閉じ込められて、ことばの力に屈している。屈している--ことに必死であらがい、ことばを駆り立てる。
 それが、八潮のことばであるように思える。

人は体を売る生き物で
わたしは不可解でみだらです

 あ、どこが「不可解」で「みだら」なんだろう。「不可解」「みだら」ということばに閉じ込められて、「不可解」が消えてしまっている。「みだら」が「みだら」ということばしかない。

たまらなく好きなのは 禁じ手をつくって辱めること
ホルモン 恋情と恥の化け物

 どうにも窮屈である。「頭」が八潮の「肉体」をしばりつけている。「たまらなく好き」なことは「たまらなく」ということばをはみだしていくはずなのに、行儀よくおさまっている。「禁じ手」も「辱め」も「恋情」も「恥」も、ことばでしかない。

 ちょっと厳しいことを書きすぎたかもしれないが、書かずにはいられない。
 八潮は「あとがき」で書いている。

 どう表象されようとも、詩と呼ばれるものはなくならない、と思う。そこに身体がある限り。だが他人の肉の話など不気味だろう。だからときどきは詩を読むことに疲れる。私は自分の内臓を使うことでしか詩を甘受できない。面白がれない。身が疼くことを言葉にしようと、次から次へと欲動が湧いてくるという感覚、エロスの現場に迷い込み、自我の外に出てみたら何がなせるだろうか、何が爆発するだろうかという思い、それを大切にしていきたい。

 この「あとがき」で書いていることが、先に引用した「ウーサ」にはまったくつながらない。
 いや、「頭」だけがつながっている--かもしれない。
 詩は--私も、そこに身体がある限りなくならないと思う。この部分は八潮と「意識」を共有できる。「他人の肉の話など不気味」もわかるし、そのために詩を読むのに疲れるというのもわかる。
 でも、私は、だからこそ、好き。気持ち悪い。疲れる。だから、好き。
 「肉体」--生理そのものの肉体で言えば……。
 肉体が気持ち悪くなったら、むかむかしたら、まあ、吐く。吐いてしまうと、気持ち悪さが消えることがある。吐いた瞬間に、自分の本来の肉体にもどったような感じを覚えることがある。
 私には、その気持ちが悪いものを耐える力がないけれど、これに耐えられるひとがいる。その肉体の力はすごいものだなあ、とひそかに思ったりする。
 私が変なのかもしれないが、そういう力には、ちょっとあこがれる。私は虚弱体質で、そういう根源的な力が決定的に欠けているからである。
 気持ち悪いものが好き、他人の肉体が気持ちが悪いから好き--というのは、そういう「あこがれ」である。私にとっては。

 で。

 困ったことに、八潮のことばを読んでも、そういう「気持ち悪さ」がない。「肉体」を感じない。
 エロスの果てのエクスタシー。自分の外に出てしまうこと。そのとき、何かが爆発する--というのは、「頭」ではわかる。私にも。「頭のことば」でなら、充分にわかる。そこには「エクスタシー」の「ことば」の「意味」が書かれているだけだから。
 気持ち悪くはならないなあ。
 そこには、八潮自身がつかみとった「肉体」のことばがない。八潮の「肉体」を突き破ってでてきたことばがない。「肉体」の内部がない。

 八潮はきっと頭がいいのだ。頭がよすぎて、肉体がことばを破壊しようとするとき、それを頭でととのえ直してしまうのだ。その結果、肉体を突き破ってあらわれるはずの肉体が、外にあらわれることができずに、消えてしまう。
 八潮自身には、八潮の肉体のなかで起きたことがらが「実感」としてあるから、(変なものを食べてむかむかしたとき記憶は吐いてからも思い出せにように、「実感」としてあるから)、肉体が消えた--内臓が消えたという気持ちはないかもしれない。
 けれど、読者(私だけ?)には、それがわからない。
 吐いた物、吐瀉物の、こまごまとした花々--未消化の具体的な残り物、酸っぱい胃液のにおい--そういうものがあれば、うっ、気持ち悪い、目の前で吐くなよと怒りたくなるけれど、そういう気持ちにならない。
 「私、気持ちが悪いんです。内臓が飛び出しそうなんです。飛び出したんです」
 「えっ、気持ち悪かった? 気がつかなくて、ごめんね」
 そういう感じかなあ……。

 あ、具体的に書いておこう。

セミとカラスがないているので
ほしほ ほしい ほしい ほしいとおうじ
その発話レベルで いいのか にしても
ふかくふかく友だちに なりたい なりたい
セミとカラスのまっさかさま
原本では なんとなくのか

 なんだろう、この「原本」は。その前の「発話レベル」の「レベル」もそうだが、その「ものさし」は肉体とは無縁だろう。「頭脳」のものだろう。



 こんな悪口ばかり書いてどうなるんだろう。なぜ書く必要があったのだろう……。
 途中で詩集を読むのをやめて、この感想を書いているのだが、実は1篇、気に入った詩があったのだ。そのことについて書いておこう。(この部分だけ書けばよかったのかもしれないなあ……と思わないでもないのだが。)
 「妄想分別」。その冒頭。

さっけが好きならぐっといっけ その先の先のぐっと先にいっけ
呪物の はだ いろ きょうあく もっと ひっと ひっと
ひっとは群れ どうせ群れるなら ものいわぬ ひっと ひっと
そこにありそこねたもの よびもどし つきはなし

 ここではことばが壊れている。「さっけ」は酒かもしれない。「いっけ」は「行け」かもしれない。「ひっと」は「人」かもしれない。たぶん、そうなのだ。「酒」「行け」「人」であるけれど、「声」がそれを壊そうとしている。「酒」「行け」「人」を感じさせるということは、ことばが壊れきっていないからなのだが、それでも「酒」「行け」「人」では言い表せない何かを書きたくて八潮が「っ」をまぎれこませることで、その何かをかこうとしていることがわかる。「っ」は、いわば八潮の「肉体」なのである。「頭」では整理できなかった何かなのである。
 「呪物の はだ いろ きょうあく」も同じように「肉体」である。「助詞」「動詞(用言)」がないので、「呪物の はだ いろ きょうあく」は「文」になることができずにいる。「もの」が消化されず、血肉になりきれず、そうなるまえに「原型」をとどめたまま吐瀉物として吐き出されてしまっている。それを繋ぎ合わせること、つまり吐瀉物をなめすすり、消化し、血肉にすることは読者にまかせられている。
 う、気持ち悪い--と、ここで、私の「肉体」は反応する。そこに、八潮の「肉体」を感じる。
 こういう部分が、私は好きだ。気持ち悪いし、嫌いだから、好きとしかいいようがない。

せいだもの ずたずたの肉片だもの
うれしい変態においかけられて にげこんだやわらかな家で
わるぶりっ子 さてどのくらい酔いをこぼそう
いいなあ そばによってみたいなあ からだだもの
いっしゅん 地の底におちて もどってくるじしんあり
いっしょにいっておくれよ

 はい、私はいっしょにどこまでもどこまでも行ってみたい気持ちでおりました。この1篇を読んだときは。
 でも、次の「ウーサ」、冒頭に引用した3行を読んで「からだ」が消えて、「頭」が前面に出てきたので、いやになり、それでも途中まで読んだし、「あとがき」も読んだのだけれど……。


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フランク・ダラボン監督「ショーシャンクの空に」(★★★★)

2010-09-21 12:13:27 | 午前十時の映画祭

監督 フランク・ダラボン 出演 ティム・ロビンス、モーガン・フリーマン、ウィリアム・サドラー

 このシーンはいいなあ、大好きだなあと言わずにはいられないシーンがある。ティム・ロビンスが「フィガロの結婚」のレコードを見つける。そばにプレーヤーがある。我慢しきれずに、レコードをかける。それからマイクをとおして刑務所中に放送する。
 オペラを見たことのない人ばかり(たぶん)の刑務所。突然流れてくる歌声。みんな耳を澄ましている。それが何かわからない。わからないけれど、モーガン・フリーマンは、それがみんなのこころに届いているのを実感する--というようなナレーションが重なる。このシーンが、ほんとうに美しい。
 「フィガロの結婚」をなぜかけたのか--そのために独房に入れられ、やっと独房からティム・ロビンスがでてきたとき、モーガン・フリーマンがたずねる。ティム・ロビンスは、「誰の心にも、他人が触れることのできないもの(不可侵のもの)がある。希望がある。それに触れるのが音楽である」というようなことを言う。
 これは、この映画のテーマでもあるのだけれど、私はティム・ロビンスが語ったこととは別に、希望について考えた。
 世界にはわからないものがある。知らないことがある。そういうものに人間は触れることができる。そして、そのわからないもの、知らないもの--それを何だろうと思うこころこそ「希望」だと思う。
 わからない何か、知らない何か--それに触れ、それについていくこと(それに導かれるままに行動すること)。その結果、何が起きるかわからない。自分がどうなってしまうかわからない。それでも、どうなってもかまわないと決意して、知らないものについていくこと。それが、「希望」だ。
 ティム・ロビンスは脱獄を計画する。その計画が実現するかどうかは、わからない。そんなことをしたことがない。そういうことがあることは知っているが、ほんとうは知らない。体験したことがない。わからないけれど、知らないけれど、やってみる。
 そのことをすれば、自分が自分でいられなくなる。
 この映画では、具体的には、ティム・ロビンスは脱獄したあとは、それまでの「名前」「身分」をすっかり捨ててしまって「別人」という形で、「自分が自分でいられなくなる」という状態を表現している。
 「無実」が証明され、判決が取り消されない限りほんとうの解決ではない、という覚めた見方もあるかもしれないけれど、まあ、そんなことはどうでもいい。
 わからないもの、知らないものに身をまかせ、自分が自分でなくなる--そのときの「自由」を「希望」というのだ、とつげるメルヘンなのである。この映画は。
 ストーリーそのものが、そういうふうに展開していくけれど、私は、そのストーリー全体よりも、「フィガロの結婚」のシーンが好きなのだ。あのシーンがすべてを象徴している。刑務所の塀を越え、空の高みへ登り、どこまでも広がっていく音楽--その音に耳をすますとき、「いま」「ここ」にないもの、そしてそれまでどこにもなかったものが、たしかにこころに触れてくるのである。
                        (「午前十時の映画祭」33本目)

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志賀直哉(14)

2010-09-21 12:05:09 | 志賀直哉

「奇人脱哉」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 彫刻師・渡邉脱哉のことを書いた作品である。「人間がぬけてゐるから」というところからつけられた号だという。いろいろな話が出てくるが、最初の方に書かれている「盆栽」に対する志賀直哉の批評がおもしろい。

何(いづ)れも取るに足らぬ駄物ばかりであつた。唯、本統に愛翫してゐた為め、世話が行き届き、苔など、青々と、しつかりついてゐるのには好感が持てた。

 「本統に愛翫してゐた為め」ということばがあたたかい。この一文はなくても意味は通じる。さらにいえば、この「本統に愛翫してゐた為め」の「本統に」も、「意味」上はいらないことばである。けれども、志賀直哉は書く。ここに志賀直哉の「思想」(肉体)があらわれている。特に、「本統」ということばに。
 志賀直哉は「本統」しか書かない。
 「本統」ということば(表記)を私は知らなかった。志賀直哉以外にだれかつかっているかどうかも知らない。しらないからいいかげんなことを書いてしまうのだが、この「本統」という表記の仕方は、志賀の「思想」そのものをあらわしているかもしれない。
 「本統」の「統」は「統一」の「統」である。すべてをまとめる。その「本」というのだから、ものごとの「中心」、あるいは「はじまり」かもしれない。すべてを最初から最後まで統一していく力を指して、志賀直哉は「本統」をつかっている。
 「本統」というのはかるい表現ではなく、志賀直哉が心底共感したもの、志賀直哉が共有しても自分が困らないものに対して向けられたことばなのだ。
 ここでは、何かを愛玩するという気持ち、大切にするという気持ちを評価して「本統」と読んでいる。それはまっすぐに動いていく。だから、世話が行き届く。「本統」でなかったら、その「世話」は行き届かない。どこかでねじれて、水が涸れるように涸れてしまう。
 それはときに「我流」という流れになることもあるが、「我流」というのも「本統」である。独自のこころの「源」であり、そういう「源」から流れてくるものを志賀直哉は高く評価する「おもしろい」と感じている。
 風呂で石鹸をつかわないという脱哉の主張を紹介した部分がある。

人体から脂が出るといふのは健康に必要ガアルから出るので、それをシャボンで落して了しまふのは無謀な事で、例へば鰻でも、ヌラを去(と)ると、弱つて了ふ。人間の脂は鰻でいえばヌラと同じものなのだという理屈である。

 その意見に賛成というののではない。ただ、そんなふうに「本統」に考えるのは、おもしろい。そこにはまちがった論理の流れがない。一直線に流れていく「勢い」がある。
 こういう「本統」の「勢い」を「肉体」のなかにもっている人、そしてそれを生活のなかにまっすぐに実現するひと--そういうひとは「忘れる事の出来ない人」になる。そして、その「本統」の流れは、ときどき、志賀直哉たちの話題のなかに、ふっと噴き出してくる。脱哉とともに。


小僧の神様・一房の葡萄 (21世紀版少年少女日本文学館)
有島 武郎,志賀 直哉,武者小路 実篤
講談社

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丁海玉『こくごのきまり』

2010-09-21 00:00:00 | 詩集
丁海玉(チョン・ヘオク)『こくごのきまり』(土曜美術出版販売、2010年09月20日発行)

 丁海玉は「法廷通訳(人)」という仕事をしているらしい。その仕事を様子を書いた作品がいちばんおもしろい。いちばん刺激的だ。
 「ここではみんなことばは」の2連目。

裁判官の前にすわったおんなが
日本語とぼくの国のことばを訳している
ぼくは舌がこわばって
言いたいことの半分も言えないのに
なんとかつっかえ話したら
あんなにもためらいなくぼくを日本語で演じて見せた
石ころをおなかから
吐き出すように出したことばも
おんなには辞書にならぶ
ちいさな活字のひとつにすぎないらしい

 「裁判官の前にすわったおんな」は丁海玉だろう。丁海玉は、法廷で通訳をしたときのことを、彼女自身のことばではなく被告人の側から描いている。
 ここでは、ことばが不思議な動きをしている。独特の動きをするしかない。
 通訳をするということは、「意味」を正確に別の言語にかえることである。そのとき「意味」以外のものは切り捨てられる。通訳しながら丁海玉は「意味」以外のものを切り捨てていることに気がついている。「意味」にはなりきれない感情がそこにあるのに、それは訳出せずに「意味」だけを訳出している。
 そして、それだけでは不十分なのだと気づいている。だれのことばであっても、ことばは「意味」をこえるものを含んでいる。「意味」になりきれないものを含んでいる。それに気づきながら、「意味」しか通訳できない。伝えられない。
 それをどうにかしたい--そう思って書かれたのが、この詩のことばである。

 訳出されなかった苦しみ、ことばの「意味」をこえて暴走するものがある。それを知ってしまった丁海玉は、いま、その「意味」をこえるものを書くために、被告人のふりをしてことばを動かしている。そのなかに、丁海玉に関する思い、丁海玉への批判が含まれる。これがおもしろい。

 それは、ほんとうに被告人の「ことば」なのか。それとも被告人がそう考えた(感じた)と思ったときの、丁海玉のことばなのか。区別がつかなくなる。被告人の苦しみを伝えるはずのことばが、丁海玉の苦悩を伝えることばに変わってしまう。被告人を代弁しようとすればするほど、丁海玉は被告人を裏切るのである。裏切ってしまうことになるのである。

 ここから、書くということの「暴走」がはじまる。詩がはじまる。
 「石ころをおなかから/吐き出すように出したことば」の、そのことばを発するときの苦悩が丁海玉によって「翻訳」されなかったと被告人が怒るとき、それは丁海玉の、そういうことばを「翻訳」できなかったことへの苦しみを語ることと同義になる。被告人の「思い」を伝えることができない、被告人の語っている「意味」しか伝えることができない、被告人の苦悩を直に感じ取ることができるのは丁海玉しかいないのに、その直に感じた感情を伝えることができないという苦しみ。それは、丁海玉が単に法廷通訳人であるだけではなく、詩人であるとき、より強い苦しみになる。
 丁海玉が伝えうるのは被告人の語っている「意味」にすぎない。被告人の語っていることば、その「ことばの肉体」を伝えられない。そのことを、また、こんなふうにして書いてみても、それは被告人の「ことばの肉体」を語ることにはならない。それを語ることができなかったという丁海玉の「ことばの肉体」を語るにすぎないのだ。
 被告人のことを語ろうとすればするほど、そしてそのとき被告人になりすまして語ってみても、それは丁海玉のことしか語れない。「自己弁護」になってしまう。自己弁護してしまう丁海玉の「ことばの肉体」の弱点を語ることしかできない。
 丁海玉の意図に反して、ことばはそんなふうに暴走していく。そして、そのことばの弱点が丁海玉を疲れさせる。

 その疲労困憊した丁海玉の肉体から立ち上がってくることばが、とても美しい。
 「ゆうごはん」。

きょう
あなたはけいむしょいきです、と
男につうやくした裁判所からの
かえりみち
デパ地下に寄って
かつおのタタキを買ってから
ホームの電車に飛び乗った

(略)

家についてすぐに米をあらう
はんせいしています
にどとしません
の、男のことばは
ざくざく
米のとぎ汁に流れていく
炊飯ジャーのスイッチを入れた
赤いボタンがひかりはじめる

炊きたてのごはんの甘い湯気を嗅ぎながら
ポン酢におろしにんにくを混ぜながら
いつものように
ゆうごはんを食べる
きょう
あなたはけいむしょいきです、と
男につうやくしたことなんか
冷えたビールを喉に流し込みながら
すっかり
忘れてしまった
ように飲み干した

 ことばは「肉体」になる。「いつものように」という、どうすることもできない部分にかえっていって、そこから丁海玉を乗っ取ってしまう。
 「意味」も「感情」も、もう、もちこたえられない。
 最後の2行の「忘れてしまった/ように飲み干した」の「ように」のことばの強さ。あらゆることが「ように」を吐き出しながら「肉体」の奥にたまりつづけるのだ。そして、それが積み重なって、丁海玉そのものになる。
 丁海玉が出会った被告人のことば、その語りきれなかったもの、通訳しきれなかったものが、丁海玉そのものになる。
 それにあらがいながら、丁海玉は丁海玉であろうとする。そのとき、丁海玉に語れるのは、「いつものように」かつおのタタキを食べた、ビールを飲んだというようなことだけなのである。
 「はんせいしています/にどとしません」も「あなたはけいむしょいきです」も「意味」ではなくなる。「意味」はどこかへいってしまって、たどりつけない「肉体」の絶望になる。

 絶望は人間にとって必要なものであるかどうか、よくわからない。けれど、そういうどうすることもできないものを丁海玉は覗いてしまったのだ。ことばで。その絶望を、私は、なぜか、美しいと感じてしまう。
 そこには「正直」がある。





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