谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(15)(創元社、2018年02月10日発行)
「沈黙を語ることの出来るものは、」で始まっている作品。タイトルはない。「*」で七つに区切られている。その最初の部分。
沈黙を語ることの出来るものは、沈黙それ自身しかない。では、言
葉をもって沈黙を語ろうとすることに、どんな意味があるのか。そ
れにはむしろ意味はない。何故なら、詩人にとって、沈黙を語るこ
とはひとつの戦いなのだから。
「沈黙を語ることの出来るものは、沈黙それ自身しかない。」は直感的には「わかった気持ち」になるが、論理的には「わからない」。そのまま反復できるが、言いなおすことができない。
これは「音楽」のようなものかもしれない。
そこに「音」がある。「音」が動く。その動きは「直感」(感覚)としては「わかる」。でも、それを「ことば」で言いなおすことができない。
音楽に詳しい人なら、その音を「楽譜」という形に再現できるかもしれないが。
うーん。
私は「音楽的人間」ではない。「論理的な人間」であるも思わないが、「論理」ならいくらか追いかけることはできるかもしれない。
そこで、こんなことを考えた。
「沈黙」とは「音」のない状態。「ことば」のない状態。「ことばない状態の沈黙」が「語る」ということは、論理的にありえない。語るとは「ことば」をつかって語ることだからである。「論理的にわからない」と感じたとき、私は、そう考えていた。
どうしてこういう「論理」を語ることができるのか。
ひとつの文章だけでは「論理」がわからない。どう言い換えているか、それを追いかけることで何が書かれているのか考えてみる。
「名詞」がいくつか出てくる。「沈黙」「言葉」「意味」「詩人」「戦い」。どれが「主役」なのだろうか。
「動詞」はどうか。「語る」が繰り返されている。
沈黙を「語る」、沈黙が「語る」、沈黙で「語る」、言葉が「語る」、言葉で「語る」、意味を「語る」、詩人が「語る」。
「戦い」という名詞は「語る」の主語にならない。「語る」は「戦い」の述語にならない。戦いが「語る」という言い方もあるが「語ることはひとつの戦い」という定義にしたがって、「戦い=語る」と読み直す必要がある。
「戦い」は「戦う」という動詞として読み直すとどうなるか。
沈黙で「戦う」、ことばで「戦う」、意味で「戦う」、詩人が「戦う」。
「語る」ことと「戦う」ことは、どこかで重なる。「語る」は「戦う」という動詞になりうる。何かに対して「反対」のことを語る、「反対」という。これを「戦う」と言いなおすことができる。
主語(名詞)ではなく、動詞に焦点をあてて読み直すと、ここに「一貫しているもの」がなんとなく「見えてくる」。ことばが「肉体」として「ひとつ」になっていることが感じられる。
「語る」、「戦い」ということばの奥に隠れている「戦う」という動詞のほかに、まだ動詞がある。
「ある」。これは「ない」ということばと対になっている。
谷川は、意味が「ある」、意味が「ない」と書いているが、ほかの名詞にも「ある」と「ない」は結びつけることができる。
沈黙が「ある」、沈黙が「ない」、言葉が「ある」、言葉が「ない」、詩人が「ある(いる)」、詩人が「ない(いない)」、戦いが「ある」、戦いが「ない」。
「語る」「戦う」「ある(ない)」は、どこかでつながっている。三つの動詞を動かす「主語」がどこかにある。三つの動詞を「述語」としてもつことのできる「名詞(主語)」がどこかにある。
詩人にとって、沈黙を語ることはひとつの戦い
「詩人」が主語となるとき、三つの動詞は述語となる。
詩人は沈黙を「語る」、言葉で「語る」。それは沈黙と「戦う」ことであり、「戦う」ことでそこに沈黙が「ある」ということを明らかにし、それはまた沈黙の「意味」を明らかにすることである。
でも、これは正確ではない。
この読み方では、沈黙「を」語るのではなく、沈黙「について」語ることになるからだ。沈黙とはどういうものであるかを「語る」のは「間接的」である。
谷川は「沈黙を語る」と言っている。
沈黙とは何か。
谷川は「定義」していない。ふつうに考えていることをあてはめると、沈黙とは「音がない」状態である。「声」のない状態である。谷川がつかっていることばを借りて言いなおせば、「言葉」がない状態である。
この「言葉がない」をさらに言いなおしてみよう。「言葉がない」とは「言葉が存在する以前」の状態である。「言葉以前」を谷川は語る、と言う。
このとき谷川が考えている「言葉」とはどういうものだろうか。「既成の言葉」、「流通している言葉」だろう。
いま、ここにあふれていることば、既成のことばと「戦い」、新しいことばを動かす。それが「詩人」の仕事だとするならば、詩人とは「いま/ここ」では「聞こえない」声を出すことである。
そのままでは「聞こえない」声。「沈黙の声」を発すること。それを「沈黙を語る」と言っている。
沈黙「について」語るのではなく、沈黙「を」語る。それは沈黙「で」語ることである。沈黙が「ある」というという状態をつくりだすことである。沈黙を生み出すのである。
別の断章には、こう書いてある。
初めに沈黙があった。言葉はその後で来た。今でもその順序に変
りはない。言葉はあとから来るものだ。
いま「ある」ことばを、「ない」にする。「沈黙」をつくりだす。それが詩人の仕事。そうやって生み出された「沈黙」が詩である。
最初に私は、直感的にはかわるが論理的にはわからないと書いた。この矛盾した状態、わからないを作りだしながら、「わかる」と強く実感させる「衝撃」が詩である。それが「ことば」ではなく「音」で表現されるとき、それを「音楽」というのかもしれない。
詩も音楽も、沈黙と強く結びついたまま動いている。
「あと」からやってくるものは、自分の存在を告げるだけではなく、むしろ「まえ」からあったものを「語る」ためにやってくるのである。
*
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目次
瀬尾育生「ベテルにて」2 閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12 谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21 井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32 伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42 喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55 壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62 福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74 池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84 植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94 岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105 藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116 宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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