詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「詩はどこにあるか」2018年2月号

2018-02-28 21:20:46 | その他(音楽、小説etc)
「詩はどこにあるか」2018年2月号を発売しています。
ブログに書いた文学に関する批評をまとめています。
B5版147ページ、1750円。(+送料250円)

目次は、
小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83


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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(16)

2018-02-28 17:51:03 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(16)(創元社、2018年02月10日発行)

 「鳥羽 9」の最後の部分を、「永遠に沈黙している限りない青空の下」で始まる無題の詩の最後と対比して読んでみる。

 ジャズのドラマーたちは、騒音をつくっているのではない。彼等
は沈黙に対抗するための、別の沈黙をつくっているのだ。あのドラ
ムの音の緊張のさなかで、われわれは青空の沈黙を聞かない。ドラ
ムは最もプリミティヴに人間的なものだ。われわれは人間の肉のリ
ズムを拍ち、それに酔う。われわれはリズムのない沈黙に、人間の
リズムをもって挑戦し、沈黙までをも、それにひきこもうとする。そ
うしてしばしば勝つ。よしそれが束の間の勝利であろうとも。

 ここではジャズドラマーは「音」を「つくっている」。その「音」を谷川は「別の沈黙」をつくるという。それはあくまで「つくる」ものである。どうやって「つくる」のか。「人間の肉のリズム」ということばがある。「音」をつくることを、「人間のリズムをもって挑戦し」と言いなおしているから、人間が自然にもっている「リズム」を基本にして「音」をつくる、と言えるだろう。
 さらに「音(リズム)」をつくることを、「沈黙」を「ひきこもうとする」と言いなおしている。人間がつくりだす「音(リズム)=沈黙」に「青空の沈黙(自然がもっている沈黙)」を引き込み、「沈黙」を完成させるということだろうか。
 こういうことばの展開の中で、主語が「ジャズのドラマー」から「われわれ(人間)」にかわっているのだが、このことはあとで触れる。

 「鳥羽 9」の最後の部分は、こうである。

私は耳をおおう
かたく両手で

するとなお大きく
人の血のめぐる音が聞こえる
私に語りかける声が聞こえる
限りなく平静な声が

 「血のめぐる音」は「ジャズのドラマー」に出てきた「人間の肉のリズム」である。「拍つ」は「鼓動を拍つ」であり、「鼓動(拍動)」は「血のめぐる音」である。つまり同じものだ。
 ここでおもしろいのは、谷川が「私の」血のめぐる音とは書かずに「人の」血のめぐる音と書いていることである。「人」は「私」を超える存在である。「私」の鼓動を聞くのではなく、「私」を含む「人間(人)」の鼓動を聞く。それを「声」と受け止め、「私に語りかける声が聞こえる」と言いなおしている。
 さらにこの「声」(私ではない「人間」そのものの声)を「限りなく平静な声」と言いなおしている。「平静」の「静」に焦点を当てると、これは「静かな声」であり、「沈黙の声」につながる。
 「沈黙の声」とは何か。
 少し逆戻りする。「平静な声」の前には「語りかける声」と書かれ、その前には「血のめぐる音」と書かれていた。それが「聞こえる」という動詞で統一されていた。「声」はほんとうは「音」である。「声」は「ことば」をもっていることが多いが、「音」は「ことば」をもっていない。「ことばになる前の声」が「音」なのだ。
 ここから「平静な声」にもう一度戻る。「平静な声」は「ことばになる前の声」なのである。
 これが「私」を超えて、「人間(人)」の「肉体」をつないでいる。貫いている。「私」を超える存在の「声にならない声」(ことばにならない前のことば)は、「声になっていない」から「沈黙」と呼ぶしかないのだが、そういうものが「肉体」のなかにある。
 これを谷川は谷川自身のことではなく、「人」のすべてに通じることとして感じている。だから「われわれ」、あるいは「人」という。
 ジャズドラムを聞いている。そのとき、ドラムを叩く人がいる。聞く谷川がいる。でも、それが「聞こえる」のは、ドラマーと谷川の「肉体」が深いところでつながっているからだ。「血」でつながっているからだ。
 自分がもっている「沈黙の声」は同時に他人がもっている。他人がもっている「沈黙の声」はまた同時に自分がもっている。それが「ひとり」と「ひとり」を超えてつながっているものなら、「人」を超えて他の存在ともつながっているだろう。
 この「自分を超えるつながり(広がり)」を「宇宙」というのかもしれない。「宇宙の沈黙」と「谷川自身の沈黙」を響きあわせる。そこに「沈黙の音楽=詩」が生まれてくる。
 あ、これでは書きすぎだね。こんな「結論」を谷川は書いているわけではない。

 

*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com


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西岡寿美子「ごあんない」

2018-02-28 16:00:16 | 詩(雑誌・同人誌)
西岡寿美子「ごあんない」(「二人」321、2018年02月05日発行)

 西岡寿美子「ごあんない」。これから私が書くことは、詩の感想になるのかどうかわからないが。

陽が落ちて
木枯らしも静まったようだ
夜の気配が深まると
誰かに急かされることでもないが

包丁を揃え
夜なべ仕事を始めたくなる

それは渋柿の皮剥きであったり
大根の千切りであったり
切り干しサツマ芋であったり

 ここまで読み進んで、その三連目を私は何度も読み返してしまった。
 そうか、「夜なべ」には、それぞれ「ことば」があったのかと、不思議な気持ちになったのだ。
 私は田舎育ちなので、ここに書いてあることは全部わかる。「渋柿の皮剥き」は得意である。「大根の千切り」「切り干しサツマ芋」の手伝いはしたことがないが、母親が夜なべ仕事をしているのを見たことはある。しかしそのときは、それに「ことば」があるとは思わなかった。ただ「渋柿」「大根」「サツマ芋」があり、同時に包丁と肉体がある。肉体が動いている。「もの」と「肉体」が「ある」。それだけだった。「柿の皮を剥いて」と言われれば、ただ、そうした。そのときは「柿の皮を剥く」という「ことば」はいらない。左手で柿をもち、右手で包丁をもち、包丁を動かすというよりも手に持っている柿を動かすという感じで皮を剥く。「ことば」はどこにもなく、ただ「柿」と「包丁」というものがあり、私の「手」があった。
 「ことば」がなくて、「もの」と「行動(肉体)」がある。こういう「暮らし」がある。あった。
 ここから思うのだ。
 「ことばにする」ということは、どういうことなのか。
 わからない。

 逆に考えればいいのかもしれない。いつでも、「ことば」にしないものが、ただ「ある」。その「ある」ものといっしょに生きているのが「暮らし」というものなのだ。
 ここから唐突に私のことばは違うところへ動いて行く。
 きょうの「日記(感想)」だけを読んだ人にはわからなかもしれないが、私は最近谷川俊太郎の『聴くき聞こえる』の感想を書きつづけている。谷川は「自然音」と「音楽」の両方に触れている。私は小さいとき周囲に「音楽」というものがなかった。「自然音」はあった。しかし、その「自然音」も「聞いた」という記憶がまったくない。それは、ただ「ある」だけだった。つまり「ことば」にする必要がなかった。「ある」というだけで十分だった。これを「ことば」にするのは、どういえばいいかわからないが、よくよくのことである。
 「ことば」にするのは、「ものを生み出す」ということに似ている。いいかえると、そこに「ない」ものを「ある」にするということだ。そこに「ある」ものは「ことば」にしないで生きているというのが「暮らし」なのだ。

 うーむ、なんだかとりとめがないか。
 ことばが脱線しているのか。
 そうでもないかもしれない。
 「ない」ものを「ある」に変えるということにつながると思うのだが、西岡の詩は、こう閉じられる。

畳なわるあの嶺々の彼方
世を代えた父母や
目鼻立ちも定かではない
累々繋がる祖父母や曾祖父母らは
わたしによく似た祖々を慕うているのだ
待ってて
暮れ春の間には頃合に仕上がるだろう
すれば味よく煮しめてあげよう
距離も有って無いあなた方だから
一夕揃って
裔の裔のお膳造りも味わいに来て頂戴

 父母も祖父母もいまは「いない」(ない)。でもことばにするとき「いる」。生きている。
 こういう「声」が、私の幼いときに「あった」のかどうか、よく思い出せないが、きっと「あった」のだろうと思う。
 私は両親が年取ってから生まれた子どもなので、父方の祖父母も母方の祖父母も、見たことかない。私にとっての最初の死者は、父の兄であった。だから、もう死んでしまった人を「いま/ここ」に呼び出すというときの、「肉体」の動き、「声」というものが、「暮らし」の中に「あった」という感じは実感としては思い出せないのだが、確かに両親のあれこれの動きというのは、「いない」祖先を「ある」ものとしていっしょに生きていたかもしれないと感じる。
 「法事」の「案内」というのは、あれは生きているひとに対する「案内」であるだけではなく、死んだひとへの「案内」でもあったのか。「法事」での飲み食いは、死んだ人を「ある」という状態へ呼び寄せることだったのか。
 五十年以上も前のことだが、私の田舎の「暮らし」には、「ことば」になっていないものが、ただ「ある」という状態であった。
 「有っても無い」なら「無くても有る」のが「田舎の暮らし」だ。

 ひとの「履歴」と「ことば」、「文学」というものは、どれくらい「関係」を突き詰めないといけないのかわからないが、なにもかもがただ「ある」が「ことば」はないというところで暮らしてきた人間が、谷川のように「音楽」が日常としてあり、「自然」が避暑先の(?)非日常としてあるという「暮らし」のなかで「音/音楽」を生きてきた人間の「ことば」を読めば、これはどうしたって、何か奇妙な「ずれ」があるなあ。



 関係があるかないかわからないが……。
 西岡は「特殊詐欺(オレオレ詐欺の一種)」の被害者になりそうになったことを「よしなしごと二」というエッセイで書いている。
 西岡は寸前のところで被害に遭わずにすんでいるのだが、そのきっかけが、とてもおもしろい。

 「警察へ先に通報した方がよろしいのでは?」と質した時に、ほんの一呼吸中山氏の反応が遅れ、「やはり銀行協会へ」と、反復指示した、その一瞬がわたしに疑念を生じさせたのであった。

 「ほんの一呼吸」が「ある」。そういう間が「ある」。その、ことばにはならない「ある」を西岡は肉体でつかみとっている。
 同時に、こんなことも思う。
 そうか、西岡にとっては「警察」は見たことがあるが、「銀行協会」というのは見たことがないものなのだな、と感じた。銀行は見たこと、行ったことはあるが、「銀行協会」となると、どうかなあ。「ことば」としては「ある」が「実体」は西岡にとっては「ない」。(これは、まあ、私自身に引きつけての感想なのだけれど。私も「銀行協会」なんて、「ことば」としてはあるかもしれないと思うが、実在は知らない。つまり「暮らし」のなかに存在しない。)
 「ことば」はなんでも「ある」に変えることができる。
 でも「ある」ものと「ことば」、「ない」ものと「ことば」の関係は、実際に「ことばにする(声に出す)」と微妙に違うのだ。
 で、ここから「正直」が判断できる。「一呼吸」の違いが出る。
 またまた脱線というか、飛躍してしまうが、私が西岡の詩が好きなのは「正直」が自然にあらわれてくるからだ。
 「ない」ものを書かない。「ある」だけを、「ある」がままに書く。
 詩にもどると、死んでしまった父母、祖父母、さらにその先の祖先。それは、死んだのだから「いない」(ない)が、夜なべ仕事をするときに、西岡の「肉体」のなかに「ある」。つまり生きている。「ある」を「ある」がままのかたちで西岡はことばにしている。それが美しい。とても自然だ。だから、私はその部分を何度も読み返したのだと思う。


*


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瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(15)

2018-02-27 09:41:27 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(15)(創元社、2018年02月10日発行)

 「沈黙を語ることの出来るものは、」で始まっている作品。タイトルはない。「*」で七つに区切られている。その最初の部分。

 沈黙を語ることの出来るものは、沈黙それ自身しかない。では、言
葉をもって沈黙を語ろうとすることに、どんな意味があるのか。そ
れにはむしろ意味はない。何故なら、詩人にとって、沈黙を語るこ
とはひとつの戦いなのだから。

 「沈黙を語ることの出来るものは、沈黙それ自身しかない。」は直感的には「わかった気持ち」になるが、論理的には「わからない」。そのまま反復できるが、言いなおすことができない。
 これは「音楽」のようなものかもしれない。
 そこに「音」がある。「音」が動く。その動きは「直感」(感覚)としては「わかる」。でも、それを「ことば」で言いなおすことができない。
 音楽に詳しい人なら、その音を「楽譜」という形に再現できるかもしれないが。

 うーん。

 私は「音楽的人間」ではない。「論理的な人間」であるも思わないが、「論理」ならいくらか追いかけることはできるかもしれない。
 そこで、こんなことを考えた。

 「沈黙」とは「音」のない状態。「ことば」のない状態。「ことばない状態の沈黙」が「語る」ということは、論理的にありえない。語るとは「ことば」をつかって語ることだからである。「論理的にわからない」と感じたとき、私は、そう考えていた。
 どうしてこういう「論理」を語ることができるのか。

 ひとつの文章だけでは「論理」がわからない。どう言い換えているか、それを追いかけることで何が書かれているのか考えてみる。
 「名詞」がいくつか出てくる。「沈黙」「言葉」「意味」「詩人」「戦い」。どれが「主役」なのだろうか。
 「動詞」はどうか。「語る」が繰り返されている。
 沈黙を「語る」、沈黙が「語る」、沈黙で「語る」、言葉が「語る」、言葉で「語る」、意味を「語る」、詩人が「語る」。
 「戦い」という名詞は「語る」の主語にならない。「語る」は「戦い」の述語にならない。戦いが「語る」という言い方もあるが「語ることはひとつの戦い」という定義にしたがって、「戦い=語る」と読み直す必要がある。
 「戦い」は「戦う」という動詞として読み直すとどうなるか。
 沈黙で「戦う」、ことばで「戦う」、意味で「戦う」、詩人が「戦う」。
 「語る」ことと「戦う」ことは、どこかで重なる。「語る」は「戦う」という動詞になりうる。何かに対して「反対」のことを語る、「反対」という。これを「戦う」と言いなおすことができる。
 主語(名詞)ではなく、動詞に焦点をあてて読み直すと、ここに「一貫しているもの」がなんとなく「見えてくる」。ことばが「肉体」として「ひとつ」になっていることが感じられる。
 「語る」、「戦い」ということばの奥に隠れている「戦う」という動詞のほかに、まだ動詞がある。
 「ある」。これは「ない」ということばと対になっている。
 谷川は、意味が「ある」、意味が「ない」と書いているが、ほかの名詞にも「ある」と「ない」は結びつけることができる。
 沈黙が「ある」、沈黙が「ない」、言葉が「ある」、言葉が「ない」、詩人が「ある(いる)」、詩人が「ない(いない)」、戦いが「ある」、戦いが「ない」。
 「語る」「戦う」「ある(ない)」は、どこかでつながっている。三つの動詞を動かす「主語」がどこかにある。三つの動詞を「述語」としてもつことのできる「名詞(主語)」がどこかにある。

詩人にとって、沈黙を語ることはひとつの戦い

 「詩人」が主語となるとき、三つの動詞は述語となる。
 詩人は沈黙を「語る」、言葉で「語る」。それは沈黙と「戦う」ことであり、「戦う」ことでそこに沈黙が「ある」ということを明らかにし、それはまた沈黙の「意味」を明らかにすることである。
 でも、これは正確ではない。
 この読み方では、沈黙「を」語るのではなく、沈黙「について」語ることになるからだ。沈黙とはどういうものであるかを「語る」のは「間接的」である。
 谷川は「沈黙を語る」と言っている。

 沈黙とは何か。
 谷川は「定義」していない。ふつうに考えていることをあてはめると、沈黙とは「音がない」状態である。「声」のない状態である。谷川がつかっていることばを借りて言いなおせば、「言葉」がない状態である。
 この「言葉がない」をさらに言いなおしてみよう。「言葉がない」とは「言葉が存在する以前」の状態である。「言葉以前」を谷川は語る、と言う。
 このとき谷川が考えている「言葉」とはどういうものだろうか。「既成の言葉」、「流通している言葉」だろう。
 いま、ここにあふれていることば、既成のことばと「戦い」、新しいことばを動かす。それが「詩人」の仕事だとするならば、詩人とは「いま/ここ」では「聞こえない」声を出すことである。
 そのままでは「聞こえない」声。「沈黙の声」を発すること。それを「沈黙を語る」と言っている。

 沈黙「について」語るのではなく、沈黙「を」語る。それは沈黙「で」語ることである。沈黙が「ある」というという状態をつくりだすことである。沈黙を生み出すのである。

 別の断章には、こう書いてある。

 初めに沈黙があった。言葉はその後で来た。今でもその順序に変
りはない。言葉はあとから来るものだ。

 いま「ある」ことばを、「ない」にする。「沈黙」をつくりだす。それが詩人の仕事。そうやって生み出された「沈黙」が詩である。
 最初に私は、直感的にはかわるが論理的にはわからないと書いた。この矛盾した状態、わからないを作りだしながら、「わかる」と強く実感させる「衝撃」が詩である。それが「ことば」ではなく「音」で表現されるとき、それを「音楽」というのかもしれない。
 詩も音楽も、沈黙と強く結びついたまま動いている。
 「あと」からやってくるものは、自分の存在を告げるだけではなく、むしろ「まえ」からあったものを「語る」ためにやってくるのである。



*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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吉貝甚蔵「翻訳試論-漱石のモチーフによる嬉遊曲」

2018-02-26 10:56:56 | 詩(雑誌・同人誌)
吉貝甚蔵「翻訳試論-漱石のモチーフによる嬉遊曲」(「侃侃」29、2018年02月10日発行)

 吉貝甚蔵「翻訳試論-漱石のモチーフによる嬉遊曲」は、

--私はその人を常に先生と呼んでいた
と読んでいた私は常にその人であった

 と始まる。一行目の「私」は漱石の小説の中の「私」、「その人」も小説の中の人だろう。二行目で「呼んで」が「読んで」に変わった瞬間、「私」はこの作品を書いている人になる。厳密には違うのだが、二行目の「私」は吉貝になる。吉貝は漱石の小説を読むとき、その小説の主人公「その人」になって小説の中に入っている。
 「読む」というこ行為を詩に書いていることになる。
 このとき、吉貝は、「読む」という動詞をとおして、分裂する。

私がその人の目に映っていればのことだが

 吉貝は「その人」になったつもりで小説を読むが、小説の方ではどうだろうか。吉貝が読んでいる(その人になったつもりでいる)ということを、「その人」は認識しているか。認識していない。つまり、小説のなかの「その人」にとっては吉貝は存在していない。吉貝は「その人の目に映って」いない。
 つまり、一方的な行為なのである。「読む」というのは。
 ということが、小説の中でも起きている、と吉貝は考えている。

常にその人は私をあなたとは呼ばなかった

 というのは小説の中の「できごと」であり、また小説の外、小説の「そのひと」と吉貝の関係でもある。
 吉貝は「読む」人間なので、小説の中の「その人」でありながら、また小説の中の「私」のことも理解している。そのなかで、吉貝自身がゆれ動く。

その人はいつまでもいつまでも
(略)
人称なんか忘れてしまっていて
(略)
いくつもの人称を忘れながら
いくつもの人称に裂かれながら

 ということが起きる。
 小説の中の「その人」と「私」、小説の外の「私(吉貝)」と「その人」、小説の外の「私」と小説の中の「私」。「私」と「あなた」の関係は、入り乱れる。「私」と「その人」ということばしか出てこない。「私」と「あなた」は出てこない。しかし、それは「ことば」の上でのことであって、ことばにならないことばのなかでは、「私」と「あなた」は動いている。
 小説の中の「その人」と「私」は「あなた」と「私」であり、それは「その人」から言いなおせば「私」と「あなた」であるはずだ。また、小説の中の「その人」と小説を読む「私(吉貝)」は、吉貝からみれば「あなた」と「私」、小説の中の「私」(その人からはあなたとは呼ばれない人)と小説を読む「私(吉貝)」もまた、吉貝からみれば「あなた」と「私」ということになる。
 「人称」が入り乱れる。
 さらに、ここに「性」の問題もからんでくる。(吉貝ははっきりとは書いていないが。)、小説の中の「その人」が「男」で「私」が「女」である場合、小説の中の「その人」と小説を読む「私(吉貝)」は同じ性のなかで「私」という一人になれるが、小説の中の「私(女)」とは同じ生の中では「私」という一人にはなれず、かならず「あなた」として出現してきてしまうのだが、「あなた」のことがまったくわからないわけではない。ときには「あなた」になって小説の中を見つめるときもあるはずである。
 「読んでいた私は常にその人であった」と書いているが、「常に」という意識の奥には、それを持続するための「意識」がある。それは小説の中の「私(女)」と読む「私(吉貝=男)」の関係をも揺さぶる。
 この奇妙な「揺れ」をなんというか。
 吉貝は「翻訳」と呼んでいる。
 翻訳とは、「私」を維持しながら、「私ではない者」になること。そのときの「ことば」の揺らぎを生きること。それを「人称」の問題として提出している。

 詩なのだから、といってしまうとおしまいなのかもしれないが、詩なのだからこれ以上はあれこれ書いてもしようがないだろうあと思う。

 でも、あえて書けば、一行目の「呼んでいた」と二行目の「読んでいた」の、音は同じだが意味は違う動詞の中心にしてことばを展開すれば「人称」とは違うものが見えてきはしないか。
 「人称」というのは、極論すれば「二元論」から生まれてくる。
 吉貝の「翻訳」という意識も、「二元論」を出発点にしている。「その人」と呼ぼうが「あなた」と呼ぼうが、「私」がいて「私以外の人」がいるという「世界」から出発している。
 漱石の小説というテキストがあって、私(吉貝)という人間がいる、という「構図」も「二元論」そのままである。「二元論」というのは「論理の正しさ」にいつでも逃げ込んでしまう。「完結」することで「正しい」になってしまうという危険性があるなあ、と私は感じている。
 おもしろいけれど、それが気になった。
 「頭」ではわかるけれど、吉貝の「翻訳論」には、私は与したくない。
 「読む」ということば、「私がその人の目に映っていればのことだが」という一行が象徴的だが、吉貝の「翻訳論」はあくまでテキストの「翻訳論」であって、「通訳」では成り立たないのではないかという疑問が残る。「翻訳」に対しても「反論」というか「誤訳」の指摘はあるだろうが、「通訳」のように同時発生的ではない。「肉体」的ではない。「時間/空間」が「いま/ここ」で動くわけではない。だから、どうしても「頭」の世界という印象が残ってしまう。




*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(14)

2018-02-26 09:32:10 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(14)(創元社、2018年02月10日発行)

 「空耳」には「Vietnum 1969」というサブタイトルがついている。五連あるが、それぞれの間に「*」があるので、「連」ではなく「断章」かもしれない。

閉じている扉の開く音をはっきりと聞いた
笑っている子どもの泣き声を聞いた
それからすっかり静かになった
銃声は聞こえなかった

 「閉じている」と「開く」、「笑っている」と「泣き声」は矛盾している。もちろん「閉じている」が「開く」に、「笑う」が「泣く」に変わることがあるから、それは矛盾ではないかもしれない。しかし、私は「矛盾」と読む。閉じたまま開く、笑ったまま泣く、と読む。ありえないものが書かれていると読む。
 そして、そのとき「聞いた」のは、「ありえない」何かを聞いたのだ。「矛盾」を聞いたのだ。
 だから「すっかり静かになった」はほんとうの「静か」ではない。どこかに「音」がある「静かさ」である。「銃声は聞こえなかった」が、谷川に聞こえなかっただけで、それは存在する。そういう緊張感、共存の緊張感がある。
 「ピアノ」ではピアノの「音」と「沈黙と名づけられる前の沈黙」が結びついて「音楽」を生み出していた。
 同じように、ここでは「暮らしの音」と「音になる前の暮らし」が結びついて「現実(世界)」をつくっている。「銃声」さえも「暮らし」であるという厳しい共存が1969年のベトナムなのだ。

草と草がこすれるのは
風なのかそれとも人が匍っているのか
河がゆっくり水嵩を増してゆく
小鳥の鋭い囀り

 「音」には「叩いて出る音」があり、「こすって出る音」がある。叩いて出る音はドラム、ピアノ。こすって出る音はバイオリン。叩くには乱暴なイメージがある。こするには親密なイメージがある。
 風が草を動かしてこすれるのか、人が動いてこすれるのかと問うとき、風と人は同じものになる。人が「自然」になるのか、自然が「暮らし」になるのか。区別はつかない。その区別のつかないのが1969年のベトナムということになる。
 河の水嵩が増す。そのときの「音」がある。水と水は、たがいにすれあっているだろうか。水の中を水が匍っていくのだろうか。そういうことも考える。
 小鳥の囀りは、聞こえない小さい音がまわりに満ちていることを知らせてくれる。「音」はあらゆるところにある。
 「聞いた」とは書いていないが、谷川は、それを聞いたと思う。

 次の連は「転調」する。

縄がぴんと張りつめる
頑なに黙っている者の動悸
ひとつの国語と他の国語との
決して混りあわぬ囁き

 張り詰める縄に「音」はないか。「黙っている者」に「動悸」の音があるなら、張り詰めた縄にも聞こえない「動悸」があるだろう。
 混じり合わぬ国語はベトナム語とアメリカ英語であるかもしれない。「意味」は戦いの場ではすぐに「わかる」。「意味」は必要がない。「銃」がかわりに語る。「死」をつきつける。
 その「国語」の奥に、つたえきれない小さい「声(囁き)」があると、聞いてみる。聞こうとしている。「意味」ではなく、「暮らし」を、と読んでみたい。

 このあと、詩はさらに「転調」する。

沈黙などあるものか
耳を掩ってすら
沈黙などあるものか!
荒野の只中にも

 「沈黙」はない。「音」と結びつく「静けさ」がない、と谷川は言う。「静けさになる前の静けさ」がない。それはほんとうは「暮らし」のなかに、「自然」のなかにあるはずのものだが、失われている。
 かわりに何があるのか。
 他の国語には混じり合わない「囁き」がある、と読んでみようか。
 それは「声になる前の声」「ことばになる前のことば」かもしれない。
 「暮らし」の中にはそういうものが「ある」。それは、無意識に共有されるものである。それが共有されずに、「悲鳴」をあげている。共有されないから「悲鳴」になってしまうのだ。
 「孤立した声」「孤独な声」である。
 何から「孤立」しているか。「声になる前の声」から切り離されている。
 逆に言うと、「囁き(小さな声=声にならない声)」となって、あふれている。
それは「周囲」にあるのではなく、そこにいる「人間」のなかにある。ベトナムに行って、谷川はその「囁き」を自分自身の「声」として聞いた。
 耳をおおうことでは、肉体のなかから聞こえてくる「声」を拒むことはできない。

 自分の中から「聞こえる声(囁き)」は、最後は、こう書かれる。

だが今日の夜明け
ひとつの美しい旋律の終わりの無名の死は
もうどんなかすかな音も立てない

 「無名の死」は音を立てないが、谷川は音を「はっきり」と聞く。一連目のことばが最終連でよみがえる。それは谷川の「肉体」のなかに動いている。
 「空耳」とは自分の肉体のなかにある「音」を聞くことだ。その音は自分の「肉体」の「沈黙」と向き合う形で広がっている。



*


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ソフィア・コッポラ監督「ビガイルド 欲望のめざめ」(★★)

2018-02-25 19:53:59 | 映画
ソフィア・コッポラ監督「ビガイルド 欲望のめざめ」(★★)

監督 ソフィア・コッポラ 出演 コリン・ファレル、ニコール・キッドマン、キルステン・ダンスト、エル・ファニング

 イーストウッドが出た「白い肌の異常な夜」のリメイク。私はイーストウッドが足を切られるというストーリーしか覚えていない。映画館ではなくテレビで見たんだろうなあ。
 ソフィア・コッポラの映画は「少女趣味的」で好きではない。父親のコッポラも、まあ、少女趣味が強かった。「ワン・フロム・ザ・ハート」はナスターシャ・キンスキーが出たので見たが、うーん、まるで少女マンガ。
 それに。
 キルステン・ダンストが私は嫌い。この映画の中で、コリン・ファレルが「美人だ」と絶賛するのだが、私はキルステン・ダンストを美人だと思ったことが一度もない。なぜ、映画女優をやっているか、わからない。
 それなのに、なぜ見たか。
 処女趣味が「欲望のめざめ」みたいな映画でどう展開するか、それを見たかった。これは「覗いてみたかった」ということ。
 で、結果を言うと。
 「少女趣味」は、ドレスのシーン、あるいはブローチだとかイヤリングのシーン(ことばのやりとりを含めて)に発揮されているのだが、私は、こういう「細部」の「少女趣味」(こだわりの美意識)というのが大嫌いなのだったということを思い出しただけだった。装飾品とか化粧品とか、あんなめんどうくさいものを選ぶ感性(忍耐強さ?)には近づきたくない。
 また、これか。
 選ぶ映画を間違えた、と思った。
 まあ、おもしろい部分というのは、「少女趣味」ではなくて、「少女」そのものを描いている部分かなあ。
 エル・ファニングが「少女」と「おとな」の境目を演じていて、その「境目」を基準にして言うと、「おとな(女)」の部分はおもしろくないねえ。「趣味」ではとらえきれないからなんだろうなあ。
 もっとおさない「少女」の方が、むしろ「おとなびと」いて興味深い。
 「白い肌の異常な夜」はまったく覚えていないが、毒キノコを食べさせようと少女が思いつくシーンがすごいなあ。「おとな」の意識を先回りして、とってしまう。こういう残酷さは「少女」にしかできない。「おとな(おんな)」は自分では言わない。言わないけれど、そういうことは「カンのいい」こどもは「本能」の力で先取りする。
 この延長で、コリン・ファレルがキルステン・ダンストにキノコ料理をすすめるとき、それをみて「先生はキノコが嫌いだったわよね」と言って、食べさせないところもいいなあ。
 なにもかも知っている。それが「こども」。これは「本能」は知らないことを先取りするということなんだろうけれど。
 男の監督は、ここまで「少女」を「おとな」として描かないかもしれない。「少女」のままに描いて、「おとな(おんな)」を浮かび上がらせるかもしれない。
 でも、これは「少女趣味」とは違った問題だね。
 女は年齢に関係なく、同性を「おんな」として見ている、ということなんだろうなあ。
 それから……。
 南部の風景に私はかなり関心を持っていた。アメリカ映画の緑は私にはどうもなじめない。ほんとうにアメリカの緑がああいう色なのか、疑問をもっている。この映画ではファーストシーンで南部の森が出てきたので、それがどう展開していくか気になったのだが、やはり納得がいかない。深みがない。広さが深さを奪っていくのかもしれないが、自然の力を感じることができない。
 これもがっかりした理由かなあ。
               (ソラリアシネマ・スクリーン3、2018年02月25日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(13)

2018-02-25 14:56:37 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(13)(創元社、2018年02月10日発行)

 「ピアノ」の前半の二連。

誰かがピアノを弾いている
塀はどこまでもつづいていて
道には人影ひとつない

誰かがピアノを弾いている
窓はわずかにひらかれていて
枯れかけた花の匂いがする

 ピアノは音、音楽。ここから始まって、二連目の最後で「花の匂い」という音楽とは関係のないもの、異質なものが出てくる。「花の匂い」は「花」と「匂い」にわけることができるが、重きが置かれているのは「匂い」だろう。
 聴覚が嗅覚を目覚めさせたのか。
 この「匂い」という「音」ではないものがあらわれたのは、どうしてなのか。
 「音ではないもの」とは「音とは名づけられないもの」、つまり「沈黙」ではないのか。
 だが「沈黙」と名づけてはいけない。「沈黙」と名づけてしまうと、それは「沈黙」が出現してしまう。しかし、「沈黙」とはほんらい「音が存在しない」ということ、そこには何の「あらわれ(出現)」もないはずだ。
 だから「沈黙」とは名づけない。
 「沈黙」と名づけないことによって、「ことば以前の沈黙」になる。
 そういう「ことばの運動」が「匂い」ということばに託されている。
 「沈黙」なのだけれど、「沈黙」と名づけずに、「匂い」と名づける。「音」に関係することばを否定する。拒絶する。「意味」をなくしてしまう。
 この「無意味化」をナンセンスと呼べば、「きいている」の「ねこのひげの さきっちょ」「きみのおへその おく」と同じもの(似通ったもの)になる。

 「スキャットまで」では「黙っているのは龍安寺の石庭」と「黙っている=沈黙」が出てきた。それと対比するとわかるのだが、この「ピアノ」では、「沈黙」の別の書き方がしめされている。「沈黙」ということばをつかわずに、新しいことばで「沈黙」を谷川は書こうとしている。

 「沈黙」とは名づけていないが、「沈黙」と同じもの。それが存在することによって「ピアノ」は「音楽」になる。音が旋律をもち、リズムをもてば、それが「音楽」になるわけではない。「沈黙」と向き合っていないといけない。「沈黙」を無意識のうちに出現させてしまうのが「音楽」なのだ。

 ここから私はまた別のことを考えた。
 この詩には「私」という「主語」は明示されていない。ここにいる人で明示されている(ことばになっている)のは「誰か」だけである。「人影ひとつない」と「ひと」の存在は否定されている。けれど「誰かがピアノを弾いている」ということを認識するひとがいる。「私」が隠れている。
 「私」と「誰か」。これは「音楽」と「沈黙」の関係に比べると、なんとなく不安定に感じる。落ち着かない。
 そう思ったとき、ふと「花」は「あなた」なのではないか、という気がしてきた。
 「私」は「あなた」という人間と向き合うことで「私」になり、「あなた」は「私」と向き合うことで「あなた」になる。「対」によって世界がしっかりと固まる。
 そういう存在を無意識に求めるこころがあって、「花」を引き寄せたのだ。
 「花」がピアノを弾くわけではない。しかし、音楽が「匂い」という「沈黙以前の沈黙」といっしょに動いているとき、「誰か」は「花」をとおって「あなた」として存在している。「私(谷川)」にとって、確かな存在になっている。
 そう感じさせる。

 では、なぜ「枯れかけた」という否定的なニュアンスのことばが「花」を修飾するかたちでそこに動いているのか。
 これは「聞こえてくる」音楽の種類(ニュアンス)を伝えるためである。予告する形で、二連目にあらわれているといえる。
 三、四連目は、こうつづいていく。

誰かがピアノを弾いている
一年が過ぎ 従妹は嫁ぎ
十年が過ぎ 都市は燃え
百年が過ぎ 国は興り--

誰かがピアノを弾いている
その部屋で鏡はまぶしく輝いて
戸口に倒れた一人の兵士をうつしている
そのむこう真昼の海をうつしている

 ここには「存在しないもの」が視覚化されている。そこにたどりつくために「枯れかけた」ということばがあった。「あなた(誰か)」にとっての「あなた」は「私(谷川)」ではなく、「一人の兵士」である。そこまで書くと、「音楽」ではなく「ドラマ」になってしまう。だからこれ以上書かない。
 この詩は「花の匂い」を「ピアノ(音楽)」と向き合わせたところで、「音楽」そのものになっている。あとは「音楽の内容(意味=ドラマ)」になる。「意味」があるところでは「沈黙」が消えると思う。



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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(12)

2018-02-24 10:05:28 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(12)(創元社、2018年02月10日発行)

 「スキャットまで」は「云いたいことを云うんだ」で始まったことばが「スキャット」になるまでを書いている。
 好きな部分は二か所。

                    ワンコーラスわけてく
れ いやツーコーラス いやスリーフォー いくらでもいい

 数字のたたかみかけるリズムが気持ちいい。「スリーフォー」と続けた部分がおもしろい。「わけてくれ」が省略され、「コーラス」が省略される。その展開の速さ、加速度が欲望の音楽。
 ことばはさらに続いていく。

                            一時
間二時間六時間いや一日まるごとくれよ俺に 黙っているのは龍安
寺の石庭 叫ぶのは俺だ 俺はのどだ 舌だ 歯だ 唇だ のどち
んこだ 声なんだ

 突然挿入される「龍安寺の石庭」がおもしろい。「龍安寺の石庭」は「沈黙」の象徴。「沈黙」が「音」を遮断する。
 この詩のハイライトだ。
 でも、不思議。
 「スキャット(声)」について書いているのに、「沈黙」がいちばん印象に残るというのは。
 これが、詩というものなのだろう。

 このあと詩は、「ジャズ」という音を変奏させながら「スキャット」に変わっていく。私はカタカナが読めない。聞いたことがある音はカタカナでもなんとか読めるが、聞いたことのない音が書かれていると、まったく読めない。
 谷川がいっしょうけんめいに書いたのは、その音の変奏なのかもしれないが、私の耳には聞こえない。朗読で聞けば「聞こえる」かもしれないが、文字からは聞こえない。これは谷川のせいではなく、私の「肉体」の欠陥である。



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分母は?(情報操作の仕方)

2018-02-24 09:09:12 | 自民党憲法改正草案を読む
分母は?(情報操作の仕方)
             自民党憲法改正草案を読む/番外180(情報の読み方)

 2018年02月24日の読売新聞(西部版・14版)の一面

労働時間誤り93事業所 厚労省調査

 という見出し。
 働き方改革(裁量労働制)法案の巡るデータ「捏造(偽造)」問題の続報。

 厚労省は(略)、不適切なデータ比較問題に関し、少なくとも93事業所でデータに誤りがあったことを明らかにした。厚労省は1万1575事業所のデータを精査しており、語数値はさらに増える可能性がある。

 この文章は「情報操作」のひとつである。
 「分母」がわからない。
 「少なくとも」と書いてあるから、「1万1575事業所」全部を調べ終わっていない段階だとわかる。
 「1万1575事業所」のうち何か所を調べたのか。
 「93事業所」を精査したところ、93事業所から「誤り」がみつかったというのなら、それはすべての事業所で「誤記」というか、情報操作がおこなわれていることになる。
 「分母」を公表できないのは、「分母」そのものに問題があるからだ。つまり、ほんの少ししか調査していないから、「〇〇事業所を精査したところ93事業所で誤記が見つかった」と言えないのでである。
 それを正確に明示しないかぎり、ひとは「1万1575事業所」のうちの「93事業所」と誤解してしまう。
 厚労省が「分母」を発表していないのなら発表していないで、報道機関はそのことを含めて記事にしないと、情報操作の片棒担ぎになる。

 さらに、「93事業所」のデータのうち、誤りは何か所あったのか。それぞれ「一か所」だったのか、それとも1事業所につい「百か所」あったのか。その「誤記」はどういう種類のものなのか。
 精密に調査すれば、膨大な問題点が出てくるだろう。
 厚労省にまかせるのではなく、第三者機関で調査しないといけないかもしれない。

 不都合がみつかるたびに、安倍政権は「資料は存在しない」(破棄した)という。だが、とういう政策でも「再点検」が必要なときがくる。再点検には資料が必要である。資料は「史料」でもある。それを残さない政権というのは、情報操作をしている証拠になる。森友学園、加計学園も同じである。「適正」なら「適正」であることを証明するために「資料」を残す。それが基本。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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及川俊哉『えみしのくにがたり』

2018-02-23 11:38:07 | 詩集
及川俊哉『えみしのくにがたり』(詩と思想新人賞叢書12)(土曜美術社出版販売、2018年02月20日発行)

 及川俊哉『えみしのくにがたり』は、困ってしまった。「波の神、海のきらめきの神が語った歌」が巻頭の作品。東日本大震災のことを書いている。そこにこんな一行がある。

麻都我宇良尓 佐和恵宇良太知

 そして、カタカナのルビがついている。私はカタカナ難読症(と、勝手に名づけているのだが)で、カタカナが読めない。聞いたことがあることばなら読めるが、聞いたことがないことばのカタカナは、まったく読めない。
 正確に転写できるかどうかわからないが、そのカタナカは、こうである。

マツガウラニ サワエウラダチ

 目がちらちらして、頭の中が混乱する。何度か目で追いなおしていると「ウラ」という音が二回繰り返されているが、これは先に「宇良」という漢字を読んでいるからわかることであって、漢字を読んでいなければ「ウラ」が繰り返されていることにも気がつかないだろう。
 さらに、それにはこういう「読み方」が追加されている。

(ふだんはうららかな松川浦にさえ津波が騒ぎ群れ立って)

 最初の「宇良」は「浦」か。水が打ち寄せるところ。「松川」という川と海が出会うところなのだろう。次の「宇良」は及川の註釈(?)によれば、「波」になるのかなあ。「宇良」は「波が打ち寄せるところ」、「宇良」は「波」。なんとか、ここまでは、わかる。
 でも「佐和恵」は何? 「さえ」? 一字あまるなあ。「佐和恵」とつづけて読むのではなく、「佐和/恵宇良」と読むのかも。「恵」は「めぐむ/あたえる」、受け身で「めぐまれる/あたえられる」というのもあるかな? 「多い」という意味もあるかもしれない。「知恵」というのは「知」に「めぐまれる」、「知をあたえられる」「知が多い」。そうすると「恵宇良」が「多い」、あるいは「大きい」。つまり「津波」か。
 「太知」と「立つ」なんだろうなあ。
 及川は「騒ぎ群れ立って」と書いているから「佐和恵」は「騒ぐ」かもしれない。「さわさわ/ざわざわ(佐和)」で「いっぱい(恵む/恵まれる)」。そして「佐和恵+宇良」が「騒ぐ/波」になり、それが「立ち上がる」と「津波」ということかもしれない。
 どこからどこまでがどのことばか、どういう意味なのかわからない。
 わからなくてもいいのかもしれない。ことばは、最初からわかるものではなく、聞いているうちにじょじょにわかってくるものだから。
 つづいて、こういう行がある。(漢字、ルビ、口語訳?を別々に引用する。)

於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈良之

オギデイガバ イモバマガナシ
 
(置いて行ったら、愛しい人が悲しむだろう)

 ふーむ。これは「東北弁」の「口語」か。音が濁っているから、そう考えるのだが、では「麻都我宇良尓 佐和恵宇良太知」はやはり東北弁(口語)だったのか。「太知/ダチ」は「東北弁」の「濁音」? でも標準語でも「つまさきだち」と「立つ」の音が濁ることがあるからなあ。

 カタカナでつまずいて、「口語(東北弁)」なのか、書きことば(標準語)なのかもわからない。「音」が書かれているはずなのに、それが「声」として統一されていないと感じる。
 及川は統一しているのかもしれないが。
 先日読んだ、芥川賞の、若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」と同じような、いやあな感じがする。「肉体」がなじんでいかない。
 なぜこんな変な漢字(古事記の原書か、万葉集の表記のような漢字)の使い方をするのか。そこに「東北弁(おそらく)」までまじえるのか。
 東日本大震災が「肉体」の「歴史」を揺さぶった。太古からのいのちを揺さぶった。揺さぶられて、肉体の奥から、古いことばが目覚めてきて動き出した、ということなのかもしれない。
 でも。
 そういう「古いいのち」って、「書きことば」? 「麻都我宇良尓」というのは、「音」があって、それに「漢字」をあてはめて記録したものだ。こういう方法は「古代」の方法であって、それは「声」の問題ではないね。
 音(声)と表記は切り離せないということなのかもしれないけれど、うーん、なじめない。ついていけない。
 
オギデイガバ イモバマガナシ

 という「音(声)」は、いまも東北で「生きている」と思う。「口語」として語られ、聞いて共有されるものだと思う。
 でも、東北のだれが、

於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈良之

 という「漢字表記」を共有するだろうか。もちろん「学問」のあるひとはわかるかもしれない。読んで「音」にすることができるかもしれない。でも、大震災でかなしんでいる多くのふつうのひとは? 「婆」という文字が出てくるからついつい書いてしまうが、嘆き悲しんでいるふつうのおじいさん、おばあさんは、これを読める?
 私は疑問に思う。

 そこからさらに、こう思うのだ。
 及川は何のためにこんな表記をまじえたのか。
 「いのち」、あるいは「ことば」は「いま」突然ここにあるのではなく、長い歴史をもっている。「いま」であっても、そこには「過去」が生きている。「過去」とつながっている。大災害が奪い取れなかったのは、この「つながり」である、と訴えたいのかもしれない。
 でも、これは「頭」で整理したときに生まれる「論理(意味)」に過ぎないなあ。
 で、そういうことは、及川の「肉体」の「力」というよりも、私には「頭」の力に思える。私はこういう古い歴史を知っています、こういう表記もできます、「頭」をみせびらかしているようにも見えてしまう。
 私は無知だから、私を基準にしてしかことばを動かせない。
 こういうことば(表記)といっしょに私の「肉体」を動かせない。
 いやだなあ、と思う。

 及川は、こんな行も書いている。

浜の石を拾い、面影のある石を拾ってみます。
海の中を漂う愛しい人を思うと、冷たい海の中の愛しい人を思うと、
こちらも冷たく身が冷えてくる気がする。
拾った石を手で揉んだり、胸に掻き抱いたり、いくらかでもあたためてみたいと思う。
海からのぼる朝日が、海をあたためてくれればいいと思う。

 ここは自然に読める。「肉体」がいっしょに動く。全編がこういうことばで語られているならいいのに、と思う。




*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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えみしのくにがたり (詩と思想新人賞叢書12)
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(11)

2018-02-23 09:18:49 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(11)(創元社、2018年02月10日発行)

 タイトルのない詩がある。「*」で区切られている。

 永遠に沈黙している限りない青空の下の一発の銃声、沈黙との戦
いはそのように始められる。言葉はもはや言葉でなくてもいい、声
はもはや声でなくてもいい。沈黙を破ろうとするひとつの音、沈黙
と音との間のその緊張、そこから戦いは始まる。

 これが最初の断章。
 このあと、「言葉の非人間的な意味」、「非人間的な意味」としての「西部劇のヒーロー」、「ジャズドラマー」へとことばが引き継がれていく。
 最後の断章の前半。

 ジャズのドラマーたちは、騒音をつくっているのではない。彼等
は沈黙に対抗するための、別の沈黙をつくっているのだ。あのドラ
ムの音の緊張のさなかで、われわれは青空の沈黙を聞かない。

 「沈黙との戦い」としての「音」。その具体例として「銃声」(西部劇を含む)と「ドラム」がある。ドラムが沈黙と対抗するための別の沈黙をつくっているのだというのなら、銃声もまた別の沈黙と対抗するための音である。沈黙を破るための、沈黙とは呼ばれていない沈黙。「非沈黙」という「意味」の「沈黙」が「銃声/銃音」「ドラム」ということか。
 これは「ことば」のなかで生まれる「意味」という「沈黙」である。「聞こえない」(意味にならない)意味である。考えるとき、その考えの中で動いている「何か」である。とりあえず「意味」と名づけたが、それは「非流通の意味」(共有されていない意味)でもある。
 これは詩と呼ぶこともできるが、こういうことは書き始めればきりがない。「論理(意味)」はどこまでも自律的なものであり、暴走し続けるものである。暴走しながら「完結」を装うものである。
 だから、違うことを書く。
 私はこの詩では「青空」ということばに思わず傍線を引いた。

永遠に沈黙している限りない青空の下

果てない砂漠の上の果てない青空

われわれは青空の沈黙を聞かない

 「限りない青空」と「果てない青空」は同じものである。それは「限りない/果てない沈黙」である。最初のふたつには「限りない青空の沈黙の下」「果てない青空の沈黙」と「沈黙」を補い、最後のひとつには「限りない(果てない)青空の沈黙」と「限りない(果てない)」を補うことができる。
 そしてこの「限りない(果てない)」と「青空」「沈黙」は三つのことばで構成されているが「ひとつ」のものである。「宇宙」のことである。地球(人間)を起点にすると「青空」に見えるが、「人間的な意味」を捨て去れば「青空」を捨て去れば「宇宙」に吸い込まれていく。
 谷川は、ときどきというか、あるいは、それが基本なのかもしれないが、人と向き合うよりも「宇宙」と向き合う。
 「宇宙」と「谷川」の「間」を意識する。
 再読したとき、傍線を引いたのは、「間」である。「沈黙と音との間のその緊張」というつらなりのなかにでてくる。「間」は「その」と反復されている。ほかのことばが「強い」ので最初は見落としていた。
 ここから、こう考えた。
 「宇宙」を「沈黙」、「谷川」を「ことば/声」と言い換えると、「間」は「音楽」ということになる。
 それは「宇宙」から聞こえるのか。「宇宙」は「沈黙」しているから、「谷川」から聞こえるのか(生み出されるのか)と問うことは、あまり有効とは思えない。「間」は「あいだ」、それは両側(?)に何かがあって初めて存在するもの。そうであるなら、それは「結びつく」ことによって生まれるもの、切り離せないものになる。
 「沈黙」と「音」はいっしょになって「音楽」になる。この「いっしょになる」は、この詩では「緊張」とも「戦い」とも言いなおされている。まだ「音楽」になりきれていない、「音楽」のうまれる瞬間を描いているからだろう。

 (補足/蛇足)
 この作品は、最後を「人間宣言」のようなもので閉じている。「沈黙」と「音」との「戦い」を「人間の肉のリズム」から出発して、「勝利」という形で閉じようとしている。これは「意味(論理)」としてはわかるが、私には「強引」に感じられる。「無理」をしているように感じられる。
 谷川から私が感じるのは、「調和」ということばを思い起こさせるものが多い。「調和」の静かさ、やさしさというものが多い。「勝利」というような、何かを「制服」することによって生まれるものとは違う何か。
 「戦い」ということばで始まった詩だから「勝利」という結論を書かないと落ち着かないのかもしれないが、それでは「意味」にとらわれてしまう。つまり「音楽」を殺してしまうことになる。音楽は意味を、その内部から解き放つものだから。どこまでも広がっていくのだから。
 だからこそ、「青空(宇宙)」ということばへ引き返したくなる。「青空」が谷川なんだなあ、と思うのである。




*


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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(10)

2018-02-22 09:28:04 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(10)(創元社、2018年02月10日発行)

 「三月のうた」は起承転結を変形させた詩。

わたしは花を捨てて行く
ものみな芽吹く三月に
わたしは道を捨てて行く
子等のかけだす三月に
わたしは愛だけ抱いて行く
よろこびとおそれとおまえ
おまえの笑う三月に

 「捨てて行く」が繰り返され、「転」で「抱いて行く」にかわる。「愛」は「おまえ」ともとれる。まだかけだすことのできない子供(赤ん坊)を抱いて歩く。そうするとおまえが笑う。「笑う」を引き出すのが「愛」。「笑い」を抱いて歩いている、ともとれる。
 またおまえは子等のひとりになってかけだしているのかもしれない。それを見守りながらついていく。何も持っていないが、その何も持っていないことが「愛」。手ぶらで、思いをおまえに集中している。
 こういうことも、あまり書いてはいけない。こんなことにことばを費やしてはいけない。
 最終行の「笑う」がいいなあ、と思えばそれでいいのだろう。
 おまえ(子供)が笑う。それが三月だ。三月がそこにある。





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石井遊佳「百年泥」

2018-02-22 08:51:04 | その他(音楽、小説etc)
石井遊佳「百年泥」(「文藝春秋」2018年03月号)

 石井遊佳「百年泥」は第百五十八回芥川賞受賞作。若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」と同時に読んだのだが、「おらおらで……」があまりにひどくて、感想を書きながらがっかりした。その影響で「百年泥」の感想を書くのがいやになった。ほうっておいたのだが、でも、書いてみるか。
 この小説は書き出しの一行がすべてを語っている。それ以上のことは、書かれていない。(ページは「文藝春秋」)

 チェンナイ生活三か月半にして、百年に一度の洪水に遭った私は果報者といえるかもしれない。                       (344ページ)

 「果報者」ということばが、すべてである。
 「百年に一度の洪水に遭った」なら、そこに住む人にはとって、それは「果報」ではありえない。洪水に生活を奪われることは「不幸」である。なぜ、「果報」といえるのか。「私」が「生活(財産)」を洪水で奪われなかったからではない。もちろん奪われなかったということもあるかもしれないが、それだけで「果報」とは言えない。「私」がそれを「果報」と言えるのは、「洪水」のおかげで「ことば」を発することができるからだ。
 これは「主人公」の「声」というよりも、作者の声である。「あ、これを題材に小説が書ける」という喜び、題材の発見を「果報」と呼んでいるのだ。言い換えると、この小説では「私」と「作者」が区別がつかなくなっている。「私小説」というのではない。それ以下だ。

 私は、チェンナイ生活三か月半にして、百年に一度の洪水に遭った。

 と書いても、「事実」はかわらない。「私」がチェンナイに生活して三か月半になる。大洪水があった。大雨が降った。それは百年に一度の規模のものである。これで十分なはず。
 こういう「事実」に「果報者である」という「感想」をまぎれこませる。
 いや、「果報者」という感想を書いてもいいのかもしれないが、それならもっと「果報」を読者が驚くくらい書き込まないといけない。単に書くことがあっていい。でたらめを書いても許される、というのでは「果報」には感じられない。
 古い男とのやりとりなんか思い出して、それで幸せになれる? 日本語学校の生徒の過去だとかを知って、それで「果報」と言える? 日本語学校の、生徒の「間違った日本語」を聞いて、それを「正しくなおす」のに苦労する、というようなことが「果報」?
 鬱憤を晴らしているだけだ。怨み、つらみを書き綴っても、受け入れてもらえる。これは「果報だ」というのは、完全に個人的な感想である。
 「日本語学校」の体験、チェンナイ(インド)の体験を小説にできるという「果報」に酔っているだけだ。
 文体は、若竹千佐子ほどぐちゃぐちゃではないかもしれないが、非常に気になる「書き方」がある。何回も出てくる。てきとうにページを開いて、斜め読みするのだが、

 後年私がつねに獲得することになった定評について先に述べたが、実のところ、
「おまえさ、ほんと口ないのかよ。なんか言えば? ったく愛想のない女だね」
                            (387ページ)

 「先に述べた」って、なんだ?
 「論文」ならこういう書き方はあるだろうが、小説で「先に述べた」なんていう顔の出し方をされたら、ぞっとする。たとえ「私小説」であっても。だって、これは「感想」になっていないだろう。
 「果報者だ」という感想には、まあ、題材に困っている小説家は共感できるだろうが、「先に述べた」なんていわれても、感情は動かない。「記憶力をテストされているみたいだ。
 先に書いたかどうか、もう一度読者に思い出してもらわないと先に進めない小説なんて、小説ではないだろう。「あっ、これは先に書いたあったことが違う形でもう一度言いなおされたものだな」と読者がかってに判断すればいい。気づかなければ気づかないでいい。作者の書き方が悪い(印象に残らない書き方をしている)か、読者が読み落としているかだけのことである。
 だいたい「後年」と「先に述べた」の「枠構造」が「説明」としてつかわれるのは、小説ではないだろう。先に書いてあったこと(過去)が、時間が進むにつれて(小説が展開するにつれて)、ひとつの「カタルシス」というか「結論」に向かって動いていくのが小説というものであって、「この結果(後年獲得することになった結果)は、先に述べたとおりである」なんて、ばかばかしいにもほどがある。
 奇想天外なストーリー(空を飛ぶ人間が出てくる)、埋もれていた「過去」がよみがえるなど、「魔術的リアリズム」が売り物のようだが、タイトルもガルシア・マルケスの「百年の孤独」を意識してのものなのだろうが、「三十年泥」がせいぜいのところで、口の悪い人なら「三日泥」というだろうなあ。
 だいたい「過去」なんて、何年でも遡れる。「過去」ではなく「未来」へ向けての「百年」でなければ「小説」の意味がない。「いま」を出発点として、未来へつづいていくのが「小説のことば」。「過去」なんて「日記」だ。

 こんな「日記」にすぎないものが、なぜ芥川賞に選ばれたのか。やっぱり若竹千佐子がいきなり満票(過半数だっけ?)をあつめ、「当選」が決まったために、大慌てで選考をやりなおしたんだろうなあ。若竹の小説が受賞作なら、もっといいのがある。これを落とすのはどうか。ということで、いくらかましな石井の作品が選ばれたということだろう。受賞作の紹介も「百年泥」が先である。芥川賞で本を売らないと、本が売れる機会がないというのはわかるけれど、こんな小説を売っていたらますます本が売れなくなりはしないだろうか。






*


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詩はどこにあるか1月号注文
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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com



百年泥 第158回芥川賞受賞
クリエーター情報なし
新潮社
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イ・ジェヨン監督「エターナル」(★★★★)

2018-02-22 00:28:49 | 映画
イ・ジェヨン監督「エターナル」(★★★★)

監督 イ・ジェヨン 出演 イ・ビョンホン、コン・ヒョジン 

 この映画の見どころは二つある。
 ひとつは、いつ「ストーリーの構造」に気がつくか。もうひとつは、イ・ビョンホンの演技。
 「ストーリーの構造」についていえば、私は、犬が車の下から出てきたときに確信した。当然姿をあらわしていいはずの運転手が姿をみせないからである。まあ、これ以上は書かないが。
 あとのひとつ、イ・ビョンホンの演技。これは、ちょっと感激した。「ストーリーの構造」から言って、目を引くアクションも、台詞回しもない。ただ、そこにいて、妻を見ているだけという役なのだが、これが「生きている」。
 動かないことによって、感情が動く。
 目で演技している。映画を心得ている。前半に出てくる眼鏡が小道具として、とても効果的だ。現実では、あんなに目がはっきりわかるほど近づいて人の顔など見ない。その現実には見ることのできない大きさにまで拡大された目が、眼鏡を外すことでさらにぐいと観客に近づき、それが微妙に潤む。悲しみが潤む。
 ふーむ。
 一か所、眠っている妻の首を絞めようとするシーン。寸前にやめるのだけれど、あそこはよくないなあ。あ、これは脚本が悪いのかもしれない。余分なシーンだ。
 なぜ余分か。
 ここだけ、「アクション」だからである。
 アクションしないことで成り立っている映画で、アクションがあると、それが全部をこわしてしまう。このシーンがなかったら、私はこの映画に★5個をつける。
 手のアクションを比較するといい。
 イ・ビョンホンの手のアクションは、直後にもう一度出てくる。息子が眠っている。息子の手をそっと握る。手をそっと握るというのは、アクションだけれど動かないアクションである。働きかけ、相手に影響を与えてしまうアクションではない。相手は何もかわらない。何もかわらないから、かわりにイ・ビョンホンの「肉体」のなかで感情が動く。肉体のアクションのあとに、感情が動いてついてくる。
 妻の首を絞めようとするシーンは逆だね。感情が先に動いて、手を首の方に引っ張っていく。まあ、思いとどまるのだけれど、このシーンだけ、全体の中で「トーン」が違ってしまっている。
 他のシーンでは、イ・ビョンホンは自分の「感情」にとまどっている。悩んでいる。でも、妻の首を絞めようとするシーンでは、感情ではなく「肉体/手」そのものが葛藤する。それが激しすぎる。シーンが長すぎたのかもしれない。また手の動きが首を絞める形に近づきすぎたのかもしれない。両手ではなく、片手だったら違ったかもしれない。0・5秒くらいだったら、「あっ、いまのは何だったんだろう」と観客のこころに残ったかもしれない。
 むずかしいね。
 (中洲大洋スクリーン1、2018年02月21日)


 *

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