詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代『たまもの』

2014-08-31 10:18:27 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『たまもの』(講談社、2014年06月26日発行)

 小池昌代『たまもの』を読みながら、あ、ことばが楽になってきたなあ、と感じた。私は、それほどていねいに小池昌代を読んできているわけではないので印象批評になってしまうが、何かをことばで追い詰めていくという感じから、ことばをその場その場で動かして、それが動くがままにしている、という感じがする。この小説では。
 昔つきあったことのある男を思い出す部分。(62ページ)

 なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ。--「閑吟集」の世捨て人はそう言った。狂わずして、なんの人生か。とはいえ、あいつはくずだった。くずに狂った、わたしもくずだ。女というものは、過去なんか引きずらないものだと言うひとがいて、いや違う。わたしも女だが、厚手の絨毯のようなそれを、ずるずる引きずっている。執念深い。けれど最近、そういうものが、ようやくひとつひとつ、ぷつりぷつりと切れてきた。
 さよなら、くず、さよなら、かこ。

 「閑吟集」を引きながら、「狂う」ことについて思いめぐらしている。
 「女というものは、過去なんか引きずらないものだ」という観念的なことばがある。「観念的」というのは、まあ、頭ではわからないことはないが、私の実感とは違うということである。
 「厚手の絨毯のような」のような「過去」をもった個性的なことばがある。そうか、この小説の女は「過去を厚手の絨毯のようにずるずると引きずっている」と感じているのか。いつか「厚手の絨毯」を引きずったことを「肉体」が覚えていてい、それがことばになって動いているのか。私は厚手の絨毯を引きずったことはないが、「ずるずる」という重い感覚が「肉体」を刺戟してくる。わからないと言ってしまいたいが、この「ずるずる」が強烈である。「実感」として、わかってしまう。私の思い出ではないのに。
 その、観念と個性(実感)のあいだで、うーんとうなっていると、改行して、

 さよなら、くず、さよなら、かこ。

 ぱっと、ことばが飛躍する。「いま」がぱっと過去を振り捨てる。「過去」が「かこ」とひらがなになって「意味」を捨て、音、音楽になった飛び散る。
 「閑吟集」の「狂う」から「過去」へ、「過去」から「厚手の絨毯を引きずる」への動きには、なにか粘着力を感じさせる「接続」があるのだが、「ぷつりぷつりと切れてきた」から、この「さよなら、くず、……」のあいだには、「接続」ではなく「断絶」がある。いや、それはたしかにつづいているのだが、つづき方が「粘着力」とは別の力である。「接続」ということばをつかって「断絶」を言いなおすと、それまで書いてきたことを「踏み切り台」にして飛躍するということになる。「踏み切り台」は、それまでのことばと地続きである。けれど、踏み切り台を踏んでしまうと、体が宙に浮く。飛躍する。そういう感じの「断絶」がある。「かこ」というひらがな、音になったことばがそれを強調する。
 で、この「断絶(飛躍)」が、「さよなら、くず、……」で終わらない。

 神輿はだんだん遠くなる。遠くなる。そしてだんだん透きとおる。どこまでいくのか、見届けようとして、眼をあけると、わたしはひとり。雨だった。雨の音は、遠いところをゆく、神輿の音に似ている。

 ここは、散文というより、詩である。
 ことばが「過去」を振り捨てて、「いま」という時間の中で、「いま」そのものを耕している。楽しんでいる。感覚が解放され(敏感になり)、それまで見えなかった「いま」が、永遠になってあらわれている。
 「永遠」と思わず書いてしまうのは、それが「いま」なのに、「過去/かこ」のようにも見えるからである。時間が「透きとお」って、「いま」「かこ」「みらい」がなくなるのかもしれない。「時間」を区切って見せる「観念(?)」が消えて、感覚が新しく生まれてくる。生まれて、動いていく感じ。

 こういうことばの変化が、この小説には随所にある。
 何かの具体的な、リアリティーのある描写が、ことばにすることで、別のことばを呼び寄せ観念的になる。「小説」から「随想(エッセイ)」かのようになる。そう思っていたら、それがぱっとはじけて「詩」になる。
 ことばが「固定化」していない。一つの運動法則に従っていない。
 これは、乱れというものかも知れないが、私は、この変化をとてもおもしろいと感じた。軽くていいなあ、と感じた。
 そして。
 私はここから飛躍して「感覚の意見」を書いてしまうのだが……。
 あ、これが「いま」の小説のスタイルなのか、とも思った。私は小説は「芥川賞受賞作」くらいしか読まないが、最近の「芥川賞」の小説はへたくそな現代詩のまねごとのように見えて仕方がなかった。それは、そうか、いま小説は小池の書いているような詩を含んだ文体をめざしているのか、とようやくわかったような気持ちになった。
 詩から出発しているだけに、小池の方が、そういう「文体」にははるかに長けている。なるほどなあ。こんなふうにして小池は詩をいかしているのか。
 さて、次の作品では、この文体はどんな具合に変化するかな、--そういう期待をさせる小説である。

たまもの
小池 昌代
講談社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(162)(未刊9)

2014-08-31 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(162)(未刊9)   

 「ポセイドニア人」は、前書きにアテーナイオス『ディプノソピスタイ』を引用している。その散文を詩に書き直したものである。

ポセイドニア人はギリシャ語をなくした。
何百年も外人に混じって暮らしたからだ。
エトルリア人、ローマ人その他その他だ。

 ギリシャから離れて暮らし、その暮らしのなかで外国語を覚える。外国語で暮らすようになる。そのことを「ギリシャ語をなくした」ということばからはじめるのは、カヴァフィスが詩人だからだろう。ギリシャ語を話して、はじめてギリシャ人である。

祖先から受けついだものはただ一つ。
さるギリシャの祭り。その美しい儀式。
竪琴ひびかせ、笛吹かせ、競技を行い、花づなを飾る。
祭りの終わり頃に祖先の習慣を教えあい
ギリシャ式の名を名乗る、
わかるやわからずやの名を--。

 ことばが変わると名前も変わる。名前が変わるようになると、もうその人間はギリシャではなくなる。この改名のことは『ディプノソピスタイ』の引用にはないので、名前にカヴァフィスが強い思い入れをもっていることが窺い知れる。母国語と母国を感じさせる名前。--名前は、常に口に出して呼ばれるものであることを思うと、カヴァフィスにとってはことばとは「声」だったということがよくわかる。口に出してつかうことば。「声」となって届けられることば。音の響き。
 カヴァフィスの詩には口語が多いが(中井久夫は口語を巧みにつかって、ひとの「声」の特徴を引き出しているが)、その「声」への嗜好は、こういうところにも窺い知ることができる。
 さらに、

竪琴ひびかせ、笛吹かせ、

 このことばの動きの「音楽」。
 「竪琴をひびかせ、笛を吹かせ、」が正確な「文章語」なのだろうけれど、中井は「を」を省略することで、祭りの高揚したリズム、音楽をとらえている。カヴァフィスの「口語」好みを、こんなふうに日本語にするのはとても刺戟的だ。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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丁海玉「ハッピーバースデー」、坂多瑩子「こんなもん」

2014-08-30 11:35:39 | 詩(雑誌・同人誌)
丁海玉「ハッピーバースデー」、坂多瑩子「こんなもん」(「space 」117 、2014年08月20日発行)

 詩のどこがおもしろいか、というのはなかなか難しい。要約ができないからだ。
 丁海玉「ハッピーバースデー」。全行を引用する。

らっきさんの
利き手は左手だ
らっきさんは左手に握ったスプーンの行き先が
口だと覚えている
口におかゆを運ぶ
的に命中させるように運ぶ
疲れて一休みするときは
少しのあいだ夢みている

らっきさんの
ひ孫のちいちゃんは
利き手が右手らしい
ちいちゃんは右手に握ったスプーンの行き先が
口だとさいきん覚えた
口におかゆを運ぶ
的に命中させるようにはまだ難しく
スプーンを舐めてはテーブルを叩く

ケーキにろうそくがのりきらない
らっきさんの誕生日に
らっきさんはちいちゃんを抱っこして
かわいい
と言った
ちいちゃんはらっきさんに抱っこされ
その腕の頼りなさに
手足をつっぱり泣いた

 最初の二連はスプーンでおかゆを食べる(食べようとする)らっきさんとちいちゃんを描いている。暮らしのなかでしばしばみかける風景かもしれない。三連目も、みかける風景かもしれない。おばあちゃんが赤ん坊を抱っこし、それをいやがる赤ん坊。
 で、この詩。
 最後の二行がいいなあ。特に、

その腕の頼りなさに

 これは、ちいちゃんがお母さんやお父さんの腕と比較して「頼りない」と感じているのだけれど、どうして「頼りない」ということばがでてきたかというと、ちいちゃんが自分で腕を動かしておかゆを食べるようになったからだ。ちいちゃんは満足に食べることはできない。それにくらべると、らっきさんは時間がかかるとはいえ自分で食べることができる。だから、腕の「たしかさ」という点ではらっきさんの方が上なのだけれど、自分の力を知りはじめたちいちゃんは「頼りない」と感じたのだ。
 ちいちゃんはスプーンをつかわず、ただ食べさせてもらっているときは、らっきさんの抱っこにも、泣かずにそのまま抱かれていたかもしれない。けれど自分で食べるようになって、「力」というものを知った。
 だから、その「力」をつかって、「手足をつっぱり」泣いた。
 不思議な、しかし、しっかりした時間の経過と「肉体」の変化が書かれている。それも自分の「肉体」ではなく、ちいちゃんという自分で語ることのできない子供の「肉体」の変化を「頼りない」というありふれたことばで的確につかみ取っている。
 そうか、「頼りない」とはこういうことか、こういう具合につかうのか--と、私は思わず膝を叩いた。
 感動した。



 坂多瑩子「こんなもん」も、どこがおもしろいかを書くのは難しい。

すると柩がおいてあった
蓋をもちあげてみるとくるんとまるめた肉のかたまりが入っている
粘土みたいな
パンの生地みたいな
醗酵状態がいいのか皮膚はとても丈夫そうでつやつやしている
しかしこんなものが家の中にあるのはまずい
まずいものは埋める
土のやわらかそうなところを選んで
掘る
水がでてきた
これは難点あり
いろいろ難点あり
ぐずぐずしているうちに四日たってしまった
臭いはない
ピンクっぽい皮膚はいまにも踊りだしそうだ
こんなもん
家においといたって困るものではないといえばないが
蓋をしめる 蓋をあける
閉めます 開けます
ちょっとうるさいじゃないの
おかあさん

 母が死んだのか、あるいはだれかが死んだのか、その遺体が入った柩がある。なんとなく柩の蓋をあけて、中を見てしまう。そこに、蓋が開くものがあるなら、それを開けてみてしまうというのは人間の「本能」のようなものかもしれない。
 遺体の感想もおもしろいが、私がうなってしまったのは、

水がでてきた

 土を掘れば水がでてくることはある。あたりまえのことなのだけれど、このあたりまえが、おかしい。なぜ、おかしいかというと、その前に書かれている遺体の様子(描写)があたりまえではないからだ。パンの生地みたいに醗酵してつやつやしているというのは、そのとおりだとしてもなかなかそうは書かない。一種の「わざと」書いたことばである。詩が、ここではつくられている。「わざと」書く、そのときの「わざと」が現代詩なのだから、これは一種の「現代詩の王道」なのだが……。
 そのあと、勢いで「柩を埋める」というのも、「わざと」。
 ところが土を掘ったら「水がでてきた」。ここには「わざと」がない。そして「わざと」がないために、それまで書いてきたことも「わざと」ではなく、「真実(事実)」になってしまう。ほんとうの一行は、他のことばを「事実」に変えてしまうのだ。
 で、「事実」は「空想」よりも暴走する。
 そのあとも実に愉快だ。
 そうして、さんざん笑ったあと、おわりの4行がいいなあ。「蓋をしめる 蓋をあける」は話者(坂多)なのだろけれど、次の

閉めます 開けます

 これは誰の声? そして「うるさいじゃないの」と起こったのは誰?
 「うるさいじゃないの/おかあさん」とあるから「母」がどこかに登場するはずだけれど、それはどこに?
 「母」って誰? 柩の中に入っている人物? そのひとが坂多が蓋を開け閉めするのにあわせて、「閉めます 開けます」と言っている? それに対して坂多が「うるさいじゃないの/おかあさん」と言ったのか。
 あるいは無言で開け閉めするのは申し訳ないと思い、坂多が「開けます 閉めます」といいながら柩の蓋を動かしている。それに対して、坂多の娘、あるいは息子が「うるさいじゃないの/おかあさん」と叱ったのか。そんなことをいつまでもするんじゃないよ、と叱ったのか。
 私は、柩のなかのおかあさんが、坂多のしていることを見抜いて「閉めます 開けます」とことばにしているのだと思った。死人だったら、そういうことは不可能なのだけれど、坂多の意識のなかでは、母はまだつやつやの肌をしている。生きている。生きているときに、母は、坂多が逡巡しながら何度も同じことを繰り返しているのに対して、「開けます 閉めます」のように「実況中継」するようにからかったことがあるのかもしれない。そういうことを思い出し「うるさいじゃないの」と坂多が、母が生きているときのように口答えした--そう読んだ。
 坂多の「肉体」のなかにある時間が噴出してきている、と思った。

 この自分の中にあるたしかな何かが噴出してくるというのは、丁の詩の「ちいちゃん」の手足をつっぱり泣き叫ぶ感じに似ていない?
 自己主張の「自己」というものが、「肉体」となってでてきている感じがする。それが、とてもおもしろい。


ジャム 煮えよ
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港の人

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(161)(未刊8)

2014-08-30 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(161)(未刊8)   

 「劇場にて」は、劇場で見た「きみ」のことを書いている。

舞台に飽きて
目をあげ 桟敷を見た。
桟敷にきみがいた。
ふしぎなきみの美。頽廃の若さに溢れたきみ。
私の心はただちに還っていった、
きみのうわさを聞いたあの日の午後に。

 ことばのリズムが非常にいい。短いことばからはじまり、三行目で「きみ」を見つけると、四行目でことばがあふれてくる。句点で区切られたふたつの文が一行を構成する。それまでの短いリズムを守っていられない。ことばが噴出してくるのだ。
 五行目の「私の心はただちに還っていった、」の「ただちに」も不思議だ。意味は「すぐに」「即座に」ということだが、「すぐに」よりも音が多く、「即座に」よりも音が明るい。還ることを楽しんでいる響きがある。
 五行目と六行目は倒置法だが、これも効果的だ。「きみのうわさを聞いたあの日の午後に、私の心はただちに還っていった」では「ただちに」という感じがしない。「動詞」の動きが見えない。喜びは「動詞」になって先に肉体を動かし、そのあとで「理由」がやってくる。そのリズムを素早くつかみとる中井久夫の訳によって詩がいきいきと動く。
 「あの日の午後」は何でもないことばだが、「ただちに」の「あ」の音と響きあって、これも明るく見える。いつものカヴァフィスのみんなと共有している「あの」ではなく、カヴァフィスだけのこころの「あの」の明るさが楽しい。

見も心もともにふるえつつ
魅せられて眼はきみに釘づけ。
きみのものうい美、ものういきみの若さに、
きみの趣味のよいよそおいにも--。

 「頽廃の若さ」が「ものうい」ということばに言いなおされている。「美」と「若さ」とにわざわざわけて繰り返されている。こうした繰り返しは散文ではうるさいだけだが、この詩では、そのままカヴァフィスの眼の動きになっている。まず「頽廃の若さにあふれたきみ」を見つめ、つぎに「きみのものうい美」を見つめ、さらに「ものういきみの若さ」を見ている。眼は、三度「きみ」を見ているのだ。釘づけ、というのは眼がそこから動かないということだが、眼は動きたかったのだ。けれども、動いても動いても、そこに引きつけられていく。三度も。さらに眼は、記憶のなかへも動いていく。

私は頭の中にきみを描きつづけた。
あの午後に皆がしていたうわさどおりだった。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
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最果タヒ『死んでしまう系のぼくら』

2014-08-29 16:54:56 | 詩集
最果タヒ『死んでしまう系のぼくら』(リトルモア、2014年09月15日発行)

 最果タヒ『死んでしまう系のぼくら』には縦書きの詩と横書きの詩がある。縦書きの詩は活字媒体、横書きの詩はインターネットが初出らしい。(私は全部の一覧表をつくって確かめたわけではない。二、三の作品がそうなので、全体をそう考えた。違っているかもしれない。)
 横書きの詩の方が短くて、おもしろい。横書きの詩はタイトルが一番後ろに書かれているので、先にタイトルを書いてしまうのは最果の思いには反するだろうけれど、まあ、先に書いてしまう。「冷たい牛乳」。

ぼくに生きてほしいと思ってくれるひとが
いなくなった夜に 台所で
冷蔵庫を開けて 牛乳をありったけ飲んだ
ぼくに生きてほしいと思ってくれるひとがいない世界で
今も母親の牛が 子どもにお乳を飲ませている
みんなを愛する博愛なんて信じないけれど
だれかがだれかに贈った愛を おろかに信じてしまうのは
ぼくにも母がいたからだろうか

 なかほどの母親の牛と子どもの牛が登場するところがとてもいい。動物の世界は人間とは無関係である。飼育され、売られるための牛であっても、人間の「意識」とは無関係に生きている。自然を生きている。自然という非情のなかにも「愛」というものが存在する。それは人間とは関係なく、牛のなかだけで完結する。そして、そのことは「愛」というものが一回一回(一対一のなかで)完結することを教えてくれる。
 --という具合に最果は書いているわけではないが、私は最果の詩から、そういうことを感じた。牛のなかだけで完結する「愛」。人間が何のために牛に子どもを産ませたのか、ということとは無関係にただ一対一のなかに「愛」が自然に生まれてきてしまう。
 それを自分自身に引きつけるとき、最果は「だれかがだれかに贈った愛を おろかに信じてしまう」というような抽象的なことば、あるいは間接的なことばを経由するのだけれど、そこが最果の特徴(個性)だと思った。
 抽象的、間接的--と私が書いてしまうのは、「だれかがだれかに」には具体性がないからだ。そこに私はどんな「直接性」をも感じない。
 こんな抽象的、間接的なものを、最果は、自分の「直接性」と結びつけてしまう。
 最果は、もしかすると「直接性」が苦手なのかもしれない。「直接性」のなかでは自分を解放したという感じがもてないのかもしれない。自分とは関係のない「誰か」の生きる姿を見て、そこに自分を投影させるという「抽象性/間接性」をへて、自分の「生きる」実感を整理しているのかもしれない。
 母牛と子牛という存在は最果とは無関係に生きている。その無関係のなかから乳を与える/乳を飲むというつながりに注目し、そこから「愛」を導き出し、それと同じ「愛」が自分と母とのあいだにもあった、母は子どもを愛するものだ、という「意味」意味を引き出す。この「意味」を引き出すときの「経由」のなかに、最果はいるのかと思う。
 「意味」を引き出し、「意味」によって「愛」を実感する--その経由の仕方が、たぶん最果の「個性」だと思う。自分のなかから直接「意味」を引き出すのではなく、「他者」の運動から「意味」を引き出し、「他人の意味」を「自分の意味」として生きる。自分を「間接的/抽象的」に生きる。--そこには一種の「欠落」というものがある。その「欠落」をたぶん最果は「かなしみ」とか「さびしさ」という感覚で呼ぶのだろうなあ。

 私のことばは書き急いでいるかもしれない。別な詩から、言いなおしてみる。縦書きの「夢やうつつ」という作品。その書き出し。

「わたしをすきなひとが、わたしの関係のないところで、わたしのこ
とをすきなまんまで、わたし以外のだれかにしあわせにしてもらえた
らいいのに。わたしのことをすきなまんまで。」

 この1行目の「わたしの関係のないところ」が最果ての「直接性の拒絶」あるいは「間接的/抽象的」を印づけている。間接的でありながら「わたしのことをすきなまんまで」という接続性(連続性)を要求する。そのときの「接続性」は「意味」である。「好き(好く)」という動詞のもっている「意味」だけは、そこに接続させる。
 こうした「意味」は、私には宙ぶらりんに見えるけれど、最果にはそれが宙ぶらりんであるがゆえに、いつでもそれといっしょにいることができる(まだだれのものにもなっていない)魅力的なものなのだろう。
 で、この抽象性/間接性、無関係なものへの精神の延長性(無関係なものに身を寄せようとする精神の動き)、自己を捨てて、他者に近づくことで、他者の実感を自分の「意味」にするするという動きを象徴的に語るのが、

                 深海ではいきものがくちをぱ
くぱくさせて、泣いているね。わたしはきみたちのきもちを知って
いるよ。

 最果は、いつでも「自分の気持ち」ではなく「きみたちのきもち」を知っているということを優先する。「きみたち(他者)」のなかにある「意味」を優先し、言い換えると「他者」のなかにある「感情」を自分のことばで「意味」に直して、引き受け、自分を整理する。
 このとき、深海魚の気持ちがわかるなんて、最果の感受性はなんと純粋で美しいと思うかどうか。そう感じる最果に親近感をおぼえるかどうか。

 私は、ちょっと怖い。
 私には、だいたい深海魚の気持ちがわからない。だから、深海魚の「きもちを知っているよ」と最果が言っても、それがほんとうかどうかわからない。最果のつくりだした「きもち」がそこにあることはわかるけれど、そしてそういう「きもち」をつくりださざるを得ないほど最果が生きることに苦しんでいるだろうなあ、とはわかるけれど、もしかするとその苦悩というのは、深海魚の「きもち」を作りがしてしまうからなんじゃないかな、とも思う。
 自分で「意味」をつくりだしておいて、それを「他者」のなかに投影し、それをもう一度自分に引き寄せることで、それを「感情」と言いなおしていないか。

 だからなのだが、
 横書き「電球の詩」という作品。

きみをだいじにおもうこと
欲望がきちんとぼくにあること
生きていること 血が、洋服につくこと
きみはすべてが汚いと涙する
夜が落ちてきて きみの涙に光をためて
ぼくがそれだけを見つめ ねむること
ずっと泣いていてほしい
失望してやっと、きみは美しくなる

 こういうことばに触れると、あ、これはいいなあ、と感嘆してしまう。
 「生きていること 血が、洋服につくこと」の1行が特にいい。「血」は、もしかすると「きみ」の血かもしれないが、私は「ぼく(最果)」の血だと思って読んだ。いや「ぼく(最果)」の血であると同時に「きみ」の血である。最果の「肉体」は「ぼく」と「きみ」でできていて、それは分離できない。「ぼく」と「きみ」がいつも対話している。
 最果は「ぼく」が「肉体」で「きみ」は「精神(こころ)」である、と言うかもしれない。
 いままで引用した「牛」「だれか」「しんかいのいきもの」も「きみ(精神)」であり、その「精神」と向き合う「ぼく/わたし(最果)」は「肉体」ということになるかもしれないが……。
 そして、その「精神」と「肉体」の対話は「意味」は浄化され「美しい」という「絶対的存在」へと結晶する。

 しかし、と私はどうしてもつけくわえてしまう。
 この最果の「肉体/精神」の二元論では、精神の方が重視されすぎている。「意味」が重要なものをにないすぎている。逆に言うと「肉体」がおろそかにされている。「肉体」は「意味」を引き出すための触媒(?)のような存在になっている。そこに、なんともしれない不安を感じてしまう。

死んでしまう系のぼくらに
最果 タヒ
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(160)(未刊7)

2014-08-29 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(160)(未刊7)   

 「階段の途中で」は、男色の嗜好のある青年と階段ですれ違ったときのことを書いている。

あの名をはばかる階段を降りて来たら、
きみがドアを開けてはいってきた。
私は一秒ほどきみをまじまじと見た、
きみの見なれぬ顔を。きみも私の顔を見たね。
ぱっと身を隠したから、私の姿は二度と見えなかったはずだ。
きみは顔を隠してそばを急いで通って、
あの名を憚る家にすっと入った。

 書き出しの「あの」はカヴァフィスが頻繁につかう「あの」である。「あの」と書けば、それが何かわかる。「あの名をはばかる階段(名を憚る家)」--それがわかる人に向けて書かれている。「あの」がわかるひとは、ここに書かれている「きみ」もわかるかもしれない。カヴァフィスは「見なれぬ顔」と書いているが、ほかのひとは見なれているかもしれない。
 顔をまじまじと見つめ、そのあと姿を隠す。青年も顔を隠す。まじまじと見つめ合ったにもかかわらずに。カヴァフィスの方は隠しながら、すれ違った青年が「あの」家に入っていくのを見つめる。このちぐはぐなふたりの動きがおもしろい。
 カヴァフィスは欲望を果たしてきた。青年はこれから欲望を発散しに行く。ふたりは互いの顔を見たのではなく、欲望の「前後」を見たのだ。

二人の身体は互いに感じ合って求めあっていた。
二人の肌と血はうなずきあっていた。

 二連目の最後の二行が強烈である。特に「二人の肌と血はうなずきあっていた。」が非常に強い。「肌」も「血」もうなずくものではないからだ。うなずくものではないものが「うなずきあった」。これはもちろん、目がうなずきあったの言い換えである。互いの欲望を目で見て、目で肌と血の欲望を感じ取り、その感じ取ったことを目で伝えあった。
 目が省略されている。
 一連目で「まじまじ」と見つめあった目。それから目から「姿を隠し」、目から「顔を隠し」、それでも「きみがあの家に入る」のをみつめた目。
 この詩には「目」ということばが書かれていないが、「目」が主役の詩である。

だがわれわれは互いに隠れたんだ、うろたえて--。

 こころもうろたえたが、「目」もうろたえたのである。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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秋川久紫『光と闇の祝祭』

2014-08-28 12:18:55 | 詩集
秋川久紫『光と闇の祝祭』(江戸詩士紫屋=私家版、2014年08月20日発行)

 秋川久紫『光と闇の祝祭』は「散文集」。美術、文学、音楽、映画、その他の時評が書かれている。
 タイトルを読むと、美術、音楽は私の知らないことばかりが書いてある。文学と映画の部分を先に読み、あとで美術、音楽を読んだ。
 北原千代の『繭の家』についての批評が丁寧だ。こんなふうに粘着質(?)な感じで読むのか、ことばとことばの関係を自分のなかでひとつひとつ再現するように動かして読むのか、と秋川の「読み方」がよくわかる文章だ。
 他の詩篇も、私が読み落としてきたことを丁寧に書いてあって刺戟的だった。
 あ、私は、強引に端折って読んでいたなあ、と反省させられた。批評とは、こんなに「根気」をつめて書くものなのか、とずいぶん反省させられた。
 映画の見方も丁寧である。私は網膜剥離の手術以後、どうも根気がなくなって、映画を丁寧に見るのが苦痛になった。デジタル上映も目がざらつく感じがして落ち着かない。これも、秋川の批評を読みながら反省させられた。



 美術関係の文章がおもしろかった。
 美術とは直接関係のない(?)皆川博子の「みだら英泉」の「気が悪くなる」という表現を巡る文章は、うーん、と考えさせられた。妹の背中に刺青の変わりに淫らな絵を描く兄がいる。兄に淫らな絵を描かせる妹がいる。その妹が言う。

「紙に描くより、気がのるそうだよ。おまけに、描いているうちに、気が悪くなる。わたしもさ」

 この表現に対して、

「気が悪くなる」とは「欲情する」という意味のようだ。(略)自分は「気が悪くなる」という言葉の意味が、現代でいうところの「気分が悪くなる」とか「むかつく」といった言葉と同義かと最初は思ったため、この姉妹の会話を読み進んでいき、ことの真相を理解して非常に驚いた。

 えっ。
 私は、「気が悪くなる」を「欲情する」という意味と知って驚く秋川に驚いてしまったのだ。
 私もその意味を知っていたわけではないが、「気が悪くなる」の前の引用を読むと、どうしてもセックスを想像してしまう。そこで「気が悪くなる」と言われたら、それはどうしたって「ゆく」とか「しぬ」とか、「あえぐ」とか、愉悦につながることばと結びつき、「気分が悪くなる」というような意味とは結びつかない。
 「欲情する(したくなる)」を通り越して、「果てたくなる」というのが「気が悪くなる」だと私は思う。男の感覚でいうと、「交わりたい」の、その先、つまり「射精したい」という感じ。相手よりも自分の快楽を優先する感じ。
 私にのめりこみタイプの人間なのかもしれないが、秋川は、とっても冷静なタイプの人間なんだろうなあ、と思った。

 というようなことは、長い「前置き」で……。

 「対決 巨匠たちの日本美術展 観覧記 其の弐」の宗達「風神雷神図屏風」に関する次の部分。

左隻の雷神の身体から翻る天衣の裏地への流れ、そして右隻の風神の持つ風袋から眉、顎、腰や膝の辺りに見える裳の裏地への流れへと白の彩色がされた部分を順に目で追っていくと、そこに動的な循環があることが分かる。更にその効果を高めるためにそれらの対称となる部分、即ち風神の身体や雷神の裳の腰の部分などに緑青が使用されて両神の対照が強調されていることに気付かされる。

 さらに蕪村「夜色楼台図」に関する次の部分。

家々の屋根の白さを強調することによって表現された不思議な(まるで人間の営みを反転させたかのような)明るさや、濃墨の夜空と淡墨の山々の対比、胡粉で無造作に散らされた雪の朴訥な表情など、どれをとっても伝統的な水墨画の技法と一線を画していることが分かり、一見落ち着いて見える画面の奥底に反骨精神が仄見える期待通りの逸品だと感じた。

 この冷静な視線の動き、その動きをことばで再現する丁寧さ--あ、いいなあ。まるで詩だ。
 「大琳派展観覧記 其の弐」の

全面に斜めに薄い板を貼り、その木目の流れを強風の暗示のように見せ、その上に満月に照らしだされた薄や葛や山帰来などを描いた「兎に秋草図襖」

 このことばの動きも繊細だ。

 で、と、私はいつものように、ここで飛躍する。「感覚の意見」を急にいいたくなる。そうか、秋川はこんなふうに視線を動かしながら絵を見るのか。絵のなかに精神の運動を見るのだな、と思った。
 「対比」「対照」「対称」ということばがでてくるが、対になって動くことで何かを「暗示」する。それが秋川の「絵画」の基本的な見方なのか。「対」の存在は、動きを鮮明にする。「対」を細分化すれば動きも細分化され、美も細分化され、ぼんやりと見ていたときには見えなかったものが動いて見える。
 「対」を見出す鋭い視力を秋川はもっているのだろう。「対」(相手)を尊重する感覚が強いのだろうなあ。
 「対」感覚が、秋川の「思想(肉体)」かなあ、とも思った。
 「気が悪くなる」も、思わず相手を気づかって「気分が悪くなった? どうした?」と心配してしまったのだろうなあ。「じれったいよ」という欲望があふれだしてくる自己本位の声には聞こえなかったんだろうなあ。

 で、この「対」感覚から、詩についての書いた文章を思い出してみると、倉田良成『小倉風体抄』や北原千代『繭の家』に対する評価の仕方もさらに納得がいく。倉田の詩集は「小倉百人一首」と「対」になって、ことばの運動がはじまる。北原の詩集では、秋川はそこから「罪」と「食」(宴)」という「対」を見つけてきて動く。「対」の両極(?)を往復する形で、運動領域を広げていく。運動が「対」をつくるというよりも、「対」が運動をつくる、そしてその運動が「生きる場(領域)」になるという感じだ。

 この「対」好みは、「安田靫彦の宗達論」の次の部分への共感となる。秋川は安田の文章を引用して、それに対して敬意をはらっている。

宗達の展観が、偶然にも(マチス展と)同時に開かれた事は意外な仕合わせであった。この両展観から、又その比較から、吾々の得るところ多大である。そうして宗達を一番に見せたい人はマチス翁であって、その人の感想をききたいとおもうのである。

 マチスと宗達の対比(比較)、その「対」によって浮かび上がってくるもの。
 秋川は、そこから何がはじまるか書いていないのが残念だが、絵画に対して門外漢の私は、この安田の文章を読んだとき「音楽」が聞こえた。音がひびきあって「和音」になる瞬間のようなものを感じた。それから音が動いて「リズム」をつくるのも感じた。色が動きだす感じだ。
 あ、余分なことを書いてしまった。私はピカソ、マチス、セザンヌが大好きなので、ついつい何か書きたくなってしまう。




詩集 戦禍舞踏論
秋川 久紫
土曜美術社出版販売
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(159)(未刊6)

2014-08-28 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(159)(未刊6)   

 「一九〇三年十二月」は「一九〇三年九月」の続編である。カヴァフィスは自分自身の体験をそのまま詩にしていることがわかる。

もしもきみへの愛を語れぬとしても、
よしんばきみの黒髪を、くちびるを、眼をうたえぬとしても、
こころに秘めたきみの面影、
脳裡に消えない声のひびき、
九月の日々は私の夢に現れて、
私のことばの、私の書くものの 形となり肉となっているよ、
何を論じても、どんな考えを語ろうとも。

 「あのひと」は「きみ」にかわっている。何らかの接触があったのだろう。
 しかし、ここでもカヴァフィスは「対象」を描いていない。書くと「きみ」がだれてあるか、カヴァフィスの知人に知られてしまう。それを避けているのかもしれない。カヴァフィスの嗜好が知られる、ということを恐れているのかもしれない。
 しかし、その「面影」と「声のひびき」はカヴァフィスの詩に反映されている、と言う。ことばの「肉」になっていると言う。
 この「声のひびき」という一語がカヴァフィスの詩のポイントかもしれない。「きみ」の言った「ことばの意味(内容)」というよりも「声のひびき」がカヴァフィスのことばに反映する。
 ひとは、ある誰かにひかれるとき、さまざまなひかれ方をする。人格や思想にひかれることもあれば、容貌にひかれることもある。あるいはセックスの官能にひかれるときもある。
 カヴァフィスは「きみ」の容姿にもひきつつけられているが、「声のひびき」にも魅了されている。それは「能裡に消えない」。
 「面影」の方は「こころに秘めた」という表現をつかっている。カヴァフィス自身が「ひめた」のである。能動的に動いている。けれど、「声のひびき」はカヴァフィスが能動的に動いて自分のなかに閉じ込めているのではない。それは耳から入ってきて、脳裡に居すわっている。そして、それはカヴァフィスの肉体のなかを動き回っている。そして、カヴァフィスの口調になっているのかもしれない。

 この詩は、しかし、とても弱い。カヴァフィスの「声」にしては「主観」という感じがあまり強くない。それはたぶん「脳裡」ということばと関係している。「きみ」の「声のひびき」は「脳裡」から消えないけれど、影響は「脳裡」にとどまっている。その「声のひびき」が手足や先まで支配し、「脳」が手足(肉体)に裏切られるところまで行ってしまうのが恋愛の極致だろう。
 「声のひびき」が「脳裡」にとどまっているから、この詩には「意味」はあるけれど、愉悦がない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社
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若尾儀武『流れもせんで、在るだけの川』

2014-08-27 11:30:17 | 詩集
若尾儀武『流れもせんで、在るだけの川』(ふらんす堂、2014年06月25日発行)

 若尾儀武『流れもせんで、在るだけの川』の詩篇は、どれも芝居(ドラマ)のようである。
 芝居の特徴は、そこで演じられるストーリーの「過去」はことばでは説明されないということだ。役者が出てきて、役者の「肉体」が登場人物の「過去」を語る。「肉体」は過去を噴出させ、未来へと時間を突き動かすのだが、噴出してくる過去が強烈だと、時間は前へ(未来へ)進んでいるのに、過去の量が増えてきて、過去が未来をのっとるという感じになる。過去が未来をのっとる瞬間をカタルシスという。(『オイディプス』の悲劇を思い起こしてもらいたい。)
 若尾の詩は、そういう印象を引き起こす。「印象」と書いてしまうのは、若尾が書いているのが「現在」ではなく「過去」だからである。書かれている「過去」を「いま」と思って読んでみる。そうすると、その「いま」の中に、書かれる前の「過去」が噴出してきて、時間が「未来」へ進んでいるにもかかわらず、「過去」にのっとられている、という感じがする。
 ここに書かれていることは「過去」にのみ起きたことなのか。そうではなく「いま」も起きていることならば「過去」ではなく、「いま」を書いてほしかったと私は思うけれど……。まあ、それはそれとして、噴出してくる「過去」、「いま」を突き破って、「いま」の先(未来)を「過去」でのっとる作品を読んでみる。
 「名前」。花街で花を行商する母親の手伝いをしていると「白い花」を買いつづける若い女がやってくる。

なんであのひとは白い花ばっかり買うんやろ
赤い花のほうがきれいやのに
お母ちゃんは
ムエンブツには白い花のほうがええと思うてはるのやろ
あの娘は気だてのやさしい娘やという
ほんまにそう思うてはるのやろか
ぼくは女のひとにたしかめる
そうか そない思うてくれてはったん
おおきに
そして
あとは黙って
白い花は
客の目を楽しませるためではありません
自分の目を楽しませるためでもありません
骨のため
骨のため
白いまんまで海峡を渡れますようにと……
ここの水は骨まで赤くするのです

 「骨を赤くする」とは何か。骨はほんらい白い。赤くなったりはしない。「赤くなる」ではなく「赤くする」と若い女は言っている。血が流れ、血に染まって赤くする。しかし、この「する」はされるのだろう。だから「血が流れ」も「血が流され」ということになる。血が流され、血に染まって、「骨が赤くされる」。
 「骨を赤くされる」と書けないので、若い女は「骨を赤くする」と書いている。そこに切ないほどの怒りがある。
 若い女は、骨が赤くなるのを、骨が赤くされるのを見てきた。過去にそういうことがあった。その過去を思い出しながら、そういう人の冥福を祈りながら、自分がそういう目にあわないようにと祈っている。花をささげることで、過去の「赤い骨」が「白い骨」を思い出せますように、と祈っているかもしれない。
 だが、若い女は「白い骨」のまま海峡を渡れなかった。

洞仙寺の一隅
墓石か石か
白い石が傾ぶいている
夕子さんだったか
夕顔さんだったか
思い出したところで
そのひとの名前ではない

 自分のほんとうの名前ではなく、別の名前をつけられて生きたひと。その墓(?)の前にたつと、そのひとの「過去」の「さらなる過去」が噴出してくる。若い女の「過去」だけではなく、彼女といっしょに生きたひとたちの「過去」も噴出してくる。



 この詩集の感想を書くのは、とても難しい。
 若尾にとって、ここに書かれていることはけっして「過去」ではないのだすうけれど、どうしても「少年時代の思い出」の形で見えてくる。それは「現在」のようになまなましくない。どんなに過酷なことであっても、何か「美しい」ものになっている。美しさは、過去の悲しみの中にあるのではなく、「いま」動いていて、汚れても汚れても、その汚れを振り落として動いていくもののなかにあってこそほんものだと私は思う。
 なんだ、これは、こんなに汚いなんて、美しすぎる--というような矛盾したことばでしか向き合えない美しさに出会いたい、とこの詩集を読みながら思った。
詩集 流れもせんで、在るだけの川
若尾 儀武
ふらんす堂
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(158)(未刊5)

2014-08-27 09:49:38 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(158)(未刊5)   2014年08月27日(水曜日)

 「一九〇三年九月」は男色に踏み出す前の苦悩と歓喜を描いている。

せめて幻で自分をまやかしていたい。
私の人生はほんとうは虚ろだもの。

 「虚ろ」なのは男色の欲望がありながら、その世界に踏み出せないからである。だから、せめて「幻(の恋)」で自分をまやかすのだが、相手は「幻」ではない。さらに欲望も「幻」ではない。

あまたたび、あれほども、あのひとの近くに、
あの官能の眼差しの、あのくちびるの、
あの、夢に現れて愛した身体の、
あまたたび、あれほどのそばにありつつ。

 「あの」が繰り返される。カヴァフィスには「あの」と言えばそれだけでわかる「あの」。読者にはもちろん「あの」が具体的にはわからない。これはカヴァフィスのいつもの調子である。口調である。初期から、カヴァフィスは具体的な描写(個性的な描写)を回避して「あの」「その」で対象を描いている。
 いや、対象を描いているのではない。
 カヴァフィスは、自分自身の「あり方(ありよう)」を描いている。もう何度も何度も思い浮かべた。何度も何度も欲望に突き動かされた。欲望は具体的なことばなど必要としない。欲望に必要なのは肉体を動かすことである。「あれ(あのこと)」がしたい。具体的に描写する必要などない。「あの」で、自分にはすっかりわかってしまう。余分なことばをつかうと、それだけ対象が遠くなる。いちばん短いことば「あの」で「あのひと」を呼び寄せる。
 自分自身の恋。欲情。誰かにわかってもらう必要などない。だから「あの」で充分なのだ。充分すぎる。
 その「あの」と関係しているのだが、この詩には「あ」の音が多い。ギリシャ語ではどうなのかわからないが、中井久夫は「あ」を繰り返す形で訳している。「あ」またたび、「あ」れほど、「あ」のひと、さらには「あ」らわれ、「あ」いした、「あ」りつつ。その繰り返しは、まるでため息のようである。そしてまた、自分のため息に自分で酔っているような感じでもある。
 だから、苦悩なのに、同時に歓喜の声も聞こえる。苦悩こそが歓喜を与えてくれるとわかっていて、カヴァフィスは苦悩を選んでいる。
 これは矛盾だが、矛盾しているからこそ、詩なのである。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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木村るみ子『断章の木』

2014-08-26 10:49:33 | 詩集
木村るみ子『断章の木』(七月堂、2014年08月01日発行)

 木村るみ子『断章の木』には書き出しが魅力的な作品が多い。たとえば「Step the future 」。

人々のざわめきを声に乗せて 夜の和音は半音階を滑る
触れようとして 触れない指
そこに秘密が隠されているとしたら その迷彩に縁取られた楽譜に
何を読み取る?
何も書かれていない楽譜に

 「夜の和音は半音階を滑る」が美しい。なぜ、美しいか。具体性を欠いているからである。抽象的であるために汚れようがない。拒絶だけがある。「触れようとして 触れない指」の「ない」、「何も書かれていない楽譜」の「ない」が、拒絶を象徴している。
 この木村の「ない」は「不在」ではなく、あくまで「拒絶」である、ということが特徴である。
 「秘密が隠されている」ということばがあるが、「拒絶(ない)」を木村は「隠す」ということばであらわしている。「隠す」は「表に出して見せない」ということであり、それは「ある」ことが前提である。「隠す(見せることを拒絶する)」ことによって「秘密」は生まれる。
 「拒絶」によって、何かが隠され、なおかつ、拒絶するという行為(隠すという行為)を見せることで「隠されたもの(秘密)」が存在するということを暗示する。
 でも何を拒絶し、何を隠しているのか。
 「流通言語」で語ることを拒絶し、「流通言語」で語れないものを隠している。隠すことによって、「流通言語」では語れないものがあると暗示する。それが木村にとっての詩なのだ。
 なんだかめんどうくさい、矛盾した行為だが、この矛盾がしっかりと結託し、ことば結晶化したとき、そこに詩が現れる。矛盾を正確にことばの運動のなかで再現することが詩である。

 木村は「もの」よりも、「拒絶」によってはじまることばの運動を書こうとしていると言いなおすことができるかもしれない。矛盾によって動く「こと」をことばで再現しようとしている。そのことばの運動としての詩、それはたしかに魅力的だ。
 それは、

何を読み取る?
何も書かれていない楽譜に

 という矛盾にしかたどりつけないのだけれど。(あ、堂々巡りの罠にはまってしまったかな?)
 言いなおそう。
 書かれていない楽譜なら、何かを読み取るということは不可能である。しかし、読み取るということを「楽譜」にではなく、「楽譜」を見たときの「私」自身のことばのなかに、ことばの運動の中にということなら可能かもしれない。
 自分を読み取るのだから。
 こうやって、木村は「流通言語」では語れない「自分自身」の内部(哲学)を語り、それを詩であると宣言しようとする。
 「拒絶する(隠す)」という運動をする「私」--その「内部」に何があるか。これは「書かれていない楽譜」だけではなく、「矛盾」を発見したときには必ずはじまる運動である。
 木村は「矛盾」を発見するというよりも、「矛盾」を作り出して、そこへ動いていくようでもある。「矛盾」をつくりだして、その内部へ深くは入り込むこと、「矛盾」を動かして新しい何かを生み出すこと--そういう運動をしようとする。

燃える木の焔の縁からアリアが高く舞い上がる
視えているようで視えていないもの
聴こえているようで聴こえていないもの
そんなものに喚起を促すため
この領域の音域には限界はない
                     (「大地の歌--アリア、そのふるえ)

 「視えているようで視えていないもの/聴こえているようで聴こえていないもの」というのは「流通言語」では「矛盾」であり、存在しないものなのだが、それ「矛盾」と言わずに、それに対して「喚起を促す」という動詞で働きかけるとき、その「動詞」自体は木村の行為なので、動詞を通して存在しないものが存在させられてしまう。さらに、「この領域の音域には限界はない」という状況までつくりだされてしまう。そして、それまで拒絶であった「ない」は、突然「限界はない」の「ない」のなかで絶対的な肯定に変わる。「動詞」によって、木村は絶対的肯定をつくりだそうとしている。
 これを「自己肯定」ととらえ直せば、「自己思想の確立」ということになる。

 矛盾というか、「日常の流通言語」ではとらえられない運動、「日常の流通言語」を拒絶することではじまる運動は、どうしても、「繊細」で「構造的」にならざるをえない。ことばが入り組んで、入り組むことで内部をつくりだすような運動になる。
 この例を「或る秋の日に」に見ることができる。

光の粒子がきめの細い陰影を影に与えてあたりを揺らめかせている
その静止した風景はこの世のものとは思えない明るさに満ちていて
明度も彩度も衰える前の束の間の絶頂
この光のなかで呼吸することが永遠を暗示するものなら
わたしは付加された一個の遺体としてこの風景の中に身を置くだろう
                             
 うーん、秋に鳴りだす琴のような「遺体」だが、こういう書き方が、木村は「好き」なのだろう。その「好き」こそ、私は思想(肉体)と思っているのだが。だから、これはこれでいいと思うのだが。
 しかし、あまりにも「人工的」すぎることばの動きだなあ、とも思う。
 でも、これはまた別の問題。次の機会に書くことにしよう。


谷川俊太郎の『こころ』を読む
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(157)(未刊4)

2014-08-26 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(157)(未刊4)   

 「精神の成長のためには」は男色の詩なのかもしれない。「官能の喜悦こそ大いなる教育。」という一行があるが、しかし、この詩は官能的ではない。「官能の喜悦」というのは、いかにもカヴァフィスらしい、修飾語にとぼしい、非個性的な表現だが、それ以外はカヴァフィスらしくはない。

精神を成長させんと欲する者は
すべからく服従・尊敬を卒業すべし。
二、三の法には逆らわずともよし。
他の大部分には違反せよ。
法にも習慣にも。
既成の役立たずの基準を超越せよ。

 「意味」が強すぎて、おもしろみがない。
 「服従・尊敬を卒業すべし」が、法や習慣への服従、尊敬というもの、まるで道徳の教科書のよう。いや、道徳の教科書は「法や習慣」に服従するな、尊敬するなとはいわないだろうが、その「服従、尊敬」の対象に、法や習慣をもってくるところが道徳的である。
 どんなに「逸脱」をすすめてみても、出発点に「法、習慣」というものがある。前提が道徳的なのである。道徳を前提として、それに反することをすれば反道徳(自由)といえるかどうかは、かなり難しい問題だ。
 だいたい、こういうことを言われなくても、法を逸脱し、好き勝手なことをするのが青春というものである。わざわざ書かなければならなかったのはカヴァフィスが男色以外は「既成の基準」のなかで生きていたからかもしれない。しかし、唯一逸脱する男色への嗜好、それは肉欲のためではなく精神の成長のためなのだというのは、どうみても詭弁でしかない。

破壊的行動を恐れるなかれ。
家の半ばを壊すともよし。
悠々と叡知に入る道なれば。

 「家の半ばを壊す」はなんだろうか。「建物」ではないだろう。「家」のなかにおける関係、両親との関係のことだろうか。こういうことばが出てくるのはカヴァフィスが両親との関係を気にしていたからだろう。後ろめたさを感じていたのかもしれない。
 「悠々と叡知に入る道」とカヴァフィスは書くが、ほんとうに「叡知」があるならば、こういうことは書かないだろう。
 まだカヴァフィス自身のことばを見出していない、未熟な感じのする詩である。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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原利代子『永遠の食卓』(砂子屋書房、2014年07月25日発行)

2014-08-25 10:03:41 | 詩集
原利代子『永遠の食卓』(砂子屋書房、2014年07月25日発行)

 原利代子『永遠の食卓』の「放課後」は魅力的な詩だ。一度感想を書いたことがあると思う。もう一度書こうかとも思ったのだが、別の作品について書く。
 「挿む」。

その人の送ってくれる本にはいつも
しおりの代用にいろいろなものが挿んであった
たいていは同人誌の自分の作品の目印だったが
古い新幹線の座席指定券だったり
自分の庭の黄色く色づいた銀杏の一葉だったり
年金のお知らせの葉書を半分に切ったものもあって
こんなの見せていいのって……
けっさくは年代ものの歯医者さんの診察券
手書きの文字が薄れ 四隅がすれて丸くなっているもの
子供の頃に行った
畳敷きの歯医者さんの待合室にワープする

 この詩がおもしろいのは、差し挟まれているものは「他人」のものなのに、そこからだんだん「他人」が消えていくことだ。「年金の葉書」まではたしかに「その人」のものであった。しかし、それに対して「こんなの見せていいのって……」、その「……」には「思った」が省略されているのだろうけれど、「思った」瞬間、そこから「思った」という動詞の「主語」(原)があらわれてくる。動きはじめる。
 「年代ものの歯医者の診察券」は「その人」のものだが、その上に「けっさくは」という原の感想がくっついてしまって、「けっさく」と思った原のこころが、そのあとを引き継いで行く。「子供の頃に行った」の主語は「その人」ではなく、原。「その人」も子供の頃に歯医者に行ったかもしれないけれど(年代ものの診察券が、そう語っている)、ここに描写される「畳敷きの待合室」は原が体験したものだ。
 描写と思いが整理されていない--と指摘することもできるのだが。
 私は、この入り乱れがおもしろいと思った。「他人」が消えていく感覚がおもしろいと思った。
 ただし、「他人」が消えるといっても完全に消えるわけではない。「その人」は、あいかわらずそこにいる。消えたのは「他人」という感覚である。そして、「もの」に
 原の体験が重なることで、原は一種の「体験の共有」をする。そのときから「他人」は「知人(知っている人)」、そして「親しい人」に変わるのである。
 「体験を共有する」というのは、実際に、同時に体験をするわけではないから、真の「共有」とは言えないかもしれない。「共有の捏造」ということになるかもしれない。けれど、それは実際にひとつのことを同時に体験すること(実際の体験の共有)より強い意味を持つかもしれない。積極的な何かを持っているかもしれない。「体験の共有を捏造する」とき、その共有は原が働きかけて生まれるものだからである。
 原は「その人」に自分自身を重ね合わせるようにして、「その人」を感じはじめている。原は、「その人」になっているのである。
 「他人」が「知人(親しい人)」になるとき、原は「その人」になってしまう。

ああ何でも栞にしてしまう人だった
あの方流のおしゃれないたずらだったのかしら

 「その人」になってしまっているから、やっていることが「おしゃれ(な、いたずら)」になる。「わけのわからない栞」ではなく、その栞に「おしゃれ」を感じている。「おしゃれないたずら」が完全にふたりに共有されている。

最後に送ってくれた古い詩誌には
タバコの中包装の銀紙がきっちりたたんで挟んであった
ほのかにタバコの香りがした
たぶんセブンスターの
そういえば
送ってくれる本にはいつもタバコの匂いがしみていた

 ここは、少し変わっている。「タバコの中包装の銀紙」までは「もの」だったが、それが「タバコの香り」を運んでくる。その「香り」を原は吸い込む。呼吸、息をする。「その人」が原の内部に入ってくる感じだ。
 このあと、詩は乱れる。あるいは、核心に入る。どういってもいいけれど、それまでとは違ってくる。この違ってくるところが、なかなかいい。書いているうちにかわってしまう。過去のことを書いているのだが、書きながら「そういえば」とそこからもう一度過去を振り返るようにして、それまでを見つめなおす。
 (詩集で読んでもらいたいので、あえて引用しない。)
 タバコの香りといっしょに原の「肺(肉体)」に入り込んだ「その人」が原の「肉体」の内部にいて、「その人」と対話がはじまる。実際には「対話」を思い出すということなのだけれど、どうも「距離感」がない。「過去」という遠い時間を思い出すというよりも、いま、ここで「対話」している感じになる。「対話」をしながら、そのときの「その人」を思い、さらに「その人」でも「そのとき/そこ」でもない、「その人」の部屋を思う。「その人」の「部屋」を思うと「その人」がさらに原に近づいてくる。さらに親密になる。「行ってみたかったな 一度」と引用しなかった最後の部分に出てくるが、原は、「その人」になって、「その部屋」に何度も何度も行っている感じ。--この変化がほんとうにおもしろい。川の流れが途中に差し挟まれた岩か何かのためにくねって流れる。そのくねる瞬間のつややかな光のような自然が見える。原の「肉体」のなかに「その人」が差し挟まれ、原の「肉体」の内部が発光する、それがことばになってあふれてくる、という感じ。


永遠の食卓―詩集
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(156)(未刊3)

2014-08-25 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(156)(未刊3)   

 「見張りが光を見たなら」について、中井久夫は「この詩はアイスキュロスの『アガメムノン』の冒頭より採っている。」と注釈している。「アガメムノンが王妃とその情人に殺され、長い復讐劇が開幕する。」と。
 その出だし。

夏となく冬となく
アトレウスの屋敷の屋根に
見張りが見張っていた。
今つかんだ、よい知らせ。燃えあがった遠くの火。
うれしい。単調な仕事がさあ終わる。

 この書き出しのリズムは強くて、余分なものがない。カヴァフィスの魅力にあふれている。
 ところが、そのあとがあまりおもしろくない。ことばがゆるむ。リズムにスピードがない。

待ちに待った信号が出た。それはうれしいけれど
さて出てみると 思っていたほどうれしくない。

 この、期待していたものが期待していたとおりにあらわれたために、逆に期待が裏切られたような気分になる感覚というのは、多くのひとが感じることかもしれない。けれど、これをこんなふうに「散文的」に説明されるとおもしろくない。「主観」を聞いた、そのひとの「声」を聞いたという驚きがない。

だが 余分にかせいだのは事実。希望も期待ももういらない。
さあ これからアトレウス家にいろいろ起こるぞ。
見張りが光を見た今はな。誰でも予想のつくことさ。

 「余分にかせいだ」は「よい知らせ」が出るまでの時間が長くて、つまり、見張りをする時間が長くてたくさん稼げた(予想以上に稼げた)ということを告げているのだが、「だが」という接続詞が「声」を説明してしまって、間延びする。「事実」という念押しのことばが、また、もったりとしている。
 さらに「誰でも予想のつくことさ。」という事件の暗示が、どうしようもなく余分である。詩がはじまる前に「散文」の下書きが見える感じだ。「いろいろ起こるぞ」というわくわくした興奮(主観)が埋没してしまう。
 『全詩集』に納められている詩が、演劇の一シーンそのものの緊張感があるのに、「未完詩篇」の方は緊張感がない。「散文」の下書きのようなリズムである。カヴァフィスは、こんな「習作」のようなことばも書いていたのか、と驚かされる。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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三木孝浩監督「ホットロード」(★★★★★―★)

2014-08-24 22:40:24 | 映画
監督 三木孝浩 出演 能年玲奈、登坂広臣



 ファーストシーンから引き込まれる映画だ。バイクのエンジンをふかす音がして、バイクが走りはじめると音が消える。夜明け前の空気の静寂が聞こえるようだ。ここに、この映画のすべてがある。見た瞬間に、最初の30秒で傑作、 100点という確信する。何が起こるかわからないが、何か起こるか、瞬間的にわかる。
 現実にはバイクの音があるのだろうけれど、それは主人公の少女には聞こえない。彼女は別の音、「沈黙」を聞いている。それは自分の中にある「沈黙」である。それが何であるか、最初はわからない。ただ、少女は少女だけに聞こえるの「沈黙」を聞いていることがわかる。
 映画が進むにしたがって、「沈黙」は実は「沈黙」ではなく、言ってはいけないと抑圧しつづける「声」である。少女は思っていることをすべて口にするわけではない。半分を「沈黙」のなかに閉じ込める。映画では、こころのつぶやきとして観客に聞こえるようになっている部分もあるが、そのつぶやきも彼女の言いたいことの全部ではない。誰にも言えない。いや、言いたい相手に言えない。言えずに「沈黙」している。
 この少女を能年玲奈がしっかり演技している。私は「あまちゃん」を見たことがないのだが(網膜剥離の手術以後テレビは見ない)、あ、見ればよかった、天才を見逃していたと、とても悔しく思った。
 何がすごいかというと。
 こういう「沈黙」を聞く少女と言うのは、どうしても「重く」なる。普通は、どうしても重く演じてしまう。切羽詰まった感じで、重苦しさを押しつけてくる。「思い」ことが「演技」と思われているからかもしれないけれど……。ところが、能年玲奈は違う。どこか、軽い。最後の方に登坂広臣が能年玲奈のことを「あいつは中身がきれいなんだ」というが、あ、うまいことを言うなあ、と感心した。能年玲奈の演じる少女は、中身のきれいさのために軽くなっている。中身が汚れていると、こころが動くたびに汚れたものが衝突して、どんどん暗く汚れ、どろどろになって重くなる。うまく演技すれば「苦痛」がつたわってくる演技になる。(これは、まあ、ふつうの演技)。
 中身がきれいだと、こころが動いたとき何とも衝突せずに、それが肉体の外に出てしまう。あっ、こころから何か飛び出してきた。見ていて、そう思う。この感じを能年玲奈は目で演じている。いや、すごい。目が動くたびに、私は「あっ」「あっ」「あっ」「あっ」と声を出してしまう。(観客が少なくてよかった。)「あっ」「あっ」と叫びながら、どきどきしてしまう。別のことばで言うと、それが彼女の「苦痛」であるとか、「悲しみ」であるとか、私には感じている余裕がない。まっすぐに飛び出してきたものに対して名前をつけることを許してくれない。「未知」の、まったく知らない感情を投げつけられる感じなのである。「未知の」というのは、変かもしれないけれど、そこにいる少女を私ははじめてみるわけだから、どの感情も「未知」であって、あたりまえなのだが……。そのあたりまえに、どきんどきんと心臓が震える。
 いやあ、すごい。ほんとうに、すごい。
 映画なのに、映画を忘れてしまう。演技なのに、演技であることを忘れてしまう。

 この映画は、能年玲奈の演技に匹敵するくらい影像がすばらしい。暴走族が暴れ回ったのは、もうずいぶん昔のことだが、その昔の(30年ほど前?)の空気の色が見える。暴走族の少年や、そのまわりの少女(能年玲奈)の見た夜明けの空の色、海の色、道路のアスファルトの色、「学校の色」が、とても不思議だ。あ、この色を見たことがある、と感じる色なのだ。
 時代も場所も違うのだが、私は高校生のとき、暴走族ではないが、暴走族のようなものにあこがれていたクラス仲間の車で深夜に富山から福井まで走って帰ってきたことがある。帰り道、夜が明けてくる空の色の感じを思い出し、あの空の色、道路の色をみんなまだおぼえているだろうか、と妙に切なくなってしまった。

 ただし。
 登坂広臣が瀕死の怪我をしてからが、どうもおもしろくない。登坂広臣の弟が、登坂広臣の容体を説明するシーンが映画を壊している。ひとりの人間の生死にかかわることを、いくら家族とはいえ、小学生くらいの少年が聞いているところで医師がはなすわけがないし、それを聞いてそのまま弟が能年玲奈らに言うというのは不自然すぎる。ストーリーを展開するために、そういう台詞が必要と考えたのかもしれないけれど、そこから先は私は見る気がしなくなってしまった。案の定というか、なんというか……。ハッピーエンドとは言わないけれど、それふうの結末で映画が終わる。
 能年玲奈の「沈黙」に引き込まれてきたのに。
 あ、登坂広臣の、あの感動的な「沈黙」の種明かしは、このおもしろくない部分にあるのだけれど。で、そのことに触れて言うと、このおもしろくない「結末」で、この映画はすべてを「ことば」で説明しはじめる。登坂広臣の台詞は、そのなかでは唯一許せる台詞だが、あとはあまりにも「結末」のための台詞なので、ぜんぜんおもしろくない。
 天才・能年玲奈も演技をやめてしまって、「結末」を説明しはじめている。
 登坂広臣が警官を見て引き返すシーン、瀕死の重傷を負うシーンでぷつんと終わってしまうと傑作なのになあ。そこで終わると、何が起きたかわからない? わからなくたって、いいじゃないか。それまで能年玲奈の演技をとおして、そこにひとりの少女がいる、ということを実感できたのだから、と私は思う。
                       (2014年08月24日、中州大洋3)
 

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