詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩尾忍「間で」

2012-05-31 10:48:43 | 詩(雑誌・同人誌)
岩尾忍「間で」(「現代詩手帖」2012年06月号)

 岩尾忍「間で」は「私」というものの存在を信じていない。しかし信じていなくても「私」は存在してしまう。

私などいくらでもいる
どこにでも
たとえば
私がいまもたれている壁の
こっちと

あっちと
どっちだかよくわからない
ここにまでいるらしい 手で
両目をかくしてやって
ほら
あれが私だ と
むこうから声をかけると

 「壁」がある。この「壁」は「私」よりもたしかなものである。たしかであるから、それに「もたれる」ことができる。そのとき、「壁」をはさんで、「こっち」と「あっち」ができる。「あっち」は「壁の裏側」と考えることができる。でも、そうではなく、つまり「壁の裏側(もたれている壁の背後)」ではなく、目の前のどこかかもしれない。つまり「向こう」。壁の背後を気にしないで、壁にもたれて、前に広がる空間を見ているということかもしれない。
 「壁」はたしかでも、そして「壁にもたれている私」の「こっち」というのは「私」とともにあってたしかにあるように見えるけれど、「あっち」というのはあいまいになる。「あっち」って「どっち?」。「どっちだかよくわからない」。
 そして「あっち」が「どっちだからわからない」ということが、「私」に影響してくる。なぜ「こっち(ここ)」だけがたしかなのだろう。「あっち」を「こっち(ここ)」と想定し、その「あっち」から「こっち」をみつめ、「あれが(壁にもたれている人間が)私だ」ということができる。そのとき、それでは、そういうことを「想定した私」は、実際はどこにいる。
 めんどうくさいね。こういうことを正確に考えようとするのは。そして、それを正確に書こうとするのは。だから、省略。
 違う視点から岩尾の詩を読んでみる。違う視点というと、まあ、変になるかなあ……。

 引用した部分で私がおもしろいと思ったのは、書かれている「こっち」「あっち」「どっち」「むこう」のほかに、とういうか、それよりも、ほんとうはこれから書くこと。今までは、一種の「前書き」「前触れ」。

ここにまでいるらしい 手で

 この一行。
 なぜ、突然「手」? 「手」は何とつながっている? 「ここにまでいるらしい」の「主語」は「私」だね。「手」が「ここにまでいるらしい」の主語ではないよね。でも、あたかも主語であるかのように、つまり「倒置法」のように書かれている。
 いや、この「手」は次の

両目でかくしてやって

 につながっていくのであって、倒置法ではない--という見方かあると思う。たしかに文法的にはそうなのだけれど、詩は文法とは違うからね。文法を逸脱していくとき、つまりそれまでのことばのつかい方では表現できないものを表現するとき(表現したとき)、そこに詩があらわれるものだからね。
 倒置法に見える「ここにまでいるらしい 手で」の一行。ここには何が省略されているのだろうか。「私」がまず省略されている。
 「ここにまでいるらしい私」--これが一般的な倒置法。
 そのあとの1字あき、空白。ここに何が隠されている。「私の」が省略されている。

ここにまでいるらしい私 その私の手で

 こう書くと「私」が重なりうるさい。そして、うるさいだけではなく、何かが違う。ことばのスピード。間延びする。ほんとうはもっと違う形の表現が省略されたものなのだ。では、それは何?
 ちょっといいかげんに、というか、ちょっと強引に書いてしまうと、

ここにまでいるらしい私という肉体 その私の肉体の具体的な部位である手で

 ということになる。「私」は抽象的な概念ではなく「肉体」である。
 これは、「私などいくらでもいる」という書き出しの1行目と矛盾するね。1行目の「私」はどうしたって「抽象的・概念的」である。逆説的な証明になるが、具体的な肉体をもった私とという存在は、「いま/ここ」に固有の存在でしかありえない。「いくらでもいる」とは言えない。
 それなのに「手」という「肉体」が突然出てきて、それまでのことばを突き動かす。ここが非常におもしろい。「私」は「肉体」である。だからこそ、次の行に、

両目をかくしてやって

 という、「両目」という「肉体」が出てくる。「私」はつねに「肉体」なのだ。
 さらにおもしろいのは、「肉体」なのだけれど、その「肉体」を否定する。「目」は肉体のなかでは「見る」という働きをする。その「両目」を隠すと、目は何も見えない。つまり、そのとき「目」は存在しながら、存在しない。そうして、そういう矛盾を、「私」と「私の肉体である手」でやっている。
 「私」と「意識」の「間」に「肉体」が関与する。それは何かを確認するだけではなく、何かを隠蔽するということをとおして、意識を動かす。
 そのときの「私」って何?

影が
私の手の影が 手で
赤ん坊の足首を握って
頭を床にたたきつけました あるいは

赤ん坊の足首を握って
頭を床にたたきつけました と手が
私が
今ここに書きました
その両側の影

 「影」とは何だろう。「意識」かな? あ、これも面倒だから省略するね。
 この2連でも「手」が重要な働きをしている。

私の手の影が 手で
赤ん坊の足首を握って

赤ん坊の足首を握って
頭を床にたたきつけました と手が
私が
今ここに書きました

 このふたつの「手」は同一ではない。同一ではないけれど、同じ「手」ということばになっている。
 ここにある矛盾。
 その矛盾を「私が」と言い換えることで、岩尾はことばを「流通言語」から引き剥がし、詩にする。

 (時間がないので--私は目の状態が悪く、一回に書ける時間が限られているので、途中を大幅に省略して書いてしまうが)

 この岩尾の書いている「私」の「矛盾」--それを「矛盾」ではなくくするものが、「肉体」のほかにもうひとつある。

頭を床にたたきつけました あるいは

 この「あるいは」。「あるいは」というのは「存在(もの)」ではないね。肉体ではないね。では何? 意識、なのか。でも「あるいは」には「意識」というときに私たちが思い浮かべる内容がない。
 ここで、私の現代詩講座では受講生に質問する。

質問 あるいは、の意味はわかりますか?

答え わかります。

質問 では、「あるいは」の意味を別のことばで言い換えてください。
   詩のなかになければ、自分自身のことばで言い換えてください。
   あるいは、をどう言い換えることができますか?

 きっとみんな困惑する。「あるいは、って、あるいはでしょ?」言い換えがないでしょ?
 わかっているのに、言い換えることができない。
 そういうことばはたくさんある。
 そして、その言い換えのできないことばのなかに、実は、書いた人の「思想」がある。「肉体」がある。

 岩尾は「あるいは」ということばで何をしているのか--そういう点からことばを見つめなおすといい。
 岩尾は「あるいは」ということばで、いま書いたことを見つめなおしている。書き直すことで何か違ったものが出てこないか確かめようとしている。
 「あるいは」は、ことばを突き動かす「エネルギー」そのものである。「意味」ではなく、ことばを動かすための力。
 あるいは、とこの詩のなかでは、いま引用した部分にしかないのだが、ほんとうは隠れてほかにも存在している。たとえば1連目と2連目。

私などいくらでもいる
どこにでも
たとえば
私がいまもたれている壁の
こっちと
(あるいは)
あっちと
どっちだかよくわからない
ここにまでいるらしい 手で
両目をかくしてやって
ほら
あれが私だ と
むこうから声をかけると

 「こっち」あるいは「あっち」、えっ、「どっち」。うーん、あるいは「ここ」じゃなくて、あるいは「あれ」、あるいは「むこう」。
 いろいろなことが「あるいは」によって動いていく。「あるいは」が世界のなかに「間」を押し広げる。
 詩のタイトルは「間で」とあるのだが、この「間」というのは「あるいは」ということばがつくりだす間である。
 その間を、岩尾は「意識」だけではなく「手」という身近な肉体と関係づけるようにして動かす。「私」は「意識」であるが、その「私」は「肉体」として存在する。私は「意識」あるいは「肉体」である--というのが、岩尾のことばの基本なのだろうなあ。
 「私」は「意識」と「肉体」である、と二元論で言わないところに、岩尾の思想の根幹がある。



箱―岩尾忍詩集
岩尾 忍
ふらんす堂
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暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」

2012-05-30 10:28:04 | 詩(雑誌・同人誌)
暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」(「現代詩手帖」2012年06月号)

 「現代詩手帖」2012年06月号は「現代詩手帖賞」の詩人を特集している。50回記念、ということである。50年以上になるわけだから、もう死んでしまったひともいる。そういうひとの作品はない。書かなかったひともいる。
 巻頭の暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」は、いわば、いまの現代詩のトップランナーの作品ということになるのか。

不安がもだえそうに淡い炎がゆだっている
道端の青い小さな花を煮る六月十日は、

 「六月十日」か。ジョイスだね。「道端の青い小さな花」は私は思い出すことができないけれど、ジョイスにそういうことばがあるのだろう。
 「不安が」ではじまり、「もだえる」「ゆだる」という動詞のあいだで「淡い」と「炎」の文字が交錯する。あ、ここはおもしろいなあ。私は、ことばとは基本的に音(声)だと思っている。そのことばは音(声)であるという点からいうと、「もだえる」「ゆだる」は「だ」の音の豊かさが響きあっているのだが、「淡い」と「炎」では音が消えて「文字」が主役になる。主役になるのだけれど--そこに音がないために、不思議なことに(?)、「もだえる」「ゆだる」がより強烈になる。
 音(耳、聴覚)と文字(目、視覚)が不思議な関係にある。
 それは2行目にも言える。「青い小さな花」はどうしたって視覚を刺激する。そして次の「煮る」は1行目の「もだえる」「ゆだる」と響きあう。もののあり方、動きとしても「ゆだる」と「煮る」は似通う。
 こういうことばの視覚、聴覚をゆさぶりながら、ことばのあいまいな混沌にもどり、そこからことばを動かそうとしている。
 3連目が私はとても気に入った。

(ひそひそと話をしている)
(柑子の木のあたり、雨に濡れそぼって、ふたりで、小声で)
(おおそのうえ古語で、)
(聞き取れない話をしている。雨の庭の古い濡れた柑子の木のあたりで)
((ちがうよ、あれは鳩だよ))
(人の様な、くぐもってずっと話している。何十羽もいる。)

 「小声で」「古語で」か。うっとりしてしまうなあ。「古語」だから音は聞こえるが「意味」は聞こえない。これが、「柑子」のように、「意味」は目には見えるけれど音が聞こえないことばとぶつかり、そこに「ことばの空間」を拡げる。
 「柑子」を音が聞こえないことば--と私が呼ぶのは、カンシなんて、いま、言わないでしょ? 聞かないでしょ?という意味である。聞かないけれど、目で見ると「蜜柑か」と意味はわかる。文字のなかの「古語」だね。
 これに「雨」がかさなる。「雨」は目に見える。耳にも聞こえる。そして、目にしろ耳にしろ、一種のフィルターの様なものがかかるのが(かけるのが)雨である。「濡れそぼる」の「そぼる」「くぐもる」そのことばのなかの「濁音」が、肉体と対象の間にはいりこむ。邪魔をする。(青天の空気に比べて、というくらいの意味だけれど。)
 で、どんな話?

((ちがうよ、あれは鳩だよ))

 人ではなく、鳩。この転換。そして、二重括弧の不思議さ。聴覚と視覚の二重の感覚の空間みたい。
 ジョイスは、そういうことを試みたのかな?
 そういうところもあるだろうけれど--というか「フィネガンズウィーク」はそういう独創なのかもしれないけれど。

 なるほどなあ。暁方ミセイにとっては、ジョイスのことばの運動は、二重性(あるいは重層性)の運動なのか。
 ジョイスを意識していれば、のことだけれど。

何十羽も鳩がいる。茂みのなかで鳴いている。
遠く潰れた緑のうえに、
誰かの面影が、こんもりと盛られて、動かないでいる。
今は時々きらっと反射して、
もうすぐ隠れて
見えなくなる。

 動き(鳴いている)と不動(動かないでいる)、見える(反射して)と見えない(見えなくなる)のあいだの「隠れて」。
 そのことばの運動と連動しているのだと思うが「もうすぐ」の「ぐ」の濁音がゆたかでいいなあ。「遠く潰れた緑」の「つぶれた」の「ぶ」の濁音もいいなあ。「遠く潰れた緑」は遠いために緑の諧調が識別できないということだろうけれど、「つぶれた」という音の豊かさによって、重さによって、目ではなく耳にも響いている。

 暁方は耳と目のバランスがとてもいい詩人なのだと、私はいまごろになってやっと気がついた。












ウイルスちゃん
暁方 ミセイ
思潮社
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唐組第49回公演「海星」

2012-05-29 10:34:19 | その他(音楽、小説etc)
唐組第49回公演「海星」(2012年05月27日、雑司ヶ谷・鬼子母神)

作・演出 唐十郎、 出演 稲荷卓央、土屋真衣、赤松由美、大美穂、久保井研

 役者は声が勝負である。そのことを実感した。
 私が見た「海星」は、限りなく退屈だった。稲荷卓央、土屋真衣、赤松由美らの声がつまらない。声が出ていない。
 芝居は舞台と観客席との二つから成り立っている。舞台の上には役者の肉体がある。その役者の肉体は、役者から観客にふれてくることは滅多にない。ときどき舞台から降りて観客に触るというような演出もあるだろうが、基本的に舞台の上にある。その舞台の役者の肉体に、観客は自分の目で触れる。役者が接近するのではなく、観客が接近するのである。
 ところが声はまったく逆である。観客はときには「久保井!」と声をかけることはあるがこれはまれ。基本的には役者が台詞をしゃべり、その声が観客の肉体(耳)に触れる。舞台から観客席に声は乱入するのである。そして観客の耳に触りまくるのである。
 芝居が「一声、二顔、三姿」と言われるのは、声だけがそういう「特権」をもっているがゆえのことに由来すると思う。声は「肉体」をはみ出し、空間を占有することができるのである。そして観客をつつみこむことができるのである。
 そしてそのとき、声は肉体そのものである。
 今回の公演では、そういう声が存在しなかった。だから芝居はすべて舞台の上で完結している。(最後に、例のごとくテントの背景が開き、役者は現実の世界へと動いていくのだが……。)それが非常につまらないのである。
 だいたい唐の芝居・戯曲というのは、ことばがあふれている。今回の「海星」は「鐘ヶ淵」という地名から鐘が沈んだ淵、なぜそんなところに鐘があるか。何のためにあるのか。どんな音を鳴らすのか。--そういうことに関する、あれこれの「思い」の反乱をことばにしたものである。
 ことばは、普通は、ことばにならずに肉体のなかにあることが多い。思いは思いとしてあるのだが、なかなかことばにならない。そのことばにならないものを、唐の脚本はつぎつぎにことばにしてしまう。そのとき(脚本を読むとき、という意味だが)、ことばは肉体を突き破ってどこかへ行きたがっている。自分の肉体を突き破って、他人の肉体にまで侵入したがっているということがよくわかる。
 ことばは、ことばとてし発せられるだけではダメなのだ。声になって他人の肉体に侵入し、他人の肉体のなかを駆け抜け、他人の肉体を自分の肉体にしてしまう。そこまで行って、ことばははじめてことばになる。
 他人のことばを引き継ぎ、そこから自分のことばを語りはじめるということが、唐の登場人物たちにはしばしばあるが、それは役者同士のなかで、ことばが声になり、他人の肉体に入りこみ、そこから他人の肉体を生きるということの「実践」なのだが、その緊張した呼吸が今回の芝居では欠けている。
 役者の声は観客に届かないばかりか、そこで演じている役者同士の間でも届いていない。声が出ていない。声が役者のなににとじこもったまま、とじこめられたままなのである。
 最後の方に稲荷卓央のストリップというサービスがあるのだが、声が出ないのだから、もちろん性器も出はしない。声が出ていれば、つまり声が客の肉体に触れていれば、性器が丸出しになっていたって平気である。性器ではひとりとしかセックスできないが、声でなら何人とも同時にセックスできる。だれも性器なんかは気にしない。声が出ていないから、性器を隠すのだ。隠さないと、そこに観客の視線が触れてくるからだ。
 芝居は見せ物である。見せ物というのは客が役者の肉体を存分にみつめることができるという意味ともとれるが、ほんとうは見せるふりをして、役者が客の欲望に触れて、それを目覚めさせ、暴走させる装置である。
 役者はまず声を鍛えてもらいたい。



唐組熱狂集成 (ジョルダンブックス)
唐 十郎
ジョルダン
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ウディ・アレン監督「ミッドナイト・イン・パリ」(★★★)

2012-05-28 09:31:00 | 映画
監督 ウディ・アレン 出演 オーエン・ウィルソン、マリオン・コティヤール、レイチェル・マクアダムス、

 アメリカではウディ・アレンの映画としては最大のヒットというのだけれど、なぜ?
 スノッブ(?)なところが受けた?
 どうにもわからないのが、登場してくる1920年代の芸術家たちに対するウディ・アレンの評価。ウディ・アレンって、ヘミングウェイが好き? ピカソが好き? エリオットが好き? ガートルート・スタインが好き?
 うーん。
 私はガートルード・スタインはいい翻訳と出合わなかったのか、文体がなじめなくて感想をもつほど読んでいないし、覚えてもいないので、よくわからない。ヘミングウェイ、まあ、嫌いではない。ピカソは夢中である。エリオットも好きである。でも、ピカソに夢中のとき、ヘミングウェイ、エリオットのことばを読むかというと、違うなあ。
 私の「肉体」のなかでは、瞬間瞬間にヘミングウェイがいて、ピカソがいて、エリオットがいるという状態はあっても、3人が共存するということはない。
 だから、ここで展開する1920年代に主人公が夢中になるときの、その夢中の感じがどうもしっくりこない。
 ウディ・アレンは1920年代をだしににしている。ほんとうに描きたいのは1920年代のいきいきとしたパリでもなければ、そこに集った芸術家たちでもない。
 マリオン・コティヤール、レイチェル・マクアダムス、それから私の知らない古いレコード店の店員を演じた女優の間で揺れ動く男、その男に対する女の変容を描きたがっただけだね。マッチョな芸術家の間で官能的に、けれどもどこかで寂しさを内に秘めて生きているマリオン・コティヤール(このひと、いったい誰を演じていた? 実在の人物じゃないよね)、清純に見えて浮気を平気でしているレイチェル・マクアダムス、セックスの匂いはしないけれど趣味が合うレコード店の店員。--そのなかで最後にレコード店の店員を選ぶのは、ウディ・アレンにとって一番大事なのは「趣味」があうということなのかな? セックスも大事だけれど、セックスだけでは長続きしない。「趣味」があって、いっしょに「場」を共有することがウディ・アレンにとっては「愛」なんだねえ。
 で、その「場」には、1920年代のパリの、いろんな才能がひしめき合う「場」も含まれているってことなんだろうなあ。いろんな人物が、それなりにそっくりさんを演じていて、なかなか笑えるけれど、結局映画では、オーエン・ウィルソンとレコード店店員の「愛」のための「背景」に過ぎないからね。
 最初の方に、「教養人」をオーエン・ウィルソンが毛嫌いするシーンがあるけれど、さーっとなぞった1920年代の登場人物、そのやりとりに笑ったり、へぇー、そうなんだと思ったりするなんて、それこそスノッブだねえ。ウディ・アレンはこの映画をヒットさせたアメリカの「教養」そのものを笑っているのかもしれないなあ。そうだとしたら、この映画がアメリカでヒットしたというのは、とっても皮肉だね。アメリカ人って、笑われるのが好き? それとも、それに気がつかないノーテンキな人間の集団?
 でも、まあ、えっ、これがパリ? といいたくなるくらい、風景を厳選してしまうウディ・アレンの頑固さには感動したなあ。あの、ルーブルのガラスのピラミッドさえクラシックに見える。石畳も雨も、たしかに美しい。舗道と狭い路地が美しい。時間を潜り抜けて呼吸している感じが、実に美しい。時間そのものを呼吸しているという感じが、非常に美しい。(で、ここでもう一度書いておくと、ヘミングウェイをはじめとする登場人物たちには、風景に比べると、時間を生きている、時間を呼吸しているという感じが、いまひとつ充実していない。紙芝居みたいなのだ。--だから、スノップという。)
 オーエン・ウィルソンがルイス・ブニエルに『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(だろうなあ)の映画のヒントを与えたというのも、たのしい。実はこのシーンが一番好きなのだ。ブニエルが「わけがわからん」という顔をする。これって、結局、ウディ・アレンはブニエルの映画を「あんた、ほんとうにわかってつくっているの?」と疑問に思っているということだよね。そして、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』にアカデミー賞を与えたアメリカ映画界をも皮肉っているというこなんだろうなあ。



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今西富幸「がん首」

2012-05-27 09:36:12 | 詩(雑誌・同人誌)
今西富幸「がん首」(「イリプスⅡnd」9、2012年05月25日発行)

 今西富幸「がん首」を読みながら、ことばの暴力について考えた。というか、暴力ということばがふいに思いつき、そのことについて書いてみようと思った。

肉欲の棒を突き刺され
藤島あい子は死んだ
台風一過の朝に
わたしはふいに
その記事を読んだのだった
中学生のころの制服が写っていた
大阪西成の簡易宿泊所で
愛情のもつれによる暴行とみられる
みられると新聞は書いた
しかし、
みられるとはいったいなんであるのか
致命傷ではなかったその一撃が
書かれなかった事実
台風3号が通過した夜の事実

 「みられると新聞は書いた/しかし、/みられるとはいったいなんであるのか」と今西は怒っている。「みられる」ということばに対して怒っている。「みられる」にはとんでもない暴力が隠されているのだ。
 文法的には「みられる」は推量をあらわす。断定しない。
 なぜ、これが暴力か。
 「推量」は直接的な関係を拒絶しているからである。そこには直接的な関係がないからである。「藤島あい子の死」を、新聞記事を書いた記者は、自分から切り離している。無関係を、そこに導入している。まあ、無関係を持ち込んでいるのではなく、警察の発表したことがらをそのまま書いている--と記者はいうかもしれないが、この「他人まかせ」の「無関係」が暴力なのである。
 無関係というよりも、関係がわからない、といったほうがいいかもしれない。この「わからない」は「隠されている」ということである。「藤島あい子」と誰かの関係も隠されてしまう。「藤島あい子」が死んだという事実ははっきりしているのに、その死と誰か(容疑者)との関係が隠されている。
 「みられる」という推量は、何かと何かを結びつけることである。その結びつきのなかに「関係」がある、関係とは結びつきであるということもできるのだが、推量は直接的な結びつき(関係)を、具体から抽象へとかえてしまう。
 具体的なものが、そこでは「想像」にかわってしまう。
 ここに暴力がある。
 「想像」(想像力)は、何かを結びつける作用をするが、同時に何かを隠す作用もするのだ。

みられるとはいったいなんであるか

 直接的関係を隠し、自己を、安全な場所へ引きこもらせる精神の働き。そこに暴力がある。肉体の不在。そこに暴力がある。
 その暴力は、「藤島あい子」を死に至らせた「肉体の暴力」よりも、きっとタチが悪い。容疑者の暴力は肉体的である。直接的である。だから、誰の目にも「悪い」ものとして認識される。
 けれど「みられる」には肉体がない。だから、それを告発するのはむずかしい。

 「みられる」--この直接性を放棄したことばの運動、想像力は、人間をばらばらにする。その「ばらばらにする」ときの力は、なかなか、はっきりわかるようには説明できない。(私には説明できない。)ただ、たしかに、それは暴力であると、私には納得できた。
 今西のことばの強い響き--その告発の強さが、そこに暴力が隠れているということを語っている。

 同じような表現が、もう一度出てくる。

藤島あい子は死んだ
直接の死因は胸部刺創
争った跡はなく
ゆきずりの殺しの可能性もある
可能性もあると新聞は書いた
しかし、
可能性もあるとはいったいなんであるか

 「可能性もある」も「みられる」と同じだ。自分自身(新聞記者)の「肉体」を事件から切り離し、「頭」で、「事件」が起きたときの運動を再現している。その想像した運動のなかには「藤島あい子」の「肉体」と容疑者の「肉体」があるように見えるが、ほんとうは、ない。
 「頭」が、ただそういう運動を可能性として思い描いているだけである。「肉眼」でそれを見るわけではない。
 そこに暴力がある。

 視点を変えるとわかりやすいかもしれない。
 たとえば道端で誰かが倒れている。腹を抱えている。うめいている。それを見たとき、ひとは、「あ、このひとは腹が痛いのだ。そうして苦しんでいるのだ」ということが直感的にわかる。誰かが芝居をしていて、その苦痛は嘘かもしれないが、嘘・ほんとうに関係なく、その場に立ち合った人間の「肉体」は、それを感じてしまう。
 自分の痛みではないのに、感じてしまう。これは暴力の対極にある感覚である。「共感」である。「共感」がないとき、そこに暴力が生まれる。
 この想像力と、新聞記者の想像力を比較すると、新聞記者の「ことば」が暴力に満ちていることがわかる。そこには「自分の痛み」がない。「共感」がない。そして、その「共感」のなさは、「直接性」の欠如からきている。
 「直接性」というのは、「肉体」がそこに存在しないということである。
 だから、「共感」というのは「肉体」が「場」に直接的にあること、「場」を「共有」することを前提としているといえるかもしれない。

 記者は「警察発表を書いているだけ」というかもしれない。それが「客観性」だというかもしれない。たしかに、それはそうなのだが、そのとき「頭」は激しく暴力的である。直接性を失うことによってはじまる虚無的な暴力がそこにある。「肉体」の共感を排除してはじまる虚無としてのの運動--それが暴力である。

 今西の怒りは、新聞に掲載された写真にもむけられる。そこにある写真、なぜそうやって写真が存在するのか--写真を奪ってくる「暴力」に対しても怒っている。

藤島あい子の
顔は
鮮やかな窃盗のように
かすめとられたものなのだった
がん首は笑っていた
おそらく
それは彼女と同級の寝屋川市立第一中学の
卒業アルバムの写真であった
現世を垣間見る
藤島あい子の目
死者と生者の淵に横たわっているものは
死者の側からも
生者の側からも
等価である

 「死者と生者の淵に横たわっているもの」というのは、なかなかむずかしい。「死」を直接的に体験することはできないからである。だが、「死者」とは「以前は生きていた者(生前ということばがあるね)」なのだから、「死者と生者の淵」とは「生者であったものと生者の淵」であり、「生者と生者の淵」でもある。ひととひとの間にある「淵」--それは「等価」である。「等価」ということを知っている「肉体」が「共感」を生きる。その「等価」を忘れた「頭」が暴力を引き起し、たとえば卒業写真から「藤島あい子」の写真を盗み取ってくるのである。盗み取るという暴力を平気でおこなってしまうのである。「肉体」への直接的な共感がないから、そういう暴力をおこなえるのである。
 この怒りを今西は、次のように言いなおす。

藤島あい子の顔は
おそらく
寝屋川市立第一中学の卒業アルバムから
盗まれて新聞に掲載されるにあたり
同級の友らの顔は等しく抹消されたのである
そこだけが
不在の痛み

 「藤島あい子」の顔を盗み取るとき、その「場」をいっしょに生きている同級生は抹消される。そこにも暴力がある。それは「藤島あい子」に対してふるわれた暴力と「等価」である。
 誰にも「肉体」がある。級友の「肉体」は抹消された。直接的関係を生きているものはすべて排除され、「藤島あい子」の死という抽象だけが存在する。
 「不在」をもちこむ暴力。
 「不在」にさせられたものの「痛み」。
 それは「藤島あい子」の「痛み」にほかならないのだが……。

 肉体が「不在」なところで動くことばは暴力そのものである--書いているうちに時間がなくなったので、こんなふうに結論(?)だけ書いておく。
 (私は目の状態が非常に悪くて、パソコンに向かっているのがつらい。)


火の恍惚をめぐる馬―今西富幸詩集
今西 富幸
矢立出版
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河原修吾「隣の奥さん」

2012-05-26 09:24:22 | 詩(雑誌・同人誌)
河原修吾「隣の奥さん」(「コオサテン」2、発行日不詳)

 河原修吾「隣の奥さん」は軽快である。ことばが意味にならずに、というと誤解を与えるかもしれないが、意味であるより音として輝いている。

奥さんが春を纏っていた
手を伸ばして歩道の草を取っている
お尻の線の円周率くっきりと
微分して直線に
積分して曲線に歩く
ぼくの足の音に
奥さんはふりかえった
きらきら光る汗 両手の草
奥さんの胸と躰が無防備に曝け出された
ぼくの朝の陽がまっすぐに立った
まぶしさを包んだ視線が
奥さんにあたって
空の一角を貫く
夜の露を溜めた草が揺れて落ちる
奥さんの草をぼくは踏んでいた
あっという小さな声が世界から漏れる
空の群青がそよぎ
ぼくは横を駆け抜けた

 明るい春--を通り越して、まばゆい春。光がいっぱいの春だなあ。

お尻の線の円周率くっきりと
微分して直線に
積分して曲線に歩く

 という3行。具体的(?)には何のことかわからないけれど、わかるなあ。奥さんのお尻を見ている。まるい。円周率、なんていうことばがふいにやってくる。あわせて、微分積分、も。数学は、しかし関係がない。関係があるとすれば、微分、積分を習っている「青春」の肉体と関係があるといえるかもしれないけれど。
 まあ、どうでもいい。
 意味はどうでもよくて、円周率はともかく、微分・積分なんて、まるいお尻とは縁遠いもの(いわゆるナントカの出合い)が、そこにある「肉体」を突き破って出てくる。そのスピード感覚がいい。
 詩のことばはスピードがいのちなのだと思う。

きらきら光る汗

 これは、いわゆる「流通原語」だけれど、その前に微分・積分があるので、とても新鮮に見える。「きらきら」が疾走する。

奥さんの胸と躰が無防備に曝け出された
ぼくの朝の陽がまっすぐに立った

 うーん。「手」からはじまり、「お尻」をへて「胸」。そのあとの「躰」--この「躰」って何? 「体」ではなくわざわざむずかしい「躰」という漢字で書きたいものは何? 「無防備」って何?
 どうしたって、「躰」は「裸」である。
 つづいて「まっすぐに立った」ものは「ぼく」の性器である。勃起したんだなあ。「まっすぐに」が元気でいいなあ。性、セックスは夜のものではなく、朝のものだ。朝、一番新しい光をあびて、きらきら輝くセックスをする。
 そんな「ぼく」の夢想を、奥さんが「まぶしい」感じでみつめ返す。
 あ、これは実際の肉体の交合よりも、たのしいねえ。

空の一角を貫く

 この「貫く」の主語は2行前の、奥さんのまぶしい視線なのだけれど(文法的には)、「ぼく」の勃起したペニスにも思えるなあ。奥さんを貫くだけではなく、空まで貫いてしまう「まっすぐに立った」ペニス。

 そんなことは、どこにも書いてない?

 書いてないからこそ、書かれているのである。ほんとうのことは、だれも書かない。大事なことは誰も書かない。わからないように書く。そして、わからないように書くから誰にでもよくわかるのだ。わかるように書いたものは、よくわからない。--深遠な哲学書(思想書)って、わかるように書かれたものでしょ? でも、わからないでしょ? 反対に便所の落書き。猥雑ななぞなぞ。肉体が、わかってしまうでしょ? 肉体で、わかってしまうでしょ?

夜の露を溜めた草が揺れて落ちる

 これだって、いろいろに読めるねえ。「露」は何色? 「落ちる」の主語はほんとうに草?
 でも、そういう「遅延する夢」を突き破って、河原のことばは疾走する。そのスピードが、この詩を清潔にしている。

奥さんの草をぼくは踏んでいた
あっという小さな声が世界から漏れる

 この「世界」は、きのう読んだみえのふみあきの「世界」とはまったく違うね。「ぼく」と完全に一体化している。区別がない。「世界」そのものが「ぼく」であり、「ぼく」が「世界」だ。「ぼく」と「奥さん」の区別も、もちろん、ない。すべてが「ぼく」なのだ。「すべて」が「ぼく」だから、河原のことばは立ち止まっているひまなどない。

空の群青がそよぎ
ぼくは横を駆け抜けた

 「駆け抜けた」の主語は「ぼく」だけれど、それは「ことば」でもある。

 で。(かなり唐突な断言だが。)

 主語が「ことば」であるもの--それが詩である。
 ことばが駆け抜けるとき、そこに詩がある。

 で。(というのは、変な接続詞だが……。)
 私は、河原の詩を読みながら、吉増剛造の「出発」を思い出したりした。

ジーナ・ロロブリジタと結婚する夢は消えた
彼女はインポを嫌うだろう

 書かれていることが「ほんとう」かどうかなんて関係がない。ことばが「ほんとうの意味」を拒絶して、かってな意味になる。読んだ人間の「肉体」を駆け抜け、射精のように、その「肉体」さえ裏切ってどこかへ飛んで行ってしまうとき、その飛んで行くスピードそのもののなかに詩があるのだ。
 これは書く側にとっても同じ。自分の書きたいことを突き破って、ことばがかってに暴走する。自分のものではなくなってしまう。
 そのときが、詩。
 作者のものではなくなったことば--それが、詩。
 だから、読者はどんなふうに「誤読」てしもかまわない。「誤読」さえも拒絶して増殖していくのが詩なのだから。




ふとんととうふ―詩集
河原修吾
土曜美術社出版販売
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みえのふみあき「クヌギ林にて」

2012-05-25 08:59:44 | 詩(雑誌・同人誌)
みえのふみあき「クヌギ林にて」(「乾河」2012年06月01日発行)

 みえのふみあき「クヌギ林にて」(Occurence41 )には、おもしろいなあと思う部分と、ここはいやだなあという部分がある。

春の雨が
クヌギの尖った冬の小枝から
薄い紅緑色の●葉を
甦らせた
ぼくは落ち葉に覆われた
記憶の小道を辿ろうとしたが
ことばは空白になった 
空白の先にも世界はあった
ひとりの少女が
掛け算を間違えて殺された
その遠い半島では
春の雨は降らないのだ
       (谷内注・●は女へん+束+攵、●葉で「わかば」と読むのだと思う)

 おもしろいと思うのは「記憶の小道を辿ろうとしたが/ことばは空白になった/空白の先にも世界はあった」という3行である。
 ここからみえののいろいろなことを「誤読」することができる。「ことば」をみえのがどう考えているかをあれこれ思いめぐらすことができる。私の思ったことが「正しい」かどうかは関係がない。ただ、私は勝手に思いめぐらすだけである。
 「ことばが空白になった」は「比喩」である。「記憶の道を辿ることができなかった」ということになるだろう。このとき「記憶」は「ことば」そのものである。みえのは記憶をことばにすることよって意識(精神、頭脳?)に定着させていることになる。ことばが記憶の現像液であるということもできる。それは、ことばが「世界」であるということかもしれないのだが……。
 微妙に違う。
 「空白の先にも世界はあった」というときの「空白」は「ことばの空白」である。それはことばが動いていかない、その先の方にもということである。
 で、論理的に考えると、この瞬間、「矛盾」が噴出してくる。
 「記憶」は「ことば」によって現像・定着し、そこに「世界」を繰り広げる。「ことば」がその機能を発揮しないとき、「空白」になるのは「記憶」そのものである。真っ白な印画紙としての「世界」がそこにある。
 それなのに、その「空白の印画紙」の向こうに「世界」がある。これは、どういうこと? ことばでは定着させることができない世界があるという意味だろうか。それならそれはそれでいいのだが。
 その、ことばでは定着させることのできない世界を、みえのは、やはりことばで書くしかない。ことばで「現像」してしまう。

ひとりの少女が
掛け算を間違えて殺された

 変だねえ。
 いま、ここに書かれているのは、ことば?
 一般的には「ことば」であるのだが、みえのにとっては「ことば」ではない。少なくとも、それは「記憶の小道」をたどるときのことばではない。そのことばで記憶の小道をたどれない。
 みえのは、ここではとても重大な、みえのの「肉体」にかかわることを書こうとしている。
 それが最初に指摘した3行に凝縮している。
 でも、それが、

ひとりの少女が
掛け算を間違えて殺された

 という2行で、とても変な具合にねじれていく。
 「掛け算を間違え」たという「比喩」がおかしいのだ。「殺された」という「比喩」がおかしいのだ。
 みえの本来の「比喩」とは違った「文法」でことばが動いている。
 それが、そのことばの運動が、私は嫌いである。「掛け算を間違えて殺された」という「比喩」がいやだなあ、と思う。

 違った角度から見てみたい。
 みえのは、とても視覚的な詩人だ。「尖った」小枝、「薄い紅緑色」という目でとらえた世界がみえのの強い視力をあらわしている。「若葉」と書かずに「●葉」と書くのも、視力の強さをあらわしている。「覆われた」も、また視力と関係している。
 「覆われた」は「隠された」であり、それは視力ではたどれないという意味でもある。みえののことばは視力で動いていく。視力でたどれない部分は「空白」なのである。
 でも、ほんとう?
 視力でたどれないものには、空白のほかに闇もある。闇の方が視力を拒絶しているかもしれない。
 そうであるなら、

ひとりの少女が
掛け算を間違えて殺された

 は暗黒の世界そのものの「比喩」かもしれない。「空白」とは対極にある「世界」。「空白の先」の「世界」は、空白の延長ではなく、空白の対極ということかもしれない
 と、考えても、私は、どうしてもこの2行が好きになれない。
 納得できない。

 見たの?--私は、突然、みえのに問いかけたくなるのである。
 「春の雨」「クヌギ」、その「尖った」「小枝」「薄い紅緑色の●葉」「落ち葉」、そして「覆われた」はすべてみえのが見たものだろう。「記憶の小道」だけではなく、「空白」さえ見たといえるかもしれない。「辿る」とは足を動かして移動することではなく、みえのにとっては「視線」を移動させることなのだと思う。
 で、「ひとりの少女が/掛け算を間違えて殺された」は「見た」世界?
 「比喩」だから、それは見えない?
 何か違うねえ。
 「ひとりの少女が/掛け算を間違えて殺された」は「比喩」を逸脱している。それは、奇妙な「物語」である。みえのが実際に見たことのない何か。みえのとは別のところで動いている「物語」。そして、そこにはみえのの肉体は何の関与もしていない。その「物語」をみえのは耳で聞いてもいない。つまり、殺すときの銃の音、あるいは殺されるときの少女の悲鳴をみえのは聞いてはいない。また、その少女の肌や髪や服にふれるということもしていない。「肉体」から遠く離れた場所で、その「物語」は起きている。
 だからこそ、つぎに「その遠い半島」ということばの「遠い」がある。「ことばの肉体」は正直だから、どうしてもそこに「遠い」という表現を呼び寄せてしまう。こういう「ことばの肉体」を持っているのは、みえのが、それまでていねいにことばとつきあってきたことの証拠でもあるのだけれど。
 どうしても、私には「掛け算を間違えて殺された」という「比喩」が納得できないのである。どうして「見たこと」を「比喩」にしなかったのだろうか。あるいは「見える」こと、つまり目と関係する「比喩」を書かなかったのだろうか。



少女キキ―詩集 (1963年)
みえの ふみあき
思潮社
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斎藤健一「粉薬」

2012-05-24 11:02:04 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤健一「粉薬」(「乾河」2012年06月01日発行)

 斎藤健一の詩が好きだ。ことばが放り出される。そして、そこに説明を拒んだ孤独がある。

入江は沈んだ曲線をあらわす。潮の明度。視力はきびし
い思考をつらぬく。黒い髪の毛。白い蝶のような白衣。
つめたい空気である。左右に揺れる連絡船の巨体。ぬれ
ふるえる海面。指の間を風が抜ける。整った外貌の青年。
ぼくは自分の写真を持っていない。バリトンに似る哄笑。
不吉に空が焼けている。くぼむあかるい声だ。耳の奥へ
伝染する静かさ。病者は湾の内側を走る。

 「物語」があるのか、ないのか。たとえば後半。「整った外貌の青年」と湾を見渡せる場所で会う。彼もまた入院中の患者かもしれない。その青年と二言、三言話す。「写真を持っていない?」「ぼくは持っていない」そのあと、ふいに笑いが弾ける。そういう交渉があったのかもしれない。これはかってに読者が「捏造」すればいいのである。
 そうして、捏造した瞬間に、その捏造から離れていく美しいことばに気づく。
 そうして、息を飲む。
 たとえば「耳の奥へ」という「肉体の深み」をつかみとることばに。「へ」の先にある「肉体」に。「へ」の先にあるのは、「こころ」と呼ばれるものかもしれないけれど、そういううるさいことを斎藤は書かない。書かないことで抒情を守る。そこから書かれなかったものの、孤立した美しさがはじまる。
 これは1行目の「沈んだ」にはじまっている。「沈んだ」は目に見える形ではない。目よりももっと肉体に深く関係している「肉眼」にのみ見えるものである。「塩の明度」も同じである。「視力」とは「肉眼」の視力である。
 「ぬれふるえる海面」の「ぬれ」がとてもおもしろいと思う。「濡れていない」海面というのはないだろう。そうすると、この「ぬれ(る)」はいったいどんな「肉体」でつかみとった表現か。わざわざ「ぬれ(る、ている)」といわなければなぜなのか。
 触覚(濡れている、は私は肌で感じる)と視覚(濡れて見える、という表現があるから、目でとらえるということもある)が、出合い、揺れる。
 これがそのまま「指の間を風が抜ける」という触覚(指)を覚醒させる。
 それが、さらに「整った外貌」への、不思議な「触覚」へとつながる。目で「整った」と認めるとき、肉体の奥で指は形をおって動くのである。そこからはじまる「触覚」の世界があるのである。
 病身にとって、自分以外の肉体は、それぞれに健康であり、自分にはない「いのち」を生きていることがはっきりわかるものである。そこに向かってこころが動く。
 その感覚の覚醒が「声(聴覚、耳)」へとさらに輻輳するのは当然のことである。

 もう一篇の「穀食」。

無人の畑がはじまる。女のかがんだ背中。るり色の雲に
降りまいてくる光だ。寒い島のように孤立する。どよめ
く骨のむきだし。ポプラの梢がたわみゆれる。うすぎた
ない陽がもれる。熱烈な信仰に冒されるのだ。桜桃より
も赤い咽。軍服にぴったり付く真昼。

 これは過去の記憶だろうか。「無人の畑がはじまる。女のかがんだ背中。」は矛盾している、破綻しているようにみえる。「無人」なのに、なぜ「女」の背中が畑のなかに見えるのか。女がいるなら「無人」ではない--というのは、強引な言いがかりである。
 誰もいない畑が広がっている。そう思って歩いていたら、実は女がかがんで仕事をしていた。その背中が見えた(背中に気づいた)、ということだろう。
 ひとつの文と次の文の間に「時間」があるのだ。斎藤にとって句点「。」は「時間」そのものをあらわす。「存在」があって、それを「視力」でとらえる。それが「こころ」にまで動いていって、ことばになる。それから、ふたたび肉体が「もの(存在)」にふれるまでの、「間」。それが斎藤にとっての句点「。」である。
 「寒い島のように孤立する。どよめく骨のむきだし。ポプラの梢がたわみゆれる。」の唐突な「骨」の存在。しかも「むきだし」ということばがいっしょにある。それは、ほんとうの「存在(具体物)」なのか、それとも「心象」なのか。
 どちらでもいい。具体物であろうと象徴であろうと、それは「肉体の奥」にまでおりていって、そこから噴出して「ことば」になったものである。--斎藤にとって「時間」とは、ある「もの」が肉体に降りてゆき、噴出してくるまでの往復運動のことかもしれない。
 「時間」が、斎藤のことばを「もの」を「世界」から引き剥がし、孤立させるのかもしれない。その「孤立」は、しかし、孤立に見えるが、よく見ると「肉体の奥(こころ)」とつながっている。「うすぎたない」「熱烈な信仰に冒される」という批判--こういう強靱な批判の力が、斎藤のことばを清潔にしている。
 強靱な精神が世界を「もの」に切断しながら、その切断に接続するかたちで精神が存在する。そいう形の「孤立」。切断以外に接続の方法がないという「孤立」。
 「孤立」としか呼びようのない美しさが、いつも斎藤のことばにはある。

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北川透「わが循環器 六片」

2012-05-23 09:55:04 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「わが循環器 六片」(「耳空」8、2012年05月15日発行)

 北川透「わが循環器 六片」のうちの「捨聖」がおもしろかった。「捨聖」を何と読むか、知らない。そういうことばがあるかどうかも知らない。わからないまま読むと、ふいに、「しゃせい」という音がからだのなかから響いてくる。「射精」という文字が浮かんでくる。「捨聖」は「聖なるものを捨てること」つまり俗に染まり(セックスに染まり)「射精」に至ること、と思ってしまう。そまり

じぶんのシ 死ぬ時 ヲね しばし バ 予告 してね
ウエヌ スの丘 夢で サ割り 雫石 の雫ポッ たりす る瞬
 カンをね ヒトに見せ るワケで ショー

 とぎれとぎれのことばが、セックスのあえぎのようだ。呼吸の乱れ。乱れることのうれしさのようなものがある。「死ぬ時 ヲね しばし バ 予告 してね」は「いく時はかってにいかないで、ちゃんと言ってね」と言っているように思える。
 このには「菅谷規矩男 一九八九年十二月二十八日、肝硬変症にて死す。」というサブタイトルがついているから、「おい、菅谷、死ぬ時は勝手に死ぬな、予告くらいしろよ」という慟哭が含まれているかもしれない。それを、私のように「射精」と結びつけて読むのは、ある意味では不謹慎なことかもしれない。
 けれども、私は「不謹慎」でありたいのだ。
 だいたい友情というようなもの、親密な人間関係というものは不謹慎なものである。親しさを武器にして、他人を排除するようなことがある。自分たちのよろこびを実現するために他人を排除するようなものを含んでいるものである。
 それがセックスに似ている。
 セックスに似ているから、人間を生まれ変わらせることができる。

 「ウエヌ スの丘」--ええっと、これはなんだっけ。聞いたことがあるけれど……、いわゆる「土手」だよね。「ウエヌスの丘」と「土手」とどっちが「俗」なことばかわからないけれど、私は、ええっとなんだっけと思いながら読み進み「サ割り」で、あ、「土手」だと思ったのだった。「サ割り」は「触り」だし、「割り」は「ワレメ」だからね。
 と思っていたら、もうセックスそのものになってしまう。
 「夢で」が妙にロマンチックでいやだなあと思うけれど、これって「ウエヌスの丘」という気障(?)な言い方に通じるねえ。(こういうところに北川の「ことばの肉体」のかなでる通奏低音があるのかもしれないなあ。)
 「雫石」が私にはよくわからない。「雫石」ということばでは私は飛行機事故を思い出してしまうのだけれど--あの日(あの日の朝、大学一年生で帰省した翌朝だったと思う)、私はヒトが大量に空から降ってくる夢を見た。そういう夢を見るのが初めてだったので忘れることができないのだけれど。--その死を、この詩に結びつけるのもなんとなく「不謹慎」ではあると思うのだけれど、人間の意識というのは「良識」とは無関係に動くものだから、私はその「無関係に動く何か」を、そのまま書いておく。
 「雫石」は死のイメージをひきずりながら「雫ポッ」と単独になってしまうと、また「射精」、「精液の雫」へと変わる。私はどこまでもスケベな感じで北川の詩を読みたいのだなあ、と自分のことながらあきれてしまうのだが。

ウエヌ スの丘 夢で サ割り 雫石 の雫ポッ たりす る瞬
 カンをね ヒトに見せ るワケで ショー

 「見せ(る)」「ショー」とつながると、どうしても、「見せるわけでしょう」という推量の文章ではなく、「実演ショー」になる。それ以外に読みようがない。「瞬 カン」ということばの分断と接続の感じ、そして、そのあとに続く次の行(ことば)、

雫 のポッタリ ケケ レ あれ やや矢 を興ギョウする
 スルスル ロウ 読会で死 シミ ミ せるというか

 これが「実演ショー」を後押しする。「ケケケ(笑い)、レレレ(驚き)、あれあれ(ひやかし)、ややや(あきれ)」と、北川の書いていないことばを私はかってに補って「ショー」の観客になる。「興ギョウ」は「興行」である。
 詩人の「興行」といえば「朗読会」になるのだろうけれど、「ロウ」「シミ」とことばがぶつけられれば、スケベな私は「ろうそくショー」を思い浮かべる。
 「シミ」はろうそくの垂れた雫か、はたまたは「射精」のしみか。
 まあ、「詩の朗読会」というのは「ひとりストリップショー」のようなものだから、どっちでもいいね。

 と、こんなことを書いてると、これが詩の感想? という気持ちにならないでもないのだけれど--詩の感想だね。
 思ったことはかえようがない。
 ことばに誘われて、余分なことを感じてしまう。考えてしまう。妄想してしまう。その逸脱の瞬間が、私にとっては詩である。
 でも。(???)
 北川のためにつけくわえておくと、私はセックス(射精)のことだけを思ったのではない。

  キ カセ ットスルと いうか 仕手イルウ イルスに
 羊歯 いに 石に化け ていくマツ 路が ユー チューブ
  ラリンの動 ガでミ られル ルル 八雲た チイ チイ
    チ イ イ ずもタつ 生ゴミは月と木 古詩は水 ダ
打 楽するよ ロ コビににっち モさ っちも ゆか啼く無く
 啼くホット ケーキケー キョキャ K音 チを ハき
   時鳥 アカトキ裂きて 寝覚めかな

 「打 楽する」は「堕落」を呼び込むが、それを破壊するようにして「打楽器」をも呼び込む。弾ける音、リズム。そのなかで、ことばが一瞬一瞬、意味を超えて(意味を破壊しながら)、輝く。「ウイルスちゃん」のような「新しい詩」をも抱き込みながら、ことばがことば自身を「よろこぶ」瞬間にまで解放していく--これが詩なんだねえ。
 「捨聖」→「聖なることを捨てる」→「射精」というスケベ心をくすぐるように動くことばを読んでいる(読まされている?)と、知らないうちに、ことばそのものの自在な音楽にのみこまれてしまっている。その楽しい音に酔っている。酔わされていることに気がつく。
 俗なことを連想させながら、そうではないものにまでひっぱっていってしまう。このことばのスピード。広がり。いいなあ。



海の古文書
北川 透
思潮社
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トーマス・アルフレッドソン監督「裏切りのサーカス」(★★)

2012-05-22 10:14:20 | 映画
監督 トーマス・アルフレッドソン 出演 ゲイリー・オールドマン、コリン・ファース
 私は謎解き映画というものが嫌いである。推理小説も嫌いである。めんどうくさい。わざわざ他人の悩みにつきあう気持ちになれない。特に誰かが二重スパイである--なんて、あ、こんなこと私にはまったく関係がない。
 でも見てしまったのは、トーマス・アルフレッドソンが監督だったからだ。「ぼくのエリ」はおもしろかったからなあ。映像がはりつめていたからなあ。
 では、この映画は?
 ブタペスト(だったっけ?)で、二重スパイを知っている将軍を確保しようとするシーンはよかった。ウエーターが緊張してぽたっと汗をテーブルに落とすシーン。あ、こいつもスパイなんだ、でもこんなに緊張して、失敗するな、とわかるところがいい。
 映像がストーリーになっているからね。
 そのあと、救出役のエージェントを撃つべきか悩む一瞬の「空白」もいいなあ。
 赤ん坊をかかえていた女もスパイだったのだ、ということが射殺された映像でぱっと描かれる。そういう処理もいいなあ。
 楽しみだなあ。
 でも。
 あとはかなりめんどうくさい。時系列が交錯し(まあ、映画はこういうことが好きだから、それはそれでいいけれど……)、人間関係(愛のもつれ? というか寝取られ物語やゲイであること)がブタペストの救出失敗劇のように、さっと映像処理されてしまうので、そこに「感情」が入って来ない。あくまで「事件」、あるいは「事実」になってしまう。--そういうことを狙ってはいるのかもしれないけれど、「感情のもつれ」というか、なまな表情の変化を時間として描かないと、映画にならない。ストーリーの展開に終わってしまう。
 こんなことは描かずに、もっとしっかりゲイリー・オールドマンと他の役者を向き合わせればいいのだ。顔の表情で過去を暴いてゆけばいいのだ。思っていることを抉りだせばいいのだ。人間を動かすのは、感情の占める割合が大きいのだから。映画を見るのは役者の顔を見るのだから。(どんなふうにして感情を私たちは表現できるかを役者から知らず知らずに盗み取るのだから。)
 これを「ことば」で置き換えるとつまらない。最後の方のコリン・ファースの資本主義批判(?)など、あ、くだらないと思ってしまう。
 まあ、この映画は「謎解き」(犯人探し)なんか気にせずに(そんなものは配役を見た瞬間からわかる)、ゲイリー・オールドマンの紳士ぶり、役者の服装のスタイリッシュな感じ、細部の小物のていねいなつくり(たぶん時代をそっくりそのままていねいに再現しているのだと思う--昔のことなので、私はイギリスにあふれていた細部を情報として識別できないのだけれど、映像の落ち着いた表情が、ていねいさを語っている)を楽しめばいいのだと思う。
 スーツなんて私はすっかり着なくなってしまったが、登場人物の着ているスーツはどれもかっこいい。オールドファッションすぎていまの時代と違っているかもしれないけれど、そうか、スーツはこんなふうに着こなすのかと納得させられる。それぞれが実に似合った色のスーツ、コートを着ている。たとえば、ゲイリー・オールドマンとコリン・ファースのコートの色をかえて想像してみるといい。ひとにはそのひとに似合う固有の色があるということがわかる。
 映像全体の色調も非常にいい感じだ。騒がしくない。カリスマウキ監督のように、シンプルを装ったうるささとはまったく違って、どんなに情報が増えてきてもうるさくならない。「空気」そのものに、独特の色がある、とさえ感じる。



ぼくのエリ 200歳の少女 [DVD]
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アミューズソフトエンタテインメント
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豊原清明「まゆこ人形」

2012-05-21 11:34:21 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「まゆこ人形」(「白黒目」35、2012年05月発行)

 豊原清明「まゆこ人形」は自主製作映画のシナリオ。

○ まゆこ人形
  コマ撮り。
  バックからアップにする。

○ まゆこちゃんが机上を歩いている。コマ撮り。

○ 僕の部屋・昼過ぎ
 ペットボトルをあおりながら壁にもたれてコーヒーやアイスレモンティーを飲ん
 でいる。飲み疲れて、ぐったりしている。

○ 僕の顔・どアップ

○ 父の顔・どアップ

○ 淡路島・青葉湖

○ まゆこ人形の顔・どアップ

○ まゆこさんの自己紹介写真が 風に揺れている

○ 緑の葉
僕の顔「十四歳のとき、ここに来て僕はここに住んで農家になりたかった
 いつもコーラを寝転びながらちびちび飲んでノートに書いていたのに」
父の顔「今も昔も変わってへんでワハハハハハ」

 時間の交錯がおもしろい。場の交錯がおもしろい。「まゆこ人形」を動かしてコマ撮りをする。そのとき、そこには「まゆこ人形」の「物語(時間、場)」が生まれる。そして、そのときその時空間といっしょに「僕」の時間・空間もある。「まゆこ人形」の時空間は、「僕」がつくりだしたものであるけれど、「僕」のものでもない何かを持っている。その何かが「まゆこちゃん」「まゆこさん」となって、そこに存在する。
 さらに、その時空間に、「僕」の日常が交錯する。放り出すように描かれている「飲み疲れて、ぐったりしている」姿。その姿の背後にある時間と空間。そこには「まゆこ人形」と過ごした(?)時間・空間はまじりこんでいる。
 ここまでは、普通のシナリオかもしれない。
 そのあとが、なんとも魅力的である。
 特に、

○ 淡路島・青葉湖

 突然、映画のなかの「空間」が「僕の部屋」から、何の説明もなしに淡路島の私の知らない湖に飛んでしまう。移動してしまう。
 そして「まゆこ人形」にもどってくる。
 「淡路島・青葉湖」は、いわゆるフラッシュバックなのだが、そこに私は「肉体」を感じてどきりとするのである。そうか、フラッシュバックとは「肉体」なのか。「肉体」の記憶がふいに噴出してくることなのか、と納得する。

○ 緑の葉

 このト書き(?)もすばらしい。青葉湖のそばにある木、その葉っぱなのだろうけれど、湖の水面の色の対比がぱっと目に浮かぶ。それから「僕の顔」「父の顔」があり、台詞がある。そこで発せられる「声」は「過去」のものである。フラッシュバックの時間の声である。かつて「僕」は青葉湖へ言って、そこで「農家になりたかった」と思った。こころが、そういう声を発した。
 --ということを、フラッシュバックの時間(過去)ではなく、「いま/ここ」で発している。「十四歳のとき」という「回想」が「いま/ここ」を告げる。
 その瞬間「緑の葉」は青葉湖のそばにある木の緑の葉から、「いま/ここ」、つまり「僕の部屋」の窓から見える(?)葉になる。
 時間と場所が「緑の葉」によって一瞬のうちに転換する。

 人間の意識のなかでは、時間と空間は、いつでも一瞬のうちに転換する。そして、その転換を支えているのが「肉体」である。「肉体」は過去と未来をつなぐ「いま」であり、そこにはどんな時間も噴出してくる。どんな場所も噴出してくる。その噴出を、噴出させながら、なお「いま/ここ」の肉体でありつづける。過去も未来も、遠く離れた場所も「いま/ここ」につなぎとめ、肉体でありつづける。
 噴出する(噴出させる)とつなぎとめるというのは、矛盾した運動だが、矛盾しているからこそ、そこに「ほんとう」がある。「頭」では、こういう矛盾はつなぎとめることはできない。
 こういうことはきっと「肉体の特権」なのだと思う。
 豊原は「肉体の特権」を、しっかりと生きている。

○ 僕の顔
  禁煙パイポすっている僕

○ 海
  風に揺れている お父さんの白髪

○ 僕が、コーンパイプを吸っている

 ここで「淡路島・青葉湖」が形を変えて反復される。そして、その反復のなかに、別な時間が再生してくる。
 このリズムと、それを生きる肉体の、とても静かな感じ(関係)が、いいなあ、と思う。
 この静かなリズムのなかに「まゆこ人形」がふたたびあらわれる。
 ここからが、この映画(シナリオ)のハイライトなのだが、ちょっともったいなくて引用できない--引用したいが、引用しない。
 (「白黒目」を読んでください。)

 で。
 ハイライト(クライマックス)のあと、いわゆる「起承転結」の「転」のあとの「結」へ移行する瞬間--そこにも、なんともいえない美しいものがある。

○ ずっと立っている、僕

○ 紙飛行機を飛ばす
声「あっ!」

○ 黒
声「あ、と言った。それはこの世。」

○ 直立して立って、その場に思いついた俳句を吟じる。

○ 父が「 あっ! 」と言う
 父の横顔から撮る。左頬

○ 海

 「声」はたしかに「声」であり、「音」なのだが、豊原が書いている「声」はサイレントの字幕のように、いま見た「映像」を反芻する。そういう力がある。
 「声」によって、ある時間、ある空間が、「肉体」そのものになる。
 声は時間と空間を肉体化する--というのは、かなり性急な論理の飛躍になるかもしれないけれど、そういうことをしてしまう「肉体の力」(肉体の特権)ということを考えてしまう。
 この特権だけが「映像」と渡り合える力かもしれない--というのは、さらに論理の飛躍なのだけれど。
 あ、でも、この問題は、もっとていねいに考え直してみたいことがらだなあ。

 




夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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川上亜紀『三月ウサギの耳をつけてほんとの話を書くわたし』

2012-05-20 11:43:39 | 詩集
川上亜紀『三月ウサギの耳をつけてほんとの話を書くわたし』(思潮社、2012年05月10日発行)

 川上亜紀『三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし』の「ほんと」とはどういうものだろうか。

望遠鏡で土星の輪を発見したのがガリレオだったとしても
月には兎が住んで餅つきをしているというお話がなかったら
わたしの父は双眼鏡を買ってまで月を見ようとはしなかったはずだ

わたしにとって父は最後の常識人であった
最後の常識人がこの世を去った、と嘆いていると
母が憤然として「違う」と言うのだった
「いったいどこがとのように常識人だったのか」
と激しくわたしに問いかけるのである
              (「十五夜の月の下でほんとの話はまだ続いていく」)

 川上にとって「ほんと」は一瞬のことがら、独立して存在するエピソードである。月には兎が住んでいる。餅つきをしている。それを見ようとして双眼鏡を買った父--それが「ほんと」である。それは月に兎が住んでいて餅をついているという「お話」に影響を受けているけれど、その「お話」を突き破っている。そこにあるのは「お話」とは別個の父の「一瞬」である。それは父の「欲望」とだけ結びついている。月で餅をついている兎を見たい、という「欲望」。それが「ほんと」なのである。その「欲望」にしたがって動いた一瞬が「ほんと」なのである。
 そして、そのことが「ほんと」であるということ、「ほんと」を実践できるということを、川上は「常識人」の定義にしている。「常識人」とは「ほんと」のことをするひとである。--まあ、論理的に、正しいね。
 でも、ほんとう?
 さっそく、母親が否定する。「違う」という。
 ここには具体的に書いてはいないけれど、母の言っていることを想像するのはたやすい。一般に言われていることだからね。
 父のしたことは非常識である。月に兎は住んでいないし、餅つきもしていない。そういう常識を無視している。このとき「常識」とは「社会のストーリー(物語・お話)」である。ストーリーを逸脱したものは「ほんと(常識)」ではありえない。まあ、そうだね。誰が見たって、川上の父のしたことが川上の書いているとおりなら「非常識」である。常識ではありえないし、「ほんと」ではありえない。「ほんと」とは、誰にでも共有できることがら--土星には輪がある、というようなことだからね。

 でも、川上は、そういう考え方に対して「違う」と言っているのだ。

 では、「ほんと」とは何か。
 「お話」を突き破って動いていく運動。「ストーリー」を突き破っていく運動。ストーリーとは相いれないもの。
 詩、だね。
 「ほんと」ということばで川上は詩を定義している。
 そうすると、ストーリー(社会常識)とは何か。それは人間を縛る「論理」である。そういうものは、一種の「うそ」である。人間が共同生活をスムーズに進めるための「方便」である、ということになるのかもしれない。
 --そこまでは川上は明確に書いていないのだけれど。私は、そんなふうに想像する。「誤読」する。

 でも、ここまで私が書いてきたことなら、取り立てて目新しい「詩の定義」ではないかもしれない。散文は歩行、詩はダンス、という「定義」のバージョンXのようなものかもしれない。
 川上の「定義」は、少し違っているかもしれない。

朝めがさめると、あなたのことを考え、
考え、るので、頭のなかのツル草がどんどん伸びてしまった
              (「三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし*」)

 「頭のなかのツル草がどんどん伸びてしまった」の「伸びる」。「詩」は一瞬、その場に出現するダンスではない。歩行のように「伸びる(延びる)」のである。最初に取り上げた詩のことばで言えば「続いていく(続く)」なのである。
 しかも、その「続く」は、「考え、るので」という川上独自の思考の結果なのである。「感じる」のではなく「考え、るので」。
 この「考え」と「るので」の間の、川上独自の句点「、」--切断と、連続。そこに川上の「詩」がある。
 最初の作品にもどって補足(?)すれば……。
 川上が父を「常識人」と呼ぶ。それに対して母が「違う」と言う。そのとき「考え」はいったん切断される。その切断を「、」という瞬間をはさんで、しかし、川上はつないでゆく。伸ばしていく。そのとき「考え」はツル草のように「伸びる(延びる)」。
 で、その結果。
 川上の作品は、なんだかだらだらと長くなる。へたくそな(?)散文、学校作文のように起承転結とは無縁の、ただ思いついたことを書きつないだだけのようなものになる。
 でも、これが「ほんと」なのだ。川上の「ほんと」、つまり「ことばの欲望」(ことばの本能)なのだ。「ことばの肉体」は、そう動くしかないのである。
 こういうだらだらしたことばの運動は、ときどき、そのだらだらの果てでないとたどりつけないところにたどりつくことがある。

十月のわたしの誕生日、
わたしはカミキタ病院の裏側の出入り口に向かってカーブした道を急いで歩いていき
病院をでて駅に向かっていく三人の白衣を着た医療スタッフに軽く会釈されたので
あわててこちらも会釈したあとでいったい誰と間違えられたのだろうと首をかしげたが
夜間出入り口で名前も書かず面会のバッジもつけずにエレベーターにのったとき
そのエレベーターは内側に鏡が貼ってあるのでそういえばわたしにも「顔」があったことを思いだした
             (「三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし**」)

 この「顔」の発見は美しい。この詩集のハイライトであると思った。「顔」こそが「ほんと」である。「顔」をもたない人間はいない。
 川上の「顔」は「考え、るので」という「顔」である。
 「ので」は「理由づけ」である。「考え、る」には「理由」がいる。その「理由」のために、川上のことばは長くなるのだが、その長く伸びたツル草の先に、ぱっと「花」が開く。
 「花」はたくさんあったほうが豪華かもしれないが、一輪というのも魅力的である。月で餅つきをする兎を見るために双眼鏡を買ったお父さんのように、いつまでも印象に残る。それだけじゃない(違う)というひとがいるかもしれないが、それだけでも十分である。


三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし
川上 亜紀
思潮社
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金子鉄夫『ちちこわし』

2012-05-19 10:49:49 | 詩集
金子鉄夫『ちちこわし』(思潮社、2012年04月25日発行)

 金子鉄夫『ちちこわし』は冒頭から魅力的な詩行が展開する。

なぜひとはかなぁしくなると
ほほの皮をめくってまで
うみへゆくのさ
(へらへらわらってんじゃねぇ)
                           (「うみなんていくな」)

 「ほほの皮をめくってまで」。わかる? わからないねえ。ほほの皮を私はめくったことがないから、わからない。--のだけれど、わからないといいたいのだけれど、わかるなあ。この感覚。
 まあ、「誤読」なんだけれど。
 「ほほの皮」。人間の皮膚。肌。人間は、皮膚によって輪郭がつくられている。それは輪郭によって自分を守っているということでもあるかもしれない。その皮をめくるとは、自分の輪郭を脱ぐということだね。
 で、そういう抽象的なことは脇においておいて。
 「ほほの皮」を私はめくったことがないけれど、手の皮(指の皮)、足の皮というのは、めくるではなく、はがれるときがある。そうすると、その皮の下には皮になりきれない「肉」がある。濡れている。(ような感じがする。)--これは人間だけではなく、いろいろな生き物も同じだ。鶏の皮を剥ぐ。剥き出しの肉が出てくる。木の皮を剥ぐ。剥き出しの、木の肉体のようなものが出てくる。それは、妙に濡れている。そして、そういうものは手に吸いついてくる。--というのは、違うかなあ。手で触って、手を吸いつけたく(?)なる。
 何かわからないけれど、剥き出しのものはなまめかしい。刺激的である。くっつきたくなるのである。
 この感じ--悲しくなると、誰かの裸とくっつきたくなる、という感じにどこか通じない?
 で、わかるというのは、そういうこと。
 「誤読」を承知で書くのだが、金子の書こうとしていることを無視して、私は私の感覚がどこかへ暴走しはじめているのを感じるのだが、こういう暴走を誘われるとき、「わかる」という感じになる。私の場合は。
 簡単に言うと、金子を、ではなく、自分を、自分の気持ちをみつけたような気持ちになるのである。

 このあとも、とてもおもしろい。

あな
あなまちがうほどあいしたひとに
うらぎられたって
どんつきの沈んだ浜辺で
本日のて、あしを散らすのは惜しい

 「あな」はどうしたって、人間の穴、膣だね。肛門だねえ。肛門を膣と間違えたのか、膣を肛門と間違えたのか。--と書くと(書いていると)、あなは女の穴? おとこの穴? という疑問がふいに浮かんでくるのだが、まあ、どっちでもいい。
 私がおもしろいと思うのは「まちがう」ということば。
 愛するというのは、だいたい「間違い」である。誰でも、間違って愛するのである。間違っているから、愛は憎しみに深まり、憎しみは愛に高まる。というのは、また抽象になっておもしろくないが……。
 ようするに、愛というのは、わけがわからなくなることである。そして、そのわけがわからなくなるというとは、自分の「枠(輪郭)」がなくなるということである。「皮膚」が剥がれ(剥がされ)、剥き出しになった肉が、肉の表面にある粘液のようなものにまみれて、べったり他人の肉とくっついてしまう。
 これは汚い。
 汚いけれど、そういう汚いことを人間はしたい。(私は、したい。)
 汚いことは、どこか気持ちがいいからである。
 汚いことの中には、なにか自分が遠ざけようとしているも--遠ざけることで自分をまもろうとしているものが含まれていて、その汚いものにまみれると、自分の「防衛本能」のようなものがくずれ、自分の内部に隠れているものが噴出してくるような感じがする。これは、うれしい。
 「皮をめくって」から「まちがう」までの間には、そういう野蛮なよろこびがあふれている。「皮をめくる」は暴力である。「まちがう」も暴力である。その暴力の炸裂が、野蛮で、輝かしい。
 どこまでもどこまでも暴力を暴走させ、間違えつづけるのが、きっと人間として、人間の肉体として正しいことなのだと思う。このときの正しいは、エクスタシーという意味である。自分を突き破って、自分でなくなってしまう。そこにだけ、「いのち」の正しさがある。可能性がある。
 「正しい」とは「可能性を切り開く」ということなんだねえ。

 「皮」(皮膚)へのこだわり、皮を突き破って、皮の内部を外に出してしまう--という欲望が、金子にはある。

びよーん、びよーん
いちまい皮を捲くれば
その(企み)をもったマリーたちが
金属バットを振り回して
増殖している
おれのからだ
今晩も吐きそうさ、ニシオギクボ
                       (「吐きそうさ、ニシオギクボ」)

 「捲くれば」は「めくれば」と似たようなものである。すくなくとも「めくる」「捲くる」ときの人間の動きは同じだろう。「吐きそう」は内部にあるものを吐き出すということだろう。この内部を外へ出すという運動と「皮を捲くる(めくる)」がつながっているのが金子の特徴だろう。
 「マリー」とか「ニシオギクボ」という突然の固有名詞。この突然さのなかにひそむ暴力が、「めくる(捲くる)」→「(内部を)吐く」という肉体の暴力・反乱と直結し、そこに輝きに満ちたリズムをつくりだす。
 で。
 私はここで、そうなんだなあ、セックスって結局暴力なんだなあ。人間は暴力が大好きなんだなあ、とふと思うのである。
 金子さん、暴力好きでしょ? セックス好きでしょ?

おれたちにくるえる体位なんていまさらどこにある
掻き毟って、ただ掻き毟りましょう
                             (「アダルト通信」)

いちまい捲ってはノド締められる秋空
今日も、この街道の膚が痒い痒いって
                              (「ヒャクニン」)

あっあっとつまるおまえを尻目に
おれは烏賊を脱ぐ
(脱いだらもうガキじゃない)
                               (「烏賊脱ぎ」)

 掻きむしるものは、たいていが「肌(皮、皮膚)」。掻きむしるとき、「皮」は「痒い」。掻きむしるのは、いわばその「痒い皮」をめくって、まくって、剥がして、捨てることである。それは「皮」を「脱ぐ」ことでもある。
 そうなったら、もう「私」は「それまでの私」ではない。つまり「ガキ」ではない。人間が「ガキ」でなくなるのは、
 セックスのあとだねえ。
 犯す--という暴力をとおして、人間は優しさを知る、というのはマッチョ思想?
 まあ、いいか。
 私は自称「フェミニスト」なんだけれど、きっとどこかでマッチョ思想を隠していたんだろう。 

 ちょっとどうでもいい補足。
 私は実は、この詩集の前半部分は好きだけれど、「ちちこわし」以後はそれほど好きではない。「上手」に「現代詩」になりすぎているように思う。

電柱のしたには
肉のうすいうすい昨日の隠喩が
くさってくさっていてさ
                     (「肝、もえ(くずれる)まちにて」)

 この「隠喩」さえも「比喩」にしてしまうことばの運動。「頭」がよすぎていやだなあ。「頭」でセックスすると、あなを間違えても、頭が勝手に修正しちゃうよ。間違えるよろこび、とんでもないところに射精してしまって、そこから自分の肉体が増殖し世界を壊していくという楽しみと恐怖が消えちゃうよ。
 もっと乱暴に暴走してほしいなあ。
 「おまえら、ここまで暴走できないだろう。追っかけられないだろう。ざまあみろ」という詩を書いてほしいなあ。悔しがらせてほしいなあ。

ちちこわし
金子 鉄夫
思潮社
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高柳誠『大地の貌、火の声/星辰の歌、血の闇』(2)

2012-05-18 11:43:35 | 詩集
高柳誠『大地の貌、火の声/星辰の歌、血の闇』(2)(書肆山田、2012年04月30日発行)

 私は最近アテネへ行ってきた。目的はソクラテスとプラトンの「亡霊」に会うためである。ソクラテスとプラトンは、ことばについて考えるとき、私にとってとても重要な哲学者である。ふたりの「ことば」というよりも、ことばと肉体の関係を考えるとき、とても重要なのである。(というより、もともと私は哲学書を読まないので、「意味」「思想」については、あまり知らない。)
 二人の関係でおもしろいのは、ソクラテスは語ったが書かなかった(と思う)。プラトンは書いたが、それはじぶんのことばというよりソクラテスのことばであった。プラトンの「主役」はソクラテスである。
 語ることと書くこと。声(音)と文字。その断絶と接続の境目を二人はつくっている。いや、これは二人がつくっているというよりも、プラトンがつくりだしたものであるといえるかもしれない。プラトンが「書く」ということをしなければ、語ることと書くことの境界はできなかったかもしれない。少なくともソクラテスのことばに関しては、プラトンが書かないかぎり、文字としては残らなかった。
 そして、私は、ほとんど根拠もなしに書いてしまうのだが、ソクラテスにとっては「ことばは肉体」であった、と思うのである。ことばが肉体であったからこそ、ソクラテスは「弁明」とともに死ななければならなかった。ことばが肉体とは別個なものなら、ことばをことばのまま放棄し、肉体は生き残るという方法がありえた。けれどソクラテスにはそういうことはできなかった。ことば、自分のことばを否定することは、肉体のいのちを否定すること--死と同じであり、ソクラテスは忠実にそれを実践したのである。ソクラテスは「ことば=肉体」という一元論を生きたひとなのである。そして、その実践の方法は「語る」ということであった。
 プラトンは、その「ことば=肉体」の関係に「文字(書くこと)」を差し挟み、肉体とは別個にことばの運動をことばの運動として存在させた。そこから「ことばの肉体」というものが新しく生まれてくる。そして、そこから「ことばの自由」というものも生まれてくる。「ことばの本能」というものも生まれてくる。プラトンは、ことばを肉体から解放し、ことばの肉体を発見した(--というのは、まあ、省略が多くて、この文章を読んでいるひとにはなんのことかわからないかもしれないけれど……。)
 まあ、そんなようなことを考えるために、その考えをまとめるヒントを掴みたいと考えて私はアテネの街を歩いてみたのだが……、そこで考えたあれこれは、高柳の詩と関係があるようで、ないようで、関係づけて書こうとすれば、とても複雑になるので--と、余分なことばかり書いているのだが……。

 高柳の詩がギリシャ悲劇を題材にしていること、私がたまたまアテネへ行ったことが、高柳の詩を読むタイミングと重なったために、ちょっと「前書き」にはならないけれど、前書き風に余分なことを書いてしまった。

 今回の高柳の詩で私が気になるのは、高柳がこの詩を上演する役者の肉体とことばの関係をどう考えているのかよくわからない点にある。
 別な言い方をすると、高柳の今回の詩は、ギリシャ悲劇のことばを出発点として動きはじめている。それは高柳をくぐりぬけて、高柳のことばになっているのだが、それがそのまま役者のことばになりうるのか--そのことが、というか、そのときの高柳の役者に託した「夢想」のようなものが、よくわからない。(これは高柳の問題ではなく、上演を実践する岡本章の問題なのかもしれないが……。)
 高柳の詩(ことば)は、もともと(?)、「肉体のことば」というよりも「ことばの肉体」と言った方がいいものだと思う。私の分類を押し付けてしまうとソクラテスに属するのではなくプラトンに属するものである。すでに存在する「ことば」を引き受け、そのことばを肉体として動かしていく。そこからはじまるのは、あくまでことばの肉体の運動であり、それは人間の肉体を必要とはしていない。高柳のことばを読むためには、ひとりひとりの肉体ではなく、ことばの肉体の蓄積(まあ、読書といえば簡単なのかな?)が必要である。あることばはどのようなことばと響きあいながら音楽をつくり、肉体となるかという「暗黙の了解」、あるいは「共通感覚(と言っていいのかなあ)」のようなものが必要である。
 そういうことばを役者の肉体へと投げ込み、ことば→声→音(肉体そのものの響き)へと変えてゆくことが可能なのか。
 可能と考えているから岡本章は高柳に「台本」を依頼したのだろうけれど。また、可能と考えたから高柳はその仕事を引き受けたのだろうけれど。
 実際の上演を見ていないので、私には、中途半端なことしか言えないけれど、役者の肉体がことばに裏切られて舞台に放り出されるような感じがしてしまうのである。

 あるいは。

 それが、この「舞台」の狙いかもしれない。
 役者(あるいは人間そのもの)の肉体を裏切って、ことばが--書いたことばがではなく、声(音)としてのことばがことばの運動を展開し、それが人間の肉体を死に追い詰めていく。それがギリシャ悲劇そのものの構造である。
 「神託」「予言」のことばが人間を動かし、肉体はそれに従い、ことばに裏切られる。いや、そのときことばは完全に実践されるのだが、肉体はそれを苦痛、悲しみで受け止めるしかない。「星辰の歌、血の闇」は「オイディプス」を題材としているが、オイディプスはことばに翻弄され、ことばに裏切られた強靱な肉体の物語である。

--<(略)今、祖国に戦争が起ころうとしています。それを止めるにはお父様のお力にすがるしかありません。>
--<そんな力など、もはや私にはない。呪われた運命をもつ私のことばなど、誰が聞くと言うのか。>
--<神託がそう告げたのです。>
--<神託など信じぬ。信じたがために私の人生は破綻した。神託は真実を告げるが、それを読み解く力が人間にはないのだ。>

 こういうことばと肉体の矛盾(ことばによって人間に死がもたらされるという悲劇)を、それでも人間が生きなければならないのはなぜか。

--<もう、遅い。すべては終わったのだ。私の人生は終わったのだ。>
--<なぜに、そのようなことをおっしゃるのです。>
--<星空のなかの私の星が、そう、命運を告げているのだ…。>
--<神託をお信じにならずに、運命の星をお信じになるのですか。>
--<そうだ。全天体を司っている大きな意思がそう告げている。私は、天空のなかの一粒にすぎない。太古から連綿と続く、この大きな星たちの運行のなかに、私も組み入れられているのだ。>

 これは、こうやって「文字」で読んでいると、ことばの運動としてそのとおりだと思う。でも、それが舞台で声→音になったとき、どうなるのだろう。そもそも音になれるのか。声になれるのか。やはり「ことば」として、そこにあるだけなのではないだろうか。
 まあ、音(声)ではなく、ことばをそこに存在させるのがギリシャ悲劇の本質かもしれない。
 アテネの澄み切った空気(ギリシャ悲劇の時代はもっと透明だっただろう)、起伏の多い街の入り組んだ路地を歩いていると、どんなに起伏に富み、入り組んでいてもそこを歩く人間にとって道は一本であり、まっすぐだということがわかるし、そうか、こういう複雑な地形だからこそ、透明でまっすぐなことばの運動を求めたのだということも実感できるのだが(アテネを歩きながら実感したのだが)、
 うーん、
 これを、いま、この日本で上演するのか。
 役者の肉体はもちこたえられるかなあ。
 役者の肉体が破壊されてこそ、そこに悲劇が出現するのだけれど、その破壊は簡単であってはならない。肉体の悲鳴が、そのとき劇場をおおわなければならない。
 いやあ、むずかしいなあ。
 高柳のことばが一方的に勝ってしまいそうである。
 私には、高柳のことばが一方的に勝ってしまい、役者が苦悩すらできずに呆然としている姿が見えてしまう。

 あ、これって、高柳の詩をほめてるんですけれどね。
 ことばの肉体が強靱すぎて(強靱なことばの肉体が高柳の魅力)、それを役者の肉体が壊せるか。壊しながら、逆に肉体が壊されるか。そういう拮抗が「舞台」なのだけれど、
 うーん、

 舞台を見るよりも、詩集で高柳のことばだけを読んだ方が魅力的、ということになりそ。

リー、リー、リー、リー、リー、
ルー、ルー、ルー、ルー、ルー、

 何度が登場する、その日本語からかけ離れた音だけが、役者の肉体となって存在するということになるかもしれない。

 (舞台を想定せずに、単純に、ことばそのものの詩集として読み直してみる必要があるなあ、と思う。そのとき、また違う感想になると思う。)





月光の遠近法
高柳 誠
書肆山田
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高柳誠『大地の貌、火の声/星辰の歌、血の闇』

2012-05-17 10:14:50 | 詩集
高柳誠『大地の貌、火の声/星辰の歌、血の闇』(書肆山田、2012年04月30日発行)

 高柳誠『大地の貌、火の声/星辰の歌、血の闇』はギリシャ悲劇を題材にしている。そして実際に舞台上演された(される)作品である。舞台を前提としているので普通の詩集ではみられないような構成(構造)も含まれている。同じ作品(ことば)が最初の方と最後の方に繰り返され、枠をつくっている。あ、舞台で上演されたものを実際に見てみたいなあ、声をとおして聞いてみたいなあ、と心底思った。

 --という期待とは別の意味でも、どうしても舞台を見てみたいという気持ちになった部分がある。
 そのことを書く。
 今回の詩集には、擬態語(オノマトペ)がたくさん出てくる。これまでの高柳の詩集にそういうものがあったかどうか。私は思い出せない。
 その擬態語には2種類ある。
 途中から「エウ・ハイ! エウ・ホイ!/エウ・ハイ! エウ・ホイ!」「オロルー、オロルー、オロルー!」という日本語の音ではない(?)声が出てくるが、前半には日本語の声そのものが出てくる。

水面(みなも)に嵌(は)めこまれた貧血質の空の中を
鉛色に染められた雲が流れてゆき
一本だけ枯れ残った樹木の
ひねこびた幹の乾いた肌を
風がほそほそ渡ってゆく
ひゅうひゅうひゅう
ひゅうひゅうひゅう
死者たちの吐く苦しげな息が
大地の底から噴き上がり
魂の奥を螺旋形に抉って
私の息のうちに潜り込む

 私が日本語の音(声)と呼ぶのは「ほそほそ」「ひゅうひゅうひゅう/ひゅうひゅうひゅう」なのだが、それは「どろどろどろ」だったり「どっどっどっ」だったりもする。
 この音とリズムが、私には、どうしても「エウ・ハイ! エウ・ホイ!/エウ・ハイ! エウ・ホイ!」「オロルー、オロルー、オロルー!」とは合致しない。同じ肉体から出てくるとは思えない。同一人物ではないので、それはそれでいいのかもしれないが、同じ「日本人」の役者が、そういう違った音をひとつの舞台の上で共存させることができるのか。違いを役者の肉体はどう超えるのか--それを実際に見てみたいのである。

 「ひゅうひゅうひゅう/ひゅうひゅうひゅう」は、いわゆるオノマトペ、擬態語ということになるのだが、こういう音には意味がなさそうで、実はあると私は考えている。この詩で言えば、

ひねこびた幹の乾いた肌を
風がほそほそ渡ってゆく

 この2行の中にある「は行」の揺らぎ(「風が」は次の「ほそほそ」と響きあって「ふう」という音を意識の底に誘い出す)が「ひゅう」の「ひ」と強く結びつく。
 それは「どろどろどろ」「どっどっどっ」が「どよめく」ということばといっしょにつかわれているのと共通した何かを持っている。
 ことばは「意味」だけではなく、音(声)そのものとも響きあい、影響しあう。音に誘われてことばが動くということがあるのだ。あるいは、音に誘われなければ、ことばは自然には動けないのかもしれない。肉体はある音を出すことで、その音につながる「意味」を練習(?)するのかもしれない。
 で、ここから書くことは、かなり強引なことなのだが。
 高柳の詩(私がこれまで読んできた詩を含む)、そのことばは、いま問題にしている擬態語とは別な部分でも、音(声)の響きあいがある。

肺腑の奥を抉る記憶が、
思い出したくもない呪われた記憶が、
魂の吐瀉物として噴出する……。

 「たましいのとしゃぶつとしてふんしゅつする」。「さ行」「しゃ行(?)」「た行」の交錯が美しい。ここには「意味」を超えた音(声)の競演がある。

かすかにわたしを呼ぶ気配が、

 この行の「か行」、「か」す「か」、「け」はい、にも同じものがある。
 こういう音(声)の響きあいというのは、長い間の肉体のなかの蓄積とつながっていると思う。
 そして、この音(声)の響きあいは、高柳の詩の簡潔な強さとなっていると思う。高柳の詩が非常に読みやすいのは、音(声)の響きが、肉体のなかで蓄積された音楽そのものとなっているからだと私は感じてきた。

 それが、この詩では、破れている。
 そして、それがどういうことなのか、私にはよくわからない。

 「エウ・ハイ! エウ・ホイ!/エウ・ハイ! エウ・ホイ!」と「ひゅうひゅうひゅう」が役者のなかで、どんな「音(声)」として動くのか、想像ができない。高柳が題材にしている「バッカイ」そのものが、ふたつの声の闘いでもあるから、この作品は、それを踏まえてふたつの声(音)を用意しているのかもしれないが……。
 それが複数の人物の声(音)である場合は、まだ納得がゆくが、たとえば。

夜風は甘やかな薔薇の香りを運び、その温かな感触が、わたくしの足首からふくらはぎ、ふくらはぎからふとももへと這い昇って、わたくしの頬を陶然たる色に染めました。わたくしの肌はほんのりとほてり、わたくしの骨は恥じらいにやわらかくなりました。

 「わたくしの肌はほんのりとほてり、わたくしの骨は恥じらいにやわらかくなりました」という美しい響きに、「感触」「陶然たる」はにあわない。何か異質な音に聞こえる。「薔薇」も私が見ている薔薇ではない感じがする。まあ、古代ギリシャの薔薇だから、それはそれでいいのかなあ。

これが、わたしの甘い乳房を求めて幼い日に差し出された可愛い<おてて>。そして、これが、わたしを追いかけて初めて大地を踏み出した可愛い<あんよ>。おお、それがこんなにも無残な姿になるなんて。元の形をとどめぬほど血まみれになって、バラバラに飛び散らかって……。

 「おてて」「あんよ」という美しい音と「バラバラ」があわない。体の中を、ぞくっとさせるものがある。
 高柳は役者の肉体をどんなふうに想定して、この詩を書いたのかなあ。
 

星間の採譜術
高柳 誠
書肆山田
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