詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

堤隆夫「凍土の森の中から」ほか

2024-06-28 23:59:23 | 現代詩講座

堤隆夫「凍土の森の中から」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年06月17日)

 受講生の作品。

凍土の森の中から  堤隆夫

歓びも 悲しみも 凍てついた
凍土の森の中から 
不遜にも花ひらく 曼珠沙華の実存よ
そは いつか視た
アウシュビッツの殺人現場の象徴か
「広場の孤独」の正午の紫外線の曳航か

雨の降る 奇妙に空気が熟した優しい日の夜
疑似症の愛に悶えながら
生あるものの死の必然に
愕然と頭を垂れ 刮目して待つ
「本当の愛に出会うまでは 死ねないよ
本当の絶望に出会うまでは 死ねないよ」
ああ なんという パンドラの箱の
パラドックスか

晩秋の氷雨に 心が凍える時
私は煩悩の日々に 終止符を打つ
「あるがままの自分でいいじゃないか
自分でやったことは 悔やむな」

亡き母の口癖だった この言葉が
今日も 私の心底で共鳴する
夜風の咽び泣きと柿の葉の風鈴の
小夜曲となって

 「本当」ということばが二回繰り返される。「本当の愛」「本当の絶望」。「本当」の反対のことばは「疑似性」と書かれている。「嘘」ではない。そして、それだけではない。「本当」の、もうひとつの反対のことばは「あるがまま」である。「あるがまま」は、なぜ、「本当」の対極にあるのか。
 堤は「本当」を、「あるがまま」よりも厳しいもの、いわば「存在しないもの」、つまり「理想」のようなものとして考えていることがわかる。「真理」と言い換えてもいいかもしれない。
 「理想」「真理」ということばのなかには「理」がある。つまり、「頭」でとらえなおした「法」のようなものがある。「真実」は、「理」ではなく「実」を含む。
 こう考えてくると、母の口癖の「あるがまま」とは「真実」のことだとわかる。
 だが、堤は、どこかで「真実」ではなく「真理」にたどりつきたいと思っている。「理(法)」にたどりつくためには、「ことば」が必要である。「ことば」を必要としている、「ことば」を支えとしているから、詩を書く。そういう堤の「生き方」(正直)があらわれた作品だが、私には最後の二行が「弱い」ように感じられる。「夜風の咽び泣きと柿の葉の風鈴の/小夜曲」は「真理」だろうか、「真実」だろうか。この二行をとおして、堤は何を見ようとしているのか。
 好意的に解釈すれば「見ようとしている」のではない、「見ているのだ」ということになるかもしれない。それこそ「あるがまま」であろうとしているのかもしれないが、「母の口癖(言葉)」を「理(あるいは法)」として「現存させる」には、少し弱いと感じる。言いなおすと、それまで動いてきた「理(法)」と向き合う力が、ふっと息を抜いた感じがするのである。

名  池田清子

310315
という同級生がいた

うらやましかった

私の名前は
数字ににはならない

しかたがないので
名字をばらして
三木 にした

 この場合の「数字」とは「暗号」のようなもの、あるいはある特別な世界の「隠語」のようなものか。ある「秘密の共通言語」をもつことで仲間意識をもつこと。そういう「世界」に入れるか、入れないか、というのは、人間のある成長期間にとってはなかなか大事なことである。その時代をすぎてしまって、傍から見ればなんでもないことかもしれないが、そうはいかないのが人間のむずかしさかもしれない。
 「うらやましかった」から「しかたがないので」までの変化、その結論(?)を「しかたがない」ということばでとらえるのがおもしろい。「しかたがない」と言いながら「しかた(法/理)」を変えているのがおもしろい。同級生とは違う「理」が、動いている。
 最終連は「なぞなぞ」だが、「なぞなぞ」というのは、ちょっと違った「理」を差し出して見せる「遊び」である。

ローザの野牛*  青柳俊哉

涙におおわれている世界
すべてが眼の外側をながれる

見える心が
野牛の平たい角を垂直に空へ伸ばす
ルーマニアの星の褥(しとね)に贖(あがな)われるようにと

エデンへ投げ捨てられた女
運河を水牛が泳ぐ
傷を文字でみたして

血は凝固し そして
星へ融解する

涙へ ふたりは合流する
世界の外側で

*ローザ・ルクセンブルクの手紙をモチーフとしたパウル・ツェランの詩「凝固せよ」(詩集「息の転換」所収。中村朝子氏訳及び訳注。青土社)から発想しました。

 「外側」ということばがある。「眼の外側」「世界の外側」。「眼の内側」「世界の内側」ということばは書かれていないが、この詩には、その書かれていない「眼の内側」「世界の内側」と「眼の外側」「世界の外側」が交錯する。
 どのようにして?
 「涙」を媒介にして。あるいは「傷(血)」を媒介にして。それは「眼の内側(心)」からあふれ、「世界の外側」をつつむ。「世界の内側」からは「涙にならない涙」があふれてきており、それは「眼の外側」をつつむ。「眼」は「涙」をとおして、「存在しない涙」にふれる。そして、「世界の涙」になる。
 「合流する」と、青柳は、ことばにする。
 青柳は詩の誕生のきっかけを注釈で説明している。何かに触発されて、ことばを動かす。そのとき、「ことば」は出合うだけではなく「合流する」。
 と書いて、いま、思うのだが、堤の最後の二行が「弱い」と感じてしまうのは、堤のことばと母のことばが「出合って」はいるけれど、「合流(融合)」にまで達していないからではないか。「共鳴」ということばがあったが、その「共鳴」がつくりだす「和音」が「小夜曲」であるのは物足りないのである。

雨音  杉惠美子

夕暮れ時
少しずつ辺りが暗くなっていく その時
少々 しがらみのない自由を楽しむことにも飽きて
かと言って 人と会うのも面倒で
ひとりの椅子の子守り歌を聞いている

私の中のこだわりも 余白も
すべて すとんと落として 忘れてしまった
わたしの呼吸にのせる
雨音だけがある
 
 「かと言って」が複雑である。「かと言って」を中心にして二つの世界があるのだが、それはほんとうに「二つ」なのだろうか。もし「真理」というものがあるのだとしたら、それは「かと言って」ということばで「二つ」を引きつけてしまう「私/わたし」という「存在」かもしれない。
 杉は「私」「わたし」と書き分けるのだが。
 杉は「合流」のかわりに「のせる」ということばをつかう。「呼吸にのせる」。呼吸は、吸うだけでも、吐くだけでもない。「往復」がある。
 「雨音」(雨)は最後に登場するだけなのだが、とても効果的。「子守り歌」が聞こえてくる。それは「呼吸」なのか「雨音」なのか、わからないくらいだ。

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇449)Obra, Calo Carratalá

2024-06-28 01:00:12 | estoy loco por espana

Obra, Calo Carratalá 

 Dos cuadros. ¿Fue un cuadro dividido en dos o se convertirá en uno a partir de ahora? Esta pregunta no tiene sentido.
 Porque los cuadros de Calo lo tienen todo. En el pasado vi este paisaje. En el presente veo este paisaje. En el futuro veré este paisaje. Aquí hay " todo". No se trata de agua, tierra o cielo. Aquí hay "todo tiempo" o "tiempo completo" ;  pasado, presente y futuro, y existe como uno.
 "Tiempo completo". Este "completo" se llama "無 nada" en la filosofía oriental. O llámalo "空 vacío". Rechaza el pasado, rechaza el presente, rechaza el futuro. Aquí radica la "contradicción absoluta" que existe en ese momento.
 No se puede dividir ni integrar. Porque este es completo. En medio de esto, me quedo atónito y me pierdo. No sé qué escribir.

 2枚の絵。それは1枚が2枚にわかれたのか、それともこれから1枚になるのか。この問いは無意味だ。
 Caloの絵にはすべてがあるからだ。私は、かつてこの風景を見た。私はいまこの風景を見ている。私はこれからこの風景を見るだろう。ここには「すべて」がある。水、大地、空のことではない。過去・現在・未来というすべての時間がひとつになって存在している。
 「すべての時間」。この「すべて」のことを、東洋の哲学では「無」と呼ぶ。あるいは「空」と呼ぶ。過去を拒絶し、いまを拒絶し、未来を拒絶する。その瞬間に存在する「絶対的矛盾」が、ここにある。
 それは分割することも、統合することもできない。そのなかで、私は呆然として、私自身を失う。何を書いていいか、わからなくなる。

 

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谷川俊太郎『からだに従う』

2024-06-25 14:58:38 | 

 

谷川俊太郎『からだに従う』(集英社文庫、2024年06月25日発行)

  谷川俊太郎『からだに従う』には「ベストエッセイ集」というサブタイトルがついている。谷川俊太郎のベトトエッセイなのか、ベストエッセイ集というシリーズの一冊なのか、よくわからないが、まあ、エッセイ集である。
 読み始めてすぐ、「文体が固い(若い)」と感じた。最初の「失恋とは恋を失うことではない」はいつ書かれたものか。次の「青年という獣」には(「新潮」1955年6月号)と初出が明記されている。やく70年前だから、まあ、文体が若くて当然なのだが、その文体の若さは、(当時の)詩の若さよりも、もっと若く感じられる。

失恋のすべてを通じて確かなことは、僕らはどんな失恋をするにしろそれは恋を失うことではないということです。

 どこが「固い」のか。何かしら、そう感じる。「すべてを」「確かなことは」という言い回しだろうか。何か、思っていることを「すべて」「確かなこと」として書かなければならないという緊張感がある。「それは」と言い直し「ということです」と締めくくる。
 詩ならば、こんなリズムにはならないだろうなあ。もっと「開放」された形で書かれるだろうなあと思った。「閉ざされた」印象、「閉じた」印象がある。それは谷川が谷川だけを見つめているということかもしれない。
 次の段落で、谷川は

僕の友達の一人に失恋について奇妙な誤解を抱いていた奴がいました。

 と語り始めるが、「友達」を語りながら、だんだん友達をはなれ、谷川自身をみつめていく。そして、自分のなかに見つけ出したものを「普遍」のように借り始める。

恋は、愛ではなく、恋は本質的に孤独なものなのではないでしょうか。

 ここにはもう「友達」はいない。「奇妙な誤解」もない。
 そうした「論理の整理の仕方」のなかに、私は「若さ」を感じた。そして、なんとなく安心もした。

最近の写真を見ると、ぼくの顔もだんだん人間に似てきたようだ。つい先頃まではぼくも青年というれっきとした獣だったのだが。

 「だんだん」「つい先頃まで」という「時間の論理性」を踏まえて「れっきとした」ということばで「ようだ」を推定ではなく断定にかえる、そのことばの動き。ここには、やはり、若者特有の「固さ」があると私は感じた。そして、やっぱり安心したのである。
 どんな「安心」か。まあ、言わないことにする。
 「女*果てしなき夢」に、こういう文章を見つける。

女について書くことのできるのは、シモーヌ・ド・なにがし女史のような女自身か、でなければ宦官くらいのものだろう。

 「シモーヌ・ド・なにがし女史」も、若さゆえの「固さ」だろうなあ。ボーボワールと書いたって、何の問題もない。でも、そう書きたくない。そういう「固さ」があったのだ。谷川の「若い」ときには。
 で、私は、そういうこととは別に。
 そうだなあ、と思う。「女自身」というよりも、女について書くことができるのは、ボーボワールしかいなかった、と私は感じる。『招かれた女』とか『アメリカその日その日』とか。そこには確かに女が生きている。多くの女の作家がいるが、そのなかからボーボワールを引き出しているところに、私は、とても共感した。
 「共感」を書いたので、今度は、反論も書いておこう。
 「沈黙のまわり」の次の文章。

初めに沈黙があった。言葉はその後で来た。今でもその順序に変りはない。言葉はあとから来るものだ。

 たしかに「言葉はあとから来る」と言いたいときがある。しかし、そのとき「先」にあるのは「沈黙」ではなく、「ことばにならない(できごと)」だと私は感じている。ことばのあとに沈黙が来る。その沈黙がことばを飲み込んでしまうときもある。そうしたできごとのあとで、「言葉はあとから来る」(言葉は遅れてやって来る)という印象が生まれることがある。けれども、いつも、ことばが先にあると思う。「沈黙はあとからやって来て」、次の「新しいことば」を誘うのである。「新しいことば」を誘うためには「沈黙」が必要なのだ。
 ことばの先に何が存在するかを考えたとき、そこには「無」、あるいは「空」がある。そして、そさは「沈黙」と違って、とても豊かな何かのように感じられる。それは「沈黙」とは違って、ことばを「生み出す」。「生み出す」と「誘い出す」は違うと、私は感じている。
 「反論」と先に書いたが、これは「反論」ではないかもしれない。
 谷川のことばを読んだ瞬間に、このことだけは書いておきたい、と突然思ったのである。私が書いたことばは、谷川によって誘い出されたことばなのである。まだエッセイを読み始めたばかりだが、そのことを書いておきたいと思ったので書いている。
 谷川の書いていることばのなかの沈黙(あるいは、ことばの「余白」か)が、私のことばを誘い出している。誘い出されるままに、あるいは、その誘いに「従って」私は書いたことになる。

 


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アレクサンダー・ペイン監督「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」(★★★)

2024-06-24 16:05:08 | 映画

アレクサンダー・ペイン監督「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」(★★★)(2024年06月24日、キノシネマ天神・スクリーン3)

監督 アレクサンダー・ペイン 出演 ポール・ジアマッティ、ダバイン・ジョイ・ランドルフ、ドミニク・セッサ

 この映画は100点満点で採点すると102点の映画である。100点ではもの足りず、プラスアルファをつけたくなる。やっていることはすべてわかる。どこにも「欠点」はない。完璧。完璧というだけではおさまらない。しかし、★は三個。100点を上回るのだけれど、手放しでは称賛できない。
 どういうことかというと。
 映画が始まってすぐ、あっと息を飲む。そして、たぶん2秒か3秒後に、この映画のすべてがわかる。
 映画の最初は会社のトレードマーク。くすんでいる。ぼやけている。ここで、あれっと思う。そして、それに追い打ちをかけるのが、フィルム上映のときにあった、ノイズ。古くなった映画(いわゆる二番館で上映する映画)のフィルムは、すりへって傷ついている。画面にも雨が降るし、ノイズがまじり音は不鮮明。最初のトレードマークのすり切れた感じは、この「二番館上映」という印象を蘇らせ、ノイズはそれを決定的にする。
 これが、すべて。(で、102点の「+2点」は、この映画の本編が始まる前の、傷、ノイズに対する+アルファ、ということ。)
 映画は、「二番館」が華やかだった(?)半世紀前を思い出させ、そして、そこに描かれるのも半世紀前の世界である。雪の降り方(除雪の仕方)からして1970年代である。大学、寄宿舎の、木の色合い、光も何もかもが70年代。ああ、なつかしい。そこで展開される「青春」、さらに「大人の苦悩」、そして、その「交流」も70年代そのもの。ダスティン・ホフマンが主演した「小さな巨人」までもが、映画のなかの映画として登場する。
 これじゃあ、感動せずにはいられない。自分の「青春」に重ね合わせて、何もかもに納得し、こころがふるえてしまう。
 でも、というか、だからこそ、私は一方で、いやな気持ちになる。
 なぜ、いま、この映画? 70年代の、アメリカの青春、その周辺の光と影? いまも同じ問題が、同じ形で存在する? しないと思う。ということは、そこに描かれている「未来」というか「決断」も、いまでは「無効」ということだろう。人間の「生き方(正直)」が変わらないものだとしても、そして、そういう古くならないもののなかにこそ新しいものがあるのだとしても(まるで、小津安二郎の「宗方姉妹」の田中絹代のせりふみたいだが)、70年代を舞台にして描いたのでは、「現在の映画」とはいえないだろう。「現在」に対して何かを語りかけることにはならないだろう。
 単に、「私はこんなに完璧に映画をつくることができる」という監督の声が聞こえてくるだけである。それに対して「はい完璧です。完璧以上です」という以外にないのである。
 思い出すのは、「スティング」(ジョージ・ロイ・ヒル監督、ポール・ニューマン+ポール・ニューマン主演)である。あの映画も「完璧」だった。しかし、やはり、なぜ、「現在」この映画を、こんなふうに撮るのか、という疑問が残った。
 で。
 「ホールドオーバーズ」と「スティング」を並べてみたとき、そこに「共通項」があることもわかる。どちらも「現在」を舞台にしているのではなく、半世紀ほど前を舞台にしている。つまり、その登場人物たちは、いずれの場合も「映画に描かれている時代」を直接は知らず、完全に「架空」のものとして向き合うことができる。映画のなかで何が起きようと(映画のなかで、どんな演技をしようと)、それは「現在の彼ら」とは無関係である。完璧な「フィクション」として演じることができる。「あんな演技、あんな表情は、いまとは無関係である」という批判は、誰にも通じない。だって、映画のなかの世界が「いま」ではなく「50年前」という過去なのだから。
 この映画が「スティング」よりも始末に悪いのは、「完璧なフィクション」であるにもかかわらず、そこに「人間性」をからませて、観客を感動させようとしているからである。
 これでは、だめ、と私は書かずにはいられない。
 これは、ある意味では「あんのこと」(入江悠監督、河合優実主演)の対極にある映画なのである。「あんのこと」は、とても感想を書く気持ちになれないほど、暗い映画、登場人物の誰にも共感できない映画なのだが、そこには映画を通して現在と関わり合いたいという欲望が、むき出しの形で存在している。そういう「むき出しの欲望」がないからこそ、「ホールドオーバーズ」は「完璧」なまま、映画を終わることができるのだ。
 いまは、もう見ることのなくなった「THE END」の文字に、私は笑い出してしまった。


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Estoy Loco por España(番外篇448)Obra, Juancarlos Jimenez Sastre

2024-06-23 23:34:25 | estoy loco por espana

Obra, Juancarlos Jimenez Sastre
SIN TÍTULO
ESCULTURA EN HIERRO 

 Este hierro es un árbol que crece día a día, absorbiendo nutrientes de la piedra a medida que la muerde. Y ese árbol no sólo crece, sino que  llega al cielo, sus raíces agarran las piedras y nunca las sueltan, arrancando las piedras de la tierra y elevándolas hacia el cielo.
 Esta fantasía es imposible.
 Si el hierro, como un árbol, tiene sus raíces en la piedra, no puede volar. Sin embargo, si el hierro crece apuntando al cielo, su poder para alcanzar el cielo seguramente levantará la piedra.
 Este trabajo tiene una energía que te hace sentir así.

 この鉄は、石に食い込みながら、石のなかから養分を吸い上げ、日々大きくなっていく一本の木である。そして、その木は、ただ大きくなるだけではなく、天に届いたその鉄の木は、その根が石をつかんで放さず、石を地上から引き剥がし、天空に持ち上げていく。
 この空想は、あり得ない。
 鉄が木のように、石に根を張るなら、鉄は空を飛ぶことはできない。だが、空を目指して鉄が育つなら、その天へ伸びていく力は必ず石を持ち上げてしまうだろう。
 そう感じさせるエネルギーがこの作品にはある。

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Estoy Loco por España(番外篇447)Obra, Jesus Coyto Pablo

2024-06-23 17:51:15 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
la serie "LA ZONA OSCURA" 

 -¿El negro en este cuadro era negro desde el principio? ¿O al principio el negro no existia aqui, sino habia un color diferente, y se volvió negro? Queria preguntar al color negro si satisface el deseo de un color que no existe aquí.
 -¿O el negro en este cuadro está tratando de convertirse en un color distinto al negro y está en proceso de dividirse en muchos colores? ¿El rojo que hay ahora seguirá siendo rojo? ¿Qué es el deseo de el rojo o el negro?
 -No hay objetividad en la interpretación. La intención del artista y la intención del espectador no son la misma, sin embargo, no pueden ser completamente diferentes. Solo hay un hecho que revela algo.
 -Lo que tú llamas hecho, yo lo llamo movimiento o proceso. Pero entonces, ¿es ese movimiento el del color? ¿O el del pintor o el del espectador?


 Tengo una conversación con el pintor en mi memoria, pero no sé qué palabras son mías y cuáles son las del artista.

 

 「この絵のなかの黒は、最初から黒だったのか。それとも、最初は別の色で、ここには存在しない色が黒を目指し、黒になったのか。そうやって新しく生まれた黒は、ここに存在しない色の欲望を満たしているのだろうか。」
 「あるいはこの絵のなかの黒は、黒以外の色になろうとして、いくつもの色に分裂している途中なのか。いまそこにある赤は、これからも赤でありつづけるのか。それは、いったい誰の欲望なのか。」
 「解釈には、客観性というものがない。画家の意図と、絵を見るものの意図は同じではない。しかし、完全に違ったものになることはできない。何を肯定し、何を否定しても、そこには何かを現わしてしまう事実がある。」
 「きみが事実と呼ぶものを、私は動きと呼ぶ。そのとき、しかし、その動きは、色のものなのか。あるいは画家の、あるいは絵を見るものの動きなのか。」


 私は記憶のなかで画家と会話をするのだが、どのことばが私のことばで、どのことばが画家のことばかわからない。

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こころは存在するか(37)

2024-06-23 12:15:34 | こころは存在するか

 和辻哲郎「尊皇思想とその伝統」のなかに、興味深い表現がある。記紀に書かれた神の異義について触れたものだが、記紀に登場する神は

絶対者をノエーマ的に把捉した意味での神ではなく、ノエーシス的な絶対者が己れを現わしきたる通路としての神なのである。

 ノエマ=思考によってとらえられた対象、ノエシス=思考作用、思考する運動という「理解」でいいのかどうか、「絶対者」が「ノエシス」と結びつけられていることに私は引きつけられる。和辻は「思考する、その動き」そのものが「絶対」であり、「思考された対象(存在)」を「絶対」とは結びつけていない。
 生きているとき、もし「絶対」というものがあるとすれば、「思考する」という「運動」が絶対なのである。

 これは、もしかすると、和辻批判に対する和辻の反論とも言えるかもしれない。

 和辻の提出している「結論」は「間違っている」かもしれない。つまり「絶対」ではないかもしれない。しかし、その「結論」までの過程で動いている動いていることばの、その「動く」ということは「絶対」なのである。そこには「必然」がある。もちろんそれは「和辻の必然」であって、ほかのひとにとっては必然ではないかもしれない。しかし、そういうことは書いているひと(考えているひと)にとっては重要ではない。「考えること=私」であること、それが基本である。
 「考える」という運動を放棄して、「他人の考え/考えた結果(結論)」を並べてみても、そこには「考える」ということの絶対は存在しないのである。

 私の書いていることは、「間違っている」だろう。私はいつも「誤読」しかしない。しかし、その「誤読」は、私にとっては「必然」なのである。「誤読する」ために読むのであって、「結論」を知るために読むのではない。「結論」というのは、いつも「他人のことば」のなかには存在しない。もちろん「私の結論」のなかにも存在しない。私は「結論」めいたものがあらわれてしまったら、次には、それを壊すために書く。
 和辻のことばを借りて言えば「通路」であることが重要なのであって、「通路」のむこうに待っているのは「空」なのだ。

 

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小津安二郎監督「小早川家の秋」「宗方姉妹」

2024-06-22 00:20:32 | 映画

小津安二郎監督「小早川家の秋」「宗方姉妹」

 昔の役者は、みんなうまいなあ。リアリティーそのものに関して言えば、いまの役者の方がうまいのかもしれないが、味が違う。
 「小早川家の秋」のなかで、原節子が、「人間は品行は変えられても、品性は変えられない」というようなことを言うが、なんというか、昔の役者は「品性」を演じる。いまの役者は、「品性のなさ」をさらけ出すことを演技と思っているのかもしれない、とふいに思ったりした。
 その「品性」に関して言えば、たとえば「小早川家の秋」のなかで、原節子と司葉子が会話するとき、いっしょに腰を下ろしたり、立ち上がったりする。その呼吸が、ぴったりそろっている。同じスピード、同じリズムである。「動き」が肉体に染みついている。それが「品性」というものかもしれない。
 これは中村鴈治郎が浪花千栄子の家で、廊下に雑巾がけをするシーンにもあらわれている。中村鴈治郎が実生活で雑巾がけをするかどうかはしらないが、まあ、しないだろう。しかし、その雑巾がけの動きをきちんと「肉体」で表現できる。したことがない動きまで「肉体」にしみこんでいる。なにか、「しつけ」のようなものを感じる。「しつけ」がしっかりしているから、すべてが「さま」になる。和服を着て、街をさっさと歩くシーンが、とてもかっこいい。足が動いているのが、ズボンをはいて歩く男の足よりも、なんというか「自在」に見える。裸で歩いても、あんなふうに足が動いていると見えるかどうかわからない。色っぽいのである。別に、色を売って歩いているわけではないのだが。歌舞伎役者は足が大切だが、いやあ、あんなふうにして足の動きがそのまま肉体そのものを感じさせるなんて、すごいものだなあ。
 脱線したが。
 もちろん「品」にもいろいろあって。「上品」だけが「品」ではない。それこそ「変えられない品性」が問題になるときもあるのだが、これを杉村春子が、とても味わい深く演じる。「減らず口」というか「憎々しい」ことをずけずけ言うのだが、ふいに、そのことばの奥から「なつかしさ」がこみあげてきて、泣きだしてしまう。その突然の変化のなかに、ああ、このひとのなかにも、自分を守って生きていくことの困難さがある、それがこんなふうに暴走するのだとと感じさせてくれる。
 「自分のなかにある何かを守る」が、たぶん「品性」に通じるのだと思う。原節子も司葉子も「自分を守る」のである。そして、そのとき「品性」があらわれる。
 小津の映画に特徴的な「日本家屋」の美しさ、その遠近感のある描写にも、それにつうじる「品性の美しさ」がある。日本の住宅がもっている大切なものを手放さない、という感じが、「品性」となって具体化している。
 ということとは別にして。
 「小早川家の秋」で、えっ、このシーンは何? と思ったのが、笠智衆。烏が多いなあ、誰か死んだのかなあ、というようなことをぽつりともらすのだが。そのシーン、必要? たぶん、なくても映画は完璧である。しかし、小津は、どうしても笠智衆を撮りたかったんだろうなあ。笠智衆は演技するのではなく、いつも「品性」として、そこに存在するのである。
 「宗方姉妹」は、その笠智衆が娘の高峰秀子のことを「こいつは舌を出すんだ。おや、きょうは出さないか。そろそろ出すかな」とからかう。このときの「口調」がやはり「品性」そのものである。いまは、こんな台詞回しができる役者はいないし、役者だけではなく、現実社会のなかでも、そういう口調で他人をからかうことができるひとはいない。
 人間の「品性」がなくなってしまったのだと思わずにはいられない。
 それにしても、高峰秀子はすごいなあ。この映画のなかでは、「芝居」をする。上原謙を前に、上原謙と田中絹代の「過去の恋」を語って見せるのだが、その語りは「芝居」である。映画そのものが「芝居」なのだが、そのなかでもう一度「演じる」。それが、ちゃんと「演じている」をわからせる演技である。そして「劇中劇」ともいえる「一人芝居」のなかに、一歩控えめの呼吸があり、それが「品」となってあらわれている。主観的だけれど、どこかに客観的な要素を残している。どんなときでも主観に溺れない。
 田中絹代にも、絶対的な「品」がある。それは、「古くならないものが新しい」ということばのなかに結晶しているが、これはやはり「自分のなかにあるかわらないものを愛する、大切にする」ということだろう。田中絹代は原節子と比較すると、不透明である。「実体」がある、という感じがすごい。
 それにしても小津の映画の構造はおもしろい。いつも「遠近感」が独特である。日本の家屋の室内だけではなく、それは外の風景を撮るときでも同じである。田中絹代と高峰秀子が薬師寺で弁当を食べるシーン。スクリーンの右側に松の木が半分だけ映っている。それが半分であることによって、映像の「枠」が強調される。その「枠」は「内側」を強調するのではなく、この「枠」の外には広い世界があると知らせる。そして、その「外」と「内」は呼吸している(通い合っている)ということを教える。
 小津の「室内」が狭いのに広いのは、「遠近感」を通して、「室内」が「屋外」と結びついている。「空気」が「内」と「外」を結んでいる、つながっているということを教えてくれるからだ。
 いま書いた「内と外」の関係を、小津の映画の登場人物の「個人」のなかに見ていくと、また、おもしろいものが見えてくるだろうと思う。笠智衆も原節子も、登場人物の「内と外」を演技のなかでしずかに交錯させている。「内」になるものが「品」、「外」にあたるのが「品行(行動)」かもしれないなあ。
 原節子が、司葉子に対して「それがいいと思う、そうなると思っていた」というようなことを言うときの「内」から「外」へ出て行き、司葉子の「内」を支えるもの。さらに、そういうことを強調するように「私は、いまの私のままでいい」という。「私であること」。それが「品」だろうなあ。

 

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長島南子「追伸」

2024-06-19 21:11:12 | 詩(雑誌・同人誌)

長島南子「追伸」(「天国飲屋」5、2024年06月16日発行)

 長島南子「追伸」は「さっちゃん」にあてた手紙。「あの人は家を出て行きました/行方不明です」。それで、

誰もいない部屋でご飯を食べていると
食べ物をかみ砕く音だけが
耳に響いてくるのです
食べてからはもうすることがありせん
耳のなかがじんじんしてきます
大声でわめきたくなります
かたわらで猫がじっと見つめています

 という、おばさんにしか書けない「絶対孤独」を描写することばのあと、人間と人間の、これまたおばさんにしか書けない「間柄」のなかをことばが動いていく。
 
さっちゃん 行方不明なのは
わたしです
家には行方不明が服を着て
来客を待っています
近くまで来たらお寄りください
あれ 行方不明はあの人でした
いいえわたしでした
いいえさっちゃんでしょ
かたわらで猫がじっとみつめています

 「間柄」は「人間関係」と言いなおすことができるかもしれないけれど、そう言いなおしてしまえば、そこからは何か違ったものになってしまう。
 多くの男の詩人も「行方不明なのは/わたしです(いいえわたしでした)」は書けるが、「いいえさっちゃんでしょ」は書けない。特に、その「末尾」の「でしょ」の切なさ、正直は書けないなあ。
 「行方不明なのは/わたしです(いいえわたしでした)」が男にも書けるのは、そこには「論理」があるからだ。「論理」が「抽象」を動かすからだ。「人間関係」は「抽象的」なのものである。
 でも、「間柄」は、具体的な「人間」と「人間」との間に生まれてきてしまう「柄(模様)」のようなものであり、その「あや」を生み出すのは「でしょ」というような「働きかけ」を含んだ、具体的な「体温」なのだ。

 「猫」と「人間」は、私は猫がこわいから近づかないのでわからないが、そこには「間柄」はない。「間柄」があったとしても「変化」はない。「あや」は生まれない。かわらない「関係」だけがある。「かたわらで猫がじっと見つめています」「かたわらで猫がじっとみつめています」。
 漢字とひらがな。意識的かな? 無意識的かな?
 無意識だろうなあ。
 それが、なおさら、こわい。「無意識」というのは、「本心/正直」だからだ。長島は、猫に対して「でしょ」とは話しかけないだろう。

 と、書けば「間柄」が、どういうものかつたわるかなあ。まあ、つたわらなくてもいいけれど。つたわらない方が、「そんなこと書きましたっけ」としらばっくれることができるから、いいかもしれない。(この三行は、私から長島への「追伸」です。)

 

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細田傳造「ジェローム・アレキサンダーに会ったらきいてみたい」

2024-06-17 23:58:24 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「ジェローム・アレキサンダーに会ったらきいてみたい」(「ウルトラ・バルズ」41、2024年05月25日発行)

 細田傳造「ジェローム・アレキサンダーに会ったらきいてみたい」の最後の部分。

ジェローム・アレキサンダーに会ったら
きいてみたい
市立大学で二十年も
ジャック・ラカンを研究した男だ
きっと馬鹿にされるな
かれを馬鹿にしている

 最後の最後の、この二行がいい。細田傳造そのものである。ひとはひとを馬鹿にする。理由は、はっきりしている。だから、その理由を私は書きたいとは思わない。そして、理由がはっきりしているからこそ、細田はいつでもひとを馬鹿にしている。しかし、それはジェローム・アレキサンダーが細田を馬鹿にするときとはまったく違っている。そういうことが実際にあるわけではないだろうが、ジェローム・アレキサンダーは細田に会ったら、そして細田がジェローム・アレキサンダーにジャック・ラカンのことを聞いたら、きっとジェローム・アレキサンダーは細田を馬鹿にする。ちゃんと、「馬鹿にしている」ことがわかるように、馬鹿にする。しかし、細田は、わかるようにではなく、「わからないように馬鹿にする」。そして、それをこっそりと書く。
 この複雑な粘着性。
 いつでも「感情」がからみついている。
 この「からみつき」を意識しながら、一連目を読んでみるとおもしろい。

早暁
目覚めると
夢の残渣
淫らだった夢はドリームとよべるのか
失業してコンビニの裏口
売れ残った弁当を
愛想のいい店長から
手渡されている夢はナイトメアというのか

 「夢」をあらわす英語がいくつあるかしらないが、細田は「ドリーム」と「ナイトメア」を選び出し、そこに「英語の感情」ではなく、細田自身の感情をからみつかせ、そうすることで「英語の感情」を「馬鹿にしている」。そんな、他人の「基準」なんか、採用しないぞ、と言っている。
 「いつでも、けっして、自分を譲らない」。これは、馬鹿にされても気にしない、ということであり、他人を馬鹿にするということである。
 「野原」というのは、子犬といっしょに野原をかける詩である。その最後の部分。

なんさいなの
子犬にききました
しらない
なんさいなの
子犬がききました
ななさい がっこうにいってない
ぼくたちはなんだかつまらなくなって
はなしをやめて走りました
牧場がみえてきます
がっこうってなんだろう
走りながらぼくたちはかんがえました

 「馬鹿にする」ということは「考える」ということである。そして、自分で考えたことを何よりも大切にすることである。細田の詩には、自分を大切にする感情がいつも、とてもしっかりと残っている。
 だからといえばいいのだろうか。
 細田は「自分を大切にしているもの」に対しては、親切である。そういう人たちに対しては、「表面的」には相手を馬鹿にする。しかし、その相手をしっかりと受け止める。まるで、子犬を見守るように。だから、その「馬鹿にする」は、とても温かい。
 たとえば、「ジェローム・アレキサンダーに会ったらきいてみたい」の、次の部分。

白昼
道ですれ違った老人と
ある奇妙な行動をした
左手で敬礼したら
右手で敬礼された
無礼な奴
右足で蹴っとばしてやったら
左足で蹴っばされた
同時同瞬の出来事だ
あれはなんとうい白昼夢の具象だったのか

 まあ、これは「他人」ではなく、細田自身の自己矛盾なのかもしれないけれどね。
 そして、「自己矛盾」だからこそ、そこに「やさしさ」がある。「矛盾」をかかえて、それでも人間は存在していることができる。生きていることができる。細田は「他人の考え」は「馬鹿にする」けれど、他人が「生きていること」に対しては、絶対に「馬鹿にしない」。


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橋本篤『あした天気になあれ』

2024-06-16 14:07:39 | 詩集

橋本篤『あした天気になあれ』(編集工房ノア、2024年06月12日発行)

 橋本篤『あした天気になあれ』の表題になっている作品は、「セツさんの呼吸がときどき止まるようになった」と、はじまる。危険な状態である。点滴を増やすのではなく、減らす。そうすると「呼吸は楽になり 気分は穏やかになるのだ」という。そうした治療経過の後、詩は、こんなふうに終わる。

セツさんの部屋の隅に 分厚い一枚板の机がある
そこで書にむかっているセツさんをよく見かけた
かつては書道の先生で 弟子もとっていたという

そんな いつもの机の上に
誰が置いたのだろう ハラリと一枚の書
しっかりと 明るく のびやかに

  あした天気になあれ

 おだやかで明るい詩だ。セツさんが死んでしまったのか、まだ生きているのか、それは書かれていないが、死んだとしても、その死が明るく未来へ広がっている感じがいい。
 「一枚板の机」と「一枚の書」が響きあって、「一枚の書」なのに、がっしりした、どこにもいかない揺るぎなさがある。そこに書かれていることばが、「一枚板の机」のように、セツさんを支え続けたのだと教えてくれる。
 「化粧療法」は、認知症のケアのひとつとして取り入れられている。「化粧が始まると 表情はキリリと引き締まる」。最初は、明るい笑顔だが、

次第に笑みは消えていき
療法などという優しい雰囲気から
何やら別なものに変わっていく
のぞき込む鏡の中は 過去なのか未来なのか
それとも 見たことのない異次元の世界なのか
殺気漂う真剣勝負の世界が広がり始める

 これは「あした天気になあれ」の対極の世界である。橋本のことばは、そうした世界があることを示唆しただけで、それから先へ進まない。ここには、橋本の医師志としての「抑制」が働いているのだが、詩は治療ではなく「文学」なのだから、「殺気漂う真剣勝負の世界が広がり始める」と抽象的に世界を閉ざしてしまうのではなく、具体的に「異次元の世界」を押し広げてもらいたいと思う。
 その方が、より深い共感を呼び起こすと思う。
 なぜ、「より深い共感」になるか。それは、もしかすると、その世界が認知症のひとの世界ではなく、私たちそのものの世界でもあるからだ。「認知症の人の世界」とくくってしまうと、そこには「客観性」が優先して、「主観的な共感」が一歩引き下がってしまう。
 「あした天気になあれ」には、その書に込めた願い(文字を書くことで自分の生を整え続けたセツさんの願い)が、「主観的共感」として具体的な形になっている。ほかの書、乱れた文字、乱れたことばの書もあったかもしれない。けれども、誰か(それは橋本かもしれない)は「あした天気になあれ」を選ぶことで、セツさんといっしょに生きている。その「いっしょに生きている感じ」が「化粧療法」にもあればいいと思う。
 そして、それは、もしかしたら「共感」ではなく、「反感」や「恐怖」かもしれない。そのことを、最終連で、橋本はこう書いている。

そろそろ人生店じまい などとつぶやいて
気弱なロマンチストの男たちに比べて
おばあさまパワーは 世の雑音をものともせず
明日に向かって ますます燃えさかる

 これが「共感」にかわるためには(かえるためには)、どうしたって、「 殺気漂う真剣勝負の世界」の具体的な描写が必要なのである。起承転結の「転」は激烈であってほしい。
 
 「ホタル草」は、橋本の母のことを書いている。ひとり暮らしだったが、いまは高齢者施設にいる。住んでいた家は空き家になっている。

野草が大好きだった母 庭は花で溢れていた
多くの花たちは 趣味の水彩画に残っている

私はせめてもの親孝行にと
ホタル草だけは鉢に移して 施設のベランダまで運んだ
この はかなげな天使は 母のお気に入りの一つで
春から秋にかけて 空色のフリルを風になびかせながら
二つ三つと 咲きつづける

それから 半年はたっただろうか
母は昼間からも 寝入るようになり
ベランダのホタル草を 振り向くこともなくなった
私はこの花を 自分のマンションに引きとった

夜になると 母は 施設の一人部屋で
昼間にもまして深々と眠る
持ち帰った鉢植えが気になって、夜中
懐中電灯で照らしてみたことがある
ホタル草も深々と寝入っていた

 母とホタル草が静かに重なり、その重なりのなかで、橋本のこころが落ち着いているのがつたわってくる。とてもいい詩である。
 どんなふうにいい詩かというと。
 私はホタル草が、母の描いた水彩画のなかで「深々と寝入っている」のを思い浮かべたのだ。深々と眠っている母が、その夢のなかで、大好きなホタル草が、二つ三つ、眠っていくのを描いていると想像したのだ。
 そんなことは、もちろん書いていない。書いていないけれど、その書いていないことを、思わず想像させてしまうのが、いい詩なのである。そうした想像を支えることばが、詩のどこかに静かに存在している、世界を支えているというのが、いい詩なのである。

 


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荒川洋治「裾野」ほか

2024-06-15 22:33:21 | 現代詩講座

荒川洋治「裾野」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年06月04日)

 荒川洋治の作品と受講生の作品を読んだ。

裾野  荒川洋治

少女たちは 父親の顔をして
先頭を歩いた
十年もたつのに
重心は高く
山の雲がふくらむ

軽い荷物には
焼き菓子が 紙に包まれて
曲がり角のたびに
宕々とものを落とす

楽な気持ちをつづける詩も
きれいな心にさしむかう歌も
よく開墾された散文も邪魔になる
人は人のそばを通りぬけるので

先頭は見えない
裾野からは
努力であることしか見えない
きょうも大きな岩が落ちていた

 「むずかしいことばはないのに、読むのにむずかしい。テーマは重いと思うが、焼き菓子などがでてきて、おもしろい」「主題がわからない。なぜ少女たちが父親の顔をして先頭を歩いたのか。戦後の厳しさを書いているのか」「三連目の『よく開墾された』からの二行が印象的で考えさせられる。人生に対する諦観がみえる」「三連目も印象的だが、最終連の、終の二行がおもしろい。見えないものをめざしているのかな?」「俯瞰の仕方が、他の詩人とは違う。ことばの入れ替えがあり、わかりにくい」
 「むずかしい」「わかりにくい」というのは、「散文的な意味(論理)」を追いかけることができないということだと思う。登場する少女たちに対する説明が一切ないからだ。何を書いてあるかというヒントは詩集のタイトル『北山十八間戸』にある。この詩を持ってきた池田は、それがハンセン病の患者のたその施設という説明をした。しかし、そうした「背景」がわかったとしても、やはりこの詩が難解であることにかわりはないだろう。
 むしろ、「印象的」と感じたときの、読者自身の「感じ」が大切なのだと思う。何かわからないけれど、こころが、ことばに誘われて動く。その瞬間に、「意味」になる前の何かがある。
 三連目が印象的なのはなぜだろうか。詩、歌、散文ということばが登場する。気持ち、心ということばも出てくる。何かしら、ことばそのものについて語ろうとしているのかもしれない。
 私がこの詩で注目したのは、三連目の最後の行。「人は人のそばを通りぬけるので」。この連だけ「ので」で終わっている。「人は人のそばを通りぬける」で終わると、何か、意味(?)が違ってくるだろうか。違ってくる、と、私は感じる。少なくとも、ここには「ので」と書かないと気が済まない荒川がいる。「ので」は、何かしらの「理由」めいたものをあらわす。荒川は、この詩全体に、何かしらの「理由」、つまり生きてきた人間の「歴史」を感じているのである。その「歴史」の感じをつたえるために「ので」と書いたのだと私は思う。
 いつでも、どこにでも、人間が生きている「現場」には、人間をとりまく「理由」がある。「十八間」という「広さ」にも「理由」があるだろうし、「大きな岩が落ちていた」にも「理由」があるかもしれない。「きょうも」ということわりは、きのうも、あすも、を意味するだろう。そうすると、そこには「過去、現在、未来」という「時間」があり、「歴史」があることになる。
 この「時間」の意識は、一連目の「十年もたつのに」の「十年」につながるだろうし、その「十年もたつのに」にも「のに」という「理由」というか、「根拠」というか、「気持ち」の連続がある。
 何が書いてあるか、わからない。しかし、そのことばの奥には、そうした微妙な「連続」があり、その「連続」は、かってきままのようであって、実はかってきままではなく、揺るぎない「持続」である。ことばのリズムが、そう教えている。
 荒川洋治は、「気持ちの持続」を書く詩人である、と私は感じている。

たんぽぽに  杉惠美子

綿毛となって 軽やかに曲線を描き
蝶が舞う風を起こして
鳥たちとともに
空に踊る
軽やかに空を踊る

この祈りを
受けとめてくれる
受け継いでくれる
育ててくれる

優しい人間を探して

舞い降りる
舞い降りる

繋いでくれないか
残していく子らに
手渡してくれないか

 「すばらしい詩。書き出しの二行は、私には思いつかない。二連目の『祈り』が『優しい人間を探して』『繋いでくれないか』へと展開していく。論理的だし、空間も広がる」「タンポポの存在が詩のなかで表現されている。『祈り』は何かな、と私はいま考えているところ。作者の考えている『祈り』は、詩を読むとわかった気がする」「一連目から、詩の世界がめざされている」「やさしい詩。坂村真民の詩を思い出した。次世代へのメッセージがある」
 私は、まず一連目の「空に踊る」「空を踊る」の変化に注目した。助詞がかわるだけで、世界が大きく変化する。主語が鳥(タンポポ?)から空に変わった感じ。その変化を受け継いで、二連目から新しいことばの次元がはじまる。一連目が現実の描写だとしたら、二連目以降は「精神」の描写。「祈り」ということばが象徴するように、精神(気持ち)が書かれていく。「くれる」「くれる」「くれる」とつづいたことばが、最後は「くれないか」「くれないか」にかわる。あいだにある「探して」の「して」という中途半端というか、つなぎ(接続)を要求する独立した一行のつかい方もおもしろい。(この「して」は一連目にもあるけれど。)
 ことばのリズムが、ことばの運動(変化)をしっかり支えている。

ウォーターマーク  青柳俊哉
 
身体の奥に波うつ指紋
二重の螺旋をおりて星の水場へ
 
蝶の羽の紋 あるいは水門の
葉もようの編み目をくぐりぬけて 
別の銀河の海で禊(みそぎ)する
 
水源へ 百合の花の底の海へ蘇る
蜜に溺れる蜂が最後の痛苦をもとめるから
 
ゆれる 鳥かげが響く水籠
飛ぶ鳥籠の中の石
 
隆起する海の
水母の口から汲みだされる星の石場へ
もう一つの輪の始まり

 「タイトルの『マーク』がわからない。水が次々に変化している。連のつながりを感じる。『もう一つの輪』『水母』がわからないけれど、おもしろい」「タイトルだけがカタカナだけれど、水の指紋のことかなあ。『飛ぶ鳥籠の中の石』が唐突な感じがする」「考えさせられる。『星の石場』『別の銀河』が印象的。最後の連に希望を感じる」「最終行をめざしてことばが動いている、最終行へもっていくために、ことばを展開しているということを感じた」
 この詩にも、荒川の詩について触れたときにつうじることばがある。「蜜に溺れる蜂が最後の痛苦をもとめるから」の「から」。読者にとっては、この「から」はなくても、「意味」は変わらないと思う。しかし、青柳は、この「から」を書かないと、詩のことばが動いていかない。ここには、まだことばとして書かれていないことば、ことば以前のことばが隠れてる。
 その書かれていないことば、青柳の「肉体」のなかで動いていることばと向き合うために、他のことばが書かれている。このふたつのことばの関係は「二重の螺旋」のようなものかもしれない。緊張感が、ことばを、イメージを複雑にする。

亡き母と私の身近にあるすべての母性へ捧ぐ  堤隆夫

帰らない息子 帰らない娘の不在を
母と身近にある母性よ
決して悲しむこと無かれ
子らの不在
それは 母性の欠乏が原因ではなく
母性の横溢の結果なのだから

欲望は 横溢の子だから
帰らない息子 帰らない娘の不在を
母と身近にある母性よ
決して嘆くことなかれ
帰らないこと
それは 子らの 母なる大地からの決別の表象などではなく
いつの日か その大地に帰趨するための
通過儀礼の旅の途中なのだから
それは 子らの ひとりの母なる胎内空間から
驟雨の町にたたずむ
無限数列の母なる胎外空間への
メービウスの宇宙の帯への 体験飛行なのだから

不在とは その不在たるひとの
肉体の不在というよりは
その不在たるひとの
精神の不在がおそろしいのだから

母と身近にある母性よ
帰らない息子 帰らない娘の不在を
決して嘆き悲しむこと無かれ
そは いつも 母なるあなたの胸のゆりかごで
あえかなる寝息とともに 微睡んでいるではないか

 「『母と身近にある母性』という表現が意外」「一連目の『子らの不在』からの三行がすべて。『無限数列の』からつづく二行がおもしろい。ふつうはつかわない表現。三連目の四行も。しめくくりが、堤さんらしい。言い切っている。それによって意志が明白になっている」「三連目の『肉体の不在』からの三行は、とてもにくわかる」「母親として、はげまされる」
 堤の詩にも「理由(根拠)」をしめすことばがある。「なのだから(のだから)」。しかし、この「だから」は荒川は「ので」とはずいぶん違う。明確な「論理」である。この論理性ゆえに、堤の詩は、非常に構築的な印象がある。そして、その強靱な印象を「なかれ」や「そは」というような「古典的」なことばがいっそう強めている感じがする。だから「あえかなる」や「微睡む」というやわらかなことばも、その辞書的意味(?)とは逆に、なにか「ゆるぎない」もの、「確実な」ものという感じがする。
 「不在」や「無限数列」「通過儀礼」という、「漢語(?)」よりも「だから」の方が、堤の詩の世界を特徴づけているように感じる。

たぷ  池田清子

世の中の理不尽が
私の肩にかかっているとは
思わないが

何かが
私の肩を重くしている

稀勢の里に似た
無表情の愛らしい
たぷの里

たぷが乗っかっているのだと思えば
気持ち軽くなるような

 「好きです。すごく、いい詩。絵本の絵より、おもしろい」(この詩は、朝日新聞に紹介されていた、藤岡拓太郎の「たぷの里」、ナナロク社出版に触発されて書いたもの。講座では、その一部も紹介された)「かわいい詩。ユニーク。私には書けないおもしろさがある」「読んだとたんに気持ちが楽になる詩」「たぷの音とイメージが、この詩の本質」
 この池田の詩では、最後の「ような」がとてもすばらしい。「気持ちが軽くなる」と断定せずに「ような」とつづけることで、気持ちを読者に預けている。この断定を避けた表現は、一連目の「思わないが」にもあるが、この「思わないが」は何か「論理」を動かす表現だが、最後の「ような」は「論理」を誘わず、あいまいさを誘う。「気持ちが軽くなる」ではなく「気持ち軽くなる」と助詞の「が」がないのも非常に効果的だ。論理を脇においておいて、ふわっと気持ちが動いている。その「軽さ」が、とてもいい。

 


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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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Estoy Loco por España(番外篇446)Obra, Jose Miguel Palacio

2024-06-14 20:47:36 | estoy loco por espana

Obra, Jose Miguel Palacio
"Tienda Diesel el Paseo de Gracia , Barcelona"
óleo sobre lienzo, 130 x 195 cms, 2015

 ¿Qué es arte? ¿O qué significa ver? Creo que "cortar" es un arte. O creo que no ver, o en otras palabras, ver selectivamente, es arte.
 Así como cuando uno ama a una persona, y uno olvida a otra, el arte elige un determinado objeto y un determinado momento para expresarlo. Se olvida de todo lo demás y se centra en una cosa. De ahí nace el arte.
 La obra de José Miguel "corta" la visualización selectiva. Dibuja todo. Dibuja todo lo que ve sin omitir nada. Súper realismo.
¿Pero es verdad? También en este cuadro hay una “elección”. La cabeza sin rostro de un maniquí. La mitad del rostro de un joven reflejado en una ventana. Sin darme cuenta, veo el rostro del joven superpuesto al rostro blanco del maniquí. "Quiero llevarme ese vestido". Pensando así, recordé el día que miré el mostrador.
 La obra de José Miguel requiere que recorte un determinado momento de mi memoria y lo superponga a una pintura. Un recuerdo se elige dentro de mí y los demás se descartan.
 Me atacan fuertes mareos.

 芸術とは何か。あるいは、見るとは何か。私は「切り捨てる」ことを芸術だと思っている。あるいは、見ないことを、言い換えると選択的に見ることを芸術だと思っている。
 一人の人間を愛したとき、別の人間を忘れるように、ある対象、ある瞬間を選んで表現する。ほかのものは忘れて、ひとつに集中する。そこから芸術は生まれる。
 Jose Miguel の作品は選択的に見ることを「切り捨てている」。すべてを描いてしまう。目に入るものを、全部、何一つ省略せずに描く。スーパーリアリズム。
 だが、ほんとうだろうか。この絵にも、「選択」はある。マネキンの顔のない頭。ウンドウに映った若い男の顔の半分。私は知らず知らずに、マネキンの白い顔に若い男の顔を重ねて見てしまう。「あの服を着てみたい」。そう思ってウンドウを見つめた日を思い出してしまう。
 Jose Miguel の作品は、私の記憶の中から、ある瞬間を切り取り、その絵に重ねることを要求してくる。私の中からひとつの記憶が選ばれ、ほかの記憶が切り捨てられる。
 私は激しい目眩に襲われる。

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Estoy Loco por España(番外篇445)Obra, Joaquín Llorens

2024-06-13 22:15:37 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 ¿Los siete arcos se están moviendo hacia un círculo? ¿Estás avanzando hacia un esférico? ¿Cuál es exactamente la forma deseada por ellos? En primer lugar, ¿saben siquiera estos siete arcos qué es el círculos o el esférico? ¿Saben cómo moverse para formar el círculo o el esférico? Tal vez los siete arcos no conocen su "forma completa". Los sueños no se hacen realidad. Los siete arcos quedarán como están. Sin embargo, una vez que se sueña un sueño, nunca desaparece, incluso si ese sueño no se hace realidad. El sueño llega de repente, y trabaja sobre la realidad. Y el sueño sobrevive más que nuestra vida. El sueño traspasa la vida del humano y siguen existiendo.
 En esta obra, está algo que aún no se ha realizado existe en una forma más fuerte que cuando se realizó. Y eso es exactamente lo que quieren.

 七つの弧は、円を目指して動いているのか。球を目指して動いているのか。その目指す形は、いったいどこにあるのか。そもそも、この七つの弧は、円や球を知っているのか。どう動けば円や球になれると知っているか。きっと、その「完成形」を、七つの弧は知らない。夢は実現されない。七つの弧は、七つのこのままである。しかし、一度夢見られたものは、その夢が実現しなくても、けっして消えない。夢は突然やって来る。そして、現実に働きかける。それは、現実よりも長く生き残る。夢は、現実を突き破り、存在し続ける。
 ここには、まだ実現されないものが、実現されたときよりも強い形で存在している。

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「資源」ということば(読売新聞の「書き方」、あるいは「罠」)

2024-06-08 21:08:00 | 考える日記

 最近、読売新聞でつづけて「資源」ということばに出合った。いずれも「安保問題」に関してのアメリカ人の発言である。とても奇妙なつかい方をしている。
 ひとつは2024年6月6日の、欧州各国がインド太平洋で「安保を強化している」というもの。アジア安保会議に出席した米調査研究期間ジャーマン・マーシャル財団の中国専門家、ボニー・グレーザー。
 南シナ海、台湾海峡で欧州の艦艇が活動しているのは「(この地域の)安定維持に欧州が貢献する意志があるという中国へのシグナルになっている」と語った上で、こう言っている。

もし米国がウクライナ支援や欧州の安全保障から手を引けば、欧州がインド太平洋に割ける資源は限られ、関与は薄まるだろう。

 もうひとつは、6月8日の記事。元国防次官補代理、エルブリッジ・コルビー。「中国の侵略 今すぐ備えよ」という見出しの記事のなかで、台湾が「アメリカがウクライナ支援を継続すべきだ」と訴えていることに関しての発言である。

 台湾は可能な限り、武装する必要がある。米国の資源には限りがあり、やるべきことを選ばなければならない。

 ふたりが語っている「資源」とは何か。ふつうは、資源というと石油とか水とかを思い浮かべるが、もちろんそうした意味ではない。
 「軍事資源」であり、それは言い換えると「軍備(艦船やミサイル)」であり、もっと言い換えると「軍事費(予算)」である。
 アメリカの予算(あるいはアメリカに同調している欧州の予算)には限りがある。アメリカが単独で世界の安全を守るわけにはいかない。それぞれの国がそれぞれの国を守るために軍事費を増やし(アメリカから軍備を購入し)、アメリカの「仮想敵国」と対応すべきである、と言っているのである。
 「資源」を先のふたりのアメリカ人が、英語で何と言っているのか、私には想像もつかないが、「資源」という同じことばで翻訳されているところをみると、たぶん同じことばだろう。同じ読売新聞の記事なのだから。そして、それがふたりに共有されていることばならば、そのことばはアメリカでは(政治家、軍事関係者のあいだでは)、認識の共有を示すことばでもあるだろう。台湾や日本は(また欧州も)、もっと軍事費を使え。アメリカの負担を軽くしろ、という認識が共有されているのである。

 さて、ここからである。
 ロシアのウクライナ侵攻。もちろん侵攻したロシアが悪いのだが、その背後には、アメリカの「思惑」が動いているのではないか。もし、ロシアとウクライナのあいだで紛争が起きたとき、欧州はどれだけ「軍事費」をつぎ込む決意があるか、それを見てみようとして「裏で」仕組んだ結果、紛争が起きたのではないのか。
 いま、アメリカではウクライナ支援が以前ほどではなくなっている。そして、欧州では武器の供与などが積極的になっている。よくわからないが、その武器にもアメリカの技術や部品がつかわれているだろう。アメリカはヨーロッパで金を稼ぎ、ヨーロッパに金をつぎ込ませている。
 同じことが、これから「台湾」をめぐって行われようとしている。アメリカの「資源」には限りがある。しかし、もし、日本や台湾がアメリカの「資源(軍備)」を購入するならば、その金はアメリカの「資源(予算の増額)」につながるだろう。軍需産業からの「税金」が増えるからね。同時に日本や台湾が軍備を増強した分、アメリカは軍備を減らすことができる。一石二鳥だ。

 ふたりのアメリカ人が「資源」ということばをつかったにしろ、それをそのまま「資源」と翻訳するのではなく、日常的に私たちがつかっていることばに翻訳して記事にすれば、ふたりの発言は違ったものに見えてくる。そうしないのは、読売新聞が、アメリカの戦略にそのまま加担するということである。

 軍隊というのは、基本的に「自分の国を守る」組織だろう。しかし、アメリカがやっているのは「自分の国を守る」ということではない。「警察」となって、世界を支配しようとしている。アメリカが金もうけしやすい国にするために、動いている。アメリカの金もうけに反対する国は許さない、取り締まるという「警察」として動いている。
 その「旗印」として「自由主義」とか「グローバル化」ということばがつかわれている。アメリカの言う「グローバル」は各国の独自性を認めた多様な社会ではなく、アメリカの資本主義によって支配された「単一」の世界である。アメリカの金もうけ各国が協力する世界である。
 アメリカが豊かになれば、その豊かさは世界に還元されるというひともいるかもしれない。安倍政権のときに流行した「トリクルダウン」だが、そんなものは実際には起きなかった。金持ちがより金持ちになり、貧乏人がより貧乏人になった。同じことが起きるだけである。
 実際、同じことが世界で起きたではないか。
 ロシア・ウクライナ戦争の影響で世界中のインフレが進んだ。物価が上がったのは、企業が「利潤」を上げようとしたためである。庶民の給料が物価にあわせてどれだけ上がろうが、その「増加分」は、企業がインフレによって確保する利益の「増加分」には及ばない。企業は企業の利益を確保した上で(露骨に言えば、増やした上で)、労働者の賃金を上げているにすぎない。トヨタが賃上げの結果、利益が激減した、というようなことは絶対に起きないのである。
 さらに軍事費にまわす「予算」が足りないというのなら、国民の税金を増やせ。賃金を上げれば必然的に「所得税」も上がる。それを軍事予算に回せばいいじゃないか。そういう「議論」も、きっとどこかで行われているはずである。トヨタは、たしか組合要求を上回る賃上げを行ったが、これなんかも、私からみると従業員のためというよりは、「国策」(軍事予算増額)に協力することで、政府からの「見返り」を期待してのことだろうなあ。
 だれも言わないが。
 ロシア・ウクライナ戦争にしろ、イスラエル・パレスチナ戦争にしろ、その支援によって、アメリカの軍需産業が大赤字になったというようなことは絶対に起きない。アメリカの軍需産業がウクライナ支援のために武器を無償で提供し、そのために大赤字になった、そして倒産した、というようなことは絶対に起きない。
 いま起きていることと同時に、絶対に起きないことにも目を向けて、ことばを動かしていく必要がある。そして、そのとき、ことばを常に自分の知っている範囲の意味でつかうことが大切なのだ。
 アメリカの軍事専門家が「米国の資源」ということばをつかうなら、「それは、たとえばアメリカの石油のことですか? 電力のことですか? あるいはアップルなどの新商品をつくりだす能力のことですか?」と尋ね、意味を明確にする必要がある。
 かつて、(いまでも)、日本では、何か新しい「概念」で国民をごまかすとき「カタカナ語」がつかわれたが、最近は手が込んできて「漢字熟語」、「既成のことば」もつかうようになってきたようだ。
 
 「新聞用語」(ジャーナリズム用語)には、気をつけよう。

 

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