詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(74)

2024-01-31 19:30:01 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 ここからはオジッセアス・エリティスの作品。
 最初は「エーゲ海」。三つの断章で構成されている。しかも、その一行一行が短く、体言止めの行が多い。イメージが並列しながら世界が展開する。そのなかから一行だけを選び出すのはあまりにも乱暴すぎるかもしれないが。

花嫁、船を待つ。

 「Ⅰ」の部分の二連目の最後の行。読み方は二通りに可能だろう。助詞「が」を補って花嫁「が」船を待つ。「と」を補って花嫁「と」船を待つ。後者の場合、花嫁といっしょに船を待つことになるのだが、意識の重心は「船を待つ」ではなく、「花嫁」になるだろう。船を待っている、ただ待っているのではなく、花嫁と待っている。意識は花嫁を離れない。花嫁と一体になっている。詩人が花嫁の気持ちになっている、という感じか。
 どっちだろう。
 手がかりは「が」を補ったときの印象である。(あるいは「が」を省略したときの印象である、と言い換えてもいい。)「が」があると、一行が散文的になる。読点で区切り、一呼吸置くと花嫁と船が同じ強烈さで迫ってくる。いや、花嫁の方が印象が強くなる。主語であることが、単に文法の問題ではなく、主役は花嫁だという印象になる。
 ここからもう一度「と」を補った行を読み直すと、こんなことも考えられる。私は(詩人は)花嫁「と」船の両方を待っている。主語は、書かれていない「私」になる。花嫁は船に乗ってやってくる。私と花嫁が船に乗って旅に出るのではなく、私は船に乗ってやってくる花嫁を待っている。このときも、本当に待っているのは、花嫁。船は「補足」になる。
 いずれの場合にしろ、この詩では、花嫁に焦点が当たっている。助詞を省略し、そこに読点「、」を置くことで、中井は「焦点」が何であるかを明確にしている。「が」にしろ、「と」にしろ、助詞を補った瞬間に、そのスポットライトは消え、平板な風景になる。

 いったい原文はどう書いてあるのだろう。そのことが非常に気になる訳である。

 

 


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Estoy Loco por España(番外篇430)Obra, Emilio Sanchez Garcia

2024-01-30 22:00:25 | estoy loco por espana

Obra, Emilio Sanchez Garcia

 Sólo puedo reconocer lo que ya sé. Además, sólo puedo reconocer las cosas como quiero reconocerlas. Por ejemplo, estas obras de Emilio. No quiero reconocerlas como hierro, piedra o madera. No puedo evitar reconocerlas como pájaros. ¿Me pregunto a mi mismo porque? Estas obras no ponen huevos. No vuelan en el cielo. Sin embargo, los reconozco como pájaros.
La cognición, el cerebro, es extremadamente egoísta. Distorsionan arbitrariamente los hechos. Y me siento aliviado por el hecho de haberlo "entendido". ¿Pero está bien?
 El gran arte siempre me pregunta: "¿Es correcta tu percepción? ¿Está bien?". Lo que reconozco como pájaro, su forma, tiene el poder de preguntar si es correcta. Siento que estas son pájaros, pero por alguna razón siento como si me estuvieran golpeando en la cabeza. Algo me grita: "¡Despierta!" Ese algo es el "lo real" en la obra de Emilio.

 私はすでに知っているもの(知っていること)しか認識できない。しかも、自分が認識したいようにしか、認識できない。たとえば、このEmilioの作品。それが鉄であるとか、石であるとか、木であるという具合には認識できない。どうしても鳥だと感じてしまう。なぜなんだろうか。この作品は、卵を生むわけではない。空を飛ぶわけではない。しかし、鳥だと認識してしまう。
 認識、脳というのは、非常にわがままなのだ。勝手に事実をねじ曲げてしまうのだ。そして、「理解」したことのなかで安心してしまう。しかし、それでいいのか。
 優れた芸術は、いつも、「お前の認識は正しいのか、それでいいのか」と問いかけてくる。私が鳥として認識しているもの、その形は、それで正しいのかと問いかけてくる力を持っている。これは鳥だと感じながら、私はなぜか頭を殴られているような気持ちになる。目覚めろ、と何かが叫んでいる。何かとは、Emilioの作品のなかにある「本物」だ。

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ヨルゴス・ランティモス監督「哀れなるものたち」(★★)

2024-01-30 17:18:43 | 映画

ヨルゴス・ランティモス監督「哀れなるものたち」(★★)(中洲大洋スクリーン1、2024年01月29日)

監督 ヨルゴス・ランティモス 出演 エマ・ストーン、マーク・ラファロ、ウィレム・デフォー

 簡単に言ってしまえば、これは映画ではなく「安直な文学(大衆小説)」です。つまり、スクリーンで展開されていることをことばに置き換え、ストーリーにすると、それなりにおもしろい。趣向が変わっているので「純文学」と思い、ストーリーがよくわかるというので、絶賛する人がいるかもしれない。ちなみに、映画COMには、ストーリーをこんなふうに要約している。「不幸な若い女性ベラは自ら命を絶つが、風変わりな天才外科医ゴッドウィン・バクスターによって自らの胎児の脳を移植され、奇跡的に蘇生する。「世界を自分の目で見たい」という強い欲望にかられた彼女は、放蕩者の弁護士ダンカンに誘われて大陸横断の旅に出る。大人の体を持ちながら新生児の目線で世界を見つめるベラは時代の偏見から解放され、平等や自由を知り、驚くべき成長を遂げていく。」
 問題は、「新生児の目線で世界を見つめる」なんだけれど、これは「驚くべき成長を遂げていく」に合致しない。成長するに従って「新生児の目線」ではなくて、「成熟した女性の視線」で世界を見つめる。つまり、女性の目覚めを描いているという点では「ジュリア」のようなものなのだが、これを「新生児」なのに「大人の体」を持った女性を登場させることで、なんといえばいいのか、一種の「パロディー」にしてしまっている。女性が自分自身の性に、そして社会の不平等さに目覚め、自立していくということが、ひとりの女性の生き方として描かれるのではなく、「女性というものはこういうもんだよ」と要約されてしまっている。女性が、肉体を持った魅力的な人間としては描かれてはいない。あからさまにいって、エマ・ストーンの繰り広げるセックスシーンを見て、あ、こんなセックスをしてみたいと思った観客が何人いるだろうか。エマ・ストーンに、こんな表情をさせてみたい、エマ・ストーンのこんな表情をセックスのときにしてみたい、そう思った人が何人いるだろうか。だれも、そんなことを思わないのではないのではないか。肉体を抜きにして、頭のなかで、ことばだけで、想像していた方が楽しいだろう。
 さらに言えば、成長を遂げていくのが主人公だけであって、主人公に出会うことによって「世界」(他人)が目覚めていかないというのが、この映画(ストーリー)の最大の問題点。世界は変わりません、エマ・ストーンだけがかわります、というのでは、ストーリーを人間が体現して見せるだけの「意味」がない。アニメでも人形劇でもいい。いっそう、その方が「リアル」だったと思う。
 予告編や宣伝をかなりいい加減に見ていたせいか、私は「大人の体を持ちながら新生児の目線で世界を見つめる」ことによって「世界の本質があばかれていく」という映画だと思っていた。ぜんぜん、そうではなかった。世界の本質も暴かれなければ、女性が目覚めるわけでもなかった。(目覚めたのかもしれないが、それは、もう語り尽くされた目覚めにすぎなかった。)
 唯一おもしろかったのは、エマ・ストーンが乗る馬車、というか、車というか。エンジン(?)つきの車なのだが、まわりが馬車の時代なので、運転手がハンドルではなく、機械仕掛け(?)の馬の上半身を手綱であやつっている。ほんとうは「進歩」しているのに、世界の(周囲の)状況にあわせて、あえて「古い」を装っている。これは、いわばこの映画の逆説にもなっている。ほんとうは「古い」のに「新しい」を装っている。装いにだまされることが好きな人は、まあ、満足するかもしれない。月に2本映画を見るのは厳しい、という年金生活者には、ああ、金を無駄遣いしてしまったなあという気持ちが残ってしまう映画だった。


 


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こころ(精神)は存在するか(6)

2024-01-30 15:39:10 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第六巻。「ホメーロス批判」の125ページに「まとめなおす」ということばが出てくる。「まとめる」という動詞と「なおす」という動詞が組み合わさったことばである。「イリアス」を完成させたのは誰か。複数の人間が、現在残っている形に「ととのえおなした」のではないか。そこには複数の人物の「構想力」が交錯しているのではないか。
 この「まとめる」という動詞は170ページにも登場し、「まとめなおす」は171ページでは「整理して」「編み込む」という形で出てくる。
 私が「構想力」ということばで呼んだものを、和辻は「見渡す」ということばをつかいながら「全体の構図を見渡す」(177ページ)と書いている。「全体の構図(全局ということばが178ページにある)」を見渡す力が「構想力(和辻のつかっている構図ということばのなかに、同じ構という漢字がある)」である。「見渡す」そのものは(175ページ)に出てきて、それは「見とおす」(183ページ)ということばにもつながっている。
 和辻の文章の基底には、いつも肉体の動き、具体的な動詞が存在する。
 「編み込む」という動詞に関連しては、195ページで「手の働きが見出せる」と書いている。和辻には、「手」が見えるのである。「頭の動き」ではなく、「手の働き」として、ことばをとらえているのである。精神の動き、こころの動きというような、抽象的なものではなく、あくまで「手の働き」に引き戻して、ことばと肉体をつないでいるように感じる。私が和辻の文章に惹かれるのは、それがあるからだ。
 ついでに書いておくと、和辻は「手の動き」ではなく「手の働き」と書く。「動く」は単独で可能だが、「働く」という動詞は「相手(対象)」が必要である。そこには「具体的な接触」がある。自分の肉体が、何かと「接触」し、それを「動かす」。それは逆に言えば、「対象(相手)」しだいで、自分自身の「働き方」を変えないと何もできないということでもある。「働く」ということは、自分自身が変化することでもある。

 このことと関連すると私は考えているのだが、和辻は「思想」ということばを否定的な意味合いでつかっている。168ページ。

この作者にあるのは人間の運命が神々に支配されているという「思想」だけであって、神々の世界と人間界という二つのことなった世界の並行的なヴィジョン(幻視)ではない。

 和辻は、「思想」と鍵括弧付きで、このことばをつかっている。「固定化された考え方」(規定の考え方、動きのないもの)という意味であるだろう。それは「意図(結論が想定されている)」につながるかもしれない。動く「思考」ではなく、動いたにしろ「結論」が判明している何か、それにつながるものが「思想」である。そこでは、自分は動いていかない、変化しない。
 ここから、もう一度、43ページのことば読み直してみる

 Philosophie(哲学)は非常に多くのことを約束しているが、自分は結局そこからあまり得るところはなかった。Philologie(文学)は何も約束していないが、今となってみれば自分は実に多くのものをそこから学ぶことができた

 「思想」とは「哲学」である。「約束された世界(結末)」である。一方「文学」には「約束された結末」がない。ただ「構想力」があるだけで、それはどこへ動いていくかわからない。人間が、生きて、動いていく。
 和辻は文学の登場人物に人間の動きを見ると同時に、その作者にも「肉体の動き」を見ている。「まとめなおす」「見渡す」「見とおす」「編み込む」「手の働きが見出せる」ということばが、それを語っている。
 人間に精神とかこころとか呼ばれるものがあったにしろ、それは「目(で見る)」とか「手(で編む)」とか、肉体の動きに還元できるものである。

 これは、逆の言い方もできる。和辻のことばではないが、百人一首の平兼盛の歌、「忍ぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。恋(こころの動き)は色(素振り、態度)になって、人にわかってしまう。見られてしまう。どんなときにも、人間には「肉体」がある。

 

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(73)

2024-01-30 14:44:33 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「陶工」。壺や鍋をつくっている陶工。土が残った。だから、

女を造った。乳房を硬く大きくした。

 ギリシャ語では、どう書いてあるのだろうか。たぶん、句点「。」ではなく読点「、」でつながる一行、いや、読点さえもないかもしれない。それ以上に気になるのが「硬く」ということばである。
 粘土でつくるおんな。乳房がやわらかいわけがない。どうしたって硬い。
 そこで、思うのだ。たとえばミロのビーナスの乳房。あれは硬いか、やわらかいか。大理石だから、触れば硬い。しかし、見かけはどうか。どれくらいのやわらかさか。
 ここには、男(陶工)の夢が託されている。それは詩を最後まで読むとわかるのだが、「硬さ」というひとことで、詩の展開を「予言」させているところがとてもおもしろい。そのポイントを緊張感のあることば、文体で中井は訳出している。

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇429)Obra, Joaquín Llorens

2024-01-28 21:37:49 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 Cuando vi esta obra, me acordé de la obra "人, o persona" que presenté el 1 de enero. Aquí una de la 人 (probablemente Joaquín) sostiene a la otra. Podría ser su esposa. Podría ser su hijo. La persona en sus brazos se siente completamente aliviada y su cuerpo flota en el aire. Sus rostros están muy juntos como si estuvieran a punto de besarse. El pequeño objeto atrapado entre dos cuerpos puede ser un hijo. En otras palabras, su esposa está embarazada y, en su alegría, están a punto de besarse.
 La razón por la que asocio esto es porque cada parte de la escultura está llena de cálida. Aunque está hecho de hierro, no siente nada de frío. Tampoco es dureza. En otras palabras, hay fuerza que posee el cuerpo humano. Es similar al cuerpo humano, que se fortalece al comunicarse entre sí. Parece una forma de familia.

 1月1日(421)で紹介した「人」につながる作品。ここでは、人のうちのひとり(たぶんJoaquin )がもうひとりを抱き抱えている。妻かもしれない。子供かもしれない。抱かれた相手は、安心しきって体を宙に浮かせている。顔はキスするときのように接近している。抱えあげられた方がキスを求めている。ふたつの肉体の間にはさまった小さな立体はこどもかもしれない。つまり妻は妊娠し、その喜びで、ふたりはキスしようとしている。
 こういうことを連想するのは、彫刻のひとつひとつの部位が温かい力に満ちているからだ。鉄なのに、冷たさがまったくない。固さもない。言い換えると、人間の肉体がもっている強さがある。こころを通い合わせることで強くなる人間の肉体、家族の姿に似ている。

 

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杉惠美子「ハプニング」ほか

2024-01-28 18:01:57 | 現代詩講座

杉惠美子「ハプニング」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年01月14日)

 受講生の作品を中心に。

ハプニング  杉惠美子

接触事故で電車が止まった
復旧の目途は立っていませんと
アナウンス
駅のホームには既に並ぶ人々
こんな待ち時間は何と説明するのだろう

おみやげにもらった饅頭を
食べたいけれどそういう訳にもいかない
別に焦る気持ちもないけれど
黙って待つより他はない

少しずつ夕暮れ時の空に包まれ
寒気がしてきた
ビルの明かりがより明るくなり
時間を取られたのかもらったのかと考えた

昔、    たまたま帰りの電車で
父と一緒になった時の、父の横顔を
思い出した

 「三連目、時間を取られたのかもらったのかと考えた、がおもしろい。二連目の、実際に起きた出来事に、作者の気持ちが重なっていく部分が、とても自然に読むことができる」「日常的な時間の流れ、待つという行為を通じて、別の時間が現われる。それが三、四連目につながる。ビルの明かりがより明るくなり/時間を取られたのかもらったのかと考えた、から時間がゆっくり流れ、過去へ入っていく。その変化が詩的」「胸に迫ってくる。ハプニングから、少しずつ変化し、三連目の、寒気がしてきた、で冬の時間であることが自然にわかる。父に会ったことも、一つのハプニングだとわかる」
 とても自然な感じ、ある意味ではエッセイのように淡々とことばが動いていくのだが、最後の連がとても印象に残る。「昔」と書いてあるのだが、まるで、いま、実際に父に会っているような感じでもある。「昔」が何年前なのか、作者にはわかるが、読者にはわからない。それが、特にいい。どんな「昔」でも、思い出した瞬間、その「昔(時間)」は作者のすぐそばに存在している。
 「ビルの明かりがより明るくなり」という一行が、そういう「感覚の動き」ととてもよく似合っている。ある意味では、その一行は四連目を先取りしている。遠い昔が、突然、鮮明に輝き出したのである。昔なのに、いまであるかのように、すぐそばにきている。
 時間をテーマにした詩はむずかしくなりそうだが、二連目の「饅頭を/食べたいけれどそういう訳にもいかない」というユーモアが、全体をやわらかくしている。

まるちゃんの窓  緒加たよこ

撫でてもらったの
おなか
指3本分の
ねむりながら
まるちゃんを撫でたつもりだった
その手は
おなかを撫でてくれた
まるちゃんの気持ちになった
うっとりするね
撫でてって いうね
まるちゃんは きょとんとしてたけど
まるちゃんになったよ
夜 あったかかった
朝も あったかかった
障子を引いたら
まるちゃんの窓が開いてた
昨日 まるちゃんがアツイっていったから
開けてた 指3本分
寒くなかったよ
昨日 まるちゃんは帰ったけど
まるちゃんの 窓をみつけて
笑ったの

 「まるちゃんを猫だと思って読んだ。書き出しの、指3本分が体温の温かさを感じさせる。私ということばは書かれていないのだが、私とまるちゃんが一体になってる。指3本分は後半の部分で窓と交錯する。意味はつかみにくいが、あいまいにぼかされていることでより一体感が出てくる。書き方がやさしく、ぬくもりのある詩」「最近の緒加さんの詩は輪郭がつかみやすくなった。いいなあ、と思う。ことばにスタッカートが効いているが、同時に展開にやわらかさ、まるさがある」「猫は飼ったことはないが、犬にはない猫のよさが伝わってくる。一体感がよく書けていて、猫と人とのつながりがあり、気持ちがいい」
 作者によれば「まるちゃん」はマルチーズということなのだが、私も猫を想像した。二年目の「その手は/おなかを撫でてくれた/まるちゃんの気持ちになった」の非文法的な(?)ことばの展開がユニークでおもしろい。やわらかいというよりも、不定形な猫の肉体を想像させる。「まるちゃんの気持ちになった」から「まるちゃんになったよ」への変化、「気持ち」の省略がとてもおもしろい。「気持ち」というものも「時間」と同じように、どんなに遠く離れていても、すぐそばにある(一体になっている)と感じさせるものがある。

ダンス  青柳俊哉

水中でそばだてる耳

星が響く うえに世界がある
空中の葉が鳴る
一枚が離れ いく枚かがあとを追う

雨が乱れる
水面にふれるかすかな葉音
風のもように斜めにくずれて頭上の水が移動する

耳かしぐ

耳元へ 
風が葉と雨と星の声を連れてぐるりに流れをひき起こす

空の呼吸のような渦の中へ 
耳はばたく

 「風が葉と雨と星の声を連れてぐるりに流れをひき起こす、という一行、一気に言ってしまっているのが珍しく、とても印象的。自由な感じがし、解放されたように感じる」「絵を想像する。いつもはその絵の全体を想像するのとむずかしいのだが、今回の詩は絵が浮かんでくる」「動きがことこまかに書かれている。タイトルがいなあ」
 今回の詩は、つかわれていることばが少ない。水と耳、水の中と水の外(世界/宇宙)をつないでいる風と葉。その動きが重なり合う。そして、受講生が指摘した「風が葉と雨と星の声を連れてぐるりに流れをひき起こす」という一行に凝縮しながら、その凝縮が、ビッグバンのような爆発をもたらす。名詞ではなく、動詞が動いて、その動きの中に名詞を誘い込んでいるような緊密感がある。

年を越える  石垣りん

そして さしかかる

私たちは登りつめる。
一年の終わりの何日かを
どうしても
どうしてか
越えなければならなかった。
だれと約束したのでもない
そのことじたい目的があるわけでもない。
そういう旅を人は強いられていて
急ぐ。
なぜか この道はさびしい。
多勢の足音がきこえているのに
みんなひとりの峠を越えていく。

 「峠にはいろいろな意味が込められていると思う。それに共感する」「年を越す、なぜさびしいのかなあ。毎年、こんなふうに思っているわけではないだろう。深く思ったことがあったのかなあ」「年越し、一生のおわりの何回か。人と時間について考えさせられる。そのことじたい目的があるわけでもない、ということばは、ひとりひとりの誰にでもあてはまるのではないか」「何かを自分で越える。最後の三行、とくにひとりということばに覚悟を感じる」
 この詩の書き出しの「そして」はとてもおもしろい。「そして」という表現が成り立つとき、そこには詩人と読者の「共通認識」がないといけない。いままで、こういうことを話してきた。その話のつづきとして、これから話します(語ります)。これから書くことは「つづき」です、というニュアンスがある。
 もちろん読者は「そして」の前に何があったか知らない。そのため、突然「そして」といわれると緊張する。この詩は、読者を緊張させる、あるいは読者の関心を引きつける工夫をしていることになる。この緊張感が「さしかかる」という動詞の意味を強める。「峠」は、それがどういう峠であれ、人を緊張させる。何らかの変化が「峠」を中心にして始まることを暗示する。
 しかし、おもしろいことにこの詩のタイトルは「峠を越える」ではなく「年を越える」である。「峠を越える」ともちろん比喩としても成り立つが、実際に「峠を越える」という具体的な動きを表わすこともある。「年を越える」は、それに比べると抽象的である。だからこそ「峠」という比喩で、動詞の方に読者の意識を誘っているのだともいえる。
 「そして さしかかる」という行の中の「し」の繰り返し。その「し」の音が随所に響いているのも、この詩に緊張感を与えている。

 

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こころ(精神)は存在するか(5)

2024-01-27 22:29:22 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第六巻。43ページ。「ホメーロス批判」の「序言」にケーベル先生のことばを引用している。

 Philosophie(哲学)は非常に多くのことを約束しているが、自分は結局そこからあまり得るところはなかった。Philologie(文学)は何も約束していないが、今となってみれば自分は実に多くのものをそこから学ぶことができた

 これは、和辻自身が自分の体験を語っていることばのようにも思える。
 私が和辻の文章を読むのは、それが「文学」でもあるからだ。私のつかっている「文学」ということばは、引用した文章に出てくる「文学」とはかなり意味が違うと思うが、まあ、気にしない。
 私は「学問」として和辻を読んでいるわけではないのだから、そういうことは気にしないのである。

 この文章で印象に残るのは、「哲学」「文学」ということばと同時に「約束」ということばである。
 「約束」とは何か。
 「論理的結論」と言いなおすことができるかもしれない。「哲学」は「結論」を持つ。しかし「文学」は「結論」を持たない。「おわり」があるが、それが「結論」とは言い切れない。
 「哲学」が「論理」だとすると、「文学」とは何か。
 和辻がよくつかうことばを借りれば「人格」かもしれない。「人格」は「結論」を持たない。しかし、その「結論」のない「人格」から受け取るものは非常に多い。和辻がケーベル先生から受け取ったのも「人格的影響」だろうと思う。
 「人格」の定義はむずかしいが、「人格」を含む文章に、こういうものがある。18ページ、「ケーベル先生」。

目下の者への高慢を「心根の野卑下劣」とし、人の真の教養と気高さとが小さきものへの態度において認識せられるとした先生自身の人格のしわざである。

 「人格のしわざ」の「しわざ」ということばが強い。それは「こころ」の動きというよりも、人間の肉体の動き(態度)そのもののように、私には感じられる。ひとは態度(肉体の動き)に肉体の動き(態度)で反応する。

 

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Estoy Loco por España(番外篇428)Obra, Jesus Coyto Pablo

2024-01-27 21:10:56 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo

 Sólo una vez he visto ese color antes de que lo llamaran azul. Ese color se alejó, ocultándose detrás del rojo y el blanco. Era la forma en que un amante se alejaba diciendo: "Si realmente me necesitas, ven a buscarme".
 ¿Fue un pintor de Ruso que dijo que cuando ya no puede ver el color, este se vuelve más puro en la memoria, o un pintor de un país que combina los complejos sonidos del alrededor de Ruso? Nadie recuerda el nombre del pintor, pero sí sus palabras.
 Una vez que lo veamos, nunca olvidaremos el azul, que aparece silenciosamente en el lienzo redondo después de que el artista que pinta la luna deja el pincel. El color azul dijo que este es su lugar. Tratando de descubrir si la voz era real o fantasmal, el artista se adentró en las profundidades del color azul e inmediatamente desapareció. Dejando atrás las palabras: "Este azul soy yo".

 その色がまだ青と呼ばれる前に、私は一度だけ、その色を見たことがある。赤や白に隠れるように遠ざかって行った。それはまるで、本当に必要ならば探しにくればいいというような立ち去り方だった。
 見えなくなったとき、記憶のなかでより純粋になる色だった、と言ったのはロシア生まれの画家だったか、ロシアの周辺の複雑な音が組み合わさった国の画家だったか。誰も画家の名前を覚えていないが、そのことばを覚えている。
 一度見たら忘れることのできないその青は、月を描く画家が筆を置いたあと、ひっそりと丸いキャンバスにやってきた。ここが私の場所だ、と言った。その声がほんとうの声なのか、幻の声なのか、確かめようとして、画家は、その青い色の奥へ足を踏み入れたとたん、姿が見えなくなった。「この青が私だ」ということばを残して。

 

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こころ(精神)は存在するか(4)

2024-01-22 12:09:56 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第五巻。545ページ。

法華経は文学と哲学との合い子であって、純粋の文芸作品でもなければ、また純粋の哲学書でもないのである。同じようなことはプラトーンの対話篇についても言える

 読みながら、これは和辻の文章についても言えるのではないか、と思う。和辻の文章には、文学的魅力と哲学的魅力がある。逆に言った方がいいかもしれない。哲学的魅力と文意学的魅力がある。別な言い方をすると、哲学(論理)を追究して言って、ある瞬間に、論理を打ち破って感覚が世界を広げる瞬間がある、と私は感じる。そして、その感覚が押し広げた世界は、いままで存在しなかった論理を待っている感じがする。論理の予感がある。
 いま引用した文章にプラトン(対話篇)が登場するが、これも私が和辻に惹かれる理由である。私はいつでもプラトンを読み返したい。ここ何年か、毎年正月一日にはプラトンを読む。プラトンのことばを追いかけるのは、とても楽しい。

方便はあくまでも実践上の必要として出てくるのであって、理論上の必然としてではない。

 551ページの、このことばにも私は傍線を引いた。それは、こんなふうにつづいている。

諸説が一つの統一に達するとすれば、それは説かれた法における内容的な統一ではなくして 、むしろ法を説くブッダにおける主体的な統一だといわざるを得ない。

 「実践」は「主体的統一」と言いなおされている。「主体的統一」をもって行動(実践)するとき、そこには論理(法)ではなく「方便」が動く。「方便」とは「個別の事情」と言いなおされるかもしれない。
 「個別の事情」をそれぞれの個人の「肉体」と言いなおし、「法(論理)」を「こころ」と言いなおせば、そこからやはり「こころは存在しない(存在するのは肉体だけ)」というところへ、私のことばは動いていこうとするのだが、これは私が私自身で納得していることであって、他人を納得させる形では書き直すことはできない。
 このことと直接的な関係(論理的脈絡)を追うことは難しいのだが……。557ページ。

主題が動因であって、それが事件を産んで行く

 というのも、印象に残る。「動因」は「主体的統一」であろう。それが「肉体」だからこそ、そこには「事件」が起きる(生まれる)。和辻は、「生まれる」ではなく「産んで行く」と書いている。たしかにそれは「肉体」が「産んで行く」ものである。
 それは、どういうことかというと。560ページ。

思想の叙述を目ざしているプラトンの対話篇に対話者として現われてくる諸人物は、いずれも実に躍如として生きているように思われる。

 「主体的統一」は「生きる」ということなのである。

 きょう最初に引用した文章、文学(文芸)と哲学との融合は、558ページ以降の部分に結晶のように輝いている。

その展開は、いわば内へ渦を巻いて行くような展開であった。(略)それは思想の論理的展開ではないが、しかしそれによって思想的主題は著しく力を高めてくるのである。

 「思想」が人間の形をして動く。これは和辻の文章から私が受け取る印象そのものである。

 

 

 


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ウッディ・アレン監督「サン・セバスチャンへ、ようこそ」

2024-01-21 00:15:19 | 映画

ウッディ・アレン監督「サン・セバスチャンへ、ようこそ」(★★★★)(2024年01月20日、KBCシネマ1)

監督 ウッディ・アレン 出演 ヨーロッパ映画、ウォーレス・ショーン、ジーナ・ガーション

 「インテリア」を見たとき、ああ、ウッディ・アレンがベルイマンのまねをしている、と思ったけれど。ああ、ほんとうにベルイマンが好きなんだねえ。「野いちご」まで出てきた。「第七の封印」「鏡の中の女(だと思う、私ははっきり覚えていない)」も。ほかにも、フェリーニも、トリュフォーも、ゴダールも。いいなあ、昔の映画は。
 やっぱり「主演」は、ヨーロッパ映画だね。あ、「市民ケーン(オーソン・ウェールズ)」はアメリカか。例外だね。
 しかし、まあ、笑いっぱなしだったなあ。他の観客は、ひとり、一回笑った人がいたけれど、みんな「沈黙」。どうして? おかしくないの? この映画、みんなで大声で笑いながら見ると、もっとおもしろくなるよ。
 予告編にもあった「監督と寝たのか」「一回、いや二回、エレベーターを含めると三回、海岸を含めると四回」という会話なんか、そうか、エレベーターの中や海岸はたしかにベッドの中とは違うねえ。英語は聞き忘れたが「寝たのか」と訪ねたとき、ウォーレス・ショーンはどんな動詞をつかったのか。それが問題だね。ベッドでなら二回、でもベッド以外でも……。そんなことを「区別」しなくてもいいんだろうけれど、わざわざ区別して回数を説明するところなんか、ウッディ・アレンの脚本以外ではありえないだろうなあ。笑いが止まらなくなる。
 私がいちばん好きなのは、ウォーレス・ショーン、ジーナ・ガーション、ルイ・ガレルのレストランでの会話シーン。ジーナ・ガーション、ルイ・ガレルがウォーレス・ショーンそっちのけで会話する。テーマ(?)はウォーレス・ショーンが提供するのだが、ふたりはそのテーマを引き取りながらウォーレス・ショーンを無視して、ほとんどいちゃいちゃ状態で会話する。
 しかし、なんだね、ウッディ・アレンは、最近は、やわらかな橙色の光が大好きみたいだなあ。適度な湿度のある夕暮れの光という感じかなあ。「マッチ・ポイント」、あるいは「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」のころからかなあ、若い女の肌がとても美しく見える。それがねえ、今度はなんと、最初のウォーレス・ショーンのインタビューのシーンでも登場する。ウォーレス・ショーンは、この映画では、まあウッディ・アレンを演じているんだろうけれど、そうか、ウッディ・アレンは自分自身をあの光のなかで撮ってみたかったのかあ、と思ったら、それだけで笑えてしまう。実際、その瞬間から、私は笑いだしたのだけれど。
 ついでに言えば、私はジーナ・ガーションの顔が好きじゃない。唇のゆがんだところが。もしかすると、ウォーレス・ショーン(ほんとうはウッディ・アレン)がいい男、と思い出させるためにジーナ・ガーションをつかったのかも。ウォーレス・ショーンに比べると、同じチビとはいってもウッディ・アレンがかっこいいかもしれない。どうでもいいけれど。いや、どうでもよくないかも。きっと。
 それにしても。ちらっと見えるサンセバスチャンの街は美しい。私は、行ったことはないが、スペイン北部特有の緑があふれている。エドゥアルド・チリーダの彫刻も見に行きたい。なんでもそうだけれど、写真で見るのと、実際にその作品を見るのでは印象がまったく違う。サンセバスチャンではなく、ヒホンにある彫刻は、地元のひとが「キングコングのおしっこ」という別名で呼んでいる。彫刻の真ん中に立つと、チョロチョロという感じで水の音(風の音?)が聞こえる。サンセバスチャンにある作品も、近くで見ると何かが起きるのだろうか。

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(72)

2024-01-20 22:38:27 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「井戸のまわりで」。女たちが水を汲みにきている。誰か(恋人かもしれない)が小石を投げる。壺に当たってしまう。壺が壊れる。しかし、

水はこぼれない。水はそのままだった。

 これは非現実的だが、一瞬のこととしてならあり得る。こぼれる前、水は壺の形のまま、そこに立っている。映画の、ストップモーションのよう。そのまま動かない。そこに緊張がある。心臓が止まりそうなくらいの。
 「水は」の繰り返しが、その緊張を高める。
 原文は「水は」を繰り返していないかもしれない。一行一文かもしれない。しかし、中井は、それを二文に分けた。分けながら、「水は」を繰り返すことによって緊張感を高めている。「分断」と「接続」の、緊張した時間。とりかえしのつかない時間。
 というのも。
 たぶん、その井戸のまわりには、石を投げた男をつかまえようと待ち構えている敵がいるのだ。壺が割れれば、誰かが(隠れている男が)石を投げたことがばれてしまう。そう思ったのは、隠れている男だけではない。恋人の女も、そう思っただろう。いや、女の方がいっそう緊張し、金縛りにあったみたいに、そのまま動けないでいる。その、声にならない緊張感を、この一行は表現している。

 

 

 


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精神(こころ)は存在するか(3)

2024-01-20 21:16:28 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第五巻の464ページ。

最後の一句は、乗門道人親戚工師細民とあって、わたくしにはちょっと読みこなせないのであるが、

 この「読みこなせない」ということばが、とてもおもしろい。「読めない」ではない。「読む」ことは、読む。
 このとき、いったい何が起きるのだろうか。
 先の引用とは直接関係があるわけではないのだが、476ページには、こういう表現がある。

思うにこの答えはそういう矛盾を示そうとするものではないであろう。

 「思うに」ということばがある。
 強引に言えば、「読みこなせない」とき、その「読みこなせない」部分を「思う」のである。想像するのである。「思う」ことで「道」をつくる。
 497ページには、こんな文章がある。

古い形の法華経を一つの作品として鑑賞し、分析し、この作品の構造や、その根底に存する想像力の特性等を明らかにしなくてはならない。

 和辻が「思う」のは、ある作品の「想像力」について「思う」のである。和辻が「読みこなしたい」と思っているのは、その作品の「想像力」の動きである。このときの「想像力」とは「道」のつくり方だろう。違った存在をイコール(=)で結びつける「想像力」。そして、ある作品が完成したとき、そこには何と何がイコールであるかは「説明」されず、ただ完成した形だけがある。形のなかに、想像力は消えてしまっている。
 消えてしまっている想像力を明らかにするために、さまざまな分析をするのである。さまざまな「ことば」を動かすのである。
 逆に言えば「読みこなせない」とき、そこには和辻の知らない「想像力」が動いており、だからこそ和辻は強引に「読みこなせない」けれども、読みこなしにかかるのである。

 「読みこなす」は「読み熟す」と書くかもしれない。「熟す」は「うれる」でもある。うまく「うれる(熟す)」のは、そのとき、和辻の「想像力」かもしれない。「熟す(こなす=うまく処理する)」と「熟す(うれる)」が、入れ代わるようにして交錯する。そういうことが起きるかもしれない。「熟す(うれる)=熟す(こなす)」、つまり「熟す(うれる)即熟す(こなす)」へ向けて、和辻の想像力(思う)は動くのである。
 この瞬間がおもしろい。言いなおすと、和辻が「わかっていること」を書くときよりも、「わかっていないこと(読みこなせないこと)」を書くとき、そこに、とても魅力的なことばの運動が展開するのである。
 「古寺巡礼」のどの部分がそれにあたるか、いま私は的確に指し示すことができないけれど、私が和辻の文章にひきつけられるのは、そうしたことばの運動を随所に感じるからである。

 もうひとつ。
 きょう読んだ部分では、489ページに、こんな文章が出てくる。

道元の著書は仏教哲学史の一通りの理解なしにはこれらの高僧の思想に近づくことの無謀なのを教えたが、さてその哲学史に触れようとすると、ギリシアの哲学があの戯曲的に優れた対話の中から流れ出てくるように、大乗仏教の哲学があの巨大な交響楽のような法華経から流れ出てくるのを、無視するわけには行かなかった。

 道元とギリシャ哲学の関係を書いたものではないのだが、私は、妙にこの文章が印象に残る。「ギリシアの哲学」ということばが唐突に挿入されていることに刺戟を受ける。それは、私がプラトン(ソクラテスと言ってもいいのかもしれない)に惹かれることと関係しているのかもしれない。私はどこかでプラトン(ソクラテス)と道元が出会う「場」を探しているのかもしれない。そして、その「手がかり」を和辻の文章に感じているのかもしれない。 

 

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精神(こころ)は存在するか(2)

2024-01-19 21:41:18 | こころは存在するか

 和辻哲郎を読んでいると「道」ということばが、しばしば出てくる。「道」に最初に出会ったのは『古寺巡礼』だった。仏像や寺を見て回るのだが、仏像や寺の印象を語るまえに「道」が出てくる。「二」の部分で、和辻の父が「お前のやっていることは道のためにどう役立つのか」と問う。和辻は、それに即答はしないのだが、このやりとりが私の頭の中にいつまでも残っている。私は私の父から「お前の道はどうなっているのだ」というようなことは聞かれたことがないが、まるで自分が質問されているように感じてしまう。

 「道」とは何か。

 いろいろな答え方があるだろうが、(和辻の父の問いから飛躍するが)、きのう書いた「肉体=ことば=世界」を利用して言えば、このイコール(=)が道である。きのうは、それを「法」と書き換えたが、肉体とことばと世界の関係を成り立たせているのが「道」である。
 「道」は、あるときはある場所と別の場所をつないでいる。長いときもあれば短いときもあるが、ようするに「道」によってふたつの存在が結びつく。結びついた瞬間に「距離」は消える。「距離」を消してしまう、その結びつきが「道」。結びつきが「道」なのだけれど、結びついた瞬間「道」は消えてしまう。(それは「色即是空」の「即」に非常に似ている。)

 「道」には、時には「言う」という動詞が割り振られることもある。「言う」を名詞にすれば「ことば(言葉)」になるだろう。(「言葉」のなかに「言う」がある。)

 死ぬまでにもう一度読んでおきたいと思い、七十歳になったときから、中井久夫、林達夫、和辻哲郎と読み進んできた。三人の系列に、私は三木清も含めているのだが、この四人のことばは私のなかではつながりがある。
 中井久夫は、統合失調症について「目鼻のつかない病気などあるものか」と言ったが、このときの「目鼻をつける」が「道をつける」かもしれない。三木清は「構想力」ということばをつかうが、この「構想力」が「道」である。林達夫ならば「想像力」か。和辻も、類似のことばをつかう。ことばをとおして、そこに存在しなかったもの(意識化できなかったもの)が具体的に存在し始める。それを支える「力」。

 私は和辻の文章がとても好きなのだが、それには理由がある。和辻は、なんといえばいいのか、「専門外」の分野に足を踏み入れる。もちろん、その分野の勉強もするのだけれど、専門家から比べると、いわゆる「知識」が足りない。(専門家から、批判を受けている。)けれども、和辻は「間違い」をおそれずに、「未知」の部分を和辻の肉体のなかに動いているいのちを頼りに突き進んでいく。そこに、専門家がたどらなかった「道」ができる。
 「未知」がことばを動かすことで「道」になる。それは専門家から見れば「間違った道」かもしれないが、間違いというよりも専門家が見落としていた「可能性」であり、そこにはいつも「いのち」が存在している。「間違い」は、ある意味で「いのちの必然性」でもある。生まれてこなければならない、何かが、そこにはある。
 「道」は「いのち」なのである。

 

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精神(こころ)は存在するか(1)

2024-01-19 00:00:51 | こころは存在するか

2024年01月018日(木曜日)

精神(こころ)は存在するか(1)

 「精神(こころ)は存在するか」というのは、私がいつも考えていることである。考えがまとまってから書けばいいのかもしれないが、まとまるまで待っていたら書くことができないと思うので、(その前に死んでしまうと思うので)、少しずつ書いていくことにする。

 仏教というのか、東洋思想と呼べばいいのかよくわからないが、五感+心(意識)で世界を把握する。目耳鼻舌身は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、それは独立している。それを統合するものとして「意識(精神/こころ)」があるというのだが、どうして「意識(精神/こころ)」という目に見えないものを持ち出すのか、これが私には疑問なのである。
 なぜ「頭(脳)」を目耳鼻舌身に追加し、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚+ことば(意識=知覚)という「構図」にしなかったのか。仏教が誕生したころは脳は頭のなかに隠れていて見ることができない(触ることができない、存在を確認できない)から、目に見えない「精神(意識/こころ)」を割り振ったのか。そうだとしても、脳の存在が誰にもわかるものとして認識されてからも、その脳(頭)を組み込む形で、それまでいわれてきている仏教思想(東洋思想)を再編成しようとしないのはなぜなのか。
 私は、何も知らない人間の大胆さで、「目耳鼻舌身頭(脳)」と「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、知覚(ことば=精神/こころ)」という「構造」で「世界」を整理し直したいと思っている。
 私は、「一元論」を、私なりに書いてみたいと思っている。
 私の「一元論」は簡単に言いなおしてしまうと、世界に存在するのは「私という肉体」だけであり、そのほかのものは「私の肉体」が、そのときそのときの必要に応じて、「存在すると知覚したもの/知覚しようとしているもの」ということになる。
 コップがある。水がある。そう認識する(知覚する)とき、それは「私という肉体」がコップや水を通してことばを動かし、何かを考えたいと思っているからである。別なことばで言えば、そのとき動いたことばの範囲(領域)が「世界」であり、コップや水を書いている瞬間、花や太陽は存在しない。花や太陽は存在しないと書いた瞬間(ことばにした瞬間)、存在するものとしてあらわれてくる。「肉体」は「ことば」とともにあり、「ことば」とともに、その瞬間瞬間に「世界」は形を変えながら存在する。
 こういうことを「無常」というのではないか、あるいはこの「肉体=ことば=世界」というときの「イコール(=)」を「法」と呼べばいいのではないか。

 結論(?)を先に書いてしまうと、もう書くことはないなあとも思うのだが、その「結論」までの「道筋」をどうデザインしていけばいいのか、よくわからない。よくわからないが、それを書きたいと思っている。

 

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