岡井隆『岡井隆歌集』(2)(現代詩文庫502 )(思潮社、2013年03月01日)
岡井隆『岡井隆歌集』を読みながら、歌集を読むのは時間がかかるなあ、と感じた。楽に読み進められない。詩や小説とはことばの濃度が違うのかもしれない。音が「肉体」に入ってくるときの動きが違うのかもしれない。詩や小説は、ある程度自分の「音」で読むことができるが、短歌の場合、自分の「音」で読んでしまうと、まったく違うものになるのではないかという感じがする。「声」の占める割合が小説や詩に比べると大きいのかなあ。私自身の「音」をどんな具合に組み立て直せばいいのか、ちょっとわからない。
わからないものは、わからないままにして……。
この歌が好き。この歌では、私の肉体がもっている「音」と岡井の肉体がもっている「音」が重なる気がする。もちろん、それは私の「誤読」(錯覚)にすぎないだろうけれど、あ、こういう「声」を出してみたい、と私の「肉体」が動く。
どこに、どのことばに対して動くか。まず「深き」である。
「深いカーブ」(浅いカーブ)ということばがあるかどうか、私は、わからない。この歌を読むまでは、私は「深い」カーブがあるということを知らなかった。カーブを「深い」ということばで修飾することを知らなかった。「鋭い」カーブ、「ゆるい」カーブなら聞いたことがあるが。
では「深い」カーブは、「鋭い」カーブなのか、「ゆるい」カーブなのか。角度(?)が深い、つまり急な、鋭いカーブなのか。意味を考えると、それが近いような気がする。
しかし、私の「感覚の意見」は違うと言う。「ゆるい」の方が「深い」と言う。
うーむ。
私の「肉体」のなかで、「ゆるい」は「強い」と結びつく。「深い」カーブは「強い」カーブ。そして、その「強さ」はカーブそのものではなく、カーブしているものと関係している。線路のレールは鋼鉄。それは硬くて強い。それは、硬くて強いがゆえに、徐々に、ゆっくりと、ゆるくしかカーブしない。(たとえば、竹なら、鋼鉄と違って少ない力でカーブさせることができる。)
「深い」カーブの「深い」ということばのなかで、カーブそのものの形ではなく、カーブする「もの」、カーブさせる「もの」が拮抗している。その「拮抗」が深い。時間をかけて、ぐぐぐっと動いていく。
「カーヴ見ゆ」と「見る」という動詞がつかわれているが、そのとき見えるのはカーブの形だけではない。カーブをつくる素材、そしてカーブに働いた肉体の力(実際は機械でまげるのかもしれないが)が「見える」。
「見ている」(見える)ものは、ただそこにある「形」ではない。
「深い」は「意味」としてではなく、まず、「音」として私の「肉体」に入ってきて、「肉体」を動かし、そういうところへ私をつれていく。そして、その「見えるものが形ではない」というところで、もう一度「深い」という声になる。「深い」を自分の声として発することができる。
で、その瞬間に、好き、ということが起きている。
「飛躍」を重ねながら「誤読」を押し進めると。
「深い」は「強い」。そして、その「強い」を実感するとき、自分の肉体の中にある「強さ」も深くなる。「労働の夜」(夜の労働)、それをくぐりぬける力。「深い」は「夜」と結びついて、「深夜」ということばにもなる。深夜の、その深い深い夜へと岡井の肉体はカーブして入っていく。「夜」の手前で立ち止まるのではなく、夜へ入っていく、夜の深みへ入っていく肉体が、そのとき実感されていると思う。
また、それは、明るい日中と「わかれる」という動きも含んでいる。肉体が、明るい日中からわかれて、深夜へ入っていく--というのは「見える」ものではない。目には見えない。ゆっくりすぎて。どこに昼と夜の境目があるか、分岐点はどこか、それは目では見えない。(だから、時計という時間を区切ってみせる仕掛けが必要になる。)そして、それは目には見えないけれど、実際に動いている(働いている)肉体には、そのことがわかる。(わかる、を、日本語ではときどき「見える」とも言う。)
見ているのは一義的には「目」であるけれど、ほんとうは「肉体」全体で見ている。それが「深き」ということばのなかにある。その「肉体」が見える(わかる/感じられる)から、私はこの歌が好きなのだ。
と、こんなふうに書いていると、短歌の一首なのに、まるで一篇の詩、一篇の小説の感想を書いているくらいの長さになってしまう。一篇の詩、一篇の小説を読むのと同じくらい時間がかかってしまう。どのことばにも、息が抜けないのである。
脱線した。
歌に戻ると、実は、これで終わりではなくて……。
「われに」。このことばにも、私の肉体は反応する。見えるものが、常磐線の線路のカーブという形だけではなく、そのレールの強さ、レールをカーブさせた人間の力(肉体の力)というものを、岡井自身の「肉体」で感じている、その「肉体」を含んでいる。見えないものをも見てしまう(感じてしまう)存在として「われ」というものがある。「われ」という「肉体」がある。
この「われ」を岡井は、ここで、宣言している。それが強く響いてくる。暗くなる空気のなかで、線路のカーブがなお光って白く見えるように、列車に乗ってカーブを見ている「肉体」が、見えてくる。
「わかるる」と「われ」という音の響きも通い合っていて、全体を「ひとつ」にする。「労働」というのんびりした音と「来んとして」の鋭い音のぶつかりあいも、非常に気持ちがいい。
強い力がぶつかりあって、世界を「深い」ものにしている。その「深さ」そのものと「肉体」がしっかり向き合う--そのとき、「肉体」のなかに、「深さ」が生まれる。
「見ゆ」が登場する別の歌。
この歌にも「ふかき」がある。そして夜につながる「くらき」がある。「家」という「くらし=いきること」がある。さらに「見える」のは「家」という「もの」をあらわすことばだけれど、実際は梁がからみ合う「形」だけではない。「家」とともにある「思い」がある。
「目」では「見えない」思いを見るために、「目」に見える梁のからみあいが描かれているであって、ほんとうは「からみ合う」思いを「肉体」全体で見ている。
ここにも「見える」があり、その見える海は実際の海なのだろう。けれど、「母を看とりにゆく幾たびぞ」とつながると、とたんに実際の海ではなくなる。思い出の、記憶の海になる。母が死ぬのは一度である。幾度も死ぬということはない。だから「幾たびぞ」の「幾たび」はこのままでは嘘になる。
これが嘘ではなくなるのは、海辺を何度も通る。そのたびに、母を看とりにいったときに見た暁の海が思い出させるときである。そう読むときである。見ているのは、目の前にある海であると同時に、かつて見た海、岡井の肉体のなかにひろがる海である。「旅」と「たび(度)」が重なりながら、現実と記憶が揺れ動く。
見えないものを「見る」のは「目」ではない。「肉体」である。「肉体」全体が融合して「見る」ということが起きる。「覚えている/こと」が覚えているままに、肉体のなかに出現してくる。「過去」は「いま」になり、「ここではないどこか」が「ここ」になる。時間と空間を結びつけて、「肉体」が動きだす。「肉体」が生まれる。
この歌では、白鳥の声を聞く耳が目になり、見えない白鳥を「見ている」。それは渤海の向こうの電話口に実際に聞こえる白鳥の声か、あるいは電話が誰かを呼び出すときの呼び出し音が白鳥の声に聞こえたのか。どちらでもいい。電話をはさんで、ふたりの人間が存在し、その両方の耳に、その白鳥の声は聞こえ、同時に、ふたりの「肉体」に、白鳥が見える。目の前にいなくても、見える。
たくさんの拮抗するものを一首の歌のなかにぶつけて、そのぶつかりあいのなで何かが結晶し、何かが炸裂する。火花のようなものが飛び散る。そのすべてを「肉体」で引き受け、声にしている。
これを読み進むには、岡井の肉体と同じ激しさが必要だ。
岡井隆『岡井隆歌集』を読みながら、歌集を読むのは時間がかかるなあ、と感じた。楽に読み進められない。詩や小説とはことばの濃度が違うのかもしれない。音が「肉体」に入ってくるときの動きが違うのかもしれない。詩や小説は、ある程度自分の「音」で読むことができるが、短歌の場合、自分の「音」で読んでしまうと、まったく違うものになるのではないかという感じがする。「声」の占める割合が小説や詩に比べると大きいのかなあ。私自身の「音」をどんな具合に組み立て直せばいいのか、ちょっとわからない。
わからないものは、わからないままにして……。
常磐線(じょうばんせん)わかるる深きカーヴ見ゆわれに労働の夜が来んとして
この歌が好き。この歌では、私の肉体がもっている「音」と岡井の肉体がもっている「音」が重なる気がする。もちろん、それは私の「誤読」(錯覚)にすぎないだろうけれど、あ、こういう「声」を出してみたい、と私の「肉体」が動く。
どこに、どのことばに対して動くか。まず「深き」である。
「深いカーブ」(浅いカーブ)ということばがあるかどうか、私は、わからない。この歌を読むまでは、私は「深い」カーブがあるということを知らなかった。カーブを「深い」ということばで修飾することを知らなかった。「鋭い」カーブ、「ゆるい」カーブなら聞いたことがあるが。
では「深い」カーブは、「鋭い」カーブなのか、「ゆるい」カーブなのか。角度(?)が深い、つまり急な、鋭いカーブなのか。意味を考えると、それが近いような気がする。
しかし、私の「感覚の意見」は違うと言う。「ゆるい」の方が「深い」と言う。
うーむ。
私の「肉体」のなかで、「ゆるい」は「強い」と結びつく。「深い」カーブは「強い」カーブ。そして、その「強さ」はカーブそのものではなく、カーブしているものと関係している。線路のレールは鋼鉄。それは硬くて強い。それは、硬くて強いがゆえに、徐々に、ゆっくりと、ゆるくしかカーブしない。(たとえば、竹なら、鋼鉄と違って少ない力でカーブさせることができる。)
「深い」カーブの「深い」ということばのなかで、カーブそのものの形ではなく、カーブする「もの」、カーブさせる「もの」が拮抗している。その「拮抗」が深い。時間をかけて、ぐぐぐっと動いていく。
「カーヴ見ゆ」と「見る」という動詞がつかわれているが、そのとき見えるのはカーブの形だけではない。カーブをつくる素材、そしてカーブに働いた肉体の力(実際は機械でまげるのかもしれないが)が「見える」。
「見ている」(見える)ものは、ただそこにある「形」ではない。
「深い」は「意味」としてではなく、まず、「音」として私の「肉体」に入ってきて、「肉体」を動かし、そういうところへ私をつれていく。そして、その「見えるものが形ではない」というところで、もう一度「深い」という声になる。「深い」を自分の声として発することができる。
で、その瞬間に、好き、ということが起きている。
「飛躍」を重ねながら「誤読」を押し進めると。
「深い」は「強い」。そして、その「強い」を実感するとき、自分の肉体の中にある「強さ」も深くなる。「労働の夜」(夜の労働)、それをくぐりぬける力。「深い」は「夜」と結びついて、「深夜」ということばにもなる。深夜の、その深い深い夜へと岡井の肉体はカーブして入っていく。「夜」の手前で立ち止まるのではなく、夜へ入っていく、夜の深みへ入っていく肉体が、そのとき実感されていると思う。
また、それは、明るい日中と「わかれる」という動きも含んでいる。肉体が、明るい日中からわかれて、深夜へ入っていく--というのは「見える」ものではない。目には見えない。ゆっくりすぎて。どこに昼と夜の境目があるか、分岐点はどこか、それは目では見えない。(だから、時計という時間を区切ってみせる仕掛けが必要になる。)そして、それは目には見えないけれど、実際に動いている(働いている)肉体には、そのことがわかる。(わかる、を、日本語ではときどき「見える」とも言う。)
見ているのは一義的には「目」であるけれど、ほんとうは「肉体」全体で見ている。それが「深き」ということばのなかにある。その「肉体」が見える(わかる/感じられる)から、私はこの歌が好きなのだ。
と、こんなふうに書いていると、短歌の一首なのに、まるで一篇の詩、一篇の小説の感想を書いているくらいの長さになってしまう。一篇の詩、一篇の小説を読むのと同じくらい時間がかかってしまう。どのことばにも、息が抜けないのである。
脱線した。
歌に戻ると、実は、これで終わりではなくて……。
「われに」。このことばにも、私の肉体は反応する。見えるものが、常磐線の線路のカーブという形だけではなく、そのレールの強さ、レールをカーブさせた人間の力(肉体の力)というものを、岡井自身の「肉体」で感じている、その「肉体」を含んでいる。見えないものをも見てしまう(感じてしまう)存在として「われ」というものがある。「われ」という「肉体」がある。
この「われ」を岡井は、ここで、宣言している。それが強く響いてくる。暗くなる空気のなかで、線路のカーブがなお光って白く見えるように、列車に乗ってカーブを見ている「肉体」が、見えてくる。
「わかるる」と「われ」という音の響きも通い合っていて、全体を「ひとつ」にする。「労働」というのんびりした音と「来んとして」の鋭い音のぶつかりあいも、非常に気持ちがいい。
強い力がぶつかりあって、世界を「深い」ものにしている。その「深さ」そのものと「肉体」がしっかり向き合う--そのとき、「肉体」のなかに、「深さ」が生まれる。
「見ゆ」が登場する別の歌。
父よ その胸郭ふかき処(ところ)にて梁(はり)からみ合うくらき家見ゆ
この歌にも「ふかき」がある。そして夜につながる「くらき」がある。「家」という「くらし=いきること」がある。さらに「見える」のは「家」という「もの」をあらわすことばだけれど、実際は梁がからみ合う「形」だけではない。「家」とともにある「思い」がある。
「目」では「見えない」思いを見るために、「目」に見える梁のからみあいが描かれているであって、ほんとうは「からみ合う」思いを「肉体」全体で見ている。
暁に必ず海の見ゆる旅母を看とりにゆく幾たびぞ
ここにも「見える」があり、その見える海は実際の海なのだろう。けれど、「母を看とりにゆく幾たびぞ」とつながると、とたんに実際の海ではなくなる。思い出の、記憶の海になる。母が死ぬのは一度である。幾度も死ぬということはない。だから「幾たびぞ」の「幾たび」はこのままでは嘘になる。
これが嘘ではなくなるのは、海辺を何度も通る。そのたびに、母を看とりにいったときに見た暁の海が思い出させるときである。そう読むときである。見ているのは、目の前にある海であると同時に、かつて見た海、岡井の肉体のなかにひろがる海である。「旅」と「たび(度)」が重なりながら、現実と記憶が揺れ動く。
見えないものを「見る」のは「目」ではない。「肉体」である。「肉体」全体が融合して「見る」ということが起きる。「覚えている/こと」が覚えているままに、肉体のなかに出現してくる。「過去」は「いま」になり、「ここではないどこか」が「ここ」になる。時間と空間を結びつけて、「肉体」が動きだす。「肉体」が生まれる。
渤海のかなに瀕死の白鳥を呼び出しており電話口まで
この歌では、白鳥の声を聞く耳が目になり、見えない白鳥を「見ている」。それは渤海の向こうの電話口に実際に聞こえる白鳥の声か、あるいは電話が誰かを呼び出すときの呼び出し音が白鳥の声に聞こえたのか。どちらでもいい。電話をはさんで、ふたりの人間が存在し、その両方の耳に、その白鳥の声は聞こえ、同時に、ふたりの「肉体」に、白鳥が見える。目の前にいなくても、見える。
たくさんの拮抗するものを一首の歌のなかにぶつけて、そのぶつかりあいのなで何かが結晶し、何かが炸裂する。火花のようなものが飛び散る。そのすべてを「肉体」で引き受け、声にしている。
これを読み進むには、岡井の肉体と同じ激しさが必要だ。
岡井隆全歌集〈第1巻〉1956‐1972 | |
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