詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆『岡井隆歌集』(2)

2013-03-31 23:59:59 | 詩集
岡井隆『岡井隆歌集』(2)(現代詩文庫502 )(思潮社、2013年03月01日)

 岡井隆『岡井隆歌集』を読みながら、歌集を読むのは時間がかかるなあ、と感じた。楽に読み進められない。詩や小説とはことばの濃度が違うのかもしれない。音が「肉体」に入ってくるときの動きが違うのかもしれない。詩や小説は、ある程度自分の「音」で読むことができるが、短歌の場合、自分の「音」で読んでしまうと、まったく違うものになるのではないかという感じがする。「声」の占める割合が小説や詩に比べると大きいのかなあ。私自身の「音」をどんな具合に組み立て直せばいいのか、ちょっとわからない。
 わからないものは、わからないままにして……。

常磐線(じょうばんせん)わかるる深きカーヴ見ゆわれに労働の夜が来んとして

 この歌が好き。この歌では、私の肉体がもっている「音」と岡井の肉体がもっている「音」が重なる気がする。もちろん、それは私の「誤読」(錯覚)にすぎないだろうけれど、あ、こういう「声」を出してみたい、と私の「肉体」が動く。
 どこに、どのことばに対して動くか。まず「深き」である。
 「深いカーブ」(浅いカーブ)ということばがあるかどうか、私は、わからない。この歌を読むまでは、私は「深い」カーブがあるということを知らなかった。カーブを「深い」ということばで修飾することを知らなかった。「鋭い」カーブ、「ゆるい」カーブなら聞いたことがあるが。
 では「深い」カーブは、「鋭い」カーブなのか、「ゆるい」カーブなのか。角度(?)が深い、つまり急な、鋭いカーブなのか。意味を考えると、それが近いような気がする。
 しかし、私の「感覚の意見」は違うと言う。「ゆるい」の方が「深い」と言う。
 うーむ。
 私の「肉体」のなかで、「ゆるい」は「強い」と結びつく。「深い」カーブは「強い」カーブ。そして、その「強さ」はカーブそのものではなく、カーブしているものと関係している。線路のレールは鋼鉄。それは硬くて強い。それは、硬くて強いがゆえに、徐々に、ゆっくりと、ゆるくしかカーブしない。(たとえば、竹なら、鋼鉄と違って少ない力でカーブさせることができる。)
 「深い」カーブの「深い」ということばのなかで、カーブそのものの形ではなく、カーブする「もの」、カーブさせる「もの」が拮抗している。その「拮抗」が深い。時間をかけて、ぐぐぐっと動いていく。
 「カーヴ見ゆ」と「見る」という動詞がつかわれているが、そのとき見えるのはカーブの形だけではない。カーブをつくる素材、そしてカーブに働いた肉体の力(実際は機械でまげるのかもしれないが)が「見える」。
 「見ている」(見える)ものは、ただそこにある「形」ではない。
 「深い」は「意味」としてではなく、まず、「音」として私の「肉体」に入ってきて、「肉体」を動かし、そういうところへ私をつれていく。そして、その「見えるものが形ではない」というところで、もう一度「深い」という声になる。「深い」を自分の声として発することができる。
 で、その瞬間に、好き、ということが起きている。

 「飛躍」を重ねながら「誤読」を押し進めると。
 「深い」は「強い」。そして、その「強い」を実感するとき、自分の肉体の中にある「強さ」も深くなる。「労働の夜」(夜の労働)、それをくぐりぬける力。「深い」は「夜」と結びついて、「深夜」ということばにもなる。深夜の、その深い深い夜へと岡井の肉体はカーブして入っていく。「夜」の手前で立ち止まるのではなく、夜へ入っていく、夜の深みへ入っていく肉体が、そのとき実感されていると思う。
 また、それは、明るい日中と「わかれる」という動きも含んでいる。肉体が、明るい日中からわかれて、深夜へ入っていく--というのは「見える」ものではない。目には見えない。ゆっくりすぎて。どこに昼と夜の境目があるか、分岐点はどこか、それは目では見えない。(だから、時計という時間を区切ってみせる仕掛けが必要になる。)そして、それは目には見えないけれど、実際に動いている(働いている)肉体には、そのことがわかる。(わかる、を、日本語ではときどき「見える」とも言う。)
 見ているのは一義的には「目」であるけれど、ほんとうは「肉体」全体で見ている。それが「深き」ということばのなかにある。その「肉体」が見える(わかる/感じられる)から、私はこの歌が好きなのだ。
 と、こんなふうに書いていると、短歌の一首なのに、まるで一篇の詩、一篇の小説の感想を書いているくらいの長さになってしまう。一篇の詩、一篇の小説を読むのと同じくらい時間がかかってしまう。どのことばにも、息が抜けないのである。
 脱線した。
 歌に戻ると、実は、これで終わりではなくて……。

 「われに」。このことばにも、私の肉体は反応する。見えるものが、常磐線の線路のカーブという形だけではなく、そのレールの強さ、レールをカーブさせた人間の力(肉体の力)というものを、岡井自身の「肉体」で感じている、その「肉体」を含んでいる。見えないものをも見てしまう(感じてしまう)存在として「われ」というものがある。「われ」という「肉体」がある。
 この「われ」を岡井は、ここで、宣言している。それが強く響いてくる。暗くなる空気のなかで、線路のカーブがなお光って白く見えるように、列車に乗ってカーブを見ている「肉体」が、見えてくる。
 「わかるる」と「われ」という音の響きも通い合っていて、全体を「ひとつ」にする。「労働」というのんびりした音と「来んとして」の鋭い音のぶつかりあいも、非常に気持ちがいい。
 強い力がぶつかりあって、世界を「深い」ものにしている。その「深さ」そのものと「肉体」がしっかり向き合う--そのとき、「肉体」のなかに、「深さ」が生まれる。

 「見ゆ」が登場する別の歌。

父よ その胸郭ふかき処(ところ)にて梁(はり)からみ合うくらき家見ゆ

 この歌にも「ふかき」がある。そして夜につながる「くらき」がある。「家」という「くらし=いきること」がある。さらに「見える」のは「家」という「もの」をあらわすことばだけれど、実際は梁がからみ合う「形」だけではない。「家」とともにある「思い」がある。
 「目」では「見えない」思いを見るために、「目」に見える梁のからみあいが描かれているであって、ほんとうは「からみ合う」思いを「肉体」全体で見ている。

暁に必ず海の見ゆる旅母を看とりにゆく幾たびぞ

 ここにも「見える」があり、その見える海は実際の海なのだろう。けれど、「母を看とりにゆく幾たびぞ」とつながると、とたんに実際の海ではなくなる。思い出の、記憶の海になる。母が死ぬのは一度である。幾度も死ぬということはない。だから「幾たびぞ」の「幾たび」はこのままでは嘘になる。
 これが嘘ではなくなるのは、海辺を何度も通る。そのたびに、母を看とりにいったときに見た暁の海が思い出させるときである。そう読むときである。見ているのは、目の前にある海であると同時に、かつて見た海、岡井の肉体のなかにひろがる海である。「旅」と「たび(度)」が重なりながら、現実と記憶が揺れ動く。

 見えないものを「見る」のは「目」ではない。「肉体」である。「肉体」全体が融合して「見る」ということが起きる。「覚えている/こと」が覚えているままに、肉体のなかに出現してくる。「過去」は「いま」になり、「ここではないどこか」が「ここ」になる。時間と空間を結びつけて、「肉体」が動きだす。「肉体」が生まれる。

渤海のかなに瀕死の白鳥を呼び出しており電話口まで

 この歌では、白鳥の声を聞く耳が目になり、見えない白鳥を「見ている」。それは渤海の向こうの電話口に実際に聞こえる白鳥の声か、あるいは電話が誰かを呼び出すときの呼び出し音が白鳥の声に聞こえたのか。どちらでもいい。電話をはさんで、ふたりの人間が存在し、その両方の耳に、その白鳥の声は聞こえ、同時に、ふたりの「肉体」に、白鳥が見える。目の前にいなくても、見える。

 たくさんの拮抗するものを一首の歌のなかにぶつけて、そのぶつかりあいのなで何かが結晶し、何かが炸裂する。火花のようなものが飛び散る。そのすべてを「肉体」で引き受け、声にしている。
 これを読み進むには、岡井の肉体と同じ激しさが必要だ。










岡井隆全歌集〈第1巻〉1956‐1972
岡井 隆
思潮社
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2013-03-30 23:59:59 | 詩集
岡井隆『岡井隆歌集』(現代詩文庫502 )(思潮社、2013年03月01日)

 岡井隆の短歌には文語に口語がまじっていて、そのぶつかりあいが強烈という印象がある。これは持続的に読んできてそう感じるのではなく、ときどき読んで感じる「印象」にすぎない。で、きょう初めて、どんな歌人なのだろう、と思いながら読んだ。そして、最初の頁の歌を読んで、少しびっくりした。

暁の月の寒きに黒き松の諸葉(もろは)は白きひかりを含む

 私の「記憶」にある岡井とまったく違っていたからである。これは、いつの時代のものなのだろう。未刊歌集「O(オー)」から、とある。年代順に編集されているみたいだから、ごく初期の作品なのだろうか。
 夜明けの冷気と、松の葉っぱの上にふりそそぐ月の光、その「白」がくっきり見える。「描写」の短歌。「写生」の短歌、ということになるのだろうか。
 でも、もう一度読み直すと、違うことが見えてくる。
 岡井のこの一首の描写(写生)は、どこか「視覚」を超えている。
 「含む」という動詞が、何か描写を超える「重さ/広がり/深さ」を感じさせる。「哲学」を感じさせる。松の葉の上に月の光が降り注いで、それが反射して白く輝いているのではなく、松の尖った葉のなかに、月の白い光は含まれている。松が最初から持っているものが、月の光と向き合うことで、葉っぱのなかから生まれてくる--そういう動きの感じを呼び覚ます。絵のように(描写のように)静止しているのではなく、動いている。
 一方に、月がある。もう一方に松の葉がある。それは、月の光が松の葉の上に降り注ぐというだけの関係ではない。月の光が降り注ぐとき、松の葉の内部から、松が含む何かが呼応するように動きはじめる。そしてそれは、その接点で「白」に結晶することで「詩」になるのだが、それはもしかすると「結晶」ではなく、衝突のスパークかもしれない。胎動、誕生かもしれない。
 衝突は、その衝突が「呼応」によって生まれるものなら、それは「和解」でもあるだろう。
 ふーん、そうすると、私が文語と口語のぶつかりあいと感じていたものは、もしかすると、文語と口語の和解である可能性もある。私が、そういう和解になれていないから衝突と感じるだけで、ほんとうは衝突を超越した絶対的な和解なのかもしれない。
 私は、立ち止まってしまった。立ち止まらないと、先へ進めないと感じた。あ、これは、時間をかけないと読み進むことができない本だと気づいた。
 さて、どうしようか。

三たび寄せて大きあらしの三たび目は遠き海原をたゆたふと聞く

 「三たび寄せて」と「三たび目は遠き海原をたゆたふ」って、変じゃない? 「遠き海原をたゆたふ」なら、寄せては来なかった。くるはずだった大あらしが、遠い海の上でゆったりとほどけていく。これは「アンチ衝突」である。「乖離」は「非在の衝突」なのだ。「岸(書かれていないが)」に「(押し)寄せるあらし」(岸を、陸を襲うあらし)と、「海」の上で漂うあらし(ではない、風の運動)。--それが「聞く」という「肉体」のなかで動いている。
 あらしとあらしではないものが「聞く」ことで出会い、同時に離れる。陸と海にはなれる。離れることで「和解」する。(和解ということばが適切かどうかわからないが……。)そして、それは「聞く」の主語である岡井の「肉体」の内部で起きる「和解」である。もちろん「自然現象」としても「和解」しているといえるのかもしれないけれど、私にはそれが岡井の内部で起きているように感じられる。「聞く」という動詞の存在がそう思わせるのである。
 もし、「聞く」という動詞が岡井の「肉体」の内部にあらしを引き込むなら。
 「含む」は岡井の「肉体」にどんな働きをしたのだろうか。
 この私の「問い」には、論理的な飛躍があるのだけれど、私は実はその「飛躍」を肉体では感じていない。--これは、変な言い方なのだが。
 つまり、最初に取り上げた歌の「含む」の主語は「黒き松の諸葉」なのだが、その葉が月の光をほんとうに含んでいるかどうかは、だれかが客観的に調べたことがらではない。岡井すら客観的に調べてはいない。それは、あくまで岡井が「感じたこと」なのだ。この「感じる」というのは、松の葉っぱを岡井自身の「肉体」と感じるということなのである。
 自分の「肉体」ではない松の葉。しかし、それを自分の「肉体」と感じるから「含む」と言ってしまう。岡井の「肉体」が松の葉に「分有」されている。「分有」しつつ、岡井は松の葉の「肉体」を「共有」する。
 何かに出会うこと、それをことばにすることで、岡井の「肉体」そのものが変わっていく。そういう「運動」がここにある。
 月の光と月の光ではないもの(松の葉)が出会う。それがことばになるとき、そこに岡井の「肉体」が「分有」され、「分有」をとおして岡井は、月の光と月の光ではないもの(松の葉)を結合/結晶させる。衝突させ、和解させる。
 もしかすると、それと同じことが文語/口語の出会い(衝突と和解)のなかにあるのかもしれない。

けだものの足音おこり忽ちに笹原の中を遠ざかり行く

 獣(猪か、狐か何か)が笹原の中を走り抜けたという「写生」にも見えるけれど、ここにもけだものとけだものではないもの(笹)の出会いがあり、足音おこり(発生)と遠ざかる(消滅)の矛盾した運動の衝突(非在の衝突)がある。そして、その衝突と和解が、詩なのだと感じさせる。
 衝突と和解は急激なので、不思議な錯覚を引き起こす。足音がおこり(近づき)、遠ざかるのに--主語が足音なのに、私には、なぜか「笹原」の動き、葉の動きが「見える」。聞こえるだけではなく「見える」。
 こういう錯覚が起きるのは--たぶん、そこに書かれている描写が、岡井の肉体の内部で起きているからである。肉体の内部で聞くと見るはつながっている。耳と目はつながっている。わけてしまうと、肉体は肉体ではなくなってしまう。

やや遠く鵜のおこなひを見て佇ちぬ水くぐりゐる時のたのしも

 うーん。「鵜のおこなひを見て佇ちぬ」の主語は? 岡井だね。鵜の「水くぐりゐる時のたのし」の主語は? 岡井? 見ていて、岡井は楽しい。そうかもしれない。けれど、私にはなぜか、このとき岡井は鵜の動きを見ていると同時に、見ながら鵜になって水をくぐり、それが楽しいと感じているように思う。だれか(何か)が「楽しい」とき、岡井も楽しい。
 肉体をつかってことばを動かすと、主客は「一体」になって、区別がつかない。そういうことが起きると思う。
 そして私の場合、何に感動するかといえば、そういう「一体感」をつかみ取る「肉体」に感動するのである。「肉体」をいいなあ、と思うのである。衝突と和解をつなぎとめる「肉体」、強い肉体--そこに思想があると思う。
 あの、文語と口語の衝突/和解は、岡井の「肉体」のあり方なのだという感じがはっきりしてきた。初期の短歌を読み、私は、それを強く感じた。

抱くとき髪に湿りののこりいて美しかりし野の雨を言う

 これは岡井が女を抱いたとき、女は野に降った雨(髪がぬれる原因になった雨)は美しかったと言ったという「意味」だろうけれど、まるで岡井が女になって抱かれていて、雨が美しかったと言っているように感じられる。「美しい」と思っているのは女だけではなく、岡井が「美しい」を肉体で感じていないと、たとえ女が美しいと言ったとしても、その声は聞こえてこない。そして、それをことば(詩)にすることもできないはずだ。
 これは、私が何度も何度も書いている例で言うと……。道端にだれかが腹を抱えてうずくまっている。それを見てひとは、それが自分の肉体でもないのに、あ、このひとは「腹が痛い」のだと思う。そのときその人は「痛い」とは一言も言っていなくても、声を聞くと「痛い」と聞こえるのに似ている。
 岡井が雨を美しいと思うからこそ、「美しかりし野の雨」と言っているのが聞こえる。「ことば」が「ひとつ」になっているのではなく、「肉体」がひとつになっている。



岡井隆歌集 (現代詩文庫)
岡井 隆
思潮社
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蜂飼耳「貝塚さがし」、近藤久也「借景」

2013-03-29 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
蜂飼耳「貝塚さがし」、近藤久也「借景」(「ぶーわー」30、2013年03月10日発行)

 蜂飼耳「貝塚さがし」は不思議なことばで始まる。

てのひらに道があり
いつか貝塚にたどり着く
かけらと断片のにぎやかさに
祝われるほどの現在もなく
あらゆる主語がこれほどに
迷子のかけらに なる ならば

 「てのひらの道」ということばは、手のひらにある生命線とか感情線とか頭脳線とかのことを想像させる。それは「道」かもしれない。でも、それが「貝塚」にたどりつく? 蜂飼のことばには何か飛躍があって、その飛躍がわからない。
 貝塚にはたくさんの貝殻がある。断片がある。そのことを蜂飼は「あらゆる主語」が「迷子のかけら」になった結果と見ている。
 主語って、貝? それとも、それを捨てたひと?
 たぶん、ひとだろうなあ。
 詩のつづきを読んでいくとわかる。感じられる。

浅蜊 蛤 これらを煮れば
日持ちのする食物となったのです
ぐらぐらと煮立てる 沸騰して泡
そうして貝の殻 きまった場所へと
棄てるのです
おいしそうで ぐらぐらと
土の器 のぞきこんでいたのです

 貝塚には、貝殻だけでは見えないけれど、実は「暮らし」がある。生きているひとがいる。煮て、食べて、貝殻を捨てる。きまった場所へ捨てる。そこにも「暮らし」がある。ただ食べるだけではない「暮らし」。
 で、そのとき。
 蜂飼は、「棄てる」ということばをつかっている。私は「捨てる」ということばをめったにつかわないが……。めったにというか、たぶん、つかったことがない。「廃棄」ということばならつかったことがあると思うが。
 で、そういうことばに、私は私とは違う何か、強い「こころ」が動いているのを感じる。
 そういうことを思うと、最初の「手のひらの道」がだんだん違ったものに見えてくる。
 「暮らし」をささえる手、食べ物をつくる手。そして、食べられないもの、余分なものを「きまった場所」に捨てる手。

棄てたのです そのたびに
自分の断片がぱさり ぱさりと
薄く剥がれて落ちてゆき
穴の上から見ていました

 うーん。貝殻を捨てることが、「自分の断片」を捨てることになるのか。どうしてだろう。わからないが、蜂飼はそう感じている。

やがて いつか いつしか
掘りあてられた貝塚に
朽ちない声を発見し
手をふって呼び戻す
再会に似ています

 あ、最後になって、突然あらわれる「手」。「手をふって呼び戻す/再会」。蜂飼は、貝塚に手を見ていたのか。手が見えたのか。最後になって、突然、そのことがわかる。再会したとき「こっちこっち」と手をふって呼びあう。そのときの手は「自己」の存在を知らせる。貝塚に、いまはそこにいないひとが手をふって呼んでいるように感じたのか。その手は、ごはんができたよ、こっちだよ、と昔は振られたかもしれない。
 そのあと貝を捨てにいく。貝殻を捨てる。それは「自己を棄てる」というのとは、私の感覚では直接つながらないけれど、蜂飼はそこに「自分の断片を棄てる」という具合に動くものを見たのだ。それが具体的にどういうことかわからないのだけれど。
 わからないからこそ。
 最後の「手をふって呼び戻す」が不思議に、ぐいと迫ってくる。「手のひらに道があり」という書き出しとつながっているのだと感じる。
 何か「流通言語」ではとらえられない「こと」を書こうとしている、そしてその書こうとしているという「こと」が伝わってきて、私は立ち止まってしまう。感想にならないのだけれど、立ち止まったということを書いておきたい。



 近藤久也「借景」。

リビングルームで息子のパートナーが
隣家ではよからぬ亀を二匹飼っているという
仕切りの外に首を伸ばして覗いてみれば
ベビーバスに濁った水が少し
背中の斑な大きな亀が確かに二匹
遠い異境で
じっと重なっていた
みたこともない派手な甲羅はあやしく
秘密めいて
そうして帰り
目をとじて
抱き抱えられ
寝静まった宇宙
潮満ち
波は寡黙に盛り上がってくる

 「首を伸ばして覗いて」、亀のように、隣をのぞいてみれば、亀がいる。その亀になって「異境」をちょっと見てみる。知らない「宇宙」、はじめてみる「宇宙」の、潮が満ちてくる。
 あ、いいなあ。
 何かにであって、その何かになる。自分が自分でなくなる。そのとき、新しい「宇宙」が見える。
 蜂飼は、「貝塚」というものに出会って、そこにやはり「宇宙」を見たのだろう。遠い時間を見たのだろう。いつの時間の中にもある「手をつかう」「手をふる」という人間の動きを見て、その見えたものを向かって「手のひらの満ち」を歩いていったということだろう。だれかが用意してくれた「教科書=頭脳の道」ではなく、蜂飼自身の「手」をどんなふうにつかっているかという「肉体がおぼえていること」をとおって近づいていったのだろう。
 こういう「個人的な」道、「肉体に密着した」道は、なかなか読者にはとおりにくいかもしれない。私には、とおりにくい。(とおりにくいけれど、あ、ここに「道」がたしかにあると感じることができた。)けれど、それが「肉体の道」であるかぎり、蜂飼の道でないと通れないというひともいると思う。
 そこが、詩の不思議なところだ。

夜の言の葉
近藤 久也
思潮社




食うものは食われる夜
蜂飼 耳
思潮社
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広瀬大志『激しい黒』

2013-03-28 23:59:59 | 詩集
広瀬大志『激しい黒』(思潮社、2013年03月25日発行)

 最初の詩「激しい雨(だったから死んだ)」は、どうやって書かれたのだろうか。どうやってつくられたのだろうか。ことばはどうやって動いたのだろうか。

持ち合わせている光景をすべて独り占めしたいから今日も。
屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。
「死だけが充分な広がりを持つ」朝のうちからまた動きだすのは欲望の尺度なのか教えて誰か。
屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。
だからどんどん先走っていくから追いつけないってそれでも。
屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。
おまえが知りたいと望んでいる真理は地面を見つめてばかりいるから天体を隠す夜を根絶やしにしてやろう。
屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。

 書き出しの行を引用してみたが、「屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。」がくりかえし出てくる。
 この行を広瀬はどうやって書いたか。
 これは、私にとってはとても重要なことがらである。私は、いまワープロで書いているが、昔は手書きだった。広瀬がいつから詩を書いているか、いつからワープロをつかっているか知らないが、手書きでは、こういうくりかえしはむずかしい。
 と、思う。
 同じことばを書くのに飽きるし、書いているうちに違うことを思いついて、同じ行を最後まで書くのが面倒くさくなる。はやく思いついたことを書いてしまいたい、書かないと忘れそうな気がしてくる。途中まで書いて、先に別の行を書いてしまうという「脱線」も起きる。
 少なくとも、私は手書きの場合は、こんなふうには書けない。
 そして、こういう詩を書くとき、私がワープロをつかうなら、その行を毎回手入力するということはない。コピー&ペーストで書いてしまう。いま、私が広瀬の詩を引用したとき、私はコピー&ペーストをつかった。
 で、そうすると、「屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。」という1行が、無機質になっていく。どんどん「無意味」になっていく。コピーされるたびに、稀薄になっていく。
 これでいいのかな?
 広瀬が同じことばをくりかえしたのは、そのことばを稀薄にするためだったのかな?

 ふつう、くりかえしは、ことばを濃密にする。大事だからこそ、何度でも同じことを言う。もう聞きました、と言われても、もう一回念を押すけれど……、という具合。
 で、念押しをするたびに、あ、あのことも言わなきゃ、このことも言わなきゃ……と思い出し、話がくどくどと長くなる。聞いている側にとっては、話し手が少しずつ思い出して追加してくることなんか、たいていさっき聞いたことのくりかえしにしか聞こえないのだけれどね。
 そして、そのだんだん長くなってくるくだくだしい「こと」のなかに、話し手の「人柄」のようなものがあふれてきて、「聞いたこと」と「その人」が「一体」になる。そういうことが起きる。

 さて。
 この広瀬の詩の場合は?
 うーん。
 私はわからないのである。
 「屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。」のあと、行は変わるのだけれど、それがほんとうに変わったのかわからない--と書いてしまうと、変な言い方になるが。「屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。」の前の行、後の行の接続と切断がわからないのである。

屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ意味。
屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ目的。
屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ屋根。
屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ雨。

 最後になって、一行に「意味/目的/屋根/雨」が追加される。その変化は、広瀬の「肉体」にとって、どんな影響があるのか。「肉体」のどこからそのことばが出てきたの。それがわからない。切断と接続の間に「肉体」を感じることができない。
 わからないのに、こういう言い方をしてしまうのは危険なのだけれど、どうも機械的にことばがコピー&ペーストされている感じがする。「屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。」を一行一行手書きしていたら、やはり同じことばの運動になったかなあ。

 ことばは、書かれるたびに(言われるたびに)、同じことばであっても違ってくる、と私は思っている。同じなのに違ってくるから、それにつづくことばも影響されて違ってくるのだが、それが違ってくることによって、あ、それは聞いた。同じことだ。という感想も生まれる。人間の考える「こと」は、どんなにことばが違っても同じ、という「矛盾」がそのときに噴出し、その矛盾を生きるのが人間だということがわかる。「ことば」が違っても「肉体」にできることは違わない、「肉体」にできることは同じという、変な生き物が人間なのだ。
 同じは違うであり、違うは同じなのだ。
 この矛盾が、コピー&ペーストでは機能しない。同じはあくまで同じ。違うはあくまで違うのまま。そうすると、そこには「並列」だけがのこる。「並列」という「分離」だけがのこる。そして「並列の分離」は広がりになるかというと、「広がり」にもならない。
 別な言い方をすると、AとBが「並列」している。その数はどれだけ増えようとAとBがある、と言ってしまえばおしまい。その「並列」が50か49か、あるいは10000 か9999かは、「頭」では一瞬のうちに「違い」として提出できるけれど、「肉体」にはそれができない--つまり「違い」にならない、という問題が起きる。そして、「頭」で10000 と9999が「正確」に識別できるから、そこにある「違い」を「肉体」にまで影響のあるものにできるかというと、--うーん、私は、そんなむちゃくちゃな、と思ってしまうのである。

 うまく言えないのだが、うーん、広瀬は「頭」がいい人間なのだろうなあ、と思う。その「頭」の世界に、私はついていけないなあと感じる。コピー&ペーストに、「肉体」がついていけない。
 引用するときもそうだが、詩を読むときもおなじなのだ。私の「肉体」のなかで「省略」が起きてしまう。「省略」されないものだけが詩なのに。目が「省略」するだけではなく、「のど」も「耳」も「省略」してしまう。ずぼらになってしまう。それは私には「いのち」の省略にも思える。

 で、こういう作品を読んだ後、

私の一人は6月9日の朝9時少しまわった時刻にふじみ野駅前の
路上にて死んだ鳩の頭を踏む(ぐしゃり)
私の一人は何年首をのばせば把手に届くだろうと
のんびり考えている(ぐしゃり)
私の一人は絞首索結びに縮みあがる影嚢の方に興味を持ちつつ
驚いて足をあげる(ぐしゃり)
                        (回走のオペレーション意象」)

 という魅力的な行を読んでも、こにあるのはほんとうに「肉体」かなあ、と思ってしまう。「頭」でつくりだした「肉体」なのかもしれないなあ、と。
 「頭」で「肉体」がつくりだされたって悪いわけではないし、それはそれでおもしろいと思うのだけれど--実際(?)、「私の一人は……」の数行は書き出しのバリエーションなのだから「頭」がつくりだしたものと言っていいものなのかもしれないけれど。たとえ「頭」がつくりだしたものであっても、それが「頭」という印象を与えないか、逆に、えっ「頭の肉体」って、こんな具合に動くのかと感じさせてくれるといいのだけれど。ここでは、私は少しだけ「頭が押し広げていく肉体(頭が拡大した肉体/頭と肉体がいったいになったあり方)」ってこうなのか、と思い、わくわくしたのだけれど。


激しい黒
広瀬 大志
思潮社
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岡井隆『岡井隆詩集』(3)

2013-03-27 23:59:59 | 詩集
岡井隆『岡井隆詩集』(3)(現代詩文庫200 、思潮社、2013年03月01日発行)

 「四十四の機会詩」の冒頭の作品は「嘘」。

嘘は沈黙との間に谷をつくる
嘘は真実をいはぬこと
ではない
嘘は多彩 しかし真実に色はない

 あ、おもしろいね。「多彩」と「色はない」。「無彩色」ということばは書いていないのだけれど「無彩色」ということばがぱっと浮かぶ。「無彩色」は「色はない」という意味ではないんだけれど……。「白/灰色/黒」も「色」だからね。だから、「透明」を飛び越えて、「色はない」から「無彩色」ということばを思い浮かべるのは何か「飛躍」があるのだけれど。まあ、そんなことは、はっきりと突き詰めなくてもいいのだと思う。ただ、あっ、と思い、その瞬間、私の肉体のなかで何かが動く。(精神のなか、頭の中、こころの中、という人もいるかもしれないけれど。)そして、何が動いたかわからないけれど、動いたという実感だけは確かにあって、それがおもしろいということ。
 そこに、詩がある。
 この「おもしろい」という「こと」はつづけるのが、しかし、むずかしいもんだね。

人と人との方のふれ合ひの
その向うに紅葉をみる
花をみるより多く紅葉をみるが
花にも紅葉にも色がある

手紙を書き泥(なづ)んだ
指は字を忘れ 字を打ち消した
窓が曇りを教へる午後の

はかない外出を送り
未完の帰宅を待つ
嘘でもいいから 平穏に生きたい

 1連目の、はっと驚いたときの興奮が消えていく。だんだん、わからなくなる。2連目には「紅葉」と「花(の色)」が出てくるが、ちっとも「多彩」ではない。「紅」しか「色」が見えない。
 3連目に行くと、「書く」(字)が出てくるからか、「色」は「黒」しか思い浮かばない。「曇り」は「黒」の変形(?)の「灰色」、つまり「無彩色」。あれっ、そうすると、ここに書かれていることは「嘘」ではなく「真実」?
 4連目。「色」をまったく感じない。「透明」だ。「真実に色はない」の「色はない」という状態。だから、「真実」? で、それが「嘘でもいいから 平穏に生きたい」ということ?
 でも、タイトルは「嘘」だね。
 あ、別に「タイトル」が「嘘」だからといって、そこに書いてあることが「嘘」である必要はないのだけれど。
 何か、よくわからないのだが。
 けれど、この「よくわからない」がかなり不気味である。

 何が書いてあるのかわからないけれど、「嘘は多彩 しかし真実に色はない」と書いた後、ことばが、こんなふうに動いた、ということが不気味である。
 「意味」をつくらずに(あ、岡井は、ちゃんと意味は書いてある、というかもしれないけれど)、それでもことばは動く。それは書かれたことばが岡井を動かしているようにも感じられる。
 ある瞬間「嘘は多彩 しかし真実に色はない」という具合にことばが動いてしまった。その動きにひきずられて、ほかのことばが動いた。動かされた。--もちろん、そこには、その「嘘は多彩 しかし真実に色はない」という具合に動いたことばを利用して、ほかのことばを動かしてみようと思った岡井の「意思」のようなものがあるかもしれない。「機会詩」というのは、そういうある「機会」を利用して、瞬間的にことばがどんな具合に動くかを書きとどめたものかもしれない。そこには「機会」があるのであって、「意味」はないということかもしれない。

 ごちゃごちゃと変なことを書いたのは、この「機会詩」には「日付」がついているからである。「嘘」は「八月十六日」。そして「八月十六日 その二」というのが、すぐつづいて書かれている。「夕ぐれの自分」。

「嘘が生む嘘」といふ人と
「嘘こそまことの母」といふ人とが
話し合ってゐる土手の上で
万物の主(しゅ)の在(ま)します川の岸で

 ここにも「嘘」が登場する。「嘘」という作品を書いたとき、何かが岡井のことばからこぼれたのだ。「嘘」では書き切れなかったものがあったのだ。それは何か。よくわからないが、ともかくそういうものがあって、それが「嘘」のつづきを書かせているのである。それが不気味であり、また「嘘は多彩 しかし真実に色はない」という「断言」よりもはるかにおもしろい。

嘘の花を咲かせる
万物の主の耳には嘘の向う側から
呼ばないでほしい
嘘の声では

 「嘘」に出てきた「花」が「嘘の花」という形で出てくる。そうすると、「真実」はどんな具合になっているだろうか。「嘘の向う側」かな?
 でも「嘘の向う側から/呼ばないでほしい/嘘の声では」って、どういうことだろう。「嘘の向う側」が「真実」なら、そこから呼ぶ声は「真実の声」にならないのかな? それは「真実の声」という「嘘」なのかな?
 結論は?
 ない。
 私は、ないと思う。
 なぜなら、これは「機会詩」であるから。つまり、そこにあるのは「機会」だけ。「きっかけ」だけ。ふれた瞬間に動く何かだけ。「真実」というのは、たぶん、いろいろな「動き」を都合のいいように整えなおしたものなのだ。「機会」は整え直す前の、何かしら「なま」のものである。 「なま」だから不気味であり、処理されていないからおもしろいのだ。
 その「なま」の中を動いているのは……。

道をわたらうとして左右を視る
ぎらぎらした夏の未知のわりには
空気は埃か霧を含んで

今からどこへ行くにしても
嘘の八(や)ちまたをまたぐことなしには
夕ぐれの自分の中へは帰れはしない

 「嘘」の中に出てきた「曇り」は「埃か霧か」と呼びあっている。「未完の帰宅」は「自分の中へは帰れはしない」と呼びあっている。どうしても、何かが、呼びあうのだ。そしてそこには「嘘」--言い換えると「ことば」がある。「ことば」を通ると、それは「嘘」になったり、「真実」になったりして、そして面倒なことに、「嘘」の方が「多彩」に見えてしまって……。
 「真実(自分の中)」には帰り着くことができない。
 でも、その「帰り着くことができない」という「こと」そのものが「自分(真実)」であったら?

 まあ、いいのだ。こういうことは。

 私は岡井の詩がとても好きである。なぜ好きかというと、そこには「結論」がないからだ。何かにであって、瞬間的に、何かが動く。そこにあるのは「出会い」と「動き」だけである。『注解する者』というのは「注解」という「解答(真実)」を追い求めているようにも見えるけれど、そこにある「真実」は「注解すること」であって「注解」ではない。何かにであって、それを真剣に「注解する」ときに、岡井のすべてが出てくる。でも、そのすべてというのは、一回で完全に出てくるのではなく、少しずつしか出て来ないし、出るたびに違う道ができてあらぬ方向へずれていく。その「ずれていくこと」のなかに、「ずれていくことができるということ」のなかに、何かがあるのだ。不気味を突き破っていく力を感じ、それに引きつけられるのだ。
 そこには「機会」があって、その「機会」によって、岡井は「多彩」になる。「多彩」は岡井の定義によれば「嘘」ということになるけれど、「多彩」の一つ一つの「色」はいつでも「ひとつ(真実)」であるというややこしいことがらが同時に成立する。
 「多彩」を簡単に「多彩」とくくらずに、「多」を「一つ」ずつ追ったのが「機会詩」ということになるかもしれない。

 「結論」を出すのはむずかしい。けれど「結論」を書かずに書きつづけるのもむずかしい。「結論(整えられた断言)」があると、その「結論」が「嘘」であっても、なんとなく落ち着く。安心する。岡井は、しかし、そういう「安心」を拒絶して、「機会」という「今」へ帰りつづける。それは不可能な、「未完の帰宅」になるしかないのだけれど。
 岡井の「機会詩」の定義は定義として、私は、そんなことを考えた。
 岡井の「機会詩」は「完璧(正直)」すぎて、ちょっと困る、とも思った。



わが告白
岡井 隆
新潮社
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岡井隆詩集(2)

2013-03-26 23:23:23 | 詩集
岡井隆詩集(2)(現代詩文庫200 、思潮社、2013年03月01日発行)

 岡井隆の詩の魅力は、音と沈黙が拮抗することである。意味と沈黙が拮抗することである。音のなかにある無意味が、沈黙のなかにある意味を破壊するところにある。
 なんて、書いても、なんのことかわからないね。
 私にもわからないのだけれど、いま書いたような何か「拮抗」の感覚が、音を、ことばの響きを美しくしている、ことばそのものを美しくしている、という感じがする。その美しさが、私はとても好きだ。
 たとえば、「連詩の会のあくる日」。

静岡連詩の会から帰つて来てからうすくらがりの廊下を寝室へふらふらと歩いた。
『斎藤茂吉/木下杢太郎往復書簡』を開いてベッドにころがる。茂/杢ともに微妙な間(ま)を医の仕事に空けてゐた。茂吉には遠慮があり杢太郎には不審と焦慮があった。詩の話は一行も出て来ない。
書簡にあふれてゐるのは本郷と青山の日の光だけで本屋の店員が行間を出たり入ったり 杢太郎はともかく創造の小山を一つ越えたばかりだつたがそれを攻撃する茂吉の方言はごく控え目で大ていそれについての杢太郎の返事は欠落してゐた。

 「連詩」と「往復書簡」が重なって、「意味」をつくりあげる。杢太郎は何かをつくりあげた。その作品を茂吉が攻撃した。それに似たことが「連詩」の会でもあったかな? 連詩の会では「攻撃」ではないかもしれないけれど、詩のつながりぐあいのなかに、何か相手を攻めるような、刺戟するようなものがあったということかもしれない。そういう「記憶」が茂吉と杢太郎の往復書簡の行間を出入りする本屋の店員のように動き回るということかな……。
 で。
 この、

書簡にあふれてゐるのは本郷と青山の日の光だけで本屋の店員が行間を出たり入ったり

 ここが、とても美しい。「意味」としては、往復書簡には、本屋の店員が「何々」という本を持ってきた、それを読んだというようなことが書いてあるのかもしれないが、本のタイトルは紹介せずに、本屋の店員が本を持ってきたというような「事実」だけが取り出されている。
 「本」というのは、「本の中身」に「意味」があるのであって、「店員」に「意味」はない。(あ、本屋さん、ごめんなさいね。)
 つまり、ここに書いてあるのは「無意味」。本屋の店員が出入りしたからといって、そのことが茂吉や杢太郎の精神生活(意味)には無関係。それは「本郷と青山の日の光」のように、そこにある「自然」。「意味」を拒絶する何かだ。
 で、この「意味の拒絶」が「無意味」である。「無意味」が生活を洗うと、そこに「音楽」が響く。「音」が輝きだす。「音楽」--そこに「意味」はないけれど、「音」がある。そして「気分」がある。「意味」はわからないが、「気分」はわかる。そういう「こと」が、そこでは起きる。少なくとも、私の場合、そういう感じ。

杢太郎はともかく創造の小山を一つ越えたばかりだつたがそれを攻撃する茂吉の方言はごく控え目で大ていそれについての杢太郎の返事は欠落してゐた。

 というのは、茂吉と杢太郎の往復書簡を読んだ人には何のことかわかるかもしれないが、読んでいない人にはよくわからない。どの作品にどんな攻撃があったか、それはわからないけれど、杢太郎がそれに対して返事を書かなかったという「こと」はわかる。「返事を書かない」という「こと」のなかにある「気分」を感じる。書かないことで、そこにあった「ことば」を洗い流し、その「無・ことば」(沈黙)のなかから、それに拮抗するように、「音楽」のようなもものが生まれ。書かれていないのだけれど、ここに、まだ書かれていない「ことばの音楽」がある。
 「意味」よりも、もっとほかのものが優先している感じがする。そういうことが、その書かれていないことばと拮抗するように、書かれてしまったことばのなかにある。--というのは、うーん、矛盾だらけの、私の「感覚の意見」にすぎないのだけれど……。
 で。そこに「音楽」がある--というのは、私はそう書いてしまうのだが、そして書きながらちょっと説明がしにくいのだけれど、無理を承知で書きつなげれば……たぶん書いている岡井のことばの「言い回し(リズム)」がなんとも美しいから「音楽」ということばが誘い出されるのだろうと思う。
 「杢太郎はともかく……」から「欠落してゐた」まで、読点なしにつながっているが、すいすい読めるし、読んでいるあいだにことばひとつひとつがはっきり聞こえる。雑音がない。
 これはすごいなあ。これはやっぱり岡井が「短歌」という文学に深く関わっているからだろうか。音に出して読むということを日常的におこなっているからだろうか。(あ、「短歌」を実際に岡井が声に出して読んでいるかどうか、私は知らないのだけれど。なんとなく、歌は声に出すもの、という印象が私にはある。現代詩は、黙読の方に重きがあると思うけれど。)
 声が鍛えられているから、そこに「意味」が欠落していても(茂吉が攻撃したという杢太郎の作品、そのときの具体的な指摘が欠落していても)、その声を信じてしまう。岡井の「報告」していることに嘘はないと思ってしまう。

 ところが。

読みさしの頁に示指をはさんで目をうつろにしているとき『斎藤茂吉/木下杢太郎往復書簡』ではない、と気づいた。さういふ書物はこのよにないのだ、とすればわたしは静岡連詩の会にもいかなかつたことになるのである。

 「声」にだまされてはいけませんよ、と岡井は注意する。声があるから、そこに「意味」があるとはかぎらない。そこには「嘘」という「無意味」しかない。でも、それが「音」として楽しかったら? 「嘘」が楽しかったら? その「嘘」の「意味」は?
 考えだすと、わからない。
 これは、

さういふ書物はこのよにないのだ、とすればわたしは静岡連詩の会にもいかなかつたことになるのである。

 も同じ。
 というか、逆のことも考えさせられる。
 もし岡井が静岡の連詩の会に参加したというのがほんとうなら『茂吉/杢太郎往復書簡』は存在することになる?
 そんなことはない。
 そんなことはないのだが、ことばはそういうことを考えることができる。「人間が」ではなく、「ことば」がそういうことを考える。そういう「声」になる。「声」が独立して、「意味」をふりきって「音」だけで「嘘の意味」をつくってしまう。その「嘘の意味」は、音をとおして人間に浸透してくる。
 でもね、こういう「嘘」というのは、実は「声」でわかってしまう。ほら、他人の嘘が「声」の調子でわかるように。
 岡井の詩の場合、岡井が「そういう書物はない」告白するまで、それが嘘かどうかわからない。それは岡井の「声」が力を持っているからだ。「声」がことばになっているからだ。だからこそ、最後のどんでん返しが、それじゃあもし連詩の会があったなら……という架空のどんでん返しを引き起こすことにもなる。

 うーん、だんだんややこしくなってきた。きょうの感想は、最初の2行だけでやめておくべきだったのかなあ。



岡井隆の現代詩入門―短歌の読み方、詩の読み方 (詩の森文庫)
岡井 隆
思潮社
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岡井隆『岡井隆詩集』

2013-03-25 23:59:59 | 詩集
岡井隆『岡井隆詩集』(現代詩文庫200 )(思潮社、2013年03月01日発行)

 「死について」は『かぎられた詩のための四十四の機会詩』に収録されている。巻頭の作品である。

死の瀬の磯(そ)の洲(す)との差 と言つて遊ぶ
死つてまがることなんだと声高に宣言して遊ぶ
曲がり切らないうちに向こうから来る と言つて遊ぶ
死を束ね/てゐる黄金(こがね)の/帯がある と作つては遊び
逝くことだといふ嘘を青空を喪ふことと言ひかへて遊ぶ

 少し前に、私はことばを読んでいて「音」が聞こえないと理解できないと書いた。それは逆に言うと「音」が聞こえると何かわかったと勘違いするということになるかもしれない。
 たとえば、この詩の1行目。「さ・し・す・せ・そ」ということばが響いている。その「音」ははっきり聞こえる。そし、その「音」を聞いているとき、無意識の内に「肉体」を動かして発音しているとき、私は「意味」を忘れている。追いかけてくる「意味」をふりきって、「音」が走りだすのを感じている。

 そんなことを感じながら「意味」も考えないといけないかなあ、と思いなおし。
 「意味」は……むりやり考えてみると、走りだした「音」を立ち止まらせて追いつくのを待ってみると。
 この1行の指し示しているところは、ことばや記号を補ってわかりやすく書き直すと、(ついでに現代仮名遣いにして書き直すと)

「死の瀬の磯」と「死の瀬の洲」との差、と言って遊ぶ

 ということになるかもしれない。「死の瀬」には「磯」と「洲」があり、そこには違いがあるかどうかは知らないけれど、まあ、そんなふうに区別して、言って遊ぶ、言い換えると「声」に出して遊ぶということになるかもしれない。
 「意味」が追いついたところで。
 「言って遊ぶ」がとても大切なのだと思う。
 このとき「遊ぶ」というのは「意味」じゃないね。(と、私は、再び「意味」を離れる。)つまり、「磯」と「洲」にどんな違いがあるか「無意味」な質問をして遊ぶ、じゃないね。「さ・し・す・せ・そ」という「音」の組み合わせを遊ぶということだね。「意味」はどこかにほうりだされている。「声」を出して、遊んでいる。
 その「遊んでいる声」に私は反応してしまう。いっしょに遊びたくなる。つまり、「声」を出したくなる。「さ・し・す・せ・そ」という1行を入れ換えて、早口ことばを楽しんでいる感じ。
 そのときの「楽しさ」(肉体のよろこび)が、私には「わかる」。
 「意味」なんか、ぜんぜん気にしていない。その証拠(?)に。私は、今回この詩を「引用」するまで、

死の瀬の磯の洲の差 と言つて遊ぶ

 という具合に、洲「と」の差、の「と」を欠落させて記憶していた。肉体は「さ・し・す・せ・そ」だけを覚えていた。本来あるはずの「磯(と)洲との差」という「意味」は私の「肉体」の記憶からは欠落して、「さ・し・す・せ・そ」になっていた。
 岡井には申し訳ないが、私は、「音」だけしか聞いていなかったのである。
 こんな自分だけの体験(誤読)をもとにして何かを書いてはいけないのかもしれないけれど、これが私の「肉体」の正直な反応であり、これが私の、詩に対する「理解」なのである。
 私は「音」の遊びと思っているから、次の

死つてまがることなんだと声高に宣言して遊ぶ

 では、ま「が」る、「こ」わだ「か」という「か行」の響きあい、ま「が」る、こわ「だ」かという濁音の響きあいを、あ、おもしろいと思う。
 さらに、旧仮名遣いで書いてあるのだけれど、それを読むと「文語」ではなく「口語」になるというところも、「意味」ではなく「肉体」を刺戟してくるので、とても楽しい。「声高」と「声」ということばがつかわれているのも、私には、ここに書かれているのは「意味」ではなくて、あくまで「声(音)」なのだという印象を植えつける。声(音)の印象が濃くなる。

曲がり切らないうちに向こうから来る

 これも「か行」の揺らぎだね。ま「が」り「き」らないうちにむ「こ」う「か」ら「く」る。そして、「ら行」。まが「り」き「ら」ないうちにむこうか「ら」く「る」。「か行」と「ら行」が交錯する。さらに「ま行」の「ま」「む」も混入する。
 「意味」をすっかり忘れている。
 しかし、そうすると、

死を束ね/てゐる黄金(こがね)の/帯がある と作つては遊び

 えっ、これ何? どこに「音」がある? わからないね。「音」が一瞬、消える。
 でも、こういう「わからない」は逆に、それまでの「音」の響きあいを強調する。「音」の響きあいを楽しんでいるから、そこで「音」が聞こえないということが、逆にいままであった「音」をより鮮明にする。
 あ、これって「我田引水」というものだね。
 つまり--私は岡井の詩をわかっていない。ただ岡井の詩で、自分が遊べる部分だけ利用して、遊んでいる。正しい鑑賞ではなくなる--ということなんだろうなあ。
 でも、それが正しくなくても、私は実は気にしないのである。
 あるとても有名な現代詩人であり俳人でもあるひとの句を私は誤読し叱られたことがあるけれど、関係ないなあ。間違えたって、それがどうしたの? 私はそう読んで楽しかった。正しくなくても、読んで楽しければ、それでいい、という考えなので。
 で、この1行を岡井がどんな気持ちで書いたか、どう読まれたいと思っているかなんて、気にしない。「音」を楽しんできた「肉体」をそのままつかって、また「遊ぶ」ことを考える。

死を束ね/てゐる黄金(こがね)の/帯がある

 を見ると、「ね」「ゐ」「る」という、きゅっと丸くなった部分を含むひらがなが目につく。黄金にはルビで「こがね」と「ね」の文字を補っている。
 これはどういうことかというと。
 岡井は、「音」(聴覚/発音器官)を遊んでいるだけではなく、「視覚」も遊んでいるのだ。目には何か似た感じがする「文字」なのに、耳には違って聞こえる。「/」なんていう「音」を持たない「文字(記号?)」まである。
 こういういたずら(作為?)も、私に、「音」を強調するためのものに感じられる。無音、沈黙があって、音の印象が際立つ。そして、それがいたずら(作為)であるからこそ、この行は「言って遊ぶ」「宣言して遊ぶ」ではなく「作っては遊ぶ」。ね。「言う」ではない、「声」ではない、と岡井は解きあかしている。そうすると、私の読み方もまんざら間違っているとばかりは言えないよね--と、また「我田引水」。
 そんなことをしたあとで、

逝くことだといふ嘘を青空を喪ふことと言ひかへて遊ぶ

 これは、どう?
 私には「ふ」(は行)が気にかかる。「ふ」は「う」でもあるね。「いう・うそ」「うしなう」。--だけではなく、
 な、なんと。
 この行だけ「言って遊ぶ」ではなく「言い換えて遊ぶ」。「は行」が、「歴史的仮名遣い」が「文字」と「音」のなかで、なんというのだろう、遊んでいる!
 「言って遊ぶ」は「口語」だったのだ。「言ふて遊ぶ」がもとの形だったのだ。それが「言ひかへて」と歴史的仮名遣いの「は行」のなかでよみがえる。
 わ、わ、わっ。
 「誤読」どころか、読み落としていたものが、急に目の前にあらわれてきたよう。びっくり。
 このびっくりは、目の前でふくらませていた風船がぱーんと割れたような感じ。笑いだしてしまうなあ。自分の無知さ加減に。

 こういうとき、私はめげない。
 逆に、はりきってしまう。
 で、こういう「結論」をでっちあげる。
 詩を読む楽しみは、自分の無知を発見し、笑うところにある。これを逆に言うと、まあ、詩人の鋭い知性にふれて、目が覚める、というのだけれど。
 その「目が覚めた」例。

死は ある<系>の末席だといふ人がある
その椅子に座ると<系>の連衆が一せいに立つてどなるんだつて

 「意味」はよくわからないのだけれど(つまり、肉体でははっきりわかるけれど、わかるがゆえにことばにはできないのだけれど)、この死と末席の関係、それから禁忌(?)にふれると「どなられる」という感じ--あ、そういうものを岡井はしっかり見ているという感じがするねえ。

あるメロディーの終端和音だといふ説があつて後は音の無へ接続するつて次第 もつともすぎて信じられやしないのさ

 わかったようなわからないような、でも、目が覚めるよね。刺戟があって。そして、それを「もっともすぎて信じられない」ということろもね。そうなんだ。なんでも「もっともすぎる」のは嘘なんだ。
 なんてね。

 いや、楽しいなあ。










岡井隆詩集 (現代詩文庫)
岡井 隆
思潮社
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小野寺南圃『名前のない朝』

2013-03-24 23:59:59 | 詩集
小野寺南圃『名前のない朝』(沖積舎、2013年04月01日発行)

 ことばを読んでいて、ときどき不思議なことが起きる。どうにもわからないことばに出会う。私は17歳まで富山にいた。その後、九州で生活している。九州へやってきたとき、ことばにつまずいた。「方言」ではなく、いわゆる標準語、書きことば(文章)につまずいた。九州のひとの書いている詩を読むと、どことは言えないけれど、どうもわからないのである。音が聞こえてこない。「方言」の方は音が聞こえるから、正確に意味がわからなくてもなんとなく安心するが、書きことばから音(声)が聞こえてこないというのは、私にはかなり苦痛だった。私は音痴のくせして、音が聞こえないと、どうにもものごとが理解できない。それは、まあ、昔のことなので、いまは大分なれたけれど。音が聞こえなくても、読むことができるようになったけれど。
 なぜこんなことを書いたかというと。
 小野寺南圃『名前のない朝』の作品群は、音が明瞭に聞こえるからである。なんだか、とてもなつかしい響きである。
 「出発」という作品。

わたしは遅刻する
どこまでも続く夜のなかで
わたしの死は
目覚めることができない
やってこないわたしを待ちながら
澱んだ日常の寝室で
死は
何度も深い寝返りを打つ

 「意味」は関係がない、というと小野寺に申し訳ない気もするのだが、まあ、意味は関係がない。「わたしは遅刻する」という書き出しも、抽象的なのだけれど、音がすーっと肉体の中にはいってくるので、わかった気持ちになる。
 死は「何度も深い寝返りを打つ」というのは、とってもいいなあ。そのまま盗んでつかってしまいたいくらい。
 この音のつらなり、純粋な九州のひとにはどんな具合に響くのだろう。
 また、こういうことば(音)を書く小野寺にとって、九州の詩人たちのことば(音)はどんなふうに響くのだろう。聞いてみたい気持ちにかられる。

 「結婚」という詩の全行。

おれは
おまえのちいさな掌を喰べる
牛が草を喰べるように
何度も何度も噛み直す
おまえは痛いとは云わず
やさしくほほえみながら
おれの両目を抉り取る
今晩のおかずの野菜サラダに入れるの
そうおまえは云って
たんねんに たんねんに
おれの目玉を潰している
おまえとおれは
砂漠のような夜の食卓に着いて
じっと向かい合いながら
おまえはおれの
おれはおまえの
氷のように冷たくなった野菜サラダを
いつまでも
喰べ続けている

 夫婦の関係がブラックな笑いの中に描かれている。こういうことに対して、感想というものは……ない。まあ、そういうものである。で、この詩をいい詩か悪い詩か、というようなこと、言い換えると好きか嫌いかというときの判断の基準なのだが。
 私の場合、それは「音」なのだ。
 読んで、その「音」がすっきりと響いてくるときは、それは「いい詩」「好きな詩」。小野寺の詩は、私は好きである。理由は「音」が私にはとても自然に聞こえるということ。やわらかく、すっきりと聞こえるということ。
 とても、読みやすい。
 もう一篇「朝は泣く」。その前半。

遠い場所から
年老いた影がやってきて
道を尋ねている
自分の行き先を忘れてしまったので
思い出すまでの間
くたびれた心臓が
きのうの方角へ引き返した
まだ歩く距離はあるが
時間が泥濘るんでいて足をとられる
 
 「くたびれた心臓が/きのうの方角へ引き返した」というのは、抽象的すぎて、どういう意味かと問われたら、私は答えることができない。ところが、その意味のわからない「音」が肉体の中へすーっと入ってきてしまう。入ってきて、いまは意味がわからなくても、それでいいというのである。私の肉体が。
 ことばというのは、どういうことばでも、最初はわからない。わからないまま聞き、それを肉体がおぼえてしまう。そして、つかっている内に、徐々に肉体のなかで修正されて、「通じる意味」になる。この「通じる」は、とてもいいかげんなもので、たぶんに「誤解」を含んでいるものなのだが、それでも平気。
 「くたびれた」も「心臓」も「きのう」も「方角」も「引き返した」も知っていることばだから、違和感がない。ただ、わからないだけ。わからなくても、くたびれたら引き返すだろうなあなんて、いいかげんに納得している。

歩くことをやめて
あしたのことを考えていると
泥濘るんだ時間の先で
近寄ってきた夜が耳打ちしている
夜はどこか遠くへ行きたがっていたが

 この「近寄ってきた夜が耳打ちしている/夜はどこか遠くへ行きたがっていたが」という2行は、「意味」を特定しようとすればそれなりにできることかもしれないけれど、私は「意味」なんか追わない。ただ、「近寄って」きて「耳打ち」するという行為--そういうものを「音」とともに「肉体」のなかへ入れて、その「こと」を「肉体」がただ受け止めているのを感じる。そしてそのとき「夜」の「肉体」を強く感じる。「近寄る」「耳打ちする」という動詞がかかえこむ「肉体」、動詞がかかえこむ「こと」が、「肉体」になってあらわれる。動詞をとおして、夜と私の「肉体」が一体になっている。ふれあっていると実感する。そして、夜がそれでは「何を」耳打ちしたのかわからないのに、夜が「どこかへ行きたがっている」ということだけはわかる。私の「肉体」が、だれかが私に耳打ちして「……したい」とそっと言ったことを「おぼえている」。あるいは、私の「肉体」はだれかにそっと「……したい」といったことを「おぼえている」。「肉体」の動き(動詞)として「おぼえている」。
 こういう現象が起きるとき、私の場合は、「音」がとても大切。「音」が嫌いだと、そういうことは起きない。ことばはばらばらに散らばって、虚無しか残らない。

 で。突然、飛躍してしまうのだけれど。

 先日読んだ南原充士の詩。音遊びをしている詩なのだけれど、そこに私はまったく「音」を感じることができなかった。たしかに同じ音が繰り返され、そこに「遊び」はあるのかもしれないけれど、その「遊び」は頭で考えないとわからない「遊び」。言い換えると、「肉体」がかってにまねして、声に出すのがうれしいという「遊び」ではなかったか。「肉体」が動かない。
 それに比べると、小野寺のことばには「音」がある。だから「肉体」が動く。
 この「音」は、小長谷清実の「音」とも違う。小長谷の場合、そこにははっきりした発音器官、のどや舌や口蓋が音をつくりだすとのの快感が作用している。(あ、これは「感覚の意見」です。)
 小野寺の場合は、小長谷の「音」と違って、そうだなあ、耳の快感なのだ。
 少なくとも、私の「耳」には、とてもよく響いてくる。これはたとえば、松任谷由実や中島みゆきの声は私の耳には気に食わないけれど、岩崎宏美の声は気持ちがいい、というのに似ているかなあ。
 声の好み--というのは、説明がむずかしいけれど、重要かなあ。

 詩の感想になったかどうかわからないけれど、こういうことも、私の書いている「肉体」の問題には絡んでくる。どんなふうに接近していけば、それが明確になるのかわからないのだけれど……。


季刊 ココア共和国vol.7
秋 亜綺羅,恋藤 葵,谷内 修三,野木 京子,高取 英,藤川 みちる
あきは書館
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ポール・トーマス・アンダーソン監督「ザ・マスター」(★★★★★)

2013-03-24 20:34:51 | 映画

監督 ポール・トーマス・アンダーソン 出演 ホアキン・フェニックス、フィリップ・シーモア・ホフマン、エイミー・アダムス、ローラ・ダーン

 第二次大戦で精神に変調を来した男とカルト(?)の「マスター」の、不思議な依存関係を描いている。--というようなことは、まあ、関係ないなあ。
 この映画でおもしろいのは「音」(音楽)である。
 冒頭、ホアキン・フェニックスがココナツをつかってあやしげな飲み物(アルコールらしい)をつくっている。ココナツの実を鉈で割っている。そのときの「音」。現実の音と、それとは違う効果音(音楽)が重なる。その「効果音」が不思議なのである。打楽器。というか、よくわからないが、弦楽器、管楽器ではない。つまりメロディーはない。それが奇妙に印象に残る。現実の音とはずれているので、耳が聞く音ではない。しかし、聞こえる音である。ホアキン・フェニックスの「肉体」が聞いている音、「肉体」の内部でなっている音という印象がする。耳ではなく、「肉体」の内部で聞いている音、内臓が聞いている音。あるいは内臓が出している音か。
 ホアキン・フェニックスがフィリップ・シーモア・ホフマンと出会うきっかけの船。そこではダンスパーティーが開かれている。運河(川?)を行く船の明かりのまぶしさ。音楽のきらびやかさ。それは「外」にある音であって、ホアキン・フェニックスの「肉体」の内部から聞こえる音楽ではない。けれども、その音楽にひかれるようにホアキン・フェニックスはその船に潜り込む。何か、よくわからないものに動かされているのである。「肉体」の内部から聞こえる音(音楽)とホアキン・フェニックスが錯覚したのかもしれない。その音とホアキン・フェニックスの「肉体」の内部の音が、和音のように結びついたのである。
 二人の関係はとても奇妙である。ホアキン・フェニックスには他人を殺したので逃げなければならないという「理由」のようなものがあって、フィリップ・シーモア・ホフマンの船に乗り込んだということがいえる。ところがフィリップ・シーモア・ホフマンには、ホアキン・フェニックスを引き留めておく「理由」は、明確にはない。ホアキン・フェニックスのつくる奇妙な酒が気に入ったということはあるかもしれないが、それだけの「理由」で未知の人をかかえこむ必然性とはならないだろう。またホアキン・フェニックスはフィリップ・シーモア・ホフマンの「カルト」を信じているわけではないようなのだが、フィリップ・シーモア・ホフマンが批判されると、どうしようもなく凶暴に反応してしまう。その反応の必然性も、「ストーリー」としてはわからない。
 わからないのだけれど。私は納得してしまった。なぜ納得したかというと、そこに「音(音楽)」が常に存在したからである。
 この映画の音楽は、最後の「パートナーを替えて」(というような意味のタイトル)のように何かけだるく、ある意味でロマンチック(センチメンタル)な響きのあるものもあるが、全体的に、何か「ずれている」。一種の気持ち悪さを持っている。「パートナーを替えて」も、なぜ、ここでこの曲?という「ストーリー」とは無縁のような印象がある。で、ストーリーとは無縁なのだけれど、「無縁」であることを超えて、何か「肉体の内部」に直接響いてくる。その直接性が気持ちを逆撫でする。「意味」ではなく、「無意味」として、「肉体」に響いてくる。
 この「無意味」としての「音(音楽)」が、映画と、そこに登場する役者の「肉体」を貫いて生きている。
 「意味」を「社会的正義」というようなものでとらえると。たとえば、ホアキン・フェニックスが第二次世界大戦に兵士として参加し、そこで戦う、日本兵を殺すということについては「社会的正義(意味)」をつけくわえることができる。実際、社会はそういう「正義」を主張することで成り立っているのだが、個人的な「肉体」の感覚には、そういう「正義」は意味がない。「肉体」は「正義」というようなものを判断しない。「頭」が「正義」を捏造するだけである。「正義」を主張するとき「頭」と「肉体」は分離することがある。
 「分離」された「肉体」は、「意味」から切り離されて「無意味」になる。その「無意味」のなかにも「いのち」はあり、それが何かを聞き取る。「無意味」としての「肉体」が聞き取った「無意味」の「音楽」--それが、この映画全体を貫き動かしている。「意味」を超える「音楽」がホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンを結びつけて離さない。
 これは、いつもの、私の「感覚の意見」であって、論理的には説明できないのだが、その不思議な「重さ」に私は圧倒された。「効果音」としての「音楽」が映像を動かすたびに、「肉体」のなかの音楽の暗闇に引き込まれる、その「無意味」に飲みこまれるような感じがするのだ。「無意味」が直にふれてくる感じがする。
 これに、映像(カメラ)が追い打ちをかける。
 映画は、ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンのアップは当然なのだが、他の登場人物のアップも非常に多い。「肉体」全体の描写が少ない。広々とした空間はキャベツ農場からホアキン・フェニックスが逃げるときの畑くらいである。冒頭の海のシーン(船のスクリューがつくりだす波のシーン)さえ、波のアップであって、広い海ではない。全体から切り離された「肉体」のアップ。そのアップが「肉体」全体とつながっていることを、私たちは常識として知っているが、その常識を逆手にとってアップ、アップ、アップで迫ってくる。顔、顔、顔で迫ってくる。そして、そのアップから「音楽(音)」があふれてくる。アップによって切断された「肉体」を「音楽(音)」が連続させているという感じ。「音楽(音)」があるから肉体がつながっている、という感じ。
 そして、その「肉体」をつなぐ「音楽」は、ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンの、それぞれに、「個人のもの」としてあるのではなく、ふたりのもの(あるいは映画のもの)として「ひとつ」である。曲はいろいろつかわれているのだが、二人の「肉体」を区別せず、共通のものとしてつなぐ「ひとつ」の音楽。
 「意味」ではない「本能」としての「音楽」。それが映画を、そこにあるストーリーを、役者をつないでいる。そういう印象が非常に強い。

 映画は、映画が誕生したときから、映像と音楽とでつくられているが、この映画はその原点にかえる作品かもしれない。台詞があり、ストーリーもあるけれど、あまり「意味」がない。台詞を追ってストーリーを紡ぎ、そこからホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンのの関係を理解するというめんどうなことはしないでも、ただ「音楽」が二人の肉体をつないで、また切り離したという感じで、映画の一瞬一瞬にどっぷりとしたればいいのだと思う。「意味」をさがすなら「音楽」にこそ答えを求めるべきだ。「音楽」を聞くとき「意味」など考えず、音に酔うように、ストーリーを無視して、映像と音に酔えばいいのだ。
 ホアキン・フェニックスもフィリップ・シーモア・ホフマンも社会と適応している(意味のある人間として位置づけられている)とは言えない。けれど、そういう人間でも、個人と個人として、互いに必要としている。「必要」の「意味」はわからないけれど、離れられない。音と音が出会って「和音」をつくり、そこから音楽が生まれるように。二人は「意味」ではなく「音楽」でつながっているのだ。
 私はたいへんな音痴なので、音楽について語っていることも、間違いだらけかもしれないのだが--しかし、この映画は「音楽」としての映画だと、私の「本能」は主張している。音楽について無知なので、説明はできないけれど、この映画は「音楽」がなかったら存在することのできない映画である。脚本を読んで、それをカメラで撮るだけでは成立しない映画である。音(音楽)によって、その全体を突き動かすことで映画になる。そういう種類の作品である。
 映画のなかほどでフィリップ・シーモア・ホフマンが、わいざつな歌を歌うが、その歌の「声」がフィリップ・シーモア・ホフマンの「肉体」である。ことばの「意味」ではなく、「音」としての「声」そのものがあって、それがフィリップ・シーモア・ホフマンを動かしている。ホアキン・フェニックスは歌こそ歌わないが、やはり同じである。二人は「台詞」をいっているのではない。「声」を生きている。「声」になっている。「音」としての「肉体」を生き、「音(声)」という「肉体」を存在させている。
 こんな演技を要求するポール・トーマス・アンダーソンの哲学もすごいが、それにこたえるホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンも強烈である。「声」になる、「肉体の音」になる、というのはつくりあげていくというよりは、自分自身を裸にしていく仕事だ。それが強烈なので……映画を見終わったあと、それが役であるということを忘れて、ホアキン・フェニックスってこんな人間? フィリップ・シーモア・ホフマンってこういう人間?と錯覚してしまう。「声(音楽)」の魔力にふれた気がする。



 先日見た若松孝二の「千年の愉楽」。あれはポール・トーマス・アンダーソンにつくりなおしてもらいたい。ポール・トーマス・アンダーソンの「音楽」映画なら、「千年の愉楽」は大傑作になる。
                       (2013年03月24日、東宝シネマ5)







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中堂けいこ「虫穴」

2013-03-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
中堂けいこ「虫穴」(「縞猫」22、2013年春発行)

 中堂けいこ「虫穴」は行分けで書かれているが、ことばの運動は散文的である。

虫は栗の実の中で
自身の穴を食んで
形を残す 一日分
次の日は少しずらして体分の穴を食む
およそ一週間で栗は食いつくされ黒い渋皮が残る
わたしが食べるあなは一坪に実る籾米
両手で三掴みの白米を口にするとき
わたしの体分の穴を一坪の田畝に見立てる
明日も生きるとしたら隣の一坪を食い尽くす
一年生きるとしたら一反の田畝が産む熱量が必要だ

 ある事実をことばで再現する。栗の実と栗の実を食っている虫の関係を調べ、わかったことを「事実」とする。つぎに、その「事実」を別の対象を考察するのに利用する。そして、「頭」のなかで論理を動かす。仮説を立て(見立てる)、それを論理にしたがって押し進める(……としたら……になる)。そういう構造で、ことばが動く。
 このとき「事実」とは、実は「関係」である。
 栗の実を虫が食べる。そこには栗の実と、それを食べる虫の関係がある。一日に自分の体分だけ食べる、食べられて栗の実はその分だけ減るという関係。この関係を人間と米との関係、米を生み出している田んぼとの関係に置き換えて、論理を進めていく。
 栗の実という「もの」は次々に変化する。食べられてだんだん減っていく。しかし、そこには変わらない「こと」がある。食べられた分だけ減る、という「こと」。その、決して変わらぬ「こと」が関係。
 それが「変わらない」から、それを利用して、ことばを動かし(頭を動かし)、変わっていく「もの」を描き出す。人間が一日一坪の米を食べるなら、一年で一反の米を食べる、という具合に。
 この号には「関係性について」という散文詩もあるが、「関係」を抜きにして、中堂のことばは動いていかない。動けない。そこに中堂の詩の特徴(ことばの運動の特徴)がある。
 で。
 こういう「変わらない関係」を利用して、推論し、結論するという散文(論理)の運動が詩であるのは、どうしてか。
 この質問(疑問)の立て方は少し強引かもしれないけれど--その強引を押し切って進めていくと、「見立てる」ということばに逆戻りする。
 栗と虫の関係。それを米と人間の関係に「見立てる」。より正確にいうと「見立てなおす」。そこにある「こと」を利用して、そこに「ある」けれども直接見ることのできないものを「見える」ようにする。それが「見立てる」ならば、そこには一種の「飛躍」がある。栗=米、虫=人間ではないのだから、その同じものではないものを同じもののように考えるというのは、少し、変である。(この変は、「論理学」からは変ではないと言われるだろうけれど。)
 このとき、「関係」という、それ自体は直接見えないもの(見えないこと)が利用されている。見えないものを利用して、見えないものを見えるようにする。そして、その見えるようにする「もの」は、必ず実際に存在する「もの」であること、肉体が知っているものであるというところが、詩なのかなあ。
 見えないものを追いかけ、見えないことを書いているのに、それが見える。それは「見立てる」というところから出発している。
 あ、なんだか、ややこしいというか、まだるっこしいことを書いている。
 言いなおすと、人間が一年でどれだけの「熱量」を消費するかというのは見えない。栗を食って生きる虫が一週間でどれくらいの栗を必要とするかは見えるけれど(観察できるけれど)、それと同じように人間が一年で消費する「熱量」は見えないのだけれど、それを米、田んぼという具合に、肉体が知っているもので「見立て」つづけると、その総量が「田んぼ」の面積として見えてくる。あくまで肉体で「見える」ものを把握するために「見立てる」という行為がある。
 肉体が知っている「もの」にこだわって、「こと」を明らかにしようとする。単に消費カロリーの計算なら、「三掴み」「口にする」「一坪の田畝」という「具体」は不要である。しかし、中堂は、追い求めている「関係」の先にあるものを「具体」を動かしてつかみとる。
 「見立てる」は「関係」を「見える」ように維持しつづける持続力のようなものである。「関係」を「肉体」にする力である。--というのは、まあ、私の「感覚の意見」なのだけれど。
 脱線した。

 「見立てる」ということが、実際に動く「肉体」、「肉体」にふれる「もの」との接続の維持・持続であるから……。

この国が何人もの人を飢えさせないとしたら
一億反の田んぼで食う人々が這いつくばって
苗つくり草取り田植え草取り水分け草取り肥えやり草取り虫よけ
鳥よけ雷よけ草取り水喧嘩畝張り草取り案山子も作りやっと稲刈り
稲干し脱穀藁詰め精米 わたしの口へ口へまた一年

 はてしなく繰り返される農作業(草取りが何度も繰り返されている)が、その「関係」のなかに結晶してくる。「結論」ではなく、「論理」が動いた過程が、抽象ではなく、具体として、つまり肉体を持ったものとしてぎゅっと詰まってくる。「見立てる」という動きが、そこに人間を一瞬の内に見る。
 こういう「こと」は、誰でもが一瞬のうちに「見る」ものである。けれど、それをもう一度見ようとするとなかなか見えない。ことばにならない。それを中堂は、この作品では丁寧にとらえている。
 他の作品では「関係」を動かすことに忙しくて、「結論」にむかってことばが動きすぎて、この「関係の内部」での肉体の結晶が見えにくいのだが、「虫穴」は、その論理のスピードが振り落としたものをしっかりつかんでいる。「見立てる」ということばが、知らず知らずにそれを引き出したのだと思う。





枇杷狩り―中堂けいこ詩集 (詩と思想新人賞叢書 (01))
中堂 けいこ
土曜美術社出版販売
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尾山景子「雪の人」、吉浦豊久「内小座にある町」

2013-03-22 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
尾山景子「雪の人」、吉浦豊久「内小座にある町」(「ネット21」25、2013年03月01日発行)

 尾山景子「雪の人」は美しい詩である。

ただ悲しいというだけで
影があるなんて
なんと豊かなことか
晩秋を訪ねてきた人は
白い画用紙の上に挨拶を置いて帰って行った
このうえもない美しい取り引き

ただ淋しい、というだけで
放置されるなんて
なんと見栄えのすることか
死者を訪ねて来た人は
風知草に紛れて
白いが用紙を取り替えた
そのあとからかるくつついている
このうえもないかすかな覚書

 「なんと豊かな」「このうえもなく美しい」「なんと見栄えのする」と詩人が書いてしまっては詩にならないのかもしれないけれど、その前にある「影があるなんて」「放置されるなんて」という口語の響きが、「なんと豊かな」「このうえもなく美しい」を文章ではなく口語にかえてしまう。口語なら「豊かな」「美しい」「見栄え」も許される。口語は、他人に「意味」を考えさせてはいけないのだ。ただ過ぎ去っていくものなのだ。スピードを落とすためには「なんと」という余分なことばも必要とする。「なんて」「なんと」という音の変化もうれしい。
 白い画用紙に向き合っている人(病気をしているのだろうか)には、ある種の軽さが必要なのである。その軽さを口語が引き出している。
 白い画用紙に、訪ねてきたひとの影がうつる。その影は訪ねてきた人が帰ってしまえば画用紙の上からは消える。それを消さずに残すためには、その画用紙を「記憶」のままに、別のものと取り替える。「この画用紙には、訪ねてきたひとの影が残っている」と思いつづけるために。
 こんな契約(?)は、まったくの個人的なものである。だが、完全に個人的なものになることによって、そこに抒情が生きる。「取り引き」「覚書」という冷たいことばが、その個人的なものが情に溺れてしまうのを防いでいるのもいいなあ。
 そして。
 「かるくつついてくる」の「つついている」が、不思議である。「わからない」。「流通言語」に言いなおして「意味」を明確なものにしようとすると、どうしていいかわからない。「流通言語」に翻訳できない。「つついてくる」は「ついてくる(ついている)」とも、読み違えてしまう。「誤読」してしまう。何かが、軽く、つまり深刻にならずに、重くならずに、ついてくる。背中をつんつんと軽くつつきながら、ついてくる。ここいるよ、という感じで「ついている」……。
 「流通言語」への翻訳という点では、「悲しいに影がある」というのも翻訳できないけれど、そのことばには「なんと豊かなことか」という文が向き合い、一種の飛躍というか「論理」をつくりだすので、その「論理」のなかで何かわかったような気持ちになる。(これは、頭の錯覚なのだが……。)
 「かるくつついてくる」にはそういうことができない。「頭」が「飛躍」し、その「飛躍」のなかに「論理」を見出すという錯覚ができない。そのかわりに、奇妙な「肉体感覚」がしのびこんでくる。「肉体」の「おぼえていること」を刺戟する。
 「そのあとからかるくつついている/このうえもないかすかな覚書」には、飛躍を上回る粘着力がある。「つついている」は「このうえもないかすかな」ということばを強引におしのけながら(あるいは、そのことばのなかを通り抜けて)「覚書」に接続してしまう。それは変な動きなのだが「つついている」が、「つつかれている」肉体(具体的には書いてはいないのだけれど)と結びついて、それまで書かれていたことを、意識できないうちに接続してしまう。
 悲しいが豊かであること、淋しいが見栄えがするということ、--感情が「肉体」をつついて、肉体に入ってくる感じがする。
 どこかで論理(?)がずれて動いているのだが、「つつく」という動詞のなかにある「肉体」がその「ずれ」を不思議な形で敷くしている。
 ほう、と思う。

ゆるやかにつたう
木造の微熱…
その角を
老人と犬は泥水を跨いで曲がっていく

 この「転調」も印象に残る。



 吉浦豊久「内小座にある町」。

四国の参観の小さな町内子は、かつては木蝋商人で栄えた町。漆喰壁の豪家が連なって、今も面影を残す。たまたま入った煎餅屋が、大江健三郎が一年間通った内子高校時代の下宿だった。

 旅行の際の簡単な報告だが、不思議な美しさがある。余分なことを言わない。「かつて」が「いま」によって、いくつかの姿を見せる。「木蝋商人で栄えた/かつて」「大江健三郎が下宿した/かつて」は「同時」ではない(かもしれない)。そしてそれは「いま」の吉浦とは明らかに時間が違うのだけれど煎餅屋のなかでいっしょに噴出してくる。
 ひとは「同時に」、違った時間を生きることができる。その不思議が2行(原文では2行表示)にすっきりとおさまっている。体験がととのえる「時間」というものがあり、それが美しい形で結晶している。

或る男―吉浦豊久詩集 (1984年)
吉浦 豊久
風琳堂





尾山景子詩集―秘草秘草 (新・北陸現代詩人シリーズ)
尾山景子
能登印刷出版部
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モンクのピアノ

2013-03-22 09:25:03 | 
セロニアス・モンクのピアノの音がことばになろうとしている。
都会のビルの夜にあらわれた遠い崖の、
淵から見下ろした黒い海の、見えない岩にぶつかり砕ける白い波に。
けれどことばには準備ができていなかった。

ヴィレッジバンガードで若い男がラウンドミッドナイトを弾いていたとき、
地下鉄の通過する音が響いてきた。ことばは、胸打たれて、そのノイズを、
モンクの孤立した音をつつみにきた宇宙ということばにしようとした。
けれど壁の向こう側の闇は宇宙になる準備ができていなかった。

イエローキャブには乗らなかった。地図を街灯で読みながら舗道を歩くと、
冬の裸の木の匂いがした。ことばは、雪のように結晶してみたかったが
冷たい力がまだ足りなかった。スピリットも。

セロニアス・モンクのピアノの音がことばになろうとしている。
すれ違った黒人の男の目が、熱い息のように白い。毛糸の帽子が耳を隠している。
けれどことばは和音の準備ができていなかった。




詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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高階杞一「耳をすませて」、金井雄二「姿と形」

2013-03-21 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
高階杞一「耳をすませて」、金井雄二「姿と形」(「交野が原」74、2013年04月01日発行)

 きのう変な「悪態」をついたので、どうやら「耳がすんできた」。ふつうなら聞き逃してしまう「音」が聞こえるようになった。「悪態」の効能だね。
 で、聞こえてきたというの高階杞一「耳をすませて」。私はこのひとの「微妙軽い」調子があまり好きではない。ひょうきんに軽いのではなく、少しさみしさを抱え込みながら、軽い。悲しみ(喪失感)こんな具合にしゃれたことが言えますよ、いう感じが、なんだか「気取り」に思える。私は「気取る」ということがめんどうくさくて、そういうものをまねする気持ちになれないから、嫌いといってしまうのかもしれない。でも、きのう、こんな詩は大嫌いと書いたので、いつもなら嫌いと書いてしまう詩まで「嫌い」という場所から動いてしまったのかなあ。好きと感じてしまった。いつもは感じないことを感じた。
 あ、でも、もしかしたら、ほんとうにいい詩てのかも。その「耳をすませて」の全行。

春になると
どこからか鴬の声が聞こえてきます
生まれたばかりの鶯なのでしょうか
最初は
あまりうまくありません
ホー と鳴いて
ケキョン とこけたりしています
それが日がたつにつれ
少しずつうまくなっていきます
いい声だな
と思って聴いているうちに
春は
すぎていきます

昨日まであんなにきれいな声で鳴いていた
あの鶯は
どこへ行ってしまったのでしょう
庭に出て
晴れた空をさがします
春といっしょに消えてしまったものを
わたしは
耳をすませてさがします

 「春といっしょに消えてしまったもの」とは、詩の中の「意味」としては「鶯」と言い換えることができる。空を見つめて鶯が飛んでいないかなあ。
 でも、これはほんとうではない。
 鶯が鶯であるとわかるのは、「野鳥の会」の会員でない限り、たぶん、木の枝に止まって「ホーホケキョ」と鳴いている姿を見たときである。飛びながら「ホーホケキョ」なんて鳴くのは私は見たことがないので、たぶん空を飛んでいる鶯を見ても、それが鶯であると私なんかは気が付かない。木の枝から飛び立つのを見ていれば、空の鳥も鶯とわかるだろうけれど……。
 では、消えて行ってしまったものとは何か。高階は「もの」と書くだけで、鶯ということばをつかわずに巧妙に言っているが(この巧妙さのなかにも「軽み」の処理、具体的なことをさけて抽象的にすることで視線を固定しないという操作がある)、その「もの」とは何か。
 「もの」ではなく、私は、それを「こと」と言い換えて読む。「誤読」することで高階に近づく。
 消えた「もの」とは、1連目に書かれている「こと」。
 鶯の声を聞いたこと。「ホー ケキョン」と鳴いた声に、生まれたばかりの鶯の声だと想像した「こと」。日がたつにつれて、だんだんうまくなっていくと思った「こと」。そういう「こと」を積み重ねているうちに、春がすぎていくという「こと」。
 そういうものをさがすとき、「耳をすます」のはなぜだろう。
 高階は鶯の声をさがすふりをして、実は、自分自身の「声」を聞いている。その声は、春には鶯が鳴いた、と言っている。それから最初はへたな鳴き声だったが、だんだん上手になったと言っている。耳を澄ますと、耳という肉体が覚えている「こと」が聞こえてくる。それは「聞こえてくる」だけではなく、「聞く」という動詞といっしょに動いたものをもつれてくる。「いい声だな/と思って聴いているうちに」。「思う」というのは「こころ」の働きであるか、「頭」の働きであるか、私は判断せずに、「聞く」という動詞といっしょに動いていたので、「肉・耳(肉体)」の働きだと思って読む。言い換えると、私は、その行を読むとき高階が「どう思ったか」ではなく、そう思っている高階の「肉体」そのものを、そこに感じている。高階の「肉体」に重なるようにして動きはじめている私の「肉体」を感じる。
 で、そういう「肉体」が「耳をすます」という動詞のなかで、「いま/過去」の時間を超えて、「ある」。その「肉体」が実感できる。とても静かな、落ち着いた気持ちになる。
 「生まれたばかりの鶯」は「ホー」とも「ケキョン」とも鳴きませんという「悪態」をつきたかったのだが、きのう南原の「悪態」という詩に対して悪態をついたので、きょうはこんな感想になった。



 金井雄二「姿と形」は列車への飛び込み自殺のことを想像している。

警報機がなっている
ゆっくりと竿が降りる
まだ飛び出すには早い
目の前に電車が迫るときの
恐怖はどんなものか
カアンカン カアンカン
ランプの赤が交互にさみしいぞ
最初はリズムがよく合っていた
警報機の灯と音が
少しずつ微妙にズレはじめる

 「カアンカン カアンカン/ランプの赤が交互にさみしいぞ」がとても美しい。踏み切りの警報機も信号も何度となく見てきているが、金井が書いているように見てきたことがない。金井のことばを読むと、しかし、それはそんなふうにしか感じられなくなる。読んだ瞬間、それしかない、という感じで迫ってくる。警報機の音、信号の赤が聞こえ、見えるだけではなく、その瞬間に、そこにいる金井の「肉体」そのものが見える。金井の「肉体」がそこに「ある」。それが「こと」ということ。
 その「肉体」のなかで「灯と音」がずれはじめる。あ、肉体が、灯と音をひとつにしていた「肉体」が、耳と目に分離していく。危ない。危ないなあ。
 そんな危なさが、しんしんと迫ってくる。
 18日に書いた「子どもが見た怖い夢」の「怖い」を、ふと、思い出した。「怖い」を見たがっている金井がどこかにいる、と感じた。

星に唄おう
高階 杞一
思潮社






ゆっくりとわたし
金井 雄二
思潮社
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わきばらを

2013-03-21 09:52:01 | 
わきばらを

わきばらをたどっていた指が青い

いうことばに
ふれて、くぼみ

すべった。
ふるさとの海、
しまかげ
まわり

ちらばるしろいひかり、くろく
ゆれる
ゆれゆれ。
潮。
鼻腔にはいってくるたいようのにおい。
すな。
あし

かたち

くぼみ。

わきばらをたどっていた指が青い

いうことばにふれて、
舟、小さく動く。

みつけた!
永遠を、
みつかった、
永遠に、

わきばらをたどっていた指が青い

いうことばにふれて、
こぼれて。
しずくになる。
かわいて、
ひかるうぶげになる、

ちいさな
とげ
もう一度みようとした、
たしかめようとした
もういちど。
たしかめようと、
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南原充士『にげかすもきど』

2013-03-20 23:59:59 | 詩集
南原充士『にげかすもきど』(洪水企画、2013年04月01日発行)

 南原充士『にげかすもきど』は変なタイトルだが、種明かしをすると「日月火水木金土」の曜日の頭をならべたものである。これに谷川俊太郎の帯「文字であるとともに声である詩、音韻の遊びが現代詩にひそむ笑いを誘い出す。」がついている。もう、読まなくても、そこに書かれている「こと」がわかる。
 ことば遊び、音遊びの詩である。
 でも、詩は、そんなふうに定義してしまえばおしまいというものではないのだから、と身を入れなおして読んでみた。

 日曜日

にこにこ 日曜
にっこり笑い
にたてのお湯で
にんずうぶんの
にがめのコーヒー
にはいも飲んで
にたりよったり
にもつを持って
にちぼつまでを
にしへひがしへ
にんいの場所で
にくしみを捨て
にんいの時間
にんたいもせず
にんべん拾って
にっかを終える

 「にんべん拾って」はおもしろいけれど(そんなものを拾えないのに、拾うといっているから、そこにナンセンス「無意味」があっておもしろいけれど)、あとはおもしろくない。「にんいの場所」「にんいの時間」と「にんい」が二回出てくるのもおもくしろくない。一回目と二回目で「意味」が違ってくればおもしろいかもしれないけれど。
 「にこにこ 日曜」という書き出しが平凡なのは、それはそれでとっつきやすくていいけれど、「にこにこ」が「にっこり笑い」に変わるだけで1行目が2行目になるなんて。あ、ずさんだなあ。おもしろくないなあ。音もそっくりなら、「意味」もそっくり。想像力を裏切るものがなにもない。
 きのう読んだ小長谷の「熟慮に熟慮を無意味に重ね」の1行の方が何度でも声に出して読みたいことばである。そこには「音楽」がある。
 音韻は、とてもむずかしいのだ。
 それは見た目の「音」をそろえれば、音韻になるわけではない、という問題を含んでいる。「文字」で遊んでみても、それが「声」の遊びにはならない。「文字」は目のなかにあるだけで、喉を刺戟しない。「文字」を超えて、「音」がことばの内部から噴出して来ないと、楽しくない。

げっそり 月曜
元気がないよ
げんなり気分で

かっかっ 火曜日
かりかりするよ
借りたお金を返さない

 「音」が「意味」から自由になっていない。そこには「音」がなく「意味」がある。「意味」があるとき、そこには「遊び」はない。遊びは「無意味」なものである。「意味」を拒絶し、叩き壊すものである。

すいすい 水曜
すんなり行って

 「意味」にとらわれているだけではなく、その「意味」も「流通言語の意味」なのだ。「流通言語の意味」が繰り返されるだけである。
 詩集のタイトルの『にげかすもきど』からして「無意味」ではなく「日月火水木金土」ということばの頭の一文字をつらねたもの。「意味」が隠れている。というより、「意味」がないと存在しない。存在することができない。にげだす「おと」もどき、なのである。

精巧なロボット製作に成功
血管も欠陥もない機能は昨日から
地上の痴情を探り回って
人手の必らない桎梏をしつこく
装填する蒼天の下
勘定になかった感情の発生
隙だらけが好きだよお
                                 (隙だらけ)

 笑える行がどこにもない。「無意味」とは「笑い」でもあるのだが、ここにあるのは「意味」という苦しみだけである。ワープロの「誤変換」さえ、もう少し笑えるのではないだろうか。
 「頭」ではなく、「肉体」でことばを動かさないと、頭でっかちの「意図」だけがのさばる窮屈な詩になる。

 「悪態」という作品にも、私はぞっとした。

下品なのはきらいだが
たまには悪態をつきたくなる
くそっ
それからはらわたが煮えくり返る
くそーっ
ついに頭から湯気が出て髪の毛が逆立つ
これ以上血圧をあげると爆発しそうだ

 きっと悪態をついたことがないのだろう。「くそっ」さえ南原は腹の底から言ったことがないのだろう。で、そういう自分自身に「はらわたが煮えくり返る」のかもしれない。そういうひとは悪態をつかなければいいのである。自分の頭のなかだけで完結する悪態だから、「頭から湯気が出て髪の毛が逆立つ」という「流通言語」に終わってしまう。「これ以上血圧をあげると爆発しそうだ」とばかげた自己反省などせずに、「頭」ではなく、腹を、肉体の中心を「爆発」させてしまうのが悪態。「おまえのかあちゃんでべそ」と見たこともないでたらめを言う、その「開放感(爆発)」がよろこび。言い返すことばがみつからずにうろたえる相手に、さらに追い打ちをかけて無意味な優越感にしたるのが悪態のおもしろさ。

くそ
くっ
くぅ

自動ガス抜き装置が作動したのか
見る見るしぼんでいく風船みたいに
悪態がしおれていく
もっと品が悪い態度をとれ
やじり倒せ
殴り倒せ

 まず、自分自身に悪態をつく練習をもっとしないとね。悪態がつけなくて寂しい、なんてばかげた詩を読んで同情(共感?)なんかしているひまな人がどこにいるだろう。こんな悪態もあったのか、いつかまねしてつかってやるぞ、と思わせるのが悪態であり、詩というものなのだ。金玉を芋の煮っ転がしにして食われてしまった男の泣き言は、ゆがいた残り湯より役立たず。庭に捨てれば植木も枯れてしまう。てめえで飲んで、腹をぽちゃぽちゃ膨れさせていろ。お、きれいな音で泣けるじゃないか。






タイムマシン幻想―南原充士詩集
南原充士
洪水企画
コメント
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