詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ドゥニ・ビルヌーブ監督「ブレードランナー2049」(★)

2017-10-31 09:29:41 | 映画
監督 ドゥニ・ビルヌーブ 出演 ライアン・ゴズリング、ハリソン・フォード

 予告編を見たときから「どうしようもなさ」を感じていたが、本編を見てほんとうにがっかりした。
 「ブレードランナー」がつくられたとき、日本は景気がよかった。簡単に言うと輝いていた。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の勢いで世界を征服しそうだった。だから「未来都市」がアジアのごった煮で、環境破壊の影響で雨が降り続いているというのは、なんというか「不気味な未来」だった。
 いまの日本を反映させろ、というのではない。
 あれから時間が経っているなら、その「不気味な未来」はさらに不気味になって、観客をわくわくさせないといけないのに、まるでいまの日本を象徴するみたいに汚れきっている。
 あ、日本が舞台ではなく、カリフォルニアが舞台か。
 それならなおのこそ、「未来の未来」は想像を裏切る形で不気味になっていないといけないのに。
 街の看板にあらわれる「SONY」はスポンサーだから、それはそれでいいとして。
 あの、フォノグラム(?)の女はなんだ。
 35年前はまだ「PLAYBOY」の時代だった。インターネットだって、接続したら必ず見るサイトというのが「PLAYBOY」だったその時代なら、まだ街角の巨大な女性のフォノグラムは「未来の現実」だった。
 でも、いまは違うねえ。
 女の描き方(人間の描き方)がすっかり違ってきているのに、映画では昔のまま。これでは「未来」へ時間が進んだというよりも「逆戻り」した感じ。「逆戻り」して、それが妙になつかしい(肉体の記憶を刺戟する)というのならいいけれど、こんな映像なつかしくもなんともないね。
 うさんくさい、というのとも違う。
 見ていて「肉体」を刺戟してくるものがない。
 主人公の「お相手」の普通サイズのフォノグラムの女が、現実の女とシンクロしてセックスをするというのは、「設定」としておもしろいけれど、やっぱり古くさい。「未来社会」でも女は男の気を引こうとしている。女は男のセックスを満足させるために奉仕する、というのがげんなりする原因だなあ。
 欲望のかたちが古くさいままで、「未来」とは縁遠いのだ。
 主人公を女にしてしまえばよかったのだ。シャリーズ・セロンの「アトミック・ブロンド」みたいに。
 どっちにしろ、アンドロイド。男の肉体とかわらないしアクションをしても不思議はないし、「頭脳」だってAIなんだから男女差はない。優劣はない。それに女の方が、「妊娠する」ということを通して、新作に描かれることと深く関係してくる。「妊娠させる→子供が生まれる」という視点ではなく、「妊娠する→子供を産む」という視点で見ると、違ったものが見えてくるはずである。アンドロイドが「肉体」として迫ってくる。
 全体が古くさい男の視点をひきずったままなのが、この映画の大失敗の原因である。「子供を産む、子供が生まれる」という驚きではなく、「物を作りだす」という視点のまま全体が動いている。「物を作りだす」というのを「物を産み出す」ともいうけれど、女の感覚では「子供を産み出す」とは言わないだろう。その違いを、女が主人公なら、もっと繊細に描き出せたはずである。あるいはもっと生々しく描き出すことができたはずである。
 古くさい男の視点をひきずっているから、「論理のクライマックス」である「自分が秘密の子供」かもしれないという謎解きが「感傷」に終わってしまう。まるで少女マンガみたいというと、少女マンガファンに怒られるだろうけれど。主人公が女なら、自分で釘の世代の母親になるという「世界創造」が可能になる。つまり、「物語」が「抒情詩」ではなく「神話」にまで高めることができる。

 あ、謎解き、抒情と書いて、急に思い出したが、この映画にはナボコフが「引用」されているらしい。(クレジットにナボコフの文字が出てきた。)「本」が出てきて、そこにナボコフの文字があった。赤い表紙の本。タイトルはよく見えなかったが「ロリータ」か。ナボコフというと「青白い炎」を思い出すが、あの一篇の詩を他人が註釈するという方法からこの映画を見直すと、まあ、主人公が前作を註釈しながら別の世界へ入っていく(自分自身の世界へ入っていく)という構造を持っていると見ることもできるのだけれど。
 そんなふうに見たって、やっぱり古くさい。
 「未来の荒廃」が古くさいし、そこに描かれる女がなんとも古くさい。女が古くさいということは、男の方はもっと「どうしようもない」くらい古くさいということ。
 映画のなかで、男の物の見方はどう変わったか、男の視点は映画をどう変えたか、変えなかったかという「資料」にはなっても、払ってみるに値する作品とはとても言えない。
(tjoy博多、スクリーン6、2017年10月29日)


 *

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国会の与野党質問時間(安倍の沈黙作戦)

2017-10-31 07:44:04 | 自民党憲法改正草案を読む
国会の与野党質問時間(安倍の沈黙作戦)
            自民党憲法改正草案を読む/番外138(情報の読み方)

 2017年10月31日の読売新聞(西部版・14版)の4面の見出し。

質問時間 見直しで工房/与党「議席数に応じて」/野党は徹底抗戦「暴論」

 国会での与野党の質問時間の配分をめぐって与野党が対立している。

 質問時間の配分を巡っては、自民党の萩生田光一幹事長代行や森山裕国会対策委員長が27日、見直しを求める考えを表明し、同党の若手議員も同日、森山氏に与党の持ち時間を増やすよう申し入れた。菅官房長官は30日の記者会見で、こうした動きについて、「国民からすればもっともな意見だ」と述べ、同調する考えを強調した。

 選挙報道は、昨年夏の参院選から大きく変わった。籾井NHKが、それこそ「議席数」にあわせて放送時間を配分した。個別の候補演説ではそういうことはできないが、党首の街頭演説では、自民党に長く、野党に短くという配分だった。この結果、与党の言い分は十分に紹介されたが、議席の少ない野党の主張はほとんど紹介されなかった。これは自民党の大勝利につながった。少数政党の主張は、それが国民にとって重要なものであるかどうか、吟味するだけの材料が与えられなかった。ひとは「情報量」にひきずられるものである。
 これを国会でもやろうとしている。共産党の小池が指摘しているように、政府提出の法案、予算案は与党が事前審査している。つまり与党内では十分に審査されたあと、国会に提出されている。その与党がついやした「時間」を除外して、国会での審議時間を議席の数に合わせて配意するというのは、野党の質問潰しである。
 私はこれを「安倍の沈黙作戦」と呼んでいる。参院選後、籾井NHKを利用して「天皇生前退位」をスクープさせ、さらに天皇を引っぱりだして「天皇は国政に関する権能を持たない」と言わせることで、沈黙させたが、今度は野党を沈黙させるために根回ししている。
 もし国会での審議時間を短縮するなら、与党の事前審査段階で、野党にも審議に参加させるべきである。そこに野党が参加していないから、国会で野党が質問する。この質問を封じることは、民主主義の否定であり、独裁の強化である。
 こういうことは、すでに小池をはじめ、多くの野党が言っている。だから繰り返さない。
 私が問題にしたいのは、

菅官房長官は30日の記者会見で、こうした動きについて、「国民からすればもっともな意見だ」と述べ、同調する考えを強調した。

 この部分である。「国民からすればもっともな意見だ」というが、自民党は「国会での質問時間を議席数にあわせて配分する」ということを「公約」のなかに盛り込み、それを国民に訴えてきたのか。もし公約のなかに盛り込み、積極的にそのことを訴え、その結果として自民党が大勝したのなら、そういうことは可能である。
 しかし、そういう主張を一切せず、大勝したあとで、「自分たちの考え方は国民に支持されている」というのは論理にならない。国民は、今回の主張を事前に聞いていない。(どこかに書いてあるかもしれないが、だれもそのことを知らない。)
 安倍のやっているのは、いつもこれである。
 憲法改正について「公約」のすみっこに書いておく。どう改正するのか質問すると、まだ文言が固まっていないのでこたえるわけにはいかないと言い、選挙で大勝すると自民党の改正案、あるいは安倍の案が支持された主張する。(安倍の主張はすでに読売新聞のインタビューで明らかにしている、と言う。)
 国会で、国民の代表である野党議員の質問は受け付けず、すでに意見調整のついている与党の質問を主体に審議するというのでは、審議にならない。

 配分見直しについては、自民党内にも「政府を『ヨイショ』するだけの質問だったら必要ない」(閣僚経験者)との声がある。

 読売新聞は、末尾にそう書いている。
 安倍は、これを利用して、「質問は無駄な時間。採決すれば可決されるのはわかっているのだから、質問などやめよう」と言い出すだろう。
 質問は、政府提出の法案、予算案にどんな問題点があるか明らかにするためにある。問題点があるなら、それを改良するためにある。質問をとおして、国民の理解を深めるという意義もある。
 国民は、すべてのことを自民党にまかせたわけではない。どんなときでも「一任します」といったものの、「それでは困る」と意義をとなえるひとが出てくるのが「現実」である。(先の希望の党と前原・民進党の統合でも、それが起きた。)ましてや、自民党にはまかせられないという国民が一定の数(十分な数)だけいる。「議席数」には反映されなかった国民の数も多い。自民党を支持している人間だけが「国民」なのではない。

 各種の世論調査では、森友・加計学園問題では、安倍の説明が不十分である、説明が十分にされているとは思わないという国民が過半数を超えている。国民からすれば、安倍の友人であるということだけで優遇されるのは「もっともなことである」とはならない。だれも「もっともなことである」とは言っていない。
 管は、なぜ、そういう国民の声に対して「もっともな意見である」と同調しないのか。管は国民の声など聞いていない。安倍の声しか聞いていな。安倍にとって都合のいい声だけを集めてきて「国民の声」だと言い換えている。
 


                         


#安倍を許さない #安倍独裁 #沈黙作戦 #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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池井昌樹「世界」ほか

2017-10-30 09:02:47 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「世界」ほか(「森羅」7、2017年11月09日発行)

 池井昌樹の詩の感想をかくのはむずかしい。たとえば「世界」の書き出し。

わたしはせかいのなかにいて
きれいなせかいのなかにいて
かがやいたりまたかげったり
かげったりまたかがやいたり
くるくるくるくるまわりつづけて
こうしていきているのだけれど
ただそれだけではないかしら

 私は世界のなかにいる。世界はきれいだから、きれいな世界にいると言いなおすことができる。ひとは輝くこともあれば、かげるときもある。喜びのときもあれば、悲しみに沈むときもある。逆の言い方もできる。楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。それは交互に入れ替わる。くるくるまわっている感じ。そうやっていきている。それだけではないか。
 だれもが一度や二度、そう思うことがある。
 たぶん、ここからが、詩とは何かという問題になってくる。
 だれでも思う。でも、それを明確に口に出し、ことばにすることはない。ぽつりぽつりと、思っているでも思っていないでもなく、なんとなく、ことばにする。けれど池井は違う。ぼんやりと思っているのではなく、「言い切る」。
 ことばを選び、そのことばを「よし」と判断し、言い切る。揺らぎ、揺るぎがない。

かがやいたりまたかげったり
かげったりまたかがやいたり

 こんなふうにことばを入れ替えるということは揺らいでいるからである。揺るぎがないのなら、どちらかひとつでいい、という見方があると思う。
 でも、池井は、その「輝く」「陰る」を単に前後を入れ替えているのではなく、入れ替えることで「まわる」という動詞のなかで「ひとつ」にする。「ひとつ」のこととして言い切る。

ただそれだけではないかしら

 という疑問のことばも、疑問を書いているのではない。断定せずに、「かしら」という疑問として言い切るのである。「かしら」は「問う」という動詞として読み直すべきなのだ。
 「問う」は「指し示す」でもある。「ひとつ」の「世界」を、そうやって指し示す。これが世界であると「言い切る」。
 この詩は、さらに言いなおされる。

まちゆくひとらはほほえみながら
またかなしみをひめながら
おおぜいゆききするのだけれど
みんなせかいのなかにいて
それぞれせかいのなかにいて
くるくるくるくるまわりつづけて
ただそれだけではないかしら

 言い直しが必要ということは、それが「揺らいでいる」証拠であると言い方もできる。だが、これは「揺らいでいる」から言いなおすのではない。それが確かだからこそ、「言い切る」ということを繰り返すのだ。
 繰り返すことで、確かにする。

 新しい視点がない、ひとを引きつけるような技巧的な言い回しもない。こういうことばなら、だれでも書ける。誰もが思っていることを「ひらがな」にして書いているだけじゃないか。
 そういう批判があるかもしれない。
 たしかに誰もが思うことだろう。だが、それをことばとして「言い切る」ということは、誰もがすることではない。また誰もができるということではない。
 「山茶花」という作品の方が、その「言い切る」が、明確に形なっている。

さざんかのさくいえみれば
いまでもちちのいるような
ははのわらっているような

さざんかのさくいえみれば
かえれるところのありそうな
いますぐかえってゆけそうな

 「……ような/そうな」では、何も言い切っていないように見える。「気がする/思う」という動詞を補って「文章」にしてこそ「言い切る」と言えるのではないか、という声が聞こえてくる。
 しかし、そうではない。「気がする/思う」は、必要がない。「気がする/思う」というのは、「肉体」にしみついている。だれでも、どんなときでも「気がする/思う」ものである。それは人間としてあたりまえのことである。あたりまえすぎて、それをことばにしなくても、自分で「納得」できる。そういう納得できることは、ことばにしなくてもすむ。
 これを逆に言うと。
 ことばにしなくては気が済まないことをことばとして「言い切る」。「言い切る」とそのことばの背後から自ずと「気がする/思う」という動詞はついて動く。
 この詩は、こうつづく。

さざんかのさくしらないいえを
ゆきすぎひとりきたけれど
いつものようにきたけれど

いまでもさいているような
ちちははのいるあのいえに
あのさざんかが
しんくのぼくが

 そして、この「想像(思う/気がする)」は、ことばにして「言い切る」と、想像(空想)ではなく「現実」になる。「ぼく」は山茶花として、あの家に咲く。そうすると、そこには父と母が必ず「いる」。
 池井は、そう「言い切る」。
 「言い切る」ときに、詩が生まれる。
晴夜
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*


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アベノミクスの崩壊(銀行も信じていない経済政策)

2017-10-30 07:55:26 | 自民党憲法改正草案を読む
アベノミクスの崩壊(銀行も信じていない経済政策)
            自民党憲法改正草案を読む/番外137(情報の読み方)

 2017年10月30日の読売新聞(西部版・14版)の1面の見出し。

三菱UFJ銀 90店統廃合/20年度末までに コスト減へ改革

 先日は、みずほが1万9000人の人員削減方針を出した。三井住友も4000人の削減を目指している。メガバンクが、そろって「コスト減」を計画している。これは経済が将来的に「上向かない」と判断しているからである。景気がよくなれば、金が動く。当然、銀行の仕事は増える。そうではないのだ。だから銀行が人員削減で「自己防衛」をはじめたということである。
 アベノミクスが崩壊したことを、銀行が認めている。

 もうひとつ。政府の「中小・零細企業対策」。これには、こんな見出しと記事。

代替わり 税優遇拡大/10年間 雇用要件緩和へ/政府・与党検討

 (中小・零細企業では)経営者の高齢化が目立つ一方で、約半数は後継者が決まっていないとされ、このままでは廃業が相次ぐ。アベノミクスの実現には、経済の足腰を支える中小・零細企業の経営の持続が不可欠と判断した。

 これもまた、アベノミクスの破綻を端的に語っている。アベノミクスによって「トリクルダウン」は起きなかった。逆に、中小・零細企業の少ない利益がさらに大企業に吸い上げられた。円安で輸入原料が値上がりしている。しかし、中小・零細企業はその値上げを商品(大企業に収める製品)の値段に転嫁できない。自分の利益を減らして、受注を持続しないといけない。値上げすれば、他の会社に仕事を奪われてしまうからである。中小・零細企業の労働条件は悪化するばかりなのである。
 記事後半の「アベノミクスの実現には、経済の足腰を支える中小・零細企業の経営の持続が不可欠と判断した」は、これを言いなおしたものである。耳障りのいい表現にかえて、ごまかしている、ということである。
 つまり、これまで大企業は、中小・零細企業の「利益」を搾取する形で成り立ってきた。その中小・零細企業がなくなってしまえば、大企業は「利益」を搾取する方法がなくなる。単に中小・零細企業が「製品(部品)」をつくらなくなると、大企業でつくっている「大きな製品(たとえば、車)」をつくれなくなる、ということではない。中小・零細企業が「部品」をつくらないなら、大企業自身で部品をつくればいいだけである。大企業で部品をつくるには、その部品をつくる社員の給料が必要。その給料は、小さなネジをつくる社員も、車を組み立てる社員も「同じ」であることが要求されるだろう。それでは大企業が困る。安く部品(小さなネジ)」をつくるために、中小・零細企業が必要なのだ。
 中小・零細企業の廃業は、アベノミクスという「利潤構造」のなかから、中小・零細企業がどんどん離れていっているという「証拠」である。経営が苦しくなるだけだから、もうやめた、と叫んでいる。
 中小・零細企業の「代替わり」をうながす税制を優遇したくらいでは、中小・零細企業は持続しない。中小・零細企業に、そこで働く従業員の給料を上げるための政策を取らないといけない。
 これはいまの安倍の「大企業優先」のアベノミクスでは不可能だ。

 いちばんいい解決法は、大企業の税金を上げることである。大企業が利潤を「内部」にためこまない政策を取るべきなのだ。大企業への税優遇を廃止し、どんどん税金を取る。「こんなに税金を取られるくらいなら、従業員の給料を上げて、従業員から感謝される方がいい」と思うくらいに税金をきちんと納めさせればいい。
 経済のしろうとは、そう考える。
 給料をもらっている社員(従業員)の方は従業員で、「給料は上がるのはいいけれど、こんなに税金を納めなければいけないのか。こんなに税金を納めなければならないのなら、家を建てて所得を減らそう。金をつかってしまおう。金をつかえば、税の還元もある」という具合に消費が拡大する。
 大企業が金をためこむことを認めている「制度」が、日本経済をだめにしている。アベノミクスそのものが日本経済を破壊している。
 メガバンクの「人員削減」「店舗統廃合」は、金を流通させるはずの銀行が、さらに「利潤をためこむ」方向に動き始めたことを明らかにしている。アベノミクスなんかに頼っていられない。銀行がそう判断し、動き始めたということだ。
 中小・零細企業も、こんなに苦しいんなら、もう、やめてしまえ、と思い始めたということである。我慢して働いても得なことは何もないと、みんなが思い始めている。アベノミクスは、働くひとから働く意欲を奪っただけである。



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加計学園獣医学部の新設認可日(安倍の沈黙作戦)

2017-10-29 20:49:43 | 自民党憲法改正草案を読む
加計学園獣医学部の新設認可日(安倍の沈黙作戦)
            自民党憲法改正草案を読む/番外136(情報の読み方)

 衆院選前に、加計学園獣医学部の新設認可日は10月23日という「情報」が飛び交った。なぜ、23日か。これは衆院選の投票日を10月29日ではなく10月22日にした「根拠」から逆に説明された。23日に「認可」が発表されると、国民の批判が集まる。29日の投票では自民党から票が逃げる。だから「認可」発表前に選挙を終えるという作戦である。
 しかし、23日は見送られた。なぜ?
 衆院選後の「特別国会」が控えているからだ。23日発表すれば、その後の「特別国会」で質問責めにあう。それを避けたい。(投票日を設定したときは、23日の「認可」は配慮したが、選挙後の「特別国会」を忘れていたのだろう。)
 それで「特別国会」を11月2日開会、8日閉会というスケジュールにする。閉会後の11月10日に発表する。国会で加計問題が追及されることはない。

 安倍の「沈黙作戦」は昨年夏の参院選から始まった。参院選で勝利すると、「憲法改正」を推し進めるために、まず籾井NHKをつかって天皇を沈黙させることに成功した。「生前退位」の意向を天皇がもっていると報道させると同時に、天皇に「天皇は国政に対して権能をもっていない(発言できない)」と言わせることに成功した。
 そのあとは、強引に「沈黙作戦」を強行する。森友学園では少し失敗したが、「天皇生前退位法案」は「静かな環境」をうたい文句(激論することで天皇に心理的負担をかけることをさけたい)に国会での議論を封じた。態のいい「沈黙作戦」である。その後の「共謀罪法」も審議打ち切りの形で野党を沈黙させた。加計学園問題では、当事者の加計を証人喚問しない方針で押し切った。加計が発言しないということは、野党が加計に質問できないということ。野党を沈黙させた。

 今回は、それをさらに強硬に推し進める。
 国会開いても実質的に「審議時間」を設けない。野党に発言させないのである。2-8日の国会開会は「8日間」に見えるが、3、4、5日は、祝日、土曜、日曜で国会審議はない。6、7日はトランプとゴルフという情報もある。実質的には、2、7、8日と3日間しか開かないのに、8日間開くと「みせかける」。悪質である。
 10日をすぎてしまうと、加計学園の認可が厳しく追及される。なんとしても加計学園問題を追及させないという安倍の「沈黙作戦」の暴力的手法というしかない。

 予算委員会の与党・野党の質問時間の割り振りを2割対8割から、3割対7割にするという案も出ている。与党の提案に対して野党が質問するというのが予算委員会。与党は提案した段階で、すでに10割の時間をとっている。委員会の時間配分を与党0割、野党10割にしてはじめて釣り合いがとれる。(与党は賛成意見しか言わないのだから。)それなのに野党の質問時間を減らすのは、野党を「沈黙させる」ためである。国民の代表である議員に質問させないためである。

 安倍は国民の代表である国会議員の質問にはこたえない。そのかわりマスコミを相手に記者会見で自分の意見を言う。これは「宣伝」である。記者会見で質問するのは企業の代表、国民が選んだ議員ではない。

 こんな言論封じの暴力を許してはならない。







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田中清光『太平洋--未来へ』(2)

2017-10-29 10:06:25 | 詩集
田中清光『太平洋--未来へ』(2)(思潮社、2017年10月01日発行)

 田中清光『太平洋--未来へ』は、「太平洋」で始まり「未来へ」で終わる。「未来へ」というのは「副題」ではなかったのだと、終わりのページまで読んできてわかる。

地球上ではこれまでに生物の絶滅が
六回も繰り返されたという--
そのなかを バクテリアだけが
最長の生命原理を生きつづけている というが

バクテリアを 細菌、分裂菌とよび
最も原始的な単純細胞生物
最下等とまでよびもする人類だが
それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどう考えるか

 私は「考える」という動詞まで読み進んで、ふと、立ち止まった。
 これは詩なのかなあ、知識や思想書いたエッセイを行かえによって詩にみせているのかなあ、と感じながら読んでいて、「考える」で立ち止まったのだ。
 この詩は「考えたこと」を書いている。「感じたこと」(感情)ではなく、「思考」を書いている。しかも「どう考えるか」ということ、つまり「わからない」ことを考えているということに、「考える」ということばで気づいた。

 もしかしたら、「哲学」というものを書いている?

 そして読み返すと「よぶ」という動詞が気になった。
 「バクテリアを 細菌、分裂菌とよび」は、あるものに「名前」をつけること。「名前」をつけることで、自分との「関係」を明確にするんだろうなあ。だからこそ、「最下等とまでよびもする」ということが起きる。人類は「最上等」、バクテリアは「最下等」という「位置関係」。このとき「よぶ」とは「考える」と同じこと。
 バクテリアを「細菌」と呼ぶのは「おおきい菌」ではなく「こまかい菌」と考える。「分裂菌」と呼ぶのは、それが「分裂する菌」と考えるからだろう。
 ここから「それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどう考えるか」という一行の「考える」を「よぶ」と書き直してみると、どうなるか。

それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどうよぶか

 うーん、
 何だか「考える」よりも「強い」感じがする。「考える」は「頭」で処理しているが「よぶ」となると「声に出す」感じがする。「肉体」をとおして「事実」をもういちどつか見直す感じがする。
 これは、私だけの感じ、つまり「誤読」かもしれないが。
 この「よぶ」はまた「名づける」でもある。
 「バクテリア」を「細菌」と名づけ、「分裂菌」と名づけ、「最下等」と名づける。それにあわせて「事実」をどう「名づける」か。
 「名づける」と言いなおすと、自分との「関係」が、また少し変わってくる。

それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどう名づけるか

 「名づける」とは対象(名づけられたもの)と自分との「関係」を、自分以外の人間に知らせることでもある。自分にとって「特別」な存在であるとき、それに「名前」をつける。「名づける」。
 「事実」にどんな「名前」をつけ、それ「よぶ」ことで、「事実/対象」と自分の関係を他人に知らせる。「考え」は、たぶん、その「名前」を通って他人につたわっていくんだろうなあ。「考え」は「あいまい」で「願い」のようなものかもしれない。
 こどもに名前をつけるとき、親は「願い」をこめる、というのに似ているかなあ。

 さらに詩を読み直すと。

 一連目に「いう」という動詞が出てくる。「よぶ」と「いう」はどう違うのか。
 こどもの名前を例に引いたので、そのつづきで考える。
 「きみの名前はなんというの?」
 「太郎だよ」
 日本語の「文脈」では「いう」と「よぶ」は、ちょっと違った感じがある。
 「きみのことを、お父さんはなんとよぶの?」
 「たー坊だよ/たーちゃんだよ/おい、坊主ってよぶんだ、いやになっちゃうよ」
 「いう」よりも「よぶ」の方が「主観」が強い。愛着、感情がからみついている。「客観的」ではない。
 地球上で生物の絶滅が六回繰り返されたのは「客観的事実」、バクテリアを細菌とよぶのは、そこに何かしらの「主観」のようなものが入っている。「定義づけ」がふくまれるということか。

それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどう考えるか

 この「考える」は「よぶ」ととらえなおすとき、そこに「主観的」な「定義」がふくまれそうだ。「いう」ととらえなおすときには「主観」は排除され、「客観的」なものになるのかもしれない。

それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどうよぶか
それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどう名づけるか
それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどういうか

 田中は、どっちを選ぶのだろう。
 三連目を読む。

未来に向かおうとするわれらが
この宇宙原理とともに永く
生きつづけている存在があることについて
思いめぐらしてみるとき

 「考える」が「思う」という動詞で言いなおされている。

それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどう思うか

 私だけのとらえ方かもしれないが、「考える」は「頭で考える」。「思う」は「こころで思う」(思う、という漢字のなかに「心」がある。)
 だから、田中が「考える」を「思う」と言いなおすことで、田中は「客観」ではなく「主観」の方へ詩を動かしている。「客観」というよりも「主観」でことばを動かしている。
 このことから、田中が書いているのは、知識や思考をことばにしたエッセイではなく「詩である」と定義できる。
 でも、詩ではなく、「哲学」だとしたら?

 ここから、脱線する。
 田中は「こころ」でことばを動かしている。だから、これは詩である。そう定義するとき、私の「肉体」のなかにもやもやしたものが残る。
 実は、私は「こころ」というものが「ある」とは考えていない。「こころ」ということばをつかってことばを動かすと、一見、論理的に「結論」を出すことができるが、どうもそれは「うそ」になる。私は「既成のことば」を「既成の論理」で動かしただけではないかという疑問が、私の「肉体」のなかに残ってしまう。
 「考える」(頭)、「思う」(こころ)。そのときの「動詞」と「主語」をべつのことばで言いなおせないか、もっと私の「肉体」に関係づけることはできないだろうか。ほかの「主語」、ほかの「動詞」でとらえなおすことができない。
 そういう「もやもや」の声に耳をすますと、最初に読んだ「いう」「よぶ」という動詞が気になり始める。私は「考える」「思う」ということばを頼りに「結論(?)」をつかみとるよりも、「いう」「よぶ」へと引き返したい欲望にとらわれる。
 「いう」「よぶ」へ引き返した方が、田中の「肉体」に触れることができるではないか、と直感する。田中の「肉体のことば」「ことばの肉体」は、「いう」「よぶ」ということばと一緒にあるのではないか。
 端折って言うと。
 私がしたいのは、「いいなおし」、「よびなおし」である。「いいなおす」とき、「よびなおす」とき、私は「頭」でも「こころ」でもなく、「声」(肉体そのもの)をつかっている。田中も、もしかするとそうかもしれない。そういう部分から、田中をつかみなおしたい。(「こころ」が「ある」というけれど、私はそれがどこにあるか、「肉体」で確かめたことがないので、「こころ」をつかったままの「結論」では落ち着かないのだ。)
 田中は「思いめぐらす」という動詞をつかっているが、私は「肉体」のなかに「ことば」をめぐらす。のどをつかう。舌をつかう。文字を書きながらなので手もつかう。目もつかう。「肉体」を総動員している。「どこ」をつかっていると、特定できない。あるいは特定しない。相対化もしない。
 この「肉体の総動員」こそが「考える」「思う」であり、それは「頭」や「こころ」の仕事ではない。実際に「ことば」を「声」にする。「音」として聴こえるものにし、声を出しながら声を聞き、文字を書きながら文字を読む。私は、そうとらえている。
 そんな感じでことばに向き合うから、よけいに「いう」とか「よぶ」とか、「肉体」で「再現」(追体験)することができることばにひかれるのかもしれない。このことばにこそ田中のすべてがある、と「共感」する。

 詩にもどれるがどうかわからないが、もどってみる。
 途中を省略して、最終連。

すべての生物のなかで生き永らえてきた微小ないのちに
宇宙原理が姿を表わしていることに
見えない未来の
本然が見えているかもしれない

 「微小ないのち」はバクテリアの「よびなおし」である。田中が積極的に「定義づけ」をしている。「細菌」とか「分裂菌」と違って、バクテリアを「微小ないのち」ことは「定着」していない。いわば、これは田中語である。だからこそ、そこに「主観」が積極的に付け加えられていることになる。
 このことばのなかに、田中は、田中の「姿をあらわして」いる。
 このとき、それまで「見えなかった」田中が見えている。
 最終連のなかにあることばを借りて言えば、その「見えなかった田中」、「微小ないのち」とバクテリアをよびなおすことであらわれて田中の姿は「本然」というものなのかもしれない。
 「本然」ということばを私はつかわないので(つかったことがないので)、うまくつかみとれているかどうかわからないが、「生き永らえてきた微小ないのち」をいいなおしたもの、よびなおしたものが「本然」だろう。それは「出発点」であり「到達点」である。いわば田中を貫き、ひとつにする「本質/永遠」を指し示している。
 さらに「出発点」「到達点」を結ぶということから、こういうことを「道をつくる」といいなおすこともできる。「道をつくる」の方がもっと「肉体の労働」という感じが強くなり、適切かもしれない。
 で、これを先の一行にあてはめると、

それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実になるようどう「道をつくる」か

 という具合になる。
 そういえば、昔「道」という感じに「いう」という「ルビ」が振ってあるのを読んだことがあるなあ。「道をつくる」と「いう」は同じことなのだ。それは、言った「道をあるく」ということでもある。歩いた後に道ができるというと高村光太郎になってしまうが、「いう」は「歩く」と同じように「道をつくる」のだろう。

 何かをいいなおす、よびなおすことで、既成のことばではつかみとれない「事実」をあきらかにすること。それが「詩の運動」なのだろう。田中にとっての詩なのだろう。いままで語られていない「事実」をあきらかにするものなので「哲学」と呼ぶこともできる。そういう「運動」を「未来へ」向けて動かしたい。
 そういう「いのり」を感じた。
 「いう/よぶ」という、「肉体」になじんだ動詞から出発し、「いう/よぶ」へ帰っていく運動をたどりなおすとき、私の「肉体」は田中の「ことばの肉体/肉体のことば」と触れる。

太平洋―未来へ
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田中清光『太平洋--未来へ』

2017-10-28 12:29:13 | 詩集
田中清光『太平洋--未来へ』(思潮社、2017年10月01日発行)

 田中清光『太平洋--未来へ』は、第二次世界大戦と、その後のことを書いている。戦争を体験した田中が過去から現在をみつめ、さらに未来を思い描いているという詩。とても淡々としている。
 何が書いてあるんだろう、何を言いたいんだろう、と思ってしまうくらい淡々としている。「戦争反対」というような、明確で、声高の「主張」がない。
 で、最後の部分。

太平洋
そこに沈んでいる数多の歴史や
生死の声を
深い海の声のなかから聴くことができるのは
われらの魂なのだ
新たな生命を育みつづけ 亡びてゆくものを見送る
太平洋は
耳を研ぎ澄まして聴けば いまも終わらぬ語りかけを送りつづけてくれる--

 この最終行の「耳を研ぎ澄まして聴けば」で、私は思わず傍線を引いた。「聴けば」に丸で囲んだ。
 そうか、私は「聴いていなかった」のだ。「聴く」というのは、「声」に身をゆだねることだろう。私は「聴く」というよりも「探していた」。たぶん「意味/主張」を。そのため「聴こえなかった」。なぜ、田中が戦争について語るのか、さらに北斎について語ることで何を言いたいのか。田中が何を言いたいのか、それを知りたいという私の「思い」を優先させて、田中のことばに向き合っていた。そのために「聴こえなかった」。「聞きたいことば」へ向けて意識を集中させていたので、聴こえなかった。
 耳をすますことが大事なのだ。ただ聴くのではなく「耳を研ぎ澄まして」聴く。その姿勢が、私に欠けていた。
 このことばに驚き、はっと、我に帰った。そのとき、ちょっと不思議なことが起きた。私の「肉体」のなかで。
 それまで、淡々としていて「感情」が弱い感じがする田中のこの詩が、静かに鳴り響くのを感じた。はっきり思い出せるところはない。立ち止まって考え込むような部分もない。だから、思わず読みとばしてしまったのだが、押しつけがましさのない静かな声の調子だったなあ、とふいにその「静かさ」が聴こえた。

 最初にもどってみる。

一人一人が 無であったあの時代の私たち
海のふかい穴を探りつづけているごとき少年のころのわたし
年ごとに黒い揚羽蝶が飛びまわった隅田川の岸辺で
未曾有の烈しい大空襲に打たれ
住まいから未来までをことごとく焼き尽くされ
二十世紀の末路までを 見せられてしまった

 戦争のさなか。「少年」からは「黒い揚羽蝶」と「大空襲」は同じように見えている。(と、書くと、違う、と言われそうだが。)このときの「同じ」はそれしかない「現実」という意味である。揚羽蝶を見ているときは揚羽蝶が世界。大空襲に直面すれば、それが世界。この関係を「整える」ことは「少年」にはできない。「整えない」まま、そこにあるものと「一体」になるというのが「少年」だろう。「一体」になって、それで、どうなるのか。わからない。「海のふかい穴を探りつづけているごとき」としか、言えないのだと思う。
 この「海のふかい穴を探りつづけているごとき」という比喩に強く引かれた。「海のふかい穴を探る」というこ「動詞」が私の体験とは重ならない。海は私にとって深い穴ではない。海をそんなふうに思ったことがなかった。でも、たしかに海は広いと同時に深い。海の底として私が知っているのは海水浴場の海の底くらいであって、沖の、何メートルあるかわからない「海底」など知らない。それは「底なし」に近い。この「底なし」の感じが「ふかい穴」という、不気味なことばと重なる。
 あ、田中にとって、海は「ふかい穴」なのだ、と気づき、その「ふかい穴」に吸い込まれていくような感じだ。そして、田中にとっては戦争は、その「底なし」と私が感じる海の、「ふかい穴」なのだ。
 なぜ、「ふかい穴」なのか。それは、田中が見た「大空襲」、そのときの遺体、そしてそれが隅田川を流れて太平洋に飲みこまれていくからだ。遺体をのみこみつづける太平洋。それは「ふかい穴」としかいいようがない。「底なし」の海だ。
 「ふかい穴」としての「太平洋」、「太平洋はふかい穴」という認識が田中の出発点だ。

空襲の屍骸であふれた隅田川の水も
平和な海とかつてマジェランが名づけた太平洋に
引き潮のたびにあふれ流れていったはず
一六五・〇〇〇・〇〇〇平方キロメートルに拡がる巨大な太平洋
海深四〇〇〇メートルから一一〇〇〇メートル余りといわれる
深い海底にまで膨大な死語を沈ませつづけ
海溝 海嶺 海山列 海洋島などがつらなる
海ふかく泳ぎ回る深海魚 海老も貝の類も 珊瑚礁 油田や鉱床のつづく
太平洋の波までがわれらを打ちのめした

海の水はそこで死者たちのどんなことばを聴いてきたのだろうか

 ここでは、田中が「聴く」のではなく、「海の水」が聴いている。こう書くとき、田中は「海の水(ふかい海の穴のなかの水)」になって、「死者たち」の「ことば」を聴いている。彼らはなんと言ったのか。田中は書かない。「耳を研ぎ澄まして聴けば」、聴こえる。耳を研ぎ澄まして聴くという姿勢がなければ、その声がどんな大声であっても聴こえはしないのだ。「聴こえる」ではなく「聴く」。「聴く」ときにのみ、そこにことばがあらわれてくる。

 このあと、田中の詩は北斎の絵に移っていく。戦争と北斎の絵は関係がない。しかし、田中はそれを結びつける。北斎が描いたのは「波」(海の表)であるが、その「波」の下に「ふかい穴」があることを田中は知っている。いまを生きる田中は知っている。それは穂くらいの知らない「事実(歴史)」だが、田中は北斎になって、その「事実」をことばにする。
 そのとき、そのことばは「抽象」を超え、絶対的な祈りになる。

晩年の肉筆画「波濤図」(一一八・〇×一一八・五)と信州小布施の
北斎館で対面してみて
純粋に波の運動のみをとらえ描いたそこには
現代の私たちの行き着いた抽象表現にさえ近づく
激しい絵画創造への疾走が見えてきた

私たちの太平洋はこのような創造者の手で
憐れな残骸を沈めてきた悲しい海だけでなく
生きつづける海の森羅万象を造形してみせてくれる

 いま、田中は、太平洋を通して、かれの思いの「森羅万象」を「造形」した。「森羅万象」だから「戦争」だけではなく、ツェランも入り込めば北斎も入っているのだ。それが田中の「世界」の整え方なのだ。

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数字は事実を伝えるか(安倍の情報操作?)

2017-10-28 09:11:07 | 自民党憲法改正草案を読む
数字は事実を伝えるか(安倍の情報操作?)
            自民党憲法改正草案を読む/番外137(情報の読み方)

 2017年10月28日読売新聞(西部版・14版)の1面(政治面)。

みずほFG1万9000人削減へ/10年で 前従業員の3分の1

 2面には、

スバル25万台リコールへ/無資格審査 30年以上

 経済面(7面)には

スバル不正意識なし/無資格検査/社長「悪意はまったくない」

 あっちもこっちも不景気。日本製品の「品質(安全)」に疑問が続々、という記事があふれている。しかも、社長は開きななおっている。日産自動車も無資格検査をしていた。神戸製鋼所はデータ不正が原因で、で日本工業規格(JIS)の認証が取り消された。
 こんな状況なのに、7面に

株2万2000円台回復 21年ぶり

 という2段見出し。衆院選中、衆院選直後の「大扱い(1面、4段)」に比べると小さな記事。
 株をやったことのない私には、この株高の「要因」がさっぱりわからない。
 どうみても日本の経済はおかしい。「ものづくり」がでたらめである。金融機関まで「人員削減」へ向かっている。どこに「好景気」の要因をみているのだろうか。
 読売新聞の記事は、こう書いている。

 堅調な企業業績と円安を好感し、買い注文が先行。IT大手グーグルの親会社アルファベットや、マイクロソフトの決算が好調だったことを受け、東京市場でもIT関連株が買われた。

 「堅調な企業業績」というのは3月期決算企業の中間決算(通期業績の上方修正)のことを指しているらしいが、その中間期決算が、日産やスバル、神戸製鋼所のような「不正」によるものだったとしたら? 簡単に信じていい? 東芝の粉飾決算は、つい最近のできごと。不正、粉飾決算というニュースがないなら、そのまま信じられるが、いまの状況では、日本企業をだれが信頼するというのだろう。
 「IT大手グーグルの親会社アルファベットや、マイクロソフトの決算が好調だったことを受け」というのでは、外国企業頼みの「株高操作」なのではないのか。安倍の「数字あわせ」(安倍にとって都合のいい数字だけを選びとり、アナウンスするという情報操作)ではないのか。
 IT関連と言っていいかどうかわからないが、富士通がパソコン部門をレノボに売却するというニュースがあり、私の周辺では「親指シフト」はどうなるのだ、が大問題として話題になっている。こういうことも日本企業が好調なら絶対に起きないことである。どの企業も「後手」にまわっている。こんなときに、日本企業の株を買うなんて、「資産運用」というよりも「博打で金儲け」という感覚ではないだろうか。
 安倍政権が、国民の資産(年金基金)をつぎ込み、株で「博打」をやっているだけなのではないのか。

 同じ7面に、

賃上げ 税制で後押し/麻生財務相 法人税減税など検討

 という見出し。
 労働者の賃金が上がらない。そのため消費が回復せず、景気も上向かない。「企業が賃上げしたら、その分法人税を引き下げるから、賃上げしてくれ」と麻生が企業に頼み込むらしい。
 ふーん。
 でも、そのとき「国の財源」は? 法人税が減れば、当然国の収入も減る。大丈夫? 一方、賃上げがあれば、当然それが所得税にも反映する。賃上げされた分のすべてが所得税にまわるわけではないだろうが、法人税の減収分を、個人の所得税で補完するということが起きるのではないのか。
 これじゃあ、労働者の生活は楽にはならないなあ。
 なんだか、企業への減税(法人税減税)のために、個人の所得税を増やしたい。そのために、「見かけ」の賃上げをするという感じ。
 私は貧乏人で、被害者意識が強いのかもしれないが、被害者意識を芽生えさせるということ自体、政策が間違っているということだろう。
 「数字の操作」で「実感」を操ろうとしているから、こんなことになるのだ。

 







#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
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数字と現実は違う

2017-10-28 09:09:10 | 自民党憲法改正草案を読む
数字と現実は違う
            自民党憲法改正草案を読む/番外136(情報の読み方)

 ネットで奇妙な分析を読んだ。竹中正治の「個人消費がどうしても伸びないのは「アベノミクス円安」が原因だった」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53310
 竹中正治は、こう数字を並べている。(この部分が竹中の論の中心ではないのだが。)

「正規雇用が減少して非正規雇用が増えたのは2013-14年であり、2015年以降は正規雇用の増加が145万人(内男性42万人増、女性103万人増)、非正規雇用が33万人増(2017年4-6月期、2015年1-3月期比較)で、正規雇用の増加が圧倒的になっている。しかも女性の正規雇用の増加が男性の2倍強である点にも注目しておこう。」

 これを私が知っている会社で説明する。
 その会社は、ある会社の子会社(関連会社)である。
 「派遣」を利用していたが法律が変わり、「正規雇用」に切り替えないといけないことになった。
 「派遣」のときは給料が安かった。当然(?)、若い女性が多かった。
 「正規雇用」にかわったが、給料はかわらない。
 女性の「正規雇用率」は当然、高くなる。
 竹中の書いていることは、統計の見かけである。
 女性は相変わらず低賃金で働かされている。
 親会社の仕事と同じ仕事をしている。
 新しい「搾取システム」になっているだけである。
 数字を並べる前に、実際に、「正規雇用」が拡大した企業を訪問し、そこで働いている人の声を聞かないといけない。
 今起きているのは、「見かけ」のとりつくろい。
 将来不安は消えない。
 だから、消費は拡大しない。

 円安が景気に逆効果というのは、「個人消費者」から見ればあたりまえのことである。個人は「輸出」などしないから、「円安効果で収入が増える」ということはない。個人は、もっぱら「輸入」する。食品の原料は「輸入」。材料が上がれば商品の値段も上がる。ものが高くなる。外国旅行も1ドルが100円のときと120円のときでは、金の使い勝手が違う。円安でもうかるのは「輸出企業」だけである。その「恩恵」がトリクルダウンで庶民に還元されないのだから、円安が「消費を刺戟する」ということはない。逆である。
 こういうことも、「個人」から社会をみていけば、すぐにわかることである。
 わざわざおおげさな統計を利用しなくてもいい。スーパーへ買い物に行く、旅行の計画を立てるだけでわかる。海外旅行は実際にいかなくても、計画を立てるだけで、あ、こんな円安では無理だあ、と感じてしまう。
 「数字」というのは「生活」のなかで見つめなおさないといけない。

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位

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谷合吉重『姉(シーコ)の海』

2017-10-27 09:49:28 | 詩集
谷合吉重『姉(シーコ)の海』(思潮社、2017年09月30日発行)

 谷合吉重『姉(シーコ)の海』は、どう読んでいいかわからない。こう、始まる。

出会いのトキは
いつも回避され
あたしの飢えハ
略奪されたと
光った土の上に
姉のホトが落ちる
同じ粘土から
生マレた姉弟
あたしは
ココの生まれではないと
子供ラを罵倒し
あるトキがくれば
十人の子供だって
棄テて旅立トウと
普賢菩薩の絵を模写する

 「飢えハ」「生マレた」という具合に、ときどき「カタカナ」がまじる。その「カタカナ」をどう読んでいいのか、私にはわからない。「飢えは」「生まれた」とは違う音で発音されることばなのか。読んでいるのが活字だから、そこに「声/音」は存在しないのだが、私は黙読しながら「音/声」を聞く。私の「肉体」のなかで「声/音」が動く。それを手がかりにしてことばを読む。そこに、どういう「音/声」なのか、わからないものがまじってくると、私は何も理解できなくなる。
 「出会いのトキは」は「出会いのときは/出会いの時は」と読むことができる。「時(時間/瞬間)」を強調したくて書いているのだと読むことができる。ひらがながつづくとことばが見えにくくなることがある。ことばをはっきり見えるようにするためにカタカナで表記された文章に出会うことがある。黙読するひとに配慮しているのかもしれない。たとえば「姉のホト」の「ホト」は「陰」(女性性器)だろう。これは、文脈の中で「ホト」を浮かび上がらせるための工夫だろう。
 しかし「飢えハ」「生マレた」は、どうなのだろう。「旅立トウ」もある。何かしら、「強い意味」をこめているのかもしれないが(文脈から浮かび上がらせたいものがあるのかもしれないが)、私には、それをつかみ取ることはできない。
 このカタカナ表記を無視して、頭の中でことばを動かしなおせば、どことなく「神話」めいたことばの短さが印象に残る。「粘土から/生まれた」という「異質」な世界観がそう感じさせるのかもしれない。「粘土」から人間が生まれる、つくりだされる、というの「日本の神話」にあるのか、「外国の神話」にあるのかよくわからないが、どこかで聞いた記憶もある。「普賢菩薩」ということばが出てくるから、日本、あるいは東洋の「神話」と関係するのかも。しかし、これも、よくわからない。

 よくわからない、というのは、そういう「音/声」の書き方を私は覚えていない、ということ。そういうことを「体験したことがない」ということ。私は自分が体験したことしかわからない人間なのかもしれない。
 ここで、その体験したことのないことを、体験すればいいのかもしれないが、年をとってくると、そういうめんどうなことはしたくない。年をとると保守的になり、自分の知っていること(体験したこと)を繰り返すだけである。
 「新しいこと」はほうりだして、無視する。どんどん読みとばす。こういうとき、目(肉体)というのは不思議なものである。「知っている/体験したことがある/おぼえている」ものは、すぐに目に留まる。

太陽は駿河湾に傾き
今という残酷が辺りに漂う
かつおぶしで知られる漁港に
高さの欠けた三角形の底辺が引かれ
岬の向こうに水平線が伸びてゆく
息子はもうすぐ帰るさかい
それまであたしと釣をしなせといって
ジュンコはぼくを港の岸壁に連れてきた

 全部を「体験した」ことがあるとは言わないが、ここには私の体験したことがある。
 「駿河湾」を私は見たことがないが、海を見たことがある。海に太陽が傾く(沈む)のも見た。漁港周辺に「残酷」を感じたこともある。「高さの欠けた三角形」というのは断面が「台形」の堤防、あるいは防波堤かもしれない。そのとき「底辺」とは道路である。海ではなく「土地」である。岬も、水平線も見たことがある。
 友達を訪ねていって、いまはいないと言われたこともある。待っている間、何かをしていろと言われたこともある。いっしょに釣をしようといわれたことばないが、何か、そういうやりとりをしたことがある。
 そういうことを思い出す。
 その思い出すことのなかで、「残酷」だとか、「高さの欠けた三角形」だとか、ちょっと抽象的なことばが、不思議な「音楽」になって響いてくる。「現実」を「異化」するもののように感じられ、その「異化」から「神話」が始まる。「神話」は人間の世界と違って「抽象的」だが、同時に「具体的」でもある。そして、そのときの「抽象」とは「具体」を純化したもの、あるいは強化したもの、という感じがする。ことばのなかで、存在と運動が強く、明確になる。そういうことが、ここでは起きている。
 突然出てくる「ジュンコ」は、このとき「女神」である。何かしら世界を支配している。こんな具合に。

あんたの仕掛けが引いとるよ
早く上げなせえとジュンコはいう

 「いう」、つまり「ことば(声)」にする。すると、世界が「ことば」にあわせて整うのである。こういうことを「神話化する」というと思う。世界が動き、ことばを整えるのではなく、ことばが世界を整えながら動かす。
 こういう部分にとても強く引かれる。だからこそ、書くのだが、

冬ニ向かフ消尽した朝の
ビン沼川のほとり、
抑揚のない楽がなりひびく
ソナール ソナール ソナール
風下の葦の葉裏の水鳥も鳴イテいます

 助詞、動詞の活用の一部が「片仮名」なるのは、なぜなのか。「表記」の「異化」でなはく、もっと違う形でことばを異化できるのではないか。その方が「神話」がよりくっきり浮かび上がるのではないか。

姉(シーコ)の海
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安倍の沈黙作戦(特別国会)

2017-10-27 08:32:45 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の沈黙作戦(特別国会)
            自民党憲法改正草案を読む/番外135(情報の読み方)

 2017年10月27日読売新聞(西部版・14版)の4面(政治面)に、こんな見出し。

特別国会 会期巡り火花/来月1日召集伝達/与党 日程過密「8日間」/野党 代表質問など要求

 衆院選後の「特別国会」が11月1日に召集される。会期はまだ決まっていない。与党は「外交日程が立て込んでいる」ということを理由に8日間を提案した。野党は「安倍の所信表明演説や代表質問などを行う」ために1か月の会期、さらに臨時国会の開会を要求したが、折り合いがつかなかったというニュースである。
 これだけの情報では「外交日程」がどういうものか、わからない。また安倍が所信表明演説をするのかどうか、野党が代表質問をできるのかどうか、それもわからない。もしかすると、安倍の所信表明演説はなく、それに対する代表質問もない、ということかもしれない。
 もしそうであるなら、安倍は、ここでも「沈黙作戦」を強行することになる。衆院選が国民の信託を問うもの、そしてその結果、安倍自民党が支持されたというのなら、そのことを受けて、安倍は今後の政治をどう進めるのか、それを語るべきである。自民党大勝の結果を踏まえて、何をするのか。選挙活動で語ったことを総括し、今後の方針を語るべきである。
 選挙で国民に向かって語ったから、語らなくてもいいということにはならない。街頭演説は一方的な「語りかけ」であって、質問を受けていない。何も議論されていない。しかも、その街頭演説は、警官と安倍支持派に守られた状況で行われ、安倍批判派は遠ざけられている。安倍は安倍支持派にのみ語りかけ、安倍支持派からのみ支持されている。繰り返すが、そこでは「議論」は行われていない。
 さらに、安倍の最後の演説会場には「北朝鮮殲滅」という横断幕も掲げられている。この横断幕は安倍が用意したものか、その横断幕の主張は、今後の安倍の政治の方針なのか、そういうことも語るべきである。「北朝鮮殲滅」ということは、安倍は明確にはことばにしていないが、多くのことが安倍の意向を「忖度」して行われていることが指摘され、問題化している。
 このことに関連するが、同じ4面に、

衆院選自民勝利「北朝鮮のおかげ」/麻生氏、議員パーティーで

 という見出しと記事がある。自民党が北朝鮮への圧力強化を語ったことが勝因のひとつだという認識なのだろうが、これは危機を選挙に利用したということだろう。危機があるなら選挙をする前に、まず危機と向き合い、対処方法を確立する方が先だろう。危機のときに選挙日程を組むことができるくらいなら、外交日程が立て込んでいるにしろ、国会を開くことくらいできるだろう。北朝鮮が何をするかわからない危機的状況に選挙はできる。けれど外交日程が立て込んでいると国会は開けない、というのはどういうことだろう。また、北朝鮮の危機が高まっているなら、外交日程を優先する前に、国会できちんと対策を議論すべきだろう。
 安倍政権は、安倍の都合で、「日程」を決めている。
 だいたい「日程が立て込んでいる」というのなら、野党の要求している「1か月」の期間を「1か月」に限定せず、2か月、3か月にすればいい。「外交日程」でふさがっている日は「臨時休会」にして、安倍が外交から帰って来たら国会を再開すればいい。いつでも、安倍の都合のつくときに、1日置きでも2日置きでも、議論をすればいい。
 議論をどうやってつづけるか、ということを工夫しないで国会といえるのだろうか。

 







#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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フランソワ・オゾン監督「婚約者の友人」(★★)

2017-10-26 08:33:36 | 映画
監督 フランソワ・オゾン 出演 パウラ・ベーア、ピエール・ニネ

 フランス人が見たドイツ人の恋愛不器用さがテーマ? あるいはフランス人はやっぱり不倫が大好きがテーマ?
 よくわからない。
 一か所、パウラ・ベーアとピエール・ニネが、かつてパウラ・ベーアが婚約者と歩いた野原を歩くシーン、トンネルをくぐり抜けるとモノクロ画面がカラーにかわる瞬間だけが見どころかなあ。
 そのシーンを含むドイツのシーンは、ドイツ人の恋愛下手というか、純情さ加減がなかなか美しい。戦場で婚約者を殺した男に、そうとは知らずにだんだん惹かれていく女。男が語る話を、そのまま信じ込む感じがなかなかおもしろい。
 パウラ・ベーアの婚約者の両親までもが純愛のめりこみ、パウラ・ベーアを応援する。へええっと、驚きながらみてしまう。
 名前だけだが、「リルケ」が出てくる。ドイツ人の精神はリルケのように透明ということかなあ。
 これが後半、舞台がフランスになると、実に不思議。
 パウラ・ベーアの「純愛」を、フランスの誰もが信じない。
 「あら、あんたわざわざ男を追いかけてフランスへやってきたの」「息子を奪う気ね」「婚約者から恋人を横取りするつもりね(男には、婚約者がいる)」という具合。息子(男)がパウラ・ベーアにこころを動かされたというのは「事実」だろうけれど、それがどうした?という感じ。
 フランスの金持ちの男が、ドイツの貧乏人の女と結婚するわけがない。結婚は「恋愛」とは違っている。「恋愛」があって「結婚」があるわけではない、と突き放した感じになる。
 本音がそのまま出ているんだろうけれどね。

 で、ここから振り返ると。

 あのモノクロからカラーに変わる瞬間のひとつづきの変化というのは、パウラ・ベーアが婚約者を忘れ、男にひかれていくときの始まりであり、女のこころの変化をあらわしているということになる。婚約者(恋人)を思い出しながら、新しい男にひかれていく。
 これを「美しく」撮る、というのは。
 そう、フランスの男は、ほかの男を愛している女が自分の方に傾きかける瞬間をいちばん美しいと感じているという証拠である。だから、その瞬間を「美しい」ものとして懸命に描く。そして、ずっーと自分をひとすじに愛してくれる女よりも、途中で心変わりしてくれる女の方が好きということ。なぜか。心変わりをするということは、自分の方に魅力があるということを証明していることになるから。
 まあ、こういう「論理」は、自分勝手なわがままフランス人しか思いつかない論理だけれどね。
 それを、平然と描ききるところに感心しないといけないのかもしれないなあ。

 パウラ・ベーアからの最後の手紙(最初の手紙?)で、パウラ・ベーアが嘘をついていると感じるドイツの、婚約者の両親の、その最後の演技がなかなか。ドイツ人は、ほんとうに純粋。悲しくなるくらいに純粋、と私は思ってしまうのだった。
 両親は最初ピエール・ニネにだまされ、次にパウラ・ベーアにだまされる。息子をフランス人に奪われ(殺され)、信じていた息子の婚約者にもだまされる。裏切られる。これは、つらいね。
 なんてことを思うのは、私が日本人だからだろうなあ。フランス人は、ドイツ人には恋愛なんかわからない、というだけだろうなあ。
 そういう意味では。
 恋人動詞の秘密の会話(手紙)にはフランス語がつかわれ、ドイツ語がつかわれない、というのは意味深だなあ。手紙なんて、だいたい他人のものを読んではいけない。そういうプライバシーはどこの国でも共有されている。それなのにフランス語でやりとりする婚約者と恋人。そして、それを盗み見するのはドイツ人ではなく、フランスの兵士。ここから映画を見直すと、映画ではなく「小説」になっていく。映画はオリジナルではなく、「原作」があるのかもしれない。
                      (KBCシネマ、2017年10月25日)


 *

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わけのわからないニュース

2017-10-26 01:00:39 | 自民党憲法改正草案を読む
わけのわからないニュース
            自民党憲法改正草案を読む/番外134(情報の読み方)

 2017年10月25日読売新聞夕刊(西部版・4版)の1面に、こんな見出し。

国立大複数経営を容認/文科省方針 邦人統合で合理化

 うーん、わけがわからない。1面のトップ記事は「習政権2期目発足」、2番手が「国立大」なのだから重要だと判断されたニュースなのだが。
 書いてあることは、わかる。国立大学はいま「国立大学邦人」が経営している。1法人が1大学を経営している。その法人を統合して、1法人で複数の大学を経営できるようにする、というもの。
 何のためにか、というと。

少子化で将来、地方の大学を中心に経営悪化が懸念される中、国立大学法人を統合することで、重複している学部の一本化などによる経営の効率化や、教育内容の充実を図る。

 ふーん、でも。
 教育費を無償化するのではなかった? 少子化が進んでも「授業料」を値上げすれば、経営は悪化しないね。ここに書かれている「経営悪化」というのは「授業料を値上げしない」ことを前提としている。学生が減っても教授が減るわけではないから、教授に今までどおりの給料を払おうとすれば、どうしたって無理がくる。でも、授業料を値上げすれば? 授業料は無料なのだから、学生の負担は増えないよ。つまり、これって、「大学法人」の経営の悪化を防ぐというよりも、「教育費無償化」の「財源」をそのままにして、大学側に「経営」をなんとかしろ、と責任を押しつける仕組みだねえ。
 で、ここからが問題。
 どんな教育をしようが、そこで学ぶ学生のための「教育費を無償にする」というのは、結局、できないね。どうしたって「国」は学問の選別が始まる。国に都合の悪い「学問」をしようとすると、その学部への「教育費(授業料)」は支払わないということが起きる。そして、それを「大学経営の仕方がまずい」という具合に責任転嫁するということが起きる。
 簡単に言いなおすと。
 たとえば国を相手取って起こす訴訟がある。訴訟だから「法学部」で学んだ学生が、いずれそれを担当する。法の解釈というのは、いろいろある。どう法を適用するか、むずかしいね。こういうとき、「国よりの判決をする学生(卒業生)」を育てる大学(A大学)には国の予算をつぎ込む。「学生の授業料を積極的に負担する(無償化する)」が、訴訟を起こした「住民(国民)よりの判決をする学生(卒業生)」を育てる大学(B大学)には予算配分をしないということが起きるんじゃないかなあ。A大学が定員を200人に増やす。その200人の教育費は無償化するが、B大学が定員を300人に増やそうとすると、それに「待った」をかける。B大学の定員は「10人」に減らせ。10人分の授業料なら出す、という「選別」がおこなわれるのではないだろうか。10人の授業料では教授を雇えるかどうかわからない。だから自然と、そういう学問(講座)は廃止になる。間接的な「学問の支配」が始まる。
 学生のひとりひとりに対して、国が直接「授業料」を支払い、その学生が大学に対して授業料を支払うというシステムなら、そういうことは起きないだろうが、そんな「二度手間」のシステムになるはずがない。大学に、学生の人数分の「授業料」が支払われるという形になるだろうから、どうしたって、国にとって都合の悪い学問を研究するところには金を出さないということになるだろうなあ。
 それなのに、「経営方針が悪いから学生が集まらない」という具合に法人に責任をとらせるということになるんだろうなあ。そういう「前準備」に思えるなあ。
 だいたい「教育費無償化」というのなら、まず「大学法人の合理化」なんて考えを捨てることが大事。どんな教育をしようが大学の自由、すべて「費用」は出す、ということろから出発しないと、権力のための「教育の無償化」になる。
 「哲学」とか「一般教養」なんていらない。そういう教育はやめてしまえという風潮がすでにあるが、それに拍車がかかるだけ。そんなことでいいのか、と大学の教授陣や学生の間から声がわき上がらないといけないと思うのだが。








#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
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安倍の沈黙作戦を許すな

2017-10-25 17:29:38 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の沈黙作戦を許すな
            自民党憲法改正草案を読む/番外133(情報の読み方)

 2017年10月24日読売新聞の「社説」は「安倍政権再始動」というタイトル。見出しは、

脱デフレへ成長力を強化せよ/北朝鮮危機に日米同盟生かそう

 と、安倍新政権への期待と要望を書いている。
 その社説の最後に、「疑問」という形でひとつの「情報」が書かれている。

 疑問なのは、政府・与党内で、年内は実質的な国会審議を見送る案が浮上していることだ。

 つまり、「沈黙作戦」をそのまま遂行するのだ。森友学園、加計学園問題は、未解明のもまま、なかったことになってしまう。記者会見で、二、三の記者に質問され、答えにならないような答えはしているが、国民の代表である国会議員の質問には何もこたえていない。「臨時国会開会」の要求にこたえず、やっと国会を開いたと思うと「解散」で審議を拒否、新議員(新国会)が誕生したのに、そこでも審議をしない。
 なんのための国会なのか。
 安倍は、「丁寧に説明する」ということばを繰り返すが何も説明していない。
 「丁寧な説明」には「説明」を補足する十分な「証言」が必要である。多くの「証人」が必要である。安倍にとって都合のいいひとだけにこたえさせ、質問されたひとは「記憶にない」を繰り返す。それでは「丁寧な説明」ではなく「丁寧な隠蔽」である。
 選挙期間中、安倍昭恵は下関の有権者に「なぜ証人喚問に出ないのか」と問われて「呼ばれていないので」とこたえていた。安倍昭恵が「呼ばれていないので証人喚問に出ない」というのなら呼べばいい。野党は要求している。「呼ばない」のは、だれか。安倍自身ではないか。安倍昭恵は「丁寧な説明」をしたがっている。安倍が、それを拒否している。 
 加計理事長もおなじだ。安倍が呼ばない方針を貫いている。身内をも「沈黙」させている。
 読売新聞の社説は、さらにつづけている。

 新内閣発足を機に、首相の所信表明演説や各党の代表質問、予算委員会質疑などを行うのは最低限の責務だ。見送れば、「森友・加計学園隠し」批判は免れまい。

 「森友・加計学園隠し」だけではない。「憲法改正」もあるし、「消費税/全世代型社会保障」もある。安倍は実質的には何も語らない。
 特に「憲法改正」がひどい。
 どう「改正」するのか、具体的には「文言」を示さない。選挙期間中、国民に向かって説明するといっていたはずだが、語ったのは「国会(憲法審査会)の審議にゆだねる」というようなことを言っている。「答え」を先のばしにしているというより、すでに決めていることがあって、それを「語らない」。語れば反発がくる。だから「沈黙」する。安倍が「沈黙」したままでは、野党は反論できない。つまり、議論が行われずに、安倍が思っていることがそのまま「憲法」になるということだ。
 安倍はさらにもうひとつの「沈黙作戦」も展開する。「憲法改正に反対」という意見を「反対するだけでは議論にならない。対案を示せ」という形で「憲法改正に反対」という声を「沈黙」させる。「対案をださないのは無責任だ」と批判する。
 「対案」にはいろいろな形がある。「憲法改正に反対」、いまの憲法を守れ、というはきちんとした「対案」である。それを「対案」と認めないのは、安倍の暴論であり、作戦にすぎない。
 だいたい安倍の議論の出発点がおかしい。多くの憲法学者が自衛隊は違憲だと言っている。災害救助に活躍している自衛隊員を親に持つ子どもたちが、これではかわいそうだ、云々。これはほんとうか。
 自衛隊員の子どものだれかが、「憲法違反の自衛隊員のこども」というような批判を受けたということがあるのか。災害救助に出動している自衛隊員の姿がテレビに映る。それを見たこども(あるいは大人)が、「あ、〇〇ちゃんのお父さんだ。自衛隊は憲法違反なんだよね」と言って、いじめたりしたことがあるのか。誰も「自衛隊は違憲だ」という「論理」を持ち出して、自衛隊員のこどもを批判していないのだったら、「自衛隊員のこどもがかわいそう」という「論理」自体がおかしい。そんな「感情論」を憲法をかえる根拠にするのはおかしい。だれが、安倍のいっていることを「事実」として確認したのか。安倍の「妄想/捏造」ではないのか。
 「感情論(同情論)」を展開する前に、もっと「事実」に則して言うべきである。
 憲法学者は、自衛隊員が災害救助に出動することを「違憲」と言っているだろうか。野党、その最左翼とみなされている共産党でさえ、「自衛隊員が災害救助に出動するのは違憲だ」と言わないだろう。誰も言っていないことを、あたかも言っているかのように「論理」をごまかして、本質論を「沈黙」させている。
 国民は、自衛隊の存在を「容認」している。災害救助での活動には国民が感謝している。だが、その自衛隊員が、海外へ出動し、戦争に参加する(加担する)ことには反対している。海外へまで出て行くことは完全に憲法違反であると言っている。
 ある国が日本の領土・領空を侵犯し、日本人を攻撃し、殺すというようなことが起きたとき、自衛隊が活動するということに対し、「違憲」と主張している国民はほとんどいないだろう。自衛隊に助けを求めるだろ。助けを求めるとしたら、自衛隊に求めるだろう。「個別的自衛権」は容認されているというのが現実だろう。
 「ある国が攻撃してきたら」と「仮定」の議論をするまえに、国民が自衛隊をどうとらえているか、その「事実」から出発しないといけない。
 憲法の文言を厳密に適用すると「個別的自衛権」も違憲かもしれない。しかし、国民はすでに自衛隊を容認している。これは、「自衛隊は違憲である、廃止せよ」という訴訟が起こされていないことからもわかる。自衛隊が誕生して、もう長い年月が経つ。その間に、「容認」は定着している。定着しているという「事実」があるのに、それを無視して議論するのはどういうものだろう。
 あたかも憲法学者が(あるいは野党が、あるいは戦争に反対する国民が)、「自衛隊は違憲である」は主張し、自衛隊を廃止する法律を要求しているかのようではないか。これは、安倍の情報操作である。
 また、自衛隊を海外に出動させるために「戦争法」をつくったのに、なぜ憲法を改正する必要があるのか。憲法は「集団的自衛権を否定している」という一般的な解釈を無視して戦争法をつ強引に成立させた。もう憲法に自衛隊が合憲であると書き加えなくても、自衛隊を海外出動させることができる。なぜ、憲法を改正する必要があるのか。そういう議論もしないといけない。なんのために戦争法をつくったのか、ということまで遡って議論しないといけない。








 安倍の「沈黙作戦」を考えるとき、もうひとつ考えたいことがある。
 衆院選の最後の演説。安倍は、警官がつくった「分離帯」に守られて演説した。安倍支持派と安倍批判派が「分離」された状態のなかで演説が行われた。
 この「分離」はまた「沈黙作戦」のひとつである。
 そしてこの「分離/沈黙作戦」がいちばん有効に働いているのがネットの世界である。SNSの世界である。そこでは「同類」しか集まらない。安倍支持派は安倍支持派であつまり、ことばを共有する。安倍批判派は安倍批判派であつまり、ことばを共有する。たがいに、「私たちはこんなに正しい。そして、正しさはこんなに共有されている」と思い込む。「分離」させられたまま、互いに相手をののしっている。「議論」がない。
 「議論」が沈黙させられている。きちんと「議論」が動いている場というものが、日本からなくなっている。「議論」の場である国会さえもが、安倍の都合で沈黙させられ、あらゆることばが「分断」されている。 安倍はこの分断を積極的につくりだし、利用している。
 安倍の、警官隊に守られたゾーンでは「北朝鮮殲滅」という横断幕が掲げられた。それに対する批判をするひとはまわりには誰もいない。警官さえも注意しない。もちろん安倍も、その横断幕に対して注意などしない。「北朝鮮殲滅」というスローガンがどんなに危険なものであるか、議論されることなく、それが安倍を中心にしたゾーン(警官に守られたゾーン)で共有され、広がっていく。日の丸の旗が、そのまわりで打ちふられ、スローガンが共有されていく。
 この「分断」を修復し、「議論の場」をどうつくっていくかはむずかしい問題である。
 そういう意味で、私は毎日新聞に期待している。夕刊の特集で、いろいろな話題を取り上げている。10月24日の夕刊では、秋葉原での安倍の演説にふれ、「北朝鮮殲滅」の横断幕も取り上げていた。この問題は、もっと取り上げられるべき問題である。マスコミが、野党が、どう安倍の責任を追及していくか、そのことを見つめたい。















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岸田将幸「県道」

2017-10-25 15:41:20 | 詩(雑誌・同人誌)
岸田将幸「県道」(「森羅」7、2017年11月09日発行)

 岸田将幸のことばの音楽と、池井昌樹の手書きの文字はあわない、と私は思っていた。岸田のことばはすばやく動く。池井の文字は、ゆっくりくねる。いっしょになると、おちつかない。
 でも、違った。
 あっている、というのではないが、岸田のことばの音楽がそのまま聞こえてきた。岸田の音楽の方が強いということだろう。ことばは「視覚」でとらえるものではなく、まず「聴覚」に働きかけてくるものなのだということを、あらためて思った。「耳」から入ってきて、「肉体」のなかに残った「音」が響きあい、「論理」を動かしていく「強さ」をもと、とも。
 「県道」の二連目と三連目。

青信号と黄信号の間の時に
きみときみを思い出すその間に
運命が口ずさむ
七十まで生きるとしたらと逆算している
なんてくだらない歌と歌がうたう
ファムファタル 助けてほしい

忘れるために県道を歩く
きみの胸のスピードはいまどれほどだろうか
僕は道々 カズラを引っこ抜きながら
地面の軟らかさを確かめている、虚ろ
また、一緒に何かを頬張りながら
馴染みのある高さの山を眺めたいよ
何も変わらない高さを僕らは知っている
忘れたいのに

 現代詩がいつからこんなにロマンチックになったのかわからないが、岸田のことばにはロマンチックと同時に、不思議な音楽がある。「論理」がそのままメロディーになっているような音の不思議がある。
 「青信号と黄信号の間の時に」と「きみときみを思い出すその間に」は「間に」ということばを中心にして、ぴったり重なり合う。「きみ」が「青信号」ならば「きみを思い出す」は「黄信号」か。そんなはずはないのだが。そして、その「そんなはずはない」という「論理」が、「きみ」と「きみを思い出す」の違いを「論理的に証明せよ」と要求してくる。一瞬、しのびこんだ「そんなはずはない」という断絶(切断)、隙間、論理の「間」から。うーん。たしかに「青信号」と「黄信号」の断絶と接続の「間」のようなものと、「きみ」と「きみを思い出す」の「間」には断絶と接続があるのだ。
 それがどういうものなのか、具体的に言うのはむずかしいが、断絶と接続、それがおこなわれる「間」があることだけは確かだろう。
 この確かか、不確かかよくわからないものは「逆算」ということばのなかで、不思議な形で動く。「きみを思い出す」から「きみ」を「逆算」するのか、「きみを思い出す」とき、そこに「きみ」があらわれるのか。「きみ」がいるから「きみを思い出す」というのは、「論理的」ではないから、たぶん「きみを思い出す」ということが「きみ」を逆算し、「確かめる」ということなんだろうなあ。
 「逆算」は「思い出す」と重なり、「思い出す」は「思う」とも重なる。「思う」ことが「逆算」でもある。三連目には、この「思う/思い出す」「逆算する」が知らず知らずの間に引き出した「確かめる」ということばとなって動いている。「地面の軟らかさを確かめている」という具合に。でも、この「確かめる」は「思う」でもある。「地面の軟らかさを思っている」でもある。それはあるとき草を引っこ抜いたこと、そのときの地面の軟らかさを「思い出す」でもある。「確かめる」は「思い出したこと」と「いま起きていること」を結びつけて、「いま起きていること」を「思い出したこと(既成のこと)」で言いなおすことである。「いま起きていること」を「知っていること(思い出せること)」で定義しなおすことである。「定義しなおす」ことによって「確か」にかわる。
 こういうことが岸田のことばといっしょに、起きている。そして、そのことばの動きは、どこか一直線で、スピードがある。
 で、この「一直線」のスピードを貫いているのが「思う」という「動詞」なのだ。「思う」という動詞は「思い出す」という形で、見えるような、見えないような感じで動いているが、隠れている「思う」、書かれていない「思う」を、こんなふうに補ってみると、「思う」こそが岸田のこの詩を貫く動詞だとわかる。

きみの胸のスピードはいまどれほどだろうか(と思う)

 それは「思う」とき、「思う間」だけ、そこにあらわれてくる何かである。「思う間」しか存在しない。そういう切実さが、この詩を貫いていることがわかる。そして、その「思う」スピードは、「きみの胸のスピードはいまどれほどだろうかと思う」から「思う」を省略しないではいられないほど速い。「思う」は岸田にはわかっている。「きみを思う」は岸田の肉体になってしまっている。だから「思う」を省略してことばを動かしてしまう。
 「思う」は知らないものを「想像する」ということではない。ことばで捏造する、ということではない。「思う」はあくまでも知っていることを「確かめる」である。知っているきみを確かめる。
 この「知っている」は

馴染みのある高さの山を眺めたいよ

 の「馴染みのある」ということばに変わる。「きみを知っている」は「きみに馴染みがある/きみと馴染んでいる」でもある。
 そして、この「馴染みのある」は次の行で

何も変わらない高さを僕らは知っている

 の「何も変わらない」と言い換えられる。「きみときみを思い出す」は、このとき「何も変わらないきみ」という形に結晶する。「きみは何も変わらない」。そのことを「知っている」(確かめることができる)。きみを思う気持ちは「何も変わらない」ということを岸田は「確かめている」。
 それは忘れようとしても「忘れられない」。「忘れたいのに」は、一種の「逆説」のようなものだ。「忘れることができれば、どんなに気楽になるだろう」という気持ちは、誰にでもふいに起きる。「気楽になるために忘れたい」。けれど、「忘れられない」。思い出してしまう。

 ことばが、どこまでも一直線に、スピードを落とすことなく動いている。休むことなく、憩うことなく、と書くとまるでゲーテだが。このスピードと音楽が、ほんとうに美しい。
 で、このスピードがあるからだと思うが、

ファムファタル 助けてほしい

 という「くだらない歌(歌謡曲?)」のような一行にも、私は感動してしまう。「ファムファタル」と「助けてほしい」ということばの「た」の響きあい、「ファ」と「ほ」の音の響きあいにも。「ファムファタル」と「助けてほしい」の音の「間」にある切断と接続(断絶と接続)に何か「強さ」がある。これはなんだろう。そう考えた時、あ、ここにも「助けてほしい(と思う)」と「思う」が隠されていることに気づくのである。
 「思う」は「叫ぶ」でもある。こころが叫んでいる。それはほかのひとには聞こえないかもしれない。でも、「きみ」には聞こえるはずだ、と言うとロマンチックになりすぎるから、私はこう言いなおす。その「思う/叫ぶ」声は、岸田には、耳をふさいでもふさいでも聞こえる。岸田の「肉体」のなかで動いている声だからである。

 ロマンチックがこんなに美しいなんて、私はすっかり忘れていた。

亀裂のオントロギー
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*


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