詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井道人監督「新聞記者」(★★)

2019-06-30 19:06:50 | 映画
藤井道人監督「新聞記者」(★★)

監督 藤井道人 出演 シム・ウンギョン、松坂桃李

 「話題」になっているらしいが、あまりにも予想通りのつまらなさでがっかりしてしまった。
 テーマは「ジャーナリズムと民主主義」ということになるのだろうが、ジャーナリズム、民主主義、そして政治に共通するのは「ことば」である。「事実」をことばで、どう表現するか。表現が成立したその瞬間、「事実」は「真実」にかわる。こういう「ことばのドラマ」、「ことば」の対立と動きを映画で描くことはなかなかむずかしい。「ことば」は映像になりにくいからね。そのむずかしさと、映画はどう向き合っているか。最初から向き合うことを投げ出している。
 悪役(?)の官僚が「国と民主主義を守る」と言うが、その「ことば」のなかにしか「民主主義」は出てこない。聞き漏らしたのかもしれないが、主役の新聞記者は「民主主義」ということばを語らない。さらに「政治家」が登場しない。官僚の陰に隠れている。「上」という比喩(ことば)でしか登場しない。つまり、ジャーナリズムのことばと政治家のことばが対立し、そのなかから「事実」があぶり出され、「真実」にかわっていくという展開がない。
 これではねえ。
 いくら「獣医大学」だの、「レイプ事件の容疑者を逮捕しなかった」だの、「官僚をスキャンダルで追い落とす」だのということが描かれても、安倍にとっては、痛くもかゆくもない。単に「娯楽映画」に終わっているし、(なんといっても「獣医学部」は生物兵器?をつくるための研究機関という設定では、日本で起きたこととはあまりにも違いすぎるし)、「悪いのは官僚」という安倍の「官僚切り捨て」作戦の追認で片がついてしまう。「政治家(安倍)がそれを指示したという証拠」はどこにもなく、官僚が「忖度」し、かってにやったことですんでしまう。
 私が安倍なら、大喜びするだろうなあ。「ほら、悪いのは官僚。私(安倍)は、どこにも関与していないだろう? だれも私(安倍)から指示されたとは言っていないだろう?」これでは安倍は「無実」だという宣伝映画である。
 こんな映画でジャーナリズムを描いたとか、政治(の暗部)を描いたとか、よく言う気になるなあ。
 私たちはもっと「ことば」を鍛えないといけない、ということだけは教えられる。
 日本にあふれているのは、この映画の中に出てきた「ツイッター」のたかだか140字の「罵詈雑言」であって、「論理を積み立てていくことば」ではない。民主主義とは無関係の「ことば」だ。「民主主義」とは「多数決」(多いものが正しい)ではなく、対立点をどこまでもどこまでも「ことば」で語り尽くすことだという意識が完全に欠落している。
 だいたいが安倍のやっている政治というのは、「安倍晋三記念小学校」という名前の学校をつくってくれるひとを優遇するとか、「息子が獣医になりたいといっているから、そのために大学を造りたい」という友人の手助けするとか、「国家」のあり方とはぜんぜん関係のない単なる「人事」だ。自分がうれしい、相手も喜ぶ、よかったよかった、という金を使ったお遊びにすぎない。これが高じて、武器を大量購入すればトランプが喜んでくれる、軍隊を指揮するチャンスもやってくる(なんとしても軍隊を指揮して戦争をしてみたい)という自己満足のための「金遣い遊び」にすぎない。
 官僚を描くなら描くでいいのだが、その官僚を突き破り、安倍にまで「ことば」をぶつけないと映画にはならないのだ。
 こういう映画、アメリカでは必ずと言っていいほど実際の大統領が映像で登場する。安倍、あるいは菅の実際の映像を組み込まないことには、「政治映画」としては完全な失敗。前川元次官とか、望月記者とか、そういう人はタイトルバックで補足的に登場すればいいのであって、狂言回しとして登場しても、ばからしくて見ていられない。

 あ、書き忘れたことがひとつ。主人公は「自分を信じ、疑え」(だったかな?)ということばを父から教えられたことばとして大切にしている。この「ことば」を私なりに言いなおすと、「自分のことばの動きを信じ、他人のことばを疑え(嘘か真実かを確かめろ)」ということだと思う。主人公は「事実/真実」はなんだろうとは思うが、他人の言ったことばの嘘(ここが矛盾している)ということを突き詰める形でことばを動かしていない。これも、この映画を非常に弱いものにしている。
 安倍はこう言っているが、自分の知っていることをことばにして言いなおすと、安倍の言っていることが信じられない。間違っているのじゃないか。たとえば「100年安心年金」というけれど、年金だけだと毎月5万円も赤字になる。貯金がなくなってしまったら、私の老後はどうなる? 安倍は年金を増額してくれるのか。
 自分の知っていることを、自分でことばにする。そこから民主主義が始まる、と私は信じている。

 (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン2、2019年06月30日)

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(41)

2019-06-30 13:14:34 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくが記憶のなかで)

ぼくが記憶のなかで失つた多くの路上を
いまだれかが歩いているだろう

 「記憶のなかで失つた」という表現が意識を覚醒させる。「忘れる」とは違う。「記憶」そのものはあるのだが「路」がない。でも、記憶は「ある」。
 だからこそ次の行の「歩く」という動詞が可能になる。動くことができる。
 疑問に思うのは、なぜ「多くの」路上なのだろうか。この「多く」は「路」を指しているのか。それとも「長さ」を「多く」と言いなおしているのか。さらに二行目の「歩いている」のはひとりなのか。「多く」は「歩いている」ひとを間接的に修飾しているのか。
 ひとは「多く」のものをなくす。けれどなくしたと意識するのは、「ひとつ」ではないだろうか。そういう疑問も残る。









*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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川上明日夫『無人駅』

2019-06-30 11:21:04 | 詩集
無人駅
川上 明日夫
思潮社


川上明日夫『無人駅』(思潮社、2019年06月01日発行)

 川上明日夫は独特のリズムで詩を書く。『無人駅』でも同じである。帯に引用されている「喫茶店の一隅にて」。

喫茶店の一隅にひっそり身をおいて
さてと
途方が ゆっくり首をもたげている
一服の
煙のようなとぐろに 目を許しては
これから
どうするの と そっと あなたの
思案が からみついてくる

 長い行(といっても十四字だが)と短い行が交互に現われる。「思案が……」以後、少し乱れる。あるいは変化がある。しかし、この長い行と短い行の交錯というリズムは、多くの詩に共通する。
 私は、このリズムが嫌いだ。他者(読者?)との交渉を拒んでいる。他者の声を無視して、自分の声を守り通している。
 なぜ、このリズムが嫌いなのか。川上のリズムが狙っているのは「切断」と「接続」の強調だ。「喫茶店の一隅にひっそり身をおいて」と書いて「さてと」で前の一行を切断してしまう。切断がおこなわれたことを確認して「途方が ゆっくり首をもたげている」と接続する。それは古いことばで言えば「手術台の上のミシンとこうもり傘の出合い」なのだ。「無関係なものの偶然の出合い」。けれど、出合ってしまえば「偶然」というものなどどこにもない。出合っても、意識化されない(ことばにされない)ことがらはいくつもある。ことばにしてしまうのは、それがどこかに「必然」を含んでいる。その「必然」は、

喫茶店の一隅にひっそり身をおいて
途方が ゆっくり首をもたげている

 と、「さてと」を削除してしまうと明確になる。「偶然」ではなくなる。「喫茶店」と書いたときから「途方」が動き始めている。そういう「必然」をわざと隠している。隠すことで「必然」を「偶然」のように装っている。
 川上においては「偶然の出合い」は「技巧」のことなのだ。
 私はまた、「目を許しては」という「翻訳のしそこない」のような「古くさい」ことばづかいも嫌いだ。「古さ」とは言い換えると「古典」ということであり、そういうことばをつかうのは、「手術台の上のミシンとこうもり傘の出合い」という「無関係なものの偶然の出合い」といっても、ほんとうは「必然」(古典を踏まえた展開)であると主張するためなのだ。

何がしかの こころの瀬せらぎと
風の音いろ
ゆるい彼方の すこしばかりの景色
を 上品にくれて
ほら 草ぼうぼうの 夢のそしりが
きょう あなたの紙魚
水を染めては 流れてゆくのです

 そして、このとき「古典」とは「感性(あるいは情緒)」のことである。「感性的必然/情緒的必然」。主観にとっての「必然」。開き直りといえば開き直りだなあ、とも私は思う。
 詩は主観的なものだから、主観であるという主張に対して、私はどう言えばいいのかわからない。「嫌い」としか言えない。

それから
朝のさっきは どちらへ行ったのか
から ゆるやかに はぐれて
たまに 眺めるだけの いまも が
見る に入っていった

 なんだか初期の荒川洋司の詩から「固有名詞」を消し去って、修辞の運動を引き継いだような文体である。「朝のさっきは どちらへ行ったのか」というのは、あ、美しいなあと思わず声を漏らしてしまうが、その後のだらだらしたリズム、思わせぶりのことばの動きが、私はやっぱり嫌いだ。





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(40)

2019-06-29 11:03:03 | 嵯峨信之/動詞
雑草詩篇 Ⅲ

* (小さな水溜りは)

風が吹くと
水溜りはおさない翼でいつしんに飛び立とうとする

 小さな波を翼に見立てている。
 「おさない」と「いつしん」の呼応が強い。さらにそれが「する」へと結びつく。「いつしんに」「する」。
 飛び立てるように、嵯峨は祈ってる。その祈りも「いつしん」だ。


*

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愛敬浩一『赤城のすそ野で、相沢忠洋はそれを発見する』

2019-06-29 10:22:45 | 詩集
愛敬浩一『赤城のすそ野で、相沢忠洋はそれを発見する』(詩的現代叢書36)(書肆山住、2019年07月08日発行)

 愛敬浩一『赤城のすそ野で、相沢忠洋はそれを発見する』は「書き下ろし詩集」。相沢忠洋について私は何も知らない。だから「それ」が何を指しているかも想像できない。「赤城山」は名前は聞いたことがあるが、どこにあるか正確には知らない。
 わからないまま、詩を読み始める。

相沢忠洋は凄い。
相沢忠洋は凄い。
相沢忠洋は凄い。
相沢忠洋は凄い。
相沢忠洋は凄い。

 と繰り返されても、実感できない。そのうち、この「凄い」が、

納豆のねばねば。
ねばねばの納豆。

 と相沢忠洋が「納豆(売り)」に変わっていく。「相沢忠洋は凄い。」ではなんのことかわからないというよりも、ひとつのことを同じ調子で言い続けるのはむずかしい。どうしても、そこに違うものが入ってくる。その最初に入ってきた「相沢忠洋」以外のものが「納豆」だ。
 そのうちに「納豆売り」は、こう変わる。

相沢忠洋は歩く、自転車を押して。
相沢忠洋は歩く、自転車を押して。
相沢忠洋は歩く、自転車を押して。
相沢忠洋は歩く、自転車を押して。
相沢忠洋は歩く、自転車を押して。

 自転車に乗って、納豆を売っていたらしい。金にならないよなあ、そんなことじゃ。さらに、

相沢忠洋は「戦後」を歩く。
相沢忠洋は「戦後」を歩く。
相沢忠洋は「戦後」を歩く。
相沢忠洋は「戦後」を歩く。

 一回書けばわかることなのだけれど、愛敬は、また繰り返している。
 で、この「凄い」「納豆(売り)」「自転車」「歩く」「戦後」の変化の間に、問題の「それ」が書かれている。「土器や石器」、つまり「岩宿(遺跡)」を発見したのだ。私は、「遺跡(土器、石器)」には関心がないので、そういうことを書かれても、ふーん、と思うだけなのだが、愛敬のことばの繰り返し、繰り返しているうちに、それが少しずつ変化していくリズムに引きつけられていく。
 一方で、こんなことも思う。詩の中に石毛拓郎が出てきたので石毛拓郎と比べてしまうのだが、愛敬は詩がへたくそだ。石毛なら愛敬が長々と書いた一篇(46ページもある)を百行(二百行かもしれないけれど)で濃密に、しかもことばひとつひとつをエッジを立てるように鮮烈に書き上げるだろう。愛敬は、こまごまと、だらだらと、見境なく書いている。だんだん変わっていくけれど、こまごま、だらだらが変わらないので、何が変わったのかぜんぜんわからない。ああ、へたくそだ。ああ、ばかだなあ。
 なのに。
 その「ばかだなあ」が「ばかだなあ」のまま、「あ、凄い」に変わるのだ。
 相沢忠洋というひとは、納豆を売りながら「岩宿」を歩き回り、あちこちの穴ぼこから土器や石器を見つけ出す。そしてそれが明治大学のなんとか先生を中心とした調査によって「岩宿遺跡(旧石器時代の遺跡)」発見になるのだが、その「発見」からは相沢忠洋の名前は消えている。無名の人のままなのだ。「納豆売り」のままなのだ。
 最終的(?)には評価されるし、愛敬もこうやって詩を書いて紹介しているのだが、どうも、この「生き方」は「へたくそ」としかいいようがない。しかし、「へたくそ」だけれど、その「へたくそ」のなかにある正直がいいなあ、と思う。あたたかい。生きている人間に直に触れた気持ちになる。
 で、ここからもう一度詩を読み直すと、こんな具合にも思うのだ。
 相沢忠洋は、自転車で納豆を売って歩きながら、その途中で、あちこちの穴ぼこから土器や石器を見つける。(以下は、私が勝手に捏造した詩行。)

穴ぼこから土器や石器を見つける。
穴ぼこから土器や石器を見つける。
穴ぼこから土器や石器を見つける。
穴ぼこから土器や石器を見つける。
穴ぼこから土器や石器を見つける。

 これが繰り返されると、

岩宿から土器や石器を見つける。
岩宿から土器や石器を見つける。
岩宿から土器や石器を見つける。
岩宿から土器や石器を見つける。
岩宿から土器や石器を見つける。

 になる。そして、それは

岩宿は旧石器時代の遺跡だ。
岩宿は旧石器時代の遺跡だ。
岩宿は旧石器時代の遺跡だ。
岩宿は旧石器時代の遺跡だ。
岩宿は旧石器時代の遺跡だ。

 こう、変わっていくのだ。
 こまごま、だらだらが広がって面になり、積み重なって時間になる。歴史の事実になる。
 そして、この「発見」を担い手は、「あそこに穴ぼこがある。土器や石器のかけらがある。あれはなんだろう」と「戦後」の苦しい時代にもかかわらず、奇妙なことを夢見た人間なのである。肩書は「納豆売り」だ。
 ここに愛敬は「自由」を見ている。
 あれこれ書くと「説明」になってしまうが、(すでに私の感想は説明になってしまっているが)、この「自由」がなんとも楽しい。
 私は突然、昔読んだ「思想の科学」を思い出してしまう。ふつうの市民の「作文」のような文章が載っている。つまり、はやりの「現代思想用語」とは無縁のことばで、日常のなかで気づいたことが書かれている。そこに書かれているのは、「気づき」というかたちの「正直」である。その「正直」こそが思想である。そして、その「正直」は「自由」であったのだ。何からの自由? 「現代思想用語」(体制)からの自由だ。自分の手と足、目をつかって、丁寧に根気よく生きていく。「へたくそ」に生きていく、自由だ。
 相沢忠洋が「発見」したのは、「遺跡」なんかではなく、そういう「生き方」(思想)だ。「岩宿遺跡」は「発見」したものではなく、むしろ相沢忠洋によって「発明」されたものだ。相沢忠洋が新しく作り出した文化だ。







*

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アルメ時代 20 トリュフォー追悼

2019-06-28 10:52:44 | アルメ時代
トリュフォー追悼



 「女は主観的であり男は客観的である。この定義はあやしい。むしろ女は客観的であり男は主観的である。女は感性で動き男は知性で動くからだ。知性、論理は、自己を他者に受け入れさせようと動く。そこには意思が働いている。意思とは主観の別称である。これに対し感性は意思の制御をはなれて動く。主観の入る時間的な余裕がない。つまり客観的にしか動けない。そして女は、他人が自分をどう思うかなど気にせず、最初に動くものにしたがって動く。」
 トリュフォーがそう言ったというのは嘘である。しかしほんとうかもしれない。トリュフォーの映画を見て私が考え出したことばだからだ。
 ほんとうはヒチコックを追悼し、トリュフォーは次のように言っている。
 「断片的なものは客観的である。持続的なものは主観的である。持続とは意思の作用である。何を選択し何を排除することで統一を持続するか。ストーリーの時間の流れをどのように持続させるか。その判断は激しく主観的である。したがってどこかに必ず歪みが出る。そこに人間の秘密がある。ヒチコックのスリラーはそう教えてくれる。私は彼の映画のエッセンスを恋愛に応用してみたにすぎない。」
 この引用も実は捏造である。しかしまったく真実が含まれていないとは言えない。トリュフォーがヒチコックを追悼するとき何と言っただろうかと考えたとき、私の頭に浮かんだことばだからである。
 たぶんヒチコックの次のことばが私の意識に作用したのだと思う。
 「嘘を信じさせたかったら一つだけ矛盾をしのばせておきなさい。そして誰かが指摘するのを待って、突っぱねなさい。『たしかに矛盾している。しかしほんとうなのだ。』現実は数式のように整然とはしていない。誰もが抱いているその感覚を利用することです。」
 彼の忠告をあてはめるなら、私のトリックは非常につたない。しかし私はヒチコックの論理を厳密に適用しようとは思わない。前に捏造した文を作り替えはしない。なぜならヒチコックのことばも、出典は私の脳の奥だからだ。
 ヒチコックが何と言ったか。あるいはトリュフォーがヒチコックから何を学んだか。私はまったく知らない。私の精神の未熟さが、トリュフォーを追悼するにあたって、捏造の橋渡しを必要としているにすぎない。何かほんとうのことを言うためには一度嘘をつかなければ語りはじめられないことがあるのだ。
 私の、トリュフォーとヒチコックをつなぐ捏造をささえるものは、トリュフォーが敬愛してやまなかったルノワールのことばにこそある。トリュフォーは天才監督をインタビューし、次のことばを引き出している。
 「女にかぎらず、人間はみんな私の思惑を裏切るように動く。だから好きだ。なぜかといって、彼等はそうすることで私のインスピレーションになるからだ。」
 このことばが、先の捏造とどうつながるのか、私は説明できない。ルノワールがインスピレーションと呼ぶしかなかったように、彼のひとまとまりのことばが、私にはインスピレーションとなったのだ。そこからどんな力がどんなふうに私に作用したか。それはわからないが、私のことばのすべてはそこから生まれてきたのである。
 とはいうものの、ルノワールがほんとうに私の引用どおりに語っているかというと、そうではない。私は告白しなければならない。私は私の論理のつごうのいいように、ルノワールのことばを削り、つけくわえ、ねじまげている。先に引用を装った三つの文と同様、私の捏造であると言った方が正しいだろう。いや、実は、完全な虚構の産物でしかないと訂正しなければならない。
 しかし私は感じているのである。少なくとも類似したことは述べているに違いない。ことばでなければ、たぶんすばやく意識の奥にもぐりこみ、やがて静かに精神を濾過する映像の力で。そして、その力が、いま、私のことばを引用しているのだ。
 引用しようとすると、逆に私が引用される。そして知る。私の精神や感性が作り出したものは、私の精神や感性をつくったものへと還っていこうとしている、と。だから言うしかない。トリュフォーはこう言った。ヒチコックやルノワールはこう言った。というのは嘘である。しかしほんとうだ。



(アルメ241 、1986年05月10日)
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(39)

2019-06-28 08:49:43 | 嵯峨信之/動詞
* (時と空気と)

時と空気とがずれると
息がとまる

 時間と空間ではなく「時と空気」。
 こう書くとき、嵯峨は「時」をどんなふうにとらえていたのだろうか。
 「時」の実感はなく、「空気」の密度(濃度)のようなものだけが、息苦しいまでに実感されている。空気だけが「時」を置き去りにして希薄になったのか、空気が「時」に押し寄せて濃密になったのか。どちらの場合も瞬間的に息ができないと感じるだろう。
 後半を読むと、嵯峨がどちらを感じていたかわかるのだが、そのことについては書かない。「意味」になりすぎるから。
 私は後半の「意味」よりも、一行目の「ずれる」がおもしろいと思った。
 「時」と「空気」は一体のものかもしれないが、別々の名前で呼ばれ、別々であると意識したときから「ずれ」が始まる。
 「ずれ」が他のものに影響していく。それが引用しなかった後半の「意味」である。










*

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谷川俊太郎『私の胸は小さすぎる』

2019-06-27 19:51:33 | 詩集
私の胸は小さすぎる 恋愛詩ベスト96 (集英社文庫)
谷川 俊太郎
集英社


 谷川俊太郎『私の胸は小さすぎる』は恋愛詩アンソロジー。過去の九十五篇に新作が一篇。新作詩は「あなたの私」。

あなたが傍にいるとき
暖かい指に目隠しされて
私にはあなたが見えなかった
あなたの息を耳たぶに感じるだけで

あなたが体を離したとき
かすかな風がふたりを隔てて
私からコトバが生まれた
生まれたての生きもののような

あなたが出て行ったあと
どこにいるの何をしているの
私はもう問いかけずにいられない
あなたの幻に向かって

あなたの裸を想うとき
歓びに飢え 幸せに渇き
恋にひそむ愛に怯え
あなたの私を私は抱きしめる

 時間の変化が距離の変化として書かれている。
 一連目は「あなた」と出会ったとき。「傍ら」は「指に目隠しされて」と言いなおされている。肉体が接触している。「あなたが見えなかった」けれど「感じる」ことができた。あなたは「指」であると同時に「息」である。この息には形容詞はついていないが「暖かい」が隠されている。
 二連目で肉体が離れる。「あなたが体を離したとき」、私は肉体が接触していたことを思い出す。肉体ではないものが動く。「風」は、そうした動きの比喩であり、「コトバ」と言いなおされる。
 三連目では、距離はいっそう拡大する。もう肉体は接触しない。「傍」よりもはるか遠くに行ってしまった。「感じる」ことができない。そのとき「コトバ」は「問い」になる。「問い」は「幻に向かって」動く。
 四連目。「コトバ」はもう問わない。ことばをつかわずに、ただ「想う」。離れてしまった距離ではなく、「過去」の時間を想う。そのとき「距離」は消える。消えるけれど、あなたの「肉体」に触れることはできない。だから「飢え」、「渇き」、「怯える」。あなたが私を抱きしめたとき、その「とき」を想いながら私は私を抱く。それは「とき」そのものを抱きしめるということか。

 ということを、私は読みながら感じたが、感じたことが「正しい」か「間違っている」かは、どうでもいいことのように思える。「感じる」こと、が大切なのだろう。
 感じたことは、ことばになるものもあれば、ことばにならないこともある。感じたことを書いたつもりなのに、だんだん感じたこととは違うことを書いてしまったと後悔したりする。
 ことばはわがままな生き物で、感じたことをことばに託そうとしても言うことを聞いてくれない。私のことばであるはずなのに、私のことばではない。

 ということも、たぶん、どうでもいい。
 何かまとまったこと(結論?)を言おうとしても、それはあまり意味があることではない。むしろ、ここに書かれていることばから「結論」を引き出してはいけないのだろう。私はここが好き、ここはよくわからない。けれど気になる。あとでわかるときが来るかもしれない。あとで思い出すことがあるかもしれない、とぼんやりと谷川のことばといっしょにいるだけでいいのだろう。
 恋愛は、しているときは、夢中で何が起きているかわからない。あとで、あれはこういうことだったんだなあ、と想う。自分のことも、相手のことも。そんなふうに、谷川のことばを通して、ある瞬間を思い出し、そのことばといっしょに生きることができれば、それでいい。
 谷川は谷川の恋愛を書いているのだろうけれど、それが自分の恋愛として思い出してしまう。

 で。
 思い切って、こんなことを書いておく。
 私は二連目が好きだ。特に「私からコトバが生まれた/生まれたての生きもののような」という二行が好きだ。「生まれたての生きもの」という比喩が生々しい。まだ「かたち」がない、というと変かもしれないが、「かたち」よりも「生まれたて」のあたたかさそのものを感じる。
 そして、その感じは奇妙なことに「体を離した」「ふたりを隔て」たということとは何か相いれないものを持っている。「体を離した」「ふたりを隔て」たというのは、ある意味では恋愛のピークを過ぎて、別れのはじまりを予感させるが、そういうときにも新しい「いのち」が生まれてくる。生まれてきてしまうという生々しい「事実」の瞬間を感じる。
 こういうことは、恋愛の最中は、予感として感じてもことばにはしないだろうなあ。
 でも、恋愛が終わったら、きっと書かずにはいられないことなのだ。
 そしてそれは、谷川が書きたいことなのか、私が書きたいことなのか(谷川が書いたことなのだけれど)、あるいはことば自身が書きたいことなのか、とか。
 私はいろいろい思うのである。

 「評価」でも、「意味」でもなく、むしろそういうものにならないものを、私はただ書き留めておきたいと思う。詩の感想として。








*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(38)

2019-06-27 09:07:57 | 嵯峨信之/動詞
* (ある者は)

地球のどこかに
何処へも歩きつけない一すじの道がある

 「歩きつけない」。どこへもつかないとしたら、その道を歩いている人はどうなるのだろうか。
 道に「なる」。
 嵯峨は、道が「ある」と書いているが、その「ある」は歩いている人にはわからない。道に「なる」の「なる」も歩いている人にはわからない。
 それが何かわからないけれど、「なる」ということが「ある」のが詩だ。
 私は、嵯峨のことばを、こう書き換えて読む。

地球のどこかに
何処へもたどりつけない一篇の詩がある










*

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小田雅彦『刻をあゆむ』

2019-06-26 11:09:20 | 詩集
遺稿詩集&アンソロジー 刻をあゆむ
小田 雅彦
宮帯出版社
小田雅彦『刻をあゆむ』(MPミヤオビパブリッシング、2019年05月15日発行)

 小田雅彦『刻をあゆむ』は「遺構詩集&アンソロジー」。
 詩だけではなく絵にも関心があったのだろう。画家と共同で詩画集も出している。『鎖のすべて』は平野亮の素描と小田の詩の組み合わせ。どの作品にもタイトルはついていない。そのなかの一篇。(平野の絵は抽象的だが、「ドン・キホーテ」がロシナンテに乗っている姿にも、風車の巨人に挑んでいる姿にも見える。詩は、横書き。)

思いが現われようと
空間をまさぐる
その爪先は
かたちを求めてまよう
誰もさえぎるな
待てば明るくなる
しだいに
線のなかのものを抱きこむ
けれども 破たんは
意味を持つところから
起きる

 「意味」ということばがつかわれ、それこそ最後は「意味」で終わるのだが、詩の「意味」自体は「意味」を否定している。
 詩は矛盾したものである。人生も矛盾といえるかもしれない。だから、これはこれでいいのだと思う。
 線の運動には二種類ある。直線と曲線。曲線は必然的に何かを「抱きこむ」。そこから衝突が始まる。しかし、その衝突は線と線との衝突ではなく、異質なものの衝突であり、衝突とは呼んではいけないものかもしれない。私たちは、その衝突(出合い)をそのままにしておくことができない。出合いは変化を生み出す。それがどんなふうに生長しようが、その内部にはかならず「否定」がある。「否定」を小田は「破たん」と呼んでいるが、これは「弁証法」で言いなおせば「止揚」になるだろう。「意味(結果)」を求めるから、その過程には「否定されるべきもの」を含んでしまうのだ。
 小田は、そういうことをただ「起きる」という動詞に語らせている。

 第一詩集『昔の絵』(1943年)の「昔の絵」。(「絵」はどちらも正字だが、流通している字で代用)

僕は貝殻を忘れ
歩くのも悲しく
けむった街角に立ちどまった

丘の松までも
こちらを向き
くもった眼にささやいた

僕は黒い帽子の少年を
曲がった路の上に
置いてみつめた

遠い貝殻に
灯がともり
団欒がしずかによみがえった

この昔の絵は
冷たい絹を巻きながら
美しい澱みに降りて行った

街の襞から
もれる気泡は
僕を透き通って消えた

 最終連が印象的だが、二連目が私は好きだ。「丘の松までも/こちらを向き」の「こちらを向く」という動詞が強い。
 で。
 この「丘の松」というのは、現実の松だろうか、それとも「絵」のなかの松だろうか。三連目の描写は、現実を舞台にしての空想だろうか、絵を舞台にした空想だろうか。そもそも、その絵は誰が描いたものなのか。他人ではなく、小田が描いたものではないだろうか。
 三連目は、その絵の中にすでに「帽子の少年」がいるのか。あるいは存在しない少年を、いま思い描いているの。そのとき、その少年は過去の「僕」なのか。
 どのようにも思いを重ね合わせることができるのは、絵も記憶も「透明」なのものを含んでいるからだろう。青春を含んでいるからだろう。
 これが最終連の「僕を透き通って消えた」に変わる。ことばが書いている運動とは別に、私は「僕」が「透き通る」、そして「僕」が「消える」と読んでしまう。もちろん、このときの「僕」というのは現実の僕であると同時に「記憶の僕(黒い帽子の少年)」でもある。
 絵(視覚)の動き、視覚のなかの動きを、小田はことばにする詩人なのだろう。絵を形にとどめず、運動に変える詩人だ。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(37)

2019-06-26 09:04:13 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくはよろめいた)

ぼくはよろめいた
地球の大きな影につかまりそうになつた

 なぜ「よろめいた」のか書いていない。
 二行目は一行目の結果かもしれないが、私は逆に読んでみる。二行目が「原因」であると。
 地球の影につかまりそうになる、というのは「気づき」である。自分やまわりにあるものの影ではなく、地球そのものにかげがあると気づいた。気づきの衝撃が嵯峨をつかまえてしまう。それからのがれようとして「よろめく」。
 「よろめく」には自分の力を超える何か、自分ではどうすることもできない何かを感じさせるものがある。








*

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川上亜紀『チャイナ・カシミア』

2019-06-25 11:08:57 | 詩集
川上亜紀『チャイナ・カシミア』(七月堂、2019年01月23日発行)

 川上亜紀『チャイナ・カシミア』は短編集。その表題作の書き出し。

 雪は空から地に向かって降っているのに、見上げていると体が浮き上がっていきそうだ。ベランダの窓を閉めていると、部屋の隅で灰色の獣が黄色い眼を開ける気配がしてきて、私は振りかえった。すると部屋のもう一つの隅で光っていたテレビから「氷点下」という音と白い文字が流れ出した。

 とても奇妙な文体である。特に「ベランダの……」の一文に私はつまずいてしまう。「気配がしてきて」の「きて」とは、どういうことだろうか。「気配がして」ではなく「気配がしてきて」と書いたのはなぜなのか。たぶん一行目の「体が浮き上がっていきそうだ」の「いく」という動詞の影響で「くる」という動詞が動いているのだと思うが、こういう微妙なことばの呼応を読み続けるのはつらい。目の悪い私は、どうしても敬遠してしまう。
 だが、読み進んでいくと、「いく」「くる」のような動詞の呼応を中心にことばは動いているわけではない。むしろ「猫」をわざわざ「灰色の獣」と言い換えたような、「比喩」になりきれない言い換えを中心にことばが動いていく。
 雪から寒さ、寒さからセーター、セーターからカシミア、カシミアから山羊へと少しずつ「ずれ」てゆく。つかず離れずの「距離」が、ことばを動かす力になっている。
 そして、この「距離」から見つめなおすと、「気配がしてきて」の「くる」がよくわかる。「くる」のは「私」と「猫」との「距離」を動いて「くる」のである。「気配」が部屋の隅に「ある」のではなく、部屋の隅の、猫の目という一点から動いて「くる」。そのときの「距離」を「私」は感じている。
 このあるような、ないような、つまり「距離がある」と言わないかぎり「距離」として存在し得ないものが、たとえば雪から寒さ、寒さからセーター、セーターからカシミア、カシミアから山羊の間にある。
 奇妙なのは。
 それが川上の特徴なのかもしれないが、どの「距離」も一定であるということだ。こっちの「距離」の方が遠い、あるいは近いと感じさせることがない。「距離」を空間と言いなおし、空気と言いなおし、その密度ととらえ直しても同じだ。こっちの密度が濃い、こっちは薄いという感じがしない。同じ濃度だ。
 それは、どの部分(ことば)についても言える。たとえば、

カシミアの原毛は世界で一万トンしか採れないこと、中国のカシミアのほぼ四割はモンゴルで生産していること、厳冬のモンゴルでは七七万頭の山羊が凍死したこと、などを教えてくれたときはとても熱心に私は聞いていたのだが。

 この文章の中の「一万トン」「四割」「七七万頭」という数字。実感がない。実感のないことがらとして書かれた部分なのだから実感がなくていいのだが、その実感のないものの具体性に通じる。抽象であることが、抽象のまま、具体としてそこにある。

 灰色猫はかりかりと猫用食器のなかのドライフードを食べ続けた。テレビ画面をリモコンでOFFにする。冷蔵庫のモーター音、水道管の鳴る音、壁のきしむ音がかすかに聞こえて、静けさは音によってますます強烈になった。

 書き出しにあった「きて」を補って、

冷蔵庫のモーター音、水道管の鳴る音、壁のきしむ音がかすかに聞こえて「きて」、静けさは音によってますます強烈になった。

 と読みたくなる。
 たぶん、そう読むべきなのだと思う。「くる」といっしょにある「距離」は川上にとっては「肉体にしみついたキーワード」である。だから省略してしまうのだ。
 この短篇のハイライト(?)というか、中心的なテーマは「私」が山羊になり、「父」が山羊になり、声に「エヘンエヘン」という山羊の声がまじる部分にあるのだが、この山羊になるということも、山羊になって「くる」という「距離のある変化」として読むと川上の「肉体」が見えてくる感じがする。
 どういうことも「変化」というのは「瞬間(突然)」であるが、その「瞬間」を微分して、「距離」に返還してしまうことばの運動が川上ということになるのだろう。





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(36)

2019-06-25 09:49:33 | 嵯峨信之/動詞
* (水に溺れながら)

水に溺れながらきいた鐘の音は
死体になると
どちらの耳から空へ帰るのだろう

 「死体になる」は「死ぬ」。しかし、嵯峨は「死体になる」と書く。その「死体」があるから、次の行の「耳」がリアルになる。「死ぬ」という動詞では「耳」が唐突に感じられるだろう。つまり「耳」に特化するための「物語」が必要になる。
 「耳」がリアルだからこそ「どちら」もリアルになる。
 そして「空へ帰る」という動きを印象の強いものに変える。「空想」ではなく「事実」に帰る。「空想」が「事実」になる。









*

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岡島弘子「水平線」、村野美優「伐られてしまった木の上に」

2019-06-24 22:58:28 | 詩(雑誌・同人誌)
岡島弘子「水平線」、村野美優「伐られてしまった木の上に」(「ひょうたん」67、2019年02月28日発行)

 岡島弘子「水平線」。

かきまわされ さかさまにされ
ぶちまけられても
ながれながれて どこかで仲間を呼び合い
水たまりになり
おだやかな水平線をつくる 水

 一行目の音の響きが刺戟的だ。岡島には書かなければならないことがあるのだ、ということがわかる。二行目は強引だ。乱暴だ。しかし、「れ」の音が一行目と響きあい、三行目へと動いていく。「れ」を繰り返したあと「どこかで仲間を呼び合い」と「意味」が現われる。「水平線」ということばへ向かって動き始める。
 ちょっと、いやだなあ、と思うのだが、一行目、二行目の印象が残っているので、二連目を読む。

裏切られ ののしりあって 別れても
感情の嵐の山坂を いつか
真っ平らにしてしまう 水

 ここでの「意味」は「感情の嵐の山坂」という比喩と「水」という事実が交錯して、「水」が「比喩」にもどるところを「見せどころ」としている。
 このあと三連目があるのだが、それは「念押し」である。
 私は、こういう「完結」が好きになれない。
 一連目の書き出しが好きである。ことばが動いていこうとしている。それを感じさせるからだ。
 「結論」が好きになれないのは、「結論」によって最初の動きが死んでしまっている(殺されている)と感じるからだ。

 村野美優「伐られてしまった木の上に」にも同じことを感じた。

あの場所に
草ぼうぼうの空き地があった

柵の外から手を入れ
ペパーミントの葉を摘み
煎じて飲んだ夏があった

遠くから見ていただけの
名前も知らない木があった

 二連目が楽しい。「柵の外から」が言い得て妙。リアリティがある。頭で書くと柵の「間」からになると思うが、あ、「外」か、うなってしまう。「外」は必然的に「内」を呼び覚ますのだが、まだそれは書かない。
 「ペパーミントの葉を摘み/煎じて飲んだ夏があった」という二行の、「時間」というか、「事実」の変化が強い。「事実」が詩という「真実」にかわるのは、こういう瞬間だ。

ある日
空き地の前を通りかかると
木の上に
隕石が落ちてきたみたいに
大きな家が建っていた

 「ある日」は、一連目の「あの場所」と呼び合う。「ある」「あの」の呼応。そして、ここからストーリー(意味)が始まるのだが、あまり楽しくない。「隕石」という比喩が「意味」になりすぎている。
 ペパーミントには「摘む」「煎じる」「飲む」という肉体の動きを反復する動詞があって、その動詞によって時間(ストーリー/意味)が「事実」にかわっていくというつよさがあるのに対し、「隕石が落ちてきた」では肉体が動かない。目が動いていると村野は言うかもしれないが、その目は空想を見る目である。つまり「肉眼」ではない。
 好意的に読めば、その「肉眼ではない(空想の目)」は、そのあとの連から始まる意味の中心「知らない」ということば(認識)へとつながっているのだが、(そしてこれは三連目で「伏線」としてすでに準備されていることからわかるように、周到に制御されたことばの運動なのだが)、私が詩のことばから読みたいのは「認識」ではない。知的操作ではない。
 
 こういうことは書いてもしようがないのかもしれないが、好きになりかけて、好きにならずによかったと思う瞬間に似ている。
 もう一度、好きになる(なれる)瞬間を待てばいいのかもしれないけれど、歳をとってくると、そういうことは面倒だなあと感じてしまうのだった。






*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(35)

2019-06-24 00:00:00 | 嵯峨信之/動詞
* (円の中は)

円の中は
隅々まで明るい

 円はどれくらいの大きさだろうか。円を見つめるとき、嵯峨はどこにいるのだろうか。円の外側か、円の内側か。
 円の大きさは自在に変化する。
 明るいと感じたところまでが円なのだろう。円い明かりが円の中に降り注いでいる。「明るい」は形容詞だが、「明るくする、明るくなる」という動詞として感じられる。

 この詩には、あと一行あるのだが、それを省略して、私は「誤読」する。







*

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