詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

天皇の生前退位について民進党はなぜ発言しないのか

2016-11-30 21:49:09 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇の生前退位について民進党はなぜ発言しないのか
               自民党憲法改正草案を読む/番外43(情報の読み方)

 11月30日は秋篠宮の51歳の誕生日。読売新聞(西部版・14版)は一面に「退位意向示唆/「最大限に伝えられた」/秋篠宮さま 天皇陛下「お言葉」で」という見出しをつけている。会見の要旨は13面に掲載されている。「要旨」を読むと、

即位されてから、陛下は象徴というのはどのようにあるべきかということをずっと考えてこられたわけです。

 と「生前退位」と「象徴」の関連づけが一番大切だと秋篠宮がとらえていることがわかるが、一面にはその関係のことは書かれていない。「最大限」が何のことか、わからない。
 この秋篠宮の発言を受けての質問なのか、最初から予定されていた質問なのかわからないが、「質問」のなかに、ひとつ、興味深いものがあった。

 天皇陛下の「お言葉」ですが、象徴天皇制というのは国民のために活動を続ける、それこそが象徴のお姿であると、そのように受け止めております。一方で、それは本来の姿ではない、天皇は存在するだけでいいという意見もあります。これに関してのお考えはいかがですか。

 「国民とふれあうのは本来の姿ではない、天皇は存在するだけでいい」というのは「生前退位をめぐる有識者会議」での平川祐介や渡部昇一、桜井よしこの発言を連想させる。これは何か発言を答えをリードしようとする質問ではないだろうか。
 私は有識者会議の「専門家」の発言をすべて読んだわけではないが、そのなかには「国民とふれあう天皇の姿は象徴として理想的である」とか「国民とふれあう姿に多くの国民は励まされてきた」というような肯定的な意見はなかったのだろうか。
 天皇批判をしなかったひとは、単に批判をしなかったのか。あるいは天皇のことばを肯定しているので、わざわざ「肯定している」と言う必要がないと思って言わなかったのか。
 その「判断」が、質問からはわからない。
 どうも「国民とふれあうのは本来の姿ではない、天皇は存在するだけでいい」という声を強調して秋篠宮に伝えようとしている「作為」のようなものを感じる。
 秋篠宮は、こう答えている。

先ほどお話ししましたように、象徴というのはどういうふうにあるべきかということをずっと模索し、考えてこられたその結果であるだろうと考えています。

 天皇は秋篠宮にとって父親であるというだけではなく、「身分」が違う。「上位」に位置する。だから、その「考え」を「肯定する」というような言い方はしない。「肯定する」と言ってしまうと、たぶん、天皇-秋篠宮という関係が微妙になる。「肯定する」は「評価する」につながるからである。
 こういう意識は、たぶん、「専門家」の多くにもあると思う。国民の多くにもあると思う。「天皇を肯定する」というのは「おそれおおい」。
 私は天皇に気をつかわなければならないことなど何もないので、「全国を回ったときのことを語った部分は感動的だった」と書くだけである。これは、言い換えると「天皇の象徴をめぐる発言を支持する」ということ。
 「天皇を支持する」という意見は「ことば」としてはなかなか表現しにくい。それに対して「批判する」というのは、ことばになりやすい。特に「意見」を求められている場では何を言ってもいいわけだから、特ににことばとしてわかりやすい。
 で、こういうときに。
 「肯定する」という「声」が明確な形で表現されていないから、そういう意見はないととらえるのは危険だ。「天皇の気持ちはわかりますが、一方で批判する声があります」という形で「答え」を求めることは「誘導尋問」のようなものだと私は感じる。「天皇の考えを積極的に支持する意見があります。その一方で批判する意見があります」と「両論」を伝えた上での質問になっていないことに疑問を感じる。秋篠宮の動きを「牽制」している。
 秋篠宮は、これに対して、先に引用したように、非常に「慎重に」ことばを選んでいる。

 読売新聞夕刊(西部版・4版)は一面で、「有識者会議」の16人のヒアリングが終了したと伝えている。「天皇退位容認9人」、そのうち5人は「特例法で」認めるという考えだと伝えている。
 その記事のなかの次の部分に私は注目した。

 専門家16人のうち一代限りの特例法容認の考えを示したのは5人にとどまったが、政府は特例法を軸に検討を進める姿勢は崩していない。会合後に記者会見した御厨貴・座長代理は「意見は相当拡散しているが、論点をうまく出していけば、議論を寄せていくことは可能ではないか」と述べた。

 「論点をうまく出していけば、議論を寄せていくことは可能ではないか」とは「論点の整理次第では、結論を政府方針の「一代限りの特例法」で容認するという方向にもっていける」ということか。あるいは「一代限りの特例法」を踏まえ、よりいっそう政府の都合のいい「結論」を導き出そうというのか。後者の動きをカムフラージュするための「有識者会議」ではないか、と私は想像している。
 「生前退位に反対・慎重」が7人いる。「容認派」は「特例法(4人)」と「皇室典範改正(4人)」のふたつに分けているのに、「反対・慎重」は分けずに7人とまとめているところが、「分類」として非常にこざかしい。
 7人の「意見」を「一代限りの特例法」(恒久的ではない)に組み入れるために、「特例法の内容」をどうするか、という方向に動いていくのではないのか。そのとき、「摂政」がキーワードとして浮かび上がってくると思う。これは何度も書いたので、今回は省略。



 それにしても、と思う。(ほんとうに書きたいことは、これから書くこと。)
 なぜ、野党、特に野党第一党の民進党は「生前退位」についてどう思うか。どうするべきだと考えているか、語らないのだろうか。(語っているのかも知れないが、「有識者会議」の報道のように新聞には掲載されない。)
 どんなひとも、他人の意見に触れると考え方がかわる。反対に変わることもあるし、より強固になるという具合にかわることもある。有識者会議のメンバーも(ヒアリングで意見を述べたひとも)、民進党の意見をどこかで読めば、それについて考えるだろう。批判するにしろ、批判のためのことばを鍛えるだろう。どうして、そういう「議論」を促す発言をしないのだろう。
 不思議でしようがない。
 民進党も政府と同じように「有識者会議」を開き、専門家を呼んで意見を聞けばいいのに。そこでの「議論」を国民に向けて発表すればいいのに。そうすれば、国民の多くがこの問題について考えることができる。政府の方針に沿った「有識者会議」とは別の考え方に触れる機会ができる。
 「天皇」は憲法にかかわる問題である。しかも、今回の問題は「天皇」自身からの「提起」でもある。安倍が「結論」を出す前に、民進党が「結論」を出して、それを国民に問いかけたらいいのに。安倍がそれを「追認」するのか、あるいは「対案」を出すという形になるのか。
 いまこそ、世論をリードするチャンスなのに、安倍が「結論」を出すのを待っているのは、どういうわけだろう。野党のふりをして、安倍を支えることこそ民進党の進む道ということなのかな?








*

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渡辺玄英『渡辺玄英詩集』(2)

2016-11-30 13:17:24 | 詩集
渡辺玄英『渡辺玄英詩集』(2)(現代詩文庫232 、2016年10月30日発行)

 『海の上のコンビニ』や『火曜日になったら戦争に行く』は多くのひとが触れるだろうし、また触れているので、「未刊詩篇」の作品から。「ひかりの分布図」。

いまは風景の破片になろうとして
このようにおびただしくわたくしはくるくると
方位を変えながら流れていく
(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?

 渡辺の作品を特徴づける括弧が開かれたままの行が出てくる。ふつう括弧は先に書かれたことばを補足するためにつかわれる。補足は括弧内にとざされている。渡辺はこれを解放している。補足を補足として特定しない。補足は「こと(ば)」を解放する働きをする。起きている「こと」、起きている「ば」。「解放する」は固定しないこと。
 ふつうの括弧内の補足は、補足に見えて実は先行することばを逆に閉じ込める。渡辺の場合、括弧内のことばが括弧の外にあることばを括弧内に引き込み限定するのではなく、括弧内のことばによって「開く」。別な方向へ開いて行く。。
 「意味」を限定しない。「意味」を解放する。これが渡辺のことばの基本的な運動の形だ。
 で、このときの括弧内のことばなのだが……。これは何だろう。さまざまなつかい方があるだろうから、この部分だけに限定して見てみる。
 「わたくし」は「流れていく」。「流れる」に「水平線」「河口」ということばが接続すれば、「流れ」とは「河」である。「河」が流れるのなら、流れる先に「河口」はあり、延長線上に「水平線」がある。「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」と問うことは「論理」の上では意味がない。「流れていく先」という答えがすでに含まれている。
 それなのに、問う。なぜか。問うときに、何が起きているのか。
 「論理」の否定、「論理」の破壊である。この作品の、ここに書かれていることに則していえば「流れる」という運動に対する否定。抵抗。
 「流れる」に拮抗、対峙する運動とは何か。「くるくる」ということばが、「流れる」の前に出てくる。「くるくる」は「まわる」。書かれていないが「まわる」という動詞が隠れている。動いている。「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」という特定を避けたことばとなって「くるくる」が動く。「まわる」ということばをつかわずに、動く。そのあとで、「まわる」ということばを「生み出す」。
 「まわる」は「くるくる」のなかに存在している。それが「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」という「産婆術」によって、生み出される。
 詩は、こうつづく。

流れていくくるくる(いいだろう、こんなに回って

 この行の登場で、この詩のテーマが「流れる」を切断する「まわる/回る」という動詞であることがわかる。

はためく風景のはためき(笑えよ、風景のように
未来のわたくしは将来これを見る
ことになる(なるに違いなく(なるかもしれず(なるだろう
鳴るのは何?
鐘の音?(ちがうよ、遠く
遠くで空が割れるの音
未来はくるくるまわりながら

 「まわる」は「はためく/はためき」「風景/風景のように」「未来/将来」に類似のことばを引き寄せる。「類似」の確認によって「まわる」は成立する。同じものが出てこないと「まわる/もとにもどる」ということが成り立たない。
 「まわる/もとにもどる」は「もと」を「くりかえす」でもある。「(なるに違いなく(なるかもしれず(なるだろう」ということばの動きは、「くりかえし」にあたる。「なる」を補足する「動詞(述語)」は変化するが、「語幹(?)」の「なる」はそのままである。「もと」のまま。だから、「まわる/回転している」。
 この「なる」を「鳴る」と言いなおす。「音」はくりかえされる(もとのまま)だが、「意味」がずらされる。「流れる」を切断するものに「まわる」だけではなく「ずらす」(それる)という動きが加わり、「動詞」の内部が豊かになる。「隠されていた動詞」が動き出す。生み出される。それは当然、「動詞」だけではなく「名詞(存在)」をも生み出す。
 「ちがう」という「否定」を起点にして、「遠く」が引き出される。「まわる」は「わたくし」が起点。あるいは「主語」。それから離れる。これは「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」という「どちら」に含まれていた「遠心力」のようなものの繰り返しでもある。(「まわる」という動きには、求心力と遠心力の均衡がある。)
 こういう「動詞」の一貫性(肉体/思想)が、では、どういう「名詞(存在)」を、その瞬間に生み出すか。「動詞の産婆術」は、渡辺の場合、「名詞」として何をを生み出すか。

遠くで空が割れるの音

 うーん、宮沢賢治か。あるいは天沢退二郎か。「印象」なので、何とでもいえるが、宮沢賢治、天沢退二郎を別なことばで言いなおせば確立された詩ということになる。
 しかし、これは渡辺のことばの運動を批判するために、そういうのではない。ことば、あるいは詩とは、そういうものだと思う。すでに存在するものを、新しく思い出させるもの。「肉体」のなかに存在しているが、思い出すことのなかったものをもういちど思い出すこと、そういう繰り返しのなかに詩がある。自分の「肉体」の内部を耕し、解放する。内部にあった「いのち」に形を与える。生み出す。
 これは、渡辺の場合にもあてはまる。
 「遠くで空が割れるの音」は、このあと、こう言いなおされる。

あのとき、空が割れる音がして
それから青い蝶が分布して各地で観測された

 「青い蝶」。きれいなことば。きれいなイメージ。だれもが知っていることば。それが新しく生まれてきている。生み出されている。
 「火曜日になったら戦争に行く」の書き出し。

火曜日になったら
戦争に行く
野ウサギがはねる荒れ野の中を
画面の野ウサギにカーソルをあわせたら
引き金を、ひいてくらさい

 「野ウサギ」「荒れ野」という「童話/なじみのあるイメージ」は「青い蝶」につながる。渡辺を語るとき「浮遊感」ということばがキーワードになっているようだが、私はその「奥」に「感性の伝統/古典のイメージ」の蘇り(あらたな出産/産婆術)のようなものを感じる。




火曜日になったら戦争に行く
渡辺 玄英
思潮社
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渡辺玄英『渡辺玄英詩集』

2016-11-29 09:37:02 | 詩集
渡辺玄英『渡辺玄英詩集』(現代詩文庫232 、2016年10月30日発行)

 渡辺玄英を私が知ったのは『水道管のうえに犬は眠らない』。詩集のタイトルにもなっている「水道管のうえに犬は眠らない」がいまでも印象に残っている。渡辺は『海の上のコンビニ』『火曜日になったら戦争に行く』がよく話題になるが、最初に出会った渡辺の詩、第一印象について書いておきたい。

水道管が埋まっている
そのうえに
犬はけっして眠らない

 タイトルは「水道管のうえ」。それが静かに「水道管が埋まっている/そのうえに」と言いなおされている。水道管のうえに直接眠るのではなく、埋まっている水道管、見えない水道管のうえに、と言いなおされている。「距離」というか、「遠さ」が呼び込まれている。さらに「けっして」という強調も付け加えられている。「けっして」は「遠さ」をぐいと引きつける。「近い」ものにする。
 見えない(遠い)けれど、見える(近い)ものにする。ことばによって。ことばが世界を流動化する。
 この一連は、次のように言いなおされる。

眠っていると
耳から河が入ってきて
犬は川のうえを流されていく
はるか遠く
犬が犬である以前へと
それは夢さ と
ぼくはいえるか
その犬は ぼくでないと

 「見えない(水)」は、しかし「聞こえる(耳から入ってくる)」。河の流れる音になって。視覚と聴覚が融合する。
 「水道管のうえに眠らない」と一連目で書いているが、実は眠っている。水道管の埋まった上で、水道管のなかを流れる水の音を聞き、河の音を思い出す。そして、流されている。
 いや、そうではない。水道管の上で眠ると河を流されていく夢を見るので、水道管の上では眠らないようにしている。そう言いなおしている。
 どっちだろう。
 どっちでもない。つまり、どっちでもある。
 視覚と聴覚が交錯したように、意識(意味)も交錯する。それは一方を否定してしまうと他方も存在しなくなるような関係にある。からみあうことで、存在している。存在の強度を増す。
 この不思議な、「そうである(そのようにしてある)」という感覚の中で、「犬は犬である以前」という「遠い時間」へ帰っていく(流されていく)。この「帰っていく/流されていく」は「遠い時間」を「呼び出す」(いまに引きつける)ということでもある。
 この行に、私は犬塚堯を思い出す。犬塚は一時期福岡にいた。その縁で福岡の詩人との交流がある。渡辺も犬塚にあったことがあるのかもしれない。交流があったのかもしれない。
 すこし横道に逸れたが、遠く離れたものを引きつける、遠く離れているがゆえにそれを引きつけるという運動は、

それは夢さ と
ぼくはいえるか
その犬は ぼくでないと

 という三行で、「犬」と「ぼく」との交錯、融合になる。「ぼく」はあるときは「犬」になる。「犬」はあるときは「ぼく」になる。犬は犬のまま、ぼくはぼくのまま、とは断定できない。
 そのつど、ことばはいっしょに、「いま/ここ」にあらわれてくる。
 「ぼく」とは「なにもの」でもない。そして「なにもの」でもある。この「断定」の拒否、相対的関係の固定の拒否が、渡辺の「思想/肉体」であると、私は感じている。
 犬とぼくの交錯/融合は、さらに展開する。あたらしい世界をことばにもたらす。

ぼくが住んでいる公営アパートは
水道管がはりめぐらされ
水のなかを走るものがある
深夜 激しく旗を降る霊感がそれだ
そのころ公営アパートは夢を見ている
河を流れていく公営アパートの夢

 「犬」は「公営アパート」になる。「ぼく」は「公営アパート」になる。「犬」と「ぼく」の相対的固定化は、「アパート」によって否定される。破壊される、と言った方がいいかもしれない。途中に「激しさ」という、これもまた犬塚を思い起こさせることばが出てくるが、この相対化の固定を拒否する、すべてを流動的にとらえなおすという「思想/肉体」は、その後の渡辺のことばの運動につながっていると思う。
 アニメ、ゲーム、コンビニ、ケータイなどの現代的なものが詩に登場するので、「表層」とか「浮遊感」ということばで渡辺の詩は語られることが多いが、私は、もっと違うところに渡辺の「根」があると感じている。
 最終連。

翌朝には
知らない街にアパートは流されていて
ぼくらは耳から魚のしっぽをはやしたまま
もよりのバス停をさがしている
かたわらでは犬はまだ朝寝のさなか
ときおり前脚で風を切るしぐさをする

 「ぼく」は「ぼくら」になる。それは「複数」になるというよりも、「ぼく」を超えた「根源的な人間」になるということだろう。未生の「いのち」になる。「耳から魚のしっぽをはやした」という「人間以前」のいのちの痕跡。「ぼく」はまだ生まれてきていない。太古。遠い時代。そこでは「犬」は「狼」となって(狼にもどって)平原を駆けている。
 最後の一行がロマンチックなので、グロテスクないのちの根源のエネルギーは見えにくいが。
 「現在」の「相対的固定化」の否定は、未生の「時間」をめざしている。その「混沌/ヤクロテスク」から、瞬間瞬間に、新しい「ぼく」、新しい「犬」となって、誕生しなおしてくる。生まれ変わる。これは、新しい「ぼく」を生み出すということでもある。
 『海の上のコンビニ』以後の作品も、その思想を増殖/拡大/展開したものとして読むことができると思う。

渡辺玄英詩集 (現代詩文庫)
渡辺 玄英
思潮社
コメント (1)
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江里昭彦「「琉球新報」を講読することにした」ほか

2016-11-28 10:24:47 | 詩(雑誌・同人誌)
江里昭彦「「琉球新報」を講読することにした」ほか

 江里昭彦「「琉球新報」を講読することにした」(「左庭」、2016年11月10日発行)。江里は山口県に住んでいる。郵便で「琉球新報」を取り寄せて読んでいる。
 高江の住民と機動隊員との衝突が報道されている。

琉球新報は地元紙として、政府の強権姿勢が露骨にあらわれたこの問題を、逐一報道することを使命と心得ており、連日現地からレポートを発信している。記事は、その日の抗争の規模や深刻さに応じて、大きくなったり、小さく扱われたり、伸縮をくりかえす。

 江里の感想を読み、うなった。「大きくなったり、小さく扱われたり」を「伸縮をくりかえす」と言いなおしている。「大きくなったり、小さく扱われたりする」では言い足りない何かが江里の肉体の中で動いたのだ。
 「一歩進んで二歩下がる」「一歩下がって二歩進む」。「くりかえす」には「へこたれない力」がある。そこに共感している。いっしょに「生きている」感じがする。いっしょに生きようとする気持ちが琉球新報を講読するという形で動いているだが、それが「ことば」となって出てきている。
 「いっしょに生きる」と、自然にいろいろなものが見えてくる。高江の問題以外のものも見えてくる。「政治」以外のもの、くらしそのものが見えてくる。
 一面に「第6回世界ウチナーンチュ大会」の囲み記事がある。

気運を盛りあげるためか、上記の囲みは参加予定者の小さい顔写真を毎日載せる。ある日は、氏名と「県系4世、ペルー」の紹介のものに、眼鏡をかけた若い男性の笑顔。<県系>の語に、私の目は釘づけになる。

 私も「県系」ということばにびっくりした。「日系」という大雑把な言い方を沖縄の人はしないのだ。
 これについて、「日系人の中には自分の出身都道府県がどこか答えられない人が多い」という声を紹介した後、江里はこう書いている。

自分のルーツへの関心と情感を保ち続ける沖縄系移民と、移民とのつながりを強固にしようとする県の戦略に、私などは感嘆の念を禁じ得ない。うっかりしていた、侮れない、という思いととともに--。

 沖縄は「日本政府」にだけ目を向けているわけではない。まず自分が暮らしている「琉球」に目を向けている。「琉球」から「世界」を見ている、ということだろう。「世界」とは「ひとが生きている場」である。「政府」ではなく「ひと」とつながる。
 それは琉球新報が「中国時報(台湾)」の記事を紹介したり、東京新聞の記事を転載して、読者の視点を広げていることとつながる。自分の生きている「文化圏・生活圏」(台湾は東京よりも近い)に目を向け、同時に遠い東京での「ひと」の生き方にも目を向ける。山谷の無縁仏の墓や無料診療所を巡るツアーが紹介されている。
 大事なのは「ひと」と「ひと」のつながり。
 それは死亡広告にもあらわれている。

那覇市の八十七歳で没した男性の場合、「喪主妻」の下に氏名が記載されている。その次に、長男、長女、婿、二女、三女、婿と、親族上の呼称と氏名がつづく。(略)故人の子の世代が済むと、「孫」としてまた氏名が列挙される。(略)沖縄は長寿県だから、その後に「曾孫」がつづくことが多い。(略)義兄やら義姉やら義妹やらも参入して名を連ねるのが当地のしきたりらしい。なかには「在ハワイ」「在ブラジル」などの海外組もいる。

 ここでも「ひと」のつながりは「国境」を軽々と越える。「ひと」は政府が設けた「国境」など気にしない。
 これを江里は「しきたり」とつかみとっている。「しきたり」の定義はむずかしいが、「生き方」であり、「肉体」の動かし方だろう。「肉体」と「肉体」のぶつけ合い方だろう。抽象的な概念ではない。「膝をつきあわせる」という言い方があるが、このときの「膝のつきあわせ方」にはルールがある。圧迫になってはいけない。離れてもいけない。それは「肉体」で覚え込むものである。

 ここから、私は、高江の問題に引き返す。江里は書いていないのだが、私は勝手に考える。
 琉球の人たちは、琉球ルールで「膝のつきあわせ方」をしている。けれど政府によって派遣された機動隊員は「膝のつきあわせ方」を知らない。琉球の生き方を知らない。「ひとの生き方」を知らない。
 座り込んでいる人たちは、自分の隣にいる人がだれかを知っている。家族が何人かを知っている。誰が親類かも知っている。だから「信頼」して「肉体」を寄せ合い、互いの「肉体」を結びつけることで、互いを守ろる。
 機動隊員が断ち切ろうとしているのは、このひととひととのつながり、信頼、「肉体」を寄せ合って生きるという生き方(思想)なのである。
 「国防」(国を守る)ということは、そこに生きるひとを守ること。そこに生きているひとの「生き方」を守ることなのに、政府と機動隊員は、守ろうとはしていない。破壊しようとしている。この破壊活動は、沖縄を破壊した後は、日本全土に広がる。あらゆるひととひとのつながりは否定される。「国(国家)=自民党=大企業」の「利益」を生み出すために、個人個人(ひとりひとり)の生き方が破壊される。
 高江は、私たちの「生き方」の重要な防波堤なのだ。
 高江で起きている権力の暴力は、そのまま日本全体に広がる。ひととひととのつながりを大切にしようとする「生き方」すべてを破壊する方向に拡大するにちがいない。
 琉球の人は、そう私たちに「警告」している。高江の行動/記事でもそうだが、高江以外の行動/生き方を伝える記事をとおしても。



 鈴木崇「ライフログとしての日記文学」(「Tokyo Rose」4、2016年08月10日発行)は、永井荷風、岸田劉生、武田百合子の日記について書いたもの。

かつて彼らがそこにいたということがありありと感じられる--過去の一点がもつそんな「いま・ここ」性に触れてみるのも悪くない。

 鈴木が書いている「過去」を「沖縄・高江」に置き換え、「いま・ここ」の「ここ」を現実の奥底と読み変えると、江里の書いた文章になる。
 江里は高江の衝突にはあまり触れず、そこに参加している「ひと」そのものが高江以外の場でどんなふうにつながっているかを見えるようにしてくれた。そして、その江里が明るみに出したものこそ、高江の破壊から始まると教えてくれた。
 鈴木の書いている文章から、そういうもの紹介するなら、岸田の日記に触れた部分がわかりやすいかもしれない。岸田は相撲が大好きである。見るではなく、来客相手に相撲を取るのだ。

「夕方、山岸、小林を相手に角力とり、五人ぬきをやった(略)。たたみいわしを売るおやじが感心してみていた。」(大正11年8月19日)
 大真面目ゆえのユーモアが「劉生日記」の特徴でもあるのだが、頻出する相撲の記述もそのような可笑しみの一端を担っている。通りがかりの行商人でなくても、劉生の生活に感心して眺め入ってしまう。

 「生活」とは「生き方」である。相撲をとりながらひとの「肉体」の動き方園も木に触れる。「膝のつきあわせ方」と同じように、そこには「相撲のとり方」というものがある。何をしてもいいのではない。だから、そこに「思想」がある。「思想」には見えないかもしれないけれど、思想である。ひとは思想に感心する。思想を「人柄」と言い換えるとわかりやすい。たたみいわしを売るおやじは、劉生の強さに感心するというよりも、相撲を取って楽しんでいる人柄(思想)の方にみとれたのだろう。そこにはひとを傷つける「危険」はひとつもない。だからひとをうれしい気持ちにさせる。ひとに喜びを与える思想よりいい思想なんてない。
ロマンチック・ラブ・イデオロギー―江里昭彦句集
江里 昭彦
弘栄堂書店
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「通販生活」を買って応援

2016-11-27 19:26:04 | 自民党憲法改正草案を読む

「通販生活」を買って応援
               自民党憲法改正草案を読む/番外42(情報の読み方)

 「通販生活」(16年冬号)が前号の反響を掲載している。「自民党支持の読者のみなさん、今回ばかりは野党に一票、考えていただけませんか。」という特集に 172人の読者から、批判、質問があったという。
 「買い物雑誌は商品の情報だけで、政治的な主張は載せるべきではない」「買い物カタログに政治を持ち込むな」ということらしい。「政治的記事を載せるなら両論併記で載せるべきだ」とも。
 「通販生活」は「通販生活」で考え方を書いているが、私は私のことばで書いてみたい。「通販生活」の主張とは違う視点から書いてみたい。

 何も言わなかったとしたら「中立か」。
 私は夏の参院選の、籾井NHKの報道を思い出している。NHKは7月3日(だったかな?)の「週間予定」を伝える場面で、「10日が参院選である」と伝えなかった。「夏場所初日」と「世界遺産の審議始まる」(だったと思う)のふたつを10日の予定として上げていた。また9日のニュースでは「あす7月10日は、ナナとトウで納豆の日」とは入ったが「あすは参院選投票日」とは言わなかった。参院選が「ある」と積極的には報道しなかった。他の時間帯でも、選挙報道は短くなっていた。
 私は7月3日に、今回の参院選の異常さに気付いた。いわゆる「選挙サンデー」なのに異様に静かである。報道がないから、選挙がないかのように静かになっている。
 この「何も言わない」というのは、だれにも肩入れしていないから「中立」の立場のように見える。しかし、実際は違う。
 報道が行われないということは、既成の大政党を「隠れて支持する」ということにつながる。報道が活発に行われないかぎり「少数意見」というのは表に出てこない。「少数意見」がつたわる機会を奪うことである。
 選挙結果の分析報道(朝日新聞)が、それを明確にしている。若者の自民党支持が多かった。それは若者が自民党以外の政党があることを知らなかったからである。弱小政党の存在(名前)を知らなかった。安倍が「民進党には共産党がもれなくついてくる」と言ったときから、政党は自民党と共産党になってしまった。二者択一の中で、若者は自民党に投票した。
 今回の「選挙報道をしない作戦」を指揮したのが電通かどうか知らないが、驚くべき手法である。「宣伝」の裏をかいた画期的な方法である。報道をなくしてしまえば、いま大手を振るっているものの存在しか見えなくなる。小さな声は聞こえない。存在しないに等しくなる。存在しないと見なされる。

 「大きな存在」に対して、ひとはどう反応するか。あえて「賛成」とは言わない。言う必要がない。すでに「大多数」であるからだ。また「声」をあげても「偏っている」という批判を浴びることはない。「大多数」だからである。
 「小さな存在」が声を上げると、「それは少数意見」、つまり「偏っている」「大多数ではない」と批判する。どこでも「声」をあげるひとは少ないから、表に出てくる「少数意見」は、実際の少数意見よりもさらに少ない感じになる。
 ここで問題が起きる。「大多数」が正しいと言い切れるか。
 ヘンリー・フォンダが主演した「十二人の怒れる男」を思い出そう。「有罪」に疑問を抱いたのは最初は一人だった。対話を重ねていくにしたがって、一人ずつ「有罪」から「無罪」へと意見を変えて言った。「事実」は「対話」をとおして見えてくることがある。常に「少数意見」に耳を傾ける必要がある。
 「少数意見」が「間違っている」ときもあるだろう。それはそれで「間違っている」ということを「対話(ことば)」で明確にする必要がある。
 発言を封じたまま、対話を省略したまま「多数決」に走ってはならない。これが民主主義の基本。

 「通販生活」は「少数意見」を語っただけである。「通販生活」に対して「買い物に政治を持ち込むな」と「少数意見」封じるように迫るのではなく、ほかの企業にもっと「政治的発言をしろ」と言うべきだろう。誰もが積極的に政治的発言をする、政治的対話をするという状況をつくっていくことが民主主義である。意見の多様性が必要なのだ。
 だいたい人は商品を買うとき、その商品をつくっているメーカーが何党を支持しているか、その商品を売っている店が何党を支持しているか、気にしない。ほしいものを買う。必要なものを買う。同じものが同じ値段で売られていれば、なじみのある店で買うだろうが、そうでなければ安い方で買う。ある店の「主張」に共感して、多少高くてもその店を利用するということもあるかもしれないが、すべてをその店から買うということは現実的にはありえないだろう。
 「偏っている」というのは「少数意見を言うな」の言い換えであり、言論弾圧である。「政治的発言をするな」と言っている人は、それに気がついていない。無意識に「大多数」に加担している。

 「言わない」という行動が何を生み出すか、それを見つめないといけない。
 私は「通販生活」をとおして何かを買ったことは一度もないが、今回も「通販生活」の姿勢を応援するために雑誌を買った。「多様性」こそが民主主義の基本であり、「多様性」は「少数意見」を排除したところには存在しない。



 自民党の現行憲法と憲法改正草案を比較しておこう。

(現行憲法)
第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
(改正草案)
第十三条
全て国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利につ
いては、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。 

 「個人」かち「人」に変更されている。「個人」の「個」は「多様性」と同じ意味。改正草案は人間の「多様性」を否定している。「少数意見」を否定している。
 「通販生活」に寄せられた批判も「少数意見」の否定であり、それは自民党の憲法改正草案の発想につながっている。
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高柳誠『高柳誠詩集成Ⅱ』(2)

2016-11-27 10:07:13 | 詩集
高柳誠『高柳誠詩集成Ⅱ』(2)(書肆山田、2016年11月05日発行)

 『半裸の幼児』の「島」という作品。短い行分けの部分と散文形式の部分が交錯しながら動いていく。短い部分だけを引用する。

海。
隔てるものと
繋ぐもの--。

海。
寡黙にして
饒舌なるもの--。

海。
誕生と死とを
包含するもの--。

海。
動きつつ
静まるもの--。

海。
隔てるものと
繋ぐもの--。

 最初の三行が言いなおされ、最後に最初にもどる。
 「隔てる」「繋ぐ」という対立する動詞が、「寡黙/饒舌」「誕生/死」「動く/静まる」と変化する。
 「隔てる=寡黙/誕生/動く」か。「繋ぐ=饒舌/死/静まる」か。私の印象では「隔てる=寡黙/死/静まる」「繋ぐ=饒舌/誕生/動く」。
 「言い換え」ではなく、対立するうごきがあるということが描かれているのだろう。
 「隔てる」は「寡黙」によって生まれることもあれば「饒舌」によって生まれることがある。「饒舌」をうるさく感じ、聞こえるけれど「聞かない」という反応が「隔てる」になる。「誕生」は「いのち」の新しい「繋がり」と定義できるが、同時に「肉体」の「分離(隔てる)」でもある。母の肉体から分離することで子は「誕生」する。「静まる」は「隔てられて」静かになることもあれば、「繋がれる」ことで静かになることもある。
 特定はできない。そのときそのときで、「同じことば」が「違うこと」を指すことがある。特定せずに「動いてる」ものとしてとらえることが大事なのだろう。

海。
誕生と死とを
包含するもの--。

 この三行は、「誕生」と「死」を別の行には分けずに書いている。そして「包含する」という別の「動詞」で「ひとつ」に統一している。世界は「誕生/死」という反対のものを「包含」している。「包含」のなかから、あるときは「誕生」ということばで何かがあらわれ、別の瞬間には「死」ということばで何かがあらわれる。それは別のことばで語られるけれど、最初は「ひとつ」の状態だった。
 「誕生/死」という対立することばではなく「包含する」ということばの方が重要である。

海。
動きつつ
静まるもの--。

 この言い直しの部分では「動き/静まる」ではなく、「つつ」ということばの方が重要なのだと思う。「動く/静まる」が同時に存在している。「動く/静まる」が「包含されている」。
 触れる順序が逆になるが、

海。
寡黙にして
饒舌なるもの--。

 この三行でも「寡黙/饒舌」よりも「にして/なる」ということばに注目しなければならないのだろう。寡黙であり「つつ」饒舌である。
 ただし、高柳は「ある」という動詞ではなく「する」「なる」という動詞を基本にしている。(「して」の「し」は「する」から派生している。)
 「世界(宇宙)」は「ある」のではなく「する」「なる」。宇宙に「する」、宇宙に「なる」。
 「ことば」が高柳が向き合っているものを「宇宙にする」。「ことば」によって高柳が向き合っているものが「宇宙になる」。
 こう考えればいいのかもしれない。
 「海」は「ことば(書き方)」によって「隔てるもの」に「なる」こともあれば、「繋ぐもの」に「なる」こともある。高柳が「隔てるもの/つなぐもの」に「する」。

 詩は、そこに「ある」のではない。ことばによって詩に「なる」。ことばによって詩に「する」ひとが「詩人」である。高柳である。
 きのう触れた時里二郎のことを書いた詩。《非在のアオサギ》などのことばによって、時里は「詩人になる」、そして高柳は《非在のアオサギ》ということばによって時里を「詩人にする」。「詩人」として「認識する(認識している)」と読み直すことができるだろう。

 「する/なる」は「断定/固定化」のように見えるかもしれないが、そうではない。「動きつつ」の「つつ」が明らかにしているように、そこには常に「同時」に「断定/固定」を否定するものが動いている。
 だから詩は書き続けられる。終わりがない。
高柳誠詩集成 1
高柳 誠
書肆山田
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千人のオフィーリア(メモ22)

2016-11-27 00:02:04 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ22)

オフィーリアが「欠伸」という文字を知ったとき、
廊下の窓から教室を覗いたオ(ハ?)ムレットと目が合った。
まさか帰ってくるなんて!

ただひとり帰って来たナントカという
あの男みたい。

「シチューは煮えたかしら」と鍋をかき回した後に、
過去を思い出したみたいに「欠伸した」。
「あくび」というルビが振ってあって、
誘われるように口を開けて

まさか。
欠伸を追いかけて滲んでくる涙。
とめることができない。

できることなら、
乙女の喜びの涙と思ってくれない?
オフィーリアは期待するけれど、
「ちょっと見ないうちババアになったなあ」という目つきだけ残して
目を逸らした

口の端から垂れ下がる涎を源とする川を流れるオフィーリアが、
二十三人目だったときの、だれも同情してくれない
思い出を思い出すために
二十四人目のオフィーリアになったの。





*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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高柳誠『高柳誠詩集成Ⅱ』

2016-11-26 10:29:43 | 詩集
高柳誠『高柳誠詩集成Ⅱ』(書肆山田、2016年11月05日発行)

 高柳誠『高柳誠詩集成Ⅱ』には『イマージュへのオマージュ』から『半裸の幼児』までの詩集が収録されている。『廃墟の月時計/風の対位法』以後の作品は『集大成Ⅲ』に収録されるのだろう。高柳のことばはどこまで進むのだろう。どこまで行くのだろう。「過去」の詩集なのに、「未来」を思ってしまう。その拡がりの、一層の広さを。
 しかし、私は「全体」を見渡すということが苦手なので、個別の作品についての感想を書く。
 『イマージュへのオマージュ』から「或ることばひとの来歴--時里二郎に」。「ことばひと」は「ことば」と「ひと」とも受け取れるし、「ことばひと」という「造語」のようにも感じられる。「詩人」の「詩」を「ことば」と読み、「人」を「ひと」と読み、ふたつを「ひとつ」にしたという感じ。「時里二郎に」と書いてあるから、「詩人/ことばひと」は時里を指している。しかし、高柳自身のことを書いているようにも見える。時里と高柳をつなぐ「ことば」と「ひと(肉体)」の接触を感じる。

あなたは《非在のアオサギ》の翼を身に帯びた瑠璃色の少年だっ
た 翼あるものの光彩を通してウメモドキの実の内部を見透かす乞
児だった 《白い巨木》を螺旋形に穿つ《ことばの廃道》を駆け抜
けては 彼岸と此岸を自在に繋ぎ留める天狗の陰間だった

 ルビは省略したが「乞児」は「ほがいと」。
 《 》でくくられたことばは時里の作品からの「引用」なのだと思う。《非在のアオサギ》の「非在」は時里の詩をつらぬくことばとして思い出すことができる。(どの作品の、どこに、ということを指摘するべきなのかもしれないが、私はしない。「文献学」ではなく、私が覚えていること、肉体が思い出せることをもとに感想を書く。)
 しかし、《 》でくくられていないことばにも時里を感じる。「瑠璃色」「ウメモドキ」(特に「モドキ」ということば)「内部」「螺旋形」「彼岸と此岸」。
 これに「自在」を付け加えると、高柳のことばが《 》でくくられて、地のことばが時里のことばにも見えてくる。ふたりのことばが交錯、融合して、いっしょに動いて区別がつかなくなる。
 私はどこかで高柳と時里を混同している。いや、区別していない。
 ある対象(詩のテーマ)があって、それはまだ形になっていない。「彼岸と此岸」が区別されていない。それがことばによって区別されるとき、詩があらわれる。あるものが「彼岸(非在)」と結びつけられ、あるものが「此岸(現実/実在)」と結びつけられる。
 「彼岸(非在)」は「ことば」になるとき「非在」でありながら「実在」になり、「此岸(実在)」が「ことば」になるとき「実在」でありながら「抽象」になる。「架空」になる。あるいは「精神」になる。「論理」になる。「非在(手でつかめないもの)」になる。
 「抽象/架空/精神/論理」の運動が「ことば」。「彼岸と此岸」を切断しながら接続する。「螺旋形」に似た形で動いていく。

                    あなたは該博な知識で
知られた博物学者だった 宇宙の種子を《胚胎する大樹》への著し
い偏愛を示す遺稿の断片からは 《歪んだ球形の果実》の形姿をと
っていくつもの《意味の迷宮》が浮かびあがり あなたの後ろ姿を
書物の余白にくっきりと投影した

 「歪んだ」「迷宮」なのに、「くっきり」している。しかも、それは「余白」に「投影」されている。「余白」(意味になっていない部分)にあらわれてくる。それは同時に、そこに「余白」があるということをあきらかにするということでもある。
 「歪んだ」は「球形」の視点から見れば「歪み」ではなく、歪んでいないになる。「螺旋形」は「球体」の一部である。球体の面にそって「真っ直ぐ」に動くと、それは「螺旋」という曲線になる。「螺旋」という曲線を動くとき、残される痕跡(意識)は一本の長い線になる。「まっすぐ」なものとして「肉体」に記憶される。「螺旋」は一度として「脇道」へそれることはないのだから。
 「球形」のなかにすべての「胚胎」がある。「球形」は「宇宙」である。

 書けば書くほど、時里か高柳か区別がつかない。

 けれど、この区別のつかなさは、「嘘」である。
 高柳と時里は違う。ことばの性質が、高柳は「絵画」に似ている。時里は「音楽」に似ている。私の印象にすぎないが。高柳の詩を読むと「絵」が思い浮かぶ。時里の場合、「絵」というよりも「語り(口)」が思い浮かぶ。
 それなのに「区別がつかない」という感じになるのは、そこに私の「ことば」が加わっていくからである。
 「傍観」すれば違いがわかるのに、それについて書き始めると「区別」が見えにくくなる。まざってくる。
 「ことば」は何かを識別するものだが、同時に何かを自分に引きつけてしまう。その「引きつけ」の動きの中には、「本能」のようなものがあって、自分にあわないものは知らず知らずに除外する。自分の「肉体」にあったものだけを強く引きつける。
 だから(?)、そこに何かが「統一」される。「統一性」が生まれる。「統一性」が「違い」を消していく。
 この、私の「肉体」のなかで起きていることが、高柳が時里について語ることばの運動でも起きているのだと思う。
 「語る」ことは対象と「ひとつ(一体)」になることだ。

 と、書いてしまうと、それはどんな詩についてもいえること。
 「対象」を書きながら、「対象」そのものになってしまう。自分が自分でなくなる。
 あ、「論理」はいやだなあ。嫌いだなあ。どうしても、そういう「間違い」にたどりついてしまう。
 存在は「個別」、「違い」がある。「違い」を「違い」とわかっているのに、「違い」がないというところにたどりつかないと「わかる(わかった)」気にならない。
 全部、錯覚なのに。

 私の書いたこと(論理)は「間違いである」というところから出発して、高柳の書いたことばのなかへ帰っていかなければならない。「論理」を否定して「混沌」(書く前のあいまいな感じ)にもどるとき、詩が動く。
 だから私の書いていることばは忘れて、高柳の詩を読んでください。


高柳誠詩集成 2
クリエーター情報なし
書肆山田


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大西美千代「十月一日」、早矢仕典子「畳まれる」

2016-11-25 11:50:01 | 詩(雑誌・同人誌)
大西美千代「十月一日」、早矢仕典子「畳まれる」(「橄欖」104 、2016年11月25日発行)

 大西美千代「十月一日」の二連目。

家の近くの沼には
ときどき泡が浮く
沼の底に棲んでいる黒いものの

沼の悪意のようなものの
匂う日がある
人を陥れたりはしない
だましたりはしない
ただ
納得しないで沈んでいる
そしてときどき暗い泡を浮かべる

 電車のなかで思い浮かべる沼なのだが、ここがおもしろい。何度もことばを変えながら言いなおしている。ひとは大事なことは繰り返し言いなおす。
 「黒いもの」が「悪意のようなもの」と言いなおされる。それは「比喩」。さらに「人を陥れる」「だます」という「動詞」で言いなおす。この瞬間、そこに書かれていることが「ぐい」と迫ってくる。
 「息」は「匂う」という「動詞」で言いなおされる。「匂い」はつかみどころがない。気がついたときは「肉体」のなかに入ってきてしまっている。「陥れられる」「だまされる」というのは「匂い」に侵入されたような感じだろうか。
 ただ、「黒いもの」「悪意のようなもの」は実際に「人を陥れる」ことはない。「だます」ということもしない。そういうものを「肉体」のなかにためこんで、「動詞」にならずにいる。
 自分のなかに「人を陥れる」力がある、人を「だます」力がある。あるいは欲望がある。だが、動かさない。抑え込んでいる。このことを「納得しないで沈んでいる」と言いなおしている。「沈めている」と言いなおした方がわかりやすいかも。
 で、このときの「納得しない」。むずかしいなあ。どう言いなおせばいいのだろう。「人を陥れてはいけない/だましてはいけない」と言い聞かせようとしているのだろうか。
 そうした抑制は、「肉体」を苦しくさせる。
 だからときどき「息抜き」をする。「息」を吐く。「暗い泡」になって浮かぶ。
 沼の描写なのだが、大西の「肉体」に見えてくる。
 大西が「人を陥れる/だます」という欲望を持っている。それを抑えている、というのではないけれど。
 人を裏切ってみたい、人を傷つけてみたいという「暗い欲望」はだれにでもあると思う。それを見つめ、沼と重ねている。沼を思うとき、「肉体」が沼になって呼吸しているという感じに引きつけられる。
 「泡が浮く」から「暗い泡を浮かべる」へと動く過程で「暗い」ものの「肉体」が濃密になる。そこに引きつけられる。



 早矢仕典子「畳まれる」は「畳む」という「動詞」が「肉体」に響いてくる。

午後も遅くなって
その日の表へ出ると
昨日までのことは ひそりと畳まれていて

 「畳む」という動詞は「比喩」である。具体的な「動作」を直接あらわしてはいない。ハンカチやシャツではないのだから「昨日までのこと」など「畳む」ことはできない。
 この「畳む」という比喩としての動詞をどう言いなおしていくか。どう繰り返して言いなおすか。

一羽の黒揚羽が ひらり
ひと足 先回りするように
角を折れ
誘うように 翅を翻し

ふわり 身に迫り 黒い日傘へ
黒い日傘の自転車
老女がふわと揺らぎながら 過ぎていった

 「黒揚羽」は見えるけれどつかまえられない。誘っているけれど、つかまえられない。誘われるままに追いかけてると、「黒い日傘」にかわり、「ふわ」と過ぎていく。その「ふわ」っとした感じで過ぎていくことのなかに「畳む/畳まれる」があるのかもしれない。「痕跡」のようなもの。それを感じることを「畳まれている」と言っているのかもしれない。

昨日までのことは
ひとしれず 畳まれていて
欅並木の最後の蝉が
じぃ………と その余韻の中にいる

今日 生まれかわった西日は
見知らぬあの人の
見知らぬ物陰にも 覗き込むように届いていて
気付いてはいけなかった
その秘密の奥にも

 私が「痕跡」と思ったものは、「余韻」と言いなおされている。
 「余韻」は「ひとしれず」ということばといっしょに「畳まれている」。一連目では「ひそり」ということばといっしょにあった。「ひそり」「ひとしれず」は、「秘密」と言いなおされ、「気付いてはいけなかった」ということばといっしょに動く。
 「秘密」は畳んでしまうもの。そこに「畳まれて」あることがわかっても、それを「開いてはいけない」。「きのうまでのこと」は「開いてはいけない秘密」。
 この「畳む」と「秘密」の関係は、大西の「沼」と「暗い泡」を思い起こさせる。大西は「秘密」を「黒い泡」にして吐き出す。早矢仕は「畳まれた」まま、それがあることを意識する。

 ふたりは別なことを書いているのだが、読む私の「肉体」はひとつなので、つづけて読むと「ふたつ」が「ひとつ」になって動いてしまう。
残りの半分について―大西美千代詩集
大西美千代
竹林館
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千人のオフィーリア(メモ21)

2016-11-25 00:00:00 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ21)

夜の時間がかすれた声で抗議した。
きのうの次がきょう、きょうの次があしたなんてだれが決めた。
きょうの次がおとついで、あさっての未来があしたでも、
私は困らないよ。
オフィーリアよ、いまこそ復讐せよ。

昼の時間がなれなれしい声で言う。
きのうがあしたの夢を見るなら、
あしたはきのうの夢にやってくる。
あさっての夢はきょうに嫉妬し、
しあさってはおとついの夢に呪いをかける。
私は困らないよ。
オフィーリアよ、いまこそ復讐せよ。

いま、いま、いま。        
ことば、ことば、ことば。

朝の時間は透明な声で歌うのさ。
あしたがきょうのなかに押し入り
きのうはあしたにまたがって、
あさっての股からおとついが生まれる。
きょうがきのうにつながらない。
私は困らないよ。
オフィーリアよ、いまこそ復讐せよ。



*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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今井好子「熟成」

2016-11-24 09:50:29 | 詩(雑誌・同人誌)
今井好子「熟成」(「橄欖」104 、2016年11月25日発行)

 私は「誤読」が好きである。もしかすると違うことが書いてあるのかもしれない。けれど、こんなふうに読んでみたい。そう思って読む。
 今井好子「熟成」。

墨をする
夢の際で目が覚めてしまった夜は

墨をする
明けない夜のように黒々と
墨は闇を深めていく

 これは目が覚めたので、起きて、実際に墨をすっているということなのかもしれないが。私は「夢の際」へ帰っていく夢だと思って読む。夢を頼りにもう一度眠ろうとしているのだと思って読む。無意識に見る夢ではなく、意識的に見る夢。墨をすることを意識的に思い描いている。
 まだ夜明けにしない。闇を深めて、闇にもどっていく。眠りに。

墨をする
獣たちの均整が崩れ始める
眠っていた時間が
夜の静寂を裂いて
息を吹き返す
解放されて

 「獣たちの均整が崩れ始める」ということばには「注釈」が必要である。「墨…煤を香料と膠で固めたもの。膠の材料は動物の骨、皮、腱など。」と今井は書いている。注釈をつけるのは「意識」。
 墨をすると「眠っていた」もの、動物の骨、皮、腱が「目覚め」、動き始める。墨をすることで、「眠っていた」動物を蘇らせる。
 これは「眠っていた」今井を、夢の中で「解放する」、蘇らせるということ。夢のなかへと「息を吹き返」したいという欲望が見える。
 半分意識、半分無意識。「夢の際」での動き。
 起きて、実際に墨をすっているのではない。

文字に起こせば
寂しいかけらとなって
夜のざらついた隙間に
まぎれ込んでしまうだろう

艶やかに
とろりとこぼれる墨が
夜の裏側を濃くしていく

 「文字に起こせば」(ことばにしてしまえば)、夢現は破片になってしまう。(詩にしているのだけれど……。)そう思いながら、揺れつづけている。
 「寂しい」「ざらついた」は「現」に属する意識。「艶やか」「とろり」は「夢」に帰り着いた意識。眠りの豊かさがある。

 三連目の「夜の静寂を裂いて」という一行は、ない方が全体が強くなると思う。墨のなかから獣たちが蘇るスピードがしなやかになる。
 途中に省略した連にタイトルの「熟成」ということばが出てくる。文字に起こされたことばは「寂しいかけら」というよりも「虚無/意味のかけら」に思える。省略して引用した。

佐藤君に会った日は
今井 好子
ミッドナイト・プレス
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千人のオフィーリア(メモ20)

2016-11-24 00:00:00 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ20)

オフィーリアの肖像画
畳んだ手紙を持つ手

肖像画のオフィーリア
手に畳んだ手紙

鏡をのぞく肖像画
肖像画をまねる鏡

肖像画をのぞく鏡
鏡をまねる肖像画

蓋の開いた化粧水の瓶
セルロイド人形の生ぐささ

化粧水の瓶の蓋は転がり
生ぐさいセルロイド人形

息をすると口の周りは
夜の潮のやわらかさ

口の周りの息は
やわらかな潮の夜
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渡会やよひ「水の位相」、高橋優子「隠されたとき」

2016-11-23 18:02:01 | 詩(雑誌・同人誌)
渡会やよひ「水の位相」、高橋優子「隠されたとき」(「POIAAON」41、2016年11月発行)

 渡会やよひ「水の位相」は静かな詩である。

薄明の静寂の中で声が聞こえた
「水はいりませんか」
病棟であれば空耳も目覚めの理由にはなる
消え入りそうな声の方に目をやると
セミの羽のようなうすみどりの制服の後ろ姿が
透きとおりながら
仄暗い廊下を移動していくところだった

 三行目「病棟であれば空耳も目覚めの理由にはなる」。自己を見つめ返す視線が「静さ」の理由かもしれない。現象を(対象を)見つめる。現象に感覚をとぎすますだけではなく、現象のなかに自分を組み込む。理性の力。
 六行目「透きとおりながら」という一行は、「制服の後ろ姿」と書かれているにもかかわらず、詩人の「後ろ姿」にも見えてくる。自分の姿として見ているように感じられる。
 他者と自己が対立しない。ざわつかない。静かである。

南の島へ短い旅をしたとき
駐車場から少しはずれた空き地に水たまりがあり
たくさんのアオスジアゲハが水を飲んでいた
風に震える羽が同じ方向を向いていて
陽光に当たると翠と青にきらめいた
あのときなぜ「死に水」という言葉を思い出したのだろう
あれから親しいひとを幾人も失ったが
「死に水」という頑是ない言葉はいまだ蝶のものである

 四行目の「風に震える羽が同じ方向を向いていて」が強い。旅のことなのに、旅行記らしい感じはない。対象を見つめるのではなく、どこでも自分を見つめるのだろう。自分に忠実な人柄が、「名所」ではないところに視線を引っぱっていく。
 蝶を見つける。見る。「同じ方向を向いていて」を発見するとき、渡会は蝶になって同じ方向を向いている。同じ方向の先に、そこにはない「死に水」が「見える」。目は「陽光にあたると翠と青にきらめいた」を見ているが、それを突き破って「同じ方向」の「先」が見える。「死に水」という「意識」が見える。
 「意識」とは、常に自分自身のものである。他人の意識がどう動いているか想像するときも、ほんとうに動いているのは想像する人の意識であって、他人の意識ではない。
 渡会は、そう感じているのだろう。



 高橋優子「隠されたとき」は少しやかましい。

地表ちかく
赤みをおびた満月が輝き
その微塵も疑いのない濃密な光のしたたりに
やがてはこの輝きに浸れぬときを
ふっと思う
輝きやめない光に 隠されたとき
だからいっそう
血の色を溶かした月に 浸る
仄温かい背に 月の影が滲み透るまで
ちょうど大切なものが 傷となって滲み入り
そのまま縫合されてゆくように

 「縫合」ということばが象徴的である。縫い合わせる。ふたつのものを「ひとつ」にする。月と私。赤と血。それぞれは「濃密」な存在である。言い換えると「別個」の存在である。決して融合はしない。「滲み透る」「滲み入る」と書きながらも、それを「縫合されていくように」と別の比喩で言いなおさないと落ち着かない。
 渡会は対象と「融合」する。しかし、高橋は対象を「縫合」する、と言える。

だが 夢のなかまでも
時は深い淵となって 暗緑の水をたたえ
底もなく 揺れうごく月を輝き映して
私をみつめ返すのだった

 「私をみつめ返す」。対象はあくまで「私」と向き合っている。「対話」がいつもある。渡会は対象を取り込み、渡会の内部で対話するのに対し、高橋は外部の存在と対話する、と言い換えることができる。

途上
渡会 やよひ
思潮社
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グローバル経済をどう読むか。(神山睦美批判)

2016-11-23 12:35:31 | 自民党憲法改正草案を読む
グローバル経済をどう読むか。
               自民党憲法改正草案を読む/番外42(情報の読み方)

 きのう(2016年11月22日、23日未明)フェイスブックの私のページと神山睦美のページで、神山睦美の「贈与論(?)」批判を書いた。そのつづきを書こうとしたら、私のページの、私の書いた記事が消えている。神山のページの、神山の文章も消えている。神山のページの文章が消える(私には読めない)のは、神山がそういう処理をしているのだろう。けれど、私が私のページに書いたものは? 神山が「削除依頼」をしたのだろうか。
 批判したひとの文章が読めなくなる(いわゆる「ブロックされる」、アクセスできなくなる)というのは3人目だが、私が書いたものが削除されるというのは初めてである。
 批判封じの強権発動ともいうべき行動に対して、抗議する意味で、私が神山の何を批判したかを書いておく。このページはフェイスブックの管轄外なので、知らないうちに削除されるということはないだろう。

 私が指摘した問題点は、神山のグローバリズムに対する考えと、「贈与論」。(もとの文章にアクセスできないので、記憶と印象で書いておく。違っているかもしれないが「引用」ができない状態なので、しようがない。フェスブックの神山睦美の文章が読めるひとは確認してみてください。)
 (1)「グローバル企業がもうかると、恩恵が庶民にまで及ぶ」という神山の論は、アベノミクスの「トリクルダウン論」と同じ。実際はそうではなかった、ということが日本で証明された。(アベノミクスの失敗)大企業だけがもうかり、庶民の暮らしはいっこうに良くならなかった。
 (2)グローバリズムが貧富の格差を拡大しても、貧者(グローバル戦略の敗者)は貧者で助け合いの手をさしのべる。(「人間性」が発揮されるので、グローバリズムは問題ないということだろうか。)この相互助け合いを「象徴的贈与論」とかなんとか書いていたが、よく思い出せない。たいへん「美しい話」だが、これは安倍が提唱した「子供のための募金」を思い出させる。「子供食堂」の姿にも似ている。社会保障の問題を庶民が助け合いに求めていいのか、実際に助けようとしているひとがいるから、そのひとの人間性にまかせて政治は何もしなくてもいいのか。グローバリズムの問題点を、そんなふうに「解説」してしまっていいのか。

 これに関連して、
 (3)神山(と、その信奉者)は外国の思想家や日本の文学者の「ことば」を引用して、自説を補強しているが、そういうことで「現実」の問題を語れるのか。
 外国の思想家や文学者のことばを借りてきて論を展開することで、現実に起きている問題を「解説」したと主張できるのは、神山(とその信奉者)が、グローバリズムやアベノミクスの被害者ではないからだろう。グローバル戦略、アベノミクスの恩恵を受けているからだろう。「現実」を無視して、「既成のことば(既成の思想)」で語っているだけだ。
 神山の「贈与論」を、非正規労働者や子供食堂を運営しているひと(利用しているひと)の前で展開できるかどうか疑問に思う。
 神山の信奉者は「読破」ということばをつかっていた。いろいろな「既成の思想」をどれだけ「読破」し、論理を広げることができるか、というようなことを書いていた。
 「読破」ということばに、神山と信奉者の「思想(生き方)」が現われている。非正規労働者や子供食堂を利用するしかないひとは、「既成の思想」を「読破」する余裕などない。いま、目の前にある現実は、どうやって食べていくか、生きていくかである。そういう問題に触れないで、ことばをあやつっても何にもならない。

 私は、神山のような、特権的アカデミズムの論理が嫌いである。怒りを覚える。
 グローバリズムやアベノミクスの「恩恵」を受けている世界に閉じこもって、既成のことばだけで論理の整合性を確立する。
 現実に何が起きているかは無視して、既成のことばへ帰ってゆき、そこで自己を確立するという方法を読むと、とても腹が立つ。
 というような、ことを書いた。それが全部、削除された。

 今後始まる「年金引き下げ」も、「貧者の贈与論」の一種であるとか、いろいろ書きたいことはあるのだが、強権的な言論弾圧にびっくりして忘れてしまった。
 神山が、こんなに「閉鎖的」な書き手とは思いもしなかった。

 グローバリズムや「贈与論」を語るなら、たとえば「集団的自衛権」について語るべきだろうと私は思う。日本がいま置かれている歴史の転換点としての「集団的自衛権」。あるいは戦争法。いま起きている、いちばん大きな変化。憲法に関わる問題である。
 アメリカに日本を守ってもらう(日米安全保障)の見返りに、アメリカ軍の援助をする。アメリカ兵がいけないところへ日本の自衛隊が行って行動する(これは「集団的自衛権」そのものではないが、それに通じる動きである)。それを「贈与論」から語り直すと、どうなるか。
 あるいは日本に駐留する米軍の経済的負担を日本が担う。アメリカ製の兵器もきっとこれまで以上に日本に買わせる。(トランプはTPPには反対しているが、兵器産業のためには、こういう無理を押しつけてくる。兵器産業のグローバリズムは推進している。兵器産業では日本は「競争相手」ではないからである。)これを「贈与論」から語り直すとどうなるか。そこで動く金額を具体的に比較すると、どうなるか。
 さらに「経済徴兵制」もからめて見るべきである。グローバリズムの恩恵を受けることのできない経済的弱者を救済する。給料を払う、さまざまな資格が取れるという「名目」で自衛隊(アメリカならば軍隊)に引き込む。戦場にかりだす。防衛大学の問題もからめて見つめるべきだと思う。
 アメリカと日本で、だれが軍隊(自衛隊)に入隊しているか。そのひとたちの「経済状況」はどうなのか。
 ここにもグローバリズム、アベノミクスが引き起こした問題が反映している。
「既成のことば」へ引きこもるのではなく、現実の中でことばを動かし、ことばの有効性(射程)を考えるべきだと思う。







*

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伊藤信一『藤原定家のランニングシューズ』

2016-11-22 10:02:47 | 詩集
伊藤信一『藤原定家のランニングシューズ』(えぼ叢書7)(明文書房、2016年09月30日発行)

 伊藤信一『藤原定家のランニングシューズ』のことばは美しい。汚れがない。こういう「標準語」みたいなことばは、いまは「弱く」響くかもしれない。

答案用紙の裏に島の地図をかいた
リンカクを鉛筆でまず一筆がきして
次に山地と平地を決めていく                  (「島の地図」)

 どこに文句をつけていいか、わからない。逆に言うと、どこに感心したというべきなのかもわからない。ことばが「すーっ」と過ぎていく。

寺山修司は「歴史嫌いの地理ファン」だと自称したが
この話は私にとって地理でもあるし歴史でもあるのか       (「島の地図」)

 ここが「泣かせどころ」とわかっても、上手すぎて、どう語っていいかわからない。
 どうしてこんなにことばに汚れがないのか、疑問に感じながら読んでいくと、詩集のタイトルになっている「藤原定家のランニングシューズ」に出合う。

高崎を走り抜ける定家の背中を追いかけて
烏川にかかる君が代橋を渡る
右手に見える榛名山は、この間まで仏の台座だった

 やはり汚れがない。「右手に見える榛名山は」という転調はスムーズすぎる。なぜ、こんなに清潔なのだろう。さらに読んでいくと、定家の歌が引用されている。あ、そうなのか。古典か。古典の伝統が伊藤の肉体のなかにあって、ことばを鍛えている。汚れを振るい落としている。
 私はやっと気がつく。同時に、汚れたことばを読みたいという衝動にも襲われる。でも、汚れたことばを書け、と言ったって、伊藤には無理だね。染みついた清潔さは、無意識のうちに汚れを振り払ってしまう。

 そんななかで、ふたつの作品が印象に残った。汚れのなさはそのままだが、気にならない。ひとつは「夏の夜」。

本を読んでいる
三段組みの活字が踊っている
恋愛小説だ
男と女の姿だけがほのかに明るい

 「本歌取り」ではないが、「ことば(小説)」を題材にしている。「ことば」から「ことば」を動かしている。虚構。汚れのないことばには妙に似合っている。

なんだかもどかしいのは
二人の若さのせいか
行儀よく並んでいた文字列がぽろぽろ欠け落ちていく
はやく左の行に移らなくてはと思った瞬間
ストンと霧がはれて
女が男に口づけする
とたんにぱらぱらめくれていくページたち

 汚れがないから摩擦が起きない。すばやく、軽やかに動いていく。余分なことばが払いのけられ、「恋愛小説」は突然「口づけ」になる。いいなあ。恋愛というのは「感情」の問題ではなく、キスできるかできないか。セックスするかしないかである。というと乱暴だが、いつセックスするんだろうと気にして読むのが恋愛小説だから、これでいいのだ。
 書きつくされた「情感」が汚れのないことばでさっと省略される。書かれるのではなく省略される。省略しても通じるのは、「恋愛感情」というものが「定型」だからである。このスピード感がいい。
 もちろん男と女が出会ったらセックスするというのは「古事記」からの「肉体」の「定型」ではあるけれどね。でも「肉体」の「定型」というのは「感情の定型」と違って、どきどきわくわくする。
 さて、どうなる?

ほのかな月明かりに僕の恋愛小説は溶けてしまう
網戸からすこし冷たい風がしみ込んでくる

 そうか。「肉体の定型」にも伊藤は飽き飽きしているのか。
 「藤原定家のランニングシューズ」という作品も「走っている」のかもしれないが、「夏の夜」の方がはるかに速い。ランニング(ジョギング)ではなく、 100メートル競走。マラソン(長距離ランニング)にも美しいフォームは必要だろうけれど、短距離の方が「速い」という印象が強い。

 もう一篇「いねむりおいてきぼり」もおもしろかった。「ロボット」が主役。「僕」。これも虚構だからいいのかなあ。
 その虚構のなかで、

ねてた
ふわっとしてた
ねぎなんうどんも胃の中で添い寝してくれてた

 ここが、いい。傑作。「ねぎなんうどんを食べたい」と欲望してしまう。ねぎなんうどん(ねぎ+南蛮+うどん?)を食べたら、ねぎなんうどんになって胃の中で眠るんだと思う。「食べた私」と「食べられたほぎなんうどん」が見分けがつかなくなる。ねぎなんうどんとセックスした感じだなあ。
 ここで大笑いしてしまったので、後の詩は、あまり真剣に読まなかったが、この詩集の中で好きな1行を選べと言われたら、私は「ねぎなんうどん」の1行をあげる。


詩集 藤原定家のランニングシューズ (えぽ叢書)
伊藤 信一
明文書房
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