詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

森鴎外「カズイスチカ」「雁」

2021-03-31 10:45:41 | その他(音楽、小説etc)

鴎外選集 第三巻「カズイスチカ」「雁」

「カズイスチカ」の次の部分に、私は鴎外の思想を強く感じる。
148ページ。

自分が遠い向こうにあるものを望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父は詰まらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているという事に気が付いた。

思想は遠い理想を手にいれるためのものではない。日常の、いまあるものと正確に向き合うためにある。自分を正直にするためのこころがけ(精神)のなかにある。正直のなかにしそうがある。
これを、東洋のことばで、「道」という。
先の文章につづいて、こう書いてある。道ということばが出てくる148ページ。

宿場の医者に安んじている父のレジュアションの態度が、有道者の面目に近いということが、朧気ながらに見えて来た。

目の前にあるもの、ことに全精神を傾けるのは、市井のひともおなじ。破傷風の患者の様子を、家族は「一枚板」と呼んだ。その、臨時の病名に主人公は驚く。153ページ。

智識の私には累せられない、純朴な百姓の自然の口からでなくては、こんな詞の出ようがない。あの報告は生活の印象主義者の報告であった。

「自然の口」「生活の印象主義」が「智識」に対抗する正直である。そしてそこに、わたしは荘子につうじる「道」を感じる。
市井のひとのなかに隠れている思想(正直/道)を、鴎外はしっかり見つめ、ことばに定着させている。
「一枚板」は、世界に翻訳して広めることのできる「思想言語」ではないが、そこに、たしかに生きている思想なのだ。

「雁」は、いったいいつになったら雁が出てくるのだろうと思い、読み進むと突然出てきて、出てきたと思ったら終わってしまう小説である。
その、突然(偶然)が妙に面白い。
雁にひっぱられて、事件が起きない。その、起きない日常に、人を動かす思想がある。
この思想を説明するのはかなり骨が折れる。スマートフォンでは、書くのが面倒なので省略するが、事件を準備するのも阻むのも、日常をどれだけ正直に生きているか、ということなのだ。
サバの煮たものが好きか嫌いか、嫌いなときどうするか。もし、「僕」が正直を発揮しなければ(?)全く違うことが起きていただろう。
と、書いて。
これを思想と呼んでしまうと妙なことになるが、私が思想と呼びたいのは、そういうことの奥底を動いている力なのである。

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森鴎外「羽鳥千尋」

2021-03-30 10:50:38 | その他(音楽、小説etc)

鴎外選集 第三巻「羽鳥千尋」

森鴎外「羽鳥千尋」の67
ページ。

下に写すのは一昨年の夏羽鳥が己によこした手紙である。

と、ある。羽島は鴎外に、書生としておいてほしいと書いてきたのである。鴎外は職を紹介している。羽島は、病死している。
鴎外が手紙を紹介しているのは、

世間にはなんという不幸な人のおおいことだろう。(67ページ)

と思い、その人が生きてきたことを、ことばのなかに残したいからである。
不幸な人は不幸なだけではない。不幸な人、世間に知られていない人も、それぞれに思想を持っているからである。もし鴎外が羽島の手紙を紹介しなかったら、羽島の思想は、私たちにはつたわらない。
で、その思想とはどういうものか。
67-68ページ。

私は一介の書生である。失礼ではなかろうか、あつかましい事ではあるまいかと、幾度か躊躇して思い切られないので、とうとうこの手紙を書く。手紙はどれだけ長くなるか知らぬが、その中に一言の偽りもないということだけは誓って置く。

偽らない。それが思想である。ほんとうの、ことば。それは、何を語っても思想なのである。
鴎外は、手紙をただ転写するのではなく、きっと句読点を整理し、ことばも整えている。それは、羽島のことばを、より力のあるものにするためである。
鴎外は、創作するのではなく、そこにあるもの、生きた人間のことばを聞き取り、それを整える。整えながら、鴎外は登場人物になるのだ。
それは「ながし」にもつうじるし、「心中」にもつうじる。

こういうことをするのは、なぜだろう。「妄想」に、こんなことばがある。127ページ。

何物かにむちうたれ駆られているように学問ということに齷齪している。これは自分にある働きが出来るように、自分を仕上げるのだと思っている。

自分を仕上げる、ことばを仕上げる。ことばとは、思想、である。
鴎外は、人から聞いたことばを思想にまで高めているのだ。
魯迅につうじる。

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石毛拓郎「メランコリーな竹篭」

2021-03-29 10:36:52 | 詩(雑誌・同人誌)

石毛拓郎「メランコリーな竹篭」(「飛脚」27、2021年2月28日発行)

石毛拓郎「メランコリーな竹篭」は、詩人の墓参りの帰り、骨董市で竹篭を見かける。
骨董市の竹篭。いつごろのものか。値段からみてもあやしげである。
それでも

病躯の詩人が、野の花を摘んで投げ入れる様を、想った。

そして、買い求めるのだが、金を払うとき、

うつむき加減に、退屈そうな顔をしながら主人は
機械的で、無機質な手を突きだしてきた。
哀れをさらしているではないか。

この「哀れをさらしている」に、私は、どきりとする。
ヒューマニストなら違う表現、婉曲的な言い方をするかもしれない。「哀れを感じた」「哀れに触れた」。でも、石毛は「さらす」という動詞を使うことで、瞬間的に店の主人になるのだ。
竹篭を花入れに使う。民芸運動の「用の美」なんて関係ない。作って売る。金を稼いで生きる。そこには、生きている肉体と暮らしがあるだけだ。作れるものを作って売って生きるという、生き方そのものをさらす。
どう向き合うか、どう受け止めるか。
「さらす」ということばで、それを肯定する。民芸運動を突き破る。自分で作って、それによって自分の暮らしを美しく整えるとき、確かにそれは「用の美」である。
でも、そうでないなら、「転用の美」にすぎない。そこには肉体も思想もない。
石毛はそこまでは言わない。
ただ「哀れをさらす」力を受け止め、主人になりかわって、その思想をさらすのである。

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フリオ・コルタサル「もう一つの空」

2021-03-28 10:35:28 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「もう一つの空」

主人公は、ブエノスアイレスを歩きながら、そのままパリの通りに出る。ふたつの街が融合し、男は自在に行き来する。
そのパリでは、女性殺人事件が起きる。怯える恋人。恐怖におののくパリ。
そこで、犯人かもしれない男とカフェで遭遇する。203ページ。

彼はどこか遠くを見ているような、それでいて妙に思いつめたような表情を浮かべてこちらを見たーーその果てしなく続く一瞬の間、僕たちはまるでそこに存在していないかのようだった。

ふたつの矛盾したことばがある。
「どこか遠く」と「こちら」、「果てしなく続く」と「一瞬」。
これが矛盾ではなくなるのは、彼と主人公が「一体」になるときである。
これまで読んできた作品では、複数の登場人物の思いが切れ目なしに接続し、融合した。
この作品では逆のことが起きるのだ。
ひとり(主人公)の思いが、ふたりにわかれ、行動する。隠れた思いが意識になって、行動を起こす。
このときの潜在意識を、ベルグソンの定義にしたがって言い直せば、考えである。考えにしたがって行動を企て、実行する。
しかし、この考え→実行は、思いではないから、思いからは何が起きているか自覚できない。
「二重人格」を、二重人格と自覚できない。
それが「どこか遠く」と「こちら」の一体化、「果てしなく続く(時間)」と「一瞬」の同一視という矛盾となってあらわれる。
矛盾しないのは、読者が主人公を自分の肉体で追認するときである。考えを捨て、思いに身をまかせる。そうすれば、その路地を曲がればブエノスアイレスに踏み込み、さらにパリのあやしげな通りにも潜り込める。
コルタサルは「考える思想/肉体を律することば」ではなく、「思う思想/肉体を誘い、惑わすことば」を書く。
それは視力(文字)のことばではなく聴力(口語)のことばである。いま、録音機器があふれているから、話ことばも簡単に記録できるが、以前は話ことばは次々に消えて行く。ことばに「時間」を持ち込むには、聞き手がことばを思い出さないといけない。その、ことば、記憶、肉体の関係を非常に緊密に展開するのがコルタサルの文体。コルタサルが口語を文学に持ち込んだのだ。

話ことばと記憶、録音の問題を文学に持ち込んだのだ作家にベケットがいる。「最後のテープ」。もし、ベケットやコルタサルが現在生きていたら、音声としてもことば、声と思想をどんな風に展開したか。
ふと、夢見てみるのである。見えない夢を、夢がそこにあると酔ったような感じで。

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フリオ・コルタサル「すべての火は火」

2021-03-27 10:42:48 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「すべての火は火」

「コーラ看護婦」で試みられた方法がさらに拡大する。登場人物の思いが、あることばをきっかけに交錯し、主役が交代するするという方法が、時空を超えて展開する。
一方にパリのアパート。男が女と電話で別れ話をしている。別の女がやってくる。
他方で古代の闘技場。総督と女が、剣闘士の戦いを見ている。
別れた女は自殺し、女が欲する剣闘士は倒れ死んで行く。
男女がすりかわり、悲劇の幕は、突然の火事(炎)につつまれて終わる。

場面転換は、こういう描かれる。
185ページ。

受話器を耳から離す時、弓から無害な矢が放たれるような、カチャッという音が聞こえる。網は間もなく彼の身体をすっぽり包んでしまうだろう。

カチャッは受話器を置く音から鉄の網のぶつかる音に変わる。

また186ページ。

その手も生温かい脇腹とさきほど転がり落ちた薬瓶の間でふたたび動かなくなる。みぞおちを突かれたヌビア人は身体をのけぞらせて、絶叫をあげる。

脇腹は、すばやくみぞおちにかわる。
主役があっという間に交代し、そこに共通の感情があらわれる。
主役は入れ替わり、起きている事件も違うのだけれど、男と女のあいだでうごめく感情、そのうごめきが共通のものとして、全体を統一する。
現代と古代、男と女の違いを超えて、感情が共通する。
これは、コルタサルの思想である。
整理した考え、行動を律する考えではなく、考えを破壊し、溢れる思いが時系列の時間を突き破り、思いの永遠を出現させる。破滅、死は、カタルシスによって浄化される。
溢れる思いが時系列の時間を、永遠の一瞬に変える。

コルタサルは意識の流れを、思いの流れに変え、ベルグソンに接近するのである。

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フリオ・コルタサル「ジョン・ハウエルへの指示」

2021-03-26 10:46:47 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「ジョン・ハウエルへの指示」

ピーター・ブルックに捧げる、という献辞がついている。そして、こう始まる。149ページ。

あとになって、つまり通りや列車の中、あるいは野原を横切っている時にゆっくり考えれば、すべてがばかばかしいものに思えたことだろう。

考えると思う。ふたつの動詞。これを入れ換えると奇妙な感じになる。なぜだろう。何度か書いてきたが、考えるというのは、秩序だてることである。因果関係、行動の時系列を整理し、論理の整合性によって、正しいかいなか、真偽を判断する。
思うは、そんなめんどうなことをしない。
その、考えると思うは、時の中で交錯する。だからこそ、コルタサルはわざわざ「・・・時に」と書いている。
でも、きょうは、その「時」に深入りせず、別の「時間」について書く。
ピーター・ブルックは演劇のひと。演劇とは何か。
最初の文に続いて、こう書いてある。149ページ。

劇場に入るというのは、不条理と手を結び、その不条理が効果的でしかも華やかに演じられるのを目にすることにほかならない。

不条理の定義は難しいが、不条理かどうかを判断するのは、考えることである。
自分のなじんでいる論理と合致しない。そのときが不条理。自分とは違う論理が世界を支配している。
演劇とは、そういう意味で、いつも不条理である。
自分とは無関係なひとが出てきて、彼らはそれぞれ自分の論理を生きる。特別な時系列がそこに、肉体と一緒に出現する。
そこに、観客は巻き込まれてしまう。
この短編では、ジョン・ハウエルは観客席から舞台に引き上げられ、芝居を強制させられる。彼の考えは無視され、芝居が続いて行く。
そのとき、ジョン・ハウエルの考えは乱れるが、同時に思いも乱れる。考えか、思いか、区別するのが難しい。
しかも。
ややこしいのは、演劇(芝居)は、一定の時系列で企画(脚本)通りに展開するものなのだが、考えだけでなく、思いも表現する。
演劇を評価するとき、登場人物の考えを中心に評価するのか、考えは気にくわないが、思いには同情してしまうというときは、評価をどうすればいいのか。
私は、思いの方に軍配をあげる。
たとえ殺人者が主役であっても、殺人者に同情し、共感することがある。
考えてみれば、奇妙である。不条理そのものである。

主人公は舞台に引き上げられてしまったがゆえに、つまり他人の考え、行動に自分をかかわらせてしまったために、不条理から抜け出せず、逃亡をつづけるのだが、このことは、コルタサルが自由を考えではなく、思いに重心をおいて生きていることを暗示していると思う。

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フリオ・コルタサル「正午の島」

2021-03-25 10:57:01 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「正午の島」

飛行機の窓から見える島にとりつかれたフライトアテンダントの男。137ページ。

週三回、正午にキーロス島の上をとぶというのは、正午にキーロス島の上を飛ぶ夢を、週三回見るのと変わるところがなかった。一切がくり返し現われる空しい映像でしかなく、しょせんは幻だった。

ここから、私は再び時間と思いについて考える。
繰り返し、同じことをするのはなぜか。ひとはなぜ、幻を繰り返し見るのか。
幻を空しい映像と判断するのは、考えである。
思いは、幻を幻と判断しない。
思いは、夢に酔う。判断停止。
そして、そこに充実を感じる。いつも同じ時間。日付の違いを超えて、同じ時間があらわれる。その、喜び。

考えは、こういう「進まない時間」を許さない。
考えは行動に移され、現実を変える。
現実が変わらなければ、それは考えと、考えを実行に移すときに、何らかの間違いが入り込んだのだ。

この作品の主人公は、思いに酔ったあげく、思いを実行に移す。つまり、思いを考えに変え、繰り返し同じ時間に戻るという生活から脱出しようとする。
こういうことは、だれでもすることだけれど、、、、。
問題は、考えを計画に変え、実行するということが、男の本質(思想、肉体)ではないということである。
つまり、思いを生き続けた人間は、考えを生きようとするとき、自己の肉体をはみ出し、肉体に裏切られる。
破綻、破滅、死。
この結末は、コルタサルの思想(肉体)の本質が、「思いの流れ」にあることを象徴的に暗示している。
コルタサルにとって、時間は、思いの横溢、繰り返しの充実の瞬間のことである。
いわゆる物理的、数学的な線上に流れる時間形式、時系列は仮の存在である。見かけの時間である。言い直すと、生きている時間ではない。
ベルグソンも見かけに時間と、自由な時間、時間の自由について考えている。コルタサルがベルグソンからなにかを学んだかどうかはわからないが、私はふたりのことばを結びつけ、時間の本質は時系列を破るいのちの充実にある、と考えるのである。

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フリオ・コルタサル「コーラ看護婦」

2021-03-24 10:56:10 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「コーラ看護婦」

文章の段落意識は、簡単に言えば、テーマが変われば段落を変える、ということだと思う。
テーマというか、言いたいこと、思っていることは、登場人物一人ひとりによって違うから、ある場面で登場人物がそれぞれの主張(思い)を語るとき、段落を変えるか、主張を明確に分別するために鉤括弧がつかわれる。
しかし、コルタサルはこの作品で、普通なら鉤括弧でくくる発言を鉤括弧なしで、地の文に溶け込ませ、溶け込ませたまま主人公を交代させる。
100ページ。虫垂炎で入院した少年を母親が心配している。

こんな毛布で寒くないかしら。念のために、手の届くところにもう一枚毛布を置いておくように言っておいたほうがいいわね。大丈夫、寒くなんかないよ。あーあ、あの二人が帰ってくれてほっとした。ママが僕を子供扱いするものだから、いつだって恥ずかしい思いをしなきゃいけないんだ。

前半が、母親の、看護婦(病院)に対する思い。それを、少年の大丈夫ということばで引き継ぎ、主役が交代する。
とてもすばやい。
大丈夫、は少年が実際に大丈夫ということばを口に出したかどうかわからない。
それを明確にせずに、少年の、「恥ずかしい思い」へとテーマが変わってゆく。
この文体がとても面白い。
作品の中心は、少年とコーラの「思い」がすばやく、まるでひとりの思いのように、ふれあい、融合するところにあるのだが、それを母親を登場させ、最初に方法を提示したうえで展開してゆく。
考えは、こんなふうに融合しない。議論になる、けんかになる。
でも、思いは口に出されないまま融合する。
そして、この融合が、入院中の時間を特別なものにする。それは少年の時間なのか、コーラの時間なのか。つまり、主役はだれだったのか、あいまいにし、それでいて、不思議な充実感がある。
意識の流れ(思いの流れ)が、自在、自由なのだ。思いが横溢し、それが私を飲み込む。

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森鴎外 第三巻 「藤柄絵」

2021-03-23 10:26:49 | その他(音楽、小説etc)

森鴎外 第三巻頭 「藤柄絵」

思うと考えるはどう違うか。
コルタサルから離れて、鴎外を読んでみる。
私の見るところ、コルタサルは思う人(文体)、鴎外は考える人(文体)である。
違う国語、違うテキストを利用してこんなことを書くのは乱暴なのだが、コルタサル論、鴎外論ではなくて、ただ私は思ったことを書く。

鴎外にとって、考えるというのは、どういうことか。「藤柄絵」の18ページ。(表記は一部変更)

この考えを前の考えと連結してみると、この未知の男は、偶然同じ紋の持主であるばかりではなくて、容貌までも自分に肖ていなくてはならない。

事実を連結する(石川淳なら積み重ねると言うか)。事実を踏まえて推論する。結論を持っている出すのが、考える、である。
これは、コルタサルの「合流」に通じる。
どこが違うか。13ページ。

作者が紙に書けば長くてくだくだしいが、実際これだけの思慮は、佐藤君の脳髄の中を、非常な速度をもって通り過ぎたのである。

思慮は考え。それは「非常な速度」を持っている。これは、充実している、ということである。充実、横溢、自由にあふれてくる。思いではなく、考えが人間を動かしてゆくのである。
鴎外も(鴎外の主人公も)、いろいろ思うけれど、思いよりも事実を踏まえて推論し、結論を導き出すことを、生きる基本にしている。
考えることで自分を律している。そのために、散文的にことばを動かす。
鴎外は、ことばは人間をつくる、ということを真剣に(正直に)追求したひとである、と私は考える。
コルタサルは、人間をつくるというより、人間を受け入れて、楽しんでいる、と私には思える。

どちらも、充実したことばの運動のなかにこそ、自由な時間がある、生きているいのちがある、と考えている、と仮定すれば、そのさきに、ベルグソンの「時間と自由」が浮かび上がってくる、と書けば強引過ぎるかもしれないが、私のことばの脈絡は、そういうところを動いている。

あすはまたコルタサルに戻るつもり。

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フリオ・コルタサル「合流」

2021-03-22 10:32:25 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「合流」

戦場。兵士が合流するまでを描いている。
この小説でも、考えると思うが交錯するが、考えるの比重が重い。理由は簡単だ。戦場(戦争)には作戦がある。具体的な行動と、その結果もたらされる勝利。考えるは、常に結論を持っている。それが自分にとって不都合であっても。
82ページ。

冷静にいろいろな可能性を考え合わせてみると、彼が殺されたという結論しか出てこない。

一方、思うは結論を持たない。
82-83ページ。

息子のことを思い浮かべるが、息子は今ここから何千キロも離れたある国にいて、ベッドで眠っているだろう。現実感がないせいで、そのイメージが薄れ、木の葉の間に消えてゆく。

思いは、消えても、何も問題はうまれない。個人の感覚である。必ず共有しないと生きて行けないものではない。
だからこそ、思いが共有されたときには、その人間関係が特別なものになる。
息子のイメージが消えたあと、83ページには、モーツァルトと戦場が交錯する面白いことばがつづく。主人公は、それを合流するべき相手が知ったら、「彼はさぞかし喜ぶだろう」と思う。思うは、書かれていないが。

考えるは現実を共有するが、思うは現実感を、つまり感じを共有する(享有する)ものなのである。
そして、この現実感というには、モーツァルトの氾濫するイメージのように、個人の肉体の内部から溢れてくる固有の時間、持続する自由な時間なのである。と、ベルグソンを思い出しながら、付け加えておく。
一方、考えるの方は、常に「現在時制」(80ページ)のなかで動き、それ以外のものを拒絶する。

コルタサルのなかで、考えると思うがどういう働きをしているか分析するには、この作品は最適なテキストになると思う。

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フリオ・コルタサル「病人たちの健康」

2021-03-21 09:35:04 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「病人たちの健康」

思うと考える。
スペイン語ではなく木村栄一の日本語訳で読んでいるので、私はコルタサルを誤読しているかもしれない。しかし、私はコルタサル研究家でもないし、翻訳家でもないから、気にしない。
本の内容よりも、私自身のことばの運動を大切にする。

この小説でも、思うと考えるが交錯する。

母親は病気。ショックを与えると死んでしまうかもしれない。だから、叔母が病気になったことを隠す。息子が死んだことも隠し、外国へ出張中ということにする。
心配かけたくない、は、思い。そのために、嘘をつく(真実を告げない)は考え。考えに基づいて、家族、医師、息子の恋人は行動する。考えが共有され、実行がある。
その間も、それぞれの思いは揺れる。特に息子の恋人は。
母は気づくか。
考えに気づくというより、思いに気づく。死ぬ間際に、こう言う。71ページ。

「わたしを苦しめまいとしていろいろ苦労したようだけど(略)本当に良くしてくれたね」
「私たちはもうこれ以上迷惑をかけないから(略)みんな、ゆっくり休んでおくれ」

私たちには母、息子、叔母がふくまれるだろう。(叔母は母に先立ち死んでしまう。)
みんなわかっていたのである。
そして、最後。
息子アレハンドロから嘘の手紙が届く。そのあと。71ページ。

手紙を読みながら、母が亡くなったことをアレハンドロにどう伝えればいいだろう、と考えていたことに思い当たった。

考えると思うが、続いて出てくる。
私は思わず、うーん、と唸ってしまう。
考え、行動は共有され、共有によって人間を支配する。持続力が長い。思いは、その持続を打ち破って噴出してくる。
この小説は、何度も何度も噴出してくることばにならない思いを、考えが押さえつけ、身動きできなくなる(後戻りできなくなる)のだけれど、その思いの乱れ(?)が、次々に主語がかわる文章で組み立てられていて、息もつけないくらいに早い。
ウルフよりも軽々としている。意識の流れというよりも、思いの流れ。

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フリオ・コルタサル「南部高速道路」

2021-03-20 14:29:39 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「南部高速道路」

フリオ・コルタサル「すべての火は火」(Julio Cortazar Todos los fuegos el fuego)の巻頭の作品。パリの、南部高速道路の渋滞に巻き込まれた人たち。テーマは、書き出しに明確に提示される。9ページ。

時計はいつでも見られるが、右手首に縛りつけられた時間やラジオの時報の音がもはや自分たちとはなんの関わりもないものに思えた。

時間と時計の違い。しかも、この文章に見られるように、その区別は明確ではない。手首にあるのは、時間ではなく、何時かを知らせる時計である。多くのひとはそれを混同する。コルタサルは、その混同を利用して物語を展開する。まことに巧みだ。
私が敬愛しながら、敬遠もするベルグソンなら、この混同を厳しく分別し、ここから時間論を展開するだろう。
私は、そんな哲学的なことはしない。しかし、先の一文が「思えた」で締めくくられていることは指摘したい。
ベルグソンは、考える。
コルタサルは、思う。
考えると思うは、どこが違うか。考えるは、いつでも事実を重視する。思うは、事実を無視して動くときがある。急に思いだし、急に思いついたことを、ことばは追いかける。それまで思っていたことを無視することがある。でも、考えるは常に今考えていることとの、整合性を求められ、整合性がないと破棄される。あとで活用されることもあるが、それは隠れていた事実が発見され、新しい思考の土台となるときである。
簡単に言い直すと、考えるよりも、思うの方が軽い。

コルタサルは、どこまでも、軽い。
その軽さは、イタロ・カルビーノの軽さとは違う。カルビーノはベルグソンを簡略化(?)した数学的、論理的高速性の軽やかさ。
コルタサルは、ウルフの、意識の流れのスムーズな軽み。深刻なのに、ありふれている、そういうことまあったなあ、と思い出すような軽さ。

この短編では、渋滞は夏にはじまり雪もふる。季節はさらに変わる。人が死に、若い女性は妊娠する。つまり、日常の時間が、渋滞の時間をのっとって行く。時間ではなく、時計で計測する、という不思議な展開をする。
「間違い(ありえない)」という考えを、「こう思う」が乗り越えて、あふれ、暴走する。車は渋滞するが、思いは暴走する。
24ページ。

車が動かず何もすることがなかったので、人々はあれこれ憶測を逞しくしたり、

という文がある。「逞しく」はスペイン語でどう書かれているかわからないが、考えよりも思い(憶測)の方が強い。ひとを支配する。
このことをコルタサルは利用して文学をつくっている。

小説の終わり、渋滞が解消し、車が次々に動き出す段落に、次の一行がある。43ページ。

これまでの生活が一瞬のうちに崩壊するなんて考えられない。

「考えられない」けれど、主人公は「思い」つづける。
だから、これは、渋滞のなかで主人公が思いつづけた時間を書いていると言い直すこともできる。

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ベルグソン「時間と自由」

2021-03-19 10:40:20 | その他(音楽、小説etc)

ベルグソン「時間と自由」

時間について考えるとき、もう一冊、忘れられないのが、ベルグソンの「時間と自由」。
この本も、ハイデガー「存在と時間」と同じように、よくわからない。手とハンマーのように、私が知っているも出てこない。抽象的で、とても困る。
私は、「持続」ということばに注目して、かってに考える。
「持続」とは「充実」である。これは特に感情、意識、精神の充実と言い直すと、いわゆる「意識の流れ」の文体に直結する。自在な流れを、「自由」と読み直せば、私のなかで、ジョイス、ウルフ、コルタサルはつながる。
この感じと、鴎外の「正直」を結びつけることは、たぶん、多くの人には予想外かも知れないが、あるできごとを自己を捨てて見つめるとき、そこに他者(もの)独自の運動が自律してくるときがある。他者(もの)が独自に、つまり他者の自由意思で動く瞬間がある。それを、鴎外は散文で再現する。
で、これは、私の中では、石川淳への通路なのだが、まあ、これ以上は説明が面倒くさい。
私は、ベルグソンが「継続」「自由」と呼んでいるものを、「いのち(肉体)の充実、感覚の横溢」と読み直している、とだけメモしておく。

小林秀雄の文体は(文章は)、たぶん、ベルグソンの思想の延長線上にあると思うのだが、小林秀雄は「数学的論理」から逸脱しているので、私にはやはり難解すぎる。勝手きままなわがままな文章に見える。
鴎外や石川淳に比べてという意味だが。

こんなことは、メモのメモのようなものだが、入院中でなければ書かないだろうなあ、と思いながら書いている。

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フリオ・コルタサル「牡牛」「夜、あおむけにされて」

2021-03-18 11:37:43 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「牡牛」「夜、あおむけにされて」

二篇は「遊戯の終り」に収録されている。
やはり時間が伸び縮みする。

時間、といえば、ハイデガーの「存在と時間」。もう40年以上前だが、岩波文庫で三回読んだ。でも、さっぱりわからない。日本語訳(です、ます調だった気がする)がなじめず、理解することをあきらめてしまった。
でも、読んだので、ずいぶん影響を受けている、と思う。
特に、ハンマーと手とものとの関係。肉体を通じて世界に働きかけて行く、という考えは百姓仕事をしてきた私には、思想とは肉体であるという意識になってしみついた。

それがコルタサルとどう関係があるのか。
わからないが、私は、なんとなく、コルタサルを読むと、時間と意識、時間と人間について考えてしまう。
「存在と時間」ではなく、「人間と時間」。そしてそれは、「人間とことば」という具合にずれてゆく。
時間はことば、ことばは時間として見えてくる。

ことばは、時系列通りに動かない。遠い過去を、一瞬前より鮮やかな事実として存在させてしまう。そして、その事実というのは、なんというか、意識、感覚の充実なのだ。充実した肉体が、何も存在しない場(たとえば死が生まれる場)にあらわれてきて「生きている」をつくりだしてしまう。
「あのネズミ、殺さなければ死んでしまう」というせりふがベケットの戯曲にあるが、その感じ。死んでしまうのに、まだ生きている、しかも死ぬために。

不気味なのは、そこから、では生きている時間とは何か、時間を生きるためにどうすべきか、というところへコルタサルのことばは動いて行かない。
こういう時間、こういう肉体があったと、まるで悪夢のように鮮明に語る。

でも、そのことばが、私は好きなんだなあ。

個別の感想ではなく、その周辺で考えたことを書いてみた。

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フリオ・コルタサル「夕食会」

2021-03-17 13:37:05 | その他(音楽、小説etc)
フリオ・コルタサル「遊戯の終わり」

この短編集にはいくつかのジャンルのものが含まれているが、私は伸び縮みする時間を描いた作品が好きだ。物理の、あるいは壁にかかっている時計とは違う独自の時間が動く。
「夕食会」は往復書簡で構成されている。招待客のひとりが自殺する。それは、手紙が出されたあと(夕食会が開かれたあと)か、前か。
まあ、これは読者が判断すること。どっちでもいい。
ひとは、ことばを使って考えるが、ことばをつかっていると、時間は必ずしも直線状には流れない。思い出が、過去が、ある瞬間を突き破って噴出する。それは、今なのか、それとも未来の予告なのかもわからない。
「時間、それは戯れに独楽を回す子供」というヘラクレイトスのことばが冒頭に書かれているが、時間はむしろ動いている限り人をひきつける魅力がある。事実か嘘かではなく、動く時間は現実なのだ。

と、書いて、私はウルフを思い出す。意識の流れ。意識とは、時間である。そして、ジョイスも思い出す。意識の流れ。
ウルフの文体は、内部から流れるにまかせる艶やかな輝き。ジョイスは、むしろ意識的に流れを誘い出している。どこか構築的だ。

コルタサルも、構築的なのかも知れないが、不思議に無造作なところ、子供の無防備な自然さがある。ウルフに近いと私は思う。
他人に関係なく、主人公の意識は動くのだ。
この、往復書簡も、相手のことを気遣うことばを使いながらも、自分の意識をそのまま垂れ流すところがある。つまり、自分にとって都合がいいように。
意識、あるいは頭脳とは、自己保身のためなら時系列を変更することくらいなんでもないことなのだ。

そんなことがテーマではない、とコルタサルファンはいうかもしれないが、私は、かってにそう読むのだ。
充実したことばが時系列時間をつきやぶって、横溢する。独自の「持続」を成立させる。

「石蹴り遊び」は、そういうことをしめす象徴的作品だが、また別の機会に。
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