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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

倉田比羽子「横顔」

2006-09-30 23:36:45 | 詩集
 倉田比羽子「横顔」(「現代詩手帖」10月号)。
 「現代詩手帖」10月号の特集「現代詩手帖賞を読む」の1篇。79年3月号の作品。短い作品である。短いけれど、私は2度つまずいた。

どこまで行けば
青い横顔に叢繁れば
人に伝えることが失くなる
理由(ワケ)を知る由無し言も
空空(カラカラ)、乱暴に使いこなすことで
壊されたり担ぎだされたり
忙がしい午後を日干し吊りにする
軋む背に支えられる魂に
観念が伝えるものは像をよぎる
この温和な小春日和を
心地良しとする意味はつよい

道をひとつ超えれば
遠ざかる不可思議な木や森
たくさんの道具を使っても通じなかった
切断や接続の仕方
しかし、木を切る人
森を駆ける人に意味をもたせて
私たちは想像した
読み易い奥の細道よ
どこまで行っても
横顔湿る叢のしたで
人に伝えることか伝えられることかと欲望に
迷い
詠むことがら、像を顕す
空空(ウツウツ)、下を向き
どこまで行く

 「意味」。このことばが2度出てくる。「意味」とは何なのだろうか。それは倉田のことばを借りて言えば「切断と接続」だろう。単独では存在しない。
 何かを「切断」する。そのとき、その存在は、直接「私」と結びついてしまう。たとえば「小春日和」を「観念」とも「横顔」とも切断してしまう。すると「心地良い(良し)」という感覚と結びついてしまう。私の中の肉体と結びついてしまう。そうした「接続」、「切断」によってふいにあらわれる「接続」はとても強い。拒否することができない。直接的である、ということが「つよい」ということである。
 何かを「接続」する。それは「私」のなかにあるものというよりも、むしろないものを「接続」することだ。「私」のなかにないにもかかわらず、あるいはないからこそ、それは「私」以外のものとやすやすと結びついてしまう。「想像」とはそういうことだ。「想像」するのは感覚というよりも精神(頭脳)である。頭脳の助けを借りて、「意味」を「もたせる」。「接続」する、とは「意味をもたせる」ことである。「意味」をつくりだすことである。それは「頭脳」のなかでのできごとである。
 「切断」したとき、「意味」はどこからともなくやってきて、直接体に、肉体に結びつくのに対し、「接続」するためには、「意味」を頭の中でつくりだして、私の外にあるもの、私以外に預けるしかない。

 この詩には「意味」と類似のことばがもう一つ出てくる。「伝える」。
 小春日和は心地良い、というのは「意味」というよりは感覚である。だからこそ、「伝える」「伝えない」とは関係無しに伝わってしまう。伝わってしまって、「意味」ではないにもかかわらず、「意味」のように他者にも影響してしまう。それくらいに「つよい」のである。

 さらにもう一つ「意味」に類似したことばもある。「観念」。
 これを伝えるためには、それを誰か(何か)にもたせなければならない。直接的には伝わらない。それが間接的にしか伝えられないものであるからこそ、その「間接的」ということのなかに「想像」という精神の動きが入り込む。

 倉田の詩には、肉体的なものと観念的なもの(頭脳的なもの)が微妙に絡み合っている。その絡み合いを倉田は切断と接続で立体的に(空間的に、あるいは宇宙的に)、再構成しようとしているように感じられる。


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李相日監督「フラガールズ」

2006-09-30 23:34:56 | 映画
監督 李相日 出演 松雪泰子、蒼井優、豊川悦司、富司純子

 ただただ泣かせて泣かせて泣かせて泣かせる映画である。劇場中、涙涙の大洪水である。そして、この涙がまた強烈である。涙はもちろん人間が共感したときに流すものだが、その共感が「ああ、いい映画だった」を通り越して、「あ、福島県いわき市へ行って本物のフラガールズのショウを見たいなあ」ということろまで広がる。
 なぜいわき市までいかなければならないか。ほかのハワイアンショウではななぜだめなのか。それはフラガールズのハワイアンショウがハワイアンショウではないからだ。いわき市の炭鉱離職者の生活そのものだからである。
 この映画の見どころは、ひとつはもちろん炭鉱の女性たちが徐々にフラダンスが上手になっていく過程にあるが、もうひとつは炭鉱の街の生活にある。それをこの映画は克明に描いている。ひとつの職業を共有することによって生まれる共通感覚(団結というような気取ったものではなく、同じ仕事をすることによって、何もかもわかってしまう肉体的な感覚)を濃密に描く。
 それはたとえば主人公の少女をフラガールに引き入れた少女が北海道へ引っ越していくシーンにあらわれている。去っていくトラック。追いかける少女。ごくごく見慣れたシーンだが、そこでふたりの少女は「さよなら」「元気で」とは言わない。「じぁあな」と叫ぶ。手をちぎれるようにしてふりながら「じぁあな」と叫び続けるのである。
 いわき市では、その炭鉱の街では、誰もが別れるときに「じぁあな」と言うのだ。それはもちろん「さよなら」「達者で」という意味であることは見てすぐにわかるが、だが、そうした「理解」は頭で理解したことにすぎない。本当にわかるには、いわき市へ行って「じぁあな」と言える友達ができなければ、わかりっこないのである。そういう、わかりっこないものがあるということを、ふたりの少女は本当に手がちぎれんばかりに振って、感情も抒情もあったものではないというくらい、ただただ力任せに振って表現する。まるで、手を振ることで、空気をふるわせ、その振動(?)を相手に伝えようとしているかのようだ。
 そして、実際に、少女たちが伝えあっているのは、感情ではなく、空気そのものの振動なのだと思う。生きているとき、そこに空気がある。同じ空気を吸っている。空気の中に、悲しみも喜びも溶け込んでいる。それをふるわせている。そのふるえがわかるということが、生活を共有することなのだ。
 こういう空気を描き出してしまえば、もうあとはスクリーンからは、いわき市の空気しか流れてこない。最後までいわき市の空気を観客は呼吸し続ける。そして、映画がおわった瞬間、あ、あの空気を吸いにいわき市へいかなければ……という思ってしまう。

 この映画では富司純子がとてもいい演技をしている。生活すること、しっかり生きることが人を美しくさせる、と心底感じさせる。

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伊藤比呂美「せいたかあわだちそう」

2006-09-29 14:45:06 | 詩集
 伊藤比呂美「せいたかあわだちそう」(「現代詩手帖」10月号)。
 「現代詩手帖」10月号の特集「現代詩手帖賞を読む」の1篇。78年4月号の作品。投稿欄で読んだ記憶がある。「せいたかわあだちそう」というタイトル、そのひらがな表記と、次の行を鮮明に覚えている。

ほんとうにこれはせいたかあわだちそう
あたしもあたしの両手をのばし
つるされた茎のように
ゆらゆらと
およぐ
そこに
あたしのにおいが残る
そうあるべきではないのに
性を所有してあるく人間たちと同じようにあたしはにおう

 私は「あたしのにおいが残る」という行に惹かれた。同時に「性を所有してあるく人間たちと同じようにあたしはにおう」に何かいやなものを感じた。特に、その2行のあいだにはさまれた「そうあるべきではないのに」という行に非常にいやなものを感じた。
 伊藤自身を他者から切り離してみつめる視線にいやなものを感じた。
 だが、たぶん、そのとき私は誤読していたのだと思う。
 伊藤は、この自己と他者を切り離した部分から、さらにいっそうその切り離しの距離を拡大していくのではなく、切り離しながら自分を出していく。自分を、切り離したはずの人間の方へつないでいく。そのとき、切り離したすべての人間と自分をつないでいくのではなく、自分と共通の世界をもっている人間をつないでいく。これは一種の差別につながる危険な動きだけれど、伊藤は、その危険をとてもうまくくぐり抜ける。人間ひとりひとりとつながるというよりも、人間が彼自身(彼女自身)もっている肉体の中に眠る何か、生理とか、欲望とかとつながっていく。そういう肉体の内部にあるもの、ことばになりきっていないものとつながっていきながら、個人ではなく、人間という「普遍」へとつながっていく。
 その兆し、萌芽が、

あたしのにおいが残る
そうあるべきではないのに
性を所有してあるく人間たちと同じようにあたしはにおう

という3行に、すでに書かれていたのである。この「個人」ではなく、人間の「普遍」と自己をつなげる、そういうつながりのなかに伊藤は伊藤の肉体をもって入っていく。伊藤の肉体を「つなぐ」ときの触媒にしている。そのとき、肉体は消費される。消耗する。その結果、しかし、肉体が残るのである。豊かな肉体の可能性が残るのである。人間は結局肉体であり、触れ合い、ぶつかりあい、愛し合い、憎しみ合い、そのときときの感情(このことばだけではあらわせない、人間のもっているすべてのもの)を浮かび上がらせるのである。

せいたか、あわたち、そう
わたしはしゃがんでこどもにおしえる
背い高、
「アワダチソウ」
こどもの背に父親の血はながれない
優性遺伝の貧血症を抱いて
おさないままにしんでしまえ
あたしの背には
暖かいものを当てる な

世代をつなげて
衰えてゆくのだ

 「世代をつなげて」の「つなげて」に伊藤のすべてがある。今の伊藤なら「つなげて」とは書かないかもしれない。「つなげて」ということばをつかわずにつながりを描くだろうと思う。
 約30年前、伊藤は「つなげて」と書くしかなかった。
 「そうあるべきではないのに」と書いたために、それを乗り越えるために、そのことばが必要だったのだと思う。

 この作品には、詩人の出発点をあらわしている。出発点だけがもつ矛盾を抱え込んでいる。出発とは単に前へ進むだけではない。後ろを捨てることである。そして、不思議なことに、前へ進めば進むほど、後ろはつながっていく。後ろは後ろへと伸びていく。そのはてしない距離の中で「そうあるべきではないのに」という一瞬の思いは吸収され、すべては「そうあるべき」にかわる。「そうあるべきではないのに」を「そうあるべき」にかえるために、ひとは出発する。伊藤は「詩」を書く。
 そんなことを思いながら読み返すと、書き出しの何と美しいことか。

秋のきりんそうはいつだってゆらゆらしていた
夏であったころ
鉄橋を北上して青いきりんそうをみた
ごろごろごろごろ
ころがってゆく音のあいだに
きりんそうはかたまりをつくり
目の前をすぎる

 「音のあいだに」の「あいだに」。
 いつでも、何にでも「あいだ」はある。その「あいだ」に何を私たちは差し挟むのか。そしてつなげるのか。そうすることで、どんなふうにして世界を新しくするのか。
 伊藤の冒険、伊藤の挑戦は、その書き出しにもあらわれているのである。

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アレハンドロ・アグレスティ監督「イルマーレ」

2006-09-28 23:58:14 | 映画
監督 アレハンドロ・アグレスティ 出演 キアヌ・リーブスサンドラ・ブロック

 韓国映画の同名作品をハリウッドがリメイクしたもの。
 こうした純愛ものは出演者がすべてである。その点から見るとこの作品は完全な失敗作である。少なくとも私にはまったくおもしろくない。サンドラ・ブロックという女優が私は大嫌いである。表情にオーラがないどころか、まったく動かない。ときどき目をしょぼしょぼさせる。どうやら悩んでいる、悲しんでいるという演技らしいが、その唯一演技する目も私は大嫌いである。
 純愛とはすべて「初恋」である。初恋とは次に何が起きるかわからない、自分自身で何をしていいのかわからないまま、それでも何かをしなくてはいられないこころである。サンドラ・ブロックにはそういう演技ができない。脚本を読んでストーリーを知ってしまっている。役者だからそれは当然なのだが、そのストーリーを知っているということが演技に出てしまっている。
 この映画を見ながら、サンドラ・ブロックではなく、たとえば若いときのオードリー・ヘップバーンが演じたら、この映画はどうなっただろうかと思った。オードリー・ヘップバーンは何歳になっても「初恋」を演じることができた。すべてが「初恋」だった。「ローマの休日」も「昼下がりの情事」も初恋だった。はめもはずせば、男の心を引きつけるために嘘もつく。背伸びをする。そして背伸びをすればするほど若さが輝く。どうなるかわからないことを実行するとき、頼りになるのは彼女自身の若さ、どうなってもかまわない、どうなってもかまわないと思いながらも夢を受け止めて、ちゃんとリードしてという願いが、体全体から発散する。その不安定できらきらした輝き。それが初恋の美しさである。それが美しいから、どんなハッピーエンドであっても、ただただ美しい。
 実際に若くもないサンドラ・ブロックが動きのない顔で、目だけしょぼつかせて演技したのでは、ストーリーの嘘だけが浮いてしまう。この映画にあったかもしれない「詩」をサンドラ・ブロックの能面のような顔が壊してしまった映画である。
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山口哲夫「風雲録」

2006-09-28 23:32:21 | 詩集
 山口哲夫「風雲録」(「現代詩手帖」10月号)。
 「現代詩手帖」10月号が「現代詩手帖賞を読む」という特集をしている。歴代の受賞者の作品を1篇ずつ、計62篇収録している。読んだことのある詩もあれば読んだことのない作品もある。
 山口哲夫は私が「現代詩手帖」を読んだこともない時代に受賞した詩人である。その詩がおそろしくかっこいい。「風雲録」。

じじもぎの木の向う
罅われまんまの降るあたり
おんば日傘のかさぶた小僧が
おどろなイドラに身体じゅう
骨がらみ骨うずき
果てはもっぱらの中っ腹さげ
あやめ笠をばたおやめぶりに
みぢん斬り
まわし蹴り
さても空間は盲ら縞もよう
そのやみらみっちゃが病みつきで
じじもぎの実の腫れるかわたれ時
尻ばしょりの韋駄天ばしり
せんずり峠の伏魔殿すわか
能鷹まなこの錦(きん)切れ野郎め!
輪ぎり前げり五月(さつき)なげ
犬の糞もて泥縄かけて
女日照りの仇を打った
 (してまた床(とこ)ずれの
  骨がらみ骨うずき
  じじもぎの花の贋の青さに)

 69年7月号に掲載された作品らしい。
 この作品に出てくる「じじもぎ」の木というものを私は知らない。「罅われまんま」というものも知らない。おそらく山口が創作したものだろう。ことばをかえて言えば「偽物」だろう。この「偽物」の疾走に、この詩の特徴がある。というより、「詩」そのものがある。
 この作品には、「偽物」と同時に、「尻ばしょり」「韋駄天ばしり」というような古くからあることばが混在している。混在することによって、「偽物」も、「本物」(?)と同じように、一種の気の暴発(それこそ、風雲をもたらす豪傑の気が引き起こす錯乱、あるいは覚醒)だと告げる。
 「偽物」と「本物」が混在したまま、一気に駆け抜ける。そのスピードが、そしてその飛躍の多さが、同時に「せんずり峠」というようなやくざな肉体のしなやかさが、そのことばの奥に強靱な肉体を感じさせる。やくざな若者が好き勝手し放題をしているエネルギーを感じさせる。豪傑の登場とはこういうものであろうということを感じさせる。
 「豪傑」というもの、「風雲」を告げるものは、もともと「日常」の基準では把握できない。「豪傑」がもたらすものが「日常」に対して、善であるか悪であるか、そんなものはわからない。わかるのは、その「豪傑」によって、とんでもないことが起きるという喜びである。「日常」を破壊していく力が今動いているという感じ、その登場の時間を共有する喜びである。
 何が起きるかわからないから、そのまねをする。まねをすることで「豪傑」の力を自分自身のものにする。そういう一種の錯覚のかっこよさ、錯覚できるだけの肉体の覚醒のかっこよさというものがある。
 そして、それは日本語それ自体のかっこよさである。「古典」のかっこよさである。「芸」のかっこよさである。「芸」に論理的意味などない。「芸」は肉体を刺激するだけである。「肉体」のなかに眠っているあいまいな意識を刺激し、論理的にはつながらないものをつなげて見せる。そして、その結合の中から意味ではなく、とんでもない「肉体」そのものの動きが生まれる。その動きがつくりだしたものが、あとから「意味」として語られることもあるが、それは「肉体」にとっては無意味である。「肉体」にはただ今までと違った動きをする喜びだけが大切なのである。
 そうした歓喜、愉悦を、山口は、ことばのなかでやってのけたのだ。かっこいい、としか言いようがない。


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 瀬尾育生「極東」

2006-09-27 15:12:26 | 詩集
 瀬尾育生「極東」(「現代詩手帖」9月号)。
 詩を読んだとき私をひきつけるものはいくつかあるが、そのひとつはリズムの一貫性である。もうひとつは対象とことばの距離の一定感である。これはもしかするとおなじものかもしれないが……。
 瀬尾の作品にはいつもそのふたつがある。

組成される最初の塵たちから分泌された物語が均質な時間のなかに配布されたあとで、背後から捕捉する振動を後方に向かってプロジェクトする別の物語を呼び起こす置換のための語法は、

 引用した文章の「主語」は末尾の「語法」であり、それ以前のことばはすべて「語法」を修飾するためのことばである。そして、主語「語法は」の述語はここには書かれていない。何も書かれていない。
 そして書かれていないことがこの詩を成立させている。述語の選択は読者に任されている。どうやって述語を自分のことばの倉庫から引き出すか、引き出しながら瀬尾のことばに向き合うか。瀬尾のことばを借りて言えば、どうやって瀬尾が引き起こすことばの振動に対処しながら自分のことばを物語として組み立てるか、組成するか、そういうことが要求されている。
 この書き出しは書き出しだけで詩なのである。あとにどんなことばがつづこうと関係がない。ただし、条件がある。「均質な時間」ということばが作品のなかにあるが、瀬尾のことばの均質なリズム、均質な距離感でことばを探し出すとき、そこに均質な時間があらわれ、瀬尾のことばに向き合える。そうした条件に合えさえすれば、すべてが「詩」になる。
 これは簡単なようでなかなか難しい。
 瀬尾のことばは、いくつかの矛盾というか、逆のベクトルをひとつづきのことばのなかに抱えこんでいて、その拮抗する「別」方向(これを瀬尾は「別の物語」と書いているが……)がおのずと時間、空間を立体化させる性質のものであるからだ。ひとつの決まった方向ではなく、常に先行する方向にあらがうベクトル。均質(拮抗)は、そのあらがいのなかにこそあるからである。

 2連目以降は、瀬尾自身がサンプルとして掲げた複数の「述語」として読むことができる。2連目以降のことばはそのままつづけて「物語」として読むこともできるが、むしろ、常に1連目へ引き返しながら独立した「物語」として読んだ方が、「振動」が引き起こすさまざまなバリエーション(複数の世界)として楽しむことができるだろう。
 そして、そのバリエーション、あるいは複数を複数のまま、1連目の主語に結びつける(粘着させるといった方がいいかもしれない)とき、瀬尾のことばの力業の、その力そのものが、よりくっきりと伝わってくるように思える。
 瀬尾は、ことばを動かす筋肉、ことばの肉体そのものを、ことばというより肉体として提出している。肉体の動きはとてもおもしろい。ある動きをするときは肉体のなかに常に逆向きのものがある。走るとき、右足を前に出せば左足は後ろへ押しだされる。そういうものがバランスをとって一連の動きが完成する。それに似た、ことばそのものの肉体の動き--それを、粘着力のある文体で瀬尾は描き出そうとしているのだと思う。
 「物語」ということばが出で来るが、瀬尾が書いているのは「物語」そのものではなく、「物語」を生み出すことばの筋肉、ことばの肉体のありかたである。ことばの肉体さえ提出すれば、おのずと「物語」はついてくる。まず「ことばの肉体」がある。
 「詩」とは「ことばの肉体である」、と瀬尾は考えているように思える。

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黒木和雄監督「紙屋悦子の青春」

2006-09-26 23:52:06 | 映画
監督 黒木和雄 出演 原田知世、永瀬正敏、松岡俊介

 冒頭、病院のシーンがとても長い。まるで芝居である--と思って見ていたら、原作は松田正隆の同名戯曲だった。「父と暮らせば」につづいて黒木和雄は戯曲を題材に映画を撮っている。黒木が訴えたいのは戦争の非人間性である。最後の部分に「明日があるということのしあわせ」というようなことばが出て来るが、「TOMMOROR/明日」以来、黒木は「明日」を突然奪ってしまうのが戦争である、「明日」を奪ってしまうから許すことができない、と訴えている。それはとてもよくわかる。よくわかるが、映画そのものとしては、冒頭のシーンが長すぎる。また、原田知世、永瀬正敏の若い二人に老人を演じさせることにもむりがあったように思う。会話から「きのう」が伝わってこないのである。
 「きのう」は会話とは別に「きのう」そのものとして映像化される。つまり、この映画の主題である「紙屋悦子の青春」が芝居で言えば劇中劇のようにして差し挟まれる。
 「きのう」の部分、特にお見合いでおはぎを食べるシーンは芝居では伝えることのできない表情のアップが美しい。おいしいものを食べるという手の動きが美しい。こういうシーンがもっとあればいいのに、とどうしても思ってしまう。
 映画には映画が得意な描写がある。芝居には芝居の得意な描写がある。冒頭の病院の屋上のシーンなどは、同じことばの繰り返しだが、客の目の前に役者の肉体があることによってせつせつと胸に響く(と思う)。これが映画だと、ちょっとそらぞらしい。映画は役者の肉体をも伝えるけれど、こういう動きの少ないシーンでは、人生がろこつに表に浮いてしまう。どんなにメークに凝ってみても、実際の人間の皺には到達できない。皺が抱え込む時間には到達できない。体温というか、空気を伝えることができない。黒木はたぶん原作の松田に敬意をはらって、冒頭のシーンを戯曲のまま再現したのだろうけれど、映画には不向きなシーンだと思った。
 この冒頭がもっと簡潔に処理されていれば、この映画の印象はもっと強くなったと思う。

 黒木作品で私がもっとも好きな映画は「美しい夏キリシマ」である。何よりも宮崎・霧島の風景、光が美しかった。戦争、人間の引き起こした破壊行為とは無関係に輝き続ける自然。そのなかにあって、人間は苦悩する。不倫もする。すべてを受け入れて、あるいは拒絶して、絶対的な存在としてそこにある自然。こんなにこんなに自然は美しいのに、人間は、やっぱり悲しい。苦しい。その対比の中に、生きていることの意味が浮かび上がる。人間は自然のように絶対的な美しさにはかなわない。しかし、苦悩する中に、人間の美しさが輝きだす。悲しみの中に人間の美しさが輝きだす。その輝きがいっそう輝きをますためにも「明日」はなくてはならない。いのちは「きのう」でおわってはならない。そういうことを、しっかり感じさせてくれる映画だった。


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田中庸介「すいか」

2006-09-26 23:42:28 | 詩集
 田中庸介「すいか」(読売新聞9月19日夕刊)。

引越し祝いにすいかをもらった。
友人の夫妻がわざわざ朝早く
団地の玄関まで持ってきてくれた。
私が朝のごみを捨てて上がってくると、
友人が手をふるふる振って帰るところだった。
奥さんも手をふるふる振って帰るところだった。
立派なすいか割りに使えるほど大きな、
うちの冷蔵庫に入らないほどの大きな、
緑と黒の縞模様のすいかだ。
すいかの国では頭がすいかだ。
みずみずしい、
赤と黒の想念のかたまりが、
ジューシーな頭の中にぐるぐる回っている。
ところどころに白いシイナ、
黒い種にはかっちり愛がつまっている。
すかっと出刃包丁で解体すると、
甘い甘い想念が、頭からわらわらと流れ出し
夏の道路の上にこぼれ落ちる。
ああもったいない。もったいないよ。
午後には暑くなって
はじめての客が来た。みんな
二切れずつ食べて「おいしい。こんなおいしい
すいかはない」と言ってもう一切れに
また手がのびた。水餃子を作って
夜の公園で花火をやって
残ったすいかはラップをかけて
明日の朝、妻と二人でたべようと言っていたのに
ついつい忘れてそのままになった。
ことしの夏はすいかを食べた。

 とても単純な詩である。友人夫婦からスイカをもらった。食べた。そういうことを書いている。それなのに引きつけられる。

すいかの国では頭がすいかだ。

 という1行が強烈だからである。何のことかわからないからである。わからないけれど、なぜか、頭の変わりにすいかを乗せている人間がいる国を思い浮かべてしまう。田中のことばのスピードは、そういう変なものを可能にしている。読者の意識を、ことばの自然なリズムに乗せてしまう。ここに田中の詩のおもしろさがある。
 頭がすいかということは、頭がみずみずしいことだ。赤と黒の想念のかたまりが、ジューシーな頭の中にぐるぐるまわっていることだ、と田中のことばのままに、それを思い浮かべてしまう。
 ここに登場する「想念」ということばは観念的なことばであり、厳密に定義しようとすれば難しいけれど、今では日常的に誰もがつかってしまっている。田中はこういうことばを詩の中に自然に取り込み、それを魅力的に輝かせる。
 この「想念」ということばが登場した瞬間から、「頭」は「想念」そのものにとってかわられ、「おいしい想念」というものがあるとしたら、それは今目の前にあるすいかのようにみずみずしくてジューシーなものに違いないとさえ思ってしまう。そういうものをすいかを食べるように食べたいと思ってしまう。そう思い込ませる不思議な文体の力が田中にはある。
 切れば、そこからみずみずしい液体が、甘い甘い液体が溢れだし、こぼれてしまう。「ああもったいない。もったいないよ。」と叫ばずにはいられないほどのジューシーな「想念」。そういうものがあれば、どんなにすばらしいだろうと思う。そうした想念で手をべたべたにして、口の周りもべたべたにして、おいしいおいしいといってかぶりつきたい。「想念」とはそういうものであってしかるべきだ、と思ってしまう。
 すいかと「想念」は本当は同じ次元のものでなくてはならないのだ。
 たぶん田中はそういうことを言いたいために、この詩を書いているのだと思う。
 そして、そういう一種の哲学的なことを書きながら、ことばを日常そのものへ帰してしまう。同じ次元へ帰してしまう。すいかをもらった。大きくて冷蔵庫に入らないので包丁で割って冷蔵庫にいれた。客がきたのですいかを出した。おいしいといって食べて帰った……。
 まるで「想念とはジューシーであるべきだ」という哲学(思想)を隠してしまいたがっているようでさえある。
 しかし、これは隠しているのではなく、思想というものは、そんなふうに日常に紛れている。日常の中にしか哲学や思想は存在しない。すいかのみずみずしさ、ジューシーさ、切ればこぼれる豊かな甘いにおい、それをみずみずしいと感じるこころ、ジューシーと感じる肉体、甘いと感じる感覚--そういうものこそ、本当は「想念」そのものなのである。そういうものが含まれない「想念」などはない。そう告げたいのだと思う。

 田中の詩を読むと、田中はすいかについて書いたのか、それとも理想の想念についての思いを書いたのか、よくわからない。両方を書いたと思うのが一番いいだろう。すいかと想念は同じ。みずみずしくて、ジューシーで、甘いのが一番。
 ここには、田中の肉体でつかみとった「真実」がある。それが美しい。



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アレクサンドル・ソクーロフ監督「太陽」

2006-09-25 23:57:33 | 映画
映画「太陽」
監督 アレクサンドル・ソクーロフ 出演 イッセー尾形、桃井かおり、佐野史郎

 とても印象深いシーンがある。東京大空襲。B29が爆弾を落すのではなく、ハゼだろうか、胸ビレの大きな魚が爆弾のかわりに小さな魚を産み落とす。そして、その魚たちは、地上の炎を気にするでもなく、熱のためにゆらゆら揺れる空気のなかを、悠然と、水中を泳ぐように泳ぎ回る。これはもちろん現実ではなく、昭和天皇の悪夢、あるいは幻想なのだが、そのシーンの映像が、他の天皇のシーンと同質のセピア色のなかに閉じ込められているので、空襲のシーンが幻想なのか、天皇の日常の方が幻想なのか、あるいは両方とも幻想なのか、区別がつかなくなる。
 この区別のなさが一番奇妙なリアリティーで迫ってくるのは、「敗戦」の瞬間、いわゆる「玉音放送」が映像として欠落している部分である。空襲の悪夢・幻想がおわったかと思うと、天皇は突然、皇太子に手紙を書いている。それはまるで、そうしたシーンの前にあった今日の予定の、御前会議があり、生物の研究があり、皇太子に手紙を書くと侍従が告げた1日のできごとのように見えてしまう。「敗戦」という画期的な事件が欠落し、まるで天皇の「日常」だけは何にも影響されずに連続しているという印象で迫ってくる。
 スクーロフがこうした欠落と連続を意識して描いたのだとすれば(たぶん意識していると思うが)、これはたいへんな天皇批判である。今まで私が見てきた(読んできた)天皇批判の中でもっもと鋭い批判である。
 天皇には天皇の日常しかないのである。用意された朝食を食べ、用意された会議に出席し、用意された研究にふけり、「私を愛しているのは皇后と皇太子たちだけだ」という物思いにふける。その世界を守るためには、外交にたけた口ぶりも見せれば、おちゃめなユーモアも見せる。「あ、そう」という独特の、自己と他者を切り離す話法もくりひろげる。
 「敗戦」(玉音放送)という日本人にとってけっして忘れられない瞬間を省略し、そのかわりに、たとえば口臭を気にする姿、どきどきしながら天皇に服を着せる老人の額に浮かぶ汗を見る視線、平家蟹をみつめてうっとり自分の見解に酔い、皇后と皇太子の写真に口づけする姿を描き出す。さらには映画スターの写真を大切そうに眺めたり、チョコレートはもうやらない、と話題をかえたり、講義にやってきた学者を困らせたり、写真撮影で「普通のおじさん」風にポーズをとったり……、と、「現人神」ではなく単なる人間としての、普通の肉体をもった人間としてのあり方だけを、延々と連続させる。天皇には「日常」しかないのである。戦争があろうが、戦争がおわろうが、その「日常」は一貫しているのである。
 こんな奇妙な世界、摩訶不思議な世界があっていいのだろうか。
 ラストで天皇は皇后とたわむれる。そして、皇太子たちが待っている大広間へといそいそと行ってしまう。途中で、「玉音放送」に立ち会った技術者が自害したと知らされる。そのとき別の侍従は止めたのか、と質問する。侍従は「いいえ」と答える。それに対して天皇は「あ、そう」とだけ言って、大広間へ皇后と手をつないで行ってしまう。
 自分の家族、自分の日常への連続にはこだわるが、他者の非連続に対しては、一瞬は気にかけるが、それを連続して考えようとしない。
 天皇は人間であって、人間ではない。普通の肉体の感情を持っていて、同時に普通の人間の感情が欠けている。いや、とういよりも、普通の人間よりももっともっと生々しく人間なのだろう。普通、ひとは、それが偽善と批判されようと、誰かが死んだと知らされれば「あ、そう」という具合には話題を転換できない。もっと立ち止まってしまう。ふいに訪れたものに対して、自分の連続性を維持するために、あれこれと思い悩む。天皇には、そういう連続性がない。欠落にひるむ連続性がない。
 明治天皇の歌を引用しながら天皇が「平和」について思いめぐらすシーンがあるが、これは天皇の本当のこころなのか。そうではなく、国民の平和について常に考慮するというのが天皇の「日常の仕事」だから、ただそれをしているだけなのではないのか。

 この強烈な天皇批判--それに拮抗しうる天皇批判を、きちんと日本語で語れるか。そう問いかけられているような気持ちになった。

 イッセー尾形は、スクーロフの強烈な天皇批判を見事に肉体化していた。すべてを「日常」にしてしまっていた。もともと日常にひそむいかがわしさ、いやらしさ、それと同時に存在する悲哀さを肉体化してきた役者だが、この映画では、その日常的肉体の特権的ともいうべき演技が冴え渡っている。何もかもが天皇の肉体の中で日常となり、連続していく。「敗戦」(玉音放送)というような画期的なものは欠落して平気である。東京大空襲にさえ、天皇が愛着を感じている魚が出てくる。それは悪夢としてだが、悪夢のなかにも、天皇の日常が日常そのままにあらわれるのである。
 「日常」、その連続性をどこまでも連続的に延長することで人間の本質を浮き彫りにするイッセー尾形の演技があって、はじめて成立する天皇批判である。

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山之内まつ子『小匙1/2の空』

2006-09-25 23:00:15 | 詩集
 山之内まつ子『小匙1/2の空』(ジャプラン)。
 ことばの動き方、特に「省略」に特徴がある。たとえば「アピタイト(Ⅱ)」の2連目の2行。

冷凍庫に吊られていた
みごとに省略された家畜

 「省略された家畜」とは皮をはがれ、内臓を処理され、肉と骨だけになった牛や豚のことであろう。切り分ければ、そのまま店頭に並べられる状態になる肉塊のことであろう。こういうことは私が説明しなくても、つまり「省略」しても、誰にでもわかることがらである。
 こうしたことばの処理が山之内は非常にうまい。強引なことば運びがない。だれにでもわかる(想像できる)範囲で、ことばを省略し、同時に飛躍させる。

 「省略」(私は、「省略」を山之内の「キイワード」だと考えている)とは、単になにかを省いているだけではない。特に山之内の「省略」は単になにかを省いたものではない。「省略」は「飛躍」を含んでいる。いや、「飛躍」するために「省略」がおこなわれている。そこに特徴がある。そして、その「飛躍」を大きく見せるために、一種の「過剰」が同時におこなわれる。それが山之内のことばの特徴だと思う。
 
冷凍庫に吊られていた
みごとに省略された家畜

 という2行では、家畜をし、皮をはぎ、内臓を捨てるといった作業が文字通り「省略」されている。そして、その「省略」した作業、人間と牛や豚との直接的な関係を「過剰」に伝えるために「家畜」ということばが選ばれている。
 山之内が「みごとに省略された家畜」と表現したものを、普通は「きれいに解体処理された牛(豚)」と言うだろうと思う。山之内は普通は「牛(豚)」と言うものを「家畜」と言う。ことばに対する感覚は人それぞれだから私と違った風に感じる人がいるかもしれないが、私は「牛(豚)」ということばよりも「家畜」の方に生々しい動物のにおいを感じる。山之内は「家畜」ということばで、そこに生きもののにおいを「過剰」に表現していると思う。「牛(豚)」ということば以上に、それを育てているときの、面倒くささというか、人間の側も汚れてしまう雰囲気が農耕に伝わってくる。そしてこの「過剰」さは、それに先立つ「省略」ということばによって、いっそう強められている。人間が直接、し、皮を剥いだり、内臓を捨てたりしているのに、そういう血まみれの作業のありようはなかったかのように「省略」されている。一方で人間の肉体が汚れる(直接他者とかかわる)部分が省略され、他方で人間の肉体が汚れるという関係が濃密に(過剰に)暗示される。
 この「省略」と「過剰」のバランスが、山之内のことばにおいては、とてもスピードがある。そして安定している。そのため、とても安心して読むことができる。そして、そこに描かれる「省略」と「過剰」は基本的には「頭脳」で判断することばなのだが、どこか肉体を刺激する。人間の肉体の汚れる感じを呼び覚ます--その汚れに対する嫌悪と安心を呼び覚ます。山之内のことばには肉体の裏付けがある、という印象が残り、「省略」と「過剰」がつくりだす言語宇宙へスムーズに入っていける。

 「ストーン」のなかにも印象的な行がある。2連目の第1行

このてのひらは最近 石を投げたがる

 「石を投げたがる」のはもちろん「てのひら」ではないだろう。基本的に「てのひら」の所有者、人間の方である。人間の精神、感情、頭脳である。ところが、それを山之内は逆に書く。肉体の動きたがるうずうずしたもの、そのことばにならないものを追いかけて「投げたがる」という感情が生まれる。精神が生まれる。まず肉体が立ち上がり、そのあとから脳がやってくる。
 明晰な頭脳である前に、不透明な肉体を生きている--という感じがあって、はじめて、この行の「省略」と「過剰」が納得できる。
 このとき山之内の感情(精神・脳)がどんな風に動いたかは全部「省略」され、かわりに肉体の動きだけが「過剰」に描かれる。てのひらが石を投げたがることなどないのに、まるでてのひらに感情があるかのように描かれる。てのひらに感情が、そして意志が「過剰」に付与されているのである。



 比喩とは「省略」と「過剰」の相互作用によって成り立つ。ある存在のある部分が「省略」され、別の部分が「過剰」に描かれるとき、それはその存在を離れ、比喩になり、象徴になる。
 そうしたことがらを意識した上で「シード」を読むと、そこに描かれているものがよくわかるし、また、山之内の言語処理の安定感(これは「省略」と「過剰」のバランス、距離感が崩れない、という意味である)もよくわかると思う。
 ここには、なにかに対する怒り--そこから燃え上がる火。そしてそれが肉体に作用する様子が、火という比喩から出発し、歴史や音楽を揺り動かして、ひとりの人間を生成していく感じが的確に描かれている。

枯れ草から火の手があがる
わたしは高熱で枕に沈んでいる
地下に眠っている歴史が音符に変換され
ピアニッシモ/フォルテッシモで交互にわたしを叩く
火の種は思いのままに乱診しているだろう
わたしはひたいに類焼を感じとる
ここから遠い空き地が火事だ
半ばモーローと来る幻視
火の種とわたしの躯が
仲のよい双子のように宙に並ぶ
焼けてしまえば美しい地勢たちだ
と見物人らがそろってつぶやく
           (谷内注・9行目の「躯」は原文では正字体)



 山之内の詩でひとつだけ私が気になるのは、比喩の「省略」と「過剰」のバランスのよさの一方で、その比喩がなんとなく古くさいことである。「シード」が特徴的だけれど、怒り→火→高熱といったような比喩の連続は山之内がことばにする以前からすでに存在していて、そうした安定した比喩に依存している感じが残ることだ。
 この安定感は、それはそれでいいのだけれど、もっと違ったことば、まだ誰も比喩にしていない世界へとことばを広げていってもらいたいという気持ちがつのる。

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山崎るり子『爪切るおじさん』

2006-09-24 23:22:52 | 詩集
 山崎るり子爪切るおじさん』(思潮社)。
 山崎の今回の詩集で私の印象に残ったことばは「気配」である。「遠い山の」という作品の、終わりから2行目に出てくる。このことばだけが、この詩集のなかに溶け込んでいない。浮き上がっている。最後の2行はなくても詩が成立すると思う。私は、ない方が詩としてすぐれていると思う。私自身のそそっかしさを棚に上げて、こうしたことを書くのは無責任かもしれないが、最初に「遠い山の」を読んだとき、最後の2行がそれだけ別のページ(裏のページ)にあるので、読み落としていた。感想を書こうと思い、詩集を読み返して、その2行に出会い、驚いてしまった。そして、あ、山崎の書きたかったのは「気配」なのだ、と思った。

 「遠い山の」は「タガイグモ」というクモを描いている。(このクモがほんとうにいるかどうかは、私は知らない。たぶん、想像のクモである。)
 そのクモは向き合った枝に巣をかけている。餌のない冬には1日置きに互いの血をすって生きている。1匹だったら冬は越せないが、2匹であるために互いの血を吸い、満腹しながら生き延びることができる。そうやって幸福を感じているという。

遠い山の深い深い森の奥では
タガイグモという蜘蛛がいて
枝の右の叉に一匹が
枝の左の叉に一匹が
巣をかけているのだそうだ
寒い冬があんまり長く続くと
右の叉の蜘蛛も
左の叉の蜘蛛も
縮んで縮んで縮んでいって
姿はもう見えなくなってしまって

 幸せだな
 最高だな

ただ気配だけが 薄くなった網糸を
揺らしているのだという
     (谷内注・「 幸せだな/ 最高だな」の2行は本文より小さい活字)

 「気配」とは何だろうか。この詩に限定して言えば、クモは見えなくなっても、まだクモがいると感じさせるもの。それが「気配」である。
 このとき、ひとは「存在」を意識しない。むしろ「存在」(クモ)が存在しないからこそ「気配」を感じる。「存在」の不在が「気配」である。「存在」が存在していれば「気配」は存在し得ない。存在が明確なときは「気配」とは言わないのである。
 「存在」が存在するとき「気配」はありえず、「存在」が不在のとき、その「存在」を錯覚させるのが「気配」である。

 「存在」(クモ)と「気配」は矛盾した関係にある。矛盾といっても、それは互いに否定するのではなく、むしろ「依存」である。少なくとも「気配」は「存在」(クモ)が存在しなかったら、「気配」として存在し得ない。そして、また「存在」の側から言えば、「気配」が存在するとき、「存在」は姿を現すことができない。しかし、姿を現さないことによって、より濃密に「存在」の存在を感じさせることができる。それはたぶん「存在」が存在しているとき以上に、濃密な感覚である。
 肉眼で、肉体で捉えられないからこそ、それは精神に(肉体の内部に、肉体とともにあるもののなかへ)侵入し肉体のあり方そのものにも影響を与えてしまう。

 この矛盾というか、依存というか、相互に響きあう関係は、たとえて言えば、この詩に書かれている「タガイグモ」そのものの関係である。
 「タガイグモ」がお互いに血を吸って生き延びていく姿は、「弁証法」といってしまうと何かが違ってしまう。それは何か、縄のようによじれながらつづいていくものである。そして、日常にあることがらは、弁証法というより、そんなねじれながら、ねじれることで他者に寄り掛かり、同時に他者をささえていくようなことがらが多い。
 ただ、こうしたことは意識し始めると、とても苦しい。感じるけれど、深くは意識しない。あるいは、つきつめて「哲学」にしてしまわない。なにか、ぼんやりしこもののまま、そこにそうしておいておく。そして、「ああ、そういうものだな」と納得する。肉体となじませてしまう。そうしたものが「気配」というものの一つの形だろう。

 そして、山崎の書こうとしている「気配」とは、なんといえばいいのだろうか。人が十分に知っていて、それでもなおかつ、ことばにすると奇妙になってしまうことがらを指し示している。たとえば「サンプル」という作品。

皆さん私はすぐに逝きますから
もう、すぐに逝きますから

毎日おばあさんは
家族の皆に言い
近所の人たちに言い
道行く人にも言うのです

そんなこと言わないでおばあさん
元気を出しておばあさん
いいえいいえ 私は
もう充分 生きましたから

 ここに描かれている「おばあさん」がけっして「すぐ死ぬ」ということを知っているわけでも願っているわけでもないことは、誰もが知っている。そしておばあさん自身はおばあさん自身で、長生きしていることが疎まれていることも知っている。それでいて、おばあさんはその対話者は、こころとは違ったことを言う。言いながら、互いにこころにもないことを言っていると知っている。「タガイグモ」の右と左のようなものである。
 この対話から浮かび上がってくるものこそ、実は山崎にとっては「気配」なのである。ことばにならないけれど、別のことを思っているという雰囲気、それぞれの肉体からはみだして、両者のあいだの「空気」をつくってしまうもの。それが「気配」である。
 日常の中で、私たちは、そういう「気配」を感じながら生きている。そういう「気配」をうまく呼吸できないと、ちょっと(かなり)ぎすぎすした人間関係になってしまう。
 「気配」を察知して、ときには自分を犠牲にして(タガイグモが自分の血を相手に飲ませるようにして)、それでも犠牲になるままではなく、今度は逆に相手を犠牲にして、という具合に、否定と依存を捻じりあわせて生きている。
 山崎は、そういう、ことばになりにくい日常の「思想」を詩に定着させる試みを、この詩集でやっている。随所に、皮肉というか、毒というか、肉体に響くことばが撒き散らされているのも、それが日常であり、その毒の「気配」を「気配」でとどめておくことこそ、日常の本当の「思想」だからでもある。本当の毒で他者を殺してしまったら、「世間」はなくなり、「気配」の濃淡をわたって生きる楽しみもなくなってしまう。

 詩集の帯に、誰が書いたのかわからないが、「瑞々しくユーモラスな生のエッセンスがぎっしりと詰まっている」と書いている。生のエッセンスとは、山崎のことばを借りて言えば、「気配」の濃淡をかぎ分けて生きる楽しみのことである。
 山崎のみつけた「気配」が、私たちのここばを揺らす。私たちのことばが、山崎の定着させた「気配」の中で揺らぐ。そういうことを楽しむ詩集である。

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小杉元一「ゆらゆら揺れるは」

2006-09-23 15:12:19 | 詩集
 小杉元一「ゆらゆら揺れるは」(「EOS 」10)。
 小杉も、きのう感想を書いた森川と同じように「視力」(視線)で詩を書いている。しかし、森川と違って「肉体」を感じる。視線が小杉の肉体から外へ出ていくだけではなく、小杉の肉体へと帰ってくるからである。

(らくだは半眼のまま立ち上がる
ゆらゆら揺れるはらくだの背?
それとも大地?
いえいえゆらゆら揺れるはわたしの眼ばかり)

 小杉が向き合ったもの、出会ったもの、それが揺れるとしたら(今まで見えていた存在と違って見えたらしたら)、それは何のせいだろうか。「らくだ」(それまで小杉が身を任せていたものとは違ったもの、小杉の「歴史」「時間」「日常」「他者との関係」と違ったもの--それを象徴として指し示しているのだと思う)のせいか。大地そのものが揺れているのか。そうではなくて、あくまで小杉の肉眼そのものが揺れているのだと小杉は判断する。肉体のなかに存在する「歴史」「時間」「日常」「他者との関係」といったものが不安定になり、つまり、「歴史」「時間」「日常」「他者との関係」が一緒になって小杉を支えてくれないので、小杉の肉眼そのものが揺れる。そして、見えるものがすべて、ゆらゆらと不定形になり、小杉の肉体に迫ってくる。
 小杉は、いま、ソウルの地下鉄に乗っている。そこでは知らない人が小杉の肉体に迫ってくる。どう向き合っていいのか、小杉にはわからない。

やってきたのは眼の見えないちいさなハルモニ
杖で床を探り
片手で笊をつきだして
じょうずにバランスをとりながら
ふわふわ歩いてくる
笊にはいくらかの紙幣と硬貨が入っていて

座席から飛び跳ね
恥ずかしそうに
少年がひとり硬貨を入れる
ひとびとはあわてて眼をそらしているが
わたしだってこおりついていた
見えるものを見ていただけなのに

 森川の作品からは「汗」を感じることができなかったが、小杉の作品からは「汗」を感じる。冷たい汗だ。「わたしだってこおりついていた」という行の内側を、その肉体の内側にはりついた冷たい汗を感じる。そして、その冷たい汗は乗客によって共有されている。その行に先立つ1行。

ひとびとはあわてて眼をそらしているが

 「眼をそらす」という肉体の動き。肉体の動きを見ると、ひとは、それが自分の感情でもないのに、他人の感情を自分の感情として感じてしまう。肉体の動きを見ると、他人が何を感じているかわかってしまう。肉眼が肉体を見るとき、どうしてもそういうことが起きてしまう。肉眼は他人の感覚を感じ取り、それが自分の肉体にまで反響してしまう。その結果が、

わたしだってこおりついていた

なのだ。肉眼はかならず肉体に跳ね返ってくる。跳ね返ることで、より肉眼になる。「頭」(脳)で、そんなふうに「あわわてて眼をそら」すことが正しくないとか正しいとか批判しても何も始まらない。そこから「思想」は生まれない。「あわてて眼をそら」し、「こおりついていた」と自覚すること、そのときの肉体の感じを、肉体がなじむまで(肉体が納得するまで)抱き続けること--そこからしか「思想」は始まらない。他者と共有できることばは、そこからしか始まらない。

見えるものを見ていただけなのに

 今は、それしか言えない。それしか言えないけれど、それしか言えないということをきちんとことばにする--それが「思想」の第一歩だと思う。
 詩はつづく。

そして左右にゆれながら
通り過ぎ
車両から車両をまたぎながらゆっくりと
折れ曲がる闇に消えてゆく
ハルモニのとうめいなうしろすがた
吊り革は列になりおおきく揺れていて

(らくだはおもしろそうに口をうごかす
どこへいっても
見えるものは見えるだけ
らくだはここではないどこかを見つめている)

 確かにどこへ行っても肉眼が見るものは「見える」ものだけ。見えるものを見ているだけ。その奥にあるものを肉眼はけっして見ることはできない。しかし、いったん、見えるものを見ただけであるのに「こおりついた」肉体の記憶は、その「見えるもの」の向こうに何かがあると肉体で知っている。だから、「見るものは見えるものだけ」と言いながらも、肉眼の奥の「思想の眼」は、「ここではないどこか」を見つめ始めている。
 その「ここではないどこか」とは何か。
 小杉の肉体をつくっている「歴史」「時間」「日常」「他者との関係」というようなもの、つまり「思想」あるいは「哲学」を見つめている。
 ここから「思想」は始まる。そして、その「思想」は簡単には「答え」を出せない。この詩は

(水を揺らしてらくだは歩きはじめる
ゆらゆら揺れるはらくだの背?
それとも大地?
いえいえゆらゆら揺れるはわたしの眼ばかり)

と最初の状態に戻っておわるが、ここにも深い「思想」がうかがえる。「思想」の「答え」は簡単にはでない。たいていは「寄り道」として肉体に蓄積されるだけ、肉体の奥にしまいこまれるだけである。だからこそ、それは「ことば」にして残さなければならない。残したとき、そこに「詩」が静かに存在しはじめる。


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森川雅美「山越」

2006-09-22 15:40:24 | 詩集
 森川雅美「山越」(「あんど」7)。
 「あんど」7号の裏表紙に「夏の●」という文字が書かれている。●は「幻」と「幼」が微妙に合体したような文字である。山本哲也は何かの詩で「幻の幼い力」と書いていたが、それを思わせる。旁が「刀」になっている。表紙を書いた佐藤良助が間違えて書いたのか、それとも正確な文字を知らなかったのか、あるいはこんな文字が本当にあるのか……。
 表紙を書いたのが佐藤良助なのだから、そのことと森川の書いている「山越」は何の関係もないのかもしれないが、森川の作品を読むたびに「夏の●」を思い出してしまう。そこにあるのは視力だけであって肉体ではないと思ってしまう。

光は確かに右斜め上方からも射し
まだ明けない山肌のおうとつをかすかに浮かびあがらせ
光源として山間に現われる阿弥陀如来の光沢に
一人の絵師の筆の動く意志を思い
遠景に輝く明け方の太陽をじっと見つめ
眼をえぐる補色の欠片とゆっくり染みわたる温みと
視覚のネガに遅延する鈍い痛みがはびこり

 作品はまだまだつづくのだが、どこまで引用すればいいのかわからない。おさえるところが押えられていない。「夏の●」でいえば「幻」と書こうとしたのか「幼」と書こうとしたのか、眼のあいまいな記憶によって肉体の押さえが中途半端になっている。眼と肉体が一体となっていない。肉体はまったく動かず、視力だけがさまよっている。視力を制御する肉体が欠落している。

一人の絵師の筆の動く意志を思い

とは、絵師が筆を動かしたときの腕の動きだけではなく、全身の肉体を感じ取ることだが、森川の作品を読むと、絵師が動かす腕の動きさえ伝わってこない。その動きが肉体にどんな影響を与えたのか、さっぱりわからない。
 「眼をえぐる補色の欠片」「視覚のネガに遅延する鈍い痛み」。こうしたことばを読むと、森川は目さえもつかっていないような気がしてくる。目ではなく「脳」で対象を見ている。たとえば「補色」という固有の色はない。「補色」というものが存在するにはそれに先立つ色があり、その色と混ざると黒になってしまう色があり、その関係を「補色」という。「補色」とは「関係」をあらわすことばだ。「関係」は肉眼では見えない。「脳」が「関係」を判断し、それにことばを「定義」として与える。「肉眼」に「ネガ」などというものももちろんない。肉眼をカメラ(フィルムカメラ)と想定し、映像を定着させる装置としてフィルムを想定し、さらにはそこからポジに転写するという「映像化」の構造を想定しなければ「ネガ」というものなど存在し得ない。「ネガ」という比喩は「脳」がつくりだしたものである。
 「山越」は何と読むのかわからない。だが

法然上人さんや、藤原道長さんや
死んだ友人も歩き
のぼる山の地形はけわしく
裸の足から岩肌に血がにじんでいく

という行を読むかぎり、この作品は山を歩いて越えるときのことを書いているのだと思うが、「裸の足から岩肌に血がにじんでいく」ということばのわりには肉体がまったく感じられない。山をのぼるときの肉体、その疲れが感じられない。ここでも、描かれているのは視力の風景であり、しかもそれは「脳」の見た風景であって肉眼が見た風景ではない。岩肌に血がにじむというような風景は肉眼では見ることができない。「脳」にしか見ることができない。そして、その「脳」がそういう風景を見るためには、「脳」がもっともっと肉体に犯され、「脳」の働きが停止してしまわなければならない。岩肌に血がにじむはずがないという判断ができなくなるくらい「脳」が空っぽになったときにはじめて「岩肌に血がにじんでいく」ということばが生まれる。「のぼる山の地形はけわしく」などと冷静に、というか、なめきった判断ができるあいだは、「脳」は空っぽではない。

 視力の問題点は、森川の書いた冒頭によくあらわれている。視力は直接対象には触れない。触覚が対象に触れることで互いに浸透する。(「裸の足から岩肌に血がにじんでいく」ということばが特徴的だが、それは触覚が引き起こす「錯覚」、「脳」が判断停止することによって、「脳」が勘違いすることがらだ)。視覚はつるつる、すべすべ、ごつごつに触れても肉体的には何の変化もない。すべらない。ひっかからない。つまり、おなじスピードで動いていく。近くも遠くも自在に動いていく。肉体を置き去りにして動いていく。そのために、どこを押えなければ間違ってしまうのかという判断がおろそかになる。
 実際に山を越えるなら、足の一歩一歩は、そこにある一個の石に対しても足先で踏むべきか、踵で踏むべきか、あるいは踏まずに越えるべきかということをいちいち判断しなければならない。判断が間違えばけがをする。
 視力だけで山を越えるとき(視力による想像登山の場合)、そういう恐れはない。
 恐れはないが、それを読む読者の側から言えば、これはいったい何?という疑問が沸き起こる。「夏の●」とおなじである。「幻」という文字が正確でないのは、それが肉体として把握されていないからである。肉体として表現されていないからである。

一人の絵師の筆の動く意志を思い

 という行を借りて言えば、「夏の●」と書いた佐藤の筆を動かす意志は、肉体の押さえどころを勘違いしている。「夏の●」からは、だから、「意志」(精神)がつたわってこない。同じことを森川の作品からも感じた。視覚だけがともどもなく右往左往するが、その右往左往は肉体と結びつかない。単なる右往左往にしか見えない。



 同じ「脳」を旅する作品として、たとえばきのう取り上げた松下育男と比較すれば、松下のことばの方がはるかに肉体として浮かび上がってくる。
 「国語」の「1」の3連目。

端というのは、そのものの終わりの部分です。そのものと、そのものでないものとの、境目です。そのものが、そのものでないものへ、滝のように落ち込んでいるところです。ごうごうと水しぶきをあげて、そのものが落ち込んでゆくところです。

 ここには実際に滝を見たときの肉眼がある。耳がある。肉体の感じた恐怖のようなものがある。
 「脳」は肉体でなければならない。



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松下育男「国語」、阿部恭久「余りの恋に」

2006-09-21 23:32:51 | 詩集
 松下育男「国語」(「生き事」2)。
 文体が独特である。「1」の冒頭。

朝の電車の中で、沢木耕太郎の『無名』という本を読んでいました。その中に、「端居」という言葉が出てきます。「たんきょ」と読むのではなく「はしい」と読みます。建物の端に居るという意味を持っているということです。それが転じて「縁側や縁先にいること」を意味しているらしいのです。私は、こんな言葉が日本語にあるとは、今に至るまで知らず、少なからず電車の中で驚いていました。

 文体の目につく特徴は二つある。一つは「です、ます」調。もう一つは、一つの文章に書かれていることがらが原則として一つであるということ。まるで小学生の子どもに聞かせるような口調である。この口調のゆえに、何だかのんびりとしてくる。ゆったりと話を聞いている気持ちになってくる。
 松下は、この独特の文体で、ゆっくり進む。ゆっくり進むことによってだけ見えてくるものを描こうとしている。
 現代の文章は必要要素に「スピード」をあげたのはイタロ・カルビーノだが、松下はそれに逆行している。しかし、松下の「ゆっくり」は「遅延」でもない。「延期」でもない。丁寧に、確実に、ということを目指しているのだろう。その丁寧さ、確実さを目指す精神が「一文に一つの事実」という構造を要求するのだろう。

 ところで、そのゆったりした文、確実さを追い求めた文を聞かせる相手は誰なのか。まさか小学生ではあるまい。小学生にここに書かれているようなことを言って聞かせても、何を言っているかさっぱりわからないだろう。それでは、たとえばこの詩を読む私、読者に対してか。もちろん文学作品なのだから読者を相手にことばが発せられているのは間違いないが、どうも奇妙である。読者に対してことばを発する前に、松下は松下自身に対してことばを発している。

「たんきょ」と読むのではなく「はしい」と読みます。

 これは読者というより松下自身に言い聞かせていることばである。あとにつづく文を読めばわかるが「端居」ということばを松下は知らなかった。読み方も知らなかった。だから松下自身に向けて「はしい」と読むのだと言い聞かせている。このとき、読者が「はしい」と読むと知っているということは無視されている。
 そのあとにつづく「意味」の説明も読者にではなく松下自身に向けて書かれていることばだ。読者がそのことばの「意味」を知っているかいないかは無視されている。
 あるいは、こんなふうに言えばいいだろうか。
 松下は、読者に向けて自分が発見したことを語ってはいない。語ろうとはしていない。ただ、自分が何を知ったか、感じたか、それを自分自身の言い聞かせるためにことばを発している。松下自身の内部をゆったりとひろげるためにだけことばを書いている。

少なからず電車の中で驚いていました。

という文は、そのことを明確に語る。「電車の中で驚きました。」ではなく「驚いていました。」
 瞬間ではなく、「いました」という持続の時間が松下にとって重要なのである。「はしい」と読む、「縁先に居る」という意味がある、とつながっていく時間、持続の時間が、松下の時間なのである。
 持続を強調するために、一続きの長い文章を書くのではなく、一文に一事実という短い文を重ねることで、その重なりを意識させようとしている。しかも、複雑なことに、その持続という意識が表に浮き上がってこないように、工夫しながら松下はことばを選んでいる。

 「持続の時間」。これを外側へ(たとえば電車の外、街を歩いているひと、街の生活へ)向けて動かせば、それはそのまま「世界」になる。
 ところが松下は、その「持続」を外側へ向けず、松下自身の内部へと向ける。
 「端居」ということばを、それまでの松下のこころに導入する(精神へと内部延長する)とどうなるか。何が見えてくるか。

長年、この世の端にすわって、足をぶらぶらさせるような人生を送ってきた私にとって、なんとも、心に響く言葉でした。

 「端居」ということばが「この世の端にすわって」「人生を送ってきた」ということを思い起こさせるのである。そういう自覚は「端」とはどういうものであるか、松下にとってどんなふうに「端」が見つめられてきたかという具合に「持続」していく。精神の内部へ内部へと、「持続」がつづいていく。
 その間中、松下は「驚いていました」という状態なのである。
 電車を下りたあとも、「端居」ということばから始まった「持続」をはつづき、本当は「電車の中でも、そして下りたあとでも驚いていました」というのが松下の実際であろう。なぜ驚き続けるか。

人は、端のあつまりだからたぶん、こんなにさびしいのです。

 ということばにまでたどりついてしまうからである。

 沢木耕太郎が「端居」ということばで何を表現したかは、松下の作品では書かれていない。書かれているのは、「端居」ということばによって引き起こされた松下自身の内部の思い、「この世の端にすわって」「人生を送ってきた」という思いから、「人は、端のあつまりだからたぶん、こんなにさびしいのです」まで、松下の精神が、どこかに迷子になることもなく、一文一事実の文を持続することで、つながっているということだ。
 松下は「持続」のなかの「時間」を描いている。それも他人に向けてというより、自分自身で自分の人生を納得するために、持続する時間を耕している。

 ここには何といえばいいのだろうか、けっして自分から外へ出ていこうとしない決意のようなものがある。自分のなかにとどまり、自分だけをみつめる、という姿勢がある。
 こんな閉鎖的なことばが、それでも文学であるというのは、人間はときには自分自身のなかにとどまることが必要だからである。松下の詩を読むと、あ、人はこんなふうにして自分というもののなかにとどまり、自分を自分のなかにとじこめたまま生きる時間もあるのだとわかり、それがちょっとこわい。いや、かなり、こわい。
 他人のためにではなく、ただ自分の思いを確かめるためにだけ時間を費やす。そして、その時間とことばが「文学」であるとはっきり意識していることが、非常にこわい。
 何だか、他人のことなんかは語らずに(たとえば、私がこうして書いている批評・感想などはいっさいせずに)、ただ自分自身を見つめたらどうだ、と言われているような気持ちになるのである。自分自身のなかに閉じ籠もり、ただひととわかりあえぬという寂しさ、悲しみだけを接点として生きていけば、ひとはひとを傷つけることはないとでも言っているようにも思えるのである。--その、絶望のようなものが、私にはこわい。
 絶望して、その絶望をみつめ、その内部へ内部へと時間を耕し、誰とも直接には触れ合わない、ことばのなかに動いている悲しみ、寂しさとだけ接する「文学」を「文学」として提示する力が私にはこわい。



 松下に比較すると、おなじ号で作品を書いている阿部恭久は、まだ自分というものから溢れていくものを抱えている。「余りの恋に」がおもしろい。

うつけ姫はドーナツをたくさん揚げた
夜は老けた
残った電球はとうとう二つとなった
たわけ王は台所に立ち
冷めたコーヒーをわかした
いびつなのを茶の間で食べた

春はからんとして皆どうしたのだろう

余は馬齢を重ねた
そのかみ煮込饂飩に飯をつけて
当地の語感では田分けだろうと戯けた

食欲はなみだがわく

夜をあかして星の行末
        (谷内注・三行目の「とうとう」は原文はあとの方が送り文字)

 2行目の「夜は老けた」は「夜は更けた」の書き間違いなのか、あえて「老けた」と書いたのかよくわからない。「老けた」の方が、その後に出てくる肉体との関係でおもしろいと思う。
 終わりから2行目の「食欲はなみだがわく」が思いもかけず肉体に迫ってくる。肉体がまだ阿部の詩では生きている。あるいは生きている肉体があるからこそ、ことばが動くといった方がいいのかもしれない。
 阿部には、どこか、精神というよりも肉体を守ろうとする健康さがある。

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野村喜和夫『スペクタクル』(その3)

2006-09-20 23:46:14 | 詩集
 野村喜和夫スペクタクル あるいは生という小さな毬』『スペクタクル そして最後の三分間』(思潮社)。
 この2冊組の詩集にはわかりやすさとわかりにくさが同居している。たとえば、それぞれの冒頭の詩。「第一番(スペクタクル)」と「第二十六番(スペクタクル)」。

眼(眼よりも大きな
あるいは弱い
器官(ともいえない器官(を通して
私はみようとしていた
スペクタクル
夕まぐれの
浦の苫屋の
ように板(板が立てられ
また板が立てられ
その空隙からひと(ひとが
絶え間なくうまれ出るさまを
ひと(ひとが筋や繊維にはじけて
ぴきつ
血は流れないさまを
スペクタクル
スペクタクル
私はみようとしていた     (「第一番」)

眼(眼よりも深い
あるいは遠い
器官(をも超えた器官(を通して
なおも
私はみようとしていた
みなければ
器官は消え(みたとしても
器官は鍛えられぬ(にもかかわらず
みようとしていた
スペクタクル
夕まぐれの
鴫立つ沢の
ように板(板がたおれ
また板がたおれ
入れ替わりにひと(ひとが
絶え間なく空隙に成り変わるさまを
おお声と文字のつまったひと(ひとという空隙から
なおもうっすら(肉頭のように
にくあたまにくあたまにくあたま
べつの空隙(空隙が抜け
あらわれるさまを
スペクタクル
スペクタクル
私はみようとしていた     (「第二十六番」)

 このふたつの作品は共通することばを持っている。こうしたことは非常にわかりやすい。しかし、なぜこうした共通のことばをつかった作品を、それぞれの冒頭に掲げたのかということはわかりにくい。(この詩集の感想の1回目に触れた作品に共通することばをもった作品が「第四十九番」に出てくるが、それもことばが共通しているということはわかりやすいが、なぜ共通したことばをつかって作品を書いているのかはわかりにくい。)なぜ共通のことばをもった作品を書いたのか、類似の作品を書いたのかということは、野村には自明なことであり、自分自身に対して説明する必要がない。そして実際に説明しない。だから、わかりにくい。
 しかし、わかりにくいところにこそ、実は作者の「思想」がある。筆者には自明であり、説明不要な、つまり詩人の肉体になってしまっている思想、ことばを決して必要としないほど体にしみついた思想がある。

 それを探る手がかりはどこにあるだろうか。それぞれの3行目に私は注目した。

器官(ともいえいな器官(を通して
                   (「第一番」)
器官(をも超えた器官(を通して
                   (「第二十六番」)

 この2行には大きな違いがある。「器官」をあいだに挟んで考えればわかりやすくなるが、第一番は器官以前のもの、第二十六番は器官を超越したものである。未成熟な器官-器官-超越した器官。そういう運動が第一番から第二十六番のあいだでおこなわれているのである。
 昨日、「第三十七番」について触れたとき、野村のことばの運動が根源から超越へという「現代詩」の運動のなかにぴったり重なると指摘したが、ここでも同じことが指摘できる。未成熟な器官と私が仮に呼んだものは、実は器官として生成する前の器官のことである。根源としての器官のことである。根源からある運動を通して器官が生成され、その器官は運動を通して器官を超越する。
 野村のことばは、ことば以前のことば(根源、混沌)から、ことばとして生成し、そしてことばを超越するというベクトルのなかで運動する。野村はそういう運動をことばのなかで表現しようとしているのである。
 根源(混沌、生成以前)→生成→超越。
 これが野村の「思想」である。野村にとっては、そういう運動をことば自身のなかで具現化することが「詩」である。そういうことは、野村は、他人に対して言う必要がない。そういう運動を目指すということが、野村が現代詩から学び、身につけた思想であり、野村は、他の詩人たちもそれを目指していると信じきっている。というか、詩とはそういうものであるとしか考えられないのだと思う。

 作品に戻る。「第一番」と「第二十六番」。そのふたつの作品のあいだには、「器官」のほかにもう一つ大きな違いがある。

また板が立てられ
その空隙からひと(ひとが
絶え間なくうまれ出るさまを
                   (「第一番」)
また板がたおれ
入れ替わりにひと(ひとが
絶え間なく空隙に成り変わるさまを
                   (「第二十六番」)

 「空隙」と「ひと」の関係が第一番と第二十六番では逆になっている。空隙→ひと→空隙。これは根源(混沌)→器官→超越と重なり合う。重なり合うことを言いたくて野村は書いている。そして、「空隙→ひと→空隙」と「根源→器官→超越」が同じことなら、「根源→器官→超越」の「根源」と「超越」はイコールのものである。「根源→器官→超越」は「根源→器官→根源」となり、それは永遠に繰り返される。つまり、「根源→器官→超越(根源)→器官→超越(根源)」という具合に。

 「第一番」と「第二十六番」が共通のことばを持って繰り返される。差異を含みながら繰り返される。その理由はここにある。
 「根源(混沌)→器官→超越」は繰り返されることで、その運動が明確になる。その運動を明確にするために繰り返しが必要である。ただし、その繰り返しには必ず「差異」が含まれる。そうした「思想」を明確にするために、「第一番」「第二十六番」は、あえて似た姿で書かれているのである。
 この繰り返し、繰り返しによる「思想」の表明をどう読むか。
 私はこれを野村の「現代詩継承宣言」として読んだ。
 「現代詩」のことばの運動は根源→超越という世界を抱え込んでいる。野村は、そうした現代詩のことばの運動の歴史を受け継ぎ、さらに発展させるという決意の表明として読んだ。

 「浦の苫屋」「鴫立つ沢」という古典のことば。そういうものが「現代詩」にもあるだろう。そして、その古典的「現代詩」では囲いきれないものが現代にはある。「空隙」があるだろう。そこから野村は「詩」の世界へ生まれ出て、生まれ出ることによって新たな「空隙」をつくる。そうやって「現代詩」を発展させたいと願っている。
 そういう野村の「思想」がとても鮮明に出た詩集である。


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