詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(14)

2005-02-28 15:02:19 | 詩集
西脇順三郎「肩車」(筑摩書房『定本西脇順三郎Ⅰ』)

 西脇の詩の文体は破壊されている。日本語本来の文体とは異なっている。これは、「詩はどこにあるか(13)」で触れた森鴎外の文体と大きく異なる点である。

昨夜は噴水のあまりにやかましいので
睡眠不足になつたことを悲しみ合つた

 この文体が奇妙に感じられるのは、文体が奇妙にねじれている印象があるからだ。そして、その原因の一つに「悲しみ合つた」という表現が影響している。普通は「悲しみ合つた」とは書かず「互いに悲しんだ」と書くだろう。「喜び合った」は不自然ではないが、「悲しみ合つた」が不自然に感じるのは、たぶん、悲しみというのは人間が一人で受け止めるべきものだという思いがどこかにあるからだろう。

 西脇が書いていることを、普通はどう書くか。私なら「噴水の音がやかましく聞こえたので昨夜はよく眠れなかったと互いに愚痴をこぼしあった。」と語順を整理し「悲しみ合つた」という表現も変えるだろう。
 ところが、私の書いた文章では「詩」は消えてしまう。
 ここが「詩」の不思議なところである。

 西脇は、私たちが普通に書いてしまうことがらを、わざとごつごつした文体に変えて書く。このとき、西脇は西脇で、日本語の文題を非常に意識している。鴎外が伝統を吸収して、それにのっとって書いたのに対し、西脇は、伝統を破壊しながら書く。
 そのとき、ことばが互いに独立する。無意識につながる世界からことばが独立する。独立しながら、互いにぶつかり合う。そうすることで読者の意識を組み立て直す。
 その瞬間に「詩」がたちあわられてくる。

 こうした効果に「やかましい」という口語が占めている位置は大きい。「うるさい」と比較すると「やかましい」は肉体に深く響いて来る。直接的な印象がある。そうしたことばが、「寝不足」ではなく「睡眠不足」ということばと結びつくとき、私の意識は少しくすぐったくなる。揺さぶられる。そして、それに念押しするように「悲しみ合つた」ということばがつづく。

 「よい文章」(名文)というのは、鴎外の文章のように、伝統に根ざし、知らず知らずに読者の意識を美しい芳香へ到達させる文章のことだろう。
 西脇は、文章ではなく、ことばひとつひとつを独立させようとしている。
 ことばが独立することが「詩」である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(13)

2005-02-28 14:38:40 | 詩集
森鴎外「うたかたの記」(「鴎外選集」第一巻 岩波書店)

雨弥々劇しくなりて、湖水のかたを見わたせば、吹寄する風一陣々、濃淡の竪縞おり出して、濃き処には雨白く、淡き処には風黒し。

 末尾の「濃き処には雨白く、淡き処には風黒し」はまるで漢詩の対句を読むような感じだ。実際に、ここには漢詩の伝統が反映されている。
 描写が漢詩風だから、そこに「詩」があるというのではない。
 伝統を踏まえる、様式を踏まえるというところに「詩」がある。

 鴎外の文章を読むとき、単に鴎外の文章を読んでいるのではない。鴎外のなかに生きている漢詩の伝統を読んでいる。
 こうした呼吸のなかに「詩」がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(12)

2005-02-23 21:53:03 | 詩集
飯島耕一「アメリカ」(思潮社)

  人間は植物
  植物は人間

  馬は植物
  植物は馬

  男は女
  女は男

  樹液や 性液や 快楽の汗が
  いろんな穴から したたり落ちる
         (Ⅰ 陰気なマレンボ)

 二つのかけ離れた存在、たとえば人間と植物が出会う。融合するのではなく衝突する。そのとき何かが飛び散る。それはその瞬間にしか見えない。後からその何かを書きとめよう、説明しようとしても、その何かにはたどりつけない。
 このたどたりつけなかったものこそが「詩」である。
 だから飯島は説明しない。ただ衝突させるだけだ。
 何かを衝突させたい、何かと何かをぶつけあわせたい衝動――そのなかに「詩」があると言い換えることができるかもしれない。
 「詩」は存在するのではなく、「衝突」をとおして作り出されるものなのだ。

  何が善で 何か悪なのか
  悪が善なのか 善が悪なのか
  何が聖で 何か卑俗なのか
  卑俗の聖 聖の卑俗
  快感と 不幸の泥を

  苦悩と 喜びの泥を
  われとわが身に こすりつける
          (「東銀座のフォト・サロンで」)

 かけ離れた存在の衝突――それは「わが身」の外部においておこなわれるのではない。飯島自身の肉体の内部で、精神の内部でおこなわれる。このとき飯島の肉体、飯島の精神は善であり悪である。聖であり卑俗である。快感であり、同時に不幸でもある。
 「詩」は矛盾した存在である。矛盾していなければ「詩」ではない。――矛盾とは、ある一方の立場から説明すればかならず説明しようとしたものとは違ったものが浮かび上がるということである。ある場所から別の理想の場所へ進んでいったつもりがかならず違った場所にもたどりついてしまうということである。

  武器の谷のアメリカ
  悲しいアメリカ
  それは私だ
           (「アメリカ」)

 この、さびしい美しさ。――こうしたことばを書くために、飯島は「アメリカ」を書き始めたわけではないだろう。しかし、飯島がむきあっている現実、その「詩」から遠い現実のなかで「詩」を呼び覚ますために、さまざまなことば、たとえば「空は 欺かれる のに慣れ」というロルカの詩に似た一行(かつて飯島が書いたことば)をぶつける、そしてそのとき見えたものにしたがって突き進んでゆく。その結果、たどり着いてしまった世界。たどり着くしかできなかったさびしさ。
 ここには、飯島しかいないのだ。

  武器の谷のアメリカ
  悲しいアメリカ
  それは私だ
  私から癒えようとするアメリカ けっして私にはなれない
  私を恐がっている
              (「アメリカ」)

 飯島がたどりついたアメリカは、アメリカではない。飯島はアメリカにたどり着いたが、それはアメリカではなく、飯島自身である――という矛盾。矛盾の形でしか語れないありようが、ここにある。「詩」として存在する。
 そこにあるものが「詩」であるからこそ、アメリカはそれを恐れる。

 「詩」の前で私たちにできること――それは恐怖に震えることである。
 (「フルエテいる」という表現が、今回の詩集には何回か出て来る。震えること――震える体験をすることが「詩」であるとも飯島は語っているのかもしれない。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(11)

2005-02-18 21:52:04 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「だれ」(現代詩手帖2005年1月号)

 池井の最近の詩には漢字が少ない。漢語はもっと少ない。池井は漢字、漢語をつかわずに詩を書いている。ひらがなで書いている。このことに何かしらの意味はあるのか。ある、と私は思う。

だれなのかしらあのひとは
あんなにかなしいおそろしい
あんなにつかれたかおをして
わたしをじっとみるひとの
そのめがあんまりかなしくて
あんまりあんまりさびしくて
まばたきひとつできません
なきだすこともできません
ひとさしゆびをくちにいれ
おもちゃもごはんもそっちのけ
ちいさなちいさなこがひとり
わたしをじっとみています
だれなのかしらあのひとは

 この詩で「だれ」と呼ばれている「ひと」は実は「ちいさなちいさなこ」である。「小さな小さな子」であるなら、「だれなのかしらあの小さな子は」というのが普通だろう。私たちは普通、「人」と「子」を区別して考えている。「人」とは対等な関係にあるが「子」に対しては対等ではない。「子」に対しておとなはいつでも優位に立っている。
 この詩が「だれなのかしらあの人は」と書き出されていたら、その「人」が実は「子」であったとわかったとき非常に違和感があると思う。

 ひらがなには、何か概念を溶かしてしまって、透明な情感が流れる、その流れの中に読者を誘い込む力がある。ある気持ち(感情を含む概念)を、感情や概念からときほぐし、気持ちそのものに返してしまう力がある。

 池井は、この詩では感情を書いているのではない。気持ちを書いているのだ。気持ちを書くためにひらがなを選んでいるのだ。
 「ひと」と「こ」は「人」と「子」と書いたときに比べると、ずいぶん印象が違う。(私だけかもしれないが。)「ひと」と「こ」は溶け合うが「人」と「子」は溶け合わない。象形文字(漢字)の持つ象徴性が、気持ちではなく感情、観念をかってにつくりあげてしまうのだろう。

 池井は、気持ちが感情(とりわけ概念)になってしまう前の世界へ入っていこうとしている。気持ちが気持ちのままにある状態で、放心し、そこからもう一度気持ちそのものとして立ち上がろうとしている。

 現代はいろいろな便利なことば(概念)にあふれている。そして私たちはたぶん概念で現実を理解し(あるいは単に説明し)何かがわかったと勘違いしている。便利な概念にあわせる形で私たちの思考や感情を整理している。
 池井はそうした作業に反旗を翻している。
 奥深いところに生きている気持ち、ふわふわしていて説明できない生の気持ち、とらえどころのないものへと手探りで接近し、そこに流れている透明な思い、いつの世もかわらない気持ち、親が子を思いはらはらするような気持ち、はらはらしながら見守られ安心する子供の気持ち――その交流のようなものをつかみとってくる。

 そのつかみとりかたに「詩」がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松浦寿輝「半島」を読む

2005-02-18 21:50:58 | 詩集
 独特の文体――文体そのものが「詩」である。6篇の連作の最初の作品、その書き出し。

 しかし幸いなことに長く続いた夏の陽射しもようやく翳りを見せてうにやひとでややどかりや小魚たちがめいめいひっそり生きている静かな潮溜まりも薄明薄暗の中に沈みこんでゆくようだった。

 この文章の特徴は
 ( 1)読点「、」がないこと。
 ( 2)主語が明確ではないこと。
 私だけの印象かもしれないが、その二つの特徴のために、文章の出発点とたどりついた先が明確に把握できない。なにか意識がうねうねとねじれながら動いたということと、うねうねと動くだけの時間が経過したということしか印象に残らない。
 そして思い返すと、実は「時間が経過した」と私が書いた「時間」こそが「主語」であったということがわかる仕組みになっている。夕暮れの失われていく光――その失われていく光の時間そのもののひっそりとした動きが文頭に明確に提示されているということに気がつく。
 そういう仕掛けになっている。

 冒頭の文章に限らないが(そして、この作品自体の構造にもなっているのだが)、松浦の文章は坂道を上ったり下りたりするときの人間の歩みに似ている。急な坂道では人は坂道の真ん中をまっすぐには上らない。道を蛇行しながら上る。その方が歩きやすいからである。蛇行するほうが(遠回りするほうが)結果的に楽に坂道を上れる。蛇行しながら坂道を上るとき、私たちは単に目的地を目指しているわけではなく、目的地へ行く肉体そのものとも折り合いをつけながら歩いている。蛇行することで肉体の疲労度を少なくするというふうな折り合いを知らず知らずにこころがけている。
 松浦は、そうした肉体の知らず知らずの折り合いのつけかたそのものを描いている。
 人は生きている間にいろいろなものと出会い、自分自身を変化させるし、相手も変化させる。それも一種の折り合いである。その過程を、ゆったりと坂を上り下りするテンポで濃密に描いていく。
 ここに松浦の「詩」がある。

 松浦が描いているのはストーリーではない。主人公は中年の男だが、その中年の(つまり人生を半分くらい歩いてきた男の)、自分自身の肉体との折り合いのつけかたを描いている。
 物語にそって空間がねじれ、迷宮に入り込んだような不思議な世界が広がるが、それは同時に彼の生きてきた時間のねじれ、迷宮へ彷徨いこむことである。さまよいながら、ちょうど坂道を蛇行して上ったときのように、上りきってしまった後出発点と到達点が意外と接近していたことを知るように、ある時間と別の時間がすぐとなりあわせであったというようなことに気がつく。そうした時間を発見することが、主人公にとっての、自分の肉体との折り合いのつけかたでもある。

 *


 この作品を読むとき読み落としてはならない「キイワード」は「だんだん」である。繰り返しつかわれているが「実は奥へ行くほどに広がっているずいぶん大きな屋敷らしいことがだんだんわかってきたのだった。」(11ページ)にあるように「だんだんわかってきた」というのが、その基本的なつかいかたである。
 主人公はふとたどりついた半島で生活しているうちに「だんだん」と何かがわかってくる。半島の構造がわかってくる。半島で暮らしている人々がわかってくる。そして何よりも自分自身というものがだんだんわかってくる。
 そして、このときも、わかってきた何かではなく、「だんだん」という動き――時間そのものが松浦の主題である。「詩」である。

 主人公は、半島の曲がりくねった道(地上の道もあれば地下の道もある、建物の内部の道もあれば温泉の流れていく水の道もある)をたどるうちに空間がねじれ、ゆがむのを感じる。遠くにあったものがすぐ近くにあったことを知る。同じように、その道をたどることで、「時間」そのものをねじまげ、ねじりあわせてしまう。遠い過去がすぐ近くにあるというだけではなく、離れていたAとBという時間が実は非常に接近していること、あるいはまったく重なり合っているということにも気がつく。
 空間は物理の世界であり、そこには明確な遠近が存在する。しかし時間は物理の世界であると同時に心理(意識)の世界にも属している。心理(意識)の世界には遠近は存在しない。遠いと思えば遠い、近いと思えば近い。
 ( 1)きょう(今)一昨日のことを思い出す。( 2)きょう(今)10年前のことを思い出す。その( 1)と( 2)の意識において、今と一昨日、今と10年前との遠近はどちらが近く、どちらが遠いかはいえない。一昨日のことよりも10年前のこと方が切実(近い)ということがある。

 松浦は、そういう一種の「哲学」の問題を、冒頭に紹介したような読点のない(読点の少ない)文章で、ゆるりと提出する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劇はどこにあるか

2005-02-17 21:49:38 | 詩集
鈴木忠志演出の「酒の神デュオニュソス」を見た。(2月13日、北九州劇場)驚くほど洗練された舞台である。舞台装置は小さな椅子と壁だけ。音楽はシンプル。そして役者は能役者のように最小限の動きしかしない。ほう、と溜息が洩れてしまう。
 しかし、感動するかといえば、私は感動しない。鈴木忠志が狙っている「ことば」を肉体として立ち上がらせる、その屹立することばと肉体を極限において出合わせるという手法は見ていて心地良い。確かにそこに鈴木の狙った「劇」はある。しかしそれは「芸術」としての劇に過ぎない。
 私はもっと乱暴なものを見たい。かつて白石加代子はたくあんをかじりながら、あるいは吐き出しながらせりふを言った。包丁を客席のそばまで放り投げ、観客がぎょっとするのを見て、にたーっと笑ってからせりふを言った。ぎょっとさせ、同時に陶酔に引き込んでいく魔力が消えてしまっている。
 富山の合掌造りの村の、古い古い農家。その古い家の構造のなかで役者の肉体がすり足で静かに動く。そして、その肉体の奥から声が立ち上って来る。しかもギリシャ悲劇のことばが立ち上って来る。そのいかがわしさのなかに、洗練とは対極にある「劇」の特権、見せてしまえば勝ちという力業というものがあった、と懐かしく思うのは私だけだろうか。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(9)

2005-02-17 21:48:43 | 詩集
西脇順三郎「Ambarvalia」(筑摩書房『定本西脇順三郎Ⅰ』)

 西脇の詩に私が感じる「詩」は何よりもスピードだ。軽快さだ。口語のリズムだ。

 天気

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとさゝさやく
それは神の生誕の日。  

 第一行の( )の使い方の不思議さ。このカッコは、「覆された宝石」が西脇自身のことばではなく、どこからか聞いてきたことばであることを語っているかもしれない。しかし、それを別のことばで説明するのではなく、カッコにいれてしまうことで独立させる。これは、誰かに聞かれたら、その段階で説明すればいい――というような発言の一種の注釈だろう。
 ことばか指し示すイメージも美しいが、そのイメージに隠れている素早い精神のあり方が、本当は西脇の「詩」を特徴付けているだろう。

 西脇の詩は、また音も美しい。この詩では繰り返れる「さ行」の音の響きがすばらしい。

 雨

南風は柔い女神をもたらした。
(略)
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした。
この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした。

 「風呂場」という口語のぶかっこうな響きの美しさ。これが「浴場」だったら、この詩は、つまらなくなった。少なくとも私にはつまらなく感じられる。
 「浴場」「劇場」では音が重なっておもしろくない――という理由もあるが、同じ「場」が「ば」と「じょう」と読まれるときの意識の撹乱のおもしろさ。「風呂場」という口語が引き起こす不協和音のような音の美しさがある。

 西脇のことばには濁音の美しさがあふれている、とも感じる。

 また、この詩では、「静かに寺院と……」「この静かな柔い女神の……」と「静かな」が素早く繰り返されている点にも西脇の口語の特徴がよくでていると思う。
 ことばの整理が行き届いていないのではなく、西脇はことばの整理をしないのだ。口語そのままのリズム、スピードでことばを運ぶ。

 こうした特徴は、次の作品に端的にあらわれている。

この晴朗の正午に微風が波たつ。
星の輪が風にふるへる。
我が心も見えざる星と共にふるへる。 (「哀歌」)

 「正午」にどうして「星」が見える? と思った瞬間、「我が心も見えざる星と共に……」と修正する。これは口語ならではの修正である。
 文章としてきちんと書こうとすれば、こういう一種のいい加減な運び方はないだろう。
 西脇には、文語にはない自在な修正というか、直後の「訂正」があり、それがイメージを撹乱し、読者の精神に対する刺激になっている。

 これは、表現を変えて言えば、ことばの乱暴な飛躍ということかもしれない。西脇のことばは、落ち着いたことばの通い合いを拒否する。ことばのディグレーションによる変化ではなく、奇妙な衝突の音楽を大切にする。

 次のことばの展開も私は大好きだ。

僕の煙りは立ちのぼり
アマリリスの花が咲く庭にたなびいた。
土人の犬が強烈に耳をふつた。(「カリコマスの頭とVoyage Pittoresque)

 「土人」という表現は今では使わないが、この濁音がもたらす音の美しさは捨てることができない。この響きがあって「強烈」も生きて来る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(8)

2005-02-14 21:46:12 | 詩集
西脇順三郎「じゅんさいとすずき」の「あとがき」(筑摩書房『定本西脇順三郎ⅩⅠ』)

 九月の中頃私は小田急の線路の柵の外を走る小路を憂鬱な思いで家路を急いだ。するとその柵に沿ってアカザとヨモギが密生している。それで私は漢文をよくするある若い英文学者に電話した。ただ遊びにこないかといった。実はそれを見せたかったのだが、それを見に来たまえというとあまりにセンチメンタルに思われるのがなさけなかったからである。

 この文章の「なさけなかった」に「詩」がある。「恥ずかしい」でも「気後れ」でもない。「なさけない」――この口語の不思議な響き、「NA・SA・KE・NA・I」ということばのなかにある「あ」の音の繰り返しの美しさ。「なさけなかったからである」と発音するとさらにその音が広がる。
 西脇のことばには、意味以上に音楽の美しさ、音楽としての「詩」がある。

 この文章にはつづきがある。

しかし彼は用があってこられなかった。(略)一週間ほどたってから、またその道を行くと、もうその藪のしげみが綺麗にかりとられていた。線路係の工夫が義務としてそうしたのだが、私にとっては残念なことだ。なにかその藪にいた虫が知らしたのか電話をかけたのであった。

 「義務」ということばのつかいかたもおもしろいが、最後の「虫の知らせ」のつかいかたがとてもおもしろい。ユーモアがある。
 西脇のことばのつかいかたには、あれ、そのつかいかたはちょっと違うぞと感じさせるものがある。普通はそんなふうにはつかわない。わかっていて、わざとずらしてつかう。
 このとき「虫の知らせ」という、感覚的であいまいなものが、実にリアルなものにかわる。そして不思議な快感――笑いにつながる快感を覚える。

 これは「意味」を骨抜きにする笑いだ。
 ここにも西脇特有の「詩」がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「グランド・フィナーレ」を読む

2005-02-14 21:44:08 | 詩集
阿部和重「グランド・フィナーレ」(文芸春秋2005年3月号)第132回芥川賞受賞作。

 文章が非常に幼稚だと感じた。こんな文章が本当に芥川賞なのだろうか、と疑問に感じた。

 「午後三時半頃に、二、三年生くらいの女児二人が一〇枚入りの折り紙セットをお買い上げになったあとは、文房具店の時間は完全に止まり、学校の脇道を行き交う通行人さえいなくなってしまった。」

 この「お買い上げになった」とはなんという日本語だろう。客に対する「敬語」のつもりだろうか。そうだとしても、小説の描写にこういう表現はないだろう。単に「買った」「買っていった」が自然だろう。
 「行き交う通行人」もひどい表現である。通行人は行き交う人のことである。「行く人」「歩く人」で十分だろう。だいたい、学校の脇道などを人が行き交うことすら現実には少ないだろう。学校の脇道は登下校のときにこどもが通るものと決まっている。
 
 文章がずさんすぎる。こうした文章が編集者の目をすり抜けて「文学」として発表されることに疑問すら感じる。

 また、この小説には現実の世界の事件が登場人物の会話の形で取り上げられている。その取り上げ方は、登場人物のものの見方の浅薄さをあらわしているといえばあらわしているのだろうが、現実の捉え方にリアルさがない。
 さまざまな事件には現実の危険が潜んでいる。それを事件としてではなく日常として文章に定着させなくては小説とはいえないだろう。日常に潜む危険を、肉体に伝わるように書かなければ小説とはいえないだろう。



 一か所、「コーラの炭酸がすっかり抜けてしまうと、闇夜の海が波も立てずにしーんと静まり返ったかのような終末感をちっちゃく漂わすが、わたしの暮らしぶりも大体あんな感じだった。」という文章だけがおもしろく感じられた。
 この小説の登場人物(主人公)にとっての「終末」とはコーラの炭酸が抜けた状態とつながっている。そういう卑小な感じがなまなましく伝わって来る。
 そうした文章がもっと綿々とつづくとおもしろい小説になるだろうとは思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(7)

2005-02-11 21:42:50 | 詩集
西脇順三郎「伊太利紀行」(筑摩書房『定本西脇順三郎ⅩⅠ』)

 西脇の文章は口語で書かれている。リズムが口語である。詩も口語で書かれているが、文章の方がそのリズムが口語であることがわかりやすい。
 たとえば

或る星の晩、このフラスカーテイの山腹にある料亭へ行くとき、まっくらな小路を通った。そうすると、その小路は香水をまきちらしたように薫っている。それはその料亭の入口をおおっているスイカズラの花であった。

 「星の晩」「小路」「香水」「薫る」――こうしたことばはいかにも詩っぽい。ロマンチックな雰囲気をかもしだす。しかし、そうしたもののなかには詩はない。詩と俗に思われている、その「俗」だけがある。西脇は、こうした俗をまきちらしながら、リズムそのものを「詩」に変えていく。
 つづけて書けば、というか、そうしたことばを緊密な関係の中で書いてしまえば、文体が「俗」に染まってしまう。
 西脇はそういうリズムを拒否し、肉体が発見したものを、発見した順序のまま、ただ並べていく。

 文語は、発見したものをいったん頭の中で整理し、読者にわかりやすいように構成したことばで書かれる。口語は、そうした手数を踏まない。ただ、今、目の前にあるもの、純粋な体験を、純粋なまま(整理せずに)発し続ける。
 このリズムの中に「詩」がある。西脇の書こうとしたもの、あるいは書き続けた「詩」がある。
 ことばは、唐突である。唐突に変化し、その変化がおわるたびに世界が次々に広がる。その変化のリズムの「詩」がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(6)

2005-02-09 21:41:49 | 詩集
伊藤比呂美「空港から出たところでバスのきっぷを買って」(現代詩手帖2005年2月号)

 この詩の魅力はいくつもある。生と死が猥雑に交錯する。生が性と一体になり、命が増殖する。その増殖の仕方は動物的というより植物的である――というのがたぶん伊藤の詩のおもしろいところであり、その増殖が植物的であるからこそ、死はまた、植物的であり、まるで枯れ草のように腐って消えていくものになる。つまり、死のあとには「骨」などは残らず、死にながら死ななかった植物の根が再び命となってよみがえるように、忘れた場所から噴き出して来る。

 もちろん、そこに「詩」はあるのだが、その詩はすでにおなじみのもの、伊藤の詩に共通したものである。伊藤の詩を特色付ける「色」――完成されてしまった「色」である。

 私は、そうした完成された「色」ではなく、違う行に惹かれる。「詩」を感じてしまう。

外に出て
私たちは見ようとしている
ところがなかなか焦点があわせられない

 この、非常に散文的な、一般的に詩と思われていることばから非常に遠いことば、その展開に私は「詩」を感じる。
 そうか、伊藤にも焦点のあわせられないものが存在し、それを見ようとするこころがあり、そこからことばが動き出している、ということが感じられる。
 この瞬間に、私は「詩」を感じる。

 伊藤の、植物を、犬を、家族を語ることばの、ずるずるとひきずりながら増殖することば――それは焦点の合わないものを手探りで(比喩としての)――つまり、触覚を媒介に世界を連続させることばは、こういう意識から生まれているのだ、ということがわかる。
 見ようとしても焦点があわない――だから視覚ではなく触覚のなかの「視力」を手がかりに、方々に歩き回る。

ここで、私は
何をしているのかわからない
何か、待っているのか探しているのかもわからない
ここに着いてからというもの私たちは歩き回っている
ひっきりなしに
外に出て
私たちは見ようとしている
ところがなかなか焦点があわせられない

 歩くこと、動くことが必然として存在する。歩くことは「触覚」の世界を広げる唯一の方法だからである。「触覚」の移動――それはまるでセックスそのものである。セックスは、触覚が体中を動き回り、その動いた先で、聴力にもなれば視力にもなって世界を捻じ曲げていく――というか、世界を自分と一体にしてしまう――世界と一体になることだ。

 そういう状態になると、世界は一気に輝く。美しく発光する。

外に出て
私たちは見ようとしている
ところがなかなか焦点があわせられない
緑色にふくまれる光が強すぎて焦点があわないのだ

 「焦点」などあわなくてかまわない。詩人自身が強い光をはなつ存在になってしまうからである。伊藤にとって「詩」とは、読者にとって「強すぎる光」「焦点を拒絶した光」になることかもしれない。

 次のような行の光――それは伊藤から読者に向けられた「光の挑戦状」かもしれない。

ススキもオギもアキノキリンソウもまだ発情していませんでした、人がそばをとおるとススキは鋸のような葉で切りつけました、皮膚が切れて血が出ると、ざあっとそよいで自分でやったことにあわてました、揺さぶられるふりをしながら、ぺろりと舌を出して葉についた血をなめとりました、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか

2005-02-07 21:36:27 | 詩集
詩はどこにあるか(5)

西脇順三郎「イタリアの野を行く」(筑摩書房『定本西脇順三郎ⅩⅠ』)

 末尾の文章。

イタリアの夕暮もいずこも同じく美しい。貧しい家の窓から夫婦らしい男女が淋しそうに窓わくにあごをかけて夕やけをみていた。

 夕暮れの風景――風の変化、光の変化をいっさい描かない。そのかわりに、夕焼けを見ている人間を描く。
 このとき、夕焼けの描写がないのに夕焼けが見えるのはどういうわけだろうか。
 私のなかに、窓にぼんやりと体を預けて夕焼けをみた記憶――肉体の記憶があるからだろう。そして、そういう記憶は、おそらく誰にでもあるに違いない。

 視覚の記憶ではなく、あるものを見たときの肉体の記憶を揺り動かす。――ここに西脇の「詩」がある。「淋しい」ということばが西脇の文章に多く出てくるが、この「淋しさ」とは、肉体の記憶に触れるものの総称である。

*************************************************************

2291 Res 詩はどこにあるか(4)

 西脇順三郎「私の周辺」(筑摩書房『定本西脇順三郎ⅩⅠ』)

 都会と田舎(自然)について書いた文章の末尾。

二子たま川はまだいい。その土手に住む都会人はうらやましい。朝夕、庭の生垣に川ぎりがかかってくる。古木の梅も咲いている。そこで友人が書斎にとじこもり博士論文か何かを書いている。

 古い自然への愛着――それが「詩」なのではない。もちろんそのセンチメンタルにも詩は存在するが、あくまでそれはセンチメンタルである。「詩」はそうしたセンチメンタルと断絶した瞬間に姿をあらわす。
 昔懐かしい自然、素朴な味わい――そうしたものとは無関係に、友人は博士論文を書いている。その断絶のなかに「詩」は存在する。

 しかも、西脇の「詩」は、私がこうして書いている文章のように、あれこれ説明はしない。どんな脈絡もなく、唐突にあらわれて、消えていく。
 このスピードと軽さ。――スピードと軽さゆえの明晰さ。

 そして、それは「操作された」スピードであり、軽さであり、明晰さだ。

 これは口語そのものである。西脇は、口語で文章を書こうとした、口語のリズムを取り入れようとしていたことが、こうした短い文章の末尾からもわかる。
 この口語の感じは、次のように考えればよくわかると思う。
 人が川べりを歩いている。おしゃべりをしている。
 「ここはいいねえ。朝夕、庭の生垣には川ぎりがかかるだろう。」
 「ああ、いいねえ。古い梅の木も咲いている。」
 「あ、そうそう、この近くには友人がいるんだ。こんな風景も見ないで博士論文なんか書いているんだろうなあ、今ごろは。」
 風景と、友人の関係などない。何もない。しかし、私たちは、ふいにそういうものを思い出す。そして、おしゃべりのなかに、そうしたことばを撒き散らす。
 この瞬間、何が見えるか。
 単に、ある人が話した「友人」が見えるだけではない。友人を思い出している連れの人間そのものが見える。私たちが生きているこの瞬間、私以外の人間は私以外とは違ったことを考えているということが、唐突に、わかる。

 「他者」に触れる――その瞬間に「詩」は存在する。

*************************************************************

詩はどこにあるか(3)

平出隆「鳥の階段、その構想」(「現代詩手帖」2005年1月号)

 2004年11月21日に書き出して12月7日に書き終わった(らしい)ソネット。一日一行、書かない日は空白――という「構想」を「構造」にした作品である。
 「詩」は、もはやこういう領域、意識的な操作のなかにしか存在しないかもしれない。

 ことば、精神の動きをどこまで自覚するか、自覚してことばを動かすか。そうした意識の運動を端的にあらわしたのが、書き出しの3行目だろう。(一行目から引用する。)

この鳥は一日に一行を書くしぐさをして、自分の羽に日付を振る。  21.NOV.2004
一行を、昼夜のそろつた虚実の数が占めている。翌日の一行は
渡りの意識で書かれるだろう。翌々日、翼の端は断たれるだろう。

 「渡り」とは、詩における「行の渡り」である。ここでは、そのことばどおり、2行目から3行目にかけて、ことばが「渡り」構造をとっている。(ついでに書いておけば、「翌々日、翼の端は断たれるだろう。」の「翌々日」とは次の次の行のことであり、それは平出が書いているとおり「翼の断たれた」状態、つまり、鳥が飛んでいない状態――空白になっている。ソネットの「4・3・4・3」の構造を明確に浮かび上がらせる「空白」の一行となっている。

この鳥は一日に一行を書くしぐさをして、自分の羽に日付を振る。  21.NOV.2004
一行を、昼夜のそろつた虚実の数が占めている。翌日の一行は
渡りの意識で書かれるだろう。翌々日、翼の端は断たれるだろう。
一行は、深くその日の木々の姿に、枝々の揺れにつながつている。

一行なき一日なし、とはいうが、消印を捺された一行の長さには限りがない。
ただ時間と眠りとで、感情を丸め込まれたにすぎない。
素描しない一日とは、身をそのかぎりの空きとして示すことである。

 この、あくまでもことばを意識下におく、制御する。制御している自己を自覚し、なおかつことばを繰り出していく。
 ここに平出の詩の本質があるだろう。

 「詩」は感情や精神で書くのではない。「詩」はことばで感情や精神を作り出していくことである。それは一歩一歩階段を上るという行為に似ている。タイトルの「鳥の階段」にはそういう意味も含まれているだろう。

************************************************************

詩はどこにあるか(2)

 西脇順三郎の『じゅんさいとすずき』(「定本 西脇順三郎全集ⅩⅠ」)に「野原を行く」という短い文章がある。年末の武蔵野を歩き、夕日の色に感じ入る。そしてセザンヌの色を思い、セザンヌ論を語り始める。
 西脇の書いているセザンヌ論は私が読んだなかでは一番気に入っている。
 私はセザンヌが大好きだが、ああ、セザンヌが好きで本当によかった――と感じる書き方である。その魅力を伝える西脇の文章に「詩」はもちろんある。ことばの全部が「詩」でるあことは間違いない。
 しかし、私が「詩」を感じるのは最後の一行だ。

  家に帰ってかがんだら、ドングリがころげおちた。

 この一行で西脇がどこを歩いてきたかが突然わかる。西脇が何をしてきたかが突然わかる。
 西脇は武蔵野歩き、ドングリを拾った。胸のポケットに入れた。きっとそのとき何かを考えた。しかし、そういうことはすっかり忘れてしまって、セザンヌについて考えた。
 ――この落差(?)の中にこそ「詩」がある。

 セザンヌの絵は美しい。セザンヌを語る西脇のことばも美しい。
 しかし、その美しさとは無関係に(非情に――と私は考える)、まったく別の世界が存在する。
 このときの、無関係な、あるいは遠いことば、遠い存在の急激な出会い、融合の中にこそ「詩」はある。


*************************************************************

詩はどこにあるか(1)

現代詩手帖2005年1月号
平田俊子「事件」

  睡蓮の花が咲いている
  新宿御苑の大温室
  プールの水に手をつけると
  意外なことに温かかった
  睡蓮ってお湯の中で咲くんだね

と始まるこの作品の第一連目に「詩」はあるか。あるとすれば「意外なことに」というきわめて散文的なことばのなかにある。このことばのなかでは、精神が明確に動いている。その動きが「詩」である。
 しかし、この作品の本当の詩は、実は末尾の「付記」にある。特に、その③

  ③ 「睡蓮が事件のように咲いている」という一行を入
    れたかったが、入れる場所が見つからない。入れる
    ほどのものでもないかもしれない。といいつつ、未
    練がましく一部をタイトルにつかった。

 私が「詩」を感じるのは、ここだ。
 精神が動いている。動いているが、明確な形にはならない。読者に「形」をゆだねている。読者は、その動きの中で、まだことばにならないことばに出会う。この瞬間に「詩」は姿をあらわす。



詩のほかに、日々、読んでいる詩についての感想を書き連ねます。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする