詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(4)

2006-11-30 23:03:23 | 詩集
 現代詩文庫「清岡卓行詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
 「オーボエを吹く男」(『日常』)に、隠された「と」がある。

テレビの中のオーケストラの全員が
ふと 休止符のそよ風に
めいめいの羽根をゆだねて 無言のまま
シンフォニーの空を 一瞬
飛びつづける。
ドイツから楽器をぶらさげてやって来て
そんな渡り鳥のイメージをあたえる かれらの
つかの間の 静寂の深さに
ぼくの疲れた夜のからだは
目覚めたようにこころよく
のめりこむのだ。

 シンフォニー、音の連続。ここでは「休止符」そのものが「と」である。音「と」音の間にひろがった静寂。それが「と」である。休止符は音「と」音を分離し、同時に結びつける。何によってか。イメージによって。たとえば「そよ風に羽根をゆだねて飛びつづける渡り鳥」というイメージによって。あるいは、「と」がつくりだす「間」のなかを「そよ風に羽根をゆだねて飛びつづける渡り鳥」が飛ぶことによって、その「間」がくっきりめ姿をあらわし、いっそう、その「分離」を強調するというべきなのか。--分離「と」結合。それは矛盾した概念であるが、その矛盾が融合し、姿をあらわすときが、「と」が「詩」になって姿をあらわすときだ。
 そのすべてを清岡は「静寂の深さ」と呼んでいる。その「深さ」ということば。「と」がつくりだす空間は、とたえば「そよ風に羽根をゆだねて飛びつづける渡り鳥」が飛ぶかぎりにおいては広々とした空間、広い広い空、水平方向に広がったものである。しかし、それは広さを獲得した瞬間に「深さ」に変わる。垂直方向に変わる。そして、そのとき、「間」は水平、垂直方向に広がりつづけることで、逆に凝縮する。濃密になる。広がれば広がるほど、深くなれば深くなるほど、そして広いと感じ、深いと感じれば感じるほど、それは恐縮し、濃密した「一点」に結晶する。
 「と」は「詩の結晶」である。

 「詩の結晶」は、広さと深さが拡大しながら凝縮するというような「矛盾」の形でしか表現できないものがある。「矛盾」が一瞬のうちに、凝縮し、同時に爆発するビッグ・バンのようなものなのである。

ぼくの疲れた夜のからだは
目覚めたようにこころよく
のめりこむのだ。

 この3行の中の「目覚めたように」。「疲れた夜のからだ」なら「眠り込むように」こころよくのめりこむのではないのか。しかし清岡は「目覚めたように」と書く。「疲れた夜のからだ」と「目覚め」は常識的には矛盾である。そして、矛盾だからこそ、そこに「詩」が噴出する。驚きが噴出する。驚きが世界を攪拌し、押し広げる。

やる以上は 惨めな仕事でも
精魂をこめてやらずにはいられなかった
昼間の人間の悲しみから
解き放たれて。

 ふいに出現してくる「昼」の生活。
 この4行は、それまで清岡が展開してきた「詩」を否定する。静寂の深さという広がりを飛びつづけるゆったりした鳥の姿をかき消してしまう。
 そして、そのかき消された渡り鳥の向こう側から、もう一度「詩」は別の形で立ち上がってくる。

画面は すでに
オーボエを吹いて 頬をすぼめている
律儀そうな男の顔のクローズ・アップだ。
ぼくは
見知らぬ土地と薔薇の臭いを
そのゆるやかな時の流れに嗅いでいる。
そして 何となく考えている
あの 髪が薄く
目玉のすこし飛び出た男は
どんなつもりで生きているのだろうと。

 「ぼく」は「やる以上は 惨めな仕事でも/精魂をこめてやらずにはいられなかった」というつもりで「生きている」。では、オーボエを吹く男は? 「律儀そうな男の顔」の「律儀」は「やる以上は 惨めな仕事でも/精魂をこめてやらずにはいられなかった」という「ぼく」の「律儀」と重なる。
 噴出してきた「生活」、その「律儀さ」のなかで「ぼく」と「オーボエを吹く男」がかさなる。ぼく「と」オーボエを吹く男が。--ここにも「と」。そして、その「と」のなかにある「律儀」ということば。「律儀」がぼくとオーボエを吹く男を結びつける。
 そして、たぶん、清岡を他の人間と結びつけるすべての基準が「律儀」であると私は感じている。清岡と他人、だけではなく、清岡と他の存在、たとえばこの作品でいえば、清岡と音楽、それを結びつけるのも「律儀」である。
 一つずつ積み重ねるようにして埋めていくイメージ。その緻密な言語操作のなかの「律儀」。清岡の「と」の周囲には、「律儀」が広がっている。正確さ、嘘のなさ、誠実さが広がっている。「律儀」であることが「生きる」ことなのである。生活することなのである。「律儀な生(生活)」にこそ「詩」があるのである。

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田島安江『トカゲの人』

2006-11-29 12:26:02 | 詩集
 田島安江『トカゲの人』(書肆侃侃房、2006年11月28日発行)。
 不在の存在、不在することの意識というものについて考えた。たとえば「木と鳥と」。1連目の後半。

揺れている木々の枝先に
一羽だけ鳥が止まっている
木々の揺れに沿って鳥も揺れる
たった一羽だということが
決して二羽だったりしないことが
もう一羽の不在が
木の不在でもあるかのように

 「もう一羽の不在」が明るみに出す「もう一本の木の不在」。不在が不在をあぶりだす--その微妙な意識が田島の「思想」の根源であると思った。「不在」をめぐって田島のことばは動くのである。
 「終着駅」の2連目。

隣に座った男が
その隣に座った女に話しかける
「冷たいだろう」
「冷たいわね」
冷たいのは男の心なのか
女の体なのか
私にはみえない二人の関係を乗せたまま
電車は最後の駅に向かう

 「冷たい」をめぐる会話。その「冷たい」と言われているものが何かわからない、確信の「不在」。「みえない」もの。見えないけれど、それはたしかにあるのだ。見えないからといって存在しないわけではないのだ。
 この視点から「木と鳥と」を読み返してみる。
 「もう一羽」の鳥は見えない。見えないから、普通は存在しないと考える。ところが、田島はその鳥が不在なのはもう一本の不在の木(あるいは枝)を明るみに出すために不在だという。
 それは見たいものがある、ということかもしれない。見たいという欲望が見えないものをつくりだすのかもしれない。
 「木と鳥と」では次のように語られる。

鳥が飛び立つ日はきっと明日
ここに立ったとき
鳥はもう飛び立っているだろう
南に向かって

 見たいもの--それは「出発」である。「出発」への欲望が田島にはあって、そのために「不在」が見えるのである。「出発」とは、ここから「不在」になることである。ここから「不在」になったとき、ここに存在したということが、「記憶」として明確になる。「記憶」として刻印される。
 田島の詩を読んでいると、田島自身がどこかへ行ってしまって(ここから不在になってしまって)、そしてそのことによって「ここ」(いま)を記憶に刻印しようとしているように感じられる。
 あるいは逆に言った方がいいかもしれない。
 「ここ」(いま)から不在になる。その不在は、「新しい私」の誕生を証明する。もう「そこ」にはいない。「ここ」(いま)は「そこ」(あのとき)に変わってしまった。だから私は「新しい」のだ、と田島は宣言しようとしているかもしれない。
 「終着駅」の全編。

新しい自分が見えてきたら
古い自分を脱ぎ捨てる
洋服を着替えるように
新しい自分にはなかなかなじまないから
なじまない洋服を着る時のように気恥ずかしくて
わたしは半ば酩酊したまま
電車に乗る

隣に座った男が
その隣に座った女に話しかける
「冷たいだろう」
「冷たいわね」
冷たいのは男の心なのか
女の体なのか
私にはみえない二人の関係を乗せたまま
電車は最後の駅に向かう

 2連目の「その隣に座った女」とは、田島からみて、男の向こう側にいる女を指すのだろうか。それとも田島自身を指すのだろうか。
 「新しい自分」と男の関係、二人の関係は、田島にはまだ見えない。見えないけれど、それは存在する。それはけっして「不在」ではない。
 不確かなもの、見えないもののなかへ自分を投げ出していく田島。その「出発」を田島は、ここで静かに宣言しているのである。
 これは静かな静かな、しかし強い決意が秘められたラブソング、あるいはラブレターのような詩である。男に対して田島は半ば酩酊したまま、見えない関係に身を任せて最後までいっしょに行くと言っているのである。つねに「不在」であってもかまわない。「不在」であっても、あるいは「不在」であるからこそ、そこには「いま」「ここ」にはないほんとうのもの、欲望の対象が実在するのだという酩酊のなかでしか見えない真実がある。それを見てしまうのが恋というのもだろうと思う。


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清岡卓行論のためのメモ(3)

2006-11-28 23:36:05 | 詩集
 現代詩文庫「清岡卓行詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
 『日常』の「思い出してはいけない」。「ぼく」と「きみ」の出会い。書かれていない「と」がある。そう言えるのは、きみ「と」ぼくの「間」に「世界」があるからだ。

きみを見たときから始まった
ぼくの孤独に
世界は はげしく
破片ばかりを投げ込もうとしていた。 

 きみ「と」ぼくが出会い、その結果孤独が生まれた。きみ「と」ぼくが一体ではないこと、重なり合わないこと、融合しないことが孤独である。「と」によって生まれた宇宙には何もない。そこにはきみとぼくをつなぐものはない。つなぐものを持たない宇宙が孤独である。
 しかし、「と」がある。
 つながりを求める意識がある。そこへ「世界」は「破片」を投げ入れてくると清岡は書く。「破片」とは何か。ほんとうは「破片」ではない何か、完全なものがどこかにあるはずだという思いがここには隠されている。それは言い換えれば、「破片」は「と」によってぼく側にできたものだということだ。「破片」の片割れ(?)は「と」の向こう側、ぼくではない方の側、つまり「きみ」の側にある。それが結びつけば「破片」は「破片」ではなく全体になる。
 どこかに完全なものがあるという思いが「破片」ということばを引き出しているのである。それを握っているのは「きみ」である。「きみ」が「世界」のすべてなのである。この詩は、「きみ」を「世界」と呼んでいる点からみても、完全なラブレターである。
 そのラブレターのなかで清岡は、きみの方に残っている「破片」の片割れ「と」ぼくの方に突然存在が明らかになった「破片」(きみが照らしだした「ぼく」の何か)が、「と」によって結びつくなら、そのとき「宇宙」は完全なものになると切実に訴えているのである。
 「きみを見たときから」はきみ「と」会ったときからと同義である。「と」はここでは微妙に書き換えられているのである。こうした書かれていない「と」、隠された「と」も清岡の詩を読むときには見逃してはならない。



ぼくの孤独に
世界は はげしく
破片ばかりを投げ込もうとしていた。

 この3行に呼応するようにして思い出してしまう詩がある。同じ『日常』のなかの「風景」。

ぼくは 風景などに
まるで興味はなかったのに
二人でプラットホームから眺めた
あの古ぼけた ありきたりの
猫の子一匹いない 鉄材置場は
なぜぼくの眼に そんなにもしみたのか?

 「鉄材置場」という「破片」。それが「ぼくの眼に」「しみ」た。それは、それを「ぼくが」でも「きみが」でもなく、「きみとぼく」という「二人」で眺めたからである。「ふたり」ということばには「きみとぼく」が隠されている。もっと明確にいえばきみ「と」ぼくが隠されている。「と」がきみとぼくを結びつけ、そのとき世界の「破片」は「破片」ではなくなっているのだ。
 「鉄材置場」を私は最初「破片」と書き、いま「破片」は「破片」でなくなっている、と書く。これは矛盾である。矛盾であるけれど、そういう形でしか書けないことが清岡の詩には存在する。
 そうした矛盾をつくりだしているのが「と」である。
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デヴィッド・フランケル監督「プラダを着た悪魔」

2006-11-28 22:13:46 | 映画
監督 デヴィッド・フランケル 出演 メリル・ストリープアン・ハサウェイ、エミリー・ブラント、スタンリー・トゥッチ

 この映画の見どころはふたつ。ひとつはもちろんファッション。いかに多くのファッションをスクリーンに登場させるか。遮蔽物を映画は利用している。信号を待つ。車が通りすぎる。するとさっきまで着ていた洋服とは違った服で主人公が歩きだす。地下鉄の入口へ入っていくときと出てくるときではもちろん洋服は違う。靴もアクセサリーもバッグもかわる。しかも、あれは何? もう一度しっかり見てみたいというファッションへの欲望をくすぐるような素早さで、全体像をはっきりとは見せない。メリル・ストリーが次々にコートとバッグを机の上にほうりだすシーンの連続はその象徴的なものだ。豪華なのに、その豪華さを一瞬しか見せない。欲しかったら店にいって確かめ、手に入れろと欲望をくすぐるだけである。こういうめまぐるしい映画では人間の欲望はあからさまになるけれど、それ以外の人間性が陰に隠れてしまう。ふたつめの見どころは、したがって、その人間性、苦悩や悲しみを、どうやって表現するかという点である。
 メリル・ストリープがたいへんすばらしい。「マディソン郡の橋」ではたくましく大地に生きる農家の主婦を裸足で演じていたが、こんどはそういう土の匂いとまったく無縁の女性を演じながら、一瞬、人間の悲しさを見せる。せつなさを見せる。離婚、それにともなう子供のこころの負担、それを心配するときの、化粧を落とした(?)むき出しの素顔。「マジソン郡の橋」の主婦のときより生々しい。疲労感が辺り中にただよい、しかもそこからなお立ち上がっていこうとする苦悩が、ほんの一瞬なのに、ずきりと胸に刺さる。なぜ、その苦悩、悲しみを、夫に言わずにひとりで抱え込むのか、と胸が痛くなる。
 演技とはわかっていても、こういう顔で、声で、せつせつと語られると、主人こうならずとも思わず親身になってしまう。
 主人公のアン・ハサウェイの人間性(?)の変化は、いわばストーリーの進行に伴って揺れるものだから、観客の方も自然に納得してしまうけれど、メリル・ストリーの場合は、ストーリーの展開に沿うというよりも、ストーリーの展開を突き破って噴出してくる現実である。こういうストーリーを破って噴出する現実があるからこそ、その映画が映画でありながらリアルなものになる。そのリアルさを一人で支え、演じきっている。
 この人間は生きているというリアルさがあるからこそ、最後のメリル・ストリーのことば、間接的に伝えられることばの一瞬にも、そこにメリル・ストリーの姿が映っていないにもかかわらず、メリル・ストリーが見える。
 メリル・ストリーにほれ直してしまう。ファッションに興味がなくてもメリル・ストリーの演技を見るだけでもこの映画はおもしろい。ファッションに興味があってこの映画を見た人にもメリル・ストリーの演技も味わってもらいたい。


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大橋政人「命座」

2006-11-27 15:00:26 | 詩集
 大橋政人「命座」(「ガーネット」50、2006年11月01日発行)。
 星の星座に対して人間の命の「命座」。こうしたことばがあるかどうか私は知らない。たぶん大橋の捏造だろう。この捏造に私は「詩」を感じる。「捏造」とは実際には存在しないものを想像力でつくりあげていくことである。そこに、その詩人の感性・知識などが総動員され、とうぜんのことながら、それは詩人の全体像をあんじさせるものになる。そうしたことばの動きが私は大好きだ。
 ある絶対的な存在に触れ、ことばがかってに動いていって詩になる--というのもすばらしいが、何もないところからことばを動かしていって、そのうごかした軌跡が詩になるというのも楽しい。

私たち
一人一人の命というのは
夜空の星の
一つ一つみたいだ

真っ暗で
恐ろしいだけの
宇宙という広がりの中に生まれて
右も左も
前も後ろも
上も下もわからず
かぼそい光を発している

さみしいので
互いに手を伸ばす
みんな
無闇に手を伸ばす

 人間を宇宙の小さな星にたとえる書き出しは、古い古い流行歌のようである。新鮮さはどこにもない。新鮮さがないことが新鮮である、というような皮肉さえいいたいくらい凡庸な比喩である。
 書き出しから3連までに書かれていることはセンチメンタルな常套句である。
 「真っ暗で/恐ろしい」など平凡すぎて、読んだのか読まなかったのかわからないくらいの印象しかない。「かぼそい光」という不安げなことば(これまた常套句)から「さびしい」へと連をかえてつながっていくところなど、センチメンタルというのも恥ずかしいくらいの常套句である。
 おもしろい部分があるとすれば、「右も左も/前も後ろも/上も下もわからず」としつこいくらいに丁寧にことばをかさねていることだ。「右も左も」だけで充分なのに前後・上下にも触れている。一生懸命ことばを重ねることで、その重なりの運動の中から何かがうまれてくることを期待しているようでもある。
 そしてその繰り返しは、3連目でことばもかえず(2連目では、一応、前後、上下と表現が変わっていたが)、「手を伸ばす」というリフレインになる。だが、それは単なる繰り返しではない。繰り返すことで、それまで考えたことを明確に確認し、そこから飛躍するのだ。そのために繰り返すのだ。
 ここからだ、この詩のおもしろいところだ。

手と手を
やっとつなぎ合って
鳥とか犬とか熊とか
何かの形のようなものをつくろうとするが

どの形にも
どこか
無理がある

コジツケ
みたいだ

 想像力とは「無理」をすることだ。そこにないものを見ること、そこにあるものをそこにあるものではないものにかえていくことだからである。そんなことは現実にはありえない。(発明は、その「無理」を別の存在を借りながらつくりあげていくことである。)たとえば「白鳥座」、たとえば「大熊座」。それは星と星とを線で結び合わせただけでは白鳥や星にはならない。むすびあわさった線に、さらにありえない線をつけくわえないことには白鳥や熊の形にはならない。
 このさらにつけくわえる線を想像力といえばいえるが、「コジツケ」をむりやり補強しているようでもある。
 大橋は、じっさい、こうした想像力の動きを「コジツケ/みたいだ」と書いている。想像力を「コジツケ」と呼ぶとき、ふいに、現実が浮かび上がる。そんな「コジツケ」に頼らずに、ただ、いまここにある「命」をそのまま受け入れればいいじゃないか、という低い低い声が静かに足元に横たわる。
 そういう声を、私たちは、いつのまにか、どこかに忘れてしまっているかかもしれない。その忘れてしまった声、「コジツケ」の「理想」(人間は手を取り合って生きるというような理想)なんかいやだなあという声を、大橋は取り戻そうとしているのかもしれない。
 こういう声はいいなあ、と思う。その声の低さ、静かさ、見えにくさのなかに「詩」はたしかにあるのだと思う。


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清岡卓行論のためのメモ(2)

2006-11-26 13:42:47 | 詩集
 現代詩文庫「清岡卓行詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
 『氷った焔』の「決闘」。

踝へはくるおしい歯車
膕へは ひからびた地球儀
そうして 水銀をぎこちなく
口にふくむくちづけは
いけないことのような そののちに
勝利の頂上のはげしい羞恥と
敗北の底にのたうつ うつろな笑いと
なぜ ふたつながら同時に
額縁でふちどられたベッドの上で
しだいに発熱する ガラスの皮膚の
奥深く閉じこめる予感であったか
戦いはどこから来たか たがいに
ありとあらゆる愛は 造花で飾られ
なぜ 偶然に選びあった
ただひとつの肉体への殺意となったか
それはむしろ あたえあう自殺
舌には舌の 燃えつきる星たち
項には指の 魘された鍵束
瀕死の瞳が刺しちがえる二重の宇宙に
かれらそれぞれの あえぐ魂は
どのような光を また闇を
捉えようもなくかいま見たか

 セックスを「決闘」というタイトルのもとに描いたここにも「宇宙」がでてくる。「二重の宇宙」とは愛し合うふたりの「宇宙」のことである。「ふたつ」ではなく「二重の」と形容されているのは、それがすでに合体・融合している部分を含むからである。
 この詩は、その「二重の宇宙」のことばに象徴されるように、「ふたつ」と「ひとつ」が交錯する。

勝利の頂上のはげしい羞恥と
敗北の底にのたうつ うつろな笑いと
なぜ ふたつながら同時に

 羞恥「と」笑い「と」。「と」によって別々の存在と認識されたものが「ふたつながら同時に」ということばと共にある。「同時に」とは「ひとつの時間に」と同じ意味である。清岡は常に「ふたつ」のものを「ひとつ」にすること、「宇宙」として融合する状態に「詩」を感じているのだと思う。

 「ふたつ」「ひとつ」に関連していえば(関連しなくてもいいかもしれないが)、この詩のなかで一番強烈なのは、次の行である。

ただひとつの肉体への殺意となったか

 セックスするとき、肉体は「ふたつ」である。しかし、この詩では「ひとつの肉体への殺意」と「ひとつ」としか書かれていない。これは二人がかりでどちらかひとりの肉体を殺すということだろうか。そうではない。「それはむしろ あたえあう自殺」の「あたえあう」という表現からわかるように、ほんとうは「ふたつ」だけれど「ひとつ」として感じ取られているということだ。
 そこでは清岡は清岡自身ではない。清岡を超越している。
 「刺しちがえる」とき、「ふたつ」は「ひとつ」になる。そして、そのときふたつの宇宙は重なり合い「二重の宇宙」になる。

 この詩には、清岡の描きたいものが端的に出ている。
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ケン・ローチ監督「麦の穂をゆらす風」(再び)

2006-11-26 12:34:39 | 映画
 映画は映像と音でできている。そして、映画を見ていてるとき、実際にはそこにない映像が見え、聞こえない音が聞こえるときがある。そういう映画が私は好きである。
 たとえば「風の丘を越えて」。この映画のクライマックスでは目の見えない姉が弟の太鼓にあわせてパンソリを歌う。そのとき姉の声は聞こえない。太鼓の音は聞こえない。聞こえるのはフルートの音である。しかし、そのフルートの音を越えて姉の声、弟の太鼓、その掛け合いの呼吸が聞こえる。フルートの音はふたりの「呼吸」を象徴している。
 逆の例もある。「父/パードレ・パドローネ」。主人公が山で羊の世話をしていると遠くから音楽が聞こえてくる。交響曲である。だが、実際にその音楽を奏でているのはアコーディオンだけである。アコーディオンが交響曲に聞こえる--その主人公の、音楽に触れた感動がそこから伝わってくる。こういう表現も私は大好きである。
 「麦の穂をゆらす風」でも存在しないはずの音楽が聞こえてくる。
 ラストシーン。弟が兄の銃によって処刑される。
 そのとき、弟の友達の葬儀で流れた歌「麦の穂をゆらす風」が聞こえてくる。老女の歌った歌が聞こえてくる。スクリーンからではない。私の体のなかで、その歌が、音楽が静かに静かにあふれてくる。そしてその音楽は、弟だけの音楽ではなく、弟を処刑してしまった兄の悲しみをつつんでゆく。
 そして、そのとき私はまた、そこに存在しない映像を見る。弟の葬儀。親しい仲間があつまり、だれかが「麦の穂をゆらす風」を歌っている。仲間たちは、その歌をかみしめて祈っている。
 また同時に、私は、そこには存在しない別の映像も見ている。弟を処刑してしまったあと兄は涙を流すが、同じように死んでしまった弟も涙を流している映像が。弟が兄を許すわけではない。ただどうしようもない悲しみが、弟と兄をひとつにする。アイルランドをひとつにする。そういう涙が、スクリーンではなく、私のなかあふれる。

 この映画は、怒りも悲しみも祈りも観客に押しつけない。そういう映像と音を押しつけない。押しつけないけれど、そういう映像と音が、見終わったあと、こころのなかで生まれてくる。そのとき、たしかに私はいま映画と一体だったという思いを抱く。ああ、いい映画だったと思う。

 この映画には押しつけがましさがない。映像はあくまでアイルランドの湿った空気をただよわせ、そこにあるがままだ。「麦の穂をゆらす風」、そして兄が拷問を受けいるとき仲間が兄を励ますように歌う歌に伴奏はない。彼らが行進しながら歌う歌にも伴奏はない。ただむき出しの肉声が歌になる。体のなかからでてくるものだけが音楽をつくっている。そういうむき出しのものが、直接、私の肉体をつかまえてゆく。そして、私の肉体のなかに映像と音楽を残していく。
 これはほんとうにいい映画だ。2006年の映画の中では必見の1本である。

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ケン・ローチ監督「麦の穂をゆらす風」

2006-11-25 14:36:53 | 映画
監督 ケン・ローチ 出演 キリアン・マーフィー、ボードリック・ディレーニー、リーアム・カニング

 風景がとてつもなく美しい。木々の緑、草の緑、それをつつむ空気。その「空気」がスクリーンに映し出されている。
 緑は美しいが大地が豊かであるというわけではない。広がっているのは畑ではなく原野である。山である。それは育っているというより大地にしがみついているという感じがする。そこにだけしか生きられない草が、木が、大地にしがみついて、しがみつきながら、それでも美しい緑を輝かせている。自分の土地を味わい、自分の空気を吸って、厳しさに絶えながらそれでもしっかり生きている。
 この緑は、この映画の主人公たちの姿そのものである。
 アイルランドの小さな街。生まれ育った土地。そこで自由に生きたい。他人に(英国に)支配されず、自分の意志で生きて行きたい。ここに住む人間の意志を踏みにじるものは許せない。そうした思いが主人公を独立への戦争へ駆り立てる。
 この映画がすばらしいのは、そうした戦いをするアイルランド人を「自然」として描いていることである。大地から知らないうちに生えてきた草や木のように描いていることである。主人公は、英国風の名前をいうことを拒んだだけで友達が殺されるのを目撃する。英国兵をのせることを拒んだだけで殴られる鉄道の運転士を目撃する。自分の体を犠牲にして信念を貫く人間を見る。そして、その目撃から怒りが芽生え、主人公が立ち上がる。怒りが大地になって、草や木を育てるように主人公を育てる。主人公が育っていく大地には、無残に殺された友人の血がしみ込んでいる。理不尽な理由で殴られた運転士の流した血がしみ込んでいる。大地の無残な血を、無念を吸い上げながら、主人公の怒り、闘志は育っていくのである。
 美しいシーンはいくつもあるが、私が特に好きなのは、主人公の青年が最初にする軍事訓練である。そこでの教訓はただひとつ。姿をあらわすな。ひたすら隠れろ。たばこ一箱分でも姿が見えれば英国人に銃殺される。それは大地、岩や、木や、草と一体になれ、という意味でもある。そして、それがほんとうに美しいのは、そのとき、彼らは銃ではなく、ホッケーのスティックに似たものをかかえて匍匐前進するからである。アイルランド特有のスポーツ(そのスポーツさえ許さない英国軍隊が映画の冒頭にあらわれる)の道具。それをもって訓練しているということは、描かれてはないけれども、訓練のあとには彼らはそのスポーツを楽しんだということのあかしだろう。怒り、憎しみだけではない。人はいつもこころに「余裕」をもって生きている。
 だから、恋愛もするのだ。過酷な戦いのなかで、ふっと息づくこころ。命の欲望。そうしたものが「自然」のままに、的確に挿入され、映画全体を豊かにする。細部がとてもきめこまかく、美しいのである。

 だが、そんなふうにして育った木や草がいつもいつも協力して生きていくわけではない。育ちながら、その土地にはない「栄養」(肥料)をどうしても求めるものもでてくれば、そうした肥料はいま生きている草木を犠牲にしてしまうと反発するものもいる。
 自分が根を張った場所を正しいと信じ、ときには同じ場所で戦わなければならない。自分が生きるために、さっきまでいっしょに生きていたものを殺してしまうこともある。自然の過酷さが、ここにある。信念の過酷さがここにある。自然は美しい。信念も美しい。しかし、自然も信念も過酷なのだ。過酷であることを体験して草木は育ち、また死んで行く。同じように、人間もまた世界が過酷であることを体験しながら死んで行く。

 こうした生き方に何か救いはあるだろうか。
 アイルランドの古い歌だろうか。英国軍隊によって理不尽な理由で殺された息子--その息子の葬儀に老人が歌う歌が救いである。希望である。
 死んだ男、流した血の上に麦は生え、やがて麦の穂は実り、風がゆする。
 豊かな麦の穂をゆらす風は、この映画には登場しない。麦の穂の実りも登場しない。ただ、荒れた大地にへばりついて生きている草が、木が登場するだけだが、それを豊かな麦にかえるのは、流された若者の血しかない。そう告げるのだが、その断言のなかに、絶対にこの血をむだにしないという決意が潜んでいる。希望が潜んでいる。

 この映画は悲しい映画である。悲しいけれど、悲しみが怒りに、怒りが力にかわることをひそかに願っている映画である。人間の「自然」は悲しみを怒りに、怒りを力にかわるはずだと、この映画は願っている。それが人間の「自然」だと。
 また、自然が自然本来の姿を失ったのは(より過酷になってしまったのは)、そこに「侵入者」があったからだと、この映画は告げる。アイルランドの不孝はイギリスに原因があると告げる。それはイギリスがアイルランドから出ていけば、アイルランドは自然にかえることができるのだということでもある。
 そのときまで、怒りの大地は怒りの大地のままである。侵略者が去ったときこそ、流された大地から麦が生え、そしてその穂をゆらす風も吹くのである。
 老女が歌った歌は追悼歌、鎮魂歌であると同時に「祈り」でもある。

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清岡卓行論のためのメモ(1)

2006-11-25 12:06:42 | 詩集
 現代詩文庫「清岡卓行詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
 『氷った焔』かち「石膏」。その最終連。

石膏の皮膚をやぶる血の洪水
針の尖で鏡を突き刺す さわやかなその腐臭

石膏の均整を犯す焔の循環
獣の舌で星を舐め取る きよらかなその暗涙

ざわめく死の群の輪舞のなかで
きみと宇宙をぼくに一致せしめる
最初の そして 涯しらぬ夜

 「きみと宇宙をぼくに一致せしめる」の「一致」。清岡は常にある存在とある存在、かけはなれたものを「一致」させる。詩は異質なものの出会いによって生まれるが、清岡はその出会いを出会いのまま終わらせない。出会ったものを「一致」させる。
 この詩はいささか欲張りにできていて、「きみ」(石膏)と「ぼく」が一致するだけではなく、「石膏」がかかえている「宇宙」と「ぼく」が「一致」する。
 これは「石膏」のかかえる「宇宙」と「ぼく」がかかえる「宇宙」が出会い、そのふたつの「宇宙」が「一致」するという意味である。そして、このとき「一致」とは「融合する」「合体する」、そしてその結果「ひとつ」の存在になるということである。
 「石膏」と「ぼく」はもちろん別々の輪郭をもっていて、融合することも、合体することもできない。しかし、それぞれの「宇宙」はどうか。「宇宙」はもちろん「比喩」である。そして「比喩」であるからこそ、それは「一致」する。融合する。合体する。「ひとつ」になる。

 いま、私は、清岡が「宇宙」ということばを詩のなかでどれくらいつかっているか思い出すことができないが、この作品に書かれている「宇宙」、比喩としての「宇宙」は、清岡の作品にとって非常に重要なことばだと思う。
 清岡はある存在と別の存在、この詩では「石膏」と「ぼく」を描くが、そうしたふたつの存在はかならず融合する。ふたつの存在の間には深くは意識されていない「間」(空間、時間を含める広がり)がある。その「間」を丁寧にことばで測り、触れ合えるなにかを探す。そして、その触れ合えるものを手がかりに、少しずつ「間」を縮めていく。あるいは、ことばでその「間」を埋めていく。そのとき、そこにいままで見えなかった「世界」が広がり、すべてが融合する。そして新しい「世界」になる。
 この「間」(空間、時間)、そして新しい「世界」はすべて「宇宙」ということば、「宇宙」という比喩でも代弁できるものである。

 この詩のなかのもうひとつ大切なことばは「と」である。

きみと宇宙をぼくに一致せしめる

 この行は、たぶん「きみの宇宙とぼくの宇宙とを一致せしめる」と言い換えることができる。(少なくとも、私は、そんなふうにことばを補ってこの作品を読んでいる。)この作品で描かれているのは「きみ(石膏)の宇宙」と「ぼくの宇宙」であり、それを分離すると同時に結びつけているのが「と」という格助詞である。
 「と」ということばがなければ、清岡の作品は成立しない。
 石膏「と」ぼく。「と」によってふたつのものが出会い、その「間」を測り、そこに出現するものをことばで埋める。そこに広がる「宇宙」がやがて、「石膏」と「ぼく」をのみこむように融合・合体する。
 そしてそのとき「と」は消えていく。

 消えていくための「と」、消滅するための「と」。そこに清岡の「詩」がある。清岡の作品は「と」によって誕生し、「と」の消滅によって完成する。
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大谷良太「ブラインド」

2006-11-24 23:15:40 | 詩集
 大谷良太「ブラインド」(「ガーネット」50、2006年11月01日発行)。

今度のアパートにはブラインドがついていた
夜になると下ろし、朝になると上げる、ということになる
紐を引っ張るのが私の日課になった

朝起きるとブラインドを上げる、
特にどうということもない、外光で部屋は明るく、

夜に帰ってくるとブラインドを下げる、 
蛍光灯の光でやっぱり部屋は明るい

少したって、私は何で夜にブラインドを下げるんだろう、
下げなくてもあげたままでもかまわないと思った
それで下げないでしまった
蛍光灯も消してそのまま眠った、翌朝は
ブラインドは上がったままだったので
私は紐を引っ張る必要もなかった

//

夏になって、
日が長くなった
私が部屋に帰ってもまだ外てがしばらく明るいくらいになった
ブラインドは上げたまま、窓を開け放って
窓からの風に吹かれていた、夕暮れの薄闇が濃くなっていった

 「特にどうということもない」。2連目の2行目。「どうということもない」ことを書いてしまうと、それは「どうということもない」ものではなくなる。こころはいったん何かを思うと、動いていってしまわないと止まらない。ただ「どうということもない」というようなぼんやりした思いのときは、こころは素早くは動かない。
 そしてまた、こころは早く動かさなければならないというものでもない。

 「少したって」。3連目のこの書き出しに「詩」がある、と私は思った。
 すぐにではなく「少したって」。「時間」の経過。「間」。それがあってはじめて、何かが動く。「間」を「無為」(そのまま)が埋めていく。肉体が広がっていく。そして、その広がりに、「空気」がなじんでくる。
 この感じがとても自然である。
 作品の末尾の「夕暮れの薄闇が濃くなっていった」の「なっていった」がとても落ち着く。このとき、こころも肉体も、それを受け入れる形になっている。
 「特にどうということもない」ような詩に見えるが、「少したって」という「少し」の時間の動き、時間とともに何かに「なっていった」肉体とこころが、とても丁寧に描かれている。

 この「なっていった」に注意して詩を読み返すと、1連目の「なる」の繰り返しが不思議に肉体に迫ってくる。それまではしなかったことをするように「なる」。それはこの詩ではブラインドを上げ下げするということだが、そういうささいな変化でも肉体には響く。こころには響くものなのである。
 だからこそ、「少したって」大谷は「下げなくても上げたままでもかまわないと思った」。ここで意識が動くのだ。そして、また何かに「なる」、なろうとする。それは意図して何かになるというよりも、何かに「なる」まで、時間に身を任せるということかもしれない。

 あるものをあるがままに受け入れ、受け入れることで少しずつ変わっていく肉体とこころ--そういうものを大谷は丁寧に描いている。
 その丁寧さにひかれて、思わず繰り返し繰り返し読んでしまう。

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野村龍『perpetual β』

2006-11-23 23:05:05 | 詩集
 野村龍『perpetual β』(七月堂、2006年10月01日発行)。
 「Dance 」。

琥珀の眠りのなかで
鳥の橋を渡った

薔薇の衣をまとって
あなたは命をそそぐ
淡い 言葉の杯に

しっとりと 濡れた短い髪は
甘い雨の訪れを告げている

素足のまま
ふたりで羊歯を踏みしだいていく

 「言葉の杯」。たしかに野村の向き合っているのは「言葉の杯」なのだろうと思う。そして、そこに「命を注ぐ」。この詩は「あなた」を主語にして「命を注ぐ」と書いているが、ほんとうの主語は野村自身だろう。
 「言葉の杯」に「命を注ぐ」手つきは慎重である。繊細である。杯いっぱいに、丁寧に水を注ぐように、「命」を注いでいる。「命」がもし水であるなら、表面張力で杯の淵で、縁にぷっくらと水がはみだすくらいに丁寧に注いでいる。
 その繊細な注意力は、それはそれでいいのだと思うけれど、何か「注ぎ」すぎている。ことばが多すぎる。「琥珀の」「薔薇の」「淡い」「しっとりと」「甘い」--それらのことばには「詩的」(?)な匂いが強すぎて、いささかうるさい。注いだ先からこぼれてしまうだろう、という気がする。
 また「淡い 言葉の杯」に注ぐには、そういう繊細なものしか入らないのかもしれないけれど、異質なもの、何か世界を破壊するような力のあるものが注がれないと、「詩」は生まれないのではないだろうか。
 「言葉の杯」が壊れる瞬間、誕生する「詩」というものがあることに、気がついてほしいと思う。
 「命」とは大切にしなければ壊れてしまうものかもしれないが、一方で、何もかもを破壊してしまうからこそ「命」なのだともいえる。すべてを壊して、そこからまったく新しく始まることができるのが「命」なのだともいえる。何も壊さない「命」はただ縮小していくだけのように思える。
 失われていくからこそ、それを丁寧に、繊細に注ぐのだと反論されると何もいうことはなくなるのだけれど。

 「HAIKU」という作品は3行ずつの断章でできている。3行という制約があるためか、ことばがうるさくなる前に終わってしまうので余韻がある。
 俳句というよりも外国語でつくられたHAIKUを翻訳したような感じもする。

蕾に
熱湯を注ぎ入れる
芳しい小鳥が いっせいに羽ばたく

 この3行は、何か翻訳の間違い(?)とでもいうような感じ、「新感覚派」の小説のことばのようで、おもしろい。「日本語」の「骨」が砕けていて、おもしろい。
 私はちょっと「桜湯」を想像したのだが、「桜湯」を書いたものではないことを期待したい。

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ヴィセンテ・アモリン監督「Oiビシクレッタ」

2006-11-23 14:18:16 | 映画
監督 ヴィセンテ・アモリン 出演 ヴァグネル・モーラ、クラウジア・アブレウ、ラヴィ・ラモス・ラセルダ

 「世界の中心広場」。ブラジルの北部にある。まわりには何もない。「文字」がただそう告げている。だれが決めたのか知らないが、そう決めて、それでよしとする。ここにこの映画のすべてがある。膨大な空間、そのなかの人間。人間を支えるのは「決定」(決意)である。
 映画は小さな街からリオデジャネイロまで3000キロ、自転車で移動する一家の話である。一家には何と乳児までいる。月1000レアルの仕事を求めて(仕事に就けるという保証はない)である。決めたのは夫であり、父親である。その無謀な決定にしたがって自転車をこぐ。
 3000キロの旅だから途中にいくつかのことが起きる。起きるけれど、そういうものはほとんど関係ない。「なんとか神父」の巨大な像なども登場するし、小さな街も登場するが、それらはすべて自転車をこいで仕事をみつけにいくという決意の前に吹っ飛んでしまう。その決意にしたがって行動する、つまり決意を実行する家族の行動力、愛と団結の力の前に、あらゆるものが吹っ飛んでしまう。彼らが存在するところが「世界の中心」である。中心には「父・夫」という「看板」がたっている。
 ひたすら頑固な夫・父。それでも好きで好きでたまらない、とついてゆく女(妻・母)。とりわけ、妻・母親のクラウジア・アブレウがすばらしい。太陽に焼かれてブロンズ色に輝く肌、しなやかな手足は彼女のこころのままに生き生きとしている。長い長い坂道を自転車で上るときのゆがんだ顔さえもが美しい。子供のギターにあわせて歌を歌うときの、歌を歌うことが楽しい、楽しいから歌えるといった表情がいい。みとれてしまう。彼女の美しさが殺風景な荒野を輝かせ、長い長い道のりを輝かせる。ブラジルの広大さをはねとばして、彼女の肉体とこころが「世界の中心」であり、その「広場」に家族が集まってくるのだという印象が残る。無学の父親は何も知らずに、彼自身が「世界の中心広場」という「看板」の役割をしている。
 反抗期の少年(長男)のラヴィ・ラモス・ラセルダも生き生きしている。内気と、内気を突き破ってしまいたい衝動。愛と怒りと悲しみ。そういうものが自然に移り変わる。どこまでいっても同じに見えるブラジルの広大さなかで動くこころがいい。
 人間は生きている。生きて輝く存在である。ただそのことだけを肉体の美しさ、健康さで伝える映画である。3000キロの旅なのに、風景を見た記憶はない。ただまっすぐにまっすぐに自転車をこぐ家族がいるだけである。まがりくねった道さえも彼らが自転車をこげばまっすぐにつづく道となる--そういう印象を呼び起こすような、不思議な不思議な健康さにあふれた映画である。どんな道も、彼らの「世界の中心広場」、生きている「現場」へと続いている。
 「剛直な力」の「詩」である。全編を貫く映像も「剛直」そのものである。「美しさ」「新鮮さ」など狙っていない。自転車の魅力さえ伝えようとしていない。ただ 7人の家族がいるということだけを「剛直」に映し出す。

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アンドリュー・モーション「狐は自らのために」

2006-11-22 23:25:54 | 詩(雑誌・同人誌)
 アンドリュー・モーション「狐は自らのために」(熊谷ユリヤ訳、「現代詩手帖」11月号)。
 庭に迷い込んだ狐がひとときボールで遊んで去っていく。それを眺める詩人と連れ合い。その詩のなかに出てくる「手」がおもしろい。

人生最後のごごになっても悔いがない程のひととき。
子供たちがいなくなった家には静寂。ふたりだけの時間。
ぼくたちは言葉も交わさず窓辺に佇み、外を見下ろした。

弱々しい冬の光が、隣家のブナの木に差し
境界の塀の上をかすめ、待宵草色の染みを零しながら
我が家の庭の奥深く広がっていった。

その年のはじめ、ぼくたちは庭に新たな芝を横たえた。
並べられた四角い芝の隙間の土は、まるで、廃墟の街の
人影の絶えた道路のよう。草は青々としているのに、
この角度から見ると、微風がなでてゆくたび、

芝生は真っ白に見える。ぼくたちは立ち尽くし、
手を取り合って、ロンドンの遠いざわめきを溺れさせ、
だれも知らない場所へと浮遊しようとしていた。

 この「手」は二人を二人だけにする。他人から分離する。そうやって世界をつくる。「手」は最初の世界を作り上げ、確認する肉体である。「ふたりだけの時間」は手によって作り上げられ、確認される。
 その二人だけの世界へ狐が飛び込む。狐の描写はたいへん美しいのだが、ここでは引用しない。「手」が登場する部分だけ引用する。

光を求めるかのように見えた。けれど、もちろん、
毛皮は柔らかく、そこに触れれば、ぼくの手は
温かくなり、ニンニク臭が移ることは知っていた。

 「手」の記憶。実際に狐に触ったことがある「手」の記憶。手は、自分以外の存在に触れて、その「温かさ」を知る。そのとき「手」に何かが「移る」。狐の場合、狐の匂い。毛皮の匂い。そしてそれは直接毛皮の匂いとして確認されるのではなく、ここでは「ニンニク臭」と書かれているが、実際に狐に触れる以前に知っていた何かと比較されて肉体のなかに入り、記憶になる。「手」で狐に触れたことがなければ、こういう具体的な記憶の形は生まれない。肉体、五感が世界を拡大しながら忘れることのできない具体性を獲得することはできない。
 なんでもないような印象、記憶の描写、意識の描写のように見えるが、ここに「手」が登場しなければ、この詩は「抒情詩」に終わってしまっただろうと思う。
 アンドリュー・モーションにとって「手」は特別な存在、自分と世界をつなぎ、存在を自分の肉体に取り込むための出発点となるようなものなのだ。
 「手を取り合って」というのは、連れ合いの肉体・精神・感情を「手」をつなぐことで、詩人の肉体のなかで融合させることなのである。ふたりはそうやって「同じ時間」を共有する。
 作品の最後の3行。

微風が今一度、狐の毛をかき分け、すでに狐ではなく、
赤錆の滴りになった何かが落ちるのを見送りながら、
しばらくの間あなたの手を握り、やがて、離した。

 「手を握り」は「手を取り合って」とはかなり違う。「手を取り合って」は軽い接触である。二人の信頼関係のようなものがおのずと呼び合って、触れ合っているのである。実際に手と手を重ね合わせなくても「手を取り合って」という「比喩」は成り立つのはそのためだ。「手を握り」は実際に握っている。離したくない。そして、そのとき「手」は何かを伝えあっている。この詩では狐を見たときの興奮、緊張である。そして、その興奮、緊張のなかには、狐の毛に触れた記憶も混じっている。融合している。もちろん、その手の記憶は手を握りあっているだけでは伝わらない何かである。(だからこそ、「詩」としてこの作品のなかに書かれなければならなかった。)
 この作品を「詩」として存在させているのは、その「手」を「握り、やがて、離した」まで正確に書いている部分である。
 「手を」「離し」、どうするのか。それぞれが自分のなかで、手を握りあうことで伝えあったものを反芻するのである。自分自身の肉体の孤独のなかで、相手の肉体が持っていたものを反芻する。自分の肉体が持っていたものとどう融合するかを確かめる。
 手を握りあったままでは、それは、できないのだ。肉体には「孤独」が必要なのである。
 そして、ここで浮かび上がる「孤独」--だれかと一緒に、そしてそのだれかがすぐそばにいるにもかかわらず「孤独」であるということ、それがそのまま、この作品のなかで書かれた狐の「孤独」にもつながる。
 「手」を「離した」瞬間、詩人は、一気に「狐」の「孤独」と一体になる。「狐」を見続けたときも「狐」と一体ではあったけれど、連れ合いと握りあっていた「手を」「離した」そのときに、詩人は「狐」になって、その結果、この作品が生まれたのである。

 もし「手」が描かれていなかったら、「手」を取り合って存在する「あなた」も存在せず、また「手」に残る「狐」の温かさ、そこから思い出される「ニンニク臭」もなく、この作品は単なる夕暮れの一風景になっただろうと思う。「狐」はこんなに生き生きと、タイトルにあるように「自らのために」存在することはなかっただろうと思う。

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アンドリュー・モーション「アンネ・フランクの家」

2006-11-21 14:08:00 | 詩(雑誌・同人誌)
 アンドリュー・モーション「アンネ・フランクの家」(熊谷ユリヤ訳、「現代詩手帖」11月号)。

少女が深い悲しみと怒りの日々を生きたのは、まさに
この場所。あの短い人生の倍の年月を経た今でさえ、
この家を訪れて、狭い階段を上り、隠れ家入口の
本棚のからくりを確かめ、薄暗さを通り抜け
陽の当たる部屋へと歩いていくものは誰しも、

少女の秘密を再び暴くことになってしまう。耳を傾ける
行為さえ罪の意識になる--家の外では
西教会の鐘が繰り返し響き、あらゆる〈時〉が少女の
恐怖に向かって渦を巻き、鐘の音は一つ、またひとつと
監視の目が光った通りに消えていく--思い描くがいい

三年にわたる囁き、孤独、そして来る日もくる日も
ヨーロッパ地図の上に黄色いチョークで引き直される
連合軍の前線。少女が夢見た、ありふれた恋や
心踊る出来事は、写真の姿で生き残っている--
寝台の上の壁には家族の写真、

俳優たちの写真、そして、エリザベス女王
お気に入りファッションの写真。
一目見ようとして身を屈める者の目には、
少女の無念だけでなく
今なお息づく願いさえ見えてくる。

ぼくが願えば、容易に叶えられてしまう望みに似て、
それは、この家を抜け出し、埃っぽい並木道を
そぞろ歩きたいという願い。あるいは、沈黙の艀が
橋をすり抜けて、青の運河に船影を際立たせるのを
見つめることが出来るかもしれないという希望。

 具体的な肉体の動きが、遠い肉体、今、ここに存在しない肉体を引き寄せる。「狭い階段を上り、隠れ家入口の/本棚のからくりを確かめ、薄暗さを通り抜け/陽の当たる部屋へと歩いていく」のはアンドリュー・モーション自身であるけれど、それはアンネ・フランクそのものである。同じ道をたどること、同じ姿勢をとることで詩人はアンネ・フランクになる。
 1連目の「陽の当たる部屋へと歩いていくものは誰しも」と「少女の秘密を再び暴くことになってしまう」は意味的には連続したことばである。しかし、その連続に「1行のアキ」が存在する。
 この「1行アキ」は「5行5連」という詩の形式から偶然生まれたもののように見えるけれど、実は、そうではない。 アンドリュー・モーションがアンネ・フランクになる。その変化、飛躍のために必要な「1行アキ」なのである。
 アンネ・フランクと同じ姿勢で隠し部屋へ入るからといってだれでもがアンネ・フランクになるわけではないだろう。「観光客」のまま隠し部屋に入る人もいるだろう。ところが、アンドリュー・モーションがアンドリュー・モーションはアンネ・フランクになってしまう。なってしまうけれど、その「なる」という変化はことばでは言えない。ことばにならない変化がそこにはあって、そのことばにならないものが存在することを明確にするために「1行アキ」があるのである。
 ことばにできない劇的な変化があってこそ、「少女の秘密を再び暴くことになってしまう」ということばが落ち着く。胸に迫るものになる。
 「1行アキ」の飛躍ゆえに、私たちは、アンドリュー・モーションがアンネ・フランクの秘密を暴くのではなく、アンネ・フランク自身が秘密を暴くのだと知る。
 「再び」ということばが、この1行に挿入されているのは、そのためである。「再び」暴くことができるのは、かつて秘密を暴いたことがあるアンネ・フランク自身であって、アンドリュー・モーションではない。「日記」で「暴いた」ことがらが、今、アンネ・フランクの肉体によって、つまり、アンネ・フランクの耳になって、そして目になって、「少女の秘密」を暴く。こころの震えを。
 この詩のすばらしいところは、そうした「なる」という変化を明確に表現しているだけではなく、そこから再び詩人がアンドリュー・モーション自身に戻っているところである。今、起きていることがアンネ・フランクになりきってしまうことなら、その家を訪問した人がアンドリュー・モーションでなくてもいいことになってしまう。アンドリュー・モーション自身として、その家を、そしてアンネ・フランクの思いを、彼自身の肉体のなかにとりこまなければならない。そうしないと、家を出た瞬間、アンネ・フランクではなく、アンドリュー・モーションに戻ってしまうかもしれない。
 2連目の最後「思い描くがいい」は「思い描かなければならない」という意味である。
 狭い階段、本棚でできた隠し扉をくぐることで、無意識のまま(1行アキ、意識の空白をかかえて--無意識、というのはそのことを指す)、アンドリュー・モーションはアンネ・フランクになった。今、「思い描く」という行為、精神の力を動員して、アンドリュー・モーションは再びアンネ・フランクになろうとする。「思い描く」という行為をとおして、無意識の変化を意識できる変化、いつでも引き寄せることのできるものにしようと試みる。
 この試みが、もう一度、アンドリュー・モーションの肉体に働きかける。4連目。「一目見ようとして身を屈める者の目には」。身をかがめることによって、アンドリュー・モーションは、そこにアンネ・フランクがいるかのように、そこにいるアンネ・フランクに近付くのである。
 人が人に近付いて感じるもの、遠く離れているときには感じることができないもの--そのひとつに「息づかい」がある。「今なお息づく願い」のなかに入り込んだ「息づく」は単なる比喩ではない。肉体かつかみとってきた真実である。だから目では見えないはずの「願い」すら、「見えてくる」のである。「息」によって、そのときの「空気」そのものが共有される。アンネ・フランクが吸った「空気」、それがアンドリュー・モーションの肺にも入る。肺を通り、血管を通り、体中を駆けめぐる。そのとき「願い」が「見えてくる」。これは比喩ではなく、肉体の実感なのである。五感でとらえるものは、他の五感に共有される。それが肉体の力である。

 肉体の追体験、精神での「思い描き」、さらにもう一度肉体そのもので接近することによって、アンドリュー・モーションは、1行目の「深い悲しみと怒り」だけではなく、そのときの「空気」、つまり、アムステルダムの街と時代を呼吸し、出現させる。


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ケヴィン・レイノルズ監督「トリスタンとイゾルデ」

2006-11-20 13:19:34 | 映画
監督 ケヴィン・レイノルズ 出演 ジェームズ・フランコ、ソフィア・マイルズ

 肉体と衣装のアンバランスがおもしろい。 
 ジェームズ・フランコもソフィア・マイルズも中世の悲劇を演じようとはしていない。監督もそういうものを撮ろうとしていない。(途中までは。)
 恋愛は時代を超えるということを、感情ではなく、みずみずしい肉体で表現している。古くさい衣装も、古くさい忠誠心(王に対する忠誠心)も、肉体を生き生きと見せるための道具である。
 ソフィア・マイルズは美人とは思わないが、目が生き生きしている。目の表情で時代を超える。物語の制約を超える。ただただ恋愛感情を表面に出すことだけをこころがける。それはほんとうに相手を愛しているというよりも、まるで純粋な感情を生きてみたいという欲望そのものの発露のようでもある。その生々しさで、彼女は古くさい衣装を脱いでしまっている。古くさい衣装を身につけるほど、衣装はスクリーンから消えてしまい、ただその目の輝きと豊かな肉体がむき出しになる。
 こういう輝きに対抗する男優はなかなか大変である。この映画は、むき出しの感情ではソフィア・マイルズにジェームズ・フランコがとうていおよばないと最初からあきらめたのか、男優の活躍の場として戦場と、戦いによってできた傷を用意している。そして戦闘シーンを丁寧に描いている。これがなんだか映画を中途半端なものにしている。
 恋愛映画は女優と男優を平等(?)に描いてはだめである。女優がひたすら輝き、女優が男優を圧倒していくのが恋愛映画である。恋愛とは自分が自分でなくなってもかまわないと覚悟して相手と向き合うことだが、そうとはいうものの、自分をも他者をも破壊しながら、その一歩先を進み、世界を動かしていくのが女性であるとき、つまり男性がひきずりまわされるときのみ、本当のこころが動く。
 この映画のいちばんのクライマックス--王が用意してくれた舟に乗って逃げることを拒んで、トリスタンがいう。「愛が国を滅ぼしたと言われたくない」。そしてひとり戦いの場へ戻っていく。このときから観客は、ただただトリスタンが血を流し、死んでゆく瞬間を待っている。途中でどんなに手柄を立てようと、それは流れる血を飾るためのものにすぎないと知っている。そして、その血を見つめてヒロインが涙することを知ってしまっている。ここから、この映画は突然つまらなくなる。
 せっかくイゾルデが古めかしい衣装を脱いで豊かな裸体を輝かせ、目を感情そのものにかえたのに、ここから衣装に従属してしまう。それまでのソフィア・マイルズの演技はすべてむだになってしまった。

 これは結局、「物語」に負けてしまった映画である。映画は「物語」ではない、ということを忘れてしまった駄作である。「トリスタンとイゾルデ」ではなくなってしまうだろうが、もし、恋愛と戦場を融合させてそこにあたらしい映画を出現させるとしたら、戦場の戦いがヒロインの激情によって収拾がつかなくなるというような映画にでもしないと、新しい映像は何も生まれないだろう。
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