詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジャン=ドミニック・ボービー『潜水服は蝶の夢を見る』

2008-03-31 12:20:30 | その他(音楽、小説etc)
潜水服は蝶の夢を見る
ジャン=ドミニック ボービー
河野万里子訳、講談社、1998年03月05日発行

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 ロックトイン症候群に陥った「ELLE」の編集者が20万回のまばたきでつづった断章。先日、その映画を見た。映画はこの断章ともとにしている部分もあるが、周囲の取材をもとにつくられているようである。映画でとても興味深かったシーンはことばではあまり語られていない。そのかわり、映画にならなかった部分もたくさんあり、そこに美しい文章がいくつもある。
 たとえば日曜日。テレビは気晴らしになるが、時には苦痛になる。どんなテレビでもいいというわけにはいかない。音のうるさい番組は苦痛だと書いたあと……。

僕は、ドキュメンタリー番組の静けさが、好きだ。芸術についてでも、歴史についてでも、動物についてでもいい。そういった番組の画面を、音を消してナレーションもなしで、たき火の火を見つめるように観ているのが、一番好きだ。

 「たき火の火を見つめるように」という比喩がとても美しい。そして、この文章を美しいと感じるのは、もちろんその比喩の美しさにもよるのだが、ほんとうは、比喩の美しさというよりも、比喩が存在することが美しいのだ。
 映画ではていねいに描かれていたし、この本の中にも書かれていることだが、ジャン=ドミニック・ボービーは彼のことばを書き取ってくれるひとと「まばたき」だけで交流する。聞き手がアルファベットを読み上げる。その文字、たとえば「J」なら「J」があらわれたらジャン=ドミニック・ボービーはまばたきで合図する。それを観て、聞き手が文字をつづる。ひとつの文章をつづるのに大変な労力がいる。そういう労力のいる作業では、ことばはどうしても簡潔になる。あれこれ寄り道をしている暇はない。(と、私は思う。)テレビのうるさい音が苦手だ。音を消してドキュメンタリーを観ているのが好きだ、とつづれば、ジャン=ドミニック・ボービーの「意思」は伝わる。「思想」は伝わる。
 というのは、しかし、間違いなのだ。
 「たき火の火を見つめるように」という美しい比喩は、そのことをはっきりと伝えてくれる。明らかにしてくれる。
 人間の「意思」「思想」というものは、「ドキュメンタリーが好き」というようなことばのなかにだけあるのではない。むしろ、そこから逸脱していくものにこそある。ジャン=ドミニック・ボービーはドキュメンタリーが好きというより、それを「たき火の火を見つめるように」観るのが好きである。大切なのは「たき火の火を見つめるように」ということばなのである。「ドキュメンタリーを見るのが好き」ということばでは伝えられない部分--そこにこそジャン=ドミニック・ボービーが存在する。比喩こそがそのひとであり、比喩こそが「思想」なのである。
 そしてこの思想としての「比喩」は、たとえば「哲学書」とか「思想叢書」からいつもはみ出している。学校の授業、教科書からはみ出している。それは「体系」としてすくいとれないものである。それは「頭」に属する「思想」「哲学」ではなく、肉体に属するものだからである。「肉体」にぴったりはりついていて、あるいは肉体の内部に行き渡っていて、それを単独で取り出すことはできない。「肉体」そのものになってしまっている「思想」「哲学」である。そこには、命がある。「肉体」から分離不能の「いのち」がある。
 私がいつかジャン=ドミニック・ボービーをふたたび思い出すことがあれば、それはジャン=ドミニック・ボービーが「ドキュメンタリーが好き」という人間としてではなく、たとえばドキュメンタリーを「たき火の火を見つめるように」観る人間として思い出すのだ。ドキュメンタリーでなくてもいい。たとえば、かけがえのない子供たちを、あるいは別れてしまった愛人たちを、そのイメージを、彼は「たき火の火を見つめるように」見つめる、思い浮かべるのである。ジャン=ドミニック・ボービーがなにかを考えるとしたら、そのなにかがはたして「たき火の火のように見つめ」られる存在かどうかということを基準にするに違いない。ある一枚の洋服、彼が専門にしていたファッション--それを「たき火の火のように見つめ」られるかどうか、「たき火の火のように」思い出せるかどうか。そこには、ことばではうまくいえないなにかが存在する。

 この文章の初めの方で、私は「映画にならなかった部分もたくさんあり」と書いたが、実は、そうではないことに今気づく。
 映画は、ジャン=ドミニック・ボービーの、たとえば「たき火の火を見つめるように」のような、「肉体」そのものになった「思想」を映像化していた。
 ジャン=ドミニック・ボービーが昏睡から覚めて観る風景。そのゆらぎ。風にゆれるカーテンや、彼のことばを筆記してくれる女性のスカートが風とたわむれながら太股に遊ぶシーン。それらはすべて、ジャン=ドミニック・ボービーにとって「たき火」なのである。ジャン=ドミニック・ボービーが「たき火」として見つめたものがスクリーンをおおい、スクリーンからあふれてくる。映画は、そんなふうにつくられていた。そこにあふれる映像は、監督の、カメラマンの「思想」であると同時に、ジャン=ドミニック・ボービーのいのちそのものであった。
 映画の映像はいくつものことば(せりふとして表現されたことばではなく、けっしてせりふにはならないことば)をたくさんもっていた。そのことばのひとつが、たとえば「たき火の火を見つめるように」である。映画は、そういう「ことば」を無数に受け入れながら存在している。

 映画に私は非常に感動したが、本を読んで、その感動がいっそう強くなった。とてもいい映画だった。そして、この本の中に生きていることばもとてもすばらしい。「思想」「哲学」というよりも、「たましい」が動き回っている。生きている。「たき火の火を見つめるように」は「思想」「哲学」というよりも、「たましい」のことば、と書くべきだったと、いま、思っている。


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山本哲也「帰る場所」

2008-03-30 09:10:56 | 詩(雑誌・同人誌)
 山本哲也「帰る場所」(「現代詩手帖」2008年04月号)
 山本哲也は死んだ。 3月12日。大腸ガンだった。
 山本哲也は、私にとって長い間不思議なひとだった。九州の詩人なのに、詩に九州弁が感じられないのだ。私は九州の人間ではないので、九州へ来て、九州の詩人の作品を読むようになってから、いつもとまどっていた。とても奇妙なのである。詩のことばがなじめない。(他の文章もなじめない。私は多くのひとの文章を読む仕事をしているが、どうしても、これから文章を読むのだと意識しないことには、九州のひとの書いた文章が理解できなかった。大好きな柴田基典の詩でさえ、ときどき立ち止まってしまう。)ところが、唯一例外がいた。それが山本哲也だった。
 そのことを私は山本哲也に話したことはない。(私が詩について語り合ったことがあるのは、九州では、唯一、柴田基典だけである。)
 あるとき、田島安江と話していて、偶然その話題になった。そして、そこで私はもう一度衝撃を受けた。
 「山本さんは九州の出身じゃありませんよ。たしか関東ですよ」
 山本は九州の人間ではなかった。九州に長く生活しているが、最初のことばは九州のことばではなかった。だから九州弁が混じらないのである。道理で読みやすいはずである。私には山本のことばだけが、ほとんど唯一、九州で書かれている「標準語」の詩として感じられる。そして、それはたしかに「標準語」なのである。

 私の書いていることは、たぶん、多くの九州のひとにはわからないことだと思う。もしかすると、九州以外のひとにもわからないかもしれない。そう思いながらも、たぶん、この機会しかないと思うので書いておく。
 山本の「標準語」が他の九州の詩人のことばと違うのは、虚構への向き合い方が「標準語」なのである。どんな虚構も事実を踏まえる。現実に、日常につかわれていることばを踏まえる。架空のことばで語られる虚構はない。架空のことばで語られる嘘もない。そのときの、現実、あるいは日常への「距離」が、たぶん「九州弁」と「標準語」では違うのである。この「距離」はほとんど「感覚的」なものであって、説明がしにくい。なんとなく「九州顔」、なんとなく「京都顔」、なんとなく「北陸顔」というような、とてもあいまいなものである。あいまいだけれど、その土地その土地で共通する何か、微妙な「におい」のようなものである。

 山本の虚構と現実の関係は、とても論理的である。そして、その論理は、簡単に言ってしまうと「古今和歌集」「新古今和歌集」のものである。抒情は、いったん精神をくぐりぬける。肉体そのもので抒情に触れるのではなく、精神で洗い流して提出する。その手続きが洗練されている。洗い流し方の方法が、きちんと歴史を踏まえている。「古今」「新古今」の芸術的文法を踏み外さない。



 「帰る場所」。その1連目。

駅を出たところで
ひとちがいされた
(わたしじゃありません)
そうか、わたしはもう
わたしじゃないのかもしれない

 誰かと勘違いされて声をかけられた経験は誰にでもあるものかもしれない。山本にしてもそれが最初の経験ではないだろう。そして、勘違いされたとき、多くのひとは「わたしじゃありません」とこたえる。これはごく普通のことである。山本は、そんなふうにして現実・日常を出発点にしてことばを動かす。
 「わたしじゃない」から出発して、ほんとうに「わたしじゃない」世界へ入って行く。「わたし」が「わたし」ではなくなる。そういうことが現実に存在する。その具体的な体験を、山本は、2連目以降で虚構を利用しながら書きはじめる。
 2連目以降は、次のようにつづく。

男が
川原で
棒切れをたかだかと抛りなげている
石ころだらけの浅瀬を犬が走り
棒切れをくわえてもどってくる

奇怪な針が
わたしの内側でふれる
狂ったように
それは、わたしのものなのか
見知らぬ他人のものなのか

浅瀬の砂地になったところに
たたき潰されたザリガニの甲羅が
散らばっている
なんの暗示なのだろう、それは
とかんがえるのは、抒情の堕落

なにかを殺しながら
生きていくしかないじゃないか
たとえば、
転移し散らばりながら癌細胞が
生きのびていくようにね

正義は
どちらがわにあるのだろう
いくどもそこへ帰っていく……

 最終連が象徴的だが、山本の虚構は、現実と虚構を往復することを前提としている。現実は常に虚構であり、虚構は常に現実である。ことばは、そのふたつを往復し、ふたつを利用することで、現実でありながら、そのままでは「見えない」ものを浮かび上がらせる。それは虚構を利用して現実を引き剥がすのか、それとも虚構を利用して現実を昇華するのか、どちらともいえる。常に往復する。そういうことを前提としている。
 その往復の仕方が、山本は、非常に論理的なのである。

 山本はガンであった。この作品の中にも「癌細胞」ということばが出てくる。山本は「現実」を「比喩」としてつかっている。この「現実」をこそ「比喩」としてつかうという論理が「標準語」なのである。「古今」「新古今」の文法なのである。山本の特徴はそこにある。「現実」と「比喩」を往復する。「現実」なのに、それを「比喩」として提示し、ふたつの間を往復することこそ、「古今」「新古今」がつくりあげた文法であり、その文法は「ことばの歴史」(比喩の歴史)を前提としている。あることばが何の比喩であるかということが、ある程度共有されることを前提としている。山本は、そういう前提をきちんと踏まえている。それが山本のことばを「標準語」化している。
 「癌」の「比喩」は「わたしじゃない」と重なるとき、「わたしじゃない」が「比喩」になる。「わたし」は「ひとちがい」された。「わたしじゃない」。山本はそうこたえたが、ガンにおかされている山本は、実際それまでの山本(わたし)ではない。そんなふうにして、なにかが自分のなかで起きたとき、たしかに「わたしはもう/わたしじゃない」のである。
 「わたし」を認識するわたし。その一方に「わたしじゃない」と認識する「わたし」がいる。「わたし」という現実は、いったい、どの「わたし」だろうか。「わたしじゃない」は一種の表現(比喩、に通じる方便)にすぎないが、その表現(比喩、方便)がいったんことばになると、ことばを超越して現実そのものになってしまう。そういう不思議な往復運動が、現実とことばのあいだでかわされる。
 もしひとが生きているとすれば(山本がいてきているとすれば)、その往復運動のなかだけなのである。「帰る場所」とは、山本にとっては、その「往復運動」なのである。そのことを強く意識している。(この意識が「標準語」の意識である。)
 川原で棒を投げる男。それは男であると同時に、山本(わたし)にもなりうる。山本になりうるからこそ、山本はそこをことばにする。その「男」は「わたしじゃない」、しかし「わたしじゃない」からこそ、「わたし」の現実を越えて、「わたし」の可能性になることができる。「わたしじゃない」からこそ、「わたし」を刺激する。
 「わたしの内側でふれる」。
 それは、そういう「ふれる」感じを具体的に書いたものだ。「ふれる」は「触れる」であり、「振れる」でもある。「ゆれる」のだ。ふたつの間で。いつもそういうものがある。
 「癌」もまた生きている。それは「わたし」でありながら、「わたしじゃない」。ふたつの間で、山本は揺れる。ふたつの間で「生きる」(わたしである)ということの「基準」が「振れる」。そして、その「振れ(揺れ)」が山本の意識・感情に「触れる」。そこからことばがうまれる。哀しい響きが生まれる。そして、それは、そのふたつの間にのみ存在する。

 山本が帰っていく場所は、いつも「ことば」である。現実と虚構の「間」である。そして、山本が生きる場所が、現実と虚構の間であるかぎり、私たちはいつでも、山本のことばを読み、山本に会うことができる。






山本哲也詩集 (現代詩文庫)
山本 哲也
思潮社

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近藤弘文「蜜蜂」

2008-03-29 10:44:00 | 詩(雑誌・同人誌)
 近藤弘文「蜜蜂」(「tab」9 、2008年03月15日発行)
 光かあふれている。ことばに。ことばが新しい光を発している。まるで太陽のように、直視することを拒絶し、ただ光っている。「蜜蜂」の全行。

だから言語的鉱物も
飴玉のように胃を照らすことはなく
青空は幽霊の噂が絶えない
あなたという装置
なけなしの万年雪としてたった一行
誰もいない蜜蜂
って知っていますか
木の真下から空を見上げて
小声が落ちているのは
折りたたまれた光のひたいに、である
じっと動かずに動かない
ぶつける木の実をさがしています
遠くから字を書くよ
を撫ぜるのはきっとわたしで
誰かが煉瓦を割っている
のもきっとわたしで
たった一行の
光をぬけていった蜜蜂は
ひとはみない瞳
そんな死体ごっこ

 ここにあるのは「断定」だけである。
 「だから」という「理由」を説明することばで作品ははじまるが、なぜ「だから」なのか、理由をいわなければならない「原因」が欠落している。そんなものは存在しない。そこから、直に、「理由」だけが駆け出す。「原因」を拒絶し、ただ「断定」だけが、無軌道に(つまり自由に)疾走する。
 ことばは「解読」されることを拒絶している。
 おそらく、これらのことばは、近藤をすらも拒絶している。近藤であって、近藤ではないものがことばを動かしている。つまり、詩、そのものがことばを動かしている。

折りたたまれた光のひたいに、である

 この1行の、読点「、」と「である」の断定の呼吸。ここにこの作品のすべてがある。あらゆる行に「、である」がほんとうは隠れている。「、である」を補って行くとき、近藤という人間が浮かび上がってくる。それが省略されていることによって、近藤が隠れ、詩が光となって発射される。
 なぜ、この行だけ、「、である」が存在するのか。
 ことばの光のスピードに呑み込まれ、おぼれ、流され、おぼれながら流されていることに気づいて、必死になって近藤は息をしたのだ。水におぼれる人間も、ずっと水中にいるわけではない。必ず1度はもがきにもがいて空気を吸う。呼吸をする。そして、その呼吸によって、さらにおぼれる。一呼吸がさらにおぼれていることを証明し、「おぼれ」が加速する。「おぼれ」が加速していることを知る。加速は、実は、その1行の前から激しくなっているのである。

木の真下から空を見上げて
小声が落ちているのは
折りたたまれた光のひたいに、である

 「見上げ」と「落ちている」という上下の運動。それが結びついて「折りたたまれ」のなかで圧縮される。圧縮されたものは、いつでももとの状態、上下の運動へともどる準備をしている。そのうごめきがバネになって、ふいに近藤は「おぼれる」という状態から吐き出されて、一瞬だけ「、である」と呼吸したのである。近藤が断定しているんだぞ、と自己主張したのである。おぼれている、という状態があるのは、近藤がいるからだぞ、と自己主張したのである。
 だが、詩の激流はいうだろう。
 ことばが近藤をおぼれさせてやっているのだ、と。「死」をくぐりぬけさせてやっているのだ、と。そんなふうに近藤が、ことばのなかを生きることで近藤ではなくなってしまう瞬間を体験させてやっているのだ、と。
 最後の1行に「死体」ということばがおかれているが、これは「死」による覚醒のひとつのかたちである。この作品そのものを象徴することばである。

 遠くから字を書くよ

 という行もこの作品を象徴しているかもしれない。近藤が書くのではなく、近藤を超越したことばが「字を(近藤を利用して)書く」。「遠くから」。「遠くから」とは近藤の手の届かない距離から、つまり近藤を超越した「場」からという意味である。

 書くのではなく、書かせられる詩の幸福が光となってあふれている作品である。

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長尾高弘「空室」ほか

2008-03-28 01:21:11 | 詩(雑誌・同人誌)
 長尾高弘「空室」ほか(「tab」9 、2008年03月15日発行)
 とてもおもしろくて、くりかえし読んだ。全行引用する。

信号で右に曲がると、
急に人気がなくなった。
土ぼこりの舞う、
殺風景な坂道を、
上っていった。
アパートの階段も、
上っていった。
ドアを開けると、
部屋には誰もいなかった。
ああ、やっぱりいなかったか。
反対側の窓の向こうに、
墓地が見えた。
誰にも会わなかったのに、
その晩風邪を引いた。

 楽しく読んだ本を図書館に返すので、思い出に気に入ったところを引用
 しておこうと思ったのだが、あったはずの箇所がどうしても見つからな
 いので、記憶の中から引用した。本を返したら私も風邪を引いた。

 最後の3行は注釈なのか、それとも作品なのか。
 私は作品として読んだ。この3行ゆえに、私はこの詩が好きである。

 前半の行変えの部分は、ことばが無造作といっていいくらいさっさと進む。坂を上る、階段を上るという動き、その反復が、ことばそのものの運動になって加速する。どうしたってたどりついたアパートを突き抜けてしまわなければならない。
 「反対側の窓の向こう」とはアパートを突き抜ける窓である。そのまま「私」(書かれていない)は「窓」を突き抜けて、墓地を越える。(階段を引き返すのではない。)
 こんな動きをすれば、誰にも出会えるはずがない。
 そういう出会えるはずもない動きをしておいて、「誰にも会わなかったのに、/その晩風邪を引いた。」と「私」に帰ってくる--このスピードがとてもいい。

 このスピードを、「物語」にいっきに閉じ込めてしまう3行が、なんとも楽しい。アパートをたずねる動きが、そのまま「本」をたずねる動きになって加速する。アパートに行ってみて「ああ、やっぱりいなかった。」とつぶやくように、「私」は本を開いて「ああ、やっぱり(その文は)いなかった。」とつぶやき、その「反対側の窓の向こうに、」飛び出して行くしかないのである。
 反復することで、その存在しないものを存在させてしまうのである。
 反復とは、存在しないものを、存在させる方法なのである。ことばで何かを繰り返すとき、ことばはことばであることをやめ、実在になる。(存在になる。)
 書くことの「意味」があるとすれば、たぶん、ここにある。

 ひとはことばを書く。詩人は、ことばを書く。まだそこにないものを、ことばで反復し、提出する。そのことばを読者が反復する。すると、そこにほんとうは存在しないものが立ち現れる。筆者と、読者の反復によって、非在が実在に変わる。
 この非在から実在への変化は、ことばが出会った一瞬にくっきりと感じられるものであって、それをもう一度あとから探そうとしても、「私」が本の中に「あったはずの箇所がどうしても見つからない」ように、再発見不能のものである。
 一度反復したのに、それ以上の反復を許さない何か。一期一会の「詩」。そういうものを、長尾は軽やかに提出している。

 も一篇の「謝る人」も同じである。

テレビで食中毒のニュースを見ていたら、
知っている顔がアップで出てきた。
何十年も会っていないけれど、
あれは元同級生。
若いときの印象とは、
随分かけ離れていたが間違いない。
おかげで、
普通なら消費者の立場で考えるべきニュースが、
逆立ちしてしまった。

 「ニュースが、/逆立ちしてしまった。」
 ことばは加速して、とんでもない動きをする。その動きのなかの「一期一会」。同級生の顔の反復がその奥にある。いまの顔、若いころの顔、その反復運動が加速して、いまを突き抜ける。「消費者の立場で考えるべき」なのに、それを逸脱する。(「考えるべき」の「べき」が長尾らしく生真面目であるのが、とても楽しい)
 日常の、ふいの逸脱。その、ことばの軽さ。楽しさ。

 久々に長尾の詩を読んだが、また新しい次元を書きはじめたような印象があって、とても楽しい。

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小松弘愛「かたち」

2008-03-27 11:27:23 | 詩(雑誌・同人誌)
 小松弘愛「かたち」(「兆」137 、2008年03月10日発行)
 アンソロジーの形で発表されている。詩集『どこか偽ものめいた』(1995年)に収録されている作品である。1行、わからない行がある。(短いので全行引用する。)

体育館で暮らす写真を撮っていたとき
ひとりの女生徒が写真屋さんに催促する
「 早く撮って! 花の命は短いから」
笑いのうちにフラッシュがたかれ
一瞬の時が燃え尽き
生徒たちは教室にかえっていった

窓の外 晴れわたった空に
わすれのもののように浮かんでいる
ひとかけらの白い雲
しばらく眺めていると
雲は少しずつかたちを変え
白い魚(うお)のようなものになり
口を「ぽ」と発音したようにあけて
ゆっくりと土佐湾のほうへ泳ぎはじめる

わたしは窓のそばを離れる
魚のかたちが崩れないまえに。

 2連目。「白い魚(うお)のようなものになり」。この行の前で私は立ち止まってしまう。なぜ? なぜ「魚」に「うお」というルビが必要? なぜ、「さかな」ではいけない?
 「しろい」と発音したあとでは、私は「さ」の方が発音しやすい。「し」は「さ行」に含まれるけれど「S」+「I」ではなく「∫」+「I」だから、ほんとうは同じ音をひきずるわけではないが、「さかな」の方が私には発音しやすい。「しろい」+「うお」では母音が「いうお」とつづき、私にとっては読みにくいからかもしれない。
 「白いうお」も「白いさかな」も「意味」は同じであるが、ことばには「意味」を超えるなにかがいつも含まれていて、その「意味」をはみ出した部分がうまく重ならないと、私はいつも、なぜ?と立ち止まってしまう。
 
 単純に言えば、私と小松が同じ日本語を話しているように見えてもほんとうはまったく違う日本語を話しているという「証拠」のようなものが、この行にはひそんでいるということだと思う。

 少し話は脱線するのだが……。
 先日亡くなった詩人、山本哲也の詩を読んだとき、私は「あ、この人だけ九州弁で書いていない」と驚いた記憶がある。私はいま九州に住んでいるが、九州の生まれではない。九州へ来て、いろいろな詩人の作品を読んだが、どの詩人にも独特のことばの癖がある。それがどうしてもなじめなかった。書きことば、「標準語」のなかの「九州弁」としか言いようのないものである。(九州では、みえのふみあき、柴田基典が、山本哲也についで、九州弁を感じさせない詩人である。)あるとき、ある詩人から「山本哲也は関東の出身で、九州のひとではない」と知らされ、「あ、それで九州弁の癖がないのか」と納得した。そういう何か、一種の音の響き、リズムの違いというのは、ことばのなかにひそんでいる。たとえ「標準語」の「書きことば」であっても。

 ことばのなかには、その人が育ってきたときに自然に獲得したリズム、音の調和というものがあり、それがふいに出てくるときがある。それがたちはだかるときがある。たぶん「白いうお」といういい方のなかには、小松特有の何か(あるいは土佐人特有の何かが)あるのだと思う。
 同じ不思議な何か、思わず私が立ち止まってしまう行は、ほかにもある。最終行の「魚のかたちが崩れないまえに。」「意味」はわかるが私は、こんなふうには書かない。引用のために転写しているだけでも体のなかがむずむずしてくる。私なら「魚のかたちが崩れるまえに。」「崩れない」ではなく「崩れる」と肯定形で書く。

 なぜ、こんな、どうでもいいようなことを書いているかと言うと。

 小松は最近「土佐弁」を題材に詩を書いているが、もしかすると、小松には「標準語」に対する違和感があるからかもしれない、とふと、思ったからである。「白いうお」と書く小松。「崩れないまえに」と書く小松。そこには、一種の「共通語」(あるいは、私が共通語と信じているもの)への「異議」のようなものが含まれていて、それが徐々に拡大する形、深まる形で小松を「土佐弁」へ向かわせているのかもしれない。
 これは、もちろん私の勝手な想像であり、まったく見当違いのことかもしれないが。

 同じことばを話し、そして、こんなふうにして同じ日本語で感想を書きながらも、ほんとうは違うことばを生きている。どこかでいつも「ずれ」をかかえて人間はことばをかわしている。
 そう思うと、楽しい。
 そして、そう思うことは、この詩を読むとき、楽しさを奇妙に複雑に拡大する。
 たとえば1連目。女生徒の「ひとこと」。それは戯れの軽口であり、「花の命は短くて」ということばを踏まえながら、もとのことばを逸脱している。その逸脱が全員に共有され、「笑い」に広がる。
 ことばは「意味」を伝えると同時に、その「意味」を逸脱することができる。そして「詩」のほんとうの力は、そんなふうにして「意味」を逸脱する力がどんなことばにもひそんでいる。ことばは自由だ、ということをアピールすることにあるということを考えると、ここからひとつの「詩論」を書くこともできる。

 ことばは「意味」をから逸脱し、そこに存在しなかったものを引き寄せる。そういう可能性へ人間をひっぱってゆく。そういう「逸脱」の契機のようなものが、もしかすると「白いうお」ということば、「うお」と読ませるこだわりに隠れているかもしれない。
 ことばでは説明できない何かがあって、そのあとに、

口を「ぽ」と発音したようにあけて

 この美しい夢のような1行が誕生する。この1行がなければ、この詩はある日の愉快なエピソードをスケッチしたものに終わってしまう。スケッチであることを「逸脱」し、あ、ここに小松がいると感じさせるその1行。その1行へジャンプするための「踏み切り台」のようなものが「白いうお」の1行に隠れている、そんなふうに感じた。
 私は「白いうお」ではつまずく。しかし、小松は、それを「踏み切り台」にする。そんことを考えた。






どこか偽者めいた―詩集
小松 弘愛
花神社

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財部鳥子「月島」

2008-03-26 00:53:30 | 詩(雑誌・同人誌)
 財部鳥子「月島」(「鶺鴒通信」α、2008年03月31日発行)
 1連目が充実している。

はじめも終わりもない世界で
向日葵の種子がいちめんの貌をさらして
こぼれる涙のようになにかの力で
空き地に実を散らしている

 ヒマワリは花が散ったあとだろう。種子だけが残っている。そして、いまはその種子が地面に散っている。こぼれている、と言いなおした方がいいかもしれない、と書いてわかるのだが、「散らしている」は前の行の「こぼれる涙」の「こぼれる」と呼応している。そうすると、「涙」は「実」と呼応していることになる。「涙」と「種子」が呼応するとき、ヒマワリと人間も呼応する。財部はヒマワリに人間を見、ヒマワリに人間を見ることで、実は財部自身を見ているのかもしれない。この重なりあいが、1連のことばを複雑にし、充実させる。
 「顔」ではなく「貌」というのも、この場合、充実感をささえる。「顔」のように単純(?)なことばはここでは不向きである。ことばの重なり合いに耐えうる力を持った強い文字が必要なのだ。
 「いちめん」というひらがなが「貌」をくっきり立ち上がらせる効果も上げている。

 このあと、詩は、「月島」を描写しながら動いて行くのだけれど、その動きが1連目のように何度も行き来しない。ストレートに進む。それが残念。進みながらもどり、もどりながら進むことで、「月島」ではなく、その場にいる「私」を耕してほしかったなあ、と思う。
 1連目がおもしろいだけに、そんな想いが強くした。



 「本郷給水所公苑」も、ことばがしっかり動いている。描写がていねいである。

鳩の群れの規律のない糞と過食にも
苔むした江戸期の木樋にも
盛りを過ぎかけたものうい薔薇にも
睦みあう鯉のたてる泥の煙幕にも
ここに静寂が恩寵のようにあるのも
わたしにはまったく何の用もないものだった

 ことばが対象を(存在を)探して、探し当てたものを、逃すまいとうごめく。そういう感じがとてもおもしろい。もっと明確な(?)つかみ方はないものか、と模索している感じがいい。ことばが整わずに、まだなにかを探したまま(存在を、ではなく、ことばの形を探したまま)、うごめいている。こういう未整理な状態(というと失礼になるだろうか)が、私はなぜか好きである。一種の肉体を感じるからである。

 ただし、2連目の、

わたしに内面があるとすれば
それこそが内面であるのだろう

というようなことばの動きは、私には、気持ちよく感じられない。こんなふうに「現代詩」そのものという感じでことばが整理されてしまうと、「あ、やっぱり現代詩の方へ行ってしまうのか」とがっかりする。
 

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ジュリアン・シュナーベル監督「潜水服は蝶の夢を見る」

2008-03-25 09:07:57 | 映画
監督 ジュリアン・シュナーベル 出演 マチュー・アマルリック、エマニエル・セニエ、マリ・ジョゼ・クローズ

 映像がうつくしい。とてつもなく美しい。冒頭のレントゲン写真さえ、水に沈んでゆれているような、甘いあいまいさをふくみ、とてもいとおしい。主人公の「視野」は、さらにすばらしい。最初のゆらめき不安定な映像に「見える」ことの不思議さ、生きている不思議さがゆらいでいる。不安と恐怖さえ、やさしく、やわらかく、いのちをつつんでいる。生きている、とわかってからの「視野」もとても美しい。女の胸元や、太股でたわむれるスカートと風など、届かぬ初恋のように清潔で美しい。そして清潔であることが、とてつもなく色っぽい。喜びにあふれている。
 主人公は実在の人物。雑誌「ELLE」の編集長。脳梗塞で倒れ、左目、そして左のまぶたしか動かない。体はまったく動かない。その男が見る世界。それは、ほんとうはこの映画のように美しくはないかもしれない。けれども、この映画はそれをとても美しくとらえる。まるで存在のすべてが主人公の小さな「視野」を知っていて、「見て、見て、私はこんなに美しい」と主張しているかのようだ。主人公が「死にたい」とことばを伝えたとき、言語療法師が怒る。怒って、部屋を出て行く。そのシーンすら、その怒りすら美しい。すべての瞬間に感情が充実していて、それを小さな「視野」がしっかりと受け止めている--その感じが伝わってくる。
 この映像の美しさ--それを支えているは、不思議なことに(あるいは、当然のことなのかもしれないが)、言語である。「カメラ」の技術というより、言語である。ただ単にカメラは「視野」、その「領域」を映し出しているだけではなく、常に「対話」している。見えるものと語り合っている。
 たとえば主人公のことばを聞き取る女性。その女性のスカートが風にゆれる。太股でスカートのすそがそっと触る。そのとき、そこには美しい対話がある。「風になって、いま、ぼくはきみのももにそっと触れるよ、感じるかい?」「知ってるわ、悪戯っ子ね、指で触れないときも、いつも目で触っているのね。あなたの視線が触るたび、私は体の奥から輝きはじめる。見えて?」--もちろん、こんな野暮なせりふはそこにはないが、そういう対話が存在している。どんなシーンにも、対話がびっしりつまっている。
 私たちは目で世界を見るが、同時に、ことばで世界を見るのである。ことばで世界と対話する。そのとき映像ははじめて映像になる。「視界」になる。目の見た「世界」になるのだ。
 映像の向こう側で、存在たちがささやきあっている。対話し、たわむれている。生きていることを楽しんでいる。その喜びの声が、映像からあふれてくる。

 この映像の美しさは、また、主人公の「思想」そのものの反映でもある。主人公のことばそのものが何度も引用されている。そのなかでもっとも美しく、力に満ちているのは「私には傷ついていないものがある。左目、まぶた。それ以外に、想像力と記憶。」(正確な引用ではないが……)想像力と、記憶。そして、それを語る「ことば」。「ことば」こそが傷ついていない。
 「ことば」によって主人公は自分自身を語る。いのちを語る。すると、その「ことば」は「ことば」であることを超越して、「映像」になる。「ことば」のすべてが「イメージ」を持ち、そのイメージが動き回るとき、私たちは一瞬それを「映像」と思ってしまう。たとえばこの映画のなかでタイトルともなっている蝶、それがどこまでもどこまでも飛んで行くのをみるとき、私たちは一瞬、蝶を見た、蝶がアルプスを越えて飛ぶのを見たと思うけれど、それは「映像」ではない。「ことば」なのだ。「ことば」だけがとらえることのできる世界を映像はなぞっているだけである。映像が自分の力で蝶をとらえているわけではない。蝶がアルプスを越えて飛ぶということばがないかぎり、その映像は存在しなかった。映像のすべてが「ことば」によって支えられている。映像のすべてが「ことば」によって裏打ちされている。
 この映画の美しさは、そこにある。「ことば」の充実にある。2万回のまばたきでつづったことば、いのちを削ってつづった「ことば」の充実にある。

 ふいに、原作が読みたくなった。本屋に行こう。




潜水服は蝶の夢を見る
ジャン=ドミニック ボービー
講談社

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池井昌樹「古い町」

2008-03-24 01:11:10 | 詩(雑誌・同人誌)
 池井昌樹「古い町」(「葡萄」55、2008年03月発行)
 ふるさとの町について書いている。その後半。

うちへかえるさ
とうちゃんズボン
まえがあいとる
おおまさき
おまえもあいとる
おおわらいした
ちちはしんだし
あのまちもとっくにたえた
こんなとおいとかいでいつか
としをとり
けれどまだペダルをこいで
あそこへと
みんながぼくをまっている
ぼくのかえりをまちわびている
あのふるいまち
いまはないまち

 「みんながぼくをまっている」。この1行に私はどきりとする。「いまはないまち」「ちちはしん」で、そこにはいない。それでも池井は、その町が存在し、父が(そしてここには書かれていないが母が)、「ぼく」を待っていると感じる。不在のものが「存在」となって、そこで実在の池井を待っているのだ。不在と実在を、同じ力で感じ、しかもそれが池井を待っていると感じる。そのことに私はどきりとする。
 また、そのふるさとは、遠いところなのだが、実は遠くないということにもどきりとする。
 「こんなとおいとかい」にいるけれど、池井がいるとき、その池井を見守る形でいつでも「古い町」は池井とぴったりくっついている。共存している。不在のものが実在の池井といつもいっしょにいる。
 「まっている」ということばが象徴的だが、その不在のものは、積極的に池井には働きかけないのである。ただ待っている。(あるときは、見つめている。)いつも、その「まっている」もの、「みつめているもの」との間を池井は行き来している。行き来しながら、その待っているものに通じることばをひっそりとつぶやくのである。待っているものが聞き取れることばを自分の声にするのである。
 ことばで何かを切り開いて行くのではなく、池井を優しく見守り受け入れてくれるものに聞いてもらえることばを探す。そして、そのことばになってしまう。

 作品の前後が逆になるが、前半の部分。

ふるいまちでうまれ
ふるいまちでそだち
ふるいまちでちちと
くじらがみをみたよる
しめったさじきのにおい
ほこりのこもったにおい
おせんにキャラメル
あめふりフィルム
えいががはねて
大小の
さびたペダルこぎ
アーケードのやぶれたまちを
うちへかえるさ

 そこではことばは「形」ではなく、「におい」のように不定形だ。形をもたないまま、呼吸され、呼吸によって身体のなかへ入って行く。そして、吐く息とともに外へ出て、空気そのものをつくってゆく。人々のいりまじった息、におい。存在するけれど、形が不在のもの。--「ふるいまち」は「におい」に似ている。それは、池井が吐く息(ことば)とともに、いつも池井のまわりに出現し、ことばになる。池井がことばを探しているのか、息が自然に「におい」になってしまうのか。
 これは、もう、どうでもいいことなのかもしれない。池井はただ呼吸をする。すると、それが詩になる。
 そこには「うちへかえるさ」の「さ」のように、今では、だれがつかうかわからないような、古い古いことばもまじってくる。そういう古いことばをとおして、池井は「まっている」ひとの方向へ目を向ける。「方向」というより、ここは池井に習って「さ」という表現をつかった方がいいのかもしれないが。そして、「さ」のなかで、いまを振り払い、いまそのものになる。一体になる。
 
 矛盾でしか言い表せない、何かになる。






いま、池井の詩集を読むなら。

池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社

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朝倉裕子『詩を書く理由』

2008-03-23 08:34:01 | 詩集
 朝倉裕子『詩を書く理由』(編集工房ノア、2008年03月18日発行)
 安水稔和のカルチャー講座で詩を学んでいるひとり。「現代詩」の重要な要素のひとつは、言語に何ができるかを実験するということ。朝倉にそういう意識があるかどうかはわからない。むしろ、実験などはせず、ことばと現実をていねいに向き合わせ、ことばのなかで正直になろうとしている。そういう感じがする。素朴な詩である。そして、その素朴さの中に、「実験」とは無関係に、ふいにことばが力を獲得する瞬間がある。
 「冬の日に」の全行。

空を降り仰ぐ いちょうの木の
いっせいに伸ばした
裸の枝の一本一本が
冬の日に照らされて
さざめいている
その根元から
生えだしたようにして立つ
小さなポスト
簡潔な形と
待つという単純なこころざし

その一途な想いに惹かれて
足を止める
もしこのように生きるとしたら
私はいったい何を
待つだろうか

 「生えだしたようにして立つ」。この1行。その「生えだした」ということば。ここに朝倉の生きる力を感じた。
 ポストはもちろん「生えだし」たりはしない。誰かが設置する。しかし、それを自分の力で地面を突き破って「生えだし」てきたようにみるとき、その瞬間に朝倉は何かを突き破って生きようとするポストそのものなのである。「生えだし」たりしないポストを「生えだしたように」と書く瞬間、朝倉はポストそのものになる。地面を破って「生えだ」す力そのものになる。

簡潔な形と
待つという単純なこころざし

 とポストを描写するとき、朝倉は、単純な形で待つという志を生きていることになる。
 短い詩である。そして、その短い詩のなかで、朝倉はことばを動かすことで、それまでの「私」を乗り越えている。「私」ではなくなっている。「私」ではなく「ポスト」になっている。
 この変化の中に詩がある。

 もし、これが「現代詩」の書き手なら、そうやってポストになってしまった瞬間から、ことばは逸脱して行く。実験の領域に入って行く。
 朝倉は、そういう実験を生きる勇気(?、野蛮と言うべきか)は持っていない。
 だから、2連目で「ポスト」であることをやめて「私」に戻ってしまう。
 この「私」に戻ってしまう姿勢の中に、生きる悲しみ、せつなさがある。
 「その一途な想いに惹かれて」の「その」という論理の引き受け方に、朝倉の生きる悲しみがある。「その」ということばで論理を引き受けてしまう精神の悲しみ。論理の悲しみ。さびしさ。

 ことばを書くことで「私」ではなくなる。けれども、やはりことばにひきずられて「私」に戻ってしまう。
 --この2連でつくられた詩の中に、実は、多くの詩のかかえている「課題」のようなものがある。
 流通することばはいつでも、ことばの逸脱を引き戻そう引き戻そうとする。「枠」のなかに人間を、精神を閉じ込めようとする。そして、その「枠」のなかにおさまると、それは一種の「抒情」になって、ひとを(読者)を安心させることになる。「そうなんだなあ、その気持ちわかるなあ」という共鳴のなかに人間を閉じ込めてしまって、人間が人間で開くなる、自分が自分でなくなる、自己から逸脱して行くという可能性を封じ込めることになる。
 私の書いていることは、もしかすると朝倉には届かないかもしれない。
 「その」ということばを振り捨てて、ポストになってしまって、現実と向き合うとき、そこから「現代詩」がはじまるのだと書いても、朝倉はきょとんとするかもしれない。そういう生き方は朝倉の目指しているものでない、と簡潔に言うかもしれない。それでも、こういうことを書かずにいられないのは、もし朝倉が、「その」ではじまる論理に引き返さずに、ポストとして生きて、現実と向き合えば、その先にもう一度「生えだしたように立つ」につながる深いことばを探り当てるかもしれないという期待があるからだ。

 「生えだしたように立つ」という1行には、そういう期待を抱かせる力がある。

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寺山修司『月蝕書簡』

2008-03-22 11:37:21 | その他(音楽、小説etc)

地平線描きわすれたる絵画にて鳥はどこまで墜ちゆかんかな

 こういうことは現実にはありえない。実際の鳥は、描かれた地平線へ落下するわけではない。また、鳥は地平線へ落下するのではなく、あくまで地上へ、地面へ落ちる。さらに、絵画のなかの鳥は、それが落下する鳥であっても、絵のなかでは止まっている。空中の一点にある。地平線が存在しないので、鳥は果てしなく落ちて行くしかない--というのはことばの中だけの世界である。
 こういうことは、すべて「わざと」書かれているのである。ここにかかれていることばは、すべて「わざと」である。その「わざと」のなかに詩がある。
 寺山はことばのなかで生きていた。ことばのなかで、ことばを動かすことで生きていた。「わざと」ことばを動かし、ことばでしかたどりつけない世界を描くことで生きていたのだ。想像力を解放していた。想像力を解放し、その快感を得ていた。それが詩である。

 この短歌では、最後の「墜ちゆかんかな」の「かな」も好きである。「かな」がほんとうに必要なものかどうか私は知らない。「かな」がない方が、私は不安定で好きだ。「かな」があるために、短歌が「歌」になっている。この「かな」によって「快感」が酩酊になる。酩酊によって、「快感」が快感を超越するという特権を獲得する。
 感情・思想を短歌にこめるだけではなく、歌にしてしまう。それを快感に、しかも特権的な快感にしてしまう。それが寺山なのだと思う。歌にすることで感情を(思想を)安定させる。「抒情」という世界に封じ込める。封じ込めることで、充実させ、同時にそうすることで、それはことばだけの世界であると宣言する。
 そうした「宣言」のあり方が私は大好きだ。

出奔後もまわれ吃りの蓄音機誰か故郷を想わ想わ想わ

 この短歌も好きである。レコードが傷のために同じ所をなんども繰り返す。そして、その「想わ」の繰り返しが、語尾を書くことによって激しく望郷を呼び起こす。一種の矛盾。ことばとして完璧ではないために、逆にことばが言おうとしていることを浮かび上がらせる。足りないものを求めて、ことばが、書かれていないことばが、書かれているときよれりも濃密に襲いかかってくる。その濃密さが酩酊を誘い、快感を生む。「想わ想わ想わ」という破調が、その酩酊に拍車をかける。快感に拍車をかける。破調という逸脱が、酩酊、快感におぼれることを積極的に許すのである。



 「破調」「破綻」。破れる--これは「敗れる」にも通じるのだが、その「敗北」をさらに「破り」拡大するというのが寺山のひとつの手法かもしれない。
 この歌集には家族が大勢登場する。父、母、おとうと、姉……。そうした作品から2首。

ビー玉を一つ失くしてきたるおとうとが目を洗いいる春のたそがれ

 ビー玉は遊具のビー玉であるが、それに「目を洗いいる」ということばが続くと、その瞬間にビー玉は義眼にかわる。そして、まるで義眼を一つ落としてきた弟が義眼の変わりにビー玉を洗っているような印象を呼び起こす。
 もちろんそうなことは私の想像力のなかで起きることであって、実際には書いてはいない。書いていないけれど、そんなふうな錯覚を誘う。そして、その錯覚のなかで私は酔ってしまう。書かれていない「過去」というか、秘密に。弟は義眼である、という秘密に。その秘密が、突然あらわになって、現在を突き破り、過去(すでに規定の事実としての秘密)がまるで「未来」のように噴出してくるように感じる。

酔いて来し洗面台の冬の地図鏡のなかで割れている父

 「割れている」のは父そのものではない。父は肉体を持っている。それが割れた鏡に映っているということなのだが、そのイメージは鏡が割れているを通り越して父そのものの亀裂、破れ目、破綻、敗北へと連想を運ぶ。
 「冬の地図」の不思議さが、それに拍車をかける。
 「洗面台の冬の地図」。何? 「地図」がなぜ「洗面台」といっしょになければならない? 地図は地図ではない。「割れている父」そのもののたどった「過去」なのである。過去がここでも現在を突き破り、未来として噴出しているのである。

 こう書きながら、私は「劇」(芝居)を思い出している。演劇とは、常に時間とともに存在する。登場人物はそれぞれ「過去」を持って現在(同時間)に舞台の上にいる。役者は「過去」を「現在」のなかで表現しなければならない。(過去を表現しないと、存在感のない、薄っぺらな人形になる。)演劇の時間は「いま」でありながら、常に「過去」をかかえこみ、その「過去」が「現在」を突き破り、「未来」へ突き進む。その破壊のなかに、ドラマがある。
 寺山は短歌のなかでも「劇」を演出していたのである。寺山のことばはいつでも「劇」そのものに結びついていた。短歌も寺山にとっては「劇」だった。ことばで、家族を登場させ、ことばの肉体で「劇」を演じさせていたのである。




月蝕書簡―寺山修司未発表歌集
寺山 修司
岩波書店、2008年02月28日発行

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ウェス・アンダーソン監督「ダージリン急行」

2008-03-21 08:41:08 | 映画
監督 ウェス・アンダーソン 出演 オーウェン・ウィルソン、エイドリアン・ブロディ、ジェイソン・シュワルツマン

 色がとても美しい。インドを走る列車。インドの荒野。そして空気。と、空気ということばを書いて急に気がつくのだが、この映画は空気が美しい。透明で透き通っている。スクリーンでこんなに透き通った空気を見るのははじめてという気持ちさえする。この透明な空気が空気だけでなく、まわりのもの、つまり登場人物をどんどん透明にしてゆく。旅を続けるにしたがって、3人の兄弟がどんどん透明になっていく。
 人間というのはそれぞれがわがままだし、わがままの裏返しのようにしてひとりだけの秘密を持っている。そのわがままや秘密がどんどんそぎ落とされて透明になる。他人のことばというものはたいていひとの体をくぐり抜けるとき屈折し、歪むものだけれど、映画の3人の兄弟のことばは他人の体の中へ入っても歪まない。屈折しない。全部、まっすぐな真実になる。この感じがとてもいい。
 象徴的なのが最後のシーン。3人は列車に乗るために走る。列車はすでに出発している。走って、走って、走って、じゃまな鞄を棄てて走って、やっと列車に飛び乗る。3人とも手ぶらになっている。手ぶらになって、ホームに転がっている鞄を見つめる。「自分」というもの以外はすべてすてて、その瞬間に、長い長い旅は終わる。旅は、余分なものを棄てるためのもの、余分なものを棄てて、自分自身に還るためのもの。そういうものなのかもしれない。
 そして、自分自身に還って何があるか、というと実は何もない。ただいま起きていることを受け入れる、そういうことだけかある。いまここにある空気、いまここで生きているということを受け入れる。それで十分。それで満足。

 抽象的に書きすぎたかもしれない。私の書いたことは、そしてたぶんどうでもいいことなのだと思う。

 この映画の魅力は、なんといってもインドである。インドの光。インドの空気。その空気にあわせたインドの色。
 3人の兄弟はそろって赤い鞄を持っている。その赤の、独特の静かな華やかさ。列車のなかの調度の色。インドの村の家の室内の色。水色。その調和がとても美しい。
 映画というのはストーリーを持っている。そして多くのひとはストーリーについて話したりもするのだけれど、この映画はストーリーなんか話してもおもしろくはない。ストーリーにならない部分、空気の色、光の色、画面画面の色のバランス。そういうところになんともいえない魅力がある。
 この透明なインドの美しさ、存在をシンプルに輝かせる大地と光、それをスクリーンに定着させたくて、ウェス・アンダーソンは映画を撮ったのだと思う。インドへ行って、列車に乗って、歩いて、走って、透明になりたい、という気持ちになってくる。

 パーフェクトな映画である。

*

次の映画もおすすめ。



ザ・ロイヤル・テネンバウムズ

ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント

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工藤直子「待合室」

2008-03-21 00:34:35 | 詩(雑誌・同人誌)
 工藤直子「待合室」(「密造者」71、2007年10月20日発行)
 工藤直子の詩について、また書きたくなった。どうということはない詩、という感じがする。そういう感じはするのだが、不思議とひかれる。
 「待合室」は待合室で居眠りをしているひとを描いたものである。うつらうつらを通り越し、口を開けて眠っている。その2連目から。

口の中がきらりと光った
これが見せたかったのか
舌も出てきた
お--ずいぶん長くなるのものだ
こうなったら洞窟の探検だ
口の中に潜入してみよう
金歯も光っているけど
虫歯もいっぱいだ

涎もいっぱいで すべるすべる
おっとっと するりと滑って
ひっくり返った
長い舌の上はざらざらだ
悪いものでも呑み込んだのか

にやっと笑って口が歪んで
あぶないあぶない 閉まりそうに
ごっくんなんて 呑みこまれたら
大変だ

 2連目は通俗的である。そして、2連目が通俗的であることによって、3連目が輝く。舌の「ざらざら」と「悪いものを呑み込んだのか」とを結びつけるとき、その「悪いもの」が口の奥、口からずーっと続いていく肉体の先、腹の中にうごめいているようではないか。
 そういうことを連想させて、一呼吸。
 「にやっと笑って口が歪んで」までの1行空き。これが絶妙だ。とてもおもしろい。「にやっ」が特に楽しい。悪人(?)の魅力がたっぷりである。悪というのはいつでも好奇心をくすぐる。触れてはいけないものに触れることほど楽しいことはない。そう誘いかけてくるようではないか。
 工藤は、しかし、そういう世界へはまっすぐには入って行かない。ちゃんと(?)引き返す。「あぶないあぶない」と言ってみせる。あるいは「あぶないあぶない」と言うことで、どこか、自分自身を守っている。こういうときのタイミングというか、リズムがおもしろい。
 工藤の詩は文字として書かれているけれど、この詩などは、文字というよりも「お話」というか、声に出して伝えられたとき、その魅力がもっと輝くだろうと思う。ことばのリズムが肉体というか、日常の会話の「空気」をたっぷり含んでいる。研ぎ澄まされているのではなく、どこかあいまいで、逃げ道がいっぱいあるような感じの「空気」。問い詰められたら「あれっ、そんなこと言ったっけ。聞き違いじゃない?」とシラを切りそうな図太さがある。
 工藤のことばは、どこかで読者の反応(聞き手の反応)をうかがいながら動いている。この他人の反応をうかがいながら動くというのは、日常ではごくありふれたことだけれど、書きことばではとても珍しい。書きことばは、どうしても「独走」(暴走?)しがちである。そして、その「暴走」に「現代詩」の一種の魅力があるのは事実なのだけれど、こうやって他人の反応をうかがって動くことばを読むと、「暴走」なんて、結局は独りよがりなんじゃないか、という気持ちにさせられる。
 そういう変な気持ちを引き起こす魅力が、工藤のことばにはある。


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工藤直子「水たまりの中は違う世界」ほか

2008-03-20 02:20:10 | 詩(雑誌・同人誌)
 工藤直子「水たまりの中は違う世界」(「密造者」71、2007年10月20日発行)
 何気ない感じの作品だが、最終連がとてもいい。最終連だけ取り上げてもそのいい感じが伝わらないだろうと思う。全行引用する。

水たまりに
青い空がうつっている
じっと 見ていると
底がとってもとても深そうで
長靴でも入っていけない

そうっと手を入れてみる
その瞬間
す--と引きずり込まれていた

中から見上げると
子供たちがひょういひょいと
飛んでいく

アメーバーがすいすい泳いで
とんぼが低空飛行して
カエルがピョンピョン飛んでいる

誰かが水たまりを蹴っていった
ゆらゆら揺れて何も見えない

夕焼けが空を染めていく
手を伸ばしても届かない
やっぱりふかーい所だった

 たとえ地上にいたとしても「夕焼け」には届かない。けれども水たまりにいればなおさら届くはずがない。それだけのことなのだけれど、この奇妙に論理的なことばの動きが論理を超えて悲しみのようにして響いてくる。
 この自然な悲しみがどこからやってくるのか、私には、よくわからない。うまく説明できない。他人に対して、というのではなく、私自身に対して、うまく説明できない。なぜ、それを悲しみと感じたのか、自分自身を納得させることばが見つからない。(工藤の詩を読んだことがあるかどうか、私には記憶がない。たぶんはじめてだろうと思う。そういうことが影響しているのかもしれない。)しかし、この悲しみがとても気に入った。水たまりの底から夕焼けを見てみたい気持ちになった。
 何度か読み返した。そして、気づいた。
 (実は私はこんなふうにして、読みながら書いている。何か書きたいことがはっきりしてから、つまり結論にあわせて、ではなく、思いつくままに、気づくままにいつも感想を書いている。)
 1連目の終わりの2行。

底がとってもとても深そうで
長靴でも入っていけない

 ここに出てくる「長靴」がとてもいいのだ。とても自然なのだ。なつかしいのだ。
 「長靴」というものを私は知っている。しかし、いまは持っていない。もう長い間履いたことがない。履いたことがないけれど、それがとても日常的なものであることを知っている。感じている。なにか、そういうもの、知っているけれど、いまはもうつかわれることの少なくなったものを大切にことばにする精神がある。工藤のことばは架空へとは動いて行かないのだ。
 水たまりの底へおぼれる(その深い底へ落ち込む)ということは現実にはありえない。(深かったら、もうそれは「水たまり」とは呼ばないだろう。)それにもかかわらず、そこに書いてあることがとても自然なこととして伝わってくるのは、その出発点に、たしかに存在するものがあるからだ。この詩では、たとえば「長靴」。
 工藤はことばを空想というか、ことばでしか描けないものの方へ動かしてゆくが、そのときもきちんと「現実」を踏まえている。存在するものを明確にし、その存在を利用して動いていく。この、現実の存在を踏まえて精神が、ことばでしかたどりつけないものの方へ動いていくとき、そこにとても静かな悲しみが生まれるのだ。
 それは、私たちはいつでもことばで何かを夢見ている。ことばで、現実をねじ曲げ(ゆがめ)、そうすることで想像力を育てているという悲しみにどこかで触れるのだ。
 想像力とは寂しい力だ。哀しい力だ。
 私はふと、「さびしい、ゆえに我あり」と書いた西脇を思い出してしまう。
 工藤の書いている世界は西脇とは違う。けれども、その奥に流れている悲しみはどこかで西脇と通じている。たぶん、ユーモアも。
 同じ号に載っている「待合室」もすてきな作品である。



 若狭麻都佳「DOOM」は工藤の作品の対極にある。

背中に
哀しい きみの目を
刺青して
いまは
既に
失くしてしまった
傷(いた)みで
充たされていたい

 若狭は現実を出発点とはしない。ことばからはじまり、ことばからはじめることでしかたどりつけない現実に触れようとしている。それはよくわかるが(というのも、そういう方法は「現代詩」に多く見られる定型的なことばの運動だからである)、2行目の「哀しい」、7行目の「傷み」は、詩の「現代詩」のことばとはなり得ないだろうと思う。あまりにも古い。
 工藤の書いている「長靴」はすでに履いているひとも少ないけれど、いつまでたっても古びないことばである。一方、若狭のつかっている「哀しい」「傷み」はいまも存在するけれど、存在するがゆえに、古い。
 何が「古びない」と「古い」の差になるか。現実である。日常である。現実を出発点とするかぎり、ことばはいつでも新鮮である。

 工藤の手法は新しくはない。新しくはないが、そこには新しくないものだけが持つ、不思議な力がある。そう思った。




同じ著者かどうかわからないけれど、工藤直子で検索すると次の本が出てくる。
(いいかげんな紹介でごめんなさい。)


のはらうたI (1)
工藤 直子
童話屋

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サム・ガルバルスキ監督「やわらかい手」

2008-03-19 10:47:39 | 映画
監督 サム・ガルバルスキ 出演 マリアンヌ・フェイスフル、ミキ・マノイロヴィッチ、ケヴィン・ビショップ

 イギリス、フランス、ベルギー、ドイツの合作だが、色調はイギリスそのものである。舞台がロンドンだから色調がイギリスといってしまえばそれまでだが、細部の「個人主義」の感覚がいかにもイギリスである。「個人主義」を「プライバシー」と書き換えると、もっとわかりやすくなるかもしれない。人にはそれぞれ秘密がある。そして、その秘密を大切にする。それがイギリスの個人主義だ。
 この映画では、難病の孫のために女性が風俗店で働く。息子は気になって、その働き場所まで追跡するが、彼以外の人間は、彼女が自分から打ち明けるまでは、その事実を知らない。気になっているが、本人が言わないかぎりは、それについて知らない。また、そういうことは陰口となって広がるけれど、直接聞いた人以外は、聞かなかったこと--つまり知らないという姿勢をとる。このとき生まれる人と人の距離感がイギリスの個人主義である。
 そしてこの個人主義を体現するのが主役の女性の「歩き方」である。駅で知り合いにあい、どぎまぎするシーンもあるが、基本的に堂々と歩く。風俗街も姿勢をくずさずに歩く。事情があって彼女は風俗店で働くのだが、その事情(秘密、プライバシー)を、行き交うひとは知らない。そして、彼女は、街の人々が事情(秘密、プライバシー)を知らないし、知ろうともしないことを体験的に知っている。その距離の感じがソーホーの街そのものの描写にもあらわれている。狭くひしめき合っているにもかかわらず、「空間」というか「距離感」が常に存在する。
 この距離感はイギリスに共通するものといえば共通するものだと思うけれど、特に、主役の女性がその距離感をリアルにつむぎだす。描き出す。たとえば、彼女の職場。そこは単なる金を稼ぐ場所にしかすぎないのだが、彼女はその部屋へ「個人の生活」というものを持ち込む。壁に自分の好きな絵をかける。それは単に働きやすくする、こころを落ち着かせるというよりも、そうした場所であっても「個人」の「秘密」をかかえこむ場所にしてしまうということである。彼女の手によって快楽を得る男たち--そういう男たちはもともとその手の持ち主がどんな女性であるかなど気にはしないのだが、そういう暴力から身を守るために「個人」を「秘密」を彼女は持ち込むのである。だれも知らないこと、彼女がどの写真を気に入っているか、どんな絵が好きか、だれも知らない。その知らないことを自分自身だけが守っている。そのことが、彼女の尊厳である。
 何をしていても、どんなことをしていても、生きている人間には尊厳がある。イギリスの「個人主義」はその尊厳への敬意の具体的な実現方法なのである。
 風俗店を開くしかない男、そこでしか金を稼げない女性。そのふたりにも尊厳はある。そして、その尊厳の存在に、ふたりは互いに気がついている。互いに、その尊厳に対して敬意を払っている。この敬意が、やがて愛にかわる。--この恋愛は、若者の愛よりも純粋である。ラストシーンのキスはとても美しい。そばにいる、いっしょにいる、そして触れ合っている、そのことの喜びに満ちている。


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大沢武「脇往還を 梓巫女の行く」

2008-03-18 01:34:16 | 詩(雑誌・同人誌)

 大沢武「脇往還を 梓巫女の行く」(「SOOHA」3、2008年03月15日発行)
 ことばが好きな詩人である。それも特別むずかしいことばではなく、だれもが知っていることばを、だれもつかったことのない方法でつかうことが好きな詩人である。
 「脇往還を 梓巫女の行く」の冒頭。

真空のいただきに収まる鼓動が
あれた共鳴波形に装飾を求める夕べは
吐く息と経験則が 思考過程の私を指図する
その無機質な警告は 過ぎた日の堆積に群れ入って
分解し熟れて 設問と悔いの構築を
間も与えずに常温で発酵気化してしまう

 「思考過程の私を指図する」。この語法が、全体のぎくしゃくした感じを、なぜかすっきりしたものに転換する。あらゆるぎくしゃくが「思考過程の私を指図する」のねじれのなかで鍛えられ、そこをとおることでまっすぐなものにかわるような、不思議な印象がある。
 普通に考えるならば、「吐く息と経験則が 私の思考過程を指図する」。吐く息、経験則が思考過程に影響を与える。思考が、吐く息、経験則によって、影響を受ける。「私」とは「思考」である。この場合、「私」(私の)は省略しても、同じ意味である。
 ところが、こうした語法をとらずに、大沢は「思考過程の私を指図する」と書く。思考が影響を受けるのではなく、「私」そのものが影響を、「指図」を受ける。「思考」などというものは「私」が生み出す産物であって、それに意味はない。問題なのは、あくまでも「私」である。
 「思考」=「私」ではない。「私」は「思考」を超越する何者かである。

 「思考」にかぎらないだろうと、思う。大沢の描く「私」はすべてを超越する。すべてを超えて、特権的である。
 特権的であることを利用して、だれもつかわなかった語法を駆使する。 
 これは別のことばで言えば、国語文法への反乱である。暴力である。

 詩は、ここにある。
 既存の国語文法を否定し、破ること。そのとき、ことばに対して人はどうしても批判的にならざるを得ない。流通していることばをそのまま流用したのでは、流通経路を破壊し、ことばを氾濫させることはできない。

 大沢の詩にはことばがあふれているが、それは当然である。文法に対して反乱するとき、ことばをせき止めていたものはなくなる。ことばは氾濫するまるでことば遊びだが、そこに詩がある。


*


N極とS極をムササビが移り飛ぶ夜に
大沢 武
七月堂

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