潜水服は蝶の夢を見るジャン=ドミニック ボービー河野万里子訳、講談社、1998年03月05日発行このアイテムの詳細を見る |
ロックトイン症候群に陥った「ELLE」の編集者が20万回のまばたきでつづった断章。先日、その映画を見た。映画はこの断章ともとにしている部分もあるが、周囲の取材をもとにつくられているようである。映画でとても興味深かったシーンはことばではあまり語られていない。そのかわり、映画にならなかった部分もたくさんあり、そこに美しい文章がいくつもある。
たとえば日曜日。テレビは気晴らしになるが、時には苦痛になる。どんなテレビでもいいというわけにはいかない。音のうるさい番組は苦痛だと書いたあと……。
僕は、ドキュメンタリー番組の静けさが、好きだ。芸術についてでも、歴史についてでも、動物についてでもいい。そういった番組の画面を、音を消してナレーションもなしで、たき火の火を見つめるように観ているのが、一番好きだ。
「たき火の火を見つめるように」という比喩がとても美しい。そして、この文章を美しいと感じるのは、もちろんその比喩の美しさにもよるのだが、ほんとうは、比喩の美しさというよりも、比喩が存在することが美しいのだ。
映画ではていねいに描かれていたし、この本の中にも書かれていることだが、ジャン=ドミニック・ボービーは彼のことばを書き取ってくれるひとと「まばたき」だけで交流する。聞き手がアルファベットを読み上げる。その文字、たとえば「J」なら「J」があらわれたらジャン=ドミニック・ボービーはまばたきで合図する。それを観て、聞き手が文字をつづる。ひとつの文章をつづるのに大変な労力がいる。そういう労力のいる作業では、ことばはどうしても簡潔になる。あれこれ寄り道をしている暇はない。(と、私は思う。)テレビのうるさい音が苦手だ。音を消してドキュメンタリーを観ているのが好きだ、とつづれば、ジャン=ドミニック・ボービーの「意思」は伝わる。「思想」は伝わる。
というのは、しかし、間違いなのだ。
「たき火の火を見つめるように」という美しい比喩は、そのことをはっきりと伝えてくれる。明らかにしてくれる。
人間の「意思」「思想」というものは、「ドキュメンタリーが好き」というようなことばのなかにだけあるのではない。むしろ、そこから逸脱していくものにこそある。ジャン=ドミニック・ボービーはドキュメンタリーが好きというより、それを「たき火の火を見つめるように」観るのが好きである。大切なのは「たき火の火を見つめるように」ということばなのである。「ドキュメンタリーを見るのが好き」ということばでは伝えられない部分--そこにこそジャン=ドミニック・ボービーが存在する。比喩こそがそのひとであり、比喩こそが「思想」なのである。
そしてこの思想としての「比喩」は、たとえば「哲学書」とか「思想叢書」からいつもはみ出している。学校の授業、教科書からはみ出している。それは「体系」としてすくいとれないものである。それは「頭」に属する「思想」「哲学」ではなく、肉体に属するものだからである。「肉体」にぴったりはりついていて、あるいは肉体の内部に行き渡っていて、それを単独で取り出すことはできない。「肉体」そのものになってしまっている「思想」「哲学」である。そこには、命がある。「肉体」から分離不能の「いのち」がある。
私がいつかジャン=ドミニック・ボービーをふたたび思い出すことがあれば、それはジャン=ドミニック・ボービーが「ドキュメンタリーが好き」という人間としてではなく、たとえばドキュメンタリーを「たき火の火を見つめるように」観る人間として思い出すのだ。ドキュメンタリーでなくてもいい。たとえば、かけがえのない子供たちを、あるいは別れてしまった愛人たちを、そのイメージを、彼は「たき火の火を見つめるように」見つめる、思い浮かべるのである。ジャン=ドミニック・ボービーがなにかを考えるとしたら、そのなにかがはたして「たき火の火のように見つめ」られる存在かどうかということを基準にするに違いない。ある一枚の洋服、彼が専門にしていたファッション--それを「たき火の火のように見つめ」られるかどうか、「たき火の火のように」思い出せるかどうか。そこには、ことばではうまくいえないなにかが存在する。
この文章の初めの方で、私は「映画にならなかった部分もたくさんあり」と書いたが、実は、そうではないことに今気づく。
映画は、ジャン=ドミニック・ボービーの、たとえば「たき火の火を見つめるように」のような、「肉体」そのものになった「思想」を映像化していた。
ジャン=ドミニック・ボービーが昏睡から覚めて観る風景。そのゆらぎ。風にゆれるカーテンや、彼のことばを筆記してくれる女性のスカートが風とたわむれながら太股に遊ぶシーン。それらはすべて、ジャン=ドミニック・ボービーにとって「たき火」なのである。ジャン=ドミニック・ボービーが「たき火」として見つめたものがスクリーンをおおい、スクリーンからあふれてくる。映画は、そんなふうにつくられていた。そこにあふれる映像は、監督の、カメラマンの「思想」であると同時に、ジャン=ドミニック・ボービーのいのちそのものであった。
映画の映像はいくつものことば(せりふとして表現されたことばではなく、けっしてせりふにはならないことば)をたくさんもっていた。そのことばのひとつが、たとえば「たき火の火を見つめるように」である。映画は、そういう「ことば」を無数に受け入れながら存在している。
映画に私は非常に感動したが、本を読んで、その感動がいっそう強くなった。とてもいい映画だった。そして、この本の中に生きていることばもとてもすばらしい。「思想」「哲学」というよりも、「たましい」が動き回っている。生きている。「たき火の火を見つめるように」は「思想」「哲学」というよりも、「たましい」のことば、と書くべきだったと、いま、思っている。