詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

円谷英二特撮監督、多猪四郎監督「モスラ」

2021-12-31 13:05:48 | 午前十時の映画祭

円谷英二特撮監督、多猪四郎監督「モスラ」(★★★★)(2021年1 2 月2 6 日、中州大洋スクリーン1)

特撮監督 円谷英二  監督 本多猪四郎 出演 ザ・ピーナツ

 日常では見ることのできないものを見たい。これが映画を見る欲望だとすれば、映画をつくる人の欲望も日常では見ることのできないものを見せたい、だろう。その欲望で動いている作品。だから、どんなとんでもないことでも許せる。ここでいう「とんでもないこと」というのは、奇妙な外国人興行師のことである。これを批判していたら、映画にならない。
 さて、見どころは。
 やっぱりモスラの三段階の変化。幼虫、繭、蛾。これを全部描いている。いきなり蛾ではなく、幼虫からスタートする。虫が太平洋を泳いでくるなんて傑作だなあ。だれが思いついたのだろう。動きのない繭には東京タワーというアイコン。いいなあ。もし東京タワーが日本になかったら、モスラは生まれなかった。東京タワーがあるから、東京があり、だからこそモスラはやってきた。いや、ほんとうの理由(ストーリー)はもちろん違うけれど、円谷英二は東京タワーがなければこの映画の特撮を担当しなかっただろうと、私は思う。東京タワーで繭をつくるためには、その前は幼虫でなくてはならない。きっと発想が東京タワーの繭から始まっていると思う。
 怪獣が都市を破壊する。そのとき都市とはどういう都市であってもいいというわけではない。ランドマークを見たら、その瞬間、これはこの都市と分かるものでないといけない。これはまあ、「キングコング」のエンパイアステートビルみたいなものかもしれないけれど、いやあ、東京タワーがあってよかったなあ。皇居や国会議事堂でもいいのかもしれないが、皇居、国会議事堂なんて、行ったことのある人は少ない。東京タワーも、行ったことがある人は少ないかもしれないが、遠くからでも見える。わかる。行ったことがない人にも、すぐわかる。こういうランドマークがないと、怪獣が都市を破壊しても、ぜんぜんおもしろくない。
 円谷英二は、こういうすごく単純なことを、非常によく理解していたのだと思う。
 で。
 その東京タワーの対極が、ザ・ピーナツ。身長30センチという設定。これじゃあ、見逃すよ。いたとしても「人形」としか思えない。それが歌を歌う。さらにテレパシーをつかう。テレパシーはザ・ピーナツ以上に「見えない」。この「見えない」という存在が、見えるものをいっそうくっきりとさせる。そういう構造になっている。見えないテレパシーを遮断するということを「見える」ようにする変な遮蔽檻なんて、傑作だなあ。どこまでも、映画は「見る」ものということに、こだわっている。
 ザ・ピーナツが歌う「モスラ」の歌も大好きだなあ。「モスラー、ヤッ、モスラー」という歌いだし以外は何もわからないカタカナの音がつづくだけだけれど。このわけのわからないところが、実に楽しい。あのころは、どっちがどっちかわからないけれど、つけ黒子をつけて、区別のつかなさを強調していた。そういう「細かい」ところも好きだなあ。
 ピンクレディーが全盛期のときに、ぜひ、リメイクしてほしかったなあ。

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フレッド・ジンネマン監督「真昼の決闘」(★★★★★)

2021-08-30 17:37:01 | 午前十時の映画祭

フレッド・ジンネマン監督「真昼の決闘」(★★★★★)(2021年08月30日、中洲大洋、スクリーン3=午前10時の映画祭)

監督 スタンリー・キューブリック 出演 ゲイリー・クーパー、グレイス・ケリー

 何がおもしろいかと言って……。映画の長さが約90分、映画が始まるのが10時半ごろ、問題の列車が街に着くのが12時。つまり、映画の中の時間と、映画そのものの長さがほぼ同じ。これが緊張感を高める。実際は列車が着いてから「決闘」が始まるわけだから、映画の中の時間の方が、映画そのものの時間よりも長いのだけれど。でも、忘れてしまうね。そういうことは。頻繁に映し出される時計が「時間」が少なくなっていく、という緊張を高める。「007」の何と言うタイトルだったか、時間との戦い可視化し、時限装置の残り時間「007」で終わせるのは、この「真昼の決闘」がヒントになっているかもしれない。
 で、何の時間が少なくなっていくか。
 ゲイリー・クーパーは復讐にやってくる殺し屋と対決するために町の人の協力を求めるが、なかなか協力者が集まらない。当然協力してくれると思っていた判事は逃げ出す。親友らしい男たちも、自分の命が大切と、戦いを拒否する。最初は協力すると言っていた人間も去っていく。「時間」が減るのと同様に、協力してくれるはずの人間も減っていく。この「正比例」の関係が、なんともいえず、にくい。
 いろんな人間模様が描かれるが、教会での「議論」がおもしろい。いま、こういう映画ができるかどうかわからないが、この当時(私の生まれる前)は、こういうことができたのだ。こういうこと、というのは「議論」である。民主主義は、自分にできることに責任を持つこと。それを自分のことばで語ること。「理想」を語るだけではなく、「理想」はそうだけれど自分の「現実」を考えると、こういうことはできない。殺し屋に街を支配されるのはいや、でも戦って死んでしまったらなんにもならない。戦いたくはない。そういうことを、教会の中で語る。その「議論」が正しいかどうかではなく、「議論する」ということが、なんとも刺戟的。アメリカは「民主主義」の国なのだとあらためて思った。いまはどうかはっきりしないが、1952年当時は「民主主義(ことば)」が生きていた。
 「ことば」を実行することは難しい。その難しさを、ゲイリー・クーパーが一人でやってのける。ゲイリー・クーパーは背が高いだけの、どちらかというと線が細く弱々しく見える人間だが、それが次第に追い詰められていく。それを見ていると、確かに、これはゲイリー・クーパーのようなやせた男が演じないとおもしろくない、と思った。ジョン・ウェインのようながっしりした男がやると、追い詰められていく感じがしない。美男美女というのは、追い詰められる(いじめられる)と妙に「色気」が出てくる。わっ、追い詰められていくのをもっと見たい、という気持ちになる。トム・クルーズのように小さい(背の低い)人間もだめ。くじけそうになり、くじけながら、その体を立て直していくとき、「長身」でないと、立て直す、という感じ、ふたたび立ち上がるというときの「高さ」の印象がないからだ。(あ、これって、差別発言かな?)
 美女で言えば、世界一の美女、「ガス燈」のイングリット・バーグマン。気が触れるんじゃないかと苦悩する顔、よかったなあ。シャルル・ボワイエになって、バーグマンをいじめてみたい、と興奮したことをおぼえている。
 グレイス・ケリーも、バーグマンとは違うけれど、苦悩するから美しい。殺し合いなんかいや、逃げたい。でも、ゲイリー・クーパーがいなければ生きていけない。「逃げたい」という気持ちがなければ、「どうすればいいのか」という気持ちがなければ、美しくないとは言わないけれど、美しさが迫ってこない。
 途中に、若い男と殴り合うシーンがあるが、血や傷、汚れというのは美男美女にこそ似合う。やっぱり映画を見るなら、美男美女に限る、と思う。ほかにも見どころはあるんだろうけれど、ミーハーなので、ほかのことは書かない。

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スタンリー・キューブリック監督「シャイニング北米公開版〈デジタル・リマスター版〉」

2021-07-25 18:19:01 | 午前十時の映画祭

スタンリー・キューブリック監督「シャイニング北米公開版〈デジタル・リマスター版〉」(★★★★★)(2021年07月25日、中洲大洋、スクリーン1=午前10時の映画祭)

監督 スタンリー・キューブリック 出演 ジャック・ニコルソン、シェリー・デュバル

 この映画は、冒頭のシーンの「気持ち悪さ」に圧倒される。いまでは空からの撮影でも画面がそんなに揺れないが、この映画つくられた当時はそうではなかった。まるでカメラ自体が飛んでいるような、そして自分が目になって飛んでいるような気分になる。しかも、それは私が望んでそれを見ているのではなく、何か強制的に見せられている感じがするのである。不安定に揺れる映像なら、これはだれかが撮ってきた映像という感じがするのだが、そういう感じがしない。強制的に見せられていると書いたが、その見せられているは、なんというか、私自身の網膜を操作されて、目の奥から別の世界を覗かされているという感じだ。この、揺れない空中からの映像は知っていたし、いまはそういうシーンも珍しくないから「気持ち悪い」感じはしないかと思っていたが、30年ぶり(?)に見たいまの方が「気持ち悪い」。ぞっとする。異界へするすると滑り込んでいく感じがする。美しすぎて、どうにもなじめないのである。視神経が目を飛び出して世界へ入っていく。しかもその世界は目で見る世界よりもはるかに美しい。映像酔いしそうである。
 少年が自転車と車がいっしょになったようなもので走り回るシーンの映像の方が、この冒頭の映像よりも有名だけれど、私は、「気持ち悪さ」ではやはり冒頭のシーンがすごいと思う。このシーンの後では、ホテルの廊下の映像は、私はそんなには驚かない。
 それに比べるとクライマックスの迷路の逃走シーンは、いまひとつ恐怖心を刺戟しない。逃げる少年。追いかけるジャック・ニコルソン。ふたりの体が揺れる。それはあまりにも肉体的である。ジャック・ニコルソンは足を怪我していて、体が揺れる。その揺れがさらに肉体を刺戟して、「映像」に目ではなく、肉体の方が反応してしまう。冒頭のシーン、廊下のシーンでは、私の肉体ではなく、ただ目(視神経)だけが刺戟される。だから、不気味で、怖いのだ。目が、先に現実(事実)を見てしまい、それが肉体に働きかけてくる何か。肉体を動かさないのに、目が何かを追いかけている。しかも、絶対的な確かさ(揺れない)で追いかけている。
 ということから、この映画を見直してみると……。
 少年のなかには、もうひとりの少年がいる。その少年は、少年の肉体を通して、少年に見えるはずのないものを見せる。その「見た」ものが「ことば」を通して語られるけれど、「レッドラム」だけは「文字」が鏡文字になってあらわれ、それが鏡に映って「マーダー」にかわり、母親に意味がはっきりつたわる。「視力の感知能力」によって、少年が動かされているのがわかる。大人たち(ジャック・ニコルソンやシェリー・デュバル)が「ことば」によって「現実」を理解している(「過去」を把握している)のに対して、少年はなによりも「視力」で「現実」の向こう側まで見ている。認識している。ふつうの人間を超える「絶対的視力」のようなもので、現実を見ている。
 少年が出会う少女が二人(双子?)というのも、「視力認識の二重性」と関係があるのかも。あの少女がひとりだったら、たぶん、この映画の恐怖は半分に減る。少年が自分の「二重性」を生きているように、少女たちは「ふたり」で「ひとり」を生きている。少年と少女たちのあいだには、「視力の親和性」のようなものが動いている。少年はあの二人と一体になる、つまり殺され「遺体」という同じ、一つの「意味」になるという予感が生まれ、その予感が恐怖をあおる。

 今回見た「北米公開版〈デジタル・リマスター版〉」で、ひとつ疑問。「レッドラム」ということばを少年が最初に発するシーンは、私の記憶では「食卓」だった。食卓でないにしても、食べ物が関係するシーンだった。だから、私は「レッドラム」を「赤いラム」と思い込んでいた。ほかの人たちも、そう思っていたと思う。それが「鏡文字」が鏡に映ることで「マーダー」に変わったとき、衝撃が大きくなる。「北米公開版」では、少年が最初に「レッドラム」と呟くのは食卓ではない。少年がひとりでつぶやき、そばに聞き手がいない。だから「レッドラム」が「マーダー」にかわる衝撃が、日本公開版にくらべて小さい。これは、私の記憶違いかな? 「鏡文字」の瞬間を心待ちにしていたが、そんなに驚かなかったのは、私がストーリーを知っているから? しかし、私はストーリーを知っていても、クライマックスには、いつでもどきどきする。
 たとえば、「暗くなるまで待って」では、冷蔵庫の扉を開けると明りが広がるシーン。「ターミネーター」では腕だけになったターミネーターが追いかけてくるシーン。私は、そういうシーンで興奮して笑ってしまうので、周囲のひとから迷惑がられるのだけれど、今回は笑いの衝動が起きなかった。
 日本公開版の方が好きだな。

 

 

 

 

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デニス・ホッパー監督「イージー★ライダー」

2021-06-14 16:25:09 | 午前十時の映画祭

デニス・ホッパー監督「イージー★ライダー」(★★★★)(2021年06月12日、中洲大洋、スクリーン1)

監督 デニス・ホッパー 出演 デニス・ホッパー、ピーター・フォンダ、ジャック・ニコルソン

 若者がバイクに乗ってアメリカを走る。それだけなんだけれど、走り抜けられる(?)人々(動けない人々)との対比がおもしろい。動けない人々のなかには、土地に住みついている人もいれば、「新天地(?)」を求めて、移動してきたヒッピーもいる。土地に住みついている人が「保守的」なのは想像できるが、新天地で共同生活するヒッピーもまた「保守的」である。「自由」について、固定概念をもっている。
 その「自由」の定義だが。
 これが、いささかむずかしい。ピーター・フォンダがいうセリフのなかに「おれは、このままがいい」ということばがある。このことばが、当時、どう響いたかわからないが、私は妙に納得した。自分であり続ける。ピーター・フォンダが夢見ているのは、ただそれだけだろう。何がしたいわけではない。あえて言えば、何もしたくない。何もしない自由。何ものにもならない自由。つまり、既成の「型」にはまらない自由。
 不思議なことに、1969年、1970年には、そういう自由があったのだ。
 そういう意味でいえば、ジャック・ニコルソンの演じた若手弁護士がとても象徴的だ。なにやら「名家」の息子らしい。それが落ち着かなくて、アルコールに逃げている。一方で、マリフアナを勧められると、自分はとんでもないことになりそうだというような自制心を見せたりする。結局、吸ってしまうけれど。そして、ある保守的な土地で(名前は忘れた)、三人は「型にはまらない自由」が嫌いな土地の人に襲われる。三人のうち、「名家出身の弁護士」であるジャック・ニコルソンが死んでしまう。
 これもなにやら象徴的。実際に死ななくても、結局、名家の世界から「追放」されることになるだろうなあ。
 私はジャック・ニコルソンの大ファンだが、このころから「矛盾」を内に秘めた役どころを得意としていたのか、とてもおもしろかった。ジャック・ニコルソンの肉体が具現化した世界が、その当時のアメリカを如実にあらわしているのだと思った。酒を飲む自由はある、酔っぱらいはまだ許容されている。しかし、マリフアナのような新しい自由はだめ。バイクに同乗するとき、「ヘルメットを持っているか」といわれて、アメリカン・フットボールのヘルメットを持ちだしてくるところなんか、いかにもアメリカの「規律的自由」を引きずっている。
 私は、デニス・ホッパーをそんなに見ていないが、「主役」をピーター・フォンダにゆずって、ちゃらちゃらしている感じがおもしろくて、とても好きになった。ジャック・ニコルソンの使い方もおもしろいし、映像的に、ただほうりだしたような広大なアメリカ大陸と、ときどきパパッと時間が交錯するような風景(夕暮れと夜の風景が瞬間的に交錯するような世界)のとらえ方もいいなあ、と思う。
 再映(リバイバル)は何回かあったかもしれないが、私は、スクリーンで見るのは初めて。私は音楽には疎いのでよくわからないが、当時は時代を切り開く音楽だったのだと思う。きっと若者には刺戟的だったろうと思う。 (午前10時の映画祭11の一作)


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スタンリー・キューブリック監督「時計じかけのオレンジ」(★★★★★)

2019-10-07 20:26:15 | 午前十時の映画祭
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マルコム・マクドウェル,パトリック・マギー
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スタンリー・キューブリック監督「時計じかけのオレンジ」(★★★★★)

監督 スタンリー・キューブリック 出演 マルコム・マクダウェル

 「暴力」とは何なのか。この問題を考えるとき、まっ先に思い浮かぶのがこの映画。暴力描写がとてつもなく美しい。しかし、同時に、隠れさている暴力が、とてつもなく醜い。ふたつのものがぶつかりあっている。
 冒頭の老人に対する暴力は冷酷だ。冷酷としか言いようがないが、これは私が被害に遭う老人の年齢に近づいたせいか。このシーンは、美しいとも醜いとも感じない。ありふれた暴力だ。これは私が暴力というものになれてしまった、感覚が麻痺しているということか。
 しかし、次の廃墟になった劇場での対立グループとの格闘は、ほんとうに美しい。わくわくする。音楽が鳴り響き、まるでバレエである。このままずっとつづいてくれたらいいのに、と思う。
 これは、私のなかの「いかがわしい」感覚である。「いかがわしい」快感である。そうわかっているが、この美しさを私は否定できない。あんなふうにして、自分の肉体の中にあるものを外に出してしまいたいという欲望を刺戟される。セックスよりも、もっと快感だと思う。
 それにつづく郊外の作家の家でのレイプも、不謹慎といわれるかもしれないが、美しい。体にはりついた赤い服。おっぱいの部分を鋏で切ると丸い穴があく。そこにおっぱいがはみ出る。丸い穴を押し広げるようにして。女性は被害者なのに、まるでおっぱいが暴力をふるっている、世界をかきまわしているという錯覚に陥る。つまり、じわーっと自己主張してくるおっぱいなんかに負けないという欲望がマルコム・マクダウェルを突き動かしている感じが、まるで私自身の欲望のようにわかるのである。
 グループの主導権を奪われそうになったマルコム・マクダウェルがテムズ川沿いを歩きながら、三人と戦うシーンもいいなあ。スローモーションが美しい。サム・ペキンパーから盗んだのか。いや、違うな。やっぱり、バレエなのだ。音楽と一体の動きなのだ。
 この、少年のわかりやすい暴力だけではなく、陰湿な、つまり見えにくく暴力、隠された醜い暴力も丁寧に描かれる。
 強制更生の拷問(?)もすごいが、まだマルコム・マクダウェルに手を下す場面が直接描かれているので、「半分見える」感じが、醜さを見えにくくしている。強制更生を終えた後、マルコム・マクダウェルが警官になった元の仲間に殴られ、かつて女性をレイプした作家の家にたどりついてからの部分がぞくぞくする。最初は、あのときの少年とは作家は気がつかない。作家は強制更生に反対しているので、マルコム・マクダウェルを利用しようとする。その過程で、マルコム・マクダウェルが「雨に唄えば」を歌っているのを聞き、あのときの少年と気がつく。復讐を思いつく。このときの表情がなんとも不気味である。暴力の犠牲者であり、暴力を否定している。その暴力の否定は強制更生という暴力に対しても向けられているのだが、自分の肉体の中から燃え上がってくる暴力の欲望をおさえきれない。でも、実際に手を下すわけではない。殴るとか、蹴るとか、という直接的な暴力をふるわない。だから見えにくく、醜い。(醜いは、見にくい=見えにくい、から派生したことばか、と思ってしまう。)強制更生のときつかわれたベートーベンの第九がマルコム・マクダウェルを苦しめると知って、音楽を大音響で鳴らすのだ。これは、愉悦なのか、苦痛なのか、よくわからないまま私の肉体の中に入り込む。マルコム・マクダウェルが苦しんでいるだろうと想像する作家の、手を下さない暴力の残忍さに、不思議な快感を覚える。醜さに、こころをひっかきまわされる快感というものもあるのだ。
 さらに、さらに。
 強制更生プログラムを指示した閣僚が、第九に苦しみ自殺しようとしたマルコム・マクダウェルを尋ねてくる。そして、マルコム・マクダウェルに、強制更生プログラムのせいで政権が倒れないように協力してくれ、と申し込む。これも非常に醜い。権力にしかできない「暴力」の醜さがある。なんだか、すっごくご都合主義な政治がらみの暴力に、しかし、マルコム・マクダウェルはどうも協力するらしいのである。協力しながらどんな形で復讐するのか、それは描かれていないのだが、何を思っているのかわからない不気味さのまま映画が終わる。この暴力性にも、なんだか圧倒される。暴力がこんなに醜くていいのか、と思ってしまう、と言えばいいのか。
 でも、これは正直な「最後の感想」ではない。
 約三〇年ぶりに見直してみて、「あれっ、最後は、こうだっけ?」と、私は実は驚いたのである。私は、「強制更生」から復活し、元の暴力的な少年にもどったマルコム・マクダウェルが街で暴力をふるっている(あるいは、仲間を連れ歩いている)シーンが最後にあったように記憶している。その最後の幻のシーンは、三〇年前の私の欲望だったのか。その欲望を私はいまでも覚えているのか、ということにも驚いたといいなおすこともできる。私は「美しい暴力」が、人間らしい「肉体」をつかった暴力が復活してくることを祈りたい気持ちなのである。

 今回見た映画の「結末」に、私は驚いた、とも言える。私の三〇年、何があったのかなあ、とも思ったりした。
 そして、最後に。
 この三〇年でいちばん変わったのは「性」の描写である。最初に書いた暴力バレエの前には、対立グループの女性をレイプするシーンがあるのだが、そのとき女性の性器(陰毛)が映る。三〇年前は、ぼかしというか、引っかき傷が入っていて見えなかったものが見えるようになっている。作家の家でのレイプも同じだ。日本での「性描写」の許容範囲は、そこまで広がってきた、ということになる。
 そういうことを思いながら、では、「暴力」に対する感覚はどれくらい変化しただろうか、と考えるとなかなかむずかしい。

 と書いて。
 なんだか、まだ書き漏らしたことがある、と私は思う。まだ書きやめるな、と私のなかの誰かが言っている声がする。
 だから、ちょっと映画からずれるが、書いておく。
 私は先日「ジョーカー」を見ながら、最近の「嫌韓のうねり」を思い出していた。「嫌韓派」の中心に「ジョーカー」はまだ存在していない。「嫌韓派」の動きは、何か自分の中に鬱積しているものを吐き出したいという欲望だけで成り立っている感じがする。行動の基準は「嫌韓」というだけである。「ジョーカー」はほかにいる。それは、もう誕生しているとも感じる。この「ジョーカー」は世間にあふれる「嫌韓派」のなかにではなく、外にいるという感じが、非常に、嫌韓派のひとたちのことばを醜くしている。
 そういうことをいちばん感じるのは、嫌韓派のひとたちが韓国人の行動や韓国政府の行動を批判する一方、「平和憲法では日本は守れない。中国、北朝鮮、ロシアが日本を攻撃してきたらどうするのか」と主張することである。戦争を抑止するためには核武装が必要だという人までいる。
 この「論法」になぜ醜さを感じるか。「幼い」からである。
 戦争が実際にあったとき、いちばんの武器は「拳銃」とか「戦車」とかではない。「土地」である。どこまで「占領」しているか。つまり、「陣地」はどこまでか。「領土」が問題になる。土地があれば、そこに「基地」をつくれる。戦争の拠点である。だからこそ、ロシアは北方四島を日本に返そうとしない。中国は尖閣諸島を中国の領土だと主張する。
 そのことを考えるなら、中国、北朝鮮、ロシアが日本を攻撃してくるとき、韓国は、その「前線基地」をになうことになる。中国も北朝鮮もロシアも、まず陸続きである韓国を支配し、そこを足場に日本への攻撃をしかけるだろう。逆に言えば、韓国が韓国として成立しているかぎり、日本の脅威はずいぶん弱まる。これはアメリカの世界戦略とも関係している。アメリカが米韓同盟を結んでいるのは、そのためだ。韓国に米軍が基地を持っているかぎり、中国、北朝鮮、ロシアを牽制できる。同じように、韓国に米軍があるかぎり、米軍は中国、北朝鮮、ロシアを牽制できる。その結果として日本は危険を回避できる。韓国は日本にとってもとても重要なのだ。嫌韓などと言っていたら、言うだけ中国、北朝鮮、ロシアからの「脅威」は強くなる。それに気づかずに、嫌韓派のひとたちは安倍の「嫌韓」というかアジア蔑視に利用されている。そこに「無知の醜さ」を感じるのだ。
 だれの中にも「暴力性」はあると思うが、その「暴力性」を権力に利用されている。それに気づかないというのは、暴力の醜さ以上に、もっと醜いものを持っている。あるいは考えない人間の醜さを利用して、嫌韓をあおる権力の智恵の醜さにぞっとするといえばいいのか。実際に手を下さない醜い暴力(見えにくい暴力)が絡み合って、醜さを増幅させている。
 「時計じかけのオレンジ」の奇妙な終わり方を見て、ふいに、そういうことを思ったのだ。もし私が三〇年前に見た「幻のラストシーン」だったら、そういうことは思わなかったかもしれない。暴力がはっきり目に見えるものだったら、こんなことは感じなかったかもしれない。
 個人の暴力を利用して、権力は動いている、権力はいつでも個人を利用するだけだというようなことを考えてしまうのである。安倍はきっというだろう。「私は嫌韓派ではない。しかし多くの人が韓国を嫌っている。私は多数派に従ったのだ」と言って逃げるのだ。「私ではなく、官僚が勝手にしたことだ。私は知らない」という醜い手法だ。安倍の手法は、いつでも醜さだけで成り立っている。

 ここまで書いて、私はあらためて「ジョーカー」の悪の美しさを思い出すのだ。ジョーカーは、明確な個人である。個人が、個人をないがしろにする社会に対して怒り、暴力を生きる。それは美しい。自分自身の「悲しみ」を出発点としているからだ。
 しかし、権力の暴力は醜い。安倍は、せいぜいが「民主党政権時代、自分への企業献金が少なかった」という国民とには無縁の「悲しみ」しか持っていない。憲法を改正して、戦争をしてみたいという「欲望」しかもっていない。なぜ、戦争をしたいか。戦争になれば、みんな戦争を指揮する人間に従わないと生きていけないからである。独裁と戦争は一体になっている。こんな安倍に「嫌韓派」のひとたちは、あおられている。
 あおる方も、あおられる方も、醜い。

 (2019年10月07日、中洲大洋スクリーン2)

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ルキノ・ビスコンティ監督「ベニスに死す」(★★★★)

2019-09-23 07:42:54 | 午前十時の映画祭
ベニスに死す [DVD]
ダーク・ボガード,ビョルン・アンドレセン,シルバーナ・マンガーノ,ロモロ・ヴァリ
ワーナー・ホーム・ビデオ


ルキノ・ビスコンティ監督「ベニスに死す」(★★★★)

監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 ダーク・ボガード、ビヨルン・アンデレセン、シルバーナ・マンガーノ

 この映画の見どころは、三つ。
 ①ビヨルン・アンデレセンの美少年ぶり。確かに切れ長の目、細面の顔、透明な肌と美少年(少女マンガ風)なのだけれど、よく見ると口角が下がり気味。ソフィア・ローレンタイプ。つまり完璧ではない。それが逆に美少年という感じを作り上げている。つまり、観客の目は少年の口元を避けて、あの切れ長の目に集中する。流れるようにカールした髪が、それを隠そうと揺れ動くから、なおさら神経が少年の目に集中する。その切れ長の目で、ダーク・ボガードに流し目をする。どこまで意識しているのかわからないが、ダーク・ボガードが見つめているということ、その視線だけはしっかり意識している。それで、海水浴場へつづく通路のポールに手をかけて、くるり、くるり、くるり。三回もダーク・ボガードを誘うのだ。
 ②ダーク・ボガードの表情の変化。これはもう、なんというか。よくまあカメラの前でこんなあからさまな表情ができるものだ、と感心する。私が特に気に入っているのが、ビヨルン・アンデレセンの誘惑(?)を振り切ってドイツに帰るつもりが、駅に着いてみると荷物が手違いで別の場所へ行っている。それを口実に帰国するのをやめてホテルに引き返すときの表情の変化。駅の係員たちに怒りをぶちまけながらも、「よかった、これでドイツに帰らなくてもいい。ホテルにもどれる」と思う。「どいつに帰ったのでは?」と人に聞かれても「いや、荷物の手違いで」と言える。「少年に会いたくて」と言わずにすむ。その「ことば」にならない欲望、いや、ことばにしたいあれこれ、喜びが顔に表れてくるところ。実際、何も語らないのだけれど、ダーク・ボガードが頭の中で繰り返している「ことば」が聞こえてくる。「顔に書いてある」というのは、こういうことを言う。
 こういう相手のいないところで、相手がいないからこそ見せてしまう感情の輝きというのは、まあ、誰でもしてしまう顔なのだろうけれど、それをカメラの前でできるということがすごい。人と目をあわせて、人の力を借りてこころを動かすのではなく、カメラに向けてこころをさらけだすんだからねえ。こういう顔を見ると、この表情(その一部)を、ダーク・ボガードはビヨルン・アンデレセンと目が合うたびに見せていたんだろうなあ、とも思う。それは、スクリーンには映し出されないのだけれど、そうであったに違いないと感じさせる。ひとつの「顔」が、「いま」だけではなく「過去」にさかのぼるようにしてスクリーンの奥で輝くのだ。
 砂浜でビヨルン・アンデレセンが少年と砂じゃれ合うのを見たあと、ダーク・ボガードが自分の頬を指で触るシーンもすごいなあ。セックスをしているわけではないのだが、ものすごくエロチックだ。そこではダーク・ボガードはビヨルン・アンデレセンに触っているというよりも、少年に触られたビヨルン・アンデレセンになっている。そして同時にダーク・ボガードに触られたビヨルン・アンデレセンにもなるのだ。そうか、恋をするというのは、その瞬間に自分が恋する相手になってしまうということなのだ。「君の名でぼくを呼んで、ぼくの名で君を呼んで」だったか、奇妙なタイトルの映画があったが、「あ、あれは、こういうことだったのか」と今になって思い返すのだった。
 で、この自他の区別がなくなる統帥感覚が、後々まで尾を引いてしまう。ダーク・ボガードはビヨルン・アンデレセンではありえない。「美形」の度合いも違うが、何よりも「年齢」が違う。おそろしいほどの隔たりがある。深淵がふたりの間に横たわっている。「老い」は残酷である。知っているくせに、床屋で髪を染められ、ヒゲをととのえられ、化粧する。口紅と頬紅、アイシャドー(?)までつける。旗から見れば醜悪(悪趣味)なのだけれど、ふっと、見せ掛けの「若返り」酔ってしまう。そのときの陶酔が、あ、これは怖いなあ。淀川長治なら「こわいですね、こわいですね、こわいですね」と言うだろうなあ。もう引き返すことのできない「悲劇」へ進むしかない。
 そのあとのあれこれは省略して。
 ③ビスコンティと言えば、豪華な映像美。貴族にしか出せない味。それは最初の方、ホテルの夕食前の、客がラウンジに集まっているシーンに象徴される。みんな着飾っている。女性陣は豪華な帽子をかぶっている。(いまなら、食事中にあんな帽子はかぶらないだろうなあ。)一人一人は豪華なのだろうけれど、集まるとうるさい。ごちゃごちゃして「汚く」なるはずなのに、妙に競合しない。おしゃべりの雑音とか、一人一人のくつろぎ方とかが、個を守っている。豪華なまま独立している。美しい花瓶や花が、人間の固まりを区切る仕切りのような働きをしている。これはシスティナ礼拝堂の壁画と同じ。なぜ、こんなことが可能なのか。和辻哲郎の受け売りだが、ローマ帝国は「分割自治」によって世界を支配した。「自治」をそれぞれの都市にまかせてしまった。だからこそ、フィレンツェのようなとんでもない都市が誕生するのだけれど、その歴史が「芸術」に反映している。ばらばらでありながら、争いあわないのだ。どこかで「区切り」をつくり、その「区切り」のなかに「ひとかたまり」をおさえてしまう。こういう感覚というのは、きっと「生まれつき」というか、民族の「血」なのだろうなあ。日本人には、あういうシーンは撮れないと思う。「空気」を読んでしまう日本人は「区切り/枠」を抱え込みながら「世界」になることができない。「シンプル」にはなれても「豪華」にはなれない。

 不満は。
 これは映画館のせいなのかもしれないが、デジタル版のはずなのに、映像がシャキッとしない。色も記憶の方が鮮やかで、スクリーンに映し出されたものは、どうもよろしくない。音も、妙に「雑音」っぽい。マーラーの、いつ終わるともない音楽が、あ、早く終わってくれないかなあと思うくらい、ざわざわしている。
 他の映画館で見れば違う印象になるだろうと思う。
 (中洲大洋スクリーン2、2019年09月22日)
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フランシス・フォード・コッポラル監督「ゴッドファーザー」(★★★★★)

2019-05-28 10:07:17 | 午前十時の映画祭
フランシス・フォード・コッポラル監督「ゴッドファーザー」(★★★★★)

監督 フランシス・フォード・コッポラ 出演 マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ジェームズ・カーン、ロバート・デュバル、ダイアン・キートン

 語り尽くされた作品。私も何度か感想を書いた。もう書くこともないのだけれど、スクリーンで見る機会はもうないだろうから、少しだけ書いておく。
 とても手際のいい作品。いくつものエピソードがとても自然に組み合わさっていて、なおかつ、それぞれのシーンでの人物の描き方がしっかりしている。ストーリーの要素として動いているというよりも、そこに人間がいる感じがする。
 今回特に感じたのがダイアン・キートンの出てくるシーン。アル・パチーノと一緒に、アル・パチーノの妹(姉?)の結婚式へやってくる。幼稚園だか、小学校の先生なので、「ゴッドファーザー」一家の雰囲気になじめない。その「違和感」をさりげなく、しかし、しっかりとスクリーンに定着させている。カメラアングル、フレームのとり方に力がある。浮いていない。結婚式の片隅で、そこだけ違った世界になっている。アル・パチーノは状況がわかっているから、いわば「秘密」を隠す感じの演技をしている。ダイアン・キートンはアル・パチーノにあれこれ質問をする。ダイアン・キートンが「攻め」の演技、アル・パチーノが「受け」の演技ということになるのかもしれないが、ダイアン・キートンが演じると逆になる。「秘密」というか「違和感」に気づきながら、アル・パチーノに声をかけるのだが、それが「受け」になっている。質問攻めなのだが、答えが返ってくるのを受け止めるという印象が強い。アル・パチーノの「苦悩」が引き立つ。
 一家の秘密を知り、さらにアル・パチーノが雲隠れしたことを知る。そのアル・パチーノの行方をたずねてくるシーンも好きだなあ。ロバート・デュバルが相手をし、「手紙を受け取ると、どこにいるか知っていることになるから受け取れない」と言われて、書いた手紙をそのままもって帰る。このときの、「組織対個人」というと大げさになるかもしれないが、「個人」の悲しみのようなものが、ふっとのぞく。アル・パチーノの妹の悲しみ、絶望の表現と比較すると、「個人」という感じがわかると思う。アル・パチーノの妹は夫の浮気に苦しんでいるが、彼女には「一家」がある。けれど、ダイアン・キートンには「家族」がない。「家族」になるはずのアル・パチーノは、どこかに隠れたままだ。もう一人の主要な女性、アル・パチーノが逃亡した先のシチリアの娘と比較しても同じことが言える。彼女にも「一家」がいて、さらに親類もいるのに、ダイアン・キートンは一人。「個人」としてアル・パチーノ「個人」に向き合っている。その「線の細さ」、なんとかつながりを引き寄せようとする感じが、情報を求めてロバート・デュバをたずねていく短いシーンにも、しっかりと表現されている。この時のフレームというか、全体の構造も好きだなあ。
 アル・パチーノがシチリアから帰って来て、幼稚園で目をあわせるシーン。公園を歩くシーンもいい。
 何よりも、ラストシーン。アル・パチーノが「ゴッド・ファーザー」になる瞬間を隣の部屋から見てしまうシーンもいいなあ。ダイアン・キートンは「一家」にはなれない。アル・パチーノと一緒に生きるけれど、「一家」にはなれず「個人」として生きている感じがとても象徴的に表現されている。ダイアン・キートンが頼りにするのは、最初から最後まで、彼女自身の、「個人」の感覚だ。「個人」であるからこそ、苦しい。「一家」にはなれない悲しさがある。
 そして奇妙なことだが、この「個人」でしかないことの苦悩、絶望が、もしかすると「ゴッド・ファーザー」という「組織」を生み出していく要素だったかもしれないとも思えてくる。マーロン・ブランドが「ゴッド・ファーザー」になれたのは、アメリカに移住してきて(移民としてやってきて)、「個人」であることを知らされた結果、「個人」の限界をのりこえようとして手に入れたのが「組織」だったかもしれないとも感じさせる。こういう見方はロマンチックすぎるだろうけれど、ロバート・デ・ニーロが若い日のマーロン・ブランドを演じた「パート2」を思い出してしまうのである。ほんとうに求めているのは「組織」ではなく「個人と個人」のつながり。それが「集団と個人」に変わってしまうとき、ひとは、それとどう向き合うか。
 「ゴッド・ファーザー」はいわば「男の映画」だけれど、そこに差し挟まれた「女」の部分が、とても切なく感じられる。
 こういう感想になってしまうのは、ひとつには公開当初衝撃的だった殺しのシーン(暴力シーン)がいまは「ありきたり」になってしまって、そこに目が向かなくなっているからかもしれない。首を絞められた男が車のフロントガラスを蹴り破ってしまうシーン、そのガラスの割れ方など夢に見るほど美しく、あのシーンをもう一度見に行きたいと思ったくらいだったけれど。ジェームズ・カーンの車が高速道路の入口で蜂の巣になるシーン。アル・パチーノがレストランで二人を銃殺するシーン。いまでも、ほんとうに大好きだけれど。
 (午前十時の映画祭、中洲大洋スクリーン3、2019年05月18日)
ゴッド・ファーザー (字幕版)
フランシス・フォード・コッポラ,マリオ・プーゾ,アルバート・S・ラディ
メーカー情報なし
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スティーブン・スピルバーグ監督「ジョーズ」(★★★★+★)

2019-04-24 20:53:30 | 午前十時の映画祭
スティーブン・スピルバーグ監督「ジョーズ」(★★★★+★)

監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 ロバート・ショウ、ロイ・シャイダー、リチャード・ドレイファス

 この映画で見たいシーンは、やっぱり最初の、若い女性がジョーズに襲われるシーン。冒頭の海中のシーン、あの音楽がいったん中断し、浜辺の若者集団(ヒッピー? いま、このことばを知っている人が何人いるか)のシーンがあって、女が海に入ると再び音楽、ズーン、ズーン、ズンズンズンズンズンッとスピードがあがってくる。いやあ、わくわくしますねえ。
 この女を海中から撮るときは、女はなぜかバック(背泳)で泳いでいる。これって、性器が映らないようにって、ことなんだけれど。こういう「遊び」のシーンが、1970年代の映画には必要だったんだねえ。そのころは私も若かったから、一種の「わくわく」感で見たことは確かなので、悪口は言えないけれど。
 で、そのあと。
 ジョーズが女性を襲う。ここ、問題は、ここ。変でしょ? あのジョーズに噛まれて、女が異変に気づく。それが、最初はまるで小さい魚に足の指でもつつかれたような感じ。それから噛まれていると気づく。こういうとき、何が噛んだか、それを見るのがふつうだけれど、女は見ない。見ないまま、助けを求める。その助けを求める女の上半身が水上を左右に走る。ジョースがひっぱり回している。こういうことって、ある? あの巨大なジョーズが、ぱくっ。女の体は一気に噛みちぎられそう。とても「助けて」なんて、叫んでいる暇はないし、その女の体をわざわざ水上に見えるようにジョーズがふりまわすなんてこともありえない。
 と、いいながら。
 見たいのは、ここなんだよなあ。こんなシーン、映画でないと見られない。泳いでいた女が突然見えなくなる、というのではぜんぜんおもしろくない。推理小説ではないのだからね。
 ありえない、でも、女の方からすれば、こうでしかない。即死かもしれないけれど、ジョーズに襲われた、えっ、どうしよう、助けて、早く助けて、助けてくれないと死んでしまう。必死に叫んでいる。きっと、それはとてつもなく長い時間。その「ありえない切実な時間」を、観客は、自分は大丈夫、映画を見てるんだからと半分安心しながら、自分こと、自分の恐怖として体験する。
 そして、女が水中に引き込まれたあと、なんとなく安心する。半分安心ではなく、完全に安心する。さあ、映画がはじまるぞ、と思いなおすといえばいいのか。

 見るものを見てしまうと、あとは、余裕(?)で見てしまうというか、半分よそ見をしながら映画を見てしまう。
 そしてよそ見をしながら気づいたことがある。
 この映画では「眼鏡」が以外に働いている。ロイ・シャイダーとリチャード・ドレイファスが眼鏡をかけているが、もうひとり、二番目の犠牲者になった少年の母親がやはり眼鏡をかけている。それに対してロバート・ショウと市長が眼鏡をかけていない。ここに「キャラクター」が反映されている。眼鏡をかけている登場人物は、舞台の「島」からみると「部外者」、よそ者。少年の母親は島の住民だが、息子がジョーズに殺されたことによって、島の住民からは違った立場になってしまった。彼女は「守られる人」から「守る人」になった。「島を守るための人」が眼鏡をかけているのだ。島の人ではない、という「アイデンティティ」のようなものだ。
 ロバート・ショーは「守る人」なのに眼鏡をかけていない、と反論する人もいるかもしれないが、彼はまた「立場」が違う。ロバート・ショーは島を守っているのではなく、自分を守っている。鮫に復讐するために戦っている。島の人を守りたいからではない。もうひとりの眼鏡をかけていない重要人物、市長もまた自分を守っている。保身のために行動している。人食い鮫があらわれた、ということでバカンス客がやってこなくなれば、島の経済は成り立たない。それでは市長の職を奪われてしまう。関心は住民、バカンス客の安全ではなく、自分の「地位」。
 このあたりの「細工」がなかなか手が込んでいておもしろい。ロイ・シャイダーがジョーズ退治にゆくとき、妻がちゃんと「予備の眼鏡は靴下といっしょに入れてある」というようなことをさりげなく言うのもいいなあ。ロイ・シャイダーが泳げないという設定も、「よそ者」を強調していておもしろい。
 それから。
 このころのスピルバーグは、小柄な役者が好きだったんだねえ、と思ったりした。ロバート・ショウ、ロイ・シャイダー、リチャード・ドレイファスは三人とも小さい。小さいと、なんというか、「人間(役者)」がスクリーンを動かしていくというよりも、「ストーリー(映像の変化)」がスクリーンを動かしていくという感じになる。役者のダイナミックな表情や動きにひっぱられてスクリーンに釘付けになるという感じではない。「未知との遭遇」のトリュフォーも小柄だった。「インディ・ジョーンズ」のハリソン・フォードは小柄ではないかもしれないが、存在感が薄っぺらい。リーアム・ニーソンとか、ダニエル・デイ・ルイス、トム・ハンクスのような大柄な役者をスクリーンに定着させる技術をまだ確立していなかったのかもしれない。スピルバーグがどんな役者をつかってきたか、それを辿りなおすことでスピルバーグのやっていることが、また違って見えてくるかもしれない。
 見落としてきたスピルバーグの発見という意味では、制作しているという「ウエストサイド物語」に、私はとても期待している。音楽とスピルバーグは、どう向き合うのか。バーブラ・ストライザンドが「イエントル」を監督したころ、どこかで二人が目をあわせ、そのとき火花が散ったというような記事を読んだ記憶がかすかにあるが、そのころから「音楽」を映画にすることに関心があったのだろうか。「ウエストサイド」の音楽は変えようがない。それを、どう使いこなすのか。私は、わくわくを通り越して、実は、ドキドキしている。見たい。

 (午前10時の映画祭、2019年04月23日、中州大洋1)


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スティーブン・スピルバーグ監督「未知との遭遇」(★★★★★)

2019-04-11 20:50:24 | 午前十時の映画祭
スティーブン・スピルバーグ監督「未知との遭遇」(★★★★★)

監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 リチャード・ドレイファス、フランソワ・トリュフォー

 「午前10時の映画祭 10」のオープニング作品。(「ジョーズ」の映画館もある。)
 この映画で見たいシーンは、ただひとつ。巨大な宇宙船が山を越えて姿を現わす。船体を飾る光が美しい。「満天の星」を凝縮し、色をつけた感じ。それだけでも驚くが、その宇宙船が着陸するとき、船体の天地がひっくりかえる。最初に見たときは、椅子に座ったまま自分が後ろへデングリ返ったんじゃないか、と思うくらいのけぞってしまった。何度見ても、びっくりする。
 そうだよなあ。宇宙は「無重力」。天地も左右も関係ない。
 「レ・ミ・ド・ド・ソ」の音楽をつかった交流も大好きだなあ。音楽のなかにある「数学」(アルキメデスだったっけ、現在の音階を確立したのは)が和音になってかけゆけてゆく。もしモーツァルトがこの映画を見たら、どんな音楽を生み出すだろうと、とても気になる。
 この映画に「不満」(物足りないもの)があるとするなら、この音楽の交流に「素人(一般人)」がからんでくる要素が少ないこと。幼いバリーが唯一、木琴で音楽を再現するけれど、主役のリチャード・ドレイファスたちはみんな「山のイメージ」にひきつけられてやってくる。一種の「テレパシー」のようなものの働きなんだろうけれど、これって受け止める方は「イメージ」としてわかるのだけれど、周りにいる人にはわからない。「音楽」は「頭」のなかにあるだけではなく、耳に聞こえるものとして「頭」の外にも存在する。(バリーは、インドのひとたちのように直接聞いたのではなくテレパシーで聞いたのかもしれないが)
 見えないものが存在し、その存在と「音楽」をとおして交流する。その「愉悦」。それに導かれて山を目指してやってくる人がからむと、もっとおもしろくなると思う。科学者が「音楽」を計算して交流するのではなく、化学とは縁のない「素人」が「数学」を頼りに分析するのではなく、耳の直感で交流する、という具合に展開すると、わくわく、どきどきは、うーん、エクスタシーになるぞ。

 で、突然、話題を変えるが。
 スピルバーグが「ウエストサイド」を撮るとか。どうなるかなあ。歌と踊り。その官能がスクリーンを突き破るか。
 スピルバーグは、映像そのものに「愉悦」があるが、音楽はどうなんだろう。音楽が印象に残る映画を思い出せない。「太陽の帝国」の少年の歌について、私は何か書いた記憶があるが、ほかに何かあるだろうか。
 「リンカーン」は「声のドラマ」という印象がある。
 「音楽」が「主体」となって映画をリードしていくというのはないような気がする。

 で。
 映画にもどるが、あとはあまり書くこともない。リチャード・ドレイファスの「こどもっぽい」肉体感覚が、ある意味ではこの映画を支えている。フランソワ・トリュフォーも肉体が小ぶりで、そうか、この映画は「こども(の感性)」が主役、純粋なこころが「未知」を体験できるという映画なのか、とあらためて思った。
 山の箱庭(?)はつくれないけれど、シェービングクリームで山をつくるシーンはまねした記憶があるなあ。映画で見たことを、そのままやってみたい、というのはいい映画の「証拠」のようなもの。「映画ごっこ」のよろこびがあるね。

 (午前10時の映画祭、2019年04月09日、中州大洋3)



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ジョージ・スティーブンス監督「ジャイアンツ」(★★★★)

2018-11-29 10:27:13 | 午前十時の映画祭
ジョージ・スティーブンス監督「ジャイアンツ」(★★★★)

監督 ジョージ・スティーブンス 出演 エリザベス・テイラー、ロック・ハドソン、ジェームズ・ディーン

 冒頭のシーンが好きだ。牛の水飲み場。牛が遠くからやってくる。その牛の膨大な数、膨大な数の牛が徐々にスクリーンを埋めていく感じが、なんともすごい。いまならCGで映像にしてしまうかもしれないが、あの時代はカメラを据えて、集まってくる牛を待っている。その「時間」のかけ方がていねいだ。
 それからロック・ハドソンを載せた列車が走る。野原には馬をつかって狩りが行われている。「時間」が交錯する。「過去」と「現在(未来)」がぶつかりながら動いていく。それが自然に表現されている。これは、そのまま映画のテーマになっていく。
 農場と石油。過去と未来がぶつかり、未来が現在を破壊していく。破壊していくというと語弊があるかもしれないが、未来(石油)の方が支配力を強めていく。新しいものが古いものを破壊し、さらに巨大になっていく。
 でも。
 ほんとうは、そうではない。「過去」はいつでも「現在/未来」に対して反逆してくる。復讐してくる。ひとは「過去」を忘れることができない。このドラマをジェームズ・ディーンが好演している。あ、うまいなあ、と感心した。
 ロック・ハドソンがそうであったように、ジェームズ・ディーンもエリザベス・テイラーに一目惚れする。でも、そのときはすでにエリザベス・テイラーはロック・ハドソンの妻になっている。しかもロック・ハドソンはジェームズ・ディーンの使用人なのだ。最初から不可能な恋に恋してしまうのだ。かなえられない恋なのだ。エリザベス・テイラーを見た瞬間の、鬱屈したジェームズ・ディーンがとてもいい。ロック・ハドソンとエリザベス・テイラーが恋に落ちる瞬間は、誰の目にもはっきり見える。まわりのひとが気づく。けれどジェームズ・ディーンの恋は、観客は気づいても、他の登場人物は気づかない。他の登場人物には、恋を隠しているからである。
 これは、なかなか手が込んでいて、おもしろい。昔の映画は、こういうことをていねいに描いていたのだ。
 で、鬱屈した恋だから、復讐も鬱屈している。ジェームズ・ディーンは遺言で手に入れた土地から石油(油井)を掘りあて、成り金になっていく。ロック・ハドソンの「使用人」から脱出し、ロック・ハドソンとエリザベス・テイラー、さらにその家族を支配するというと大げさだが、強い影響を与える。だれもジェームズ・ディーンに逆らえない。だれも逆らえないのだけれど、ジェームズ・ディーンはいちばんほしかったエリザベス・テイラーを手に入れることができない。
 いまなら違った展開、違った人間模様が描かれるのだと思うが、昔の映画なので、愛は「恋愛」ではなく、「家族」へと収斂していく。その「収斂」のなかに、人種差別(メキシコ人差別)が組み込まれていくところが、当時としてはきっと「新しい」要素、「革命的」な要素だったと思う。
 私はエリザベス・テイラーを美人だと思ったことはない(目が嫌いだ)し、ロック・ハドソンも演技がうまいとは思わないが、なんというか、そこにただいるだけ、ストーリーになっているというだけの「存在感」のいい加減さ(?)が、不思議なことにいい感じだ。冒頭に触れた「牛の群れ」のような感じ。「牛」に個性はないのだが、それが世界にとけ込んでいる。最後の最後、エリザベス・テイラーがロック・ハドソンに惚れ直すのだが、その惚れ直し方が、私が「あの牛の群れはよかったなあ」というような感じに似ている。「自然」を発見するという感じとでも言えばいいのか。
 この「背景(人間の自然)」があるから、ジェームズ・ディーンの悲しい独白が胸に響く。ジェームズ・ディーンにしか似合わない鬱屈が切なく響く。こういう青春映画(?)は、もうつくられることはないだろうなあ、と思うと、私の「青春」はほんとうに終わったのだと感じる。でも、年金生活者になっても、やっぱり「青春」を感じたいなあ、とも思う。
 そういう人は多いのか、「午前10時の映画」に来ているのは、高齢者ばかりだった。「あれは、妹の方よ」とかなんとか、女性が一生懸命、連れの男性にいちいち説明していた。かなりうるさいのだが、こういううるささも、こういう映画を見るときは、ひとつの「味」になる。そういえば、昔、「寅さんシリーズ」を見ていたとき、単なる風景シーン、そこがどこであるかをあらわすシーンなのに「まあ、おいしそうなミカン」と後ろの席で話していたおばさんグループがいたなあ。家でテレビやDVDを見ていてはわからない「味」というものが映画館にはある。

(午前10時の映画祭、2018年年11月27日、中洲大洋スクリーン3)

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溝口健二監督「近松物語」

2018-11-14 17:35:15 | 午前十時の映画祭
溝口健二監督「近松物語」(★★★)

監督 溝口健二 出演 長谷川一夫、香川京子、進藤英太郎

 私が生まれたころの映画。
 長谷川一夫は「美形」として有名だが、私は実際に舞台では見たことがない。映画は何か見たかもしれないが記憶にない。
 で。
 顔が人形浄瑠璃の人形みたいだなあ、というのが一番の印象である。「美形」ではあるが、表情が動くというわけではない。その顔の中にあって、「目」だけは特別である。表情筋は動かないが、目は動く。そして、その目は長い睫毛で縁取られている。ほんものだろうか。付け睫だろうか。わからないが、ともかく「目」に引きつけられる。
 これに比べると(?)、香川京子は「人形」になりきれていない。見ていて、私の視線が散漫になる。
 こういう感想は、映画の感想にはならないか。あるいは映画の感想の「核心」をつくことになるのか。よくわからない。
 この「人形」みたいな顔の長谷川一夫は、動きも「人形」みたいである。あまり「肉体」を感じさせない。最初の登場シーン、風邪で寝込んでいるところなど、風邪の肉体をぜんぜん感じさせない。ただふとんの中で横になっていて、それから起き上がるだけ。しかし、これがなぜか印象に残る。
 見せようとしていない。存在感をアピールしない。物語のはじまり、状況説明、登場人物の紹介を、ただたんたんと果たしている。
 クライマックスは、香川京子との「心中未遂」のシーン。舟で琵琶湖に漕ぎだす。いよいよ入水という瞬間に、香川京子の気持ちが変わる。そして二人で抱き合う。舞台装置(?)は舟と水だけ。それが、とても美しい。三味線の音楽が、こころをかきたてる。そのこころを溢れさせるのではなく、ぐっと抑え込んで、肉体になる。こういうとき、人間の肉体というのは、もっと動くものだと思うが、あえて動かさない。形にしてしまう。それが、なんとも不思議な美しさなのである。
 芝居とは、芝居における役者の役割とは、役者が肉体を動かし感情を溢れさせることではなく、観客が意識の中で自分の肉体を動かすように仕向けることである、と心得ているのかもしれない。
 人形浄瑠璃を私は実際には見たことがないのだが、人形浄瑠璃の人形の動きは限られている。人形をあやつる人が三人。二人は黒い衣装で顔まで隠しているが、その三人の動きも観客は見てしまう。「声」は別の人間が演じている。物語のストーリーを語ると同時に、登場人物の「声」も出す。観客は、見聞きしているものを選択し、そのうえで自分の肉体に引き込む。
 うーむ。
 長谷川一夫は、この映画では、そういう人形浄瑠璃の「人形」そのものになって動いている、という気がする。
 とても「文学」っぽい。
 人形浄瑠璃をぜひ見てみたい、という気持ちにさせられる映画だった。
(午前10時の映画祭、2018年年11月11日、中洲大洋スクリーン3)


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アンジェイ・ワイダ監督「灰とダイヤモンド」(★★★)

2018-10-03 15:54:27 | 午前十時の映画祭





監督 アンジェイ・ワイダ 出演 ズビグニエフ・チブルスキー、エヴァ・クジイジェフスカ

 ドイツ降服直後のポーランド、抵抗組織に属した一人の青年の物語。ポーランドの歴史がわからないのだが……。ドイツが降伏したからといって、すぐに「平和」がやってくるわけではない。権力闘争が始まる。それが引き金となって物語が動いていく。
 見どころは、青年と女のセックスシーンかなあ。特に目新しい(?)セックスシーンというのではないのだが、ひとはいつでもセックスをするということを教えてくれる。ひとりでは生きていけない。「大儀」を生きるわけではない。
 どうしていいかわからなくなったとき、「生きている」ということを実感させてくれるのがセックスである。いや、「生きる」という欲望を引き出してくれるのがセックスである。「愛」はあとからやってくる。
 セックスしたあとのふたりがとてもいきいきしてくるのがいいなあ。
 セックスが、ふたりを「ふつうの生き方」にひきもどしたのだ。戦争も、抵抗運動もない、ふつうの生き方。もちろん「大儀」なんかは、ない。
 廃墟か、遺体安置所(?)か、よくわからないところで、「墓碑銘」を読む。そこにタイトルになっている詩が刻まれている。「燃え尽きた灰の底に、ダイヤモンドがひそむ」というようなことが書いてある。どういう意味なのか、ぱっと聞いただけではわからない。
 でも、「燃え尽きる」は「大儀」によって「燃え尽きる」ということだけではないだろう。映画は青年の行動を中心に描かれるので、青年が「大儀」にしたがって暗殺を実行し、その結果死ぬことがあっても、その行為のあとには「ダイヤモンド」のようなものが残される、ということだけではないだろう。
 青年が死んだあとにも、青年といっしょに時間を過ごしたという記憶は女のなかに残る。輝かしい青春の記憶だ。同じように、死んでゆく青年の記憶に最後まで残るのはセックスした女のことかもしれない。
 有名な洗濯したシーツを干した場所を逃走するシーン。青年がシーツを抱きしめるが、そのとき青年が抱きしめるのは、女の幻かもしれない。青年が死んでゆくとき、女の記憶もまた血に染まる。
 戦争が終わっても、若者は傷つきつづける。
 (午前10時の映画祭、2018年10月02日、中州大洋スクリーン3)
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小津安二郎監督「麦秋」(★★★★★)

2018-03-11 21:13:28 | 午前十時の映画祭
小津安二郎監督「麦秋」(★★★★★)

監督 小津安二郎 出演 原節子、笠智衆、菅井一郎、東山千栄子

 1951年の映画。私の生まれる前だ。原節子なんて、知るはずがないなあ。あ、「東京物語」では老人夫婦をやっている笠智衆、東山千栄子が、この映画では母と子(長男)か。うーむ。などと、うなりながら見ている。
 で、この映画も「東京物語」もそうなのだけれど。
 原節子というのは、美人で「透明」そうな印象だけれど、実際はとっても「不透明」というところに魅力があるんだろうなあと、改めて思った。
 映画の中で淡島千景が原節子を批評して「あなたって結婚したら(結婚するなら)、暖炉かなんかがある豪邸に住んで……」みたいなことをいう。「絵に描いた」純情なお嬢さん、というわけだ。
 映画の中ではどこかの会社の専務(?)の秘書か何かをやっているが、まあ、苦労している庶民ではない。そういう暮らしが似合っている。そういう暮らしをしていても「不自然」に感じさせない。美人は、とても得だ。
 それが淡島千景がいったような「縁談話」を振り切って、兄(笠智衆)の病院の同僚と突然結婚をすることになる。それも同僚の母(杉村春子)に、「あなたみたいな人が息子の嫁に来てくれたらどんなにいいんだろうと思っていた」という一言で決意する。
 もちろん映画では、一緒の電車で通勤するとき語り合うというようなシーンも「伏線」としてきちんと描かれているが、原節子がその男のことをほんとうに好きなのかどうかは、あまりはっきりとは描かれていない。「不透明」に描かれている。
 そのくせ、その「不透明」が「結婚(婚約)」というところに「結晶」すると、やっぱりね、と感じさせる。
 こういうことを、「演技」というよりも、「存在感」として、そのまま表現できるというは、やっぱりすごいと思う。
 倍賞千恵子は「演技」としてはできると思うが、「素材」としては無理かなあ。あ、私は若くて美しい時代の倍賞千恵子を知らないから、そう思うのかもしれないけれど。
 で、この原節子の「存在感」を考えるとき(感じるとき)、それが日本の「家」の構造と似ているなあとも思うのである。障子やガラス戸などがあるけれど、それは完全に締め切られてはいない。たいてい明け離れていて、ひとつの部屋が他の部屋とつづいている。風通しがいい。「秘密」がない。「秘密」をもてない、という感じがある。ある意味で「透明」。たとえば、台所で料理をしている。その姿は食卓から見える。だれがどの部屋へ行ったか、それが見える、という感覚。
 でも、そこでも人はプライバシーをもっている。「秘密」をもっている。
 象徴的なのが、笠智衆が、「おい、妹(原節子)の縁談話はどうなった」と妻と話すシーン。原節子が部屋を出て行くと、となりで寝ている笠智衆がふすまを開けて「おい」と問いかけ、原節子がもどってくるのを察知するとすーっとふすまを閉める。間に合わなくて半分あいているとき、原節子がそっとふすまを閉めて出て行く。
 「知っている」と「知らない」が、とても微妙である。
 その微妙な感じを「構造」として抱え込んでいるのが原節子なのだ。「日本の家」が原節子なのだ。
 これを小津安二郎は、畳に座ったときの人の「視線」の高さで、さらにしっかりと構造化する。
 原節子の大足(と、思う)が、その畳を大地のように踏みしめて歩くのは、なかなかおもしろい。
 (中洲大洋スクリーン4、2018年03月06日)


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ウディ・アレン監督「アニー・ホール」(★★★★★)

2018-01-17 11:45:09 | 午前十時の映画祭
監督 ウッディ・アレン 出演 ウッディ・アレン、ダイアン・キートン

 ウッディ・アレンとダイアン・キートン、なぜ別れたんだろうなあ。セラピーで、ウッディ「セックスは週に3回。少ないんだ」、ダイアン「セックスは週に3回。多いの」というのが二分割のスクリーンで展開される。このあたりが原因か。セックスしている途中で、ダイアンのこころがベッドから離れ、椅子に座ってふたりを眺めている、それにウッディが気づくというおもしろいシーンもある。
 こういうシーンに限らないが、いろんな場面で「ことば」が交錯する。ふたりの最初のデートでは、口で言っていることばと同時に、「こころの声」が字幕で表現される。つまり、のべつ幕なしで「しゃべっている」というのがこの映画だね。映画館の列で、後ろの男がうんちくをガールフレンドに語っているのをうんざりして聞いている、ついついダイアン相手にその男の批判をするとか、道行く人に「恋愛談義」をふっかける(答えを求める)というのも、まあ、ことば、ことば、ことばで人間の「多様性」を描いていて、おもしろい。うんざりする、という人もいるかもしれないけれど。
 で。
 そういうことと関係するのかもしれないが、私の一番好きなシーンは、ことばが切れた瞬間。二人が海老を茹でようとする。床で海老が動いている。それをつかんで鍋に入れる。この「騒動」の途中でダイアンが笑いだす。この「笑い」が、どうも演技ではない。途中で我慢できずに噴き出してしまう。リアル、なのだ。そのあとも芝居はつづいてゆき、ダイアンはウッディの写真を撮ったりするのだが。
 (このシーンは、別な女との間でも繰り返されるが、このとき女は笑わない。ウッディをばかにして見ている。男の癖に海老一匹もつかむことができないのか、という感じ。これもリアルだけれど、でも芝居だね。演技だね。)
 この、芝居ではなく、リアルというのはこのシーンだけだと思うが、他のシーンもそれを「狙っている」感じがする。映画ではなく、プライベートフィルムだね。その、なんともいえない無防備な感じが美しい。
 ダイアンの、おじいちゃんの古着(だと思っていたけれど、今回見たらおばあちゃんの古着と言っていたような気がする)を組み合わせたファッションも好きだなあ。黒いベストと白いシャツ、ネクタイ、ベージュのパンツ。とても「自然」な感じ、気取らない感じがプライベートフィルムを感じさせる。
 コカインを仲間と楽しむことになって、それを少し鼻先につけたら、むずむず。思わずくしゃみをしてしまって、コカインが空中に散ってしまう、というところまでゆくと、まあ、「やりすぎ(つくりすぎ)」という気もしないでもないが。でも、笑いだしてしまう。
 ラストシーン。ダイアンとの別れが決定的になって、そのあと。それまでの映画のシーンが断片的につなぎ合わされる。ここは海老で笑いだすダイアンのシーンと同じように大好きだ。「ニューシネマパラダイス」のラストで、検閲でカットされたキスシーンをつなぎ合わせたフィルムを上映し、見るシーンがあるが、あれと同じ。「幸福」はいつでも限りなく美しい。あ、いまもウッディの肉体のなかには、あのシーンが残っているのだ、それを忘れることは絶対にないのだとわかる。胸が熱くなる。
 いやあ、ほんとう、なぜ別れたんだろうなあ。
       (中洲大洋スクリーン3、2018年01月17日)




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アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督「悪魔のような女」(★★★★)

2017-11-22 14:38:15 | 午前十時の映画祭
監督 アンリ=ジョルジュ・クルーゾー 出演 シモーヌ・シニョレ、ベラ・クルーゾー、ポール・ムーリス

 アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督は、「ふたり」の関係を描くのがうまいなあ。「恐怖の報酬」も、いろいろあるが、結局「ふたり」の関係だった。「ふたり」が同性愛みたいな親密感をもって動くというのも特徴かなあ。
 この映画では、シモーヌ・シニョレとベラ・クルーゾーは、男の「愛人」と「妻」なのに、妙に「親密」である。男に対する「憎しみ」で一致し、殺人計画を練る。シモーヌ・シニョレが常にベラ・クルーゾーをリードする形で動く。その「力関係」というか、「かけひき」が、先日見た「アンダー・ハー・マウス」よりも、なぜか「濃密」に感じられる。おいおい、そんなことろで感情(憎しみ)を共有するなよ、とでもいえばいいのか。フランス人の奇妙なところは、それが憎しみであっても「共有」してしまえば「親密」になるという関係が起きることかなあ。愛し合っていなくても、何かが「共有」できれば親密になる。「共有」に飢えている(?)のがフランス人かもしれないと思う。
 だから(?)、自分が「共有」していたものが、誰かに奪われるととても複雑になる。いわゆる「三角関係」のことなんだけれど、こんな変な三角関係が成り立つのはフランスだけだろうなあと思う。
 この映画(ストーリー)の「出発点」は簡単に言ってしまえば「三角関係」。そのなかで誰と誰が「共謀」するか。「共感」をもって動くかというのは、ふつうは、すごく単純なのだけれど、フランスには「三角関係」というものがない。ばとんなときでも「一対一」、つまり「ふたり」の関係。動くときは「ふたり」がペア。
 ね。
 ネタバレになるけれど、シモーヌ・シニョレとベラ・クルーゾーは「ふたり」で動いているとみせかけて、実はシモーヌ・シニョレとポール・ムーリスが「ふたり」で動いていたというのがこの映画。そして、はじき出された「ひとり(ベラ・クルーゾー)」が生粋のフランス人(パリッ子)ではなく、カラカスの修道院育ち(聞き間違えかなあ)というのがミソだね。彼女は「三角関係」をどう生きるかが、身についていない。「ふたり」をうまく生きられない。
 これを「逆」に読むと。
 ベラ・クルーゾーは、あくまで「単独行動」。他人に利用されるふりをしながら、他人を振り切っているとも言える。ラストシーンで、子どもがパチンコ(遊具)を、死んだはずのベラ・クルーゾーからもらったという。それが「ほんとう」なら、彼女こそが「大芝居」を打って、シモーヌ・シニョレとポール・ムーリスの「ふたり」を出し抜いたことになる。こういうことは、常に「ふたり(共感)」を基本にして動くフランス人(パリッ子)にはできない。「私立探偵」は、いわば雇った第三者。「ふたり」の関係は、ベラ・クルーゾーにとってはいつでも「雇い主-雇われ人」という「契約関係」で「共感/共有」とは別なものだということ。
 映画なんだから、ストーリーなんてどうとでも「説明」できるから、結論だとか、謎解きだとか、そういうことはどうでもいい。やっぱり、そのストーリーを突き破って動く役者の「顔」(肉体)を楽しむことだなあ。
 シモーヌ・シニョレの、一種「冷たい」目の力はすごいなあ。「アンダー・ハー・マウス」のエリカ・リンダーの比ではない。この目で誘われたら、男も女も、みんな操られてしまうなあと感じてしまう。ベラ・クルーゾーよりも、私はシモーニュ・シニョレが好き。だから、最後は「うーん、残念」という気持ちになる。
 これもまあ「共感」の一種ということになるのかなあ。
 (午前十時の映画祭、中洲大洋スクリーン3、2017年11月22日)


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アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督『悪魔のような女』Blu-ray
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