詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代詩手帖」12月号(43)

2023-01-21 08:58:16 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(43)(思潮社、2022年12月1日発行)

 三角みづ紀「幼いまま枝を広げて」。

どうして星は光るのか
どうして雨は降るのか
どうしてお菓子のはいった缶は
食べたら空っぽになるのか

どうして と問いつづけた
小さい自分を忘れないまま

ことばを丁寧に受けとめ、
いとおしく触れて、
疑いの眼で対峙している
わたしの日々

 この三連目は「ことばを丁寧に受けとめ」る、「(ことばに)いとおしく触れ」る、「(ことばと)疑いの眼で対峙している」と、「ことば」を補うと、互換性のない動詞に一貫性があらわれる。さらに、「(どうして)ことばを丁寧に受けとめ」る、「(どうして/ことばに)いとおしく触れ」る、「(どうして/ことばと)疑いの眼で対峙している」という具合に展開してみると、「わたしの日々」は「小さい自分(幼い自分)」のままなのだとわかる。一貫する「どうして」が「日」を「日」にわけていく。分裂させていく。
 この姿は、こう展開される。

やがて
ときおりやってくる鳥に
どうして飛べるの
と問うような
砂漠に立つ一本の木になりたい

 「鳥」は「ことば」かもしれない。「木」は私かもしれない。そうすると「砂漠」は「日々」かもしれない。
 「どうして」かは、書かない。

 吉増剛造「「愛着!」/"rouge "!」。

 吉増の詩は、引用できない。タイトルは仮に転写してみたが、正確なものではない。感嘆符は斜めのものをつかっているし、「rouge 」には「ルージュ」とルビがついている。本文中も、ルビが頻繁に出てくる。ひらがなにまでカタカナのルビがあれば、「アカ」ということばには「rouge 」というルビがついている。
 吉増は「音」にこだわっているのだろう。「ことば」を「音」に還元したいのだろう。だが、そうだったら、紙の媒体にアンソロジーを載せることにどんな意味があるのか。いまはインターネットでいろいろなことができる。「音」を収録したサイトをURLで表示するくらいの工夫(読者向けの対策)をするべきなのではないのか。
 さらに、この「音」へのこだわりから、もう一度「表記」へもどっていけば。
 吉増は、きっと「表記」にもこだわっているはずだ。単に、ルビだけではなく、文字の大きさも詩と考えているだろう。活字ではなく、手書きの文字(形)にもこだわれば、そのときの紙、筆記具にもこだわっているだろう。すべての「感覚的なもの」が総合されて詩になっている。たぶん、吉増の「老い」そのものも。それを紙の雑誌を媒体にしてつたえるのは不可能だろう。
 谷川俊太郎ではじめ、吉増剛造でとじるアンソロジーの形式にこだわるくらいなら、もっとほかのことにこだわった方がいいだろう。

 「現代詩手帖」の表紙には、「2022年代表詩130篇収録」とある。私は一日3篇ずつ読んできた。43回×3篇=129篇。ただし、最終回の今回は2篇の感想なので、どこかで2篇、感想を書き漏らしているようだ。どの感想を書き漏らしたのか、調べても意味はないだろう。だから、このままにしておく。


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「現代詩手帖」12月号(42)

2023-01-20 00:00:00 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(42)(思潮社、2022年12月1日発行)

 藤原安紀子「拙速どうぶ」。

ムコウからあるいて
眼うらからわたしも むかい
トク トクとまたたく この
温かい は じぶんの 地から手と
なり 降られた えいえんに
あるいて あるいて

 わかったようでわからない。「わかったようで」というのは「ムコウからあるいて/眼うらからわたしも むかい」を、私は、向こうから誰かが歩いてくる、それに対して私はその相手の方へ歩いていくと想像するからだ。そのとき、私の肉体のなかの変化。それを「眼のうら」から動く、肉体の内部から動くと想像できるからだ。「わかる」は「想像できる」。そして、「想像する」とは自分の肉体を他人の肉体に重ねること。単に足を動かして歩くのではなく、「歩く」はもっと肉体内部の運動、対象を見つめる「眼」の奥、瞼をつぶっても見えるものへとこころが動いていくことが力となっているからなのだと読み、あ、おもしろいと感じる。三行目に出てくる「またたく」は「まばたき」(瞼をたたく)にも通じると感じる。そのあとは「温かい」「血から」「手」という具合に、ここには「肉体」が書かれているのだと誤読をすすめ、いっそう「わかった」という気持ちになる。ことばが「学校文法」どおりに動いていないのは、何かことばにならないものを書こうとしているからだと思ったりする。
 でも、こういう感じは……。
 何と言うか、習い始めた外国語を、わかっている(つもり)の意味をつないでいくようで、どうも落ち着かない。
 こういう奇妙に関節がずれたような文体でないと語れないことなのだろうか。私は、逆に、どう読んでも「学校文法」どおりなのに、読み終わると自分の関節がずれてしまうという印象が起きる文体の方を好む。

 文月悠光「見えない傷口のために」。

ひとの言葉が刃であるなら、
唇はあらかじめ備わった傷口だろう。

 なるほど。

あなたへの伝わらなさに苛立つとき
噛みしめて思う 唇は傷口であると。

 「ひとの言葉」は他人のことばではなく、自分のことば。だから、唇も他人の唇ではなく自分の唇。しかし、そうすると「刃」は自分の内部、たとえば「舌」のようにして唇を切り裂く?

言葉を発するほどに、傷は深く重くなる。

 はい。論理的によくわかります。

誰もが持つ無防備な傷口のために
政府から四角い包帯が配られる。
それでも、わたしの存在を「わたし」だけに
閉ざしておくことはできないのだ。

 うーん、しつこい。
 でも、まだまだ、とまらない。

悲しみをほどいても、心は埋まらない。
「満たされる」とは
自分を最高の相棒にすることだ。
この身体を留めつづけるために
響くような怒りと傷が必要だ。
わたしをわたしたらしめる傷を
わたしは愛する。

 これは、まだまだつづいていく。読み続けると、文月の唇(肉体)が私の肉体をのっとってしまいそうで、こまったなあ、いやだなあという気持ちになる。「わざわざ」最後まで読まなくても、なんとなく「結論(?)」めいたものがわかるのだけれど、私は「わざと」最後まで読む。
 そして、推理小説や映画のエンディングを語るように、「わざと」こう書く。この詩の最後はねえ……。

光が傷を飲みこんで
今ようやく言葉になった。

 ね、想像どおりでしょ? でも、この想像どおりが想像どおりであることを確認するために、最初から最後まで、私が省略した部分を詩集『パラレルワールドのようなもの』で読み直してください。
 優れた映画は「結末」がわかっていてもたのしく読むことができる。知っている内容なのに何度でも見る。詩も、そういうものだ。

 水沢なお「窓の外で燃える火」。

授業中 たまに揺れる
山を切り拓いて 石灰を取り出すらしい

 からはじまる。巨大な何かから、一部を分離する。そういうことと「ぼく」の存在が重なるように(重なることをめざして?)、ことばが動いていく。「ぽく」は切り拓かれる山なのか、取り出された石灰なのか。
 「どちらも本当」だろう。この「どちらも本当」ということばは、六行目に出てくるのだが、それから先は「本当」が分離されるというよりも、より強固に結びつく。それがおもしろい。

 

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「現代詩手帖」12月号(41)

2023-01-19 00:00:00 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(41)(思潮社、2022年12月1日発行)

 夏野雨「トーキョーウォータータクシー」。

「言葉は水の脈みたいに、繋がっている。誰かと。」

 異母兄弟の兄と、父の遺骨を海に撒くために乗った「トーキョーウォータータクシー」で、兄がそんなことを言う。このことばが書きたかったのだろうと思うが、最初の方に出てくることばが、ここに書かれていることばとつながらない。

岸壁沿いのマンションがささやかな生活の光を跳ね返す。ベランダでまどろむ洗濯物や植物たち。

 なぜ、つながらないか。「岸壁沿いの……」は、どこにも「事実」がないからだ。見かけは本当だが、それは「常套句」という嘘。まるで村上春樹の小説のように、私は読んでしまう。「岸壁沿いの……」で読む気力がなくなるのだが、読む気力がなくても最後まであっと言う間に読んでしまうことができるのが村上春樹のことばの特徴だが、私は、そういうことばとはつながりたくない。
 「常套句」は、その国語を話しているひとの、おおざっぱな感覚をつかみとるのにとても便利なので、私は村上春樹の小説を日本語教材(外国人に日本語を教える)としてつかっているが、それは「文学」とはかなり違うものではないかと私は感じている。

 蜂飼耳「夜のベランダ」は、夏野が「トーキョーウォータータクシー」から見たかもしれない光景であるが、そこには「常套句」はない。

ある日、ベランダのすみに火山が出来る
ときおり、くらりと煙を上げ、
灰をまき散らすが苦情は届かない
おそらく 見えないのだ どこからも
私の火山なのだろう

 いや、「火山」が「煙を上げ」る、「灰をまき散らす」は「常套句」だが、それはふつうの人には「見えない」から、常套的な描写であることを超越している。「常套句」は蜂飼のように「わざと(わざわざ)」つかうから効果的なのである。「文学」になるのである。文学とは「私の」ことばである。

夜の続きに取り囲まれる
なにか言おうとして、
火山がふくらんでいく
闇の中に煙が見える

 何を言おうとしたのか。それは読者が考えることである。「答え」があるとしたら、それは作者の中にあるのではなく、読者の中にある。「私の」何かを、言うことができるように誘い出すもの、言うことができるまでそばによりそうのが「文学/詩」であるだろう。

 平林敏彦「詩」。

最後の一日のため
詩で生活を表現する
詩が生活を打ちこわすとしても

 詩は「常套句」ではない。だから「生活を打ちこわす」。そうすることで「つながる」ための「水脈」になる。それは、それまでの「常套句」を壊さないかぎり広がらない「水脈」だ。
 そのために「わざと」、「わざわざ」書くのである。

 

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「現代詩手帖」12月号(40)

2023-01-18 10:16:45 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(40)(思潮社、2022年12月1日発行)

 高橋順子「哀悼・大泉史世」。

いま大泉さんの声で
「死ぬのっていいわよお」
と聞こえてくる
困っている

 大泉は充実した人生を生きた人だったんだなあ、と感じさせることばである。そう思わせるのは、なかなか大変なことだと感じる。「困っている」はうれしい、だろう。
 高橋は、こういうことを「自然」に書くことができる。

 高橋睦郎「老老行」。ひとは、どういうときに「老いた」と感じるのか。そして、どう生きようとするのか。(高橋は正字体で書いているが、新字体で引用する。)

前立腺肥大予防に老いびとも自慰励めとぞ雨戸閉てきり

 やっぱり病気が気になる。病気は死につながるから、死が気になると言い直せるかもしれない。逆に、それは生への執着、どうやって生き続けるかということが気になるでもある。生は性にもつながる。でも、老人は何を想像しながら自慰をするのだろう。ここからが、老詩人・高橋睦郎の真骨頂である。若者の自慰とどこが違うか、書いてしまう。詩人は、書かずにはいられない。

死ぬるまで性交せよと週刊誌叫喚す性交しくつつ死ねとか
老男女交接のまま相死ぬる窮極相対死とや言はむ

 ここに書かれる死は、セックスの絶頂のときの、エクスタシーではないのだが、完全に行動されている。若者の「死ぬ!」という絶叫とは全く違うはずなのに「死ぬ」ということばが重なって、そのことばのなかに快感、官能、欲望、本能が動いている。
 しかし、「意味」はわかるが、どうも、読んでいて楽しくない。「音」がぎすぎすしている。「死ぬのっていいわよお」につながるような音の伸びやかさがない。音がもっとのびやかで、音楽的だったらどんなにいいだろう。
 私は、このぎすぎすした音に「困っている」。これでは「うれしい悲鳴」(共感)ではなく、むしろ「叫喚」に近い。

 竹中優子「骨壺」。ああ、また、死が出てくる。現代詩手帖のこの編集は「わざと」なのか「偶然」なのかわからないが。

夕方 博多駅に着く
うどんでも食べて帰ろう
そう思いながら階段を下る
席に着く、鞄をそっと引き寄せる
鞄には父の骨壺が入っている

 「鞄をそっと引き寄せる」の「そっと」がとてもいい。大きな肉体の動きを書いてきて、そのあとに「そっと」。小さな動きがはじまる。「遺骨」ではなく「骨壺」と竹中は書いている。そこに、なんというか、「肉親」ならではの距離感がある。他人の「遺骨」を「骨壺」と呼ぶことはなかなかむずかしい。
 父が死んだ、母が死んだというかわりに、父が亡くなった、母が亡くなったという人がいるが、私はこういうときの「亡くなった」には妙な冷たさを感じる。「死んだ」がいい。それと同じように、この詩では「骨壺」がとてもいい。「遺」ではないのである。「生きている骨」というと語弊があるが、死んだ人間の骨ではあるが、まだまだ「生きている」ものが、そのまわりに動いている。「遺」にはなっていないのだ。
 その微妙な動きのなかに、竹中は「そっと」入っていく。何かに触るたびに「生きている」ものが動くのだ。高橋順子が書いた大泉の「死ぬのっていいわよお」は、竹中には「逆説」のように聞こえるだろう。そうだろうなあ、死んでしまった人間は何も悩むことはない、「そっと」動く必要なんかはない。どれだけ暴れ回っても、すべてが「たのしい」思い出である。

今日
私の身体は温かく流れている
引き込んだものと混じり合って
骨壺は部屋にある
布の下に父は眠っている

 いろいろなものが混じり合っているかは「そっと」竹中は息を整えている。そばには父の骨壺がある。それを竹中は再び「そっと引き寄せ」たかどうかわからないが、最後の一行には「そっと」を補って読んでしまう。

布の下に父は「そっと」眠っている

 やっぱり、「生きている」。
 『冬が終わるとき』に収録されているのだが、どの詩もすばらしい。とてもいい詩集である。

 


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「現代詩手帖」12月号(39)

2023-01-17 09:18:54 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(39)(思潮社、2022年12月1日発行)

 齋藤恵美子「白点」。

無数の、白点が埋めてある
ひと、に似ているが、光、かもしれない
--世界の剥製に触れているのか

 「無数の、白点が埋めてある」は断定。しかし、そのあとにつづくことばは、と書いて、私は迷う。推定、疑問であり、仮定である、といったんは書いてみるが、認識であると書き直そうとして、さらに悩む。「無数の、白点が埋めてある」は認識ではないのか。断定しているが、それは「事実」なのか。齋藤の間違い、「誤認」かもしれない。
 つまり。
 「ことば」しかないのである。

ここにも、白点が施され
打たれた水滴の、一つ一つが
魂のように見えてしまう

 私は「魂」を見たことがないので、「魂のように見えてしまう」と書かれていても、何も想像できない。ほんとうに「魂のように見えた」のか、「魂のようだと見たい」のか。たぶん、「見たい」のだろう。「見えてしまう」ことを後悔している(見たくない)というよりは、「見たい」という欲望が「見えてしまう」にこもっていると私は感じる。最初に書かれていた「ひと」が、ここでは「魂」と書き直されており(つまり、齋藤は「ひと=魂」と見ているのであり)、この書き直しこそが齋藤の「欲望/本能」が動いている部分であるといえるだろう。
 世界は「欲望/本能」にあわせて、ことばとして現われる。

 鈴木康太「福祉」。「撃たれた鳥」の落下を書いている。

地面にぶつかる、そのまえに
ぼくは満たされたい
額から顔が出る
それは、あなたの顔で
声はぼくの喉を切る

 それを「見たい」。このときの「見たい」は「体験したい」になる。いいなあ、額が割れて、その裂け目から別の顔が出る。それは作者の「欲望」そのものだ。それに気づいて、悲鳴を上げる。
 ここに「矛盾」があるとして、それは対立するものが結合しようとする矛盾だろうか、それとも分離することを欲する矛盾だろうか。
 こういうことは「論理」の問題になってしまう。そして「論理」の問題であるかぎり、それは「後出しジャンケン」であり、どうとでもいえる。

 では、「論理」って、なんのためにある? ということの「答え」になるとは思わないが、瀬尾育生「ウエスタン」は、とても「論理的」な詩である。

木がそこに生えているので、私はそれによりかかっていたのです。私は決して、木がそこにはえていると信じたから、それによりかかっていたのではありません。木が生えているということは私にとって、そのようなことです。
                  (注、「と信じた」には傍点が振ってある。)

 「信じる」と「気持ち」の問題。「認識」の問題とも言い直せる。しかし、それが「認識」であるかぎり、いつでも「誤認」の恐れがある。間違っているのに信じてしまう。その結果、たどり着くものが「間違い」なら、その「認識」は無効になる。だから、「信じる」を根拠にして「論理」を展開することは無意味である。
 しかし。
 「論理」というものが、そういうものであるという「認識」そのものをテーマにすれば、「認識」について語ることができる。「事実」と「認識」の関係ではなく、「認識」とはどういうものであるかという「認識」。テーマとしての「認識」は、いわば「虚数」のようなもの。現実には存在しないが、「論理」のなかでは存在すると定義して動かすことができる存在。ここからはじまる「認識」の運動を「メタ認識」というのかな? 面倒なことは、私は知らないままにして、テキトウに書くのだが、瀬尾が書いているのはそういう「純粋な(つまり「事実」を無視した)、論理のための論理」の運動と「ことば」の関係である。
 「そのようなこと」という表現(そして「そこ/その」の多用)が、それを的確にあわらわしている。「そのような」としか言えない、そう指し示すしかないものがあり、指し示した以上、そこからことばが論理として動き始めることができる。
 これを象徴的にあらわしているのが「生えている」という動詞。木が「ある」のではなく「生えている」。それは、「よりかかる」という動詞と切り離せない。木があったからよりかかったように見えるが、ほんとうは「よりかかる」という動詞が「木」を呼び出している。木を「生えさせている」のである。「よりかかる」とき木が「生えてくる」のである。もっと言えば「その/そこ」と何かを指示した瞬間に、その指示を確固とするために「生えてくる」。
 そのような世界。
 私も瀬尾を真似て「そのような」をつかうしかないのだが。

 こういうことは「わざわざ」しないと出現しないことばの世界なのだが、その「わざわざ」が「自然」になるときがある。「自然」になるとおもしろいし、そういう「自然」にふれると何か目がさーっと洗われる感じになるが、「自然」に到達しないときは「わざと」が目障りになる。
 瀬尾は、この「自然」を畏れながら(恐れながらではない)、そこに近づき、遠ざかり、という運動を繰り返している。「自然」に到達できることを知っているが、「自然」に到達することを拒否しながら、「わざと」書いている。「自然」に到達しないこと、を課題にしているのかもしれない。到達してしまうと「哲学」か「宗教」になってしまうかもしれないからね。
 ややこしい詩人だ。面倒くさい。しかし、この「ややこしさ/面倒くささ」は、私には「信じられる」もののひとつである。

 


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「現代詩手帖」12月号(38)

2023-01-16 09:41:33 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(38)(思潮社、2022年12月1日発行)

 唐作桂子「根も葉も」。どの詩にもあるのだろうけれど、この詩にも省略がある。あるいは欠落がある。その省略、欠落と、どう共振することができるか。中井久夫なら「チューニング・イン」ということばをつかうだろうなあ、と思いながら読んだ。

根も葉もなく
たっている

 私は「うわさ」を省略、あるいは欠落したことばとして読んだ。「うわさ」は自分自身の力で生まれてくるのではないが、生まれてしまったら「自立」してしまうところがある。そして、それは「チューニング・イン」を要求してくる。あるいは、人間は、それを要求されてしまう。そのまま、無傷でいることは、なかなかむずかしい。
 というようなことを書いたかどうか忘れたが、この詩は、私はとても好きである。ブログに感想を書いたことがあるので、興味のある人は探して読んでみてください。

 北川透「岬にて」。北川の詩にも「省略」はあるかもしれない。しかし「欠落」はない。

なぜか 理由もなく
私たちは三つの形式を持っている
北の果ての海に臨んだ凍土という形式が一つだ

 と、はじまる。「理由もなく」の「なく」は「欠落」を意味するかもしれない。しかし、「欠落」ではない。なぜかというと、かわりに「三つの形式」を持っているからである。言い直せば「理由もなく」の「ない」は「象徴/比喩」なのである。
 「象徴/比喩」は、それだけでは「意味」を持たない。というか「不完全」であり、全体を表象することができない。だから、それは必ず繰り返される。つまり、言い直される。そうすることで「チューニング・イン」が強まっていく。徐々に細部が重なり、全体になり、「実在のもの」と「象徴/比喩」の区別がつかなくなる。
 北川は、これをとてもていねいに書いていく。

どんな舞台もドラマも失われたが
わたしたちはなお岬を演じなければならない
これが第二の形式だ

岬は南の青い海に没しながら
なおリズミカルな点滅を繰り返している
最後の灯台を愛惜する岬という形式が三つ目だ

 「三つの形式」と書き始めたら、ちゃんと「第一」「第二」「第三」と展開する。その過程で「ない」は「失われた」「没する」という具合に変化しながら「チューニング・イン」をつづける。「海に臨んだ凍土」は「岬」に、「岬」は「灯台」にという具合に描写の「対象」の大きさは、いわば「大、中、小」という感じで凝縮してゆき、その過程(リズミカルな点滅)のなかに「愛惜(する)」という感情を浮かび上がらせる。
 「チューニング・イン」の最終的な到達点(?)は「感情」である。感情が「チューニング・イン」してしまう。
 「欠落」も「省略」もない。
 私は、この北川のことばの運動の「形式(スタイル)」を、なぜか、とても「自然」なものとして読んだ。読みながら、あ、私はこのスタイルの詩を読み続けてきたのだと気がついたと言った方がいいかもしれない。
 若い人の詩は、北川の詩のように、読むことができない。しかし、これは、北川が完全に古典になってしまっているということを意味するかもしれない。私は若い人の書くことばの動き、ことばの変化についていけなくなっているだけなのかもしれない。
 なんの疑問もなく、北川の詩は読みやすいなあ、気持ちがいいなあと思ってしまう私をみつけ、そこで少し(かなり?)、つまずいた。「なぜか、理由もなく」。

 草間小鳥子「適切な距離を保って」。

問われた罪
問われなかった罪
これで手打ちだ、と本を閉じ
つじつま合わせの長い夜を越えた

 「罪」を「形式(比喩/象徴)」と読み直せば、私の、北川の詩への態度になってしまうかもしれない。私はテキトウに「つじつま合わせ」を書いただけなのだろう。
 草間は、先の四行を、こう言い直している。

やさしさに似た諦めが
ぎりぎりの肺を満たしている
結論は出せない
出せるものでもない

 まあね。
 私は、結論は常に壊していくためにあると考えている。書いたことを無効にするために書きつづけるとだけ書いておこう。しかし、それは

なにもないところから
ただ なにもないところへ

 というような感じにはしたくないなあ。たしかに人間は必ず死んでしまうんだけれど。

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「現代詩手帖」12月号(37)

2023-01-15 10:54:40 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(37)(思潮社、2022年12月1日発行)

 石田瑞穂「流雪孤詩から」。

長く 雪夜に独りきりだと
個の時間と外の時間が
合流した感覚が
おとずれて おもわず
孤独そのものに 手紙を
書きたくなってくる

 つまり。
 この詩は「孤独」そのものにむけて書かれた「手紙」ということになる。

袈裟沢の森のシメシャラや
岳樺 水芽 山桃の森

 美しい二行だ。他にも美しい描写が多い。雪の日の孤独は美しいものらしい。美しさとは……。

瞳や指ではふれられない
こころでしかふれられない

 しかし、私は、そういうものよりも肉体で触れるものが好きだ。
 カニエ・ナハ「三瓶笑理 06.09.2022」は、耳の聞こえない人(三瓶笑理は、たぶん、そういう人)が、手話をとおしてプラネタリウムの解説を聞く。

暗やみのなかとなりの席に座っている先生が、プラネタリウム解説員の声を
手で再生する先生の声に、先生の手に笑理の手が触れて、手で手に耳をすませている。
先生の手が少しくひんやりしていて、笑理はおもった、星にそのままさわっているみたい。

 「声」「手」「耳」と「ことば」がかわっていく。この変化についていくことが「触れる」「さわる」なのだが、途中に出てくる「すませる」がとてもいいなあ。耳をすませるとき、世界が、肉体が、澄んだものになる。この「澄む(すむ)」は区別がなくなるということだろうなあ。そこでは、何かが、つねに生まれ続ける。「手」は「声」に、「手」は「耳」になってうまれつづけ、それは「星」にさえなってしまう。
 ここには「わざと」が入り込む余地がない。ただ「自然」が動いているだけだ。「自然」とは「世界」であり「宇宙」だ。それは「こころでしかふれられない」ものではなく、「手」で触れることのできるものである。「ことば」で触れるだけではない。

 鎌田尚美「持ち重り」。鎌田は「最中(もなか)」に触る。途中に、こんなことを思う。

死刑囚が、刑の執行の直前に出された最中を見て
「最中はさいちゅうと書くのですね、わたしは刑の最中なんですね」
と言ったという

 意味はわかったようで、わからない。
 詩は進んで、歩いていたとき地震があって、思わず持っていた最中をつぶしてしまう。無意識の「肉体」の反応。それが引き起こす、世界の変化。というと、おおげさかもしれないが。
 その最後の一連。

階段の途中の踏み板に足をかけたとき、呼ばれたような気がして振り向くと、行き止まりの道の先にある電信柱に灯が灯り、巨大な蝋燭のように見えた

 いつでもだれかが「呼んでいる」。最中が死刑囚を呼んだのかどうかわからないが、その死刑囚の声が鎌田には聴こえたのだろう。
 カニエの詩では、笑理が先生を呼んだのかもしれないが、その先生は知らずに星を呼び寄せ、指先に出現させている。「肉体」では、なんでも、起きてしまう。
 鎌田の詩では、電信柱が「巨大な蝋燭に見える」ということも起きる。この巨大な蝋燭が、私には、ふと死刑囚に見えてしまう。
 「自然」ではなく「超自然」か。しかし、「超自然」というのは「絶対自然」かもしれない。笑理が触れた星の「ひんやり」も「絶対自然」だ。「わざと」も「わざわざ」も入り込む余地はない。

 

 

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「現代詩手帖」12月号(36)

2023-01-14 10:16:25 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(36)(思潮社、2022年12月1日発行)

 舞城王太郎「Jason Fourthroomから」。新幹線に飛び込み自殺した「女の子」が登場する。彼女のことを、こう書いている。

彼女はわざとそんなふうに死んでみせたのだ、と。
彼が困っていたことは
  わざと新幹線に撥ねられて130メートル飛んで無傷で死んでしまうような女の子が
自分のことを好きになったことだった。

 「わざと」が二回登場する。
 谷川俊太郎の「わざわざ書く」を取り上げたとき、そしてこの連載を書き始めたとき、私はこの舞城の詩を知らなかった。知らないまま、「わざわざ」と「わざと」を比較しながらいろいろなことを考えた。
 そのなかに「自然」ということばもつかった。それが、こんなふうに出てくる。

もしかして 僕は 今でも
  彼女のことが好きなんじゃないかと
     思うことがある。
(略)
それは自然だし
  ある意味お前が健全な証拠だ、と
    友達は言った。

 「わざと」自殺した彼女について「もしかして 僕は 今でも/彼女のことが好きなんじゃないかと/思うことがある。」と書くのは「わざわざ」なのだが、その「わざわざ」は「自然」なのだ。「自然」に思い出してしまう。思ってしまう。それは「思う」だけで、こころの内にしまっておいてもいいのだが、「わざわざ」書く。書かずにいられない。言わずにいられない。思いがあふれてくる。それは「自然」にあふれてくる。それを「健全」ということばで言い直している。
 この「健全」は、しかし、矛盾を抱えている。

でも健全であることはとても苦しい。
 特に 一人で 朝早く
    目が覚めた時なんか。

 「健全」が「楽しい/うれしい」とは限らない。「苦しい」。この矛盾のなかに、詩がある。「わざわざ」書かなければならないものがあるとしたら、それは、この矛盾なのだ。
 こう書くと、私がいつも書いている「矛盾が詩である」ということばにもつながる。
 特に、そういうこととつなげて書くつもりでこの連載を書き始めたのではないのだが、何かについて書いていけば、おのずとことばはつながってしまう。変化しながら、変化しないものにつながってしまう。
 舞城の詩の感想になっていないかもしれないが、舞城が書いている「わざと」「自然」「健全」「苦しい」ということばの変化(脈絡)には、強い「ことばの肉体」と「肉体のことば」の共振がある。

 山崎るり子「猫町 から」。「理髪店」という詩が、ちょっと宮澤賢治の世界の透明感を持っていて楽しいのだが、引用するのは「金物屋」。

雪の日は冷たい音がする
金物屋の主人は並んでいる鍋を菜箸で叩いて
ねこふんじゃったを演奏できる
たださっきじゃったが売れてしまった

 ねこふん「じゃった」が、さっき「じゃった」に変化する。これは「わざと」だろうけれど、「わざと」が瞬間的に終わってしまうので、「わざわざ」になる。瞬間的というのは、すぐに消えてしまう。それを消させないために「わざわざ」書く。
 舞城の詩で自殺した「女の子」は、この世から消えてしまう。「あっと言う間」、ある意味では「瞬間」的に消えてしまう。それを消えないようするために「わざわざ」詩を書くのである。そうやって「わざわざ」、「健全に/苦しむ」のである。それが人間の「ことば」なのだ。

 和合亮一「SILVERFISHから」。

あなたであるために
         あなたが漏らした
                涙かもしれないのだが

 〇〇で「あるために」。「ある」は英語で言えば「be動詞」か。「生きる」という意味を含むか。舞城の「健全であること」の「苦しみ」(の涙)とつづけて読むことができるかもしれないが、それは「頭」のなかでの論理。つながるはずなのに、つなげると「わざと」になってしまう。
 私は、そういう「結論」は、好きではない。
 こんなことを思うのも、その前に、和合がこんなことを書いているからだ。

読者諸氏よ
  あなたの眼に映る私の詩行は
         あなたの精神の電信柱になり得ている
だろうか

 「だろうか」という反問的疑問は、「もちろん」なり得ているという「強調された肯定」を要求している。この「わざわざ」が、私には「わざと」に感じられる。「自然」ではないし、「健全」でもない。つまり。この「だろうか」には「苦しみ」がない。「不安」がない。「自己否定」がない。
 「自己否定」というのは、こういう具合につかうべきだったんだなあ、と私は、ふと昔を思い出してしまった。和合は何歳か知らないが、和合は、この「自己否定」ということばが飛び交った時代を、どうやって生きていたんだろうと、ふと思いもしたのである。「あなたの精神の電信柱」なんて、どこから思いついた(どこからやってきた)ことばなんだろう、とも思ったのだ。

 

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「現代詩手帖」12月号(35)

2023-01-13 10:48:50 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(35)(思潮社、2022年12月1日発行)

平川綾真智「■「dona nobis」」。その最後の三行。

[22:12 #7 #dons nobis][
「」dona </a> 「」nobis 914328「595 「43≠421.14984 5 
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 文字が見える。それを私は転写できる。だから、そこには何らかの「共有感覚(共有認識)」があるのだが、それを私は私のつかっている「日常語」では語りなおせない。べつに語りなおす必要はないし、理解する必要もない。
 それが平川の考えている詩なのだろう。
 それを平川が、だれかと「共有できる」と考えて書いたのか、「共有したくない」と考えて書いたのか、それも私は問題にしない。
 こういう「文字(記号)」を「わざと」書いているのか、「わざわざ」書いているのか。この「文字(記号)」を「わざと」2022年の「代表詩」として選んでいるのか、「わざわざ」選んでいるのか、それも私は考えない。
 なぜか。
 面倒くさいからである。

 広瀬大志「ここにいない」。二行ずつの連が展開されるが、その二行は完結しているのか、それとも破れている(解放されている)のか。

自発性の秩序は膝をついて体を起こしあなたがいるから
わたしの夢にはいつもあなたが横にいてわたし

の夢を見てくれているのは意図的で
はなく行動の原理としてあなたが見てくれているか

らわたしの生活の萎えて箱詰めされた家具に
はいつもあなたの声が届き萎えて箱詰めされたわ

たしの生活を支えてくれるからわたしの言葉にはい
つもあなたの温もりが疼いて伝わりわたしの言葉

 「完結」でも「破壊」でもなく、「意図的」に「接続」が試みられている。広瀬の詩(ことば)は基本的に「接続」を求めて動くのだと思う。そういう意味では、手術台の上のミシンと傘の出会いである。シュールレアリストは、それを「偶然」であり「美しい」と定義するが、広瀬は「意図的」である。
 西脇も、詩は「わざと」つくるものと言ったが、しかし、その「わざと」は「意図的」ではない、と私は読んでいる。西脇にとっては発見された「偶然」が「わざと」であり、それは「必然」なのだ。
 平川の書いている「表記方法」も、広瀬の採用している「表記方法」も「意図的」としか呼べない「わざと」であり、そこで「演出された偶然」は「必然」とは無関係だ。「必然」というのは、何度も繰り返す例で言えば、道で腹をかかえてうずくまるだれかを見かけたとき、あ、この人は腹が痛いんだと感じるようなものである。私の肉体ではない、しかし、私にはその肉体の痛みがわかってしまう。「偶然」なのに「必然」。この「出会い」。これがないと、人間は、生きていても楽しくない。西脇は、これを「わざと」と読んでいる。「わざと」、それが起きるようにことばを書いている。それはどうやって起きるか。「ことばの肉体」をつかんでいれば、「自然」に起きるのであるけれど、「ことばの肉体」が「自然」に動くようにするためには、その前にとんでもないトレーニングが必要なのだ。「わざと」ができるのは、鍛えられた「ことばの肉体」の特権なのだと思う。特権だから、そこには「詩」がある。それは「表記方法」ではなく、あくまでも「運動」なのだと私は考えている。

 古屋朋「深すぎた青」。海に浮かんでいる「ぼく」を描いている。

浮いた身体が透明と暗がりのはざまの色に
隠れたり現れたり
羊水みたく波に運ばれ
目をつむれば水が小さくぶつかる音

 「羊水みたく波に運ばれ」がおもしろい。「ぼく」が「羊水」のように「波に運ばれていく」のではなく、「ぼく」は「羊水」のなかに漂っているかのようにして、「波に運ばれていく」。ここには、羊水の「なかにいる」という「ぼくの状態」が省略されている。一瞬、「身体」を忘れている。それくらい、世界と身体が融合している。どこまでが「ぼくの身体」であり、どこからが「世界の身体(海の身体)」であるのかわからなくなり、その「わからない」が「羊水」という「肉体の記憶」と結びつき、「羊水みたく」ということばになる。
 ここには「必然」がある。「羊水みたく」ということばは、古屋が「わざわざ」書いていることばなのである。

 

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「現代詩手帖」12月号(34)

2023-01-12 11:01:23 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(34)(思潮社、2022年12月1日発行)

 田中庸介「日本全国路面電車」。

よく見るとおじさんとおばさんがくっついている
枕の底面にある柄で判断する
頭が大きいけれど花柄の方がおばさんで
頭が小さいけれど渋いボーダー柄の方がおじさん

 私は、「おばあさん」「おじいさん」と読んでいた。でも、引用(転写)していて「おじさん」「おばさん」と気がついた。田中から見て「おじさん」「おばさん」というのは何歳くらいの人だろう。何歳くらいから見分けがつかなくなるのだろうか。
 急に、書きたいと思っていたことが、変わってしまった。
 「花柄」「ボーダー柄」で男女を区別しているが、この区別は、田中に見つめられている二人にも共通するものだろうか。
 「無意識」に共有されている何かが、この詩の、この部分では動いているのだが(そこにはたぶん「路面電車に乗る世代」というものも含まれている、と思う)、この「共有されている無意識」に刺戟を与えるというのが田中のことばの運動だとして……。
 でも、これを書いていくと、最初に書こうと思っていたことが何だったのか忘れてしまいそうだ。最初に書こうと思っていたことと、無関係なことを書いてしまいそうだ。
 いや、無関係なこと、新しく思ったことを書いていけばいいのだろうが、最初に思ったことも書いておきたい。
 私が最初に思ったのは、「おじさんとおばさん」という順序で出てきた二人が、二人を識別する段階で「おばさん」「おじさん」の順序にかわっていること。これは、どうして? たぶん「花柄=女性」という「無意識」が「ボーダー柄=どっちかわからない、どっちでもいい、中性(?)」を突き破って動いたんだろうなあ、ということ。これは、田中のなかに、対象を「明確にしたい」という欲望が強いからなんだろうなあ。
 こう言い直した方がいいか。
 「ボーダー柄」が「おじさん」と最初に書くと、「ボーダー柄を着ている女性はいないのか(女性だってボーダー柄を着る)」という意識が動き、つまずいてしまう。それでは、ことばのスピード(論理のスピード)が鈍る。たぶん、そういうことだろうなあ。
 田中の詩は、全体として(?)、「つまずき」(言われるまで気がつかなかった)を書いているのだが、つまずきを書くためにはスピード(安定したリズム)が必要だからなんだろうなあ。そういうことに、非常に配慮してことばを動かすというのが田中の詩の特徴なのだと思う。
 しかし、これは私の「先入観(無意識)」かもしれない。
 で、私は「無意識」に「おじいさん、おばあさん」と読んでいたのだ。個人的に田中のことを私は知らないが、「若者」ではない。「おじさん」の類だと思う。「おじさん」がだれかのことを「おじさん/おばさん」と意識するか。ふと目を止めて、年齢を意識するなら「おじいさん/おばあさん」だろうなあ、と私は思っていたわけである。田中のことばのスピードなら「おじいさん/おばあさん」になるとかってに思い込んでいたのである。
 路面電車は「お年寄りに優しい」(お年寄りは路面電車の方が好き)という「先入観」も動いていただろうなあ。
 私がいま書いていることは、詩とは関係がない。詩の批評ではない、と思う人が多いと思う。ほとんど百%の人がそう思うだろうなあ。
 しかし、詩を読む(文学を読む)というのは、自分自身のことばの運動を見つめなおすことだから、こういう「どうでもいい」感想が、私にとっては批評なのである。

 谷元益男「石」。川から石を持ち帰ることを書いている。石は、墓石にするのである。いつのことを書いているのかわからないが、(田中の詩なら「いま」を書いているとわかるが)、

水の膜ごと石を剥がして
台車につんで持ちかえる

 この「水の膜ごと石を剥がして」がとてもいい。これが、あとの部分で、

涙がひとしずく石の表を
伝っていく

 にかわる。涙は、死んだ人(弔われている人)の涙である。「水の膜」は川という「この世」から引き剥がされた石、「あの世」に来てしまった石の涙のように思い出されるのである。
 しかし。
 この詩を読みながら、私はもう六十年以上前のことを、まざまざと思い出した。親類の家で墓を造ることになった。そのときの石を、実際に、川から拾ってくるのである。重機のない時代、親類が総出で引っ張り上げる。そのとき、石が水をこぼす。まるで石のなかに水が入っていたかのように。それは、死んでいく人が最後に吐き出す「息」のように、なんだか、見てはいけないもののように見えた。これは、そのとき思ったのではなく、いま思っている感想である。あのときは、ただ水が滴り落ちていることが異様に見えて、それを覚えているのである。引き上げた後、その石を取り囲んでいる男たちの写真があったはずだ。たぶん、私の父もそこに写っていたのだろう。その墓は、いまもあるが、近いうちに別の場所に移し、いくつかの墓と合体させると聞いたから、どうなるかわからない。過疎地域では墓を維持するのもたいへんなのである。ということもあって、谷元の詩を読みながら、どうしても、これはいつの詩?と思ってしまうのである。

 野村喜和夫「頌」。

まるく琥珀に閉じ込められた
ような秋の日に
もうバッハ
しか聴かなくなりました

 西脇順三郎の詩のリズムだな、と思っていたら、

西脇順三郎の詩を読み
西脇にはなぜか
バッハが似合う
ことを発見したりした

 という行が出てくる。
 「ことを発見したりした」という行が、西脇っぽくない。ない方が西脇に近づくと私は思う。西脇は、野村のことばを借りて言えば「発見した」ことをだけを書いている。そして、それを「発見した」とは書かない。西脇も「発見した(見つけた)」とランボーのように書いたかもしれないが、それはそこでおしまい。「したりした」と「報告」はしない。ただ「発見した」と叫ぶのである。
 西脇と野村の違いは、野村の方が「一言多い」。
 野村に限らないが、つまり私もそうだが、どうしても「饒舌」になってしまう。「饒舌」が詩であった時代もあるし、いまでも「饒舌」のなかにある詩があるが、「わざと」なのか「わざわざ」なのか、区別がむずかしいね。
 と書いて、ふと思い出すのだが。
 きのう触れた杉本真維子「八月の自棄(じき)」の最終連の

ジーキィジーキィ 腹の底から蝉があえぐ

 の「ジーキィジーキィ」はタイトルの「自棄(じき)」に重なる。「わざと」重ねてる。重ねるために「自棄」に「わざわざ」、「じき」と振っている。ルビがなくても、重なる人には重なる音かもしれないが、「自棄」を「やけ」と読む人がいるかもしれない。いや、私はそう読んでしまう人間なので「じき」か、うるさいなあ(むだな饒舌だなあ)、と最初は思ったのである。しかし、蝉の鳴き声が出てきて、「腹の底」ということばも、その直前の「臓腑」とつながるし、とてもいいなあ、と思うのである。
 で、その、とてもいいなあ、なんだけれど。
 実は、杉本が感じていることを感じたくはないと強く思うことでもあるのだ。きのう書いた例で言うと、道で倒れてうめいている人を見ると、あ、この人は腹が痛いのだと思うが、同時に、こんなふうに道に倒れて苦しみたくないなあと思うのに似ている。
 「共感」は「反感/拒絶」でもあるし、「拒絶」より強い「共感」はないかもしれない。悲劇を読むと(見ると)、悲しいけれど、何か、とてもさっぱりする。清らかな気持ちになる。こういうことは、整理し、どちらかに「統一」してしまってはいけないことなのだと思う。「矛盾」したままにしておかないといけないのだと思う。

 

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「現代詩手帖」12月号(33)

2023-01-11 10:58:01 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(33)(思潮社、2022年12月1日発行)

 草野早苗「訪う者」。

訪う者は
烏瓜のランプを作りたいと言う
森に行って烏瓜を集め
もう私は何もいらないので
烏瓜をくりぬいて
小指より小さな蝋燭を立て
訪う者の光を移して
心優しい人々の家の前に
ひとつずつ置いた

 「もう私は何もいらないので」で、私は少しつまずいた。「何も」と「わざわざ」言ったのはなぜなんだろうか。「訪う者の光を移して」にもつまずいた。「心優しい人々の家」の「心優しい」にもつまずいた。
 「小指より小さな蝋燭を立て」の「小指より小さな」は「烏瓜のランプ」をつくったひとでないと言えないことばだろうと思って、こころが静かになった。
 私は、こんなふうに読み返してみた。

訪う者は
烏瓜のランプを作りたいと言う
森に行って烏瓜を集め
もう私はいらないので
烏瓜をくりぬいて
小指より小さな蝋燭を立て
人々の家の前に
ひとつずつ置いた

 近藤洋太「エリザベス 二〇一五年十二月 望月櫂」。

男子から告白されたことは何度かある
でもボクは恋愛感情が湧いてこなかった
本当のことを言えば
夢のなかでボクは男になって女の人を愛していた
顔の分からない女の人を
ネットで調べたらトランスジェンダー男性
忌まわしい言葉に思えた

 「忌まわしい言葉に思えた」のは、望月櫂がそう思ったのか。近藤が、そう思わせたかったのか。この区別がむずかしい。
 草野の詩で「訪う者の光を移して/心優しい」を削除したい気持ちになるのは、これに似ているなあ。
 ことばを動かしているのはだれ?

 杉本真維子「八月の自棄(じき)」。

わたしに父が
いたのですか
わたしに父が
いたのでしたっけ
十年はざんこくに過ぎて
もうはるかとおく
一日のほとんどを
忘れて過ごしている

 このとき「忘れている」のは「父」のことか、それとも「十年」のことか。どちらかわからない。私は、かなり長い間、そのことを考えた。
 これは最終連で、こう言い直されている。

荷造りの紐を力任せにひっぱって
息をつく
この奇妙な力の入り具合
不意に臓腑をにぎられたような
カッとひらく焦りと命の燃えさし
ジーキィジーキィ 腹の底から蝉があえぐ
八月のせいにして
そそくさと買い物に出かける

 「この奇妙な力の入り具合」は、主観か、客観か。「不意に臓腑をにぎられたような」も主観か客観か。というよりも。このとき杉本は「杉本の肉体」を描写しているのか、それとも「父の肉体」を描写しているのか。わからないね。いや、わからないというよりも、あ、杉本は「杉本の肉体」のなかに「父の肉体」を感じているのだと思った。
 荷造りをするときの「父の肉体」に「杉本の肉体」が重なる。これは、しかし、あたりまえというか、「荷造りをする肉体」というのは、どんな人間の肉体にも共通する。違うことはできない。それなのに、「共通する」と感じ、それをことばにしてしまう。
 と書けば。
 一連目で「忘れて」いたのが「父」だということがわかる。たいていの場合、忘れているが「一日のほとんど」の時間「を/忘れて過ごしている」。しかし、何かあると、ふと思い出す。荷造りをすると、その荷造りをする肉体のなかに、忘れているものがふいにあらわれる。それは「忘れたい」ものだと気がつく。しかし「忘れられない」のだ。「意識」ではなく「肉体」がかってに思い出してしまうからである。
 このあたりの「動き」を近藤の「忌まわしい言葉に思えた」と、まるで他人のドラマとして書いている。望月櫂という人が、近藤にとっては「他人」なのだから、それはそうなるのしかないのかもしれないが、他人だとしても、ことばを動かせばそこに杉本の書いている「父と子」のような関係が生まれるのが「文学」というものではないのか。「ことばの肉体」が「肉体のことば」と交錯し、見分けがつかなくなるのが「文学/詩」の楽しみじゃないかな、と私は思う。
 そうでなければ、「わざわざ」他人を書く必要はない。「他人」こそが「私」なのだ。道でだれかがうずくまって、腹を抱えて、うなっている。「あ、この人は腹が痛いんだ」と感じてしまう。「他人の肉体」なのに「自分の肉体」だと思ってしまう。この瞬間の、越権というか、超越というか。その瞬間の「肉体とことばの一体感/ことばと肉体の一体感」。「わざと」ではなく、「わざわざ」詩を書くのならば、それを書いてほしいなあ。そういうものを読みたい。

 

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「現代詩手帖」12月号(32)

2023-01-10 17:13:33 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(32)(思潮社、2022年12月1日発行)

 粕谷栄一「天使」。

 それはそれは、本当に楽しいひとときだった。何もかも辛抱して生きていても、気の合う二人が、すべてを超越して、愉しく語り合うことが、この世で、未だできるのだ。

 「それはそれは」か。いいなあ、この繰り返し。「それは」の「向こう側」までいってしまいそうだ、というと変だけれど。きっと「超越」というのは、そう言うことだと思う。「それは」では不十分なのだ。

 北川朱実「草原と鯨」。モンゴル体験。

遊牧民が影を指さし
鯨の頭蓋が埋まっていると言う

 そのことばを北川がどう聞いたのか、よくわからない。
 粕谷の詩には「二人」が出てきた。一人ではできないことが、二人ではできた。北川が「遊牧民」に出会ったとき、北川は「二人」になっただろうか。「鯨の頭蓋が埋まっている」という「秘密」は二人の宝になっただろうか。私がもしモンゴル人だとしたら、そして、北川が私のことを「遊牧民」と呼ぶのだったら、私は北川に、私の「秘密」を語らないだろう。

 季村敏夫「薄明」。

あの日 木の椅子から身を起こし
少し横を向き ほほえみ
ゆっくり立ち上がるまでの
一つひとつの所作
かすれた息づかいまで
この世のものとはおもえなかった

 ここには、粕谷が「それはそれは」と呼んでいるものがあらわれている。「それはそれは」この世のものとはおもえなかった。だからこそ、それを確かめるために、繰り返している。つまり、思い出して描写している。
 ことばにしなくても、季村には、それが思い出せる。見える。それを「わざわざ」書くのである。きっと書かなければならないのは、こういうことなのだ。
 どこにも特別なことはない。ありふれた「所作」。だが、「それはそれは」というしかない「所作」なのだ。粕谷のことばを借りて言えば「この世の所作」なのだが、それは「この世の所作」であることによって、「この世」を超越する所作になるのだ。季村のことばをとおして私が見る(想像する)のは、「この世の所作」をこえたもの、「あの世の所作」として動くことによって、逆に「この世」を感じさせる美しさである。「それはそれは」美しい。

 

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「現代詩手帖」12月号(31)

2023-01-09 15:58:11 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(31)(思潮社、2022年12月1日発行)

 松本圭二「恋人たち」。癌宣告。そのとき、松本が悩んだのが「蔵書をどう処分すべきか」という問題。

公共図書館にない本が
我が家の私設図書館には多数あり
それらの価値はわかる人にしかわからない

 本の価値か。「本」の定義がむずかしい。

古書店に売るのが手っ取り早いが
おれは今の古書流通の世界には絶望しかないのだ
そんなものはどうせ端末上の買取相場だけの世界であって
中古車のそれと同じなのだ

 この部分には「価値」のかわりに「相場」ということばが使われている。松本にとって「価値」は「相場」ではない。この「相場」に対立する概念として、松本は「絶対値段」ということばをつかっている。死ぬ前に、蔵書の一冊一冊に、松本が感じている「絶対値段」を書き込んでおく、という計画を立てている。
 「相場=相対的値段」対「絶対的値段」か。
 こういう考え方(読み方)自体が「相対的」かもしれなないなあ。
 それ以上考えても、しようがないなあ、と思う。

 岩佐なを「晩年」。岩佐は「蔵書」ではなく、「蔵紙(?)」を問題にしている。紙をつかう仕事をしていたが、つかっていない紙がある。それをどうしたものか。「ふくろ」をつくることを覚えたので(習ったので)、「ふくろ」を作る。

紙と紙とあらゆる紙を貼り合わせ
折って切って貼って大きなふくろを作り
中に入って
永眠した

 あ、いいなあ、と思う。ここにも「価値」が書かれているのだが、「価値」と書き直してみても、それは「わかる人にしかわからない」ものだろう。だから「価値」ということばをつかわない。だから、そこには「相場」は入り込まない。いや、岩佐の書いていることはいつも「相場」にすぎない。値段はあってないようなもの、わかる人にしかわからないもの、詩のようなものだけれど、それを自覚している。
 「相場」を生き抜くのは「値段」ではなく、「相場」とともにある「肉体」だけである。言い直すと、「相場」が上がろうが下がろうが、そんなものによって「肉体」の寿命がかわるわけではない。いや、「相場」次第で、心臓麻痺を起こして死ぬ人もいるという人がいるかもしれないけれど。

 大橋政人「顔面体操」。朝起きて、顔の肉を動かす。いろいろな顔をつくってみる。

顔を百面ぐらいつくると
私の顔など
最初からなかったことに気づく

 この「私の顔」というのは「絶対的表情(面)」のことか。しかし、大橋は「絶対的」とことばを取り去って、ただ「顔」と書く。

そのことを確認できてから
五本の指で
ようやく今朝の顔を洗い始める

 「顔」はないが、「顔を洗う」。「顔の面(表情)」ではなく、顔の「何」を洗うのか。「相対化」しても、どうしようもないものを洗う。もしかすると「相場」なんていうものは、最初からないのだ。あるのは「相(手)」を意識する「私」というものがあるだけなのだろう。
 この「私」を、どうやって「処理」するか。
 松本の問題は「蔵書」をどうするかではなく、「蔵書」という意識をどう処理するかということになるかもしれない。
 岩佐の詩にもどってみる。なぜ、岩佐は「ふくろ」をつくるのか。

としをぼろぼろに重ねて仕事をなくした後
はふくろの先生に弟子入りした
と云っても先生はほんとうの
先生ではなく
ときどきふくろをくれるひと
新聞紙を切って折って糊つけて
ふくろにしたものをくださる
それを恭しくいただいて家で夜な夜な
同じものをこしらえる
そうした作業を続けていると
違う紙でもふくろをつくれるようになる
たのしい

 「同じものをこしらえる」がいいなあ。「違うもの」をこしらえる、発明するではない。それが、いいなあ。「肉体」は決してだれかと「同じもの」にはならない。「同じもの」を感じるとしたら「同じものをつくる」ときだけである。「同じものをつくることができた」ときだけである。岩佐は「つくる」ではなく、「こしらえる」ということばをつかっているのだが、これは私にはなんとなく「自分の肉体をこしらえる」という具合に響いてくる。それも、いいなあ。
 私は、本を読みながら(ことばを読みながら)、私は私の肉体をだれと同じものに「こしらえる」ことができるかな、と考えたりする。これは、別のことばで言えば、だれと同じものに壊して(崩して)いけるかなあ、ということでもある。手順を守ってこしらえないと、きっと正しく壊す(崩す)ことはできない。

 


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「現代詩手帖」12月号(30)

2023-01-08 09:46:38 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(30)(思潮社、2022年12月1日発行)

 小野絵里華「湯屋へ行く」。山の中の露天風呂の、女たち。とはいうものの、描かれるのは「白いふくらはぎ」だけ。いや、その「白」だけと言ってもいいのかもしれない。

湯場の中ではすべてのふくらはぎが白く見える。光の加減とか夜の深さとか午前中にどんな空気を食べたとか、そんなことでふくらはぎの白さは変わる。

 午前中に食べたものが「空気」ではなく、ほんとうの食べ物(料理)だったら、もっと生々しくなったと思う。ここが、この詩の唯一、私が残念だと感じるところ。せっかく「白」が変わるのだから、「空気」というような抽象に逃げてしまっては、「白」が単純な「透明」になってしまう。「湯気」のようなものになってしまう。「湯気」ではなく、手で触れることができるものであってほしい。
 で、なぜ、そこにこだわるかといえば。

この白いふくらはぎはわたしがいなくてはやってこなかったことなので

 という詩の核心とかかわるからだ。すべては「わたしがいなくてはやってこなかった」。「わたし」こそが詩なのである。その「わたし」が「空気」を食べているのでは、人間ではなく、女ではなく、「仙人」になってしまう。それでは「寓話」。何か機会があれば、「空気」をぜひ別のことばに変えてほしい。「空気」ではなく、もっと「生身の肉体」が食べるものだったら(食べ物によっても違うと思うが)、この詩はほんとうに傑作になる。
 「現代詩手帖12月号」のアンソロジーのなかでいちばん傑作になると思う。「空気」のままでも、これまで読んできたなかでは、この詩がいちばんおもしろい。おもしろいと感じるからこそ、ここの「空気」がとても悔しい。
 「わざと」書き始めたものが「わざわざ」の深みにたどりつくのに、それを「わざと」に返してしまう。それが、悔しい。
 (私の引用では、わかりにくいかもしれない。「わざと」わかりにくくしているのである。私は「あえて」一部しか引用しなかったが、それはこの詩を、ぜひ、読んでほしいと思うからだ。私のことばで汚したくない。詩は、詩集『エリカについて』に収録。「現代詩手帖」のアンソロジーには出版社は明記されていないので、わからない。)

 菊地唯子「青へ」。湯屋ではなく、地底湖へ行く。それも「秘境」かもしれないが、抽象的。だから、

地底湖のゆらめく青に
一千年染められてあれ
そこまでおりてゆくから
「わたしよ」

 「わたし」が鍵括弧のなかにはいり、呼びかけの対象になっているが、これは「一千年」と「午前中に/食べた」の違いだね。菊地は「一千年」も「青」も見えると言うかもしれないが、小野の「白いふくらはぎ/ふくらはぎの白」を見たあとでは、その「青」に「肉眼」では見えない。まあ、「肉眼では見えないものを描いているのだ」と菊地は反論するかもしれない。
 しかし。
 小野の「白いふくらはぎ(ふくらはぎの白)」も、ほんとうは「肉眼」には見えない。小野がことばにすることによって、私が「肉眼で見ることができる」と感じているだけなのだ。「肉眼では見えない」からこそ、意識の肉体、ことばの肉体にしか見えないからこそ、小野は何度も何度も繰り返して「白いふくらはぎ」を書く。そこに「白いふくらはぎ」を存在させるために。
 そうやって、世界が「白いふくらはぎ」にかわってしまう。その瞬間が詩なのだと、私は信じている。

 橋場仁奈「舌の先でさわって」は、小野の世界の描き方を少しだけ思い出させる。歯を抜いたあとのことを書いている。

舌の先を尖らせておよがせて歯茎のぬれたぶよぶよの
縫われている傷口の糸の切れはしを舌でめくってさわって
くゆらせて 裏、表、うらおもてうらうらと
ぬかれた歯のすでにないかってそこにあったはずの
まぼろしの歯のありかをさがしてさぐって
口をとじて口をとじてあまく腐って生あたたかな

 小野が湯屋の湯船のなかから出て行かなかったように、「白いふくらはぎ」から離れなかったように、橋場も口のなか、歯茎、舌、存在しない歯から離れずにことばを動かせば「わざと」が「わざわざ」に変わるのに、途中から違ってしまう。最後の一行で「まぼろしの歯のありかを舌でさわって」と出てくるけれど、これが逆に、途中からそれを書くのをやめてしまったじゃないか、という批判を呼び覚ます。途中で方向を変えたのなら、その変えた先を突き破って、もっと遠くまで行けば、まだおもしろいかもしれない。引き返すくらいなら(引き返して、その結果、元の世界が変わっていまっているのならそれもいいだろうけれど)、新しい世界へ行ったなんて書かない方がいい。単なる「ことば」、言い換えると「嘘」になってしまう。
 動き始めた詩を「わざわざ」壊さなくてもいい。

 

 


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「現代詩手帖」12月号(29)

2023-01-07 11:57:35 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(29)(思潮社、2022年12月1日発行)

 安藤元雄「虚空の声」。

そんなことを言わず我慢してくれないか
もう長いことでもあるまいから
そう言いかけて口籠ったが
妻の耳には届いたかどうか

 詩に限らず、どんなことばにも「省略」がある。その省略を安藤は「口籠もった」と言っている。こころのなかでは言った。でも、声に出さなかった。しかし、声に出さなくても、親しい間柄なら、その「意味」は届いてしまう。
 安藤は、何と言ったのか。
 妻は死んでいる。(省略したが、一連目に書いてある。)その妻が夢の中で「悲しいわ」と訴える。それに対して、安藤は「そんなことを言わず我慢してくれないか/もう長いことでもあるまいから」と答えるのだが、これはことばを補えば、「私がそこへ行くまでには(私が死ぬまでには)、もうそんなに長いことはない(もうすぐそばに行く)。だから、我慢して待っていてくれ」と言うことになるだろうか。
 なぜ、口籠もったのか。それを聞く相手がたとえ死者であろうとも、だれかが死ぬということを語るのは「不吉」である。それに、もうすぐ死ぬから待っていてくれというのは、「おまえはもう死んでいる、死んでいることを自覚してくれ」と言うに等しい。それを生きていて(生きているから)悲しいという「生身の声」を否定することでもある。そんなことは、できない。
 この葛藤のなかに、安藤の「自然」が、とても「自然に」出ている。「わざと」でもなく、「わざわざ」でもなく、「自然に」あふれてきたことばが、とても切ない。

 石松佳「ヨルエ」。

懐かしい匂い。髪が靡く、網戸を抜ける風だ。田には水が張られており、空に漣が立っている。

 このことばを読んだとき、私は、不思議な気持ちになる。石松の詩に登場する「風景」、その風景は私の知っている風景にとても似ている。ただし、それは「いまの風景」というよりも、私が幼いころに見た風景ととても似ている。一方で、それはないだろう、という部分もある。石松がほんとうにこういう風景を知っているかどうか、私は疑問に思っている。たぶん、「文学知識」として知っている風景なのだろう。
 この部分でいちばん美しいのは「空に漣が立っている。」である。なぜ美しいか。現実には「空に漣が立つ」ということはない。空には「水」がないのだから。つまり、この「漣」は比喩なのである。本当は「田に張られた水」の上を風が吹き、漣がたつ。田の水には空が映っていて、その青い色のなかに漣が立つ。まるで、空に漣が立っているのを、田の水が映し出しているような感じ。これは、とてもよくわかる。(だれかの句にあったような風景だとも思う。)
 それはいいのだが。
 田に水を張るのは田植え前である。もちろん田植えの直後も、田には水が張りめぐらされている。だから、「空に漣が立つ」というのは、田植え前や、田植え直後、あるいは苗が大きくなる前のことである。苗が大きくなってしまうと、田の水は見えなくなる。
 でも、それは「網戸を抜ける風」が吹くときではない。網戸を抜ける風が吹くときは、戸は開けられているが、網戸は閉まっている。虫が入ってこないようにするためである。つまり、それは「夏」である。
 田植えはもちろん地方によって時期が違うが、多くは春や初夏である。まだ網戸は閉まっていないだろう。そして、空の青さも、網戸をしめる夏よりも透明である。だからこそ、漣が似合う。
 何が言いたいかというと。
 石松の書いている風景は、「美しく」見えるが、実際には「架空のもの」、実際に見たものではなく、「文学」のなかで拾い集めてきたものにすぎない、そこには「実感」がないということである。少なくとも、私の「実感」とはぜんぜん重なりあうところがない。なんだ、これは、と思ってしまう。
 石松も、これは、理解しているのかもしれない。だから、先の描写のあとに、こう続けている。

この景色には少しだけ悪意がある。

 「悪意」に、どういう思いを込めているのかよくわからないが、こう書くことを「批評」と思っているのかもしれない。
 石松の声は、決して「口籠もる」ことはない。安藤は、何かを言おうとして、その言おうとしたことのなかにある「ほんとう」の前でたじろぎ、口籠もる。だから、その声を聞き取るには、いろいろな体験が必要である。体験を積み重ねても、理解できないものがある。つまり、「個」がそこにある。安藤という「肉体」がそこにある。でも、石松のことばのなかには「肉体」がない。ただ「文学」がある。
 「文学」が「悪意」なら、それはそれでいいけれど。
 でも、「わざわざ」文学のなかから(確立されたことばの運動、定型から)、美しいことばを寄せ集めてこなくても、書けることがあるのではないか。書かなければならないことがあるのではないか、と私は疑問に思う。
 秋亜綺羅がH賞の選考で(たしか、そのとき石松は受賞した)、作品を特定して言っていたわけではないが「古くさい」というようなことを言っていた(正確には思い出せない)。「古くさい」は「文学臭」のことである、と私は感じた。

 大崎清夏「風の匂いを四人で嗅ぐ」の最終連。

ほら、いま
風が風の匂いになった

 「風が風の匂い」であるのは、何か新しいことでもあるのか、と思うかもしれない。しかし、その前には、実は、こういう行がある。

土曜日 ここは繁華街だから
匂いにはスパイスの香りが混ざっていて
風まで混雑している

 繁華街では「風」は匂わないのだ。いろいろな匂いが混ざっていて、それが風の動きに合わせて変わる。でも、ある瞬間、違うものになる。それは何も、強い風が吹いたからではない。物理的な現象ではない。
 「風が風の匂いになった」ということばの前に、こういう連がある。

あまり死ぬことを恐れたくないねと
いつか私に言った人は
まだ生きていて
私もまだ
生きている

 何かに気づいた瞬間、その「気づき」のなかを「風」のようなものが吹き抜ける。その「風」は比喩だが、比喩であることを忘れるくらいに自然に吹いていく。
 ここには「文学」ではなく、「生きている実感」がある。
 「生きている実感」を安藤は口籠もって語るが、大崎は口籠もらず、明確に語る。その明確は「風が風の匂いになった」のように、明確でありすぎることによって、一瞬、無意味にも見える。「風が風の匂い」であるのはあたりまえ、言わなくてもわかる、になる。しかし、これこそが「批評」なのである。批評とは、だれもがわかっていること、知っていることを、そのまま語ること。
 だれも知らないことを語るのは、たぶん「悪意」である。「わざと」である。
 だから。
 私は、こうつづけて書いておこう。
 石松は「懐かしい匂い。」と書いているが、それはどんな匂いなのか。風はどんな匂いを運んできたのか。たとえば、田んぼに関して言えば、私にとっていちばん懐かしい匂いは、稲が実る匂いである。芭蕉が「頼もしい」と言った、収穫前の匂いが懐かしい。刈り取ったあとの稲架で日を浴びる匂いも懐かしい。春先の田を耕したときの匂いも懐かしいし、田んぼに水を引き入れる(張る)ときの新鮮な水の匂いも懐かしければ、田んぼに張った水が日を浴びて温む匂いも懐かしい。石松は、風に靡く髪のことを書いているが、その髪の匂いにいちばんぴったりくる「懐かしい匂い」は、田んぼの(田の水の)どのときの匂いなのだろうか。私以外の読者は、石松の詩のなかで、いったいどんな匂いを懐かしいと感じているのか。

 

 

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