詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新井豊吉「触れる人」

2016-01-31 22:14:34 | 詩(雑誌・同人誌)
新井豊吉「触れる人」(「潮流詩派」244 、2016年01月10日発行)

 新井豊吉「触れる人」は誘われて接客の仕事をする少女を描いている。

おじさんがわたしの手から入ってきて
あまりに温かいので街に誘われた
宝石のようなお酒と果物のやま
ガラスに光る液体は甘く
友達と飲むお酒とはちがうみたい
おじさんは大丈夫だからという
いままで聞いたことのないような
しっかりした大丈夫が
わたしの心と重なる

 一行目の不思議なことがらを二行目で言い直している。「手から入ってき」たのは「おじさん」そのものではなく「温かい」何か、「温かさ」だろう。「おじさん」が「わたし」の手に触れる。「温かさ」が手に触れる。「あまりに」というのは、少女がそれまでに感じたことのない「温かさ」を意味しているのだろう。「街に誘われ」と書いているが、「温かさに誘われ」だと思って読んだ。
 そう読んだ上で、私は「入る」という「動詞」と、「誘われる(誘う)」という「動詞」のつかい方、その関係に、うーん、とうなるのである。
 ふつう、だれかの手が自分の手に触れて、それを「温かい」と感じるとき、「包む」という「動詞」をつかう。おじさんの手の温かさがわたしの手を包む。でもここでは、「包む」という手の外側に関係する動詞ではなく、「入る」という内側に関係する動詞がつかわれている。手は確かに「包む」のだろう。けれど、「温かさ」は「包む」と同時に「入る」、「侵入してくる」。「包む」手、「触れる手」は拒むことができる。払いのけることができる。けれど、触れてしまった「温かさ」は払いのけることはできない。「手(肉体)」のなかに「入る」。入ってきてしまう。
 「わたし」はそれを受け入れる。この「温かさ」と同じ感じで、「誘い」が少女の肉体のなかに「入ってきた」。そして少女はそれを受け入れた。つまり「誘われた」。
 この「入る」という動詞は、また別の形で言い直されている。「大丈夫」が「わたしの心と重なる」。手(肉体)のなかへ入ってくるというのは、「心」のなかに入ってくることと同じ。入ってきて「重なる」。「重なる」は別の動詞で言えば「まじる」かもしれない。(「まじる」という動詞を新井が書いているわけではないが、私は、そう思って読んだ。)まじって、区別がつかない。「重なり」はもう「剥がす」ことができない。つまり「一体」になっている。
 「いままでに聞いたことのないような/しっかりした大丈夫」。この二行も、いいなあ。これは「温かさ」だな。少女は、きっと「大丈夫」ということばで、だれかから支えてほしかったのだろう。「支える」は「温かい」に通じる。
 まるで、ここに書かれている少女になった気持ちになる。少女の気持ちがわかる、というのではなく、ことばを読んでいると、少女になってしまう。

肩をだしたきれいな女の人や
タレントのような男の人に
わたしは視られている
かすかな恥ずかしさとかがやきが
あちこちにちらばり
ディズニーランドにいるよう

 この部分も、まるで新井が書いたというよりも、この詩のなかの少女自身が書いたもののように感じられる。あるいは、少女になって、私(谷内)が書いているように錯覚してしまう。言い換えると、もし私が少女なら、体験していることをこんなふうにことばにしたい、ことばにすることで体験を反芻したいと感じる。読むと、少女になってしまう。
 「あちここちにちらばる」と「ディズニーランド」という比喩が、そうかこれが少女の実感なのかと、感動してしまう。「統合(統一)する」ではなく「ちらばる」。それも、どこにとは特定できない「あちこち」という不特定の場所。
 少女は、自分自身を「統一」できずにいる。それが「ちらばる」という動詞のなかで具体的に書かれている。この「統一できない/ちらばる」は、その前の「恥ずかしさと輝き」を言い直したものである。「恥ずかしい(恥じる)」と「輝き(輝く)」は、同じもの(統一した状態であるもの)ではない。「恥じる」と「輝く」という動詞は別の動きである。「ひとつ」の「こころ」が別々に動いてしまう。それが瞬時に起きる。それが「ちらばる」ということ。
 この「ちらばる」自己、「ちらばるわたし」を「統一」するのが「おじさん」だ。

一杯のお酒は
お給料では払えない
でもおじさんは
君はかわいいから大丈夫だという
かわいいと何度もいってもらってうれしい

 「ちらばるわたし」はおじさんの「かわいい/大丈夫」ということばを聞くことで「うれしい」にかわる。「うれしい」に「統一」される。
 このあと、少女はどうなるか。

知らない女の人が入ってきた
わたしはおじさんに断りもなく
家に戻ることになった
怖くなかったかと先生はいう
お父さんもお母さんも怒っていないからと
知らない女の人はいう
言葉はわたしをすり抜けて
脱ぎ捨てたばかりの服にころがった

 「知らない女の人が入ってきた」は「店に」入ってきた、という意味だろう。詩の冒頭、一行目の書かれていた「手から入ってきて」とは「入る」という動詞は同じだがつかい方がちがう。
 一行目の「入る」に対応するのは「言葉はわたしをすり抜けて」の「すり抜ける」である。「わたしを」は「わたしの心を」と「心」を補うと、「言葉はわたしの心ををすり抜けて」になる。そして、「わたしの心と重なる」という行ときちんと向き合う形になる。
 「温かさ」は「手(肉体)」に、さらに「心」に入ってきた。「大丈夫」「かわいい」ということばも少女の「心」に入ってきた。けれど「怖くなかったか」「お父さんもお母さんも怒っていない」ということばは少女の「心」には入ってこない。「すり抜けていく」。そして、何も「統一」せず、「脱ぎ捨てたばかりの服にころがった」。
 「ころがった(ころがる)」は、どこか「ちらばる」に似ている。
 しかし、どこかがちがう。
 「ちらばる」には「統一したい」という意識が隠れている。統一されているもの、ひとつの状態であったものだけが「ちらばる」。「ころがる」には「統一」をもとめる意識はない、と思う。「統一」とは無関係である。何かから分離してしまって、それが分離したまま、そこにある、という感じ。
 この詩では「ころがる」の「主語」は先生や知らない女の人の「言葉」だが、一方で「脱ぎ捨てたばかりの服」もまた「ころがる」の「主語」として読むことができる。「言葉」といっしょに、そこに「ころがっている」。少女の「肉体/こころ」とは無関係に、そこにある。
 なぜ、「ころがった」のか。おじさんのことばと比較するといいかもしれない。おじさんのことばは「いままで聞いたことのないような」ことばだった。「しっかり」という印象がある。こころをこめてそう言っている感じがする。「しっかりした」は「信用できる」でもあるかもしれない。一方、先生や女の人のことばは「いつも聞いている(聞かされている)」ことばかもしれない。そして、先生や女の人のことばというのは、少女を「外側」から「枠にはめ込み」、「統一」しようとするものだろう。おじさんのことばが「内側」から少女を支えるのとは、その点がちがう。「外側」から少女を「統一しようとする」ものだから、それは少女と分離して、「ころがる」。あてがわれた「服」と同じように。
 このとき、少女のこころと肉体は、まだ「おじさん」といっしょにある。だから、この詩が書かれている。その少女の「さびしさ」が、うーん、美しいと言っていいのかどうかわからないが、美しい。

ふゆの少年―新井豊吉詩集
新井豊吉
潮流出版社

*

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岬多可子『色を熾す』

2016-01-30 10:08:48 | 詩集
岬多可子『色を熾す』(私家版、2016年01月01日)

 岬多可子『色を熾す』は月ごとの12篇。「 潮ひかり」が美しい。

海草をもどすと
海がほどける。
ちいさな器は潮のたまり、
波打つ 際(きわ)にも 春は立ち、
つまさきで 仄暗さをさぐるように
日脚は そろそろと伸びていく。
光の やあらかく
水と硝子をくぐりぬけて
ゆるむ ゆれる ゆがむ、
つぷつぷとつぶやく 息の泡。

 「海がほどける」が印象的だ。かたまっていたものが、「ほどける」。そして「ひろがる」。書いてある「動詞」はひとつなのだが、「ふたつ」の「動き」がある。「広がる」の方は、書いていないから、読者が勝手に「誤読」するのだが、その「誤読する」瞬間に、詩に参加している気持ちになる。言い換えると、自分で詩を書いている気持ちになる。岬が書いた詩なのに、「広がる」と誤読するとき、自分が書いた作品になってしまう。それが、とてもうれしい。
 あとは、もう、岬が見ている「世界」ではなく、私(谷内/読者)が見ている世界。
 春先の波打ち際に立っているのは岬ではなく、私。冷たいかな? おそるおそるのばすつまさきは、岬のつまさきではなく、私のつまさき。つまさきを海にひたしたことを「肉体」が思い出す。その肉体は、まぎれもなく私の肉体。
 そのときの「おそるおそる」を岬は「仄暗さをさぐる」と言っている。「仄暗い」のは波か、波が冷たいかもしれないと思う肉体か。かすかな不安が、こころをかすかに暗くする。それが「仄暗さ」と呼ばれるものかもしれない。もちろん、それは「海の色」そのものでもあると思う。「肉体の内部」と「海の内部(波の内部)」がかさなりあう。「さぐる」という動詞は「さぐられる」という形でかえってくるのかもしれない。そして、この「肉体」と「海」の「内部」のかさなりあい、交流に、二行目の「ほどける」が満ち潮のようにしずかに押し寄せてくる。
 「ほどける」。外部がほどかれ、内部がほどかれる。内部が、外へ広がっていく。ほどかれ、ふたつの「内部」がまじりあう。
 この「ほどける/ほどかれる/ひろがる」は、さらに「伸びていく(伸びる)」という動詞で言い直される。「主語」はこのとき「海」でも「私のつまさき(肉体)」でもなく、「日脚」なのだが、「主語」にこだわっていては、世界がばらばらになる。「動詞」が世界をしずかにととのえているのである。
 どんな動詞でも、私たちはきっと「自分の肉体」で確かめている。反芻している。そして、「動詞」を共有することで、私たちは「海の水」にも「日脚」にもなる。言い換えると、そのとき「海」も「日脚」も「私の肉体」なのである。
 この「日脚」は次の行で「光」と言い換えられているから、「光」もまた「私の肉体」である。
 で、そのあと

光の やあらかく

 ほおおおっ。
 「やわらかく」ではなく「やあらかく」。ことばが、崩れている。崩れているけれど、それを「肉体」は「わかる」。わかってしまう。「やあらかく」なんてことばはない、というのは「頭」が言うこと。「肉体」は「やわらかく」よりももっと「やわらかい」のが「やあらかく」だとわかる。「子音」がひとつ減る。声に出すときの肉体の動きがひとつ減る。「あ」の音がつながっていく。明るく動いていく。「仄暗い」ものが「ほどかれ」て、あかるく「伸びていく」。

 この「動詞」の変化は、「硝子(器)」という「日常(現実)」を「くぐりぬけ」ることで、「もどる」ことで、もう一度変化する。

ゆるむ ゆれる ゆがむ、

 「ゆるむ」は「ほどける/ほどく/ほどかれる」につながる動詞である。「ゆれる」は「伸びる(広がる)」につながるだろう。「ゆがむ」はなんだろう。「仄暗さ/陰り/影」とかさなるかな? ほんとうの春か、春と感じるだけで、まだ冬なのか。光は春だが、水は冬。あいまいな、しかし予感が動く二月。そのなかで「ゆれる」岬。
 何か、料理のために乾燥した海草を水でもどしている、その海草をや水を見るというよりも、そこにいる「岬の肉体」そのものを感じる。これは、そこに書かれている「動詞」をとおして、私が岬になってしまうからだろう。

 でも、

つぷつぷ

 というオノマトペのなかに、ふいに岬があらわされてきて、私は突き放される。海草を水につけたときにできる気泡。それがゆっくりと水になじみ、とけていく様子なのかもしれない。「息の泡」の「息」には岬の呼吸もふくまれているのかもしれない。
 短い詩なのに、ここで一気に複雑になる。「光の やあらかく」で感じた解放感が、「水と硝子を……」からだんだん消えてきて「息」の苦しさになる。そこに岬の「現実」があるのかもしれないが、明るいままで終わってもよかったのでは、と思う。「正月」に読む詩なのだから。



桜病院周辺
岬 多可子
書肆山田
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渡辺めぐみ「贈りもの」

2016-01-29 11:12:22 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺めぐみ「贈りもの」(「北奥気圏」11、2015年12月10日発行)

 渡辺めぐみ「贈りもの」には「ルネ・マグリット作「心臓の代わりに薔薇を持つ女」に寄せて」という副題がついている。

本当に素敵なものは何かしら
統計学的数字の上を 世界の学者が歩いている日にも
彼女のうつむく視線の下に あるのではないかしら

 私は「心臓の代わりに薔薇を持つ女」を見ていない。ルネ・マグリットといえば、鳩(鳥?)の輪郭のなかに空が描かれている絵や布をかぶった恋人のキスの絵を思い出すが、実際に見たことがあるのは何点か。思い出すこともできない。ほとんど何も知らない。
 だから、これから書く感想は、とてもいいかげんなものなのだが……。
 二行目が、ルネ・マグリットに似ている。一行目の世界を突然、破る。「素敵」といういわばセンチメンタル(?)な感情と「統計学的数字」ということばの出合いは、日常的にはおこらない。そのどちらもまったく聞き慣れないとことばというよりは、どちらかといえば「日常的」であるにもかかわらず、まあ、出合うことはない。その出合うはずのない「ことば」がひとつの作品のなかで出合っている。
 そして、こういうとき、不思議なことが起きる。「素敵」と「統計学的数字」とでは、「統計学的数字」の方が「抽象的」である。「頭」を刺戟してくる。そうすると、「素敵」というセンチメンタルが少し「知的」になる。「感情的」な何かが洗い流され、「抽象的」になる。
 「日常」なのに、「抽象」。何か、変。
 たとえば、顔に布をかぶったままの接吻の絵のよう。キスはありふれている。布もありふれている。ともに「日常」である。それが組み合わさり、布をかぶったままキスをしている男女になってしまうと、何か変。何かが「抽象」され、そこに「意味」があるように思ってしまう。「抽象」とは何かを省略し、つまり何かを隠し、隠すことで別な何かを浮かび上がらせる。見逃していた「意味」を浮かび上がらせる。考えさせる。
 その「意味」って何?
 わからないけれど、その「わからない」ものをめぐって、「頭」が動く。そういう「頭」の動きが「意味」かもしれない。
 「感情」がそこにあるはずなのに、その「感情」を「感情」ではなく、別な何か、たとえば「理性/知性」で描き直そうとする「頭の動き」が「意味」。そういう運動を引き起こす力。その力のなかに、引き込まれていく。
 ルネ・マグリットのこうした絵の印象と、書き出しの二行のことばの衝突、出合い方が、なんとなく似ている。「何かしら」「ないかしら」という「疑問」が思考を動かしていく。感情で動くというよりも、思考でことばを動かしていく渡辺の特徴がうかがえる。
 ここから渡辺のことばは、さらにどう動いていくか。
 二連目。

蘇鉄の味のする 夏の柩との和音
疾走する魂を突然カーブさせて
この世の梁を抜け あっちへ行ってしまった彼女の女友達を
鳥の飛行が捜しに行った日があった
「笑ってよ ベイズリー模様のスカートをなびかせて
愉悦が熱射で燃えていた日のように」
とは彼女も誰も言えなかった夜の和音
それは彼女の胸にきっと今も畳み込まれている

 「蘇鉄の味のする」と「味」という「肉体(味覚)」の方へ動きはじめる。さらに「 夏の柩との和音」と耳(聴覚)を動かす。「蘇鉄の味のする 夏の柩との和音」という行には、味覚と聴覚の出合いというもののほかに、何か「不吉」なものがある。不吉は「柩」がもたらすものだが、「蘇鉄の味」の「鉄」ということばが血の「鉄分」を思い起こさせることも影響している。血の味。けれど、その「味」は「和音」ということばと衝突して、一気に「抽象的」になる。鳩のなかに描かれた空のように、どっちがどっちかわからなくなる。「味(味覚)」なのに、それが「和音(聴覚)」ととらえなおされて、「味は音」であるかのような「錯乱」が起きる。あるいはこの「錯乱」は「頭(思考)」と「肉体(味覚/聴覚)」のせめぎあいと言い直すこともできるかもしれない。しかし、こういうことは「区別」してはいけないのだろう。
 鳩の輪郭の中の空。それは鳩が隠しているのか、それとも鳩の「肉体」のなかにある空をあらわしているのか。そういう区別は無意味。それは、そのまま、そうしてある。そのまま「両方」をつかみ取るとき、鳩は空を飛ぶ。
 そういう感じで「味/聴覚」「和音/味覚」のように、「肉体」のなかで何かが錯乱しながら、ことばにならないものを探していると読んだ方がいいのだろう。
 その「錯乱」を渡辺は次の行で「疾走する」「カーブ(する)」と言い直しているのかもしれない。まっすぐではなく、曲がる(カーブする)、つまり「逸脱する」。「この世」から「あの世」へ逸脱する。
 「あの世」は「死」であるけれど、それは必ずしも「肉体」の「死」とはかぎらない。「愉悦」「熱射」「夜」ということばのなかへとカーブし、疾走していくなら、その「死」は「自己の死=エクスタシー(セックスがもたらす意識の死)」かもしれない。
 ここにもう一度「夜の和音」と「和音」が繰り返されている。次の行の「胸」と「(和)音」を組み合わせるなら、そこに鼓動(心臓の音)が浮かび上がる。胸の奥で、エクスタシーのときの鼓動がまだ生きている。
 渡辺の詩で旅しているルネ・マグリットの絵を私は知らないが、きっとヌードの女だと思う。セックスを始める前の女ではなく、セックスし終わったあとの女だと思う。セックスそのものを描かずに、その後の鼓動の記憶を薔薇に象徴させている。象徴は「抽象」でもある。「抽象」とは「現実」というよりも「現実」を整理した「過去」の持続かもしれないなあ。
 「時間」という抽象を描いているのかもしれない。
 三連目を省略して、四連目。

本当に素敵なものは何かしら
彼女が大切な人に贈ろうとしている薔薇の花は
幸福の余熱 地熱 錯覚
いいえ
どれでもない ただ彼女の心臓の音
どくどくと
彼女が肘をつく テーブルクロスに覆われたテーブルの下の
空っぽの秘密に落ちてゆく渇きの音

 薔薇が心臓であることが、語りなおされている。ただし、それは「愉悦が熱射で燃えていた」と二連目で「過去形」であったように、「幸福の余熱」とやはり「過去」なのである。「いま」ここに存在するのではなく、「いま」あるかのように感じてしまう一種の「錯覚」である。ほんとうは「空っぽ」へ落ちてゆく。「空っぽの秘密」をさびしく思う「渇き」である。
 幸福な記憶が渇きを誘うのか。渇きが幸福を記憶を思い出させるのか。鳩と空のように、二つは合体することで「ひとつ」になっている。そういう「ひとつ」を渡辺は探し、ことばにしようとしている。それが「和音」ということばに集約されている。

 抽象的でさびしい色と形を見て、ルネ・マグリットの絵を見て、渡辺は描かれた女の心臓の音を聞いた。それはルネ・マグリットの心臓の音でもあり、また渡辺の心臓の音でもある。三つの音が「和音」になって響いている詩だ--と書いてしまえばいいのかもしれないけれど、書いている内に少しずつずれてしまった。

ルオーのキリストの涙まで
渡辺 めぐみ
思潮社
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久谷雉『影法師』

2016-01-28 09:59:05 | 詩集
久谷雉『影法師』(ミッドナイト・プレス、2016年12月11日発行)

 久谷雉『影法師』は「旧かなづかい」で書かれている。

鏡の中の惑星を
一日かけてみがくやうに、                (「骨よりもながく」)

 どうしてかな? 「口語」の感覚(におい)を消したいのかな? ことばをことばとして独立させたいのかな? ことばには、ことば独自の運動がある、ということだろうか。たしかに、この二行は、そういうことを語っているかもしれない。
 「鏡の中の惑星」とは鏡に映っている惑星だろう。私は水に映った月は見たことがあるが、星が水に映るかどうか、知らない。水に星が映っていると気づいたことがない。だから鏡に星が映るかどうかも、よくわからないのだが……。それが鏡に映っているとしても、星そのものを磨くというわけではない。あくまで磨くのは鏡である。だから、もし「正確」に言おうとするなら、「鏡の中の惑星を磨く」ではなく、「惑星の映っている鏡を磨く」ということになる。
 しかし、こういう「散文的」な言い方では、磨いているひとの「事実」は違ってきてしまう。磨いているひとの思いは鏡そのものにあるのではなく、星の方にある。鏡ではなく、星そのものを磨いて、星をもっと輝かせたい。
 ことばは、ことばそのものの「正確な意味」ではなく、ことばの奥にある「欲望」のようなものを伝えたい。「意味=日常の生活をととのえているもの」を、ただわかりやすく伝える。ふつうに話しているように書くのではおもしろくない。「ふつうのことばではない」のが「詩」である。
 「旧かな」は、そういう「ふつうではない」という感じを静かに目覚めさせる効果があるかもしれない。

 しかし、久谷が、そういうことを意識して「旧かな」をつかっているかどうかわからない。ちょっと「異質」という感じを私は受けるけれど、「異質」を明確にするためにつかっているのではないかもしれない。
 また、私は「ふつうではないことば」という具合に書いたけれど、久谷のことばが「旧かな」ではなく、いま私たちがふつうにつかっている「かなづかい」で書かれていたとしても、やはり同じように読んでしまうだろう。
 私がほんとうに刺戟を受けているのは、かなづかいとは違うところに動いてるものである。
 私がいちばんおもしろいと思ったのは、「天の近所」。ここにも「鏡」が登場する。

いくつかの鏡が
近所と近所をつないでゐる

 どの家にも「鏡」がある。その「鏡」の存在によって、近所(家?)はつながっている。「鏡」がどんな役割をしているかわからないが、ひとは鏡の前でたぶん似たような動きをする。顔を見る。顔を確かめる。姿を確かめる。「家」と「家」をつなぐというよりも、人間と人間をつなぐ。自分をみつめ、ととのえる、という人間の行動が、人間にひとつの「形」をあたえる。その、ことばにはしない「形」が、どこかで「近所」全体をつないでいる。「ばらばら」なはずのもの、個別の名前で呼ばれるものを「人間の形」でつなぐ。その役割を「鏡」がしているということだろう。
 こういう別個の名前で呼ばれるはずのものが、何かを媒介につながっている、ということはほかにはないだろうか。

荷台の
木箱からこぼれる
鶏のはらわたの匂ひ、
光よりもはげしく
わたくしの眼玉にやすりをかけやうとする--

 ここに、私は、「鏡」に通じるものを感じる。
 「匂ひ」(嗅覚)と「光(視覚)」は別なものである。「匂ひ」が「眼玉」に働きかけることはない。「眼玉」が「匂ひ」を感じるわけではない。けれど強い「匂ひ」が「肉体」の内部を刺戟し、攪乱し、嗅覚以外のものにも影響をあたえるということはあるだろう。「嗅覚」「視覚」と、ことばでは別々のもので呼んでいるものも、「ひとつ」の「肉体」のなかに存在するものだからである。どこかで、何かが、つながっている。
 その「匂ひ」の刺戟は、「視覚(眼玉)」に及ぶのだが、そのときそこで動いているのは「やすりをかける」感じ、「触覚」である。
 嗅覚、視覚、触覚が、「肉体」の奥でつながり、本来の「感覚」の場所とは違うところで動く。それまでのことばではとらえられないものとして動く。
 私がおもしろいと思うのは、そういう部分なのだが……。そして、これは「旧かな」ではなく、私たちが日常的につかっているかなづかいであっても、同じように感じるものだと思うのだが……。

 思いながらも、「旧かな」へと引き返してみる。

鶏のはらわたの匂ひ

 「匂ひ」の「ひ」は「火」でもある。何かが燃えている。「火」はあたたかい。「はらわた=内臓」の「あたたかさ」が「匂ひ」の「ひ=火」のなかにある。
 その「火」はしずかに燃えるだけではない。ときに、はげしく燃える。はげしく燃える火ほど、その輝きは強い。「火」は「光」でもある。「火」は「光」を発し、目をいぬく。「ひかり」のなかには「ひ」が存在する。
 こういうことばのつながりは、現代かなづかいでは見えにくい。いや、見えてこない。現代かなづかいがふるい落としてきた何か、「未分節」状態の何かを照らし出すために、久谷は「旧かな」をつかっているのかもしれない。



昼も夜も (midnight press Original Poems)
久谷 雉
ミッドナイトプレス
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鏡/異文

2016-01-27 22:40:20 | 
鏡/異文

この鏡は見たことがある。
花瓶のなかの花を裏側から映していた。ドアが開くと、奥の部屋にある鏡に、目配せのように、いま映している色を投げつけることもあった。

これは「対称」について書こうとした詩の冒頭。
精神を動かすために、いくつかの疑問が余白に残されている。

一、反対側の鏡が花の正面の形を投げ返してきた場合、それはどこで交わるのか。
二、その場合、時間の「対称」はどう影響するのか/鏡のなかで遅れはじめる時計。
三、自分がどこにいるかわからない、と漏らす老人。

いま、ことばは肉体の位置にもどることを欲する。つまり、
見おぼえるある鏡は、体を動かしたときに見えるだろうということを思い出す。
下にしていた脇腹を上にし、上にしていた脇腹を、なまあたたかいくぼみにあわせる。
立体の鏡のように。

「ひらいた傷口」という抒情詩が、その瞬間に完成する。
書かれないことによって。



*

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クリエーター情報なし
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マノエル・デ・オリベイラ監督「アンジェリカの微笑み」(★★★★★)

2016-01-27 20:43:19 | 映画
監督 マノエル・デ・オリベイラ 出演 リカルド・トレパ、ピラール・ロペス・デ・アジャラ、レオノール・シルベイラ、ルイス・ミゲル・シントラ、アナ・マリア・マガリャーエス

 オリベイラの映像の特徴はカメラが動かないことである。動かないことが、カメラの演技になっている。固定されたフレームのなかで、役者が動く。
 冒頭は川越しの街の夜景。道路を走る車のライトが動くので「映画」とわかるが、ぼんやり見ていたら「写真」とかわらない。つづく「ストーリー」の発端も、雨の路地にカメラが固定されていて、向こうから車が走ってくる。止まる。人が降りてきて、写真店のベルを押す。二階の明かりがつく。ひとのやりとりがある。これを、固定したフレームで切り取る。
 そのとき、何がわかるか。
 「世界」には「動いているもの」がある、ということがわかる。そんなことは、わざわざ「映画」を見なくてもわかる、というひとがいると思う。もちろん「映画」を見なくても、わかる。でも、私たちは往々にして「動いているもの」にひっぱられて、「動いているもの」の視点で「世界」を見つめてしまいがちだ。その結果、奇妙な言い方になるが、「ほんとうに動いているもの」は何か、ということが置き去りになる。
 たとえば、先に書いたカメラ店のシーン。「館のひとがカメラマンを探している」「夫はポルトに行っていて三日たたないと帰って来ない」というようなやりとりを、話しているひとの「アップ」で撮ってしまうと、観客はその役者の「肉体」にひっぱられ、表情にひっぱられ、そこで「余分」なことを思ってしまう。もちろん、その「余分」な情報にもおもしろさがあるのだけれど、それはこの映画のテーマではない。そういう「余剰」をオリベイラは排除している。このシーンではまだ「ほんとう」に動いているものは少ない。人間は動いているようで、動いていない。ことばだけがストーリーを動かしている。
 「ほんとうに動いているもの」だけを撮る。
 それを「象徴」するのが、青年カメラマンとアンジェリカが、シャガールの絵の恋人のように空を飛ぶシーンである。ありふれた映画では、ひとが空を飛ぶとき、ひとは動かず背景が動く。ひとが動くときも、背景が動く。つまり背景の変化で「飛ぶ」を実感させる。
 ところがオリベイラは背景(フレーム)を固定させ、スクリーンの右から左へ、抱き合った二人を移動させる。水平に飛ぶ二人の足がスクリーンの左へ消えてしまうと場面が変わり、また右から左へと二人が飛んでゆく。
 この「映像」を見ることで、あ、これは「現実」ではなく、青年の「こころ」なのだとわかる。青年の「こころ」のほんとう。動いているのは青年のこころだとわかる。アンジェリカに恋をした青年は、アンジェリカと抱き合って、幸福を感じながら空を飛んでいる。それが青年の「夢」だとしても、それは「ほんとう」に動いているこころを、そのまま語っている。
 青年は「ほんとう」にアンジェリカに恋をしているのだ、とわかる。
 何が動いていて、何が動いていないか、というところから映画を見直すと、あらゆるシーンがおもしろくなる。
 青年が館に到着する。死んだアンジェリカの写真を撮る前の、親族が集まっている部屋。人々は動かない。それぞれがひとつの方向を見ている。動くのは、妹と青年。妹は青年に「仕事」の説明をする。ほかのひとたちは、そのことについていろいろ思っているだろうが、「思っている」ということを肉体であらわすだけであって、「何を思っているか」はつたえない。そのシーンで「ほんとうに動いている/時間を動かしている」のは、妹のことばだからである。妹の意思だからである。
 青年がアンジェリカの写真を撮るシーンでも同じである。ひとびとは、じっと動かない。動くのは、ほんとうに動く必要がある/時間を動かす必要があるひとだけである。
 で、そのとき、死んでいるアンジェリカが、青年のカメラのなかで、突然、微笑む。それは「まぼろし」かもしれない。しかし、ほかのものが動かないなかにあって、アンジェリカの顔だけが動き、目をあけ、微笑むとき、その微笑みが時間を動かしていく。青年のこころを支配し、青年を動かす力になっていく。
 それは「ほんとう」に動いた。だから、青年に影響する。
 別なシーン、視点からとらえ直してみる。
 青年が下宿している家には、ほかにも下宿人がいる。橋の建設に関係している技師(?)と友人(彼も仕事の関係者か)、若い女性。そこでは、青年の様子がおかしいということが語られる。また橋の建設についても語られる。彼らはテーブルに座って、朝食のあと、ただ「ことば」を動かしている。青年の様子から、哲学的な話題へとかわり、さらに橋の建設が中止になったこと、経済の話題へと動いていく。でも、そこではほんとうは何も動いていない。何も動いていないから、青年は、そこから何の影響も受けない。「ことば」はほんとうの動きではないのだ。(だからこそ、ふつう、映画は、ことばのなかで動いているものを役者の「表情」やアクションに置き換えて動かす。ことばは、動いている「表情」の意味を説明するだけである。)
 青年がアンジェリカ以外に関心を持つものといえば、ぶどう畑で働く労働者である。鍬をつかって、畑を耕している。(土に空気を入れている。)そこでは人間が動いている。畑を耕すとき、ボス(?)はひとりだけ鍬をふるわず、歌を歌う。その歌にあわせてほかの人間が動く。歌うことでボスは仕事を動かしている。朝食のテーブルの、技師たちの会話とは大違いである。朝食のテーブルでは、何一つ動かない。ことばは、誰にも影響しない。だれかを動かすということはない。ひとを動かさないことばだけが、かってに動いている。
 青年は、動かない写真をとおして、動くものをとらえている。動くものが「ほんもの」と感じている。そして、その動くものと「ひとつ」になる。これは何とも言えない、不思議な「矛盾」なのだが、矛盾しているからおもしろい。そこに「ほんとう」があると感じる。
 もしかすると。
 オリベイラの「映画」は「写真」が動き出す瞬間というものを、しっかりととらえようとしているのだと言えるかもしれない。むかし、映画を「活動写真」と言ったが、まさに「活動写真」としての映画を撮っているのだと言える。
 死んだアンジェリカ。動かないアンジェリカ。それが、瞬間的に動く。カメラのなかで、写真のなかで、動く。その「驚き」、あるいはその「喜び」「興奮」が、そのまま一篇の映画へと昇華していく。それを追体験するような興奮がある。
 「写真が動く(映像が動く)」は、また、「写真を動かす(映像を動かす)」でもある。これを応用しているのが、先に書いた美しいシーン、青年がアンジェリカと抱き合って空を飛ぶシーン。そこでは青年とアンジェリカがほんとうに飛んでいるのではない。抱き合った二人を動かすことで、「飛んでいる」をつくり出している。「写真」を「活動」させることで恋人が空を飛ぶという映画にしている。
 うーん、美しい。何度思い出しても美しい。
 この映画は、また、機械文明を批判しているかもしれない。青年が下宿の部屋から見下ろす路をタンクローリーが走っていく。ぶどう畑をトラクターのようなものが耕していく。それらはもちろん人間が運転している、つまり動かしているのだが、逆に人間はタンクローリーやトラクターによって動かされているかもしれない。発達する機械に動かされて、青年のように「夢見る力」を失っているかもしれない。映画は、もしかすると発達する技術によって、「写真」を動かす瞬間に生まれる感動を置き去りにしているかもしれない。そういうことも感じさせる映画である。
                      (KBCシネマ1、2016年01月27日)






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アトム・エゴヤン監督「白い沈黙」(★★★★)

2016-01-26 11:38:20 | 映画
監督 アトム・エゴヤン 出演 ライアン・レイノルズ、スコット・スピードマン、ロザリオ・ドーソン

 予告編を見たとき、誘拐された娘を探す父親の話だと思った。「ストーリー」そのものはその通りなのだが、描かれているのものはまったく違う、と言った方がいい。
 映画はカナダの雪の森からはじまる。雪というのは冷たいものだが、どこかにあたたかみもある。「雪の降る街を」という歌は、その「あたたかみ」を感じさせる。日本の雪は、冷たさ(張り詰めた何か)にふれることで呼び覚まされる「あたたかさ」といっしょにある、と私は感じている。カナダの雪は(アトム・エゴヤン)はそうではない。触れると、そこから凍傷になる、触れた人間は傷ついてしまうという冷たい驚怖がある。何もない雪の原と、立っている木々。その「あたたかさ」をまったく感じさせない感じが、かなり怖い。日本の雪の場合は、大地や木々に「はりつく」というよりも、大地や木々をおおうという感じがする。雪が「真綿」のように大地や木々をつつみ、「冷気」から守る。「かまくら」のなかが、風にさらされない分だけ「あたたかい」のに似ている。日本の雪は、やさしい。アトム・エゴヤンの雪は、そうではない。雪はあらゆるものに「はりつき」、熱を奪う。凍死したくなければ、雪から離れているしかない。
 このあと、突然「ストーリー」がはじまる。誘拐犯と誘拐された少女が突然出てくる。少女は監禁されていて、誘拐犯はテレビモニターで少女を観察している。実際に見ることができるのに、そして実際に会話をするにもかかわらず、モニターで監視することに力点が置かれている。部屋にはモニターがいくつかあって、少女を監禁している部屋以外も映している。それがどこなのか、最初はわからないが、これが変に「冷たい」。「監視」には「見守る」という要素もあるが、「見守る」なら「あたたかい」。「見守る」から「守る」を取り払って、ただ「見る」のだ、ということはストーリーの展開とともにわかってくる。
 「見守る」ではなく「見る」。「見守る」には「守る」に力点を置くと、どうしても「接触」が入ってくる。親が子どもを何かから守るとき、自分の「肉体」で包む。そこに必然的に「接触」、「触れる」という動詞が、「肉体」といっしょに入ってくる。
 「見る」は、「触れる」がない。触れなくても「見る」ことはできる。「見る」から「肉体」の「触れる」が排除されるとき、ひとは「対象」に触れないのだろうか。そんなことはない。「肉体」が触れないかわりに「想像力」が対象に「触れる」。
 これが、怖い。
 「想像力」は「想像力」を満足させるために、暴走する。「肉体」が快楽を求めるように、「想像力」も快楽を求める。
 映画は、娘を誘拐されて苦悩する母をモニター越しに見て楽しむ「組織」の存在へと収斂していくのだが、「想像力」の暴走は、そんなところだけにあるのではない。「犯罪組織」の暴力なら、たぶん、映画は「怖く」ない。「悪の喜び」「悪の愉悦」と、それを最終的に否定するカタストロフィーは映画の定番である。
 この映画では、違う「想像力の暴走」を同時並行で描いて見せる。事件を担当する刑事がふたり。そのうちの男の方は、事実をつみかさねて「真実」に迫る、ということをしない。自分の「想像力」でつくりあげた「真実」に、事実を押し込めようとする。娘は誘拐されたのではない。父親が娘を少女売春の組織に売ったのだ。父親には借金がある。金が必要だった。そう考える。自分自身の「想像力」には親密だが、被害者の父親には親密には接しない。突き放して「見る」。(こういう「想像力の暴力」のために、たぶん、前の部署から外されて、被害に遭ったこどもを救う部署にまわされてきた。前の部署では、想像力の暴力にまかせて「犯人」を逮捕しつづけたのだろう、ということが想像できる。あ、こういう私の「想像」も「想像力の暴力」かもしれないが……。)
 女の刑事の方は、なんだか「のらりくらり」としている。事件は未解決のまま時間が過ぎてゆくのだが、定期的に母親や父親と面会をしている。サポートしている、と最初は感じられる。(父親の方は警察不信なので、面会に指定された場所へは行かない。)しかし、ストーリーが進むと、違ったふうにも見えてくる。刑事は母親をサポートしていたのではなく、母親の苦悩を「見ている」のではないのか。「見る」ことで快感を感じていたのではないのか。
 映画の後半、女刑事の過去が語られる。こどものとき、廃車のなかでひとりで暮らしたことがある。両親に見捨てられたのだ。そこから立ち直り、刑事になった。そしていまは誘拐されたこども(虐待されているこども)を救うために活動している。その活動のなかで、ふっと、「復讐心」のようなものが動くのだ。母親は(父親も)、もっと苦しめばいい。その苦しみを「見たい」と感じているようにも思える。(これも、私の「想像力の暴走」かもしれないが……。)その「見たい」という欲望、「見る」という快感を維持するために、刑事をやっている。さらには、誘拐されたこどもを救う「団体」にも積極的に協力している。
 もし。
 もし彼女がほんとうに事件の解決だけを、誘拐されたこども、虐待されているこどもを救いたいという気持ちだけで動いているのだとしたら、あるいはこどもを心配する両親のことを「守る」ということを考えているのだとしたら。そういう人間なのだとしたら、映画の後半で、こんな「告白」なんかしないだろう。ストーリーを複雑にしないだろう。ストーリーを入り組ませるのは、「謎解き」へと観客を誘い込むためではなく、複雑なストーリーをほうり出してしまって、逆に、登場人物の「こころ」そのものを浮かび上がらせるためなのではないのか。
 というようなことを考えてしまうのは……。
 この映画のストーリーは単純だが、展開の仕方はとても複雑である。最初に書いたように、いきなり犯人と少女の八年後が描かれるという「時制」の不自然さ。犯人探し、少女の生死の心配というストーリーの核心を捨ててはじまる。犯人と少女は何をしているのか、何のために生きているのか?というところへ関心をひっぱっていく。
 「時制」でもっとも混乱してしまうのは、女刑事が監禁されているというシーンのあとに、女刑事が母親の職場(ホテル)で母親を監視する隠しカメラを発見するというシーンがくること。女刑事は逃げ出した? 犯人は女刑事を苦しめるだけ苦しめて解放した? そうではなく、それは女刑事が拉致される前のことなのだ。女刑事は、犯人が母親を監視している、母親が苦しむのを「見て」、快楽をおぼえている、そういう組織があると、気づく。
 そして、そういうことに気づいたからこそ、自分の「性癖」にも気づき、「告白」へとつながっていく、という具合に、ストーリーをかきまぜるようにして「時制」が乱れる。「時制の乱れ」をとおして、「乱れない欲望/感情」を描きだす。人間性の本質を抉り出す。
 うーん、これは傑作かも。
 「スウィートヒアアフター」もそうだったが、アトム・エゴヤンにはストーリーの快感がない。何かを解決しようとするのだが、そしてそれはいちおう「解決」のように思えるけれど、それよりもストーリーの過程で見えてくる人間性に、つらいつらい気持ちになる。この映画では、自分を「安全」な場所に置いたまま、他人が苦しむのをみて快感を感じる人間が描かれているが、映画を見ながら、「あ、母親が苦しんでいる」「父親が苦しんでいる」と感じ、「迫真の演技」と思うとき、この「苦悩する肉体」をもっと見ていたいと欲望する私の存在にも気づかざるを得ない。
 邪悪な欲望、邪悪な欲望に汚れている人間を見たのか、それとも自分自身の邪悪な欲望を見たのか。
                      (KBCシネマ1、2016年01月24日)






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感情のように/理性のように(異聞)

2016-01-26 00:10:22 | 
感情のように/理性のように(異聞)

本の中の冬の石畳を歩いていくと、足音が凍りながら細い路地へ逃げていく。私から離れていく。そこに、「感情のように」ということばを挿入すべきか、それとも「感情のように」ということばを削除すべきか、悩んだ跡が、「見せ消ち」の形で残っている。

まだ書かれていない意識は、そこで新しい路「見せ消ち」という虚構をつくる。肉体がおぼえている地図を拒絶するように。そのとき、だれかが「理解するとは、私が対象(他者)になることだ」と上の階の部屋で叫ぶ。自殺志願者のように、その声が落ちてくる。見上げると明かりがぱっと消える。

さっきまで存在していた影が、私の背後(脇かもしれない)から暗闇になって侵入してくる。あるいは漆黒となって、私の知らない方向へのびていく。そのあと、「理性のように」ということばを続けるべきか、それとも「理性のように」ということばを切断すべきか、悩んだ跡が、「見せ消ち」の形で残っている草稿。
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村上由起子『きみょうにあかるい』

2016-01-25 10:07:15 | 詩集
村上由起子『きみょうにあかるい』(あざみ書房、2015年12月15日発行)

 村上由起子『きみょうにあかるい』で、最初に印象に残ったのは、「あめ」の後半、

窓から外を眺めている肩のところで
パパじゃないだれかがささやくから
わたしは思わずおもらしをしてしまう

ズボンとパンツとカーペットには
あたたかなわたしのおしっこが
ゆっくりと滲みて
それを見つけたママじゃないだれかが
大慌てでカーペットを引き剥がすと
「シミになったら大変」
とタワシでいつまでもこすり続けた

 「ゆっくり滲みて」が奇妙なのである。何か、まわりと断絶している。そこだけ別の世界という感じがする。
 「窓から外を眺めている肩のところで」というのは、「(わたしが)窓から外を眺めている(と、わたしの)肩のところで」ということだと思って読むのだが、その省略された「わたし」は村上によって「省略された」という感じではなく、何かほかの力によって「省略された」のではないか、と私の「感覚の意見」は言う。
 その「省略」を強要する力と「ゆっくりと滲みて」が拮抗していると感じる。「省略されたわたし」へ向けて、「わたし」が拡大していく、という感じかなあ。
 こういう「感想」は、まあ、いいかげんなのものなのだけれど、詩集を読んでいるあいだもずーっとつづく。
 で、最後の方の詩篇「回る(まわ)る」。

どう触れられても痛いのは
何時の間に張り巡らせた境界が
このごろ見えて仕方がないから

 という行に出会ったとき、あ、こことつながっているのかな、と「感覚の意見」は、また言うのである。
 「省略されたわたし」と「張り巡らせた境界」(ここまでが、わたしの領域、そこから外はわたしの外、という感じの「境界」)はどこかでつながっている。
 「わたしの領域(わたしの境界線)」というのは他人との関係で動くものだと思うが、村上にとっては「他人の力」が強すぎて動かせないものなのかもしれない。自分でつくる「境界」ではなく他人がつくる「境界」。「張り巡らせた」は「わたしが張り巡らせた」という能動形なのだが、主語は「わたし」ではなく「だれか」とも読むことができる。「だれかが張り巡らせた」、「だれかよって張り巡らされた」とも読める。そう読み替えるとき、だれかによって「わたし」は省略されている。「境界」をつくるときに「わたし」は「省略されている」。だからこそ、その「境界」が開いたままの傷のように、ひりひりする。「他人」によって、触られている感じがする。

 で、ここから強引に、私は「あめ」に戻る。
 最終連の「ゆっくり滲みて」「引き剥がすと」という、次の行へとつづいていくことば、その「言い方」が、「境界」とどこかで重なる。「ゆっくり滲みた」「引き剥がした」とことばを切断しない。ことばを持続させていく。その「持続」が「線」になり「境界線」になる。ふと、そう感じるのである。
 「ゆっくり滲みて」の主語は「おしっこ」。「わたし」の分身。「引き剥がすと」の主語は「ママじゃないだれか」。それが「わたしの分身」を消す。「わたしの分身」が引こうとする「境界線」(シミあと)を消して、「わたし」がそこに存在してることを(存在したこと)を消そうとしている。
 それを「おしっこ」の側から「消されていく」と感じる。違う「境界線」を引かれていると感じる。その「境界線」が、何度も何度も、繰り返されて、だれかによって「張り巡らされた」感じになる。
 それが「このごろ見えて仕方がない」。

 「境界」とは「他人」がつくりあげる「わたし像」かもしれない。「きみょうにあかるい」は、そういう「像」に気がついたときのことを書いているのかもしれない。
 「わたし」はだれかからみれば、「あかるい」存在だ。その「あかるい」は「わたし」には奇妙に見える。なぜなら、わたしは「くらい」存在だからである。

きみょうにあかるい
このひかりのなかに
わたしはずっとてらされて
あるいてきたので

 「てらされて」が「境界線を引かれて」になると思う。「されて」という音の響き、受け身の形の動詞に、そう感じてしまう。
 この「境界線」にあらがうように、村上は「あるいてきたので」と、不思議な「持続」で対抗している。「持続」することで、どこかに「境界線」の隙間があれば、そこから「滲み出して」自分を押し広げようとしているのかもしれない。おしっこのように「ゆんくりと滲みて」ゆきたいと欲望しているのかもしれない。
 この形は

なにいろのかおをして
あるいているのか
じぶんではもうよく
わからないので

わからないと
いったまでで

 という具合に、だらだらとつづいていく。この「だらだら」とした「持続」はおしっこが「ゆっくり滲み」る感じに似ている。この「だらだら」が、

うつくしいひかりはたしかに
わたしにもとどくが
それはもう
ここではないのだから

 と閉じられるとき、「意味」を書きたい気持ちに襲われるが、書かずに感想をほうり出しておこう。「意味」よりも、おしっこが「ゆっくり滲みて」の方が、はるかに、あたたかくて、かなしい、と思うので。

*

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谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

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彼末れい子「指切りげんまん」

2016-01-24 09:39:33 | 詩(雑誌・同人誌)
彼末れい子「指切りげんまん」(「多島海」28、2015年11月20日発行)

 彼末れい子「指切りげんまん」によれば、握力の大きい人間は長生きするらしい。アメリカ、カナダ、二本の研究班の調査結果が一致している、とか。
ことばによる原色きのこ図鑑―彼末れい子詩集彼末れい子風来舎
*

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グリームル・ハゥコーナルソン監督「ひつじ村の兄弟」(★★★)

2016-01-23 10:29:44 | 映画
監督 グリームル・ハゥコーナルソン 出演 シグルヅル・シグルヨンソン、テオドル・ユーリウソン

 ひつじというものを私はよく見たことがない。だから間違っているかもしれないが、この映画に出てくるひつじはなんだか毛が長い。そして、脚が細い。「星の王子様」に出てくるひつじの絵とは大違い。
 で。
 この映画にはひつじを飼っている兄弟が登場するのだが、ふたりともひつじに似ている。同じようにひげをはやし、髪はぼさぼさ。アイスランドのひつじの毛であんだらしいセーターを着ている。違いは、体形である。兄の方がふとっている。その「まるまる感」がひつじに似ている。兄の方が、よりひつじっぽい。
 品評会がひらかれる。兄の飼っているひつじが入賞するが、弟の飼っているひつじは選にはいらない。ひつじの評価は飼っているひととは関係がないのだが、うーん、と少し考えてしまうのである。
 いっしょにいると、ひつじでも似てくるのかなあ。
 こんなことを考えるのは、ふたりとも(そしてたぶんほかの村のひとも)、ひつじにちゃんと名前をつけ、ひつじを名前で呼んでいるからである。畜産家はみなそうなのかもしれないが、この名前を呼んで生きものを育てるというのは、いっしょに生きるということ。いっしょに生きるから、似てくる。
 弟の方はきちょうめんで、家の中も整理されている。兄の方は、のみすけで、だらしなく、家の中は散らかっている。そうか。ひつじは、やっぱりどこかで気儘に息抜きしながら生きている方が生き生きと頑丈に育つのか、などとも思うのだが。
 その兄のひつじが伝染病にかかっていることがわかる。
 きちんと消毒していないから? 管理していないから?
 わからないが、兄のひつじが伝染病にかかっているかもしれない、と気がついた弟は、自分のひつじを家に連れて帰ると、ふろで体を洗う。消毒する。わーっ、人間(子ども)の世話をするみたい。実際、「子ども」なんだろうなあ。
 ということに、ちょっとややこしいことがからんでくる。
 ひつじは伝染病と判明する。村のひつじを全部、殺処分しないといけないことになる。村全体が協力しないといけないのに、兄は「おまえが密告(?)するから、おれの大事なひつじが殺された」と恨んだりする。実は、この兄弟、隣り合わせに住んでいるのだが、四十年間口をきかない仲なのだ。言いたいことは、兄が飼っている犬が手紙を運んで伝言するくらいである。伝染病をきっかけに、さらに仲違いが進む。
 ところが。
 殺処分しなければならないはずのひつじを数頭、弟の方は、家の地下室に隠して飼っている。ほかのひつじは自分で殺したのだ。それが獣医(検疫官)にみつかる。さて、どうしよう。大切な大切なひつじがほんとうに全部殺されてしまう。
 そのことを知った兄は、ふたりで山へ逃げよう、ひつじといっしょに逃げようと提案し、実際に山へ逃げてゆく。ところが、冬。アイスランドの雪は、すごいなあ。砕いた氷である。ひつじを見失い、路に迷う。弟は雪のなかで倒れてしまう。このままでは凍死してしまう。
 兄は雪がつもって固まっている部分に「かまくら」を掘る。そこでビバーク。弟の体をあたためるために裸になって、肌をあわせる。赤ん坊のように。まるで子宮の中の双子のようだ。
 という、神話的な和解のシーンで映画は終わるのだが。
 あ、そうなんだなあ、双子なんだなあと思う。体形は違ってしまったが、ひつじが好き、ひつじなしでは生きていけない、という「気持ち」が双子。相手の考えていることが、そのまま自分の考えとしてわかってしまう。実際に取る行動は違うのだけれど、思考のDNAが同じ。
 このビバークの前、兄が二度凍死しそうになる。弟は、一度は風呂に入れて介抱する。二度目はショベルカーのショベルのようなところに兄を乗せて、病院まで運ぶ。病院の前で、荷物のようにほうり出して知らん顔。(病院のひとが気づいて、助ける。)その二つのシーンだけをみていると、しかたなく助けている感じがするが……。そうじゃなかったんだねえ、やっぱり、死ぬなよ、死ぬなよ、死ぬなよ、と泣きたい気持ちで向き合っていたんだろうなあ。ここまでしておけば、なんとか大丈夫ということがわかっていて、そのぎりぎりのことをしている。

 うーん。

 昨年見た「馬と人間」(正確なタイトルは忘れた)もそうだったが、アイスランドの人間関係がおもしろい。ひととひととの距離のとり方が、やっぱりイギリスやフランス、イタリア、スペインなんかとは違うなあ。(映画で見ているだけだから、「偏見」かもしれないけれど……)。厳しい自然と向きって生きている。どこかで自分のいのちは自分でまもらないといけないという感じが、「べたべた」感を洗いさる。でも、どこかで協力しないと生きていけないので、決定的な「批判(非難?)」はしない。距離を置いて、他人を許容するという感じとでもいえばいいのかなあ。
 こいの映画では、その「距離」が兄弟なので、ほかの他人との関係とは少し違う。そこに不思議な「味」がある。
 映画(ストーリー)とは直接関係がないかもしれないが。
 ふたりのけんかのとき、兄が弟の家に銃を撃つ。ガラスが割れる。そのガラスを次の日に弟がしている。そのとき気がついたのだが、ガラスが二重ガラスになっている。あいだに「空気」があり、それが冷気を遮断しているのだ。北国の知恵といえばそれまでなのだが、雨戸で外を遮断するのではなく、透明なガラス(空気)で寒さを遮断する。いつでも外は見える状態。内側は寒さからしっかり守っているが、内に閉じこもるのではなく、常に外に開かれてもいる。
 こういう生き方というのは、やはり、思想というものなのだろうなあ。

 もうひとつ。
 犬もおもしろかったなあ。兄が飼っている犬なのだが、手紙を弟から兄へ、兄から弟へと運んでいる。犬は二人が「兄弟」であること(親密な関係であること)がわかってるようだ。それが、おかしい。けんかしているにもかかわらず、どこかでつながっているということを犬は知っている。
 そういう犬のつかい方がおもしろい。
 ボーダーコリーである。毛が黒と白。で、「役名」は忘れたが、クレジットを見ていると、「実名」は「パンダ」であった。そうか、白と黒だからパンダか。白黒の配置(?)はパンダとは逆なんだけれど。
 愛犬家なので、そういうことも思ったりするのだった。
                      (2016年01月21日、KBCシネマ1)




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今井直美男『轍』

2016-01-22 09:48:03 | 詩集
今井直美男『轍』(編集工房ノア、2015年09月18日発行)

 今井直美男『轍』に「食べる」という詩がある。いなかに帰ると母はビフテキをつくってくれる。母は少ししか食べない。食べられないのである。自分も老いて、だんだん小食になる。たくさん食べると不快感が残る。

量は少なくても
味覚の満足を一口一口脳に刻みつける
あの頃 母もそうだったんだ
今になって気付いて ほっとする

 この「今になって」が強く印象に残る。いろいろなことを体験し、そのころは気がつかなかった。あるいは気づいていても、ことばにすることはなかった。そういうことが「一口一口脳に刻みつける」ではなく、「一語一語脳に刻みつける」ように書かれている。
 ことばの冒険をする「現代詩」という範疇からは少し違うところで書いている。ことばの刺戟で読者を興奮させるのではなく、静かに「人間性」を語る詩集である。

 では、その「人間性」とは何か。
 「とばちゃんの切符」という詩がある。大阪の駅の地下鉄、改札口の近くで回数券を切り売りしている。切符売り場に行かなくてすむので、急いでいるときは便利だ。

おばちゃんたちは
十一枚綴り百五十円の回数券を買うて
十一枚売って十五円の稼ぎをしてたんや

 十五円の稼ぎのために、知恵をしぼる。手間をかける。そこには、何というのだろう、他人に迷惑をかけない、他人のものを奪わないという、静かな律儀さがある。「手間をおしまない」と言い換えるといいのかもしれない。
 今井の「生き方(思想)」は、きっと、「手間をおしまない」というところにある。手間をおしまなければ、何かが確実に自分に還ってくる。そういう行動をするひとへの共感。「手間」そのものへの共感。それが今井の「人間性」なのだと思う。
 これは「今になって」気づいたことではないが、「今になって」書いておきたいという気持ちになったのだろう。忘れてはいけない、という気持ちがそこにある。
 もしかすると「味覚の満足を一口一口脳に刻みつける」というのも、食べるときの大切な「手間」かもしれない。母は、息子(今井)が、自分がつくったビフテキをいまおいしそうに食べているということを、「手間」をかけて味わっていたのかもしれない。息子に食べさせることができるという喜びを。そういうふうに読み直したい気持ちになる。

 「畑とともに」は疎開先で畑仕事をしたことを思い出しながら貸し農園の畑を耕す詩である。

種蒔きや苗植え付けの前には
畝を深く耕して 底の方に生ごみ 雑草 枯葉
中学以来の腕前がものを言う
作物の根はそこまで届かない
つぎに耕すとき 天地返し
底の土がほかほかになって上に来る

 ここに「手間をいとわない」美しさの神髄がある。「いま」ではなく「つぎ」のための手間。やっていることは、かならず何かにつながっていく。「つぎ」がやってきたとき、あの手間が「今になって」という感じで、ゆっくり今井に還ってくる。
 懐が広い、懐が深い。
 なんとなく、背筋がのびるのである。詩を読むと。

 「コピー機の前で」の全行。

原稿をセットして
しばらく立っていると
若い人が声をかけてくれた
何かお手伝いしましょうか

いいえ結構です

ぼくは倍率をいくらにするか考えていたのだ
なるべく大きくコピーしたいから

でもあなたの親切はとても嬉しいです

 まるで、そこに今井がいるように感じる。会ったことはないのだが、姿が見えるように感じる。
 「あなたの親切はとても嬉しいです」ということばは「若い人」には聞こえなかったかもしれない。
 でも、この詩読んで、私がこうやって「いいなあ、この詩」という感想を書いて、それをまただれかが読んで、めぐりめぐって、その「若い人」に届くかもしれない。それはきっと、「若い人」が直接この詩を読むときよりも、あるいは今井からそのとき「ぼくは倍率をいくらにするか考えていたのだ」と説明され、「ありがとう」と言われるよりも感動的だろうなあ。「あなたの親切」と「今井の嬉しい」がいっしょになって、世の中をわたって、もう一度「あなた」に届くのだ。
 「今になって」
 「今になる」ということ、「今」の向こう側に、長い長い時間があり、そこにはさまざまなひとが生きている。「手間をおしまず」、「今」を充実させて。その充実は「今」ではなく「つぎ」にならないと、わからない。その不思議。

 「化学の授業 2」も美しい。

その日の化学 テーマは年代測定
いろいろなものが使われるが
何十億年を調べるにはウラニウム二三八
この元素は放射性崩壊をして鉛二〇六になる
鉱物中の両者の比から
その年齢を求める方法を説明した

続いて
地球に落ちた隕石
調べるとどれも四十五億年ぐらい
だから言える
太陽系のどの天体の誕生もだいたい同時

と言った瞬間
ザワザワしていた教室が一転して静寂に
誰一人息もしていないぐらいに感じた
学生たちは周りのものと私語しながら
頭のどこかで僕の話を聞いていたのだ

 三連目は太陽系の誕生について語っているのだが、「どの天体の誕生もだいたい同時」が、私には「どの人間の一生もだいたい同じ」と言っているように聞こえてしまうのだ。誰もが同じ人間、と聞こえてしまうのだ。
 だから、「手間をかけて」自分を大切に生きる。
 「調べる」「考える」という「手間」をかけて見つけ出した「事実」は、実は見つけ出したというよりも「つくり出した」かもしれない。「手間をかけて」つくったものは、ひとのあいだに静かに広がっていく。
 「コピー機の前で」も、静かに、広がっていってほしいなあ。「若い人/あなた」に届いてほしいなあ。

 今井の詩を読むと「ザワザワしていた私の肉体が一転して」静かになる。息をしていることを忘れるくらいに。
轍―今井直美男詩集
クリエーター情報なし
編集工房ノア
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北条裕子「時の庭」、森文子「根っこ」

2016-01-21 08:39:49 | 詩(雑誌・同人誌)
北条裕子「時の庭」、森文子「根っこ」(「木立ち」123 、2015年12月20日発行)

 北条裕子「時の庭」は時間の経過とともに姿を変えていく庭の様子を描いたもの。その三連目。

百合を眺めながら
あなたが見ているかもしれない
夢の底を
私も見ている。

 あ、いいなあ。何度も何度も読み返してしまった。
 「あなたが見ているかもしれない」は「仮定」。確かなことではない。だが、「私も見ている」と書いた瞬間に、「仮定」は「事実」に変わる。
 私「は」見ている、なら仮定のまま。
 私「も」見ている、だから、もう仮定ではない。
 「も」が仮定を事実に変えてしまう。
 あなた「は」見ている、そして私「も」見ている。
 それは、「あなたが見ていてほしい」という願い、祈りから生まれている。この願い、祈りは北条にとって「ほんとう」、つまり事実である。願い、祈りの「ほんとう」の気持ちが、仮定を「事実」にかえてしまう。

この頃では
息を吸う量も少なくなった。
夢の底には人も住まないが
いつかは終わるこの世が
ずっとつづいていくことを願って。

 ここに、静かに「願う」ということばが出てくる。
 「あなた」はもう「この世」にはいないひとかもしれない。それでも「この世」はつづいている。その「この世」が、さらにつづいていくことを「願う」。
 それは、「あなた」が「この世」をずっと「見ている」ことを願うことでもある。「この世」がつづいていかなければ、「あなたがこの世/夢の底」を見つづけるということが不可能になる。
 事実と願いが、一種の逆転を起こしている。
 願う、祈ると、そこに事実が生まれてくる。
 美しいなあ。

あなたの気がつかないうちに
立ち去っていくものがいくつもあって。
夏が終わる日
百合たちもまた全員いなくなって。
無人になった庭
茫々と荒れ果てて。

鎖骨に受ける 光を避けて
風を束ね
その行く末を整える。

 そうか、願うこと、祈ることは、何かを「整える」ことなのだ。
 「行く末」は、人間が生きているあいだだけあるのではない。ずっとつづいていく。だれも「行く末」のことはわからない。だから、願い、祈り、整える。「いま」を「現実」を、「事実」に。



 森文子「根っこ」は始末しても始末してもはびこるドクダミについて書いている。

地上で 茎が刈られると
地中の根っこに安らんでいた芽 目覚め
いきおい萌芽するのだ という
滅びを拒む いのちへの強い鼓舞

 四行目は三行目の言い直し。ドクダミの姿を描写するだけではなく、それを「意味」として語り直している。「滅びを拒む」と言い直して、さらに「いのちへの強い鼓舞」と言い直している。聞いたこと(「……という」)を言い直すことで、自分の感情/思想にしている。
 だから、それは森自身への呼びかけである。「強い」という強調のことばもある。自分に向けて「強いことば」を投げつけ、励ましている。
 「意味」は他人に向けてではなく、自分に向けて語られるとき、願い、祈りになる。

痛みつけられて うなだれるしかない
 この身の底の根っこの 芽よ
あきらめず どうか目を覚ましておくれ

 ここから、森は書き出しの一行に戻るのだ。

これから わたし ドクダミになる



花眼
北条 裕子
思潮社
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冬の帰り路/異聞

2016-01-20 22:17:58 | 
冬の帰り路/異聞

空が冷たくなると街灯がともり、きめの細かい白い光が上空の冷気を地上へひきおろすようだった。(白い光が上空の冷気を地上へひきおろし、きめの細かい輝きとなってちらばった。)靴音が歩道から跳ね上がり、ウインドーにぶつかり、さらに細い音になるのを耳の奥に聞いたのは、その路地に入る前のことだった。

街灯の下を通りすぎると、影が突然方向を変えるのがわかった。男は、これから自分の影が長くなる方へと足を運ぶのだが、頭の中で「この影はさっきまで自分の後ろにあったのだ」とことばにしてみると、後ろへ、過去へと歩いているという錯覚がやってきた。(背中が剥がされ、その平べったいものが、背後から前方になげつけられたように感じた。だれか、私否定したいものが背後にいるのだ。)

おかしいな、右に石垣の奇妙なふくらみ。左の上に蝋梅のにおい。前に角度のわからない坂。(見知らぬ傾斜がアスファルトになって、迫ってくる。)おかしいなあ。手はどこに。鞄はどこに。影は薄くなって、闇と区別がつかない。(そんなはずはないのだが)、一点透視のなかせ男は吸い込まれてゆき、あとに冬の帰り路だけが残されるのだった。(一点透視のなかから、帰り路ということばが長く長く、永遠に長くのびてくるのだった。)

*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
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四元康祐「日本国憲法・前文」

2016-01-20 12:37:03 | 詩(雑誌・同人誌)
四元康祐「日本国憲法・前文」(「現代詩手帖」2016年01月号)

 四元康祐「日本国憲法・前文」は三つのことばから構成されている。「日本国憲法」を詩に書き直したもの。英語の「日本国憲法」。それに「訳注」。「訳注」がついているから、メインのことばは「日本国憲法」を詩に書き直したもの、というよりも、「英文」を翻訳したものといった方がいいのかなあ……。

俺は決めたんだ
殺し合いはこりごりだと
命あっての物種、笑顔絶やさず
自由気儘に生きていこうと
俺は決めた
誰にも指図されず
自分のことは自分で決めると
誰にも頼らず自分自身の足で立って
誰のためでもなく自分自身のためにこそ
生きてゆくと

 気持ちのいいことばだ。憲法前文の「意味(客観的内容)」は四元のことばとは違うかもしれないが、「気持ち(主観的内容?)」は、まさにこんな感じ。「自由気儘」「誰にも指図されず」は、とてもうれしい。初めて憲法を習ったとき(読んだとき)の明るい気持ちを思い出した。

あたしは決めたの
ひとの心の優しさを信ずることを
この世を動かす
物の道理に従うことを
あたしは決めた
人間はひとりきりでは生きていけないから
他人を信じることに賭けてみよう
自分が幸せになりたいのなら
他のみんなが飢えや苦しみから救われるように
手を差し伸べようと

 この二連目で、私は少しつまずいた。「他人を信じることに賭けてみよう」は戦争放棄(九条)につながる美しいことばだ。これは、とてもいいのだが、私はこんろふうに他人を思いやること、世界を思いやることは、中学時代にはできなかったなあ。
 さらに、どうして「主語」を「俺」から「あたし」に変えたのだろう。「俺」のままでは、不都合があるのかな? もし四元が男ではなく女だったら、やはり一連目を「俺」と書き出し、二連目で「あたし」に変えるかな? とても、気になる。
 三、四連目は、えっ、こんなこと憲法に書いてあった?と思うことば。でも、新鮮で、とても気持ちがいい。詩全体では「起承転結」の「転」にあたるのかも。

それにしても、ある朝不意に
俺は立っていた
雲一つない夏空の下に
自分でも聞いたことのない声で語りはじめていた
至極当たり前の、でも凄く新しいことを
俺とは誰なのだろう?
どこからやってきたのだろう?

なにひとつ忘れてはいない
小さな石が大きな石となって苔に包まれるまでの
過去の全てがあたしの裸に刺青されている
あたしの血で、あの人たちの血で--
どんな心の誓いも手の行いを消し去ることはできない
たとえ朝陽の下ではなにもかもが眩しく見えても
あたしの瞳はあの夜の黒を宿し続ける

 四連目は、第二次大戦の深い反省と読むことはできるけれど。三連目の「俺とは誰なのだろう?/どこからやってきたのだろう?」を言い直したのか。あるいは「どんな心の誓いも手の行いを消し去ることはできない」が遡る形で「俺とは誰なのだろう?/どこからやってきたのだろう?」と言い直されているのだろうか。
 二連のことばがからみあって、憲法でありながら、憲法を超えていく。しかし、この超えていくは、逆により深いところでことばを統一するという感じでもある。この融合ともぶつかりあいとも言える不思議な組み合わせを読むと、「俺」「あたし」と使い分けてきた理由がここにあるかも、と思うのだが……。
 しかし、中学生の私は「戦争はいやだな、戦争をしなくてすむのはいいなあ」くらいのことしか思えなかった。(いまでも。)反省というよりも、二度と戦争がないのはいいことだ、としか思えなかった。「どんな心の誓いも手の行いを消し去ることはできない」は反省が「立派すぎる」。ついていけない。中学生の私には。

 あれやこれや考えながら五連目。私は、ここで完全につまずいた。いや、倒れてしまった。これは何だろう。

私達でも我々でもない
<We>という語の不思議な響き
この国の言葉にはない一人称複数に籠められた
約束と自由

 憲法前文の「意味(内容)」に対する「ことば」ではなく、「英語」に対する感想。しかし、「この国の言葉にはない一人称複数」とはどういうことだろう。日本語には一人称複数はない? 「私達」「我々」、あるいは「われら」というのは「私+達(複数を意味することば)」「我+々(繰り返し、反復をあらわすことば)」「われ+ら(複数を意味することば)」であって、英語のように「一語」として存在しないということ? 日本の「一人称」は単数が原則であって、集合しても「ひとつのことば」にはならないということ? 「集合して、その集合がひとつ」という考え方がないということ?
 うーん。
 どうなのだろう。太平洋戦争の「歴史」を振り返ると、逆に見える。「一人称」をつらぬけなかった国民が見える。「集団」が「ひとり」であることを奪い去ったように見える。
 一連目の「自由気儘」が不可能だったような気がする。「自由」は「単数の一人称」につながっていなかった。憲法は、それを取り戻した。私には、そう思えた。それ以外のことは考えられなかった。
 四元は、あるいは「集団」を「ひとつ」のことばであらわすことができなかったから、逆に「集団」「個人」という区別ができなかったといいたいのかな?
 日本語は英語と違って、一人称がいくつもある。「俺」「あたし」「わたし」「ぼく」。ばらばらにらちらばって、<We>のように、ひとつになれないから、「権力の暴走」に対抗できなかった?
 四元は何を思っているのだろう。
 さっぱりわからない。
 英語の日本国憲法は<We>で書きはじめられている。もし<We>がほんとうに問題点を含んでいるのだとしたら、なぜ、一連目を「俺」と書きはじめたんだろうという疑問もわいてくる。そんなに<We>に感動したのなら……。

俺たち一人一人の寄せ集めでありながら
あたしたちを越えたひとつの人格
その<We>がいつか
まだ見ぬあなたに出会えますように
その<We>が太古初めて二本足で立ち上がった
霊長類の歓びを忘れぬように

 「まだ見ぬあなた」とは誰だろう。日本人以外のひと? それとも「俺たち/あたしたち」の子孫? 子孫が、「俺たち/あたしたち」を、さらには「俺たち/あたしたち」の祖先、つまり第二次大戦を経験し、その反省から日本国憲法つくった人、その「理想/願い」に出会えますようにと祈っているのだろうか。

俺たちは持てる力の限りを賭して
あたしたちは持てるすべての優しさをこめて
今日この星の上で歌う
ウルトラのいるM78星雲に向かって
人間の声を放つ

 この最終連でも「俺たち=力」「あたしたち=やさしさ」という「固定化」が気になる。この「無意識の固定化」を生きながら<We>に驚くのか。あるいはそういう固定化を生きているからこそ<We>が見えるのか。
 ぜんぜん、わからない。
 私はウルトラマンを見たことがないので、「ウルトラのいるM78星雲に向かって/人間の声を放つ」が何をあらわそうとしているのかも、わからない。
 「註釈」に書いてあることも、よくわからない。四元は中学の「倫理」の授業で、憲法前文を日本語と英語で読んだ、暗誦したと書いている。

自分の国の憲法に、英訳があって、元を糺せばGHQ草案という英文が下敷きになっていたということを、その時初めて知った。(略)「日本国憲法・前文」は、私が教科書以外で初めて読んだ「生きた英語」だったのかもしれない。

 うーん。体験が違いすぎて、ついていけない。
 一連目はとても好きで、感想を書きたいと思ったのだが、全体を読み通すと何を書いていいか、わけがわからなくなる。で、長い間そのままにしていたのだが、わからないことはわからないまま、わからないと書いておく。
 四元は憲法の前文の「意味(内容)」に感動したのかな?
 それとも<We>という英語の単語、その単語がもっている力に感動したのかな?
 日本語と英語が違うと感じたことが、憲法を読む上で、どう影響したのだろう。
 憲法が「初めて読んだ「生きた英語」と定義されるとき、それを「日本語」を中心にして言い直すとどうなるのだろう。「生きた日本語」? 「死んだ日本語」?
 「生きた」の指し示す具体的な意味は?
 疑問だけが増えつづける。
四元康祐詩集 (現代詩文庫)
四元 康祐
思潮社

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。
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