「高橋睦郎の「深きより」を読む」
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紐のような三日月に
そっと指をかけ
すーっと引いて
綾取りをする
川 橋 つづみ ほうき
手に手をかけて 紐をすくう
取り損ねかけて 少し笑う
うまく作れて 少し威張る
指と指 顔と顔
一心に 紐をすくう
月の紐
天から私のところまで
すーっと引いた 月の紐
ああ 楽しいねぇ
楽しいねぇ
終われば 天に 登ってゆく
するするすると 登ってゆく
あとには ただただ 細い
三日月だけが 浮かんでいる
ああ 楽しいねぇ
楽しいねぇ
悲しみだけが いつも
ポツンと残り 僕の方を見ている
他はシンと静まり返り
もう誰も 残ってはいない
波にうばわれた死者たちの岸辺をも
病に息絶えた人の庭をも
ひとしく三月があゆんでゆく
ゆらゆらとかげろうのように
足元で
水仙が
一枚の葉を持ちあげている
濡れた葉っぱは
亡き人のしたためた手紙
雪がとけて北の野辺に
三月はたたずむ
じっと耳をすまして
かさり と
まるでその音が聞こえるように
またひとつ
朽ちた葉を持ちあげて
水仙がのびてゆく
死者のたましいと
生きている者のたましいをつなぐ
花たち
あたらしい道しるべのかたわら
三月があゆんでゆく
やわらかな風に揺れる手紙を残して
ある日
伐り口から
さあっと
水が吹きあがった
水は垂直にのぼり
かつての木の高さまでのぼり
青空に向かって
枝のように分かれて散った
ふりあおぐ頭上に
たましいの泉があり
私は
湧きでるものに
のどをうるおしている
そのように
人間の死後に
水がふきあがっているとしたらどうであろう
濡れた伐り口を眺めていると
あるはずのない
落ち葉が舞い落ちた
気がつくと水鏡に
あなたの顔が映っている
空にあなたがいるわけもなく
あなたは
自ら浮かびあがっている
待ちかねた春だから
そんなことがあってもいい
あなたは生きていたころのまま
春のおとずれをよろこんでいる
海東セラ『ドールハウス』(思潮社、2020年11月30日発行)
海東セラ『ドールハウス』は、まだ途中まで読んだだけだが、ことばは「家」の内部を動き回る。動き回りながら、家の中に「ことばの家」をつくる。とてもおもしろいと思う。ただ、私は目が悪いので、この詩集のような小さな文字を読むのは骨が折れる。何よりも、目そのものが、くじけてしまう。
巻頭の「下廻り階段」の後半に、こういう部分がある。
せまくて急で手摺りも滑り止め
もなく、ひとりがたまに足を滑らせて見うしない、下から
3段目の弧をえがいた段板で止まると、意識は遅れて降っ
てきます。いったいどうして? ほかに落ちるひとはいな
いのですから、もういちど巻きもどしてみなければわかり
ません。
この部分は、ことばの運動が「おもしろい」わけではないが、海東のこの詩集を「自己解説」しているような感じがする。「もういちど巻きもどしてみなければわかりません」と海東は書くのだが、そのことばに従って、いままで読んできたことを「もういちど」巻きもどしてみる。「巻きもどす」も特徴的なことばだが、それを強調するのが「もういちど」である。
「ことば」は一度では何が起きたのかわからない。ときに「いったいどうして」という「理由(自分が納得できる理由)」がわからない。一度読んだ部分を「もういちど」読み直す。すると、先に読んだことばが描いていた世界に重なるようにして、もうひとつの世界が見えてくる。それはより正確に見ることなのか、それとも新しい錯覚の世界へ深く入り込んでいくことなのか。
これを海東は、読者とは違って、「書く」という行為で実行している。
作品は、いま、ここに「一篇」の形として存在する。しかし、それは「一回」書かれたものではなく、「もういちど」書かれたものなのだ。
言い直すと、この詩集は「家」を書いているのではなく、「家を書く」ということを書いているのである。「書く」ということはどういうことかが問われているのである。
「ドールハウス」というのは、私はよく知らないが、私の知っている限りで言えば、小さな家のおもちゃである。その家にはたとえば食器棚があり、食器棚のなかには小さなコーヒーカップがあり、テーブルの上にはできたばかりの玉子焼きまである。ミニチュアの世界。それは「家」ではなく「家」というものがどういうものであるかを「生活」をふくめて語り直したものである。「ドールハウス」をつくった人の「見ている家」である。
「ドールハウス」は「ことば」でできているわけではないが、海東の『ドールハウス』は「ことば」でできている。いや、「書く」という「ことばの運動」でできている。そういうことを明らかにするのが「もういちど巻きもどしてみなければわかりません」ということばなのである。これが、この詩集の「キーセンテンス」であり、そのキーセンテンスの中のさらに「キーワード」が「もういちど」なのである。「もういちど」はなくても「意味」は同じ。しかし、「もういちど」は海東にとって、どうしても書かずにはいられなかった「肉体になってしまった思想」なのである。
「もういちど」巻きもどす、最初からみなおす、そういうとき、何が見えるか。「デッドスペース」という作品が象徴的である。「デッドスペース」が見えてくるのである。つかわれていなかったもの(見落としていたもの)がそこに存在することが見えてくる。そして、それを発見した途端に、それを使いたくなってしまう。それは、自分のなかにある「欲望」の発見かもしれない。「デッドスペース」を「デッドスペース」のままにしておけない。「もういちど」使い方を考え直してみる。
でも、ことばにとって「デッドスペース」とは何?
海東は、とてもおもしろい「書き方」をしている。「ことば」を選んでいる。
だんだんと上ってゆく階段の裏側が階段下の小部屋にあら
わになり、剥きだしになったその部分は、ふいに現れて消
える鳥の後ろ姿に似て、支えられてあるのか吊られてある
のか、解けない謎があるとしたら階段の自立についてです
けれど、どことなくリズムのようであり詩のようであり、
こうして2階の精神性は日ごと夜ごと漂いつつ形成される
一方で、階段下の余白はすぐ動線や陽当たりの事情をまぬ
がれ得ぬものとなり、(略)
「デッドスペース」は「余白」であり、そこを何かが占有するとき(そこが何かにつかわれるとき)、それは「支えられてあるのか」「吊られてあるのか」どちらとも定義することができる。つまり、「ことば」が存在を決定するということが起きる。存在が「ことば」を決定するのではなく、「ことば」が存在を決定し、その瞬間に「デッドスペース」は「生きたスペース」となる。
この「ことば」の力。これを海東は「精神(性)」と呼んでいる。「デッドスペース」は二階へつづく階段の下(一階の小部屋)にある。その「デッドスペース」を「生きた空間」にした瞬間に、二階の部屋の何が変わるか。「物理的」には何も変わらない。「デッドスペースを生かした」という「意識(精神)」の動きだけがかわる。それは何も「二階の部屋」に限定されるものではないが、どこかに限定しようとすれば二階の部屋である、というのが海東の「思想=精神」なのである。
「精神(性)」は、およそ「ドールハウス」というおもちゃには似つかわしくないと、私は思っているが、そうではない、と海東は言うだろう。そして、その「そうではない」という主張がつぎの部分で「暴走」する。二階ではなく、「階段下の小部屋」では「精神性」と呼ばれなかったもうひとつの「精神(性)」がのたうちまわり、その空間を「もういちど」デッドスペースにしてしまう。しかもそのときのデッドスペースはつかわれない空間ではなく、もうつかえない空間という「デッドスペース」にかわっていく。
「ことば」はいつでも「二重の意味」をもっている。「二重」を生きている。そういうことろふ踏み込んで行く。この「暴走」こそが、詩であり、「ことば」の欲望であり、また「いのち」の欲望というものだろう。
階段のその部位に頭をぶつけてしまうとき、余剰のう
れしさより削られた空間への無念がもたげることこそが、
潜在する階段の犠牲性といえますが、気にとめられること
なく棚は吊られ、(略)
余白だった場所が部屋のすべて
におよぶ、これら渾沌は住まうひとらの表象とおぼえるべ
きで、余剰の生かし方は殺し方であることを、埋もれても
埋もれずに中空をよぎる階段は示唆するのかもしれず、(略)
「余剰」「潜在」「犠牲(性)」「渾沌」「表象」「示唆」。突然、増え始めた感じ熟語が、なんとも楽しい。漢字熟語が「精神(性)」であるというつもりはないが、「精神」ということばに誘い出されて、こうしたことばが動いていると私は思った。
こういう「ことば」は、「もういちど」何かを語り直したときに、意識を整えるものとして動き始めるのだと私は感じている。そして、読み直してみれば、こういう「ことば」は、最初に引用した「下廻り階段」にも「意識」という表現であらわれている。「ドールハウス」というおもちゃを、おもちゃではない、精神なのだという思想で「もういちど」語り直したもの、「現実の素材」と「精神のことば」が拮抗しながら、「家」を「ことばの家」として建築しているのが、この詩集なのだと思った。
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からだを洗っていると
父がわたしにとりついてからだを洗っている
くらい世で父がわたしを洗って父自身を洗っている
わたしはもう死に体となってここでからだを洗われている
からだを洗っていると
わたしは息子にとりついてからだを洗っている
あかるい浴室でわたしが息子を洗ってわたし自身を洗っている
二十歳のからだとなってだれのものともわからないわかい性を洗っている
老いたからだからふとい根っこが突きでたり
若いからだから貝殻のような骨がこぼれたり
白い石室でからだを洗っていると
かたちをうしなってまじわっているものがある
あたま わき へそのした
たいせつなところに毛は生えるというけれど
あたまがハゲたのは
たいせつじゃなくなったということか
つるつるのあたまをなでてみる
いつかおばあちゃんが
かしこいかしこいといいながらなでたあたま
おやじが ふといゆびでくしゃくしゃにしたあたま
きっと仰天するだろうな
あのふたりが いま なでたら
あなたが拘はられた男根切除願望の
もう一つの根にあるものは何か。僕の推理のつづきを言へば、女性といふ
真の虚になること、真の虚になつて真の実有の訪れを待ち受けること。そ
れこそが古へ詩人であることを女性から奪はうと企てた男性の究極の自
己実現ではないでせうか。
なに僕とて真面目は立前 紙の上での悪行三昧
謳う勧善懲悪とは お上を憚るうはべの口実
見直せば はだか身に長襦袢の前髪立ち
女と見紛ひ見取れた刹那 見返された目つきの凄さ
時を知らせる
鉦を打とうとしたとき
目眩がした
と言いおくべきか
陽にあたたまった野を
低く浮遊していた蝶が
鐘楼に飛び来て
私をひと巻き ふた巻きした
気がつけば
鉦を打つ間合いを失っていた
蝶は
かすかな金属音をたて
きらびやかな黄の色を見せ
ふたたび
野に戻っていった
音のずれた私を気づかう
太鼓に頭を下げて
ふたたび鉦を打った
音をはずしたのは一度きりであったが
蝶が私のまわりを遊び飛んでいたのは
この世の時間の
数倍ながい時間であった
土を均し
煉瓦を並べ
花壇を拵え
実のなる木
風と話す木を植え
円卓に布をかけ
紅茶を飲み
晴天の向こうがわを眺める
柑橘を蝶は好み
トリネコを蝉は愛し
座りの良い枝ぶりに
鳥は巣をかけ
私のいない時間に
草木は伸び
花木は
老いながら蕾をふくらませ
鳥は卵をあたためる
庭はだれのもの
思ひ出す 毛馬の堤は いつにても春の日永
その上を駈けつ転びつ 日ねもす遊ぶ幼い日日
水の上には上り下りの川船 陸には行き来の客
中に藪入り里帰りの嬢あり 浪華振りの化粧衣裳
年嵩の悪太郎に唆されて囃したこと 忘れもやらぬ
父母は知らず まことに私を知る友垣なら はるか後世
明治の子規居士 大正の朔太郎ぬし つづく誰彼