監督 根岸吉太郎 出演 松たか子、浅野忠信、室井滋、伊武雅刀
根岸吉太郎の映像はとても美しい。そこには「生活」がある。そこに生きている「人間の時間」がある。だれか他人が見る風景(第三者が見る風景--観光の風景)ではない確かさがある。
主人公夫婦が暮らす家は貧しい。その家のなかはしたがって豪華ではない。貧乏くさい。けれども、そこに二人が生きている「時間」があふれているので、美しく見える。引き込まれてしまう。松たか子が働くことになる小料理屋も同じである。その店を切り盛りする夫婦がいて、そこへやってくる人間がいて、その交流がつくりだす時間が、カウンターやテーブルや引き戸を磨く。時間によって磨かれた空間を根岸吉太郎はきちんと表現する。
そして、その「時間」、その「場」に蓄積された「時間」こそが、根岸吉太郎にとっては表現すべき「間」なのだろう。
この「間」は、存在はもちろんだが、人間そのものもかかえこんでいる。映画は、その人間がかかえこんでいる「間」をていねいに描く。
浅野忠信は、私からみると、顔の表情が乏しい。表情は眼にしかあらわれないが、それがこの映画ではとても効果的である。太宰がかかえこんでいる「時間」(間)は、いつでも噴出するわけではない。ほとんど、浅野の無表情の奥に隠れている。けれど、ときどき噴出してきて、いま、そこにある「間」を揺さぶる。別なものにしてしまう。そして、その瞬間、そこにいた人は、新しくできた「間」に引き込まれてしまう。別次元の「間」に入り込んで太宰から抜け出せなくなる。
あ、まるで、浅野忠信をつかった「太宰治論」ではないか。そんなことを考えさせる映画である。
太宰がつくりだす「間」は「魔」である--といえば、たぶん、もっと正確になるのかもしれない。
ほんとうはそんなふうには生きられないのだけれど、そういうふうな命があることにひかれてしまう。太宰のつくりだす「間」のなかでは、いのちが別の輝き方をする。それがこわいけれど、それがうれしい。こういうこわさとうれしさは矛盾しているのだけれど、その矛盾が人間を美しくする。
たぶん、そういうことが意図されているのだと思うが、浅野忠信と松たか子の演技は対照的である。浅野は積極的に表に出ない。引いている。松は、感情を押し出している。引いた「場」へ、松から感情があふれ、それが揺れ動く。
これは松だけではない。他の登場人物のばあいも同じである。浅野はほんの少ししか動かない。ほんの少ししか動かないのだけれど、その動きがつくりだす隙間(?)のようなことろをめざして、他の人の感情が、肉体が動く。そして、その場がいままでよりも充実する。その充実に引き込まれる。その充実の揺るぎなさ(緊密さ)がスクリーン全体を美しくしている。
画面全体の色調もとても美しかった。その色調の統一があるおかげで、「間」がくっきりと浮かび上がった。そして、唐突に書き加えておくけれど、統一された古い色調のおかげで、松と浅野の肌の美しさがとても印象に残った。
--と書いて、あ、もしかすると、この松と浅野の肌の美しさという印象から書きはじめた方が、もっとおもしろい感想が書けたのではないかという気持ちになった。温かい松の肌の美しさ、冷たい浅野の肌の美しさ--その温と冷の出会いが、前線のように人間の「気象」(これは、もしかすると気性に通じるかも)を乱すのだ。そして、そこに雨が降り、風が吹きというようなドラマがうまれる……と書くべきだったかなあ。思い返すと、浅野の演技は、とてもよかったのだ。浅野がいて、その冷たい肌と、ふいに動く目があって、はじめて成り立った映画かもしれないとも思うのだ。
根岸吉太郎の映像はとても美しい。そこには「生活」がある。そこに生きている「人間の時間」がある。だれか他人が見る風景(第三者が見る風景--観光の風景)ではない確かさがある。
主人公夫婦が暮らす家は貧しい。その家のなかはしたがって豪華ではない。貧乏くさい。けれども、そこに二人が生きている「時間」があふれているので、美しく見える。引き込まれてしまう。松たか子が働くことになる小料理屋も同じである。その店を切り盛りする夫婦がいて、そこへやってくる人間がいて、その交流がつくりだす時間が、カウンターやテーブルや引き戸を磨く。時間によって磨かれた空間を根岸吉太郎はきちんと表現する。
そして、その「時間」、その「場」に蓄積された「時間」こそが、根岸吉太郎にとっては表現すべき「間」なのだろう。
この「間」は、存在はもちろんだが、人間そのものもかかえこんでいる。映画は、その人間がかかえこんでいる「間」をていねいに描く。
浅野忠信は、私からみると、顔の表情が乏しい。表情は眼にしかあらわれないが、それがこの映画ではとても効果的である。太宰がかかえこんでいる「時間」(間)は、いつでも噴出するわけではない。ほとんど、浅野の無表情の奥に隠れている。けれど、ときどき噴出してきて、いま、そこにある「間」を揺さぶる。別なものにしてしまう。そして、その瞬間、そこにいた人は、新しくできた「間」に引き込まれてしまう。別次元の「間」に入り込んで太宰から抜け出せなくなる。
あ、まるで、浅野忠信をつかった「太宰治論」ではないか。そんなことを考えさせる映画である。
太宰がつくりだす「間」は「魔」である--といえば、たぶん、もっと正確になるのかもしれない。
ほんとうはそんなふうには生きられないのだけれど、そういうふうな命があることにひかれてしまう。太宰のつくりだす「間」のなかでは、いのちが別の輝き方をする。それがこわいけれど、それがうれしい。こういうこわさとうれしさは矛盾しているのだけれど、その矛盾が人間を美しくする。
たぶん、そういうことが意図されているのだと思うが、浅野忠信と松たか子の演技は対照的である。浅野は積極的に表に出ない。引いている。松は、感情を押し出している。引いた「場」へ、松から感情があふれ、それが揺れ動く。
これは松だけではない。他の登場人物のばあいも同じである。浅野はほんの少ししか動かない。ほんの少ししか動かないのだけれど、その動きがつくりだす隙間(?)のようなことろをめざして、他の人の感情が、肉体が動く。そして、その場がいままでよりも充実する。その充実に引き込まれる。その充実の揺るぎなさ(緊密さ)がスクリーン全体を美しくしている。
画面全体の色調もとても美しかった。その色調の統一があるおかげで、「間」がくっきりと浮かび上がった。そして、唐突に書き加えておくけれど、統一された古い色調のおかげで、松と浅野の肌の美しさがとても印象に残った。
--と書いて、あ、もしかすると、この松と浅野の肌の美しさという印象から書きはじめた方が、もっとおもしろい感想が書けたのではないかという気持ちになった。温かい松の肌の美しさ、冷たい浅野の肌の美しさ--その温と冷の出会いが、前線のように人間の「気象」(これは、もしかすると気性に通じるかも)を乱すのだ。そして、そこに雨が降り、風が吹きというようなドラマがうまれる……と書くべきだったかなあ。思い返すと、浅野の演技は、とてもよかったのだ。浅野がいて、その冷たい肌と、ふいに動く目があって、はじめて成り立った映画かもしれないとも思うのだ。
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