詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

根岸吉太郎監督「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」(★★★★)

2009-11-30 12:00:22 | 映画
監督 根岸吉太郎 出演 松たか子、浅野忠信、室井滋、伊武雅刀

 根岸吉太郎の映像はとても美しい。そこには「生活」がある。そこに生きている「人間の時間」がある。だれか他人が見る風景(第三者が見る風景--観光の風景)ではない確かさがある。
 主人公夫婦が暮らす家は貧しい。その家のなかはしたがって豪華ではない。貧乏くさい。けれども、そこに二人が生きている「時間」があふれているので、美しく見える。引き込まれてしまう。松たか子が働くことになる小料理屋も同じである。その店を切り盛りする夫婦がいて、そこへやってくる人間がいて、その交流がつくりだす時間が、カウンターやテーブルや引き戸を磨く。時間によって磨かれた空間を根岸吉太郎はきちんと表現する。
 そして、その「時間」、その「場」に蓄積された「時間」こそが、根岸吉太郎にとっては表現すべき「間」なのだろう。
 この「間」は、存在はもちろんだが、人間そのものもかかえこんでいる。映画は、その人間がかかえこんでいる「間」をていねいに描く。
 浅野忠信は、私からみると、顔の表情が乏しい。表情は眼にしかあらわれないが、それがこの映画ではとても効果的である。太宰がかかえこんでいる「時間」(間)は、いつでも噴出するわけではない。ほとんど、浅野の無表情の奥に隠れている。けれど、ときどき噴出してきて、いま、そこにある「間」を揺さぶる。別なものにしてしまう。そして、その瞬間、そこにいた人は、新しくできた「間」に引き込まれてしまう。別次元の「間」に入り込んで太宰から抜け出せなくなる。
 あ、まるで、浅野忠信をつかった「太宰治論」ではないか。そんなことを考えさせる映画である。
 太宰がつくりだす「間」は「魔」である--といえば、たぶん、もっと正確になるのかもしれない。
 ほんとうはそんなふうには生きられないのだけれど、そういうふうな命があることにひかれてしまう。太宰のつくりだす「間」のなかでは、いのちが別の輝き方をする。それがこわいけれど、それがうれしい。こういうこわさとうれしさは矛盾しているのだけれど、その矛盾が人間を美しくする。

 たぶん、そういうことが意図されているのだと思うが、浅野忠信と松たか子の演技は対照的である。浅野は積極的に表に出ない。引いている。松は、感情を押し出している。引いた「場」へ、松から感情があふれ、それが揺れ動く。
 これは松だけではない。他の登場人物のばあいも同じである。浅野はほんの少ししか動かない。ほんの少ししか動かないのだけれど、その動きがつくりだす隙間(?)のようなことろをめざして、他の人の感情が、肉体が動く。そして、その場がいままでよりも充実する。その充実に引き込まれる。その充実の揺るぎなさ(緊密さ)がスクリーン全体を美しくしている。
 画面全体の色調もとても美しかった。その色調の統一があるおかげで、「間」がくっきりと浮かび上がった。そして、唐突に書き加えておくけれど、統一された古い色調のおかげで、松と浅野の肌の美しさがとても印象に残った。
 --と書いて、あ、もしかすると、この松と浅野の肌の美しさという印象から書きはじめた方が、もっとおもしろい感想が書けたのではないかという気持ちになった。温かい松の肌の美しさ、冷たい浅野の肌の美しさ--その温と冷の出会いが、前線のように人間の「気象」(これは、もしかすると気性に通じるかも)を乱すのだ。そして、そこに雨が降り、風が吹きというようなドラマがうまれる……と書くべきだったかなあ。思い返すと、浅野の演技は、とてもよかったのだ。浅野がいて、その冷たい肌と、ふいに動く目があって、はじめて成り立った映画かもしれないとも思うのだ。






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渡会やよひ『途上』

2009-11-30 00:00:00 | 詩集
渡会やよひ『途上』(思潮社、2009年10月31日発行)

 「類従」はたいへんおもしろい詩だ。動物園で、「盛り砂」を見かける。それは「獣舎を離れた虎」のように見える。その後半。

 砂 とら
 虎 すな
晩秋の汗をたらすケヤキではなく
薄目をあける小暗い小屋ではなく
砂の無数の微小な眼窩から
あの果てしなく極まる二つの眼に
金色にかがようさみしい尾に
つながることができるだろうか

 この「つてがる」ということばに、とても強くひかれた。何と何がつながるというのだろうか。砂と虎がつながるのか。しかし、それは「自然」にはつながらない。砂と虎をつなげるのは「私」(渡会)である。
 それは「私」が砂とつながり、また「私」が虎とつながり、つまり、「私」が「私以外のもの」とつながることではじまる世界であり、それは「私」が何かのつながりのなかに組み込まれることである。あるいは、「私」を何かのつながりのなかに組み込むことである。
 「世界」とは「私」と「私以外のもの」のつながりであり、そのつながりというもののなかには「私」が組み込まれる。
 作品の最後の5行。

 砂 とら
  虎 すな
見知らぬものにただ類従を願い
この結界を
はみだしてゆく

 「結界」というのは、「比喩」であり、辞書どおりの意味ではないだろうと思う。「結ばれた世界」、何かの約束事で封印された世界、くらいの意味だろうと私は読んだ。
 私がとても興味を覚えるのは、最後の「はみだしてゆく」ということばである。その「封印された世界」をはみだしてゆくものがある。
 「類従を願う」とは、砂と虎という別なものが、つながりをもったものとして、ひとつのものとして分類されることを願う--というくらいの意味だろうか。「結界」とおなじく、渡辺は独特のつかい方をしている。
 おもしろいのは、その「つながる」ことが、「つながる」という意味(?)に反して「はみだしてゆく」ことになる。
 この矛盾--そこに、渡会の「肉体」(思想)を感じる。

 「光の条」には、「つながる」ことと「はみだだしてゆく」ことが、渡会の「肉体」の運動であることを語った行がある。

滑りやすい階段を降り
岩のざらつきを確かめながら
忘れられた湯場の
くらい湯面に身をしずませると
かつて何ものかであった自分が
象られた記憶を求めて
浮き上がろうとするのだが

 温泉(?)に身を沈める。「肉体」を湯にまかせる。湯としっかりとつながる。そうすると、そのつながりによって、何かがほどかれ(結界の逆、解界--というようなことばなど、きっとないだろうけれど、何かがほどかれ)、そこから「かつて何ものかであった自分が」あらわれようとする。
 あ、そうなのだ。
 なにかと「つながる」ということは、いまの「自分」ではなく、「かつて何ものかであって自分」が、その何かと「つながる」ことを、「つながる」力を利用して、「浮き上がる」--現実に姿をあらわそうとすることなのだ。

 こういう運動は、あらゆる瞬間にあらわれる。「途上」という作品のおわりの方。

またある夜更けには
鉄橋の肥田野アパートの明かりに灯った窓の中に
始まりも終わりもやすやすと超えて
わたしから分かれたわたしが
もう会うこともないない人と住んでいる

 「始まりも終わりもやすやすと超えて」とは「つながり」「はみだし」という意識された世界を超えて、というくらいの意味だろう。
 私のなかには、私と意識できなかった私(かつて何ものかであった自分)というものがあり、それは、私を超えて、あるとき、あるところに突然出現する。何かを見て、そのことをふいに感じる。私とはなんの関係もないアパートの一室の、だれかとだれか。それは「わたし」と「わたしが会うはずだっただれか」というふうに、ことばで「つながる」。そして、そのとき「わたし」のなかから、「わたしから分かたれたわたし」がはみだしてゆく。--いや、この運動は、そんなふうに明確に区別できるものではなく、どちらが先であっても同じなのだが……。

 「類従」に戻ろう。
 砂を虎と見間違う。あるいは虎を砂と見間違う。どちらでもいいが、その「見間違い」、ふいの「つながり」は、いまここにいる自分ではなく、かつて何ものかであった自分が引き起こす「現象」である。そして、その「現象」の奥には、かつて自分であった何ものかが、いま、ここにあらわれて来ようとする運動がある。
 渡会が書いているのは、そういう運動である。

 ことば--それは、何かと結びつき、その結びつきによって、これまでの結びつき(結界)を解体し、その奥にあるものを「はみださせる」運動、新しい世界を「誕生」させる運動のためにある。
 渡会の特徴は、この運動を、少しさびしい音楽とともに書き留めるところにある。
 「むすびつくこと」「はみだしてゆくこと」。それは、こころをちょっとさびしくさせる。それは、たぶん、渡会の場合、ことばのなかだけでおこなわれる運動であって、現実には、渡会自身が世界をかえていくということにつながらないと知っているからである。 「途上」の最終連。

けれど
どんなときも
わたしは通り過ぎていく
親しい人が残していった分身を
幸せを願う女となった見知らぬわたしを
行き先のない電車に乗って
激しい速さで通り過ぎていく

 ふいに見えた「世界」は、渡会にことばを残して、通り過ぎていくのだ。自分のものにはならない。ことば以外は自分のものにはならない。だから、せめてことばを書く、詩を書くのかもしれないが、そこに、さびしさがある。




途上
渡会 やよひ
思潮社

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ジム・ジャームッシュ監督「リミット・オブ・コントロール」(★★★+★)

2009-11-29 15:28:52 | 映画

監督 ジム・ジャームッシュ 出演 イザック・ド・バンコレ、アレックス・デスカス、ジャン=フランソワ・ステヴナン、ルイス・トサル

 ジム・ジャームッシュの映画は「間」がとてもいい。「間」と映像の美しさでひきつける。
 「殺人」(暗殺?)を依頼された男が、標的を探して(?)スペインをさまよう。その過程に、怪しげな男、女があらわれる。それだけの映画である。
 街がかわれば、男のスーツの色が変わる。(街の色にあわせている。)いろいろな男と女が「情報」を提供するために男に近づく。そのあいだに、「想像力」を鍛えなおす(インスピレーションを得るために?)、ソフィア美術館(マドリード)で絵を見る。そういう構造になっている。
 同じことが繰り返されるのだから、そこに繰り返しの「間」が生まれ、登場人物が変わることによって「間」が変わるはずだが、この映画では「間」が変わらない。そこがおもしろい。状況が変わる、街が変わる、風景が変わるのに、「間」が変わらない。別な言い方をすると、男と他の登場人物の「関係」が変わらない。
 いちばんわかりやすい例でいうと、女が近づいてきてセックスするよう誘いをかける。けれど、男は女とはセックスをしない。女が裸になって横に眠っていても、それは単に眠っているだけ。服を着ている、裸である--というだけで、そこには「間」の違いがあるはずである。男と女の肌と肌のあいだにある「邪魔者」がない。(ブルック・シールズはかつてカルバン・クラインのジーンズの宣伝で「私とカルバン・クラインのあいだには何もない(つまり、パンティーを履いていない)」というコマーシャルで評判になったことがあるけれど、あいだに何もない、何かあるというのは、「間」、つまり「関係」を邪魔するものがあるかないかということなのだが……)それなのに、男は、その「邪魔する存在」が不在にもかかわらず、「間」を以前のまま維持しつづける。
 起きてしかるべき(?)ことが起きない、というのは、「間」がいつまでたっても変わらないということである。それは、とても滑稽なことである。笑いを誘うことである。この笑いは、ドタバタとは違って、なんというか、精神がくすぐられるような、軽い笑いである。この笑いが最後まで一貫してつづく。

 人間が登場するのに、そしてその人間と交渉するのに、その人間との「間」が変わらない--それは、まるで、この男が「現実」を「映画」かなにか、いわば架空の世界と見ているというようなことになるのかもしれない。
 象徴的なのが、銀髪の、アンブレラをもった女。彼女はとても目立つ格好で男に近づいてきて、男と映画の話をしたりする。その女が、その女の姿のまま、街の映画のポスターのなかにいる。それを男がしばらくながめているシーンがある。
 その瞬間、現実と架空が交錯するのだが、それでも男の「間」が変わらない。いま起きていることが、現実か、夢か、などとは考えない。
 また、男は、この映画では眠らない。そのことは、映画で起きていることは、ほんとうは夢かもしれないという「謎解き」に誘い込むけれど、ジム・ジャームッシュの演出は、その「謎解き」を前面に押し出すことがない。あくまで、たんたんと「同じ間」を繰り返す。「間」こそが「世界」なのだというように、強固にそれを守る。

 なかなかの力業である。演出力がすごい、と思う。美しすぎる、とも思う。これは、ふつうの映画がエンターテインメント小説だとすると、純文学、それもただ「ことば」を「ことば」そのものとして存在させる「詩」に似ている。ジム・ジャームッシュは映像をただ映像としてそこに存在させ、映像と映像との「間」を守りつづけて一篇の作品に仕上げたのだ。現代詩の詩人が「ことば」と「ことば」の「間」をただひたすらいっかんして同じにすることで、「ことば」だけの世界をつくるように。そして、そのとき詩人が読ませたいと思っているのは「ことば」よりも「間」なのだ。「ことば」はどれも辞書に載っている。ところが「間」は辞書には載っていない。
 どんな映像も、だれもが同じように撮影できるが、そのときの「間」はけっして同じにはならない。--そう思ってみると、きっと、この映画の美しさがわかるはずである。美しすぎて、夢のようであること--それが欠点であるのか美点なのかは、ちょっとわからないけれど。




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松尾真由美『装飾期、箱の中のひろやかな物語を』

2009-11-29 00:00:00 | 詩集
松尾真由美『装飾期、箱の中のひろやかな物語を』(私家版?)

 松尾真由美の詩は長いものが多いが、今回の詩集は1ページにおさまる短いもので構成されている。短い詩でも、松尾の特徴は変わらない。詩集のタイトルが象徴的だが、松尾のことばは、いつも常識的にはかけはなれたものを結びつけ、その結合の内部へとことばを動かしていく。詩集のタイトルにもどれば「箱の中」と「ひろやか」。常識的には「箱の中」は「広さ」とは相いれない。狭い。それを「広い」と想像力でねじまげていく。想像力とは、バシュラールの定義にしたがえば、事実をねじまげる力であるが、松尾は「常識」という「事実」をねじまげるのである。

 象徴的な作品。「element [要素]」の全行。

かろうじて
振り子の
世界を保っている
小舟のような揺らめきに
閲覧者のきびしいまなざし
もっと奥まで見つめてほしい
未知も既知もいくどもむすばれ
しろい檻に匿われ
すでに秘密のない身体
腐乱の手前の
果実の
蜜を
におやかに
食されること
瞬間の地理となる

 なかほどの「未知も既知もいくどもむすばれ」は正確に読みとろうとすると、よくわからない。「未知」は何と結ばれるのか。「既知」は何と結ばれるのか。文法的(?)にはというのも変だけれど、前後の行の関係からいえば、「身体」に「未知」「既知」がいくども結ばれ、その結果として「秘密」がなくなる。「未知」「既知」が「身体」をくまなく覆い隠す。それが「しろい檻」ということになるかもしれない。
 けれども。
 私は、「誤読」する。「身体」に結ばれるのではなく、「未知」と「既知」そのものが結ばれる。「未知」と「既知」が結ばれた結合の「奥」に「身体」が重なる。結合の「奥」を「身体」が解きほぐしていく。それは、「身体」を解きほぐすことににている。「身体」を解きほぐすことと、まったく同じだ。
 「未知」と「既知」、そして「身体」。それは、いわば同格になる。区別がつかない。どちらを優先(?)させて読んでも、同じところにたどりつく。「未知」と「既知」が「身体」に結びつき、「身体」を解きほぐしたのか、「未知」と「既知」の結びつきを「身体」が解きほぐしたら、それは「身体」の解きほぐしそのものになったのか。
 これは、区別しなくていいのだ、きっと。区別しないで、その区別できないものの、濃密な甘さ--蜜に酔えばいいのだ。

 この、解きほぐされた「身体」(「未知」と「既知」)は「瞬間の地理」になる。
 松尾の、この「瞬間の地理」ということばも、とてもおもしろい。「瞬間」は「時間」。「地理」は「空間」。そこには「箱の中のひろやか(さ)」と似た、不思議な拮抗と結びつきがある。
 相いれないものが、結びついて、何か区別できないものにかわるのである。その交錯した何か、混乱した何か、--そこに、松尾の詩がある。

 もうひとつ、別な作品に触れながら……。「alone [ひとりだけで」の最後の4行。

地から天へ
傷から傷へと
翻って
濡れてゆく

 「地から天へ」は「未知」と「既知」、「箱の中」と「ひろやか(さ)」の結合に似ている。それは対極を構成する要素である。だが、その次の「傷から傷へ」は、どうだろう。「地」と「天」はだれでもが区別できる。区別できるから、別々のことばで呼ばれる。ところが「傷から傷へ」は、どうだろう。どんな傷と、どんな傷? どこの「傷」とどこの「傷」? 「傷」だけでは、わからない。
 「地」と「天」のように明確に区別できるものと、「傷」と「傷」のようにまったく区別できないものが、完全に「同列」になる。そこに松尾の詩がある。
 「element [要素]」で、「未知」と「既知」の結びつき、その解きほぐしと、「身体」の解きほぐしが区別できなくなると書いたが、それは「未知」「既知」「身体」が同列になるということでもある。

 詩とは異質なもの(存在)の突然の出会い--とは有名な定義だが、松尾なら、その出会いに「同列の」あるいは「同格の」という定義をつけくわえるだろう、と私は思う。




不完全協和音―consonanza imperfetto
松尾 真由美
思潮社

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水田伸生監督「なくもんか」(★★)

2009-11-28 13:28:45 | 映画

監督 水田伸生 脚本 宮藤官九郎 出演 阿部サダヲ、瑛太、竹内結子 

 大人計画の宮藤官九郎が脚本を書いて、阿部サダヲが出演している。この映画と、「さっちゃんの明日」を比較すると、映画と芝居の違いがよくわかる。
 芝居はフレームが決まっている。舞台の広さはいったん幕が開くとかわらない。スクリーンもスクリーンという枠があるが、これは見せ掛けの枠である。観客は、実は、舞台の大きさ(広さ)やスクリーンの大きさをフレームとして見ていない。出演者の身体、顔の大きさをフレームとして見ている。いや、役者が役者自身に引きつけた「場」の大きさをフレームとして見ている。役者は身体に「場」を引きつけて演技しなければならない。「場」をどれだけ引きつけられるかが役者の勝負である。
 役者の「存在感」(肉体的特権)というものが語られることがあるが、これは「場」をどれだけ引きつけられるかという力の問題である。役者自身の身体の内部から何かを発散するかではなく、役者の体の外にあるものをどれだけ引きつけることができるか。そう考えた方がわかりやすい。(そして、引きつけられるものというのは、実は観客の想像力である。あるいは、観客の、それまでの人生の時間である。)
 舞台では、役者が「場」を引き寄せるとき、役者が頼るべきは役者自身の身体しかない。ところが映画では違う。カメラがある。カメラが役者が引きつけるべき場を演出することができる。アップのことである。カメラが役者の顔をアップする。そうすると、顔の周囲に「場」が集まってくる。顔の周囲の「場」が濃密になる。カメラが、いわば役者の手助けをしてくれる。舞台では、こういうことはできない。役者の顔は、大きくはならない。大きくするためには工夫がいる。カメラのかわりに、照明や「装置」が活躍しなければならない。
 「大人計画」の「さっちゃんの明日」には、その役者を手助けする「装置」に大きな欠陥があった。きのうの日記に書いたことだが、舞台の「場」の分割が、役者の演技を殺している。役者が「場」を引きつけようとしても、「場」そのものが分割されて舞台上にでんと居座り、動かない。これでは、よほど役者に力がないと、演技にならない。
 「Billy Elliot」も「The 39 Steps」も、この点で、非常に工夫されていた。「装置」そのものが自在に「演技」に参加していた。大人計画の芝居では「装置」が演技をしない、という大きな問題があった。(欠陥があった。)
 さて、映画である。「なくもんか」。カメラは自在に動き回っている--ように、見える。出演者をアップで撮ったり、ロングで撮ったり、さまざまな距離で役者を写し出し、その周囲に「場」を引き寄せる--ように見える。
 けれども、どうも「間」が悪い。「間」を感じることができない。ただ単にアップとロングを適当につないでいるようにしか感じられない。「場」が、役者の身体から滲み出て来ない。これは、カメラと役者が一体となって「場」をつくっていない、ということなのだと思う。変な言い方になるかもしれないが、舞台中継をカメラをとおして見せられているような感じがするのである。最初からカメラがあるのではなく、まず芝居がある。その芝居が完成した後、カメラが適当に(?)近づいて行って役者を映している--そんな印象がある。
 役者が演技をしすぎて、カメラに演技をさせていない。
 これは「台詞」についてもいえるかもしれない。舞台では「台詞」ですべて説明しないとわからない。けれども映画では「台詞」がなくてもいい。「台詞」は少ない方がいい。カメラが「台詞」のかわりをしてくれることがある。アップが、「愛している」ということばよりも強く感情を表現することがある。ことばが多すぎる。そのため、私の場合、なんだか見ていて、目と耳が一致しない。一体になってくれない。耳をそばだてていないと、映画がわからなくなる、という印象が残る。
 あ、これは、舞台の脚本だ、と思ってしまう--というのは、まあ、あとから考えた付け足しのようなことだが、どうもなじめないのである。
 阿部サダヲもおもしろい役者なのだろうけれど、映画の演技とは違うんじゃないだろうか、と思ってしまった。



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小西民子『春のソナチネ』

2009-11-28 00:00:00 | 詩集
小西民子『春のソナチネ』(編集工房ノア、2009年11月18日発行)

 小西民子『春のソナチネ』には短い詩が多い。短い分だけ、無理がない。ことばを無理やり動かして、ことばをいじめるということがない。
 「ねむい空」の全行。

光が透けて
  やってくる

一枚の葉が
  ふるえている

書店の店主が
  いねむりをはじめる午後

花の中は
  暗くて湿ったまま

どこから
  わたしだか

どこまで
  葉っぱだか

 最後の2連が小西の「思想」(肉体)である。「どこから」「どこまで」--それがわからない。いま、ここに、生きている。そのとき、小西は、ここに生きているものを区別しない。区別せずに、ただ「一体」になる。透けた光も、居眠りをする店主も「わたし」なのだ。そこに生きているものすべてをつつむ「空気」そのものが「わたし」ということでもある。

 「ソナチネふたたびの夏」の最後の部分。川を描いた行も美しい。

逢いに
行くことは
川を渡ることであり

川の夢を
いくつも渡ることであり

見えない川も
渡ることである

たどりつくと
いつも
どこかが濡れていて

 切ない恋の思い出だろう。そして、その思い出は「川」、「渡る」ということと「一体」になっている。切り離せない。人間は「ひとり」で生きていくものだけれど、その「ひとり」のまわりには必ず「わたし」以外のものが存在する。そして、その「まわり」というのは、たとえば「ねむい空」では「書店」であったかもしれないけれど、この詩では、小西の寝室、ベッドを越えて、遠い遠い「川」までを含んでいる。人間は、いま、ここにいるのだけれど、その「肉体」は、いま、ここにしばられない。どこまでも自在に広がってゆく。そんなふうに広げてゆくのが小西の「思想」である。

 「秋のソナチネ」の「キリン」の部分は、そうした小西の「思想」が美しく結晶した行である。

本の中を
キリンが歩いている
ときどき
立ちどまり
まわりを見まわして
高い木の葉を食べる

本を閉じると
私の中に入って
暗い夜を一緒に夢をみる

 小西は、キリンのような、まったくの「他者」とも「一体」になるやわらかな「思想」(肉体)を持っている。



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大人計画「さっちゃんの明日」

2009-11-27 11:58:29 | その他(音楽、小説etc)
大人計画「さっちゃんの明日」(北九州市民劇場・中劇場)

作・演出 松尾スズキ 出演 鈴木蘭々、宮藤官九郎、猫背椿、松尾スズキ

 大人計画「さっちゃんの明日」は、役者ははりきって演技をしている(母親役がうまい)が、装置がまったく演技をしていない。そのために、とても退屈である。舞台の「場」が濃密にならない。いつも余分な空間がある。その余分な空間が、役者と役者のからみあい、人間関係を「すかすか」にしてしまう。
 私が見た北九州市民劇場との相性が悪いのかもしれない。もっと小さな劇場ならいくぶん印象が違ったかもしれない。
 あ、これはひどい、と思ったのが、2幕目の、幻のパンクロッカーを訪ねていく場面。アパートの2階(?)かなあ。そのシーンが、「さっちゃん」のそば屋の2階部分で演じられる。舞台の、約1/6の、右手上部の空間である。そこで演技がつづいているあいだ、他の空間は生かされていない。単なる暗闇である。
 芝居のことはよくわからないが、私は、演技は常に舞台の中央で演じられるべきだと考えている。役者は特別なことがない限り中央にいて、「場」の変化は「装置」で見せるべきであると考えている。役者が「場」へ動いていくのではなく、「場」を役者が呼び寄せて演技する--それが芝居の基本だと思っている。この基本から、この芝居は完全に外れてしまっている。だからおもしろくない。
 ブロードウェイの芝居と比較してはいけないのかもしれないけれど、「The 39 STEP 」は、役者が「場」を引き寄せるという基本を完全に守っている。箱の上に乗って、体を前かがみにして、コートの裾を翻せば、そこは列車の屋根の上。どこからか木枠を取り出せば、そこが「窓」。観客の想像力を最大限に利用し、常に、舞台の中心の「役者」を、舞台の中心の板の上に置く。
 観客が首を振って、あっちを見たり、こっちを見たりして「場」の変化を知るという「さっちゃんの明日」のやり方は、観客の意識を散漫にしてしまう。「持続」がとぎれる。それではおもしろくない。
 ほかのシーンでも同じである。
 だいたい、基本の「さっちゃん」のそば屋が、右手がそば屋そのものの店内、左が居住場所(日常の生活空間)という二分割が、この芝居を窮屈にしている。図式化してしまっている。人には公(そば屋の店内)と私(私空間としての居住場所、部屋)があるというとらえ方かがつまらない。それが隣り合っているというとらえ方がつまらない。
 主人公のさっちゃんには、そば屋の店長という「公」の人格があり、明るくふるまっている。けれど、さっちゃんは「私」の部分では、左の部屋のパソコンでエロサイトを覗きまくっているという「並列」がとてもつまらない。
 人間の生活というのは、「公・私」というものが、「並列」しているようで、並列していない。入り乱れている。左右に図式化できるものではなく、上下にも入り乱れている。(上下の乱れを、そば屋の2階で表現した--というのは、屁理屈になるだろう)。そして、その入り乱れは、瞬時に交代する。そこに、人間のおもしろさがある。やっかいさがある。
 そういう部分をどう「肉体」で具現化するか。肉体を動かすことで納得させるか--という点では、唯一、身体障害者のセールスマンがドラッグでハイになり、ブレークダンス(パンクダンス?)を完璧にこなすという部分がおもしろかった。ブラックな肉体批評が、肉体そのものとして表現されていた。

 そば屋、居住空間、パンクロッカーのアパートが、舞台の中央で展開する「大道具」の工夫があれば、この芝居の印象は、もっと違ったものになると思った。あるいは、もっと小さな劇場でやれば、印象は違ったかもしれない。脚本はそれなりにおもしろいが、「装置」に問題がある作品だ。


大人計画全集

ぴあ

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白鳥信也「カエルになって」

2009-11-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
白鳥信也「カエルになって」( 「モーアシビ」19、2009年10月30日発行)

白鳥信也「カエルになって」は、久しぶりの雨の日、カエルを見かけ、カエルが感じている「水」を感じたいと思い、「カエルになった自分を想像する」という作品である。
その2連目の途中から引き込まれてしまった。

舗装され平坦な道だけれど
水がなめらかに流れているわけではない
よく見ればアスファルトは
ひとつひとつの砂利が黒く固められ
平らを装った路面そのものは小さなすきまだらけ
水はまずこのすきまに流れ込み
やがて路面をおおっている

カエルはこんなことを考えるはずがないのだが、カエルがこんなことを考えるはずがない--ということを忘れてしまう。そこには、私には「わからないこと」が書かれているからである。「わからない」とはいいながらも、読むと「わかる」。「わからない」とは、つまり、それまで私がことばにするということを思いつかなかったことが書かれているということである。そういうことばを読むとき、それが「カエル」のことばであるなんてことは、すっかり忘れてしまう。こういう瞬間が好き。

 このことばの運動はどこから来ているか。白鳥信也の「キイワード」は何か。「よく見れば」である。アスファルトと雨(水)の関係なんか、ほんとうは「よく見る」必要などない。人間にも。たぶん、カエルにも。(カエルではないから実際のところはわからないが。)雨が降れば濡れる--それだけである。
 けれど、白鳥は「よく見れば」と目を凝らしてしまう。そのとき白鳥はカエル? 違うよね。どうしたって、人間である。「ひとつひとつの砂利が黒く固められ」という具合に認識できる(ことばで追認できる)のは、その作業、その仕組みを知っている人間だけである。そして、その「仕組み」を知っているというのは、実は、いま、そのアスファルトと水を見ている「目」ではない。そういう「作業」を見てきた「記憶の目」である。「よく見る」というのは、裸の目をこらして見るということではなく、「記憶」を動員して「見る」、「知識」を動員して見る--つまり「肉眼」で見るということである。
 そのことばを追うとき、私は、実際にカエルになった白鳥が見ているものではなく、かつて白鳥が見てきたもの、その過去の時間とともに育ってきた「肉眼」そのものを見ることになる。白鳥の目の前にあるものをことばをとおして見るのではなく、目の前にある存在に刺戟されて動きはじめる白鳥の「肉体」のなかにあるもの、その源流へ遡るようにして、白鳥そのものを見る。だから、楽しい。
 つづく3連目。

川底からすくわれた砂利たちがアスファルトに閉じ込められて
流れ込む水滴を味わっている
だからいまここは再び川底になっている

 あ、なんと美しいことばだろう。ことばの運動だろう。ことばでしかたどりつけない美しさがここにある。
 「よく見る」白鳥の目は、ここではカエルであることを超越して、「砂利」になっている。カエルになって「水」を感じようとした白鳥は、カエルであることを忘れて、ここでは完全に「砂利」になっている。「川底」という故郷から切り離された「砂利」になって、その遠い故郷の川底を感じている。
 白鳥は、その「砂利」に、しずかな悲しみとともに寄り添う。

 けれど……。

 3連目の静かな悲しみで終われば、とても美しいのだけれど、白鳥のことばはついつい先へ進みすぎる。「肉眼」の領域を突き破って「精神・感情」にまでことばを整えてしまう。
 4連目。

山岳の岩から割れてこぼれ落ち
ごろごろと川を転がり続けてきた小石たち砂利たちが
ここまでたどりついて
黒く固定されしばりつけられている
カエルの裸足でその時間を味わいながら歩いている
この川底はいつほどけるんだろうか

 たとえば、川で砂利を採取している作業なら多くの人が見ることができる。白鳥にもそういう「記憶」はあるだろうと思う。アスファルトを道路にまいている作業も見たことがあるだろう。見た「記憶」はあるだろう。
 けれど、山岳の岩が割れてこぼれ落ち、それが川を転がりつづけて砂利になるというのは「見た」記憶だろうか? それは実際に白鳥が立ち会って見たものではないだろう。「知識」として知っている「記憶」だろう。「知識」で「世界」を整えすぎると、そこから「肉体」の味が消えてしまう。アスファルトの故郷は川底の砂利である、というのはいいけれど、その砂利の故郷は山岳であり、砂利になるまでには長い「時間」があると故郷の「歴史」まで語りはじめると、もう、そこにはカエルの「肉体」は存在せず(カエルは川底にいたことがあるかもしれないが、山岳には行ったことがないだろう)、むりやり人間の(白鳥の)、どこで知ったかわからない「頭」がくっつけられたような、まるで化け物に変身してしまう。

カエルの裸足でその時間を味わいながら歩いている

 あ、そんなことは、できないねえ。アスファルトのなかの「砂利」が「水滴」を味わうというときの「味」には「肉体」の切なさがあるけれど、巨大な岩が砕け、砂利になり、アスファルトになるまでの「時間」の「味」には「肉体」がない。それは「頭」が感じる「味」、捏造された「味」だ。「カエルの裸足」ではなく、白鳥の「頭」で「時間」を味わっているにすぎない。
 ここには捏造されたセンチメンタルがある。そして、さらにセンチメンタルのだめ押しがつづく。

この川底はいつほどけるんだろうか

 清水哲男なら大喜びするだろうけれど、こういうことばに、私はぞっとしてしまう。「頭」で書かれた敗北主義のセンチメンタルには、どうにも我慢がならない。「いつほどけるんだろう」というのは「頭」が考えた悲しみにすぎない。
 「よく見れば」からはじまった「肉眼」(肉体)の美しいことばは、どこへ行ってしまったんだろう。

アングラー、ラングラー
白鳥 信也
思潮社

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Billy Elliot

2009-11-26 11:41:06 | その他(音楽、小説etc)
Billy Elliot(Imperial Theater)

 映画「リトル・ダンサー」をミュージカル化した作品。音楽はエルトン・ジョン。主演は4人が交代で演じていて、私が見たのはDavid Alvarez 。
 音楽、ダンスが楽しく、演出がスピーディーで、とても楽しい。2幕の冒頭には、映画にはなかったシーンがある。「白鳥の湖」を少年と青年が踊る。少年は将来こんなふうになるのだ、と想像させるファンタジックなシーンだ。(「リトル・ダンサー」のもどるになった青年は実際に「白鳥の湖」に主演している。)
 最初はふたりが同じ振り付けで踊り、そのうち一体になって少年が宙を舞う。湖で優雅に泳ぐ--グレイス・ケリー主演の映画「白鳥」では、白鳥は優雅に見えるけれど、水面下で足を必死に動かしている、というせりふがあるが、優雅に泳ぐだけではなく、白鳥は飛びもするのだと実感させてくれるとても美しいダンスだ。
 幻想ではなく、リアルな(?)ダンスシーンでは、椅子をつかったダンスがすばらしい。床ではなく、椅子の上で回転する--という練習のための椅子なのだが、それを片手でまわしながら(椅子をパートナーとして)踊る。人間だけではなく、椅子さえも、このミュージカルでは踊るのだ。
 装置もまた「演技」をするのだ、と実感した。

 小道具だけにはかぎらない。
 舞台は、あるときは少年の家、あるときはバレエ教室、あるときは炭鉱の街の路上にもなる。せり上がり式の少年の部屋が効果的だし、椅子やテーブルの小道具で場所を激変させる演出も美しい。せり上がり式の少年の部屋は、クライマックスの少年がロイヤル・バレエからの手紙を読むシーンでは、特に美しい。回転し、せり上がっていく部屋を追うようにして、父親たち家族が舞台を回る。少年に注ぐ視線がくっきりと浮かび上がる。視線などというものは無色・透明でほんとうは見えないのに、その視線がまぎれもなく見える。そして、視線が「愛」だと実感できる。とてもすばらしい。
 「The 39 STEPS」のときも感じたが、舞台で演じられるのは「うそ」である。「装置」は「うそ」であって、ほんものではない。ほんものは舞台にあるのではなく、観客の「想像力」のなかにある。その想像力を刺戟しつづける演出、そのために装置にさえも演技をさせてしまう手腕がすばらしい。父親がスト破りをするときの、フェンス、バリケードの動きは、「The 39 STEPS」の「扉」と同じ種類のものだが、緊張感がゆるまず、ただただ感心する。

 カーテンコールも楽しい。芝居の楽しみは、芝居そのものにもあるが、カーテンコールも楽しいものである。演技を離れた顔、役者の一瞬の地顔(でもないのかもしれないけれど)のやわらかさが私は大好きだ。このミュージカルでは、最後に全員がチュチュをつけて登場する。父親までもチュチュをつけて一緒に踊るし、認知症のおばあさんも踊るのだ。こういう幸福感はいいなあ、芝居ならではだなあ、と思う。



 ロングラン記録更新中の「The Phanton of the Opera」(Majestic Theatre)も見たが、「Billy Elliot」の後では、あ、古い、と感じてしまった。劇的な音楽の魅力はかわらないが、演出のスピード感が、いまとは少し違っている。スピードを期待してはいけないミュージカルなのだとはわかるけれど、何か古びてしまったという印象がぬぐえない。地下の水路、舟のシーンなど、もっと水を感じさせてくれないとなあ、などと思いながら見てしまった。あ、すごい、ではなく、余分なことを考えてしまうというのは演出にむだがあるということだろう。

Billy Elliot [Original Cast Recording]
Steve Pearce,Elton John,Martin Koch,Ralph Salmins,Adam Goldsmith,Laurence Davies,Richard Ashton,Tim Jones,Stephen Henderson,David Hartley,Chris Dean,Pete Beachill,Simon Harpham,Tracy Holloway,Derek Watkins,John Barclay,Mike Lovatt,Simon Gardner,Tom Rees-Roberts,Bruce White
Decca

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吉野令子「漂流」ほか

2009-11-26 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
吉野令子「漂流」ほか(「第二次ERA」3、2009年10月30日発行)

 吉野令子「漂流」もまた、わけのわからないことを書いている。ただし、きのう読んだ大橋政人とはまったく違った「わけのわからなさ」である。
 「漂流」。

そして、ここもいつのまにか円形の内なのを知り決意して枠から出たとききみはずっとまえに喪失した無い手が薄い硝子の破片を大切にたずさえていることに気づいたのだった そして 失った手が-伸びてゆく木々の緑の枝のために-ただ木々の枝が健やかであるために-眩い朝の光を期待すること-そのことは肯定してもいいとおもうのだった だが とはいえと息を継ぐ その手はけっして散乱し喪失したあの手の再生ではないこと 不連続にまったくふいに新たに生誕してきたのであること そう そしていまそのことをおもうことはいまなおそのことをおもうことはゆるされるのだろうかという問い そして きみは 熟考ののちにおもうのだった

 ことばが繰り返される。「そしていまそのことをおもうことはいまなおそのことをおもうことはゆるされるのだろうかという問い そして きみは 熟考ののちにおもうのだった」--この「おもう」の繰り返しは何だろう。わけがわからない。わけがわからないけれど、まあ、人間の考えは、何かのまわりをぐるぐるまわっているだけだから、そのうち重なる部分がでてきて、それを「わかった」と言い換えてしまうんだろうなあ、と思うと、この繰り返しは、おもしろい。簡単に言えること、「ちゃんとした日本語」で書こうとすればちゃんと書けることを、くだくだと書く。そのくだくだのなかにある「ちゃんとしないもの」--からはみだすものこそ、吉野が書きたいものだとわかる。
 わかったような気持ちになる。
 吉野が書きたいのは、私が感じていることとは違うかもしれないけれど、まあ、そんなことは、読者である私には関係がない。無責任なようだけれど、ほんとうに関係がない。吉野が書きたいものをくみ取って読むのではなく、私は私が読みたいものを読むだけである。
 「わけのわからないもの」が好き--というのは、その「わけのわからないもの」が、私のなかの未整理なことばを「濾過」してくれる、あるいは結晶させてくれるからかもしれない。

 吉野のこの作品の文体--その「肉体」でいちばんおもしろいのは、「だが とはいえと息を継ぐ」である。ここに吉野の「思想」がある。
 「おもう」を繰り返す。その繰り返しのなかにあるのは単純な繰り返しではない。同じことを繰り返しているのではない。あることを思い、そしてすぐに「だが……であるとはいえ」、「と」いったん「息を継ぐ」。そして、別な視点からいま書いてきたことばをとらえなおす。ことばにしてきた「事実」を言いなおす。そのとき「息」を意識している。そこに「思想」がある。
 「息継ぎ」とは「間」である。
 「間」は「隙間」に通じる。「隙間」は「ずれ」にも「断絶」にも通じる。
 「息」を継ぐと、そのたびに「間」が生まれる。「間」が生まれて、最初の「息」とともにあることばから、どんどん「ずれ」てゆく。そのことを吉野は「だが とはいえと息を継ぐ」ということばで肯定している。「ずれ」てゆくほうに、ことばを動かしていく。「息」を整え、いま書いてきたことばを整理しなおすのではなく、「息」を「継」いで、その先へ行ってしまう。
 どこまで行ってしまえるかわからないけれど、ともかく「息を継ぎ」、ことばを動かすのだ。そのときの動き--だんだん苦しくなって乱れることば、その乱れのなかに「肉体」が、吉野の思想がある。ことばはつないでゆけば必ず乱れる、という、美しい思想がある。その乱れを肯定する美しい思想がある。
 書き出しの「そして」の後の読点「、」以後の、長い長い一息のことば。そして、そのあとの「そして」「きみは」「失った手が-」という息継ぎだらけのことばのつながり方。こんな苦しい息継ぎをするなら、最初の長い文章を整理すればいいのに、といいたくなるくらいだが、この一息の長い文章と、その後の息継ぎの乱れ、乱れながらも先へことばを発しつづける体力。そこにこそ、詩の「いのち」がある。そのことを知っていて、吉野はことばを動かしている。
 わけがわからないけれど、こういう「いのち」のあり方が、私は好きだ。

 わけのわからなさ--ということでいえば、瀬崎祐の「骨切り屋の女」という詩は、「骨切り屋」という商売がわからない。そのわけのわからない店の女と鍾乳洞(?)のなかを進む話(?)を書いているのだが、これはわけのわからなさが「骨切り屋」だけで終わっている。それを超えるわけのわからなさがないために、詩ではなく「お話」になってしまっているような感じがする。

 岡野絵里子「永遠のカーヴ」の書き出し。

 歩道から出て手を挙げれば 屋根にランプを乗せた車は停まる

 ここでは「タクシー」が「屋根にランプを乗せた車」とはぐらかされている。わざとわからないように、そして、わかるように書かれている。それが「比喩」というか「言い換え」に終わっているので、ほんとうの「わけのわからなさ」へはたどりつけずに、「わけのわかった」ところへ落ち着いてしまう。「永遠」ということばがおわりの方に出てくるが、あ、そんな終わり方をしたら、すべてが「わけのわかったもの」になってしまう。それでは、ことばをうごかすかいがないような気がする。



 清岳こうは、わけのわからないことを書かない。自分のわかっていることだけを書く。わかっていることを書きながら、そのわかっていることで、どこまでたどりつくことができるかしっかりみきわめる。「世の中」(世界)とはわけのわからないものである、ということを認識している。常に、わけのわからないものが、わけのわからないことを利用して何かしようとしている。それをみきわめるために、わけのわかることを積み重ねてゆくのだ、という強い決意のようなものが、文体を清潔に鍛え上げている。
 私は、こういう作品も、とても好きだ。
 「追われ逃れて」の書き出しの4行。

陳君は春秋戦国時代の王族の血をひく品行方正・学業優秀の学生だった
陳君はほの暗い大講義室の演壇中央で江青女史の映画制作方針を批判した
娯楽映画こそが人民の心をゆさぶり人民の心を育てる
記録・政治・宣伝フィルム一辺倒は人民を愚弄するだけだ と

 むだがなく、強く、その文体に感動させられる。



その冬闇のなかのウェーブの細肩の雪片
吉野 令子
思潮社

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The 39 STEPS (The Helen Hayes Theater)

2009-11-25 12:37:36 | その他(音楽、小説etc)
The 39 STEPS (The Helen Hayes Theater)

出演 Jeffrey Kuhn, Arnie Burton, Sean Mahon, Jill Paice

 ニューヨークで芝居を見た。私は英語がわからない。英語がわからないのに、大丈夫かと聞かれたが、私はあまりことばというものを重視していないので、まあ、大丈夫だと感じている。日本語の芝居でも、見終わった後、台詞なんてほとんど覚えていない。芝居にとって、ことばそのものは、どうでもいいものだと私は感じている。問題は、役者の「声」と「姿」、「声の調子」と「肉体の動き」だと思う。そして、それを引き立てる演出が大事なのだと思う。
 
 「The 39 STEPS」は4人の役者が、 100人以上の役を演じ分ける。といっても実質は、2人の男がその大半を演じ分けるのだが、芝居とは何かについて考えさせてくれる刺戟に富んだコメディーである。
 とても想像力を刺戟する芝居だ。「想像力」について考えさせてくれる。

 冒頭、見知らぬ女がスパイされている、助けて、と男のところへやってくる。窓の下、街灯のところで男が2人見張っている、という。男は驚いて、カーテンのところへ行き、そっと外をのぞいてみる。
 そのとき。
 舞台の左手から男がふたり、街灯をもってあらわれる。そのふたりは、男が部屋のなかから見ているふたりということになる。男があわててカーテンを閉じるとふたりは街灯をもって舞台のわきへ消える。もう一度のぞくと、またあらわれる。そして、消える。またのぞこうとして、気持ちが変わって、窓から引き返すと、舞台に登場しようとした(いつもの位置につこうとした)ふたりがあわててわきに下がる。
 同じ場所ではないもの、アパートの何階かと路上を、おなじ舞台の板の上で表現してしまう。そして、それが「矛盾」に感じない。同じ場所(板の上)なのに、一方はアパート、そして一方は路上と、見ている観客は感じてしまう。
 あ、芝居とは、結局、観客がどう感じるか、どう認識するかということが問題なのだ。観客の想像力、認識を引き込めばそれでいいのである。芝居とはもともと「うそ」である。その「うそ」を観客が信じれば、それで芝居は成り立つのである。
 だから、舞台装置は簡潔である。ほとんど何もない。机、椅子、ドア、窓くらいである。それも、独立して存在する。つまり、壁とドア、窓がつながっていなくて、ただドア、窓があるという具合である。

 傑作は列車の場面である。助けをもとめに来た女は男の部屋で殺され、男に殺人容疑がかかる。男はその容疑から逃げながら(「逃亡者」みたいにね)、犯人を探すのだが、その最初の逃走のシーン。舞台には箱がいくつか並んでいる。それはまず「椅子」になる。男は客と同じボックスに乗り合わせる。ガタン、ゴトンのゆれを「肉体」で表現する。箱は揺れないけれど、役者が上下に動くので、あ、列車が揺れているのだと感じる。
 男は身分(殺人者)であることがばれ、逃げる。列車のなかで逃げるといえば、ほかのコンポートか列車の上である。列車の屋根の上は、さっきまで男が腰かけていた箱である。箱が屋根になる。そして、屋根の上なら、人間はどうなるか。服はどうなるか。風にあおられ、ぱたぱたとなびく。これを、役者が自分でコートをぱたぱたさせて演じる。思わず笑いだしてしまう。
 このとき、私は何を笑っているのだろうか。
 役者の演技ではない。役者の演技には感心してしまう。そんなふうにコートをぱたぱたさせて列車の屋根の上を逃げていると感じさせることに感心してしまう。私が笑ったのは、私自身の「想像力」に対してなのである。「想像力」は、そこで演じられていることを「ほんもの」と感じてしまう。男が列車の屋根の上を逃げていると感じてしまうことに対して、私は笑ったのだ。「うそ」をつかれたのに、そしてそれが「うそ」とわかっているのに、それでもそれを「ほんもの」と感じてしまうその瞬間に対して笑ったのだ。
 最初に紹介した冒頭の街灯のスパイに対しても同じである。それは男と女のいるアパートのフロアとは別のところにいる。それは、アパートの室内とは同時に見ることはできない。そういうことはわかっているが、舞台から街灯を抱えてふたりがあらわれたとき、あ、あれは路上のふたりだと感じてしまう、その「想像力」に対してわらったのだ。窓の外をのぞこうとして、途中でひきかえす--その動きにあわせてふたりの男がでたりひっこんだり、おおあわてをする。そのとき笑うのも、ふたりの動きがおかいしのはもちろんだが、それが「想像力」の動きと重なる、重なってしまうから、おかしいのだ。自分の思い描いていることが、思い描いてしまうことが、おかしいのだ。

 この芝居は、その「想像力」に対して働きかけてくる「間」が絶妙でもある。「間」がずれると、たぶん、私は笑わない。一生懸命役者が「肉体」を動かす。その「動き」が何をあわらしているか、それがわかった瞬間、とてもおかしいのだ。何をしているかわかるまでの「間」が長いと、なぞときになってしまって、笑うことはできない。
 笑わないシーンでも、その「間」はとても重要だ。
 たとえば、男が、殺人事件のなぞを知っている博士を訪ねていく。部屋へ案内される。舞台背中の中央にドアがぽつんとある。男はドアに向かっていく。ドアをあける。そして、ドアをくぐって、向こう側へ行き、ドアの隣から観客席に向かって歩いてくる。同時にドアがひっくりかえる。(裏返る。)そして、その瞬間、舞台は、博士のいる室内になる。その場面の切り返しがとてもスピーディだ。見ていて、あ、さっきは部屋の外だったが、いまは部屋のなかだとわかる。
 この瞬間、私は、街灯のふたりや、列車の屋根の上の逃走のように大声で笑ったりはしないが、やはり、笑いを感じている。あ、また、だまされた、と感じて。
 このドアのつかい方、そして、それに類似した窓のつかい方もスピーディでおかしい。男は逃走途中、山の中の家へゆく。その家に(女に)かくまわれる。ところが、主人が「犯人がいる」と告げ口(?)をしたため、警官がやってくる。逃げなければ。どうやって? 女が「窓から」と言う。「窓、まどって、どこ?」。すると、女が四角い木枠をとりだす。その瞬間、それが「窓」になる。男は、それをくぐり、まだき(?)、まあ、あれこれして、窓の外へ出て、逃げていく。
 列車のシーンで箱が椅子になり、屋根になったように、単なる木の枠が窓になる。そのおかしさ。それがおかしいのも、実は、そんな「うそ」を「うそ」と承知しながら「窓」だと信じ込む私自身の「想像力」がおかしいのである。

 この「想像力」のおかしさは、ひとりでも楽しい。けれど、大勢の見知らぬ人間があつまり、同じようにばかげた(? あるいは、まっとうな?)「想像力」を共有して、笑いころげるといっそう楽しい。観客がわらっているのを見ながら、どうだ、おもしろいだろうとは役者が真剣に肉体を動かすのを見ていると、ほんとうに楽しい。

 芝居にことばはいらない。肉体が動くのを見ていれば、それにあわせて見ている観客の肉体が動く。肉体のなかにある想像力が動き回る。そして、その動きを自由に、自在にするためには、「間」が重要なのだ。「間」がずれると、もたもたとして、笑いの瞬間がやってこない。
 スピード感あふれる舞台を見ながら、そんなことを考えた。
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大橋政人「空」

2009-11-25 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「空」(「ガーネット」59、2009年11月01日発行)

 私はわけのわからないことが好きである。なんでもいいが、わけのわからないものに出会うと、何それっ、と近づいて行きたくなる。そして、いちばんわけがわからないものは、人間の「考え」だと思っている。
 大橋政人の「空」は、そんなことを思い出させてくれた。

毎日
空ガアルノデ
毎日
空ヲミル

毎日
空ヲミルノデ
毎日
空ヲカンガエル

私ガアルノト
空ガアルノトハ
何カ関係ガアルヨウナキガスル

 ここに書かれていることは、わけがわからない。いや、書かれていることはわかるが、それがわかってしまうということが、実は、わけがわからない。

毎日
空ガアルノデ

 まず、この書き出しがわからない。おーい、大橋さん、なんで、そんなこと書くの? あたり前でしょ? 「毎日」と書かなければならないのは、それがほんとうは「毎日」ではないときだけでしょ? たとえば、私は「毎日」朝7時に起きる--と書いたとすれば、それはほんとうは「毎日」ではないから。ときどきは7時ではなくなるから。
 いや、そんなことはない。「毎日」陽が昇り、陽が沈む、というのはあたりまえのことだけれど、「毎日」ということばは不可欠である。--そういう反論があるかもしれない。
 あ、そうですね。それは重要なポイントですね。
 実は、その反論を待っていたのです。
 という具合に、私も、まあ、他人から見れば、なんでそんなことをわざわざ書くの? というようなことをついつい書いてしまうのだけれど……。

 そうなんだなあ。「毎日」陽が昇り、陽が沈むというようなことは「毎日」ということば抜きには書けない事実である。「毎日/空ガアル」だって、事実を書いているだけだから、それがわけがわからないということにはならない。
 あ、でも……。
 「毎日」陽が昇り、陽が沈む--と書くのは、実は、その「毎日」において陽が昇り、陽が沈むということが普遍にある一方で、何か、そこでは違ったことが起きるからこそじゃないのかな? 違ったことが起きるということを浮き彫りにするために、「毎日」陽が昇り、陽が沈む、ととりあえず、普遍のことがらを書いているのじゃないのかな?
 たぶん、そうなんだ。
 そして、もし、そうだとすると、大橋が「毎日/空ガアルノデ」と書きはじめたのも、実は、何かしら違ったことを書くための補助線のようなものだな。

 では、その違ったものとは?

毎日
空ガアルノデ
毎日
空ヲミル

毎日
空ヲミルノデ
毎日
空ヲカンガエル

 どこが違う? 「違う」ものというのは、たいてい、わけのわからないことだけれど、ここに書かれていることばはとても単純で、書かれていることがらは「わかる」。だれも知らないようなこと、特別なことは何一つ書かれていないように見える。
 見えるけれど、そのように見えるということが、実は、「わけがわからない」。こんなばかなこと、こんな変なこと、と言えない。その言えないということが、「わけがわからない」。

私ガアルノト
空ガアルノトハ
何カ関係ガアルヨウナキガスル

 この3連目が、絶妙だ。「何カ関係ガアル」と言い切らずに「ヨウナキガスル」とあいまいに「ずれ」てゆく。それまではすべて断定だったのに、ここでは断定をさせ「ような気がする」と二重にぼやかしている。「ような」と「気がする」に二回、断定をさけている。
 「わけのわからないこと」を断定せずに、「ような気がする」と二回、あいまいにすることで「わけのわからない」という状態のまま、そこに存在させてしまう。
 何を存在させてしまうかって?
 「気」だ。「気」だけではなく「気がする」の「する」を存在させてしまう。

 「気がする」というのはとても変な表現である。気が存在するのではない。「気」というのは名詞のはずだが、それが物質のようにそこに「ある」のではなく、「する」という運動とともにそこで動いている。「する」があるから「気」がそこにある。「する」によって、「気」ではなかったものが「気」に「なる」のだ。
 「する」のなかには、「なる」が隠れている。

 同じように、実は、それまでの連のなかにも「なる」が隠れているのだ。

毎日
空ガアルノデ
毎日
空ヲミル
(ことになる)

毎日
空ヲミルノデ
毎日
空ヲカンガエル
(ことになる)

 「ミル」「カンガエル」は、実は、それまで「見なかった」「考えなかった」けれど、「見るようになった」「考えるようになった」ということを、言い換えたことばだ。
 
 やっと。
 「毎日」と書かなければならない「理由」がやっと、でてきたね。「毎日」と書いているのは、それは「毎日」ではなかったのだ。いま書かれている「毎日」は、それまでの「毎日」と違ったことがあるからこそ、そして、それをはっきりさせるためにこそ書かれたのだ。

 「わけのわからないもの」。それは、考え。そしてそれがなぜわけがわからないかといえば、それは「なる」ものだからである。定まったものではなく、「なる」。変化する。変化するものは、とらえどころがない。変化をただ追いかけて、なんだこれは、といいつづけるしかないものなのかもしれない。一瞬一瞬は「わかる」。そして「運動」そのものも「わかる」ような気がする。けれど、何か微妙に違う。その違いは、違うということ以外には「わからない」。--って、いったい、何を書いているの?

 自分でも、よくわからない。よくわからないけれど、あるいは、よくわからないからこそ、こんなふうにことばを動かしてみるのが、私はとても好きだ。こんなふうに、わけのわからない気持ちにさせてくれることばが大好きだ。
 でも、それじゃあ、きりかない? どうやって「考え」を終わらせればいい? 大橋は、笑いのなかで終わらせる。その「手つき」もいいなあ。軽くていいなあ。考えには重い考え(という表現)と軽い考え(という表現)がある。実際に測ったことがないので、ほんとうに「重い」「軽い」があるかどうかわからない。大した差はないのかもしれない。大橋のことばを読んでいると、そう思えてくるから楽しい。

空ヲ考エルト
切リガナクナル

空ニ
切リガ
ナイカラダロウカ

 最後の2連の、その連を構成している1行あき。これもまた絶妙である。1連目、2連目のことばをつかえば、そこに当然「ノデ」ということばに通い合うことば「ノハ」があっていいはずなのだが、それが、ない。
 大橋の笑いの軽さ、考えの軽さにみせかけた「重さ」(重要さ)は、この「ノハ」の省略にある--ということを、ふと思いついたが、ああ、長くなるなあ。まあ、そう思いついたと書いておけば、いいだろう。
 ほんとうは思考をひきずっているのだが、それを断ち切って、(1行あきで)、飛んでしまう。この飛んでしまうときの「体力」(筋肉の力、肉体)が、大橋のことばの「いのち」かもしれない、とまた、余分なことを書いてしまう。



十秒間の友だち―大橋政人詩集 (詩を読もう!)
大橋 政人
大日本図書

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ポン・ジュノ監督「母なる証明」(★★★★★)

2009-11-24 11:57:06 | 映画
監督・原案・脚本 ポン・ジュノ 出演 キム・ヘジャ、ウォンビン

 知的障害のある息子に殺人容疑がかかる。その容疑を晴らし、真犯人を捕まえようとする母親の姿を描いている。強く、そして弱い人間をリアルに描き出している。キム・ヘジャが名演としかいいようのない演技で母親像をスクリーンに刻みつける。傑作である。
 ただし、問題点がある。「間」の処理が、一か所、とても「ずるい」。「推理」を含むからしようがない--といってしまえばそれまでだが、「間」がほんとうに「ずるい」。
 「間」にはいろいろな種類がある。
 「イングロリアス・バスターズ」では、「章」仕立ての「間」は「場面」の切り替えとしてつかわれていた。「場」がかわるというのは、次のシーンでは「時間」もかわる、ということである。そして、そこには「省略」がある。「飛躍」がある。「間」によって、観客は、画面の切り替えと同時に、それまでの場所と時間を超えて、別の場所、時間へ移動する。これは一種の約束事である。
 「あの日、欲望の大地で」では、「間」は人と人との関係を象徴するものとして描かれていた。そういう「間」は、場面、時間がどんなにかわっても「同じ」である。この場合の「間」とは「思想」のようなものである。かわらない。そして、かわらないことが、ドラマをつくりだしていく。かわらないはずの「間」が、あるときかわらざるをえなくなる。どうやって、かえていくか。どうやって、その変化を乗り切るか。そこに「人間性」というものがでてくる。

 「母なる証明」では、キム・ヘジャの演じる母は、「あの日、欲望の大地で」のシャーリーズ・セロンに似ている。「間」のありかたか、シャーリーズ・セロンに似ている。息子にべったりと密着していた「間」。それが、あるときから揺らぐ。殺人容疑がかかることで、強制的に密着できない「間」ができる。息子は拘束されている。会えない。その強制的な「間」。それを解消するために、母親は奔走する。
 そして、その奔走の過程で、何度か「間」に変化が生じる。「犯人」の手がかりがみつかったとき、母親には「間」が縮まったという錯覚が生まれる。しかし、その「錯覚」はつづかず、逆に、母と子の間に、亀裂が入ることもある。
 一度目。息子は「5歳のとき、母に殺されそうになった」と昔のことを思い出し、母を拒絶する。拒絶されて、さらに母は息子との「間」を埋めるために、容疑を晴らそうとする。
 二度目。息子が過失で少女を殺したことを知ってしまう。殺人ではなく、過失致死というのが正確なところなのだろうけれど、その事実は、母と息子を完全に切り離してしまう。「間」は絶対的な隔たりとなる。それを、母は、しかし受け入れることができない。そのために、弱い人間になってしまう。
 それはそれでいい。それでいい、というのも変な表現だが、これは映画なのだから、そういうふうにして人間を描くことに問題はない。むしろ人間の深層をえぐりだした傑作ということになる。
 問題は、そういう「人間」、「人」の「間」ではなく、別の「間」である。

 「イングロリアス・バスターズ」で「場」と「時間」に「間」がある、と書いた。
 この映画でも「時間」に「間」がある。どんな映画でも、何日ものことを2時間くらいの時間でみせてしまうのだから、そこには「省略」という時間の「間」がある。しかし、その「間」は、たいてい「場」の「間」と同じようにして描かれる。場所がかわる。だから時間が変わる。それが一種の鉄則である。場所が変わらないときは、「○年後」というような「字幕」で説明したりする。
 この映画は、そのいちばんの基本で「うそ」をついているところがある。「間」をごまかしているところがある。
 殺される少女。その少女が息子の前を歩いている。廃屋に入っていく。その廃屋から、大きな石が道に投げ出される。息子は、ぎょっとする。石を投げ返す。何も起きない。そして、息子は立ち去る。その一連のシーンのなかに問題の「間」がある。
 石を投げ返す。そして、息子が立ち去る。そのあいだに、実は「間」がある。スクリーンでは一瞬だが、ほんとうは長い長い「時間」がある。その「長い間」をこの映画は、一瞬に縮めてしまっていて、最後に、種明かしのように、実は「長い間」があったのです--という。
 これは、詐欺である。
 たしかに、息子が立ち去るときの表情--そこには「違和感」がある。見た瞬間、あれ、何かが変わったと思う。けれど、それは石が投げ出され、放りかえしたのに反応がないことへの不気味さに対する反応に見えてしまう。それでは詐欺だとしかいいようがない。「違和感」を感じさせる息子の演技は絶品だけれど、絶品ゆえに問題が大きすぎる。
 映画の傷として、あまりにも大きすぎる。
 「間」を詐欺に利用してはいけない。



 その「間」を別にすれば、この映画は冒頭のキム・ヘジャの荒地のダンス、そしてラストのバスのなかのダンスシーンがとてつもなくすばらしい。特に、太陽の光がバスの窓から入ってきて、逆光のなかで踊るシーンが美しい。悲しい。バスのなかのシーンなのに、そのバスのなかの空気が、バスの窓を越えて客席にひろがってくる。
 ああ、だからこそ、たったひとつの「間」の処理の詐欺が許せない、と思うのだ。



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三井喬子『青天の向こうがわ』

2009-11-24 00:00:00 | 詩集
三井喬子『青天の向こうがわ』(思潮社、2009年09月30日発行)

 「アンブレラ」という作品がある。書き出しはとても快調である。

お忙しいところ申し訳ありませんがアンブレラ
降ってます降ってますアンブレラ
天使さんが降ってますアンブレラ。
白い小さな形だけれど
当たると痛いアンブレラ

 「アンブレラ」が何なのかわからない。わからないけれど、私はこの書き出しはとても気に入っている。リズムがいい。こんなふうにリズムがいいと「アンブレラ」が何かの比喩である--ということは、考えなくてすむ。実際にアンブレラが降ってくるのが見える。
 そしてそれは「傘」あるいは「雨傘」ではない。「傘」あるいは「雨傘」から具体的な形を消し去った、変なものである。一瞬「傘」のように見えるけれど、その形はすぐに消えて、「アンブレラ」という「音」になっている。
 「音」が「音」のまま、降っている。
 それで、どうしたの、と言われるとちょっと困るが、その「降ってくる」という唐突さがいいのだ。
 雨だって、雪だって、降ってくるときは「唐突」である。--つまり、「私」に対して、いまから降っていいですか?というようなことは聞かずに、勝手に降ってくる、という意味で「唐突」である。雨が降ってくること、雪が降ってくることを、どうにかするということはできない。そういうものがある。
 「アンブレラ」もそういうものである。そういうものが、何かわからないから、ともかく「音」として降ってくるのである。
 そのことに共感できなかったら、まあ、この詩は、その人にとって詩ではない、ということになる。

 ということを私は書きたいのではない。実は。
 この詩の書き出しは、とてもおもしろい。けれど、最後がとてもつまらない。

どちらへ行きますかアンブレラ。
重たい後悔を載せたまま
手すりを越える
まだ張り出しがあるアンブレラ
アンブレラアンブレラ
天使さんはもう消えちゃった。
踏み出せば
たった一歩ですぞアンブレラ。
定められていることではありますが
落ちてみますかアンブレラ
青鈍色の
その世界の 底に。

 あらら。「アンブレラ」はどうもほんもののアンブレラみたい。歩道橋(たぶん)から投身した人のもっていたもの。自殺した人はそこにはもういないけれど、アンブレラが取り残されている。あるいは、その「投身自殺」は幻(空想)でもいいのだけれど、その死んでしまった人から取り残されたアンブレラから刺戟を(インスピレーション)を受けて書いたのが、この詩、ということになる。
 三井はことばの運動の「種明かし」をしている。
 それが、とてもつまらない。
 「青鈍色の/その世界の 底に。」の「青鈍色」というのは「車道」のアスファルトの色である。そういうものを最後に出してしまうと、ことばの自由な運動は、自由ではなくなってしまう。「比喩」に落ちていってしまう。詩は比喩の言い換えではない。

 ちょっと違った言い方をしてみる。違った部分から三井の詩に近づいてみる。
 誰にでも「キイワード」というものがある。私が「キイワード」と呼んでいるのは、その作者の「肉体」にしみついてしまって、作者から切り離すことのできない「思想」のことである。そして、私が問題にする「キイワード」はたいがいごくごく「平凡」なことばである。現代思想のキイワードのようにかっこいいことばではなく、書いた人さえ書いたことを忘れるような(つまり、深い意味をこめずに書いてしまう)ことばである。
 三井のキイワードは何か。
 「秋」という作品に出てくる。この「秋」も書き出しはとてもおもしろい。

仰臥するわたしの
上を 大きな足が通りすぎて行く
こんな夜更けに
草を刈り
野を広げ。
さまざまな足が過ぎて行く
足裏から血を流し
早かったり 遅かったりしながら。
理不尽の足の裏
不可知の足の裏
と 言うべきか
裸足の 偏平足の
重く また軽い足どりが過ぎて行く
ときに踊るように。

 書き出しがおもしろいと書いたが、実は、その書き出しに、「つまらない」ものがある。「と 言うべきか」という1行である。そして、これが三井の「キイワード」(肉体としての思想)である。
 「と 言うべきか」という1行はなくても、この書き出し、1連目は成立する。というよりも、ない方がスピード感があっていい。「と 言うべきか」という1行がことばのスピード、自由さを奪っている。
 それまでに登場する「足」は特権的に「足」であった。「足」以外の何ものでもない。説明を拒否して、ただ「足」だった。わからなければわからなくていい。「足」が見える人にだけ「足」が見えればいい--という足だった。
 そのあとも、そういう「足」にかわりはない、と三井は言うかもしれないが「と 言うべきか」という説明、補足が、実はその「足」には三井の思いがこもっていると告げてしまうのだ。そして、その「思い」が、重くするのだ。ことばを。

 三井の詩には、いつでも「と 言うべきか」が隠れている。存在している。もし、三井の詩の展開(ことばの運動)が見えにくくなったら、そこに「と 言うべきか」という1行を補ってみると、私の書いていることがわかりやすくなるかもしれない。
 
落ちてみますかアンブレラ
青鈍色の
その世界の 底に。
と 言うべきか
歩道橋の下の道に。

 快調なことば運びのときは、「と 言うべきか」が省略されている。ところが、ことばを動かしている内に、三井は、ときどき不安になるのだと思う。どこかで説明しなくてはいけないのではないだろうか。ことばは「論理」(説明)を省略したまま、勝手にどこまでも暴走してしまっていいのだろうか。そいういう不安にかられて、思わず「と 言うべきか」と書いてしまう。書かないまでも、それを「意識」のなかで動かしてしまう。その瞬間に、ことばが失速する。詩が詩ではなくなる。

 こんな感想は、詩集の紹介としては不向きなものなのかもしれない。三井の詩の魅力をつたえるということとは、まったく逆のことを書いているのだから。しかし、どうしてもそう書かずにいられなくなった。
 三井は、私がいま書いたような「癖」をもっている一方で、とても魅力的なことばも書いている。たとえば、「生誕」の次の2行。

路上電車の軌道の左右に
二つに分かれようとして繋がっている 一人の子供。

 わ、すごい。夢に見てしまいそうだ。「生誕」というタイトルなのだけれど、そこには「死」の影があって、そしてその「死」によって「いのち」がいっそう輝くような矛盾した運動。こういう自由なことばと一緒に走っている人は「と 言うべきか」などという「思想」でそのスピードを殺してはいけない。もっともっと、ただただ走って、そのスピードにことばが悔しくなって、(ライバル心を燃やして)、ことばが自分自身の力で、思わず三井を追い越してしまうくらいになると、詩がとっても楽しくなると思う。
 詩人は、詩のことばを説明してはいけないのだ。



青天の向こうがわ
三井 喬子
思潮社

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ギジェルモ・アリアガ監督・脚本「あの日、欲望の大地で」(★★★★)

2009-11-23 22:23:31 | 映画
監督・脚本 ギジェルモ・アリアガ 出演 シャーリーズ・セロン、キム・ベイシンガー

 「間」にはいろいろな「間」がある。
 ギジェルモ・アリアガ監督・脚本「あの日、欲望の大地で」でいちばん印象に残っているのは、キム・ベイシンガーの浮気の相手の埋葬シーンだ。埋葬を、離れた場所からキム・ベイシンガーの家族が見ている。道から少しはみだしたところ。道路わき。父の埋葬を終えて、その家族が車へ向かう。当然、キム・ベイシンガーの家族の前を通る。その、前を通る瞬間を狙って、キム・ベイシンガーの夫が怒りをぶつける。遺族も、じっと浮気相手の遺族を見つめる。このときの距離感、間合いがとてもいい。
 キム・ベイシンガーは浮気の最中に火災で焼死した。「許さない」と夫は言う。しかし、相手の遺族に殴り掛かるというのではない。浮気というのは一方的にはできない、相手遺族からすればキム・ベイシンガーのせいで夫・父は死んだということになるという事情はあるにせよ、そのときの怒りのぶつけ方、肉体が触れ合わない距離のとり方が、この映画全体を象徴している。
 シャーリーズ・セロンは少女時代、母キム・ベイシンガーが浮気しているのを知った。そして、それを家族への裏切りだと感じた。けれど、それをうまく母に言えない。そして父にも言えない。父に言ってしまえば、母を裏切ることになると思うからだ。家族ゆえに、うまく距離がとれない。直接的にぶつかりあえない。そして、そのことが、ふとしたはずみで不幸を招いてしまうのだ。もし、直接、母に対して「浮気しているのを知っている。許せない」と言うことができれば、あらゆる不幸は起きなかった。
 このことが「後遺症」のようにしてシャーリーズ・セロンを責める。他人との「距離」のとり方、間合いが、うまく処理できない。ぴったり密着することがこわい。かといって、だれとも接触せずに生きるのはつらい。他人に対して肌のぬくもりをもとめる一方、他方でその密着が人間関係を変えてしまうことにも恐れを抱いている。
 触れ合うことは人間を変えてしまう--それをシャーリーズ・セロンは知ってしまった。そのことが、さらに問題を複雑にしている。シャーリーズ・セロンは母の浮気相手の男の息子と恋をしてしまう。「怒り」とつながるべき男と恋をしてしまう。人間は、触れ合えば、そこではどんな変化が起きるか、だれにもわからない。そして、その変化は制御ができない。
 こういう変化は、「間」があるからこそ生まれるのである。
 人間はひとりひとり独立している。人間が出会うとき、二人の間には「間(ま)」がある。その「間」を人は「愛」で埋めようとする。「愛」とは自分が自分ではなくなってもかまわないと覚悟することなだ。そして、実際に変化してしまう。「間」は人間のあらゆる変化を受け入れる。「変化」によって、「間」が縮まり、あたたかな触れ合いがつづくことがある。人はそれを願っているが、ときには、その変化が「間」をいびつにして、そこに深い亀裂が入ることもある。それは、すべて「間」があってこそ、起きることがらである。
 「間」によって「人」と「人」は出会。人に出会うだけではなく、「間」とこそ出会い、「間」と関係をつくるのかもしれない。「間」を築き上げるのかもしれない。「人」+「間」が「人間」ということかもしれない。
 これは、別な言い方をすれば、人が人と出会うということは、そこに新しい「間」が生まれるということでもある。そしてその「間」によって、人は、いやおうなく「人間」にさせられる。「人間」になることを迫られる。
 シャーリーズ・セロンの場合、この映画の場合、彼女の前に、突然、ひとりの少女があらわれる。そのとき、それまで孤独を生き、愛を欠いたセックスを生きてきた「キャリアウーマン」が「人」であることから「人間」になることを迫られる。
 「人間」になるということは、「人」であることの「自由」を失うことでもある。「間」は「間」を連鎖反応のように呼び寄せる。過去を呼び寄せ、未来を遠ざける。それでも人は「人間」にならなければならない。

 シャーリーズ・セロンは、このときの人間の悲しみと苦悩と、その先にある安らぎを、さまざまな「間」の変化で具現化していた。そこに、悲しみと苦悩があるからこそ、だれもが(観客のだれもが)シャーリーズ・セロンを受け入れることになる。

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