詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

青柳俊哉「足音」、池田清子「わたしのし」

2020-02-29 17:03:21 | 現代詩講座
青柳俊哉「足音」、池田清子「わたしのし」(朝日カルチャー講座・福岡、2020年02月17日)

足音     青柳俊哉

ひどくよっていたわたしは
ねる場所をもとめて
雪のふるしらない町をあるいていた
雪のふるしろい世界に
遠い空の鐘をうつようにこだまする足音
ねしずまる町にひびきわたり
わたしひとりに反響している足音
その音をだれも聞いていない だれにも聞こえていない
わたしひとりにあじわわすために
わたしをよわせ しらないしろい町をさまよわせ
いつまでもなりやまない 
遠い地下の内面的な鐘をうつような足音を
わたしひとりにあじわわすために
わたしの内部におりてきてわたしをつきぬけ 
雪のふるしらない町の 
空の闇にきえていった音

 一行目の「よっていた」は、酒に「酔っていた」と読めばいいのか。そう読むにはためらいが残る。「酒に酔って」ではつまらない。「酒に酔う」は「酒に溺れる」「酒に逃れる」でもある。この「逃避」の感覚とは違うものが書かれていると感じる。

わたしひとりに反響している足音
その音をだれも聞いていない だれにも聞こえていない

 という二行には、強い自意識がある。「わたしひとり」を「だれも……いない」というのは、自分にだけ意識が集中していることをあらわしている。もし他人がいるとしても「だれも……いない」と感じるとき「わたしはひとり」になる。
 「酒に酔」っても自意識はあるだろうが、酒に麻痺したときの自意識とは違うものを、この二行に感じる。
 だから、最初の二行を読まなかったものとして読んでみる。
 この詩には「音」が交錯している。「足音」は歩くときにうまれる音だが、それを修飾することばに特徴がある。

遠い空の鐘をうつようにこだまする

遠い地下の内面的な鐘をうつような

 比喩に「鐘」が共通するが、一方は「遠い空」、もうひとつは「遠い地下」とかけ離れたものといっしょにあらわれている。さらに「地下」の鐘は「内面的な鐘」と呼ばれている。「遠い空」の鐘も「内面的な鐘」と考えられる。つまり、どちらも「現実」の鐘ではなく、「わたし」だけに存在が確実な鐘である。「自意識の鐘」ということになる。
 それは、どんな「音」を鳴らしているのか。
 これを想像するのが、この詩を味わうための「分かれ目」になる。
 受講生から「静かな音」という声があった。「雪のふる」町が「静かな」という印象を引き起こすのだと思う。「わたしひとり」だけ聴こえる静かな音が「空の闇にきえていく」は確かに「静か」という印象に通い合う。「静かな音」に「よう」。「静かな音」が「わたしをよわせ」「さまよわせる」というのも、幻想的で美しい。
 しかし、逆に読んでみるのもおもしろいかもしれない。ひとは快感にだけ「酔う」ものではないだろう。「不快感(自己存在のどうしようもない感じ)」に苦しみ、その苦しみに酔うということもあるかもしれない。
 一種の「不協和音」とでもいえばいいのだろうか。ふいに、そういうものに引きつけられるということもあるのではないだろうか。
 「遠い空」「遠い地下」という矛盾するものが出会い、衝突する場としての「わたし」という存在。矛盾したものの出会い、衝突が「しらない」何かを引き出す。それは、自分のなかに取り込むべきものなのか、それとも自分の外に吐き出してしまうべきものなのか。
 そのとき、そのときによって違うだろうと思う。それは、そして、そういう「矛盾」のままでいいのかもしれない。答えを出すことのできない「不機嫌さ(不条理)」のようなものが書かれているのだ。
 その「不条理としての矛盾」、「遠い空」と「遠い地下」の関係は、

わたしの内部におりてきてわたしをつきぬけ

 と書き直されている。「遠い空」から「わたしの内部におりてきてわたしをつきぬけ」「遠い地下」へさらに降りて行くのかもしれないが、最終行では「空」ということばが登場する。「空」を「地下」にある「空」と読むこともできるが、私は「上」にある空を思い浮かべてしまう。もし、「地下にある空」なら「おりてきてわたしをつきぬけ」ということばを、さらに言い直した方がいいように思う。

* 

わたしのし       池田清子

遊びがない
余裕がない
ギリギリで
比喩などない

 「あっさり感がいい」「リズムがいい」という感想が聞かれた。
 この詩で考えてみたいのは「比喩」とは何か、ということである。
 青柳の詩では「鐘」が比喩だが、「足音」さえも比喩かもしれない。現実の足音であるけれど、それは同時に「自意識(自己存在の不快さ)」の比喩(象徴)でもあるかもしれない。ふつうは、ひとは歩いているとき「目的地」を意識する。足音というものに耳を傾けながら歩くのは、足音を聞かれたくないときくらいだろう。
 この詩にほんとうに「比喩」はないのか。
 「遊び」は「余裕」の比喩であり、その「遊びがない」「余裕がない」が「ギリギリ」と言い直されるなら、「ギリギリで」も比喩ということになるだろう。「比喩がない」がそのまま「遊びがない」の比喩(言い直し)になっているとも言える。
 ことばは「もの」そのものではないから、あるいは「事実」そのものではないから、どうしても「一部(比喩)」になってしまうのだ。
 この詩のいちばんの「むずかしい」部分は「ギリギリで」という一行だ。
 「ギリギリで」という言い回しは、だれでもつかう。「意味」をわざわざ言うまでもないことである。「ギリギリって何?」と子どもにきくと答えられないだろう。わかっているけれど、こたえられない。それは「肉体(思想)」になってしまっているということだ。
 これを、あえて自分のことばで言い直してみる。「遊びがない」「余裕がない」はすでにつかわれているので、つかえない。「自由がない」では、かなり「意味」が違ってくる。「肉体感覚」では「切羽詰まっている」の「つまっている」くらいかもしれない。でも、そのときの「切羽」って、さらに言い直すと? 「切羽詰まっている」は「切羽詰まっている」であって「切羽」を切り離しては考えないかもしれない。この無意識になってしまっている切り離せないものというのが、とてもおもしろい。それを何とかして切り離し、ことばにすると、(ことばにしようとすると)、そこから詩がうごきはじめるかもしれない。
 「ギリギリで」をどこまで言い換えることができるか。








*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(42)

2020-02-29 09:19:09 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

白い馬

ぼくはいつも日蔭でひとを愛する
だまつていて
自分をあざ笑う言葉をいたわつて

 この詩にも「言葉」がでてくる。「自分をあざ笑う」を、別のことばでいいなおすと何だろうか。
 「それからどうなのよ」と問われて、

わたしには分からない

 という「答え」がある。この「分からない」が「自分をあざわらう」かもしれないと思う。「あざ笑う」は否定だが、「分からない」のなかにも否定がある。そして、その否定のなかには、肯定すべきものがある。それを「いたわる」のだ。
 否定する力があることを肯定する。




*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(41)

2020-02-28 22:46:45 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

沈める寺

ぞんざいな言葉のくりかえしと
すぎさる月日が
ぼくの骨を削つている

 「ぞんざいな言葉」と「すぎさる月日」はおなじものである。
 そう踏まえた上で思うのだが、この「ぞんざい」を私自身のことばで言い直せば何になるだろうか。
 「虚偽」になるだろうか。それも考えた上での虚偽、つまり「虚構」のためのことばではなく、「真実ではない」と知っていながら、そこにあることばに頼ってしまうときの、その「虚偽」。「うすっぺらな嘘」。
 しかし、それはほんとうは「すぎさる」ということはない。「肉体」のなかにたまり続ける。あるいは「沈み」つづける。それが「骨を削る」ということ。






*

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全小中高休校要請の「怪」

2020-02-28 09:00:17 | 自民党憲法改正草案を読む
全小中高休校要請の「怪」
             自民党憲法改正草案を読む/番外316(情報の読み方)

 安倍が、全部の小中高への休校を要請した。このニュースをテレビで知ったとき思ったのは、
①コロナウィルスの感染者の実数は報道以上に多い。それを隠蔽しきれなくなった。
②国会で紛糾している「桜を見る会」「黒川検事定年延長」問題から、目をそらせる。
 このふたつの目的のどちらかだろうと思った。(あるいは、ふたつとも、か。)

 きょうの2020年02月28日の読売新聞(西部版・14版)を読むと、①ではなく、②であると確信した。
 一面に、政治部・今井隆が書いた「拡大阻止へ異例の決断」という見出しの記事がある。

学校の一斉休校は社会全体で感染拡大防止に取り組むよう促す象徴的なメッセージになる。

 「象徴的メッセージ」は今井の「判断」をあらわしているのか。たぶん、そうではなく、安倍側からリークされた表現だろう。全体的なトーンのなかで、そのことばだけが「浮いている」。
 そして、この「象徴的メッセージ」から見えてくることが、別の問題としてある。
 「象徴的メッセージ」というものに「実効性」はない。そして、それは対外の場合、「独断」で発せられるものである。つまり、事実を踏まえ、現場の声を踏まえた「メッセージ」なら「象徴的」ではなく、あくまで「現実対応」のメッセージになるのが、現実の世界の出来事だからだ。
 それを裏付ける「興味深い」発言が、三面に書かれている。「「後手」批判 首相踏み込む/対策基本方針から転換」という見出しの記事。これは政治部・土井宏之が書いている。

萩生田文部科学相は(略)休校期間について「(対策本部で)私は目安として2週間ぐらいと発言したが、ちょっと幅が広かったので調整する」と記者団に述べ、事前に知らされていなかったことを示唆した。

 「お友達」の萩生田さえも「知らされなかった」内容が、突然、安倍の口から発表された。(たぶん、和泉の助言を踏まえて、あるいは和泉に言われるままの発表だったのだろう。)
 この教育(学校)の問題なのに、その責任者である萩生田さえも「知らない」というのは、安倍が、現場の問題をいかに無視しているかを語っている。何も知らずに、勝手に決めたのだ。
 それを「証明」するような記事が同じ三面にある。
 教育現場の問題がいろいろ書かれているが、直近の問題として「高校入試」がある。この問題は読売新聞では「見出し」になっていないが、名古屋市の教育委員会の幹部の声がのっている。名古屋市では(愛知県も?)、5日から高校入試がはじまる。その幹部は、

「休校になれば卒業式や高校入試などに影響が及ぶ。休校を既に決めた大阪市などからも情報を集め、対応を検討する」と語った。

 事前に、各県の実情を把握していない。休校になったとき、どう対応するか(対応できるか)、根回しして聴くということをしていないのだ。
 だが、こういう誰もが思いつきそうな疑問(私は、ブログを含め、その他のネットでもすでに何回か、高校入試のことを書いている)が見落とされるのはなぜか。「高校入試」ということばが出てきたのは、私が読み違えていなければ、読売新聞では、ここ一か所だけである。
 理由は簡単である。東京、神奈川、千葉では公立高校の入試は終わっているからである(ネットでは、そう書かれていた)。安倍が(安倍の側近が)暮らしているまわりでは、公立高校の入試は、問題にならないのだ。国立大学の試験も終わった。(まだ、残っている部分もあるが。)そのタイミングを待って、「全小中高休校」を打ち出したのだ。「全国」が見えていないのだ。
 これは繰り返しになるが、安倍が、教育現場の実情を知らないうえに、それを知るために全国の声を聴くということもしない。ごくごく身の回りの情報だけでものごとを判断していことを証明する。
 なぜ、こんなことが起きるのか。
 安倍は、自分のことしか考えていないからである。最初に書いた、

②国会で紛糾している「桜を見る会」「黒川検事定年延長」問題から、目をそらせる。

 これだけが目的なのだ。
 「ぼくちゃん、何も悪いことしていないもん」
 それをきちんと説明できない。だから、国民の批判をかわすためなら何でもやる。「事実」ではなく「象徴」を掲げて、目を引きつけようとする。このとき、犠牲になるのは「事実」と直接向き合っている国民である。高校の受験を控えている中学三年生には「象徴」はどうでもいい。試験がどうなるか、自分は行きたい高校へ行けるのか、それが問題なのである。

 「休校」問題は、さらにいろいろな「事実」と直面している声を引き寄せる。運動面には「選抜出場校に動揺」という見出しで記事が書かれていた。「部活」「練習試合」はどうなるのか。学校が「休校」なのに、そういうことをしていていいのか。野球部だけではなく、ほかの「部活」も同じだろう。
 さらに、共働き家庭の困惑も書かれている。突然休校になっても、子どもの面倒を見るひとがいない。仕事を休むしかない。実際、看護師が子どもの世話のために出勤できないので、病院の患者受け入れを制限するという病院まで出てきている。「休校」がどういう影響を及ぼすか、安倍も、コネクティングルーム(?)で「公私」をつかいわけている和泉も、まったく気にしない。それが自分の問題ではないからだ。自分が批判されなければそれでいい、という人間が、いま日本の何もかもを破壊している。想像力の欠如が、日本を破壊している。


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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(40)

2020-02-27 09:34:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

ピアノ

海の底にはピアノが沈んでいる
深夜
誰もが眠っているとピアノは静かに鳴りはじめる

 「深夜」「眠る」「静か」ということばが固く結びつく。それを「鳴る」という動詞、書かれていない音が破っていく。その衝突のなかに、その連続(接続)と切断の瞬間に詩があるのだが、これは「定型」になってしまっている。
 これをどう乗り越えるか。違った形にするか。あるいは、さらに深めるか。

奏者は
地球創造のとき生まれたひとりのみなし児だという

 「みなし児」ではなく「ひとり」に焦点を当てて読みたい。「みなし児」に重心を置くと、「意味」が強くなりすぎる。





*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(39)

2020-02-26 15:54:45 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

嘘の傘

どこまで行つても一つの言葉にたどりつけない
言葉は人間からはなれたがる

 「一つの言葉」とは何をさすか。
 二行目の「言葉」は「一つの言葉」をさしているか、それとも「すべての言葉」をさしているのか。
 「一つの言葉」にたどりつけないために、「すべての言葉」が人間から離れたがる。「すべての言葉」は「一つの言葉」につながりたいと思っているということだろう。
 そして、それは嵯峨の願いなのだろう。

 「嘘」の反対にある「真実」。
 でも、そうなってしまったとき、その世界が「楽しい」かどうか、私は疑問に思う。






*

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「軽症者」を無視するな

2020-02-26 13:09:14 | 自民党憲法改正草案を読む
「軽症者」を無視するな
             自民党憲法改正草案を読む/番外315(情報の読み方)

 新型コロナウィルス対策あ、安倍政権が打ち出した。読売新聞2020年02月26日(西部版・14版)の一面に、読売新聞の医療部長が「不安解消へ 情報具体的に」という記事を書いている。感染しても8割は「軽症」で「重症」化するのは2割だと書いたうえで、こうつづけている。番号と括弧内は私が補った。

 ①軽症の段階では、一般のウイルス性の風邪と同じで特効薬はなく、自然に治るのを待つしかない。②一方、重い肺炎を起こした患者は、呼吸管理など高度な治療が必要になる。③医療機関をパンクさせず、重症化する人を見極めて迅速に治療することが多くの人を助けることになる。
 ④今回の(政府の)基本方針では、風邪の症状が軽い場合、医療機関をすぐには受診せず、自宅での療養を原則としている。

 政府の方針を「言い直した」ものだが、非常に疑問に思うのが、
①の「軽症の段階」をどう判断するかである。この記事では何も書いていない。「熱が出ても4日間自宅で様子をみる」というようなことがすでに報道されているが、自宅にいる間に「重症」化していったらどうするのだ。
②はあたりまえのこと。
③は、論理的なようで、論理がうさんくさい。「軽症」の内に診断し、いまは軽症なので自宅で待機し、改善しなかったらもう一度受診するように呼びかけるのが、国民を安心させるのではないだろうか。感染しているかどうかわからないまま、重症化するまで自宅でじっとしていろには無理がある。
 だいたい「医療機関をパンクさせず」ということは、国民が考えることではない。医療を管理している政府が考えることであって、そういう問題を国民に押しつけることは間違っている。
 感染者を「軽症」の内に感染者と判断し、健康管理をすることが、「多くの人を助ける」ことになる。まず感染しているか、していないかを「見極め」ないことには、それにつづく行動がとれない。
 「迅速化」を阻んでいるのは、検査をしようとしない政府の方針に原因がある。

 それを裏付けるような記事が2面に乗っている。「ウイルス検査 保険適用へ 厚労相」という見出しがある。そこで加藤は、こういう説明をしている。

①いまは全額公費でやっているが、保険診療に移すとなると、保険の報酬単価を決めないといけない。②そういった作業を逐次進め、いつでもスタートできるような状況はつくっておきたい。

 私は「保険の報酬単価」の計算方法など知らないが、①そういうものを決めるのに、いったいどれだけ時間がかかるのか。すでに新型コロナウィルスが猛威をふるってから何日もたっているし、多くの人が保険適用を求めているのに、いままでそれを放置してきたのはなぜなのか。さらに②についていえば、「保険の報酬単価」を決めるのに時間が必要というのなら、とりあえずは全額個人に負担させ、単価が決まった段階で「払い戻す」という方法もあるだろう。時間と手間はかかるだろうが、それをしないとさらに時間と手間がかかる医療が必要になる。
           
 社会面には、文科相が

複数の感染者が出た場合、思い切って一つの市、町の学校ごと休みにするのも選択肢に入れてほしい

 と語ったと書いてある。
 これから各都道府県で公立の高校入試がはじまる。「休校」が「市全体」で実施されるとき、入試はどうなるのか。「全市休校」を判断するのは、だれなのか。
 記事中には、文科省が「感染した児童生徒が発熱しながら登校していた場合、速やかに休校」するように求めた通知を全国の教育委員会に出した、とあるが「発熱しないで登校していた場合」はどうなるのか。つまり、学校から帰って来て「発熱」がわかった場合はどうなるのか。また、その学校が「休校」になった場合、同じ学校に通っている中学三年生の受験はどうなるのか。
 いまは「時期的」に、そういうことを考慮し、方針を決めないといけない。
 社会面(第社会面)には「Jリーグ公式戦を延期/巨人オープン戦無観客」というような見出しで、いろいろな対応が紹介されているが、高校入試の対応こそ、早急に決めないといけない。
 この際、思い切って、「3月の高校入試は中止」くらいにしないといけないのではないのか。「4月まで延期(あるいは5月まで延期)」、さらには「今年は中止(全員合格)」くらいの対応をとらないとたいへんなことになる。
 若い人(持病のない人)は重症化しない、などと考えていてはいけない。若い人は若い人だけで接触しているわけではない。家族がいる。家族のなかには高齢者もいれば、持病を抱えた人もいるだろう。
 重症者を増やさないことも大切だが、感染者を増やさないこと、「軽症」の内に感染を封じ込めることが一番大切なのだと思う。
 「軽症者」を早く発見し、「軽症者」のしっかり対応をとる。そうすれば必然的に「重症者」も減るのではないだろうか。「重症者」の背後には多くの「軽症者」がいる。それを隠してはいけない。
 安倍のやっていることは、いつでも、どこでも「隠蔽」だけである。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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四元康祐「芯」

2020-02-25 12:14:01 | 詩(雑誌・同人誌)
四元康祐「芯」(「森羅」21、2020年03月09日発行)

 四元康祐「芯」は「1」「2」にわかれている。その「1」の一連目。

本のページの余白に引く
青鉛筆の芯の柔らかさが気にかかる
明日になればもう忘れているかもしれないが
死ぬ前に思い出すのは案外そんな些細なことかもしれない

 「青鉛筆の芯の柔らかさ」ということばにひかれた。色鉛筆はふつうの鉛筆に比べると芯が柔らかい。すぐに折れる、という印象がある。青鉛筆は芯だけではなく、青そのものも柔らかい。「余白」というのは、「白」を含むけれど、それは色をあらわすわけではない。なにもない。その頼りなさと柔らかさが響きあう。
 抒情は、こういうところから動き始める。それがそのあとの二行で「意味」になる。死ぬ前の余白によみがえる青い芯の柔らかさ。

青鉛筆の芯の柔らかさを思い浮べるたびに
心の隅でなにかが喚起される
青くもなければ柔らかくもないなにか
それを手繰ってゆけばどこかへ辿り着けるだろうか

 うーん、この四行は「理屈」っぽい。はっきた言って、つまらない。「抒情」を抒情で終わらせずに、論理で動かしていく。「どこかへ辿り着く」の「どこか」というよりも「辿り着く」ということをめざして動くのだと思う。
 で、どうなる?

なぜか「囲い込み運動」という文字が瞬く

 この二連目の五行目に、不思議なものを感じる。不思議としか言えないなにか。なぜ「囲い込み運動」ということばを思い出したのか。線を引くことが「囲い込む」につながるのか。「つまらない」と書いたことを訂正して「おもしろい」と書き直したくなる。
 わからないが、わからないからこそ、そこに四元の「肉体」を感じた。いや、ほんとうにおもしろい。わくわく。
 書かなければならないものがあるとすれば、「囲い込み運動」なのである。というか、もし、この「囲い込み運動」ということばがなければ、詩は動かない。ことばは動かない。わくわく。
 三連目。

引くべき線もないのに
青鉛筆を手に取って芯の先を眺めみる
斜めにチビている
ということ以外なにも思いつかない

 えっ、「囲い込み運動」ということばを思いついた、のではないのか。
 「囲い込み運動」は「思いついた」のではなく、「思いつかされた」ということか。「思い」の外からやってきた。あるいは「思いの奥(無意識)」からやってきた。予想外だった。だから、それをどう動かしていいか、「なにも思いつかない」。
 ことばを動かさずに「芯の先を眺めみる/斜めにチビている」と視線を動かしている。いや、視線が動くままに(肉体が動くままに)、それをことばにしているが、こういうことを四元は「思いつく」という範疇には入れないようなのだ。
 そして、「思いつかない」といいながら、次のように、ことばを強引に(?)動かす。
 最終行。

その空白の真ん中にぽつんと我が立っている

 「我」が「空白」に「囲い込まれている」ということか。空白だから、「囲い込み」はない。青鉛筆で線を引かないかぎり、「囲い込み」は起きない。
 この詩は、「論理による抒情詩」とでも呼べるものだ。「論理」も「抒情」なのだと主張する詩、あるいは「論理」を抒情にすることができると教えている詩。
 まだ引かれていない青鉛筆の、芯の柔らかさを感じさせる線。それを想像する。そして、線を引く行為を「囲い込み運動」と呼ぶ。線を引いたあと、その「囲い込み」のなかへ入っていくのか、内側にいて「我」を「囲い込む」ふりをしながら、「外」をつくってしまうのか。どちらであるか、わからないが、



 か、と私は思う。詩の最後で突然出てきたことばが「私」や「ぼく」ではなく、「我」という、いまでは奇妙に強く響くことばであることに、私は驚く。「我」なんて、私は長い間つかったことはないなあ。「我々」は遠い昔につかったが、そのときも「我」とは言わなかったなあ。
 「我思う、ゆえに我あり」ということばも思い浮かぶが。
 この私には奇妙に強く感じられることばと抒情の結びつきが四元の詩なのか。
 この「強い響きの我」というのは、四元の場合、そのまま「強い論理」ということになると思う。「我=論理」というものが四元を動かしている。そして「我」が「抒情」に傾くとき、「論理」は「抒情」へ向かって動く。あるいは、「抒情」が「論理」によって強靱になり、四元の「独自性」につながる、というべきか。
 二連目の、突然あらわれた「囲い込み運動」を三連目で線を「引く」という形でひっぱりながら「我」に結びつける、「我」をひっぱりだしてしまうところに、ほーっと、私は声をもらしてしまう。

 で。(実は、これからが、ほんとうに書きたいところ。)

 この作品は一連五行が、三蓮で構成されている。「起(承)転結」の構造になっている。そして、二連目三連目でわかるように、四元はそれぞれの連の「結」に四元の思想(肉体)をくっきりとあらわしている。
 しかし、その五行目だけを比べてみると、一連目には「我=論理」というものががない。全部を引用しないが、「我=感傷」というようなセンチメンタルなものがあらわれている。だからこそ、私は「抒情=センチメンタル」を「論理」化し、「論理=我」を打ち出すのが四元の作品である、とここでは言いたいのだが。
 こんなことは、しかし、書いてもおもしろくない。
 だから、ほんとうに書きたいことなのだけれど、中途半端でやめておく。
 気が向いたら「森羅」で一連目の最終行を確かめてください。それを読んで、どんな気持ちになるか。ひとそれぞれ。









*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(38)

2020-02-25 09:38:28 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (死は原因でもなく結果でもない)

人間存在のつなぎめである
それをほどくために人間史は永遠に書きつづけられる

 感想を書こうとして、瞬間的に、手がとまる。なぜ、「否定」から考え始めるのか。
 「誕生は原因でも結果でもない」と書き始めることもできる。ただし、その場合は「ほどく」ではなく「さらにひろげる」ということになるだろうか。
 そう考えると、この詩のポイントは「ほどく」である。
 何かがもつれて、からまり、固くなる。そういう状態を「死」と呼ぶことができる。動けなくなった何か。それを「ほどく」ために何をするべきなのか、それを知るには「もつれ、からまり、固くなる」という「歴史」をみつめることが必要だ。どうやって生きてきたか。つまり、どうやって「自分をひろげてきたか」。
 そう考えると「誕生は原因でも結果でもない」に戻る。私は「結果」が用意されていない「誕生」から考える方を好む。どこへ行くかわからないから、楽しい。「結果」は考えてはいけない。「いま」が「結果」だし、「いま」が「誕生(出発点)」だ。





*

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コロナ対策での安倍の「手柄」

2020-02-24 21:46:05 | 自民党憲法改正草案を読む
コロナ対策での安倍の「手柄」
             自民党憲法改正草案を読む/番外314(情報の読み方)

 新型コロナウィルス対策で、安倍は大失敗をした。クルーズ船での感染拡大を防止できなかった。船内を厳しく区分けし、管理することを怠って、感染を拡大させた。さらに、医療関係者が検査は万人単位ですぐにできると言っているのに「一日 800人しか検査できない(その後、数字を増やしたが)」と主張して、検査もしなかった。調査のために乗船した官僚の検査も怠った。
 このためクルーズ船は、「水際での防止作戦」ではなく、全世界が注目するなかでの「感染拡大実験室」になってしまった。

 大失態である。

 しかし、それが安倍の唯一の「手柄」である。
①新型コロナウィルスは感染力が強く、密室では、あっという間に感染する。
②感染者と非感染者をすばやく分離しないと、感染をとめることができない。
③検査したときに陰性であっても、感染者と接触する機会があれば、すぐに陽性にかわりうる。(感染することがある。)
 こういうことを、日本だけではなく、全世界に知らせることができた。
 安倍でなければ、こういうことは、できない。

 きっと、中国・武漢の感染者が減れば、それで今回の問題は解決する、と全世界が誤解しただろう。
 中国が問題を解決したとしても、日本が中国以上の感染源になっている。そして、どこの国でも新たな感染源になりうるということを知らせた。

 少しでも感染症の危険性を知っていれば、クルーズ船での対応をきちんとおこない、感染者が日々増加するということはなかっただろう。そして、その危険性を世界が知ることもなかっただろう。
 安倍批判は安倍批判として、この「負の手柄」は、どれだけ強調しても強調しすぎるということはないだろう。 



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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テレンス・マリック監督「名もなき生涯」(★★)

2020-02-24 18:15:29 | 映画
テレンス・マリック監督「名もなき生涯」(★★)

監督 テレンス・マリック 出演 アウグスト・ディール、バレリー・パフナー

 テレンス・マリックの映像は美しいと評判である。この映画も確かに美しい。しかし、困ったことにその美しさは、私の「頭」が感じる美しさであって、「本能」というか「欲望」が感じる美しさではない。簡単に言い直すと、この映像の真似してみたい(絵に描いてみたい、ことばに置き換えてみたい)という欲望が起きない。その場所へ行ってみたいとも思わない。さらに言い換えると、この映像を「美しく」撮っているひとの気持ちがわからない。こんな美しい映像を撮る人に会ってみたいという気持ちにはぜんぜんなれないのだ。
 なぜなんだろう。
 今回の映画には、その「わからなさ」へ近づくための手がかりのようなものがあった。主人公が兵役を拒否した。それでも召集令状(?)は届く。そして主人公へ出征する。ひとりになった女が「あなたに私がみえるの?」と語るシーンがある。主人公も独房で「あなた」と呼びかける。そのあと「父」とも呼びかける。ここで、はじめて私は「あなた」がだれだかわかった。「神」なのだ。
 おそろしいことに。(というと、たぶん叱られるかもしれないが。)
 私の席の隣(新型コロナウィルスを警戒してなのか、たいていひとつ空席をおいて座っているので、ほんとうは二つとなりの席)の女性が、主人公が「神」に語りかけることばを、英語そのままで反復していた。それで、ますます、主人公やその妻が語りかけている相手が「神」なのだと確信した。
 で、こう思ったのである。
 テレンス・マリックが描き出しているのは人間の視線で見た「情景」ではなく、「神」が見た「世界」なのだ。テレンス・マリックが、「神」が見ている世界と想定した世界という方が正確なのだろうけれど、いずれにしろ「人間」が見た「世界」ではないのだ。
 これでは、私が共感できるわけがない。私は「神」を信じていない。「神」を信じていないのに、「神が見た世界」を見せつけられても、これは確かに美しい映像だけれど、それがどうした?としか言いようがない。
 しかも、である。
 この映画は、一方で兵役を拒否する(ヒトラーに従うことを拒否する)主人公が、「村八分」にされることを描いている。とても人間臭いのである。一方で、孤独な「神」への誓いのようなものがあり、他方で「神聖」とはほど遠い俗な人間関係がある。なまなましい「人間ドラマ」(人間動詞の葛藤)がある。それなのに、その「人間ドラマ」は、「神」の視線でとらえられているためか、「情念」のようなものがつたわってこない。怒りや憎しみが感じられない。「試練」のように描かれるのである。
 これがまたまた、私には、ぴんと来ない。「試練」を描いていることはわかるが、「試練」にしてしまうと、「人間ドラマ」が「人間対人間」ではなく、「人間対信念(?)」のようなものにすりかわってしまい、まるで「倫理の教科書」みたいと感じるのである。私は、こういうのは苦手だ。
 「神」のかわりに、村で暮らす女の方には、小麦粉の量をそっと増やしてくれる水車小屋の男がいたり、こわれた台引き車のまわりにちらばったじゃがいもを集めてくれる女がいたりする。一方で、女は、彼女より貧しい老婆にとれたばかりの蕪をわけたりするという、「人に隠れておこなう善行」のようなものが描かれる。主人公の方は、冷酷に「死」と向き合いながら、それでも思っていることを貫く姿が描かれる。
 その「試練」がふたりをどう育てたのか。
 私にはわからないが、そういう「試練」を生きる人がいて、いまの世界が支えられているというような「メッセージ」を監督はつたえようとしているようだが、それが「神の見ている世界」なら、いやだなあ。キリスト教徒ではなくてよかったなあ、と私などは思ってしまう。「信念」を生きる姿は立派だが、そういう人がいるから「いまの世界がある」と言われて、それでキリスト教徒は納得するのだろうか。次代のひとのために信念を生きる「名もなき生涯」を選び取るのだろうか。「信念を生きることで、社会がどうかわるのか」と、「神」ではなく、生きている人間から問われつづけるという、それこそ「この世の試練」ともいうべきものが何度も描かれるのを見ると、「偉いなあ」と思わず声が漏れる。
 でも、これが「道徳の教科書」になってもらっては困るなあ、と私は思ってしまう。
 ヒトラーのどこに問題があったかを、もっと描いてもらいたい。テーマが違うといわれれば、そうなのだけれど。

(中州大洋スクリーン2、2020年02月24日)
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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(37)

2020-02-24 10:07:52 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (どこまでも時の端を求めて歩いていつた)

気がついたら
そこはぼくの心のゆきどまりだつた

 「時の端」は「時のゆきどまり」だろう。それから先がないのが「端」なのだから。そうすると、「心」は「時」ということになる。ただその「心」には「ぼくの」という限定がついている。ここから引き返して、「時の端」を「ぼくの時の端」と読み直してみる。客観的な、あるいは一般的な「時」ではなく「ぼくの」時の端を求めている。しかし、「ぼくの時の端」では、自己主張が強引すぎる。「時」に「ぼくの」という限定をすることは、ふつうはしない。「ぼくの心」という言い方は一般的である。この違いを、嵯峨は、巧みに利用している。
 「気がついたら/そこは心のゆきどまりだつた」であったとしても、大筋で「意味」は変わらないのだが、「ぼくの」という限定をつけずにはいられない瞬間が、ある。同様に「ぼくの」という限定をつけたい「時(の端)」があるのだということを嵯峨は静かに語っている。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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新型肺炎と受験

2020-02-23 22:19:40 | 自民党憲法改正草案を読む
新型肺炎と受験
             自民党憲法改正草案を読む/番外313(情報の読み方)

 新型肺炎問題について、いろいろな報道がある。私は、いま一番心配しているのは、入試である。大学入試、高校入試があるが、とくに気になるのが高校入試だ。大学入試と違って、ほとんどの中学生は、公立と私立の併願、つまり多くて2校しか受験しない。公立だけ受験という中学生も多いと思う。新型肺炎のピークと受験が重なったら、どうなるのか。発症していなくても感染している可能性のある中学生が、一斉にあつまり受験する。感染拡大に拍車がかかるだろう。
 高校受験は、「経済活動」にはあまり影響がない。そのため、新聞報道などを見ても、そんなに大きな扱い(問題)にはなっていないが、「15歳の進路決定」は、その後の人生を左右する。車の生産・販売というような大きな金が動く問題は、そのときの影響は大きくても「取り返し」がきく。しかし、「15歳の進路決定」は、「取り返し」がむずかしい。入試が実施される前に、しっかりと対応を決めておかないと中学生の今後がめちゃくちゃになる。
 私には中学生の子どもも、高校生の子どももいないが、ほんとうに心配だ。連休明けのあす、24日すぐにでも、中学校の「学校閉鎖」が何校の場合どうするかというような、具体的な数字を出して、方針を決定しないことには中学生は不安に突き落とされるだろう。場合によっては、今回にかぎり、「志望校に全員合格」というような大胆な決定が求められると思う。
 3月に入ってからでは、絶対に遅い。
 それでなくても、安倍の対応は「後手後手」である。きっと中学生の受験問題など、安倍の頭の中には入っていないだろう。厚労省も考えていないだろう。文科省は、どうか。安倍の「洗脳教育」のための学校はどうあるかは考えても、中学生の将来など気にしていないのではないか。

 中学三年生を抱えている家庭は、全国民からみれば、絶対的に多いわけではない。けれど、中学三年生は、絶対といっていいほど高校を受験する。ほぼ100%受験する。こんなに大きい「世代横断的」な仕組みというか、催しというものはない。
 これをおろそかにすると、ほんとうにたいへんなことが起きる。
 私には、気が気でならない。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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野沢啓「世界という比喩--言語比喩論」

2020-02-23 12:00:12 | 詩(雑誌・同人誌)
野沢啓「世界という比喩--言語比喩論」(「走都」第二次4、2020年02月01日発行)
 
 野沢啓「世界という比喩--言語比喩論」を読みながら、いろいろなことを考えた。これから書くのは「批評」、あるいは「感想」というまとまったものではない。思いつきである。思いつきを書き並べても意味はないかもしれないが、「批評」にするために「論理」として整えてしまうと、きっと考えたこととは違ったことを書いてしまうだろう。読みながら考えることは、ただ単に考えることであって、それは瞬間的な「反応」である。だから、どうしても「矛盾」が含まれる。「さっき納得したのに、いまは反発している」(さっき好きと言ったのに、いまは大嫌いと言っている)というようなことが起きる。私は、こういう「矛盾」を排除したくない。とりあえずは書き留めておく。そのうち、それは「好き嫌い」の濃淡を変化させながら、落ち着くところに落ち着く。それがいつになるかはわからないし、濃淡は状況が変わればまた変化する。その変化にまかせる、ということである。私は「学者」でもないし、「理論家」でもない。もともと「論理的」な人間ではないので、「矛盾している」と言われても、それがどういうことかよく理解できないこともある。
 と、前置きは、ここまで。

 と、書きながら、少し、前回書いたことを引きずる。
 野沢は「詩は散文に先行する」と書く。原始人の発する最初のことばは「論理(散文)」ではなく、ある契機によって生み出される、ということを根拠にする。私が理解している範囲で言い直せば、「危険」とか「驚き」とかを他の仲間に知らせる。それが最初にある。それは「呪術(魔術)」のような形で原始社会をリードするようになる。それは「散文」とはいえないものだ。詩だ。これが野沢の出発点である。
 この考えを、私は「頭」では「理解」したつもりになる。しかし、私の「過去」を振り返ってみると、ことばは、そんなふうにしてあらわれてこなかった。私が「ことば」を最初に「ことば」として理解したのは(もちろん、あとから思いなおしてのことだけれど)、小学校に入学する前に「名前くらい書けなければいけない」と言いながら、父がひらがなを教えてくれたときだ。それまで、私は「なまえ(名詞)/ことば」というものを明確に理解していなかった。「なまえ」がなくても「もの」が「ある」。「ある」が先にあったからだ。そして、その「ある」は全部つながっていた。「ある」というだけで充分であり、いちいち「区別」する必要がなかった。必要なときだけ、そこに「ある」ものを呼べばよかった。「呼ぶ」ということが「ある」を「もの」に変える。そのとき「呼ぶ」を支えるのは、「肉体の欲望/本能」であり、本能であるかぎり、それはある種の「論理」をもっていると思う。「生き続ける」ということ。その「つづける」が、たぶん、「論理」というものであり、それは「散文」だと私は感じる。
 と書いてしまうと、だんだん、書こうとしていたことと違ってくるのだが……。
 何か、「詩は散文に先行する」という「定義」を、そのまま受け入れることにためらいがある。
 野沢は、「詩は散文に先行する」という「章」のあと「哲学は詩を説明するか?」という「章」で、詩と哲学の関係を考察している。「歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語る」というアリストテレスのことばを引用している。「歴史家」を「散文家」と言い直せば、「詩は散文に先行する」になる。そして、「哲学」も「散文」である。したがって、「詩は哲学に先行する」。これは野沢が前回書いていた古代人が雷に驚き声を発するという描写につながっている。これも、「頭」で考えるかぎり、野沢の書いている通りである。
 このあと「トピカとクリティカという視角」という「章」で「哲学」とはどういうことかを考察している。ここに書かれていることは、「頭」でもなかなか理解できない。私は「哲学書」というものをめったに読まないし、野沢が引用しているヴィーコはまったく読んだことがないから、私にそれを理解するだけの「基礎」がないということになる。だから、ここから何かを考えるということは私にはできない。
 その次の「章」は「詩は制作である」。この「制作」は、言い直せば「歴史」ではない、ということだろう。「起きたこと」ではなく「起きうることを、ことばで先取りする」(言い直せば、制作する/でっちあげる)」のが詩。楽しい定義である。わくわくする。そして、その「わくわく」に、三木清の、こんなことばが引用される。

作ることは単に意識の内部に於て起こり得ることではなく、作るためには我々は身体を必要とし、外部の存在に働きかけて、我々の外部に作品が出来上がるといふことが問題である。(野沢は「正字体」で引用しているが、私は普及している字体に書き換えた)

 私は、この三木の考え方には、半分「保留」をつける。「わくわく」するのだけれど、どうしても一歩引きたくなる。のめりこめない。理由は簡単である。「身体」ということばにつまずく。
 私は「身体」は「身体検査」くらいにしかつかわない。どうも「気取っている」。私は「肉体」ということばを好む。「肉体のことば/ことばの肉体」という具合に。私が「肉体」ということばをつかうとき、それは「未整理のもの」を含む。「すけべ」なものを含むといえばいいのか。女の肉体、男の肉体。触ると、あるいは触られると、どうなるかわからない。好きと思っていたのに嫌いになる、嫌いだと思っていたのに好きになる、ということが、私の意識を裏切るように起きてしまう。そして、それを「精神」で制御できるかどうか、よくわからない。「身体」ということばでは、その「すけべ」が消えてしまって、何か違うと思うのだ。何か「精神的」なフィルターをとおしたあとの「論理」のようなものを感じる。別なことばでいえば「哲学」として語られているような気がして、構えてしまう。
 で、この「精神的/哲学的/あるいは散文的」な考察は「身体」の「身」ということばを利用しながら、「身分け=言分け、そして世界へ」という「章」へ進む。そして、そこに野沢のこんなことばがある。

日常生活の時空間から離陸してことばの世界に入るとき、詩人は自分をとりかこむ世界というものが巨大な空虚であることをいやおうなく認識させられる。

 ここだね。私が、どうしても書きたいと思ったことは。私は、ことばというものについて、野沢とはまったく違う立場にいる。ことばと世界の関係のとらえ方が、どこかで完全に違っている。どこか違うか、というのは、説明がむずかしいが、「違う」と言いたくなるものがあるということだ。
 私の言う「肉体」は、ここでは「日常生活」、あるいは「日常生活の時空間から離陸しない/密着したことば」のこと。「身体」は野沢が書いているように「日常生活の時空間から離陸」した「ことばの世界」で動いていることば。「日常生活」ではないから、とうぜんのようにして「空虚」というものがある。「空虚」とは「精神」がつかみとる現実であって、「肉体」はそういうものには触れることができない。「肉体」はあくまで手に触れることができるもの肌で触れることができる「実体」とのみつきあう。「もの」には「内部」というものがあり、それは「肉体」では絶対につかみとれないものだったりするが、そういうときは「外部」で満足するしかない。一種の「限界」をつねにつきつけられているのが「肉体」。「空虚」は「肉体」にとっては「死」だろうなあ、言い換えると「一線」を越えたものだろうなあと思う。
 この「肉体」ではつかみ取れないものをつかみ取るために「精神(意識)/哲学」というものがあるのだけれど、これを強引に「肉体」の側に引き寄せるために「身体」ということば、「身」ということばがつかわれている。野沢は、この「論調」にのって、ことばを展開している。市川浩の『精神としての身体』から、こんなことばを引用する。

身が身で世界を分節化するということは、身が世界を介して分節化されるということにほかなりません。このような共起的な事態を〈身分け〉と呼びたいと思います。

 うーん、と私はうなる。「身が世界を介して分節化される」というのは、まさに「頭/意識」のなかで描かれた「イメージ」であって、私にとっては「現実」ではない。「身」(身体)はさまざまに「分節」できるだろうけれど、「肉体」は「分節」すると、もう生きてはいけない。
 「分節」ということばをどう把握するかにもよるのだと思うけれど、私は、「分節」との「分」はあくまで便宜上のこと(方便で言うだけのこと)であって、「節(ふし)」というものがついてまわるもの、絶対に「独立」して存在するものではないと考えている。〈身分け〉と言ってしまうと、「身節」(こんなことばはないだろうなあ)が存在しなくなる。そこでつまずく。
 最初に書いたことに戻ると、世界はあくまで連続している。どこまでも切れ目なくつづいている。必要に応じて、そのなかから何かを選び出して、それに触れるだけであって、そのときも世界はつづいているし、私の「肉体」もつづいている。
 「身分け」というとき、それが精神的(意識的/哲学的)なものだから、それは即座に「言分け」と結びつけられ「身分け=言分け」と定義もされるのだけれど、そういう表現をつかうとき、残された「節」はどうなるのか。「身節(つづき/つなぎめ)=言節(つづき/つなぎめ)」が気になってしまうのである。
 私は「身体論」は「精神論/意識論/哲学」にすぎないのではないかと、どうも、うさんくさく感じてしまう。



 私の頭では整理できないことを野沢は書いている。そして、そのあと安藤元雄の「からす」に対する批評を書いている。これは、とても分かりやすく、感動した。その批評のハイライトの部分。

目の前の世界にたいしていっさい行動しないという身分けの選択(実存)において、消極的ながら世界に介入しているのである。

 ここに「身分け」ということばがつかわれているのだが、書かれていることはかなりかわった「分節」である。私は、ふと、フェイスブックで対話したことのある中国人(台湾人)の言ったことを思い出すのである。荘子の思想は「何もしないこと」というのである。そして「尽人力,听天命」は英語でいえば「do the best, let it be」。荘子の何もしないはレット・イット・ビー。私はなるほどと思った。野沢は「実存」ということばをつかっているが、確かに「実存」と呼ばれるのが荘子の思想かもしれない。そして、私は、この荘子的「分節」を「身分け」と呼ぶのは違うのじゃないかなあと、どうしても感じてしまう。
 そういうこともあって、

ことばが世界とじかに対峙するとき、すなわち詩人が原始人の心性のままに既成の意味をとりはらってまっさらな世界と対峙しようとするとき、ことばは豊かな感性をとりもどし、あらたな発見を見いだせるかもしれない。

ことばそれ自体の暗喩性とは人間が世界と対峙するときのことばの〈身分け=言分け〉構造のことであり、詩が書かれるということは、ことばがことばの〈身分け=言分け〉構造において世界を切り拓いていくことを指しているのである。

 というような、思わず傍線を引きながら読み返してしまうことばも、そうだ、そのとおりだとはなかなか思えないのである。「ことばがことばの〈身分け=言分け〉構造」という部分は、「ことばの肉体」という私のことばで言うとどうなるかなあ、と考えたりするのである。








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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(36)

2020-02-23 09:43:29 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (蜜蜂の群れがあとからあとから飛び去つていつた)

青空をいくすじもひつ掻いたように
わずかな借金をようやく支払い終わつたのに

 「蜜蜂」は「現実」か、それとも「比喩」か。
 「借金」という生々しいことばが気にかかる。
 「借金」を「現実」だと考えると、「蜜蜂」は「金」を意味しているようにみえてくる。
 「支払い終わつたのに」というのは、たぶん、事実ではない。きょうが期限の借金を支払った。しかし、まだ借金があるということだろう。あるいは、すぐに借金をしなければならないのかもしれない。

 このとき「ぼく」は、どこにいるのだろうか。「ぼく」は「蜜蜂」になって、どこかへ飛び去って行ってしまった、という悲しみが書かれているとも読むことができる。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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