岩倉雅美の作品。(追加)(実物を見ていないのだが、何枚か写真を送ってもらったので、その感想を書いておく)
この作品は、完全な「抽象」ではない。鋭角的な幹から一枚の葉が出ている。若い葉と見るか、老いた最後の一枚の葉と見るか。まっすぐ天を指す幹の勢いを信じ、若い葉と見るのが一般的かもしれない。岩倉の狙いかもしれない。
しかし、私は、最後の一枚と見たい。ただし、幹にしがみついている一枚ではなく、老いた幹を突き破って出てきた最後の一枚、と。
この作品のタイトルは「記念樹」なのだが、私はこの木が木である理由は、この一枚の葉にあると思うからである。
それは「いのち」の象徴である。
抽象的な作品は、あるとき抽象でおわらず、「象徴」になるときがある。「象徴」とは「意味」のことでもある。「意味」が生まれる。一枚の葉が生まれるように、「意味」も生まれ、育っていく。
「変香合」というタイトルがついている。香を楽しむための器なのか。私は「香合」というものの実際を知らないので、よくわからない。
一枚の葉には、穴があいている。そして蝶も止まっている。とても小さな蝶だ。
「香合」の前に、木と葉と蝶が出会っている。そこに、やはり「象徴/意味」を感じ取らせようというのだろう。
四人の中では「意味指向」が強い作家と言える。
こういう感じは、たとえば大丸などから見ると、かなり「うるさい」感じがするかもしれない。
「意味」よりも前に、もっと「木」そのものに語らせるということを、大丸の作品は狙っていると思う。
大丸の作品について書いたとき書き漏らしたが、大丸の作品は、どれをみても「木」そのものを感じさせる。木が生きている。「意味」を壊して、木が自己主張している。芸術とは、たぶん、意味を超えて行く自己主張なのだと思う。
「河童の酒盛り」というタイトルの根付。根付だから、たぶん、とても小さい。
写真でしか見ていないのだが、写真で見た作品の中では、これがいちばん温かい味がある。河童が酒を飲んでいる。昔からある題材だと思う。そこには「形」があるけれど、新しい「意味」はない。意味が付け加えられていない。
岩倉は私の感想には不満かもしれないが、意味が付け加えられていない作品、「象徴」になることを拒んでいる作品の方が、私は好きである。
前回紹介したひな人形は、すでに「形」として完成している。どこかに新しい要素が加わっているのかもしれないが、あ、ここが新しいという感じはしない。しかし、そこに「親しみ」というものがある。
「意味」など、いちいちいわなくてもいい。「形」があれば、そこに生きてきた人の歴史がある。「形」には人の生き方が受け継がれている。そういう作品があってもいいはずだ。
根付を手で転がしながら、河童と酒を酌み交わすのも楽しいかなあ、と思うことがあれば、もうそれで十分だ。
この作品は、完全な「抽象」ではない。鋭角的な幹から一枚の葉が出ている。若い葉と見るか、老いた最後の一枚の葉と見るか。まっすぐ天を指す幹の勢いを信じ、若い葉と見るのが一般的かもしれない。岩倉の狙いかもしれない。
しかし、私は、最後の一枚と見たい。ただし、幹にしがみついている一枚ではなく、老いた幹を突き破って出てきた最後の一枚、と。
この作品のタイトルは「記念樹」なのだが、私はこの木が木である理由は、この一枚の葉にあると思うからである。
それは「いのち」の象徴である。
抽象的な作品は、あるとき抽象でおわらず、「象徴」になるときがある。「象徴」とは「意味」のことでもある。「意味」が生まれる。一枚の葉が生まれるように、「意味」も生まれ、育っていく。
「変香合」というタイトルがついている。香を楽しむための器なのか。私は「香合」というものの実際を知らないので、よくわからない。
一枚の葉には、穴があいている。そして蝶も止まっている。とても小さな蝶だ。
「香合」の前に、木と葉と蝶が出会っている。そこに、やはり「象徴/意味」を感じ取らせようというのだろう。
四人の中では「意味指向」が強い作家と言える。
こういう感じは、たとえば大丸などから見ると、かなり「うるさい」感じがするかもしれない。
「意味」よりも前に、もっと「木」そのものに語らせるということを、大丸の作品は狙っていると思う。
大丸の作品について書いたとき書き漏らしたが、大丸の作品は、どれをみても「木」そのものを感じさせる。木が生きている。「意味」を壊して、木が自己主張している。芸術とは、たぶん、意味を超えて行く自己主張なのだと思う。
「河童の酒盛り」というタイトルの根付。根付だから、たぶん、とても小さい。
写真でしか見ていないのだが、写真で見た作品の中では、これがいちばん温かい味がある。河童が酒を飲んでいる。昔からある題材だと思う。そこには「形」があるけれど、新しい「意味」はない。意味が付け加えられていない。
岩倉は私の感想には不満かもしれないが、意味が付け加えられていない作品、「象徴」になることを拒んでいる作品の方が、私は好きである。
前回紹介したひな人形は、すでに「形」として完成している。どこかに新しい要素が加わっているのかもしれないが、あ、ここが新しいという感じはしない。しかし、そこに「親しみ」というものがある。
「意味」など、いちいちいわなくてもいい。「形」があれば、そこに生きてきた人の歴史がある。「形」には人の生き方が受け継がれている。そういう作品があってもいいはずだ。
根付を手で転がしながら、河童と酒を酌み交わすのも楽しいかなあ、と思うことがあれば、もうそれで十分だ。