詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細田傳造『かまきりすいこまれた』

2017-06-30 08:10:45 | 詩集
細田傳造『かまきりすいこまれた』(思潮社、2017年06月20日発行)

 私には、ことばの好き嫌いがある。
 たとえば細田傳造『かまきりすいこまれた』の「ようなき日乗」という作品。

新詩人の一人として
ごたぶんにもれず
いろいろお行儀の悪いことをやってみた

 「お行儀」が嫌いだ。「わざと」書いているのだろうが、それでも嫌いだ。最初は「お」に気づかず、あ、この詩はおもしろいと思った。引用して、3行目で「お行儀」の「お」に気づいて、うーん、どうしようかなと悩んでいる。
 なぜ嫌いかというと、私は「お行儀」ということばをつかわないからだ。だから「音」がなじまない。「リズム」がそこで狂う。
 だから、最初の3行は「ある」のだけれど「なかった」ことにして読む。「ある」ものは「なかった」にはできないらしいけれど。

あるとき一匹の犬になって
一篇の形而上詩を書いた
あるいは異性の犬に寄り添って歩き
その道行の濡れた心情をぼそぼそと
ツイッターで語った
あるときは
研究者になった気分になって
道端で犬のマルガレーテと交合し
ながーいながーいだらしない射精の生態を
微に入り細にわたって記述して
生類憐憫学問所の
教授方筆頭立花左近兵衛様に上奏してみた

 「犬」と「形而上」という「手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い」が、さまざまに交錯し、拡大していく。この「リズム」がおもしろい。「ドライ」と「ウェット」、「理性」と「感情」が「テキトー」に緩急を作る。
 その緩急の変化そのものが、新しいリズムとなって全体を動かしていく。
 「ながーいながーいだらしない」のあと「射精の生態」という「文語」がきて、そこから「生類憐憫学問所」「教授方筆頭立花左近兵衛様」とずれていくところなんか好きだなあ。「上奏する」という普段つかわないことばが楽しい。
 あ、「普段つかわないことばが楽しい」は「お行儀というつかわないことばが嫌い」と矛盾するかな?
 うーん、むずかしいなあ。どう説明すればいいかな?
 「お行儀」は、私はつかわないが、そのことばがつかわれる世界を知っていて、その世界が嫌いだからことばも嫌いということなのかもしれない。そんなところに「お」をつけるな、と思ってしまうのである。もっと早く言え。
 と、書いてわかること……。

 もっと早く言え。

 これだね。まだるっこしいスピードが私は嫌いなのだ。まだるっこしいリズムが嫌い。
 「形而上」から「ツイッター」までのスピード、「ながーいながーいだらしない射精」から「生類憐憫学問所」までのスピード、そこで加速しながら「教授方筆頭立花左近兵衛様」「上奏(する)」という疾走することでつかみとることば。この「速さ」と「軽さ」がいい。
 
 細田は、たぶん、「加速」の踏み台として「お行儀」の「お」が必要なのだというだろう。そうかもしれない。そうに違いないのかもしれないが、そういう「こまかな作為」がない方が私は好きだ。

 「メリーズとパンパース」の次の部分も大好きだなあ。

わたしが百歳になったらキミに
メリーズをはかせてもらう
おとりかえもしてもらって
お尻ふきふきもしてもらう
キミがあかちゃんだったとき
キミにしてあげたみたいに
くちゃいのくちゃいのとんでゆけしてもらうよ
じいちゃんがひゃくさいになったら
おれがメリーズはかせてやる

 こういう「口語」の「おとりかえ」「おしり」の「お」は「リズム」があっていい。ことばの先に「相手」がいる。
 「お行儀」のときもいたのかもしれないが、私にはそれが見えなかった。「一人芝居」に見えた。そこが嫌いだったのかな、と「お」を比較してみて思う。

かまきりすいこまれた
細田 傳造
思潮社
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企業の収益はどこに?

2017-06-29 09:27:07 | 自民党憲法改正草案を読む
企業の収益はどこに?
               自民党憲法改正草案を読む/番外98(情報の読み方)

 2017年06月29日読売新聞(西部版・14版)2面に、

国の税収7年ぶり減 16年度55兆円台

 という見出しがある。
 えっ?
 つい最近、

戦後3番目の長期好景気突入、「失われた20年」を脱出

アベノミクス景気、戦後3位の52カ月

 というような記事が新聞に載っていなかった? 「アベノミクス、完全に成功」と騒いでいなかった?

 2012年12月に始まった「アベノミクス景気」が、1990年前後のバブル経済期を抜いて戦後3番目の長さになった。世界経済の金融危機からの回復に歩調を合わせ、円安による企業の収益増や公共事業が景気を支えている。(日経新聞04月06日)

 もし、そんなに景気がいいのなら、なぜ税収だけが減る?
 「長期好景気」という記事を読んだとき、ぜんぜん実感がないなあ、と思っていた。もし、そんなに景気がよかったのなら、なぜ「消費税増税」を先送りしたのだろう。「消費税増税」を先送りしたのは「52か月」も前じゃない。2016年の春でしょ? その段階で「好景気」は「40か月」くらいつづいていたことにならない? 3年は「好景気」だったんだよねえ。安倍は、去年の夏は「アベノミクス道半ば」なんて言って、参院選を勝ち抜いた。なぜ「好景気」が3年つづいているといわなかったのかなあ。

 あるいは、なぜ、今年に入って急に「アベノミクス景気、戦後3位の52カ月」と言い出したんだろう。
 うーん、4月といえば。
 国会が「森友学園」で大揺れした直後だな。「加計学園」も国会で話題になり始めたころかな?
 国会対策、というか、「世論」の批判をかわすために、突然「好景気」情報を流したのかもしれない。
 いや、たしかに

国の税収は(略)10年度から15年度まで8年連続で増え続けていた。(読売新聞)

 というのだから、「好景気」だったのかもしれない。
 でも、そうなら、なぜ16年度だけ、急に税収が減るの?
 しろうとには、仕組みがわからない。
 サラリーマンの税金は毎月きちんと天引きされている。サラリーマンの納税額が減ったわけではないだろう。企業の納税額が減ったのだろう。どうして? どんな「節約」手法で?

 それにしても「好景気」は大々的に報道しながら、「税収が減った」の報道が小さいのはどういうわけだろう。
 政局や選挙の都合で、報道の「価値」をかえていないか。

 「稲田発言」の「初報」と「続報」の扱いの変化を見ても、どうも変。
 武器を持った自衛隊が「お願いしたい」なんて言えば、それは「お願い」ではなく「脅し」だろう。武器を持った自衛隊員が投票所のまわりにいたら、自民党以外に投票したら殺されるのではないかと不安になるのが「一般市民」の感覚だろう。
 世間の反応で少しずつ「扱い」が大きくなってきているが、その大騒ぎを利用して、今度は「税収が減った」というニュースを滑り込ませている。
 いまなら「戦後3番目の長期好景気」と「国税収入が減った」ということの「矛盾」が見逃されるかもしれない、ということではないのか。
 「戦後3番目の長期好景気」も、もう一度、検証してみないといけないのではないのか。もし、ほんとうに好景気がつづいているのだとしたら、なぜ、16年度だけ急に国税収入が減るのか、それを問題にしないといけない。










#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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野崎有以「Sへの手紙」

2017-06-29 08:27:51 | 詩(雑誌・同人誌)
野崎有以「Sへの手紙」(「現代詩手帖」2017年07月号)

 私は最近、若い詩人の作品に「反応」しなくなった。別のことばで言うと、あ、このことばを書いてみたい。盗んでみたい、という気持ちにならない。

 「現代詩手帖」2017年07月号は「新鋭詩集2017」という特集を組んでいる。その最初に野崎有以「Sへの手紙」がある。

いまはもう薄めた石膏の匂いしかしないあなたの部屋を
私は赤ん坊の近視の目で見たのだろうか
ぼんやりした足跡のようなぬくもりを
管理人室の折り紙と鉛筆でできた造花はそのままで
あなただけが出ていった

 この一連目には「薄めた石膏の匂い」という魅力的なことばがある。これは盗んでみたい。剽窃してみたい。しかし、欲望はすぐに消えてしまう。つづくことばが「薄めた石膏の匂い」と、うまく響きあわないからだ。
 リズムが、おかしい。音がおかしい。

いまはもう薄めた石膏の匂いしかしないあなたの部屋を

 この音が「長い」。私の「息」は、こんなに長くつづかない。読んでいて苦しい。つづく「私は赤ん坊の近視の目で見たのだろうか」も同じ。「近視の」が長く感じさせるのか。「目で見た」がしつこいのか。「だろうか」がわずらわしいのか。よくわからないが、私の「肉体」はもっと短くして、と叫んでいる。
 「長い」ために、「リズム」が苦しくなり、「音」に不自然なものが混じる。
 こういうことは「感覚的」なことがらなので、私のことばは、野崎にはつたわらないと思う。
 そして、この「長さ」は、「詩」ではなく「散文」なら大丈夫かというと、そうでもない。「散文」だとしても、私には耐えられない「リズム」であり「音」である。

 「動詞」の力が弱いのかもしれない。あるいは「動詞」以外の情報量が多いのかもしれない。
 ふいに、そう思った。

いまはもう薄めた石膏の匂いしかしないあなたの部屋を

 この一行にある「動詞」(動詞派生のことば)、「薄めた(薄める)」「匂い(匂う)」「しない」と三つある。この「動詞」のうちの、どれが一行を支えているのか。「薄めた(薄める)」は「匂いしかしない」ということばと緊密な関係にあるが、「しかしない」の「しか」が「強調」なのに、なんともうるさい。「動詞」を強めるために書かれているのはずの「しか」が、「動詞」の連絡を弱めている。「しか」によって、「意味」は強くなっているはずなのに、「長く」なったぶんだけ、「薄まった」印象がする。
 その「薄まった」関係の中に、「あなたの部屋」が入ってきて「主語(主役?)」の座を奪い取る。そのときの「あなた」と「部屋」の「二つ」の情報が、私にはうるさく感じる。「あなた」に主眼があるのか、「部屋」に重きがあるのか。これも、即座にはわからない。
 「匂い」を感じていた「私」は「あなた」によって消されてしまい、私は困惑する。
 「意味」は「頭」では「わかる」。けれど「肉体」は「わからない」と言ってしまう。「わかりたくない」のである。「うるさい」と感じるから「わからない」と叫びだしてしまう。私の「肉体」は。

右頬の貼りついたような泣きぼくろ
あなたが抱き締めてくれたら消えると馬鹿みたいに信じていた
ほんとうに馬鹿みたいに

 一見、「口語」のようではあるが、「口語」ではこんな「長々しい」ことばを発しないだろう。私は黙読するのだが、黙読しながら「息切れ」する。

右頬の貼りついたような泣きぼくろ

 には、「貼りつく(貼る+つく)」「泣き(泣く)」と、二つというか、三つというか数え方がむずかしいが「動詞」が複数ある。これがことばを散漫にする。さらにそこに「ような」ということばが割って入っている。
 そのあとの二行では「馬鹿みたいに」ということばが繰り返され、それが「口語」を装っているが、どうも落ち着かない。「口語」はもっと「急ぐ」ものである。
 では「文語」かというと、私の印象では「文語」でもない。「文語」は「口語」よりもっと速い。「整理されたことばの連絡」が「文語」である。

 どうも、いま人気の若い詩人のことばは、「だらだら長い」のである。
 だらだらとした感想を書いている私が、こんなことを書くのは変だが。

 三連目の書き出しの四行。

名前のないあの通りにずっと苦しめられた
左側は日の当たらない映画館
右側は「選ばれし者」の住む城
「通行証」を持たない私は右側へ歩いていくあなたを見ていただけ

 一連目の二行目に出てきた「見た(見る)」が、やっとここで反復される。ここで「見る」という「動詞」を中心に世界が結晶するかというと、そうでもない。
 このあと、

城の幻想に苦しむ子供を見つけたら

あなたが不眠の痩せた身体でやっと私を見つけに来た前の週
あの映画館で私みたいな女がジュエリービーンズを食べる映画を見たの

 と「見る(見つける)」と「見る」は反芻されるが、そのあいだに挟まれる情報量が多すぎて、「見る」をつづけられない。「見たもの」が散らばるだけではなく、「見る」の「主語(主体)」の「肉体」まで分断されてしまう。

 野崎は、森本孝徳との対談で「私の詩は時としてつよすぎる言葉で書かれていますが」と語っている。どこに「つよすぎる」ことばがあるのか、わからない。また、

小学五年生のときから読み続けてきた吉行淳之介

 とも語っている。
 これには、私は仰天してしまった。
 私は田舎育ちなので、家のまわりには教科書以外はなかった。教科書以外で初めて読んだのは、親類の家にある「家の光」という雑誌だったが、それも小学校の高学年、あるいは中学生になっていたかもしれない。父の兄が死んで、葬式のときに、父の兄の家で偶然見つけたものだ。吉行淳之介なんて、高校を卒業しても知らなかった。「文学の情報量」「ことばの情報量」が、いまの若い詩人と私では決定的に違っているということなのか。
 うーん、ついてゆけない。
長崎まで
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思潮社
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アスガー・ファルハディ監督「セールスマン」(★★★★)

2017-06-28 19:58:56 | 映画
監督 アスガー・ファルハディ 出演 シャハブ・ホセイニ、タラネ・アリシュスティ、ババク・カリミ

 映画と、映画の中の芝居(セールスマンの死)が交錯する瞬間がある。それが「謎解き」の補助線になっているかというと、そうでもない。無関係なのに、ある瞬間「感情」というか「意識」が重なり、ぶつかり、噴出する。「芝居」なのに「現実」が「芝居」を乗っ取ってしまう。
 でも、これが「伏線」である、といえば「伏線」なのだ。「事件」そのものとは無関係なのだが、思いもかけないものが、瞬間的に「事実」になる。そして感情が動く。その感情の動きを人間は制御できない。
 うーん、文学的。映画的、というよりは、ね。

 隣に座っていた60代くらいのおばさん二人組。「何がいいたいのか、さっぱりわからない」を二人して繰り返していた。あ、そこが「文学」なんですよ。文学は「わからない」ことを考えるためのもの。「わかった」ら文学ではないのです。そこが、映画とは違うところ。

 とは、いいながら。
 アスガー・ファルハディにしては、この作品は、とてもわかりやすい。「おばさん、どこがわからなかったの?」と聞き返したい気持ちをぐっと抑える私でした。

 最初に書いたように、「芝居」と現実が重なる。
 「芝居」ではセールスマン(夫)と妻が、金が思うように手に入らなくて、いらいらし感情をぶつけ合う。感情の行き違いがある。これはレイプされた妻と、レイプ事件を解決したいと思っている夫との感情の行き違いと重なるのだけれど。
 そのときの「小道具」がおもしろい。妻は靴下をとりつくろっている。「靴下なんか、いつまでもつくろうな」と夫は怒る。夫は、寝室に落ちていた靴下を思い出しているかもしれない。で、この靴下が、クライマックスでもう一度出てくる。夫が、犯人と思っている男を問い詰める。犯人と思っている男の義理の父。その過程で、靴を脱げ、靴下も脱げ、という。すると……。傷を手当てしていた足があらわれる。犯人だ。
 ここ、うまいねえ。脚本が非常に巧みだ。
 もひとつ。部屋を紹介してくれた芝居仲間。彼は、その部屋の前の住人が娼婦だったということを隠している。また、主人公の妻がレイプされたらしいということを、周辺の住民から聞き出して知っている。そのことに対して主人公は怒りを爆発させる。「芝居」のなかで、セールスマンが上司と激突するシーンに重ね合わせて、「台詞」以外のことを言う。「アドリブ」なのだが、それが「アドリブ」であるとわかるのは、芝居に精通している人だけであり、観客は「芝居」そのもの一部と思う。
 これもクライマックスと重なる。主人公は「違うストーリー」を思い描いている。ところが話している内に「想像していたストーリー(予定のストーリー)」とは違ったものが動き始める。主人公を訪ねてきた男(老人)も、「予定外のストーリー」にぶつかり、おたおたとする。そして「地」がでる。つまり「事実」が、そこに噴出してきてしまう。
 そして、さらに。
 この思いがけない「ストーリーの破綻(事実の噴出)」があり、「新しい事件」が起きる。そのとき、それまで、そこで動いていた「感情」、かろうじて繋がってきていた主人公と妻の「感情」を決定的に破壊してしまう。「破綻」が取り返しのつかないものになってしまう。
 この結末は結末で、ある意味、「セールスマンの死」と重なる。夫は死亡し、その保険金でローンの支払いを終える。金銭問題は片づいた。しかし、「愛」はそのとき破綻している。愛し合おうにも、一人は死んでしまった。
 さて。
 おばさん二人が悩んでいたのは、私がこれから書く「難問」とは違うと思うのだが、「わけのわからない文学」の問いは、この映画の最後に、ぱっと提示される。問いかけられる。
 さて、死んだのは主人公? それとも妻? どっちの感情が決定的に死んでしまった? 二人とも死んでしまった、というのは「安直」な答えだなあ。どちらが、どちらを殺した?という形で問い直すと、ね、安直さがわかるでしょ?
 原因はどっち? 夫? 妻?
 映画のなかで「現実」として死ぬのは、主人公を訪ねてきた老人。でも、彼が死ぬ原因は? 主人公のせい? 妻のせい? 老人自身のせい? わかりませんねえ。
 はい、悩みましょうね、みなさん。
                      (KBCシネマ1、2017年06月28日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。

https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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想像してみよう

2017-06-28 12:32:46 | 自民党憲法改正草案を読む
想像してみよう
               自民党憲法改正草案を読む/番外97(情報の読み方)

選挙に誰かが立候補する
演説会がある。意見を聞きにいく。
その会場のまわりに自衛隊がいる。
武器を持っている。戦車も出ている。
ヘリコプターも飛び回っている。
爆撃機も飛んでいる。
防衛大臣が出てきて、
「自民党に投票してください。
自衛隊としてもお願いしたい」
それは、お願いだろうか。
威圧ではないだろうか。
強制ではないだろうか。

自衛隊員は会場を取り囲んでいなかった。
武器を持った人はいなかった。
戦車もヘリコプターも戦闘機も飛んでいなかった。
そう人は言うかもしれない。
でも、それはその人の目に見えなかっただけかもしれない。
稲田には武器を持った自衛隊員が、
戦車が、ヘリコプターが、戦闘機が
はっきりと見えていたかもしれない。

もしあなたが自衛隊を監督する防衛大臣だとして、
「自衛隊」ということばを口にするとき、
隊員を、武器を、戦車を、戦闘機を、
まったく思い浮かばずに何か言うだろうか。
責任者なら、いま、自衛隊員が何をしているか想像するはずだ。
武器を持って戦っているのか、戦車の手入れをしているか、
彼らはいま、どこにいるのか。

「自衛隊としてお願いしたい」
といったとき、そこには自衛隊がいたのだ。
武器を持って、戦車を並べて、ヘリコプターで監視して、
そこにいたのだ。

想像してみよう。
憲法改正の国民投票のとき、
自衛隊が投票所を取り囲む。
「自衛隊を合憲だとする改正案に賛成してください」
自衛隊員が手に持った武器が見える。
銃口が動いた。
反対と書いたら殺されるかもしれない。
投票したくない、逃げよう、
そうしたら戦車にひき殺されるかもしれない。
空手はヘリコプターが見張っている。
逃げられない。

想像してみよう。
ここは「天安門」なのだ。
政府に反対意見を言う。
すると自衛隊が出動してくる。
武器を持っている。戦車が道を塞ぐ。上空からは
ヘリコプターが監視している。
戦闘機はビルごと破壊しようとしている。
想像してみよう。
防衛大臣が「お願いします」という。
それは「お願い」なのか。
命令ではないのか。

想像してみよう。
国民の安全を願って自衛隊に入った人が、
いま武器を持って、国民に武器を向けている。
政府に反対しているからという理由で、
国民のいのちを狙っている。
思想の自由を許されず、
思想を弾圧するために、
武器を持たされている。

想像してみよう。
その防衛大臣を任命したのはだれなのか。
防衛大臣は、任命者の言うがままに発言しているのかもしれない。
想像してみよう、
安倍内閣総理大臣は、
「私は国の最高責任者だ」という。
「私は頭に来たら政策をどんどん変えるのだ」という。
想像してみよう。
安倍が稲田を利用して、
「自衛隊をつかって、政府批判を鎮圧しろ」と言う。
「ただし、脅すな、批判すると殺すぞとは言うな、
お願いします、と頼め。」

想像してみよう。
いま起きていることは、これからどうなるのか。
いま、そこに武器を持った自衛隊員が見えないのは、
ほんとうにそこにいないのか、
それとも隠れるように指示されているだけなのか。

想像してみよう。



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三重苦?

2017-06-28 09:48:11 | 自民党憲法改正草案を読む
三重苦?
               自民党憲法改正草案を読む/番外95(情報の読み方)

 2017年06月28日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の3面。

都議選に「三重苦」?/「安倍1強」に陰り

 という記事が載っている。「三重苦」とは、

(1)収束の見えない加計学園問題
(2)国会運営への批判
(3)自民党衆院議員(離党届提出)の「暴行」疑惑

 だ、そうである。
 (1)は、なぜ、収束が見えないのか。安倍が国会で説明しないからである。国会閉会後、記者会見で「丁寧に説明する」と言ったが、何も説明していない。そのかわりに、「獣医学部」を全国に展開すると主張し、さらにそう発言した理由を「批判が集中して、頭に来たからだ」と語っている。
 (2)は、「共謀罪」の審議を途中で打ち切り、強行採決をしたことを指しているようだが、その後、「国会閉会後」の問題もある。野党は臨時国会の開催を求めている。これに対して、自民党の国会対策委員長・竹下は「安倍首相が(学校法人『加計学園』の獣医学部新設問題で)追及されるのを嫌がっているようだ」と話したという。(読売新聞4面)
 この二つには「頭に来た」と「嫌がっている」という「共通項」がある。「頭に来た」と「嫌がっている」は、それ自体は「同じ表現」ではないが、ともに「感情」をあらわしている。安倍は「感情」で行動している。
 (3)の暴行は、安倍自身の行動ではないが、やはり「感情」を爆発させている。「感情」で他人を支配しようとしている。
 つまり、「三重苦」とは、すべて「感情」が引き起こした問題である。「感情」で政治を動かしているのである。
 (1)の問題は、加計学園のトップは安倍の「友だち」である、大事にしたいという「感情」が「温床」になっていると見られている。つまり、これも「感情」である。「理性」で政治を動かすのではなく、そのときそのときの「感情」次第でものごとを決定する。それが安倍の本質である。

 2面に

都議選「自衛隊としてお願い」/稲田防衛相 自民候補集会で/発言撤回

 という記事が載っている。稲田は、集会後、記者団に、

「(陸上自衛隊の)駐屯地も近く、防衛省・自衛隊の活動に地元の皆様にご理解、ご支援を頂いていることに感謝の気持ちを伝える一環としてそういう言葉を使った」

 と語っている。ここには「気持ち」ということばがある。「気持ち」とは「感情」である。「感情」を優先させているる。
 自衛隊に政治的行動をさせている。
 いまは「自民党の応援」という形をとっているが、いつ「自民党を批判するものを弾圧するために自衛隊を利用する」にかわるか、わからない。「自民党への批判」に対して「頭に来た」ら、(気持ちが動いたら)、それを弾圧するために稲田は自衛隊を動かすということが考えられる。

 3面の「三重苦」には、このことは「野党の批判を招く事態となった」と、さらりと書かれている。読売新聞は、重大視していない。「野党の批判を招いた」が、読売新聞は批判をしないのだろうか。

 安倍の打ち出した「改憲」のいちばんのポイントは「自衛隊を憲法に書き加える」(自衛隊を合憲化する)ということだが、その自衛隊が稲田によって私物化され、選挙運動につかわれた。「平穏」におこなわれている都議選においても自衛隊が「活動」として参加してくる(指示されて動く)なら、少しでも安倍や稲田の気に食わないこと(頭に来ること、嫌なこと)が起きれば、それを弾圧するために自衛隊が出てくるということを意味するだろう。

 自衛隊が憲法に書き加えられ、合憲化した後、どうなるのか。

 日米地位協定のことを考えると、自衛隊が独自の監督・指揮系統のもとで対外的に行動するとは思えない。「有事」の際は、アメリカの軍の一部隊として監督・指揮されることになるだろうと思う。アメリカ軍が自衛隊の監督・指揮系統のもとで動くとは思えない。安倍は「内閣総理大臣が監督・指揮権の最高責任者」と定義しているが、アメリカ軍に指示ができるか。
 安倍が単独で「監督・指揮権」を行使できるのは、有事のときではなく、「内政」問題が生じたときだろう。自衛隊は「内政問題」を処理するために出動する。
 稲田は「自衛隊としてお願いしたい」と言ったが、もし、その「お願い」に対して、「嫌だ」と叫んだら、どうなるのだろう。武器をもった自衛隊員が集会を管理していたら、そこで国民は「嫌だ」と叫んだらどうなるのだろう。武器を手にした自衛隊員を前にして「嫌だ」と叫べる人が何人いるだろうか。
 「共謀罪(治安維持法)」は、もう、こんな具合に実効支配しているのだ。
 「天安門事件」は、東京都議選を舞台にはじまっているのだ。
 安倍の「感情」を満足させるために、自衛隊は合憲化され、「天安門事件」は準備される。都議選は、それを許すかどうかの選挙なのだ。

 安倍の「三重苦」のなかにまぎれ込ませる形で書かれた、この自衛隊の事物か問題をきちんと見つめないといけない。
 稲田を防衛相に任命したのは安倍である。稲田自衛隊は安倍自衛隊である。稲田の発言で、自衛隊と都議選は緊密に関連づけられた。都議選はたんに都議選でもなければ、国政選挙の前哨戦でもない。安倍のもくろむ憲法改正(自衛隊の私物化を合憲化する)に対する国民投票の先取りである。
 東京都民は、そのことを忘れないでほしい。



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四元康祐「梅の香ではなく」

2017-06-27 09:28:29 | 詩(雑誌・同人誌)
四元康祐「梅の香ではなく」(「ミて」138 、2017年03月31日)

 四元康祐「梅の香ではなく」は、

いきなりそれは入ってくる

 という行ではじまる。「それ」が何かはわからない。タイトルが「梅の香ではなく」。だから「それ」は「梅の香」ではないのだろうが、何であるかわかるまでは「梅の香」が意識を支配する。どうしても「梅の香」を思い出す。
 ここに「詩」がある。あるものを想定させておいて、それを裏切る。「裏切る」ということが「詩」である。「手術台のうえのこうもり傘とミシン」とのも、予想を「裏切る」から「詩」なのである。
 さて、四元は、どんなふうに「予想」を裏切るか。

いきなりそれは入ってくる
運転中の車内の密閉された矩形の空間に
24°Cに設定されたヒーターの生暖かい胎内に
月曜日の朝の単調さを引き裂いて

 状況が少しずつわかってくる。四元は車の中にいる。運転しているのだろう。「密閉」されているのだから、本来は「入ってこない」何か。「入ってくる」と「密閉」が矛盾していて、そこに「裏切り」の最初がある。この「密閉された空間」を「胎内」と呼ぶのが、また「裏切り」である。「胎内」ではなく「車内」である。なぜ「胎内」と呼び変える必要があるのか。「生暖かい」の「生」が機械的な「車内」を「肉体」に変えるのだ。さらに「胎内」は「引き裂かれる」。このとき四元はどこにいるか。「胎内」にいて、引き裂かれるのを感じるのか。むしろ、逆だろう。「引き裂いて」と「動詞」は能動の形をしている。「引き裂いて」「入ってくる」のではなく「引き裂いて入っていく」という入れ替わりがどこかに隠れている。これも一種の矛盾、「裏切り」である。
 こういう微妙な場にさしかかったとき、ことばは、どう動くことができるか。四元は「詩」の「奥の手」をつかっている。「連」を変えるのである。
 一行空いて、ことばは、こうつづく。

それは僕の鼻腔を制圧する
クラウドを経て耳に達するBBCの声よりももっと鋭く
ガラス越しに目に映る前の車のブレーキランプよりも秘密裡に
僕の神経を駆け上がり脳内に侵襲する

 「胎内」から「鼻腔」への転換。「車内」という空間が「胎内」だったのに、ここでは「胎内」は「鼻腔」へとずれていく。一連目では四元は「車内」にいて、「車内」を「胎内」と感じていたのに、ここでは四元の「肉体」が「車」になって、その「肉体」の「内部」には、たとえば「鼻腔」があるという構造になる。
 散文では、こういう「飛躍」というか「ずれ」は「でたらめ」になるのだが、「詩」では連の変更に「一行空き」があるので、「次元の変化」というものになる。
 「胎内」に通じる通り道、「肉体の穴」と言えば「膣」であるが、「肉体」にはそのほかにも「穴」がある。「鼻」「耳」がわかりやすいが、「目」も一種の穴かもしれない。だから「鼻腔」をくぐり、耳の螺旋階段をたどり、「鼓膜」を震わせ、濡れた目の瞳孔(ね、穴があったでしょ?)を通って「網膜」を刺戟する。「膜」「膜」と書くと、ついでに「処女膜」という書かれていないことばまでが遠くからあらわれてくる。「胎内」が、ぐいと近づく。「鼻/耳/目」という上半身「頭」と「下半身」が融合する。「鼻/耳/目」を結びつけるものは「脳内」と呼ばれ、それはいわば「頭」の「胎内」なのである。

 ここまで読めば、あとは読まなくてもいい。というと、四元に叱られるかもしれないが、「車内/胎内」「頭の感覚器官/脳内」という世界の構造と、そこに「入ってくる」「侵襲する」という運動を、一行空き(連を生み出す)という形を利用しながら、存在しなかったものを生み出していくのが、四元の「梅の香ではなく」なのだ。
 「梅の香ではなく」という「否定」を利用しているのが、その詩の出発点。あるものを提示しながら、それを否定し、ないものへと意識を向けさせる。「ない」を考え、「ある」にかえていくことができるのが「頭」なのであり、それを刺戟しながらことばを動かしている。
 「胎内/脳内」でことばという「胎児」は成長し、やがて誕生する。
 このあと、詩は、どう展開するか。加速度を増していくのか、加速したスピードを利用して惰力で進むのか。「胎児」はどうやって「赤ん坊」に変わるか。生まれるか。
 実際に読んでお確かめください。
四元康祐詩集 (現代詩文庫)
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離島有事対策?

2017-06-26 12:42:25 | 自民党憲法改正草案を読む
離島有事対策?
               自民党憲法改正草案を読む/番外94(情報の読み方)

 2017年06月26日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の一面。

空自F35 空対地ミサイル/導入検討 離島有事に備え/射程 300キロ 敵基地攻撃能力 念頭か

 という見出し。記事には、こうある。

国内の離島有事に備えるのが主目的だが、自衛のために相手国の基地などを攻撃する「敵基地攻撃能力」の保有を念頭に置いているとの見方もある。

 私は「現実的」にしか考えられない、非論理的人間なので、とても疑問に思う。
 「離島有事」というのは離島が「敵」によって侵攻されたとき、占領されたときということだろう。離島が侵攻、占領されるまでには、領海侵犯があり、海戦があるのでは? 領海侵犯は見過ごしてしまう? 自衛隊には対応能力がない?
 まあ、そうだとして。
 離島が占有されたとして、その離島にいる敵を攻撃するのに、いきなり射程 300キロの空対地ミサイル? ええっ? ちゃんと「目視」して攻撃した方がいいんじゃないの? だいたい離島に「敵」が侵攻してきて、そこに「基地」を造り上げるまで、自衛隊は何もしないのか。
 そんなことはないだろう。
 読売新聞は、こう書いている。

防衛省は南西諸島などの離島防衛に備え、態勢強化を進めている。陸上自衛隊に新型輸送機「オスプレイ」を導入するほか、海兵隊機能を持つ「水陸機動隊」を創設する予定だ。

 離島が侵攻、占領されたら、そこを奪い返すために「陸上」で戦うというのが最初にすること。海兵隊というのはそのためのものだろう。それは「創設」はするけれど、戦わない? 出動しない?  300キロ離れたところから、「敵」の基地建設現場を狙って攻撃する?
 読売新聞は「長距離の空対地ミサイルは、安全な空域から効果的に攻撃を与えることができる」と書いているが、なんだ、これは、と私は怒りだしたくなる。
 もし離島が無人島なら、遠く離れた場所から攻撃するということだけでもいいのかもしれないが、もし人の住んでいる離島なら? 自衛隊は住民を守るために上陸し、戦う。住民を避難させるために動く、ということをしないで、 300キロ離れたところからミサイルを撃つだけなのか。住民が巻き添えにされる可能性は? よく知らないが、空対地ミサイルというのは、住んでいる住民に危害を与えずに、「敵」の基地だけを攻撃できるほど性能のいいものなのか。
 もし、そんなに性能のいいものなら、なぜ、いま起きている世界での「戦争」でつかわれていないのだろうか。(つかわれているのかもしれないけれど。) 300キロ離れた場所しら「敵」の基地だけをピンポイントで攻撃でき、住民に危害がないなら、敵の基地を破壊するのは簡単ではないのか。そして、すぐに「戦争」は終わるのではないのか。
 「戦争」の局面は、さまざまである。「基地」がなくても人は戦う。ベトナム戦争の、いわゆるゲリラは巨大な基地を持たなかっただろう。なれ親しんだ自分の土地に隠れながら、アメリカ兵と個別に戦った。どの局面でそうなるかわからないが、人と人が直接ぶつかり、殺し合うのが戦争だろう。
 そう考えると、

高度なステルス性を備えたF35と、長射程の空対地ミサイルを組み合わせれば、実質的には他国の基地を攻撃するための使用も可能となる。

 というのが、ほんとうの狙いだろう。
 侵攻、占領された離島を奪還するためではなく、他国を攻撃するために配備される。「防衛」ではなく「先制攻撃」をするため、先制攻撃をより有効に展開するための武器ということになる。

射程 300キロ 敵基地攻撃能力 念頭か

 は三本目の見出しだが、これが「本筋」。日本の領土、領空内の敵基地を攻撃するためのものではなく、日本の領土外の敵基地を攻撃するために射程 300キロのミサイルが必要である。しかし、その「目的」を明記すると憲法に違反してしまう。また、明記してしまえば近隣諸国からも猛反発が生じるだろう。日本は侵略戦争をはじめるために空対地ミサイルを配備した、と批判されるだろう。これまでの政府説明にも反する。「自衛」ではなくなる。だから、「自衛」を前面に出して、「本質」を隠すために「離島有事に備え」という理由が捏造されている。

 安倍は何としても「戦争がしたい(してみたい)」という欲望を抑えることができない人間なのだろう。なぜ、そんなに戦争がしたいのか。わからないが、簡単に言えば「中国や北朝鮮に対して、頭に来ている」からであろう。あるいは、日本国内で安倍批判が起きることに対して「頭に来ている」から、安倍に対する批判の矛先をかわすために戦争がしたいのだろう。
 「全国に獣医学部を展開する」という方針を安倍は突然発表したが、理由を問われて「加計学園問題を追及されて、頭に来たから」というような発言をしている。「頭に来た」ら、なんでもしてしまう。政策をどんどん変更する。それが「最高責任者」として自衛隊を監督、指揮するというのだから、その下で動く自衛隊員は悲惨である。「頭に来た、ミサイルなんかではダメだ。おまえ、特攻隊員のように爆弾を積んで自爆してこい」と、きっと命令されるようになる。




#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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東京都民のみなさまへ

2017-06-26 11:46:42 | 自民党憲法改正草案を読む
東京都民のみなさまへ

私は福岡県に住んでいます。東京都議選への投票権を持っていません。東京都の政治に対して発言する権利もありません。でも、お願いしたいことがあります。
 都議選では自民党、公明党の議員へは投票しないでください。
 都議選と国政選挙(国の政治)は別のものですが、都議選直前の国会は異常な形で閉じられました。その後も異常な事態がつづいている。
(1) 加計学園に対する「総理の意向」が政策に影響したのかどうか、未解明。
(2) 共謀罪の審議は途中で打ち切られ、強行採決された。
(3) 野党4党は臨時国会を要求しているが、与党は拒否している。
「総理の意向」によって国政が歪められているかどうかを審議することが、問題の中心にあると思います。
国政が「総理の意向」によって歪められるのなら、都政も影響を受けるでしょう。
その後、安倍は「加計学園に獣医学部を新設することが問題なら、全国に獣医学部をつくればいい」と発言し、なぜそういう発言になったかというと加計学園問題を批判されたことが「頭に来たから」と発言しています。
「頭に来たら」政策を変更する、「頭に来るか、来ないか」によって政策を決めるというのが安倍の姿勢です。そして、それを支持したのが自民党、公明党、維新の党です。
 このことを忘れないでください。
 「共謀罪」は「一般人を対象にしない」と政府は答弁している。けれど、たとえば私のこの発言に対して、安倍が「頭に来た」なら、どうなるでしょうか。一転して、「頭に来たか」から「共謀罪の対象にする」ということが起きるのです。私の意見に対して「そうだ」と同意すれば、そのひとも「共謀罪」の対象になるでしょう。安倍が「頭に来た」といえば、すべてが「犯罪」として処理されるのです。
一方、安倍が「気に入る」なら、どんな罪を犯しても罪に問われない。裁判所が逮捕状を出しているにもかかわらず、逮捕状が執行されないということが起きるのです。
安倍の気に入るか、気に入らないか(頭に来るか)によって、政策が変更され、事実が歪められる。感情による「独裁」がはじまる。
「感情による独裁」、それを支持したのが自民党の議員であり、公明党の議員です。
自民党、公明党の議席が増えれば(あるいは維持されれば)、安倍は「頭に来た」を根拠にした政治をつづけるのです。
憲法にもとづき野党が臨時国会の開催を要求しても拒否する。「しっかり説明する」と口では言うが、絶対に説明しない。「友人」を優遇する政治をつづけることになります。

いま日本の政治を動かしているのは「感情による独裁」です。これを支持することだけは、やめてください。お願いします。

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伊藤シンスケ「罪」、長嶋南子「なわばり」

2017-06-26 09:51:27 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤シンスケ「罪」、長嶋南子「なわばり」(「zero」7、2017年04月30日発行)

 伊藤シンスケ「罪」は、「わかる」けれど「わからない」詩である。ちょんと豊原清明の「シナリオ」に似ている。

オレの秘密の部屋に
髪をまっ赤に染めた女がやってきて
出しぬけにオレの頬に平手打ちをくわせる。
オレは唖然として<痛い>ということばをのみ込み
女の顔を見ようとするが
すかさず女はまた平手打ちを加えてきて
オレは女の顔を見ることができない。
やむなくオレが困惑の表情をすると
女はまたしても平手でばしっとオレの頬を打つ。
とっさにかいま見た女の顔は
ぽっかり穴があいていて--
オレは戸惑い
そして なんだかこれを
ずっと待っていたような気がしてくる

 女が突然やってきて平手打ちをする。女の顔を見たら、顔がなくて穴があいていた。ここまでが「描写」。「いま」ここに噴出してきた「過去」がどこかにある。簡単に言うと、オレは女が殴らずにはいられないことをした。浮気か、暴力か。あるいは金を自分だけで使い込むとか。「過去」は書いていないが、まあ、だいたいのところ、そんなストーリーを思い浮かべる。もしかしたら逆に女を非常に愛していて、女が浮気をしたり、暴力を振るっているのに、それを受け入れ続けたということも考えられる。男のふがいなさに女が怒っているとも考えられる。人間関係、男女関係なので、どんなことだって起きうる。「過去」が何なのかは、読者の想像(妄想)に任せられている。
 そのあとがおもしろい。最初は驚いているので女の顔がよく見えないが、なれてきて(?)女の顔を見たら、顔がない。顔に穴があいている。これは「事実」の描写なのか、「印象」の描写なのか。
 で。
 そのあとが、びっくりする。

ずっと待っていたような気がしてくる

 あ、これがほんとうの「過去」。端折るとオレが浮気をしたにしろ、女が浮気をしたにしろ、それが「過去」ではなく、男は「女が顔をもっていない」ということを知りたかったのだ。いや、ある瞬間からそれを知った。それを「肉体」が「肉体」の奥で覚えていた。でも、それが何かはよくわからなかった。それが「いま」、ぱっと噴出してきて、「わかった」。
 「わからない」ものがずーっと「肉体」の奥に生き続けている。そして、それがぱっと表に噴出してきて「わかる」にかわる。そういう瞬間を、きっと誰もが「待っている」ような気がする。
 「待つ」という「動詞」が「肉体」の奥を揺さぶるのである。



 長嶋南子「なわばり」は、あいかわらず「いいかげん」。読む人に「意味」を押しつけてくる。そして、このときの「意味を押しつける」とは、長嶋が「意味」を説明するというのではなく、逆である。読者が勝手に「意味を解釈する」ということを「押しつける」のである。「あら、私、そんなこと一言も書いていません。それはあなたの妄想でしょ」と長嶋は言うのである。

前の家の奥さん
二階のベランダで裸で日光浴している
布団やシーツでぐるりを囲み
あの家には子どもがいない
からだを黒くして引きしめて
だんなさんを喜ばせる

 この一連目の最後の「だんなさんを喜ばせる」って、どういう意味? その前の「引きしめて」は? 何にも説明しない。読者が「妄想」するのに任せている。
 伊藤は男が殴られる理由(過去)を書かなかったが、長嶋は女と男の「未来」を書かない。書かないけれど、その「未来」は読者の知っている「過去」から生まれてくる。時間がかってに動いて、生まれてくるのに任せている。たの「任せる」を、私は「いいかげん」と呼ぶのである。
 このあとが、詩はこんなふうにつづいていく。

家の二階のベランダには
イヌがいて通るイヌを吠え立てる
からだを黒くしたり引きしめたり
してもイヌは喜ばない

 「家」とは長嶋の家だろう。長嶋のイヌは、前の家の奥さんが「からだを黒くしたり引きしめたり」しても喜ばない。あたりまえだね。さらにいえば、人間と違って「妄想」もしない。関心は女の裸ではなく、家の前を通るイヌである。ひとは(いきものは)、それぞれ関心が違う。
 なのに。

前の家のだんなさん イヌが
うるさいといって怒鳴りこんでくる
昼間奥さんが裸で日光浴していること
知ってますか
お互いなわばりのなかのこと
なにをしたっていいじゃないの

ベランダで家の前を通るひとを
吠え立てているのはわたしです
頭のおかしなおばさんがいる
と近所では評判になった
なわばりのなかのことですけど
なにか?

 この「なわばり」を「家の中」ではなく「頭の中(妄想)」と言いなおすと、どうなるかな? 詩は「頭の中」で動いたことば。「頭の中」を「おかしなことば」が動く。これを「妄想」というのだけれど、「妄想」には「妄想」の「過去」があり、「未来」がある。そして、それは強く結びついている。この「強さ」はどう説明していいかわからないが、地球の「重力(引力)」のように「無意識」である。普通は意識化できないものである。そして、「無意識」であるがゆえに「強い」。そういうことを長嶋の詩は教えてくれる。
 長嶋の詩を読んでおもしろく感じてしまうのは、「無意識の重力のような強さ」がどこかにあるからだ。論理では整理できない「妄想」「怒り」「あきらめ」やあれやこれや。「知ってますか?」は「知らなくても、わかるでしょ、わかってるでしょ」かもしれないなあ。
 「頭のおかしなおばさん」は長嶋だけではないし、「頭がおかしい」のはだれも同じ。意識と無意識が区別がなくなって、その瞬間瞬間、何かが「いま」のなかに噴出してくる。それが「現実」ということなんだろうなあ。
 長嶋の書いている詩は「現代詩」というよりも「現実詩」ということになる。


猫笑う
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六代目中村芝翫襲名披露

2017-06-25 21:32:33 | その他(音楽、小説etc)
六代目中村芝翫襲名披露(博多座、2017年06月25日)

 芝居は「一声二姿三顔」と言われる。それを実感する歌舞伎だった。私は三階席(いわゆる天井桟敷)で見たので「顔」なんかは見えないこともあって、よけいにそれを感じたのかもしれないが。
 私が見たのは昼の部。演目は「車引」「藤娘」「毛谷村」「河内山」。

 私が歌舞伎を見るのは四度目くらいで、役者のことも知らないし、ストーリーも何も知らないで見るのだから、とんでもない誤解をしているかもしれないが。
 「河内山」(六代目中村芝翫が河内山宗俊を演じる)の最初の場面で、質屋で中村芝翫が木刀を質草に「五十両貸せ」とか、「ひじきと油揚ばかり食べているやつらは……」という台詞を言うところで、あ、この芝居は「台詞回し」が主役の芝居だと気づく。かっこいい見得や荒々しい動き、あるいは踊りや曲の美しさではなく、台詞を聞かせる芝居だとわかる。「声」が主役の芝居である。
 ところが、主役の中村芝翫の「声=台詞回し」がぜんぜんおもしろくない。引きつけられない。「ことば」で「交渉」を乗り切る、というのは「意味」としては何となくわかるが、「丁々発止」という感じがしない。覚えている台詞を言っているだけ、ストーリーを説明しているだけ、という感じなのだ。
 質屋の場面が終わると、そのあと思わずうつらうつらしてしまった。
 中村芝翫が「山吹のお茶」を要求する場面、最後の「ばかめ」と叫んで花道を引き上げる場面はちょっと目が覚めたが、あとは、うーん、眠い。眠りそうだ。あ、眠ってしまった、という感じだった。
 昼の部の一番の見せ物がこれだから、たまらない。
 「車引」では、橋之助、福之助、歌之助の「声」が、あたりまえといえばあたりまえなのだろうが、若くてつまらなかった。声が「肉体」になっていない。「意味」を伝えるだけに終わっている。ただし動きは軽さとスピードがあって、若い肉体というのはいいなあと感じた。
 「藤娘」は菊之助が舞った。女形は上半身、特に手の動きが重要だと思っていた。指先の動きが感情をあらわしていて、あ、なるほどなあと思いながら見ていたのだが、途中から「腰高」が気になり始めた。「姿」が気に食わない。腰、膝、足の裏(?)という、上半身を支える部分が、どうも「弱い」。荒事というのは、たぶん下半身の力で動いているのだと思うが、女形の基本も下半身にあるのかもしれない。上半身と下半身が分離している感じで、だんだん落ち着かなくなる。見ている私の感覚が。歌舞伎というのは肉体の美しさ、動きの美しさのなかに「感情」を味わうものだと思うが、見ていて「味わう」という「喜び」が少しずつ消えているのを感じてしまったか。
 「毛谷村」は、六助を菊五郎が演じた。うまいわけでも、熱をこめて演じているわけでもないと思うが、きょう見た芝居のなかでは、いちばん「楽な気持ち」になれた。年をとったとはいえ、やっぱり「顔」に花がある。天井桟敷からでも、それがわかる。しかし、なんといっても「声」がいちばんよく聴こえた。
 
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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豊原清明「自主製作映画シナリオ『サボテン』」

2017-06-25 00:18:22 | 
豊原清明「自主製作映画シナリオ『サボテン』」(「白黒目」72、奥付なし、2017年06月発行)

 高柳誠の詩について書いたとき「論理」、あるいは「構造」というものを考えた。豊原のシナリオには、高柳のことばを動かしている「論理」とか「構造」というものがない。いきなり「現実」があるだけである。

〇 サボテンの針に指を突き刺す。

〇 タイトル「サボテン」

〇 四十の掌
  牧師からの誕生祝い。
男「作業所に復讐を果たしたい」
  筋トレしている、男。
  腹筋をしながら、言う。
  腕立て五十回、スクワット、五十回、腹筋五十回、
  膝上げ百回。

 「四十の掌」とは「四十男の掌」だろう。「牧師からの誕生祝い」が何を指すかは明確ではないが、「サボテン」だろう。サボテンの針に指を突き刺す四十男。刺したあとの男の掌のアップ。それから「筋トレ」をしている男の姿が映し出されるのだが、このときの「映像」は「顔」を持たない。腹筋を鍛えているときの腹筋、腕立てをしている腕、スクワットをしている下半身、膝上げをしている膝という「肉体」のアップがあるだけだ。「肉体」は「断片」だが、「断片」としての「肉体」は存在しない。どこかでつながっている。つながることで「ひとつ」になっている。その「つながり(連続)」を豊原は書かない。
 「つながり」とは「関係」であり、「構造」である。
 豊原はなぜ「構造」を書かないのか。
 「構造」は書く必要がない。書かなくても「人間(肉体)」は「同じ構造」をもっている。誰もが、それがどんなものか「わかっている」。だから省略する。「無意識」を「無意識」のままにしておくことができる。これが豊原のことばの強さである。
 多くの人は、たいてい、どこかで「キーワード」を書いてしまう。書かずにいられなくなる。キーワードを書かないと「論理」が「説明」できないからである。「ことば」はどこかで「論理」をめざしてしまうものである。そして「論理」をめざすとき、どこかで「論理」を補強することばを「補う」。普通は無意識に動かしているのだが、「他人」を意識し、「他人」にわかってもらおうとすると、どうしても「ことば」を補わなくてはならなくなる。そういう瞬間がある。その瞬間に、無意識だったキーワードが動く。
 高柳は「入れ子」と書くだけで十分なのに「構造」と書き加えてしまう。「構造」をこそ書きたいのだと、つい説明してしまう。その説明の中に、私は、高柳の「思想」を感じるのだが……。
 豊原の場合は、そういう「無意識」をまったく書かない。そういうものを書かずに、いきなり「現在に噴出してくる過去」を書く。「肉体」を突然、書いてしまう。どんな「肉体」も「過去」をもっている。その「過去」はたいてい「肉体」を見れば感じ取ることのできるものである。
 このシナリオでは筋トレをしている四十男の「腹」とか「腕」とか「足(ひざ)」がアップされるのだが、その「形」を見ただけで、人は四十男の「過去」を知ってしまう。ビールばっかり飲んでいる腹だ、とか、力仕事をしてこなかった腕だとか、あるいはマラソンランナーの足だとか。いや、これは短距離ランナーの足だとか。この無意識に感じてしまう「肉体」の印象を「存在感」などと呼んだりすることもある。豊原は、その「存在感」をいきなり書くのである。
 「現実」を書くのである。
 「現実」とは「いま」のことだけれど、それは「いま」の中に「過去」が噴出してくるときだけ「いま」になる。「過去」が噴出して来ないときは、「肉体」には見えない。「肉体」とは、そういう「論理」というか「構造」をもっている。そして、こんなことは「説明」しなくても、誰もがわかっている。だから、豊原は、こういうとこは書かない。
 「復讐を果たしたい」ということばが突然放り出される。それから筋トレをする四十男の肉体が映し出される。そのあとに、

〇 男のイジメ
声「俺を虐めた、あの男。」

〇 氷水を眺めている、男、一気に飲む。

 こうつながると、「男のイジメ」は「過去」として「いま」に噴出してくる。イジメをうけたから復讐したいのだ。復讐するために、肉体を強化しているのだ。声がそれを「説明」している。ただし、それは私が「誤読」した結果、そうなるだけであって、ほんとうは「違う」かもしれない。「イジメを受けた-復讐したい」という「論理」、そのために「肉体」を改造するというのは私が勝手につくった「論理」、私の「誤読」であるかもしれない。同じように多くの人が「誤読」するだろう。勝手に「論理」をつくり、「意味(ことばと肉体の関係、構造)」を読み取るだろう。
 言い換えると、豊原は、誰もが「誤読」するように「現実」を書くということである。誰もが「自分自身の過去」をそこに結びつけ、自分自身の肉体が覚えている「過去」を見つけ出すのである。まるで「肉体」の一部がアップされているだけなのに、その「肉体」がどこかでつながって四十男になっていると信じるのと同じである。
 それは勝手な「思い込み(誤読)」かもしれないが、たぶん、だれも「誤読」とは意識しない。
 「氷水を眺めている、男、一気に飲む」というト書きには、「間合い」が書かれていない。「間合い」は役者によって違うだろう。その「違い」を、私たちは(私は)、自分の「覚えている間合い」で感じ取り、そこに「自分の肉体/自分の過去」を見てしまう。
 勝手に、そこに書かれている「四十男」と「一体」になってしまう。
 「感じる」とか「わかる」というのは、そういう「誤読」のことである。
 豊原のことばは「誤読」を引き出すことばである。

 「論理」は「誤読」を拒絶するが、豊原のことばは「論理」を拒絶していて、「誤読」を誘うと言いなおせばいいのかもしれない。
 高柳の詩を読んだあとでは、この「誤読」を誘うことばは、とても美しく、強く感じられる。
 こういう感想の書き方は高柳の詩にとって非礼な書き方になるかもしれないけれど、きょうはそんなことを感じた。

夜の人工の木
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高柳誠『放浪彗星通信』

2017-06-24 09:03:02 | 詩集
高柳誠『放浪彗星通信』(書肆山田、2017年05月30日発行)

 高柳誠『放浪彗星通信』の巻頭に、フェルナンド・ペアソのことば(澤田直訳)が引いてある。

宇宙とはそれ自身の夢のことである。

 この詩集には「彗星」ということばがつかわれているように「宇宙」が書かれている。だから引用したのかもしれないが、詩集を読みながら、ペアソの「宇宙」を「詩」と読み替えると、高柳の詩のことを語っているように感じられる。高柳が自分の詩に対してつけた「註釈」のように感じられる。さらに「詩」を「詩集」に、「詩集」を「書物」と言い換えるともっと「夢」に近づくかもしれない。「書物」を「ことば」と言い換えてもいいだろう。
 「宇宙」は「存在」、「夢」は「非存在」。あるいは「存在の反映」。それはともに「ことば」で語られる。それは語り始めた瞬間から「ことば」になって、入れ替わろうとする。いつのまにか「ことば」が「主語」になって、「ことばとはそれ自身宇宙の夢である」、あるいは「ことばとはそれ自身の夢の宇宙である」と変化していっても、だれも「間違い」に気がつかない。「ことば」が動く限り、それは「真実」になってしまう。「ことば」は「存在そのもの」でもないし、「非存在そのもの」でもない。動き始めると延々とつづいてしまう。何かと同一になりながら、常に何かとは別個になりつづける。「同一であり、同一ではない」という「論理」を展開すれば、どこまでもつづく。「ことば」とは世界をどう見るかという「論理」を反映していて、「論理」というのは自己増殖するものだからである。

 で。
 端折る。端折らないと、ほんとうにどこまでも増殖していくからである。

 「書物」という作品が後半に出てくる。

この地には、一冊の書物が存在する。

 書き出しである。重要なのは「一冊」の「一」である。「宇宙」と「夢」は、ことばとしては別個の存在である。それは、「宇宙とはそれ自身の夢のことである。」と言う形で「一」として「定義」された。そのとき書かれなかった「一」が、ここで書かれている。この「一」は、二つを一つといっているわけだから、「矛盾」と言い換えることもできる。
 ただし、このときの「二つは一つ」というのは「対立」ではない。
 「一」であるけれど「一」ではない。「多」である、という形の「矛盾」である。一即多、多即一、という形の「ことばの見かけ」の矛盾であり、「一」とは「一即多、多即一」という「対」のことなのである。言い換えると「対」という概念をもってくると、それは「矛盾」ではなく、別の「論理」になる。
 「論理」とは「脳」が「脳」自身の都合に合わせてつくりだす「夢」であり「宇宙」であり、「ことば」そのものである。
 あ、また、余分なことを書いたか。
 端折る。

書物は入れ子構造になっていて、どのページを開いてもそこから小
型の書物が出てくる。これにもいたるところに紙が貼りつけてあっ
て、宇宙の細目につていのすべてが書かれている。こうなると、も
はや、書物はそのまま一つの宇宙だといってもよいだろう。

 「一即多、多即一」というのは「入れ子構造」とは違うと私は感じているが、それは「脇」においておいて、私が注目するのは「構造」ということばである。「構造」が高柳のキーワードであると私は思う。(私は「対」という「ことば」を利用したが、高柳は「構造」という「ことば」を利用する。)
 高柳の世界のすべては「構造」という「一つ」のことばのなかへ結晶していく。宇宙と夢、夢と宇宙は、「宇宙の夢」「夢の宇宙」という形で「一つ」の「構造」になる。相互に浸透し、入れ替わる。高柳は「入れ替わる」とは言わずに、いくつもの「層」に重なりあうと言うだろう。その重なりが「入れ子」なのだが……。

 あ、またまた余分なことを書いてしまう。
 もう一度、端折る。「書物」にもどり、「構造」について言いなおしてみる。
 「書物は入れ子構造になっていて」は「書物は入れ子になっていて」と書いても「意味」は通じる。「入れ子」というものがすでに「構造」だからである。でも、高柳は「構造」と書いてしまうのである。「入れ子」だけでは「構造」が「意識」されない。「意識」されないまま「肉体」のどこかにもぐりこんでしまう。
 逆に言うと、「意識化する」ということが高柳のことばの運動なのである。「構造を意識化する」。存在がどういう「構造」でなりたっているか、それを「ことば」にする。そのとき、そこに高柳の「詩」が姿をあらわす。「詩」という「宇宙」になる。
 前に戻って言いなおすと、「一即多、多即一」というのは、私の感覚では「構造」ではない。「構造」として「意識化」できない「かたまり」である。「構造」が見えてこない、構造がことばにできないのが「一即多、多即一」。矛盾してしまうことばが「一即多、多即一」なのである。
 でも、高柳は「構造」を解明する。この運動を「明晰」と言ってもいいし、「うるさい」と言ってもいい。
 「入れ子構造」という作品もある。

今や、ついにわれわれを取り巻く世界の構造が、いや、宇宙そのも
のの構造が見えてきた。この宇宙は、すべて入れ子構造でできてい
る。

 この作品について書くべきだったのかもしれないが……。
 この作品では、高柳は「すべて」に「入れ子構造」を発見しているというよりも、「すべて」の「構造」を「入れ子」にあてはめている感じである。「すべて」に「入れ子構造」を発見することと、「すべて」の「構造」を「入れ子」にあてはめることは、結果的に「同じ」になるかもしれないけれど、ほんとうは違う。
 「すべて」に「入れ子構造」を発見することは、そのつどの「発見」であるが、「すべて」の「構造」を「入れ子」にあてはめることは「発見」ではなく、わかっていることの積み重ね、既成の運動の拡張である。
 すでに「わかっている」だけに、「構造」は補強し合っていっそう強固になる。強固になる「構造」が高柳の詩であり、その最終到達地点は「構造」というよりも「強固」というものかもしれない。「構造」を明確にする「強固なことば」、その「強固さ」に高柳の独立性がある。「構造」はどこにでもある。「構造」は独立性を競いようがない。しかし「強固性」はそれぞれ異なる。高柳は、ことばの強固を生きるのである。

 「生命体H」という作品が何篇かある。人間を描いている。そのとき「人間」をどの「構造」でとらえつづけるかによって、作品の世界が違ってくる。ある「構造」で、ある「局面」を描きつづける。横道にそれない。「構造」そのものも「運動」であるかのように、「構造」を持続し、そうすることで「構造」がさらに強固になる。
 それがおもしろいといえば、おもしろい。窮屈といえば、窮屈。
 「詩集成1、2」と、高柳の作品をたくさん読みすぎたために、なんとなく「窮屈」の方が大きく感じた。「強固」でなくてもいいのではないのか。「構造」が破綻していくとき(崩れていくとき)に見える、それまでの「強固」の「残像」のようなものを描いてもおもしろいのではないか、と夢想するのである。
 違う日に読めば違った感想になるかもしれないが。

放浪彗星通信
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自民党の「たたき台」を読む(3)

2017-06-23 19:13:11 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党の「たたき台」を読む(3)
               自民党憲法改正草案を読む/番外93(情報の読み方)

 21日明らかになった自民党の憲法改正案の「たたき台」(西日本新聞2017年06月22日朝刊)についてもう一点、書いておこう。

9条の2 前条の規定は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有し、自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 「解釈してはならない」という「禁止」は憲法の他の条文と整合性がとれない。
 「解釈する」というのは「頭」の仕事である。「理性」とか「精神」という具合に言い換えても言い。「内面」の問題、「思想」の問題である。
 「国(権力)」が「自衛隊」を設ける。そのとき、「自衛隊は戦力であるから、自衛隊を設けることは憲法に反する。憲法に反するから設けてはいけない」と、たとえば私が主張する。
 「自衛隊は憲法に反する」「憲法第9条は自衛隊を認めていない」と「解釈する」。それを「禁止している」。
 何を(どのことばを)どう「解釈する」かは、個人によって違う。その「違い」を自民党の「たたき台」は禁止している。それまで「主語」であった「日本国民」をおしのけて、「日本国民」に命令している。
 これをいったん許せば、あらゆる「解釈する」ということが禁止される。
 「アベノミクスは失敗した」と「解釈する」ことは許されず、「アベノミクスは道半ばである」と「解釈する」ことだけが許される。「安倍昭恵には公費で秘書がついている。活動に公費がつかわれている。だから公人である」と「解釈する」ことは許されず、「安倍昭恵は私人である」ということが「閣議決定」され、それ以外の「解釈」は禁止ということになる。「そもそもは基本的という意味である」ということが「閣議決定」され、それ以外の「解釈」は禁止される。
 これはすでにおこなわれている。いまのところ「閣議決定」は「反論」を禁止してはいない。「解釈してはならない」とは言っていない。「閣議決定」は「こう解釈する」ということを宣言しているだけだが、これは即座に「解釈してはならない」ということにかわる。

 何を、どう「解釈する」か。これは「頭」(精神/理性/思想)の問題であるから、「頭」を鍛える「教育」とも深く関係してくる。
 今回の「たたき台」では「教育の無償化」は問題としては取り上げられていない。もっぱら「憲法9条」と「自衛隊」が問題にされているが、「教育」についても注意しなければならない。
 「無償化」を前面に押し出しながら「思想の自由(どう解釈するかの自由)」が制限される恐れがある。「ある解釈」が「禁止される」ということが起こりうる。
 たとえば「教育勅語は、親や兄弟をたいせつにすること、道徳の基本を解いたものである」という「解釈」は許すが、「第二次大戦を遂行するときの思想的基盤になった」という「解釈」は許さない、という具合だ。
 政権を批判する、政権のやっていることを批判的に「解釈する」ということも禁じられるだろう。政権のやっていることは「正しい」。それ以外は「間違っている」という「解釈」だけが存在する世界になる。
 つまり「独裁」になる。
 「解釈してはならない」ということばは、「独裁政権」を推し進める。

 すでに「解釈の限定」(こういう解釈はしてはいけない)は安倍によって先取り実施されている。(たとえば「そもそも」の「意味の閣議決定)。それは「笑い話」のように受け入れられ、存在してしまっている。閣議決定の取り消しはおこなわれていない。
 そういう「小さい穴」が「大きな落とし穴」になっていく。

 現行の憲法は第十九条で、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と規定している。「解釈してはならない」はこの十九条に違反する。日本国民が、あらゆることに対して、それぞれの「解釈をもつこと(解釈をすること)」は憲法で保障されている。「国(権力)」それを「侵してはならない」と禁止されている。
 この禁止を、自民党の「たたき台」は破っている。
 「たたき台」だから、今後かわるのかもしれないが、こういう「たたき台」を出してくるところに、安倍自民党の「本音」が隠れている。日本国民が、それぞれの立場でそれぞれの「解釈をする」(考えを持つ、思想を持つ)ということを禁止したいのだ。
 究極の「独裁」をめざしている。
 安倍が総理大臣のまま「自衛隊」の「指揮監督権」の「最高責任者」になったとき、その「自衛隊」が武器を向けるのは外国からの侵入者である前に、国内の安倍批判をする人に対してであろう。中国で起きた「天安門事件」が必ず起きる。戦争法審議のときは「自衛隊」が出動しなかったから「天安門事件(国会議事堂前事件)」にならなかったが、憲法に「自衛隊」が組み込まれれば、安倍は絶対に「自衛隊」を出動させるだろう。「自衛隊は国の安全を守るためのもの、国の安全が脅かされるときは出動しなければならない」という理由で。そしてこのとき「国の安全」とは「政権の安全」なのである。「国=政権=安倍」という「解釈」以外は、当然、そのとき禁止されている。「国民に主権がある」という「解釈」も禁止されている。
 「解釈してはならない」ということばを見落としてはならない。



#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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自民党の「たたき台」を読む(2)

2017-06-23 09:07:59 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党の「たたき台」を読む(2)
               自民党憲法改正草案を読む/番外92(情報の読み方)

 前回書き漏らしたことを追加する。(私は目が悪くて40分以上パソコンに向かうと、文字が書きづらくなる。一回あたり40分をめどに書いているので、どうしても書きそびれることがある。)
 前回は、自民党の憲法改正の「たたき台」では「主語」が「日本国民(私)」から「内閣総理大臣」にすりかわっていることを指摘した。現行憲法では「主語(主役)」は「日本国民」で一貫している。自民党の「たたき台」は、これを「内閣総理大臣」にすりかえている。しかも途中に「主語(内閣総理大臣)」を隠した文章をはさみ、読んだ人が無意識に(?)頭のすみで「内閣総理大臣」を思い浮かべるのを待って、「主語」を「内閣総理大臣」にかえるという「詐欺行為」のようなことをしている。
 今回書くのは「文民統制」のこと。

9条の2 前条の規定は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有し、自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 この「たたき台」の「2」の方を中心に書く。
 「自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。」だけを読むと、「自衛隊」は「国会の承認」のもとに動く、「国会(国民の代表が議論して決めた結論)」に従って動くように読むこともできる。
 しかし、この部分は「補則」である。その前に「内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有し」とある。「内閣総理大臣が指揮監督をする。内閣総理大臣の指揮監督が最高のものである」と書いている。
 これは順序が逆でなければ「文民統制」にならない。
 「国会(国民の代表)」が「自衛隊の行動」を「指揮監督するための法律」をつくる。その「法律」に従って「自衛隊」は行動する、という形にならないといけない。「内閣総理大臣」が「指揮監督をする」にしても、それは「国会」で決めた「法律」に従って「指揮監督をする」のである。つまり「内閣総理大臣」は「法律(国会で決めたこと)」を実践するだけである。「国会」の「下請け」でなければならない。
 自民党の「たたき台」は、これを逆転させている。「独裁」を許している。「独裁」を保障している。
 西日本新聞(2017年06月22日)はこの部分に関して、

自衛隊法にも首相が自衛隊の指揮監督件を有するとした同様の規定がある。

 と自民党の「たたき台」を「肯定的」に書いているが、この「評価」は「憲法」と「自衛隊法」の位置づけを間違えている。「自衛隊法」があって「憲法」があるのではない。「憲法」があって、その下に「自衛隊法」がある。「自衛隊法」は「憲法」を逸脱してはならない。(どのような法律も憲法を逸脱してはならない。)
 憲法では「国会(立法府)」が最高機関である。法律をつくる。その法律に従って「内閣(行政府)」が行政を行う。裁判所(司法)は、その「行政」に「憲法違反がないかどうか」をチェックする。あるいはいくつもの法律が憲法に違反しないか、法律同士、齟齬をきたさないかチェックする。(もちろん「行政」だけでなく、「国民」が法律違反を犯さないかもチェックするけれど。)
 これは現在の「国会」と「内閣」「自衛隊」の関係をみればわかることである。
 「自衛隊」が「海外」へ出兵する。(「自衛隊を派遣する」と安倍は言っている。)そのとき安倍(内閣総理大臣)が命令したから出兵するのではない。その前に「国会」で「自衛隊が出兵するための根拠となる法律」が制定される。その法律に従って「自衛隊が出兵する」。「国会」の審議が安倍独裁のままにおこなわれているため、「国会」は何もしていないように見えるが、それでも「手続き」はきちんと踏まえられている。「国会」が「法律」を決め、その「法律」にもとづいて「自衛隊の出兵」が命令されている。「自衛隊」の行動に対する指揮、監督がおこなわれている。
 自民党の「たたき台」は、こうした今のあり方を否定するものである。

 言い換えると。
 自民党の「たたき台」は「自衛隊」を憲法に書き加えるということを通して、いまの憲法そのものを否定している。「国民主権」を否定し、「内閣総理大臣の独裁」を後押しするものである。
 「たたき台」は「憲法違反」である。

 ことばというのは、どういう順序で書くか、ということが重要である。最初に書かれていることが優先し、そのあとに書かれていることは「補則」である。ことばは完全なものではない。一度では全てを言い表せない。だから人は「追加」「追加」(補則、補則)という形でことばを補う。
 そのとき「補則」があるからそれでいいというものではない。
 実際に何かあったときは、書かれている順序で、行動は制限される。最初に書いてあることがいちばん重要なのだ。
 だから憲法は

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、

 と最初に「主語」を「日本国民」と定義し、それから「国会」という具合にことばをすすめている。

 マスコミの仕事は、「権力」の代弁ではない。「権力」が隠していることをチェックすることである。
 「自衛隊法も首相の指揮監督権を有する」という規定があるなどと、簡単に自民党に騙されるのはなさけない。「憲法」と「自衛隊法」の関係(どちらが優先するか)を無視して、「自衛隊法」に認められているから「憲法」もそれに従うというのでは「憲法」の意味がない。
 「自衛隊法」は「憲法」の下にあって、「自衛隊」のなかで完結するものである。「自衛隊法」で認められていることが、他の分野にまで適用されるわけではない。いったん「国会」で法律がきまったら、その法律にもとづいて「内閣総理大臣が指揮監督をする権利を有する」ということを、「内閣総理大臣が指揮監督権を有する」という部分だけを取り出してきて、「同様の規定がある」と言うのは安倍の「口車」に乗ったものである。安倍の改憲「手口」の片棒を担ぐものである。

(「自民党の「たたき台」を読む」という文章もお読みください。今回の文章は、そのつづきです。)

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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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