和辻哲郎「自叙伝の試み」に、何度も何度も読み返してしまう文章がある。和辻の母が蚕から生糸をつくり、それをさらに織っていく。それは「本質的」に、工場でつくるものとかわりがない。自分で紡いだ生糸を、
母たちは、好きな色に染めて、機にかけて、手織りで織ったのである。織物としての感じは非常におもしろいものであったように思う。今ああいうものを作れば、たぶん非常に高価につくであろう。しかし母たちの時代の人にとっては、自分たちの労力を勘定に入れないので、呉服屋で買うよりもずっと安かったわけである。
「労力を勘定に入れない」。このことばが、いつも胸に迫ってくる。たしかに昔の人は、「労力を勘定に入れない」で仕事をした。いまは「休憩」さえも勘定に入れる。どちらが正しいというのではなく、ただ、私は、その「労力を勘定に入れない」という生き方が美しいと思う。
和辻が描いている「母たちの時代の人」というのは明治20年代(1880年代後半)だが、その時代には「労力を勘定に入れない」人がいた。そして、和辻がこの「自叙伝の試み」を書いた昭和30年代(1950年代)にも、そのことばがそのまま「通用」する生活があったのだ。
それにしても。
和辻が生まれた姫路市の明治なかごろの風景と、私が育った氷見市の昭和30年代は、なんと似ているのだろう。というか、昭和30年になっても、私の集落は姫路の明治のなかごろに追いついてはいない。絹織物を織るというような文化的なことを私の母はしていなかったが、かわりに「むしろ」を織っていた。むしろ織り機というものがあり、私もこどものときむしろを織らされた。
私が和辻の文章に弾かれるのは、和辻の文章の奥に動いている「自然(山や川、空)」の感じが私の知っている自然に近いからかもしれない。自然の呼吸が、どこかで私にひびいてくるからだろう。
和辻は、和辻の家で「みそ」をつくるときのことを書いている。私も、家でみそをつくるときの様子を見ていた。大豆がふかしあがる。何の味もついていないのだが、私はその大豆を食べるのが好きだったことなどを思い出すのである。和辻の祖父が、蔵の中でコメに大きなうちわで風を送っている場面など、なんとも不思議な気持ちで読んでしまう。ふと、収穫したばかりの米を納屋の倉庫に入れた日、父が、米の番をして、その納屋で眠ったときのことを思い出したりする。
あらゆるところに「労力を勘定に入れない」仕事があった。そして、それはなんというのか、自分よりも、「自分の作ったもの」を大事にする仕事に思えるのである。自分のかわりに、自分のつくったものが「生きていく」。「生きていく」というのは「他人(自分以外のもの、もちろん家族を含む)」のなかへ動いていくということである。
和辻の祖父のコメの「せわ」など、その代表的なものだ。コメは和辻の祖父がつくったものではない。しかし、そのコメがまずくならないように風を送るという「労力」が、おいしいコメとして家族の中に「生きていく」。それは「高い」とか「安い」では、とらえることのできない何かだ。和辻は母のつくった絹織物を、母たちにしてみれば「呉服屋で買うよりもずっと安かったわけである」と書いているが、単に「安い」だけではないものが、そこに動いていると感じる。
和辻の文章には、なにかこういう「生きていく」ものをすくい取り、定着させることばがある。
それは、やはり、「思想」というよりは「倫理」というものだろうなあ、と思う。
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