詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ノア・バームバック監督「イカとクジラ」

2007-02-28 22:26:44 | 映画
監督 ノア・バームバック 出演 ジェフ・ダニエルズ、ローラ・リニー、ジェス・アイゼンバーグ、オーウェン・クライン

 スノッブな味が満載。
 映像としては、夫が別居した妻を訪ね、玄関口で会話するシーンにスノッブの特徴がよくあらわれている。夫、妻の顔が会話にあわせてアップになるが、スクリーンの中央に顔が映るわけではない。夫を映しているとき、その左側に通りが映る。奥行きとして、通りと向かいの通りの家が映る。妻の場合はドアから部屋の奥がほんの少し見える。どちらも真っ正面から何かに向き合うというよりも、すこし視点をずらしている。ずらすことで衝突を緩和している。
 傑作なのは、そういう正面衝突を避けることが積み重なって、やっぱり正面衝突してしまうことである。夫と妻は、ふたりとも作家なのだが、互いの書いているものが心底好きなわけではない。そのことをうまく伝えられず、視点をずらす。そのことが積み重なって、ずらし続けたものが正面にまでずれてきてしまって、別居している。その別居に、ふたりの子供と猫が巻き込まれる。
 ここからどうやって立ち直る?
 長男の視点から世界を見ていくと、その手がかりがわかる。
 長男は父親のいうことを鵜呑みにしている。スノッブをそのまま引き継いで、自分の声(自分の感じ方)を失っている。その象徴的なできごととしてピンクフロイドの曲を盗作するということが起きる。自分の声ではなく、他人の声で、すべてを語ってしまうのである。ガールフレンドとのセックスでも自分のほんとうの声を発することができない。失敗(?)したあとも自分の声を発することができない。
 長男は、この映画の最後の最後になって、自分が父親のことばで世界を見ていたことに気がつく。病院に緊急入院した父が息子に対して「おまえは昔は自分の感じたことを自分のことばで語ることができた子供だった」というようなことを言う。そのとき、はっと気がつく。映画のタイトルとなっている「イカとクジラ」、自然史博物館の展示--それがこわくて指の間からしか見ることができなかった、という記憶が長男にはある。それはほんとうに彼の記憶なのか?
 これに先立って、盗作問題を起こしたことをきっかけに長男はセラピーを受ける。そのとき、「イカとクジラ」の話をする。自然史博物館でイカとクジラが戦っている展示を見た。怖かった。そのことを夜、母と風呂のなかで話した。この話に対して、セラピストは「父親は? きみの話に父親が出てこないのは?」と問う。長男は答えられなかった。父がそのときどこにいたのか思いだせないのだった。
 この答えられなかった理由が、最後の最後になって、明かされる。長男は自分の体験を語っているのではないのだ。父に聞かせられた体験を自分の体験として語ってきたのである。イカとクジラの戦いが怖かったという思い出さえ、父の「物語」である。
 長男はいつでも父の「物語」を自分の声として語る。小説の感想(批評)は父親の受け売りだ。実感していないから、カフカの作品を「カフカ的だ」と批評して、父親のガールフレンドに、「だってカフカの作品よ」とたしなめられたりもする。
 最後の最後。長男は父から看護婦に枕をもってきてくれるよう頼んでくれ、と言われる。金髪の看護婦に、と指定される。しかし、長男は、はじめて(おそらく)父を裏切る。教えられた金髪の看護婦には頼まず、廊下ですれちがった看護婦に枕の件を頼む。父親からの自立である。そして、自然史博物館へ「イカとクジラ」を見に行く。ほんとうにイカとクジラは戦っているのか。
 そして、そこで長男は、「イカとクジラ」の「物語」が父の「物語」だったことを確認する。母親と風呂で話したことは、父の「物語」だった。父がそのとき長男の記憶から消えていたのは、父の「物語」を自分の「物語」として語ったからである。父がいては彼自身が消えてしまう。無意識的に彼は自分と父を同一人物として体現していたのである。そのことに、長男は、やっと気づく。
 これはひとりの息子が父親の影響(ことば--というのも、父親が「小説家」だからであるが)から脱皮する過程を、スノッブそのものの視点で描いた作品である。
 こういう映画を好きになる人は少ないだろうなあ、と思う。登場人物はみんな生々しくない。どこか気取って、とっかかりがない。映像も、網膜に直接焼きついてくるというような刺激的なものはない。そんなにじっと見つめないでくれとでも言っているかのように視線を避けたような、そのくせ直視を避けることでのみ生じる批評の冷たい感じを漂わせる。くすくすというような、どうでもいいような(?)笑いを漂わせる。笑うことで何か開放的になるというのではない、むしろ冷やかな感じになってしまう笑いを漂わせる。こういう作品を好きになってしまうということは、それがそのままスノッブになるということかもしれない。ご用心、ご用心、ご用心。
 --と言いながら、私は、この脚本、そしてこの映画のナチュラルを装った映像というものがかなり好きである。スノッブに染まっているのかなあ。(と、少し反省してみた。)。また、この映画には私の大好きな大好きなケビン・クラインの息子、オーウェン・クラインが出ている。食事中にナッツを鼻の穴に入れたり、憂さ晴らしにビールを飲んだり、オナニーだけでは満足できず精液を図書館の本になすりつけたりするという、かなり危ない少年を演じているのだが、ケビン・クラインそのままの、びっくりするくらいナチュラルな演技だ。どんな役者に育つんだろうか。とても楽しみだ。
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小松弘愛「てんぽうな」再読

2007-02-28 11:25:22 | 詩(雑誌・同人誌)
 小松弘愛「てんぽうな」再読(「兆」133、02月05日発行)。
 きのう27日に書いた小松弘愛「てんぽうな」の感想は、「無鉄砲な」ということばにひきずられすぎたかもしれない。「てんぽうな」は「鉄砲な」(無鉄砲な)とは無関係なことばかもしれない。語源は「鉄砲」にはないかもしれない。「天法な」かもしれない、と突然思った。こんなことばがほんとうにあるかどうかも知らないのだが。
 実は、きのう、人参が空を飛ぶ夢を見た。というか、途中から、人参になって空を飛んでいる夢を見た。私はまず青空を見上げ、つまり「天」を見上げた。「てんぽうな」の「てん」が「天」につながっていることを突然感じた。真っ青な空、「天」までぬけるような青空に浮かんだ人参。それを次の見た瞬間、人参になって、空を飛びはじめた。目の前には私をさえぎるものは何もない。広い広い空間。前後左右、上下、どこもかしこも自由に動き回れる。「天」は自由の場である。
 詩を読み返してみた。

そういえば
わたしは空を飛ぶ夢を一度も見たことがない
夢でも飛べない男
このコンプレックスのせいか
去年の春
新聞で見た広告がまだ記憶に残っている

あれは
たしか「キューピーマヨネーズ」だった
カラー版の全面広告の上の方に
一本の 葉っぱをつけた人参が浮かんでいた
下には一群のビルが建ち並んでいたので
あの人参は空を飛んでいたことになる
「てんぽうな」ことをする人参だ

 私は急にこの詩が好きになった。「てんぽうな」を「天法な」と読み替えることは「誤読」かもしれない。「誤読」に違いない--そう思いながらも、その「誤読」の世界で思いっきり遊びたくなったのである。
 空を飛ぶ人参。その広告を私は見たことがない。だからこれからの「想像」もまた小松の描いている「現実」とは無関係なもかもしれないが、私が想像したものをそのまま書く。
 人参は立っている。つまり緑の葉っぱを上にして直立して空に浮かんでいる。小松は空を飛ぶ夢を見たことがないそうだが、私は何度も何度も見る。そのとき私はいつも直立している。
 直立して空を飛ぶシーンはパゾリーニの映画にあった。またバシュラールも直立して飛ぶ夢、足首のところに羽根が生えている夢について書いている。このふたつのことがらは私を勇気づけた。私は多くの人がいうように飛行機や鳥のように両手を広げて飛んでいる夢は見たことがない。いつも直立して、どちらかというと金縛り状態で、でたらめに宙を動き回る。遠くに山が見え、ビルが見え、下を見ると街や野原や海が見えるので飛んでいるのだと気づく。
 同じように人参も立ったまま飛んでいるのだと思った。
 その広告でマヨネーズ会社が何を狙ったか私にはわからないが、その唐突な映像から、私は、きのう27日に書いた「ナンセンス」ということばを思いだしたのである。
 空を飛ぶ人参はナンセンスである。50メートルの煙突に登ることもナンセンスである。しかしそのナンセンスが人間を引きつける。日常から人間を引き離す。そのとき、なんといえばいいのだろうか、解放された気分になる。笑いたい。なんでもいいから声を出したい。ことばにならないもの、ただ体のなかに眠っている声を外へほうりだしたい。自由になりたい。実際、ナンセンスな笑いのただなかで、私は完全な自由を感じる。
 「てんぽうな」が「天法な」だと仮定する。その「天」は「天真爛漫」の「天」でもあある。「天真爛漫」とは「天の法」にのみしたがって(つまり、現実の、日常の決まりなど無視して)行動することである。完全な自由こそ「天の法」である……。
 50メートルの煙突によじのぼる。それは天真爛漫な行動ではないだろうか。「無鉄砲な」「思いきった」ということばは、その「天真爛漫」に吸収されはしないだろうか。

わたしは
「煙突中学」に通いながら
あの煙突に登ってみたいなどと
「てんぽうな」ことは考えもしなかった
「無鉄砲な」ことをする気力もなかった
「思いきった」ことをする覇気がなかった

これを

あの煙突に登ってみたいなどと
「てんぽうな」ことは考えもしなかった
「天真爛漫な」ことをする無邪気さがなかった
「天の法」そのままにこうどうすること、日常の決まりを無視する覇気がなかった

と書き換えて読みたくなったのである。いや、知らず知らずに、そういうふうに書き換えて読んでいる自分を発見したのである。

 そしてまた、私は次のようなことも、勢いにまかせて考える。「てんぽうな」ということばは「鉄砲」伝来以前からあることばかもしれない。そうであるなら「鉄砲な」ということばを想像し、「無鉄砲な」ということばと比較した27日の読み方こそ誤読であり、「天法な」と読み替えたきょうの感想の方が「土佐弁」の本質に迫っているのではないだろうか。
 小松さん、「てんぽうな」を「無鉄砲な」「思いきった」と標準語化(?)した部分は考えなおしてみませんか、と、そんなことまでいいたくなってしまった。「無鉄砲な」の「無」を生かしたまま「無邪気な」という標準語で「てんぽうな」を説明する方が、空飛ぶ人参というナンセンスに結びつくように感じるのです。

 (以上は、もちろん「土佐弁」のことなどまったく知らない人間の「妄想」なのですが……。)


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石川逸子「橋をわたらずに……」小松弘愛「てんぽうな」

2007-02-27 23:02:02 | 詩(雑誌・同人誌)
 石川逸子「橋をわたらずに……」小松弘愛「てんぽうな」(「兆」133、02月05日発行)。
 石川逸子「橋をわたらずに……」は1連目が魅力的だ。

うねうねと曲がった道が 川につきあたり
ちいさな橋があって
わたれば森にはいっていくようだ
はて 家にもどるには橋をわたったほうがよいのか
いつもよく ここで迷った とおもい
いまも迷い
橋に心をのこしながらも 川沿いの細道へとすすむ

 「いつもよく ここで迷った とおもい」。家へ帰る道で、「橋をわたったほうがよいのか」などと人は迷わない。すくなくとも「よくいつも」「ここで」迷うことはない。まようことがあるとすれば、はじめての場所で迷うだけである。しかし、石川は「いつもよく ここで」と書いている。
 そんなところで人間は迷わないはずだけれど、この石川の気持ちがよくわかる。
 「頭」ではわかっていても、こころは、「頭」がわかっていることと違ったことを望んでしまうのだ。「好奇心」というよりも、もっと生理的な感じだ。
 迷いたいのだ。
 この欲望が「心」を超越したものであることは、「橋に心をのこしながらも」ということばが端的にあらわしている。「心」など関係ないのだ。いや、そうではない。いままでの「心」を置き去りにして、いままで知らなかった「心」の領域に入り込みたいのだ。
 心底、迷いたいのだ。
 いつもと違う場所。そこへは「心」が突き進んだことがない。そこでは「心」の歩むべき道は決まっていない。何が起きるかわからない。そういうことは、人間にとって「不安」である。「不安」であるけれど、人間は「不安」さえも味わいたいものなのだ。
 そして「不安」は、道の領域のなかへ進む「心」ゆえに生じるものでもない。
 実は、橋に残してきた「心」ゆえに生まれるのである。「心」はいつでも「橋にのこし」てきた「心」に帰りながら、つまり「(橋をわたればよかった)」(2連目3行目)と思いながら、未知の道を歩くのだ。
 「心」は、それがどんなに遠く離れても、橋に残して、その橋からどんなに遠ざかろうとも、実はひとつである。それはどこまでも広がってゆくものなのだ。
 迷うことは、「心」を広げることなのである。「心」を広げるために、迷うのだ。迷いたいという欲望は、このとき「心」を広げたいという欲望と重なる。同じ意味になる。「心」を拡大し、拡大することで新しい人間に生まれ変わりたい--そういう欲望を、石川は、きわめて日常的なことば、しかし夢のように強いことばで描き出す。

いつもよく ここで迷った とおもい
いまも迷い

 とても美しい連だ。



 小松弘愛「てんぽうな」は、「無鉄砲な」という意味の土佐方言を題材にしている。

わたしは
「煙突中学」に通いながら
あの煙突に登ってみたいなどと
「てんぽうな」ことは考えもしなかった
「無鉄砲な」ことをする気力もなかった
「思いきった」ことをする覇気がなかった

 この詩は、いつもの小松の作品に比べておもしろみに欠ける。なぜだろうか、と私はしばらく考えた。
 「てんぽうな」は「てっぽうな」(鉄砲な)ということばと関係しているように、土佐便とは無関係な私には思える。「鉄砲」は日常から遠くかけ離れたものである。「てんぽうな」男と言えば、たぶん日常とはかけ離れたことをやってのける男のことであろう、と想像する。普通(日常)は人がしないこと、たとえば2連目に出てくる高さ50メートルの煙突にのぼるようなことをやってのける男について語られるときにつかわれるようだが、このとき土佐の人は、その行動に「鉄砲」に通じる日常を超越した力を見ているのだと思う。
 そういう日常からかけ離れたものを表現するとき、土佐では「てんぽうな」(鉄砲な)と言う。ところが、標準語(?)では、そういうとき「鉄砲な」とは言わずに「無鉄砲な」と、頭に「無」つけて表現する。「鉄砲な」と「無・鉄砲な」。ふたつのことばの差異をつくりだしている「無」ということばの存在。その「無」に、小松は踏み込んでいない。
 大胆な、思い切ったというとき、土佐では「鉄砲な」といい、標準語では「無鉄砲な」という。もし、私の仮説が正しければ、「無」の有無は、土佐の人々の感性・精神ととても深く結びついているはずである。標準語では「無」という否定的なことばをつけないことには受け入れられないものを、土佐では否定せずに、ただ肯定的に受け入れる。その肯定的な生き方に、土佐の人々の逞しさがある……。

「小松さん
もっと飛ばなあいかん」    (5連目)

 小松の詩に寄せられた同人の批評。そこにも非日常、日常を超越するものへの肯定的な意志が感じられる。

 もっとも、こういう感じ方は、私が標準語の世界から土佐弁をみていることから起きる誤読かもしれない。

 小松は「無鉄砲な」の「無」を「無意味」(ナンセンス)の「無」と受け止めているように感じられる。作品の後半に空を飛ぶ人参が登場する。その人参を「てんぽうな」ことをする人参だ、と小松は書いている。大胆というよりも、何か、ナンセンスな、という感じが、私にはする。「笑い」がどこかに含まれている。
 「てんぽうな」は単に「無鉄砲な」というよりも、そこにナンセンスな笑いを引き起こすような非日常を含んでいるのかもしれない。「無鉄砲な」にはナンセンスな感覚はない。ところが「てんぽうな」にはナンセンスな意味がある、ということかもしれない。

 「無」を、小松がどう定義しているのか、そのことを知りたい、と思った。

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林嗣夫「幻の花」「冬の蜘蛛」

2007-02-26 13:53:46 | 詩(雑誌・同人誌)
 林嗣夫「幻の花」「冬の蜘蛛」(「兆」133、02月05日発行)。
 林嗣夫「幻の花」は教室で十進法について人間の指が5本ずつあることが基礎になっていると説明したあと、林がふいに思いついたことを書いたものである。

「じゃなぜ 人間の指は五本なんだろう」
という問いを置き去りにしていることに気がついた

 林は「気づいた」ことから出発して、ことばを動かしていく。その動きをそのまま「詩」として提出する。五本の指はしだいに「人差指」へと収斂していく。最後の2連。

それならば 人差指の究極の使命は何か
わたしの場合
幻の花を指す 指しつづける
ということになろうか
しかし このような思考のみちすじや願望は
結局 ホモ・サピエンスの思考形式からきている
ホモ・サピエンスの思考形式は
五本の指からきている
だから五本の指を肯定し それに夢を託する結果となる
なんだ
これは単なる循環じゃないか
どうどうめぐりしているだけではないか

でも、とわたしは職員室で考えた
繰り返し 繰り返し
そして心をこめて
どうどうめぐりをしていたい
どうどうめぐりをしながら待ちつづけたい
子本の指が
まだつかむことのなかった花を

 林のことばは「結論」にたどりつかない。それは「結論」が「詩」であるのではなく、ことばが動く過程が「詩」だからである。何かに「気がつ」き(1連目の最終行)、ことばをつかって「考え」る(最終連の1行目)。気づき、考えること、そのときことばが動くことが「詩」なのである。
 「どうどうめぐり」ということばが何回か出てくる。「どうどうめぐりをしながら待ちつづけたい」と林は書く。ここに林の「詩」に対する姿勢がくっきりとあらわれている。何かに気づき、考える。そのときことばはすぐには結論には到達しない。ただどうどうめぐりを繰り返す。だが、林は知っているのだ。そのどうどうめぐりをしながら待っていれば、いつか、何かが、ふっとそのことばの奥から浮かび上がってくる。それは浮かび上がってくるまで待つしかないものなのだ。ほんとうの「詩」は、そうやって浮かび上がってくるもののなかにこそある。むりやり引き出したりはできない。
 作品を何篇も何篇も繰り返し書く。そのときも、ことばはどうどうめぐりをしている。「結論」はあらわれはしない。だが、そのどうどうめぐりをするということ、そうやって待つということのなかに静かに育ってくるものがある。そういうものを林は大切にしている。

 「冬の蜘蛛」の2連目は、そういう林の姿勢を象徴的に描いている。

そのまん中へんに逆さにとりついて
じっとしている蜘蛛
暖かい冬日を浴びて 居眠りしているのか
もはや放射状に散開してしまった世界の底なしに向かって
落下しはじめる時を待っているのか
あるいは自分が蜘蛛であることの謎にひっかかって
巣よりも複雑な
揺れる迷路を ひとり
たどっているのか

 繰り返される「のか」。疑問。林は、何かに気づき、それについて何度も何度も考える。考えるということは「のか」を繰り返すこと。疑問を繰り返すこと。この詩のなかで林は「のか」を3回繰り返しているが、林の書く作品の1篇1篇が「のか」という疑問の別の形なのである。
 その疑問が、「結論」にたどりつくことはないかもしれない。「結論」と予想されるものとはまったく違うものを新しく見つけ出すかもしれない。この疑問から、なぜこの答えが? 疑問と答えの呼応が不完全なときもあるかもしれない。しかし、その不完全が、ときとして「美」であることもある。
 たとえば、「冬の蜘蛛」は「のか」という疑問を繰り返し、1行あき(意識の断絶)のあと、不思議なものを引き寄せる。

はるか頭上に
黄金の
ツワブキの花を咲かせて

 林の「のか」という疑問に答えるものとはまったく違ったものがふいに出現する。そして、そのとき、疑問が「世界」という広がりを獲得する。一方に林のことばが追い続ける謎があり、一方にそういう林の考えとは無関係に別の世界(ツワブキの花)があり、それが向き合うとき、それまで追いかけてきたことばを断念し、放心に、受け入れるしかない「全体」というものが姿をあらわす。「美」という形で。破綻であり、同時に調和でもあるものが。

 こうした「美」が抒情にまみれていないのは、林のことばが、つねに丁寧に林自身が気づき、考えたことを追い続けるという姿勢で貫かれているためであると思う。「つづける」ということばも林の詩には頻繁に出てくるが、つづけることが林のことばを支えているのである。
 そして、こうしたことばの運動のなかで見落としてはならないものがあるとすれば、「幻の花」の最終連に、そっと書かれた「心をこめて」ということばだろう。「そして心をこめて」という1行は、林のことばの運動の方向を少しも変えることはない。心をこめようが、心をこめまいが、どうどうめぐりをすることにかわりはない。だからこそ、「心をこめて」ということばの「意味」が重要になる。書かなければならない理由がある。林はこのことばを書かずにはいられない。「心をこめて」こそが、林の「キーワード」であり、「思想」なのである。
 何かに気づき、考える。--そういうことは「頭」の仕事であると普通は定義されるだろう。しかし、林は、それを「心」へと引き寄せるのである。そのために、繰り返し、どうどうめぐりをする。「心」になじませる。「心」が納得するまで、待つ。
 「冬の蜘蛛」の「ツワブキの花」は、蜘蛛の姿を追い続ける「心」にこそ咲くのであり、そのとき「心」と「世界」が重なるのである。

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上田美沙緒「かなしい夢をみた朝」ほか

2007-02-25 09:29:42 | 詩(雑誌・同人誌)
 上田美沙緒「かなしい夢をみた朝」ほか(「ムーンドロップ」8、2007年02月03日発行)。
 上田美沙緒「かなしい夢をみた朝」にとても魅力的な部分がある。

あなたのなかでかたまりがころがるおとがしてそれをきくのがすきなのだと
そうつげたらどういうかおをするだろう。
さっきまでないていたわたしが
ないたりゆうすらどうでもよかったことまできづいてくれるだろうか。

 この引用部分の3行目「さっきまでないていたわたしが」の「が」がとても印象的で、なおかつ美しい。「が」で行がおわること、そこで改行があることが、夢のように美しい。
 この「が」の内容を正確(?)に言いなおすならば「にとって」となるだろうか。漢字をまじえ、主語を補い、書き直せば「さっきまで泣いていたわたし(にとって)/泣いた理由すらどうでもよかったことまで(あなたは)気づいてくれるだろうか。」もっと意味が通りやすく言いなおすなら「さっきまでわたしは泣いていたが、わたしにとっては泣いた理由すらどうでもよかった。そのことまであなたは気づいてくれるだろうか。」
 しかし、それでは「よかったことまで」の「まで」と比較されているのは何? あなたは何に最初に気がつき、さらに「泣いた理由すらどうでもよかったこと」「まで」気がつくと願っているのだろうか。
 最初に気づくことがらは消えてしまっている。というより、そんなものは最初から存在しないのだ。
 「泣いた理由すらどうでもよかったこと」「まで」というときの、「わたし」の願いは、「泣いた理由すらどうでもよかったこと」、それにこそ気づいてほしいと願っていることがわかる。ただ、「泣いた理由すらどうでもよかった」そのことをこそ、「わたし」はあなたに気づいてほしいと願っている。「泣いた理由すらどうでもよかった」と「わたし」が同じ存在である、同等の意味を持っているということに気づいててほしいのだ。
 「泣いた理由すらどうでもよかった」は「わたし」を強調する修飾語のようなものである。「わたし」を印象づけるための修飾語である。上田は、ただ「わたし」に気づいてほしいのだ。「わたし」がここにいる、ということに気づいてほしいのだ。
 「わたしがここにいる」というときの「が」が「さっきまでないていたわたしが」の「が」にこめられているのだ。
 「さっきまで泣いていたわたしがここにいる。そして、今は泣いていないわたしにとって/泣いていた理由すらどうでもいいのではなく、さっき泣いていたわたしにとってこそ泣いていた理由すらどうでもよかった。」「それがわたしである、と、そこまで、つまりわたしの行動には矛盾があり、その矛盾がわたしであるということまで、あなたは気づいてくれるだろうか」。

あなたのなかでころがるおとがよりいっそう
そうねそのとくんとくん
とくんとくんかなでるいのちより
ひびいてくれないかと
こころまちにしているの。

 今引用した部分の2行目の「そうね」もとても印象的だ。さきほど引用した「が」と同じように、ここでは意識が往復している。「わたし」自身に対して、「そうね」と言い聞かせ、確認しているのである。何かわからないものを、「そうね」ということばで誘い出し、動かしているのである。比喩をひっぱりだし、納得しようとしている。
 ここからも浮かび上がってくるのは、「わたし」がここにいる、ということである。「わたし」がここにいる、そのことが「かなしい」理由である。「かなしみ」はここにいるわたしを、どこか(だれか)にむすびつけたいのだ。むすびつきたいのだ。そうすることでたしかな「わたし」という存在になりたいのだ。



 杉本徹「小鳥柄のうわさ」の、透明な抒情にひきこまれる。

月曜。トケイソウ。燐寸を擦ると、テーブルにうかぶ小鳥柄のうわさ。それは、ふるえる昨日に射す人影の水位、とか、急カーヴを故郷と呼んだタクシーの、遠のく螢火、とか。

 「とか」「とか」。繰り返される「とか」は意味の限定を否定している。杉本のことばは意味など求めてはいない。純粋に、それ自身として「ふるえる」ことを欲している。「故郷」というようなことばが、2007年になってもなお、こういう具合に郷愁としてふるえるようにして書かれるとは、私は夢にも想像しなかった。

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武田肇『詩史または本の精神』(その3)

2007-02-24 21:14:24 | 詩集
 武田肇『詩史または本の精神』(その3)(銅林社、2007年04月01日発行、非売品)。
 22日、23日、奇妙なことを書き続けたので、視点をかえて……。私が武田の作品で好きな部分。それはたとえば、

たとえばやはらかい幼女の頭部に いま
ヘアピンの強い弾性が働いているふしぎさ
相反する性質を互いに差引いて消滅させている世界が遠方にきっと在るのだろう
                         (68ページ)

 ことばのリズムが好きだ。リズムをつくりだしていることばの「感触」の差異。たとえば「やはらかい」と「文語」表記のなかの、文字どおりの「やわらかさ」と強固な伝統。「やはらかい」と対照的な「頭部」ということば。「頭」あるいは「あたま」ではなく「頭部」というときの聴覚(音)と視覚の差異。印象のぶつかりあい。
 おなじように、「ヘアピン」と「弾性」、「弾性」と「働いている」の衝突。なぜ、「弾性」が「作用している」ではない? さらには「ふしぎさ」という表記。「不思議」となぜ書かない?
 そして、先行する2行の、なにやら妖しい肉感(ヘアピンを描いているにもかかわらず、少女の肉体を連想させる、一種のいやらしさ)と対照的な3行目の、頭でゆっくり考えないと意味が理解できないようなことばの衝突。
 こうしたことは、ひとつひとつ、ことばをどう書くかということを吟味していては書けない。本能的にことばを選び取り、積み重ねることでしか書けない。そういう本能を鍛えるためには、本をたくさん読まなければならない。読んだことばの蓄積が、ひとつひとつのことばの選択、表記の選択となって、自然にあらわれてしまうのだ。(武田は感じを正字体で書いているが、これも彼の読書の質を明らかにしている。)
 ことばの選択、表記の選択が、そのまま武田の読書量を伝えるものになっている。ことばの選択、表記が、完全に武田の肉体になってしまっている。そういう安心感が、とてもすばらしい。
 先の引用につづく部分(68、69ページ)も美しい。

消えかかる物たちの中でも 最小の
それはその時一本の留具にすぎないのであったが
濃度なのでもあった
(幼女の(頭部
という夕空の端のがけっぷちで激しく曲っていたのだから
あるいは消えかかる物たちはその物をべつのものによって語り始めるための
激流でもあるのだから

 「夕空の端のがけっぷちで激しく曲っていた」というのは70年代の「現代詩」のようなつややかなことばの運動だが、「古い」とは感じず、ああ、こういうつややかさはいいなあ、なつかしいなあ、と久々に感じてしまった。

ここまでおまえはすべてに成功する、すなわち誰にも見られず(あきる野
の(野辺
の(七辻
にしゃがんで鱧中の穴を地中に接続(アース)する
穴は動詞だ
ここから(雨間
へと街界を越える、こんこんとねむる町
(雨間(アマメ)
ソックスはまぶしげにずりさがり地中を寂(さび)しむ
                          (22ページ)
  (谷内注・ルビを括弧で表記したため、原典とは表記が違っています。また武田は漢字を正字で表記しています。)

 「穴は動詞だ」という有無を言わさぬ断定が楽しい。また引用した部分の最後の「ソックス」から始まる行の「さ行」「ば行」(ま行--「ば」「ま」のわたり)ゆらぎが「寂しむ」できゅっとしまる音の楽しさ。
 武田は目も耳も(そして、たぶん唇も、舌も、歯も)とてもいい詩人なのだ。

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武田肇『詩史または本の精神』(その2)

2007-02-23 07:50:15 | 詩集
 武田肇『詩史または本の精神』(銅林社、2007年04月01日発行、非売品)。
 「*」「……」が武田の「詩」である、と書いただけでは、誰も武田の作品を読まなくなってしまうかもしれない。補足しておく。
 「*」「……」が「隠されたことば」と同じものであることは、すでに見てきた。というより、隠すことによって、見せる、隠しているものを強調し、明らかにする、という手法を見てきた。「*」「……」と書かれたことばは常に対になっている。この対であることが、武田にとっての作品の「意味」である。詩が書かれなければならない理由である。
 ことばはすでに書かれてしまっている。武田の知っていることばで、書かれてこなかったことばは存在しない。武田が書いていることばで、武田自身が読んだこと、聞いたことのないことばというものは存在しない。すべては武田ではなく、「詩」「本」にオリジナルがある。他人、世界のなかにオリジナルがある。
 武田が採用した「*」「……」という「伏せ字」の表記、その構造も、もしかしたらどこかに起源があるかもしれない。
 オリジナルはどこにあるのか。武田が詩を書く理由、書かなければならない理由がどこにあるのか。

 ことばはすでに書かれてしまっている。ところが、すべてのことばが武田によって読まれてしまっているということはないし、また、あらゆる人が書かれたことば、すでに存在することばをすべて読んでしまっているということでもない。人はあることばを読み、あることばを読まない。ことばはすべて書かれてしまっているが、どのことばを読んだか、どう読んだかは人によって違う。そこに、武田の入り込む余地がある。武田がオリジナルを発揮する場がある。
 武田が書くことばは武田が読んだものである。ことばを中心にして、すでに書かれたことばと武田が対峙する。その対峙の構造が「詩」である。
 「……」が先行する行、そして次の来る行の長さと正確に対峙していることは22日の日記にすでに書いた。この正確な対峙が武田にとって「詩」である。「……」が武田にとっての「詩」である、とはそういう意味である。

 すでに書かれてしまっていることば、そして武田が読んでしまったことばのなからか、あることばを選び出し、そのことばでひとつの世界を構築する。そのことは別のことばで言えば、すでに書かれてしまったことばで、まだ武田が読んでいないことば、それを組み立ててつくりあげることができる世界の可能性を、武田は「隠してしまう」ことである。武田があることばをつくって世界を構築するとき、そのことばをつかって構築されるはずだった別の世界が見えなくなる。ことばは常に、何かをあらわすと同時に、何かを隠す。そして、それはあらわすことと隠すことが常に対峙することで世界そのものとなる。
 対峙をつくりだす存在としての武田。それこそが「詩」なのである。

聖なるジャンヌは猥らなジャンヌの投影であろう

 という行が42ページに出てくる。この「聖なる」「猥らな」という対極のことばの向きあいが象徴的だが、どんなことばも対峙するのである。
 この行には武田のことばの運動を象徴するような「投影」という表現もある。
 「*」「……」は書かれたことばの投影であり、書かれたことばは「*」「……」の投影である。それが対峙して「世界」を立体的にする。奥深くなる。豊かになる。
 かかれたことばが世界なのか。隠されたことばが世界なのか。互いに投影しあっているのが世界なのか。互いの投影を認識するのが世界なのか。この疑問に対する答えは出ないだろう。--そして、この答えの出ない疑問ということが、武田の、「*」「……」「投影」とは別の、非常に重要なことば、「キーワード」を浮かび上がらせる。

月は望で終るのか朔で終るのか。(109ページ)

空が青いのか 雲が白いのか
問うている 問われている    (119ページ)

 「か」。疑問をあらわすことば。「問う」ということにつながることば。

 武田はことばを問うているのである。流通していることば。それはなぜ流通しているのか。「詩」はことばに対して、常に、そのことばでいいのか、と問うことなのである。「*」「……」はほんとうはどう書かれるべきなのか。書かれたことばはほんとうにそのことばでよかったのか。それとは違った「*」「……」ではないのか。
 こうした問いは、テキストを読み直すことがそのまま「詩」であるということをも告げている。
 テキストを読むとき、私たちはテキストのことばに私を投影しているのか。それともテキストのことばが私たちになにごとかを投影してきているのか。そういう疑問を持つことのなかに「詩」がある。
 そういう疑問を活性化させるために、武田は「*」「……」という表記を用いるのである。


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博多座「二月花形歌舞伎」

2007-02-23 00:19:18 | その他(音楽、小説etc)
 博多座「二月花形歌舞伎」。昼の部。市川海老蔵「高時」、尾上菊之助「春興鏡獅子」、尾上松緑「蘭平物狂」。
 次代の歌舞伎界を支えるといわれる3人。尾上菊之助「春興鏡獅子」が一番おもしろかった。特に女小姓・弥生が獅子にとりつかれていく場面がつやっぽい。若さがそのまま輝きになって、せつない。獅子にとりつかれ、自分の肉体なのに自分で制御できない、そのアンバランス、無理強いされて動く肉体が、若さゆえのしなやかさを引き出している。蝶にさそわれ獅子が目覚めるときの、不規則な躍動。蝶に誘われるように花道を走るそのスピードの滑らかさ。そうした場面に眼を奪われた。獅子の精の舞は、弥生の印象が強すぎたせいか、勇壮というよりは、軽い感じがした。肉体を酷使している感じがない。歌舞伎の魅力というのはいろいろあるのだろうけれど、普通の人ができない動き、無理な姿勢、無理な動きがつくりだす不思議な色気もそのひとつだと思う。それが感じられなかった。
 これは市川海老蔵、尾上松緑にも言える。「高時」の最後、異形の者が高時をなぶる場面など、オリンピックの床運動(言い過ぎだろうか)のような感じがする。尾上松緑「蘭平物狂」の花道での梯子乗りも軽々としていて立ち回りもサーカスの曲芸のような印象がする。ほーっ、というため息がでる感じにはならない。
 歌舞伎に限らないだろうけれど、芝居というのは、やはり役者の肉体を見るところ、見せ物なのだと思った。若いと何をしても、苦しまない。肉体の若さが、動きの苦しみを弾き飛ばしてしまう。肉体が、動き、苦しみ、その苦しみが、観客の肉体の苦しみを浄化するのが芝居なんだろう、などと考えた。
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武田肇『詩史または本の精神』(1)

2007-02-22 21:51:48 | 詩集
 武田肇『詩史または本の精神』(銅林社、2007年04月01日発行、非売品)。
 仕掛けの多い詩集である。詩である。詩のタイトルにまず仕掛けがある。最初の作品は、

眼をつぶり喪に服し、**********************
********************************
********************************
**************************

と、「*」の伏せ字がずらずらつづいている。次の作品のタイトルも同じ。ただし、判読できる文字と伏せ字の位置は違っている。

**********八王子市の地図を僅かに傾けると、******
********************************
********************************
**************************

 この調子でつづく7篇の伏せ字「*」を次々に起こしてゆくと、

眼をつぶり喪に服し、八王子市の地図を僅かに傾けると、中国大連市の
地図に重なるのであり(なぜならそれはdeja vuの方位へ偏位するため
なのだが)、大連港が近い大連服装交易市場前の交通島にとつぜん出現
した巨大帆船をわたしたちの乗物はゆっくりと回転した。
  (谷内注・本文活字は正字体、「deja vu」にはフランス正字法のアクセントあり)

 という具合になる。そして詩集のど真ん中にはには、このタイトルで書かれている巨大帆船の写真も掲載されている。
 この写真を見たとき、どこかでそれについて書かれているのを読んだことがある、とうっすらとでも思い浮かべることができる人、あるいはその写真を見た瞬間に、それまでにに飛び飛びに読んできたことばが結晶するのを感じる人には魅力的な詩集だろう。
 一方で、武田は、こういう構造をとることで、記憶力がよければ、あるいはケレンや仕掛けというものが大好きな人には、その構造がわかるけれど、わからない人にはわからなくていい、と最初から宣言しているのかもしれない。
 この詩集には「……」がつづく行(ただし、それぞれの行の長さは不揃い)が無数に出てくるが、この「……」を注意深く読んだ人には、武田の「宣言」がわかるだろう。
 「……」にも仕掛けがある。「……」の数は任意の数ではない。不揃いである。不揃いには不揃いの理由(仕掛け)がある。「……」は常に2行の形で登場するが、その2行の1行目は前の連の最終行、2連目は次の連の冒頭行と長さがそろっている。
 武田は書かれたことばよりも書かずに伏せたことば「*」「……」をこそ読ませたい、読んでもらいたいと考えているかのようである。そして、実際に、伏せられたことばは永遠に伏せられているのではなく、私が今書いたように、実に単純な形で書かれている。
 ことばを伏せるというよりも、伏せるふりをして、視線をことばに引き寄せようとしていると言い換えた方がいいかもしれない。
 ひとは(と一般化していいかどうかは疑問が残るけれど)、何かが隠されていると知ったとき、それを知りたいと思うものである。隠されているものが何かわかったとき、それが期待に添ったものか期待を裏切るものかは別にして、それは印象に強く残る。そういう印象付けの操作を武田は張りめぐらしているのである。
 こうした試みを、なぜ、武田はするのか。
 たぶん、あらゆることばのオリジナルは武田の側に属するのではなく、すべてことばの側に属する、という考えが武田にはあるのだと思う。どんなことばも書かれなかったことばは存在しない。どんなことばにも既視感(デジャ・ビュ)が存在する。そうであるなら、最初からあらゆることばを武田の側に属させるのではなく、すでに存在しているもの(たとえば「詩史」あるいは「本」)にかえしてしまって、武田は「隠す」ことに専念するのである。
 あらゆることばは武田のものではない。「詩」や「本」のものである。そうであるなら、その「詩」「本」のなかのことば、無数のことば、そのどれを隠すか--そこに武田は武田のオリジナリティーをかけるのである。
 「*」「……」。この声に出して読まれることのない「表記」。それが武田の「詩」である。ことばであることを拒絶して動く精神。それが武田の「詩」である。

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川野圭子『かいつぶりの家』

2007-02-21 12:11:35 | 詩集
 川野圭子かいつぶりの家』(思潮社、2005年09月30日発行)。
 前半部分に掲載されている短い詩がとてもおもしろい。不条理なことがらというか、現実の日常ではありえないことがらが書かれているのだが、なぜか、不条理という印象がない。空想という感じもしないし、奇をてらっているという感じもしない。むしろ日常にぴったりくっついている感じがする。ありえないことなのに、「わかる、わかる」と言いたくなる感じがする。
 ことばのリズムが自然だからである。口語の、口からでまかせというと変だけれど、話しことばの「勢い」というか、「のり」というか、そういうものが「論理」を乗り越えてあふれているからである。日常の会話は「論理」というのもを無視しているわけではないが、「論理」に縛られるよりも、「それをいっちゃあ、おしめえよ」みたいな感じで動くときがある。「論理」よりも、なにか「論理」ではすくいとれない生な命を大切にするということが日常では、あるいは日常の会話では起きるが、そうした感じを、川野のことばは自然にかもしだしている。
 「にわとりと」。その1連目。

にわとりが二羽やってきた
一羽は元気が良いのだが もう一羽は
 どうも調子がわりい
という
 吹きっさらしの屋根の上で
 たった二羽で 鳳凰の真似して踏ん張っとったけえ
 はあ くたびれて 寒うて寒うて
ともいった

 「二羽のにわとり」は何かの比喩である。誰それの戯画化したものである、というようなことは考えれば考えられるのだが、そういう「意味」というか「論理」とは関係なしに、「吹きっさらしの屋根の上で/たった二羽で 鳳凰の真似して踏ん張っとったけえ/はあ くたびれて 寒うて寒うて」という口調が、その「誰それ」を超えて動く。「誰それ」も大事なのだろうけれど、「誰それ」よりも、その口調のなかにある「癖」のようなものが、人間の命そのものを感じさせる。「真似」ということばからの連想ではないのだが、人の物真似において、それがそっくり、と感じるのは、そこにその人の「論理」を感じるからではなく、「癖」を感じるからである。「癖」というのは「論理」と違って、他のことばでは置き換えられない。そのまま、丸飲みにして受け入れるしかないものである。「真似」によって表現されたものを受け入れるということは、他者をまるごと受け入れることである。他人をまるごと受け入れる「大きさ」が川野のことばにはあるのだ。
 詩はつづく。

わたしの行く方に ウロウロついてまわるので よく見ると
とさかは青ざめて 尾羽も手羽先もつぎはぎだ
外便所に行くと 薄暗い隅の方にうずくまっている
板張りの上に ポチリポチリと
何やら水っぽくて白いものを落としている
 ここんとこ ずうっと腹具合が悪うて
といった

 にわとりはこんことになると
 尻下がりいうて 長ごうはもたんのじゃが
と頭の片隅で思う

 「思う」。このことばは何気ないようで、とても深い。
 「思う」にはいろんな意味がある。「思考」ということばがあるくらいだから「考え」ともつよく通じることばである。この詩の「思う」は、しかし「考える」とは微妙に違う。「思う」は「心」という文字が含まれているので、私などは「思う」と「考える」を区別するとき、知らず知らず「こころで思う」「頭で考える」と区別するが、川野は「頭の片隅で思う」と書いている。川野は「考える」のではなく、あくまで「思う」のである。頭と言う肉体を、対象(にわとり)に重ねるのである。こころを重ねるように。
 そのときのことば。それは、やはり口語である。「にわとりはこんことになると/尻下がりいうて 長ごうはもたんのじゃが」。
 口語のおもしろさは、そのことばに生活が深く入り込んでいることである。ことばはもともと共同体のなかで共有され、つかわれるものだが、「口語」の場合は、その「共有」の度合いが非常に生活に密着している。そのことばがつかわれるとき、そのことばにともにある生活が浮かび上がる。
 「にわとりはこんことになると/尻下がりいうて 長ごうはもたんのじゃが」。これは川野が「頭」で思ったことばだが、そのことばは川野だけの思いで成り立っているのではない。川野はにわとりを何羽も何羽も見てきた。病気のにわとりを見てきたし、それが死ぬのも見てきた。同時に、そういうにわとりを見て、川野のまわりの人がどういうふうに言うのかを見聞きしてきた。ここには、そういう共同体としての記憶がある。ひとりでは経験できない「時間」の幅がある。幾世代にもわたる共同体のなかで、繰り返される経験によって、伝えられてきた「命」のありように関することばの集積がある。いわば「神話」がある。川野が書いているの口語は、そういう「神話」の断片なのである。

 川野の作品は、寓話、比喩として読むよりも「神話」として読むべきだと思う。「神話」として読むとき、そこに描かれている人間が「比喩」が「戯画」を超えて、いきいきと躍動する。
 たとえば「レタス幻想」。レタスを頭蓋骨(荼毘にふしたあとの骨)と見立てて書いているとも読める作品だ。腹が減ったし、レタスが自分を食べてもいいというので旅館の軒下の洗い場で洗いはじめるのだが……。その3連目。

いい加減で止めればいいのに
どうしても もう一回洗わなければと
しつこくバケツに水をはっていると
あるじが出てきて怒った
こんなことならもう旅館は止めてしまいたい
などと ぐちぐちと止めどなかった

 自分の旅館の軒下でレタスを洗うな、というのであれば、「こんなことならもう旅館は止めてしまいたい」というのは非論理的な怒りの表現であろう。しかし、人間の怒りというのは論理的なことばどおりには展開しない。そこに思いもよらぬ逸脱がある。脇道へそれることで感情を噴出させる。そういうことがある。怒りが、怒りの対象を批判することから外れて、自分の思いを「ぐち」として語りはじめるというような逸脱--そういうことを私たちは「経験」として知っている。そうした「経験」としての「神話」がここには描かれている。「論理」からはみだしてしまう「命の神話」がここには描かれている。

 川野は、「論理」からはみだしてしまう「命」「心」「思い」を日常の神話にすくい上げる名手である。
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大家正志「翻訳 ⑤ 死んだ男の」

2007-02-20 14:45:53 | 詩集
 大家正志「翻訳 ⑤ 死んだ男の」(「SPACE」72、2007年03月01日発行)。
 葬儀のあと、仲間がつどい死んだ男のことを語り合う。「思い出されるのは/死んだ男の細部ばかりで/細部を繋ぎ合わせても/祭壇の前の木箱の中で眠る男の全体像にたどりつけない」云々の行あとがおもしろい。

木箱の中のチップは組み立てれば
不意の人型となって立ち上がるかもしれないが
回収作業に忙しい僕らは
気にとめることもない

閉じこめられているのは人型チップと僕らの意識からこぼれていった大陸

祭りのあけた朝
回収される僕らの苦い記憶は
夜があけるたびに繰り返される奇妙な浄化装置のホースを食いちぎって
汚物合戦の実況放送をはじめる
プラスティック廃材の人型にむかって
脳が腐っている人間は清潔な空気を吐いている と
はらわたが美しい人間は心が腐っている と
(谷内注・本文は尻揃えの表記だがインターネットではうまく表記できないので頭揃えで引用した)


 ここに描かれているのは「死」ではなく「生」である。死に触れながら生を語るしかない。というのは矛盾だが、矛盾のなかにしか、ほんとうに語りたいこと、「真実」は存在しない。矛盾に向き合ったとき、こころが動く。その動きが、人間の命の頼り得る唯一のものだろうと思う。
 引用した部分の最後の2行「脳が腐っている/清潔な空気」「はらわたが美しい/心が腐っている」の2回の対比のなかで「清潔」「美しい」に向き合っていることばが、どちらも「腐っている」であることは、大家の思想を見つめるとき、重要なことがらかもしれない。
 また「腐っている」が「脳」「心」という抽象的なものであるのに対し、「清潔」「美しい」が「吐い」た「空気」(つまり、「息」)、「はらわた」という肉体に近いものであること、具体的なものであることも大家の思想を見つめるとき、重要なことがらだと思う。
 「心」は抽象的だが「脳」は抽象的ではなく、具体的な存在だという人もいるかもしれない。しかし、ほんとうだろうか。理科の解剖実験にしろ、料理にしろ、小動物や魚の「はらわた」を手で触ったように、「脳」に触ったことがある人間はどれくらいいるだろうか。「脳」はものを考える器官、こころはものを感じる器官という具合に、多くのひとは抽的にとらえているのではないだろうか。大家もそうだろうと思う。抽象的に考えているからこそ、最後の2行で「脳」と「心」がともに腐っているものとしてひとまとめにされている。
 ここから大家の思想をいくらかでもさぐってみるとすれば……。
 大家は「脳」とか「心」とか、抽象的なものの方が「腐る」と感じている。抽象的なものはほんらい腐らないが、そういう抽象的でありつづけるものの方が腐ると感じている。抽象を頼りにしないということだろう。一方、「息」(吐いた空気--これはときとして、臭い口臭でもある)「はらわた」というような、人間の肉体を具体的に感じさせるものを「清潔」「美しい」と呼ぶとき、そういう具体的なものの方が大家のことばを支えてくれると信頼しているということだと思う。
 この、大家が信頼しているものを、もっと自覚的に信頼するのだという方向でことばを動かしていくと、大家の詩は動き出すと思う。今は、抽象と具体の両方を見つめ、どちらへ動き出そうか、まだ定めきれていないように感じる。たぶん抽象についてなら、大家はことばをかなり自由に動かせるのだと思う。具体的なものについてことばを自由に動かすというのはむずかしい。具体的なものは常に抵抗してくるからである。どうしても安易な方向にことばは動いてしまうのである。



 私が今書いたことは、それこそ抽象的すぎたかもしれない。詩にもどって抽象と具体を説明しなおしてみる。たとえば、この作品の書き出し部分。

この夏
仕事仲間が死んだ
アルコール依存症だったので肝臓かとおもっていたら
リンパ腺のガンだった
死は単純に悲しいけれど
あれだけ呑みゃあ本望だろう

 これは具体的に見えるかもしれないが、抽象である。「アルコール依存症だったので肝臓かとおもっていた」ということばが象徴的だが、この「おもっていた」は「脳」でかってに想像していたということだろう。そこには具体的に「男」とのつきあいがない。たとえば肝臓が悪ければ手のひらに紅い斑点が出るとか顔の色がくすむとかという肉眼でとらえられる関係が浮かび上がってくるのが具体的な関係である。大家の発言か、仲間の発言かわからないが、ここで語られていることがらは、通り一遍の、そのあたりに流通している言語、抽象的なことばにすぎない。こうした会話をするとき、ひとは、その死んだ男と自分がどうつきあってきたかを語っていない。自分と切り離して見つめている。その男が吐いた空気(息、口臭)にも「はらわた」にも触れてはいない。
 こういう部分は、とてもつまらない。

 私が最初に引用した部分は、そういう流通している言語では「死んだ男」がとらえられない(全体像にたどりつけない)という自覚のあとの、自省である。
 最初に引用した部分のことばは、葬儀のあとの集いでことばにしても、誰にも通じないだろう。大家だけにしかわからないものを含んでいるだろう。いわば、大家の「はらわた」のようなものが出ているのだが、「はらわた」など普通は皮膚と皮下脂肪につつまれていて見えないから、そんなものを突然出されても「仕事仲間」は困惑するだけだ。だから、そういうものはそのときは隠したままにしておいて、大家ひとりになったときに、「詩」として書くしかなかったのだと思う。
 最初に引用した部分のことばは比喩に満ちていて、その比喩が何をあらわすのかすぐにはわからない。しかし、そのわからなさが、そのまま大家の「はらわた」なのだ。流通している言語にまみれて「腐っている」のではなく、まだ生きていて、清潔で、美しい「はらわた」なのだ。
 こうしたことばをこそ、もっと読みたいと思った。

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ビル・コンドン監督「ドリームガールズ」

2007-02-19 22:22:46 | 映画
監督 ビル・コンドン 出演 ジェニファー・ハドソン 、 ビヨンセ・ノウルズ 、 ジェイミー・フォックス 、 エディー・マーフィ

 ジェニファー・ハドソンが非常にすばらしい。ジェニファー・ハドソンのための映画といってもいい。声がパワフルで、ありったけの力で迫ってくる。感情というのは繊細なものであるけれど、その繊細さを伝えるために声が繊細であらねばならないということはない。むしろ逆に、力のかぎり叫ぶことでしか伝えられない繊細さがある。悲しみがある。嘆きがある。苦悩がある。怒りがある。愛がある。感情とは、もともとひとつではないのだ。いくつもの要素が重なり合ってうねっている。そういうものを「繊細」に表現することなどできない。ありったけの力で体の奥からしぼりださなければ、こころは傷ついてしまう。ころが傷つき、立ち直れなくなってしまったら生きていけない。だから、こころを解放するために力のかぎり声をしぼりだすのである。
 歌を奪われ、こころが傷つくだけではなく、肉体そのものが傷ついていく。はつらつとしていた目が沈み、苦悩する。豊かな声を生み出していた肉体はただの肥満した体になる。ところが、その肉体が歌を取り戻したとき、再びはつらつと輝く。太っているのはたしかに太っているのだが、目が、その太った姿をとらえない。忘れてしまう。目が、声に奪われてしまうのである。声は目には見えない。見えないはずだけれど、目でもジェニファー・ハドソンの声を聞いている。同時に、喉や舌や口蓋でも、ジェニファー・ハドソンの声を聞いている。私自身は、ジェニファー・ハドソンのような声は出せないが、その出せない声を、知らないうちに私の喉、舌、口蓋がなぞっているのである。肉体がまるごと、ジェニファー・ハドソンの声のなかに引き込まれてしまう。もう、耳も、目も、喉も、まったく区別がつかなくなる。一種の陶酔感覚におそわれる。酔ってしまうと、ぎょろ目も厚い唇も、それがぎょろ目であること、厚い唇であるとは感じられなくなる。ただ、生きている人間がいる、ということだけを感じる。生きている感情が、今、ここに輝いているということを感じる。感情には、ぎょろ目も厚い唇も何もない。あるのは真実の感情と取り繕った感情の差だけである。ジェニファー・ハドソンが歌を歌うとき、そこには真実の感情がある。だから、そこにある肉体もまた真実なのである。ジェニファー・ハドソンが歌うとき、そこには真実しか存在しない。
 一方、ビヨンセ・ノウルズはちょっとかわいそうな役である。ミュージックシーンの変化そのままに、彼女は「見える」シンガーを演じている。観客は、映画の中でも、そして映画の外でも(つまり映画の観客も)、ビヨンセ・ノウルズの歌を聴くというより見ている。視覚から陶酔しはじめる。ジェニファー・ハドソンが歌うとき、歌がクライマックスに近付くほど彼女が美人に見えてくるのに対し、ビヨンセ・ノウルズは歌いはじめも歌い終わりも同じ美人のままなのである。美人は美人のままで感動的ではあるのだけれど、見ている間に人間がどんどん美人になっていくのというのはもっと感動的である。ほれぼれしてしまう。ジェニファー・ハドソンが歌うたびに美人になっていくのは、ジェニファー・ハドソンは歌のなかで真実を発見していくからだ。どんな「美」も真実にはかなわないということかもしれない。
 ジェニファー・ハドソンにただただ感動した。

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清岡卓行論のためのメモ(26)

2007-02-19 21:45:24 | 詩集
 清岡卓行『パリの5月に』(思潮社、1991年10月20日発行)。
 「藤田嗣治の自画像」はタイトルに反して「自画像」について書かれた詩ではない。「自画像」(画家の姿)が登場しない絵について書かれたものである。画家の姿はそこにはないが、画家が描かれているよりも画家が描かれている--と矛盾的な言語で清岡はその絵について書いている。

しかし かれは
パリの古びた城門あたりの深沈とした風景
生活を彩る必需品や嗜好品という親密なる生物
そうしたものを視つめたいくつかの画面にこそ
おのれの姿は描かないが
おのれの心の真実をどこまでも映した
自画像の傑作を残しているのではないのか?

 清岡が芸術から読み取ろうとしているのは作者の「心の真実」である。

*

 「最後のフーガ」はランボーを描いている。清岡が見たランボーの「心の真実」とはなんだったろうか。
 清岡にとってランボーは、まず足と目の詩人である。

眼にうながされた足。
足にみがかれた眼。

 そのランボーが右足を失った。そのとき、眼は何を見たのだろうか。清岡は、ランボーの最後の旅をたどりながら、そうしたことを考えている。肉眼が見たものを次々に数え上げながら、清岡は次のように書く。

手術を受けたマルセーユの病院から 妹に宛てて
「結婚よさらば、家庭よさらば、未来よさらばだ!」
と 悲しみを抑えられずに
しかし優しい谺を待つかのように書いたのだった。
おお そのように屈折する回廊の暗がりにこそ
しいたげられた意志は みずから
せつなく燐光しなかったか?

あるいは

今きみは 肉体の苦痛のさなかに
愛のすさまじさを 隠しているのではないか?

 表面にあらわれた言語、その奥にあることばにならない言語。それを清岡は探している。それを探し当てるために、清岡は、表面にあらわれた言語をたどりながら、その表面にあらわれた言語をひとつひとつ捨てていくのだ。
 この長い詩は、清岡が、ランボーのことばと旅をたどりながら、それを捨て去り、ランボーの「意志」あるいは「愛」を探し当てようとする旅なのである。
 そして、次のようなことばとして結晶する。

ランボー
きみ自身もはや きみが奏で
異域の空に砕け散った すべての
狂おしいフーガを覚えていないかもしれない。
きみの異境への憧れには
快楽と同時に物憂い苦行の匂いがある。

 「快楽と同時に物憂い苦行の匂い」。快楽「と」苦行。「と」を強調する「同時に」。これは形をかえた清岡である。ランボーのことばを捨て去り、最後に残った「と」、「同時に」ということば。そのなかで、清岡はランボーと一体になるのである。
 この「快楽と同時に物憂い苦行の匂い」を清岡はいくつものことばに置き換えている。

それは
家庭と放浪のとだえることのない対位法。
自己実現と自己放棄のあえかな双曲線。
反キリストふうな荒寥への 反文学ふうな探検。
まるで疾患を探しに行くような 過熱を好む健康の矛盾。
疎外の極大化が自由であるという理念倒れの逆説。

 まだまだつづくのだが、「矛盾」ということばが示しているように、そこに描かれるのは「矛盾」の集積である。あるいは「逆説」の集積である。「矛盾」「逆説」と「と」によって結びつけられるとき、併存するのではなく、対立する形で存在する。「円き広場」の道の「両端」のように存在する。
 清岡は、そういうものを見ているのだ。
 ランボーは「円き広場」の放射状の道の両端を「と」によって結びつけるようなことばを発し続けたのである。「と」に立って見つめるとき、その両端は左右か、前後か、どちらであるにしろ、必ず両方へ方向に開かれたまま存在する。肉体はひとつである。それはどちらの方向にしか進むことはできない。しかし、肉体が右へ進みながら意識は肉体が選ばなかった左を意識し続けることができる。というより、たとえば肉体が前へ進みながら意識は後ろへ後退し続けるというような肉体と精神の矛盾によって、世界は広がり、その広がりのなかで、人間は眩暈を覚える。放心する。そして、その眩暈と放心のなかで、世界を一気に把握してしまう。
 このときとらえた世界は、ことばにすればかならず「矛盾」する。ふたつの方向、あるいは複数の方向に、常に開かれて存在するからである。


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青山七恵「ひとり日和(びより)」

2007-02-18 15:13:10 | その他(音楽、小説etc)
 青山七恵ひとり日和(びより)」(「文藝春秋」2007年03月号)。
 若いフリーターの女性の感覚をそのまま文体にした小説である。「小説」というより「日記」を読んでいる感じがする。登場人物が、「陽平」「吟子さん」「ヤブヅカさん」「ホースケさん」「藤田君」「イトちゃん」と敬称(?)や漢字表記の差を残したまま文章になっている。その敬称や漢字かカタカナかということのなかに、主人公と相手との関係の濃密さ、大切と感じているかどうかが漂っている。行間にそういう「感じ」を漂わせることを狙って書いている小説なのだろう。
 一か所、とても気に入った部分がある。

 夕食のあとすぐに藤田君は帰って行った。玄関先でわたしが頼んだとおりに、ホームの一番後ろまで歩いてきて手を振ってくれる。こんな夜がこれから何度もあるだろう、と感じさせる別れ方だった。手を振っていると、足の裏から何か温かいものが満ちてくるような、いい気持ちがする。隣で手を振っている吟子さんでさえ、不思議といとおしく感じる。

 特に「手を振っていると、足の裏から何か温かいものが満ちてくるような、いい気持ちがする。」が好きだ。ことばにならない安心感、幸福感のようなものが肉体にどんなふうに広がっているかを丁寧に描いている。ここでは「感じ」を漂わせるのではなく、しっかりと肉体のなかに掴んでいる。
 そして、この肉体の内部へ深く入っていく視線が、主人公の孤独を浮き彫りにしている。「自分」というものを受け止めるのは結局自分しかいないのだということを、そういうことばをつかわずに、静かに、しかししっかりと浮かび上がらせる。

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清岡卓行論のためのメモ(25)

2007-02-18 14:12:24 | 詩集
 清岡卓行パリの五月に』(思潮社、1991年10月20日発行)。
 「シャルル・ド・ゴール広場」。清岡はシャルル・ド・ゴール広場を歩きながら「円き広場」を思い出す。シャルル・ド・ゴール広場には12条の道路が放射されているのに対し円き広場は10条だったことなど、最初は違いだけが印象に残った。

 こんなふうに、相違点ばかりが気になるといったぐあいに、眼前のシャルル・ド・ゴール広場のなんらかの光景にたいし、大広場においてはそれと対照的に異っていた光景を、つぎつぎと頭のなかに思い浮かべたのであった。

 ところが……。

 しかし、やがて、わたしの背筋に感動が走った。それは、大きな円周を描くようにして歩きながら、シャルル・ド・ゴール広場を半周ほど巡ったころである。
 わたしは時計回りとは逆の回りかたをしていたから、歩く方向がきわめて微かな度合いであるが、絶えず左のほうへと転じられていた。足首や足の裏にときにごくわずかな違和が感じられるその歩きかたに、体全体がようやくなじんだころ、少年の日に大広場をやはり大きな円周を描くようにしてよく歩き巡っていたことが、ありありと思いだされてきたのである。
 おお、この歩行感覚は、まったく同じではないか!
 六十代のわたしと十代のわたしが不意に重なった。
 そのときである、わたしがパリの土を愛しはじめたのは。

 シャルル・ド・ゴール広場と円き広場は「外形」が似ているにもかかわらず、最初は重なり合わない。清岡は視覚的な描写が多いが視覚人間ではない。清岡の肉体感覚は視覚が基本ではない。もっと肉体の奥深い部分が清岡の認識、意識、感覚を支えている。
 円周を描いて歩く--その歩くときの肉体の全体の変化。そういうものを清岡は深く意識している。
 円周を描いて歩く、その歩き方が「体全体にようやくなじんだころ」、清岡は円き広場そのものを思い出すのではなく、その広場を歩いた十代の自分自身を思い出す。十代の肉体感覚を思い出す。最初に重なり合うのは、「六十代のわたしと十代のわたし」である。そのあとでシャルル・ド・ゴール広場は円き広場が、清岡の体のなかで(体全体のなかで)重なり合うのである。
 シャルル・ド・ゴール広場の外形と円き広場の外形ではなく、そこを円周を描いて歩く六十代の肉体と十代の肉体が重なり合う。その肉体の感覚、足首や足裏の感覚のなかでふたつの広場が重なり合う。いま、ここにある肉体(ひとつのもの)のなかに、十代の肉体と、十代の肉体があるいた円き広場が蘇り、その蘇りのなかでシャルル・ド・ゴール広場がリアルに感じられる。
 この瞬間を清岡は「愛」ということばで表現している。
 愛とは、自己と他者が一体化してしまうことを究極の世界として夢みるものだが、「愛」のなかで、清岡の六十代の肉体と十代の肉体が一致し、シャルル・ド・ゴール広場と円き広場が一致する。
 「愛」とは「と」によって複数のものが固く結びつくことである。融合し、ひとつになることである。

 この「愛」に先立つ部分、「相違点」を気にしている部分には、清岡の文体(あるいは感性)の特徴をしるしづける重要なことばがある。「頭」。相違点を清岡は「頭のなかに思い浮かべた」。それに対して一致点を見出したのは「肉体(足首や足のうらにときにわずかな違和が感じられるその歩きかた)」である。清岡は「頭」で一致点を発見するのではなく、「肉体」で一致点を発見する。そして「頭」で発見したものではなく、「肉体」で発見したものを、清岡は愛するのである。
 「頭」から「肉体」へ。その移行。移行するまでの「頭」の描き出すことばの数々。それは、やはり捨てるためのことばなのである。「頭」で見出していることば、発見していることばはすべて捨てる。清岡は、シャルル・ド・ゴール広場と円き広場との相違点をとてもこまかく描写しているが、それはすべて捨てるためのことばである。すべてを捨てないことには「頭」は生き続け、「肉体」を解放してくれないのである。「頭」で描くことができるすべてのことばを捨て去ったとき、「頭」に一瞬の空白がやってくる。そして「肉体」の「感じ」が蘇る。
 放心、驚き、眩暈……さまざまなことばで清岡は「頭」が空白になり、「肉体」だけが世界のなかへほうり出される瞬間を描いている。その瞬間に酔っている。その瞬間を「美」と呼んでいた。いま、その「美」が「愛」と一致した。清岡にとっては「美」と「愛」は彼の肉体のなかで一致するのである。「頭」のなかではなく、「肉体」のなかで。
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