詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ロブ・ライナー監督「スタンド・バイ・ミー」(★★★★)

2010-10-31 15:28:21 | 午前十時の映画祭

監督 ロブ・ライナー 出演 リヴァー・フェニックス、ウィル・ウィートン、キーファー・サザーランド

 冒頭、リチャード・ドレイファスの登場するシーンの風景が非常に美しい。山と原っぱ(丘?)の緑が美しい。いや、緑と書いたが、緑ではなく空気が美しいのだ。アメリカの田舎町。都会から遠く離れている。都会の匂いがない。都会はラジオから流れてくる音楽のなかにだけ存在する。それは田舎にとっては唯一のノイズだが、ノイズが逆に空気の透明さを輝かせる。音楽のノイズが透明な空気にあらわれて、きらきら光るエッジになる。そこにないもの、あってはいけないものさえ、美しく輝かせてしまう透明さ。それが、この映画のはじまりであって、またすべてである。
 4人の少年が、ふと聞いた死体を見つけにゆく。死体は、そもそもそこにあってはいけないものの代表だろう。あってはいけないものだけれど、だからこそ、少年たちを引きつける。そして、その死体を見に行きたい、見つけたいという欲望もまた、あってはいけないものだろう。あってはいけないのものだが、そういうものが純粋な少年をいきいきさせる。異様なことをする、常軌を逸脱する--そのことだけが人間に何かを教えてくれる。少年たちは無意識にそういうことを知っているのかもしれない。
 こういう無意識の危険、無意識の輝かしさは、あ、都会では無理だねえ。ニューヨークが舞台なら、こういう映画は成り立たない。
 田舎の、空気が透明な町だからこそ、こういうことができる。
 空気が透明ということは、その町で起きていることは、だれもが何もかも知っているということでもある。人間関係が、人間と人間のつながりが見える。誰と誰が兄弟であるとか、誰それの家は貧乏だとか、誰それの親は精神病院に入院しているとか--あらゆることが「見える」。見えていながら、ひとは時に知らないふりをするのだが、少年たちはそういう「ふり」をする術を知らない。少年たちは、その町の空気そのもののように、また透明なのだ。
 透明なままの少年たちが、しかし、小さな冒険の過程で少しずつ「不透明」を知る。実際にはいつも直面している「不透明さ」をより強く感じることになる。たとえば、ウィル・ウィートンは自分が父親に愛されていないという理不尽な思いに苦しんでいる。ノイズに苦しんでいるのだが、雑貨屋の男は少年の気持ちなど考えずに、死んでしまった兄をほめたたえ、そうすることで少年の存在を否定する。まるで、父親と同じである。ある価値観が、少年のありようをそのままでは受け入れないのだ。少年の透明さを受け入れるだけの、より深い透明さを大人はもっていない。
 リヴァー・フェニックスは給食代泥棒の濡れ衣を着せられている。盗んだ金は返そうとした。けれども、その金を教師に盗まれ、教師はその金でスカートを買ったらしい。「不透明なもの」が少年たちを傷つけている。少年たちをありのままみつめるのではなく、ある枠のなかに入れてしまって、自分たちの「暮らし」(価値観)を守るという「不透明さ」が、実は、世界に蔓延しているのだ。
 そこから、少年たちは、どうやって生きていくか--しかし、そんなことは、この映画は問題にしていない。ただ、その透明な少年たちが、透明なものを抱えたまま、互いにそばにいることを確認している。その時間を、ただ淡々と描いている。まるで、彼らが生きている町の自然そのもののように描いている。自然と呼応して生きている純粋な時間を描くだけである。
 木々の緑があり、川があり、光があふれている。そして町のそばには鉄道が通り、遠くの町(都会)とその世界を結んでいる。どの世界もどこかへつながっている象徴として鉄道はあるのだが、少年たちはまだ「鉄道」を持たない。鉄道ではなく(また、車でもなく)、ただ道なき道を歩いている。山と川との間を歩いている。
 いいようのない美しさにあふれる映画だ。いやだったこと、つらかったこと、悲しかったことさえ、透明さがあってはじめて見える輝きの一瞬と錯覚させる不思議な映画だ。あ、こういう時間はたしかに私にもあった--そう感じさせてくれる、なつかしい映画である。



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樋口伸子『ノヴァ・スコティア』

2010-10-31 00:00:00 | 詩集
樋口伸子『ノヴァ・スコティア』(石風社、2010年10月11日発行)

 詩とは何か。樋口伸子『ノヴァ・スコティア』には、その答えの手がかりが書かれている。「声と声」という作品。

「ノブコ ノブコ
心配せずに帰っておいで・父母」
六年前から十月になれば出るという
毎年からなず朝刊に出るという
ひとが教えてくれた尋ね人
あなたのことじゃないよねぇ
もちろん わたしのことじゃない
ちちははは死んで数十年
わたしはここにいる
ここにいます

信子さん おはよう
延子さん こんにちは
伸子さん こんばんは
宣子さん おやすみなさい
順子さん いただきます
暢子さん ごちそうさま

お元気でいてください
わたしの知っているのぶ子さん
わたしの知らないノブコさん
「ノブコ ノブコ 帰っておいで」
角を曲がると知らない声がする
つむじ風が吹く
大勢のノブコたちが
落葉にまじって舞い散る

六年たっても同じ呼びかけが
新聞の片隅に父母より
橋を渡るとき覚えのある声がする
「心配しないで帰っておいで」
水面 光 海猫の一群が
名を呼びながら旋回する
わたしのことかも知れない と思う
わたしのことにちがいない と思う
きっと帰ろう と思う
呼びかける声の方へ

 「ノブコ」が「わたし」ではないことを知っている。「頭」では、その事実はわかりきっている。なぜなら「わたし」の「父母」は死んでいる。だから新聞に尋ね人の広告(?)を出すことはできない。
 けれども、「わたしのことかも知れない と思う/わたしのことにちがいない と思う」。間違いであると知っていても、そう思ってしまう。それは「頭」で思うのではないのだ。「肉体」で思うのだ。
 樋口は、「ことば」へ向かって「思う」のではなく、「呼びかける声」の方へ向かって思うのである。「声」は「耳」で聞くものである。
 いま、ここにある耳は、その声を聞こえないと主張する。
 けれど、樋口の「肉体」のなかにある「耳」、いわば「肉耳」が聞き取るのだ。
 肉眼ということばがあるのだから「肉耳」ということばがあってもいいような気がする。しかし、ふつうにはそういうことばを聞かないところをみると、耳は目(眼)よりも無意識に近くて、肉といっしょにしか存在しえないものなので、だれも「肉耳」ということばを思いつかなかったのかもしれない。
 --眼は、耳に比べると肉体から分離し「頭」へと組み込むことができるものなのかもしれない。「百聞は一見にしかず」ということばがあるが、どうも「眼」の方が「耳」よりも「認識」においては信頼されている感じがする。「認識」において重要な役割を果たしているようである。眼は認識(頭)に結びついているというのは、そういう「ことわざ」からも窺い知れる。その「ことわざ」を逆に考えると、耳は眼よりも百倍も「認識」から遠い。「頭」から遠いことになる。
 その、「頭」から遠いもの、「声」の方へ樋口は接近していく。「肉耳」をたよりに、間違えることで、間違いの向こう側まで行ってしまおうとする。
 ここに、樋口の詩がある、そして、あらゆる詩がある、と私は思う。(あるいは、そんな具合に「誤読」したい、と私は思うのだ。)

 「頭」(知識)で整理すれば完全に間違っている。けれど、その間違いを「肉体」は自分のなかでねじ曲げて正しいものにしてしまう。「思う」ということばで、すべて「正しい」何かにかえてしまう。「頭」で「考える」のではなく、「肉体」で「思う」ことで、その「思う」のなかにある何か「正しい」ものをつかみ取ってしまうのだ。
 それは、この詩では「帰っておいで」という父母の「声」が持っている「正しさ」である。「帰っておいで」は実は「帰っておいで」というよりも、「いつでも受け止めるよ」ということばを言い換えたものである。ことばはいつでもさまざまに言い換えられる。そして、どんなに言い換えても、「肉体」はかわらない。「ノブコ」がいて「父母」がいて、その「肉体」があるとき、ことばがどんなに変わっても、そこでは「肉体」は出会うしかないのである。「肉体」と「肉体」が出会う。それが「帰っておいで」であり、ここには書かれていないが「受け止めるよ」ということなのだ。
 その「声」にならなかった「声」、「受け止めるよ」を「肉耳」は聞くのである。
 「声にならない声」とは、「ことばにならないことば」でもある。それは「ことばにならないことば」だから書かれることはない。つまり、眼で読むことはできない。ただ「肉耳」で聞くしかないのである。

 「ことばにならないことば」。それは「ことば以前のことば」であるときもあれば、「ことばを超えたことば」であることもあるだろう。どちらにしろ、その「声」を「肉耳」は「一聞」で納得してしまう。
 詩とは、「百見は一聞にしかず」という世界かもしれない。



 「肉耳」と「眼」。聞くことと見ること--そのことから樋口の詩を見ていくと「夏休み」はとてもおもしろい。

困ったものを見てしまった
八月の森の家で
ああ 困ったものを
見てしまった
空洞(うろ)になった古木の切株
大きな耳に似た突起
うちわに似たスピーカーに似た
樹の大耳が笑っている
あわてるな(消去 削除 取消)
見たものを消す呪文はないものか
耳が怖い あっても怖い
なくても怖い
計画的に眠りについた
計画的にたのしい夢を
おやすみ おやすみ
あれは空耳

 樋口は、まず「見る」。「見てしまった」と書いているが、その見たものとは古木の切り株の変な形である。それは大きな耳に似ている。
 それからが、とてもおもしろい。

樹の大耳が笑っている

 耳が笑う。こういうことばは「日本語」にはない。目で笑うということばはあっても、耳で笑うとは言わない。そして、たいていは口で笑う。笑うとき「声」が出る。
 「耳が笑う」は、「耳で笑い声を聞く」ということかもしれない。
 樋口は書いていないが、「見てしまった」のあと、見ることをとおして「聞いてしまった」のだ。笑い声を。そして、その「笑い声」は実は樋口の耳ではなく、「切り株の耳」が聞いたものである。「切り株の耳」が聞いたものを、「切り株の耳」が「笑っている」と勘違いする。錯覚する。
 そのとき。
 樋口の「肉耳」は「切り株の大耳」そのものである。「肉耳」は「大耳」になっている。区別がつかない。
 それは「笑い声」を切り株の大耳が「発している」のか、それとも「聞いている」のか区別がつかないのと同じことなのだ。
 区別がつかないことを「媒介」にして、「肉耳」と「切り株の大耳」は「ひとつ」になってしまうのである。
 そして「区別がつかない」ということを利用して(?)、樋口は、それを「空耳」といってしまう。幻だと、言ってしまう。目で見たもの、切り株の大耳の形をした突起は「幻」として消してしまうことはないが、聞いたことを、それはほんとうはなっかたもの、樋口の「肉体」のなかで何かが鳴り響き、それを勘違いしたもの--「肉体」のそとには存在しないもの、存在しない「音」としてしまう。

 それにしてもおもしろいものだなあ、と私は、ちょっと飛躍する。

 見たものをそのまま受け入れるのに、聞いたものを受け入れない。見たものを肯定しながら、聞いたものを否定する。それも、その音が存在しない、音が幻であるというかわりに、「耳」がニセモノであるという。
 「空耳」という。
 見たものが幻なら「幻影」という言い方ができる。聞いたものの場合はなんというのだろう。「幻音(げんおん)」というものがあるかどうか、よくわからない。よくわからないけれど、「幻音」のかわりに、肉体は「空耳」ということばを受け入れるのだろう。
 見たものは、それが幻であるときは、その対象のせいにする。しかし、聞いたものの場合は、対象を非難する(?)ことはしないで、自分の「耳」のせいにして「空耳」という。
 目(眼)と耳は、どうも変な力関係にあるなあ。
 そして、この変な関係を、樋口は「耳」にちかづく形で樋口のものにしている。そこから樋口の詩がはじまっている。

ざ ざ ざ

困ったものがやって来る
ざざ ざざざざ ざ
耳の行列が耳を振りふり
声もなく夜を笑いながら
聴き耳を立てて
森の家の窓に貼りつく

知らない知らない
あたしはなあんにも
おやすみ おやすみ
これも空耳

明ければ青ぞら 蝉のこえ
雲の帽子で頭をかくせば
空のことは空に聞け
耳のことは耳に聞け

 「見てしまった」ではじまった世界が「聞け」でおわる。ここにも樋口の「肉耳」の世界の特徴がよくでている。
 「見ろ」ではなく「聞け」。
 どこかで、何かが、ねじまがっている。まあ、そう言ってしまえば、無関係な読者としては安心だけれど、あ、おもしろいと感じてしまうと、ずぶずぶずぶずぶっと樋口の「肉体」の、眼と耳のさかいめのない世界へまで入り込んでしまったような気がしてくる。


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吉岡誠二『森の泉』

2010-10-30 00:00:00 | 詩集
吉岡誠二『森の泉』(アビアランス工房、2010年08月10日発行)

 吉岡誠二『森の泉』は感想を書こうかどうしようか、迷った詩集である。吉岡の書いていることばには、いわゆる思想のことばが混じりこんでいる。それも露骨に、誰が見てもわかる形で書かれている。私は、そういうことばに詩を感じることができない。
 「追想」という作品。

現実の世界で通用する言葉を自分に禁じた 自分の使う言葉は現実の負荷を一切帯びず別の負荷を帯びた言葉 真っ白な言葉あるいは余分な重力を帯びた言葉だと感じ続けた この体験が実は仏教の空の体験と同じものであるらしいことを ハイデッガーの現象学的還元と同種のものであるらしいことを やがてようやく知った 自己を投企するという言葉の意味 世界開在性 現存在(ダーザイン)という言葉の意味を知った

 吉岡にとって重要なことは「意味」を「知る」ことなのだと思う。「意味」を「知る」ことは思想を身につけることであり、その思想から世界を見つめなおしたときに動くことばが吉岡にとっての詩なのだろう。
 そうなのかもしれないけれど、私はそういうことばの運動には疑問を持っている。いや、正確ではないなあ、こういう言い方は。
 もし、吉岡のめざしているものがそういうものであると仮定して、それでも私には疑問が残ると言い換えるべきなのかもしれない。
 ハイデガーのことば、仏教の概念--そういうものを「知る」というとき、吉岡は何をとおして「知る」のだろうか。私は、「意味」を「知る」と吉岡が書いているとき、そこに「肉体」を感じることができない。「頭」だけを感じてしまう。「頭」のなかだけで動いて、「頭」のなかで完結することば。
 それは、「現実の負荷を帯び」ていないことばなのだろう。
 私は、「肉体」の負荷を帯びていない、と言い換えたい気持ちにかられているけれど……。
 私は、そういうものには、どうもついていけない。そこに詩があるとは思えない。そんな「透明」なことばの運動に詩を感じることができない。

 ハイデッガーのことば、「投企する」だの「世界開在性」だの「現存在」だのということばは、とてもかわったことばである。そのことばにたどりつくまで、ハイデッガーはいろいろな体験をし、彼自身の肉体を酷使していると思う。その肉体を吉岡はどう追体験したのか。どう吸収したのか。それが感じられないのである。
 「意味」は「知る」ものではなく、「肉体」のなかに吸収して、それが何であるかわからなくなるものであると、私は思っている。
 野菜を食べる。肉を食べる。それはどんなふうにして「肉体」のなかで私たちの筋肉になり、血になり、骨になるのか、まったくわからない。その「わからない」に達したとき、ほんとうに野菜を食べた、肉を食べたという状態になるのだと思う。
 ことばも、そういうものでなければならないと私は思っている。
 誰のことばであってもいいけれど、そしてそれがどんなに先駆的なことばであったとしても、その「意味」を「知る」というのは、「生きる」ということとはあまり関係がないなあ、と思う。詩とは関係がないなあ、と思う。

 吉岡は、ことばを、ことばそのものとして「意味」にしている。そして、自分はこれだけ「意味」を知っている。それは、これだけ「世界」を知っているということと同じである--と考えるのかもしれない。
 たしかに、知っているのだろうなあ。
 けれども、吉岡が知っていることなど、私は別に知りたくない。特に、それがハイデッガーのことばそのままなら、吉岡ではなく、ハイデッガーを読んだ方がいいかなあ、と思う。(難しい本は苦手なので、私は、きっと読まないだろうけれど……。)
 私は、むしろ吉岡の知らないことばを読みたい。いま書いていることばが何を書いているのかわからない、ということばを読みたい。

 別な言い方をしてみよう。「森の泉」という作品。

 あなたが森を歩いていく。あなたの美し
い存在そのものが、世界の苦悩のあかし。
あなたの静かな歩みが、あなたの悲しみを
めざめさせ、森の美しさをしみじみと心に
悟らせる。あふれる涙がこの泉をつくった
のだ。

 吉岡は「美しい」の「意味」を「知っている」。「意味」を「知っている」から、「美しい」と書けば、その「意味」がそのことばのなかからあふれてくる、そして読者に(たとえば私に)伝わると考えている。
 でも、そうじゃなんだ。
 吉岡がどれだけ知っていようと、それは吉岡の「頭」のなかで完結しているので、私にはぜんぜん見えてこない。吉岡が「美しい」ということばで「美しい」を追いかけているという運動しか見えてこない。
 「意味」は見えない、触れない。そういうものを、ことばだけで追いかける吉岡に私はついてはいけない。「美しい」ということばの「意味」が、吉岡と私とでは同じであるという保証はどこにもない。
 「意味」ではなく、「もの」が私は見たいのだ。

 ちょっともとに戻って言いなおすと……。
 たとえばハイデッガーのことば「投企する」ということばの「意味」。その「意味」が吉岡の知っているものと、私がかってに想像しているもの(ハイデッガーなんて、私は読んでいないので、勝手に想像する)が同じであるという保証はどこにもない。吉岡の知っている「意味」は、他の人が知っている「意味」ともまったく違うかもしれない。あることばの「意味」が同じであるという保証はどこにもない。
 それなのに「知っている」(知る)ということを出発点にされても、私にはどうしていいのかわからない。

 「頭」で書く詩人は吉岡以外にも大勢いるように私には感じられる。そういう詩人のことばは、私には、よくわからない。詩を感じることができない。


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佐藤純彌監督「桜田門外ノ変」(★★★★)

2010-10-29 23:55:21 | 映画
監督 佐藤純彌 出演 大沢たかお、柄本明、伊武雅刀、北大路欣也

 ちょっとびっくりする映画である。井伊直弼を暗殺する「桜田門外ノ変」。それは実にあっさりと実現する。始まってすぐに、いわばクライマックスの暗殺シーンがある。あれ、もうおしまい? 「十三人の刺客」を最近見たばかりだったので、そんな不思議な気持ちになる。ところが、そのあとが延々と終わらない。この映画、終わらないんじゃないか、と思うくらい終わらない。カタルシスにつながるストーリーがない。クライマックスがないのだ。
 では、おもしろくないか--といわれれば、そうでもない。なかなかおもしろい。そうなのか、昔の侍はひとりひとりが政治家だったんだなあ、と考えさせられる。(いまの政治家は、だれひとりとして政治家ではない。政治屋--政治で金を稼いでいる人間だね。)刀をつかって人を切るだけではなく、ことばでも堂々と相手を切る。論理を喝破する。説得する。共感を引き出す。毎日毎日、ことばの訓練をしているのだなあ、と感じさせられる。映画だから、まあ、凝縮したせりふ(ことば)になるのだと言われればそれまでだけれど、いやあ、なかなか重いなあ。
 まあ、それはさておいて。というべきなのか……。
 この映画がおもしろいのは、暗殺にかかわった水戸藩の侍たちを、ひとりひとり死なせていることである。「死にざま」ということばがあるが、ひとりひとりの「死にざま」をきちんと映像化している。最初の方に、暗殺直後、負傷した四人が逃げきれないと悟って自刀するシーンが出てくるが、その死はたしかに「死ぬことで生きる」という侍のこころをきっぱりと表現している。(生きざま、ということばが最近見受けられるが、これは「死にざま」こそが「生きる」につながることを知らないひとが思いついたことばだろう。)
 ひとが志をもって、自分のいのちを生きる。「生きざま」。それは、絶対にひとくくりにできないものである。たとえ井伊直弼の暗殺という「計画」のために団結していた人間であっても、それは「ひとくくりの団体」ではなく「一人一人」である。そのことを、この映画はしっかりと描いている。
 象徴的なのが、生き残った侍たちに死罪を言い渡すシーンである。七人(だったかな?)をひとりひとり立たせ、処刑場へ連れていく。それを省略せずに、ほんとうにひとりひとり描いている。正座してすわっている侍が「立て」と言われて立ち上がり、草履を履く。引き立て役の役人を呼ぶ。処刑場へ連れて行かせる。そのひとりひとりに、字幕で名前と享年が表示される。
 歴史をつくるのは、ひとりひとりの人間である--という強いメッセージがこめられている。しかし、そのメッセージはうさんくさくない。ほんとうに、本心から発せられたメッセージである。
 あ、いいシーンだなあ、と思った。

 この映画で残念なのは、セットがいかにも安っぽいところである。背景に実感がない。武家屋敷や街並みの外観が安っぽい。室内はろうそくの明かりまでていねいに描いているのに、外のシーンは激しく手抜きである。
 侍たちをひとりひとりていねいに描くなら、風景もていねいに描くべきである。
 主人公の愛人を拷問するシーンの石など、発泡スチロールに色をつけているだけ、という感じだ。片手でもてるような軽い感じしか伝わってこない。こんな手抜きが、侍たちのいのちの重さを軽くしてはいないか。
 降ってくる雪がなかなか美しく撮れているだけに、とても残念である。
 また政治家批判が、国会議事堂の実写をまじえることで、露骨にでているのも、この映画を軽くしてはいないかと疑問を感じた。

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西岡寿美子「ことづて」

2010-10-29 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
西岡寿美子「ことづて」(「二人」287 、2010年10月05日発行)

 ひとは誰と、あるいは何と「いっしょに」生きているのだろうか。ひとりであっても、だれかと、あるいは何かと「いっしょに」生きてしまう。そして「いっしょに」は生きられない、ということもある。けれども「いっしょに」生きられないにもかかわらず、その「いま」「ここ」にいないだれか、存在しない何かと、ことばは「いっしょに」生きてしまう。
 西岡寿美子「ことづて」を読みながら考えたのは、そういうことである。

キンモクセイに十二
モッコク マキの下枝に五
今年わが二羽から十七のセミが生まれた
恐らくクマゼミであろう
ふた昔前はアブラゼミが主であったが

ツクツクボーシやカナカナを
ここから巣立たせたいとずっと願って来たが
それは叶わないことらしい
あれらは種の中でも霊的な存在で
選ばれたどこかに彼らの聖地が卜されていそうに思える

数を頼むことなく
他が競う油照りの昼には声を発せず
人や鳥や虫のまだ起き出さない暁闇や
大方が黙す黄昏時にひっそりとうたを届ける
カナ カナ カナ カナ と
ツクツクボーシ ツクツクボーシ ツクイヨー ツクイ と

内に籠もる声の質からか
耳を潜めさせる間の取り方からか
何よりもうらさびしげな独りうただからであろう
あれらの声を聞くと遠くへ逸らせたわが心が
うつつの世界へと呼び戻される

 「いま」西岡はツクツクホーシの声を聞いているのだろうか。そういうふうにも読むことはできるが、私は聞いていないと感じて読んだ。
 「いま」「ここ」にはツクツクホーシはいない。どんなセミもいない。西岡はただセミの脱け殻を見ただけである。そして、ここにいないツクツクホーシを思っている。思うこと、想像することが、西岡にとって「いっしょに」生きることである。
 西岡はそして、ただ想像するのではない。その声をはっきりと自分の「肉体」のなかに再現する。実際に声に出すかどうかは問題ではない。声に出さなくても、「耳を潜めさせる間の取り方」を再現する。
 いや、その声を聞いたときの「肉体」を再現する、という方が正しいかもしれない。
 西岡はツクツクホーシと「いっしょに」いるのではなく、かつてその声を聞いて「耳を潜めさせる間の取り方」と感じてしまった「肉体」と「いっしょに」いるのである。
 その「肉体」は「心」そのものであり、「遠く逸らせた」ものなのだが、ツクツクホーシの声を想像するとき、その「心」と、その「心」をかかえこんだ「肉体」そのものが、「いま」「ここ」へ、つまり「うつつの世界へ」「呼び戻される」。

 何かを想像し、その存在を「いま」「ここ」へ呼び出すということは、「頭」の問題ではないのだ。それを体験したとき、感じたときの「肉体」そのものを呼び出すことなのだ。
 だれか、何かと「いっしょに」生きるのではない。「いま」「ここ」に存在しない「肉体」と「いっしょに」生きるのだ。

 たとえばきのう読んだ長嶋が、死んだ父を想像し、その「肉体」と「いっしょに」存在するとき、長嶋の「肉体」のなかには、父と「いっしょに」生きた「肉体」が呼び戻されている。だから、そのとき長嶋は父を感じるのではなく、父と「いっしょに」いた長嶋自身を感じるのだ。
 そして、そういうふうに過ぎ去った「とき」を感じること、過ぎ去った「とき」と「いっしょに」生きるからこそ、その「肉体」はこれから先に起きることも「肉体」の事実として知ってしまう。それは「予知」というようなものではない。「予知」をとおりこしている。「事実」として知ってしまうのだ。
 「肉体」が「過去」と「未来」をつないでしまう。

クマゼミやアブラゼミのような大型種は
まだ熱風の舞ううちに
路面にコロンと仰向いて果てているのを見るが
あの者らもうた盛りの予期せぬ生き倒れであろう
乾いて清げな身の処し方とは思えるものの

終わりも見えず
生まれ出る姿はなお露(あらわ)にせず
声さえも低く抑えた慎ましい者らも行ってしまった
そくそくといのち薄い思いがしてならぬ

カナカナよ
ツクツクボウシよ
お前らの帰るところはわたしの父母の住む世界ではないか
伝えておくれ
面影を両親(ふたおや)にそっくり写した子は
今年も肥松の束を宵闇で焚いていたと
ささやかな膳を座敷へ調えて待っていたと

 このとき「未来」は「時間」ではない。「時間」を超えてしまう。「死後の世界」までを含んでしまう。そこには「時間」などない。
 西岡はカナカナ、ツクツクボウシに「ことづて」をしているが、その「ことづて」を届けるのは、セミなんかではなく、「いま」「ここ」にある「肉体」である。「いま」「ここ」にはセミなどいない。西岡の「肉体」しかないのだから。

 生きる、と「私」の「肉体」を生きるだけではない。そのときだれか、何かと「いっしょに」生きている。そして、「いっしょに」生きていると感じたとき、その感じた「肉体」のなかには、「いま」「ここ」にあるのとは別の、時間を超えた「肉体」が存在していて、それは「私」を超える。「時間」を超える。そして、繰り返されてきた「肉体」になるのだ。「いま」「ここ」にある「肉体」のなかにある「肉体」が、西岡を超えて、世界へ広がっていくのだ。

 --同じことばの繰り返しなので、たぶん、この文章を読んだひとは、これはいったい何?と思うかもしれない。
 同じことばだけれど、同じではない、としか、私には言えない。
 カナカナ、ツクツクボウシとつながることで、死んでしまった父母に「ことづて」をする西岡の詩を読み、それに感動しながらこんなことを書くと矛盾しているように感じられるかもしれないけれど、私は「死後の世界」というものがあるとは考えていない。あるのはただ、「いま」「ここ」の「肉体」でけである。「精神」というもの、存在はしていない。ただ「肉体」だけが存在していると感じている。ただし、その「肉体」はいろいろな方法で「自分の肉体」を超えてしまうことがある、と信じている。その「肉体を超えた肉体」のことを、あるひとは「精神」と呼ぶのかもしれないけれど、私はそう呼びたくないのだ。「精神」と読んだ瞬間にはじまる「二元論」の世界が、私にはどうも納得できないのである。




北地-わが養いの乳
西岡 寿美子
西岡寿美子

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誰も書かなかった西脇順三郎(149 )

2010-10-28 10:57:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(149 )

 「失われたとき」のつづき。「Ⅲ」のパート。

ああ生命のあるうちにまた
少し歩いてみたいものだ
くるみをかめる人間はもう来ない

 私は何度も読み返してしまう。そこにある音の不思議さに読み返してしまう。3行目になぜ「くるみ」が出てくるのか。博識の研究者は出典を見つけ出してくるかもしれないが、この音の不思議さは出典では解明できないことだ。

くるみをかめる

 くるみをかむ、ではなく「かめる」。「め」が入ることで「くるみ」と「かめる」の音が3音でそろい、同時にか行、ら行、ま行の音が交錯することになる。そうすると「意味」ではなく、音--いや、発音器官の筋肉、神経が喜ぶのだ。「肉体」のなかで「音楽」がはじまる感じがするのだ。
 この音楽は、しかし、3行目で急にはじまるわけではない。1行目から静かにはじまっている。

ああ生命のあるうちにまた

 これは発声練習のようなものだ。「あ」の音が繰り返される。「生命」は「せいめい」とひらがなでは書くが、発音器官は「せーめー(せえめえ)」とゆったり動く。それは「ああ」からはじまる、音の解放と、解放の持続である。声帯をゆっくりひろげて、声をのびやかに出して、「あるうちにまた」と「あ」ではじまり「ま」「た」と「あ・あ」という母音の繰り返しでおわる。
 こういう音のつながりは、その行の「意味」が「生命のあるうちに」といういわば深刻(?)なものであることを裏切って、とても美しい。(あ、変な日本語になってしまった。)--言い換えると、「意味」を無視して、音が音として「音楽」をめざして広がっていく。その音の解放感が美しい。
 「あ」の美しい響きを通りすぎた発声器官は、どうしたって2行目で「あ」のつづきをほしがるものだ。「歩いてみたい」。ここには「あ」の交錯(「歩」いて、み「た」い)と「い」の交錯(歩「い」て「み」た「い」)がある。「あ」は「ものだ」の「だ」にも含まれていて、それは1行目の「また」の「た」と響きあう。
 こういう交錯、呼びかけあいがあって、「くるみをかめる」という音が自然にはじまる。
 2行目「ものだ」、3行目「もう来ない」の「も」の繰り返しもおもしろい。

 西脇のことばは「意味」ではなく、音の響きあいで動いていく。だから、3行目の「もう」を引き継ぎながら、4行目。

もう無限に来ないパー!

 無意味にはじける。解放される。
 前の行で「もう」をつかったばかりなのに、次の行でまた「もう」をつかうというのは、「学校教科書」の「作文」では「へたくそ」の部類に分類されるかもしれない。「学校教科書文法」では「意味」が優先されるからである。
 「意味」を優先してしまえば、「パー!」は絶対に許されないことばだろう。
 「パー!」って、何?
 わからない。わからないけれど、ここで「パー!」と唇を破裂させ、のどを開いて音を出すと、気分がいい。人が来ようが来まいが、そんなことはどうでもいい。

甘味にはちきれるいちじくの実も
黄金の栗も蟻とともに去つた
さいかちの古木の下に碑文を読む
流浪の学者も退職手当もなく去つた
存在するものも存在しないものも
問題でなくなりすべては去つて行く
すべてはせりふの音となつて
海の方へそよかぜのように去るパー!

 ここにも音そのものの繰り返しが何度もあらわれる。少しだけ取り上げると「去つた」「去つて行く」「去る」がある。「意味」としても繰り返されている。
 「すべて」の2行続けての登場という「へたくそ」作文も登場する。
 それは、すべて「せりふの音」--「音」そのものなのだ。
 「意味」ではなく、「音」がことばを動かしていく。

 「そよかぜ」というのは、そよそよと吹く風のことだから、厳密には季節に関係があいかもしれない。けれど、「日本語」の「歴史」(肉体)は、「そよかぜ」を「春」と結びつけている。「意味」的には「春」になってしまう。「いちじく」「栗」は「春」ではなく「秋」だろう。
 「意味」を重視してことばを動かせば、海の方へ去るのは「そよかぜ」ではなく、ほかの風になるだろう。
 けれど、西脇は「そよかぜ」と書く。
 それは、それまで動いてきたことば、その音のなかに「そよかぜ」の「そ」、さ行と呼び掛け合うことばがたくさん出てくるからである。



最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社
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青山かつ子『野菜のめぐる日』

2010-10-28 00:00:00 | 詩集
青山かつ子『野菜のめぐる日』(水仁舎、2010年10月25日発行)

 「比喩」を超えることばがある。「比喩」は、いま、ここにないものを借りて、いま、ここにあるものを特別な存在にかえることばの運動だが、そういうときの「いま」とか「ここ」とか「ある」とか「ない」という意識をたたきこわして、「肉体」をぐいとむきだしにすることばがある。
 青山かつ子『野菜のめぐる日』の「父」。

父の骨をひろう
「なんどか足を折っているのにたいした骨だ」
自分の骨をつまみながら
父はしきりに感心している
とうさんはもう死んでいるのよ
ともいえずに
いっしょにつまんだ骨を骨壺に入れる

 ここに書かれている「父」は「比喩」ではない。つまり、「いま」「ここ」にいないのではなく、まさに「いま」「ここ」にいる。それは骨になって「いま」「ここ」にいるのではなく、青山の「肉体」になって、「いま」「ここ」にいる。青山の「肉体」は青山であって、青山ではない。青山と「父」とが「一体」になって、「いま」「ここ」で父の骨をひろっている。
 この「一体」の状態を、青山は「いっしょに」ということばにしている。
 「いっしょに」ということばが、たぶん、青山の「思想」なのである。

 青山は、昔、父から何度も足の骨を折ったという話を聞かされたのかもしれない。足の骨を何度も折ったけれど、ちゃんと歩いて、働いている。たいした骨ではないかそういう記憶が「肉体」のなかから甦って、父がこの骨を見たら、きっと「なんどか足を折っているのにたいした骨だ」というに違いない。その「確信」が「いっしょに」ということにつながるのだが、青山の「いっしょに」はそれだけではない。
 きのう読んだ、つる見の「一体」に「なる」の「なる」とは、ずいぶん違っている。

とうさんはもう死んでいるのよ
ともいえずに

 「一体」のなかでも青山の、青山自身であることは消えない。「一体」とはいうものの、融合しない。「父」がいて「青山」がいる。ふたりがいる。つまり、「区別」が存在する。
 ひとつの「肉体」なのに。そしてひとつの「こころ」なのに。
 でも、これは、不思議ではなく、当然のことなのかもしれない。和泉式部は、恋を歌って、こころは千々に砕けるけれど、ひとつも失せはしないと嘆いた(苦しみ、同時に喜びを感じた)が、青山の「いっしょに」は、その砕けたこころの数のようなものである。対立(?)したまま、同時に存在することができる。
 それは、少し角度をかえて見つめなおすと、「肉体」は対立するもの(矛盾)を「いっしょに」かかえこむことができる力をもったものであるということにある。
 「対立」を「いっしょに」かかえこんでいるからこそ、2連目がある。

のど仏を入れ終えると
父は熱い骨壺を抱いてはなさない
わたしが持っていくというと
自分の始末は最後まで自分でするといってきかない
頑固さは死んでもなおらない

 「青山」と「父」は「いっしょに」いると必ず「対立」する。そして、その「対立」を青山は、「死んでもなおらない」と思っている。思いつづけていた。だから、父が死んだいまも、青山の「肉体」のなかで、「父」は我を張っている。そして、それに対して「青山」は同じように我を張って、「頑固さは死んでもなおらない」と言い放っている。
 いいなあ、この関係。
 「肉体」は家族が住む一軒の家のように、また複数の人間といっしょに住む「場」なのだ。そして、我というか、こころというか、そういものは「対立」していても、家族が「いっしょに」一軒の家にいるように、他者もまた青山の「肉体」にいっしょにいることができる。
 青山の「肉体」は人間とは(あるいは、そのこころは、というべきなのか)、対立するものであると知っている。対立するものだからこそ、別々の肉体を持って生きている。けれども、その肉体は互いに触れ合い、触れ合うことで他者を自分のうちに招き入れ、「いっしょに」生きるということができる。「肉体」は何でも受け入れることができるのだ。特に、愛していれば。愛、なんて、特別に意識もしないままに。

 この「肉体感覚」はすごいなあ、と思う。この「肉体の思想」はすごいものだと思う。そういうすごい思想を、青山は「とうさんはもう死んでいるのよ/ともいえず」とか「頑固さは死んでもならない」とか、日常のことばそのままで、言語化してしまう。
 こういうことは、流行の(もう、流行もしていないか……)フランス現代思想のややこしいことばよりもはるかに強烈で、すごい。
 青山がこの詩で書いたことばは、100 年たとうが200 年たとうが、父と娘が生きている限り、同じようにして甦る(生きつづける)ことばである。「肉体」として引き継がれていくことばである。

 このあとも、とてもおもしろい。(おもしろい、という表現が的確かどうかわからないけれど……。)

奪い合っているうちに落としてしまった
割れて散らばる骨
頭蓋骨 鎖骨 胸骨 肋骨
なきながら形のない骨をつまむ
大腿骨 座骨 頸骨 手骨…
なみだはまたたくまに
白い骨にしみこんでいく

父はかすかに笑いながら
むこうに消えた

 骨をひろい、骨壺をだれが抱えるか--というところまでは、「父」が「青山」の「肉体」に入ってきていた。ところが、骨壺を落とし、骨をあらたにひろいはじめると、直だが零れ、その涙となって、青山は「父」の「骨(これは、父の残された肉体である)」に「しみこんでいく」。
 青山は父の骨のなかで「いったいに」なる。骨といっしょに生きる。
 「父」が消えたのではなく、ほんとうは「青山」が消えたのだ。このとき青山は「肉体」を失っている。涙になってしまっている。涙だけが存在し、肉体は消えている。
 けれど、それを「父は(略)/むこうへ消えた」と書いてしまう。「父」と「青山」は、いつでも「いっしょに」いるから、それは、どう書いても同じだ。だから、そう書いてしまったのだ。

 父と青山はいつでも「いっしょに」いる。父はむこうへ消えたふりをしながら、いつでも、「ここ」へ帰ってくる。「五月」という作品。

風呂場から鼻歌が聞こえる
いつ戻ったのか
父は籾をつめた麻袋のかたちで
湯船につかっている

あの世にいっても
今頃になるとじっとしていられないのは
いかにも貧乏性の父らしい
肩に湯をかけながら
いちども背中を流したことがなかった と思う

-そろそろだな--
みると籾の先端が割れて
うっすらと父の体が萌えている

ホタルブクロが咲き
かっこうが鳴いている

父のいのちが
いちめんのみどりにそよいでいる

秋になったら
まっさきに「ひとめぼれ」を供え
わたしはつややかに光る
父をたべる

 青山は父といっしょにこめづくりをしたことがある。(手伝ったことがあるのだろう。)五月になれば、父がしていたことが思い出される。肉体のなかに父が甦る。その父は、「父」という作品にでてきた父そのままに、「精神」なんかではなく、やっぱり「肉体」である。その「肉体」は、どこかで、つる見の肉体にもつながった部分をもっていて、父は父であると同時に、種籾であり、そこから育っていく稲であり、米である。父は父がつくっている「米」と「一体」である。(いっしょに、ではない。)
 だから、青山は、秋になって新米がでれば、それを「父」としてたべるのである。そうして、青山の「肉体」にとりこむ。
 そのとき「米」と「肉体」は「一体」になる。けれど、きっと、父は「一体」にはならず、「どうだ、おれのつくった米うまいだろう」と「いっしょに」青山とごはんをたべるんだろうなあ。青山は「何いってんの、わたしが炊いたからおいしいのよ」と口答えするかもしれない。

*

 詩集発行元の水仁舎の住所は
 東村山市久米川町2-36-41



詩集 あかり売り
青山 かつ子
花神社

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マイケル・ホフマン監督「終着駅-トルストイ最後の旅-」(★★)

2010-10-27 16:47:27 | 映画
監督 マイケル・ホフマン 出演 ヘレン・ミレン、クリストファー・プラマー、ジェームス・マカヴォイ、ポール・ジアマッティ、アンヌ=マリー・ダフ、ケリー・コンドン

 私はトルストイを1冊も読んだことがない。で、トルストイ主義というのも実感がない。映画でみるかぎり、社会がリアルに描かれていないので、非常に抽象的にしか感じられない。絵空事の博愛主義にしか感じられない。トルストイはともかく、とりまきが主義を具体化しようとする根拠のようなものがさっぱりわからない。ほんとうは、働かずに、社会に役立っていると思いたいだけ?
 ヘレン・ミレンの熱演だけが印象に残るなあ。その熱演も、まあ、悪く言えば周りがあまりにもぼんやりした演技をしているからだね。まわりの人から、肝心の「トルストイ主義」がまったく感じられない。だから、三大悪妻といわれるトルストイ夫人だって、全然悪妻には見えない。トルストイを愛しているのに分かってもらえない悲しみがつたわってくるだけ。
 トルストイ主義者(信奉者?)の若い男女の恋愛がサブテーマとして描かれるけれど、これも変だね。トルストイの「博愛主義」のアンチテーゼ? で、トルストイ主義を破っていく力があるのかな? それともトルストイ主義に屈した? なんとも中途半端。童貞が、初めての女性を忘れられずに泣きついているだけのように感じられるが、それがトルストイの若い時の姿?
 わからないことだらけだ。
 まあ、ロシアの自然は美しい。白樺が特に美しい。透明な、冷たい空気があって、その木肌も葉っぱも輝くんだねえ。


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誰も書かなかった西脇順三郎(148 )

2010-10-27 11:31:50 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。

 俗なことば、といっていいのかどうかわからないが、西脇の詩には、私の感覚からすると「俗なことば」が頻繁に出て来る。

リキュア・グラスのようなヴィーナスが
山際にふるえる九月の夕方近く
無限に近い悲しみを背負つて
すみれ色の影のある壁によりかかつて
永遠にふるえる存在の涙をさがした

 「涙」ということば自体は「俗」ではないかもしれないが、「悲しみ」「すみれ色」「影」ということばといっしょになると、非常にセンチメンタルになる。「意味」よりも先に「感情」があふれてくる。
 こういう「感情」に「無限」「永遠」「存在」という堅苦しいことばがぶつかる。そうすると、センチメンタルもつきつめ方しだいて「哲学」になるような気持ちになる。一瞬、「感情」が破られたような気持ちになる。
 あ、でも、私のこの書き方は、間違っているね。
 西脇は「無限」「永遠」「存在」ということばを先にもってきて、それに「悲しみ」「すみれ色」「影」「ふるえる」「涙」をぶっつけている。
 「無限」「永遠」「存在」は、西脇にとって「哲学」のことばではなく、センチメンタルなことば以上に「俗」なのものなのかもしれない。その「俗」を悲しみ」や「涙」という「俗」で破ろうとしている。
 だから、「涙」という「俗」なことばが、それ自体では「俗」なのに、この詩のなかでは「俗」ではなく、もっと違うものになる。
 なんといえばいいだろう。
 粗野--ちがうな。荒々しい何か。野蛮--あ、きっとそうなのだ。野蛮なのだ。
 西脇は野蛮の美しさ、強さを書いているのだ。

 「背負つて」「よりかかつて」という脚韻(?)の響きを「さがした」が破るとき、その「が」という濁音がとても美しい。ここでいったん世界が完結する、という印象がする。「無限」「永遠」「存在」に呼応する漢字塾語の動詞では、野蛮は見えてこない。「さがした」という日常のことばだからこそ、それは美しい。

 野蛮がいったん成立すると、むきだしになる「いのち」、汚くよごれたものが「俗」から「聖」にかわる。

神聖なものはこのとうもろこしと
この乞食のつぶれた帽子だけになつた
野ばらのとげに破れ
やぶじらみがついた
この冠だこの夕暮の冠だ

 「乞食」「やぶれた(帽子)」「とげ」「破れ」「やぶじらみ」。破れ目からのぞくのは、しぶとい「いのち」である。「いのち」があざやかに見えてくる。
 それは、真っ白な肌に流れる血のように赤い。鮮烈だ。



西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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つる見忠良「黒仁田の風」

2010-10-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
つる見忠良「黒仁田の風」(「歴程」571 、2010年09月01日発行)
               (つる見の「つる」は「雨」冠に、「金」と「鳥」)

 つる見忠良「黒仁田の風」は「想像する」という「過程」がない。「現実」があって、それをはっきり見るために「仮説」を導入するとか、「現実」のなかに感じる違和感がことばを「ここにないもの」へと突き動かしていく、という運動がない。
 ことばが動くのではなく、いきなり「もの」が動く。

くろにたの ほそみち わすれみち
かぜが はかりしれぬ へびに なって
うずを まきながら わたって ゆく
あちらで あちらの たにが よんで いる
かぞえきれない きぎや くさやぶが
おおきな おおきな へびの てに なって
うれしげに どうどうと
なにもかもが ゆさぶられている
やまの そこが こきざみに ゆれている
もう ちょいとで
ぼくも とべる

 「へび」。この「へび」は「なって」ということばを出発点に考えるなら、「かぜ」が「へび」に「なる」わけだから、現実には存在しないもの、「比喩」としての「へび」であるはずなのだが--私の「頭」はそう理解しろというのだが……。
 なんといえばいいのだろう。
 「比喩」という「構造」、「比喩」という「精神運動」とは違ったものとして私には感じられる。私の「肉体」はそれを「比喩」の運動として受け入れることをいやがっている。言い換えると、「比喩」として理解する前に、私の「肉体」は「へび」そのものを見てしまう。
 「理解する」のではなく「見る」。見てしまう。詩のタイトルが「黒仁田の風」であるにもかわらず、私は「風」ではなく、「へび」を見てしまう。
 「はかりしれぬ」というのは「無数」ということかもしれないが、私には「はかることのできない・巨大な」という大きさで迫ってくる。数ではなく、一匹の巨大さ。長い長い、太い太い「へび」。それが見える。
 どれくらい大きいかというと、黒仁田の谷だけではなく、「あちらの」谷間でつないでしまうくらいの巨大な長さである。そこまで大きくなると、それは「想像」の産物でしかない。「空想」でしかないはずなのに、「想像・空想」ではなく、ほんとうに巨大な「へび」が見えてしまう。目が、その存在を要求している。
 そんな巨大な「へび」などいるはずがないから、その「へび」はまたありえない「世界」を呼び込んでしまう。「きぎや くさやぶが」「へびの てに なって」しまう。蛇に手などありはしないから、「頭」で考えるとこれは奇妙なことばの世界だが、私にはまったく奇妙には感じられない。とても不思議である。私の目は「へびの て」を見てしまうのだ。

 2行目の「へび」、そして6行目の「へびの て」は、きのう読んだ小島の詩と重ね合わせるようにすると、「その音の中に」と「たとえその音の中から」の関係に似ているかもしれない。
 「へび」という「世界」へいったん入ってしまったことばは、それを土台にして「へびの て」という世界へ突き進んでいく。そういう関係に似ているかもしれない。
 けれども、どこかが違う。
 小島のことばの世界はあくまで「比喩」という論理を動いている。構造を動いている。ところが、つる見のことばは「比喩」として動いていないのだ。

 言いなおすと……。

 この「かぞえきれない」から「ゆさぶられている」までの4行は、「学校教科書」の「文法」では、少し奇妙である。
 数えきれない木々や草藪が蛇の手になって、何かを「揺さぶっている」ではなく、「揺さぶられている」。「論理」が破綻している。「比喩」ではない、というのは、たぶん、この「論理」の破綻と関係があるのだ。
 「比喩」というのは、もともと「いま」「ここ」にないものをつかって、「いま」「ここ」にあるもの語る「技法」である。「ない」という意識が明確にあり、それを「ある」にかえる。それが「比喩」である。
 きみの瞳はダイヤモンドであるというとき、ダイヤモンドは「ここ」にはない。「ここ」というのは「瞳」のことである。瞳はダイヤモンドではないからこそ、ダイヤモンドが瞳の「比喩」になる。存在しない(ない)ダイヤモンドを「ある」にかえ、あると仮定する力のなかへ聞き手を誘い込むのが「比喩」である。
 そして、「比喩」が成り立つとき、そこでは「論理」が一貫している。瞳とダイヤモンドは明確に区別されている。
 ところが、つの見のことばは、「比喩」のもっているはずの「区別」を失っている。「ある」と「ない」がどこかで結びつき、「一体」になり、区別がつかなくなっている。
 「へびに なって」「へびの てに なって」の「なる」は「比喩」ではないのである。
 いや、言いなおそう。
 それは「かぜ」が「へび」に「なる」のではなく、「かぜ」と「へび」が「一体」になるのだ。それは「へび」ではないのだ。「かぜ」と「へび」が一体になった、なづけられないもの、新しい存在そのものなのだ。「へび」は「比喩」ではなく、「かぜ」と「へび」が一体になりに、融合した、新しい「存在(もの)」なのだ。
 それは、「頭」では理解できないものだ。それは、ただ「見る」ことしかできないものなのだ。
 「へびの て」も同じだ。もともと「へび」に手などありはしない。したがって、それは「比喩」には最初からなりようがない。「て」は「比喩」ではなく、「存在(もの)」なのだ。
 「へび」と「きぎ」「くさやぶ」が「一体」になったもの、区別のつかないものが「へびの て」であり、「へび」が「かぜ」と「へび」が一体になったもの、なづけられないものであるとき、「へびの て」は、「かぜ」「へび」「きぎ」「くさやぶ」の区別がつかない「世界」そのものである。そこに「かぜ」と「へび」がすでに含まれているから、その「て」は「かぜ」と「へび」に「ゆさぶられる」のである。
 そして、この「一体」となった世界は「ゆさぶられる」と同時に、「ゆれている」ということそのものになる。

 つる見は、この作品では「比喩」など書いていない。「頭」で世界を整理しているのではないのだ。
 黒仁田という土地と風をそのまま「肉体」でつかみとり、「ことばの肉体」のなかで、まだ名づけられていない「もの」そのものとして再現しているのである。いや、生み出している、というべきか。
 「かぜ」と「へび」と「きぎ」と「くさやぶ」が一体になる。こちらの谷も、あちらのたちも一体になる。そこでは、つる見自身が、「黒仁田」という土地そのものとも一体になっている。何もかもをゆさぶる「て」、ゆれている「て」は、当然つる見の「肉体」そのものでもある。
 「いま」「ここ」が「つる見」そのものなのだから、そこでは何でも可能である。つの見は「かぜ」になって飛ぶことができる。どこまでも、へびのように地を這いながら、同時に飛翔するという「矛盾」を一気に実現できる。

うれしげに どうどうと

 いいなあ、この実感。それは、つる見の肉体そのものの感覚なのだ。世界との一体感なのだ。一体感のあるところ、矛盾はない。
 矛盾は「頭」のなかなにだけあるものだから。




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誰も書かなかった西脇順三郎(147 )

2010-10-26 11:01:13 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「失われたとき」のつづき。

 西脇の詩には「哲学的」なことばがたくさんある。それはしかし同時に「音楽的」でもある。

たずねた人が留守であるほど
人間らしいなやみが
無限につづく
考えるということを考えるだけで
考えるものはなくなつて
時間もなくなつて空間ばかり
が永遠にはてしなくつづいていて
それがまた自分のとたろへ
もどつて来る悲しみは
人間の生命となつてまた悲しむ

 ここに書かれていること、考えるとなんだか深刻なテーマであるような気がするが、私は、まあ、そんなことは考えない。
 ここに書かれていることばが私は大好きだが、ふたつ理由がある。
 ひとつは「たずねた人が留守であるほど/人間らしいなやみが/無限につづく」の奇妙なことばの動きである。たずねた人が留守なら、私の場合、がっかりする、空しい、というような感じだが、そういうどうでもいい(?)ことを「人間らしいなやみ」と深刻に動かすこと、そしてそれが「無限につづく」とおおげさにいうこと。その「わざとらしい」ことばの運動が、「がっかり」とか「むなしい」を異化する。あ、そうか、「がっかり」を「人間らしいなやみ」といってしまうと、ことばの動き方が変わってきて、そのいつもとは違うという感じが詩なんだな、と思う。
 もうひとつは、そのとに繰り返されることば--ことばの繰り返しの面白さである。
 ことばは繰り返すと、同じことばのままでは存在しえなくなる。繰り返すたびに、意識のなかに「ずれ」がうまれてくる。前のことばと、次のことばのあいだに、反復による深みがうまれて来る。その深みはさっかくかもしれないが、そう錯覚することが、なにやら「思考」している気分を高めるのである。また繰り返すことで、ことばにリズムが生まれ、「思考」というような重苦しいものが軽快なダンスのようにかわる。
 西脇が「意味」を書いているかどうか、私にはよくわからないが、

考えるということを考えるだけで
考えるものはなくなつて

 という繰り返しは非常に楽しい。先に書いたこととは矛盾するのだが、繰り返しはまた、ことばから「意味」を剥奪してしまうのである。「深み」をうみながら、その「深み」を軽々と飛び越してしまう。
 この「深み」と「超越(飛躍、飛翔?)」の一種の矛盾が、西脇の詩を楽しくさせる。




西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)
クリエーター情報なし
慶應義塾大学出版会

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小島数子『模様』

2010-10-26 00:00:00 | 詩集
小島数子『模様』(私家版、2010年10月22日発行)

 小島数子『模様』は深い呼吸が感じられる詩集である。深いのだが、あまりに静かな呼吸なので、動いていることがわからない。どこが動いたのかわからない。そして、わからないままに、深呼吸したあとの、新しい肉体に立ち会うことになる。
 「金魚」がいちばんおもしろい。

風も吹きつけるものが鈴なら
面白いだろう
軒下に吊るされた
少女の笑みのような
赤い金魚の絵が描かれたガラスの風鈴は
時折吹く風に鳴り
その音の中に
金魚を泳がせる
そして
たとえその音の中から
金魚がいなくなったとしても
咎めないだろう

 このとき小島は「風」なのだろうか。「音」なのだろうか。「金魚」なのだろうか。たぶん、区別はない。そのどれもであり、同時にどれでもない。完全に融合している。融合したまま、動いている。
 ことばが方向を変える瞬間が2回ある。
 「その音の中に」の「その」。まど・みちおの「リンゴ」の「この」と同じように、意識がある特定のものに集中する。集中は別のことばで言えば他のものを排除するということである。余分なものを排除し、ある特定ものに「純粋化」する。そのとき、どうしても、そこには「世界」の「異化」がはじまる。それまでの世界が、いわば小島と、小島の周辺にいる不特定多数の人々(そこには私、つまり、読者も含まれる)に共通する世界であるが、「その」から先は、小島だけが見つめたオリジナルな世界である。もちろん、それは言語化することで他者に対して開かれてはいるが、「その」から先は小島が切り開くことで見えてくる世界である。

その音の中に
金魚を泳がせる

 これは、創造の世界である。実際の金魚はガラスの風鈴に描かれた絵であるから泳ぐことはできない。けれど、想像は、その現実をゆがめて、実際に泳ぐ金魚を思い描くことができ、また、ことばはそのありえないものをことばにすることができる。そしてことばにしてしまうと、そこには、いままでそこには存在しなかった世界が成立してしまう。
 ここから、もう一度小島のことばは方向を変える。

たとえその音の中から

 「たとえ」。これは「たとえ……しても」という文脈を必然的にかかえこむ。
 金魚が泳ぐがすでに想像、空想の世界であるのに、その空想に対して、もう一度「たとえ……しても」と仮定をつけくわえる。想像の世界から、もういちど想像の世界へと進むのである。
 この瞬間に、小島の深呼吸は、激しく、底なしに、世界そのものを吸収する。「空気」のすべてを吸い込んでしまう。もう、ここからは、小島の、さらに先に進んだ小島が見る世界である。。それはことばによってしか成立しない世界である。

たとえその音の中から
金魚がいなくなったとしても
咎めないだろう

 「その音」の中に「金魚」が泳いでいる。そして、その「金魚」が消えてしまういなくなる。「たとえ」そういうことがあった「としても」、「咎めない」。
 だが、咎めないというのは、だれが? 何を?
 これが不思議で、とても「深い」部分だ。

 小島は小島の想像力を咎めない、と私は読む。想像力は小島を裏切る形でおわるかもしれない。けれども、その想像力が(ということは、ことばの運動が、というのに等しいが)、たとえ小島を裏切ったとしても、小島はそれを咎めない。なぜか。想像力の動くままにことばを動かす、そのとき見えてくることばだけが可能な世界に、小島は、瞬間的に触れ、そのすべてと「一体」になるからだ。その深い体験のなかで、小島は、小島しか知らない世界とたしかに出会うからだ。

 ことばをとおして、ことばでしか出会えない世界に出会う。その世界は、たとえ小島を裏切ることになっても、小島はことばを咎めない。詩を咎めない。ことば、あるいは詩は裏切ることで人間を豊かにするのものなのだ。

 「地上」という作品に、とてもおもしろいことばがある。

三月のある朝
家の前の道に出ると
どこからかかすかにペンキの匂いがしてきたので
どこへ塗っているのか
どんな色なのか
想像しなければならなかった

 そんなことを「想像しなければならな」い、ということはまったくない。そんなことを想像しなくても人間は生きていけるし、それこそ誰からも咎められない--と一般的にはいえる。けれど、小島は小島自身に対して、そう言えないのだ。
 ペンキのにおいに肉体が反応する。その瞬間、ことばは動かなければならない。肉体をほうりだしたまま、そこにじっとしているわけにはいかない。想像し、それをことばにしなければ、小島の肉体は小島の肉体ではなくなってしまう。
 たとえ、その想像が小島を裏切ってしまうとしても、小島はそれを咎めない。咎めるかわりに、一瞬の、濃密な詩を生きる。そして、生まれ変わる。
 「地上」のつづき。

首を回して
空に響かせる頸骨の音
空にとって地上は
どうなってもかまわないものではないだろう

躰と心は
残すところなく
行くことを求めて

 「躰と心は/残すところなく/行くことを求めて」。どこへ行く? わからない。だが、それが「生まれ変わる」ことなのだ。ことばを動かし、そのことばを追いかける。現実の世界から、想像へ、さらにその想像の先の世界へ。それは、想像を突き破ってもう一度現実の世界を噴出させるということかもしれない。その世界で、小島は生まれ変わるのだが、そういう「再生」は「行く」という運動だけがたしかなのであって、「目的地」ははっきりしない。
 ただ「行く」ということだけが、小島にとっての「いのち」なのである。



詩集 等身境
小島 数子
思潮社


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ビリー・ワイルダー監督「昼下がりの情事」(★★★★)

2010-10-25 23:56:40 | 午前十時の映画祭

監督 ビリー・ワイルダー 出演 オードリー・ヘップバーン、ゲイリー・クーパー

 役者が美しく見えるのは無理をしているときである--と言ったのはだれだったろうか。映画ではなく、舞台の上での肉体のことを言っているのだが、それは役者、舞台、肉体に限定されるとは限らないだろう。人間はだれでも無理をしているときに美しく見える。楽をしているときにもそれなりの美しさはあるだろうが、無理をしているときの方が輝く。
 この映画のなかでは、オードリー・ヘップバーンが演じる少女自体が「背伸び」しているのだが、この「背伸び」を見ていると、それが「役」なのかオードリー自身なのかわからなくなる瞬間がある。「背伸び」(無理)が少女を通り越して、オードリーを輝かせる。特に最後のホームでの涙はまるでダイヤモンドである。
 無理をしているから、体が痛む。こころが痛む。それが涙になってあふれだす。(髪をショールで多い、頭から顔だけを抜き出した「絵」が、また、強烈である。何もかもが消えて、ただ潤んだ目、見開かれた目と、その輝きだけ、という感じが強烈である。)
 このシーンは強烈に少女を感じさせる。

 と、書いたあとで、こんなことを書くのは変かもしれないが、オードリーの魅力のひとつは「少年性」にある、と思う。
 痩せて、背が高いせいかもしれないが、オードリーの肉体は「女性」を感じさせない。「少女」も感じさせない。まるで「少年」である。その肉体が、恋のために背伸びをするこころを演じるとき、それはそのまま少年になる。
 少女ももちろん背伸びをするだろうが、少年と少女を比較したとき、少女の方が早熟である。肉体が精神を追いこして成熟する。そのために、少女の背伸びは「こころ」よりも「肉体」の背伸びとして具体化されることが多いと思う。少年は、少女に比べると、肉体は遅れてやってくる。「妄想」が成熟するだけ成熟して(暴走するだけ暴走して?)、それを肉体が追いかける。
 この映画では、「肉体」はキス止まり。暴走しない。成熟しない。そのかわり、「妄想」はどんどん過激に突っ走る。それが少年っぽい。この少年性ゆえに、オードリーは女性にとても人気があるのでは、と、昔考えたことがある。
 オードリーに「女性」としてのライバル心を燃やさないのだ。逆に、異性として恋してしまうのだ。オードリーのような恋を夢見ながら、実はオードリーのなかに異性を感じている。つまり、オードリーのなかで、恋が完結する。相手はだれでもいいのである。ゲイリー・クーパーは見るからに「おじいさん」だが、オードリーの恋を見ている女性観客はきっとゲイリー・クーパーなど見ていない。オードリーだけを見ている。「ローマの休日」でも「麗しのサブリナ」でも、オードリーからかけ離れた(?)グレゴリー・ペックやハンフリー・ボガートなど、きっと見ていない。見ていても恋の相手ではなく、オードリーの引き立て役としか見ていないだろう。観客が見ているのはオードリーのなかで完結する「恋」なのだ。彼女個人のなかで完結するから、「肉体」はキス止まり。それ以上は絶対に進まない。

 この不思議な完結性の美--それはまた別のことばで言えば、「未熟」の美しさかもしれない。未熟が美しいというのは奇妙な言い方だが、純粋ということでもある。完熟したものは矛盾を、毒を含んでいる。毒こそがあらゆる美の頂点かもしれないが、そういうものを排除した透明さ。そういう無理(人間が完熟することを拒むというのは、とても無理な生き方である)が、オードリーにはとても似合うということかもしれない。



 この映画を私は「午前十時の映画祭」で見直したのだが、1点、びっくりしたことがあった。原題が「Love in the Afternoon 」。私は「ファシネーション」と記憶していた。なぜだろう。昔、福岡の中州大洋で見たはずだが、そのとき「あ、原題は『ファシネーション』なんだ」と思ったことを鮮明に覚えている。なぜ、そんなふうに思い込んだのだろう。




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柏木静『囲む』

2010-10-25 00:00:00 | 詩集
柏木静『囲む』(ふらんす堂、2010年09月29日発行)

 私はわからない詩が好きである。たとえば、柏木静『囲む』の「石ころ」がわからない。

朝からつづいている時間は
とけゆく彫刻のたまり場で
にもつにもたれかかった太陽のひとみに
とがった爪をながしこもうとしている

 冒頭の1行を次の1行が破っていく。「破っていく」というのは「意味」をつなぎそうになりながら、そうしないこと、逆に1行目が「意味」になるのを破壊する運動を指すのに、私がでっちあげたことばである。
 3行目は2行目を、4行目は3行目を破る。
 ますます「意味」から遠ざかるのだが、それでもどんどん熱くなる真夏の太陽の光を感じる。それが石の彫刻の肌を、マイヨールの彫刻のような肌に絡みついている感じがする。
 なんだかよくわからないのだから、これは「誤読」である。勝手に私が考えた(感じた)ことばの世界である。融けるくらいにつやつやに光をあびて、その光が太陽に向かって逆襲している。そんな真夏の時間を感じる。

まがったやさしい群れは
まるで鉄柵を愛撫する大地のようで
その黒いぬまは
重たらしい消滅なのだ
おしよせる医者に
わたしから皺をさしだす
すぐにでも必要となる海水に
悲惨の証である創造をあたえる

 ぜんぜんわからないのだが、「まがったやさしい群れ」ということば、とくに「まがったやさしい」ということばのつながり具合は、お、つかってみたい、という気持ちにさせる。何かを見たとき、(その何かを私はうまくいえないけれど)、たとえば巨大な石の彫刻を見たとき(これは、前に書かれていた「彫刻」から引き出された感覚だ)、その曲線に「まがったやさしい」何かを感じたからかもしれない。「まがったやさしい」ということばには、「正確な意味」はまだないのだが、その「まだない」ことの「意味」が、私の肉体のなかで何かをつきうごかしている。
 こういう感じが好きなのだ。

都会の興奮から
泣きまねを圧迫される
建築の裏手には手ざわりを教える

 「都会の興奮」という興ざめするようなことばの一方、「建築の裏手には手ざわりを教える」という不思議な肉体感覚がある。「建築の裏手」「手ざわり」。この組み合わせも、詩を誘う。
 柏木がどんな建築と裏手を想定しているかわからないが、柏木の想定を無視して、私は私なりに「建築の裏手」を思い、そこに「手触り」を感じる。ひとの見ていない部分の、荒々しく強靱な力--それが一方にあり、他方に光の氾濫と戦う「彫刻」がある、のだと想像している。
 つかってみたいと感じることばが、かってに結びついて、かってな「世界」を作り上げるのだ。

だれかこのまま本名を鏡にいれて出なおしてくれればいい

 この1行は、この詩のなかでは、屈折している。1行ではなく、それ以上のことばが「改行」のタイミングを見失って1行に封じこめられている。その1行のなかで、「意味」を破る力がきちんと動かず絡み合い、ねじくれて、悲鳴を上げている。

 この

 というのは次の行である。
 「この」は「だれかこのまま本名を鏡にいれて出なおしてくれればいい」の長いリズムのあとで息継ぎをかねて、ふっと書かれた1行だ。「意味」はない。「意味」がないばかりか、それまでの「意味」を破る1行という働きもここでは中断している。
 ことばの運動は、こういう理不尽なこともする。
 けれど、この空白というか、息継ぎによって、ことばはまた復活するのである。こういう1行、そしてそれを挟んだことばの運動を見ると、ことばは「肉体」だと思わずにはいられない。
 「ことばの肉体」という表現を私はさまざまにつかっているが、「この」にも、そのうちのひとつの「性質」を感じる。「リズム」と関係する肉体がここにある。

ふてぶてしいインクの色が悲鳴をあげて
向こう脛に予知すると
わたしの胸から紐がぬける
はじめから憐れみがしたたり
ぽたぽたと太陽の意識に染みるのだ
風よけにいちど血のついた傷を軽く
拭いておいたらいい
雨の色、腐蝕された石ころ

 だが、どういうことだろう。「この」の転換のあと、そこにはつかってみたいと思うことばがない。ぐいと引きこまれることばがない。
 「だれかこのまま本名を鏡にいれて出なおしてくれればいい」までで、柏木はことばを使い果たしてしまったのかもしれない。




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ほしのしほ『湯屋の花』

2010-10-24 00:00:00 | 詩集
ほしのしほ『湯屋の花』(詩遊社、2010年08月20日発行)

 「思想」はどのことばにもある。だれのことばであっても、そのことばが動く限り、そこに「思想」がある。ことばを動かしている人間が生きている限り、ことばにはそのひとの暮らしが入り込むからである。
 プラトンやカントやデリダや吉本隆明のことばだけが「思想」なのではない。

 ほしのしほ『湯屋の花』には難解なことばは出てこない。まど・みちおのようにぎりぎりに見つめられたことばも出てこない。そうではあっても、そこには「思想」がある。
 「チンドンコンクール・昭和」はほしのが幼いころ家族でちんどん屋コンクールを見に行ったときのことを書いている。

お昼ごはんはデパートの
最上階にある
食堂で食べた
注文の品が
テーブルの上に並び
ウエイトレスさんが
食券の半分を
持っていった

 何でもないことを書いている。何でもないことを書いているけれど、その何でもないことを省略せずに書いている。食券制の食堂で、注文の品と交換に食券の半分を持ち去る。食べたものではなく、その仕組みをじっと見つめている。見落としてしまいそうなことがらを、ほしのはていねいにことばにしている。
 この見たもの、気づいたことがらを、ていねいにことばにするという姿勢、そのときのことばの運動のていねいさが、しほのの「思想」である。

 詩集のなかでは、「角度」がいちばんおもしろかった。

文具店で買った
分度器は
中心に
お花の絵が
描いてあり
とても可愛かった
算数は
苦手だったが
早く使いたかった
いよいよ
その日が来た
ところが
私の机上を見て
「これは正確な角度が
測れません」
先生が言った
次の授業でも
同じ分度器を
持っていった
また同じことを
言われた

 世界はしほのの考え方(基準)通りにはできていない。違う基準をもつ人がいて、人間は生きている限り違う基準の人とも「同じ時間(いま)」「同じ場所(ここ)」にいないといけない。そして、そういうときには、「基準」の違いが「社会の仕組み」として見えてくる。
 角度を測るには、その角度の頂点と分度器の中心(?)とを明確にあわせないといけない。中心は「点」でなければいけない。「花」では「中心」がわからない。
 これは、ごくささいな「算数の世界」とかわいい花が好きという「ほしのの世界」がぶつかった一瞬のできごとだけれど、それを忘れずに書き留めておく--それがほしのの「思想」である。
 そして、そういう「思想」を書き留める「居心地が良い」(湯屋の花)場が、ほしのにとっては詩である、詩を書くと、ことばが「居心地が良い」と感じて、そこに生きつづける、生きつづけていることが実感できる、だからほしのは詩を書いている、そして一冊の詩集になった。
 その「思想」は幼いこども時代から、大人になったいまも変わらない。そのことばは自然にほしのの「自分史・半世記」になっている。

 ただし、その「思想」の世界は、あまりおもしろくない。そういう「思想」があるということはわかるけれど、私にはあまりおもしろくない。
 これが、文学というか、詩の不思議なところである。ことばのおかしなところである。ひとりの人間の「半生」がその人自身のことばで書かれているけれど、何か足りないと感じてしまう。
 「思想」ならすべておもしろいかというと、そうではないのだ。
 だから、困るのだ。


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