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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(28)

2011-05-31 23:59:59 | 詩の礫

2011年05月31日(火曜日)

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(28)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 「10」には「激しい精神」と同じように、不思議なことばが出てくる。

緊急地震速報、もしくは、噂話、20キロ圏内。牛や犬やぶたが徘徊している、無人がそれらの家畜や番犬を追い回している。涙を流している、注意が必要です。

緊急地震速報、もしくは、噂話、20キロ圏内、柵につながれたまま牛は、大きな体を休ませている、いや、飢え死にしている、無人も飢えている、果てし無い、注意が必要です。

緊急地震速報、もしくは、噂話、20キロ圏内、豚は食べるものがなくて、仕方なく、豚の死骸を食べている、無人も仲間を睨みつけている、理由は無い、注意が必要です。
                               (70-71ページ)

 「無人」がよくわからない。何の「比喩」だろうか。「比喩」だとしたら、このことばには「矛盾」がある。比喩とは「いま/ここ」にないものをことばで呼び出すことだ。「いま/ここ」にはないが、「いつか/どこか」に存在する。「比喩」を語るとき、「いま/ここ」と「いつか/どこか」が結びつく。そのとき「比喩」の絶対条件は「ある」ということだ。けれど、和合は「無・人」と書いている。「無」は「ある」の反対のことばである。「無」は「比喩」にはなりえない。その「比喩」になりえない「無」を抱え込んだ「無人」--これは、一体何?
 「ひとがいない」が「無人」か。だが「無人」なら、それが「追い回す」ということはできるのか。「無人」は「人では無い」という意味だろうか。「人ではない」ということだけははっきりしているが、まだ「何」かわからない。「見えない」「触れない」「聞こえない」「匂いもしない」--と書いてくると「無人」が和合の書いている「放射能」に似てくる。
 でも、「無人」が「放射能」だとしたち、それが「涙を流している」とは、どういうこと? 「飢えている」とはどういうこと? 「仲間を睨みつけている」とはどういうこと? よくわからない。
 たぶん、それは「人格」を持ってしまった「放射能」なのである。
 「余震・地震」が「激しい精神」であったように、「放射能」は「無人」なのである。「人ではない」が「人格」を持っている存在。
 「放射能」に「人格」を与える(比喩を媒介にして人格を与える)というのは、なんだか変な感じがするかもしれない。戦うべき相手に、わざわざ「人格」を与える必要があるのか--という疑問が生まれてくる。
 しかし、もし戦う相手が「人格」を持たないのだったら、私たちはどう戦えばいいのだろう。
 もし戦う相手が「精神」を持たないのだったら、私たちはどう戦えばいいのだろう。
 「矛盾」したことをしてしまうようだけれど、人は「余震・地震」と戦うとき、「余震・地震」を自分自身の「精神」に向き合っている「精神」のひとつであると仮定しないことには、ことばを武器に戦えないのではないのか。
 同じように「放射能」という非人間的なものと向き合い、ことばを武器に戦うとしたら、放射能を「人」ということばで「比喩」にしてしまわないと、戦えないのではないのか。
 「余震・地震」も「放射能」も「ことば」を持っている。その「ことば」を見極め、自分のことばと対峙させる。戦わせる。どちらのことばが勝つのか--勝つためには、ことばをどう鍛えるべきなのか……。

 私の書いていることは、「説明」になりえていないかもしれない。
 説明になりえていないことを承知でもう少し書く。

 「無人」とともに「噂話」が出てくる。「噂話」とは何だろう。根拠のないことば。それは誰が口にしたことばなのか。大震災の被災者か。あるいは、「人では無い何か=無人=放射能」か。和合は、被災者ではなく「無人」が語り、押し広げたのが「噂話」であると言いたいのかもしれない。
 「無人」がことばでも詩人(和合)に襲い掛かってくる。「噂話」ということばになって。
 だが、ほんとうに、その「話」には根拠がない? 「無人」のことばだから、根拠がない? そこには人間のことばは少しも含まれていない?
 そんなことはないだろう。
 実際は私は、ニュースで牛や豚や犬を見た。その悲惨な姿を見た。和合が聞いたのは「噂話」であると、否定できない。そこには「真実」もある。
 ああ、だからこそ、問題なのだ。
 「無人」(放射能)の脅威と、人間のことばは、「ことば」のなかで重なり合う部分があるのだ。どっちが、どっち? わからなくなる部分がある。こういう不明瞭な部分、あいまいな部分は、ふつうの詩では、まあ、どっちでもいい、詩なのだから、好きなふうに読んでおけばいい--実際、好きなふうに読んだ方が詩がいきいきするということがある。けれど、和合の書いている詩では、それはあいまいにはできない。どっちがどっちか、それを明確にして、「人間のことば」が「無人のことば」に打ち勝たなくてはならない。
 でも、これは、難しいなあ。

 これから書くことは適切な例にはなりえないかもしれない。いま書いたことの適切な補足にはなりえないかもしれない--けれど、こういうことがあるのだ。


子どものころの僕の顔を思い浮かべて…、祖母は亡くなる前に、「雪だるま」の貼り絵をしてくれた(と思っている)…、その絵を本棚の一番よいところに飾っていた…。

僕の部屋の瓦礫の中で一番先に探したのは、祖母の貼り絵…。

探す。無い。探す。無い。祖母の絵。無い。探す。見つからない。私が探しているのは、貼り絵だが、それだけでは無い。探す。私が探しているのは貼り絵だが、祖母の姿を探している。探す。無い。余震。
                               (72-73ページ)

 「私が探しているのは貼り絵だが、祖母の姿を探している」。この文章は、論理的には変でしょ? 変だけれど、わかるでしょ? 論理的な文章より、強く感じるでしょ? これが、たぶん「無人」ということばのなかにもあるのだ。その変な矛盾した論理が。
 「無人」、人間ではないもの、そのむごたらしい放射能--それを、私たちはまず「ことば」にしないといけない。そして、自分たちで「ことば」にした「無人」と「無人のことば」を、さらに詩のことばで叩き潰していく。叩き潰すために、まず、「無人のことば」を正確に確立しなくてはいけない。
 貼り絵とおばあちゃんは「叩き潰す」という関係はない。だから、説明がよけいにややこしいのだが、貼り絵とおばあちゃんの関係(探すときに一つになる関係)とは正反対の関係が、「無人」という「比喩」のなかにあるのだ。

 今回書かれている「詩の礫」の最後。


目の前の目の前に 書き殴れ 一つの文字



あなたはここまで読んで、必敗者の私にこう教えてくれるのだ。

明けない夜は無い。
                                 (76ページ)

 「あなた」は「無人」の対極にある。「あなた」は「在(有)・人」なのだ。「僕(和合)」は「あなた」と「ことば」をとおして結合する。「詩」が結びつける。結びつく力で「無人」に勝つ。
 「放射能」の前ではだれもが「必敗者」である。防ぎようがない。大地震の前でも同じかもしれない。
 けれど、その起きたことを「ことば」で明確にし、同時にその「ことば」を乗り越えることばを書く。そういう力を獲得するまでことばを「書き殴る」。「詩」に高めていく--それしか「生きる」方法はない。
 和合のことばからは、そういう強い宣言が感じられる。





補記。

 「詩の礫」(「現代詩手帖」2011年05月号掲載分)を読み終え、振り返るとき、ふと気がついたことかある。

放射能が降っています。静かな夜です。
                                 (38ページ)

 と、和合は書いていた。それはひとの暮らしが破壊され、実際に「物音」がしないということをあらわしていると同時に、「ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。」「この震災は何を私たちに教えたいのか。」という「問い」に「答え」が帰って来ない、「答え」がどこからも聞こえないという状態をあらわしていたと思う。
 その「静かな夜」が最後の方では「静か」ではなくなっている。
 聞こえる「声」には、たとえば「噂話」がある。そのほかに「原子力」のささやきがある。地震の「悪魔」の声がする。

ここまで書いていると、原子力が私の家の扉のチャイムを押した。「どなたですか」。話があります。「私にはありません」。とにかく扉を開けて下さい。「開けるもんか」。
                                 (74ページ)

お坊ちゃン、福島のお坊ちゃン、何が、出来ますかイナ。
                                 (75ページ)

 「噂話」「原子力のささやき」「悪魔の高笑い」。これは、みんな「事実」ではない。「事実」ではないけれど、そこには「真実」がある。ひとが何かを思う--その思うことの真実がある。噂話に語れることごと、原子力や悪魔の声は、和合にとっては歓迎すべきものではない。あってはいけないことがらである。けれど、そういうものを和合は聞き取れるようになった。「静かな夜」ではなく、「声にあふれた夜」「騒々しい夜」を和合は生きている。そして、それらの「声」が聞こえるからこそ、和合は、その「声」を超えていく声を探すことができる。
 この運動は、和合が「詩の礫」を書くことによって始まった「事件」である。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるか。
                                 (38ページ)

 これは大震災に対する怒りのことばだが、「詩の礫」ということばにあてはめると「怒り」とは違うものがみえてくる。和合が書いたことば、その運動。その「意味」は書いた後に生じてくる。実際、私は、その意味を感じている。何も聞こえない「静かな夜」から、聞くべきものを聞いて、それを乗り越えていくことばを探すということばの変化--そのなかに人間の「希望」を感じている。
 「希望」と書くと、和合は「希望とは何事だ。私は、そして福島は、まだ絶望の中でもがいている」というかもしれない。それはそうなのだが、そんなふうに、もがき、生きることができるということは、やはり「静かな夜です」と黙りこくっているとはまったく違った状況だと思うのである。
 ことばは、状況をつくり、状況をかえていく。その力を感じた。






詩の礫
和合亮一
徳間書店



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ジョージ・ノルフィ監督「アジャストメント」(★)

2011-05-31 22:48:11 | 映画
監督 ジョージ・ノルフィ 出演 マット・デイモン、エミリー・ブラント

 フィリップ・K・ディックの小説は一時期興味をもって読んだことがあるが、映画むきとは言えない。「アメリカン民主主義」の「思想」を丸出しにしたSF小説というよりは、観念(理想)小説の趣がある。映画(あるいはテレビ番組)でいうなら「スタートレック」の世界というか……。
 この映画では(原作は、私は読んだかどうか覚えていない)、主役が将来の「大統領」。彼ははめも外すが、スラム出身で、理想に燃えている青年である。その青年の前に「調整局」という変な組織があらわれ、「こうしないと(愛をあきらめないと)大統領になれない」と運命をあやつろうとする。それに対して「自由」を求める主人公は、愛を貫きながら自分の手で未来を切り開いていく。そのフロンティアスピリッツ。それにそった展開。
 まあ、映画だからいいんだけれど。
 --でも、つまらないねえ。ばかばかしいねえ。
 フィリップ・K・ディックの小説は、もともと「頭」で読む小説。お馬鹿さんは読んでもわからないよ、アメリカ民主主義の精神を理解し、理想実現には「頭」を働かして、論理を正確に追っていく力が必要だよ、という読者を小馬鹿にしたことろがある。こういうことは「ことば」で書かれる小説では成立するが、映像ではうまくいかないねえ。
 この映画で言うと、「調整局」の存在--これが、薄っぺらい。ぜんぜん、怖くない。組織の「わけのわからなさ」もまったく伝わってこない。小説では「調整局」という存在(そこに動いている人間)は「観念」のままでいいのだが、映像は観念ではないからねえ。調整する前に、ことばの「論理」が整いすぎている。映像が入り込む余地がない。「不思議」どころか、ほんのひとかけらの「謎」もない。「わかりすぎる」。その結果として、「わけのわからない」おもしろさが完全に欠落する。
 「調整」をことばでなく、「肉体」で表現しないことには、不気味さは出てこないのである。映像の主体は、あくまで目に見える肉体。わけのわからない「論理」の強靱さと複雑さは、ふつうの「肉体」では「論理」の具体化(観念の具体化)にならない。
 まあ、「論理」にならないから、「帽子」の小道具(ドラえもんの「どこでもドア」の役割の一部を帽子が担っている)と、ばかばかしい「本」のなかの「設計図(といっても、都市動くときの平面図、というか鳥瞰図)」を使って、超能力と運命を説明することになる。
 小説では「帽子」も「設計図」も「文字」をはみだしているから、それはそれで「不思議」な効果を獲得できるが、「映像」にしてしまうと「映像」を超えたものにならない。「映像」にすっぽりとおさまってしまう。「不思議」ではなくなる。ばかばかしい「図」(絵解き)になってしまう。やだねえ。
 ことばと映像では「不思議」をあらわす方法が違うのだ。読者・観客の想像力を刺激する方法が違うのである。文字で書かれたものをそのまま映像化しても、映像は不思議でもなんでもない。複雑な「設計図」もあほらしい鳥瞰図にすぎなくなる。「時間」を水平に動かして「運命」なんて言ったって、そんなもの、だれが「運命」と思う? 空間、時間を超えて、動かないとねえ。
 さらに。
 本物のキスをすれば、「波動」(だったっけ?)が広がり、全体の「運命」がかわる--って、なんだこれは、「中学生向けの恋愛講座」か。
 私は3回ほど、舟を漕いでしまった。
 恋愛なら恋愛を描くでいいのだけれど、「運命」に関係する男を将来の大統領(下院議員であり、上院議員の候補者)ではなく、ふつうの市民にして、「調整局」のエージェントももっと不気味な冷徹さを具現しなくては、「筋書き」に終わってしまう。映画は「筋書き」ではなく、筋書きを破って動いていく映像でつくるものだということを、この監督は忘れてしまっている。
                        (2011年05月31日、天神東宝3)




2011年05月のベスト3
1「八日目の蝉」
2「トスカーナの贋作」
3「ブラックスワン」



アジャストメント―ディック短篇傑作選 (ハヤカワ文庫 SF テ 1-20)
フィリップ K.ディック
早川書房


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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(27)

2011-05-30 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(27)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 「11」の部分には日付がない。「詩の礫」というタイトル下には2011.3.16-4.9 という日付かあった。そして「10」には2011.4.1という日付があった。「11」は04月02日から04月09日にかけて書かれたものと推測できる。
 「11」には、もうひとつ、これまでと違ったことがある。「11--昂然」とサブタイトルがついている。和合の中で「詩の礫」に関する意識が変化したのかもしれない。「精神の発見」(精神が、冷たい汗をかいている、と書くことによって「精神」を「比喩」のようにうかひ上がらせること)が、和合のことばを突き動かしたのかもしれない。
 その「11」の冒頭。

余震。地の波。私たちをあらためて追い立てる、激しい精神。過酷にも地の震えは少しも手を休めない。逃げる私たちを執拗に追う、地の急襲。
                                 (70ページ)

 「激しい精神」とは何か。私は驚いてしまう。「10」のことろで「精神」ということばに出会った。それはあくまで「人間の精神」であった。しかし、ここではどうか。私たちを追い立てる、逃げる私たちを執拗に追うのは、「地」である。「地の波」である。自身であり、「余震」である。「激しい精神」は、文脈にしたがうかぎり「余震(地震)」でしかない。
 問題は(という言い方でいいかどうかわからない)、「余震」を「激しい精神」と呼ぶとき、その「激しい精神」が「比喩」であることだ。余震・地震という地殻の動きに「精神」はないから「比喩」としか言いようがないのだが、その「激しい精神」が「比喩」であるとき、「精神が、冷たい汗をかいている」というときの「比喩」としての「精神」と混じり合ってしまうことだ。融合してしまうことだ。
 もちろん文脈をていねいにたどれば「人間の精神」と「余震・地震の精神」はまぎれることはない。はっきり区別がつく。
 しかし、ほんとうにはっきり区別をしたいなら、そんなややこしいことばをつかわずに、もっと違ったことばを「余震・地震」の「比喩」にすればいいだろう。いままで「悪魔」ということばが何回かつかわれてきたが、その「悪魔」の方がはっきりするはずである。
 けれど、和合は「精神」を選ぶのだ。
 ここが詩のおもしろいところである。
 「人間の精神」と「余震・地震の精神」は敵対している。敵対関係にあるはずである。けれど、それはまた「共犯」というか、「競合」の関係にもあるのだ。「余震・地震の精神」が巨大であるとき、それに立ち向かう「人間の精神」も巨大になる。「人間の精神」が強靱なものになるには、それを強靱にする、強靱な「余震・地震の精神」が必要なのである。
 もちろん、巨大な余震・地震が起きてはいけないのだが、それは現実の世界のことであって、ことばの世界では違うのだ。互いに巨大、強靱であることによって、互いが成長していくのである。どちらがどちらを凌駕するか--それは、これからのことばの運動にかかるのである。
 そして。
 「精神が、冷たい汗をかいている」と和合が書いたとき、「汗」が「比喩」であると同時に、「精神」こそが「比喩」であると私は書いたが、似たようなことがこの部分についても言える。
 「激しい精神」。そのことばのなかの「比喩」は「精神」であるよりも「激しい」である。「激しさ」において、「余震・地震の精神」と「人間の(和合の)精神」は競い合うのだ。競い合うためには「精神」という共通分母が必要だったのだ。

 「精神」は「ことば」でもあるだろう。「ことば」を共通分母として、和合と地震の戦いはここから本格的に始まる。
 「大震災」をことばとして出現させながら、その出現した「大震災」に和合は詩人のことばをぶつけて、それを叩きのめすのである。そういう戦いをするのである。

俺はな、俺をぶっ潰してやる、文字をぶっ潰してやる、詩をぶっ潰してやる、一行をぶっ潰してやる、文字をぶっ潰してやる、詩をぶっ潰す、言葉をぶっ潰す、心をぶっ潰す、ぶっ潰すぶっ潰す、怒りをぶっ潰す、お前という悪魔をぶっ潰す、俺をぶっ潰す、俺俺をぶっ潰すぶっ潰すぶっ潰す俺ぶっす潰つス。
                                 (75ページ)

 激昂し、ことばがことばでなくなってしまう。あらゆる「もの」の区別がなくなり、そこにただことばが残される。「意味」もなく、ただことばがある。そこまで和合は行きたいのだ。そういう一緒の「ゴール」のようなもの、行先のようなものを、和合は、いいま、つかんでいるのかもしれない。





にほんごの話
谷川俊太郎,和合亮一
青土社


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川上亜紀「青海波」

2011-05-30 09:59:46 | 詩(雑誌・同人誌)
川上亜紀「青海波」(「モーアシビ」24、2011年05月20日発行)

 川上亜紀「青海波」はタイトル想像できるように、布巾に刺し子をしているときのことを書いている。

半円を描く単純な縫い取りを繰り返す
波は静かで空は静かに晴れている
遠くまで紺色の縞目が広がりカモメが飛ぶ
雅楽の音が聞こえてきそうだ
舞を舞う人の動作が見えてきそうだ
手で半円を描く動作を繰り返している

模様は繰り返す(自然が繰り返すので)
そう考えながら針を持つ手が繰り返す
第二の波(内側の半円)にとりかかる
地下鉄の連絡通路を抜けるみたいに
布の裏側を糸がこっそり渡って
波の端のところからまた表に出てくる

 「繰り返す」ということばが象徴的だが、刺し子をしていくときの「目的」は布巾を仕上げることなのだが、その「目的」を忘れ(?)てただ繰り返す。完成をめざすというよりも「繰り返す」ことをめざして「今」が動く。そのとき「完成」(目的)がふわっと消えて行き、「完成(目的)」とは違うものがあらわれてくる。
 この感覚がいい。この自然な、「ずれ」がいい。「波」から「カモメ」があらわれるのは、まあ、自然なことかもしれない。でも、そのカモメが突然「雅楽の舞」にかわるところはどうだろう。カモメの舞。雅楽の舞の、手の半円。あるいは扇を持っているかもしれない。
 そこからさらに「ずれ」て地下鉄の通路になる。そうかと思っていると、また波にもどってくる。
 何か明確なもの、「ずれ」なら「ずれ」で、それを追いつづけて「いま/ここ」からどこか別な次元へ行ってしまうというのではない。ただ、「いま/ここ」に川上の知っている「過去」がなんでもないことのようにあらわれてくる。その「過去」は「いま」を否定し、川上をどこかへつれていくわけではない。
 どこかへつれていくわけではないが、少し川上を揺さぶりもする。

しだいに針を持つ指先が痛くなってきて息を吹きかける
こんなにたくさん縫うのだったたらテディベアだって作れるかもしれない
もうひとりの自分が肩越しに覗き込んで言う
そんなことするのはもっとずっと年をとってからでもいいのに
そうかもしれないね(単調な模様の縫い取り)
束ねてある木綿の糸の端が見つからなくなって糸が混乱する

 「過去」。カモメをみた過去。舞を見た過去。知多鉄の通路を通った過去。同じように、テディベアをつくれたらなあと思った過去。「過去」とは「もうひとりの自分」であり、それはいつも自分と同居している。その同居はちいさな「混乱」を引き起こすけれど、その混乱は小さくて、まあ、折り合いがつく。
 なんでもないことなのだが、この静かな「折り合い」に川上の「思想」がある。
 それは、次のように美しい結晶になる。

布の表面は模様で覆われていって
裏切りも救急車も入り込む隙間がなくなっていく
新年にはよいことだけが繰り返し起るように
海の波のようにどこまでも繰り返していくように

私はそのときすでに名前のない縫い子になっている
いままで同じ模様を繰り返してきた大勢の人々の一人になる
波と波のあいだにもぐるようにしてそのまま眠りに落ちる
明日はもっとたくさん縫って、来年はもっとたくさん縫って
さまざまな模様を色々な糸で縫って…

木綿の白いフチに囲まれた
青海波の模様の波の上で
角の豆腐屋の飼っている黒い出目金がちゃぽんと跳ねた

 「繰り返し」が「裏切り」や「救急車(命の危険?)」を少しずつ締め出していく。それは、まあ、祈りなのだけれど。そして、「私」は「大勢の人々の一人になる」。いいなあ、この感覚。人間は誰でもたった一人の人間であろうとする。個性であろうとする。詩人なら、なおのこと、そうだろう。しかし、「たった一人」でなくてもかまわないのだ。「大勢の人々の一人」でも、その「一人」が「名前のない縫い子」であっても、まったくかまわない。
 「名前」のない「誰でもない」人間、ただ「繰り返されてきたいのち」に「なる」。その瞬間、人は「角の豆腐屋の飼っている黒い出目金」にさえ生まれ変わることができる。この、ゆったりした思想がいい。
 「繰り返し」を生きること、「繰り返し」のなかで、人は「過去」へ、「過去」さえも通り越して「いのち」の原始へもどる。そのとき「大勢の人々の一人になる」のではなく、「いのち」の自在に「なる」。何にでも生まれ変われる「いのち」そのものに「なる」。その「いのち」に触れる、そういう「いのち」に「なる」ために、繰り返すということには意味があるのだ。
 私が最初に「ずれ」と呼んだものは、「いま/ここ」の「いのち」を縛っているものを、ひとつひとつ解きほぐしていくことだったのかもしれない。布巾の刺し子で同じ模様を繰り返す--布巾を強固にしていく、というその手仕事が逆に「いま/ここ」にある「過去」をひとつひとつ解きほぐして、そのさらにむこうの「いのちの原始」にで思いを運んで行く。
 どんな行為にも、どんなことばにも、それぞれは「対立」したもの、「矛盾」したものを含んでいて、それはていねいに向き合うと(ていねいに繰り返してみると)、「対立」や「矛盾」を通り越して、不思議な可能性にたどりつけるのだ。

グリーン・カルテ
川上亜紀
作品社



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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(26)

2011-05-29 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(26)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 きのうの日記の追加になるのだが……。(私は目の具合が悪く、長時間パソコンに向かえない。どうしても、とぎれとぎれの感想になってしまうのだが。)

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行く。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は野の馬のいななきの本当の意味を知る。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は母の子守歌の本当の意味を知る。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は雨の後の風の本当のソプラノを知る。
                                 (69ページ)

 この部分が美しいのは「意味」ということばが「無意味」だからである。
 「詩の礫」に最初につかわれていた「意味」と比較すると、そのことがよくわかる。

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるか。
                                 (38ページ)

 2011.3.16 に、和合がそう書いたとき「意味」は問われていた。「意味はあるのか」は「どういう意味だ」という問いと同じである。「意味」が見出せない。「意味」があるなら「意味」を教えてもらいたい。
 これは和合が体験した大震災に対する怒りである。
 けれど、

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は野の馬のいななきの本当の意味を知る。

 と和合が書くとき、和合は「意味」を問い詰めてはいない。「どういう意味があるのか」と質問してはいない。そして、その「意味」を読者に語ることもしていない。「本当の意味を知る」と和合の中で完結している。
 読者が(私が)、「その本当の意味って何?」と問いかけても和合は答えてくれないだろう。答えられないだろうと思う。答えられないこと--それが「本当の意味」だ。
 と書いてしまうと禅問答になってしまう。
 私が感じたのは……。私が和合のことばから読みとるのは……。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は野の馬のいななきの本当の意味を知る。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は母の子守歌の本当の意味を知る。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は雨の後の風の本当のソプラノを知る。

 この三つのことばの塊を読むと気づくことがある。「野の馬のいななき」と「母の子守歌」に対しては「本当の意味」ということばがつかわれているが、「雨の後の風」については「本当の意味」ということばはつかわれず、「本当のソプラノ」ということばがつかわれている。「意味」が「ソプラノ」に変わっている。「意味」と「ソプラノ」は置き換え可能なものなのだ。「ソプラノ」がほんとうの「意味」なのだ。
 「子守歌」のなかには「ソプラノ」が含まれているかもしれない。「ソプラノ」に通じるものがあるかもしれない。高く、透明な、声。「子守歌」は母から子への透明な声で(純粋な声で)歌われる「ラブソング」と考えると、和合が書こうとしいていることに近づけるかもしれない。
 「ソプラノ」を単純に女性の高い声と考えるのではなく、子守歌を歌う愛の声、そして歌われる歌はそのとき「子守歌」という範疇に留めるのではなく、「ラブソング」を「愛の歌」と考えると、和合の考える「意味」ということばの広がりがわかりやすいかもしれない。

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。

 これは、大震災に「愛」はあるのか、という怒りが発した声である。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるか。

 これは、何かが起きるとき、そこに「愛」はあるのか。すべての出来事は「愛」をもっているのか。「愛」は何かが起きた後にうまれるものなのだろう。では、そのとき「事後」とは何? 「事後」そのものの「愛」って何? 「事後」の「愛」はほんとうの「愛」なのか。ほんとうの「愛」は「事象」を起こさないことにあるのではないのか--ということになるのかもしれない。
 しかし。
 和合の怒り、絶望、悲しさはわかるが(わかると簡単に言ってしまっていいものではないと思いながら書いているのだが)、「愛」とはたぶんそういうものなのだ。
 大震災と結びつけて考えると難しくなってしまうが、愛はいつでも、それこそ「遅れて」やってくる。「愛」に気がついたとき、「愛」はどこかへ行ってしまっている。それでも「愛」に意味はあるか。過ぎ去った「愛」も「愛」なのか。--その怒りはわかるが、過ぎ去ったものこそが「愛」なのだ。なくしてわかるものが「愛」であり、なくしたとわかるからこそ、ひとは、そのときから「愛」に目覚めるのである。愛することを学ぶのである、ということになるかもしれない。

 でも、まあ、こんな感傷的なことばを書いているときではないね。それに和合は「ラブソング」ではなく「ソプラノ」と書いているのだから……。

 きのう読んだことばが美しいのは、そこに詩があると感じるのは、「愛」のせいではない。「愛」もあるのだろうけれど、「愛」というようなことばにならないものこそ、美しい。その、「愛」ということばにならない何か--それをどこまで私のことばで語ることができるかわからないが……。
 「本当の意味」ということばが2回繰り返された後、「ソプラノ」のなかに消えていく。「雨の後の風の本当のソプラノ」の「ソプラノ」は「比喩」である。「本当の意味」は「比喩」のなかに消えていく。その「比喩」は、まあ、「ソプラノ」ということばを手がかりにすれば、透明で美しい声、ひとをある高みに誘ってくれる声というものをさすのかもしれない。
 あ、また、余分なことを書いてしまった。
 書き直そう。

 「本当の意味」は「ソプラノ」のなかに消えていく。そのとき、和合は「意味」を考えていない。「意味」をことばにしようとしていない。ここに、美しさの全てがある。
 「本当の意味」ということばを和合は2回繰り返しているが、「本当の意味」を、和合は考えたりはしていない。だから、美しい。
 では、このとき、和合に何が起きているか。和合は何を考えている。
 何も考えていないのだ。
 和合は「怒りの速度」と「なって」福島の暗い平野を走る。走りながら「野の馬のいななき」に「なる」。「母の子守歌」に「なる」。「風のソプラノ」に「なる」。
 怒りの速度に「なる」ということの「なる」という運動が、あらゆる「なる」を引きつけ、ひとつに結晶する。結晶して「本当の意味」と「ソプラノ」は区別がつかないものに「なる」。
 この美しい変化のなかに詩がある。
 怒りの速度となって、の「なる」から始まるあらゆる「なる」につながる詩--野の馬のいななきや、子守歌、ソプラノに「なる」ということばはつかわれていないが、怒りの速度となっての「なる」に全て含まれている。というのも、怒りの速度そのものが「比喩」だからである。
 この「なる」の視点から、また「詩の礫」の最初の書き込みにもどってみると、わかることがある。

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。

 このときの和合の怒り、絶望、悲しみは「なる」可能性をとざされたこと、「なる」可能性を奪われたことにあるのだ。
 和合は何にもなれない。大震災の直後、ただ「いま/ここ」に自分の命を守っているだけの人間である。無力な人間である。なぜ、こんな無力を生きなければならないのか。ここから、どうやって何かに「なる」ことができるのか。どうすれば「なる」を手に入れることができるか--それを自問していたのである。
 震災直後、和合は「いま/ここ」に「ある」。「ある」けれど「なる」を奪われている。
 和合が人間に(詩人に)「なる」。そのためのことばを探して、和合は書いている。和合が詩人に「なる」とき、ことばは再び生きる(生きるように「なる」)。そして、ことばが生きはじめれば、人と人とのつながりも再び動きだす。動くように「なる」。
 そうした希望につながる「なる」を和合は瞬間的に掴んだのだ。そして、「本当の意味を知る」と書いたのだ。
 「本当の意味」とは「ある」ではなく、「なる」にある。



 付記。
 きょうの「日記」はずいぶん強引なところがあると思う。いつも私は強引に「誤読」するから、今回だけが強引ではないかもしれないが……。
 実は、私は和合の書いた「ソプラノ」を「ラブソング」と読んでいた。(きのう「引用」したとき、「ラブソング」と間違えて引用していた。きょう、あわてて書き直したくらいである。)
 「怒りの速度となって」以後のことばを読んでいたら、私はそう感じてしまったのだ。ほんとうは、正直にそのことから書きはじめるべきだったかもしれない。和合の「ソプラノ」には「ラブソング」と「誤読」させる力がある、と。
 そうすれば、もうすこしすっきりしたことが書けたかもしれない。






現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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豊原清明「ハイク・ラック・中年」ほか

2011-05-29 15:10:35 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「ハイク・ラック・中年」ほか(「白黒目」29、2011年05月発行)

 豊原清明「ハイク・ラック・中年」は「自主製作短編映画シナリオ」という断り書きがある。いつもいつも、豊原のシナリオには感激してしまう。

○ 小机(夜・風呂上がり)
  ケータイに貼った「六十のさえない奴がなぜ恋に」の句を映す。
  青いコップに入れた、大量の氷。

 これは冒頭のシーンである。ここに書かれている「情報」は非常に少ない。そして、非常に少ないのだけれど、不思議なことに「過去」を持っている。携帯と、そこに張られた句の関係--これは、どういう関係があるのかわからない。その「わからない」関係を「もの」の力で乗り越えて行く。「不透明な過去」が、いま、そこ(スクリーン)にある--という感じが、とてもいい。
 そして、その「不透明な過去」に「青いコップに入れた、大量の氷。」というこれも「過去」のわからないものがぶつけられる。不思議な衝突。「もの」と「もの」の衝突。そこに、詩がある。映像としての、詩がある。
 途中を省略して、

○ いま使っているケータイに貼っている、「六十のさえない奴がなぜ恋に」
僕の声「なんでこの俳句にこだわるのか? 僕はそれを知りたい。」

○ お父さんとお母さんの写真
僕の声「これが、僕の父と母。迷惑ばかりかけて、すまない。」

 このふたつのシーンでは、映像と音が一致しない。「僕」はスクリーンには登場していない。映像としては見えない。けれど、そこに僕の声がかぶさる。「もの」の「いま」に、「僕の過去」が衝突する。あるいは、そんなふうに見えるだけで、ほんとうは「僕のいま」に「ものの過去」が衝突しているのかもしれない。
 どちらでもいいのだが、この瞬間、私は「もの」と「僕」が、とけあわないまま動いている、動いていくのを感じる。--そして、いま書いたことと矛盾していることを承知で書くのだが、「もの」と「僕」がとけあわないけれど、そのふたつの「出会い」の「場」というものはなぜが強い力で存在している。それが、とてもおもしろい。
 「もの」とか「僕」ではなく「場」というもの、「場」の力を豊原は自然に呼吸し、それをことばにするのかもしれない。

○ 僕の顔を自分で撮り、己の出生をぼやく。(風呂上がり)
僕「(アップ。メガネ面。左側しか映らない。)
 1977年、神戸生まれ、神戸育ち。6月25日生まれ。
 (頭を下げて)今、無職。何もない!(顔を上げる。)
 しゃかいふてきのうしゃと言おうか、自我、自我!これが僕を苦しめる。
 (嘆息)最寄の駅に行くことすら、父付き添いじゃないと、外出できない。
 自我!これが僕を、煩悩に陥れる。そうか…。いっそのこと、怪物になればいいんだ。
 化け物に! なりゃあ、いいんだ。(撮影を切る)」

 ここでは、「僕」は「僕」の過去を語っている。
 映画というのは基本的に映像で語るものだから、こんな具合に「台詞」で過去を語っては、ほんとうは映画にならないのだが、豊原の場合は、映画になってしまう。
 豊原にとっては「過去」はないのだ。--これは、矛盾した言い方、奇妙な言い方だと私は承知しているが……。説明が難しい。
 豊原には過去がない。--とは、豊原にとっては、過去はいつも「いま」に噴出してきているものだからである。「過去」は「過去」の時間にとどまっていない。もちろん、それは誰にとってもそうなのだけれど、豊原は「過去」を「いま」と分離した形で処理できない。(ふつうは、これは「過去のこと」と、頭?で処理して考える。)豊原には「いま」という時間と「過去」という時間があるのではなく、「いま」という「場」があるのだ。「いま」は「時間」ではなく「場」。
 豊原が「僕」を撮っているとき、「いま」という場には「僕」がいて「カメラ」がある。向き合っている。向き合いながら、豊原の「顔」は半分隠れている。カメラに写っているのが「いま」ならカメラからはみだしているのは「過去」ということになるかもしれない。その隠れているものを「ことば」で噴出させる。そうするとスクリーンには「場」に「いま」のおくから「過去」が噴出する形であらわれる。「いま」という時間のなかへ「過去」を噴出させる「場」が、ここに「ある」のだ。
 「過去」が「いま」のなかに噴出したら、時間はどうしても動いていかなくてはならない。その瞬間の「動き」だけを、豊原は書く。「場」の動き--「場」の緊張を豊原は書いている。この緊張を--緊張はまた弛緩・解放であるととらえなおせば、そこから豊原の俳句の世界(遠心・求心)の運動が見えてくることになる。
 豊原のことばは、いわば二重構造なのだ。二重構造であることは、映画のように映像とことば(音)の組み合わせ芸術の方が、より活性化するということかもしれない。だから、豊原のシナリオがおもしろいのだと思う。



 豊原は東北大震災に綱かる詩を書いている。「ひとと海」。その前半。

真っ青な海があった
大震災の夢から
ふと、目覚めてみると
街が呑まれて
世界が・荒地

そんな時、
ふっと、浮かぶひとの顔は
悲痛な顔
けれど
八歳と九歳の男の子と女の子は笑った
先生になりたい
父のようになりたい
その顔を見て
怒りが、さーっと、
引いて行った
その笑顔を忘れたくない
その笑顔を残してほしい
その笑顔は今を一変させた
好きなひとがいることの
手汗の喜び

 「今を一変させた」笑顔。そこに何があるか。「過去」があるのだ。「好きなひとがいる」というのが「過去」。先生になりたいのは先生が好きだから--先生が好きになるという過去の時間があるから。父のようになりたいのは父が大好きだから--父と一緒の楽しい楽しい過去が、子どもにそういわせるのである。
 大震災によっても傷つかなかったこころ。傷つかなかった過去。それが「いま」という時間に噴出してきて「場」を輝かせる。





夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(25)

2011-05-28 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(25)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 私がいま読んでいる「10」の部分は、何日に書かれたものか正確にはわからない。「09」には2011.3.27 という日付があった。「10」の日付は2011.4.1である。2011.3.27 から2011.4.1までに書かれたものかもしれない。
 その後半(きのう読んだ部分の残り)では、和合は気弱になったり、その気弱になった自分に対して怒ったりしている。揺れ動いている。

おまえの弱音を聞いていたら、きょうも嫌になったわい。特におまえは相当、弱っているな。悔しいか、苦しいか。フン、相変わらず、取るに足らない男だ。

教えてやろう。悔しいのなら。拳で拳を殴るんだ、拳で拳を殴る、拳で拳を殴る、殴る、殴る、いいか、悔しかったらな、こうするんだ、拳で拳を殴れ、拳で拳を殴れ。拳で拳を殴れ。おまえの魂はおまえが潰すがいい。おまえの魂はおまえに潰されるがいい。
(68ページ)

 このことばを受け止めるためには、私は、ことばを補わないといけない。「おまえ(和合)の魂はおまえ(和合)に潰されるがいい」は、「おまえ(和合)の魂は大震災というの悪魔に潰されてしまうのなら、おまえ(和合)地震の拳に潰されるがいい」である。そしてそれは、大震災の悪魔に負けるんじゃない、という和合自身の「鼓舞」なのである。逆説的な鼓舞なのである。
 悪魔のことばを逆手にとって、和合は言いなおしている。

悪魔め、悪魔。フン、おまえの弱音を聞いていたら、今日もいやになったわい。特におまえは相当、弱っているな。ゆっくりと地の底から、大きな魚がやってきて、体をひるがえして潜っていくかのような、余震。
                                 (68ページ)

 何百の、何千の、何億の馬と呼ばれていた余震が、いまは「大きな魚」になっている。余震は小さくなっている。それは和合のことばが震災に勝っているからである。
  --勝つ、といっても、それは簡単なことではない。
 怒りを、怒りのまま、怒りとしてもつことかできるようになったということかもしれない。
 いつ、どこで、ということを私は指摘できないけれど、「精神」としての「比喩」を書いたころから、和合は確実に「精神」というものを「肉体」のように育てているように思える。ことばによって。

暗い夜道を走って、海まで行こうと思った。私は精神に、冷たい汗をかいている。

ならば福島の暗い夜の平野を、怒りの速度となって、私は行け。
                                 (69ページ)

 この「怒りの速度」は「精神の、冷たい汗」の「精神」のように「比喩」である。書くことによって、「いま/ここ」に出現する「なにか」である。
 この「比喩」に別の「比喩」が呼応する。そして、そこに



 が、まぎれもなく屹立する。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行く。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は野の馬のいななきの本当の意味を知る。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は母の子守歌の本当の意味を知る。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は雨の後の風の本当のソプラノを知る。
                                 (69ページ)

 「野の馬のいななきの本当の意味」「母の子守歌の本当の意味」「雨の後の風の本当のラブソング」は、すべて「怒りの速度」が呼び寄せたもの、「ことばのスピード」である。そこにあるのは「速度/スピード」としての「詩」である。「本当の意味」など、ない。「無意味」しかない。いや、「意味」はなるというかもしれないが、それは「ことば」としては語られていないから、ない、としかいいようがない。
 ない、のだけれど、感じることができる。
 もし、この一群のことばに、ほんとうに「意味」が与えられるとしたら、それは「事後」のことである。和合が書いている「詩の礫」が完結し、そこに書かれていることばを静かに読み返す時に、どこからともなくやってくるものだろう。
 それまでは、存在しない。
 それまでは、ことばを超越して、「いま/ここ」とは別の次元に存在している。
 こんなふうに「いま/ここ」を超越して、特権的に別の次元に存在し、そこから降ってくるもの--それが詩である。
 和合は、それを掴んでいる。

 こうしたことばに出会った後(たぶん、それは「怒りの速度」のなかだけで、そのときだけ出会えるものだと思う)、自分の拳を自分で殴っていた怒りと哀しみは、少し姿・形をかえる。ことばを増やす。美しくなる。
 この変化に、私は、なんとなくほっとする。

俺は少しも泣いてない。

じゃあ、誰が泣いている?

主じゃない、福島の風と土が泣いている。

行き来る、行き来る風よ。そぼ降る、そぼ降る涙よ。広がる、広がる大地よ。俺は進む、海まで、進む。
                               (69-70ページ)

 ここにあることばの繰り返しは「拳で拳を殴る」のように、行き止まりにぶつからない。ことばを開きながら動いている。ことばを開いて行くところまで、和合のことばは甦ったのである、と思う。

ガソリンが切れるか、命が切れるか、心が切れるか、時が切れるか、道が切れるか、俺はまた、一個の憤怒と激情となって、海へと向かうのか。悔しい、悔しい、悔しい、海へ、悔しい、海へ、海へ。

太平洋へ。

激怒する、悲憤する、嗚咽する魂よ。海へ。

海原よ、汝は炎。潮凪よ、汝は炎。水平線、空と海を切り分けよ。黎明。一艘の帆船。
                                 (70ページ)

 ことばが、大震災で苦しんでいたことばが、ことばをおし開きながら動いているがわかる。

明けない夜は無い。
                                 (70ページ)

 それまで「祈り」だったことばが、いまは「実感」になっている。
 ことばは、語ること(書くこと)で、ほんものになるのだ。






地球頭脳詩篇
和合 亮一
思潮社


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リドリー・スコット監督「エイリアン」(★★★★★)

2011-05-28 17:40:50 | 午前十時の映画祭
監督 リドリー・スコット 出演  シガニー・ウィーヴァー、トム・スケリット

 この映画ではファーストシーンから宇宙船が登場するまでが一番好きだ。宇宙空間に「モノリス」が1個浮かび上がる。それが5個に増え、「ALIEN」という文字に変わる。「2001年宇宙の旅」に対するオマージュだね。まったく新しい「宇宙の旅」が始まるのだ、未知の存在が人間を覚醒させるのだ、と予感させる一瞬。いいなあ。と、思った次の瞬間、度肝を抜かれる。宇宙船(貨物船)の姿が「2001年」とは大違い。シンプル、スマートとは無縁。ゴシック様式である。でも、考えてみれば宇宙は真空。空気抵抗がない。どんな形をしていても同じ。いいなあ。「宇宙の旅」なんかに負けないぞ、違ったものを作ってやるんだという気迫が伝わってくる。
 で、コンピュータという人間の英知の結晶と戦うというのではなく、人間では絶対にありえない存在と戦うという飛躍がいいし、なによりもエイリアンそのものの造形がすごい。全体がわからないのがすごさの頂点。タコ?みたいにくねくねする尻尾?があって、指があって、何よりも口だけの頭がある。口だけ、という印象が強いのは、口の中からまた口がむき出しになって出てくるからだねえ。口の中から歯、そしてその奥の喉からまた歯が触手のように伸びる。あるいは勃起する性器のようにむき出しになる、の方が近いのかなあ。なにしろ、アップ、アップ、アップで、なんでもレイプしてしまいそうな強靭な牙がみえるだけで、全体の大きさもわからない(こどもの時は、まあ全体が見える、見えた感じがするけど――これも何やら、子供の勃起する前の性器、子供なのに性器だけがいきいきしている、みたいなやわらかな感じがあるなあ)。わからないから、怖さが想像力のなかで拡大してゆくという映画の取り方が、それを強調する。血液が宇宙船を溶かしてしまうような強力な酸も怖いねえ。滴り落ちる、これも血というよりありあまった精液のねばねばな感じがする。
人間に寄生してしがみついていると思ったら、体内に入って体を突き破って出てくる。なんだか性器がそのまま体を突き破る感じだなあ。ジョン・ハートには申し訳ないが、エイリアンの快感が体を駆け抜ける。(あれっ、私って「男色主義」?)いやあ、「エクソシスト」の緑のへど、首の180度回転以来の何度も見てみたい気持ち悪さだねえ。好きだなあ。再見してみると意外と短くて、うーん、残念、と悔しい感じすらするなあ。何だったかタイトルは忘れたが、ジョン・ハートが類似のシーンを演じるパロディ映画があって、彼が「またか」というセリフがあったな。みんな、あのシーンが見たいんだ。やったジョン・ハートすら。
最後に生き残るのがシガニー・ウィーヴァー、女性と言うのも、この当時はびっくりするなあ。エイリアンが男むき出しの造形なので、男ではなく、女が生き延びる(最後の戦いをする)というのが生きてくるのかもしれない。女と言っても、女を売りにしていない。科学的に状況を分析し、弱みも見せない。(そのくせ、最後はスキャンティ姿をちゃんと見せるんだけれど。)で、その最後なのだけれど、やっぱりレイプシーンに見えるねえ。エイリアンがシガニー・ウィーヴァーをレイプしようとする。それをシガニー・ウィーヴァーがレイプされる寸前、ヴァギナの入り口で遠ざける。開いた宇宙船のドアからエイリアンが宇宙に蹴りだされる(真空がエイリアンを引っ張るのだけれど)、けり出されまいとしがみつく・・・。よかったというか、残念というか(と書くと叱られそうだけれど、映画だから許してね)。――続編の展開をみると、私のような期待?が多かったんだろうなあ。(映画だから許してね。)




エイリアン [Blu-ray]
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20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(24)

2011-05-27 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(24)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 きのう読んだ「09」(2011.3.27 )の最後の美しいことばがある。

幼い頃。僕は家の近くの野原で星座早見盤をまわしている。妹が追っかけてきた。懐中電灯を持ってきた。「早く、早く、お兄ちゃん」。待ってろよ。妹が照らす灯りを頼りに、星空と手の中の早見盤を合わせる。出来た。ぴったりだ。はしゃぐ、僕と妹。瞬く星。もう一度、星と空を探させて下さい。
                                 (64ページ)

 ここにある「幸福」は「ぴったりだ」ということばに結晶している。何かを探す。それが一致する。探しているものと、探されているもの--であると同時に、僕と妹の、気持ちが「ぴったり」なのだ。星と早見盤の「一致」を借りて、ほんとうは僕と妹が「ぴったり」に重なり、その重なりに「宇宙」が重なることで祝福する。
 ここには和合が、だれかと「ぴったり」と重なりたいという願いが込められている。
 それは何度も繰り返される次のことばでも同じだ。

明けない夜は無い。
                                 (64ページ)


 
 「10」は、「09」に書かれていた幸福とは逆のところからはじまる。

私たちは精神に、冷たい汗をかいている。

私たちは魂に、垂らしているのだ。冷たい汗を。そして東日本の時計はものみな、1分だけ遅れたままだ。
                                 (64ページ)

 「汗」は「比喩」である--と、書いて、私はふと疑問にとらわれるのである。「汗」が比喩? 「比喩」とは、「いま/ここ」にないものを借りて、自分が向き合っているものを明瞭に浮かび上がらせる「ことばの技法」だが、汗が比喩?
 正確には「精神の汗」「魂の汗」が「比喩」ということかもしれないが。
 でも、違うのだ。
 「汗」が「比喩」なのではなく、「精神」「魂」こそが「比喩」なのだ。

 私の書いていることは、変に聞こえるかもしれない。私自身も、変なことを書いていると承知しているのだが、その変なことを追い詰めてみる。

 「比喩」とは「いま/ここ」にないものを借りて「いま/ここ」にあるものを印象づける方法である。たとえば「きみの微笑みはバラである」というとき、「いま/きみのほほえみ」自体は「バラ」ではない。あくまで「ほほ」にひろがる「やわらかなふくらみ」あるいは「輝き」である。その周囲の「目」や「唇」--ようするに顔全体かもしれないが、顔はバラではないということを前提として、バラという比喩が成り立っている。バラが顔の上にないということを前提としている。
 「私たちは精神に、冷たい汗をかいている。」はどうだろうか。「汗」は何をあらわしているのだろうか。「いま/ここ」にある何を「意味」して「汗」と言っているのだろうか。
 実は、私は、わからない。
 けれども、その「汗」そのものを強く感じる。「冷たい汗」を強く感じる。それは「肌」で感じる「冷たい何か」である。何かの拍子に、私自身がかいた「汗」の記憶がふいに甦ってくる。「汗」は実感である。「冷たさ」は実感である。
 そうすると(というのは、飛躍があるかもしれないが、私のことばはそんなふうにしか動かない)。
 そうすると「汗」が「比喩」なのではなく、もしかすると「精神」「魂」の方が「比喩」なのかもしれない。
 「精神/魂」が「比喩」というのは奇妙な言い方だが、「比喩」の最初の定義にもどって言いなおすと、「いま/ここ」にないものを借りて、「いま/ここ」にあるものを明確にするのが「比喩」ならば、「精神/魂」が「いま/ここ」にないのだ。「精神/魂」を「いま」「ここ」に呼び出し、共有するために、和合は「汗」と「冷たい」をことばにしているのだ。
 「冷たい汗」とともにある「精神/魂」。それを共有したいのだ。
 次の部分を読むと、それを強く感じる。

私たちは、冷たい汗をかいている。仕方がないから夕暮れには、大衆サウナへと行った。そこでは精神に、冷たい汗をかく屈強な男たちが、相当の熱気の中で座っていた。

私たちは、汗をかいている。ある男が言う。「昨日は、飯館で何も知らない牛が、トラックに並べられて、場へいくのを見た。何台もトラックが牛を乗せて、走っていった。ナチスドイツがかつてもたらした光景のようだった」。私たちは精神に、冷たい汗をかいている。

私たちは、汗をかいている。別の男が言う。「農業を営んでいた男性が、畑の野菜を全て廃棄した夜に、悲しくも自らの命を絶った」。私たちは精神に、冷たい汗をかいている。 
                                (65ページ)

 サウナで流している汗。これはほんものである。「比喩」ではない。それは熱い汗である。その汗の実感--肌をたどって流れる実感は、私たちに何を教えてくれるだろうか。「肉体」の存在を教えてくれる。その汗と肉体の関係を実感しながら、和合は精神と汗とを感じている。「冷たい汗」というより「精神」を感じている。
 場へ向かう牛、野菜を全部は遺棄して自殺した男--それを思い描く精神は「汗」を流している。「汗」を実感することで「精神」を実感する。「精神」を共有する。和合は、そういうことを書きたいのではないのか。
 星座と星座早見盤が「ぴったり」重なるのを見て、「ぴったりだ」とはしゃいだとき、和合と妹の「こころ(精神/魂)」は「ぴったり」重なった。同じようよ、無残な牛、無残な農業の男性を思うとき、「精神」は「冷たい汗」を流しながら「ぴったり」重なる。「冷たい汗」ではなく、その「精神/魂」をこそ、和合は取り戻したい、共有したいと願っている。「冷たい汗」は、むしろ、共有したくないものである。「冷たい汗」をぬぐい去り、涙を拭くようにぬぐい去り、「精神/魂」をもう一度元気にしたいというのが和合の夢だろう。その夢のために、まず「精神/魂」というものがあることを、はっきりさせたいのだ。「精神/魂」を「いま/ここ」に呼び出したいのである。

私たちは魂に、垂らしているのだ。冷たい汗を。そして東日本の時計はものみな、1分だけ遅れたままだ。
                                
 この「1分」とは何だろう。私には、よくわからない。ただ「遅れたままだ」が、和合の実感であることは納得できる。
 和合は「遅れ」を次のように書いている。

私は地震の日の夕方、ある大きな建物へと出かけた。知人と合わなくてはいけなかったからだ。知人を待っている間に、警備室のテレビを、盗み見た。その時からだ。私の本当の震災が始まったのは。

黒い波、全てを飲み込み、辺りを覆い尽くす、今という脅威。何百、何千。繰り返される画面映像。牙を剥く、現在。

黒い波、全てを飲み込み、辺りを覆い尽くす、今という脅威。何百、何千の…。繰り返される画面映像。知人に方をたたかれた。すぐ尋ねた。「これ、何?」。私たちの震災の真顔だよ。
                                 (66ページ)

 大震災を和合は直接体験している。しかし、その「事象」がはっきりしてくるのはあとからなのだ。季村敏夫が『日々の、すみか』で書いたように「出来事は遅れてあらわれる」。「1分」は、その「遅れ」の象徴(比喩)である。
 この膨大な映像、あふれる「事象」と「精神/魂」はまだ向き合えない。「精神/魂」は「目」や「耳」に遅れてあらわれる。ことばで形をつくらないことにはあらわれることもできない。
 ああ、だから、せめて、まず「汗」を感じ、「冷たい汗」を感じることから「精神/魂」を「いま/ここ」に呼び出そうというのか。
 そのために、ことばは、どんなふうに動けばいいのだろうか。

バスに乗ろうとして、それを待っている、鳩の群れが遠くの空からやってくる、意味の深遠な雲から飛来する、未来の言葉なのか。
                                 (66ページ)

 和合は、あらゆるものに「ことば」を見出そうとしている。あらゆるものをことばにすることで、ことばが動きだすのを励ましている。ことばとともにあらわれる「精神/たましい」を励ますように。




現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
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南原充士『インサイド・アウト』

2011-05-27 21:55:52 | 詩集
南原充士『インサイド・アウト』(洪水企画、2011年04月01日発行)

 南原充士『インサイド・アウト』は喪失感がただよう詩集である。何かなくした。そして、なくしたものを思い出している。「いきいきとしたもの」があるとすれば、その「思い出す」という動きのなかにある。「思う」というこころの動きが人間のいのちをささえている、ということを感じさせる詩集である。
 清潔でシンプルである。でも、私には物足りない。
 「試みの五感」。その書き出し。

目のみえない人に
ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を説明します

海の泡から生まれた裸の女性が絵の真ん中にいます
侍女が薄物でヴィーナスの体を隠そうとしてます

耳の聞こえない人に
ベートーヴェンの「運命」を説明します

タタタターンと手のひらを叩いてみせます
山谷の曲線を背中に指でなぞってみます

 えっ、それだけ? それで、つたわる?
 だいたい「海の泡から生まれた裸の女性が絵の真ん中にいます」って、目のみえるひとのための説明じゃない? 私は目が見えないわけではないが、失明の危機を(恐怖を)体験した。目のみえないとき「裸の女性」とだけ言われても、私は、何も想像もできない。裸の女を見た記憶があっても、目を閉ざして裸の音を想像できない。裸の女ということばで裸の女を想像できるのは、きっと目の見える人だと思う。裸であるかないかは、たいてい「目」で確認するものだから。
 触ると、おっぱいの方が手のひらをはじき返してくるような弾力のある女が、なめると、山の奥の岩清水を口に含んだような透明感の広がる脇腹の女が、……とかなんとか、「視覚」以外のことばでないと、想像力を駆り立てないんじゃない?
 「侍女が薄物でヴィーナスの体を隠そうとしてます」はもっとひどいなあ。「体を隠す」なんて、目のみえる人に対してやっていること。目の見えない人には、無意味なことだねえ。そういう「無意味」まで、きちんと説明するということかもしれないけれど、もしほんとうに無意味まで説明するなら、もっともっと「意味」も説明しないと、おもしろくない。
 だいたい、絵って、「視覚」にだけ働きかけてくるもの? 「視覚」に働きかけてくるものだけをとりあげて、それを「目のみえない人」に説明するというのは、どういうこと?
 なんだかぎょっとするなあ。
 「運命」の説明も変だなあ。「タタタターンと手のひらを叩いてみせます」というのは、目のみえないひとの手のひらを叩くのかな? それなら、まあ、わからないでもないけれど、どうも南原が耳の聞こえないひとの目の前で南原自身の手のひらを叩いているように感じられる。音って、そういうもの? 動きで「見せる」もの? 音は振動。その振動を確認するのは「目」?
 なんだか違うなあ。

鼻の利かない人に
オーデコロンを説明します

バラ園と香水製造工場のようすを示します
香水を吹きかける女性の胸元をアップします

味のわからないひとに
懐石料理の説明をします

趣のある食器に盛られた料理の色合いを示します
料理を口に運ぶひとの表情を示します

 ここでも説明は「目」に頼っている。
 南原の「五感」はたぶん「視覚」優先のものなのだろう。「優先」というより「視覚」が他の感覚を統合する形で動いているのだろう。
 どの感覚を優先するかというのは、ひとそれぞれの問題だから、何もいうことはないのだが--といいながら、私は書くのだが……。
 南原のことばを読んでいると、その「五感」がまじりあわない。別々に存在している。それがおもしろくない。「ヴィーナスの誕生」にもどって批判すると、南原の説明には「視覚」的表現しかない。目のみえない人に説明するなら、視覚以外の感覚を総動員して説明してほしい。手で触った感じ、舌で味わった感じ、匂いを貝だ感じ、耳に聞こえる音楽で「ヴィーナスの誕生」を説明してほしい。
 もし本気で、南原の「五感」を動員して、その絵を説明しはじめたら、南原のことばはきっと変わっていくはずだ。
 手で触った感じと舌で味わった感じがどこで溶け合うべきかを探し求め、触覚も味覚もゆらぐからだ。その揺らぎは当然嗅覚や聴覚にも影響する。感覚の伝播が、感覚そのものを揺り動かし、覚醒させる。そして、新しいものを発見する。ことばが、つぎつぎにかわっていく。ことばがことばではなくなる。--そういうことがないと、それは詩とは呼べない。

 最初に南原の詩には喪失感が漂っていると書いたが、その喪失感は喪失感のままである。ゆらがない。清潔で美しい。それは、何かを喪失することで変わっていく自分をことばで追ってみようとしていないからだ。自分を「いま/ここ」に固定しておいて、「いま/ここ」からなくなってしまったものをただなつかしんでいるからだ。ことばは、ことばのまま、そこにある。
 これは、おもしろくない。




笑顔の法則
南原 充士
思潮社



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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(23)

2011-05-26 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(23)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 03月23日の「詩の礫」。余震が続いている。

たくさんの馬の背に 青空 たくさんの馬の背に
                                 (57ページ)

 和合は、余震(地震)と馬のイメージを持ちつづけている。大地の底の馬。その疾走。それが大地だけに終わらず、「青空」と対比されている。

余震。何億もの馬。空に駆けあがろうとしているのだろうか。息を殺して、現在を黙らせるしかない。
                                 (57ページ)

 この、地底の馬と青空の結びつきのあとに、突然「息を殺して、現在を黙らせるしかない」が突然やってくる。
 「しー。余震だ」(40ページ)ということばをふいに思い出す。
 息を殺して、余震を受け止める。そのとき、和合は何かを聞こうとしていた。聞こえない「声」を聞こうとしていた。私は、そんなふうにして和合のことばを読んできた。
 また、和合が地震に対して「けっ、俺あ、どこまでもてめえをめちゃくちゃにしてやるぞ」と書いてきたこともはっきり覚えている。
 ふたつのことばを連続させて考えるなら、余震から何かを聞き取り(それは余震そのものではなく、和合の生きている様々な現実を含むだろうけれど)、余震を超えることばを書く、ことばによって大震災を乗り越えるという決意ということになるだろう。
 それはいまもかわらない。
 
余震。茶碗を洗っている。息を殺して、現在を洗いつくすしかない。

余震。原稿用紙に文字を埋める。また余震。埋め尽くすしかないのだ、震える現在を。
                                 (57ページ)

 「現在」を書くことが「余震」を乗り越えることなのだ。
 でも、「息を殺して」は何だろう。息をひそめる、息を止める--それは、「しーっ」につながるけれど(私のなかでは、つながるけれど)、よくわからない。
 わからないまま、読み進むと、次のことばに出会う。

余震。揺れている。私が揺れているのかもしれない。揺れている私が揺れている。揺れている私が揺れている私を揺すぶっている。揺れている私が揺れている私を揺すぶっている私を揺すぶっている。揺れている私が揺れている私を揺すぶっている私を揺すぶっている私を揺すぶる。
                                 (57ページ)

 大地ではなく、「私が揺れているのかもしれない」。
 大地が揺れているのではなく、「私が揺れている」というのは間違いである。間違いであるけれど、ことばは、そう考えることができる。人間は、そう考えることができる。混乱・動揺。「かもしれない」がそれを増幅する。疑惑。
 これは、人間の精神の運動である。そして、これもまた「現在」のひとつのあり方である。人間のあり方であり、ことばのあり方である。
 和合はそういうことを意識しているのかどうかわからないが、私の「現在」をそんなふうに描いている。
 その、「動揺する私」という「現在」を、和合は「息を殺して」黙らせようとしているのか。--これは、何だか、ややこしい。「動揺する私」という「現在」はことばにするとき、「黙る」とは逆の運動になる。
 和合はきっと、和合自身にもわからないことばの領域を動いているのだ。
 ここには、ことばになりきれない何かがある。
 「私が揺れているのかもしれない」以後のことばは、「精神(こころ)」のことであると読むのは簡単だが、精神だけではないかもしれない。「肉体」も含んでいるかもしれない。実際に、和合は彼自身の肉体を揺さぶりながら、何かをつかもうとしている。
 その揺さぶりの中には、ここには引用しなかったが、余震のたびにパソコンをもって二階から一階へ降りるというような運動もある。和合の「揺れる」には、左右上下の「揺れ」だけではなく、もっと大きな「移動」が含まれている。「段震災」の「揺れ」のあとでは、「揺れない起点」の設定(仮説)のありようが違ってくる。--これは、しかし、やはり「説明」が難しい。ややこしい。私は、そんなふうに感じている、というしかないことがらである。

 和合は、和合自身にもわからないことばの領域を動いている。(誰にもわからない領域かもしれない--つまり、ほんとうの「詩」の生まれてくる領域かもしれない。そうに違いない、と私は信じている。)

 途中、買い出しに行き、トマトを買う。そして、「熟れたトマトを持ってみて、分かった。野菜が涙を流していること。」(58ページ)というような美しいことばをはさみながら(そういう「現在」をことばで埋めつくしながら)、和合のことばはまた別の次元へと達する。

余震。揺れていない。私が揺れていないのかもしれない。揺れていない私が揺れていない。揺れていない私が揺れていない私を揺すぶっていない。揺れていない私が揺れていない私を揺すぶっていない私を揺すぶっていない。揺れていない私が揺れていない私を揺すぶっていない私を揺すぶっていない私を。
                                 (59ページ)

 57ページに書かれていたことばとはまったく逆になっている。書くことで、和合は和合が揺れていないことを確認したのだ。(そういう意味で、省略された「引用部分」というか、引用してこなかった部分の方が重要なのかもしれないが……。)書く、ことばを動かす--そのとき、和合はたしかにそこに存在する。そして、そのことばがたとえば「涙を流すトマト」と結びつき、あるいは防護服なしで献身的に働く南相馬市の職員と結びつき、無念の思いで牛乳を棄てる酪農家と結びつくとき--和合のことばはさらに揺らぎないものになる。「大震災」に対する怒りはさらに明確になる。--つまり、揺らがないことになる。 
 この強い確信。
 けれど、その確信の一方で、和合は不思議なことも感じるのだ。

詩よ。お前をつむごうとはすると余震の気配がする。お前は地を揺すぶる悪魔と、もしかすると約束を交わしているのか。激しく憤り、口から涎を垂れ流し、すこぶる恐ろしい形相で睨んでいるのだな、原稿用紙の上に首を出し、舌なめずりする悪魔め。
                                 (59ページ)

 和合が書いていることばが「余震」を呼んでいる。誘っている、と感じてしまう。ことばは、書くと現実になる--そのことばの力が、和合のことばにもあるかもしれない。そういうことを感じている。もし、そうなら和合のしていることは、してはいけないことである。それこそ「しーっ」「息を殺して」ただ黙っているしかない。
 書くことは、禍をまねく。ことばは、ことばが語る禍をひきよせる。
 和合のしていることは、「矛盾」そのものになる。「余震」に打ち勝とうとして、「余震」を呼び込むことになる。
 この「矛盾」を和合は、どう超えるか。

詩よ。筆で書き殴る度に余震の気配が濃くなる。決着をつけなくてはなるまい。これから先、俺の筆を少しでも邪魔しないようにな。いくら地を動かそうとも、俺の握力は詩を掴んで離さぬぞ。少し顔を出したら、のど元をかみ切ってやるぞ、悪魔め。
                                 (59ページ)

 禍を呼び込む悪魔としてのことば。それと戦いながら、それを上回ることばを書いていく。そう和合は誓うのだ。もう、和合は「揺らがない」。悪魔には魂を売ることはしない。負けはしない。

詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
                                 (60ページ)

 「詩を書く」その決意を書きつづけると、実際に詩がやってくる。「揺れる/揺れない」ということばの間を動き回っていたことが遠い昔のように感じられる。そういう美しいことばが、和合の一日の終わりにやってくる。

わたしは 何を待っているか四月の波打ち際で波の到来を想う
風の音をずっと聞いていると

わたしの情熱があんなふうに 湧きあがる 春の雲が立ちあがっているのが分かる水平線の上あたり風の音を味わう

風の音 少し弱めに風の音 少し強めに今日はあなたに わたしの心を伝えたいと想う風の音 かすかに

風の音 やさしく風の音 変わって風の音 もっと強くあなたをいつも想っていますよ

あなた 大切なあなた
                                 (60ページ)



地球頭脳詩篇
和合 亮一
思潮社



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廿楽順治『化車』(4)

2011-05-26 10:33:44 | 詩集
廿楽順治『化車』(4)(思潮社、2011年04月25日発行)

 廿楽の詩は「いかがわしい」「うさんくさい」。そして、それを「いかがわしい」「うさんくさい」というのは、廿楽のことばを理解するとき、いつもとは違う「肉体」をつかって理解するからである。いつもとは違う「肉体」へ廿楽のことばは響いてくる。
 「草濠」の【工事中】の書き出し。(この詩も行末が尻揃えになっているが、行頭を揃えた形で引用する。)

ぜんしんがもうにほんごのいうことをきかない
おれのしたことのどこがわるい
せむし
であることをかくさない
ご近所に
とりかこまれてなぐるけるのくらしぶり
そうかわからなけりゃ
からだでおぼえさせてやる
お年寄りだから
酔ってなぐるほうもかなしい

 「そうかわからなけりゃ/からだでおぼえさせてやる」とは乱暴な論理だが、たしかに「からだ」が覚えるものがあるのだ。それは「理解」や「納得」ではない。理解も納得もしない。けれど「からだ」が反応してしまう。「頭」は「からだ」の反応は間違っていると主張する。けれど「からだ」は動かない。私たちは「頭」とは違うもので動いてしまうのである。そういう部分へ廿楽のことばはするりと入り込む。「いかがわしい」「うさんくさい」は、ある意味では無防備な「からだ(私は「肉体」という表現をつかうのだけれど)」へ廿楽のことばが入ってきて居すわることへの、反発のようなものかもしれない。反発しながらも、それに反論ができないものが「からだ」のなかにある。
 「ぜんしんがにほんごのいうことをきかない」というのはどういうことか。たとえば、私は、この「ぜんしん」の「持ち主」を中国人とか韓国人と仮定して読む。日本が中国や韓国を侵略し、暴力をふるっていた時代。彼は、一度は「にほんご」の命令に従った。でも、いまは「にほんご」の命令など聞きたくない。「にほんご」に「からだ」が拒絶反応を起こしている。--こういうとこは、多かれ少なかれ、だれもが経験することかもしれない。ある人のことばが、いやでいやでたまらない。「ぜんしん」がそのひとの「ことば」を拒絶する。聞かない。身動きもせず、ただじっとしている。
 そして、そういう反応をする人間は、ときとして殴られる。「そうかわからなけりゃ/からだでおぼえさせてやる」という次第だ。そして、そのとき、殴られる人が無力な老人だったら、どうなるだろう。「お年寄りだから/酔ってなぐるほうもかなしい」。これは、殴る人間の勝手な言いぐさだが、そういうことはある。誰かが誰かを殴る。そのとき、殴られる人間が悲しいのはもちろんだが、殴る人間も悲しい、やりきれないということはあるのだ。殴る理由はあったかもしれないが、それはほんとうに殴らないといけないことかどうかはわからないし、無抵抗なものを暴力で支配するというのは、相手が無抵抗であるとわかればわかるほど、いい気もちはしない。--これも、まあ、いいかげんな言いぐさだねえ。
 
 ということは、ということにしておいて。

 この作品の不思議なところ(そして、それは廿楽の他の作品にも通じることだが)。
それは「主語」がするりと入れ代わることだ。これは私の「誤読」であって、違う視点で読めば「主語」は一貫しているかもしれない。廿楽は「主語」を一貫させて書いているというかもしれないが……。
 「ぜんしんがもうにほんごのいうことをきかない/おれのしたことのどこがわるい」と言っているのは中国人(韓国人)である。「せむし/であることをかくさない」。この「せむし」はほんとうの肉体か、「比喩」かよくわからない。「異形」(異なった存在)であることを隠さない。同化しない、ということをあらわす「比喩」かもしれない。「比喩」だとしたら、そこに「せむし」ということばを持ってくる感覚(肉体感覚、からだ感覚)が廿楽の特徴ということになる。--ともかく、ここまでは「主語」は「殴られる人」である。「殴られる人」であるが、単に受け身ではなく、「おれのしたことのどこがわるい」「……であることをかくさない」と自己主張もしている。ひとりの「主語」のなかに、動きがふたつあることになる。「にほんご」にしたがわない、動かないという消極的(?)な動きがある一方、主張するという積極的な動きがある。
 「そうかわからなけりゃ/からだでおぼえさせてやる」の「主語」は一転して「殴る人」である。「にほんごのいうことをきかない」人に対して「にほんご」で命令しているひとである。「日本人」ということになる。彼は言う(命令する)だけではなく、言うことを聞かない人間を殴っている。殴りながら「お年寄りだから/酔ってなぐるほうもかなしい」とからだで感じている。ひとりの「主語」のなかにも動きがふたつあることになる。暴力で支配しようとする動きと、支配しながらかなしみを感じる動きがある。
 それぞれの「主語」のなかの動きは、どこを起点にしてかわるのか、よくわからない。ふたりの「主語」にしても、「主語」自体が隠されている(書かれていない)ので、区別がはっきりとはわからない。「頭」で「主語」を確認することができない。「中国人」がこれこれのことを言った。あるいは「日本人」がこれこれのことをした、と書いてあれば「主語」を「頭」で理解できるがそれがないから、ぼんやりと「肉体」で、あ、ここには立場の違う人がふたりいるんだなあ、それは「中国人」と「日本人」かもしれない、と思うだけである。
 曖昧なのは「主語」だけではない。「ぜんしんがもうにほんごのいうことをきかない」。これは「中国人」の思いであるとして、それを「中国人」は「声」に出して言ったのか。声には出していない。でも「おれのしたことのどこがわるい」。これは、どうだろう。想っているだけなのか。それとも「声」に出して言ったのか。「日本人」の思いも同じである。「そうかわからなけりゃ/からだでおぼえさせてやる」。これは「声」に出して言ったことばのように感じられる。しかし、ほんとうは思っただけかもしれない。「お年寄りだから/酔ってなぐるほうもすごくかなしい」。これは、まさか「声」に出してはいっていないだろうと私は思うが、逆に「声」に出しても、それはそれで非常に痛切かもしれないと、急に思ったりする。
 「主語」もなあいまいなら、「ことば」が「声」に出されたかどうかもあいまいである。それでも、ここに「ドラマ」があると感じるのはなぜだろう。わからないことだらけ、りかいしていないことだらけなのに、はっきりと「ドラマ」を感じるのはどうしてだろう。何かが動いていると感じるのはどうしてだろう。
 ことばがある、ということがあいまいではないからだ。なにかしらのいがみあいがあり、そこでことばが動いているということはあいまいではない。ことばが動き、そのことばを追うとき、きっと「肉体」が動いているのだ。
 これは、路傍で腹を抱えてうずくまる人間を見たときの「肉体」の反応に似ている。うずくまる人は何もいわない。けれど、その姿勢、そしてもれてくる声にならない声を聞くと、私の肉体は、あ、この人は腹が痛いんだとわかる。私の腹の痛みではない。私の肉体の痛みではない。けれど、わかる。同じように、ことばを「聞く」とき、目で「肉体」を見たときのように、私の「肉体」のなかで何かが反応して、即座に何かを理解するのである。「ぜんしんがにほんごのいうことをきかいな」。あ、このひとは「にほんご」に反発を感じている人なのだ……、という具合に。
 そういう具合に読者に働きかけることばをつづらは「わざと」書いているのだ。

 廿楽は「主語」をあいまいにする。また感情の変化、行動の突然の変化も、理由もなしにことばにしてしまう。理由はなくて、ただことばの「手触り」というか、「感触」がある。その「感触」が、読者(私の--というべきか)の「からだ」の眠っている部分を揺り動かす。「あいまいさ」を利用して「肉体」に入ってくるから「いかがわしい」「うさんくさい」ということばで、私は「防備」してしまうのかもしれない。





たかくおよぐや
廿楽 順治
思潮社
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(22)

2011-05-25 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(22)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 ことばは「比喩」であり、「比喩」は自己投企である。(あ、なぜハイデガーの用語などつかってしまったのだろうと、いまは反省している。こういう用語をつかうと簡単になってしまう。考える部分が少なくなる。これでは、和合に申し訳ない。和合は自分自身のことばを書いているのに、それを借りてきた用語で「誤読」するとき、私は私自身と向き合う手間を省いていることになる。でも、書いてしまったなあ……。)
 
 しかし、ことはば「比喩」だけではない。というより、ことばは、そもそも何なのかわからない。「意味」がわからない。だれでも、最初はことばの「意味」がわからない。「意味」はたぶん、繰り返し繰り返しことばにであうことで「つくっていく何か」なのである。その「何か」が「いま/ここ」にないもの、「いま/ここ」にあってほしいものを指し示すとき(含むとき)、それは「比喩」になるのだが、「比喩」にはなれないことばもある。「意味」が確定されないまま揺れ動くことばがある。揺れ動きつづけ、想定されている(?)「意味」とは違うことばになってほしいことばもある。
 あ、いけない。また抽象的になりすぎた。
 私が考えているのは、(考えたいのは)、次のことば。

制御とは何か。余震。
                                 (55ページ)

 03月21日の冒頭に(最初に)書かれたことばである。
 「制御」とは、何かを自分の思い(目的)に沿うように調整しながら動かすこと--という「意味」を和合は知っていると思う。その知っていることばを取り上げ「制御とは何か」と書くとき、和合は「いま/これまで/ここ」で作り上げてきたはずの「意味」をあえて「わからないもの」にして、「いま/ここ」から作り上げたいと願っているように感じられる。
 「比喩」がある程度自分の「理想(目的/願い)」というものを含んでいるものだとすれば、ここに書かれている「制御」、「制御とは何か」ということばは、「比喩」ではないことばの運動ひとつの「具体的な何か」である。
 で、その「具体的な何か」とは何か。--わからない。わからないから、私は考えたい。

制御とは何か。余震。

 「制御」と「余震」が同時につかわれるとき、わかることがある。「制御」には「制御できる」と「制御できない」がある。さらには「制御する」「制御しない」がるあかもしれない。「制御したい」「制御しなければならない」もある。
 「制御」の「意味」は「何かを自分の思い(目的)に沿うように調整しながら動かすこと」という「名詞」の状態ではおさまりきれないのである。「できる/できない」「する/しない」「したい/しなければならない」のように、動詞として動かしてみなければ、ほんとうの意味は浮かび上がってこない。
 動詞派生のことばは動詞に還元し、動詞そのものとして「意味」を点検しなくてはならないのである。
 余震。大地の揺れ。これは人間の思い出はどうすることもできない。和合がどう思うおうが、ふいに起きる余震を止めることはできない。そうすると、「制御するとは何か。余震。」というときの「制御」は、余震は制御できないのに、それではなぜ「制御」などということばがあり、また、地震(余震)のたびに「制御」ということばが思い浮かぶのかという問題が起きてくる。
 余震が制御できないものならば、余震に対して制御ということばを思いつかなければいいのに、人間は思いついてしまう。
 それは、なぜ?
 制御できない。けれど、制御したいからだ。このときの「したい」は意思というよりも、祈りに近い。
 ことばは--ことばは祈りなのである。

 制御とは何か。

 和合がそう書くとき、和合は祈っているのである。「制御」に祈りを込めている。ことばに「祈り」をこめたからといって現実がかわるわけではないかもしれないが、ともかく祈るのである。

あなたは「制御」しているか、原子力を。余震。

人間は原子力の素顔を見たことがあるか。余震。

相馬の果てなき泥地よ。無人の小高の町よ。波を横腹に受けた新地の駅よ。国道に倒れた、横倒れの漁船よ。余震。

巨大な力を制御することの難しさが今、福島に二重に与えられてしまっている。自然と人工とが、制御出来ない脅威という点で重なっていく。余震。
                                 (55ページ)

 ここでは、「祈り」はまだ「祈り」になりきれていない。「制御」は「制御出来ない」ということば、動詞になって暴れている。ことばが暴れるままに動いていて、和合はそれに異義をいいたいのだが、どうしていいかまだわからない。「制御とは何か」しか言うことができない。
 けれど「制御とは何か」ということばから書きはじめて、そこまで書いたあとで、実は変化が起きる。
 ことばが暴れ回るのを受け止めたあと、和合の肉体のなかから、それまで押さえつけられていた何かが動きだすのである。

制御不能。言葉の脅威。余震。

言葉に脅されている。言葉に乞うている。余震。
                                 (55ページ)

 余震は「制御出来ない」。原子力も「制御出来ない」。いまは、「制御」は「できない」ということばとともに動いている。その動きは和合の「思い」とは違っている。和合は「制御できる(したい)」ということばへと、ことばそのものを動かしていきたい。

 そういうことは、できないことなのか。

「制御」であって欲しいのです。
                                  (55ページ)

 「制御」であってほしい--は、正確には「制御できる」であってほしい、ということだろう。和合は「制御」ということばに、制御は「できる」ということばと結びついて「意味」をつくってもらいたいと祈っているのである。
 それは「制御できる」こそを「意味」としてつくりあげたいということである。
 この「祈り」から、「制御」をみつめなおすと、「制御」には「いま/ここ」にあるのとは違う「意味」がはっきりは含まれる形で動きだす。
 とても美しいことばが、広がる。

言葉に乞う。どうか優しい言葉で、いてくださいよ。ね…。余震。

制御。あなたは、たえまなく押し寄せる、太平洋のさざなみを、優しく止めることができるか。余震。

制御。あなたは、こんなにも優しい人への想いを、静かにとどめることが出来るか。出来ないと思うよ。余震。
                                 (55ページ)

 「制御」とは「制御できる/できない」という「力」のことではないのだ。力を加えることで、対象を動かすのではなく、力を受け止め、優しくつつむことなのだ。
 そういうことこそ「制御」であるべきなのだ。
 「制御」ということばに、そうあってほしいと和合は祈っている。願っている。
 「制御できない」という表現は、「愛しい人への想いを制御できない」というような具合にだけ有効になるような、そういう動きをしてほしい--和合は、そう祈るのである。
 「余震を制御できない」「原子力を制御できない」--そういうふうにつかうのは間違っている。「愛しい人への想いを制御できない」という文脈、その意味でだけ、制御はつかわれるべきなのだ。

制御。あなたは、驚くほどにあなただ。あなたほど、あなたである人はいない。あなたであること。優しく留めることが出来るか。余震。そして僕は、そんなあなただから、愛しているのに。 

あなたは誰よりも早く、しなやかにあなたでありつづける。そんなあなたを愛しています。余震。あなた、大切なあなた。「大切な」の後には「あなた」しか、続かないのです。安否不明。16630人以上。
                                 (55ページ)
 
 「あなた」と呼ばれているのは、「優しく受け止める」という「意味」の「制御」ということばであり、また「優しく受け止める」いのちをいきる全ての人々でもある。それは全ての人々の「制御」が「優しく受け止め、動きを止める」という「意味」であってほしいという「祈り」でもあるということだ。
 「制御」とは、そういう「愛」であってほしいという和合の「祈り」がこのことばのなかに結晶している。
 そして、ここには、これまで引用してこなかった和合の家族の生き方、家族から言い聞かされたことばが反映している。

幼い時の夕暮れ…。ばあちゃん、ボク、仕返ししてくる。仕返し、したくる。止めな。やられたら、やり返すでは、ダメなんだよ。いやだ、仕返ししてくる。ダメだ。止めな。怒っているボクに、ばあちゃんが握ってくれた、ばあちゃん得意の、みそおにぎり。
                                 (53ページ)

 「制御」と「優しさ」。その結びつき。
 余震や原子力の暴走は「優しさ」では制御できない。そういうことは承知である。だが、「制御」を「制御できない」という文脈(意味)から解き放つ祈りのなかに、きっと何かがあるはずである。
 その可能性を、和合は、ことばにしている。






黄金少年 ゴールデン・ボーイ
和合 亮一
思潮社



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大西若人「森の存在感は何故か」

2011-05-25 18:52:36 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「森の存在感は何故か」(朝日新聞2011年05月25日夕刊)

 大西若人「森の存在感は何故か」はポール・セリュジエ「ブルターニュのアンヌ女公への礼讃」について書いたものである。
 私はポール・セリュジエについては何も知らない。初めて見る画家である。女(たぶんアンヌ女公)が左側にいて、右側には3人の男がいる。背景は「森」と言うことになるのだが、奥行きは感じられず、ちょっとマチスの室内の装飾を思わせる。壁、何かを仕切る壁のような感じがする。
 この絵について、大西はこう書いている。

 カーテンの柄のように文様化された葉の群れは、人物とは重なっていない。同じ一つの面に収まっているとも映る。
 葉は、実は背景ではないのかもしれない。つまり、森との共存。ほら、木々の葉たちも、兵士たちと対等な存在として、女公の言葉に聴き入っているようではないか。

 いつもながらに楽しい文章である。絵を超える文章である。大西の文章を読んだあと、それ以外の視点で絵を見るのが難しくなる。
 ――という、いつもの感想とは別に、私はちょっと違うことを感じた。あれっとつまずいた。「木々の葉たち」。うーむ。「葉たち」、複数か。思いつかないなあ。この「葉たち」の「たち」がつぎの「兵士たち」の「たち」と重なりあう。そのために、「葉」が人間に思えてくるときの錯覚(?)が強くなる。説得材料のひとつになる。
 こういう工夫(?)を大西はしていたのかなあ。気がつかなかった。
 それに先立つ、「つまり、森との共存。」という断定。そして、間をおかずに「ほら、」とつなぐ呼吸。あ、これも、なんだか新しい大西を見る感じがするなあ。


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イェジ・アントチャク監督「ショパン 愛と哀しみの旋律」(★★+★)

2011-05-25 17:33:34 | 映画
監督 イェジ・アントチャク 出演 ピョートル・アダムチク、ダヌタ・ステンカ、ボジェナ・スタフラ、アダム・ヴォロノヴィチ

 あ、主役はショパンじゃなくて、ジョルジュ・サンド。ショパンは狂言回しだねえ。それはそれでいいんだろうけれど、私はジョルジュ・サンドを読んだことがない。で、どのシーンにも共感を感じなかった。
 ショパンを、ジョルジュ・サンドと娘と息子が、三つ巴になって奪い合う。いわば家族劇なのである。それも本当はショパンを奪い合うというより、ショパンに奪われた母(ジョルジュ・サンド)の愛をショパンから奪い返すという戦いである。これはこれで、そうか、母親への愛の渇望はこんなに激しいのか、と思わないでもないが、どうもしっくりこない。
 音楽とかみ合わないのである。
 もっとも、ジョルジュ・サンド一家の「家族愛」の形と、ショパンの一家の「家族愛」の比較、その比較をとおしたショパンとジョルジュ・サンドの違いを描いていると思えば違ったものが見えてくるかもしれない。
 ショパン一家には「家族愛」の葛藤がなかった。そのかわり、ショパンに家族全員の愛が注がれていた。ショパンはその愛のなかから誕生した。
 うーん、しかし、これもうまく音楽とかみ合わない。
 映像と音楽の関係は、なにも音楽はバックグラウンドミュージックであれというつもりはないのだけれど。
 私には、しっくりと感じられない。
 スクリーンにうごめく映像と、ショパンの音楽が、同じ感情から噴出してくるものとは感じられないのである。唯一、ショパンが思い出す星の歌以外は・・・。
 あ、もう一曲あった。最初の方に演奏される「革命」。これはすごいなあ。「革命」を聞いたとき、どこが革命? 繊細すぎて、社会がかわる激動のパワーとは違うものを追っていない?という疑問にとらわれるけれど、そうか、ショパンが自分の存在基盤を奪われた悲しみの曲なんだ、と知った。激しい映像の背後で、旋律が震えるように泣いている。
 でも、この不思議な一体感は、実際の「ストーリー」が始まると、消えてしまう。
 私のように、ショパンの音楽にもジョルジュ・サンドの文学にも疎い人間にはわからない何かが描かれているのかもしれない。リストとショパンの関係とか。きっと、これはショパンにもリストにも、ジョルジュ・サンドにも精通した人向けの映画なのである。
 まあ、しかし「革命」だけを聞くつもりでいけば、おもしろいかもしれない。私は「革命」に衝撃を受けすぎて、それ以後を見落としているのかもしれない。聞き落としているのかもしれない。
 (追加の★は「革命」の演奏に)
(2011年05月24日、KBCシネマ1)
コメント (1)
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