詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉惠美子「春兆す」ほか

2025-01-17 23:07:44 | 現代詩講座

杉惠美子「春兆す」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年01月06日)

 受講生の作品ほか。

春兆す  杉惠美子

新しい春に佇み
息をひそめて おさな児と手をつなぐ
一瞬の 未来を見つける

透明さの中に立ち
樹々の息づかいを聴く
一瞬の 呼吸の深さに出会う

早朝の心を歩かせ
通り過ぎる 君の声を聞く
一瞬の はるの渦に溺れる

桜木の影に佇み
朧月のほのかさに埋もれる
一瞬の 回想に包まれる

 起承転結の構造がしっかりした作品。一連目「おさな児」と「未来」、二連目「息づかい」と「呼吸の深さ」の呼応がとても自然。それが三連目で「君の声」と「はるの渦」へと変化する。タイトルには「春」と漢字をつかっているが、ここでは「はる」。そこに、ふしぎな官能性がある。「溺れる」がそれに拍車をかける。これを受けて、四連目で「埋もれる」「包まれる」ということばがつづく。その静かさ。
 「春兆す」。しかし、そのとき、もう二度と帰って来ない「春の記憶」もやってくる。よろこびと悲しみが交錯する。記憶は悲しければ悲しいほどいとおしいし、うれしければうれしいほど、逆にいまを悲しくさせもする。人間の思いとは、わがままなものである。
 こうした気持ちがあって「回想」ということばが選ばれているのだと思うが、この「回想」は、少し「答え」というか「結論」になりすぎてしまっているかもしれない。では、どんなことばがいいのかというと、なかなか思いつかないのだが、「回想」というあまりにも客観的なことばよりも、「かなしみ」(愛しみ)につうじるような感情的/主観的なことばでもいいような気がする。
 つまり、というのは変かもしれないが、私は、この詩を、いま、ここにいない人に対する「ラブレター」のように読みたい気になるのだ。

私人--杭に立つ葉  青柳俊哉  
 
木肌からとじられて離れていく 
自由な私人として 
地上のすべてから力を受けて
 
着地点を定めず飛ぶ
 
殯(もがり)をうつ漏刻の森 落ち葉の列が風に立つ
高くうず巻き さらさらと川へ流れる
 
わたしも水を駆ける 堰の杭にとまる
 
葦 かや吊り草 野鴨 
吊り橋で跳ねる青蛙 
過ぎていく他の木の国の葉たち 
 
出会うものたちが
杭に立つまっ新(さら)なわたしをことほぐ

 たとえば、ここに一本の杭がある。杭だから、それは生きている木ではないのだが、枯れている木なのだが、なぜか一枚だけ葉が残っていると思ってみる。そして、その最後の葉は、いまどこかへ行こうとしているのだと思ってみる。
 その葉から見たとき、世界はこんなふうに見えるかもしれない。
 その一枚の葉は、杭を離れながら、かつて木を離れたいくつもの葉に(仲間に)であう。また、その葉のまわりに存在する新しい世界も知る。
 そんな旅立ちを、世界が祝福している、と読んでみたい。


残された者  堤隆夫

年の瀬 残された者は 
どうやって 新年を迎えればいいのか

愛しい思いは 一片の冬の花びらに 
涙の想いの雫を託して 
こころのせせらぎに 流そう

なぜ なぜ いつも善き人が 
先に逝ってしまうのだろうか

あはれ わたしは 朽ちた花そのものでないまでも
あなたの花影だったのかもしれない

思い出があるから 生きられるのか
然らば 思い出の浮草に乗って 旅立とう

わたしは先を越されてしまった 
置いてけぼりにされてしまった

さようなら さようなら
万葉の鐘の音が聞こえてきた

 「思い出があるから 生きられるのか」という一行に、何を読み取るか。ひとそれぞれだろう。「楽しい思い出」があるから、いまがつらくても「生きられる」のか、「悲しい思い出」があるから、生きられるのか。つまり、私には悲しみ、苦しみにを乗り越える力があると実感できるから、生きられるのか。
 青柳の、「杭に残った一枚の葉」(と、読むのは私の「誤読」で、青柳はちがったことを意図しているかもしれないが)は、「わたしは先を越されてしまった/置いてけぼりにされてしまった」と感じたことがあったかどうかわからないが、この堤の詩のなかの「わたし」はそう感じている。そして、そのとき、もし堤の「わたし」が「葉」ではなく「花」だったとしたら、「わたしは 朽ちた花そのものでないまでも/あなたの花影だったのかもしれない」ということになる。「わたし」と「あなた」は、そんなふうに交錯する。
 あらゆる存在(人間)は個別性を生きているが、個別であるのに、どこかで交錯してしまう。
 ひとの感じていること、考えていることは、基本的に「私の問題」ではないのに、他人なのだからほっておいていいはずなのに、考えたり、感じたりしてしまう。時には、そのひと以上に真剣になってしまう。そして、ふしぎなことに、その瞬間、「私」というもの(枠)が消えて、なんだか豊かになる。
 そんな瞬間をもとめて、私は、詩を読んでいる。詩だけではなく、ことばを読んでいる。

柱時計  淵上毛銭

ぼくが
死んでからでも
十二時がきたら 十二
鳴るのかい
苦労するなあ
まあいいや
しっかり鳴って
おくれ

 「死」が登場するが、ちっとも「死んだ」気持ちにならない。ずーっと生きている感じがする。たぶん、この詩を読んでいるうちに、私は淵上にではなく、淵上が書いた「柱時計」になっているのだろうなあ。柱時計になって、淵上がいようがいまいが関係なく、時を知らせ続ける柱時計になって生きているということだろうなあ。そして、それはまた同時に、この柱時計という詩を書いた淵上になっているということでもある。
 「十二時がきたら 十二/鳴るのかい」という行の展開の仕方も、とてもおもしろい。散文では、こういう展開はしない。そうすると、ここにも、詩が動いていることになる。いわゆる「論理」の踏み外し、踏み外しながら別の「論理」(?)へ移行する。これを「別の論理と交錯する」と書き直せば、今回の「講座」のテーマが浮かび上がるかな? ちょっと、強引かな?

 


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堤隆夫「さびしい町を発とう」ほか

2024-12-11 23:36:28 | 現代詩講座

堤隆夫「さびしい町を発とう」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年12月02日)

 受講生の作品ほか。

さびしい町を発とう  堤隆夫

あの日が もう 帰って来ないのなら
私には もう なあーんにもない
もう 空蝉の木漏れ日の水面に 戻ろう
幼い日々の 言葉を知らなかった あの日の 木賊色の水面に戻ろう
不安と期待が入り混じった 薄紅の春の昼下がりのひと時
酩酊して崩れ落ちた あの日の思い出は 苦いなみだの雫
半分だけ幸せだったあの日は もう 帰っては来ない
一年前の受話器のあなたの声は もう 聞けない
姿は見えなくても 声だけでも もう一度-----
詩とは 思い出の表現なのか?
焦がれて焦がれた 私の さびしい町
私は 今 空の水面に浮かぶ 根なし草
こころとは さびしい町
こころとは 戻ることのできない焦がれ町
さびしい町の残像を 鈍色の雑嚢に詰めこんで
さあ 肺胞に青息吐息を詰めこんで なみだの水筒を持って 発とう
生きるために なあーんにもない黙示録の逝きし世に向かって 発とう

 「ことばの響きが美しい。音楽が響く」「歌の歌詞になる。青春の歌。半分だけ幸せの半分が印象的」「誘いを感じる。いままでの作品とは色を異にしていて驚いた。力が抜けている」「半分からの四行が印象に残る。最後の三行もいい」「なみだの水筒が、とてもいい。これがタイトルだったらいいなあ」
 いままでの作品と印象が違うのは、ひとつには、反語的質問がないからかもしれない。発とう、という呼びかけが特徴的だ。「歌詞」という視点から見れば、昼下がりのひと時、苦いなみだの滴、焦がれ町のようなことばの動かし方が「歌詞」に似ているかもしれない。
 もし「歌詞」に徹するのだとすれば、「詩とは 思い出の表現なのか?」という一行はない方がいいかもしれない。ここには堤の「反語的質問」のスタイルが残っている。
 (「涙の水筒」をタイトルにしたら……という受講生のアイデアにのっかって、私も、ちょっとこうしたらどうなるかな、ということを提案してみたい。)
 ここを一行空きにして連を変える。最後の部分も、最後の二行を三連目にするとおもしろいかもしれない。意味的には「さびしい町の残像を 鈍色の雑嚢に詰めこんで」は三連目のことばにつながるもの、つまり、そこに一行空きを入れると、「連またがり」になるのだが、その「不自然さ」が逆に最後の二行を際立たせることになるかもしれない。
 これは私が頭のなかだけで考えたことなので、実際に書いてみる(印刷してみる)と違うことを思うかもしれないが。
 スタイルをかえてことばを動かしてみるのも、おもしろいかもしれない。

水、ひろしま  青柳俊哉

詩、目に見えないかなしみ
世界、目に見えないうつくしみ
すべてに行き渡って水がうつし水が記している
 
ドームの跡に佇む水の目の少女
黄色い星の光を瞳にあふれさせるゲルマニアの少年
水牛とともに涙を泳ぐ女
 
雪は黒い塵にふれて初めて結晶する
鐘を打つように見えない世界を水の手が響かせる
その音が街の涙の暈を増す
 
外側を詩がながれる 
かなしみよって世界は
償われている

 「現在の広島の川から、かつての残酷な光景を想像するのはむずかしい。最終連、悲しみがあってひとは産まれる。残酷を知っているのに人間はそれを繰り返してしまう」「何度も声に出して読みたい。詩は悲しみの表現。エモーショナル」「タイトルが美しい。水が様々に表現されているが、詩と悲しみと水が一体になっている」
 ことば、音の関係について考えたい。かなしさ、うつくしさではなく、かなしみ、うつくしみ、と書く。その最後の「み」の音のなかに「水」の「み」が隠れている。そのためだろうか、三行目「水がうつし水が記す」のなかに「うつしみ(現身)」が隠れているように感じられる。いきているひと、しかし、死んでしまったひと。死んだけれど、生きている姿を思い出さずにはいられない、そのいのち。そのゆらぎのようなものがある。
 二連目、涙の目の少女ではなく、水の目。それが、そのあと水を泳ぐではなく、涙を泳ぐ。水と涙が交錯する。水即涙、涙即かなしみ即うつくしみ。

待ち時間  杉惠美子

冬が進んでいく朝
私は麓の道をゆっくり歩いてみます
一方通行ではない道を探します
あれこれ つぶやきながら
耳を澄ましてみます


私の輪郭が
ほどよく 柔らかな光の中に
貌となって
現れ
少しずつ真ん中に集まっていく
そんな
時を待って
ゆっくりと 歩いてみます


真ん中に集まった灯りは
小さくても消えないように
私の中で 灯しつづけます


赤い椿の花の蕾も
だんだん 膨らんできています

 「貌(かたち)という感じのつかい方がいい。一連目の、一方通行から三行がいい。三連目の、真ん中に集まるがつかみきれない、それが蕾に変わっていくところがいい」「冬から春への時間の流れと心の流れが重なる。一方通行とあれこれの対比がいい」「三連目の灯りということばに作者の希望を感じた。詩の可能性が広がる」「三連目の、私の中に向かって一、二連目が用意されている。少しずつ、だんだん、変わる。感情の高まりを感じる」
 私は三連目の、少しずつ真ん中に集まっていくの「いく」ということばに少し驚いた。四連目で「私の中」ということばが登場するが、集まったものが私の中で形をとるならば、それは、集まって「くる」だと思う。しかし、三連目では「輪郭」ということばが象徴するように、まだはっきりとは「私の中の「中」が意識されていない。何か、客観的に対象を見ている感じが残っている。そのために「いく」になっている。しかし、集まるに従い、それが「輪郭」ではなく「中」と結びつく。こういう変化を描くには、やはり「いく」がいいのだろう。
 「私の中」、つまり「主観」になったあと、それが椿の蕾となって再び客観化される。蕾は風景ではなく、象徴になる。
 象徴(あるいは比喩)が、どうやって誕生するか。そのときの「無意識」の動きが「いく」ということばのなかに隠れている。こうしたことが影響して、受講生も季節の変化、時間の流れだけではなく、「心の流れ」を感じたのだと思う。

クリスマスツリー  宮尾節子

はじめに言葉がありました。
「今夜、わたしはモミの木になる」
つぎに、時が言いました。
「じゃあ、わたしはクリスマスになるね」
つぎに、涙が言いました。
「じゃあ、わたしは全部ガラス玉に変わるわ」
つぎに、思い出が言いました。
「わたしは、良い物だけ取り出して
一つずつ枝に飾っていく」
泣きやんだ瞳が
輝きながら、訴えました。
「わたし、てっぺんでお星様になりたい」
みんなが賛成したとき
耳元でそっと、悲しみが囁きました。
「だったら、最後にわたしが
喜びにかわるね」

街のなかでも家のなかでも
今日、世界じゅうでいちばん幸せ者の
クリスマスツリー。

あなたが、一度倒れたモミの木だって
誰も覚えていない。

 ここには書かなかったが、谷川俊太郎追悼の記事を読むなどして、あまり作品に触れる時間がなかったのだが。いろいろな変化のなかで「悲しみ」が「喜び」という正反対のものにかわるところに注目が集まった。
 その三行もいいが、最終連が、複雑でとてもいい。
 「誰も覚えていない」が作者は知っている、つまり覚えている。直前に「倒れた」という表現があるが、ほんとうに「倒れた」のか「倒されたのか(伐られたのか)。そういうことを考えさせる。「誰も覚えていない」という反語的表現が、読者を目覚めさせる。非常に深い。


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杉惠美子「秋の階段」ほか

2024-11-30 23:01:39 | 現代詩講座

杉惠美子「秋の階段」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年11月18日)

 受講生の作品。

秋の階段  杉惠美子

秋の階段を登ったら
銀杏の色に染まってしまって
自分を見失ってしまった

秋の階段を降りたら
川に落ちて
落ち葉と一緒に流れてしまった

秋の風は
窓を探して迷ってしまって
空に舞い上がった

やがて秋の風は
人の心を優しく包み
穏やかな風となってあたりを静かに包んだ

その白い風の中から
私は
何かを手繰り寄せたいと思った

離れて自分を観る
今年の秋が
そこにあるかもしれない
 
 受講生の声。「連の進み方が詩。秋の風は、春や夏の風と違って白い。その白い風がいい」「途中で風が主体になる。最後の、あるかもしれない、が印象的」「四連目までは、杉さんらしい詩的表現。最後の二連に飛躍がある」「終わりから二連目の、何か、というのはわからないもの。そのわからないものをつかもうとしている」
 受講生のひとりが言った「途中で風が主体になる」という指摘は、この作品のポイントだと思う。
 一連目は、いわゆる比喩。私が銀杏色に染まり、銀杏と区別がつかなくなり、自分を見失ってしまう。論理が動いている。ところが二連目では「川に落ちて」とある。私は実際には「川に落ちて」などいない。落ちたのは落ち葉である。落ち葉を見たとき、杉は落ち葉となって、川に落ちた。まあ、これも比喩ではなるけれど、この比喩は二段階に動いている。つまり加速している。別なことばで言えば、ことばが暴走している。ことばの暴走が詩なのである。書かれていることは「うそ」なのだけれど、ことばが加速していくときのエネルギーに「うそ」がない。そういうところに、詩が存在する。
 三連目に注目する受講生はいなかったのだが、私は、ことばの暴走の点から見ても、この連はおもしろいと思う。ここには「ま」の音の繰り返しがある。一連目にも「ま」の音はあるのだが、三連目の方が、何といえばいいのか、「無意味」である。「窓」が登場する必然性はない。(と、私は感じる。それが「無意味」という意味である。)「迷う」「舞い上がる」とイメージが暗くなるのではなく、明るく軽くなっていくところも、無責任(?)でいいなあ、と思う。こういうことも「無意味」につながる。杉は、きちんと「意味」をこめて書いているのかもしれないが、私は「意味」を考えない人間なのか、こういう「意味」を離れる「音」というものに強く刺戟を受ける。
 谷川俊太郎の「鉄腕アトム」の「ラララ」と同じである。「音」だけになって、そこからほんとうに何かが加速する。
 この詩も、一連目、二連目の展開の仕方は、いかにも「秋」、センチメンタルな美しさに満ちている。それが「ラララ」ではなく「ままま」を通して「私」ではなく「風」に重心が移る。(受講生のことばで言えば「主体」が変化する。ほんとうは私の考えとは違うことを言っているのかもしれないが、私は、そう言っているのだろうと「誤読」する。)
 しかし、ほんとうに「主体」が完全に入れ代わったのではなく、「私」もまだ「私」のまま動いている。「風」も「私」も、「自分」なのだ。
 で、「離れて自分を観る」という哲学的なことばがぱっとあらわれるのだが、このあたりの「呼吸」が軽やかでいい。感傷に溺れない清潔さがある。

星とかえる  青柳俊哉 

高木のうえでかえるがうまれる
吹きならす星のような酸漿(ほおずき)
 
空の水面に
声の輪がひろがり無数に波立つ
 

絶えず星へむかってかれは吹く
身体の深みから知覚できないものの肌へ
貝を吹きならすように
 
星がそよぎ岩が鳴る
光に乗せてゆらぐ輪を返す
 
かれはすべての星の声を聴く
かれは世界の星の声と合一する 
原初の星がうたう

 「かえるには、カエルと帰るが重ね合わさっている」「星とかえるがつないでいるのが不思議。かえるの表現もふつうとは違った描写」「星とかえるの組み合わせにびっくり」
 重ね合わせる、ひとつのことばにいくつかのイメージが重なり、ひとつに整理できない。その未整理を「混沌」と呼んでもいいかもしれない。詩は、その「混沌」のなかから、それまでになかった姿としてあらわれてくるものだろう。
 私は、この詩では「吹く」という動詞に注目した。酸漿を「吹く」、(ほら)貝を「吹く」。そのとき人間ならば、ほほが膨らむが、カエルなら腹が膨らむのか。強く「吹く」ためにはほほを膨らませ、唇を狭くする。風圧をコントロールする。何かを動かすためには、そういう「矛盾」というか、一種のコントロールが必要だが、そうしたコントロールを意識するとき「合一」ということがおきるかもしれない。「星の声」と「かえるの声」が「合一」するとき、星とかえるの、自分の声をコントロールする力こそが「合一」のものになっているかもしれない。
 「表現/声」よりも、混沌としたエネルギーをコントロールする力が、世界を「一体化」するのかもしれない。「身体の深みから知覚できないものの肌へ」と青柳は書くのだが、私は「知覚できない」ものは、「身体の深み」にあるエネルギーそのものであると、逆に読むのである。それは直接知覚できない。しかし、それをコントロールしようとする力のなかで、反作用のようにして身体の存在そのもののように感じられてくる。「星とかえる」と青柳は書くが、それは青柳の二つの別の呼称だろう。


空はなぜ青い?  池田清子

そんなこと 考えたこともなかった
生まれたときから
昼間の空は青かった
灰色の空を見て
憂いを感じる子供ではなかった
雨の日に
雨音を楽しむ子でもなかった
晴れた日にだけ
外を見ていたにちがいない

なぜ 青い?

なぜ? って思ってたら
科学者になってたかも
太陽や地球、空気、光、色
水素だとかヘリウムだとか
それはそれで
愉しかったにちがいない

でも
もし
空全体が
緑一色だったら?
黄色一色、紫一色だったら?
どうしよう って思う

もし
空全体が
しましまの虹色だったら?
って思う

 「おもしろい。夕日が赤いのは、恥ずかしがっているから。空が青いのは、海が青いから、などとこどものとき言っていた」「最後の二連、特に、しましまの虹色が池田さんらしい」「考えたことがなかった。 晴れた日にだけ/外を見ていたにちがいないと書いているけれど、私はこどものとき空を見上げなかった」
 「考えたこともなかった」が「憂いを感じる子供ではなかった」「雨音を楽しむ子でもなかった」と繰り返され、加速したあと、「ちがいない」「ちがいない」の繰り返しのなかで、科学的な感想が、空想にかわっていく。そして、「どうしよう って思う」が出てくるのだが、このあとが、ちょっとおもしろい。最終連は「どうしよう って思う」ではなく、単に「って思う」。
 これは、「どうして」だと思う? なぜ「どうしよう」がないのだろうか。「どうしよう」とは思わないのだ。ここには「不安」ではなく、「願い」が書かれている。「虹色」から何を連想するか、ひとそれぞれだろう。池田は何を連想したのか。「平和、しあわせ」。それが「しましま」に織りなされているのだとしたら。

 

 

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東田直樹「光の中へ」ほか

2024-11-15 22:54:09 | 現代詩講座

東田直樹「光の中へ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年11月04日)

光の中へ  東田直樹

光の中へ
ただ 光の中へ
僕は入りたい
たとえ そこが
現実の世界でなくても

光が僕を誘う
僕の分子を呼ぶ
細胞のひとつひとつが
光に向かって伸びていく

この手が
この目が
光をつかまえる
一瞬の喜び

どこにでも光はあるのに
僕が望む 真実の光は
永遠に
存在しない

カラスは黒い  東田直樹

自分のすべてで隠している
本当の気持ちを
悔しいけれど 仕方ない
僕は黒いカラスだから
                   (『ありがとうはぼくの耳にこだまする』)

 受講生が、みんなと一緒に読むためにもってきた詩。「カラスは黒い」の方が人気があったのだが、「光の中へ」について感想を書いておく。
 「光の中へ」については、「真実の光は/永遠に/存在しない」ということばに「希望がない」「断定に違和感がある」という声があったのだが、私はむしろその最終連に強い希望があると感じた。存在しないのは、あくまでも「僕が望む」真実の光である。この「真実」の対極にあることばは、一連目の「現実の世界」の「現実」だろう。「現実」ではなく、東田は「理想/希望」を求めている。「真実の光」は「現実の光」ではなく、「現実を超える絶対的な光」だろう。それは東田にしか見えない。だから、それは「存在しない」と言うしかないのである。ここには「現実」への強い抗議、拒絶がある。逆に言えば、それだけ東田の求めているものは譲れないということでもある。
 だれにでも、その人だけにしか見えないものを見ている。その自分にしか見えないものを、東田は、ここでは「光」と名づけている。
 この、その人だけの「真実」を「光」と仮定しておいて、受講生が書いてきた詩の中に、「光」はどう表現されているか。それを探してみよう、と呼びかけて、今回の講座ははじまった。

藻の記憶  青柳俊哉

十二月 
夜の底から光がさしかける

海が深く侵食する島 
空は高く雲はなく 花殻が風に飛ぶ 
蝋梅の蕾がひらきはじめる

藻の花がゆれる寒い泉 湧き水を掬って渇きをいやす

水脈を小舟を漕いで南へむかう海人(あま)たち
 
水底の雲母に野薊(あざみ)のかげが細長く伸びる
石と人の記憶が細長くゆらぐ
 
両腕をイロハモミジの枝のように大きくひらいて
しなやかな空の光をいれる
 
息は凍えた藻の香りがした

 青柳の詩には「光」が二回登場する。しかし、「光」ということばをつかってはいないが、「光」につうじるイメージとつながることばはないだろうか。
 「わかる」ということは、たぶん、「知らないこと」を「自分の知っていること」と結びつけて「理解」することである。
 私はたとえば「花殻が風に飛ぶ」に光を感じる。風もきらめいているだろうが、そのとき花殻はきっと光を反射している。開き始める蝋梅も明るい。蕾よりもさらに強い光がある。
 湧き水にも輝きがあるし、水脈は水の色の変化であると同時に光の変化(反射の変化)でもあるだろう。
 「南へ、にも光がある」「野薊のかげは、かげと書いてあるが、そこにも光が存在する」「記憶が細長くゆらぐ、にも光を感じる」。さまざまな声がつづいた。「光」はかならずしも「輝き」や「まぶしさ」ということばで書かれるわけではない。ひとりが指摘したように、「かげ」は、その対極に「光」を想定している。東田の「存在しない」が絶対的存在を宣言するように。
 反対のことばに、実は、求めているものが暗示されていることもある。そして、それは暗示を超えて、絶対的な存在であるからこそ、「反対のことば」で語るしかないのかもしれない。

見捨てられた小世界で  堤隆夫

見捨てられた小世界で
心温まる絆を見いだす幸せを
わたしは知っていたのだろうか
人のために灯をともせば
自分の前も明るくなることを
わたしは知っていたのだろうか

わたしは学んだ学問から
一個のりんごを分け合う幸せを
教えられたのだろうか
年を経るにつれ 多くの言葉を知ったことは
わたしに生きる幸せをもたらしたのであろうか

産業革命以降の近代社会は
人としての気高さを進化させたのであろうか
大家族から核家族への移行は
競争することの卑しさから
卒業できたのだろうか

尊き人が教えてくれた
経済的な貧困は 精神の貧困ではない
識字率や就学率は 文化的な高さの指標でもない
近代化のさらに彼方を見つめる眼差しに必要なのは
思想ではなく 温かい人間的関心 

大切な人を失った悲しみは
穏やかに生きることで癒される
無力な自分を受け入れること
無力なままでもいい
無力だからこそ 逃げずにそばにいることができる

 堤の詩には、「光」ではなく「灯」ということばがある。それは「明るくなる」という動詞とつながって書かれているが、ほかにどんなことばが「光(灯のようなもの)」として書かれているだろうか。
 たとえば「一個のりんごを分け合う幸福」、「幸福」が「光」であるし、「分け合う」ことが「光」でもある。
 逆の「闇」はなんだろうか。堤は明確には書いていないが「競争すること」「卑しさ」、あるいは「貧困」が「闇」だろう。「近代化」が「光」だとしても、その「近代化」には「闇」もある。
 それを対比させながら、堤は、「必要なのは/思想ではなく 温かい人間的関心」と展開する。このとき「思想(近代化が人間の生活を豊かにし、幸福にするという思想)」が「強い光」(人を導く光)であるなら、「温かい人間的関心」は「一個のりんごを分け合う」ような「おだやかな光(弱い光/近代化以前にも存在した人間の生き方、暮らし方)」かもしれない。
 この「弱い光」は最終連で「無力」ということばになって動いていると、私は感じる。
 「無力だからこそ 逃げずにそばにいることができる」を、私は「無力だからこそ、戦わずに(だれかを殺す、否定するのではなく)、そばにいるひとと一個のりんごを分け合う」。「戦わずにいる」ことは、そのとき、「戦う」ことよりも、きっと「強い」はずである。
 堤はいつも「決意」のことばを書くが、「弱くあることの決意」という視線がそこには動いている。

十一月の扉  杉惠美子

十一月の風景が
遠くから近くから 私を包んでいます

その心地よさの中で
少し立ち止まっています

その空気を思い切り吸って
何も持たずに歩き出してみました

十一月の会話っていうのがあるのかな?
「少し寒くなりましたね
 少し切ないですね」 って言ったら
何と返事がくるだろう?

 

扉を開くと矢印があり
「何が解放されるべきか」
と書いた紙があった

 「十一月の風景が/遠くから近くから 私を包んでいます」という書き出しの「風景」も「光」のひとつだろう。少なくとも、それは「闇」ではない。「少し寒くな」る、「少し切ない」はどちらかといえば「明るさ」よりも「暗さ」に通じるかもしれないが、「闇」ではないし、「少し」という変化のなかにあるのは、それこそ「光のゆららぎ」のようなものだろう。それが「寒さ」や「切なさ」に不思議な陰影をあたえる。
 そして、そこに陰影を感じるからこそ、私は最終連の「矢印」と「解放」ということばに「強い光」を感じた。それは、あまりに強烈すぎて、何も見えなくなるような「明るさ」につながる。絶対的な光のために、光しか存在しない、光のために目をつぶされて「暗い」とさえ感じてしまう何か。
 「何が解放されるべきか」の「か」の問いかけられ、杉は、動けずにいる。矢印があるのに。
 東田の書いていた最終連を思い出すのである。

 

不条理な死が絶えない  若松丈太郎

戦争のない国なのに町や村が壊滅してしまった
あるいは天災だったら諦めもつこうが
いや天災だって諦めようがないのに
〈核災〉は人びとの生きがいを奪い未来を奪った

二〇二一年四月十二日、福島県相馬郡飯舘村
村が計画的避難区域に指定された翌朝
百二歳の村最高齢男性が服装を整えて自死した
「生きすぎた おれはここから出たくない

二〇二一年六月十一日、福島県相馬市玉野
出荷停止された原乳を捨てる苦しみの日々があって
四十頭を飼育していた五十四歳男性が堆肥舎で死亡
「原発で手足ちぎられ酪農家

(略)

遺族たちが東京電力を提訴・告訴しても
因果関係を立証できないと却下されるだろう
生きがいを奪われた人びとの死が絶えない
戦争のない国なのに不条理な死が絶えない
                          (コールサック詩文庫 14)

 東京電力福島第一原発事故。その報道、自殺した人のことば、それをていねいに記録している。「こういうことばも詩ですか?」という質問が出たが、私は、詩だと考える。だれかが書いたことばであり、そこに一字の修正もなくても、既存のことばをどう自分のなかで組み立て直すか、その「組み立て方」に作者のことばがあらわれる。
 この詩で注目してほしいのは、自死した人のことばである。書き出しには鍵括弧がついている。しかし、その鍵括弧は閉ざされていない。この表現方法に、若松の強い感情移入がある。それは直接的には書かれていないが、彼らは最後のことばを残した。しかし、それはほんとうの最後ではない。彼らにはもっともっと言いたいことがあったはずである。言いたいことは、おわっていないのである。その「おわっていない」ということを、鍵括弧を解放したままにすることで、若松は引き継いでいる。
 最終連は、ひとつの思いである。しかし、やはり、そのことばに「おわり」はない。

 

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池田清子「歩こう歩こうⅡ」ほか

2024-11-03 00:36:19 | 現代詩講座

池田清子「歩こう歩こうⅡ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年10月21日)

 受講生の作品。

歩こう歩こうⅡ  池田清子

五年前に
何のために生きるのか
問うた

何十年も
あいまいなまま
生きたので

心の中への入り方を忘れてしまった
心の外へは出ていけたような気がする

何のために生きるかより
どう生きるのか

ずっと
きっと

片道五分が
往復三十分になった

 五年前、この講座で書いた「歩こう歩こう」。五年後に書く「歩こう歩こうⅡ」。一番の変化は、三連目。「心の中への入り方を忘れてしまった/心の外へは出ていけたような気がする」。この二行は、詩でしか書けない。詩でしか書けないことばを書くようになった、というのが一番の変化である。
 散文でも書けないことはない、というひともいると思うが、散文の場合は、この二行の前後に、いくつかの「説明」がついてまわる。「心の中」「心の外」というときの「心」はどんな状態か。状況がわかるように書く、事実を踏まえて書く、事実を積み上げて書くのが散文の鉄則である。詩にも事実はあるのだが、それを読者に任せてしまう。つまり、読者は、自分の体験のなかから「心の中へ入った」のはどういうときだったか、「心の外へ出た」のはどういうときだったか、考えなければならない。「何のために生きるのか」ということばを手がかりに考えれば、そのときの「心」は苦しんでいたのか、悲しんでいたのだろう。そうした悲しみ、苦しみを、ひとはくぐりぬけ、それに打ち勝つ。意識しないのに、引きずり込まれてしまっていた、あの「心」。だが、いまは「心の中への入り方を忘れてしまった」。それが打ち勝つということだろう。「心の外へ出て行く」ということだろう。それは「気がする」だけかもしれない。こうしたことは、だれでも、何かしら経験したことがあると思う。このとき読者は、詩人のことばを借りながら、自分のいのちをみつめる。そして、それを詩人のいのちに重ねる。
 そのあと。
 「ずっと/きっと」と、つぶやく。「ずっと」のあとにどんなことばが省略されているか。「きっと」のあとにどんなことばが省略されているか。
 「ずっと」「きっと」はだれでもがつかうことばである。「意味」は、それぞれが知っている。でも、それを別のことばで(自分のことば)で言いなおすのはむずかしい。そのとき、しかし、きっと「直覚」しているはずである。池田の省略した「ことば」は自分の考えていることと同じだと。
 書かれていることばのなかで詩人と出会い、詩人が省略したことばのなかで詩人と出会う。読者が思い浮かべる「省略したことば」が、必ずしも詩人が思っていることばと合致するわけではない。しかし、「ずっと」「きっと」ということばのあとに、ことばがある、そのことばは言わないけれど、とても大切である。大切だから、「心の中」にしまって自分だけで確かめればいい、という「思い」(こころの動き)は、きっと合致している。
 「行間」(書かれていないことば)のなかで、詩人と出会えたと思えたとき、その詩は読者にととってとても大切なものになる。「好きな詩」になる。
 そして、それは詩人が好きであると同時に、そんなふうにして動く自分の自身のこころが好きということでもある。「好き」のなかで、ひとは、消える。何かが「好き」になったとき、「自己」は消える。透明になる。ただ「世界」だけが、そこにある。
 この詩は、そういう「世界」へ読者を誘う力がある。

キューピーさん  杉惠美子

朝起きると
裸ん坊の大きなキューピーさんが立っていた
両眼と両手をパッと拡げて
まっすぐに立っていた

四歳くらいのときのこと
私が抱えきれないくらい大きくて
父がやっと見つけたものだったという

あの幼い日の記憶は
時折 甦り 私を元気にする

どこを向いているのか
わからなくなったときも

まっすぐに立って
両手を拡げ
その大きく見開いた瞳の中に
吸い込まれていく

お酒を飲むと よく戦争の話をした
もっと真剣に聴けば良かったな

ごめんね 父さん

 池田の詩に通じるものがある。だれでも「どこを向いているのか/わからなくなったとき」というものがあるだろう。「心の中」に閉じ込められてしまったときかもしれない。「心の中」から、どうやって出て行けばいいのか。杉を支えたものは「大きなキューピーさん」である。それは「立っている」「まっすぐに立っている」。手を拡げ、両目を開いているとも書かれているが、何よりも「まっすぐ」と「立つ」ということばが印象に残る。
 「どこを向いているのか/わからなくなったとき」、杉は、「まっすぐに立つ」ということから始める詩人なのだろう。「まっすぐに立つ」と「元気」になる。初めてその人形を見たとき、きっと杉はキューピーに負けないくらいに「まっすぐに立って」いたのだと思う。キューピーになっていたのだと思う。
 この「まっすぐ」は、「お酒を飲むと よく戦争の話をした/もっと真剣に聴けば良かったな」の二行のなかの「真剣に」ということばのなかに隠れている。父がキューピーを買ってきたとき、それを始めてみたとき、きっと杉は「真剣」だった。「真剣」というのは「好き」に似ている。何か自分を忘れている。「無我」になっている。
 この「無我」は、父の場合、杉にキューピーを買ったときと、「戦争の話をした」ときにおのずとあらわれている。父の思い出だから、そこに父はいるのだが、父は、ほんとうはいない。ただ「戦争」があるだけである。父は戦争にのみこまれて「無」である。「無力」である。「無我」である。「どこを向いているか/わからない」状態でいる。
 父から話を聞いていたときは、そんなことは、わからない。父から話を聞けなくなって、そのときに父の「まっすぐ」を知る。
 二連目に、とても「散文的」に、つまり状況の説明のために登場してきた父が、最後になって「主役」のキューピーを乗っ取るようにしてよみがえってくる。いや、キューピーの内部から、父がキューピーの姿になってあらわれてくるような、強さがある。キューピーを見るたびに父を思い出すとは書いていないのだが、きっと見るたびに思い出すのだろう。父の「まっすぐ」を思い出すのだろう。杉を「まっすぐに立つ」方へ励ましてくれるのだろう。
 そのことへの感謝が最終行にあらわれている。「ごめんね 父さん」と書くとき、杉は父が「好き」である。そして、このとき杉は「無我」。杉のこころのなかに生きているのは父である。

千年眠った後に よみがえる日まで (故・谷口稜曄さんへ) 堤隆夫

背中一面が 真っ赤な血に染まり
うつぶせで苦しみに 顔をゆがめる十七歳の少年
一九四五年八月十五日
あの日から七十九年を経ても
空蝉のこの国は 何も変わろうとしない
何も変えようとしない

今もこの国は 無関心と言う名の原爆を背負い続けている
今もこの国は 無慈悲という名の原爆を背負い続けている

戦後生まれの私だが
私も 原爆を背負い続けている
二千十一年三月十一日
私の竹馬の友は 福島にいた
友は もういない

広島は ヒロシマではなく
長崎は ナガサキではなく
福島は フクシマではない

私はずっと祈り続けます
少年が千年眠った後に よみがえる日まで
私はずっと祈り続けます
少年が千年眠った後に よみがえる日まで

 堤の「文体」は特徴的である。「空蝉のこの国は 何も変わろうとしない/何も変えようとしない」「今もこの国は 無関心と言う名の原爆を背負い続けている/今もこの国は 無慈悲という名の原爆を背負い続けている」のように、一種の対句形式のなかでことばの一部を変化させ、ことばの力を増幅させていく。
 この詩では、「広島は ヒロシマではなく/長崎は ナガサキではなく/福島は フクシマではない」の三行のカタカナ表記と否定の「ない」の組み合わせが強烈である。堤は片仮名表記を否定(拒否)する理由を、ここでは書いていない。読者に、それぞれ考えろと迫っている。
 「ヒロシマ/ナガサキ/フクシマ」がカタカナで表記されるのは、たぶん「ノーモア・ヒロシマ」に代表されるスローガンのように、外国向けのものが出発点だと思うが、外国に向け発信するのは大切だが、そのとき外国人にわかりやすいように(?)することがほんとうに大切なことなのか。外国人を意識するとき、何か、見落とすものはないか。
 さらにいえば、「ヒロシマ/ナガサキ/フクシマ」と書いてしまうとき、そう書くひとは自分から「広島/長崎/福島」を切り離して「外国」のようにとらえてはいないか。あるいは自分自身を「外国人」にして、「外国人」の視点から「広島/長崎/福島」をみつめてはいないか。
 日本人として「広島/長崎/福島」と向き合い、自分をどうかかわらせていくか。微分の「広島/長崎/福島」にしなければならない。自分の「広島/長崎/福島」を具体的に生きなければならない。「ヒロシマ/ナガサキ/フクシマ」では、抽象的、観念的になってしまうということだろう。
 堤は谷口稜曄を思い出すこと、祈ることが、その具体化の一歩である。

十字石  青柳俊哉  

垂直の記憶 
海辺から崖のうえを昇り降りするかげ 
無重力の振子
 
海のうえのかげを石が飛びかげと遊ぶ
しぶきが石にふれ石をつつむ
 
海中のかげとして石は立つ
すべての水のかげをかれは背負う
すべての海面の光が降下してかれと結ぶ
 
十字に覆される未来 かがやく鯉の背がまう
崖の松の幹の黒い皺が底へきらめく
羽化しない蝉がうたう
 
生まれ変わる空間の表徴として 

 「海のうえのかげを石が飛びかげと遊ぶ」の「かげを」の「を」という助詞が不思議である。すぐ「かげと」とつづくので「を」と「と」が交錯し、「とぶ」のが「石」なのか「かげ」なのかわからなくなる。それはそのまま「しぶきが石にふれ石をつつむ」では、石がしぶきをつつむのではないかという錯覚を引き起こす。
 さらに三連目では、その交錯が「かげ」と「石」の位置にも影響する。かげはどこにあるのか。石はどこにあるのか。海の上か。海中か。
 作者には作者自身の「答え」があるだろう。しかし、詩は(詩だけではないが)、作者の答えとは別の、「読者の答え」というものもある。

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杉惠美子「秋の時計」ほか

2024-10-19 22:46:44 | 現代詩講座

杉惠美子「秋の時計」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年10月07日)

 受講生の作品。

秋の時計  杉惠美子

彼岸花が咲いています
蜻蛉がわたしのまわりを飛んでいます

少し肌寒くなってきました

散歩するひとも少し増えたような

まわりの視線も少しずつやわらかくなっています

幾度となく風を脱ぎ
混濁の渦を離れました

重心を少し下げて
静かにしていたいと思います

すべてを 一度に語ろうとせずに
慎ましく
じわじわと

誰かと話してみたいと
少し 想うことがあります

 詩の感想をいろいろ聞いたあと、ちょっと受講生の感想(指摘)で物足りないところがあったので、杉に「この詩で工夫したところは?」と訪ねてみた。「少し、ということばをたくさんつかった」という返事が返って来た。
 それについて、やはり、私は気がついてほしかった。詩を読んだり、小説を読んだりするとき、どうしても「意味」というか、全体の「内容」に目が向きがちである。もちろん、そういうことも大切なのだが、「細部」に動いている作者の意識がとてもおもしろいときがある。
 この詩では一連目以外には「少し」ということばが各連につかわれている。
 「いや、五、七連目にも『少し』は書かれていない」という反論があると思うが。
 たしかにそうなのだが、ここがとても大事。
 「少し」は書かれていないが、それに通じることばが書かれている。「幾度となく風を脱ぎ」の「幾度」には「少し」が隠されている。「少しずつ」脱ぐから、それが「幾度」にもなる。「一度に」ぱっと脱いでしまえば「幾度」にはならない。
 私が言い換えた「一度に」は七連目には、ちゃんと書かれている。そして、それは「すべて」と対比されている。さらに「じわじわと」ということばも補われている。「じわじわと」というのは「少しずつ」に似ている。
 そうだとしたら。
 最終連(だけではないが)の「少し 想うことがあります」の「少し」にも、何かしら「特別な思い」がこめられている、もしかしたら五、七連目のように「少し」とは違うことばで伝えたいものがあるのかもしれない。
 その証拠にというと変かもしれないが「少し」のあとに「空白」がある。ほかの部分では「少し」はそのあとのことばに直接つづいていた。しかし、ここには「一呼吸」がある。言いたいことをさがし、踏みとどまっている呼吸が動いている。
 この呼吸に、自分の呼吸をあわせることができたとき、杉の詩は、読者にとってもっと深いものになる。

私がわたしであること  堤隆夫

人々の群れの中にいることによってしか
分かり得ない本当のことを知った
人々と共に住むことによってしか
教科書では学べないことがあることを知った

人々と共に働き 共に喜び 共に涙することによってしか
私がわたしであることを
確かめることができないことがあることを知った

杖をついて歩いた時
ゆっくり歩くことの幸せがあることを知った
片手に杖を持ち もう一方の手で
あなたと手をつなぐ幸せを知った

一人になった時 単調な日々の有り難さを初めて知った
眠れない日々が続いた時
羊水の中にいた時の記憶が蘇り
亡き母のかなしみの愛を知った

死の恐怖を眼前に感じながら うつむいていた時
ふと見上げた窓の外の薄紫の空に 一縷の希望を視た

失うことによってしか得ることのできない
愛があることを知った

失うことによって より深まる愛があることを知った

 堤の詩にも、杉の詩と同じような「繰り返し」と、その「変奏」がある。「しか/知った」が繰り返される。途中で消える。(ただし、「知った」は、繰り返される。)そして再び「しか/知った」があらわれる。
 なぜ、途中で「しか」は消えたのか。
 「しか」があるときは、そこには「人々」ということば、複数の人間の存在があった。「しか」が消えたとき、「人々」のかわりに「あなた」「母」が登場する。そして同時に「一人になった」ということばが動く。「私」が「一人になった」のは、「人々」(複数)が「あなた」「母」という「一人」があらわれたときである。
 「しか」は「唯一」ということでもあるが、この「しか=唯一」という、どこかに隠れている意識が「あなた」「母」を呼び寄せたともいえる。
 そして、この「しか/知った」という組み合わせは、最終連では大きく変わって「より」「知った」という形になる。
 ここで、私は質問してみた。最終連を「しか/知った」という形で言いなおすと、どうなるか。

 失うことによって「しか」深ま「らない」愛があることを知った

 これは、直前の「失うことによってしか得ることのできない/愛があることを知った」に非常に似ている。繰り返しのリズムを優先するならば「失うことによってしか深まらない愛があることを知った」でも同じである。「意味」はシンプルに伝わるだろう。
 しかし、堤は、そうしたくなかった。「しか/知った」では言い足りないものがある。そして、それは「あなた」「母」と強い関係がある。「より」強い気持ちを明確にしたい、それが「しか」ではなく「より」ということばを選ばせているのである。
 これは堤が選んだことばなのか、それとも詩が堤に選ばせたことばなのか。
 堤は「自分が選んだ」と言うかもしれない。しかし、私は詩が、そのことばを堤に選ばさせたのだと感じる。天啓、のように「より」ということばがやってきたのである。その天啓に身を任せることができたとき、ひとはほんとうに詩人になる。
 何を書いているかわからない。しかし、書いたあとで、ああ、そうだったのだと詩人自身が気がつく。そういう「個人」をはなれたことばの動きがあるとき、詩は、ほんとうに輝かしい。
 この詩には「知った」を含まない連がひとつある。その「ふと見上げた窓の外の薄紫の空に 一縷の希望を視た」の「視た」は「知った」に、とても似ているといえるだろう。「見る」ことは「知る」ことでもある。ここで、しかし「知る」をつかわずに「視る」ということばをつかっているのも、とてもおもしろい。「知る」をつかって別の表現がなりたつはずだが、それを押し退けて「視る」があらわれている。ここから「知る」と「視る」の違いについて哲学的に考え始めることもできるはずである。
 そうした「誘い」を促すのも、詩の、超越的な力だと思う。

聖餐  青柳俊哉 

隔絶した僧院の日々


空の微点へ凄まじく吸われる雲 
飢餓する子どもたちの生をおもう  

朝霧の隼(はやぶさ)王の食卓
白鳥と孔雀の胸肉の白ワイン蒸し
みつばのお浸しに霧がそそぐ 霧をすする
 
祭壇に子たちのアーモンドをそなえる
 
バラを敷きつめて女(め)鳥(とり)と交わる
 
口腔から胃へ激しい痛みと嘔吐
ながれる汚物 羽にかわるバラの花
 
生きることは異物と交わりそれに同化することであった
 
 
僧院の肥沃な花から女が飛び立つ

 青柳の詩には、杉、堤の詩をとおしてみてきた「繰り返し」はないように見える。しかし、ひとは何かを繰り返さないと何も言えない存在である。というか、ことばとは、ひとことですべてを言い表すことができない、何か不完全なものである。言いたいことを言おうとすると、繰り返しのなかに少しずつ「変化」をまじえながら、それを補強するしかない。
 「生きることは異物と交わりそれに同化することであった」という行があるが、「異物」と「同化」が、繰り返されていると言えるだろう。異物が異物のまま離れて存在するのではなく、「同化」する。そのために「交わる」。
 この異物が異物のまま「離れて」存在することを「隔絶して」存在すると言いなおせば、それは書き出しの一行に通じる。「隔絶した」と書き始めたとき、詩は「異物」を引き寄せ、「異物」は逆に「同化」を引き寄せ、それが「交わる」という動詞を必要としたのだろう。
 「書く」というよりも「書かされる」詩。
 やってくるのは「天啓」だけではない。「悪魔のささやき」もやってくるだろう。「悪魔のささやき」を拒み、「天啓」だけを選択するということができるかどうか。どうやって、その区別をするか。その判断の基準を「直覚」するのも、大切なことだと思う。

未確認飛行物体  入沢康夫

薬罐だつて、
空を飛ばないとはかぎらない。

水のいつぱい入つた薬罐が
夜ごと、こつそり台所をぬけ出し、
町の上を、
畑の上を、また、つぎの町の上を
心もち身をかしげて、
一生けんめいに飛んで行く。

天の河の下、渡りの雁の列の下、
人工衛星の弧の下を、
息せき切つて、飛んで、飛んで、
(でももちろん、そんなに早かないんだ)
そのあげく、
砂漠の真ん中に一輪咲いた淋しい花、
大好きなその白い花に、
水をみんなやつて戻つて来る。

 受講生のひとりがみんなで読むために選んできた詩。みんなにどこが好きか(印象的か)と聞くと、最後の三行という返事が返ってきた。
 ここには不思議なことばがある。
 詩は、「美しい」ということばをつかわずに「美しい」を表現するものという定義のようなものがあるが、それを流用して言えば「大好き」ということばをつかわずに「大好き」を表現するのが詩かもしれない。
 小中学生ならいざ知らず、入沢康夫のような高い評価を受けている詩人が「大好きな」ということばをつかっているが、それでいいのか。
 というのは、まあ、意地悪な「いちゃもん」。
 この詩では、私は、「大好きな」ということばがいちばん大事だと思う。「大好きな」ということばのために、この詩はある。

砂漠の真ん中に一輪咲いた淋しい花、
その白い花に、
水をみんなやつて戻つて来る。

 でも、詩は(その意味は)成立するし、学校の試験では、「作者はこの花についてどう思っているか、あなたのことばで書きなさい」という質問が出るかもしれない。「大好き」という答えを正解とするかもしれない。
 言わなくても、わかる。
 でも、言った方がいいのである。
 頭のいいこどもは、「お母さん大好き」と言わないことがある。言わなくてもお母さんが大好きなことはお母さんは知っている。でもね、お母さんは、わかっていても、そして時には嘘であっても「お母さんが大好き」とこどもが言ってくれるのをまっている。言ってくれると、うれしい。「大好き」と、ことばにするのことはとても大切なことなのである。
 そして、もし私がこの詩のなかの「白い花」だったとしたら、水を注いでもらったことよりも「大好き」と言われたことの方が、はるかにうれしいだろうなあと感じるのである。
 入沢の詩は、そういうことをテーマとして書いているわけではないだろうが、私はそういうことを思うのである。「大好き」と書くことによって「大好き」がとても美しいことばになる。大切なことばになる。平凡なことばのようで、平凡ではなく、唯一のことばになる。
 入沢は技巧的というか、人工的な詩人だが、彼がこんなふうに「大好き」ということばをとても自然に、力強く書いているというのは、とても楽しい。こんなふうに「大好き」ということばを詩に書けたらいいなあと心底思う。

 

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青柳俊哉「仮晶」ほか

2024-09-29 12:13:57 | 現代詩講座

青柳俊哉「仮晶」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年09月16日)

 受講生の作品。

仮晶  青柳俊哉

惹かれて野花の咲く原へ

月へむかって花の成分がながれだす

ひとつの茎が指にふれる

かたい腺毛の奥のしずけさ
唇を花びらが噛む
苦みのある繊維質の霧のような香気

月がしぐれて 舌 崩れる

多孔質
スポンジ状の子房の中へそそがれて
種子へ結晶する

接合されて
野花と生きはじめる

 「月へむかって花の成分がながれだす」は、青柳の「詩語法(詩文法)」の特徴である。肉眼では見ることのできない運動が、言語によって実現されている。「花の成分」は具体的に何を指すか。それは読者の想像力に任されている。
 この詩には、ほかにもおもしろい語法がある。
 「ひとつの茎が指にふれる」「唇を花びらが噛む」。「ふれる」「噛む」という動詞の主語は「茎」「花びら」。人間ではないものが、人間に働きかけている。ここでは、人間が自己主張しない。「無」になっている。そして、その瞬間にあらわれる世界を生きている。
 そうした運動のあとに「月がしぐれて 舌 崩れる」という魅力的な行があらわれる。「舌」につづいているのは空白(一字空き)であって、助詞がない。もし「月がしぐれて 舌が崩れる」であったら、どうなるのだろうか。「崩れる」は自動詞であって、他動詞ではないから「ふれる」「噛む」のように、何かが肉体に働きかけた結果の動きではないのだが、何かしら、それまでの運動の印象とは違った感じがしてしまう。助詞「が」を省略することで、「舌」が宙ぶらりんになる。「崩れる」が自動詞なのに、それまで読んできたことばの運動(文体)の影響で、何かの働きかけがあって「崩れる」という動きが起きたのだと感じてしまう。何かが「舌を崩す」と感じてしまう。では、何が? 「月」か「しぐれ」か。(「しぐれて」は名詞ではなく、動詞なのだが。)
 ここには、不思議な「保留」がある。「判断中止」がある。
 それを経て、「私の肉体(と、青柳は書いているわけではないが。青柳は「私の精神(意識)が」と補足するかもしれないが)」「野花」と「接合されて」「生きはじめる」。野の花として、再生する、と読んでみた。

もし神がいるのなら  堤隆夫

子どもたちの未来が、
戦争のない平和な時代でありますように
飢えに苦しむことがないように
環境汚染や被曝のために、
故郷を追われることがないように

病や事故で苦しむ人々が、
少しでも少なくなるように
必要な時、必要な医療が、いつでも受けられますように

もし神がいるのなら、わたしは祈る

国境を越えて、人々が手を取り合って、友達になれますように
学ぶ環境が、阻害されることがないように
機会の平等が、保証されますように
笑顔で働ける環境でありますように
がんばれば、報われる世の中でありますように

もし神がいるのなら、わたしは何度でも祈る

そして--自分と違うからといって、差別やいじめがないように
助け合って生きていく世の中でありますように
個々の人間が、その多様な存在のまま、尊重される世の中でありますように

もし神がいるのなら、わたしは祈る
そして--神に栄えあれ

ある詩人の言葉が、今、わたしの胸に突き刺さっている
--「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は、俺は絶対風雅の道をゆかぬ」

 「もし神がいるのなら、わたしは祈る」が繰り返される。途中に「何度でも」を挟んで、それが強調される。その強調を、さらに印象づけるのが「ように」の繰り返しである。この詩のポイントは、おなじことばを繰り返すところにある。
 この「ように」は、まだ実現されていないことをつぎつぎに明るみに出す。くりかえすこととで、見落としていたものが、そういれば、これも、あれも、と誘い出されてくる感じである。
 そうしたものが増えてきて、増えることで強くなる。
 「祈り」と書かれているのだが、「祈り」を超えて「欲求/欲望」になっていく。さらに、それを実現する「意志」へと変わっていく。堤自身の「決意」へと変わってく。
 それが最終行に結晶している。そこには「祈り」ではなく「決意」がある。

垣根越しの秋  杉惠美子

目眩のしそうな暑さから
少し抜け出して
クーラーの設定温度も少し上げて
ようやく 視線の行き先も落ち着いてきました

家の中でも動きが出ています
時折 熱い珈琲が欲しくなります

夜になると
月がひときわ明るく 私をたずねてきます
私も思わず話しかけたくなるのです

庭のあちこちには蝉の抜け殻が落ちています

毎年 この姿は不思議な気持ちになります
触れたくはないけれど 見捨てたくもないような

じっと見ていると
ありのままの姿で
今日の私をすり抜けたあとのようで
自分のことばをすり抜け
その先にある もっと広いことばを探しているような気がします

ゆっくりと季節は進み
秋の草が戸惑いながら揺れています

 この杉の詩にも、くりかえしがある。そのくりかえしは、堤のくりかえしとは少し違う。一直線に進まない。高みへのぼっていくというよりも、深みへおりていき、ゆっくりと広がる。
 おわりから二連目。「すり抜ける」「ことば」が「私/自分」を交錯させる。これは「蝉の脱け殻」の「抜け」と「すり抜け」の「抜け」が交錯していることもあって、「私/自分」と「ことば」のどちらが「脱け殻」なのかというような、不思議な疑問を呼び覚ます。
 杉は、たとえば月、あるいは蝉の脱け殻と対話するだけではなく、自分自身とも対話する。それが「戸惑い」「揺れる」ということばのなかに静かに反映されている。

おかしいでしょ!  池田清子

エスコ、ペルー、ゾゾ、マツダ、
バンテ、ケイ、京セラ、みずペ、

一体、どこ?
福岡ドームでいいでしょ

あっ
ブルーのユニフォーム
西武戦か?
えっ
日ハム?

黒と黒のユニフォーム
一体、どっちの主催試合?

おかしいでしょ!

 「おかしいでしょ!」は、怒りである。自分の知っていることが否定された怒り。でも、だれに対して怒っていいのかわからない。この怒りは、堤の書いている怒りのように力にならない。あるいは、力にしないことを目的とした(?)怒りとでもいいのだろうか。つまり、笑うことのない「笑い」でもある。
 こうした詩は、一篇ではなく、たくさんあつめると、不思議な「厚み」を抱え込む。たくさん書き続けることは、一篇を完成させるよりも難しいことがある。

 

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杉惠美子「おいしいごはん」ほか

2024-09-15 19:53:31 | 現代詩講座

杉惠美子「おいしいごはん」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年09月02日)

 受講生の作品。

おいしいごはん  杉惠美子

日日草が
お陽さまに向かって
本当を語ろうとする
ありったけの一瞬があった
からっぽになったとき

おなかがすいた

何かが終わった日に
夕立が激しく音を立てた
雷が止んだとき

おなかがすいた

夏の角を曲がって
海に落ちたとき
ずぶぬれになって
私まるごとを感じたとき

おなかがすいた

十三年が経って
ようやく気付いたことがある
私の中で透明な風となって
空を飛んだとき

おなかがすいた

 一連目が非常に魅力的である。「本当」「ありったけ」「からっぽ」が拮抗する。「本当」「ありったけ(すべて)」は似通うものがある。しかし、それは「からっぽ」とは矛盾する。このみっつのことばは、からみあって「撞着語」になる。それは「一瞬」のことであり、その「一瞬」は「永遠」でもある。
 何かに気がつくというのは、こういうことだと思う。
 では、何に気がついたのか。
 「おなかがすいた」
 そんなことに気がつかなくてもいい、というひとがいるかもしれない。しかし、「おなかがすいた」と気がつけることのなかには、どうでもいいこと(?)のみが持つことでできる「ほんとう」がある。
 そして。
 この「おなかがすいた」は、最初の連の「からっぽ(腹が空っぽ)」とも強く結びついている。
 この詩では「おなかがすいた」という一行が独立して連をつくっているが、それは前の連の最終行と強く結びついている。同時に、次の連への飛躍台ともなっている。
 この変化が、非常におもしろい。
 論理があるのか、ないのか。そんなことは、どうでもいい。「論理」というのは、後出しジャンケンであり、どういうことでも論理にできるからである。
 終わりから二連目、「十三年」と「気付いたこと」について、受講生は少し戸惑ったようだった。「いつ(何)から十三年」なのか、「何に気づいた」のか。私は「透明な風になって/空を飛んだ」から、流行歌の「千の風」を思い出した。大事な人が亡くなった。でも、その人はいなくなったわけではない。いまも、いる。そう気づいた。
 変わらない何かに気づいた。その安心感が、空腹を教えてくれた。いつも、変わらぬものがある。生きている。私が生きているなら、あの人も生きている。生きているから感じる。そういうことを、大事にしている。連から連への自然な変化がとてもいいし、タイトルの「おいしいごはん」もいい。タイトルは「おなかがすいた」でもいいのかもしれないが、そこから少しだけ飛躍している。その飛躍の「軽さ」がとてもいい。

百年の希望  堤隆夫

愛と言う名の生き甲斐
愛と言う名の幻
「あなたの声を聞きたい 一度だけでもいいから」
過去も 今も めくるめくロンド

別れた時も 出逢った時も
人生という舞台
二つの命 燃え合い
されど今は 懐かしい日々よ

「最期に笑う日が一番よく笑う日だ」と
涙で呟いた あなたの瞳 永遠
されど叶わぬ 人の世の定め

暗く寂しい長い夜でも あなたの温もりは 胸の底
「いつまでも決して私を忘れないで」と
過去も 今も 忘れはしない

苦悩続く夜も 歓喜迎える朝も
人の歴史の常
「私は敗けはしない」と
過去も 今も
百年の希望
百年の希望
百年の希望

 「ロンド」。音楽形式。主題が何かをはさみながら繰り返される。この詩では、テーマは愛。それが、たとえば「生き甲斐/幻」「過去/未来」「別れ/出会い」「苦悩/歓喜」のような、撞着語をくぐりぬけ、あるいはつらぬき、動き続ける。そこから「過去/今/未来(このことばは書かれていないが、百年は、これからの時間を含んでいるだろう)」が「歴史」として認識され(形成され)、「希望」へと昇華していく。
 堤の作品には漢字が多く、文字だけ見ていると「固い」印象があるが、固いけれどもなにかしら響きにリズムがある。どうしてだろう、と思っていたら、実は、堤はシンガーソング・ライターだった。
 この作品はCD化されてもいる。
 ことばを「意味」だけではなく、「音」としても存在させようとしている。しかも、その音は旋律、リズム、和音という展開の中で具体化する。
 音楽のなかの「和音」を、私は、詩では「呼応」(響きあい)というようなことばでとらえているが、堤の場合は、それが「意味」だけではなく、「音」そのものの呼応でもあったわけである。
 堤の「(詩の)音」の秘密を見たように感じたのは、私だけではないと思う。

アナトリア聖刻  青柳俊哉

飛んでくる石化したバラ 
黒海の葦の茎先 鉄の羽…… 
楔を咥えて アナトリアの炭化した地層から
女たちのもとへ

葡萄の房形の紺青(こんじょう)の台地
隠されている女たちの
神聖な手の性(さが)と
焼かれた文字

車座になって剝かれる茄子の実とバラのすじめに
結晶するユニコード
もとめあう聖刻(せいこく)
人間の土地を超えて

 「アナトリア聖刻」とはなんだろう、という疑問が受講生のあいだから聞かれた。青柳から説明はあったのだが、それとは別に、ことばの「呼応」から「和音」として何が浮かび上がってくるかを見てみよう。
 「石化」「炭化した地層」は、歴史を感じさせる。「楔」そのものは「歴史」的存在とはいえないが、「楔形文字」となると歴史である。「アナトリア」は日本ではない。異国(日本以外)を強く感じさせることばに、「黒海」がある。「楔形文字」がつかわれたメソポタミアは「黒海」に臨んでいるわけではないが、周辺地区でもある。
 そうした「古代文明」が、いま私たちに何を語りかけてくるのか。
 受講生のあいだから、また「女たち」が印象的という指摘があったが、青柳は「人間の土地を超えて」何かが伝承されていくとき、そこに「女の存在」を重視している。女がいるから、歴史がある。二連目の「隠されている女たち」ということばのなかには、青柳の歴史観も含まれているだろう。
 一篇の詩のなかにはさまざまなことばが動いている。どのことばを聴き取り、それをどう受け止めるか。詩人のことばの響きを聞くだけではなく、それを自分のことばと響きあわせてみるのも楽しい。
 いま、目の前にあることば。そのことばのなかへ、私はどうやって参加していくことができるか。

海をみている  川﨑洋

現実に
めざめている
という
それから
夢をみている
ともいう
だったら
もうひとつ
海をみている
と いってもいい
と思う

起き上がって
また
海をみる
海と呼ばずに
気障ではあるが
広いやすらぎ なんて
呼ぼうか
海よ といわずに
広いやすらぎよ
なんてさ

暮れかかってきて
雲の切れ間から
ななめに
光の柱が二本
かなたの海面に入っている
あれは
昼間
水の中にさしこんだ光が
空へ還るのだろう

 受講生が、みんなといっしょに読むためにもってきた作品。
 受講生のなかから指摘があったが、この三連構成の詩は「静的」ではない。意識(ことばの指し示し方)が少しずつ変化している。そして、その変化を、むりに制御しようとしていない。なるようになるさ、と任せている感じがする。
 一連目は、ぼんやり海を見ている。「夢か、現か」。「海を見ている」という事実を「海を見ている」ということばにすることで、「ことば」のなか(意識のなか)へ動いていく。
 二連目の「広いやすらぎ」は「海」を言い換えたもの。「比喩」、あるいは「象徴」。そこに「精神」を見ている。ただし、深刻にならないように「なんてさ」というような軽い口調をまじえている。
 ここに川崎の「音楽性」があるといえるかもしれない。
 そして三連目で、ほんとうに川崎が考えたことを、ことばにしている。そのとき、おもしろいのは、いわゆる「天使の梯子」のなかに、逆向きを動きを存在させる(海に入る光/海から空へ帰る光)ことで、その動きを「限定(断定)」していないことである。読者に、私はこう思うが、どう思う?と問いを投げかけている。
 その結果として、詩の世界が、いっそう広くなっている。
 この詩は、三連目だけでも深い詩だが、一連目、二連目、三連目へとことばの動き方が少しずつ変わっていくところを、ていねいに「記録」している点が、とくにいい。一連目、二連目がなかったら、感動しても忘れてしまう。一連目、二連目があるから、忘れられないものになる。そう思うのは、私だけだろうか。

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青柳俊哉「バラを解く」ほか

2024-09-01 13:51:12 | 現代詩講座

青柳俊哉「バラを解く」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年08月19日)

 受講生の作品。

バラを解く  青柳俊哉

バラの深部へむかう。交配を重ねるものの寓意として、バ
ラがあまりにも人間的な美にとざされているから。

表層から花芯へ一枚一枚花弁を摘みとる。秘密を被うよう
に重なりあい密集するものの中へ分け入る。蜜のながれる
花糸を一つ一つ解いていく。裸になった花柱を摘みとる。
指先は黄色い脂粉にぬれた。

花冠は消失しても、茎の内部にはさらに深いバラの層がひ
ろがり、花弁は透けて重なり、肉体の空へ屈折している。
この細い透明な維管束をながれるものは何か。

美の影がながれる。生の個別性から死の全体性へ回帰しよ
うとする意志、隠された内的な欲動---。バラは遥かな
先行者であり、人はバラの表象である。

 一行目に「寓意」ということばがある。「寓意」ということばをつかうと、詩は、非常に難しくなる。「寓意」をどこまで深めていくことができるか、読者は期待するからである。そして、その「深さ」はときに「複雑さ」にかわってしまうことがある。「複雑」になると、しかし、問題は違ってきてしまう。「謎(解き)」になってしまうことがある。
 少し言いなおしてみる。
 「寓意」と書かなくても、(説明しなくても)、詩に登場する「バラ」を「バラ」と思って読む人は少ない。では、なんと思って読むか。「バラ」のとらえ方と思って読む。つまり、そこには「バラ」が描かれているではなく、バラと向き合った人間(詩人)がいるのであり、読者が読むのは「人間」なのである。「寓意」とことわらなくても、必然的に「寓意」のようなものが生まれてしまう。それが、ことばの運動だからである。
 受講生は、どんな「寓意」をくみとったか。
 「四連目に詩人の思考の深さがある」「人生をバラに表象している」「表層から深部へ向かう流れがいい」
 うーん、抽象的だ。質問を変えてみるのがいいのかもしれない。「自分には書けないなあ、と思ったことばは?」
 「秘密を被うように重なりあい密集するものの中へ分け入る。」「肉体の空へ屈折している。」「美の影がながれる。」「バラは遥かな先行者であり、人はバラの表象である。」
 「自分には書けない」は「自分と青柳とは違う」という「違い」の発見であり、また、単に「違いの発見」ではなく、つまり「青柳の発見」であるだけではなく、「そういう行を書いてみたい」という「自分の発見」でもあるかもしれない。
 さて。
 「寓意」であるからには、私は「バラ」を描いているとは読まない。むしろ「交配」を描いているものとして読む。「交配」とは「交合」である。「花弁を摘む」ということばは、たとえば吉岡実の「サフラン摘み」を思い起こさせる。「秘密」「蜜」「ながれる」「密集」「わけいる」「裸」「指先」「ぬれる」。
 どこまで持続できるか。
 三連目で、青柳は「茎の内部」を描き、さらに「維管束」を経て、四連目で「生」と「死」という哲学の中でことばをまとめるのだが、「寓意」ではなく「論理」になってしまった感じがする。「謎」が自分自身(読者自身)にはかえってこなくて、青柳の「思想/思考」のなかで整理されていくのを感じる。
 「思考」は整理するものではなく、むしろ、乱すもの、ではないだろうか、と私は思う。とくに詩は、論文ではないのだから、ことばの整合性は必要としないときがある。
 二連目は、これまでの青柳のことばの運動からみると新しい展開であり、そのことばが「茎の内部」、さらに「維管束」へと、ふつうはつかわないことばへと進んだのだから、そのまま「植物」を離れずに、「人間/肉体」に重ねてほしかった。「人間の内部の動き」に重ねてほしかった。
 ことばが加速して「生/死(いのち)」に昇華するのもいいが、少しことばの展開が早すぎる。長さにとらわれずというのは、講座で取り上げ、みんなで語り合うときに少し難しい問題を抱え込むことになるが、気にせずに、「隠された」「欲動」をもっと具体的にことばにし、読者を混乱させてほしいと思う。

紫の光る君  池田清子

まず
へたの周りにくるりと切れ目を入れましょう
次に
縦に四本のすじを引きましょう
ただそれだけで
二本でも三本でも
魚焼きグリルに イン

両面焼きの場合
途中九十度回転させて
あとは
お気のすむまで

紫のてかりが
少しずつ
身に影を落として
枯れていく

大好きな光る君が
自ら身を引き
大好きな素朴な君へと
変わっていく

栄養があるのかないのか
食べ過ぎてよいのかわるいのか

何と(馬鹿馬鹿しい)
深い味わい

 最終連。「他愛ない」「頑是ない」「池田さん特有の書き方」「深い味わいと直結しない」「池田さんの底知れない多様性」。いろいろな声が出たのだが。
 私は、最終連は、もっと他の書き方があると思う。
 「焼きなす」をつくって食べる。それは当たり前のようなことであって、当たり前ではない。というか、このことばのなかには、実は、これまでだれも書かなかったことばがある。
 たぶん。
 受講生の一人が「両面焼きの場合」という一行がおもしろいと言ったが、そのおもしろさは「事実」を書いているからであり、そして「両面焼きのグリル」で焼きなすをつくることはあっても、それを詩にしたひとはいないだろう。だいたい「両面焼きグリル」そのもの自体が新しいから、だれも詩に書いていないのである。直前の「魚焼きグリルに イン」も、新しい書き方である。
 そうした「新しいことば」をていねいにつなげていけば、それだけで詩になるか。じつは、ならない。「対象」と、それを「言語」にするときの作者の「位置」、つまり「距離感」が「一定」でないと、単に「新製品の宣伝」になってしまう。
 この詩ではなすに包丁で切れ目をいれるところから、途中でなすを回転させるところまできちんと描き、その動きの中に「イン」「両面焼き」といういままで存在しなかったことばがきちんとおさめられている。どのことばも「日常で使いこなすレベル」で統一されている。この統一された「ことばの距離感(作者の立ち位置)」が詩なのである。つまり、読者は「作者の立ち位置」、作者そのものを読むのである。「焼きなす」の作り方を読むのではなく、つくっている(食べている)詩人の「人間性」を読むのである。
 さて、最後。
 食べ物の味をことばにするのは難しい。でも、ことばにしてほしい。「深い味わい」では、味が伝わらない。舌触り、歯触り、におい。やわらかさ。あまさ。「切れ目」はどうなったのか。「紫の皮」はどうしたのか。
 この作品に「セクシャリティーを感じる」と語った受講生がいたが、食べることは、たしかにセックスとも関係する。池田にそういう意図があったかどうかは関係なく、読者は、自分の好みに従って読む。その「読者の好み」をからかうように書いてみるのもおもしろいと思う。
 この講座を始めるとき、私は「嘘を書いてみよう」という言い方をしたことがある。どんな嘘も「ほんとう」を交えないと嘘にならない。焼きなすをつくる。皮に切れ目を入れる。その「ほんとう」を書いたあと、ことばをどこまで動かしていけるか。たとえば、切れ目は、どうなったのか。ことばを動かしながら、自分をどこまで変えていけるか。自然に変わっていくときは、自然に変わればいい。しかし、自然に変わらないときは「わざと」変わるのである。
 西脇順三郎は「現代詩は、わざと書くもの」と言ったが、「わざと」書いた瞬間に、なにかがうまれることもある。


 
ジ イノセント  堤隆夫

殺した側の論理が いつの間にか奇妙に腐乱した果実から
手のつけられぬ程 増大した悪性腫瘍となり 無辜の肉体を殲滅する
加害の責任を問えない
問えば 人権侵害というイノセントな良識派よ

善もない 悪もない 正義もない 恥もない
どこまで行っても泥濘のこの地よ
ああ この地はいつからこのようになったのか

この敗戦の大いなる代償が 被害者の人権が雲散霧消し
加害者の人権が跳梁跋扈する 戦後民主主義なる
日本租界の 今なのか

殺される側の論理は怒り
怒りは真実の鏡
きっちりと社会責任を問うことこそが 
この地に住む人間の尊厳 そして誇り
その静かなる規範の遵守こそが 今 一番大切なこの国の同一性

汝は何時迄 負け犬で満足しているのか
汝は何時迄 自らの責任をマジョリティーに転嫁し
一人卑怯者の不遇を装い続けるのか

無恥の砂漠で もうこれ以上 生き恥を曝さないで欲しい
なぜならば わたしはあなたを理屈ぬきに愛しているから
それは あなたに対する感愛
感愛 そうそれはわたしがあなたに抱くカナシミノココロ
不条理の森に蔓延する カナシミノココロの空気
その空気の百合の公共圏―――その連帯感のエナジーで
わたしとあなたは もう一度奮い立つ
そのことこそが愛 感愛
そして わたしとあなたとの共生の志
そして 生き続ける希望

 堤の詩の魅力は、畳みかけるリズムにある。「善もない 悪もない 正義もない 恥もない」という一行があるが「善も悪も正義も恥もない」という具合には、堤は書かない。最初のことば「善」が「悪」を引っ張りだしたのか、「善」と書く前に「悪」があらわれて「善」を誘い出しているのか。それは、わからない。そういうことを考えさせないリズムである。「どこまで行っても泥濘のこの地よ/ああ この地はいつからこのようになったのか」の二行のなかの「この地」という繰り返しについても同じことがいえる。泉から吹き出す水が、吹き上がりながら、下の水にもぐりこみ、みわけがつかなくなる。そこに「勢い」がある。この「勢い」が堤の「人間性」である。「勢い」がひとつひとつのことばを鋭角的にしているのである。
 「論理」というか「意味性」が強い詩なのだが、考えさせない。考えさせないというと誤解を与えるかもしれないが、読んだ人に考える時間を与えずに疾走する。そのスピードを借りて、「その空気の百合の公共圏」というような、異質なものが突然あらわれる。「論理」の運動を突き破って、「論理」の奥から、論理になる前のものが噴出してくる。もちろん堤には、そのことばの脈絡がわかっているのだが、読者にはわからない。しかし、それはわからなくてもいいものなのだ。ただ、読者はびっくりすればいい。いつか、興奮が静まったとき、その「突然」のもっている「意味」が明らかになるかもしれない。ならないかもしれない。それがわからなくても、このリズムが堤のことばなのだとわかれば、それでいいのだと私は感じる。
 堤の書き方は、青柳とも池田とも違うが、違っているからこそ、そこにはそれぞれの「譲れない真実」というものがある。

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青柳俊哉「あやめる」ほか

2024-07-21 23:23:46 | 現代詩講座

青柳俊哉「あやめる」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年07月15日)

 受講生の作品。

あやめる  青柳俊哉
 
花の分身として、花に結ばれ、花に帰依する蝶の本性。花
にしいられ、宇宙的な変身を遂げる蝶の神性を畏れる。
 
聖餐のように花の衛星がまう。小さな双対の花弁の、複雑
な飛翔の軌跡を追う。鋭角に舞い上がり、水面低く乱舞し、
秘密のように花に休む。
 
匂やかな葉先にとまって何かを思念している蝶……。羽を
立て微かにそよがせ、空気のわずかな乱れにも鋭敏に反応
する。その時意識を消して、花が発する霊力の衝撃に紛れ
て、羽をそっと指先で閉じる。あざやかに羽を摘みとり、
花の中へ沈める。指先は白や黄色の鱗粉にまみれた。
 
一続きのいのちを、蝶の羽に映じるわたしを花へ帰す。蝶
もわたしも花の模倣であり、花へ殉(したが)う草である。

 「あやめる」は「殺める」。そのとき、人間は何を感じるだろうか。小さな生き物を殺した記憶、というのは、多くの男性(少年)なら持っているだろう。そのときの記憶を、単に「殺した」という「客観的事実」ではなく、「肉体」そのものの変化としてどう消化/昇華できるか。そのとき「肉体」が受け止めたものを、どれだけ「ことば」にして表現できるか。
 この青柳の詩では「指先は白や黄色の鱗粉にまみれた」に「肉体」の反応がある。「まみれた」は「塗れた」である。「よごれた」でもある。このとき、その「塗れ/汚れ」をどう感じるか。それを深く突き進めると、詩は、強くなる。「塗れる/汚れる」はかならずしも「不快」とは断定できない。こどもたちは母親たちが顔をしかめるのをからかうように泥んこ遊びに夢中になる。有明の泥の干潟では「泥リンピック」という催しさえある。「気持ち悪い」ことは「気持ちいい」ことでもある。常軌を逸する「愉悦」がある。「愉悦」とは、いつでも小さな死と同時に不思議な再生である。
 この詩には、ひとつの「仕掛け」がある。最後の行の「殉(したが)う」という表現。「殉死する」。それは「死んだ人について死ぬ」ことであり、この「ついていく」から「したがう」という「読み」も生まれる。また字義的には「したがう」のほかに「もとめる」もある。(新漢語林/大修館書店)
 「蝶の死」に「したがった」のは何か。「精神」か「肉体」か。「記憶/感受性」か。
「想像力」か。
 「殉(したが)う」と書いてしまうと、そこに「漢字」の持っている「意味」が優先的に動いてしまう。「肉体」が、すこし置いてきぼりになる。「殉」という「殉死」そのものを呼び覚ます漢字ではなく、違った「和語」、「肉体」そのものにつながる動詞をつかって最後を展開できれば、この死はいっそう刺戟的になる。つまり、読者を悩ませる詩になる。「殉死」とは書いていないのだが、それに通じることば(漢字)があると、「意味」が明確になりすぎる感じがする。
 読者の「意味」(意識)を裏切る、ということが、詩には重要なポイントである。

わたしがいて 気がつけばいつもあなたが 傍にいた   堤 隆夫

たかが一生 宇宙の永さに比べれば ほんの一瞬 
でも ほんの一瞬の短い人生でも 
最期のときまで 希望を持ち続けることこそ 生の目標であり 生の原動力なんだ
苦しい人生の中で 蟻の穴ほどのちっぽけな窓から 頭を出し
一条の希望の光を 探し続けていれば 
幽けき光は いつの間にか光束となって
降り注いでくれるんだ

希望は人生 人生は信じること 生きることは続けること 
生きることを続けていれば 私たち皆 老い 障害を背負い 末期患者となり 
支え合い無しには 生きていけなくなるんだ
このことを皆で深く広く考えて 老若尊厳社会を築こうではないか

偉大な人生もちっぽけな人生も 無い 
ただ わたしとあなたの人生があるだけ
あなたの人生とは この青い地球で 泣きながら笑いながら怒りながら
暮らす隣人 全ての他者の人生のこと
わたしの人生はわたしだけの一度きりのもの 後戻りできないもの 
あなたの人生もあなただけの一度きりのもの 後戻りできないもの 
畢竟 二度の人生なんて無いんだ
他の人の人生と 自分の人生を比べることは 
自分が決して体験しようの無い 仮想の人生と比べることになるんだ

一度きりの人生の重み 一度きりの人生の尊厳 
それぞれの人生の重み それぞれの人生の尊厳
わたしとあなたが 今の一瞬の人生を ともに手を携え 支えあい 助けあうこと 

絶望している人の傍に寄り添い 体温で暖められた 一本の名も無い草の花を 捧げること
そういう社会を目指したい

 堤のことばは、青柳のことばよりもはるかに多くの「意味」を含んでいる。それは「意味」を突き抜けて「意見」に変わり、さらに「主張」へと昇華していく。そこにいちずな堤の正直があらわれるのだが、「主張」は同意を呼び寄せることもあるが、時には敬遠したい気持ち、さらには反感を呼び寄せてしまうこともあるかもしれない。反対できない「主張」は、反対できないということが、なんとも窮屈で、その窮屈が反感に変わってしまうのである。
 窮屈を感じさせない「主張(意見)」というものは、どういうものだろうか。
 この詩には、ふたつの例が提示されていると思う。「わたしの人生はわたしだけの一度きりのもの 後戻りできないもの/あなたの人生もあなただけの一度きりのもの 後戻りできないもの」と「一度きりの人生の重み 一度きりの人生の尊厳/それぞれの人生の重み それぞれの人生の尊厳」。似たことばが繰り返される。繰り返しのなかに「ずれ/差異」がある。この「ずれ/差異」が、「遊び」を生み出す。(デジタルの組み合わせではなく、アナログの「余裕」を生み出す。)こうした「余裕」があった方が、何かを「共有」しやすい。「余裕」がないと、読者が自分自身の「肉体」を参加させることがむずかしくなる。「精神(意識/頭)」は、その「主張」が正しいとは判断するのだが、「私は、もう少し『ずる』をしたい。ちょっと手抜きをして参加したいけど、手抜きをするとしかられるかもしれないなあ」と気後れがする。
 「主張(結論)」は大事なのだが、「結論」よりも、ことばの運動の過程での「迷い」の方が読者を引きつけることもある。作者が「わからない」という「結論」に達したときの方が、「あのひとはわからないと言っているが、わたしよりもはるかにわかっている」という感じをあたえることがある。「答えを知っている、でも、それがことばにならないだけなのだ」という印象になって、強くこころを揺さぶることがある。
 プラトンの対話篇。ソクラテスは「何も知らない(わからない)」と言いながら対話するが、聞いているひと(対話に参加しているひと)は、プラトンは「知っている、わかっている」と感じる。そして、それは同時に、自分自身で「知る/わかる」ことでもある。ひとはだれでも、そのひと自身の「意味」を生きているから、答えは読者に任せればいいのだと思う。
 答えを読者に任せるのは、とてもむずかしいけれど。そのむずかしいことにこそ取り組んでもらいたい。
 

七月の手紙  杉惠美子

半夏生の咲く頃
白い雲の流れと
螺旋のごとき夏の風を感じるとき
遠いあなたへ手紙を書きます

梅雨の終わりの期待感と
夏の日の目覚めは
あなたとまた会えそうな
そんな気がします

控えめに光を捕えながらも
変わらぬ色を求めつつ
勤勉さを忘れない
あなたに会えそうな気がします

夏色の祈りは
あなたへ向かうことばとなって
七月の揺れる風のなかに
立っています

 「半夏生の咲く頃」とごく自然な夏の描写ではじまったことばが、いつのまにかなるの描写を越えて動いていく。
 最初のきっかけは「手紙」である。「手紙」は「ことば」で成り立っている。「私(作者/杉)のことば」と「あなた」の「ことば」が出合う。現実に出合うことはできないのかもしれないが、「ことば」同士が出会う。もちろん、そのとき「あなたのことば」というのは、いま杉が書いていることばに対する「反応/返事」ではないだろう。しかし、「手紙」を書くとき、知らず知らずに「あなたのことば」(返事)を予想している。あるいは、期待している。
 私がこの詩でいちばん驚いたのは「勤勉さを忘れない/あなた」ということばである。「勤勉さ」というのは抽象的で「意味」が強く、もしかすると詩ではあまりつかわれないかもしれない。「要約」になりすぎている、と言えばいいのだろうか。しかし、この短い詩では、その「要約」がとても効果的である。具体的にどんな「勤勉さ」なのか、どこにも具体的な説明がないから、この「勤勉さ」は杉にしかわからない「勤勉さ」なのだが、だからこそ、そこに私は私の知っている「勤勉さ」を重ね合わせることができる。「ああ、私の姉は勤勉だったなあ」などと、ふと重ねるのである。もちろん、杉の書いてる「勤勉さ」と「私の姉の勤勉さ」はピッタリ重ならないが、それでいいのである。だいたい「勤勉さ」の定義自体、杉と私とでは違うだろう。同じことばであっても、そこには「ずれ/差異」がある。だからこそ、私たちは「ことば」を重ね合わせることができる。
 「ことば」は最終連に「ことば」という表現になってあらわれてくるが。
 この「ことば」がとてもおもしろい。立っているのは「ことば」なのだが、それは「夏の祈り」であるし、どういえばいいのか、そのときその「ことば」のとなりには、「あなたのことば」も一緒に立っている感じがするのである。「あなたのことば」がいっしょにそこにいると感じるからこそ、「杉のことば」もそこにいることができる。
 前回の詩で、杉は兄の俳句を紹介していたが、その俳句のことばと大江健三郎のことば(実際には何も書かれていない)が交錯して動いて感じられたように、ここでも「書かれないことば」が動いている。そういう「動き」を感じさせる、とても自然なリズム、音楽がある。

いのちか  池田清子

六畳 和室の
腰高窓の雨戸を閉めるとき

 このようにくれ
 またあしたをむかえる
 これが
 これがいのちのあじわいなのか

というフレーズがうかぶ
少し胸がしまる

大抵は
そうよ って
明るくシャッターを下ろす

か? って
軽く聞かれているような気がして

 二連目の「これがいのちのあじわいなのか」は「か」で終わっているが、必ずしも「疑問」をあらわしているとは言えないだろう。疑問というよりも「詠嘆」にちかいかもしれない。「これが」といったん言って、すこし間があって「これがいのちのあじわいなのか」と「これが」を繰り返してしまう感じは、「諦観」かもしれない。
 そうしたことばに出合って、それを疑問に変え、「か? って/軽く聞かれているような気がして」と言うとき、そこには「ずれ/差異」があって、その「ずれ/差異」こそが池田なのだ、池田の正直なのだと感じさせる。
 そして、それは、その最終連の前の、二連のなかの変化があってこそなのである。「諦観」に「少し胸がしまる」、そして「そうよ」(それでいいのよ)と言うことで、けりをつけたいのだが、なかなか「明るく」決断に踏み切れない。
 「迷い」がある。「わからない」がある。
 だから、読んでいて、こころが誘われる。
 「軽く聞かれているような気がして」と中途半端(?)で終わる行も、その中途半端がとてもいい。絶妙の「余韻」を生んでいる。
 書きそびれたが、書き出しの「六畳 和室の/腰高窓の雨戸を閉めるとき」の一種の「古くささ」がとてもいい。「腰高窓」は、いまはもうつかわなくなったことばかもしれない。それが「六畳/和室」ともぴったりくる。何かしら、この書き出しで「時間(過去)」を感じさせる。つまり、池田が「生きてきた」ことを感じさせる。「これがいのちのあじわいなのか」という諦観のことばと向き合える年齢の人間だと感じさせる。言いなおすと、ここには若いひとには書けない「余裕」がおのずと漂っている。それが詩を強いものにしている。

 

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杉惠美子「ふらここのゆめ」ほか

2024-07-07 23:25:16 | 現代詩講座

杉惠美子「ふらここのゆめ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年07月01日)

 受講生の作品。

ふらここのゆめ  杉惠美子

去年の10月 久し振りで兄と会った
口数少ない兄が コロナ以来の久々の高校のOB会で帰福するから
会いたいと言ってきた

再会を喜び チョコレートケーキセットをふたりで食べた
帰り際 今度はいつ会えるかね・・・と
兄は私の肩を3回 ポンポンポンとたたいた
何故か嬉しかった

今年 梅の花がしんしんと咲くころ
兄が倒れたとの連絡があった
今からリハビリの病院に転院します・・と
兄は言葉を失っていた

そんなある日 本棚を片付けていたら 大江健三郎の本が出てきて開けてみると
兄の字があった

 1969年11月    首相訪米阻止闘争の帰路

   霙ふる車窓に映る死人の目    徹

と書かれてあった 多分 兄から譲り受けた本だと思う
学生運動をしていた兄は 殆ど家にはいなかった

紫陽花の季節がやってきた
私は いつも通りの暮らしの中で 義姉からの報告と会いに行ける日を待っている

色褪せた本は 私の机の上で懸命にリハビリに励んでいる

 闘病中(リハビリ中)の兄を思う詩だが、2か所、特に胸に響く。まず、「兄は私の肩を3回 ポンポンポンとたたいた」。「3回」を「ポンポンポン」と言いなおしている。3回では抽象的だが、ポンポンポンによって、たたくが具体化している。肉体が、その瞬間に感じられる。杉は、「何故か嬉しかった」と、それをさらに言いなおしている。これは、思わず言いなおしたのだろう。無意識に言いなおしたのだろう。それくらい、うれしかった。「正直」がとてもよくあらわされている。
 この「肉体感覚」があるからこそ、その後の闘病、リハビリが「肉体」として迫ってくる。
 そして、その「肉体」と書いたこととは違った風になるかもしれないが、その後の大江健三郎、安保闘争、俳句の「ことば」が強く響いてくる。「肉体」があるからこそ、「ことば」が鮮明になる。「ことば」は抽象的なものだが、「肉体の不自由(不随)」によって、逆に何か、「動きたい」を強く浮かび上がらせる。
 こういうことは詩の感想として書いていいのかどうかいつも迷うのだが、もし杉の兄が倒れ、リハビリをしていなかったなら、大江健三郎以下の詩行は書かなかっただろう。何か、「肉体」が動かなくなったことを、「ことば」の力を借りて動かそうとしている「意思」のようなものを感じる。
 そういうこともあって、最後の「色褪せた本は 私の机の上で懸命にリハビリに励んでいる」が非常に印象に残る。「本」がリハビリをするわけではない。しかし、「本のなかのことば」、そして「兄の俳句」が、何かを求めて動いている。動きを取り戻そうとしているように感じられる。そして、そのとき「動きを取り戻すことば」は大江健三郎のことば、兄のことばではなく、杉自身のことばのようにも感じられる。
 大江健三郎が語ろうとしたことば、兄が語りたかったことば、それが杉自身のことばとなって動き始める。そのための、杉自身の「リハビリ」にも感じられる。
 書き出しの、さり気ない報告(散文)のようなことばが、連を展開するごとに別の次元を切り開いていく。大江健三郎からは、きっと読者のだれひとりとして想像しなかった展開だと思う。もしかすると杉も、書こうとして書いたというよりも、「事実」に引っ張られて、事実によって書かされたことばかもしれない。そして、その意図を超えたことばの誘いに従って、そのことばに導かれて杉が変わって行った。一行目のなかにいる杉と、最終行の中にいる杉とではまったくの別人である。書くことによって、杉自身が生まれ変わっている。
 この詩には、詩を書くこと(ことばを書くこと)によって起きる「自己革命」のようなものが潜んでいる。強い力が潜んでいる。

世界は人間なしに終わるだろう  堤隆夫

「あの山の向こうには、何があるのかな」
あなたの最期の言葉だった。
最期になると分かっていたなら、
もっと話を聞いてあげたかった。
あの日から、夜の静寂から薄明かりの朝焼けを迎える時の、
空気感がたまらなく虚しい。

舞鶴――ケヤキの木の下で喜捨し、
名護――ガジュマルの木の下で憤怒し、
水俣――サクラの木の下で哀惜し、
石巻――クロマツの木の下で楽土を夢見た。

あはれ、すべて世は事も無しなのか。
今日も、行く川の無常は絶えずして、
わたしの心底の水際は、侵食され続ける。

あなたの笑顔に、希望を見た。
あなたの涙に、愛しみを感じた。
あなたの怒りに、真実を知った。

あなたの死に、永遠に求める道を教えられた。

 「あなたの最期」。この「あなた」は堤にとって、特定の個人だろう。しかし、「特定の個人」はいつでも「普遍」を含んでいる。それは「特定の場所」、たとえば、舞鶴、名護、水俣、石巻が特定を超える普遍を含むのと同じである。そして、その普遍は、その場所がそれぞれ独自に持っているものではなく、その場所に思いを寄せる人間(堤)によって生まれてくるものである。「ことば」が「特定」を「普遍」に変える。「場所」から「時間」が生まれ、その「時間」が「歴史」に変わる。堤のことばで言えば「世界」にかわる。
 そうした動きをとおして、「あなた」は「個人」でありながら、「個人」を超える。杉の書いていた「兄」が「兄」ではなく、「兄を超える存在(大江健三郎にも共通することばをもった人間)」にかわったように。
 詩の閉じ方が、とても興味深い。
 受講生の一人が指摘したが、「笑顔」「涙」「怒り」は「現実」である。それに対して「死」は「現実ではない」。言いなおすと、死はだれもが体験しなければならないものだが、自分の体験した死を語ることはできない。「現実」を超えたものである。「笑顔」「涙」「怒り」から「死」へことばが飛躍するとき、そこではやはり何かが飛躍している。その飛躍のためには、一行空きは絶対必要なのである。
 ことばのつながりだけで言えば、「あなたの」で始まる4行は連続したものである。しかし、「音」が連続してリズムをつくっていても、意識はそのリズムを超越する。あるいは、リズムがあるからこそ、意識は加速し、飛躍してしまうのかもしれない。
 書き出しの一行のなかにいる堤、最終行の中にいる堤。そこには、やはり、書くことでつかみとった「新しい人間」がいる。ことばを書くことは、書く前の自分から変わってしまうことである。

あつめられて  青柳俊哉 

 蜂蜜 水あめ アーモンド 
 杏子ジャム 赤すぐりピューレ 
 林檎のペクチン レモン果皮……  

雨の日のマドレーヌ 紅茶に運ばれて
口に花ひらく言葉の風味たち
 

 雨の中につくられる窓
 ながれおちる無数のはちみつ
 粒たちがみつめるそれぞれの孤独の
 琥珀色の透明度 つきることなく
 過ぎていくこの世界の雨の香り

忽然と窓に咲くあじさいの太陽
 

最後につどう詩人たち 

 「ことば」をあつめることは「自分」をあつめることでもあるだろう。「蜂蜜 水あめ アーモンド」、それぞれのことばのなかにいる青柳はどんな青柳だろうか。
 これまで読んできた青柳の詩とは少し印象が違うが、いままでの青柳のままでもある。その「いままでの青柳」を強く感じさせるのが「口に花ひらく言葉の風味たち」の「言葉の風味たち」の、とくに「風味たち」という「念押しの説明」である。マドレーヌを口に含んだ。そのとき広がるさまざまな風味。たとえば、蜂蜜、あるいはアーモンド。実際にマドレーヌがアーモンドを含んでいるかどうかは問題ではない。含まれていない方が、より刺激的なのだ。存在しないものが「ことば」となって青柳を襲ってくる。
 この一行が「口に花ひらく言葉」で断ち切られていたら、とても印象が強くなっただろうし、次からの展開も違っただろうと思う。
 ここで「風味たち」と説明してしまったために、三連目が「より」説明的になった。飛躍というか深化というか、変化があるはずなのに、その変化の中を「説明」が動いてしまう。もちろん「説明」にも、「説明」自身の自立した動き、ことばの自律が生み出す動きがあるのだが「蜂蜜/はちみつ」がつよくなりすぎて「杏」「赤すぐり」「リンゴ」「レモン」が押し出されてしまったのが残念な気がする。
 「ことば」によってあつめられた青柳が、あつめたことばによって青柳ではなくなってしまうところまで書き込めば、あつまってくることばそれ自身が「詩人」なのだという最終行が、もっと強烈に印象に残るだろうと思う。「ことば=詩人」という「説明」ではなく、「詩人=ことば」なのだという「断言」になるとおもしろいと思う。

「都々逸っていいなあ」より

白だ黒だとけんかはおよし 白という字も墨で書く       詠み人知らず
夢に見るよじゃ惚れよがうすい 心底惚れたら眠られぬ     詠み人知らず
口の中にも豆打ち込んで オレの心の鬼退治          義之助
噂の毒薬お世辞の媚薬 社交辞令の常備薬           義之助
皺の手合わせて礼言う母よ ありがとうなら俺が言う      あき子
心のどこかが満たされなくて 焼き芋バターを厚くぬる     章子
行方知れずのふんわり雲に ついて行きたい朝もある      節子
雨が小雪に変わった頃に 悲しかったのだと気づく       みや
文化国家は天然水を ペットボトルで買って吞む        安次郎
長居をするなと春一番が 冬の背中を蹴って春         勲
長く大きな欠伸の先に 見つけた小さな秋の雲         秋霖
影さえ千切って捨てたいくらい 心に貧しさ見つけた日     秋霖
辞書を引きつつ恋文書いた 好きも嫌いも女偏         鮎並
答えのないのが答えと知って 自分探しを終わらせる      章子
未だかもうかの自分の歳へ 身体はもうだと言っている     秋霖
こんな夜にはあなたのもとへ 飛んでいってもいいですか    賢

 「都々逸」というのは、「七・七・七・五」のリズムによる詩(歌)という。どの都々逸が好きか。受講生によって、答えは様々。
 「白だ黒だとけんかはおよし 白という字も墨で書く」が象徴的だが、意外と「理屈っぽい」というのが私の印象だ。「黒」と言わずに「墨」と言うところがポイントなのだと思うが、こういう「意識のくすぐり」というのは、形を変えれば吉野弘になるのかなあ、とも思った。
 詩と都々逸とどこが違うのかということを語り合ってみるべきだったかもしれないが、時間が足りなくてできなかった。
 私は、この作品のなかでは「心のどこかが満たされなくて 焼き芋バターを厚くぬる」が詩に一番近いかなあと思った。谷川俊太郎なら「心のどこかが満たされなくて」をこんなふうに直接的にではなく、もっといろいろな「事実」を積み重ねる形で書いたあと、そんなことを書いたことを忘れた顔をして「焼き芋(に)バターを厚くぬる」と書いて詩を閉じるかなあと考えたりした。「心のどこかが満たされなくて」と「焼き芋バターを厚くぬる」の間には、説明するのはめんどうくさいが、なんとなく「納得する」肉体感覚の深さがある。焼き芋は谷川俊太郎の「好物」である、とどこかで読んだ記憶がある。

 

 

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堤隆夫「凍土の森の中から」ほか

2024-06-28 23:59:23 | 現代詩講座

堤隆夫「凍土の森の中から」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年06月17日)

 受講生の作品。

凍土の森の中から  堤隆夫

歓びも 悲しみも 凍てついた
凍土の森の中から 
不遜にも花ひらく 曼珠沙華の実存よ
そは いつか視た
アウシュビッツの殺人現場の象徴か
「広場の孤独」の正午の紫外線の曳航か

雨の降る 奇妙に空気が熟した優しい日の夜
疑似症の愛に悶えながら
生あるものの死の必然に
愕然と頭を垂れ 刮目して待つ
「本当の愛に出会うまでは 死ねないよ
本当の絶望に出会うまでは 死ねないよ」
ああ なんという パンドラの箱の
パラドックスか

晩秋の氷雨に 心が凍える時
私は煩悩の日々に 終止符を打つ
「あるがままの自分でいいじゃないか
自分でやったことは 悔やむな」

亡き母の口癖だった この言葉が
今日も 私の心底で共鳴する
夜風の咽び泣きと柿の葉の風鈴の
小夜曲となって

 「本当」ということばが二回繰り返される。「本当の愛」「本当の絶望」。「本当」の反対のことばは「疑似性」と書かれている。「嘘」ではない。そして、それだけではない。「本当」の、もうひとつの反対のことばは「あるがまま」である。「あるがまま」は、なぜ、「本当」の対極にあるのか。
 堤は「本当」を、「あるがまま」よりも厳しいもの、いわば「存在しないもの」、つまり「理想」のようなものとして考えていることがわかる。「真理」と言い換えてもいいかもしれない。
 「理想」「真理」ということばのなかには「理」がある。つまり、「頭」でとらえなおした「法」のようなものがある。「真実」は、「理」ではなく「実」を含む。
 こう考えてくると、母の口癖の「あるがまま」とは「真実」のことだとわかる。
 だが、堤は、どこかで「真実」ではなく「真理」にたどりつきたいと思っている。「理(法)」にたどりつくためには、「ことば」が必要である。「ことば」を必要としている、「ことば」を支えとしているから、詩を書く。そういう堤の「生き方」(正直)があらわれた作品だが、私には最後の二行が「弱い」ように感じられる。「夜風の咽び泣きと柿の葉の風鈴の/小夜曲」は「真理」だろうか、「真実」だろうか。この二行をとおして、堤は何を見ようとしているのか。
 好意的に解釈すれば「見ようとしている」のではない、「見ているのだ」ということになるかもしれない。それこそ「あるがまま」であろうとしているのかもしれないが、「母の口癖(言葉)」を「理(あるいは法)」として「現存させる」には、少し弱いと感じる。言いなおすと、それまで動いてきた「理(法)」と向き合う力が、ふっと息を抜いた感じがするのである。

名  池田清子

310315
という同級生がいた

うらやましかった

私の名前は
数字ににはならない

しかたがないので
名字をばらして
三木 にした

 この場合の「数字」とは「暗号」のようなもの、あるいはある特別な世界の「隠語」のようなものか。ある「秘密の共通言語」をもつことで仲間意識をもつこと。そういう「世界」に入れるか、入れないか、というのは、人間のある成長期間にとってはなかなか大事なことである。その時代をすぎてしまって、傍から見ればなんでもないことかもしれないが、そうはいかないのが人間のむずかしさかもしれない。
 「うらやましかった」から「しかたがないので」までの変化、その結論(?)を「しかたがない」ということばでとらえるのがおもしろい。「しかたがない」と言いながら「しかた(法/理)」を変えているのがおもしろい。同級生とは違う「理」が、動いている。
 最終連は「なぞなぞ」だが、「なぞなぞ」というのは、ちょっと違った「理」を差し出して見せる「遊び」である。

ローザの野牛*  青柳俊哉

涙におおわれている世界
すべてが眼の外側をながれる

見える心が
野牛の平たい角を垂直に空へ伸ばす
ルーマニアの星の褥(しとね)に贖(あがな)われるようにと

エデンへ投げ捨てられた女
運河を水牛が泳ぐ
傷を文字でみたして

血は凝固し そして
星へ融解する

涙へ ふたりは合流する
世界の外側で

*ローザ・ルクセンブルクの手紙をモチーフとしたパウル・ツェランの詩「凝固せよ」(詩集「息の転換」所収。中村朝子氏訳及び訳注。青土社)から発想しました。

 「外側」ということばがある。「眼の外側」「世界の外側」。「眼の内側」「世界の内側」ということばは書かれていないが、この詩には、その書かれていない「眼の内側」「世界の内側」と「眼の外側」「世界の外側」が交錯する。
 どのようにして?
 「涙」を媒介にして。あるいは「傷(血)」を媒介にして。それは「眼の内側(心)」からあふれ、「世界の外側」をつつむ。「世界の内側」からは「涙にならない涙」があふれてきており、それは「眼の外側」をつつむ。「眼」は「涙」をとおして、「存在しない涙」にふれる。そして、「世界の涙」になる。
 「合流する」と、青柳は、ことばにする。
 青柳は詩の誕生のきっかけを注釈で説明している。何かに触発されて、ことばを動かす。そのとき、「ことば」は出合うだけではなく「合流する」。
 と書いて、いま、思うのだが、堤の最後の二行が「弱い」と感じてしまうのは、堤のことばと母のことばが「出合って」はいるけれど、「合流(融合)」にまで達していないからではないか。「共鳴」ということばがあったが、その「共鳴」がつくりだす「和音」が「小夜曲」であるのは物足りないのである。

雨音  杉惠美子

夕暮れ時
少しずつ辺りが暗くなっていく その時
少々 しがらみのない自由を楽しむことにも飽きて
かと言って 人と会うのも面倒で
ひとりの椅子の子守り歌を聞いている

私の中のこだわりも 余白も
すべて すとんと落として 忘れてしまった
わたしの呼吸にのせる
雨音だけがある
 
 「かと言って」が複雑である。「かと言って」を中心にして二つの世界があるのだが、それはほんとうに「二つ」なのだろうか。もし「真理」というものがあるのだとしたら、それは「かと言って」ということばで「二つ」を引きつけてしまう「私/わたし」という「存在」かもしれない。
 杉は「私」「わたし」と書き分けるのだが。
 杉は「合流」のかわりに「のせる」ということばをつかう。「呼吸にのせる」。呼吸は、吸うだけでも、吐くだけでもない。「往復」がある。
 「雨音」(雨)は最後に登場するだけなのだが、とても効果的。「子守り歌」が聞こえてくる。それは「呼吸」なのか「雨音」なのか、わからないくらいだ。

 

 

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荒川洋治「裾野」ほか

2024-06-15 22:33:21 | 現代詩講座

荒川洋治「裾野」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年06月04日)

 荒川洋治の作品と受講生の作品を読んだ。

裾野  荒川洋治

少女たちは 父親の顔をして
先頭を歩いた
十年もたつのに
重心は高く
山の雲がふくらむ

軽い荷物には
焼き菓子が 紙に包まれて
曲がり角のたびに
宕々とものを落とす

楽な気持ちをつづける詩も
きれいな心にさしむかう歌も
よく開墾された散文も邪魔になる
人は人のそばを通りぬけるので

先頭は見えない
裾野からは
努力であることしか見えない
きょうも大きな岩が落ちていた

 「むずかしいことばはないのに、読むのにむずかしい。テーマは重いと思うが、焼き菓子などがでてきて、おもしろい」「主題がわからない。なぜ少女たちが父親の顔をして先頭を歩いたのか。戦後の厳しさを書いているのか」「三連目の『よく開墾された』からの二行が印象的で考えさせられる。人生に対する諦観がみえる」「三連目も印象的だが、最終連の、終の二行がおもしろい。見えないものをめざしているのかな?」「俯瞰の仕方が、他の詩人とは違う。ことばの入れ替えがあり、わかりにくい」
 「むずかしい」「わかりにくい」というのは、「散文的な意味(論理)」を追いかけることができないということだと思う。登場する少女たちに対する説明が一切ないからだ。何を書いてあるかというヒントは詩集のタイトル『北山十八間戸』にある。この詩を持ってきた池田は、それがハンセン病の患者のたその施設という説明をした。しかし、そうした「背景」がわかったとしても、やはりこの詩が難解であることにかわりはないだろう。
 むしろ、「印象的」と感じたときの、読者自身の「感じ」が大切なのだと思う。何かわからないけれど、こころが、ことばに誘われて動く。その瞬間に、「意味」になる前の何かがある。
 三連目が印象的なのはなぜだろうか。詩、歌、散文ということばが登場する。気持ち、心ということばも出てくる。何かしら、ことばそのものについて語ろうとしているのかもしれない。
 私がこの詩で注目したのは、三連目の最後の行。「人は人のそばを通りぬけるので」。この連だけ「ので」で終わっている。「人は人のそばを通りぬける」で終わると、何か、意味(?)が違ってくるだろうか。違ってくる、と、私は感じる。少なくとも、ここには「ので」と書かないと気が済まない荒川がいる。「ので」は、何かしらの「理由」めいたものをあらわす。荒川は、この詩全体に、何かしらの「理由」、つまり生きてきた人間の「歴史」を感じているのである。その「歴史」の感じをつたえるために「ので」と書いたのだと私は思う。
 いつでも、どこにでも、人間が生きている「現場」には、人間をとりまく「理由」がある。「十八間」という「広さ」にも「理由」があるだろうし、「大きな岩が落ちていた」にも「理由」があるかもしれない。「きょうも」ということわりは、きのうも、あすも、を意味するだろう。そうすると、そこには「過去、現在、未来」という「時間」があり、「歴史」があることになる。
 この「時間」の意識は、一連目の「十年もたつのに」の「十年」につながるだろうし、その「十年もたつのに」にも「のに」という「理由」というか、「根拠」というか、「気持ち」の連続がある。
 何が書いてあるか、わからない。しかし、そのことばの奥には、そうした微妙な「連続」があり、その「連続」は、かってきままのようであって、実はかってきままではなく、揺るぎない「持続」である。ことばのリズムが、そう教えている。
 荒川洋治は、「気持ちの持続」を書く詩人である、と私は感じている。

たんぽぽに  杉惠美子

綿毛となって 軽やかに曲線を描き
蝶が舞う風を起こして
鳥たちとともに
空に踊る
軽やかに空を踊る

この祈りを
受けとめてくれる
受け継いでくれる
育ててくれる

優しい人間を探して

舞い降りる
舞い降りる

繋いでくれないか
残していく子らに
手渡してくれないか

 「すばらしい詩。書き出しの二行は、私には思いつかない。二連目の『祈り』が『優しい人間を探して』『繋いでくれないか』へと展開していく。論理的だし、空間も広がる」「タンポポの存在が詩のなかで表現されている。『祈り』は何かな、と私はいま考えているところ。作者の考えている『祈り』は、詩を読むとわかった気がする」「一連目から、詩の世界がめざされている」「やさしい詩。坂村真民の詩を思い出した。次世代へのメッセージがある」
 私は、まず一連目の「空に踊る」「空を踊る」の変化に注目した。助詞がかわるだけで、世界が大きく変化する。主語が鳥(タンポポ?)から空に変わった感じ。その変化を受け継いで、二連目から新しいことばの次元がはじまる。一連目が現実の描写だとしたら、二連目以降は「精神」の描写。「祈り」ということばが象徴するように、精神(気持ち)が書かれていく。「くれる」「くれる」「くれる」とつづいたことばが、最後は「くれないか」「くれないか」にかわる。あいだにある「探して」の「して」という中途半端というか、つなぎ(接続)を要求する独立した一行のつかい方もおもしろい。(この「して」は一連目にもあるけれど。)
 ことばのリズムが、ことばの運動(変化)をしっかり支えている。

ウォーターマーク  青柳俊哉
 
身体の奥に波うつ指紋
二重の螺旋をおりて星の水場へ
 
蝶の羽の紋 あるいは水門の
葉もようの編み目をくぐりぬけて 
別の銀河の海で禊(みそぎ)する
 
水源へ 百合の花の底の海へ蘇る
蜜に溺れる蜂が最後の痛苦をもとめるから
 
ゆれる 鳥かげが響く水籠
飛ぶ鳥籠の中の石
 
隆起する海の
水母の口から汲みだされる星の石場へ
もう一つの輪の始まり

 「タイトルの『マーク』がわからない。水が次々に変化している。連のつながりを感じる。『もう一つの輪』『水母』がわからないけれど、おもしろい」「タイトルだけがカタカナだけれど、水の指紋のことかなあ。『飛ぶ鳥籠の中の石』が唐突な感じがする」「考えさせられる。『星の石場』『別の銀河』が印象的。最後の連に希望を感じる」「最終行をめざしてことばが動いている、最終行へもっていくために、ことばを展開しているということを感じた」
 この詩にも、荒川の詩について触れたときにつうじることばがある。「蜜に溺れる蜂が最後の痛苦をもとめるから」の「から」。読者にとっては、この「から」はなくても、「意味」は変わらないと思う。しかし、青柳は、この「から」を書かないと、詩のことばが動いていかない。ここには、まだことばとして書かれていないことば、ことば以前のことばが隠れてる。
 その書かれていないことば、青柳の「肉体」のなかで動いていることばと向き合うために、他のことばが書かれている。このふたつのことばの関係は「二重の螺旋」のようなものかもしれない。緊張感が、ことばを、イメージを複雑にする。

亡き母と私の身近にあるすべての母性へ捧ぐ  堤隆夫

帰らない息子 帰らない娘の不在を
母と身近にある母性よ
決して悲しむこと無かれ
子らの不在
それは 母性の欠乏が原因ではなく
母性の横溢の結果なのだから

欲望は 横溢の子だから
帰らない息子 帰らない娘の不在を
母と身近にある母性よ
決して嘆くことなかれ
帰らないこと
それは 子らの 母なる大地からの決別の表象などではなく
いつの日か その大地に帰趨するための
通過儀礼の旅の途中なのだから
それは 子らの ひとりの母なる胎内空間から
驟雨の町にたたずむ
無限数列の母なる胎外空間への
メービウスの宇宙の帯への 体験飛行なのだから

不在とは その不在たるひとの
肉体の不在というよりは
その不在たるひとの
精神の不在がおそろしいのだから

母と身近にある母性よ
帰らない息子 帰らない娘の不在を
決して嘆き悲しむこと無かれ
そは いつも 母なるあなたの胸のゆりかごで
あえかなる寝息とともに 微睡んでいるではないか

 「『母と身近にある母性』という表現が意外」「一連目の『子らの不在』からの三行がすべて。『無限数列の』からつづく二行がおもしろい。ふつうはつかわない表現。三連目の四行も。しめくくりが、堤さんらしい。言い切っている。それによって意志が明白になっている」「三連目の『肉体の不在』からの三行は、とてもにくわかる」「母親として、はげまされる」
 堤の詩にも「理由(根拠)」をしめすことばがある。「なのだから(のだから)」。しかし、この「だから」は荒川は「ので」とはずいぶん違う。明確な「論理」である。この論理性ゆえに、堤の詩は、非常に構築的な印象がある。そして、その強靱な印象を「なかれ」や「そは」というような「古典的」なことばがいっそう強めている感じがする。だから「あえかなる」や「微睡む」というやわらかなことばも、その辞書的意味(?)とは逆に、なにか「ゆるぎない」もの、「確実な」ものという感じがする。
 「不在」や「無限数列」「通過儀礼」という、「漢語(?)」よりも「だから」の方が、堤の詩の世界を特徴づけているように感じる。

たぷ  池田清子

世の中の理不尽が
私の肩にかかっているとは
思わないが

何かが
私の肩を重くしている

稀勢の里に似た
無表情の愛らしい
たぷの里

たぷが乗っかっているのだと思えば
気持ち軽くなるような

 「好きです。すごく、いい詩。絵本の絵より、おもしろい」(この詩は、朝日新聞に紹介されていた、藤岡拓太郎の「たぷの里」、ナナロク社出版に触発されて書いたもの。講座では、その一部も紹介された)「かわいい詩。ユニーク。私には書けないおもしろさがある」「読んだとたんに気持ちが楽になる詩」「たぷの音とイメージが、この詩の本質」
 この池田の詩では、最後の「ような」がとてもすばらしい。「気持ちが軽くなる」と断定せずに「ような」とつづけることで、気持ちを読者に預けている。この断定を避けた表現は、一連目の「思わないが」にもあるが、この「思わないが」は何か「論理」を動かす表現だが、最後の「ような」は「論理」を誘わず、あいまいさを誘う。「気持ちが軽くなる」ではなく「気持ち軽くなる」と助詞の「が」がないのも非常に効果的だ。論理を脇においておいて、ふわっと気持ちが動いている。その「軽さ」が、とてもいい。

 


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杉惠美子「漣」ほか

2024-05-31 16:57:48 | 現代詩講座

杉惠美子「漣」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年05月20日)

 受講生の作品。

漣  杉惠美子

五月の光をうけて
炭酸水のような
撥ねる音を聴きながら
ふくふく膨らむ
あしたを願いながら
さざなみのひとりごとを
聴いてみたい
ありふれた幸せと
ありふれた不幸の中で
ゆらゆら揺れて
誰かとかくれんぼしながら
ずっと かくれていようか
それとも
波のまにまに 見え隠れしながら
ずっと 手を振っていようか
乱反射する月光の下で

 「炭酸水の描写、ふくふく、ゆらゆら、の動きが柔らかくて静か」「浮遊感が自然。気持ちがよくなる詩。五月の光で始まり月光の下でと終わるのは、最初は少し違和感がある。しかし光で統一されていてよかった」「五月の光から月光への変化には、時間の流れがある」「ありふれた不幸からの二行にひかれる。平穏な日々、小さな幸せを感じて生きている」
 杉は「日本画を見て、触発されて書いた。雰囲気を感じ取ってもらえてうれしい」と語った。
 私は「聴いてみたい」という一行について、「聴いていようか」だったら、どうなるだろうか、と質問してみた。他の部分では「かくれていようか」「手を振っていようか」なのに、ここでは「聴いてみたい」と杉が書くのはなぜなのか。
 「身を託していたいから」「独り言のなかに入っていきたい」「聴きながら、と呼応している」
 統一されていたら、詩が落ち着きすぎるかもしれない。「みたい」が「いたい」にかわる微妙な揺らぎがある。書きながら、ことばが動いていく感じがしておもしろい、と私はと思った。
 最後の一行は、私はいらないと思ったが、受講生はどう感じたか。
 「最後の一行がないと動きだけで終わってしまう」「詩の語調が弱くなる」「最後の一行で引き締まる」

緑の中  池田清子

散歩中
遠くに山が見える

濃く深い緑 茶色い緑 山吹色の緑
薄い緑 光る緑

あの緑の中に
身体を横たえられたら
どんなに幸せで美しいだろう

低いけれど急な山
枯葉を踏みしめ
崖を気にしながら
つたいながら 登る

途中切り株に腰を掛けたとき
やっと 緑が見える
自由な樹木たち 空 鳥の声

緑とは
見るもの、撮るもの、感じるもの

緑の木々を背に
自撮りする

 「二連目。さまざまな緑の表現に、緑の力、季節感、その美しさを感じる」「四連目の情景が目に浮かぶ。五連目への変化がとてもリアル。作者の緑に対する安らぎを感じる」「三連目がいいなあ。六、七連目は緑のなかにいる自分を映し込む。最終連の自撮りが池田さんらしい」
 この詩でも、私は、最終連について質問してみた。私なら書かない。
 「現代風、意外性があっておもしろい」「超現実的」「ナルシストかなあ」「緑のなかでの一体感が表現されてる」
 私は、詩には「終わり」がない方がおもしろいと感じるのだが。

若木  青柳俊哉 

春の水のうえで藁が焼かれる
空があり風が吹きつけて 炎が燃える

(藁の匂いが美しい)

藁のうえに蜜柑の若木がおかれる
それは燃えない それは美しくならない

(在ることより 言葉が先へ行く)

子たちが水をわたって遊ぶ
水のむこうに言葉の国がある

ひらかれた空の底から 名づけられた葉が
吹きつける すべてのもののうえで風が燃える

春の水のむこうへ 子たちとともに 
若木が行く 言葉の意志として

 「二連目の表現が新鮮。三連目の蜜柑が予想外だった。それ燃えない、から(在ることにより)のあいだに微妙な感覚がある。水のむこう、風が燃えるという表現も新鮮。最終連には、作者のいろいろな思いを感じる」「一連目、水のうえで、焼かれる、がおもしろい。水をわたって、水のむこう、というのもおもしろい」「括弧のなかの意味がわかりにくい。最後の言葉も括弧のなかに入れてもいいかなあ」「言葉が春のなかにはなたれている。括弧の意味は、段階を踏んで進んでいく感じ」「括弧でくくっているのは、潜在的な思い、メッセージを表現するためにつかっているかなあ」
 こうした感想に対して、青柳は「結論をむりやり書いている感じがするので、括弧に入れる気持ちはなかった。括弧のなかに入れるのも選択肢としてはおもしろい」と語った。
 三連目が非常に印象的、哲学的で、それを生かすには括弧に入れる、入れないは別にして、「言葉の意志として」は若木とは組み合わせず(一行にせず)、独立させた方が強くなると思う。

大いなる古の風よ  堤隆夫

からだの中に吹く 
大いなる古の風よ

私たちのからだの中には 宇宙がある
私たちのからだは 星のかけらでできている
六〇兆もの私たちのからだの細胞は 星のかけら

私たちの遺伝子は 三十八億年前に生まれ 
そこから進化を遂げてきた
一度だって途切れることなく 続いてきた原始からの力を
私たちは連綿と 受け継いできた

だからこそ 私もあなたも 今 ここにいる

白銀の大海原は はるかに
綿津見の神は 琥珀を織り
かつて聞こえしためしなき 機織りの歌

大いなる古の風よ
もっと吹け もっと荒れよ

とまれ 私たちの憂いを 
白銀のあなたに 運び去るのだ

 「ダイナミックな詩。古の風、宇宙そのものが体のなかにあるということが理論的に述べられている。白銀の大海原で詩が転換する。最後の運び去るのために必要だったことがわかる。大海原が私たちの大きな比喩」「スケールが大きい。五連目の、機織りの歌が印象的。太古から続く人間の憂いを放ちたいのかなあ」「三十八億年前ということば。生命の歴史の知識がないので、そうなんだ、と思いながら読んだ。知識があれば、もっと柔軟に読めるかもしれない」
 この詩でも、わたしは終わり方について質問してみた。
 「もっと荒れよ、で終わったら何かおさまらない。荒れて、おわってしまう」「力強い終わり方」「ないと、おかしい」「作者の訴え。なかったらイメージが広がるが、訴えがわからなくなる」
 私は、荒れて終わった方が、どうなるかわからなくて、わくわくする感じがする。最終連は「とまれ」が象徴的だが、「まとめる」(まとめた)という印象が強い。つまり、「作為」が感じられる。
 これはむずかしい問題で、ひとりひとりの好みも大きい。


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青柳俊哉「運動」ほか

2024-05-16 23:01:10 | 現代詩講座

青柳俊哉「運動」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年05月06日)

 受講生の作品ほか。

運動  青柳俊哉

樋の綻びからくずれおちる雨の言葉

雨の音にふれる時 
わたしは水の中にある
潮水の神話がみみもとをながれおちる

蝋梅の香にふれる時
蜜を吸う蜂の口が斜めにさしかけて
ほそくながくわたしはふるえる

氷の火山で空をおおう潮水の上昇気流
松林の根をうるおす雪の羽毛の神話

地に空にわたしはひろがり
わたしから離れる


 世界に言葉の分子がただよう-

 「一行がすーっと入る。たくさんのことば、イメージが重なるが、タイトルがさっぱりしている。詩に対する姿勢がタイトルと最後に書かれている。ただ最後の一行はなくてもいいのでは」「『蜜を吸う蜂の口が斜めにさしかけて』という一行が好き。地上から宇宙へ旅立つ感じ、アウフヘーベンする印象がある。最後の一行がいい」「潮水の神話』『羽毛の神話』が青柳さんらしい。ことばの拡散、分散を感じる。ことばが宇宙を反映している」「一、二、最終連が好き」「一行目がいい。二連目も好き」
 最後の一行に関して好き嫌い(?)がわかれた。
 ことばの自由な運動(いわゆるリアリティーにとらわれずに、ことばがことば自身のもっている法則(?)やリズムに従って発展していく運動)がテーマというか、その運動を書くというのが青柳の詩。そこにはいわゆる現実世界の論理ではなく、想像力の論理、ことばの運動そのものの論理がある。
 そのことば自身の論理、あるいは自立した運動という点からみると、四連目は急ぎすぎている印象がある。「氷」と「雪」の呼応があるのだが、その呼応のあいだを動いているものが速すぎてつかみきれない。「一、二連目が好き」という受講生がいたが、そこには雨、水、流れるという連絡があり、くずれ「おちる」、ながれ「おちる」という呼応もある。言葉と音、みみの連絡もある。ことばが連絡し合うとき、その連絡のなかからおのずとイメージが湧き出てくる。それは青柳が意図した通りに読者に届くかどうかはわからないが、読者はその運動を手がかりに自分のことばをみつめる。その瞬間に、詩が動くと思う。
 もう少し長い方が静かな(そして激しい)運動が明確になるのでは、と思う。
 

緑さす  杉惠美子

トンネルを抜けると
眩しい緑が 彼を迎えた
その光の中に
まっすぐに
彼は走り去って行った

その山路の直線的な空気感と
蛇行する空気感を
私は知らない
私は帰り道を失っていた


  ある時 彼方から優しい風が吹く道に
  出会い
  立ち止まれば
  優しい陽だまりに包まれた

  私はわたしを 全身で攪拌し続けた日々のことを
  少し思い出していた

  そして時折
  その日の感覚はいつも今にあるという
  断片に圧せられる瞬間に会う

 「一連目が切ない。三連目に彼があらわれてくれて、やさしい気持ちになれた。最後の一行の表現がいい」「深い詩。最後の二連が印象的。過去はいつも、いまの横にある。ことばが胸に迫ってくる」「私は帰り道を失っていたのあと、三連目に愛を感じた。深い詩」「最初の二連は現実。そのときの心情。『直線的な空気感』がいい。三連目以降は作者の内面。記憶の底にある何かを探し出そうとしている」
 この詩を深くしているは「少し」と「時折」だと、私は思う。真剣に、いつでも(いつまでも)思い出すというのは、それはそれで意味があるし大事なことなのだが、それでは「いま」というものが苦しくなりすぎるだろう。「少し」とはいっても、思い出す瞬間にそれは「少し」ではなく、その瞬間のすべてである。「時折」といっても、その「時折」は「いま」のすべてでもある。
 くりかえされている「その」ということばも大事である。「その」ということばが、過去をしっかりとつかまえてくる。杉には、その「その」が何を指しているか、はっきりわかっている。そう教えてくれる。その「その」と対峙するような「ある時」の「ある」も効果的だ。
 「去って行った」のに「出会う」、「去って行った」から「会う」。そこに、切実さがある。

白バラの声  堤隆夫

わたしの身と心に 詩があるかぎり
詩が死であるはずもなく
死は わたしのまわりのどこにもない

たった一人のあの人が 亡くなったという史は
詩の始まりであって 死の始まりではない

今朝 白バラの声に起こされた
白バラの声は たましいのレジスタンス
あなたは今も生きている

生きてゆくことは 正しいことでも強いことでもない
生きてゆくことは 弱くある自由を保つこと
わたしだけの史の歩みを続けること

生きてゆくことは 混沌から抜け出すために
百三十億年前の星のかけらの光を
手づからすくい取ること

今になってわかる
見えるものと見えないものとの陥穽に
わたしだけの自由は しめやかに沈んでいた

わたしの胸の底の貝殻の記憶の中
白バラの声は たましいのレジスタンス
あなたは今も 生きている

あなたの姿が見えない今 
あなたへの思いが募るばかりの今 

弱くあることの自由によってしか 
開けることのできない
希望への扉があることを知った

 「格調高い詩。三連目『今朝 白バラの声に起こされた』からあなたのことが書かれている。あなたのことを思っていることが切々と伝わってくる。最終連、その結び方に思いがこもっている」「『白バラの声』にずっといっしょにいたいという思いがよくわかる。『弱くあることの自由』の繰り返しが響いてくる」「詩を書く理由が丁寧に書かれている。詩を書くことによって生きている」「いま、バラの季節だが、季節の巡り、蘇り、レジスタンスのパッションがある、と感じた」
 堤から「白バラ」は1943年の反ナチス運動の「白バラ運動」を題材にして書いた、と説明があった。「あなた」は運動のために処刑されたひと。「あなた」が教えてくれたのが「弱くあることの自由」。いつも思っていることなので、詩として出すのはためらった、とも語った。
 ひとはことばなしには考えられない。思うことはできない。そして、思ったからといって(考えたからといって)、それが「ことば」として動いてくれるかどうかは、わからない。この詩には、くりかえし考えたことによって、ことばが自立して歩みだした印象がある。ことばのなかに「歴史」(過去)がある。そういうことを感じさせる。受講生のひとりが「格調」ということばをつかったが、格調とは繰り返し考えることによって鍛えられたことばの強さ、美しさのことだろう。
 この詩では「弱くある」の「ある」のつかい方がとても強烈である。この「ある」は「生きる」である。単なる「状態」ではない。そして、それは「なる」でもある。「強くなる」のではなく「弱くなる」。言い換えれば、常に「弱い立場に身を置く」である。「なる」だから、それは選択的行為である。選択的だからこそ「自由」と結びつく。そして、「なる」は「なす」でもあるからこそ、「希望」につながる。ひとはだれでも「希望」ののために何かを「なす」。
 明確な思想、人格を感じさせる詩だ。

 受講生以外の詩も読んだ。池田清子が選んできた詩。 池田は田中を砂との親和性の強いひと、砂を詩に書いていると紹介したが、読んだのは次の作品。

名づけられないもの  田中佐知

名づけられたものたちで
この 地上は あふれている
樹 空 星 薔薇 道 蝶
それと 同じ 分量 で
いや さらに 多くの
名づけられないものたちの
見えない 息吹きで いき苦しいほどに 満ちている

それは ものの まわりを とりまく
濃密 な 空気 の 流れ
見えない 精 霊 たちの きらめき
あるいは
ことば と ことば の 行間 に ひそむ 奥 ぶかい 暗や
み と 光り

また
樹 を 指し 「き」と 発する
その 実物 と ことば の間に たわむ かすかな ずれ ず
れ が 起 こ るのは
樹みずからの中から あふれる霊気が 「き」という ことばに
収まりきれない からだろうか
樹のもつ無限の力が
ことば を はるか に 超えてしまうのか

ことば を 通りこした 世界を
あえて ことば で えようとすることが 名づけられないものた
ちの 見えない力に 光りを ふりそそぐ ことになるのかもしれ
ない
その光り を

と 名づけても いいだろうか

 「詩というものを詩に書いていいのかなあ、という思いがあるのかなあ。自分自身に対する説明かなあ」「愛しさ、慈愛のこころを感じた。かなしみが、どこかに流れている」「字と字のあいだに空間がある。そこに気持ちを感じる」「ことばとものとの関係を突き詰めている。万葉人のような感覚、言霊を感じた」
 単なる「分かち書き」ではなく、普通はひとまとめのことばを、あえて分断して空白をもちこんでいる。そのとき「意味」はどうなっているのだろうか。「意味」だったものが「音」になったのか、「音」が「意味」になろうとしているか。それは、たぶん決めることができない。そのときの「空白」が闇か光か、それも決めることはできない。どちらであると決めることのできないもの、ただそこにあるものが詩なのかもしれない。

 

 

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