詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉惠美子「おいしいごはん」ほか

2024-09-15 19:53:31 | 現代詩講座

杉惠美子「おいしいごはん」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年09月02日)

 受講生の作品。

おいしいごはん  杉惠美子

日日草が
お陽さまに向かって
本当を語ろうとする
ありったけの一瞬があった
からっぽになったとき

おなかがすいた

何かが終わった日に
夕立が激しく音を立てた
雷が止んだとき

おなかがすいた

夏の角を曲がって
海に落ちたとき
ずぶぬれになって
私まるごとを感じたとき

おなかがすいた

十三年が経って
ようやく気付いたことがある
私の中で透明な風となって
空を飛んだとき

おなかがすいた

 一連目が非常に魅力的である。「本当」「ありったけ」「からっぽ」が拮抗する。「本当」「ありったけ(すべて)」は似通うものがある。しかし、それは「からっぽ」とは矛盾する。このみっつのことばは、からみあって「撞着語」になる。それは「一瞬」のことであり、その「一瞬」は「永遠」でもある。
 何かに気がつくというのは、こういうことだと思う。
 では、何に気がついたのか。
 「おなかがすいた」
 そんなことに気がつかなくてもいい、というひとがいるかもしれない。しかし、「おなかがすいた」と気がつけることのなかには、どうでもいいこと(?)のみが持つことでできる「ほんとう」がある。
 そして。
 この「おなかがすいた」は、最初の連の「からっぽ(腹が空っぽ)」とも強く結びついている。
 この詩では「おなかがすいた」という一行が独立して連をつくっているが、それは前の連の最終行と強く結びついている。同時に、次の連への飛躍台ともなっている。
 この変化が、非常におもしろい。
 論理があるのか、ないのか。そんなことは、どうでもいい。「論理」というのは、後出しジャンケンであり、どういうことでも論理にできるからである。
 終わりから二連目、「十三年」と「気付いたこと」について、受講生は少し戸惑ったようだった。「いつ(何)から十三年」なのか、「何に気づいた」のか。私は「透明な風になって/空を飛んだ」から、流行歌の「千の風」を思い出した。大事な人が亡くなった。でも、その人はいなくなったわけではない。いまも、いる。そう気づいた。
 変わらない何かに気づいた。その安心感が、空腹を教えてくれた。いつも、変わらぬものがある。生きている。私が生きているなら、あの人も生きている。生きているから感じる。そういうことを、大事にしている。連から連への自然な変化がとてもいいし、タイトルの「おいしいごはん」もいい。タイトルは「おなかがすいた」でもいいのかもしれないが、そこから少しだけ飛躍している。その飛躍の「軽さ」がとてもいい。

百年の希望  堤隆夫

愛と言う名の生き甲斐
愛と言う名の幻
「あなたの声を聞きたい 一度だけでもいいから」
過去も 今も めくるめくロンド

別れた時も 出逢った時も
人生という舞台
二つの命 燃え合い
されど今は 懐かしい日々よ

「最期に笑う日が一番よく笑う日だ」と
涙で呟いた あなたの瞳 永遠
されど叶わぬ 人の世の定め

暗く寂しい長い夜でも あなたの温もりは 胸の底
「いつまでも決して私を忘れないで」と
過去も 今も 忘れはしない

苦悩続く夜も 歓喜迎える朝も
人の歴史の常
「私は敗けはしない」と
過去も 今も
百年の希望
百年の希望
百年の希望

 「ロンド」。音楽形式。主題が何かをはさみながら繰り返される。この詩では、テーマは愛。それが、たとえば「生き甲斐/幻」「過去/未来」「別れ/出会い」「苦悩/歓喜」のような、撞着語をくぐりぬけ、あるいはつらぬき、動き続ける。そこから「過去/今/未来(このことばは書かれていないが、百年は、これからの時間を含んでいるだろう)」が「歴史」として認識され(形成され)、「希望」へと昇華していく。
 堤の作品には漢字が多く、文字だけ見ていると「固い」印象があるが、固いけれどもなにかしら響きにリズムがある。どうしてだろう、と思っていたら、実は、堤はシンガーソング・ライターだった。
 この作品はCD化されてもいる。
 ことばを「意味」だけではなく、「音」としても存在させようとしている。しかも、その音は旋律、リズム、和音という展開の中で具体化する。
 音楽のなかの「和音」を、私は、詩では「呼応」(響きあい)というようなことばでとらえているが、堤の場合は、それが「意味」だけではなく、「音」そのものの呼応でもあったわけである。
 堤の「(詩の)音」の秘密を見たように感じたのは、私だけではないと思う。

アナトリア聖刻  青柳俊哉

飛んでくる石化したバラ 
黒海の葦の茎先 鉄の羽…… 
楔を咥えて アナトリアの炭化した地層から
女たちのもとへ

葡萄の房形の紺青(こんじょう)の台地
隠されている女たちの
神聖な手の性(さが)と
焼かれた文字

車座になって剝かれる茄子の実とバラのすじめに
結晶するユニコード
もとめあう聖刻(せいこく)
人間の土地を超えて

 「アナトリア聖刻」とはなんだろう、という疑問が受講生のあいだから聞かれた。青柳から説明はあったのだが、それとは別に、ことばの「呼応」から「和音」として何が浮かび上がってくるかを見てみよう。
 「石化」「炭化した地層」は、歴史を感じさせる。「楔」そのものは「歴史」的存在とはいえないが、「楔形文字」となると歴史である。「アナトリア」は日本ではない。異国(日本以外)を強く感じさせることばに、「黒海」がある。「楔形文字」がつかわれたメソポタミアは「黒海」に臨んでいるわけではないが、周辺地区でもある。
 そうした「古代文明」が、いま私たちに何を語りかけてくるのか。
 受講生のあいだから、また「女たち」が印象的という指摘があったが、青柳は「人間の土地を超えて」何かが伝承されていくとき、そこに「女の存在」を重視している。女がいるから、歴史がある。二連目の「隠されている女たち」ということばのなかには、青柳の歴史観も含まれているだろう。
 一篇の詩のなかにはさまざまなことばが動いている。どのことばを聴き取り、それをどう受け止めるか。詩人のことばの響きを聞くだけではなく、それを自分のことばと響きあわせてみるのも楽しい。
 いま、目の前にあることば。そのことばのなかへ、私はどうやって参加していくことができるか。

海をみている  川﨑洋

現実に
めざめている
という
それから
夢をみている
ともいう
だったら
もうひとつ
海をみている
と いってもいい
と思う

起き上がって
また
海をみる
海と呼ばずに
気障ではあるが
広いやすらぎ なんて
呼ぼうか
海よ といわずに
広いやすらぎよ
なんてさ

暮れかかってきて
雲の切れ間から
ななめに
光の柱が二本
かなたの海面に入っている
あれは
昼間
水の中にさしこんだ光が
空へ還るのだろう

 受講生が、みんなといっしょに読むためにもってきた作品。
 受講生のなかから指摘があったが、この三連構成の詩は「静的」ではない。意識(ことばの指し示し方)が少しずつ変化している。そして、その変化を、むりに制御しようとしていない。なるようになるさ、と任せている感じがする。
 一連目は、ぼんやり海を見ている。「夢か、現か」。「海を見ている」という事実を「海を見ている」ということばにすることで、「ことば」のなか(意識のなか)へ動いていく。
 二連目の「広いやすらぎ」は「海」を言い換えたもの。「比喩」、あるいは「象徴」。そこに「精神」を見ている。ただし、深刻にならないように「なんてさ」というような軽い口調をまじえている。
 ここに川崎の「音楽性」があるといえるかもしれない。
 そして三連目で、ほんとうに川崎が考えたことを、ことばにしている。そのとき、おもしろいのは、いわゆる「天使の梯子」のなかに、逆向きを動きを存在させる(海に入る光/海から空へ帰る光)ことで、その動きを「限定(断定)」していないことである。読者に、私はこう思うが、どう思う?と問いを投げかけている。
 その結果として、詩の世界が、いっそう広くなっている。
 この詩は、三連目だけでも深い詩だが、一連目、二連目、三連目へとことばの動き方が少しずつ変わっていくところを、ていねいに「記録」している点が、とくにいい。一連目、二連目がなかったら、感動しても忘れてしまう。一連目、二連目があるから、忘れられないものになる。そう思うのは、私だけだろうか。

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青柳俊哉「バラを解く」ほか

2024-09-01 13:51:12 | 現代詩講座

青柳俊哉「バラを解く」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年08月19日)

 受講生の作品。

バラを解く  青柳俊哉

バラの深部へむかう。交配を重ねるものの寓意として、バ
ラがあまりにも人間的な美にとざされているから。

表層から花芯へ一枚一枚花弁を摘みとる。秘密を被うよう
に重なりあい密集するものの中へ分け入る。蜜のながれる
花糸を一つ一つ解いていく。裸になった花柱を摘みとる。
指先は黄色い脂粉にぬれた。

花冠は消失しても、茎の内部にはさらに深いバラの層がひ
ろがり、花弁は透けて重なり、肉体の空へ屈折している。
この細い透明な維管束をながれるものは何か。

美の影がながれる。生の個別性から死の全体性へ回帰しよ
うとする意志、隠された内的な欲動---。バラは遥かな
先行者であり、人はバラの表象である。

 一行目に「寓意」ということばがある。「寓意」ということばをつかうと、詩は、非常に難しくなる。「寓意」をどこまで深めていくことができるか、読者は期待するからである。そして、その「深さ」はときに「複雑さ」にかわってしまうことがある。「複雑」になると、しかし、問題は違ってきてしまう。「謎(解き)」になってしまうことがある。
 少し言いなおしてみる。
 「寓意」と書かなくても、(説明しなくても)、詩に登場する「バラ」を「バラ」と思って読む人は少ない。では、なんと思って読むか。「バラ」のとらえ方と思って読む。つまり、そこには「バラ」が描かれているではなく、バラと向き合った人間(詩人)がいるのであり、読者が読むのは「人間」なのである。「寓意」とことわらなくても、必然的に「寓意」のようなものが生まれてしまう。それが、ことばの運動だからである。
 受講生は、どんな「寓意」をくみとったか。
 「四連目に詩人の思考の深さがある」「人生をバラに表象している」「表層から深部へ向かう流れがいい」
 うーん、抽象的だ。質問を変えてみるのがいいのかもしれない。「自分には書けないなあ、と思ったことばは?」
 「秘密を被うように重なりあい密集するものの中へ分け入る。」「肉体の空へ屈折している。」「美の影がながれる。」「バラは遥かな先行者であり、人はバラの表象である。」
 「自分には書けない」は「自分と青柳とは違う」という「違い」の発見であり、また、単に「違いの発見」ではなく、つまり「青柳の発見」であるだけではなく、「そういう行を書いてみたい」という「自分の発見」でもあるかもしれない。
 さて。
 「寓意」であるからには、私は「バラ」を描いているとは読まない。むしろ「交配」を描いているものとして読む。「交配」とは「交合」である。「花弁を摘む」ということばは、たとえば吉岡実の「サフラン摘み」を思い起こさせる。「秘密」「蜜」「ながれる」「密集」「わけいる」「裸」「指先」「ぬれる」。
 どこまで持続できるか。
 三連目で、青柳は「茎の内部」を描き、さらに「維管束」を経て、四連目で「生」と「死」という哲学の中でことばをまとめるのだが、「寓意」ではなく「論理」になってしまった感じがする。「謎」が自分自身(読者自身)にはかえってこなくて、青柳の「思想/思考」のなかで整理されていくのを感じる。
 「思考」は整理するものではなく、むしろ、乱すもの、ではないだろうか、と私は思う。とくに詩は、論文ではないのだから、ことばの整合性は必要としないときがある。
 二連目は、これまでの青柳のことばの運動からみると新しい展開であり、そのことばが「茎の内部」、さらに「維管束」へと、ふつうはつかわないことばへと進んだのだから、そのまま「植物」を離れずに、「人間/肉体」に重ねてほしかった。「人間の内部の動き」に重ねてほしかった。
 ことばが加速して「生/死(いのち)」に昇華するのもいいが、少しことばの展開が早すぎる。長さにとらわれずというのは、講座で取り上げ、みんなで語り合うときに少し難しい問題を抱え込むことになるが、気にせずに、「隠された」「欲動」をもっと具体的にことばにし、読者を混乱させてほしいと思う。

紫の光る君  池田清子

まず
へたの周りにくるりと切れ目を入れましょう
次に
縦に四本のすじを引きましょう
ただそれだけで
二本でも三本でも
魚焼きグリルに イン

両面焼きの場合
途中九十度回転させて
あとは
お気のすむまで

紫のてかりが
少しずつ
身に影を落として
枯れていく

大好きな光る君が
自ら身を引き
大好きな素朴な君へと
変わっていく

栄養があるのかないのか
食べ過ぎてよいのかわるいのか

何と(馬鹿馬鹿しい)
深い味わい

 最終連。「他愛ない」「頑是ない」「池田さん特有の書き方」「深い味わいと直結しない」「池田さんの底知れない多様性」。いろいろな声が出たのだが。
 私は、最終連は、もっと他の書き方があると思う。
 「焼きなす」をつくって食べる。それは当たり前のようなことであって、当たり前ではない。というか、このことばのなかには、実は、これまでだれも書かなかったことばがある。
 たぶん。
 受講生の一人が「両面焼きの場合」という一行がおもしろいと言ったが、そのおもしろさは「事実」を書いているからであり、そして「両面焼きのグリル」で焼きなすをつくることはあっても、それを詩にしたひとはいないだろう。だいたい「両面焼きグリル」そのもの自体が新しいから、だれも詩に書いていないのである。直前の「魚焼きグリルに イン」も、新しい書き方である。
 そうした「新しいことば」をていねいにつなげていけば、それだけで詩になるか。じつは、ならない。「対象」と、それを「言語」にするときの作者の「位置」、つまり「距離感」が「一定」でないと、単に「新製品の宣伝」になってしまう。
 この詩ではなすに包丁で切れ目をいれるところから、途中でなすを回転させるところまできちんと描き、その動きの中に「イン」「両面焼き」といういままで存在しなかったことばがきちんとおさめられている。どのことばも「日常で使いこなすレベル」で統一されている。この統一された「ことばの距離感(作者の立ち位置)」が詩なのである。つまり、読者は「作者の立ち位置」、作者そのものを読むのである。「焼きなす」の作り方を読むのではなく、つくっている(食べている)詩人の「人間性」を読むのである。
 さて、最後。
 食べ物の味をことばにするのは難しい。でも、ことばにしてほしい。「深い味わい」では、味が伝わらない。舌触り、歯触り、におい。やわらかさ。あまさ。「切れ目」はどうなったのか。「紫の皮」はどうしたのか。
 この作品に「セクシャリティーを感じる」と語った受講生がいたが、食べることは、たしかにセックスとも関係する。池田にそういう意図があったかどうかは関係なく、読者は、自分の好みに従って読む。その「読者の好み」をからかうように書いてみるのもおもしろいと思う。
 この講座を始めるとき、私は「嘘を書いてみよう」という言い方をしたことがある。どんな嘘も「ほんとう」を交えないと嘘にならない。焼きなすをつくる。皮に切れ目を入れる。その「ほんとう」を書いたあと、ことばをどこまで動かしていけるか。たとえば、切れ目は、どうなったのか。ことばを動かしながら、自分をどこまで変えていけるか。自然に変わっていくときは、自然に変わればいい。しかし、自然に変わらないときは「わざと」変わるのである。
 西脇順三郎は「現代詩は、わざと書くもの」と言ったが、「わざと」書いた瞬間に、なにかがうまれることもある。


 
ジ イノセント  堤隆夫

殺した側の論理が いつの間にか奇妙に腐乱した果実から
手のつけられぬ程 増大した悪性腫瘍となり 無辜の肉体を殲滅する
加害の責任を問えない
問えば 人権侵害というイノセントな良識派よ

善もない 悪もない 正義もない 恥もない
どこまで行っても泥濘のこの地よ
ああ この地はいつからこのようになったのか

この敗戦の大いなる代償が 被害者の人権が雲散霧消し
加害者の人権が跳梁跋扈する 戦後民主主義なる
日本租界の 今なのか

殺される側の論理は怒り
怒りは真実の鏡
きっちりと社会責任を問うことこそが 
この地に住む人間の尊厳 そして誇り
その静かなる規範の遵守こそが 今 一番大切なこの国の同一性

汝は何時迄 負け犬で満足しているのか
汝は何時迄 自らの責任をマジョリティーに転嫁し
一人卑怯者の不遇を装い続けるのか

無恥の砂漠で もうこれ以上 生き恥を曝さないで欲しい
なぜならば わたしはあなたを理屈ぬきに愛しているから
それは あなたに対する感愛
感愛 そうそれはわたしがあなたに抱くカナシミノココロ
不条理の森に蔓延する カナシミノココロの空気
その空気の百合の公共圏―――その連帯感のエナジーで
わたしとあなたは もう一度奮い立つ
そのことこそが愛 感愛
そして わたしとあなたとの共生の志
そして 生き続ける希望

 堤の詩の魅力は、畳みかけるリズムにある。「善もない 悪もない 正義もない 恥もない」という一行があるが「善も悪も正義も恥もない」という具合には、堤は書かない。最初のことば「善」が「悪」を引っ張りだしたのか、「善」と書く前に「悪」があらわれて「善」を誘い出しているのか。それは、わからない。そういうことを考えさせないリズムである。「どこまで行っても泥濘のこの地よ/ああ この地はいつからこのようになったのか」の二行のなかの「この地」という繰り返しについても同じことがいえる。泉から吹き出す水が、吹き上がりながら、下の水にもぐりこみ、みわけがつかなくなる。そこに「勢い」がある。この「勢い」が堤の「人間性」である。「勢い」がひとつひとつのことばを鋭角的にしているのである。
 「論理」というか「意味性」が強い詩なのだが、考えさせない。考えさせないというと誤解を与えるかもしれないが、読んだ人に考える時間を与えずに疾走する。そのスピードを借りて、「その空気の百合の公共圏」というような、異質なものが突然あらわれる。「論理」の運動を突き破って、「論理」の奥から、論理になる前のものが噴出してくる。もちろん堤には、そのことばの脈絡がわかっているのだが、読者にはわからない。しかし、それはわからなくてもいいものなのだ。ただ、読者はびっくりすればいい。いつか、興奮が静まったとき、その「突然」のもっている「意味」が明らかになるかもしれない。ならないかもしれない。それがわからなくても、このリズムが堤のことばなのだとわかれば、それでいいのだと私は感じる。
 堤の書き方は、青柳とも池田とも違うが、違っているからこそ、そこにはそれぞれの「譲れない真実」というものがある。

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青柳俊哉「あやめる」ほか

2024-07-21 23:23:46 | 現代詩講座

青柳俊哉「あやめる」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年07月15日)

 受講生の作品。

あやめる  青柳俊哉
 
花の分身として、花に結ばれ、花に帰依する蝶の本性。花
にしいられ、宇宙的な変身を遂げる蝶の神性を畏れる。
 
聖餐のように花の衛星がまう。小さな双対の花弁の、複雑
な飛翔の軌跡を追う。鋭角に舞い上がり、水面低く乱舞し、
秘密のように花に休む。
 
匂やかな葉先にとまって何かを思念している蝶……。羽を
立て微かにそよがせ、空気のわずかな乱れにも鋭敏に反応
する。その時意識を消して、花が発する霊力の衝撃に紛れ
て、羽をそっと指先で閉じる。あざやかに羽を摘みとり、
花の中へ沈める。指先は白や黄色の鱗粉にまみれた。
 
一続きのいのちを、蝶の羽に映じるわたしを花へ帰す。蝶
もわたしも花の模倣であり、花へ殉(したが)う草である。

 「あやめる」は「殺める」。そのとき、人間は何を感じるだろうか。小さな生き物を殺した記憶、というのは、多くの男性(少年)なら持っているだろう。そのときの記憶を、単に「殺した」という「客観的事実」ではなく、「肉体」そのものの変化としてどう消化/昇華できるか。そのとき「肉体」が受け止めたものを、どれだけ「ことば」にして表現できるか。
 この青柳の詩では「指先は白や黄色の鱗粉にまみれた」に「肉体」の反応がある。「まみれた」は「塗れた」である。「よごれた」でもある。このとき、その「塗れ/汚れ」をどう感じるか。それを深く突き進めると、詩は、強くなる。「塗れる/汚れる」はかならずしも「不快」とは断定できない。こどもたちは母親たちが顔をしかめるのをからかうように泥んこ遊びに夢中になる。有明の泥の干潟では「泥リンピック」という催しさえある。「気持ち悪い」ことは「気持ちいい」ことでもある。常軌を逸する「愉悦」がある。「愉悦」とは、いつでも小さな死と同時に不思議な再生である。
 この詩には、ひとつの「仕掛け」がある。最後の行の「殉(したが)う」という表現。「殉死する」。それは「死んだ人について死ぬ」ことであり、この「ついていく」から「したがう」という「読み」も生まれる。また字義的には「したがう」のほかに「もとめる」もある。(新漢語林/大修館書店)
 「蝶の死」に「したがった」のは何か。「精神」か「肉体」か。「記憶/感受性」か。
「想像力」か。
 「殉(したが)う」と書いてしまうと、そこに「漢字」の持っている「意味」が優先的に動いてしまう。「肉体」が、すこし置いてきぼりになる。「殉」という「殉死」そのものを呼び覚ます漢字ではなく、違った「和語」、「肉体」そのものにつながる動詞をつかって最後を展開できれば、この死はいっそう刺戟的になる。つまり、読者を悩ませる詩になる。「殉死」とは書いていないのだが、それに通じることば(漢字)があると、「意味」が明確になりすぎる感じがする。
 読者の「意味」(意識)を裏切る、ということが、詩には重要なポイントである。

わたしがいて 気がつけばいつもあなたが 傍にいた   堤 隆夫

たかが一生 宇宙の永さに比べれば ほんの一瞬 
でも ほんの一瞬の短い人生でも 
最期のときまで 希望を持ち続けることこそ 生の目標であり 生の原動力なんだ
苦しい人生の中で 蟻の穴ほどのちっぽけな窓から 頭を出し
一条の希望の光を 探し続けていれば 
幽けき光は いつの間にか光束となって
降り注いでくれるんだ

希望は人生 人生は信じること 生きることは続けること 
生きることを続けていれば 私たち皆 老い 障害を背負い 末期患者となり 
支え合い無しには 生きていけなくなるんだ
このことを皆で深く広く考えて 老若尊厳社会を築こうではないか

偉大な人生もちっぽけな人生も 無い 
ただ わたしとあなたの人生があるだけ
あなたの人生とは この青い地球で 泣きながら笑いながら怒りながら
暮らす隣人 全ての他者の人生のこと
わたしの人生はわたしだけの一度きりのもの 後戻りできないもの 
あなたの人生もあなただけの一度きりのもの 後戻りできないもの 
畢竟 二度の人生なんて無いんだ
他の人の人生と 自分の人生を比べることは 
自分が決して体験しようの無い 仮想の人生と比べることになるんだ

一度きりの人生の重み 一度きりの人生の尊厳 
それぞれの人生の重み それぞれの人生の尊厳
わたしとあなたが 今の一瞬の人生を ともに手を携え 支えあい 助けあうこと 

絶望している人の傍に寄り添い 体温で暖められた 一本の名も無い草の花を 捧げること
そういう社会を目指したい

 堤のことばは、青柳のことばよりもはるかに多くの「意味」を含んでいる。それは「意味」を突き抜けて「意見」に変わり、さらに「主張」へと昇華していく。そこにいちずな堤の正直があらわれるのだが、「主張」は同意を呼び寄せることもあるが、時には敬遠したい気持ち、さらには反感を呼び寄せてしまうこともあるかもしれない。反対できない「主張」は、反対できないということが、なんとも窮屈で、その窮屈が反感に変わってしまうのである。
 窮屈を感じさせない「主張(意見)」というものは、どういうものだろうか。
 この詩には、ふたつの例が提示されていると思う。「わたしの人生はわたしだけの一度きりのもの 後戻りできないもの/あなたの人生もあなただけの一度きりのもの 後戻りできないもの」と「一度きりの人生の重み 一度きりの人生の尊厳/それぞれの人生の重み それぞれの人生の尊厳」。似たことばが繰り返される。繰り返しのなかに「ずれ/差異」がある。この「ずれ/差異」が、「遊び」を生み出す。(デジタルの組み合わせではなく、アナログの「余裕」を生み出す。)こうした「余裕」があった方が、何かを「共有」しやすい。「余裕」がないと、読者が自分自身の「肉体」を参加させることがむずかしくなる。「精神(意識/頭)」は、その「主張」が正しいとは判断するのだが、「私は、もう少し『ずる』をしたい。ちょっと手抜きをして参加したいけど、手抜きをするとしかられるかもしれないなあ」と気後れがする。
 「主張(結論)」は大事なのだが、「結論」よりも、ことばの運動の過程での「迷い」の方が読者を引きつけることもある。作者が「わからない」という「結論」に達したときの方が、「あのひとはわからないと言っているが、わたしよりもはるかにわかっている」という感じをあたえることがある。「答えを知っている、でも、それがことばにならないだけなのだ」という印象になって、強くこころを揺さぶることがある。
 プラトンの対話篇。ソクラテスは「何も知らない(わからない)」と言いながら対話するが、聞いているひと(対話に参加しているひと)は、プラトンは「知っている、わかっている」と感じる。そして、それは同時に、自分自身で「知る/わかる」ことでもある。ひとはだれでも、そのひと自身の「意味」を生きているから、答えは読者に任せればいいのだと思う。
 答えを読者に任せるのは、とてもむずかしいけれど。そのむずかしいことにこそ取り組んでもらいたい。
 

七月の手紙  杉惠美子

半夏生の咲く頃
白い雲の流れと
螺旋のごとき夏の風を感じるとき
遠いあなたへ手紙を書きます

梅雨の終わりの期待感と
夏の日の目覚めは
あなたとまた会えそうな
そんな気がします

控えめに光を捕えながらも
変わらぬ色を求めつつ
勤勉さを忘れない
あなたに会えそうな気がします

夏色の祈りは
あなたへ向かうことばとなって
七月の揺れる風のなかに
立っています

 「半夏生の咲く頃」とごく自然な夏の描写ではじまったことばが、いつのまにかなるの描写を越えて動いていく。
 最初のきっかけは「手紙」である。「手紙」は「ことば」で成り立っている。「私(作者/杉)のことば」と「あなた」の「ことば」が出合う。現実に出合うことはできないのかもしれないが、「ことば」同士が出会う。もちろん、そのとき「あなたのことば」というのは、いま杉が書いていることばに対する「反応/返事」ではないだろう。しかし、「手紙」を書くとき、知らず知らずに「あなたのことば」(返事)を予想している。あるいは、期待している。
 私がこの詩でいちばん驚いたのは「勤勉さを忘れない/あなた」ということばである。「勤勉さ」というのは抽象的で「意味」が強く、もしかすると詩ではあまりつかわれないかもしれない。「要約」になりすぎている、と言えばいいのだろうか。しかし、この短い詩では、その「要約」がとても効果的である。具体的にどんな「勤勉さ」なのか、どこにも具体的な説明がないから、この「勤勉さ」は杉にしかわからない「勤勉さ」なのだが、だからこそ、そこに私は私の知っている「勤勉さ」を重ね合わせることができる。「ああ、私の姉は勤勉だったなあ」などと、ふと重ねるのである。もちろん、杉の書いてる「勤勉さ」と「私の姉の勤勉さ」はピッタリ重ならないが、それでいいのである。だいたい「勤勉さ」の定義自体、杉と私とでは違うだろう。同じことばであっても、そこには「ずれ/差異」がある。だからこそ、私たちは「ことば」を重ね合わせることができる。
 「ことば」は最終連に「ことば」という表現になってあらわれてくるが。
 この「ことば」がとてもおもしろい。立っているのは「ことば」なのだが、それは「夏の祈り」であるし、どういえばいいのか、そのときその「ことば」のとなりには、「あなたのことば」も一緒に立っている感じがするのである。「あなたのことば」がいっしょにそこにいると感じるからこそ、「杉のことば」もそこにいることができる。
 前回の詩で、杉は兄の俳句を紹介していたが、その俳句のことばと大江健三郎のことば(実際には何も書かれていない)が交錯して動いて感じられたように、ここでも「書かれないことば」が動いている。そういう「動き」を感じさせる、とても自然なリズム、音楽がある。

いのちか  池田清子

六畳 和室の
腰高窓の雨戸を閉めるとき

 このようにくれ
 またあしたをむかえる
 これが
 これがいのちのあじわいなのか

というフレーズがうかぶ
少し胸がしまる

大抵は
そうよ って
明るくシャッターを下ろす

か? って
軽く聞かれているような気がして

 二連目の「これがいのちのあじわいなのか」は「か」で終わっているが、必ずしも「疑問」をあらわしているとは言えないだろう。疑問というよりも「詠嘆」にちかいかもしれない。「これが」といったん言って、すこし間があって「これがいのちのあじわいなのか」と「これが」を繰り返してしまう感じは、「諦観」かもしれない。
 そうしたことばに出合って、それを疑問に変え、「か? って/軽く聞かれているような気がして」と言うとき、そこには「ずれ/差異」があって、その「ずれ/差異」こそが池田なのだ、池田の正直なのだと感じさせる。
 そして、それは、その最終連の前の、二連のなかの変化があってこそなのである。「諦観」に「少し胸がしまる」、そして「そうよ」(それでいいのよ)と言うことで、けりをつけたいのだが、なかなか「明るく」決断に踏み切れない。
 「迷い」がある。「わからない」がある。
 だから、読んでいて、こころが誘われる。
 「軽く聞かれているような気がして」と中途半端(?)で終わる行も、その中途半端がとてもいい。絶妙の「余韻」を生んでいる。
 書きそびれたが、書き出しの「六畳 和室の/腰高窓の雨戸を閉めるとき」の一種の「古くささ」がとてもいい。「腰高窓」は、いまはもうつかわなくなったことばかもしれない。それが「六畳/和室」ともぴったりくる。何かしら、この書き出しで「時間(過去)」を感じさせる。つまり、池田が「生きてきた」ことを感じさせる。「これがいのちのあじわいなのか」という諦観のことばと向き合える年齢の人間だと感じさせる。言いなおすと、ここには若いひとには書けない「余裕」がおのずと漂っている。それが詩を強いものにしている。

 

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杉惠美子「ふらここのゆめ」ほか

2024-07-07 23:25:16 | 現代詩講座

杉惠美子「ふらここのゆめ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年07月01日)

 受講生の作品。

ふらここのゆめ  杉惠美子

去年の10月 久し振りで兄と会った
口数少ない兄が コロナ以来の久々の高校のOB会で帰福するから
会いたいと言ってきた

再会を喜び チョコレートケーキセットをふたりで食べた
帰り際 今度はいつ会えるかね・・・と
兄は私の肩を3回 ポンポンポンとたたいた
何故か嬉しかった

今年 梅の花がしんしんと咲くころ
兄が倒れたとの連絡があった
今からリハビリの病院に転院します・・と
兄は言葉を失っていた

そんなある日 本棚を片付けていたら 大江健三郎の本が出てきて開けてみると
兄の字があった

 1969年11月    首相訪米阻止闘争の帰路

   霙ふる車窓に映る死人の目    徹

と書かれてあった 多分 兄から譲り受けた本だと思う
学生運動をしていた兄は 殆ど家にはいなかった

紫陽花の季節がやってきた
私は いつも通りの暮らしの中で 義姉からの報告と会いに行ける日を待っている

色褪せた本は 私の机の上で懸命にリハビリに励んでいる

 闘病中(リハビリ中)の兄を思う詩だが、2か所、特に胸に響く。まず、「兄は私の肩を3回 ポンポンポンとたたいた」。「3回」を「ポンポンポン」と言いなおしている。3回では抽象的だが、ポンポンポンによって、たたくが具体化している。肉体が、その瞬間に感じられる。杉は、「何故か嬉しかった」と、それをさらに言いなおしている。これは、思わず言いなおしたのだろう。無意識に言いなおしたのだろう。それくらい、うれしかった。「正直」がとてもよくあらわされている。
 この「肉体感覚」があるからこそ、その後の闘病、リハビリが「肉体」として迫ってくる。
 そして、その「肉体」と書いたこととは違った風になるかもしれないが、その後の大江健三郎、安保闘争、俳句の「ことば」が強く響いてくる。「肉体」があるからこそ、「ことば」が鮮明になる。「ことば」は抽象的なものだが、「肉体の不自由(不随)」によって、逆に何か、「動きたい」を強く浮かび上がらせる。
 こういうことは詩の感想として書いていいのかどうかいつも迷うのだが、もし杉の兄が倒れ、リハビリをしていなかったなら、大江健三郎以下の詩行は書かなかっただろう。何か、「肉体」が動かなくなったことを、「ことば」の力を借りて動かそうとしている「意思」のようなものを感じる。
 そういうこともあって、最後の「色褪せた本は 私の机の上で懸命にリハビリに励んでいる」が非常に印象に残る。「本」がリハビリをするわけではない。しかし、「本のなかのことば」、そして「兄の俳句」が、何かを求めて動いている。動きを取り戻そうとしているように感じられる。そして、そのとき「動きを取り戻すことば」は大江健三郎のことば、兄のことばではなく、杉自身のことばのようにも感じられる。
 大江健三郎が語ろうとしたことば、兄が語りたかったことば、それが杉自身のことばとなって動き始める。そのための、杉自身の「リハビリ」にも感じられる。
 書き出しの、さり気ない報告(散文)のようなことばが、連を展開するごとに別の次元を切り開いていく。大江健三郎からは、きっと読者のだれひとりとして想像しなかった展開だと思う。もしかすると杉も、書こうとして書いたというよりも、「事実」に引っ張られて、事実によって書かされたことばかもしれない。そして、その意図を超えたことばの誘いに従って、そのことばに導かれて杉が変わって行った。一行目のなかにいる杉と、最終行の中にいる杉とではまったくの別人である。書くことによって、杉自身が生まれ変わっている。
 この詩には、詩を書くこと(ことばを書くこと)によって起きる「自己革命」のようなものが潜んでいる。強い力が潜んでいる。

世界は人間なしに終わるだろう  堤隆夫

「あの山の向こうには、何があるのかな」
あなたの最期の言葉だった。
最期になると分かっていたなら、
もっと話を聞いてあげたかった。
あの日から、夜の静寂から薄明かりの朝焼けを迎える時の、
空気感がたまらなく虚しい。

舞鶴――ケヤキの木の下で喜捨し、
名護――ガジュマルの木の下で憤怒し、
水俣――サクラの木の下で哀惜し、
石巻――クロマツの木の下で楽土を夢見た。

あはれ、すべて世は事も無しなのか。
今日も、行く川の無常は絶えずして、
わたしの心底の水際は、侵食され続ける。

あなたの笑顔に、希望を見た。
あなたの涙に、愛しみを感じた。
あなたの怒りに、真実を知った。

あなたの死に、永遠に求める道を教えられた。

 「あなたの最期」。この「あなた」は堤にとって、特定の個人だろう。しかし、「特定の個人」はいつでも「普遍」を含んでいる。それは「特定の場所」、たとえば、舞鶴、名護、水俣、石巻が特定を超える普遍を含むのと同じである。そして、その普遍は、その場所がそれぞれ独自に持っているものではなく、その場所に思いを寄せる人間(堤)によって生まれてくるものである。「ことば」が「特定」を「普遍」に変える。「場所」から「時間」が生まれ、その「時間」が「歴史」に変わる。堤のことばで言えば「世界」にかわる。
 そうした動きをとおして、「あなた」は「個人」でありながら、「個人」を超える。杉の書いていた「兄」が「兄」ではなく、「兄を超える存在(大江健三郎にも共通することばをもった人間)」にかわったように。
 詩の閉じ方が、とても興味深い。
 受講生の一人が指摘したが、「笑顔」「涙」「怒り」は「現実」である。それに対して「死」は「現実ではない」。言いなおすと、死はだれもが体験しなければならないものだが、自分の体験した死を語ることはできない。「現実」を超えたものである。「笑顔」「涙」「怒り」から「死」へことばが飛躍するとき、そこではやはり何かが飛躍している。その飛躍のためには、一行空きは絶対必要なのである。
 ことばのつながりだけで言えば、「あなたの」で始まる4行は連続したものである。しかし、「音」が連続してリズムをつくっていても、意識はそのリズムを超越する。あるいは、リズムがあるからこそ、意識は加速し、飛躍してしまうのかもしれない。
 書き出しの一行のなかにいる堤、最終行の中にいる堤。そこには、やはり、書くことでつかみとった「新しい人間」がいる。ことばを書くことは、書く前の自分から変わってしまうことである。

あつめられて  青柳俊哉 

 蜂蜜 水あめ アーモンド 
 杏子ジャム 赤すぐりピューレ 
 林檎のペクチン レモン果皮……  

雨の日のマドレーヌ 紅茶に運ばれて
口に花ひらく言葉の風味たち
 

 雨の中につくられる窓
 ながれおちる無数のはちみつ
 粒たちがみつめるそれぞれの孤独の
 琥珀色の透明度 つきることなく
 過ぎていくこの世界の雨の香り

忽然と窓に咲くあじさいの太陽
 

最後につどう詩人たち 

 「ことば」をあつめることは「自分」をあつめることでもあるだろう。「蜂蜜 水あめ アーモンド」、それぞれのことばのなかにいる青柳はどんな青柳だろうか。
 これまで読んできた青柳の詩とは少し印象が違うが、いままでの青柳のままでもある。その「いままでの青柳」を強く感じさせるのが「口に花ひらく言葉の風味たち」の「言葉の風味たち」の、とくに「風味たち」という「念押しの説明」である。マドレーヌを口に含んだ。そのとき広がるさまざまな風味。たとえば、蜂蜜、あるいはアーモンド。実際にマドレーヌがアーモンドを含んでいるかどうかは問題ではない。含まれていない方が、より刺激的なのだ。存在しないものが「ことば」となって青柳を襲ってくる。
 この一行が「口に花ひらく言葉」で断ち切られていたら、とても印象が強くなっただろうし、次からの展開も違っただろうと思う。
 ここで「風味たち」と説明してしまったために、三連目が「より」説明的になった。飛躍というか深化というか、変化があるはずなのに、その変化の中を「説明」が動いてしまう。もちろん「説明」にも、「説明」自身の自立した動き、ことばの自律が生み出す動きがあるのだが「蜂蜜/はちみつ」がつよくなりすぎて「杏」「赤すぐり」「リンゴ」「レモン」が押し出されてしまったのが残念な気がする。
 「ことば」によってあつめられた青柳が、あつめたことばによって青柳ではなくなってしまうところまで書き込めば、あつまってくることばそれ自身が「詩人」なのだという最終行が、もっと強烈に印象に残るだろうと思う。「ことば=詩人」という「説明」ではなく、「詩人=ことば」なのだという「断言」になるとおもしろいと思う。

「都々逸っていいなあ」より

白だ黒だとけんかはおよし 白という字も墨で書く       詠み人知らず
夢に見るよじゃ惚れよがうすい 心底惚れたら眠られぬ     詠み人知らず
口の中にも豆打ち込んで オレの心の鬼退治          義之助
噂の毒薬お世辞の媚薬 社交辞令の常備薬           義之助
皺の手合わせて礼言う母よ ありがとうなら俺が言う      あき子
心のどこかが満たされなくて 焼き芋バターを厚くぬる     章子
行方知れずのふんわり雲に ついて行きたい朝もある      節子
雨が小雪に変わった頃に 悲しかったのだと気づく       みや
文化国家は天然水を ペットボトルで買って吞む        安次郎
長居をするなと春一番が 冬の背中を蹴って春         勲
長く大きな欠伸の先に 見つけた小さな秋の雲         秋霖
影さえ千切って捨てたいくらい 心に貧しさ見つけた日     秋霖
辞書を引きつつ恋文書いた 好きも嫌いも女偏         鮎並
答えのないのが答えと知って 自分探しを終わらせる      章子
未だかもうかの自分の歳へ 身体はもうだと言っている     秋霖
こんな夜にはあなたのもとへ 飛んでいってもいいですか    賢

 「都々逸」というのは、「七・七・七・五」のリズムによる詩(歌)という。どの都々逸が好きか。受講生によって、答えは様々。
 「白だ黒だとけんかはおよし 白という字も墨で書く」が象徴的だが、意外と「理屈っぽい」というのが私の印象だ。「黒」と言わずに「墨」と言うところがポイントなのだと思うが、こういう「意識のくすぐり」というのは、形を変えれば吉野弘になるのかなあ、とも思った。
 詩と都々逸とどこが違うのかということを語り合ってみるべきだったかもしれないが、時間が足りなくてできなかった。
 私は、この作品のなかでは「心のどこかが満たされなくて 焼き芋バターを厚くぬる」が詩に一番近いかなあと思った。谷川俊太郎なら「心のどこかが満たされなくて」をこんなふうに直接的にではなく、もっといろいろな「事実」を積み重ねる形で書いたあと、そんなことを書いたことを忘れた顔をして「焼き芋(に)バターを厚くぬる」と書いて詩を閉じるかなあと考えたりした。「心のどこかが満たされなくて」と「焼き芋バターを厚くぬる」の間には、説明するのはめんどうくさいが、なんとなく「納得する」肉体感覚の深さがある。焼き芋は谷川俊太郎の「好物」である、とどこかで読んだ記憶がある。

 

 

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堤隆夫「凍土の森の中から」ほか

2024-06-28 23:59:23 | 現代詩講座

堤隆夫「凍土の森の中から」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年06月17日)

 受講生の作品。

凍土の森の中から  堤隆夫

歓びも 悲しみも 凍てついた
凍土の森の中から 
不遜にも花ひらく 曼珠沙華の実存よ
そは いつか視た
アウシュビッツの殺人現場の象徴か
「広場の孤独」の正午の紫外線の曳航か

雨の降る 奇妙に空気が熟した優しい日の夜
疑似症の愛に悶えながら
生あるものの死の必然に
愕然と頭を垂れ 刮目して待つ
「本当の愛に出会うまでは 死ねないよ
本当の絶望に出会うまでは 死ねないよ」
ああ なんという パンドラの箱の
パラドックスか

晩秋の氷雨に 心が凍える時
私は煩悩の日々に 終止符を打つ
「あるがままの自分でいいじゃないか
自分でやったことは 悔やむな」

亡き母の口癖だった この言葉が
今日も 私の心底で共鳴する
夜風の咽び泣きと柿の葉の風鈴の
小夜曲となって

 「本当」ということばが二回繰り返される。「本当の愛」「本当の絶望」。「本当」の反対のことばは「疑似性」と書かれている。「嘘」ではない。そして、それだけではない。「本当」の、もうひとつの反対のことばは「あるがまま」である。「あるがまま」は、なぜ、「本当」の対極にあるのか。
 堤は「本当」を、「あるがまま」よりも厳しいもの、いわば「存在しないもの」、つまり「理想」のようなものとして考えていることがわかる。「真理」と言い換えてもいいかもしれない。
 「理想」「真理」ということばのなかには「理」がある。つまり、「頭」でとらえなおした「法」のようなものがある。「真実」は、「理」ではなく「実」を含む。
 こう考えてくると、母の口癖の「あるがまま」とは「真実」のことだとわかる。
 だが、堤は、どこかで「真実」ではなく「真理」にたどりつきたいと思っている。「理(法)」にたどりつくためには、「ことば」が必要である。「ことば」を必要としている、「ことば」を支えとしているから、詩を書く。そういう堤の「生き方」(正直)があらわれた作品だが、私には最後の二行が「弱い」ように感じられる。「夜風の咽び泣きと柿の葉の風鈴の/小夜曲」は「真理」だろうか、「真実」だろうか。この二行をとおして、堤は何を見ようとしているのか。
 好意的に解釈すれば「見ようとしている」のではない、「見ているのだ」ということになるかもしれない。それこそ「あるがまま」であろうとしているのかもしれないが、「母の口癖(言葉)」を「理(あるいは法)」として「現存させる」には、少し弱いと感じる。言いなおすと、それまで動いてきた「理(法)」と向き合う力が、ふっと息を抜いた感じがするのである。

名  池田清子

310315
という同級生がいた

うらやましかった

私の名前は
数字ににはならない

しかたがないので
名字をばらして
三木 にした

 この場合の「数字」とは「暗号」のようなもの、あるいはある特別な世界の「隠語」のようなものか。ある「秘密の共通言語」をもつことで仲間意識をもつこと。そういう「世界」に入れるか、入れないか、というのは、人間のある成長期間にとってはなかなか大事なことである。その時代をすぎてしまって、傍から見ればなんでもないことかもしれないが、そうはいかないのが人間のむずかしさかもしれない。
 「うらやましかった」から「しかたがないので」までの変化、その結論(?)を「しかたがない」ということばでとらえるのがおもしろい。「しかたがない」と言いながら「しかた(法/理)」を変えているのがおもしろい。同級生とは違う「理」が、動いている。
 最終連は「なぞなぞ」だが、「なぞなぞ」というのは、ちょっと違った「理」を差し出して見せる「遊び」である。

ローザの野牛*  青柳俊哉

涙におおわれている世界
すべてが眼の外側をながれる

見える心が
野牛の平たい角を垂直に空へ伸ばす
ルーマニアの星の褥(しとね)に贖(あがな)われるようにと

エデンへ投げ捨てられた女
運河を水牛が泳ぐ
傷を文字でみたして

血は凝固し そして
星へ融解する

涙へ ふたりは合流する
世界の外側で

*ローザ・ルクセンブルクの手紙をモチーフとしたパウル・ツェランの詩「凝固せよ」(詩集「息の転換」所収。中村朝子氏訳及び訳注。青土社)から発想しました。

 「外側」ということばがある。「眼の外側」「世界の外側」。「眼の内側」「世界の内側」ということばは書かれていないが、この詩には、その書かれていない「眼の内側」「世界の内側」と「眼の外側」「世界の外側」が交錯する。
 どのようにして?
 「涙」を媒介にして。あるいは「傷(血)」を媒介にして。それは「眼の内側(心)」からあふれ、「世界の外側」をつつむ。「世界の内側」からは「涙にならない涙」があふれてきており、それは「眼の外側」をつつむ。「眼」は「涙」をとおして、「存在しない涙」にふれる。そして、「世界の涙」になる。
 「合流する」と、青柳は、ことばにする。
 青柳は詩の誕生のきっかけを注釈で説明している。何かに触発されて、ことばを動かす。そのとき、「ことば」は出合うだけではなく「合流する」。
 と書いて、いま、思うのだが、堤の最後の二行が「弱い」と感じてしまうのは、堤のことばと母のことばが「出合って」はいるけれど、「合流(融合)」にまで達していないからではないか。「共鳴」ということばがあったが、その「共鳴」がつくりだす「和音」が「小夜曲」であるのは物足りないのである。

雨音  杉惠美子

夕暮れ時
少しずつ辺りが暗くなっていく その時
少々 しがらみのない自由を楽しむことにも飽きて
かと言って 人と会うのも面倒で
ひとりの椅子の子守り歌を聞いている

私の中のこだわりも 余白も
すべて すとんと落として 忘れてしまった
わたしの呼吸にのせる
雨音だけがある
 
 「かと言って」が複雑である。「かと言って」を中心にして二つの世界があるのだが、それはほんとうに「二つ」なのだろうか。もし「真理」というものがあるのだとしたら、それは「かと言って」ということばで「二つ」を引きつけてしまう「私/わたし」という「存在」かもしれない。
 杉は「私」「わたし」と書き分けるのだが。
 杉は「合流」のかわりに「のせる」ということばをつかう。「呼吸にのせる」。呼吸は、吸うだけでも、吐くだけでもない。「往復」がある。
 「雨音」(雨)は最後に登場するだけなのだが、とても効果的。「子守り歌」が聞こえてくる。それは「呼吸」なのか「雨音」なのか、わからないくらいだ。

 

 

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荒川洋治「裾野」ほか

2024-06-15 22:33:21 | 現代詩講座

荒川洋治「裾野」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年06月04日)

 荒川洋治の作品と受講生の作品を読んだ。

裾野  荒川洋治

少女たちは 父親の顔をして
先頭を歩いた
十年もたつのに
重心は高く
山の雲がふくらむ

軽い荷物には
焼き菓子が 紙に包まれて
曲がり角のたびに
宕々とものを落とす

楽な気持ちをつづける詩も
きれいな心にさしむかう歌も
よく開墾された散文も邪魔になる
人は人のそばを通りぬけるので

先頭は見えない
裾野からは
努力であることしか見えない
きょうも大きな岩が落ちていた

 「むずかしいことばはないのに、読むのにむずかしい。テーマは重いと思うが、焼き菓子などがでてきて、おもしろい」「主題がわからない。なぜ少女たちが父親の顔をして先頭を歩いたのか。戦後の厳しさを書いているのか」「三連目の『よく開墾された』からの二行が印象的で考えさせられる。人生に対する諦観がみえる」「三連目も印象的だが、最終連の、終の二行がおもしろい。見えないものをめざしているのかな?」「俯瞰の仕方が、他の詩人とは違う。ことばの入れ替えがあり、わかりにくい」
 「むずかしい」「わかりにくい」というのは、「散文的な意味(論理)」を追いかけることができないということだと思う。登場する少女たちに対する説明が一切ないからだ。何を書いてあるかというヒントは詩集のタイトル『北山十八間戸』にある。この詩を持ってきた池田は、それがハンセン病の患者のたその施設という説明をした。しかし、そうした「背景」がわかったとしても、やはりこの詩が難解であることにかわりはないだろう。
 むしろ、「印象的」と感じたときの、読者自身の「感じ」が大切なのだと思う。何かわからないけれど、こころが、ことばに誘われて動く。その瞬間に、「意味」になる前の何かがある。
 三連目が印象的なのはなぜだろうか。詩、歌、散文ということばが登場する。気持ち、心ということばも出てくる。何かしら、ことばそのものについて語ろうとしているのかもしれない。
 私がこの詩で注目したのは、三連目の最後の行。「人は人のそばを通りぬけるので」。この連だけ「ので」で終わっている。「人は人のそばを通りぬける」で終わると、何か、意味(?)が違ってくるだろうか。違ってくる、と、私は感じる。少なくとも、ここには「ので」と書かないと気が済まない荒川がいる。「ので」は、何かしらの「理由」めいたものをあらわす。荒川は、この詩全体に、何かしらの「理由」、つまり生きてきた人間の「歴史」を感じているのである。その「歴史」の感じをつたえるために「ので」と書いたのだと私は思う。
 いつでも、どこにでも、人間が生きている「現場」には、人間をとりまく「理由」がある。「十八間」という「広さ」にも「理由」があるだろうし、「大きな岩が落ちていた」にも「理由」があるかもしれない。「きょうも」ということわりは、きのうも、あすも、を意味するだろう。そうすると、そこには「過去、現在、未来」という「時間」があり、「歴史」があることになる。
 この「時間」の意識は、一連目の「十年もたつのに」の「十年」につながるだろうし、その「十年もたつのに」にも「のに」という「理由」というか、「根拠」というか、「気持ち」の連続がある。
 何が書いてあるか、わからない。しかし、そのことばの奥には、そうした微妙な「連続」があり、その「連続」は、かってきままのようであって、実はかってきままではなく、揺るぎない「持続」である。ことばのリズムが、そう教えている。
 荒川洋治は、「気持ちの持続」を書く詩人である、と私は感じている。

たんぽぽに  杉惠美子

綿毛となって 軽やかに曲線を描き
蝶が舞う風を起こして
鳥たちとともに
空に踊る
軽やかに空を踊る

この祈りを
受けとめてくれる
受け継いでくれる
育ててくれる

優しい人間を探して

舞い降りる
舞い降りる

繋いでくれないか
残していく子らに
手渡してくれないか

 「すばらしい詩。書き出しの二行は、私には思いつかない。二連目の『祈り』が『優しい人間を探して』『繋いでくれないか』へと展開していく。論理的だし、空間も広がる」「タンポポの存在が詩のなかで表現されている。『祈り』は何かな、と私はいま考えているところ。作者の考えている『祈り』は、詩を読むとわかった気がする」「一連目から、詩の世界がめざされている」「やさしい詩。坂村真民の詩を思い出した。次世代へのメッセージがある」
 私は、まず一連目の「空に踊る」「空を踊る」の変化に注目した。助詞がかわるだけで、世界が大きく変化する。主語が鳥(タンポポ?)から空に変わった感じ。その変化を受け継いで、二連目から新しいことばの次元がはじまる。一連目が現実の描写だとしたら、二連目以降は「精神」の描写。「祈り」ということばが象徴するように、精神(気持ち)が書かれていく。「くれる」「くれる」「くれる」とつづいたことばが、最後は「くれないか」「くれないか」にかわる。あいだにある「探して」の「して」という中途半端というか、つなぎ(接続)を要求する独立した一行のつかい方もおもしろい。(この「して」は一連目にもあるけれど。)
 ことばのリズムが、ことばの運動(変化)をしっかり支えている。

ウォーターマーク  青柳俊哉
 
身体の奥に波うつ指紋
二重の螺旋をおりて星の水場へ
 
蝶の羽の紋 あるいは水門の
葉もようの編み目をくぐりぬけて 
別の銀河の海で禊(みそぎ)する
 
水源へ 百合の花の底の海へ蘇る
蜜に溺れる蜂が最後の痛苦をもとめるから
 
ゆれる 鳥かげが響く水籠
飛ぶ鳥籠の中の石
 
隆起する海の
水母の口から汲みだされる星の石場へ
もう一つの輪の始まり

 「タイトルの『マーク』がわからない。水が次々に変化している。連のつながりを感じる。『もう一つの輪』『水母』がわからないけれど、おもしろい」「タイトルだけがカタカナだけれど、水の指紋のことかなあ。『飛ぶ鳥籠の中の石』が唐突な感じがする」「考えさせられる。『星の石場』『別の銀河』が印象的。最後の連に希望を感じる」「最終行をめざしてことばが動いている、最終行へもっていくために、ことばを展開しているということを感じた」
 この詩にも、荒川の詩について触れたときにつうじることばがある。「蜜に溺れる蜂が最後の痛苦をもとめるから」の「から」。読者にとっては、この「から」はなくても、「意味」は変わらないと思う。しかし、青柳は、この「から」を書かないと、詩のことばが動いていかない。ここには、まだことばとして書かれていないことば、ことば以前のことばが隠れてる。
 その書かれていないことば、青柳の「肉体」のなかで動いていることばと向き合うために、他のことばが書かれている。このふたつのことばの関係は「二重の螺旋」のようなものかもしれない。緊張感が、ことばを、イメージを複雑にする。

亡き母と私の身近にあるすべての母性へ捧ぐ  堤隆夫

帰らない息子 帰らない娘の不在を
母と身近にある母性よ
決して悲しむこと無かれ
子らの不在
それは 母性の欠乏が原因ではなく
母性の横溢の結果なのだから

欲望は 横溢の子だから
帰らない息子 帰らない娘の不在を
母と身近にある母性よ
決して嘆くことなかれ
帰らないこと
それは 子らの 母なる大地からの決別の表象などではなく
いつの日か その大地に帰趨するための
通過儀礼の旅の途中なのだから
それは 子らの ひとりの母なる胎内空間から
驟雨の町にたたずむ
無限数列の母なる胎外空間への
メービウスの宇宙の帯への 体験飛行なのだから

不在とは その不在たるひとの
肉体の不在というよりは
その不在たるひとの
精神の不在がおそろしいのだから

母と身近にある母性よ
帰らない息子 帰らない娘の不在を
決して嘆き悲しむこと無かれ
そは いつも 母なるあなたの胸のゆりかごで
あえかなる寝息とともに 微睡んでいるではないか

 「『母と身近にある母性』という表現が意外」「一連目の『子らの不在』からの三行がすべて。『無限数列の』からつづく二行がおもしろい。ふつうはつかわない表現。三連目の四行も。しめくくりが、堤さんらしい。言い切っている。それによって意志が明白になっている」「三連目の『肉体の不在』からの三行は、とてもにくわかる」「母親として、はげまされる」
 堤の詩にも「理由(根拠)」をしめすことばがある。「なのだから(のだから)」。しかし、この「だから」は荒川は「ので」とはずいぶん違う。明確な「論理」である。この論理性ゆえに、堤の詩は、非常に構築的な印象がある。そして、その強靱な印象を「なかれ」や「そは」というような「古典的」なことばがいっそう強めている感じがする。だから「あえかなる」や「微睡む」というやわらかなことばも、その辞書的意味(?)とは逆に、なにか「ゆるぎない」もの、「確実な」ものという感じがする。
 「不在」や「無限数列」「通過儀礼」という、「漢語(?)」よりも「だから」の方が、堤の詩の世界を特徴づけているように感じる。

たぷ  池田清子

世の中の理不尽が
私の肩にかかっているとは
思わないが

何かが
私の肩を重くしている

稀勢の里に似た
無表情の愛らしい
たぷの里

たぷが乗っかっているのだと思えば
気持ち軽くなるような

 「好きです。すごく、いい詩。絵本の絵より、おもしろい」(この詩は、朝日新聞に紹介されていた、藤岡拓太郎の「たぷの里」、ナナロク社出版に触発されて書いたもの。講座では、その一部も紹介された)「かわいい詩。ユニーク。私には書けないおもしろさがある」「読んだとたんに気持ちが楽になる詩」「たぷの音とイメージが、この詩の本質」
 この池田の詩では、最後の「ような」がとてもすばらしい。「気持ちが軽くなる」と断定せずに「ような」とつづけることで、気持ちを読者に預けている。この断定を避けた表現は、一連目の「思わないが」にもあるが、この「思わないが」は何か「論理」を動かす表現だが、最後の「ような」は「論理」を誘わず、あいまいさを誘う。「気持ちが軽くなる」ではなく「気持ち軽くなる」と助詞の「が」がないのも非常に効果的だ。論理を脇においておいて、ふわっと気持ちが動いている。その「軽さ」が、とてもいい。

 


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杉惠美子「漣」ほか

2024-05-31 16:57:48 | 現代詩講座

杉惠美子「漣」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年05月20日)

 受講生の作品。

漣  杉惠美子

五月の光をうけて
炭酸水のような
撥ねる音を聴きながら
ふくふく膨らむ
あしたを願いながら
さざなみのひとりごとを
聴いてみたい
ありふれた幸せと
ありふれた不幸の中で
ゆらゆら揺れて
誰かとかくれんぼしながら
ずっと かくれていようか
それとも
波のまにまに 見え隠れしながら
ずっと 手を振っていようか
乱反射する月光の下で

 「炭酸水の描写、ふくふく、ゆらゆら、の動きが柔らかくて静か」「浮遊感が自然。気持ちがよくなる詩。五月の光で始まり月光の下でと終わるのは、最初は少し違和感がある。しかし光で統一されていてよかった」「五月の光から月光への変化には、時間の流れがある」「ありふれた不幸からの二行にひかれる。平穏な日々、小さな幸せを感じて生きている」
 杉は「日本画を見て、触発されて書いた。雰囲気を感じ取ってもらえてうれしい」と語った。
 私は「聴いてみたい」という一行について、「聴いていようか」だったら、どうなるだろうか、と質問してみた。他の部分では「かくれていようか」「手を振っていようか」なのに、ここでは「聴いてみたい」と杉が書くのはなぜなのか。
 「身を託していたいから」「独り言のなかに入っていきたい」「聴きながら、と呼応している」
 統一されていたら、詩が落ち着きすぎるかもしれない。「みたい」が「いたい」にかわる微妙な揺らぎがある。書きながら、ことばが動いていく感じがしておもしろい、と私はと思った。
 最後の一行は、私はいらないと思ったが、受講生はどう感じたか。
 「最後の一行がないと動きだけで終わってしまう」「詩の語調が弱くなる」「最後の一行で引き締まる」

緑の中  池田清子

散歩中
遠くに山が見える

濃く深い緑 茶色い緑 山吹色の緑
薄い緑 光る緑

あの緑の中に
身体を横たえられたら
どんなに幸せで美しいだろう

低いけれど急な山
枯葉を踏みしめ
崖を気にしながら
つたいながら 登る

途中切り株に腰を掛けたとき
やっと 緑が見える
自由な樹木たち 空 鳥の声

緑とは
見るもの、撮るもの、感じるもの

緑の木々を背に
自撮りする

 「二連目。さまざまな緑の表現に、緑の力、季節感、その美しさを感じる」「四連目の情景が目に浮かぶ。五連目への変化がとてもリアル。作者の緑に対する安らぎを感じる」「三連目がいいなあ。六、七連目は緑のなかにいる自分を映し込む。最終連の自撮りが池田さんらしい」
 この詩でも、私は、最終連について質問してみた。私なら書かない。
 「現代風、意外性があっておもしろい」「超現実的」「ナルシストかなあ」「緑のなかでの一体感が表現されてる」
 私は、詩には「終わり」がない方がおもしろいと感じるのだが。

若木  青柳俊哉 

春の水のうえで藁が焼かれる
空があり風が吹きつけて 炎が燃える

(藁の匂いが美しい)

藁のうえに蜜柑の若木がおかれる
それは燃えない それは美しくならない

(在ることより 言葉が先へ行く)

子たちが水をわたって遊ぶ
水のむこうに言葉の国がある

ひらかれた空の底から 名づけられた葉が
吹きつける すべてのもののうえで風が燃える

春の水のむこうへ 子たちとともに 
若木が行く 言葉の意志として

 「二連目の表現が新鮮。三連目の蜜柑が予想外だった。それ燃えない、から(在ることにより)のあいだに微妙な感覚がある。水のむこう、風が燃えるという表現も新鮮。最終連には、作者のいろいろな思いを感じる」「一連目、水のうえで、焼かれる、がおもしろい。水をわたって、水のむこう、というのもおもしろい」「括弧のなかの意味がわかりにくい。最後の言葉も括弧のなかに入れてもいいかなあ」「言葉が春のなかにはなたれている。括弧の意味は、段階を踏んで進んでいく感じ」「括弧でくくっているのは、潜在的な思い、メッセージを表現するためにつかっているかなあ」
 こうした感想に対して、青柳は「結論をむりやり書いている感じがするので、括弧に入れる気持ちはなかった。括弧のなかに入れるのも選択肢としてはおもしろい」と語った。
 三連目が非常に印象的、哲学的で、それを生かすには括弧に入れる、入れないは別にして、「言葉の意志として」は若木とは組み合わせず(一行にせず)、独立させた方が強くなると思う。

大いなる古の風よ  堤隆夫

からだの中に吹く 
大いなる古の風よ

私たちのからだの中には 宇宙がある
私たちのからだは 星のかけらでできている
六〇兆もの私たちのからだの細胞は 星のかけら

私たちの遺伝子は 三十八億年前に生まれ 
そこから進化を遂げてきた
一度だって途切れることなく 続いてきた原始からの力を
私たちは連綿と 受け継いできた

だからこそ 私もあなたも 今 ここにいる

白銀の大海原は はるかに
綿津見の神は 琥珀を織り
かつて聞こえしためしなき 機織りの歌

大いなる古の風よ
もっと吹け もっと荒れよ

とまれ 私たちの憂いを 
白銀のあなたに 運び去るのだ

 「ダイナミックな詩。古の風、宇宙そのものが体のなかにあるということが理論的に述べられている。白銀の大海原で詩が転換する。最後の運び去るのために必要だったことがわかる。大海原が私たちの大きな比喩」「スケールが大きい。五連目の、機織りの歌が印象的。太古から続く人間の憂いを放ちたいのかなあ」「三十八億年前ということば。生命の歴史の知識がないので、そうなんだ、と思いながら読んだ。知識があれば、もっと柔軟に読めるかもしれない」
 この詩でも、わたしは終わり方について質問してみた。
 「もっと荒れよ、で終わったら何かおさまらない。荒れて、おわってしまう」「力強い終わり方」「ないと、おかしい」「作者の訴え。なかったらイメージが広がるが、訴えがわからなくなる」
 私は、荒れて終わった方が、どうなるかわからなくて、わくわくする感じがする。最終連は「とまれ」が象徴的だが、「まとめる」(まとめた)という印象が強い。つまり、「作為」が感じられる。
 これはむずかしい問題で、ひとりひとりの好みも大きい。


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青柳俊哉「運動」ほか

2024-05-16 23:01:10 | 現代詩講座

青柳俊哉「運動」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年05月06日)

 受講生の作品ほか。

運動  青柳俊哉

樋の綻びからくずれおちる雨の言葉

雨の音にふれる時 
わたしは水の中にある
潮水の神話がみみもとをながれおちる

蝋梅の香にふれる時
蜜を吸う蜂の口が斜めにさしかけて
ほそくながくわたしはふるえる

氷の火山で空をおおう潮水の上昇気流
松林の根をうるおす雪の羽毛の神話

地に空にわたしはひろがり
わたしから離れる


 世界に言葉の分子がただよう-

 「一行がすーっと入る。たくさんのことば、イメージが重なるが、タイトルがさっぱりしている。詩に対する姿勢がタイトルと最後に書かれている。ただ最後の一行はなくてもいいのでは」「『蜜を吸う蜂の口が斜めにさしかけて』という一行が好き。地上から宇宙へ旅立つ感じ、アウフヘーベンする印象がある。最後の一行がいい」「潮水の神話』『羽毛の神話』が青柳さんらしい。ことばの拡散、分散を感じる。ことばが宇宙を反映している」「一、二、最終連が好き」「一行目がいい。二連目も好き」
 最後の一行に関して好き嫌い(?)がわかれた。
 ことばの自由な運動(いわゆるリアリティーにとらわれずに、ことばがことば自身のもっている法則(?)やリズムに従って発展していく運動)がテーマというか、その運動を書くというのが青柳の詩。そこにはいわゆる現実世界の論理ではなく、想像力の論理、ことばの運動そのものの論理がある。
 そのことば自身の論理、あるいは自立した運動という点からみると、四連目は急ぎすぎている印象がある。「氷」と「雪」の呼応があるのだが、その呼応のあいだを動いているものが速すぎてつかみきれない。「一、二連目が好き」という受講生がいたが、そこには雨、水、流れるという連絡があり、くずれ「おちる」、ながれ「おちる」という呼応もある。言葉と音、みみの連絡もある。ことばが連絡し合うとき、その連絡のなかからおのずとイメージが湧き出てくる。それは青柳が意図した通りに読者に届くかどうかはわからないが、読者はその運動を手がかりに自分のことばをみつめる。その瞬間に、詩が動くと思う。
 もう少し長い方が静かな(そして激しい)運動が明確になるのでは、と思う。
 

緑さす  杉惠美子

トンネルを抜けると
眩しい緑が 彼を迎えた
その光の中に
まっすぐに
彼は走り去って行った

その山路の直線的な空気感と
蛇行する空気感を
私は知らない
私は帰り道を失っていた


  ある時 彼方から優しい風が吹く道に
  出会い
  立ち止まれば
  優しい陽だまりに包まれた

  私はわたしを 全身で攪拌し続けた日々のことを
  少し思い出していた

  そして時折
  その日の感覚はいつも今にあるという
  断片に圧せられる瞬間に会う

 「一連目が切ない。三連目に彼があらわれてくれて、やさしい気持ちになれた。最後の一行の表現がいい」「深い詩。最後の二連が印象的。過去はいつも、いまの横にある。ことばが胸に迫ってくる」「私は帰り道を失っていたのあと、三連目に愛を感じた。深い詩」「最初の二連は現実。そのときの心情。『直線的な空気感』がいい。三連目以降は作者の内面。記憶の底にある何かを探し出そうとしている」
 この詩を深くしているは「少し」と「時折」だと、私は思う。真剣に、いつでも(いつまでも)思い出すというのは、それはそれで意味があるし大事なことなのだが、それでは「いま」というものが苦しくなりすぎるだろう。「少し」とはいっても、思い出す瞬間にそれは「少し」ではなく、その瞬間のすべてである。「時折」といっても、その「時折」は「いま」のすべてでもある。
 くりかえされている「その」ということばも大事である。「その」ということばが、過去をしっかりとつかまえてくる。杉には、その「その」が何を指しているか、はっきりわかっている。そう教えてくれる。その「その」と対峙するような「ある時」の「ある」も効果的だ。
 「去って行った」のに「出会う」、「去って行った」から「会う」。そこに、切実さがある。

白バラの声  堤隆夫

わたしの身と心に 詩があるかぎり
詩が死であるはずもなく
死は わたしのまわりのどこにもない

たった一人のあの人が 亡くなったという史は
詩の始まりであって 死の始まりではない

今朝 白バラの声に起こされた
白バラの声は たましいのレジスタンス
あなたは今も生きている

生きてゆくことは 正しいことでも強いことでもない
生きてゆくことは 弱くある自由を保つこと
わたしだけの史の歩みを続けること

生きてゆくことは 混沌から抜け出すために
百三十億年前の星のかけらの光を
手づからすくい取ること

今になってわかる
見えるものと見えないものとの陥穽に
わたしだけの自由は しめやかに沈んでいた

わたしの胸の底の貝殻の記憶の中
白バラの声は たましいのレジスタンス
あなたは今も 生きている

あなたの姿が見えない今 
あなたへの思いが募るばかりの今 

弱くあることの自由によってしか 
開けることのできない
希望への扉があることを知った

 「格調高い詩。三連目『今朝 白バラの声に起こされた』からあなたのことが書かれている。あなたのことを思っていることが切々と伝わってくる。最終連、その結び方に思いがこもっている」「『白バラの声』にずっといっしょにいたいという思いがよくわかる。『弱くあることの自由』の繰り返しが響いてくる」「詩を書く理由が丁寧に書かれている。詩を書くことによって生きている」「いま、バラの季節だが、季節の巡り、蘇り、レジスタンスのパッションがある、と感じた」
 堤から「白バラ」は1943年の反ナチス運動の「白バラ運動」を題材にして書いた、と説明があった。「あなた」は運動のために処刑されたひと。「あなた」が教えてくれたのが「弱くあることの自由」。いつも思っていることなので、詩として出すのはためらった、とも語った。
 ひとはことばなしには考えられない。思うことはできない。そして、思ったからといって(考えたからといって)、それが「ことば」として動いてくれるかどうかは、わからない。この詩には、くりかえし考えたことによって、ことばが自立して歩みだした印象がある。ことばのなかに「歴史」(過去)がある。そういうことを感じさせる。受講生のひとりが「格調」ということばをつかったが、格調とは繰り返し考えることによって鍛えられたことばの強さ、美しさのことだろう。
 この詩では「弱くある」の「ある」のつかい方がとても強烈である。この「ある」は「生きる」である。単なる「状態」ではない。そして、それは「なる」でもある。「強くなる」のではなく「弱くなる」。言い換えれば、常に「弱い立場に身を置く」である。「なる」だから、それは選択的行為である。選択的だからこそ「自由」と結びつく。そして、「なる」は「なす」でもあるからこそ、「希望」につながる。ひとはだれでも「希望」ののために何かを「なす」。
 明確な思想、人格を感じさせる詩だ。

 受講生以外の詩も読んだ。池田清子が選んできた詩。 池田は田中を砂との親和性の強いひと、砂を詩に書いていると紹介したが、読んだのは次の作品。

名づけられないもの  田中佐知

名づけられたものたちで
この 地上は あふれている
樹 空 星 薔薇 道 蝶
それと 同じ 分量 で
いや さらに 多くの
名づけられないものたちの
見えない 息吹きで いき苦しいほどに 満ちている

それは ものの まわりを とりまく
濃密 な 空気 の 流れ
見えない 精 霊 たちの きらめき
あるいは
ことば と ことば の 行間 に ひそむ 奥 ぶかい 暗や
み と 光り

また
樹 を 指し 「き」と 発する
その 実物 と ことば の間に たわむ かすかな ずれ ず
れ が 起 こ るのは
樹みずからの中から あふれる霊気が 「き」という ことばに
収まりきれない からだろうか
樹のもつ無限の力が
ことば を はるか に 超えてしまうのか

ことば を 通りこした 世界を
あえて ことば で えようとすることが 名づけられないものた
ちの 見えない力に 光りを ふりそそぐ ことになるのかもしれ
ない
その光り を

と 名づけても いいだろうか

 「詩というものを詩に書いていいのかなあ、という思いがあるのかなあ。自分自身に対する説明かなあ」「愛しさ、慈愛のこころを感じた。かなしみが、どこかに流れている」「字と字のあいだに空間がある。そこに気持ちを感じる」「ことばとものとの関係を突き詰めている。万葉人のような感覚、言霊を感じた」
 単なる「分かち書き」ではなく、普通はひとまとめのことばを、あえて分断して空白をもちこんでいる。そのとき「意味」はどうなっているのだろうか。「意味」だったものが「音」になったのか、「音」が「意味」になろうとしているか。それは、たぶん決めることができない。そのときの「空白」が闇か光か、それも決めることはできない。どちらであると決めることのできないもの、ただそこにあるものが詩なのかもしれない。

 

 

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堤隆夫「幸福を追求するために」ほか

2024-05-05 21:39:17 | 現代詩講座

堤隆夫「幸福を追求するために」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年04月15日)

 受講生の作品。

「幸福を追求するために」  堤隆夫

朝やけに匂い立つ 草いきれの躍動
夜風にそよぐ 柿の葉の風鈴
私は三十五億年前の 三葉虫の記憶の中から 生まれてきた

去りゆく日々 去りゆく人たち 去りゆく悲しみ 去りゆく歓び
みんな私を育ててくれた
みんな私を愛してくれた
みんな私を懐かしんでくれた

嘆くまい 悔やむまい

今 私が立つ 慈愛の夕陽のこの丘は 
三十五億年前に 私の祖先が 立っていた場所
私の祖先が 愛しあっていた場所

私という個が 普遍であるからには
あなたという個も 普遍である
私とあなたは 互いの差異を認めあい
今 ここで生きていくために 共に手を携えている

幸福を追求するために
それ以上のことが 他になにがあろうか!

多様で複雑な 個々の苦しみを思いあう 
想像力こそが 人間の尊厳の源泉

今 ここにあるということは ありがたいこと
ありがたいとは 有難いこと
有ることは 存在することは
何兆分の一の確率で この世に生まれてきたということ

何をなしたとか 何ができたかという前に
生まれきて この世に共に 今 ここにいるという 奇跡の僥倖
生きることの幸せは あなたと共に 穏やかな日々をおくること

幸福を追求するために
それ以上のことが 他になにがあろうか!

 「強い気持ちをそのままことばに乗せている。『私は三十五億年前の 三葉虫の記憶の中から 生まれてきた』という書き方は私にはできない。『幸福の追求』以後、さらに強くなり、最後に繰り返される。後半は思想の表明になっている。詩としては途中まででいいのではないか。全体が強くなりすぎる」「長い詩。木をひきしめて読まないといけない。『生きることの幸せは あなたと共に 穏やかな日々をおくること』という境地には、私はまだ到達していないと思った」「人生観を言い尽くしている。ことばから知性の深さを感じた」
 五連目、「私という個が 普遍であるからには/あなたという個も 普遍である」に堤の特徴があらわれていると思う。ことばを少し変えて、繰り返す。そのとき、繰り返されたことばが深く、強くなる。八連目、「今 ここにあるということは ありがたいこと/ありがたいとは 有難いこと」と「感謝」から「有難い(あることがむずかしい)」へかわって、そこから「ある」をめぐる哲学が深くなる。「有ることは 存在することは/何兆分の一の確率で この世に生まれてきたということ」。考えていることを書くというよりも、書くことをとおして考えを深めている。ことばなしでは考えられない、をそのまま実践している。だから、必然的に長くなるのだが(つまり、結論が先にあって書くのではないから、模索しながら書くことになるから、必然的に長くなるのだが)、これは「欠点」というよりも「長所」だと思う。
 「幸福を追求するために/それ以上のことが 他になにがあろうか!」は、形を変えず、そっくりそのまま繰り返されているが、しかし、これは「外見」が同じに見えるだけであって、その「強度」は変化している。ことばの「強度」がどんなぐあいにかわっていくか、それを緩ませることなく高め続けるというのは、ことばに力があるからできることである。

四月の朝  池田清子

四月の朝早く
二人でダム湖に行った
空気がとても澄んでいた

週に一度二人で
同じバイト先に通った
帰りの夜道を覚えている

下宿の二階は八部屋
上ってくる足音が
誰なのか私にはわかった

言葉はいらないと思っていた
言葉はいったのだ きっと

ロミオとジュリエット
にはならなかった

顔を左に向けて
シャガールの絵に飛び込みたかった

遠い昔の 四月の たった一日の朝が
四月になるとするりと現れる

 「最終連の二行と、それまでの連の時間的な関係がリアル。こころが如実にあらわれている。切実な印象がある」「青春の一ページ。シャガール、最終行の『するり』がいいなあ」
 ここで、私は意地悪な質問。「するり」を自分のことばで言いなおすと、どうなる?
 「くっきり」「はっきり」「ふいに」「ぱあっと」「知らぬ間に」。
 言い換えてみると、池田のつかっている「するり」がいちばんあっている感じがする。そういうことを確かめるのも、詩の面白さだ。
 池田の詩にも、似たことばの繰り返しがある。「言葉はいらないと思っていた/言葉はいったのだ きっと」。これは似ている問いよりも「違うことば」の類かもしれないが。しかし、こうやって、ひとは少しずつ自分の考えを自分で確かめはっきりさせる。繰り返さないと言えないことがあるのだ。
 三連目に一回だけ出てくる「私」。「私」がなくても、たぶん読者は「私」を補って読む。しかし、ここに「私」がないと、なにか、ぼんやりした感じになる。抽象的になってしまう。「私」が、この詩のなかではいちばんの「固有名詞」になっている。ダムもバイトも下宿も抽象的だが、「私」はリアルである。そして、そのリアルが、先に引用した「言葉は……」という形で深まっていく。だから、印象に残る。

うまれた日  杉惠美子

はじめての朝を知った日
桜が舞っていたという
その日から
私の時計とともに

  父を知り
  母を知り
  さまざまの姿を知り
  そして
  さまざまの瞬間を知った
  確かなことを
  確かめながら
  やがて
  その谷間にある
  風景も知った
  気まぐれな展開も知った

おもて表紙は桜色
うら表紙は真っ白のままで

さよならもいっぱいしたけれど
何にも心配いらないよって
最後のページに
小さく書いた

 「生まれた日から現在までを二字下げの部分で表現している。五連目の表現がおもしろい」「構成が巧み。本を閉じるようなつくり方でできている。最終連がおだやかな気持ちにさせてくれる」
 この杉の詩にも、繰り返しがある。「確かなことを/確かめながら」。もっと簡単にいうことばがあるかもしれないが、こういう繰り返しのなかでしか動かないものがあり、それを明らかにするには繰り返すしかないのである。「知り」「知った」も繰り返されてるが、その「知る」は「確かめる」なのだろう。
 私が興味深く感じたのは「そして」と「やがて」のつかい方。単純なことばだが、ここには時間の経過がある。この時間の経過のなかで、認識が深まり、その深まりがことばに反映する。

雨に立つ幻  青柳俊哉

睡蓮の茎の中に雨がふる

蓮の花を抱えて
女が雨の中を通り過ぎる
空のうえでほおずきを吹く蛙
女をみつめるヘラサギの水かげがそよぐ 
恋する牛蛙の星の声のようなモノローグ 
夕闇の雨に物思いにしずむ羅生門のキリギリスの
想いはかれに届かない

星がきえて雨がふりやむ 
睡蓮の茎もはじける

柿の木のてっぺんで満月にささげる
少年の笛吹きはなりやまない

 「最終連の『柿の木のてっぺんで満月にささげる』の一行が異分子みたい。「全体世界がとらえられないのだが、絵にすればイメージが重なり合い面白いと思う。睡蓮、蛙と詩のなかにいろいろなものが納まっている。」「一連目から絵がはじまっている」
 書き出しの「茎の中に」が青柳の特徴をあらわしている。「茎の中」がどうなっているかは、外からは客観的に見ることはできない。しかし、ことばをつかえば、その見えないものを主観的に出現させることができる。そして、それが出現してきたとき、そのことばは読者に問いかけるのだ。そのイメージをしっかりと自分のものとして把握するために、読者は、自分自身のことばをどんなふうにして組み立てなおすことができるのか。
 詩を読むことは、自分のことばがほんとうに動いているかどうか、新しいことばの動きにであったとき、どこまで自分自身のことばを組み立てなおすことができるかを確かめることでもある。


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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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杉惠美子「うごく」ほか

2024-04-08 22:56:42 | 現代詩講座

杉惠美子「うごく」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年04月01日)

 受講生の作品ほか。

うごく  杉惠美子

白木蓮の落下のあとに
寂しさはない

拡がる一筋の
ぬくもりと その気配は
春をあつめ
私の部屋へと
春を届ける

行間に落ちる
花びらが
潤いと 時の動きを告げ

遅れてやってきた
風は
少しはにかみながら
今を届ける

あらゆるものを忘れて
落ち着いた
時がうごく

 「尺八の音が聞こえてくる。精神性が落ち着いている。白木蓮の落下に春のすがすがしい空気を感じる」「一連目『特に寂しさはない』がいい。三連目の『行間に落ちる』という表現が好き」「落下ということばが具体的で強い響きを持つ。気配や時間が動く。『行間に落ちる』という表現が詩的。最終連、春らしく、ゆっくりした空気がいい」「最終連にこころを動かされた」
 三連目、時の動きと漢字で書かれているのが最終連で時がうごく、とひらがなになっている。(タイトルのひらがな)このことを、どう読むだろうか。
 「感情が変化している。深淵を感じる」「意識/無意識の対比。柔らかさ、しなやかさを感じる」「ひらがなの方が、動いている感じがわかる。漢字だと硬い」「漢字だと観念的な印象になる。行間ということばとはあっているが、最後はひらがながいい」
 「最近の詩は、以前とは違った印象がある」という声も出て、それに対しては杉は「肩の力が抜けたのかなあ」と言っていたが、「爆発力が杉さんの特徴なので、以前のような作品も読みたい」との声も。
 いろんなことばの響き、声の調子を試してみるのもおもしろいと思う。
 私は四連目がとてもおもいしろいと思う。「遅れきてた」のなかに「時」が隠れていて、「今」と重なりながら、最終連に、もう一度「時」があらわれる準備をしている。とても丁寧な「伏線」だと思う。「少しはにかみながら」がどちらかというと観念的な世界に、やわらかな肉体感覚をもたらすのもとてもいいと思う。

めざめ  青柳俊哉

空のうえで涙をながしている
胚芽のようなもの

なみなみと泳ぐ球根の芽のようなもの

無意識への、植物的な覚醒 
白く。うまれたばかりのわたし

淡く すがすがしく涙をながして
空をながれる 

ふかふかのタンポポの帽子を被り 裸足のまま
時が根をおろさない風のようなもの

わたしの中から森や川や海をあふれさせて
岩々の嶺をくぐる 空から空へ

吹きぬけていくまっすぐな雪

 「三連目、『白く。』という表記に注目した。六連目にはばたこうとする大きな意思を感じた」「タイトルについて考えた。最後に雪が出てきて、雪のことを書いているだとわかった。そして、こどもがはじめてる見る雪の印象をおとなのことばで書いているのだとおもった」「みずみずしさ、透明さを感じた。三連目の『白く。』は印象的」
 そうした意見のなかで、こんな発言。
 「最後の雪がないほうが好きだなあ。ないと、雪だとわからないけれど」
 これは、とてもおもしろい。考えてみたい問題である。何かを読むとき、どうしても「わかる」を求めてしまう。しかし、「わからない」というのもとても大事。「わかる」と「わかった」と思って、すばやく通りすぎてしまうことがある。「わからない」につまずき、それが間接的に「通りすぎる」意識を覚醒させてくれる。
 この詩に登場した句点「。」も、素通りしそうになる意識を覚醒させてくる。句読点というのは不思議なもので、そこには書き手の「呼吸」があらわれる。「呼吸」というのは、無意識の場合が多いのだけれど、無意識だからこそ、句読点が「誤植」されると、そこにたいていの筆者は気がつく。漢字やひらがなの「誤植」は見落としてしまうが、句読点の誤植には気がつくと、たしか五木寛之もどこかで書いていた。
 この詩の場合「白く。」が最後の「雪」ということばを結晶させているようで、とてもおもしろいと思う。

「永遠に桜なるものが われらを高きに導く」  堤隆夫

会いたいときに 会えない
人生は いつもそうだった
ふるさとの桜の花よ
そなたは今日も しとどに濡れ 
花嵐に泣いているのか
会いたい人に 会えなくて 
切なくて 苦しくて
今日も こぼれ桜の涙なのか

思いながら 散って行く
この世から 思い出だけで散って行く
わたしと桜 わたしとまだ見ぬあなた
ひとの世は 一期の花筵
泣きながら 微笑みながら 散って行く
心に秘めたひとのことを 
銀河の果てまで探し求め
泣きながら 微笑みながら 散って行く

すべて世はこともなしか? 

桜の花よ そなたは徒花だったのか

純粋ゆえに儚きものたちよ 
寂しくて散るのなら それも人生
人生の目的が 心の平安ならば
そを乱す 自らの死の想念を超え
花霞の桜川の此岸で そなたと共に 無心に舞い続け
共に闘い 桜雨に濡れながら 生き抜く 

後世のより良き人生のため 現世の不条理と闘い続ける
それこそが あらまほしき人生

 「あまりつかわないことばが多い。桜の花について、こんなに深く広くことばを展開していることに驚く。『寂しくて散るなら……』『銀河の果てまで……』が壮大な世界」「久しぶりに雄大な詩を読んだ。桜に仮託した強い意思が感じられる。最終連が強烈」「桜と人生を語る、力強く男性的な詩。『すべて世は……』が印象に残る。「こころの内を表現できるのはすばらしい。気持ちがわかる。生きる意味をこめて書いたのかなあ」
 あまりつかわれないことば。たとえば「そなた」、「そを」。その音に含まれる太く重い響きがほかの漢字のことばと強く響きあっている。全体に「漢文」の響きがあり、ことばが凝縮されているのがとても印象的だ。
 そのなかにあって、「思いながら 散って行く/この世から 思い出だけで散って行く」は「漢文体」というよりは、どちらかといえば「和文体」「ひらがな体」とでも呼びたくなるような文体だが、「思いながら」「思い出だけで」の呼応がとてもやわらかくて深い。「思い出だけで」の「で」という助詞がなんともいえず、不思議な味がする。「で」という助詞はつかいかたによっては、とても安易なものになってしまうのだが、ここでは「で」以外はありえないつかい方だ。

 以下二篇は、受講生がみんなで読むためにもってきた作品。

スズメ  やまもとあつこ

Ⓡ きのう
  公園で スズメがすわっててん

Ⓐ どこらへんで?

Ⓡ あの大きい木の横の椅子のとこで

Ⓔ スズメ 何人いてたん?

Ⓡ ひとり

Ⓒ 誰かと一緒に見たん?

Ⓡ ぼくだけ

Ⓑ なんでスズメはすわってたん?

Ⓡ それはしらんけど…
  そこに じっとおってん

  あっ そうや
  それで 近づいて
  頭 なでてん

Ⓑ えーっ
  逃げへんのん?

Ⓡ うん 逃げへんかった

Ⓒ スズメ 目つむってた?

Ⓡ 目は ぼくを見てた

Ⓛ どうやって 頭 なでたん?
Ⓡ こうやって

Ⓡは右手の人差し指一本でそっとなでてみせた

 こどもの会話を聞き書きしたような作品。いままで見たことがないスタイルに注目があつまった。「聞き書き」であったとしても、どこまでほんとうかわからない。また、こどもの話していることばが、どこまでほんとうなのかもわからない。それが、たぶん、いちばん楽しいところだと思う。
 「あっ そうや/それで 近づいて/頭 なでてん」と、突然雄弁になるところがポイントだと思う。最後の一行だけ「セリフ」ではなく描写なのだが、それが嘘だとしても、気持ちはほんとうなのだ。だから肉体が動く、というのは私の読み方だが。
 気持ちが肉体を動かすのではなく、肉体が気持ちをつくっていく。そこから、ほんとうがうまれてくる、と私は感じている。

井上ひさし「せりふ」集

「うれしい」だけでは心もとないからこそ、
「キンツバを頬張った頬っぺたを
牡丹餅で叩かれたようなうれしさ」という具合に、
比喩の突支棒をかうのだ。
大袈裟であればあるほど、突飛であればあるほど、
比喩という名の突支棒は太くなり、丈夫になり、
そして「うれしい」ということばがたしかなものになる。
                 「国語事件殺人辞典」

人は誰でも口という楽器を持つス。
                 「國語元年」
                 (スは、原文は文字が小さい)

言葉こそ、
人間を他の動物と区別する
ただひとつの
よりどころなのであります。
                 「日本人のへそ」

闇がなければこの世は闇よ。
                 「夢の裂け目」

新しいもの、うつくしいもの、
すばらしいもの、
あらゆるものがゴミになる。
それが世界のありのままのすがた。
ただし、
ただひとつの例外は、時間じゃ。
               「決定版 十一ぴきのネコ」

涙は各自(てんで)に手分けして
泣くのがいいのですよ。
                「頭痛肩こり樋口一葉」

 このなかで、どのことばがいちばん好きか。そう問いかけてみた。「涙は各自(てんで)に手分けして/泣くのがいいのですよ。」が人気があったように記憶しているが、ちょっとメモがなくなって、はっきりしない。「人は誰でも口という楽器を持つス。」はどういう意味だろう、という声もあった。ひとの声は、それぞれ響きが違うし、その響きが巻感情をなまなましくあらわすということかもしれない。「せりふ」なので、やはり役者の声をとおして聞いてみたいと思う。とくに「人は誰でも口という楽器を持つス。」は(たぶん)東北訛りで語られることを想定していると思う。そのときの「楽器」としての声を聞きたいという欲望を刺戟するせりふである。


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池田清子「もっと向こう」ほか

2024-03-25 18:21:09 | 現代詩講座

池田清子「もっと向こう」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年03月19日)

 受講生の作品。

 「三連目がユニーク。際限のない甘えが印象に残る。最後の一行で悲しさがあふれてくる」「一連目は谷川俊太郎みたい。最終連は、気持ちが解放されて書かれている」「すんだ青い空、純粋さが昇華されている。最終連の泣くには、泣いていられる喜びに近いものがある」「空を見たときのピュアな気持ちを思い出す」
 最終行の「泣こうか」は、受講生が指摘したように、「がまん」と「甘え」が交錯し、そこに不思議な美しさがある。
 三連目☆★彡とそれを取り囲む円。ここから何を感じるか。「絵画的」「視覚的」という声が多かった。「ことばにしなくてはいけないのに、ことばにできない」と作者は言ったが……。
 私は、この「ことばのない世界」を「絵画」というよりは、「音楽」として受け止めた。星の動く音が聞こえる。それはたとえて言えば「楽譜」のようなもの。散らばりながら、響き合う透明な音がある。それは「聞こえない」、しかし、逆に、その「音楽」になれていないので、ただ「聞こえない音楽(沈黙の音楽)だけが聞こえる」という印象がある。
 音譜の読み方をならったとき、突然、そこに音が存在しないのに、音が聞こえたときの驚き、文字をならったとき、そこに音が存在しないのに声が聞こえたときのような一瞬を思い出した。

ものがたり  杉惠美子

起点と終点を どこかで感じたいけれど
自分で 確かめられるはずもないけれど

        でも
自分をのせる舟に乗って
漂へる 寛やかな
河に出会い

その河の広さと深さに
満足しながら

ちょうど良いと感じる
速さと流れがあれば

それで良い

風にのって落ちてくる
木の葉とか
花びらとかを眺めつつ

うつらうつらと
夢見つつ

私を炙り出す
言葉を探す

 「起点と終点、感じたくないけれど感じた。『漂へる 寛やかな』ということばがあるが、その感じがよく表現されている」「タイトルがおもしろい。物語には起点と終点がある。三、四連目から河が見えてくる。最終連の『炙り出す』がいい」「自分の人生を題材にして詩を書いている。三、四連目の対句表現が自然でいい。対句がことばに流れをつくりだす。『花びらとかを眺めつつ』からつづく三行が心境をあらわしている」「風にのって漂う死のイメージがある。この世はまぼろし、はかない。それを越える明確な意思を最後の連に感じた」
 私も、河の描写、対句的表現がとてもいいと思った。「出会う」という動詞が、河を人間のように浮かび上がらせる。「広さと深さ」「速さと流れ」に分かれ、「満足」と「ちょうどよい(と感じる)」で統合される。この離れたり、集まったりする感じが、水の動きのようだ。
 私がびっくりしたのは「漂へる」という旧仮名遣いと「つつ」という、いまではあまりつかわない文語的なことば。しかし、そのことばが詩全体のトーンを引き締めている。適度な緊張感となって、ことばを支えている。

貝殻  青柳俊哉

砂に立ち
吹きおろす風を巻く 真珠層へ 
空の成分を濾す

大白鳥の風切羽のしなり
深く軽く空がふるえる

靭帯が軋む 流砂の中へ青いまましずむ

螺旋もようを辿り
かれがうまれた海へ
青を開放する

そこに新しい空がある
大白鳥が飛び立ち 風切羽が
空を吹き合わせてうたう

 「人生の輪廻を感じる。『青を開放する』が印象的」「貝殻というタイトルだが、本文には出てこない。一連目はイメージが雄大。『空の成分を濾す』は理解できないが、ことばを全部つなげると理解できる感じがする」「最後の二行がすてき。青の意味はわからないが、白鳥との関係はよくわかる」「広大な大気圏を感じる。特に『青を開放する』に広大さを感じる」
 作者は、貝殻が砂に立って風を感じている、という世界だと語った。
 貝は二枚貝ではなく、サザエのような内部が螺旋になった貝なのだろう。「かれがうまれた海へ/青を開放する//そこに新しい空がある」の海と空の対比が、対比を越えて融合する感じが「雄大/広大」という印象を引き起こすのだと思う。限界がなくなる。
 ことばが急ぎすぎているかもしれない。「 靭帯が軋む 流砂の中へ青いまましずむ」は、もう少しゆっくりと書き込んだ方がイメージがわかりやすくなると思う。「わかりやすい」が必ずしもいいことではないけれど。

 

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池田清子「ロウム」ほか

2024-02-27 16:57:29 | 現代詩講座

池田清子「ロウム」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年02月19日)

 受講生の作品。

ロウム  池田清子

古代ローマ帝国の初代皇帝は
オクタウィアヌス(アウグストゥス)という人らしい

私の中のローマは映画の中

「ベン・ハー」
「十戒」

強大なローマ帝国の司令官メッサラが
ユダヤ人の貴族ベン・ハーをガレー船に送る
復讐の戦車レースの為に
馬を提供したのはアラブ人の豪商
ヘブライ人の男の子を拾って育てたのは
エジプトの王女 モーゼと名付けた
若いチャールトン・ヘストン最高!

「シンドラーのリスト」
「サウンドオブミュージック」
「アラビアのロレンス」

ユダヤ、アラブの人たちの苦難を
私は映画で知った
ほんの上っ面な理解かもしれないけれど

イスラエル と ガザ

楽しいものもある
「ローマの休日」
イタリア訪問中の王女が 記者会見で言う
「一番印象に残った訪問地は?」
「ロウム」

オオ レイオロレイオロレーイ

 「フットワークの軽さを感じた。若いときの回想と現在のいろいろな時間を感じる」「映画は見たものとタイトルしか知らないものもあるが、さまざまに関係しているのがわかる。イスラエル、ガザが出て来るのが効果的。最後の一行がハッピーエンドのようで素敵」「何を考えて書いたか伝わってくる力のある詩。ローマも具体感がある。最後の一行がいい」
 池田は「これが詩でいいのかなあ」という思いで書いたという。最後の一行は「サウンドオブミュージック」から。
 何を詩と定義するか。「詩的なことばがなくても、素直に書いたことばだから、これでいい」「そのひとの、その時点でのことばが詩になるのでは?」「映画のなかからのピックアップの仕方が詩的」と受講生の意見。
 受講生が言っているように、ある対象から何を取り出すかに、その詩人の生き方があらわれてくる。思想があらわれてくる。書いたひとの姿が浮かんでくれば、それは文学。
 「若いチャールトン・ヘストン」の一行は、最初は括弧のなかにくくられ、6字下げになっていた。映画で見たストーリーの紹介と、池田の感想を区別するためにそうしていたのだが、これは区別する必要がない。括弧に入れずに、字下げもしない、いまの形の方がいい。ストーリーを紹介する部分も池田の肉体をとおって出てきたことば。どのシーンを選んで書くかということも、すでに「感想」なのだから、ここで「これはストーリー、これは感想」と区別すると、几帳面な堅苦しさが前面に出てきてしまう。

桜並木駅  緒加たよこ

もうすぐ踏切です
もう踏切はないよ と
教えてあげた

「桜並木駅」

随分と綺麗な名前だな

新しい駅が出来る
高架になって
もうすぐ出来る

君はこの辺のひとだから
この桜並木の下を歩いたかな
満開になったら遠足なんかもしたのかな

僕は見てるだけ
通り過ぎるだけだよ いつも

この踏切は道路と線路が斜めカーブに交差する
右見ても左見ても絶対に
電車なんか見えない
イチかバチかで渡るんだ
もうそれもない

もうすぐ踏切です って
明日もきっと云う このナビなら
空耳じゃなくて

 「最後にナビが出てくるのは現実的すぎて、それまでのイメージを壊してしまう。出てくるから、いいのかもしれないけれど」「ナビとの会話だと納得できた。最後から2連目は、ちょっと危ない感じ」「ナビとの会話のずれを書いていて、おもしろい」
 「もうすぐ踏み切りです」はナビの声だが、ほかは、どうだろう。ほかにもナビの声はあるだろうか。
 緒加は、ナビの声は「もうすぐ踏み切りです」だけだと言ったが、2連目は作者、3連目はナビ、4連目は作者、5、6連目はナビ、7連目は作者という具合に読んだ。あるいは、車のなかにはふたりの人間がいるのかもしれない。緒加の、「ナビの声はもうすぐ踏み切りですだけ」という説明は、そのことを指している。
 最終行の「空耳」は、走りながら思い出した同乗者の声(いまは同乗していないひとの声、「僕」の声)をあらわしている。緒加は、運転しながら、そこを二人で走ったことを思い出している。
 しかし、「僕」ということばだけで、それが「ナビ」ではなくて別の人、記憶の人であること、ここに書かれているのが大切な思い出であると読者に伝えるのは、少しむずかしいかもしれない。「僕」が登場する連に、「見る」「通りすぎる」以外の動詞、車ではなく人間を連想させる動詞があれば、「僕(の声)」の印象がかわると思う。
 私は、最終連の「明日もきっと云う このナビなら」の「云う」という動詞から、ほかのことばもナビが言っているのだと思った。ナビが擬人化されているだと思った。
 しかし、池田の詩の「チャールトン・ヘストン」は、どこからどこまでがストーリーで、どこが感想かを区別していたが、緒加はどれがナビの声、どれがだれの声か明示しないことで、世界をゆったりと広げている。読者の読み方に任せている。
 「誤読」されるのは本意ではないかもしれないが、「意味」を作者が限定するのではなく、読者に任せた方が世界が豊かになると私は思う。

かたつむり  杉惠美子

黄色い葉がすべて落ちた
私は
湿った落ち葉の陰に隠れた

慣れ親しんだこの場所で
水平に繰り返すだけの日々
ただ 素通りしただけの日々
このままで良いと言い聞かせた日々

日に日に枯れ葉が上に積み重なっていく
私は 静かに寝返りを打つ

このままで終わりそうな予感の中で
十二月
自分のうしろ姿の夢を見た

ひとりを 丸ごと肯定して
立っている背中が 楽しそうに見えた。。。

 「かたつむりと私(作者)が重なっている。最終連がとてもいい」「書き表すことがむずかしい内容、作者の境地を、書き尽くしている。すばらしい詩。タイトルもとてもいい」「すばらしい詩。ことばが自然に流れている。人為的でなく、かたつむりに没入している。韻律がすばらしく、「日々」の繰り返しが「日に日に」かわるところがいい。最終連は、杉さんらしい終わり方」
 作者は「何を書けばいいのか、わからず、視点の置きかたがむずかしい。自分の気持ちをことばに探して、そのことばで自分を昇華したい」と語った。
 受講生の感想に「境地」ということばが飛び出したが、そういうことばを引き出すような哲学的な印象がある。受講生が指摘した「日々」から「日に日に」への変化は、私もとてもおもしろいと思う。「水平」と「立っている(垂直)」の対比に、「このままで良い」と「肯定」が呼応し、「うしろ姿」が「背中」にかわる呼応もおもしろい。(ほかにも、こうしたことばの響きあいがある。)

ネモフィラ  青柳俊哉

匍匐(ほふく)する葉腋から青い目が開いて
空をみる 鳥の声が花びらに跳ねる
月がそれらをみている

花の意識にとって 
飛ぶ鳥は地軸の振れで 月は光の屈折とおもう

美しく受け止めることをいさめる

水鳥のほかに人影のみえない海辺の小屋

うち寄せる波の音と円周率の限りなさ 
解かれることと解きえないことの境 
虚数と美の 光とかげの類似をおもう
それらはわたしの失われた感覚への補填----

ネモフィラの花冠へ梯子をかけて鳥や月と遊ぶ

 「美しい。2連目で作者(の意識)がネモフィラになって、つづく3連目が引き締まった。水鳥、海辺と水に関係することばが重複しすぎているかも。5連目は、並列か、並列でないのか。最終連、1連目と関係するのか、読み方がむずかしい」「ことばのつかい方、とくに5連目の「うち寄せる波……」「虚数と美の……」は自分とはつかい方がぜんぜん違うと感じてしまう」「花を知らないので、どんな花かな、と 悩んだ。3連目の、いさめるもどういうことかな?」
 「ネモフィラ」は海辺に咲く青い花。芝桜のように、低く、広がって咲くという。
 「いさめる」について、青柳は「人間的なものの見方をやめる、ということ。動物や植物は、人間が感じる美を人はみてはいないのではないか」と説明した。
 最終行の書き方は、とてもむずかしい。
 この詩の場合、5連目のイメージが拡散するので、それを拡散したまま放り出したくなくて、最終連で引き締めようとしているのだが、それまでに出てきたことばが総動員されているので、窮屈な感じがする。受講生が、1連目と最終連の関係がむずかしいと声を漏らしたのも、そういうことが影響していると思う。

 

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杉惠美子「茜さす」ほか

2024-02-18 13:55:29 | 現代詩講座

杉惠美子「茜さす」ほか(朝日カルチャー講座福岡、2024年02月15日)

 受講生の作品。

茜さす  杉惠美子
 
夕焼けに染まる海岸線は
一面の古代色

その輝きの静けさと儚さ
遠い光の淋しさと懐かしさ

色となり  影となり
音となり  風となり

消え入るほどに  我をなくす
波音に吸い込まれて  音をなくす

波頭を飛び渡って
静謐の時に溺れている

 「最後の2行が目に見える。色が印象的。ことばが最終行に収斂していく。きれいな、静かな景色が思い浮かぶ」「最初の2行と最後の2行が詩を生かしている」「古代色ということばのインパクトが強い。最終行の結び方が抽象的だが、古代色と静謐の対比が静けさをかもしだしている。途中の変化、対比が少し書かれすぎかも。少し抽象的かもしれない。そのため響いてこない」
 最後の感想は三連目だろうか。この部分を他の受講生は、どう読んだか、聞いてみた。
 「色から静謐への変化が書かれている」「書かずにいられない気持ちがわかる。『私』でまとめられるかもしれない」
 なるほど、「私は色となり 私は影となり 私は音となり 私は風となり」、杉は「私」ではなく4連目で「我」ということばで引き取っているが。
 この3連目は、一種の「飛躍」であり、それを支えているのが「……となり」という繰り返し。リズム(音楽)にのって、ことばが「意味」に縛られずに動く。そして、その「意味」に縛られないことが、逆に、強い印象を引き起こす。「主語」を省略することで、運動だけが強調される。
 2連目は名詞をあらわす「さ」、3連目は「となり」、4連目は「なくす」という脚韻で音楽を作り出しているのだが、2連目の一行目「その輝きの静けさと儚さは」と「は」を補って1連目と「対」のようにしてみるのもおもしろいかもしれない。「対」になることで、一つの動きが生まれ、それがイメージを加速させる。「は」があっても「さ」の脚韻は生きると思う。

休息  青柳俊哉   

 深く靴を踏みしめてジャガイモを覆(くつがえ)す

銀杏(イチョウ)の大木のしたの木目のテーブル 
春の味がする紅茶に
シナモンのリキュールをそそぐ  
来る年の野菜や花の名が空をとぶ

ジャガイモは冬のドイツの
貧しい農民と豚の瞳を明るくした
リキュールはかれらの年輪へおりて生をこえる

素足のくつろぎと ふきよせる黄色い葉

ぬがれた靴はもうこの空間をみたしはじめる
花や野菜の名 素足や黄色い葉を

 銀杏の大木が靴の中に芽ぶいて冬の眠りは畑にしずむ

 この詩の5、6連目には、別バージョンがある。

ぬがれた靴をもうこの空間はみたしはじめる
花や野菜の名 素足や黄色い葉で

 銀杏の大木が靴の中に芽ぶいて冬の眠りへ畑はしずむ

 読み比べながら、受講生の感想を聞いてみた。
 「最初は作者の暮らしを思ったが、ドイツが出てきたので空想を書いたのかとなあと考えた。イメージがわからないところがある。別バージョンの方が好き」「別バージョンの方が、ことばの流れとしてなめらかさがある」「2連目の風景、雰囲気が好き。靴が印象的で、詩のなかで大きな位置を占めている。別バージョンの方がわかりやすいが、最初の詩のわからなさがいい」
 「わからなさがいい」というのは絶妙な批評だが、詩は、わからないことが書かれている方が牽引力(吸引力)のようなものがある。助詞のつかい方は、学校文法的には別バージョンの方が「正確」なのかもしれないが、学校文法を破壊することで「もの(存在)」が自由を獲得し、新しく世界に出現してくる感じがする。読者の意識が解放される。
 ドイツが出てくるが、じゃがいも、靴はゴッホの絵を思わせる。銀杏(黄色)はゲーテの詩、「一枚の葉が二枚に分かれていくのか/二枚の葉が一枚になろうとするのか」を呼び寄せて楽しい。
 2連目も楽しいが、3連目の「豚の瞳を明るくした」の「豚」がとてもいい。豚はきれい好きな動物といわれるが、どちらかというと「汚い」イメージがある。それが逆に「瞳を明るくした」を輝かせる。「靴/ジャガイモ/豚」というの「貧しい/農民」と「紅茶/シナモン/リキュール」という「豊かさ」を感じさせるものがぶつかり合って、そこから複雑な乱反射の輝きが生まれている。強烈な印象が生まれる。
 「休息」というタイトルも、人間の休息と自然の休息(冬)が重なり、象徴的である。

 (15日は、受講生以外の作品も読んだのだが、その作品と感想は省略)

 

 


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青柳俊哉「ひまわりのみずうみ」ほか

2024-02-03 16:36:03 | 現代詩講座

青柳俊哉「ひまわりのみずうみ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡「現代詩講座」、2024年01月29日)

 受講生の作品。

ひまわりのみずうみ  青柳俊哉

地下から吸い上げた水が
顔へ湛えられていく
風が水面をゆっくりと撫ぜて
それぞれの花びらの形を縁取る

溢れだす水は
ひまわりの花と種子
額も頬もゆるやかにひらかれて
太陽へ吸われていく

ひとつにむすばれる地下水と太陽
維管束から空へみちあふれていく
環状の洪水 虹の帯のように空をおおっていく
ひまわりのみずうみ 

 この作品は、二バージョンあった。第四連が、少し違う。もうひとつの作品は「ひとつにむすばれる地下水と太陽/ひまわりのみずうみ/維管束から空へみちあふれていく/環状の洪水」。
 「環状の洪水」で終わる方が切れがいい、という意見があった。作者の意図も、水の運動を象徴するものとしての虹(地下水がひまわりの茎をとおり、花をとおり、空に開いていく)を虹ということばをつかわずに表現するということにあったようだ。(最初に、引用詩ではない作品を読んだ。)
 しかし私は、「ひまわりのみずうみ」で終わる方が世界が広がると思う。
 虹そのものが、地上の「ひまわりのみずうみ」にも見える。つまり、空に地上のひまわりが映っているように感じられるし、その空の光景と地上の光景が鏡のように互いを反映しているようにも感じられる。
 地下の水を吸い上げるだけではなく、その恵みの雨がひまわりの花を開かせるという「往復運動」が「ひとつにむすばれる」を強調すると思う。
 また、そういう論理的な、一種の硬質な意味が「維管束」「環状の洪水」ということばのなかで結晶するよりも、「ひまわりのみずうみ」のような、具体的な広がりを感じさせることば、視覚的(感覚的)なことばのなかで解放される方がのびやかな気持ちで読むことができると思う。
 水の動き(描写)が「湛えられていく」「溢れだす」「みちあふれていく」と変化するに連れて、「顔」が「額/頬」とより具体的に変化し、「花」になって「ひらかれて」いく。その動きの呼応がとても自然だ。

埋み火  杉惠美子  

そんな時があったよねと
そんな話しをしたよねと
そんな事を考えてたよねと

そのたびに小さな栞をはさんだ

ページをめくりながら
めくりながら

確かな 今日の自分を
感じた時

最後の栞を
自分の手で そっと置いて
そのページを開いておきたいと思う

 「栞」は付箋だろうか。「そのたびに」ということばが、読んでいる途中、一回の動きというよりも、繰り返しを感じさせる。何度も何度もが、一連目にも現われている。
 最終連、「最後の栞」は付箋ではなく、「自分の手」、そして「ページを開いてお」く。
 このことばの運動に、「今のいちばん大事な時間を過去にしたくないという思いがあふれている」「閉じてしまうと思い出になってしまう。思い出にしたくない、忘れたくないとい気持ちを感じた」という感想が受講生から聞かれた。
 「確かな今日の自分」ということばは、「過去」との比較のなかでつくられるものだろうか。一連目の三行が「過去」。しかし、「過去」は思い出すとき、いつでも「いま」のすぐそばにある。密着しているというよりも、いりまじり、「いま」を支えている。「確かな今日の自分」のなかには「確かな過去の自分」が存在する。本は(そのことばは)、その過去に存在し、現在も(きょうも)存在し、あす(未来)にも存在するだろう。その「道」を開くのは、ことばであると同時に、肉体だ。「自分の手」という具体的な肉体が詩人の意思を語っているように思える。ここは「付箋」ではだめなのである。
 タイトルの「埋み火」(灰の奥にあって消えない火)が「肉体」の奥に隠れている情念のように赤く燃える。そういうことを感じさせるためにも「手」ということばは、この詩では欠かせないものだろう。

双子座流星群  緒加たよこ

こんな星空は久しぶり
どんなに目を凝らしても
流れ星は見えないけれど

今夜は新月だから沈んでいます

だから星が沢山 見えるはず

 星に願いはないことを
 終わることさえ
 流れることさえ
 瞬けば

そういえばあまりよいことを願って来ませんでした

 今夜はもう見えない
 今夜はもう終わりたい

星は貼りつく
冴え返る 沈みの新月

 講座後に作者が手を加えた作品。連の構成、一字下げ部分が大きな変化。「瞬けば」ということばも追加されたもの。
 一字下げに関しては、講座で読んだ作品は「今夜は新月だから沈んでいます」と「そういえばあまりよいことを願って来ませんでした」が一字下げだった。このことについて、受講生のあいだで「どう解釈するか」「一字下げの行は描写ではなく、心情の吐露になっている」というようなやりとりがあった。
 改作では、一字下げではない行は「他者」に向かって語りかけているが、一字下げの部分は作者自身の「独白」になっているように思える。こころの奥底の、もうひとりの私の声ということもできるかもしれない。
 この対話が最後の一行を鮮明にする。明るくする。
 「冴え返る」のは論理的には「星」なのだが、なぜか見えない「沈みの新月」そのものが「冴え返っている」ような感じがする。見えないのに、その黒い月が見える感じがする。
 感想を語り合ったとき、受講生が「夜空の澄み渡った感じ、空気の冷たさを感じる」と言ったが、それは夜の風景だけではなく、もうひとりの自分との対話が強調されることでさらに強まったと思う。

 

 

 


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杉惠美子「ハプニング」ほか

2024-01-28 18:01:57 | 現代詩講座

杉惠美子「ハプニング」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年01月14日)

 受講生の作品を中心に。

ハプニング  杉惠美子

接触事故で電車が止まった
復旧の目途は立っていませんと
アナウンス
駅のホームには既に並ぶ人々
こんな待ち時間は何と説明するのだろう

おみやげにもらった饅頭を
食べたいけれどそういう訳にもいかない
別に焦る気持ちもないけれど
黙って待つより他はない

少しずつ夕暮れ時の空に包まれ
寒気がしてきた
ビルの明かりがより明るくなり
時間を取られたのかもらったのかと考えた

昔、    たまたま帰りの電車で
父と一緒になった時の、父の横顔を
思い出した

 「三連目、時間を取られたのかもらったのかと考えた、がおもしろい。二連目の、実際に起きた出来事に、作者の気持ちが重なっていく部分が、とても自然に読むことができる」「日常的な時間の流れ、待つという行為を通じて、別の時間が現われる。それが三、四連目につながる。ビルの明かりがより明るくなり/時間を取られたのかもらったのかと考えた、から時間がゆっくり流れ、過去へ入っていく。その変化が詩的」「胸に迫ってくる。ハプニングから、少しずつ変化し、三連目の、寒気がしてきた、で冬の時間であることが自然にわかる。父に会ったことも、一つのハプニングだとわかる」
 とても自然な感じ、ある意味ではエッセイのように淡々とことばが動いていくのだが、最後の連がとても印象に残る。「昔」と書いてあるのだが、まるで、いま、実際に父に会っているような感じでもある。「昔」が何年前なのか、作者にはわかるが、読者にはわからない。それが、特にいい。どんな「昔」でも、思い出した瞬間、その「昔(時間)」は作者のすぐそばに存在している。
 「ビルの明かりがより明るくなり」という一行が、そういう「感覚の動き」ととてもよく似合っている。ある意味では、その一行は四連目を先取りしている。遠い昔が、突然、鮮明に輝き出したのである。昔なのに、いまであるかのように、すぐそばにきている。
 時間をテーマにした詩はむずかしくなりそうだが、二連目の「饅頭を/食べたいけれどそういう訳にもいかない」というユーモアが、全体をやわらかくしている。

まるちゃんの窓  緒加たよこ

撫でてもらったの
おなか
指3本分の
ねむりながら
まるちゃんを撫でたつもりだった
その手は
おなかを撫でてくれた
まるちゃんの気持ちになった
うっとりするね
撫でてって いうね
まるちゃんは きょとんとしてたけど
まるちゃんになったよ
夜 あったかかった
朝も あったかかった
障子を引いたら
まるちゃんの窓が開いてた
昨日 まるちゃんがアツイっていったから
開けてた 指3本分
寒くなかったよ
昨日 まるちゃんは帰ったけど
まるちゃんの 窓をみつけて
笑ったの

 「まるちゃんを猫だと思って読んだ。書き出しの、指3本分が体温の温かさを感じさせる。私ということばは書かれていないのだが、私とまるちゃんが一体になってる。指3本分は後半の部分で窓と交錯する。意味はつかみにくいが、あいまいにぼかされていることでより一体感が出てくる。書き方がやさしく、ぬくもりのある詩」「最近の緒加さんの詩は輪郭がつかみやすくなった。いいなあ、と思う。ことばにスタッカートが効いているが、同時に展開にやわらかさ、まるさがある」「猫は飼ったことはないが、犬にはない猫のよさが伝わってくる。一体感がよく書けていて、猫と人とのつながりがあり、気持ちがいい」
 作者によれば「まるちゃん」はマルチーズということなのだが、私も猫を想像した。二年目の「その手は/おなかを撫でてくれた/まるちゃんの気持ちになった」の非文法的な(?)ことばの展開がユニークでおもしろい。やわらかいというよりも、不定形な猫の肉体を想像させる。「まるちゃんの気持ちになった」から「まるちゃんになったよ」への変化、「気持ち」の省略がとてもおもしろい。「気持ち」というものも「時間」と同じように、どんなに遠く離れていても、すぐそばにある(一体になっている)と感じさせるものがある。

ダンス  青柳俊哉

水中でそばだてる耳

星が響く うえに世界がある
空中の葉が鳴る
一枚が離れ いく枚かがあとを追う

雨が乱れる
水面にふれるかすかな葉音
風のもように斜めにくずれて頭上の水が移動する

耳かしぐ

耳元へ 
風が葉と雨と星の声を連れてぐるりに流れをひき起こす

空の呼吸のような渦の中へ 
耳はばたく

 「風が葉と雨と星の声を連れてぐるりに流れをひき起こす、という一行、一気に言ってしまっているのが珍しく、とても印象的。自由な感じがし、解放されたように感じる」「絵を想像する。いつもはその絵の全体を想像するのとむずかしいのだが、今回の詩は絵が浮かんでくる」「動きがことこまかに書かれている。タイトルがいなあ」
 今回の詩は、つかわれていることばが少ない。水と耳、水の中と水の外(世界/宇宙)をつないでいる風と葉。その動きが重なり合う。そして、受講生が指摘した「風が葉と雨と星の声を連れてぐるりに流れをひき起こす」という一行に凝縮しながら、その凝縮が、ビッグバンのような爆発をもたらす。名詞ではなく、動詞が動いて、その動きの中に名詞を誘い込んでいるような緊密感がある。

年を越える  石垣りん

そして さしかかる

私たちは登りつめる。
一年の終わりの何日かを
どうしても
どうしてか
越えなければならなかった。
だれと約束したのでもない
そのことじたい目的があるわけでもない。
そういう旅を人は強いられていて
急ぐ。
なぜか この道はさびしい。
多勢の足音がきこえているのに
みんなひとりの峠を越えていく。

 「峠にはいろいろな意味が込められていると思う。それに共感する」「年を越す、なぜさびしいのかなあ。毎年、こんなふうに思っているわけではないだろう。深く思ったことがあったのかなあ」「年越し、一生のおわりの何回か。人と時間について考えさせられる。そのことじたい目的があるわけでもない、ということばは、ひとりひとりの誰にでもあてはまるのではないか」「何かを自分で越える。最後の三行、とくにひとりということばに覚悟を感じる」
 この詩の書き出しの「そして」はとてもおもしろい。「そして」という表現が成り立つとき、そこには詩人と読者の「共通認識」がないといけない。いままで、こういうことを話してきた。その話のつづきとして、これから話します(語ります)。これから書くことは「つづき」です、というニュアンスがある。
 もちろん読者は「そして」の前に何があったか知らない。そのため、突然「そして」といわれると緊張する。この詩は、読者を緊張させる、あるいは読者の関心を引きつける工夫をしていることになる。この緊張感が「さしかかる」という動詞の意味を強める。「峠」は、それがどういう峠であれ、人を緊張させる。何らかの変化が「峠」を中心にして始まることを暗示する。
 しかし、おもしろいことにこの詩のタイトルは「峠を越える」ではなく「年を越える」である。「峠を越える」ともちろん比喩としても成り立つが、実際に「峠を越える」という具体的な動きを表わすこともある。「年を越える」は、それに比べると抽象的である。だからこそ「峠」という比喩で、動詞の方に読者の意識を誘っているのだともいえる。
 「そして さしかかる」という行の中の「し」の繰り返し。その「し」の音が随所に響いているのも、この詩に緊張感を与えている。

 

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