詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

もし企業なら(情報の読み方)

2017-11-28 16:04:45 | 自民党憲法改正草案を読む
もし企業なら(情報の読み方)
自民党憲法改正草案を読む/番外154(情報の読み方)

 2017年11月28日の読売新聞(西部版、14版)に森友学園の続報。(見出しは触れていない。)

 安倍首相は27日の衆院予算委員会で、学校法人「森友学園」への国有地売却問題を巡る会計検査院の検査報告について「指摘を真摯に受けとめる」と述べ、国有財産を売却する際は透明性の確保に努める考えを強調した。(略)
 首相は予算委で、売却手続きの適正さを主張していた自身の国会答弁との整合性を問われ、「財務、国土交通両省から『適切に処分した』との答弁があった。私もそのように報告を受け、(国会で)申し上げた」と釈明した。

 これが、もし企業の「株主総会」ならどうなるか。
 たとえば三菱マテリアルの社長が、さまざまな改ざん問題で「担当役員から『適切に処理している』と聞いている。私はその報告を受け、適切だと申し上げた」と釈明したら、どうなるのだろう。
 株主は納得するか。
 株主が訴訟を起こした時、裁判所はどう判断するだろうか。
社長の判断のほかに、会社組織のチェック機能も問題視されるだろう。
社長が陣頭指揮して問題点の調べ上げ、解決への道筋を付けないことには、誰も納得しないだろう。

 会計検査院の指摘で問題点が明らかになったのだから、安倍は「私は知らなかった」でなく、「行政の最高責任者」として、行政機構の問題点を調査し、報告する責任がある。



 毎日新聞夕刊(西部版・4版)には、28日の衆院予算委員会での安倍の答弁が載っている。

「私が調べて、私が『適切』と申し上げたことはない」とも語り、「適切」の根拠は財務省への信頼との認識を示した。

 ふざけているにもほどがある。部下を信頼しているので、部下の「認識」を伝えた。私が調べたことではない、なんて企業の社長が言えば、その段階で社長失格。



詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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しばらく休みます。(代筆)

2017-11-28 00:12:59 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます。(代筆)
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川上明日夫『白骨草』

2017-11-27 09:59:28 | 詩集
川上明日夫『白骨草』(編集工房ノア、2017年10月10日発行)

 川上明日夫『白骨草』を読みながら、初期の荒川洋治を思い出した。ことばが動くとき、「意味」よりもまえに「音」が動く。音が「かたち」をととのえて、それにあわせて「意味」をそえる。「音楽」を重視している。「音楽」のもっている「抒情」を優先させている。
 「雫・ひかり」の書き出し。

まあるい水の座布団が
みどりの草の穂先にしつらえてあって
なんとまあ きれいと
まだあけやらぬ朝にむかって
あげる声の そのこえを
みじろぎもせず
みたして
見しらぬひとが さっきから ひっそり

 「ま行」の音が響きあい、そのなかから「み」の音がたちあがり、ことばを集める。
 「みじろぎ」「みたして」「みしらぬ」
 このときの、「みたして」ということばのつかい方が、荒川を思い出させる。「みたして」の主語は何か。「こえを/みたして」ならば、「見知らぬひと」が主語になるかもしれない。しかし、「こえ」が「見知らぬひとを」「みたして」と読むこともできる。
 いや、川上が「見知らぬひとが」「こえを」「みたして」と「書いた」のだとしても、私には「「こえ」が「見知らぬひとを」「みたして」と「聞こえる」。
 だれかが何かを「言う」。そして私がそれを「聞く」。そのときの、不思議な関係。そのひとは「こう言った」。けれど、それは「こう聞こえた」。これは、ことばが「交渉」するからである。同時に、ことばは「考える」からである。「感じる」からである。そして、ことばはたぶん「交渉する/伝達する」ためにあるのではなく、「考え/感じる」ためにある。荒川は「伝達する」ことばではなく、読者を刺戟し「考える/感じる」という世界へ誘い出す。
 「意味」を伝達するのではない。ことばを「感じさせる」「考えさせる」。そこからはじまる世界は読者のものであって、荒川の「干渉」できる世界ではない。「意味」が生まれてくるなら生まれてくるでかまわないが、その「意味」をまかせてしまうのである。
 川上がそこまで覚悟して書いているかどうかわからないが。
 この不思議な交渉の形を言いなおすと、たとえばだれかが「色即是空」という。そして、何を聞いたかと相手に問う。「色即是空」と聞いたと答えれば、それは「私が言ったこと。私は私が何を言ったかではなく、あなたが何を聞いたかと問うたのである」とふたたび問われるだろう。何を聞いたかの答えにはいろいろあるだろうが、たとえば「空即是色」と聞いたという答え方ができる。「聞く」ことによって、ひとの中でことばが動き始める。その「動き」こそが「対話」である。「聞く」ということである。そして、その「聞く」のいちばん基本的なかたちは、ことばを固定せず、いれかえながら、ことばをつらぬく「ことばの肉体」に引き返すことである。既存の自己のことばを否定し、まだ固定化されていないことばのなかへ引き返し、どう動いて行けるかを探る。
 そういうことが、この詩を読んだときに、「みたして」を中心にして起きる。私の場合は。「みたして」の前にある「あげる声の そのこえを」の「声/こえ」の繰り返しと微妙なずれが、「みたして」を読み替えろと要求している。

 「帯」にも引用されている「川の背中」の次の部分は「中期」のころの荒川か。

包んでも 慎んでも
なお
つつみきれない
世間のあたりまえ

風呂敷のように 拡げ 生きてきた
川は 悲しみの面積です

 「包んでも 慎んでも/なお/つつみきれない」は「つつ」という「音」が呼び込む変奏。「慎む」ということばがまぎれ込む。これが「世間」と「悲しみ」を引き寄せる。「風呂敷」という比喩が、「拡げ(る)」と「面積」に変わっていく。このとき、「風呂敷」が包んでいたのは何か。「悲しみ」か。しかし、「悲しみ」が「風呂敷」になって別なものを包んでいるのかもしれない。「悲しみ」を「包む」ことが「慎み」、「慎む」ということであるのか、「慎む」ことが「悲しみ」を「包む」ことなのか。同じようであって、同じではない。
 「何を聞いたか」という問いに答えるのはむずかしい。
 もし「包む」ことが「慎み」ならば、「拡げ(る)」ということは、どうなるのか。「拡げる」ということをしなかったならば、「悲しみ」は存在しうるのか。「慎む」ということは、存在しうるのか。そういうことも考えさせられる。

 でも。

 いま書いた「でも」は、どう書いていいかわからずに書いた「でも」である。「でも」のあとに、私は「こういう詩は嫌いだ」とつづけたいのだ。
 何が嫌いかというと「みたして」「慎んで(も)」「拡げ」という中途半端な動詞の形が嫌いである。「語りきっていない」感じがする。「語りきる」まえに、「開いている」。入れ替えの準備を作者の方でしている。「語った/聞いた」を作者が強要している。言い換えると、「どう聞いたか」を問いかけながら語っている。
 それは「みじろぎもせず/みたして/見しらぬおひとが」という「音楽」のつくりかたそのものにもあらわれている。どの音を聞いた?としつこく質問してくる。

はらはらと はらはらと
かぜをあつめ あつめてはあられもなく ぽっと 頬を
そめ しどけなくうつむいては
また あわててそえる 夕陽のみぎわ の そのむかし     (春の落ち葉)

 こういう「音」のつらなりは、私はどうも生理的に受け付けることができない。「あつめ」「あつめては」「そめ」「うつむいては」という中途半端な動きを「はらはら」「あられ」「しどこなく」という「美しい」と思われていることばで隠す。「聞こえるか/聞いているか」と押しつけられている気がする。こういうところは荒川とは違うかなあ。荒川はもっと「語り」に徹する。荒川の「肉体」のなかの「音」を「聞いて/語る」。川上は「語って/聞く」、自分の「語った」音に酔うところがあるのかもしれない。だからしつこくなる。

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*


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キム・ジウン監督「密偵」(★★★★)

2017-11-27 00:33:24 | 映画
監督 キム・ジウン 出演 ソン・ガンホ、コン・ユ、ハン・ジミン、鶴見辰吾

 日本が統治する1920年代の朝鮮半島が主要な舞台なのだが、どこで撮影したのだろう。なんとなくセットっぽく見える。そして、この「セット感覚」がなかなかおもしろい。リアルというよりも作り物、作り物だけどリアルを装う。その嘘と現実の感覚が、ストーリーにぴったりあっている。だれがほんとうのことを言っている? ほんとうの密偵はだれ? だましているのは、どっち? 最初の、逃げる男を警官が追いかけるとき、道ではなく屋根の上を走るというのは「忍者」みたいで、そういう「嘘っぽさ」もなかなかい。信じちゃいけないよ、と観客に言うことで、「虚構」を完璧にする。「信じろ」といわれるより、「信じちゃいけない」と言われた方が、「ほんとうなんじゃないか」と思ってしまうからねえ。
 映画のクライマックスは、列車の中になるのかなあ。逃げ場がないところで、どう戦い、どう知られざる「密偵」を探り出すか。わざと嘘の情報を流すという、まあ「スパイもの」の「定番」トリックなんかもつかわれている。うーん、そこは「安心」して見ていられるのだけれど、ちょっと「虚構性」からオリジナルなものが消えるのが惜しいかなあ。
 サッチモの音楽、ボレロの音楽のつかい方も、まあ、「定番」だねえ。「世界」に売り込もうとすると、どうしてもそういう音楽の選択になるのだと思うけれど、オリジナルで勝負してほしかったなあ、という気がする。

 ということは別にして。
 映画を離れて、いろいろ考えてしまった。
 主人公は日本の警察の中で「地位」を確立している韓国人。韓国人にとっては「裏切り者」だね。その彼をどう「韓国独立派」の方へ引き入れるか。「裏切り者」を「密偵」として利用できないか、ということを中心に映画は動いてく。
 いまは「裏切り者」だけれど、「民族の血」が最終的に主人公を寝返らせる、ということを期待して独立派集団が主人公に接近していく。なぜ、「裏切り者」であるとわかっていて接近してくるのか、主人公はいぶかるのだけれど、その接近を利用すれば「手柄」を立てることができる。さらに出世できるという思いもあって、揺れ動きながら交渉をつづける。
 これからあとのことは、書いても書かなくても、どうでもいいことだが。
 ここに描かれているようなことは、日本が朝鮮半島を統治していたとき、さまざまにおこなわれていただろうと思う。「密偵」になったひとは、どうなったのだろう。深い心の傷がいつまでも残っただろうと思う。
 主人公のように、最終的に「日本側」から独立派へ変わった人間にしても、「日本側の密偵」をやっていたときの苦悩は尾を引くだろう。
 そういうことを、いま安倍があおっている「北朝鮮の脅威」と結びつけると、安倍が見落としているものが見える。
 安倍は「北朝鮮の脅威」を言うけれど、また現実に北朝鮮と韓国は国境を挟んで対立しているけれど、北朝鮮が韓国に侵攻する(戦争をしかける)というようなことはあるだろうか。同じ民族なのに、戦うということはあるだろうか。たぶん、多くのひとが苦悩し、また実際には戦争などしないだろうなあと思う。
 朝鮮民族が戦うとしたら、彼らを「分断しているもの」と戦うことになると思う。簡単に言いなおすと、南北朝鮮という「世界戦略図」をつくった国との戦いになるだろうなあ。韓国は日本同様アメリカの支配下にあるように見える。言いなおすと、戦いを「宣告」するとしたら、それは「韓国」ではなく「北朝鮮」であり、相手は「アメリカ」だね。「韓国にいるアメリカ」だね。
 日本が北朝鮮から攻撃されるとしたら、それはアメリカの基地があるから、というだけのこと。「韓国にいるアメリカ」は「日本にもいるアメリカ」である。
 もし不幸にして戦争がはじまったとしたら韓国にもアメリカ軍の基地があるから、韓国も戦場になるだろう。そのとき、軍人はどう動くのかなあ。北朝鮮と韓国の兵士はたがいに殺し合うか。「抵抗」があるだろうなあ。どうしても、そこで戦うのは「アメリカ兵対北朝鮮兵」ということになるだろう。「アメリカ軍」には「集団的自衛権」を憲法違反ではないと言った「日本軍(自衛隊ではなくなっているね)」が加担することになるだろう。そのとき、韓国人はどう思うかなあ。「韓国のために日本が戦ってくれている」と思うだろうか。この戦争をきっかけにして「日本の統治」がふたたびはじまると思うだろうか。不安や、憎しみがつのるだろうなあ。不安や憎しみをもったひとたちのなかで、「日本軍」は「アメリカ軍」と協力できるだろうか。「韓国軍」は「アメリカ軍」とは協力しても「日本軍」とは協力したがらないだろうなあ。日本が朝鮮半島に侵攻しなければ、朝鮮民族の南北分断ということも起きなかっただろう。戦争がはじまれば、「反日感情」はいっそう強くなるだろう。
 安倍は、人間の、ひとりひとりの「感情」というものを見落としている。いや、「ひとりひとりなんてどうでもいいと思っているから「独裁」を目指すのだろうけれど。
 映画の中では、日本の「指揮官」は最後は殺される。「指揮官」には実際に「殺し合わなければならない個人(ひとりひとり)」がわからないから、その「ひとり(個人)」に反撃される。人間は、自分が「ひとり」であることを忘れると、「ひとり」に反撃される。「国家」ではなく「ひとり」に。「ひとり」という存在は、絶対になくならないものである。

 「北朝鮮の脅威」を言う前に、近隣の国との「完全な和解」が必要なのだ。戦争で「脅威」をたたきつぶせば「平和」が確立されるわけではない。いつまでもいつまでも「憎しみ」が残る。それは必ず「反撃」してくる。
 「ひとりひとり」の感覚が大事なのだと、映画を見ながら思った。 
(KBCシネマ2、2017年11月25日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/


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清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』(2)

2017-11-26 09:29:28 | 詩集
清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』(2)(リトルモア、2017年12月01日発行)

 最果タヒの詩には「透明」に通じることばがよく出てくる。

全身を透かすようにして、しずかな青が過ぎていくとき、    (かくとだに)

 「透かす」は「透明にする」。それは「しずか」という感覚と通じる。「しずか」を漢字で書くと「静か」。そのも字のなかに「青」があるせいだろうか、「透明」「しずか」「青」は響きあう。「寒色」の方が「透明」の感覚を呼び覚ますかもしれない。

深い緑の時間の重さに、追われ、塗りつぶされていた。     (わすれじの)

 ここには「緑」という寒色がある。「深い」は「透明」に通じる深さだろう。不透明で、底知れない深さというものもあるが、不透明では次の「塗りつぶす」がおもしろくない。「不透明」ではほんとうに塗りつぶされる。透明だと、塗りつぶしても塗りつぶしても、その奥から何かが「見える」。それが「深さ」を呼び覚ます。「透明」を揺り起こす。
 この感じは、

美しさはどれほど重なり合っても、澄み切っていられるものなのですね。
                              (いにしへの)

 と言いなおされる。美しさはどれほど「塗り」重ねても、「澄み切っていられる」。
 この「透明」感覚には、「時間」ももぐりこんでいる。「過ぎていくとき」は「とき(時)が過ぎていく」でもある。「一瞬」ではなく「過程」である。「幅をもった時間」というか、「時間を感じさせる長さ、持続」。それは「追われ、塗りつぶされ」という「動詞」の持続感覚と重なる。
 最果は「時間」を「透明」に見渡している。見渡せるものとして「時間」がある、ということだろう。

透明のおちる音、透明にすべる光、
透明の粒子がはじけるたびに、冷えていくもの、
私たちは知らない、すべてが透明の中に沈められ、刹那のふりをしていること。
                              (たきのおとは)

 この詩には「刹那」ということばが出てくる。「透明におちる音」というのは、「刹那」に聞こえるものだろう。「はじけるたびに、冷えていく」というのも、その「刹那」「刹那」を描いている。
 しかし、「刹那」だけではなく、やはり「時間」が「幅」をもって見渡されている。それは「おちる」「すべる」「はじける」「冷える」「沈める」と複数の動詞の存在からもわかる。ある「刹那」は別の「刹那」と呼応する。そのとき「刹那」と「刹那」のあいだに「時間」が拡がる。その「広がり」を「透明」なものとして見ている。
 いや、見渡すことで、「時間」のその「間(ま)」を「透明にする」のが最果の肉体(思想)なのだろう。

あなたが贈ってくれたよもぎの歌には、確かに露がついていた。 (ちぎりをきし)

 「透明」のかわりに「露」という「具体的なもの」が突然あらわれるときもある。「抽象」は「具象」によってふたたび立ち上がり、「具象」は「抽象」によってふたたび立ち上がる。そういうことが詩集全体の中で展開されている。そのときの「運動」(ふたたび立ち上がる/動き出す)を支えるもののひとつが「透明」ということになる。

夜の両端が北と南にひっぱられたみたいに、目の前で、
暗闇が裂けていく。                     (あさぼらけ)

 という「暗闇」ということばをつかった、逆の透明もある。「裂ける/裂く」ことによって、「暗闇」の向こう側から「透明」が噴出してくる。これも最果の「透明」が「運動」に結びついている(時間の中で展開する)ということを明らかにしてくれる。

 ということを、感想の出発点として、また違うことも考えた。

せめて、という言葉に心の底がやぶれていった。        (なげきつつ)

 「心の底がやぶれていった」は「暗闇が裂けていく」に通じるが、そのきっかけとなっているのが「せめて」ということばであることが、とても、とてもとても、おもしろいと思った。
 「せめて」は「せめて朝がきてほしい」ということばとなって動いているのだが、「せめて」は実はほんとうに欲していることには届かない。かなわないことがあるから、「せめて」これこれしてほしい、という具合につかう。
 不可能性にきづいたとき「せめて」ということばが動く。
 これは飛躍した言い方になるが、「透明」とは逆の何かである。「透明」はどこまでも見渡す。「せめて」は「果て」が見とおせない。「果て」の手前で妥協する。妥協するしかない。そういう感じだ。
 ここに、「不透明な肉体」、人間の「肉体」の、「具体」のもっている「限界」のようなものがある。
 「精神(抽象)」はどこまでも「透明」を貫くことができる。不透明を排除し、透明を積み重ねることで、より透明になっていく。(この「透明化」のスピード、リズムが最果の詩が若い人に好評な大きな要素になっていると思う。)
 一方、生身の「肉体」は「抽象」を貫くことができない。どこかで「つまずく」。そこから、どうふたたび立ち上がる。そういう問題が、実は、とても重要だ。
 最果は、どうするのだろう。
 「ながらへば」で、こう書いている。

感情も呼吸も思考もすべてが刃となって身体の底に降り注ぐ、
この時間さえ生きながらえば、
この痛みも懐かしく思う日が来るのだと、知っている私は立ち尽くしている。

 「身体」と「痛み」。「痛み」はまだ「抽象」かもしれない。「刃」ということばを手がかりにして言えば「痛み」とは「傷」だろう。「肉体」そのものに刻まれた「傷」。それを最果は、ふたたび言いなおす。

すべてがひび割れていく、
その跡は、いつかうつくしい陶磁器の模様のように見えるでしょう、
私は手のひらで撫でながら、
ここに痛みがあったのだということを思い出すようになるでしょう。

 「手のひらで撫でる」これは、「透明」なのものを「目で見る」のとは違う。「不透明」に「肉体」を重ね、「目」以外の「肉体」で、「目」では見えないものを知ることである。この「知る」のなかにも、「透明」が隠れている。

舞うとあなたの指先が、またたく光につながり、溶けるよ。    (あまつかぜ)

 というときの「溶ける」とは違う、別の「溶ける」がある。単に「つながる」のではなく、もっと「面積」が広い。「指先」で「つながる」ではなく、「手のひら」で「撫でる」。「撫でる」は「つながる」のように「強固」ではないが、強固ではないからこそ、逆に深いものを感じさせる。

ほんとうは、それがわたしの瞳から溢れていく時間だとわかっていました。
                               (はなさそうふ)

 「撫でる」ときに何が動くか。「撫でられたもの」から、なにかが「溢れる」。「撫でる/撫でられる」ときに動き出す(あふれだす)もの、それが「わたしという時間」かもしれない。

 最果がどういう順序で「百人一首」を詩に翻案していったのかわからないが、青春の鮮烈さ(透明な輝き)を生きて、不透明なものをも抱きしめながら変わっていく最果の「現在」を一緒に生きている感じになる詩集だ。

千年後の百人一首
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清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』

2017-11-25 10:32:48 | 詩集
清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』(リトルモア、2017年12月01日発行)

 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』は「小倉百人一首」を翻案したもの。清川あさみの刺繍(?)作品と最果タヒの詩が組み合わさっている。清川の作品は印刷ではよくわからない。最果の詩についての感想だけを書く。
 百人一首には好きな歌がいくつかある。正月に百人一首をやるとき、「この札だけは」と思う歌がある。それを最果がどう翻案しているか、それがとても気になった。でも、こういう「思い入れ」の強い歌というのは、「波長」があいにくい。「歌」はひとつでも、そこから「聞こえる」ものが違うということだろう。
 「読む」ということは、たぶん、自分の声を聞くということなのだろう。
 たとえば、ある歌を「隠しても隠しても、ひとに知られてしまう恋がある(恋とは隠しても隠しても、ひとに知られてしまうものである)」と要約する。これは私が「聞いた」ことではなく、その歌人が「言った」ことにすぎない。「聞く」とは、そのひとのことばに触れて、そこからはじまる自分自身の「声」をことばにするということなのだ。
 最果は「百人一首」から何を「聞き」、それをどう最果の「声」にしたか。そんなことを考えながら読んだ。

 最初に、はっ、と思ったのが「あまつかぜ」である。

舞うひとびと、あなたの皮膚が世界の輪郭、
きっとこの時間が終われば、あなたは空へと帰っていくのだ、

 「皮膚」と「輪郭」というのは、わりとわかりやすい結びつきである。しかし、それは「私」を中心にしたときのことである。「私の皮膚が世界の輪郭」というのことである。簡単に言いなおすと「自己中心」の視点。でも、最果は「あなたの皮膚」と「世界の輪郭」と書く。
 うーむ。
 このとき最果は「あなた」ではなく「皮膚」と同化している。一体になっている。「皮膚」のなかに「あなた/私」の区別がなくなり、そこに「皮膚」だけがあり、そこから「世界」を見ている。
 「人格」というのか「精神」というのか、よくわからないが、そういうものは存在しない。あるのは「皮膚(肉体)」だけであり、その確実に存在する「肉体」を手がかりに世界(宇宙)をつかもうとする最果がいる。
 私が最果のことばから聞き取るのは、そういうものだ。「皮膚(肉体)が私だ」という「声」だ。最果は「皮膚」と「言う」のだが、私はそれを「肉体」と「聞く」。それは私の「誤聴」であり「誤読」なのだが。
 でも、私はこういう「誤聴/誤読」をとおして最果を好きになる。

舞うとあなたの指先が、またたく光につながり、溶けるよ。

 「溶ける」は「輪郭」につながる。「輪郭」が「溶ける」。(「溶ける」の前に「つながる」がある。このことも書きたいのだが……。)そうすると、どうなるか。

その無限そのものの体で、空の果てへと行くのだろう。

 「溶ける」「輪郭がなくなる」。そうすると「無限」になる。それは「空の果てへ行く」というよりも、「あなた」自身が「空」をのみこんでしまう、ということだろう。
 ああ、いいなあ、と思う。
 「あまつかぜ」という歌は、私はこれまで、いいとも悪いとも、何とも思わなかったが、そうか、そうなのかと思い、突然好きになる。でも「あまつかぜ」が好きなのではなく、最果のことばの運動が好きなんだけれど、何かが交錯し、ごっちゃになる。
 でも、この私の感想は、かなり不親切。
 最果のことばをそのまま「順序」立てて引用しているのではなく、ばらばらに引用している。「文学」は論理ではないし、また最果の詩は「百人一首」という原典をもっているのだから「論理」はそれにまかせて、好きなところだけ書いてみようと思うのである。

 「きみがため」では

春は、壁にも肌にも大地にも透き通るように染み込んで、
私とあなたの魂を、すこしだけ同じリズムで揺らす。

 ここが好き。「肌」はさっき読んだ「皮膚」だろうね。「大地」は「地球の皮膚/輪郭」だね。でも「壁」はどうだろう。びっくりする。「家の皮膚/輪郭」といえないことはないが、それは「理屈」であって、最初に読んだときは、「えっ、春が壁に染み込む?」と驚く。違和感がある。その違和感を「肌」「大地」が消していく。
 「透き通る」は「輪郭がなくなる(溶ける)」に通じるね。透き通って、見分けがつかなくなる。見分けがつかないは「解け合っている」であり「輪郭がない」という具合。これを最果は「同じリズム」と「音楽」としてつかみなおしている。「同じ」は「溶ける」だね。
 「音楽」にも「輪郭」はあるだろうが、それは「指」で触れるものではない。つまり「皮膚」で確かめるものではない。(私にとって、だけれど。)でも、それが「同じ」になって、「溶け合って」というのはいいなあ、と思う。私は音痴なんだけれど。
 (「魂」というものについては、私は見たことも触ったこともないので、そんなものがあるとは考えたことがない。だから「魂」につていは共感しない。)

 「つきみれば」では、

ここから他は見えないけれど、夜に沈んで、すべてを塞がれた町があるだろう。


 「見えない」けれど「ある」と「見る」。この矛盾が好きだ。「夜に沈んで」と「塞がれた」は同じこと。言い直し。そして、これはこれまで見てきた「溶ける」とは逆。「溶ける」と拡がって「無限」になる。「宇宙」になる。その一方で「溶けない」ものがある。「皮膚」につつまれたまま、開放されない(解放されない)。「塞がっている」。
 最果は、そういうものも見ている。「開放」と「閉鎖」の両方に共感する「肉体」をもっている。

 「なにしおわば」では、

ぼくときみだけの世界を窓の隣に、つくることはできないか。

 「窓の隣に」の「隣」という限定が切実だ。「窓」は「皮膚」でもあるだろう。「窓」にはいろいろあるだろうが、私は「ガラス窓」を思う。「ガラス」は「透明」である。「輪郭」と「透明」がせめぎ合っている。
 その切迫感のなかで、こんなことが起きる。

真紅の実がぼくの「会いたい」という声を吸って、吸って、
いつか破裂するだろう。
その瞬間、すべてが反転した宇宙が生まれる、としたら

 「声を吸って」は「声を聞いて」である。「聞く」とは「聞いたひと」のなかで変化が起きるということ。変化が起きてこそ「聞いた」と言うことができる。どういう変化かというと、この詩では。
 「溶ける(溶け合う)」、そして「一つになる(同じになる)」ではなく、「破裂する」。でも、破裂したらどうなるのだろう。「輪郭」が「溶ける」と「輪郭」「破裂する」では、どう違うだろう。
 「開く」と「閉じる(塞ぐ)」の関係のように、「溶ける」と「破裂する」が拮抗する。この「拮抗」は「反転」という形で表現されている。「反転」したものは「反」という文字があるくらいだから「反対」のものである。でも「破裂」しているから、そこには「形」がない。「反転」といいながら「反」はないのだ。これもひとつの「融合」である。

 こういう感覚は「かぜをいたみ」では、こうなる。

あなた、私はあなたに砕かれる波。
海、だったかもしれない、昔は、波だったかもしれない、

 「私」は「波」であり「海」である。このときの「波」「海」は「比喩」にすぎないが、この「比喩」を引き出すのが「あなた」。この作品ではあなたは「岩」という「比喩」だが……。
 「比喩」でしか語れないものがある。「比喩」として語られたものを「比喩」のまま「聞いた」と言っては、「聞いた」ことにならない。
 ここでは、最果は何を言っているのか。

雫、また、繋がって、波となるのね、海になるのね。

 「波となる」「海になる」。最果は「なる」という動詞をつかっている。「私」が「私」という「輪郭」を破壊し、「波」「海」という別なものに「なる」。
 この「なる」は「開放する/解放する」というときもあれば「閉じる/塞ぐ」というときもある。ベクトルはひとつではない。矛盾したものが同時にある。けれど、矛盾していても、それは「なる」という動きとして「同じ」である。
 「境界線」はさまざまだ。「皮膚/肌」を切り開き、私を世界に広げていく、私が世界をのみこんでゆく。溶かしたり、破裂させたりしながら、世界そのものに「なる」という運動がある。
 この「なる」の前に「繋がる」という動詞がある。そのことにも注目したい。「あまつかぜ」にも「つながる」が出てきた。「つながる/繋がる」のは、たとえば手と手。私の手、あなたの手はそれぞれ「輪郭」をもっている。しかし「つながる」とき、「輪郭」は存在しながら、同時に「消える」。「輪郭」という意識が消え、別のものが生まれる。「ひとつ」に「なる」。「なる」という変化、運動の起点に、接点となる存在(たとえば肌)と接続の瞬間(つながるという運動)がある。
                  (50首まで読んでの感想。つづきは後日に。)

千年後の百人一首
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福間明子『雨はランダムに降る』

2017-11-24 10:13:11 | 詩集
福間明子『雨はランダムに降る』(石風社、2017年10月10日発行)

 福間明子『雨はランダムに降る』の中では、「夢の切れ端」の二連目がいい。

フワフワが恋しい
秋日和のころになるとフワフワに逢える
縁側の部屋から母の呼ぶ声
「端をしっかり持って」
布布団に綿を入れる作業だった
布ごとくるりとひんくり返して綿を包み込み
母と私とで四隅を持って引っ張るのだった
霜月 師走フワフワの布団
命長ければ睦月 如月

 特に二行目の「フワフワに逢える」がいい。ここはほかのことばで言い換えられない。つまり、書いてあることは「わかる」が、それを自分のことばで言いなおせない。
 以前、詩の講座をやっていたとき、私はこういう行を取り上げて、「これをほかのことばで言ってみて」と受講者に聞いた。すると、みんなびっくりする。言いなおしてみようとは思わない。言いなおさなくても、そのまま「わかる」。つまり、それは自分のことばではなく、福間のことばであるにもかかわらず、まるで自分が言っているみたいに感じということ。瞬間的に、「肉体」のなかから、そこにかかれていることがよみがえるのだ。
 「フワフワ」は「新しい綿の感じ」とか「布団の感触」とか言いなおすことができる。詩を読みながら「あ、私も母の仕事を鉄だったことがある」という具合に話が弾むかもしれない。
 でも、「逢える」は、どうだろうか。私は意地悪だから「逢う」というのは「ひとと逢う」という具合につかう。ここで「逢う」をつかうのは、「文法的に変」である。もし、ふつうのことばで言いなおすとどうなる? という具合にさらに質問するのである。
 なぜ、「逢う」なんだろうか。
 このとき「逢う」は「知っている」だれかと「逢う」というのと、「知らない」だれかと「逢う」というときと、どちらに近いだろうか。こう質問を変えれば、きっと「知っているだれか」という答えが返ってくる。
 福間は「知っている」からこそ、「逢う」ということばをつかっている。
 そして、この「知っている」が「逢う」という動詞の奥から、ことばを突き破って読者の方へやってくる。「布団の綿」に「逢う」のではなく、「なつかしいもの/大好きなもの」に「逢う」のだ。
 こういう瞬間だね。あ、これはいいなあ、と感じるのは。
 「フワフワ」はだから「なつかしい/大好き」であり、それは福間のことばで言いなおせば一行目の「恋しい」ものである。「こころ」を誘うものなのだ。

 「キリンの日々」は、こんな具合にはじまる。

ベランダからキリンが見える
あまりにもうららかな日向では心が細って
キリンの首のようだと思う

 「ベランダからキリンが見える」というようなことは、ふつうは、ない。だから、これは「比喩」なのだと「わかる」。何の比喩だろうなあ、と思いながら読んでいくと「心が細って」ということばに出会う。これを福間は「キリンの首のようだと思う」と言いなおし、一行目を「説明」する。
 この「曲がりくねり」具合が、詩である。
 キリンということばから思い出すのは、まず「首」である(と、私は思う)。長い首は細い首でもある。その「細い」を中心にして、最初のわけのわからない「キリン」が「首」のなかでしっかり「像」になる。
 さらに、この「曲がりくねり」の過程に「うららかな日向」ということばが入り込んでいる。「うららかな日向」なら、こころはゆったり、晴れやかになりそうだが、それが「あまりにもうららか」だと事情は違ってくる。「あまりにも」幸せだと、逆に「不安」になる。そういうことを、私たちは「知っている」。「肉体」がそういうことを「おぼえている」。だから、そこから「心が細って」ということばがあらわれてきても違和感がない。
 二行目のすべてのことばが一行目、三行目としっかりとつながって動いている。だから、詩になる。詩は一種の「でたらめ」(とんでもない空想、たとえば「ベランダからキリンが見える」というようなこと)を書いているようであって、実はそうではない。「でたらめ」を利用しながら、その奥に「必然」を書いている。「必然」が噴出してきたとき、それを詩と呼ぶ。

 「サカナのしんり」も書き出しがおもしろい。

ある日を機に
サカナが我が家に押し寄せて来た
冷蔵庫の中は満杯になった
ドアを開けるたびにサカナか笑っている
かつてこんなにも縁があったっけ
などと思いながらサカナと笑う
夜寝ていると潮の匂いがしてくる
海辺の家で波の音が聞こえる

 一行目の「機」ということばは「硬い」が五行目に「縁」が出てくる。「機縁」という「ことば」が、このとき遠くから突然やってくる。
 福間のことばは、どこか辞書頼みのようなところがあり、それはおもしろくないのだが、この「機」「縁」は辞書ではなく、福間の「暮らし」のなかで「肉体」にしみついたものだろう。知らない内におぼえこんだことばの動きだろう。そういう「強さ」を感じる。

雨はランダムに降る―詩集
福間明子
石風社

*


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なぜいま「森友学園」か。(安倍の沈黙作戦)

2017-11-23 11:37:37 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜいま「森友学園」か。(安倍の沈黙作戦)
             自民党憲法改正草案を読む/番外153(情報の読み方)

 2017年11月23日の読売新聞(西部版・14版)が森友学園問題を取り上げている。1面の見出し。

森友用地 ごみ過大推計/検査院指摘 「実際は3-7割」

 関連記事が社会面に載っている。その見出し。

森友問題 財務局「ゼロ円に近く」/音声データ 学園の要求通り

 籠池が執拗に値引き交渉し、それに沿う形で国が対応したという「実態」がやっと明確になってきた。
 でも、なぜ今なんだろう。検査院はなぜもっと早く調査結果を公表できなかったのか。私は疑り深い人間なので、こう考える。
 これは「加計学園」問題から目をそらさせるためのものである。加計学園獣医学部は新設が認められたが、認められればそれで「終わった」ということにはならないだろう。問題点を探り出し、「認可」が正しいものであるかどうか問いただすことはできる。そこから安倍の姿勢を追及することもできる。そういうことをさせないために、森友学園の問題が利用されているのだ。
 加計学園獣医学部の認可は、8月末、10月末、11月とつぎつぎに引き延ばされたが、これは衆院選を有利に進めるというだけではなく、森友学園の問題を発表する時期をも含めて「調整」されたのではないのか。

 読売新聞の社会面の記事では、次の部分に注目した。(すでに既報のものだが。)籠池と近畿財務局との交渉を記録した音声データ。

 「損害賠償(訴訟)を起こさなしゃあない」。2016年3月15日、籠池被告と妻(略)は、財務省国有財産審理室長に強い口調で迫った。室長は「当然、対応しなければならない」と約束した。

 加計学園の審査過程でも「訴訟」がとりざたされた。認可しないと加計学園から訴えかけられないという話が出て、問題点を認識しながらも審査員が「認可」に賛成したという記事を読んだ記憶がある。(11月11日の新聞が手元にないので引用できない。)
 森友学園の籠池も「損害賠償(訴訟)を起こさなしゃあない」と言っている。同じことを、加計が直接、審査員に対していったわけではないだろうが、「どこかから」そういう声が「聞こえてきた」。そして、おじけづいた。
 ふーむ。
 私は、籠池が、あるいは加計が、独自に「訴訟話」を思いついたとは考えない。同じ「脅し」を籠池と加計が思いつくとは思えない。だれかが、交渉に行き詰まれば「訴訟」を口にすればいいと指示しているのではないか。すでに工事は見切り発車ではじまっている。金を投資している。認可されないと損害が出る。どうしてくれる。訴えるぞ。

 安倍は、加計問題を隠すために(加計問題の論戦を沈黙させるために)、森友学園(籠池)の問題をしきりに報道させようとしているのだろう。
 しかし、おもしろいことに、籠池の問題を全面展開すると、そこに加計問題で「ちらり」と見えたものがクロースアップされるということが起きる。ふたつの問題は完全に重なり合う構造なのだ。安倍の「沈黙作戦」のほころびか。あるいは読売新聞の記者の反骨か。


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天皇の政治利用と「静かな環境」

2017-11-23 10:55:38 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇の政治利用と「静かな環境」
             自民党憲法改正草案を読む/番外152(情報の読み方)

 2017年11月23日の読売新聞(西部版・14版)の1面の見出し。

19年5月 新天皇即位へ/元号 来年中に公表

 きのうの「続報」。なぜ「5月1日」か。その「理由」がふたつ書いてある。

(1)19年4月の統一地方選が終了することに加え、大型連休中の国会も、事実上休会していると予想されることから、「政治的な対立が激しい中での退位は望ましくない」(政府関係者)とする方針に合致する。
(2)「19年3月末退位・4月1日改元」案もあわせて検討しているが、転勤・進学など国民の転出入がピークを迎える時期と重なり、元号変更に伴う官公庁の混乱を懸念する声が出ている。

 もっともらしく聞こえるが、こういう「理由」は「屁理屈」にすぎない。
 (1)は、天皇は「国権に関する権能を有しない」、つまり「政治的な行為はできない」のだから、政治の状況がどうであれ、「退位/即位」は無関係である。「政治的な対立が激しい」かどうかは関係がなくおこなわれることである。「政治的対立」を避けたいというのは、政治的対立を「起こしたくない」、野党を「沈黙させたい」ということの言い換えにすぎない。安倍は、なんとしても国民を沈黙させ、沈黙の中で「政治支配」をしたいということである。
 (2)の理由は、私ははじめて読んだ。これまでに、こういう「理由」が書かれたことがあったかどうか。私が読み落としただけなのか。しかし、とても滑稽である。
 前文には「新元号は、来年中に事前公表する方針だ」とある。年号が「4月1日」に変更すると事前にわかっていれば、あらゆるシステム処理は事前に終わっているはずである。(うまく作動するかどうかの点検を含めて。)そうであるなら、転勤・進学など国民の転出入がピークだったとしても、いつも通り(例年通り)転出入手続きができるはずである。だいたい、問題を起こさないための「事前公表」のはずである。
 こんなばかばかしい「理由」をでっちあげるのは、別の「理由」が隠されているからである。いつ「天皇を強制生前退位をさせるのが政治的に一番有効か」ということが考えられているだけである。

 読売新聞は、きのうにつづいて、

「静かな環境で」最優先

 と「静かな環境」ということばをつかって「退位へ 残された課題」という「連載」をはじめている。
 このときの「静かな環境」というのは「政治的に静かな環境」ということである。安倍の「代弁」である。「平成天皇ありがとう、新天皇誕生おめでとう」という感謝、祝福が「静かな」形で展開されるのがいいということではない。もし、国民のなかに「お祝いしたい」という気持ちが盛り上がり、「にぎやか」になったら、それも「静かではない」という理由で抑圧するのだろうか。きっと「新天皇誕生/新元号」をテーマ「商戦」が「にぎやか」に展開されるだろう。これも「静かな環境」に反するからしてはいけない、ということになるだろうか。「静かな環境」ということばは美しいが、美しさにはいかがわしいものが隠されていることがある。

 安倍が「静かな環境」というとき、それはいつでも国民に「政治批判をさせない」という意味である。天皇制と安倍政治の関係について「批判させない」ということだけを安倍は考えている。これは、やはり天皇制度の「政治利用」である。
 籾井NHKをつかった「天皇生前退位意向」のスクープから、それはずっーとつづいている。いや、それ以前から天皇の発言を利用する(いつ、天皇に発言させるかコントロールする)ということはつづいている。それがどんどんエスカレートしている。
 読売新聞の1面には「森友用地 ごみ過大推計」という見出しの記事ものっている。森友学園、加計学園の問題なども、「教育が政治的議論になると、勉学する児童(生徒)、学生に影響する。教育には静かな環境が不可欠である。政治的対立は避けるべきだ」という論理で、「真相究明」が封印される危険性がある。
 国会で加計学園が最初に話題になったとき、安倍は何と言ったか。「名前を出す以上、確証がなければ失礼。生徒も傷つく。(安倍が)全く関係なかったら責任取れるんですか?」と「生徒の心情」を引き合いに出し、追及した福島の質問を封じている。こういうことがこれからも頻繁に起きてくるだろう。そのとき必ず「静かな環境」ということばがつかわれるだろう。
 「静かな環境」というのは、安倍の「独裁」を批判せずに受け入れろという意味なのである。

 何度も書くが、「うるさい」のが民主主義の基本である。「小さな声」にどれだけ時間をかけて向き合うか、「小さな声」が指摘する問題点にどう答えていくかが民主主義の課題である。「小さい」というだけで切り捨てるとき、「独裁」がはじまる。すでにはじまっている。


#安倍を許さない #安倍独裁 #沈黙作戦 #憲法改正 #天皇生前退位
 
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「静かな環境」とは何か

2017-11-22 18:38:13 | 自民党憲法改正草案を読む
「静かな環境」とは何か
             自民党憲法改正草案を読む/番外151(情報の読み方)

 2017年11月22日の読売新聞(西部版・14版)の1面の見出し。

退位「19年4月末」有力/政府検討 来月1日 皇室会議

 2017年11月22日の読売新聞夕刊(西部版・4版)の1面の見出し。

退位日 来月8日決定/皇室会議受け閣議で

 天皇の「生前退位(強制退位)」の日にちに関するニュースである。来月1日に皇室会議が開かれ、それを受けて8日に「退位日」を決めるという。「退位日」というよりも、「強制退位日(強制生前退位日)」というのが正しいだろう。
 ブログで何度も書いたことだが、昨年の参院選後の「天皇生前退位意向」スクープは、籾井NHKをつかった「天皇強制退位」という安倍の仕組んだ「政策」である。天皇の「生前退位意向」自体は、それ以前から官邸に知らされていた。官邸は「選挙日程」をにらみながら、その「意向発表」を先のばしにしていた。参院選で大勝した。その勢いで、憲法改正を推し進めたい。しかし、護憲派の天皇が邪魔だ。排除したい。同時に「天皇は国政に対する権能を有しない」ということを天皇自身に言わせたい。そういうもくろみで、「生前退位意向」を公表し、つづいてメッセージで「天皇は国政に対する権能を有しない」と言わせたのである。
 天皇についての「配慮」など、どこにもない。改憲をどう推し進めるか、どうやって戦争をし、軍隊を指揮して「おれが一番えらいんだ」というかとしか考えていない。
 それは今回のニュースを読むと、いっそうよくわかる。
 「強制生前退位」の「日程」をめぐっては、最初「18年12月退位・19年元日改元」という「案」がスクープ(報道)された。元日改元だと、国民生活がスムーズに行く、というのがそのときの「説明」だった。途中だと「元号」と「西暦」の計算(?)をするのがわずらわしい、ということらしい。
 しかし、宮内庁から「元日は忙しい」という反論があり、これは見送れた形になっている。
 で、こんどは「19年3月31日退位・4月1日新天皇即位・改元」という案と、「19年4月30日退位・5月1日新天皇即位・改元」という案が浮上している。「区切りがいい」という点では「年度」の変わり目にあわせた「3月31日退位・4月1日改元」がつごうがよさそう。国民に「理解」されそうだが。
 なんと。

19年4月の統一選に伴う政治的対立を避ける狙いから、選挙後の「4月30日退位・5月1日改元」案が有力となった。(朝刊)

 というのである。
 「国民の理解」とか「国民の暮らし」はどうでもいいのである。だいたい、「政治的対立」をいうのなら、「退位/改元」をすませたあとで選挙戦に入った方がいいのではないだろうか。「おわったこと」は「選挙の争点」にはならない。
 政府の「狙い」はまったく違っている。「3月31日退位、4月1日即位」では、その仕事に手がとられ選挙に集中できない。選挙戦というのは「告示/公示」からはじまるのではなく、その前からはじまっている。「告示/公示」がおわれば、すでに「決着」がついている。(すぐに世論調査が発表され、自民〇議席、というような報道がされることからもわかる。)
 選挙で忙しい。天皇の退位、新天皇即位、改元に「労力」を奪われるのでは、「強制生前退位」の意味がない。
 これを、どうやって、「美しいことば」で言いなおすか。
 読売新聞朝刊の2面。

「静かな環境」4月末浮上/予算審議・統一選の後

 という見出しで、こう書いている。

予算審議が落ち着き、統一地方選が終わった後の「19年4月末退位・5月1日」案だ。大型連休期間中ということもあり、政治的対立から離れた「静かな環境」が実現できる。加えて、退位前日の4月29日は昭和天皇の誕生日に当たる「昭和の日」で、国民の硬質への関心の高まりも期待できるというわけだ。

 またまた、安倍の得意な「静かな環境」ということばが出てきた。
 民主主義の国なのだから、政治的な対立で議論が沸騰している(騒がしい環境)というのは、あって当然のことである。どんなときでも議論が沸騰して騒がしいというのが民主主義国家の理想だろう。「静かな」というのは対立意見のない「独裁国家」の姿である。
 だいたい大型連休中なら、国民の関心は「連休」であり、天皇制度なんかではない。平成も30年近くたって、いったい誰が昭和天皇をしのんだりするだろうか。50歳未満のひとで、昭和天皇について具体的な思い出(その姿を見た、という一方的な記憶を含めて)をもっている人が何人いるだろう。4月29日は、「ああ祝日のままでよかった、29日が祝日じゃないと連休が短くなってしまう」くらいの意味しかないだろう。ふつうの国民には。昭和天皇が死んだ日を思い出せばいい。だれも昭和天皇なんかしのんでいない。テレビが昭和天皇のことばっかりやっていてつまらない、というのでレンタルビデオ店のビデオが全部駆り出されてしまったではないか。国民の関心は、いつでも自分の「たのしみ」。
 「4月30日退位、5月1日即位・改元」ということになれば、一般国民が一番心配するのは、もしかして、「4月30日、5月1日の休みは取り消しということは起きないか」ということだろう。「学校で(組織で)感謝し、お祝いの催しをしよう(しなければならない)」ということにでもなったら、休みがなくなるぞ。そんなのは、いやだなあ。

 「皇室」のことを国民に知らせる(印象づける)ということだけなら、いっそう皇太子の誕生日(たしか2月じゃなかったかな?)にあわせて「改元」すればいい。新天皇の誕生日もきっと「祝日」になるだろうし、その方が皇室への関心も高まるだろう。
 私は「平成」の最初の日が何日だったか(昭和の最後の日が何日だったか)忘れてしまったが、「天皇誕生日」なら覚えている。「休日」だからね。親の誕生日はもちろん、命日も覚えていないが、毎年やってくる「休日」は忘れない。
 私は特別に「ずぼら」なわがまま人間なのかもしれないが、こういう私から見ると、安倍のやっていることは、とんでもなく「独裁的」。
 美しいことばでごまかして、すべてのことがらを、自分の地位保全のために利用している。
 「天皇の退位に反対」とか「天皇制を廃止しろ」という主張が、「強制生前退位の日」「新天皇即位の日(改元の日)」に自由に語られてこそ、民主主義の国家である。「静かな環境」で一連の行事が行われるとしたら、それは「独裁政治」がさらに進んだということである。
 「独裁」を推し進めるとき、安倍は必ず「静かな」ということばをつかい、マスコミはそれを追認している。「言論」はうるさいことが勝負なのだ。「静か」になってしまったら敗北なのだ。


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アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督「悪魔のような女」(★★★★)

2017-11-22 14:38:15 | 午前十時の映画祭
監督 アンリ=ジョルジュ・クルーゾー 出演 シモーヌ・シニョレ、ベラ・クルーゾー、ポール・ムーリス

 アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督は、「ふたり」の関係を描くのがうまいなあ。「恐怖の報酬」も、いろいろあるが、結局「ふたり」の関係だった。「ふたり」が同性愛みたいな親密感をもって動くというのも特徴かなあ。
 この映画では、シモーヌ・シニョレとベラ・クルーゾーは、男の「愛人」と「妻」なのに、妙に「親密」である。男に対する「憎しみ」で一致し、殺人計画を練る。シモーヌ・シニョレが常にベラ・クルーゾーをリードする形で動く。その「力関係」というか、「かけひき」が、先日見た「アンダー・ハー・マウス」よりも、なぜか「濃密」に感じられる。おいおい、そんなことろで感情(憎しみ)を共有するなよ、とでもいえばいいのか。フランス人の奇妙なところは、それが憎しみであっても「共有」してしまえば「親密」になるという関係が起きることかなあ。愛し合っていなくても、何かが「共有」できれば親密になる。「共有」に飢えている(?)のがフランス人かもしれないと思う。
 だから(?)、自分が「共有」していたものが、誰かに奪われるととても複雑になる。いわゆる「三角関係」のことなんだけれど、こんな変な三角関係が成り立つのはフランスだけだろうなあと思う。
 この映画(ストーリー)の「出発点」は簡単に言ってしまえば「三角関係」。そのなかで誰と誰が「共謀」するか。「共感」をもって動くかというのは、ふつうは、すごく単純なのだけれど、フランスには「三角関係」というものがない。ばとんなときでも「一対一」、つまり「ふたり」の関係。動くときは「ふたり」がペア。
 ね。
 ネタバレになるけれど、シモーヌ・シニョレとベラ・クルーゾーは「ふたり」で動いているとみせかけて、実はシモーヌ・シニョレとポール・ムーリスが「ふたり」で動いていたというのがこの映画。そして、はじき出された「ひとり(ベラ・クルーゾー)」が生粋のフランス人(パリッ子)ではなく、カラカスの修道院育ち(聞き間違えかなあ)というのがミソだね。彼女は「三角関係」をどう生きるかが、身についていない。「ふたり」をうまく生きられない。
 これを「逆」に読むと。
 ベラ・クルーゾーは、あくまで「単独行動」。他人に利用されるふりをしながら、他人を振り切っているとも言える。ラストシーンで、子どもがパチンコ(遊具)を、死んだはずのベラ・クルーゾーからもらったという。それが「ほんとう」なら、彼女こそが「大芝居」を打って、シモーヌ・シニョレとポール・ムーリスの「ふたり」を出し抜いたことになる。こういうことは、常に「ふたり(共感)」を基本にして動くフランス人(パリッ子)にはできない。「私立探偵」は、いわば雇った第三者。「ふたり」の関係は、ベラ・クルーゾーにとってはいつでも「雇い主-雇われ人」という「契約関係」で「共感/共有」とは別なものだということ。
 映画なんだから、ストーリーなんてどうとでも「説明」できるから、結論だとか、謎解きだとか、そういうことはどうでもいい。やっぱり、そのストーリーを突き破って動く役者の「顔」(肉体)を楽しむことだなあ。
 シモーヌ・シニョレの、一種「冷たい」目の力はすごいなあ。「アンダー・ハー・マウス」のエリカ・リンダーの比ではない。この目で誘われたら、男も女も、みんな操られてしまうなあと感じてしまう。ベラ・クルーゾーよりも、私はシモーニュ・シニョレが好き。だから、最後は「うーん、残念」という気持ちになる。
 これもまあ「共感」の一種ということになるのかなあ。
 (午前十時の映画祭、中洲大洋スクリーン3、2017年11月22日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/


アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督『悪魔のような女』Blu-ray
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吉田正代『る』

2017-11-21 09:42:43 | 詩集
吉田正代『る』(まどえふの会、2017年07月31日発行)

 吉田正代『る』は二部構成。前半は「つめ」が描かれてる。「る」は「つめ」を見て思いついた詩のようである。

くるん とはねるつめ
ひとさしゆびのつめ
たてにわれて
る るるん るん

 この「る」は「おと」かなあ。
 私には「形」に見えてしまう。「る」の最後の部分、丸まった部分が「は」「ね」「る」の文字に共通する。「め」もなんとなく似ている。「視覚の音楽」がある。
 二行目に出てくる「ゆ」も似ていないことはない。
 でも、三行目には「る」に似た形の文字がない。ここがちょっと残念。
 「るる」はどうか。

のびる
のびる
つめがのびる
るるる
のびる
のびる
つめがまるまる
まるまる
まる
まる

 何も書いてないといえば何も書いていない。でも「る」が書いてある。なんでもないのだけれど、なんとなく私の目は「る」の字を楽しんでいる。
 「はる」は楽しい。「る」以外の繰り返しも出てくるが、「る」の繰り返しを見ているので、「る」の変奏のようにも感じられる。

ゆなちゃんのママのママから
とどいたはる
たらのめたらのめ
よもぎ

つめたいみずにこなをくわえ
かるくまぜ
はるのてんぷらぷら
ゆずしおつけて
ゆなちゃんのママのママの
ききてのつめ
まっくろくろくろ
そまったはる

 「おばあちゃん」と言わずに「ママのママ」と書くところから繰り返しははじまっているのだが、二連目の「おゆずしお」からの展開がとてもおもしろい。
 「ゆ」ずしお、「ゆ」なちゃんが行をまたいで「横」に繰り返されたあと、

ききてのつめ

 この「きき」の「縦」の「き」の繰り返しが不思議。「利き手」という「意味」になっているのだけれど、一瞬「意味」を忘れる。
 「そまったはる」は「染まった春」なのだろうけれど、京都弁(?)では「染まっている」を「そまってはる」とか「そまったはる」という具合に言わないだろうか。
 私は京都の人間ではないので、なんとなくそんなことを感じ、ここに「口語」が生きていると感じ、それもこの詩を楽しく感じる理由になっている。
 春の山菜で天ぷらをつくる。そういう日常が「音楽」になっている。「視覚」と「聴覚」が不思議な形でまじりあう。「つめ」を前面に出さず、山菜のアクで黒く染まっていると隠しているところもおもしろいと思った。

詩を読む詩をつかむ
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山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』

2017-11-20 10:09:31 | 詩集
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』( Editions Hechima 、2017年11月11日発行)

 山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』には複数の種類の詩がある。「遠州シリーズ」というのだろうか、幼年期の記憶を書いたものがおもしろい。

暑くもなく寒くもなく、虫の音もとだえ、宇宙と遠州の家が一体化するとき、祖母や祖父が土のなかかからよみがえり、私が山下家の一族のひとりであることを教える。どうしてそういうことになったのか、もはや誰も、従姉の恩師の女教師も教えてくれないのであった。その恩師は、従姉が連れていってくれた彼女の家の縁側で、木のパレットの固まった絵の具をナイフでそぎ落しながら、街の高校へ行った従姉に、学校の科目のなかでは何がすき? と聞くと、従姉は、「かんぶん」と答えるのであったが、その「ん」の音が、私には「m」として耳に残り、はたしてそれがなんなのかわからないのであったが、教師は、「そう、あたらしい科目だからね」となかば満足げに答えるのであった。私たちは山につつまれ、じゅうぶんな幸福を感じていた。従姉同士に生まれたことがなにか宝のように感じていた。ちーこ。もうその女はどこを探してもいないのであった。私は夢の門の前で、夢の掟の厳しさにうなだれて、お願いですからちーこにあわせてくださいと、えんまさまなのかまりあさまなのかべんてんさまなのか、実際のところ誰かわからない人にお願いするのであった。

 「宇宙と遠州の家が一体化するとき」という断言がおもしろいが、この文のキーワードはなんだろうか。「宇宙」か。子どもにとっては、それがどこであろうと、身の回りが「世界」の全部である。「世界」と言わずに「宇宙」と言うとき、そこには「批評」が入り込む。体験している「場/時間」を開いていくことばの運動がある、ということだ。
 「批評」とは「いま/ここ」を、そのまま受け入れるのではなく(肯定するのではなく)、それを違ったものにしようとする「視点」のことである。
 そして、その運動(批評のベクトル)を、山下は「一体化」ということばで再定義している。「遠州」という土地、そこでの体験を、ことばの力で切り開き(宇宙化し)、再統一する。これが山下が書いていることである。
 この詩では、従姉(ちーこ)と女教師が出てくる。もちろん「私(山下)」も出てくる。教師が「学校の科目のなかでは何がすき?」と聞き、ちーこが「かんぶん」と答える。私にはその科目がわからない。小学生(?)だから知らないのだ。でも「音」はわかる。そして、そこに「m」を聞き取る。これは「漢文」を「かんぶん」とさえ聞き取っていないというか、「音」そのもの、意味以前のものとして受け取っているということなのだが、このあからさまな「批評」が非常に強い。
 私たちは知識で「世界」をととのえるが、つまり「かんぶん」と聞けば「漢文」という具合に「世界」を理解するが、山下はそういう「ととのえ」がおわる前の世界をそのまま提示し、読者に対して、そういう経験をきちんとしてきたかと問うのである。
 「漢文」はたしかに「かんぶん」というよりは「かむぶん」である。ば行の前では「ん」は「む」に近い。「肉体」を山下はきちんと再現している。
 そしてこの「肉体」の感覚は、教師の「満足げ」をも批判する。「満足」は「意味」のなかで成立している。動いている。「あたらしい科目」という「意味」を取っ払ってしまえば、そこには何もない。「すき」と人がいうとき動いているのは、ととのえられた「意味」ではない。
 ととのえられないごちゃごちゃ、未整理の世界がそのまま動いている。それが現実であり、それをことばにするのが詩であるという山下の「定義」で、ことばがつらぬかれている。「えんまさまなのかまりあさまなのかべんてんさまなのか」「わからない」ということばが象徴的である。「えんまさま」「まりあさま」「べんてんさま」なんて、存在しない。「まりあさま」が「存在しない」というと反論があるかもしれないが、「遠州」にいる子どもはそれを見たことがない。「えんまさま」「べんてんさま」も同じ。そんなものは「ことば」にすぎない。しかも実際に触れる世界とは「無縁」のものである。そういうものは「わからない」と明確に言う。ここにも強い「批評」が隠れている。「お願いする」という人間の「本能」のようなものは、子どもにもわかる。「わからないもの」と「わかるもの」がぶつかりあうとき、ひとはどこへ動くのか。そう問いかける「批評」である。

 ここから、少し脱線する。いや、本質に入る。
 山下の「批評」のキーワードは何か。私は「宇宙」「一体化」ということばを手がかりに感想を書いてきたが、これは、まあ、方便のようなものである。ことばを展開するための補助線にすぎない。
 「わかる」と「わからない」のぶつかりあい。そして、その衝突のなかから何を選び、どう動いていくか。この「基本的」な人間のいのちのあり方を、山下は独特の「文体」で書いている。そこにこそ、「思想(肉体)」がある。

従姉の恩師の女教師も教えてくれないのであった。
従姉は、「かんぶん」と答えるのであった
はたしてそれがなんなのかわからないのであった
なかば満足げに答えるのであった。

 これらの文は「現在形」+「過去形(であった)」という形で書かれている。
 「教えてくれなかった」「答えた」「わからなかった」「答えた」と言いなおしても「意味」はかわらない。過去に起きたできごとである。しかし、山下は「過去」をいったん「教えてくれない」「答える」「わからない」と「現在形」で書く。
 これは「時間」には「過去」がないという「哲学」にもとづく。「いま」しかない。どんなに遠い過去のことでも、それを思うとき(肉体がその方向に向き合うとき)、それは一秒前よりももっと「肉体的」には「近く」にある。「過去」が「いま」に噴出してくる。それを確認した上で、山下は「であった」と「過去」へつきはなす。「過去」という時間をととのえてみせる。しかし、これは「方便」。山下が向き合うのは「いま」という時間である。「過去」を「いま」と読み直すとき、当然、そこには「批評」が入り込む。「批評」とは「異質」なのもの噴出のことだからである。
 「時間」には「過去」がない。これを端的にしめすことばもある。

その女はどこを探してもいないのであった。

 これは「であった」と「過去形」をつかいながら「いま」をあらわしている。「どこを探してもいない」以外の意味にはならない。
 人間は「いま」しか生きられない。どんなに「過去」を書いてみても、それは「いま」。「であった」と過去形にするのは、単なる「方便」である。
 そして、「過去」がそうであるなら、「批評」が切り開く「未来」もまた「いま」である。
 この「時間」の運動を「空間」に広げていけば、「遠州」という小さな「場」は「宇宙」になる。「宇宙と遠州の家が一体化する」は「妄想」ではなく「事実」なのである。
 その一方、山下は、

誰かわからない人にお願いするのであった。

 と書く。「お願い」の「内容」は「お願いですからちーこにあわせてください」なのだから、これは「過去」ではなく「いま」の行為である。しかし、それを「お願いする」と「現在形」で書かず「であった」と「過去形」にしてしまう。これは一種の「客観化」であり、「客観化」することで「批評」を強くする。「お願いする」では「批評」ではなく「感傷/抒情」になってしまう。
 「抒情を拒否した批評」という視点から、山下の詩を読まないといけない。

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エイプリル・マレン監督「アンダー・ハー・マウス」(★)

2017-11-20 08:30:21 | 映画
エイプリル・マレン監督「アンダー・ハー・マウス」(★)

監督 エイプリル・マレン 出演 エリカ・リンダー、ナタリー・クリル

 予告編で見たエリカ・リンダーがかっこよくて、ついつい見に行ったのだが。
 うーん、最初から最後までレズビアンシーンの連続。湯船につかりながら、蛇口からお湯を流し続けるオナニーのように見たこともないシーン(これはレズビアンとは関係ないか)がつぎつぎに展開されるので、それはそれで「見応え」のようなものもあるのだけれど、セックスはどうがんばってみてもセックス。人に見せるものじゃないから、どうしても「覗き見」したという感じが残ってしまう。
 女性がクリトリスをなめられてエクスタシーを味わうというシーンでは、私はどうしてもハル・アシュビー監督「帰郷」(ジェーン・フォンダ、ジョン・ボイト主演)を思い出す。ジョン・ボイトはベトナム戦争で負傷して不能になっている。でもジェーン・フォンダとセックスがしたい。互いに求めあう。それでジョン・ボイトがジェーン・フォンダのクリトリスをなめる。このときのジェーン・フォンダの裸体の動きがとても美しい。映画のなかでジョン・ボイトが「なんて美しい」と声を洩らすが、その声にあわせて「なんて美しい」と言ってしまう。それくらいに美しい。官能の絶頂が女性を美しく見せる、その典型のようなシーン。そのシーンの演技でアカデミー賞を受賞したわけではないだろうが、あのシーンは絶品だなあ。「覗き見」したという感じではなく、「そうか、愛している、という気持ちが動くと官能は輝くのか」と、「発見」した感じになった。ほんとうに感動してしまった。
 あ、脱線してしまったか。
 脱線するのは、つまり、脱線させるような映画であるということ。
 アブデラティフ・ケシシュ監督「アデル、ブルーは熱い色」(アデル・エグザルコプロス、レア・セドゥー)で、すでに十分にレズビアンシーンを見てしまっているからなあ、というようなことも思った。
 で、「アデル、ブルーは熱い色」はレズビアンシーンだけではなく、主役の二人がちらりと相手を見て、その瞬間にひきつけられてしまうシーンの、二人の演技(顔、目つき)がとても印象的だった。特に、レア・セドゥーの目つきが強くて(前歯が隙ッ歯になっている)、こういう目で見られたら誰だってこころを動かされるなあと思う。セックスよりも、セックスがはじまるまでが映画なんだなあと思う。
 「アンダー・ハー・マウス」も、まあ、そうなんだけれど。エリカ・リンダーがナタリー・クリルを見つけて、ぐいぐい迫っていくときの目つきの強さは非常に色っぽい。(予告編でも、同じ。)さすがモデルだけあって、服の着こなしも、線が鋭い。輪郭がくっきり見える。とてもかっこいい。服が歩いているし、いっしょに肉体が歩いている。
 だけれど、互いが「過去」を打ち明けあったり、セックスしているところを婚約者に見られて、関係が揺らぐというのは、なんだか「ストーリー(意味)」になってしまっていて、つまらない。「ストーリー」になってしまうと、セックスシーンが単なる「見せ物」になる。
 予告編だけ見て、エリカ・リンダーはなんとかっこいい女だろうと思っているのがいいかもしれない。
                      (2017年11月19日、KBCシネマ1)




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田中さとみ『ひとりごとの翁』

2017-11-19 17:17:52 | 詩集
田中さとみ『ひとりごとの翁』(思潮社、2017年09月15日発行)

 田中さとみ『ひとりごとの翁』は読みにくい詩集である。文字が判型の本に比べると小さい。私は目が悪いので、これはとても読みづらい。それが「遠い」という感覚を呼び覚ます。ことばが「遠い」と。
 実際に、「遠い」のだと思う。
 で、その「遠い/遠さ」というのは、どういうことかなあ、というと。
 「鼠浄土」という作品。

歯を梳った
にんげんになるお祝いに
動物は本来は夜行性でしょ
かたいものを食べないとなにも食べられなくなった
鼠浄土
(ゆうきぶつをむきぶつに戻すうんどうを推し進める)
太陰暦に従い
忌み嫌われて、それでも、なお、靴を食べ、
ださんてきな、魚眼を持つ、胸のいたみの、
根の国へ
沈もう

 「鼠」のことを書いているのか。そうでもない。「にんげんになる」ということばが出てくるから「鼠がにんげんになる」ということなのかもしれないが、どうも「逆」に感じられる。「人間がねずみになる」と。「人間が死んで、浄土で鼠になる」という具合に感じられる。浄土で鼠になったにんげんが、にんげんだったころを思い出しながら鼠になって生きている。
 もう鼠なんだから、人間のように「やわらかい」ものは食べられない。「かたい」ものを食べないといけない。それ以外に食べるものがない。たとえば「靴」を食べる。
 (ゆうきぶつをむきぶつに戻すうんどうを推し進める)ということばがあるが、これもきっと逆なのだろう。「むきぶつ」を食べながら、それを体内で「ゆうきぶつ」にかえる。靴は「無機物」ではないが、そういうにんげんの食べない「かたい」もの食べながら、栄養にして(ゆうきぶつにして)いかないといのちが続かない。
 というようなことを田中は書いているのではないかもしれないが、私は、そう読んでしまう。「誤読」してしまう。よくわからないから「誤読」する。
 田中のことばを読んでいると、そこに書かれている「論理」とは別の「論理」が私のなかで動き出し、入り乱れる。
 このときの「よくわからない」が「遠い」である。
 でも、その「よくわからない」という私の書き方は微妙で、完全にわからないのではなく、何かを「わかった」ような気になるのが「よくわからない」であり、そのために「誤読」がはじまる。そして「誤読」がはじまると、「遠い」はずのものが私の「肉体」の内部で動き始め、それが「近い」にもなる。なんといっても「体内」だからね。この変な感じを「入り乱れる」というのだけれど。
 これは、どういうことかなあ。そんなことを思いながら読んでいくと、「人魚の肉」にこんな部分がある。

思い返すのは、道路にいたカエル。
そういえばと思った。
夏の雨の日にカエルがたくさん道にうずくまっていて、
思わず踏んでしまいそうだった。車がわたしの後ろから
走ってくる。カエルの鳴き声が響く。どたどたとタイヤ
がまわればカエルは踏みつぶされていく。逃げればいい
のにと思った。雨の日には道がペチャンコのカエルでい
っぱいだった。

 「思い返すのは」ということば。私は、ここに思わず傍線を引いた。あ、田中は「思い返す」ことで詩を書いている。その「思い返す」には、必ずしも自分の体験のことだけではない。引用部分では、雨の日に道にカエルがたくさんいるのを見たということが思い返されている。そのカエルは車にひかれたカエルである。実際にひかれる瞬間を見たかもしれない。しかし、引かれる瞬間を見なかったカエルも含まれる。ここが、ポイント。「逃げればいいのにと思った」がさらに重要。何かを見て、そこから何が起きたのかを「思う」ことができる。死んだカエルを見て、車にひかれたのだと思う。それ以上に「逃げればいいのに」と思う。このとき「思う」のは「現象」だけではなく、「気持ち」でもある。カエルに「気持ち」があれば、ということだけれど。そして「気持ち」を思うその瞬間、カエルはカエルではなく「にんげん」である。ただ、そのときの「にんげん」というのは微妙で、「にんげん」として思っているのか、逃げるというにんげんの行動を「カエル」として思っているのか、よくわからない。「にんげん」と「カエル」が交錯し、入れ替わる。
 「思い返す」というのは、「過去」を「思い出す」とは違うのかもしれない。「過去」を「いま」に呼び戻し、そこに起きていることを「ひっくり返す」のかもしれない。「ひっくり返す」というのは「起きたこと」を「起きなかったこと」にするというのではなく、「過去」の「できごと」のなかの「主役」を入れ替えるということ。
 「わたし」は思い返す。そのとき「主役」は「わたし」。思い返すのは道いっぱいのカエル。車にひかれてつぶれたカエル。これは「脇役」。思い返した瞬間、「わたし」は「カエル」になっている。そして、「逃げればいいのに」と思い返している。もう死んでいるのだけれど、死んでしまって「あのとき逃げればよかった」と思い返しているということ。気持ちはいつの間にか「カエル」になっている。
 「思い返す」は「繰り返す」でもある。「繰り返す」ことで、「わたし」が「わたし」ではなくなる。「繰り返されている」対象になる。「思い」が対象にのりうつって、それから「対象」の「肉体」になる。そうなることで、入れ替わる。
 たぶん、この「入れ替わり」のために、「遠い」ということがさらに印象的になるのだと思う。田中は田中のことを書いているのだろうけれど、書いている内に田中ではなく書かれている対象になっている。それは田中でありながら、田中ではない。田中ではないけれど、田中である。だから「遠い」けれど、妙に「近い」という感じでもある。

これはだれの思い出か。

 という一行が、詩集のタイトルになっている「ひとりごとの翁」のなかにある。
 まさに、そういう感じ。
 ここに書かれているのは、田中の「思い出」なのか。それとも私が覚えていることが田中のことばをとおして「思い返されている」のか。
 カエルを見て、カエルがどうしてそうなったのか、どうして逃げなっかったのか、というようなことを思ったことがあるでしょ? 鼠は何も食べるものがないから靴までかじったのか、と思ったことがあるでしょ? 道でぺしゃんこになったカエルを見たとき、かじられた靴を見たとき。
 ほら、そうすると、「これはだれの思い出なのか」といいたくなる。
 「遠い」はずのカエルや鼠が妙に「近く」なったりもする。
 これって、「遠い」ままの方が、読んでいて安心するのだけれど、詩集の文字が小さいので、どうしても「肉体」が活字(ことば)の方に前のめりになる。つんのめりながら「遠い」はずの世界へ近づいていく。
 そういう不思議な感覚も誘い出す。
 ある意味で、いやあな詩集だね。私はカエルや鼠にはなりたくない。カエルや鼠の気持ちなんか知りたくないから、というようなことも思ったりする。自分のなかで「遠さ」をつくりだしたい気持ちになる。

ひとりごとの翁
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