清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』(リトルモア、2017年12月01日発行)
清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』は「小倉百人一首」を翻案したもの。清川あさみの刺繍(?)作品と最果タヒの詩が組み合わさっている。清川の作品は印刷ではよくわからない。最果の詩についての感想だけを書く。
百人一首には好きな歌がいくつかある。正月に百人一首をやるとき、「この札だけは」と思う歌がある。それを最果がどう翻案しているか、それがとても気になった。でも、こういう「思い入れ」の強い歌というのは、「波長」があいにくい。「歌」はひとつでも、そこから「聞こえる」ものが違うということだろう。
「読む」ということは、たぶん、自分の声を聞くということなのだろう。
たとえば、ある歌を「隠しても隠しても、ひとに知られてしまう恋がある(恋とは隠しても隠しても、ひとに知られてしまうものである)」と要約する。これは私が「聞いた」ことではなく、その歌人が「言った」ことにすぎない。「聞く」とは、そのひとのことばに触れて、そこからはじまる自分自身の「声」をことばにするということなのだ。
最果は「百人一首」から何を「聞き」、それをどう最果の「声」にしたか。そんなことを考えながら読んだ。
最初に、はっ、と思ったのが「あまつかぜ」である。
舞うひとびと、あなたの皮膚が世界の輪郭、
きっとこの時間が終われば、あなたは空へと帰っていくのだ、
「皮膚」と「輪郭」というのは、わりとわかりやすい結びつきである。しかし、それは「私」を中心にしたときのことである。「私の皮膚が世界の輪郭」というのことである。簡単に言いなおすと「自己中心」の視点。でも、最果は「あなたの皮膚」と「世界の輪郭」と書く。
うーむ。
このとき最果は「あなた」ではなく「皮膚」と同化している。一体になっている。「皮膚」のなかに「あなた/私」の区別がなくなり、そこに「皮膚」だけがあり、そこから「世界」を見ている。
「人格」というのか「精神」というのか、よくわからないが、そういうものは存在しない。あるのは「皮膚(肉体)」だけであり、その確実に存在する「肉体」を手がかりに世界(宇宙)をつかもうとする最果がいる。
私が最果のことばから聞き取るのは、そういうものだ。「皮膚(肉体)が私だ」という「声」だ。最果は「皮膚」と「言う」のだが、私はそれを「肉体」と「聞く」。それは私の「誤聴」であり「誤読」なのだが。
でも、私はこういう「誤聴/誤読」をとおして最果を好きになる。
舞うとあなたの指先が、またたく光につながり、溶けるよ。
「溶ける」は「輪郭」につながる。「輪郭」が「溶ける」。(「溶ける」の前に「つながる」がある。このことも書きたいのだが……。)そうすると、どうなるか。
その無限そのものの体で、空の果てへと行くのだろう。
「溶ける」「輪郭がなくなる」。そうすると「無限」になる。それは「空の果てへ行く」というよりも、「あなた」自身が「空」をのみこんでしまう、ということだろう。
ああ、いいなあ、と思う。
「あまつかぜ」という歌は、私はこれまで、いいとも悪いとも、何とも思わなかったが、そうか、そうなのかと思い、突然好きになる。でも「あまつかぜ」が好きなのではなく、最果のことばの運動が好きなんだけれど、何かが交錯し、ごっちゃになる。
でも、この私の感想は、かなり不親切。
最果のことばをそのまま「順序」立てて引用しているのではなく、ばらばらに引用している。「文学」は論理ではないし、また最果の詩は「百人一首」という原典をもっているのだから「論理」はそれにまかせて、好きなところだけ書いてみようと思うのである。
「きみがため」では
春は、壁にも肌にも大地にも透き通るように染み込んで、
私とあなたの魂を、すこしだけ同じリズムで揺らす。
ここが好き。「肌」はさっき読んだ「皮膚」だろうね。「大地」は「地球の皮膚/輪郭」だね。でも「壁」はどうだろう。びっくりする。「家の皮膚/輪郭」といえないことはないが、それは「理屈」であって、最初に読んだときは、「えっ、春が壁に染み込む?」と驚く。違和感がある。その違和感を「肌」「大地」が消していく。
「透き通る」は「輪郭がなくなる(溶ける)」に通じるね。透き通って、見分けがつかなくなる。見分けがつかないは「解け合っている」であり「輪郭がない」という具合。これを最果は「同じリズム」と「音楽」としてつかみなおしている。「同じ」は「溶ける」だね。
「音楽」にも「輪郭」はあるだろうが、それは「指」で触れるものではない。つまり「皮膚」で確かめるものではない。(私にとって、だけれど。)でも、それが「同じ」になって、「溶け合って」というのはいいなあ、と思う。私は音痴なんだけれど。
(「魂」というものについては、私は見たことも触ったこともないので、そんなものがあるとは考えたことがない。だから「魂」につていは共感しない。)
「つきみれば」では、
ここから他は見えないけれど、夜に沈んで、すべてを塞がれた町があるだろう。
「見えない」けれど「ある」と「見る」。この矛盾が好きだ。「夜に沈んで」と「塞がれた」は同じこと。言い直し。そして、これはこれまで見てきた「溶ける」とは逆。「溶ける」と拡がって「無限」になる。「宇宙」になる。その一方で「溶けない」ものがある。「皮膚」につつまれたまま、開放されない(解放されない)。「塞がっている」。
最果は、そういうものも見ている。「開放」と「閉鎖」の両方に共感する「肉体」をもっている。
「なにしおわば」では、
ぼくときみだけの世界を窓の隣に、つくることはできないか。
「窓の隣に」の「隣」という限定が切実だ。「窓」は「皮膚」でもあるだろう。「窓」にはいろいろあるだろうが、私は「ガラス窓」を思う。「ガラス」は「透明」である。「輪郭」と「透明」がせめぎ合っている。
その切迫感のなかで、こんなことが起きる。
真紅の実がぼくの「会いたい」という声を吸って、吸って、
いつか破裂するだろう。
その瞬間、すべてが反転した宇宙が生まれる、としたら
「声を吸って」は「声を聞いて」である。「聞く」とは「聞いたひと」のなかで変化が起きるということ。変化が起きてこそ「聞いた」と言うことができる。どういう変化かというと、この詩では。
「溶ける(溶け合う)」、そして「一つになる(同じになる)」ではなく、「破裂する」。でも、破裂したらどうなるのだろう。「輪郭」が「溶ける」と「輪郭」「破裂する」では、どう違うだろう。
「開く」と「閉じる(塞ぐ)」の関係のように、「溶ける」と「破裂する」が拮抗する。この「拮抗」は「反転」という形で表現されている。「反転」したものは「反」という文字があるくらいだから「反対」のものである。でも「破裂」しているから、そこには「形」がない。「反転」といいながら「反」はないのだ。これもひとつの「融合」である。
こういう感覚は「かぜをいたみ」では、こうなる。
あなた、私はあなたに砕かれる波。
海、だったかもしれない、昔は、波だったかもしれない、
「私」は「波」であり「海」である。このときの「波」「海」は「比喩」にすぎないが、この「比喩」を引き出すのが「あなた」。この作品ではあなたは「岩」という「比喩」だが……。
「比喩」でしか語れないものがある。「比喩」として語られたものを「比喩」のまま「聞いた」と言っては、「聞いた」ことにならない。
ここでは、最果は何を言っているのか。
雫、また、繋がって、波となるのね、海になるのね。
「波となる」「海になる」。最果は「なる」という動詞をつかっている。「私」が「私」という「輪郭」を破壊し、「波」「海」という別なものに「なる」。
この「なる」は「開放する/解放する」というときもあれば「閉じる/塞ぐ」というときもある。ベクトルはひとつではない。矛盾したものが同時にある。けれど、矛盾していても、それは「なる」という動きとして「同じ」である。
「境界線」はさまざまだ。「皮膚/肌」を切り開き、私を世界に広げていく、私が世界をのみこんでゆく。溶かしたり、破裂させたりしながら、世界そのものに「なる」という運動がある。
この「なる」の前に「繋がる」という動詞がある。そのことにも注目したい。「あまつかぜ」にも「つながる」が出てきた。「つながる/繋がる」のは、たとえば手と手。私の手、あなたの手はそれぞれ「輪郭」をもっている。しかし「つながる」とき、「輪郭」は存在しながら、同時に「消える」。「輪郭」という意識が消え、別のものが生まれる。「ひとつ」に「なる」。「なる」という変化、運動の起点に、接点となる存在(たとえば肌)と接続の瞬間(つながるという運動)がある。
(50首まで読んでの感想。つづきは後日に。)
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