詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三井葉子『人文』

2010-06-30 00:00:00 | 詩集
三井葉子『人文』(編集工房ノア、2010年06月01日発行)

 三井葉子『人文』は「人文」というタイトルの詩から始まっている。三井の詩の特徴がとてもくっきりとでていると思う。

ヒトだけでいいのに
文(ブン)とつなぐと生活がはじまってしまって
朝星夜星(あさぼしよぼし) 郵便配達夫は人から人へ文をとどけねばならぬ

むかし
アルプスのモンブラン山の上を
プロペラ機でひらひらととんだとき
山頂から山の裾まで続く道が途切れながら山をめぐっているの
 が みえた

道かァ
と思った

あの道の
うつくしさ
道を歩くあしのうつくしさ

文だねえ


 「文」と「ことば」はどう違うだろう。「文」というのは、そこに明確な意識があるのだろうなあ。「ことば」はひとりでも発するけれど、「文」は違うね。「郵便配達」ということばが書かれているが、何かをつたえようとする「ことば」、たとえば「手紙」--それが「文」だね。
 「文」がひととひとをつなぐ。そうすると、そこに「生活」がみえてくる。あるいは、「生活」があるとき、そこには人と人をつなぐ意識があり、「文」があるということになるかもしれない。その「文」は必ずしも書かれているとはかぎらない。「ことば」で書かれているとはかぎらない。
 たとえば、山の道。山の道は「文」ではないし、そこには何も書かれてはいない。けれど、その道を行き来する「生活(暮らし)」がある。暮らしのなかで人が何度も何度も往復する--そうすることで道が生まれる。それは、人が何度も何度もくりかえし、だれかと交わすことばによって、そこに「あいさつ」がうまれ、礼儀がうまれ、ゆったりとした交流がうまれるのに似ている。
 三井は、そういうものを「肉体」として、しっかりつかんでいる。

あの道の
うつくしさ
道を歩くあしのうつくしさ

文だねえ


 これは、美しいなあ。山を何度も何度も歩く。往復する。そうすることで、道をつくる。その「あし」のたしかさ。これを三井は「うつくしさ」と呼ぶ。たしかなものだけが美しいのだ。
 「ことば」はまだ「たしか」ではないかもしれない。けれど、何度も吟味され、それが「文」になったとき、そこには「たしかさ」がある。そして「うつくしさ」がある。
 三井の見ているもの、三井のことばがふれているものは、そういうものだ。

 「たしかさ」、「たしかさのうつくしさ」はなかなかことばになりにくい。「文」にもなりにくい。そして、「生活(私は、暮らし、ということばが好きだが)」の中には、そういうことばにならない「たしかなうつくしさ」がある。
 「花ざかり」という作品。

かくべつのことはなにもない

かくべつのことはなんにもない
バケツには水を八分目
雑巾は
小さめを
絞って
拭く

拭きなさい
テーブルを とおかあさんに言われたとおり

そうよ
拭きなさい

どこにもなぁんにもない

でも
こんな花ざかり。

 「かくべつのことはないもない」。その「こと」を「ことば」に換えてみたい。換えて、読みたい。ここには、格別の「ことば」は何もない。だから、書かれていることも格別のことではない。
 けれど、ここには「ことば」にならなかった「たしかさ」と「たしかなうつくしさ」がある。「ば」というひとつの音を欠いたために「ことば」にはならなかったけれど、「ことば」を超えて、「文」にならない「文」がある。「肉体」の、「暮らし」の「文」の「たしかなうつくしさ」がある。
 バケツに水を張り(こぼれないように、八分目)、雑巾を絞り、拭く。床を? テーブルを? あ、きれいな水、きれいに磨かれた床--そういう暮らしを積み重ねてきたなら、きっとその雑巾で顔だって拭けるはずである。そういう「たしかなうつくしさ」がある。あるのは、そういう「目にみえない」もの。「肉体」のなかにしっかりとしまいこまれている「たしかなうつくしさ」である。ほかには、

どこにもなぁんにもない

 そして、そんなふうに、どこにもなぁんにもない人だけが、花ざかりの、その「たしかなうつくしさ」を「肉体」でつかみとることができる。その花ざかりを表現するための「かくべつのことば」など必要がない。「ことば」は「肉体」のなかにある。だから、それをしまいこんだまま、「かくべつなことはなにもない」と言うのだ。

 こういう詩を読むと、いいなあ、書いている人に会ってみたいなあ、とつくづく思う。きっと三井は「かくべつ」な人ではないと思う。雑巾できれいに磨かれた床、テーブルのように、しっかりとした存在感はあるけれど、それ以外に「かくべつ」なものは何もないと思う。そして、たぶん、現代では、そういう「かくべつ」なものがないということの方が、きっととびぬけて「たしかなうつくしさ」なのだと思う。




春の庭―三井葉子詩集 (1983年) (現代女流自選詩集叢書〈7〉)
三井 葉子
沖積舎

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新井高子「ピラニア」、全美恵「動かない天秤」

2010-06-29 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
新井高子「ピラニア」、全美恵「動かない天秤」(「さよん・Ⅲ」7、2010年06月10日発行)

 新井高子「ピラニア」は奇妙な書き出しである。

詩は行ですか、面ですか
何次元だと思いますか、あなたは
どう答えます?
こう尋ねられたら、

 なんのことか、わからないね。わからないけれど、つづけて読むと、わかってくることもある。

画面も紙も免田から、二次元でしょ
 イヤァ線だろう、文字そのものは
字と紙と詩ではちがうのォ?
次元が、
 オイオイ、投げかけないでおくれよ、難問を
 思い付きだけで、
じゃ、具体例で行こかァ
 フム。たとえば「いちめんのなのはな」は面の詩だが、
 荒地の詩は行。どうだ?
 ェエ?、思想がポンッと立つなら、三次元でしょう

 まあ、どうでもいいことなんですけど。(笑い)二次元とか、三次元とか、面とか、行とか。
 おもしろいのは、こういうどうでもいいことについてさえもことばは動いていくということ。そして、動いてしまうと、ことばは「どうでもいい」を突き破って、何かしら、そこにいままでなかったものを明確にしてしまうということ。
 「いちめんのなのはな」なんて、まあ、最初に書いた山村暮鳥の「勝ち」だね。何が「勝ち」かわからないけれど。あ、やられた、こんな書き方があったのか、ということくらいのことかもしれないけれど。
 そして、そんなふうに、あっけらかんとことばを見つめなおすと、荒地の詩は行がばらばらなだけともいえるし、気取って「思想」が立っているから「三次元」である、と定義することもできる。(しかし、なんという定義だろうねえ。)
 このあとも、新井のことばは、いろんなことを書いていく。

 読まれないうち
 アマゾン. コム河へ抛られて

 ふやける詩
 ふやける詩集
 安堵してはいけない
 紙が水に溶けることに

 と、詩集の行く末まで心配するようになる。ほんとうに心配しているかどうか、わからないけれど。
 こういう軽い(?)、いや、思った以上に重いのかな? ことばが、ただどんなふうに動けるか、それだけを試している詩は、私は好きだなあ。
 荒地のポンッと立つ「思想」よりも、どこへ動いていくかわからないことばの方に、思想があると思う。思想は、きちんと整理されたもの、ではなく、未整理の、ただ動くことをとおして、自分の動きをととのえる運動の中からうまれてくる、と私は思う。



 全美恵「動かない天秤」は、「脳死」と「臓器移植」について思いめぐらしている。そこでは、ことばは、論理的に、倫理的に、きちんと(?)動かないといけない。そういう「重い」テーマを語るならば--と、いいたいのだけれど、そんな具合には、なかなかならないね。論理的に、倫理的に語りつづけるには(たぶん、他人を不愉快にさせることなく、冷静に語りつづけるには)、ある訓練が必要になる。そして、そういう訓練のなかでは、ことばは、一種の自在さ・自由を失ってしまう。全のことばは、そういう「不自由さ」の手前で動いている。新井の詩についてつかったときのことばを流用すれば、どこへ動いていくかわからないまま(決めないまま)、ことばが動いている。それが、おもしろい。

あいはんするおもい
おもさをおもい
いのちはおもい
あなたへのおもい
おおくのおもい かかえて

多額の借金を かかえてでも
手に入れたい臓器
募金をつのってでも
救いたい命
あなたの命は わたしが手に入れる
あきらめない あなたの臓器を

あなたが話せなくても
わたしは離さない あなたを

 「おもい」は「思い」であり、「重い」である。どんな「思い」も「重い」。重くない思いなど存在しない。特に、脳死移植をめぐっては、簡単には答などだせない。答など、ない。「おもい」を漢字で「思い」「重い」に書き分けないことで、全は、ことばを「決定」することを拒否している。方向を与えない。どこかへ向かうとしたら、それは、そのことばを発するひとの「肉体」のなかへと動いていくだけである。
 そこでは「思想」はポンッと立たない。「肉体」が取り残されたように突っ立っていて、「思想」はその内部にぐにゃりと蓄積している、堆積している、そのずるりとした積み重ねとして肉体がある。

あなたが話せなくても
わたしは離さない あなたを

 この2行の「はなす」は逆に「話す」「離す」と漢字をつかうことによって、「思想」を混乱させている。
 ポンッと立つのも「思想」なら、混乱して、ぐにゃりとなだれるのも思想である。そして、なだれて、形をなくしてしまうものの方が、手ごわい。

しなせたくないおもい
ころしたくないおもい
てんびんにかけても
ぴくりともしないの
子を思う二人の母の思いは
微動だにしなかった

 ポンッと立たない思想は、そうなのだ、立ち上がることそのものを拒絶しているのだ。立ち上がることを拒絶する思い、思いの重さに内部から崩れて、形をなくし、ただ「愛」になってしまうものがある。
 全は、そういうものを、たたいても壊れないことばにしている。



タマシイ・ダンス
新井 高子
未知谷

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大橋政人「幸せの実物」、金井雄二「椅子」

2010-06-28 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「幸せの実物」、金井雄二「椅子」(「独合点」101 、2010年05月15日発行)

 大橋政人「幸せの実物」の1連目は、何が書いてあるのか、よくわからない。つまずく。日本語になりきれていない。

自分ではない
自分の外に
幸せが一個
あるだけで幸せだ

 「自分ではない/自分の外に」って、何? 「そとに」? 「ほかに」? 読み方もわからない。
 たぶん、「自分ではない/自分」というものが、「自分」のなかにあって、その「自分ではない/自分」というものと向き合い、それが「ほんとうの自分」である、ということをつきつめていくというのが「文学」である--というような思いに私が汚染されているのかもしれない。
 つまずいたまま、短い詩なので、そのまま読んでゆく。

ここんちの猫は
ほんとに幸せもんだよ
お前も、いい家にもらわれてきたな

今では一人だけの身寄りの姉が
遊びに来るたびにそう言う
来るたびに言うので
わが家の猫は
どんどん幸せになっていく

家の中は静かだし
部屋から部屋へ
全速力で走りまわり
そのついでに
突然、私の背中に跳びついてくる

言葉ではない
幸せの
実物である

小さい幸せはいま
縁側に正座している
静かに外の光を浴びている
実物を、これでもか
これでもかと見せつけながら

 あ、自分の幸せではなく、自分以外のだれかの幸せが身近にあれば、自分も幸せになれる。幸せを感じることができる。そういうことだったんだね。「自分の外の/自分」「自分の内の/自分」「自分ではない/ほんとうの自分」というような、面倒くさいことではなくて、単純に、自分じゃなくたっていい、だれかが幸せなら自分も幸せを感じることができる--そういうこと。
 そういう単純なことに、すぐに私の頭が動いていかないのは、やっぱり「現代文学(?)」に、あるいは「現代詩(?)」に私が汚染されてしまっているんだろうなあ。
 その汚れを、大橋のことばは、すばやく、軽く、何でもないことのように洗い流してくれる。それがいい。
 猫が一匹。それを見て、「一人だけの身寄りの姉」が「幸せもんだよ」と言う。大橋自身は、最初は、猫のことをそんなふうに考えても、感じてもいなかったかもしれない。けれど、姉のことばを聞くたびに、そうかもしれないなあ、と思う。「姉」がどんな暮らしをしているか、ここには書いてないけれど、猫よりも孤独を生きているかもしれない。「一人だけの身寄り」とは大橋から見てそうなのかもしれないけれど、そういうことばが自然にでてくるのは、実は「姉」こそが「ひとり暮らし」なのではないか、と想像させる。「姉」はひとりでくらしているけれど、猫はこうして家族(?)と暮らしている。愛してくれる人といっしょに暮らしている。「幸せもんだよ」。
 そうがねえ、と大橋は実感している。猫は家中を駆け回り、大橋に跳びついてくる。だれかに跳びつける。体当たりできる。ことばではなく、ただ体をぶっつけ、私はここにいると言える。それができる「安心」。それは、たしかに幸せなことだ。「姉」もそういう一瞬を求めて大橋の家へたびたび来るのかもしれない。
 そして、幸せは、そういう「安心」をだれかに提供できるというのも、これはまた、たいへんな幸せである。自分が幸せでないと、だれかを受け止めることができない。--ということまで、大橋は書いてはいないのだけれど、私はついつい感じてしまう。
 大橋は、まあ、私が書いたような、めんどうくさいことを書いてしまうと、ことばがまた濁ってしまうのを知っている。「現代文学」っぽくなってしまうのを知っている。だから、そんなふうには書かず、

言葉ではない
幸せの
実物である

 なるほどなあ。必要なのは、「実物」である。そして、「実物」はいつでも、ことばを超えている。そこにはことばなんか、届かない。
 私はふいに、1連目を書き換えたくなる。

ことばではない
ことばの外に
幸せが一個
あるだけで幸せだ

 大橋のことばは、まさに「ことばの外に」幸せを持っている。「現代詩のことばの外に」、ことばがあって、そのことばと幸せがいっしょに日向ぼっこしている。その実物としての「ことば」を私たちに、「これでもか/これでもかと見せつけている」。
 そんな幸せを見せつけられると、悔しいけれど、その悔しさが、なんとなくうれしいね。
なんとなく、ではなく、とっても、うれしいね。



 金井雄二「椅子」は、大橋の作品と不思議な感じで呼応している。金井は「不幸な幸せ」「寂しい幸せ」「哀しい幸せ」のようなものを書いている。それは、だれもが味わうもの。そして、それを味わえるということが、実は生きる幸せ--といでも言うようなことを書いている。

コノ道ヲマッスグニ行ッテクダサイ

少し歩くと突きあたりになります
そこを右に曲がってください
両側は鬱蒼とした灌木が繁っているでしょう
どうか立ち止まらないでください
多くの人たちがこの道を歩いたのです
電車の線路のような道です
踏みしめると石と石が泣きだします
しばらく歩いてください
左側に萱で作った門があるはずです
錆びたトタン屋根の
みすぼらしい小屋
薄暗い電灯が見えるでしょう
そこでみんなが待っています
君の席ももちろんあります

マアルイ小サナ椅子デスケレドモ

 「哀しみ」「寂しさ」--それはひとりで味わうものだけれど、それはだれもが味わうことでひとりのものではなくなる。そういうことをひとはいつしか知る。
 「多くの人たちがこの道を歩いたのです/電車の線路のような道です/踏みしめると石と石が泣きだします」。その行の中にひっそりと書かれている「多くのひと」、それは「みんなが待っています」の「みんな」である。そこには、ひとりひとりに「名前」はない。「名前」はもちろん人間ならだれでももっているけれど、それを剥がしてしまって、無名になっている。それは線路の下の「石」のよう。「石」と「石」が触れ合って、泣く。「石」という「実物」になって、泣く。
 金井は、大橋とは違った「実物」を書いているのである。



十秒間の友だち―大橋政人詩集 (詩を読もう!)
大橋 政人
大日本図書

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にぎる。
金井 雄二
思潮社

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小林稔「髀肉之嘆(二)」、河江伊久「日向坂」

2010-06-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
小林稔「髀肉之嘆(二)」、河江伊久「日向坂」(「ヒーメロス」14、2010年06月10日発行)

 小林稔「髀肉之嘆(二)」は私のように眼の悪い人間にはとても読みづらいことばである。私はいま体調が悪くて、めまい、吐き気がしていて、そういう神経には、なんともいえず、肉体の奥をかき混ぜるような「いらいら」感じを引き起こすとしかいいようのない文体である。

刃物の傷を記憶する円卓を、花々が織り込まれた絨毯の上にしつらえた、両腕の角度をそれぞれ違えた四脚の肘掛け椅子を向き合わせ、うしろの白い壁に倒れかけるように立つ黒い戸棚がある。

 これは何だろう。
 円卓のある部屋の描写のようである。円卓には刃物の傷跡がついている。そしてその円卓は花々を折り込んだ絨毯の上にある。(円卓の下には絨毯があり、その絨毯には花が織り込まれている。絨毯は花模様である。)そして、その円卓のまわりには椅子が四脚ある。四脚が向き合っている。椅子は肘掛け椅子で、それぞれの肘掛けの角度は違っている。さらに、その円卓、肘掛け椅子のうしろ、白い壁の前には黒い戸棚がある。
 そういう様子が描写されているのだと勝手に想像するが、こんな「悪文」は見たことがない。長々しい描写で読者を幻惑する外国文学の、できそこないの「訳文」である。
 と思いながら、ともかく読んで、いらいらし、そのいらいらしながら読んだことと、そこから、ふっと浮かんできた感想を書きたいと思いながら、ちょっと眼がつらい。ほかの詩を読んでみよう、と思って、
 河江伊久「日向坂」を読む。小林のことばにくらべるとかなり読みやすい。

 坂道には光が縦横に走りちらちらと小鳥のように舞う日もあるが、その日は雲が隙間なく空を覆って仄暗かった。
 坂の途中に古美術の看板を掲げた二階家があって、階段が触手のようにのびている。わたしの眼がそれを一段ずつ上り戸口に辿り着いた時、扉がわずかに開いて女の子が出てきた。

 かなり読みやすいとはいっても、これもまた奇妙な文体である。「光が縦横に走りちらちらと小鳥のように舞う」というのは、わかったようでわからない。だいたい「光が」「舞う」というのは、光単独ではありえないことである。木漏れ日だかと水の反射とか、なにかしら揺れ動くものが必要である。光は「直進」するものだからである。
 「わたしの眼がそれを一段ずつ上り戸口に辿り着いた時」というのも、私のような眼の悪い人間にはちょっと不可能なことである。そんなものを一段一段数えてのぼるようなことは眼が疲れてしまう。一気に、何段あるかも気にせずに、上までのぼってしまう。
 というようなことを考え、それをことばにした瞬間に、わかることがある。
 河江は「描写」などしていないのである。そこに書かれていることばは「描写」に見えるが、描写ではない。「対象」を必要としていない。ことばを動かし、そのことばによって、ことばにする前には存在しなかったものを存在させているのである。そして、それは「光」とか「階段」などという具体的存在ではなく、「縦横に走りちらちらと小鳥のように舞う」とか、「触手のようにのびている」という「印象」なのである。河江のこころに浮かぶ「印象」をことばにしたくて、そのためにむりやり「存在」(私たちが知っているもの)を利用して、ことばを動かしているのである。
 
 そして。

 小林のやっていることは、河江のやっていることを、さらに念入りにしたものである。小林が書きたいのは「円卓」とか「肘掛け椅子」ではなく、そういうものがそこにあると仮定した時に動く「印象」をことばにすることなのだ。
 ことばはある存在に対応している。その存在の「名前」がことばである。「円卓」ということばは「円卓」という存在があってはじめて「意味」をもつ。「円卓」ということば、その音によって(文字によって、かもしれない)、ひとが「円卓」を存在すると認識する時、そのことばは「意味」をもつ。ことばによって、存在が「共有」される。
 ことばは、基本的にそういうものである。
 でも、それだけでは、おもしろくない。存在とことばが完全に同等であるなら、ことばはいらない。ことばなしで、存在だけでものごとを考えればいい。
 ことばがあるかぎり、存在ではないもの、存在を超えるものを表現しなくては、ことばである必要性がない。
 たとえば、「印象」というもの。
 そんなものは、あるかないか、わからない。またあったとしても、私の「印象」とだれかの「印象」は同じとは限らない。たとえ「同じことば」であったとしても、だからといって「同じ印象」であるとは限らない。それが「存在」に対応することばと、「印象」に対応することばの違いである。
 そいう、わけのわからないもの--「流通言語」では語りきれない何かを、小林は書きたいのだ。河江は書きたいのだ。それは、まあ、ことばにはならないもの、ことばになりきっていないものである。単純な(純粋な?)、ことばの運動である。ことばはことばとして動いてしまう、そのときの動きである。
 小林の作品のつづき。

風を放った扉から盗み見られる頑丈な鋲を打ちつけた蓋のある宝石箱。銀製の写真立て。その硝子に付着する埃が主人の幼年を隠匿している。

 しまっていない扉の向こう側、扉の隙間から見える別の部屋の描写なのだろうけれど、「宝石箱」や「写真立て」という「存在」をめぐることば、その運動の中の「幼年を隠匿している」という部分。
 あ、ここに、小林がいる、と私は感じる。
 「隠匿」。ことばは何かをあらわすと同時に隠す。「円卓」ということばは「円卓」そのものをあらわす。けれども、それだけでは、たとえば「円卓」に「傷」があるということはわからない。「円卓」というとこばは、実は「円卓の傷」を隠している。そして、それに「傷」があると書けば、そのことばは「傷」を明確にするが、ではどんな傷? それも実は隠れれている。それをさらに「刃物の傷」と書けば、それはそれで「円卓」の細部が浮かび上がったようであるけれど、それはほんとう? ほんとうに「円卓」? 「円卓」の傷の細部にことばを動かしていく時、そこには何か、「隠匿」されたものがない? 「記憶」ということばも小林の詩にはでてくるが、ある記憶を語る時、そこにはかならず語られない記憶の部分がある。ことばはどんなに繰り出してみても、世界そのものにはおいつかない。
 世界とことばのずれ。
 それをこそ、小林は書いているのだ。

 あ、おもしろい、と思う。そうか、独特の世界ではなく、小林ワールドではなく、世界とことばのずれなのだ。河江も、世界というより、世界を描写するようにことばを動かしていく時、そこに必然的に生じてくる「ずれ」そのものに眼を向け、「ずれ」を明確にしようとしているのだ。
 ほんとうにおもしろい。おもしろいけれど、私のように眼が悪い人間には、こういうことばを読むのはかなりつらい。特に「散文」形式で書かれていると、厳しい肉体的な疲労が残る。まあ、これは個人的な事情であって、こんなことを感想に紛れ込ませてはいけないのかもしれないけれど……。
 個人的には、散文形式のものより、次の行分けの方が読みやすい。小林の「五 波止場」の1連目。

左右から腕を延ばす防波堤
隆起する海が砕け、飛沫をあげると
一冊の書物が色あせてゆく。
脳裏を滑ってくる海鳥のように
忘れられた記憶が旗をひるがえす。
穏やかな波に
睡りを奪われまいともがいて
    (谷内注・「もがいて」は原文は漢字。「足」ヘンに「宛」という文字)

 読みやすいけれど、やっぱり「散文形式」の方が、濃密でいいかなあ、とも思う。



 河江の作品については、少ししか触れることができなくて申し訳ない。
 河江の作品そのものについてではないのだけれど、私には、あるひとの作品が、それ自体ではなんのことかわからないのだけれど、別のひとの作品を読むと、突然、その魅力がわかる(ような)気がする時がある。
 今回、小林の作品だけを読んでいたら、たぶん、私は感想を書かなかった。河江のことばにふれて、突然、小林の作品が結晶化した。
 同じことは、稲川方人と平出隆の作品で起きる。私は、稲川の作品はまったくわからない。読めども読めども、ことばについていけない。けれど平出のことばを読んだ直後に稲川のことばを読むと、あ、天才、と感じる。平出にはきっと稲川は大天才に見えるだろうなあ、と感じる。
 河江は、どうなんだろう。小林のことばの動きが大天才のことばの運動にみえるだろ.うか。



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川口浩史監督「トロッコ」(★★)

2010-06-26 23:30:17 | 映画

監督 川口浩史 出演 尾野真千子、原田賢人、大前喬一、ホン・リウ、チャン・ハン

 台湾の緑、特にトロッコでゆく山の中の湿気を含んだ緑はとても美しい。そして、不安になった帰るときの2人の幼い兄弟の姿はとてもいい。
 けれど。
 なぜ、トロッコ? なぜ、台湾? それがまったくわからない。
 わからなくてもいいのかもしれないけれど、変だなあ。不全感が残るなあ。
 幼い兄弟と、村の子供たちの対立、融合も、わざわざ台湾へいかなくてもいいと思う。日本の小さな集落(もっとも、いまは、そういう集落にはこの映画にでてくるほど、たくさんの子供は遊んでいないけれど)でもいいのではないか。山の緑にしても、日本には日本の山の緑の美しさがある。
 芥川龍之介の「トロッコ」の、ひとりの主人公を、ふたりに置き換えたところは出色。ふたりにすることで、兄の一生懸命我慢している感じが切実になってとてもいいのだけれど、それでも、ねえ。なぜ、台湾? 
 日本が舞台だとなぜ、いけない? 日本にはトロッコがない? 子供がたくさんいる集落がない? だとしたら、そのことに則した映画にしないと。
 これでは、絵空事。
 お兄ちゃんの頑張りが泣かせるだけに、とても残念。

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尾崎まこと『千年夢見る木』

2010-06-26 00:00:00 | 詩集
尾崎まこと『千年夢見る木』(竹林館、2010年06月14日発行)

 尾崎まこと『千年夢見る木』は「童話集」と書かれている。「童話」であるか「詩」であるか、定義すると面倒なので、そういうことは私は考えない。ただ、ことばとして読んだ。
 「青麦畑」が印象に残った。特に、その2連目。

午後
山から風が降りてきて
教室では
お腹を空でいっぱいにした子供たちが
木立のようにざわめくことがある
てんでばらばらに
象さんが 亀さんが
キリンさんがね
などと嘘を
正直に語りはじめる

 「嘘」とは、子供がおもいついたそれぞれのことば、事実を踏まえないことば、いわば空想のことだろう。その事実を踏まえないことばを「正直」と尾崎は呼んでいる。
 このとき「正直」とは、自分自身の空想に対して正直、ということになる。
 あ、いいなあ。
 たしかに、それは正直である。思っていることをそのまま語る。だれかを騙すためではない。だれかを困らせるためでもない。ただ、自分を喜ばせるために語る。
 ことばは、たしかに、こういう運動のためにこそある。

算数の答は置いといて
後ろの黒板に
チョークで白い雲を画く
すると
一面の青麦畑の海が開ける

 この連は、まさに、正直そのものである。
 雲は空にある。その空が大地(青麦畑)を呼び寄せる。青麦畑は、しかし、そのとき大地ではなく、海。
 このことばのまっすぐな運動がとても気持ちがいい。

 このあとは、しかし、むずかしい。

一生会うことは
叶わないけれど
姉さん、と
巻きあがる風に呼んでみる
これは僕の嘘

 「僕」はすでに子供ではない。
 ここには「おとなの残酷な嘘」(童話)がある。尾崎のことばには、そういうものがときどきまじっている。
 これは「正直」であるか、どうか。私は、疑問を感じる。






千年夢見る木 尾崎まこと童話集
尾崎 まこと
竹林館

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山本みち子「山本さん」、松岡政則「書いてはやめる」

2010-06-25 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
山本みち子「山本さん」、松岡政則「書いてはやめる」(「馬車」42、2010年06月05日発行)

 山本みち子「山本さん」のどこがおもしろいか。説明にちょっと困る。

山本さんと 山本さんが
バス停で並んでいる
山本さんであるわたしは
もうひとりの山本さんが
山本さんということを知っていて
もうひとりの山本さんは
わたしが山本さんであることを
知らないだろう たぶん

 これには事情があるのだけれど、まあ、それはどうでもいい。だから、途中を省略して、最終連。

山本さんと 山本さんが
冬晴れのバス停に並んでいて
わたしである山本さんは 居心地が悪くて
無精ヒゲなどポチポチ抜きながら
なぜか 幸せそうなのである

 山本が自分自身を「山本さん」と敬称をつけて呼ぶこと(書くこと)は、「学校教科書」の国語、「流通言語」でいえば「反則」である。変な日本語である。
 けれど、その、変、のなかに書きたいこともあるのだ。
 この詩は、山本が自分自身を「山本さん」と呼ぶことをやめたら、まったくおもしろくなくなる。
 山本が自分自身を「山本さん」と呼ぶのは、「山本さん」は自分であるけれど、ちょっと違う、ほんとうの自分ではない、うその、というのではないけれど、ちょっと切り離したい、自分からは遠ざけたい--というか、「他人」にしてしまいたいような何かなのである。

 実は、山本は、近所に引っ越してきた「山本さん」への手土産を自分への手土産と勘違いして食べてしまったことがある。その勘違いしてしまった自分を、ちょっと遠ざけたい。それで、自分のことでああるけれど「山本さん」とまるで他人行儀に扱っているのである。
 勘違いした自分など、隠しておけば、何でもない。
 でも、言いたい。ほんものの「山本さん」にばれるとちょっと恥ずかしいけれど、その恥ずかしいことを、書きたい。ほかの人には教えたい。肝心の人には教えず、たとえば、「馬車」という同人誌に集っている人には教えたい。私のような見知らぬ読者にも話したい。
 でも、なぜ、そんなことを教えたいのだろう。その答え(?)が、実は、最後にある。最終連にある。
 無精髭の山本さんは、実は、家にちょっとした事情があるみたいだ。明確ではないのだけれど。そして、その事情は真剣に考えると「不幸」といっていいものなのだけれ。そしてそれは、ほんとうは隠しておきたいことなのだけれど。でも、その隠しておきたいことは、「知らぬは本人だけ」というくらいに知れ渡っている。といっても、それは町内のひとの憶測なのだけれど--また、私の憶測なのだけれど。その知れ渡っていることを、たぶん無精髭の山本さんは知っている。「知らぬは本人だけ」ということさえ知っていて、「あ、山本さんの件ね」と無精髭の山本さんは「他人」のように感じている。ように、見える。
 そこに「幸せ」の味がある。

 あ、ちょっと書きたいことと違ってしまったかなあ。

 無精髭の山本さんの「不幸」は山本の(町内のひとの、そして私の)憶測である。それは知っているつもりでも、知らないことである。無精髭の山本さんは、私たちの憶測とは違って「幸せ」そうである。ほんとうに幸せなのかもしれない。少なくとも「居心地」は悪くない。なぜか。隠していないからである。無精髭であるということさえ、隠していない。さっぱりしている。
 無精髭がさっぱりしている--というのは矛盾だけれど、そこには、ずぼら特有の「さっぱり」がある。無理をしない、という気楽さがある。

 この「さっぱり」感が「幸せ」。「居心地」がいいことが「幸せ」。「無理をして隠さない」、「隠すという無理をしない」ことが「幸せ」。

 山本は、その不精髭の山本さんにならって、自分の隠しておきたいことを、見えるようにするのである。そのとき、自分のことなのだけれど、自分のことじゃないみたいに「さん」づけをしてあばいてしまう。
 「さん」づけは、「他人」であることの証拠である。
 これは、うそなんだけれど、そのうそは、山本さんの無精髭にいくらか似ている。自然発生的(?)な何かである。

 と、書いて、あ、またちょっと違ったことを書いてしまったかなあ、とも思う。というより、書いた瞬間に、ふいに違ったことを書きたくなる。

 山本が、無精髭の山本さんへの手土産を勘違いして食べてしまって、それを内緒にしていること--それは一種の無精髭である。ずぼらである。「間違えて食べてしまいました。ごめんなさい」と言えばいいのを、内緒にしている。無精髭の山本さんに対しては内緒にしながら、「馬車」の同人や、詩の読者には内緒にしていない。見えるようにしている。とても奇妙な「無精髭」のような状態だ。
 そういうものが、この詩のなかで重なっている。
 そして、その重なり合わせ(重ね合わせ)の接着剤になっているのが、自分自身を「山本さん」と呼ぶ、その「さん」づけにある。
 自分自身に厳しくない。自分自身を甘やかしている。それって、「居心地」がいい。無精髭の「居心地」のよさ、というのは、これだね。「居心地が悪い」と書くことさえ、なんだか「居心地」が「いい」。無理をするのは、やめた。体裁をとりつくろうのは、やーめた。
 と、いいながら、山本さんが無精髭をポチポチ抜くように、山本は自分自身の行為を、山本「さん」という敬称でととのえる。
 --そこも、似ている。

 あ、変な感想になってしまったなあ……。



 ちょっと、いいわけ。強引なこじつけ。
 山本の詩への感想が、とてもへんてこな、あっちへ行ったりこっちへ来たりという文章になってしまったのは、きっと、松岡政則の「書いてはやめる」を同時に読んだから……。

半月。ベランダで岡山のももを食う。手をべとつかせながら薄い皮
をむく。その熟れているを爛れているを啜るしゃぶりつく夜のもも。
なかのさねがぴくんと震えているのがわかるどこまでが果物なんだ。
(と書いてやめる。

 これは最終連。
 何回か、「(と書いてはやめる。」がくりかえされる。書いてはやめるのは、書きたいことを書きはじめるけれど、ことばが順調に(?)動いてくれないから。動いてくれないのだけれど、だからといって、それを捨ててしまうのは、気持ちが落ち着かない。
 少し置いておけば、ことばは、だれかのなかで動いてくれるかもしれない。
 というより、そういう気持ち、だれかのなかでことばがかってに動いて行ってしまうこと--そういうことをこそ書きたくて、途中までのスタイルにする、ということもあるのだ。 

どこまでが果物なんだ

 の「どこまで」。それはことばが動いていくところまで、なのだ。「その熟れているを爛れているを啜るしゃぶりつく夜のもも」という進みながらねじれ、ずれ、動く。「どこまで」はなく、「どこか」へたどりついたと思ったらそこが出発点。動詞の主語(私は)は消えてしまって対象と、対象への運動だけがある。運動は、「肉体」ではなく、ことばで明確になる。ことばが「肉体」になる。そうすると、もう書けなくなる。書いては、やめる。 

 そうなんだなあ。どんな詩のことばも、ある瞬間、ことばであることをやめてしまう。そこにはことばはなくて、「肉体」がある。ことばなのに、ことばではない。そういう瞬間が詩なのだ、と思う。




万華鏡―山本みち子詩集
山本 みち子
潮流社

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白井知子「九歳の鎖骨」

2010-06-24 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「九歳の鎖骨」(「祷」40、2010年06月15日発行)

 白井知子「九歳の鎖骨」は祖母の思い出を書いている。(Ⅰ)(Ⅱ)とふたつのパートに分かれている。(Ⅰ)のなかほどが強烈で、何度も読み返してしまう。

夏もおわるころ 祖母は亡くなり
わたしのもとへやってきた
--ぞっくりと寒くなっちまってね
  傷口が攣れる おまえのどこでもいいから被せておくれ
祖母は軍鶏(しゃも)の目で睨めつけてくる
きしむ鶏小屋の隅
しゃがんでいる私を動けなくする
--さあ 羽繕いをしておくれな
--だって 白髪抜いたら 頭つるつるになるちゃうよ
嘴でいきなり鎖骨のあたりを突つく
軍鶏の腐りだした贓物が透けてくる
蹴爪があっても まだ人間の老いた脚だ

 軍鶏と祖母が区別がつかなくなる。おばあさんは軍鶏に似ていた。軍鶏はおばあさんに似ていた。どちらかわからない。こわくて、きもちわるい。こわくて、きもちわるいのに、言っていることがわかってしまう。言っていることがわかるから、こわくてきもちがわるい。いや、きもちがわるいなんて言ってはいけない。そういうことを思ってはいけない。こわい、というのも、軍鶏になら思っていいけれど、おばあさんにそんなことを思ってはいけない。
 いけないことは、わかっている。
 わかっているから、白井は、いままで、そのことを書けなかった。いままで書けなかったけれど、書きはじめると、ことばはどこまでも動いていく。
 まるで、思ってはいけないと思っていたことの、その最奥部にあったようなことまで、えぐりだしてきてしまう。思ってはいけないと思うこころが隠していた「ほんとうのこころ」をえぐりだしてしまう。
 「軍鶏の腐りだした臓物」はおばあさんの贓物というより、まるで白井自身の、やがて腐る贓物のようでもある。
 書くと、おばあさんと軍鶏が似てくる、同じになるだけではなく、そこに白井も重なってしまう。「九歳」のはずなのに、「九歳」では言えないことを言ってしまう。「九歳」ではなくなってしまう。おばあさんの年齢も通り越してしまう。
 次の行に、そのことがくっきりと出てくる。

かわいがっていた軍鶏の胴体や頭を少しずつもらって継ぎはいで
三十八億年かけてきた道を
脚をひきずりながら還っていく

 「三十八億年」。これは地球のいのち。言ってはいけないと思い、隠してきたこと、それをことばにした瞬間、白井は白井ではなくなる。おばあさんでも、軍鶏でも、九歳の少女でもなく、生きている「いのち」そのものになる。生きているというのは、死んでゆく、腐ってゆくということであり、それは「いのち」の変化をしっかりみつめ、かわってゆくのをみつめるということが「生きる」ということだ……。
 「いのち」がぐるぐるまわる。そして、「いのち」に還える--ではないなあ。還えるのではなく、「三十八億年」をつらぬくものを見る、ということかもしれない。
 (Ⅱ)の部分。

半世紀ちかくたち
わたしはアジアや東欧で
祖母とおぼしき老女に出あうことになった
考えてみれば 五十年など三十八億年にくらべれば一瞬

インド亜大陸
コルカタから二百キロ北にあるシャントニケン
褐色の肌をした原住民
少数民族サンタル人の村は
牛糞が家や塀に塗りつけられていて
どこか懐かしい
翠のサリー 千年二千年も過去のような風景の祠にもたれ
はるか彼方を見つめる老婆になりすまし
ちらり ちらり こちらを盗み見ているのがわかった
あのポーズは祖母の癖だ

 それは「祖母の癖だ」を通り越して、「祖母」そのものである。50年前に死んだおばあさんは38億年生きた「いのち」そのものなのだから、そして「軍鶏」でさえあるのだから、地球のどこか、コルカタ(カルカッタ)の北 200キロにある村のおばあさんとして生きていてもぜんぜん不思議はない。38億年のいのちの動きのなかでは、距離なんか関係ない。軍鶏どころか、人間が、壁に塗り付けられた牛糞であっても、ぜんぜん不思議はない。いや、人間は牛糞そのものでもあるからこそ、「懐かしい」のだ。人間は、軍鶏の腐った贓物であったこともあれば、壁に塗り付けられた牛糞であったこともある。(もちろん、牛そのものであったこともある。)
 そして、ただたくましく生きているわけではない。(Ⅰ)にあったように、寒くなって、九歳の少女が恐がることを知りながら、

--ぞっくりと寒くなっちまってね
  傷口が攣れる おまえのどこでもいいから被せておくれ

 と、拒むことのできない力で甘えてくる、というか、頼ってくることもあるのだ。人間は強く生きているだけではなく、弱く生きている。甘えて生きている。そして、そんなふうに弱みを見せたり、甘えたりすることが、結局、強いということかもしれない。

 私の書いていることは矛盾している。
 白井は、私の書いているような矛盾を書きたかったのではないかもしれない。
 けれども、私は、そこに「矛盾」が書かれていると「誤読」する。そして、その「矛盾」のなかに、「三十八億年」につながるもの、「三十八億年」を超えていくものがあると感じてしまう。
 おばあさん、死んでゆくのがわかっているおばあさんの記憶は、こわい。こわいけれど、とてもあたたかい。あたたかいというのは、たぶん、正確ではないかもしれないが、あたたかいとしか呼びようのないものである。なぜなら、それは「いのち」と重なっているからだ。
 そんなことを思っていると、白井自身も、「あたたかい」ということばをつかっていた。「温かい」と白井は書いていた。

中央アジアへ移って
ウズベキスタンのソグディアナの地 サマルカンド
強風と寒さのため ナンを売る女性たちが
せっせと足踏みしていた
その年初めての雪の降りしきるバザールで
中の一人が振りかえりざま
九歳の鎖骨に疼いた
目許から祖母の温かさがわいてくるから不思議だ

 「不思議だ」と白井は書いているが、ここに不思議はない。この不思議は「なつかしい」である。「うれしい」である。「生きていてよかった」という喜びである。「生きるっておもしろい」である。




秘の陸にて
白井 知子
思潮社

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日鳥章一『水辺の朝』

2010-06-23 00:00:00 | 詩集
日鳥章一『水辺の朝』(武蔵野書房、2010年05月10日発行)

 詩とは何だろうか。この問いを日鳥章一は、いつも自分自身に問いかけているのかもしれない。『水辺の朝』の巻頭の「朝になれば」は、白鳥の「生き方」を正確に書いたものなのだろう。

朝になれば
見なれない人々の間に
ぼくは立ちあがるだろう
あくまでも
昨日までのぼくは夢で
今日から始まるものも
確かに夢には違いないが

新しく
別の頁が生まれるだから
ぼくは大急ぎで
新しい言葉を
タイプライターのように
書きこまなくっちゃならない

イスにまつわる伝説で
今日の頁を埋めてやろうと思うのだ
明日は
樹の話を
あさっては
森の言葉を
草の汁で書いてやる

そふやって
僕の頁が
世界中の物事で
あふれてしまっても
朝がくれば
僕はつぎつぎに
言葉を見つけださなくっちゃならないだろう

 「世界」をことばでとらえ、そのことばを「僕の頁」に書きこむ。それが、日鳥にとっての詩である。
 書き出しの「朝になれば/見なれない人々の間に/ぼくは立ちあがるだろう」は、日鳥がどこか別の場所へ行ってしまって(たとえば、旅)、そこで「見なれない人々の間に」自分自身をみつけだし、そこから新しいことばを書く、というのではない。きのうも、きょうも、同じ場所にいる。けれど、それは「きのう」ではなく「今日」だから、それは違っていなくてはならない。
 この違いを日鳥は「新しい」ということばで書き表している。
 「新しい」世界--きのうとは違った「新しい」世界。そのための、「新しい言葉」。大切なのは「新しい」ということなのだ。

 日鳥の問題意識は非常に明確である。ゆるぎがない。

 でも、「新しい言葉」って何? 「イスにまつわる伝説」と日鳥は簡単に書いている。「伝説」は「新しい言葉」? 私にはむしろ「古い言葉」(すでに存在することば)に見える。「森の言葉」も「新しい」というよりは「古い」(なつかしい)ことばのように感じられてしまう。
 日鳥の問題意識と、現実が、ぴったり重なっているとは考えにくい。何かがずれているような、そんな感じがつきまとう。
 そして、

言葉を見つけださなくっちゃならないだろう

 という行のなかで、私は立ち止まってしまう。
 「新しい言葉」。「言葉をみつけださなくっちゃならない」。見つけ出せるものは、すでに存在しているものである。すでに存在しているものは「新しい」か。ふと、そういう気持ちに襲われるのである。

いつの日か
遠い国までいって
はるか昔の物語を
老いた声音(アルト)で
語りださなくてはならなくなるとしたら

 あ、「新しい」は、ほんとうに「新しい」ではなく、何かの都合(?)で「新しい」にかわってしまう。遠い国(たとえば、南アフリカ)では、はるか昔の物語(今昔物語)はたしかに「新しい」かもしれない。
 でも、そういうことじゃないんじゃない? 詩は、そういものじゃないんじゃない? 「いま」「ここ」にいて、「いま」「ここ」を「新しくすることば」のことじゃないのだろうか。ことばが「新しい」のではなく、「いま」「ここ」を新しくするためのことば--古いことばであっても、「いま」「ここ」を新しくすることができるのでは?

 日鳥の意識は意識として非常に明確にわかるけれど、わかるということと納得ができるということは少し違う。私は、日鳥の書いていることばに、疑問を持ってしまうのだ。書いていることはたしかにそのとおりだと思うけれど、なんだか「空想」にしか見えない。「現実」と「ことば」の関係を、まるで「夢」のように思い描いているように感じてしまうのだ。
 「現代詩」ではなく「ポエム」。「現代」から切り離された「別世界」という感じがしてしまう。ことばの美しさ、純粋さ、そしてそれが純粋なまま動いていくときの抵抗感のなさ……。

 「水炎」の書き出し。

明けると
見知らぬ世界で
私は確かに熱を帯びている
眠っているのか
日は彼方からめぐり
地に帰り
光は
私の眼の中を縦に貫いている
走っているのか
燃えつきた世界に
私は確かに居て
立ち止まり
風のように駆け
流れている
水の清澄に埋まっている

 めざめたとき、「見知らぬ世界」にいる--というのが、日鳥の「夢」かもしれない。そこは「見知らぬ」世界なので、いままで白鳥が知っていることばはすべて「新しい」ものにかわる。何を書こうが、それは「新しい」。
 眠っているのか、走っているのか、立ち止まり、駆け、埋まっている--というような「矛盾」が平気で成り立ってしまう世界だ。
 この「矛盾」を「矛盾」であると「肉体」が納得し、世界と向き合えば、ほんとうにことばが動きはじめるかもしれない。「新しい」世界ではなく、「矛盾」した世界。そこでは、いままでのことばが、いままでどおりには動いていかない。(だから、矛盾、という。)そこで、ひとつひとつ、ことばをほぐしていく、肉体で解体していけば、肉体そのものも解体し、必然的に「新しい世界」(新しいことば)になるしかないのだと思うけれど、日鳥は、そこで踏みとどまらず、「知っている言葉」(古い言葉)を加速させ、その加速のなかで、一種の酔いを感じているのではないかと思ってしまう。

私は影ではない
光ではない 水ではない
私は確かに地であり
揺れる火炎である

 この簡単過ぎる「断定」に、私は違和感を覚える。こんな簡単に、言えるのかな? と思ってしまう。

 「砂星」にも、こんな行がある。

煌びやかな首都に私を祭った砂の像があると
いう
そこに私は行って話したいものだ
そこに向って
まだ産まれない言葉で
まだ発音されない言葉で
夜を歌ってみたいのだ

 この「夢」はとてもよくわかる。わかるけれど、その「まだ産まれない言葉「「まだ発音されない言葉」がどんなものなのか、日鳥の表現からはつたわってこない。「夢」がからまわりしているのか、ことばがからまわりしているのか……。



 こうした作品とは別のものもある。「雨の日、僕は鳥を食べている」。

大雨が降っている夜
僕は片腹が空いて
通り沿いのファミリーレストランに入った

鶏の唐揚げとポテトフライ
ICE COFFEEを頼んだ
さっきまで
僕は何をしていたのだろう
別な空間に行っていた
気がするが
思い出せない

 日鳥は、「見知らぬ世界」にいるわけではない。知っている世界である。そこでは、「鶏の唐揚げ」「ポテトフライ」「ICE COFFEE」という知っているものが食べられる。飲むことができる。でも、その知っているはずの世界が、違和感とともにある。「さっき」までいた「世界」とつながってくれない。つながってくれないからこそ、つながることばを動かしてみるのだ。「鶏の唐揚げ」「ポテトフライ」「ICE COFFEE」で、「いま」「ここ」を確認し、「いま」「ここ」をしっかりつなぎとめようとする。こういうことばは、私には「古い」ではなく「新しく」感じられる。もしかすると、「鶏の唐揚げ」「ポテトフライ」「ICE COFFEE」の先にとんでもないものがあらわれてくるかもしれない、と感じる。「アイスコーヒー」ではなく「ICE COFFEE」という表記にこだわった日鳥の「肉体」--「肉眼」の欲望に、あ、なんだろう、とひきつけられる。
 でも、この作品。、その最終連。

水を飲む
変幻自在な水という存在が
羨ましくなる
透明な存在というものに
憧れてしまう

 ということばで終わってしまう。「変幻自在」「透明」といわれても、私にはよくわからない。日鳥の「肉体」が見えない。
 「鶏の唐揚げ」「ポテトフライ」「ICE COFFEE」と「変幻自在・透明な水」との間にあるもの、なぜ、白鳥が、「鶏の唐揚げ」「ポテトフライ」「ICE COFFEE」を食べたのに(食べたから?)、「水」に最終的にこだわるのか、それを「古い」ことばでいいから、ていねいに書いてもらいたい。それを読みたい。「鶏の唐揚げ」「ポテトフライ」がからかった。油の質が悪くて、げんなりした。「ICE COFFEE」も、油のしつこさを忘れるには物足りなかった--というようなことでも、具体的に書いてもらえた方が、いま、そこにいる日鳥という存在が、今まで以上に、くっきり見えてくるのではないのだろうか。
 「新しい」とは、そういう「見え方」であり、詩とは、そういう「見え方」を「新しくする」ことばの運動ではないだろうか。ことばが「新しい」のではなく、「運動」が新しくないといけないのではないだろうか。

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齋藤健一「石段」、みえのふみえき「花畑にて」

2010-06-22 23:47:57 | 詩(雑誌・同人誌)
齋藤健一「石段」、みえのふみえき「花畑にて」(「乾河」58、2010年06月01日)

 齋藤健一「石段」。ぎりぎりの肉体を感じる。きりつめられたことばと正確に向き合っている肉体。読んでいると、私のことばまで、なぜだか、きりつめられてしまう。

寒い朝。病気なのだ。しばしば陽の光は畳に白っぽい影
を作る。たちまち消える。ぼくの手の平や十本の爪。細
長い水銀柱。筋はのぼる。検温器がかたむく。障子。そ
の桟や。刻字。洗わぬ髪の毛。立ち上がる。両膝に血液
はながれる。足うらに触れる空気。自分はよこへ身体を
もつ。

 なぜ、こんなにことばをきりつめるのか。肉体をきりつめるのか。「ぼくの手の平や十本の爪。」は太陽の光を受け、そして去っているのを、畳のように直接確かめたか。手の平で受け止め、爪で去っていくのを感じたか。「十本の指」ではなく「爪」。不思議な視線の動きがある。
 「足うらに触れる空気。」には非常に驚かされた。動くこと、立ち上がることで、血液が動き(血液が流れ)、足うらの皮膚が敏感になったのだろう。その小さな動きを、きりつめたことばで、大胆に切り取っていく。
 「自分はよこへ身体をもつ。」
 これは、どういう意味だろう。身体を横にした、横にした状態で生きている、という意味だろうか。なんだか、持って回った感じがして、ことばのきりつめた感覚とかよいあわない。
 ほんとうに「よこへ」「もつ」と思って、あれこれ考えてみる。
 「身体をもつ」と齋藤は書くが、「身体」とは「もつ」ものなのか。「もつ」というとき、なにかしら、自分とは「別」のもの、という感じがする。「身体」が「自分」とは別のものなら、「自分」とはなんだろう。それは「よこ」ではなく「まんなか」にある。
 なにかが「自分」のまんなかにある。それをまんなかにおいたまま、「身体」を「よこへ」もつ。このとき「よこ」は「わき」(傍ら)になる。で、そのまんなかは? 私はふいに「ことば」と感じた。
 齋藤の「まんなか」には「ことば」がある。そのことばは「身体」を「よこへ」動かしてしまう。
 「足うらに触れる空気。」そう書いたときも、「足うら」は齋藤自身ではないのだ。「ことば」がまずあって、そのことばが「足うら」を齋藤の「よこ」(傍ら)へ引き寄せる。空気も。「触れる」ということばをとおして。
 あらゆるものが、ことばをとおして引き寄せられる。何かが描写されているのではなく、ことばが、存在を引き寄せている。そうして、そこにはことばではなく、「存在の詩」というものが生まれる--生み出そうとしている、のかもしれない。
 動詞ももたず、ただそこの場に引き寄せられたことば。「障子。」「その桟や。」「刻字」ということばなどに、特に、それを感じる。それらが、どうした、ではなく、それらが「ある」ということのなかに、詩がある。ことばにひきよせられ、存在が「ある」。「ある」ことが詩。
 その存在の「ある」と、齋藤は「身体」を抜きにして対峙しているのかもしれない。



 みえのふみえき「花畑にて」。その「Occurrence 30」。

春はおまえだけの属性だった
川沿いに広がる麦畑の中を
おまえは自転車を押しながら遠ざかる
いまも朝焼けの脳髄で点滅する
ぼくの狂おしい抽象を礫いて
海の方から山峡にむかい
貨物列車がとおりすぎていく

 みえののことばも、描写ではなく、存在をひきよせる運動なのかもしれない。春は最初からおまえの属性だったわけではない。みえのが「おまえの属性だった」と書いてはじめて「おまえの属性」になった。
 「おまえの属性」などといわれてもなんのことかわからないが、それはあたりまえで、そういうものなど存在しなかった。みえのがことばを動かしてはじめて「存在させた」ものである。だから、わからなくて当然なのだ。
 「ぼくの狂おしい抽象を礫いて」も同じ。ここに何が書いてあるかなど、だれにもわからない。それは、読者が、みえののことばをとおり、自分で存在させないかぎり、存在しないものである。
 みえのが読者につたえているのは「意味」ではなく、ことばの運動のリズムそのものなのだ。
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八重洋一郎『白い声』(2)

2010-06-22 00:00:00 | 詩集
 八重洋一郎『白い声』(2)(澪標、2010年06月30日発行)

 くりかえすということをとおして、八重洋一郎は「真理」をつかむ。くりかえしのなかに、「真理」がある、ということを八重は知っている。
 そして、そのくりかえしは、実は、不思議な特質を持っている。
 「巫(ふ)」という作品。その3連目。

生まれることは闇ではない
<生マレルコトハ闇デアル>
みまかることは闇ではない
<ミマカルコトハ闇デアル>
必ず光は示されるだろう
<待ッテモ待ッテモクラヤミバカリ>
生きてあることの光を信ぜよ
<生キテアルコトハ闇デハナイカ>
死んで無いことの光を信ぜよ
<死ンデナイコト ソレコソマサニ闇デハナイカ>

 くりかえしは、その内部に、まったく反対のものを含んでいる。あることがらがくりかえされるとき、それとはまったく逆のことが、その内部でくりかえされる。いや、内部ではなく、外部かもしれないが……。
 いや、内部は外部であり、外部は内部である。それは、つまり、螺旋なのだ。

生死つらぬくまことの覚悟はただひとつ

<万物は
たえない螺旋の循環なれば
生き死にの
あらゆる明暗
あらゆる恐怖はあたりまえ

 「くりかえし」は「循環」とここでは呼ばれている。そしてそれは「螺旋」である。正反対のものが内と外、表と裏にぴったりと切り離せない形でくっついている。だから、それは、「螺旋」というねじれを描いてしまう。
 そして、これからが、八重のいいところなのか、課題なのか、評価が分かれるところだと思うが、八重のことばは「螺旋」を描くに従って、「暗礁(リーフ)」のことばがもっていた「具体性」を失っていく。次第に「抽象的」になっていく。この過程を「精神の純粋運動化」ということもできるかもしれないが、私には、ちょっとついていくのがつらくなることばである。
 「円錐尖点詩論」。

宇宙は倒立円錐であると断定せよ
天空をなすその底円の半径は無限 もちろん
深さも さらに無限
ビッグ・バン以来のすべての時間をはるかに超えて--
さまざまな事象 さまざまな歴史 さまざまな感情いっぱいつめて
倒立円錐はその体積の圧力で針よりもほそい尖点となって
頭のま上からあなたをつきさす

 「くりかえし」は、ここでは「さまざまな事象 さまざまな歴史 さまざまな感情いっぱいつめて」という行の「さまざま」ということばで表現されている。「さまざま」とは「複数」に見えるが、実は「くりかえし」という「ひとつ」である。その行における「複数」は「さまざま」ではなく「事象」「歴史」「感情」である。そして、「事象」「歴史」「感情」は、それぞれ独立したものではなく、「巫」の詩で見たような「表裏」あるいは「外部・内部」である。そこに書かれている「事象」「歴史」「感情」ということばが2種類ではなく、3種類であるために、「表裏」「内部・外部」という関係をはみだしているように感じられるけれど、それは3種類の「螺旋」である。この詩では3種類のものが螺旋を描き、その螺旋は次第に拡大し(あるいは凝縮し)、「倒立円錐」を形作っている。
 とてもよくわかる。とても明解な「数学」(あるいは物理)である。
 だからこそ、私は、ついていくのがつらい。ついていけない、と感じてしまう。
 「頭のま上からあなたをつきさす」という行。そこに「頭」が登場するが、あ、まさに、ここに書かれていることは「頭」で把握し直した何かである。「肉体」(肉眼)が消えてしまっている。--肉眼を超越して、頭脳が世界を再構築している、といういい方もできるかもしれない。
 詩のことばが、ここまで「純粋化」されてしまうと、「誤読」の楽しみがない。

 あ、私の書いていることは「誤読」の最たるものかもしれないけれど、その「誤読」が、ここでは許されない--そういう意味で「誤読」の楽しみがない。
 谷内の書いていることは誤読だ--という批判は、私は、とても気に入っている。私はいつでも「誤読」できるから文学はおもしろい、と考えるのだけれど……。というか、どこまで「誤読」を拡大できるか、私のほかにたとえば「だれそれはこんな誤読をしている」「だれそれはもっとへんなこと(?)を感じている」というふうに、ありえない読み方をどれだけ抱え込むことができるかが、文学の「評価」のひとつとしてあっていいと考えているのだけれど、八重の「円錐尖点詩論」というような詩は、どこかで「誤読」を拒絶している感じがある。「正解」を詩が内部に抱え込んでいる感じがする。「正解」が八重の「頭」のなかにある感じがする。
 それが、私には、つらい。
 
 言いなおそう。
 「暗礁(リーフ)」でも、「答え」というか、八重自身が考えていること、感じていることが、八重の「頭」のなかにあるといえる。そして、それと違うものを「誤読」と八重は言うかもしれない。(そう言って、かまわないと私は感じている。)けれども、そういう「反論」がたとえ八重から発せられたとしても私は気にしないのである。「暗礁」の場合は。
 「暗礁」では、たとえば「脱皮」とか「蛇」とか「しら波」とかということばがある。それは、八重の「頭」のなかの何かをあらわしているかもしれないけれど、八重の頭とは無関係に、実際に、そこに存在する。存在するものとして、私は感じている。「真理」(生死つらぬくまこと)は、八重の「頭」のなかではなく、「脱皮」「蛇」「しら波」そのもののなかにある、と私は感じるからである。
 それは八重の「頭」のなかにあるものと違っていたっていい、と私は思う。
 でも、円錐尖点詩論」のことばは、その根拠を、八重の「頭」のなかにしか置いていない。そう感じて、私は、あ、ついていくのがつらい、と感じるのだ。
 この詩には、八重の「思想」が純粋なことばの運動として書かれている--はずである。だから、それは、この詩集のいちばんいい部分である、かもしれない。でも、そんなふうに純粋に「頭」になってしまったことばは、私には、つらい。

 あ、これは、単純に好みの問題かもしれないのだけれど。
 私は、「暗礁」など、前半にある詩が好きだ。後半にいくに従って、ことばが「頭」のなかだけを動き回る感じがしてきて、つらくなる。もっと南の島の「空気」を感じたいなあ、という気持ちが強くなる、と書けばよかったのかもしれない。

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フランソワ・トリュフォー監督「映画に愛をこめて アメリカの夜」(★★★★★)

2010-06-21 22:21:03 | 午前十時の映画祭

監督 フランソワ・トリュフォー 出演 ジャクリーン・ビセット、ジャン・ピエール・オーモン、ヴァレンティナ・コルテーゼ、ジャン・シャンピオン

 いちばん好きなシーンはどれ、と聞かれたら、私は猫のシーンと答える。(私は、猫は大嫌いなのだけれど。)
 ジャクリーン・ビセットと義父との情事の翌朝。朝食の食べ残し(?)が残るトレーををジャクリーン・ビセットが部屋の外に出す。(そのとき、裸足の足が映るのだけれど--あ、トリュフォーの「足フェチ」が如実に出ていていいなあ、なんてうっとりしながらみつめていました。)猫が、皿の上のミルクをなめる。--そのシーン。
 最初に用意していた猫がうまく動いてくれない。で、何度もNG。急遽借りてきた猫で撮影をやりなおす。そして、うまくいく--と書いてしまうと単純なのだけれど、私が好きなのは、そのなかの一瞬、ピントがぼけるシーン。
 「あ、ピントがぼけた」
 という声も入っている。
 あ、映画だねえ。フランス映画だねえ。
 
 フランス映画といってもいろいろあるだろうけれど、私が思い浮かべるのはルノワール。ルノワールの映画を見ていて感じるのは、映画を計算ずくで撮っていないという感じがすること。余裕がある。俳優が勝手に演じているというと言い過ぎだろうけれど、役者が「役」を監督の意図とは無関係に(?)演じているような部分がある。ストーリーを逸脱しているようなものを感じる。「役」ではなく、役者そのものを見ている気分になるときがある。そして、その瞬間に、なんともいえず幸福な気分になる。「役」ではなく、スターを見た、スターに会ったという感じ……。
 それと「猫」となんの関係がある、といわれると困るけれど。
 まあ、ミルクをなめる猫を見ているのではなく、猫そのものを見ている、猫を見た、という感じがするのと、それにもまして、映画は、計画どおりのシーンを撮るのではなく、何かしらのハプニングを取り込んでいく、予想外のものを取り込んで行きながら豊かになる、という感じがとてもいいのだ。
 アメリカ映画(ハリウッド映画)には、こういう感じはないね。
 フランス映画には、役者が勝手なことをやって、変になっちゃった、このシーンうまく撮れなかったなあ、なんて悔しい思いが滲んでいるようなシーンがあって、それが人間臭くていい。猫のシーンもピントがあったままだったら、「ホンモノ」みたいでおもしろくない。あ、ピントが甘くなっちゃった。でも、そういうピンボケがあるから映画なんだなあと感じられる--といえばいいのか。
 
 で、その猫からちょっと映画っぽいことをちょっとつけくわえると……。

 この映画、「映画を撮っている」ことを映画にしている。役者はすべて、役者でありながら、役者を演じている。(トリュフォーは監督自身を演じている。)そして、そのなかに、ルノワールがそうしたかどうかはわからないけれど、「役者」そのものを取り込んでしまうシーンがある。
 ジャクリーン・ビセットは義父と恋愛してしまう女を演じているのだが、その彼女自身が「現実」で(といっても、これも映画だけれど)不倫(?)をする。落ち込んでいる役者を励ますために一夜のセックスをしてしまう。そして「現実」の夫にそれが発覚し、トラブルが起きる。そのとき、ジャクリーン・ビセットは「現実」の声をトリュフォー監督に訴える。その「現実」の「声」そのものを、監督は「映画」につかってしまう。台詞を書き換えてしまう。
 「映画」に「現実」を取り込み、女優そのものの「声」を「役」にしてしまう。
 いいなあ、この楽しさ。このおもしろさ。この無責任(?)さ。
 映画というのは、結局、ストーリーなんてどうでもいい。観客は「役者」そのものを見に来る。「役」をはみだして、スクリーンにあらわれてくる俳優そのものの「現実」を見に来る。「俳優そのものの現実」とは、つまり、「人間そのもの」でもあるね。「人間」がスクリーンにくっきりと定着したとき、その映画はおもしろくなる。「役」というのは俳優をスクリーンに引っ張りだすための「手段」にすぎない。
 
 タイトルは「アメリカの夜」だけれど、内容は、「フランスの昼(現実)」という感じだねえ。大好きです。この映画。
                          (午前十時の映画祭、19本目)


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うちのりみ「ぬけめなくまごついて、路地。」

2010-06-21 21:39:34 | 詩(雑誌・同人誌)
うちのりみ「ぬけめなくまごついて、路地。」(「SIGNATURE」2010年05月23日発行)

 うちのりみ「ぬけめなくまごついて、路地。」は、猫を見かけたときのことを書いているのだと思うが、視線が猫にぴったりくっついているがおもしろい。

子猫の弓なりに歩く背を追っていく
その背にしょわせたいものがある
わっしょい、わっしょい、
神輿の下からのぞく
お守り 万華鏡 黒髪のつやつばききや!
揺らすものがないのでやはりしょわせたい

 実際に神輿にであったのかどうかわからないが、猫の弓なりの背中とうちのの身体が融合していて、その体の奥から「わっしょい、わっしょい」が響いてくる。それはしかし、実際に神輿を背負った「重さ」--その「重さ」を感じている声ではなく、あくまで自分の「肉体」は解放されていて、他人の肉体の躍動を見ているときの、自分の肉体にあふれてくる喜びである。
 その、自分と他者との、重なり合う部分と重なり合わない部分の、気楽な思い入れのような感じが、のんき(ノーテンキ?)で楽しい。

ピンセットでつまんで調整
しょわせたい 小さなリュックを しょわせたい

 視線が猫にぴったりくっついて、そこから「小さなリュック」が自然に出てくる。「小さな」ということばに出会ったとき、きっとうちのの肉体も小さくなっている。「小さなリュック」を背負うときの、その軽さの喜び。それと一体になっている。
 うちのは意識しているかどうかわからないが、「調整」(ちょうせい)という音、その音楽と「しょわせたい」の響く具合のなかに、その喜びがあふれている。「小さな」という音のなかにも「ちょうせい」に含まれる音が響いている。



 鈴木綾女「銀河系肩こり」は俳句。おもしろいなあと感じた句がいくつかある。

外人の尻ワンダフル初詣

 外国人と神社(初詣)の出会いの「一期一会」が、「尻」と「ワンダフル」で軽くてにぎやかになった。なんとも、めでたい。中七がとにかく楽しい。

裂・破・透・縛ストッキングの花埃

 女の視線と男の視線が交錯する。と、感じるのは、私だけだろうか。「裂・破・透・縛」という漢字のなかにひそむ暴力の陶酔。暴力というのは、相手がいないと成立しないねえ、それはセックスに似ているねえ、と感じる。
 他者を求める視線がある。
 「尻ワンダフル」の句も、「外人」という強烈な「他者」ゆえの楽しさである。
 他者--異質なものと出会って、その力で鈴木自身の肉体を切り開いているのかもしれない。
 他者を書きながら、自己を書いてしまう。その相互性(?)というのだろうか、他者と自分との自然な交流・融合がいい。そして、たぶん、鈴木のことばの特徴は、「遠心・求心」という融合感覚だけではなく、そこから一歩進んで、「ビッグバン」のように、世界が爆発する喜びに楽々と変化するというところにある。

花の冷ふにゆと啼きしペニスかな

 笑えるねえ。「ふにゆと啼」く、か。いったい、鈴木の「耳」はどこにあるのかな? 目にあるのかな? 手にあるのかな? もしかしたら、口? 舌? あんまり書いてしまうとセクハラ? 「ふにゆ」という「啼き(声)」を聞いたのは「耳」でないことだけはたしかだけれど……。

人々を追い出しており心太

 この句も好きだけれど、ちょっと他の作品とは違う。いろんなことばを鈴木はもちあわせているようだ。



 山木礼子は短歌を書いている。

レッテルを(はりおりはりべりいまそかり)気にしているのは自分じゃないか

 「気にする」というときの「自己分裂」(鈴木の、他者との出会いをとおしての自己の解放とはちょっと違うね)がおもしろい。自分の中にある「他者」--それと出会い、それを「他者」のまま取り出してみる。
 ふーん、と思った。
 いいかげんな感想で申し訳ないが、ふーん、のあとことばを動かしていくほど、私は短歌のことをしらない。山木の作品も読んだことがない。
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八重洋一郎『白い声』

2010-06-21 00:00:00 | 詩集
八重洋一郎『白い声』(澪標、2010年06月30日発行)

 「暗礁(リーフ)」という作品が巻頭にある。その詩にいきなり引きこまれた。

島は蛇にかこまれている
脱皮した
脱肉した
脱魂した
白骨だけになって幾重にも幾重にもはしりくねっている
しら波

問いは消え
疑いは消え
答えさえも消えはてて けれどまた
始まりをくりかえす 暗い
暗い
潮鳴り

 とても抽象的な詩である。わかるのはリーフを描いているらしいこと。そのリーフは「幾重」にもなっている。そして、たぶん白い。それを八重は「蛇」のようだと感じている。蛇が島を囲んでいる。
 ただし、その蛇は生きてはいない。
 「脱皮」は蛇が成長するときの過程だが、それから先、「脱肉」というのは、何? 「脱魂」というのは、何? 「白骨」は死んだあとの状態だが、蛇が脱皮、脱肉、脱魂し、白骨化する--そこにはいったい何が働いているのか。何か蛇に死なせたのか。
 八重は、その「答え」を書かない。
 その問いは、もう八重のなかでくりかえされてきた。くりかえす必要がないのだ。答えもくりかえしてきた。八重のなかで「結論」はでている。決着はついている。ことばにする必要などないのだ。
 けれども。
 けれども、そのリーフをみるたびに、そのことばにならないことがくりかえされる。八重の「肉眼」のなかでくりかえされる。リーフは蛇。脱皮し、脱肉し(これは、肉を自ら脱ぐというより、剥ぎ取られ、かもしれない)、脱魂し(これも、魂を自ら捨て去りというより、激しく奪い取られ、かもしれない)、白骨化し(これもまた白骨化させられたのかもしれない)、そこに存在している。そのリーフを見るとき、八重には、脱皮の実際が見える、脱肉の実際が見える、脱魂の実際が見え、白骨の実体が見える。
 そのとき見えるもの、それはほんとうは語っても語っても語り尽くせないものかもしれない。その語り尽くせないものが、膨大なことばではなく、「脱皮」「脱肉」「脱魂」「白骨」という短いことばに結晶している。
 「脱肉」「脱魂」ということばはない。(ない、と思う。)
 それは、ことばにはならない。「流通言語」にはならない。ことばがあふれすぎて、そのことばの重さのために、ゆがんでしまったブラックホールのようでもある。
 「脱肉」「脱魂」ということばのなかへは、八重が見たもの、聞いたもののすべてが吸い込まれていく。そこからは何も出てこない。そして、何も出てこないのだけれど、その吸い込まれていくすべてのものを「肉眼」で見て、「肉耳」で聞いたことがある八重には、その「ブラックホール」にすべてが見え、すべてが聞こえる。
 「ブラックホール」と最終的な死である。けれど、それは死の瞬間、ビッグバンを起こす。始まりの一瞬でもある。
 ここにあるのは、究極の矛盾であり、究極の矛盾であるから、究極の真理でもある。こういう矛盾を、だれも正確には描写できない。わかっている。わかっているけれど、なんとか書きたい--そして、矛盾のまま書いてしまう。

 「幾重」「くりかえし」--そういうしかないことばのなかに、八重の「思想」「肉体」がある。何かが「消え」てしまっても、「くりかえす」という行為は消えない。残る。残さなければいけない。

 「樹霊(こだま)」も強いことばが動き回っている。

夜 深い闇の中をサァーサァーと音をたて 地の深くから
生きている思考が高く大幹(おおみき)をたどって枝々の先
何万枚の葉の先々までしみわたっていく

朝 重なる葉っぱは一枚一枚鏡となってめざめ 枝々に
何万という緑色の《眼》をゆらめかせ朝毎(あさごと)のざわめく
不安と意志と祈り

 「くりかえし」は「朝毎」の「毎」のなかにある。そして、その「くりかえし」があって、はじめて「何万枚」「何万」ということばがうまれて来る。「何万」という数を超越した数--それは「ブラックホール」である。数えられないことによって、「ひとつ」になってしまう何か--「ひとつ」であるけれど、その「ひとつ」は無数から成り立っているという意識。
 そこにのみ、「真理」はある。「くりかえ」される「無数」、「くりかえ」すことで凝縮して、「ひとつ」になる、「真理」という「ひとつ」になる。

 「月」も美しい。

金属の削りくずのような
繊い月
晨(あさ) おとついは左側斜めしたに彎っていたのに
昏(くれ) 今日は
右側
こんなにかすかなところまできっちりと 天体が
うごいているとは!

 「くりかえし」は、この作品では「晨昏」ということばのなかにある。それは毎日毎日やってくる。くりかえされる。そして、そのくりかえしが、天体を磨き上げる。くりかえされることによって、その月の細さ、その月の動きがはっきりと人間にわかるようになる。天体(真理)はくりかえされるから「こんなにかすかなところまではっきりと」人間に理解できるようになる。

 八重は、くりかえしだけが、何かをはっきりとらえることができると知っているのだ。くりかえされるもののなかにだけ「真理」があるということ知っているのだ。




しらはえ
八重 洋一郎
以文社

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ジェーン・カンピオン監督「ブライト・スター」(★★★)

2010-06-20 15:09:27 | 映画

監督 ジェーン・カンピオン 出演 アビー・コーニッシュ、ベン・ウィショー、ポール・シュナイダー、ケリー・フォックス

 ジェーン・カンピオンの映画を見ると、いつも「違う人間」を感じる。「違う人間」というは「私」とは違う人間、という意味である。そして、それは「女」という意味でもある。
 どの映画にも女は出てくる。男の監督の映画にももちろん出てくるし、女の監督もいまはたくさんいる。けれど、そこに描かれている映像から女を感じるというのは意外と少ない。私の場合、ノーラ・エフロン監督とジェーン・カンピオン監督は、何かしら特別に感じる。あ、女、といつも思うのである。あ、そうなんだ、女はこんなふうに世界を見ているのだ、女にはこんなふうに世界が見えるのだ、とびっくりしてしまうのである。
 そして、ノーラ・エフロンの場合、そこに描かれるのは「女の空気」であるのに対し、ジェーン・カンピオンの場合「女の触覚」である。「肌」である。女は肌で感じる、肌で知る--いつも、そう思うのだ。そして、その肌は観念ではなくて、ほんとうに肌、女自身をつつんでいる「もの」である。



 冒頭、主人公が裁縫をしているシーンがアップで映し出される。布と糸と針と手。それはいつも触れ合っている。触れ合うだけではなく、しっかりと結びつき、離れない。この触れ合いながら、触れることで、結合が深まっていく、そして何物かが完成する--この感覚を、ジェーン・カンピオンは、いつもしっかり映像にする。
 私は、いつも、そのシーンにどきりとする。
 たとえば「ピアノ・レッスン」。女がピアノを弾く。男がピアノの下にもぐりこむ。そして、女の足に触る。たださわるのではなく、ストッキングの破れ目、丸い穴をみつけ、それに触る。ストッキングの穴に触る--は、女の裸の肌に触るということでもある。それは、まあ、男から見てもエロチックではあるのだけれど、そのシーンは、男の欲望をあらわしているというよりも、女の、触られたときの欲望をあらわしている。男がストッキングの穴に触る。瞬間、画面が切り替わり、女の顔。男が穴に(肌に)触っているのを知り、そのことを感じながらピアノを弾きつづける。あ、すごい、と思った。
 こんな映像は、男には思いつかない。
 「ブライト・スター」には女が裁縫をするシーンが何度も出てくるが、それと同時に、自分のつくったものをていねいに触り、それを自分の肌に重ねてみるシーンも何度も出てくる。このとき、女は、そのできあがった形を見ているだけではない。形よりも、その感触、自分の肌にぴったりあうかどうかを試している。--ほかの人にはどう見えるかわからないが、私には、そんなふうに見える。ドレスは女にとって(少なくとも、この映画の主人公にとって)、形ではなく、感触である。自分の肌になじむかどうかである。
 いつでも感触を生きている。それは、たとえば布を離れたもの、「手紙」にもあらわれている。もちろん、この映画に出てくる手紙のスタイルは当時の様子を再現しているだけのものといえばそうなのかもしれないが、その文字を書いて紙を畳んで封筒をかねた手紙。それを、破るではなく、ほどく。その感じ。それは「裁縫」と同じ。縫って、ほどく。ほどくと、そこに「ことば」というこころの「肉体」が見えてくる。手紙は、こころをつつんで手渡し、そしてそれがほどかれ、そのときこころがどうなってもいい、こころを相手に任せる、ということなのだ。
 バレンタインにとどけられた花と手紙--それはキーツではなく、キーツの友人のものだった。それに対してキーツが以上と思えるくらいの怒りを発する。それは、その当時の「精神状態」をあらわしているというよりも、女の「理想」のようなものをあらわしている。女は、男にそうあってほしいと望んでいるのだ。その望みが、そんな形で映像化されている。

 あ、こんなことをくだくだ書いてもしようがないね。

 大好きなシーンがいくつもある。ひとつは、女がキーツと別れたあと、ひとりでベッドに横になっている。窓が開いている。風がカーテンをなびかせる。カーテンが女の体に触れるようにして動く。このとき、女は、キーツの「空気」を感じている。全身で感じている。キーツが布であったなら、風になびく布であったなら。触れようとして、触れられない。なぜなら、カーテンには長さがあって、その先はレールにとめられているから。このときの「距離」。それは離れているのだけれど、離れているだけに、その「離れた」ところへ、こころがあふれていく。
 肌と肌の直接の触れ合いのかわりに、こころが風のように触れ合っている。その風の中に光がある。カーテンが強く吹き上げられるたびに、部屋に光がひろがり、女が輝く。いやあ、美しい。女は、なんというのだろう、憎いことに、その輝きを知っている。自分が、いま、触れようとして触れられない何物かの訪問を受けながら、輝いているということを知っている。知っているので、動かない。
 だれも見ていない--けれど、その姿を、みんなにみせびらかしている。(すくなくとも、映画の観客にはみせびらかしている。)
 こんな映像、男の監督には全体に思いかつかないだろうなあ。
 キーツと女が壁越しに相手を感じるシーンも美しい。(チラシにもなっているシーンだ。)声を出せば聞こえる、壁をたたけば聞こえる。自分がここにいる、と互いに知らせることができる。けれど、そういうことはしない。ただ、壁を手で触れ、壁にほほをよせて、じっとしている。まるで、壁が相手の「肌」であるかのように。
 目で見るのはなく、声を聞くではなく、触る。直接触れ合うのではないのだけれど、直接触れ合わないことによって、逆に触れ合っていることが「確信」できる。女が「触れる」とき、それは「確信」するときなのだ。

 とても美しい--と感じながらも、私は、この映画を「傑作」とは思わない。
 理由は簡単である。「触れる」ということ、ジェーン・カンピオンが女を描くときの中心的な「思想」が、この映画では不完全燃焼を起こしているからである。映像は美しいし、ヒロインも魅力的だ。けれど、不完全燃焼をおこしている。それは、映画のもう一方の主役、詩(キーツ)が、ことばだからである。
 ことばは触れることができない。
 そのためにジェーン・カンピオンの映像が空回りする。「手紙」はたしかに美しいが、それだけではちょっと物足りない。「詩集」も出てくるが、本の手触り、というものが女を魅了していない。本に触れることで女が変わるという感じのシーンがない。(あるのかもしれない。私が見落としているのかもしれないが。)本を、詩を、目で読む。ことばを声にだし、耳で聞く。でも、そのとき「触覚」は? ドレスをつくるときの、あの、すべてのものを自分の指で結びつけて、いままでなかったものを生み出すという喜びは?
 指と(肌と)ことばの戯れ--そういうものが映像化されれば、この映画は完璧になるのに、と残念に思った。



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