詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(47)

2005-06-15 00:27:10 | 詩集
寒山(「中国詩人選集5」岩波書店)

 「鳥弄情不堪」を読む。5目。

旭日銜青嶂


 青い嶺から顔を覗かせている太陽。太陽が稜線に銜えられているように見える。――これは、私の感覚からするとかなり奇妙。沈む夕日が稜線に銜えられているように見えるというのは感覚的にすっきりするが、のぼる朝日が稜線にくわえられているとは……。

 この行を入矢義高は「朝日は青い稜線から吐かれようとし」と訳している。

 ああ、この訳はいいなあ、と思わずうなる。
 口の中に入っている状態を「くわえる」という。口の中に入っているとき、状況は2通りある。飲み込むため。吐き出すため。

 中国語から日本語、中国人の感覚(?)から日本人の感覚への意訳。その精神の運動の中にある飛躍――肉体をくぐりぬけた飛躍。
 そこに「詩」がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(46)

2005-06-14 00:56:29 | 詩集
寒山(「中国詩人選集5」岩波書店)

 「何以長惆悵」を読む。7行目。

奈何当奈何

 「どうしよう、ああ、どうしよう」――これは、詩のことばとしてはあいまいで弱い。ただし、それが突然の文体の変化として噴出してくるとき、突然、なまなましくこころに響いて来る。

 漢詩が口語で構成されているのか文語で構成されているのか、私は知らない。しかし、印象としては「文語」で構成されている気がする。張り詰めた対句などに出会うとそう思ってしまう。
 この「奈何当奈何」はおなじことばの繰り返しによって、口語のニュアンスがとても強くなっている。突然、口語が文語の中に侵入してきたような感じがする。

 突然の文体の変化。そこに「詩」を感じる。

 日本語の文体では、実感を強調するとき過去形ではなく現在形を使う。たとえば、山登りをしていて、「険しい山道を登った。頂上についた。風だ。下から風が吹いてくる。汗を奪っていく。」というような感じ……。

 文体がかわった瞬間、意識が新しくなる。その「新しさ」が「詩」である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(45)

2005-06-11 01:59:36 | 詩集
王昌齢「寒下曲」(「唐詩三百首Ⅰ」東洋文庫)


黄塵足今古


 「足」は「みちる。満の意」と目加田誠が注釈に書いている。「新漢語林」(大修館書店)にも「多い。満ちている」という意味が書いてあり、「人生足別離」が引いてある。
 これを、目加田誠は「黄塵いまもかわらねど」と訳している。

 「足りる」=「満ちる」=「かわらない」(減らない、ということか)

 ことばは意識の深いところ、未分化の領域を動き、そこから意味が生成する。その生成の瞬間に「詩」がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(44)

2005-06-10 23:41:44 | 詩集
寒山(「中国詩人選集5」岩波書店)

 「昔時可可貧」を読む。6行目。

坐社頻腹痛

 入矢義高は「社 唐代の一種の村落共同体。ただし、この句の意味はよくわからぬ」と注釈したうえで「隣組の寄り合いではしょっちゅう腹いたを起こす。」と訳している。
 寒山の詩行よりも私は、この「よくわからぬ」という注釈に「詩」を感じた。わからないものをわからないものと率直に書く。ここに人を突き動かす何かがある。突き動かされて、入矢とともに(あるいは入矢を離れて)、想像力を動かす。

 「想像力」――このとき、それはバシュラール風にいえば、事実をゆがめる、曲解する、誤読するという意味だ。
 意識的「誤読」のなかに「詩」がある。

 私は、「寄り合いではしきりに腹が痛む」と読んで、その理由をかってに「空腹だから」と考える。空き腹が痛むのだ。
 唐代の寄り合いがどのような風習のものか知らない。私はそれをそれぞれが食べ物(あるいは飲み物)を持ち合っておこなうものと想像する。寒山は、詩にあるように貧乏だ。食べるものが何もない。したがって寄り合いに持っていくものもない。何も持っていかないので、
 「いや、ちょっと腹痛で、私は食事を遠慮する」
 などといってその場を逃れる。
 寄り合ったみんなはそれぞれが飲食を楽しんでいる。寒山はひとり空き腹を抱えて、その痛みに耐えている……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(43)

2005-06-09 14:54:41 | 詩集
寒山(「中国詩人選集5」岩波書店)

 「一人好頭肚」を読む。

長漂如汎萍
不息似飛蓬

 「不息」がゲーテを思い出させる。「憩うことなく」(休むことなく)――そして、こういうとき「息」という文字を使うことに体が揺さぶられる。
 「休む」ということは息をすること。体の奥深くへ新鮮な空気を入れること。深呼吸すること。

 漢字文化だけではなく、漢字が私たちの肉体にもなっていることに気がつく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする