詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

若松丈太郎「十歳の夏まで戦争だった 4」

2015-10-31 07:27:26 | 詩(雑誌・同人誌)
若松丈太郎「十歳の夏まで戦争だった 4」(「いのちの籠」31、2015年10月25日発行)

 若松丈太郎「十歳の夏まで戦争だった 4」が掲載されている「いのちの籠」は「戦争と平和を考える詩の会」が発行所。多くの詩が「理念」を書いているのに対し、若松は「事実」を書いている。
 「一九四一年に「金属類回収令」が施行された」と書きはじめられ、どんなものが回収されたかが書いてある。

火箸 五徳 十能 自在鉤
燭台 花器
火鉢 薬缶 鍋 鉄瓶
鉄釜 五右衛門風呂
鋏 鋸 鉋 鑿 鉈
鏝 熨斗 アイロン
鋤 鍬 鎌
箪笥の取っ手 蚊帳の釣り手
灰皿 煙管 バックル
鉄柵 店の看板
鉦 鐘 梵鐘
銅像
銅板葺きの屋根板を供出した家もあった
金偏のものはなんでも
小さいとき長靴にベルトで固定して滑ったスケートも
ブリキのおもちゃも供出だ
抜いた釘を叩いてまっすぐにして使った

 かつて聞いたことがある。その聞いたことを思い出した。「箪笥の取っ手 蚊帳の釣り手」になると、まるで「笑い話」か「作り話」だが、それは実際にあったのだろう。供出の「割り当て」があって、しかたなく、そういうものを出すしかなかったということだろう。
 私は実際にはそういうことを直接知らないのだが、最後に書かれている「抜いた釘を叩いてまっすぐにして使った」というのは「体験」として、ある。
 戦後十年以上たっても、「日常」はまだ「戦争中」だったということかもしれない。戦争が引き起こした「物資の不足」(貧しさ)はつづいていた。「抜いた釘を叩いてまっすぐにして使う」というような「暮らしの知恵」が残っていた。釘が貴重な「暮らし」は、身の回りのものを自分でつくるという「暮らし」がつづいている間中、生きていた。
 この工夫して生きるということが、不思議な力で「肉体」に迫ってくる。
 「箪笥の取っ手 蚊帳の釣り手」まで供出しろというのは、「笑い話」だが、「抜いた釘を叩いてまっすぐにして使った」は「笑い話」ではない。
 「笑い話」ではないことを、若松は、まだ覚えている。暮らしに必要な金偏のものを供出したあと、どうやって暮らしたかを若松は正確に覚えていて、それを書いている。

鉄釜が土釜になった
鉄の竈が土竈になった
五右衛門風呂が木風呂になった
マンホールの蓋が鉄製からコンクリート製に
金偏のものはなんでも
学校の制服の釦まで真鍮から木になった
校庭の二宮金次郎が銅像から石像になった

 これは、私の知らない世界だ。聞いたことがない。
 聞かされれば、なるほど、と思うが、そういうことがあったと「想像」したことがない。
 「暮らし」というのは戦争があろうがなかろうが、つづいている。鉄釜がなくなれば食べなくてすむというわけにはいかない。鉄釜がなくても、ものを煮炊きして食べなければならない。そのとき、土鍋をつかう。土竈をつかう。
 ここに「権力者」の知らない「工夫」、人間の「暮らしの美しさ」があると思う。なんとしても生き抜くという「暮らしの強さ」が隠れている。
 「戦争」というものは、たいていが「利権」を求めてはじまる。自分が持っていないものを(不足しているもの)を「略奪」することを目的としている。「略奪」したもので自分の「暮らし」を豊かにするという「欲望」からはじまる。
 しかし「略奪」しなくても「暮らし」を維持することはできる。
 「鉄」がないなら「土鍋」「土竈」、あるいは「木の風呂」「木の釦」。「木の釦」は美しいなあ。釦がなければないでも、制服をはおって着ることはできる。でも、それは「正しい」着方ではない。「正しい」着方をするために「木釦」をつくる。
 「正しい」を「つくる」。
 ここに「暮らしの美しさ」がある。
 この「つくる」は「暮らしの必需品」とは言えないようなものにまで広がっていく。
 「校庭の二宮金次郎」。そんなのもがあろうとなかろうと、「食う(生きる)」という「暮らし」には関係がない。……はずなのだが、そうではないのかもしれない。人間には、何か「指針(正しい/正しさ)」のようなものが必要だ。「指針」が「暮らし」をととのえるのだろう。「木の釦」のように。
 何もない時代にあってさえ、その「暮らしのととのえ方」を守ろうとする力が動いている。暮らしを正しくしようとする力が動いている。
 二宮金次郎のような生き方を「指針」とするべきである、と言いたいのではない。二宮金次郎の石像をつくることで、自分の「暮らし」をととのえようとしたひとがいる。そのことを、思い出さなければならないと思う。
 そして、その「思い出す」ということのために、七十年前までつづいた戦争の「記憶」は語られる必要がある。具体的な「思い出」が、いまの日本の動きをとめる力になる、と思った。もっともっと、若松の書いているようなことばは書かれ、読まれる必要があると思った。


わが大地よ、ああ
若松丈太郎
土曜美術社出版販売

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。

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大江麻衣『変化(へんげ)』

2015-10-30 10:12:22 | 詩集
大江麻衣『変化(へんげ)』(マイナビ現代詩歌セレクション17)(マイナビ出版、2015年11月01日発行)

 大江麻衣『変化(へんげ)』は文体が独特である。そこに書かれている「ストーリー」というか、ひととひととの関係、時間の流れ、つまり「事件」というものは「小説」のように明確ではない。けれど、そこで動いている「こころ」はくっきりとつたわってくる。「ストーリー」を突き破って、「こころ」が動いている。それが「わかる」。
 「恋病(こいやみ)」(注・「恋」を大江は「正字/旧字」で書いている)。

感謝も死にたい気持ちもすぐに忘れてしまう
恋の前では意味がない その人以外は

 これは恋をしたときの「こころ」をそのまま書いている。何があったかわからない。そのひとに感謝したことがある。絶望して死にたいと思ったこともある。けれど、そういう「事件/曲折(?)」はすぐに忘れてしまう。その人がいるということ、そのことだけが大事であり、過去は消えてしまう。
 で、このとき「こころ」が動いているのが「わかる」と私は書いたのだが。
 「わかる」と書きながら、実は、私はとまどっている。私は「こころ」とか「精神」とかの存在を信じていない。そんなものがあるとは思っていない。
 私は何に反応したのか。
 「忘れてしまう」という「動詞」に反応している。「忘れる」という動詞は「意識」の動きのように見えるけれど。「こころ」や「精神」が「忘れる」の「主語」のように見えるけれど、私は違うと思っている。
 そのひとに夢中になり、そのひと以外は見えなくなる。「恋闇」か。「闇」は見えなくなる、だね。その「見えない」を「忘れる」という動詞で言い直している。「見えない」ことが、何かを「遠ざける」。「過去」にする。「忘れてしまう」。
 ここには「見る」という動詞と「目」という「肉体」が動いている。その「肉体」を私は強く感じる。どんな「ストーリー(事件)」があったのか、私にはわからないが、「いま/ここ」に大江がいて、その「肉体」が恋人と向き合っていて、そのとき大江の「目」は「いま/ここ」にいる恋人だけを見つめている。それまで見てきた恋人を、どこか遠くへ遠ざけ、見えないようにしている。「忘れている」。その「目」と「肉体」の関係が、ぐいっと迫ってくる。
 これには、「恋闇」というタイトルが影響している。「恋」というタイトルなら、違ったことを感じたかもしれない。「闇」という「名詞」が含む何か、「肉体」とのつながり、「闇」のなかに含まれる「動詞(見えない)」が、そんなふうに私の「肉体」を刺戟してきたのだ。大江の「肉体」に私の「肉体」が重なって、それが「こころ」であるように錯覚して、「ストーリーをこころが突き破って動く」ということばになったのだ。
 「こころ」などない。「肉体」だけが存在する。その「肉体」の存在感を、大江のことばは「ストーリー」を無視して浮かび上がらせる。このことを逆に言うこと、「肉体」が動く。そうすると、そのあとに「ストーリー」は遅れてやってくる。
 季村敏夫は阪神大震災のあと『日々の、すみか』のなかで「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、それは大震災のような事件だけではなく、恋のような個人的なことがらにおいても同じなのだ。

手紙なんども読む 角度かえて読む 顔ちかづける 違う意味
になったり戻ったりする
手紙だいじにする なんども読む
毎日同じでもいらいらしない 手紙は
忘れないことが肝心なので どこにしまおうか
いつの間にか だらしない手紙書いて
みんな貸すつもりのない傘ぶらさげて 恋は一人でするもの

 手紙を何度も読む。読むたびに「出来事」があらわれてくる。体験した出来事の「意味」が遅れて「わかる」ようになる。それが「あらわれる」。
 このときの「読む」という「動だかもしれないが、「読む」が「読解(理解する)」という動詞に変化するとき、そこに「精神/意識/こころ」というものが紛れ込んでくるので、形而上学的(抽象的)に感じてしまう。しかし、、これを大江は

顔ちかづける

 という「肉体」の「動き」として言い直すことで「肉体」の方に取り戻している。「顔ちかづける」という「動き」(名詞+動詞)が、私の「肉体」に直接作用して、そうやって「読んだ」ことがあるという「肉体」がよみがえってくる。「顔ちかづける」は「目ちかづける」でもある。読むとき、そういう「動き」を「肉体」がとることがある。もし「こころ」というものがあるとしたら、それはそのときの「肉体の動き」である。
 「角度かえてよむ」は抽象的な表現で、「見る角度をかえて読む/立場をかえて読む」という具合に「精神的」に理解することもできるが、そうではなくて、実際に手紙の角度をかえて、光がよくあたるようにして、あるいはひとから隠すようにしてという具合にも読むことができる。私は「肉体」と「手紙(紙)」の具体的な「角度」として「肉体」をそわせる。
 「違う意味になったり戻ったりする」も「意味」ではなく「なる/戻る」という動詞に「肉体」をそわせてみる。「意味」が動いているのではなく、「肉体」が動いている。あるときは恋人に近づき、あるときは恋人から離れる。「戻る」は恋人のそばに近づくこともあれば、自分に戻る、恋人から離れるということにもなる。そのたびに動いているのは「こころ」ではなく「肉体」である。
 なぜ、こんなに「肉体」を感じるのか。

手紙なんども読む 角度かえて読む 顔ちかづける

 これは、ふつうは(学校作文では)

手紙「を」なんども読む 角度「を」かえて読む 顔「を」ちかづける

 と書く。「を」という助詞をつかって、対象と肉体の関係を明確にする。大江は「を」をつかっていない。それは、「手紙」と「肉体」を別個のものとは把握していないということである。手紙と肉体が一体になっている。「読む」という動詞のなかで融合している。その融合をそのまま表現している。
 「肉体」の一部が、そのとき目の前に「手紙」という存在になってあらわれてきている。「手紙」というものを「肉体」が生み出している、という感じ。(はやりのことばでいうと「手紙」を「分節している」ということになる。)それを「肉体」の方に引き寄せようとしている。「肉体」に取り戻そうとしているように見える。もう一度生まれる前の状態(未分節の状態/井筒俊彦は「無分節」と書いているが、私は「未」をつかう。つまり「誤読」する)に引き戻し、そこから「手紙に書かれている事件」を生きなおす。そのために「読む」という「動詞」(肉体の動き)が必要になってくる。「肉体」は「読む」という動詞で、そういうことをしていると感じる。
 で、

毎日同じでもいらいらしない 手紙は

 という一行、あるいは「いらいらしないということばは感情を書いているように見えるけれど、私の感覚の意見では、やっぱり「肉体」なのだ。「いらいら」としか言い表すことのできない「肉体」の内部の何かの動き。「分節」できない何かが動いている、その動いているということだけがわかる感じが「いらいら」なのだ。
 そしてこの「いらいらしない」は「いらいらする/いらいらした」という「肉体」の感覚といっしょに動いている。そういうことを覚えていて、思い出しているけれど、同時にそれを遠ざけている。「しない」は「状態」だけではなく、「するのをやめる」という積極的な動きもある。動きがあって「しない」という「状態(動詞ではなく、存在)」になる。
 この「動詞」を含んだ「肉体」の存在感、それをことばにする力はとてもおもしろい。

 私のこの感想は、いちばん書きやすい部分をとりあげて書いただけなので、大江のことばの魅力の千分の一もつかんではないと思う。その「肉体(文体/ことばの肉体)」の味は、詩を読んで確かめてくださいというしかない。
*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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岩佐なを『パンと、』

2015-10-29 10:33:20 | 詩集
岩佐なを『パンと、』(思潮社、2015年10月31日発行)

 岩佐なをの詩については何度も書いている。この詩集に掲載されている何篇かの詩についても感想を書いている。「パン」をめぐる嗜好(?)が私とはずいぶん違っている。私は菓子パンというものが大嫌いだが(特にメロンパン、とか)、岩佐は好きなようだ。(好きなふりをしているだけかもしれないが。)何が嫌いかというと、気持ちが悪いのである。その気持ちの悪い部分を、岩佐は例の文体で書いている。「例の文体」では何のことかわからないかもしれないが、「意識」というよりも「肉体」のなかでつながる文体である。
 この「肉体」のなかでつながる文体というのは、まあ、私の「好み」なのだが、「好み」だからこそ、こだわりがあって、簡単に「大好き」とは言えない。むしろ、どうしようもなく、「嫌い/気持ち悪い」と言ってしまわないと落ち着かない部分がある。
 私は猫が苦手で、こわくて触れないが、猫科の虎はとても好きだ。虎の方もこわくて触れないかもしれないが、このこわさは猫に対するこわさとは違う。猫は精神的(感覚的?)にこわい。虎は肉体的にこわい。猫は、ようするに、気持ち悪い。ふにゃっとしていて。触ったことはないが(遠い昔に、何かの間違いで触れられた記憶があるのかもしれない)、あれが気持ち悪い。岩佐の文体には、そういう「触りたくない/触られたふにゃっ」のようなところがあり気持ちが悪いのだが、こんなに気持ちが悪いと言わないと落ち着かないのは、きっと自分の「肉体」のなかに「ふにゃっ」があるのではないかと恐れているのかもしれない。
 最近は自分の「肉体」にあきらめのようなものがでてきたのか、岩佐の文体が「好き」と言えるようになってきたのだが(と思っていたのだが)、やっぱり「パン」の連作を読むと、猫を見たときのように、近付きたくない、こわい、離れていようと思ってしまう。ことばとして(詩として)、しっかり動いているのだけれど、それが「正確」であるところが、猫嫌い(猫恐怖症)の私には、こまる。



 「パン」から離れると……。
 「指ざわり」。この詩についてもたしか雑誌に掲載されたときに感想を書いたと思うが、この詩が好き。

鞄の取っ手にはぐるぐると
ガムテープが巻かれ時を経て
端っこが幾分はがれかけている
ねばねば、ねばねば
利き手の親指のはらで
ねばつきをたしかめる

 これは、だれもが経験したことがあるかもしれない。「鞄の取っ手」ではないかもしれないが、ガムテープの端っこを剥がしてみる。めくれた部分に触ってみる。そういうことは。
 で、このだれでもが経験していること(肉体で覚えていること)の、どこが詩か。

ねばねば、ねばねば

 この一行が詩である。「はがれかけている」からの「改行」を利用した「飛躍」が詩である。
 ガムテープのめくれた部分が「ねばねば」するのは、別に目新しいことではない。だれもが知っている。しかし、「ガムテープのはがれかけて、めくれたところを触るとねばねばと指にくっついてくるものがある(くっついてくるものを感じる)」ということと、「はがれかけている/ねばねば、ねばねば」は違うのである。
 「触る」という動詞がない。「指」という動詞の主語である「肉体」を指し示す「名詞」もない。「ねばねば、ねばねば」と書いたあとで、「利き手の親指のはらで/ねばつきをたしかめる」と「たしかめる(動詞)」「親指のはら(肉体の部分を指し示す名詞)」で出てくる。
 「ねばねば、ねばねば」は「肉体」と「動詞」が省略されているのに、「肉体」に直接つたわってくる。「肉体」がかってに「わかってしまう」。この「肉体がわかってしまう」ことを、岩佐は「直接」書く。この「直接」は、私が猫はふにゃっとして気持ち悪いと思う「直接」と同じ。「肉体」の奥が岩佐に「直接」つながってしまう。
 で、そのあと、

この鞄を持って出歩くと
必ず何度も親指の指紋を
ガムテープにおしつける
ぬちぬち、ぬちぬち
剥がれた部分は次第に汚れ
そのうちねばねばも乾いていくだろう

 「ぬちぬち、ぬちぬち」が「気持ちが悪い」。感触が気持ちが悪いというを通り越して、「ねばねば、ねばねば」が「ぬちぬち、ぬちぬち」に変わっているのに、それが「同じものに対することば」であると「わかる」ことが気持ちが悪い。
 なぜ、わかってしまうのだろう。
 さっき「ねばねば、ねばねば」と書いていた。いま「ぬちぬち、ぬちぬち」と書いている。感触に「齟齬」がある。ね、「政治答弁」なら「論理的」にそう追及することもできる。でも、きっとだれもそんな言い方で岩佐の表現を追及しない。糾弾しない。「同じ」と「わかる」から。「肉体」が、「わかってしまう」から。
 「頭」が「ねばねば、ねばねば」と「ぬちぬち、ぬちぬち」は違うと言っても、「肉体」は、そういう「頭」を無視するだろう。
 このあたりの「揺れ」の部分で、私は、岩佐が「大好き」にかわってしまう。「大嫌い/気持ち悪い」と大声で叫びたいのに、うーん、好きかも。いや、好きだな。口では「大嫌い」といいながら、「肉体」のなかでは「大好き」と言っているのが、私の耳に聞こえてくる。
 あ、いやだなあ。



 もう一篇。唯一「未発表」の「箱 Take1. 消滅」。これは「Take2. 残り時間」と「対」になっている。ほとんどいっしょだが、一部が違う。「1」を推敲したのが「2」だろうか。「2」にしたけれど「1」がいいかも、と思い「1」も掲載することにしたのだろうか。

Take1. 消滅

老いの杜の奥にも陽のあたる
高台があって遠くには記憶をたよりに
想い描ける一番素晴らしい風景が
展がっている(気持ちいいですよ)
こころもからだも穏やかに耀いている
おとうさんを箱に入れた
おかあさんを箱に入れた
自分も箱に入る
と、箱はみるみる小さくなってついに(ふっ)
高台の地面には土と石とよみがえる草だけ

Take2. 残り時間

老いの杜の奥にも陽のあたる
高台があって遠くには記憶をたよりに
想い描ける一番素晴らしい眺めが
展がっている(キモチイイデスヨ)
こころもからだも穏やかにあたたかい
父を箱に入れて母を箱に入れて
やがて自分も箱に入るけれど
しばらくは懐かしい面影を求めたり
この世のせつない情景と交流すべきだろう
季節は優しく「穏やかに流れる」と約束してくれた

 私は「Take1.」の方が好き。終わりから二行目の、行末の「(ふっ)」が好き。
 この「ふっ」は、どう読むべきか。
 岩佐は説明していないが、私は「ふっ」と息を漏らして笑ったのだと思った。私の「肉体」は「ふっ」に誘われて、軽く笑った。おとうさんを墓(箱)に入れ、おかあさんも墓に入れ、やがて自分も墓に入る。真面目なことを言っているのだが、その「真面目」に対して、そんなものは「この世」の「永遠」(時間の流れ)のなかでは何でもないこと。墓(土と石)の上にはやがて草が覆うだけという「絶対」にを思い描き、自分を笑っているように感じる。
 そういう「時間」を「Take2.」のように、「穏やかに流れる」と言うのでは、岩佐の「肉体」が消えて、「頭」が残ってしまうことになる。
 (ふっ)なんて「ずるい書き方」は大嫌いだけれど、「穏やかに流れる」という「頭でっかち」のことばと比べると、「肉体」に「直接」響いてきて、こっちが好きだなあ、これがいいなあ、と言わずにいられない。
パンと、
岩佐なを
思潮社
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陶山エリ「人と逢った」

2015-10-28 12:25:30 | 現代詩講座
陶山エリ「人と逢った」(「現代詩講座」@リードカフェ、2015年10月21日)

 「現代詩講座」は、詩を持ち寄り、それを読み、感想を語る。まず一通り目をとおして、そのあと作者の朗読を聞く。そのあとすぐに一人ずつ感想を語る。じっくりとは考えない。読んだ瞬間(聞いた瞬間)に感じたことを語る。そうやって詩を探すのだが、だんだん何かが分かりはじめる、自分のからだになじんでくる、という変化が楽しい。
 どんなふうに展開するか。おおざっぱに再現してみた。

人と逢った  陶山エリ

逢った人があくびを噛み殺すその気づかいに一瞬窓の外を見るその気づかいが一瞬映り込む窓にわたしならもっと
もっと上手に噛み殺せる一瞬離れるロザリオ
一瞬動いた感情の比喩として当てがうロザリオ一瞬そうしてみたかった

今日の口紅はどうですかルージュ・ココにしようかルージュ・アリュールにしようか一瞬獣になって迷いました
口紅は色でしかない色はくちびるでしかないとくちびるは一瞬色に色はくちびるに互いの一瞬の歪みを押しつけ合いせめぎあい飲み物が空になるのを一瞬盗み見る度くすんでくる時間に気づかない一瞬が窓の内側にいる

本日のクレームブリュレはあまりに美味しくて2時間くらいなら一瞬やさしいひとでいられそう
そう一瞬考えるにはあまりに日はあまりに無表情に落ちてしまいました
探しても一瞬見つかるわけがないロザリオを探さなくてもどんな感情の比喩にしたいのか一瞬忘れてしまっても忘れてしまうにはすっかり
すっかり人と逢った日は抜け落ちてしまいました

一瞬と逢った日と人と逢った日
一瞬噛み殺してください
一瞬手放すという比喩に変えられてもかまわないそう伝えるにはあまりに
逢った人はあまりに鮮やかに窓に映り込む


<受講者1>「噛み殺す」があくびから始まり、人間にまでたどりつく。
      変化していくのがおもしろい。
      口の役割も、噛むだけではなく「飲む」も出てくる。
      会話のせめぎ合いに発展するのがおもしろい。
<受講者2>ことばが蛇のようにからまり動いていく。
      二連目の「口紅は色でしかない」から「せめぎあい」までがおもしろい。
      「噛む」が強く、過激になっていくのがいい。
      ただ三連目の「そう一瞬考えるには……」は一瞬動きが止まる。
<受講者3>陶山節、ことばが動いている。

 私も、「口紅は……せめぎあい」までが非常におもしろいと思う。口紅とくちびるは音が似ていて、口紅の色とくちびるの色が入り乱れて、何かわからなくなるのが楽しい。「わからない」のだけれど、その「わからない」を突き破って動いていく何かがある。「ちから」が動いている。
 もう一か所、「本日のクレームブリュレは……」の一行も、とてもおもしろいと感じる。
<質  問>この行は男性から見て、どう? おいしいとやさしくなれる?
<受講者1>なんとなくわかるけれど……。

 実は私は「あまりに美味しくて」「一瞬やさしいひとでいられそう」の「美味しくて」と「やさしい」の結びつきが、私には、昔はわからなかった。「おいしい(たぶん、甘い)」と「やさしい」はたしかに「共通感覚」なのだろうけれど、それが「体感(実感)」としてはなかなか理解できなかった。
 ジョン・トラボルタの出た「マイケル」という映画がある。トラボルタは「天使」の役。ジャーナリストが「天使」を探しに行く。その途中、女性記者が田舎の家の近くでバターの匂い(甘い香り)に気づき、夢中になる。一瞬、「天使」を探していることを忘れる。そのために男の同僚からバカにされるのだが、その瞬間、夢中になる女の姿をとおして、あ、これが女の感覚か、女なのかと気がついた。それを思い出した。いやな男をウィリアム・ハートがやったのだが、彼の「こんなときにバターの甘い匂いなんてどうでもいいじゃないか」という「合理的(?)」な批判があって、初めて、女の「甘い匂い」に対する執着(愛着?)がはっきりわかってびっくりした。
 女性の監督の作品だが、そうか、女性から見ると、男の態度というのは、このウィリアム・ハートの態度なんだな。そして、それは女にとっては、気に食わないことなんだな、とわかった。
 さらに、「天使」と旅をする途中のクレープ屋。トラボルタが、店にある全部の種類のクレープを注文しよう(食べよう)というと、いあわせた女たちが夢中になる。盛り上がる。この感覚。そこに「やさしさ」がある。「やさしさ」が「あまい」といっしょになって動いている。この「やさしさ/あまさ」への夢中の感覚、それが女独特の感じでおもしろいなあ、というようなことを話していると……。

<受講者2>「2時間くらい」と「一瞬」が矛盾している。

 という指摘があった。
 えっ、ここで、こんなことを考えるのか?
 そうか、「一瞬」をほんとうの「一瞬」と読んだのか、と私は驚いてしまった。
 私は「2時間」を「一瞬」という「比喩」として語っているのだと思って読んでいた。あるいは「一瞬」を「2時間」と呼んでいるのだと思っていた。この区別のなさというか、融合した感じが「美味しくて」と「やさしい」のまじり具合にもにていると思ったのだが、「美味しくて/やさしい」が「一体」であることが当然と感じる女性は、逆に「2時間」と「一瞬」のぶつかりあいが気になるのか。

<受講者2>この詩には「一瞬」がたくさんある。一個、二個、三個、四個。
      四個ある。あ、もっとある。

 よく見ると、三連目の最終行と四連目の最終行の二行以外には「一瞬」ということばがある。けれど、「2時間くらいなら一瞬」ということばの結びつき以外では、このとき詩を読んだ誰も、そのことに気がつかなかった。「一瞬」はまるで書かれていないかのように読み落とされていた。
 「2時間」と「一瞬」が矛盾しているという指摘がなかったら、そのまま気づかないままだったかもしれない。繰り返される「一瞬」よりも、繰り返されない個別のことばの方に意識がひっぱられていた。

<受講者1>最終行には「一瞬」というこことばのかわりに「鮮やか」がある。
      「あざやか」と「一瞬」は同じ。「一瞬」は「鮮やか」

 この指摘はおもしろい。
 陶山の詩の特徴、陶山の詩が「陶山節」といわれるゆえんは、ことばのねじれにある。ねじれは「連続」でもある。ところが「瞬間」というのは逆のイメージである。つながっていない。切断されている。「ねじれ」の連続のなかに、何かが瞬間的にしぼりこまれる。その「一瞬」を「一瞬」ではなく、別の「あざやか」なことばで感じる。「一瞬」ということばは、「あざやかな」何かを照らすスポットライトのようなものである。
 何が印象に残るだろう。
 「噛み殺す」ということばかもしれない。「ロザリオ」かもしれない(このことばは、しばしば陶山の詩に登場する)。あるいは「ルージュ・ココ」「ルージュ・アリュール」かもしれない。「クリームブリュレ」かもしれない。
 そこにありながら、「あくびを噛み殺す」という「肉体」を見て、それに嫌悪(?)を感じた(ひとを噛み殺したくなった)という感情のストーリーを破っていく「もの」の存在。ストーリーからの「逸脱」が、詩として印象に残る。何かが持続しながら、何かが逸脱していく。そして、その逸脱がいつのまにか「本流」というか、いちばん大事なものになっていく、というのが陶山の詩に多いのだけれど、今回の詩は、「ストーリー」はそのまま「持続」の形で残っている。「一瞬」が「持続」している。

陶山    「瞬間」ということばを10個以上つかって詩を書く。
      そういう課題を与えられたらと仮定した書いた。

 種明かしをするように、陶山はそう語った。
 「作為」が「一瞬」にこめられている。「わざと書くのが現代詩」と定義したのは西脇順三郎だが、その「わざと」がここにある。

<受講者3>「一瞬」のすべてを、他のべつのことばに変えてみたくなる。

 あ、これはおもしろいなあ。何に変えられるだろう。
 「講座」でもその話をしたが、言い換えられることばが見つからなかった。それは逆に言えば、この詩では「一瞬」がキーワードとして、詩にしっかり絡みついているということだろう。
 「わざと」書いた「一瞬」が詩そのものをつかんでいる。

 そういう「作為」に満ちた詩なのだが、陶山はどこで悩んだだろう。書くときに苦労したのはどこだろう。

陶山    2連目。自分でも書いていてわからなくなった。
      他にことばが見つからない。
      「獣」は推敲で書き直した。「獣」ということばですっきりした。
<受講者3>「獣」だから「散文」から詩になった。

 私も、そう思う。散文から「逸脱」し、飛躍する。その瞬間に、散文ではとらえることのできない何かが噴出する。それは「意味」としてとらえ直そうとすると、めんどうくさい。わからないまま、あ、おもしろい、と思えば、それが詩なのだ。ここが好き、と思い、その好きなところで立ち止まって、その「好き」を十分味わえばいい。

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谷内修三詩集「注釈」発売中

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小川三郎「桜土手」、青山かつ子「惜別」

2015-10-27 11:11:06 | 詩(雑誌・同人誌)
小川三郎「桜土手」、青山かつ子「惜別」(「repure」21、2015年10月17日発行)

 きのう「詩になんて、ここが好きとかってに思えばそれでいい」と書いた。かってに思うのだから、作者の「意図」はもちろん気にしない。作者の「意図」とは違った風に読むということもある。作者の「意図」なんて、わからない。自分の考えていることだって、瞬間瞬間に変わってしまうのだから。
 と、いくら書いてもしようがないので。
 まず、小川三郎「桜土手」

貧相な川岸にて
桜がもうとにかく
満開であるのだが
最近は色がわからなくて
どれも真っ白に見える。

その根元に
貧相な老夫婦が
座り込んでいる。
妻は居眠りしかけていて
夫はいろいろ
話しかけている。

 「貧相」が一連目、二連目で繰り返されている。ここまでは、どこが「詩」なのか、よくわからない。「貧相」なものを、わざわざ書いて、「貧相」に詩がある、と言っているわけでもなさそうだ。(芭蕉なら、「わび/さび」に詩がある、というかもうれないが、「貧相」と「わび/さび」は違うだろうなあ。)
 「最近は色がわからなくて/どれも真っ白に見える。」の二行のなかにある「発見(どれも真白に見える)」が詩といえるかもしれないが、それにしたって「発見」というよりは、すでに言われていること。小川に言われなくても、私にも「見える」。
 その場で見たことを、ただ「行分け」にしただけのように見える。

あの夫婦はもう
色なんてなくても
平気なのだ。

 うーん。ここで、少しつまずく。「色」とは何だろう。満開の桜の色? 桜が桜色ではなくて、色を失って「真っ白」でも「平気」? そう読むことができる。
 でも、「妻は居眠りしかけていて/夫はいろいろ/話しかけている。」という直前の行の影響を受けて、私は「色」を「色事」と思ってしまう。あからさまにいえば、セックス。「あの夫婦はもう/セックスなんてなくても/平気なのだ。」老夫婦だからね。
 では、セックスとはなんだろう。性器と性器の結合。粘液の交じり合い。わけのわからない、興奮。
 桜(満開の桜)を見ることは、セックスとどうつながるだろうか。「満開」にエクスタシーの興奮を重ねてみる。結合しながら、結びつくというよりも、何かが解放(開放?)されて、開放されたところから、自分が出ていってしまう。自分が自分でなくなる。そういう「勢い」を満開の桜のなかに見るのかもしれない。そういうものを見たくて満開の桜を見に行くということは、あるなあ。
 桜の「勢い(力)」を全身にあびて、受け止めたエネルギーをセックスのなかで発揮する。そういうことが楽しくて、桜を見に行くということがあるなあ。
 でも、老夫婦は、そんな「夢」を見ているわけではなく、ただいっしょにそこにいる。妻は居眠り。それを承知で夫はいろいろ話しかけている。それが、「独特の色」であるかどうかは、まあ、見方次第だ。
 小川は「色なんてない」と見ている。そして、その二人を「平気」と見ている。
 この「平気」はむずかしいぞ。
 どういう「意味」だろう。
 若いときは、一日に何度でもセックスすることが「平気」。老いてしまうとセックスしなくても「平気」。セックスするとセックスしないが、同じ「平気」ということばで語られてしまう。どうして?
 「平気」は、「いま」を受けいれてしまうということかな? 何かを受けいれるということは、自分がかわることだけれど、自分がどうなろうとかまわない、というのが「平気」かもしれない。(愛とは、自分がどうなってもかまわないと覚悟して、相手をうけいれること、と付け加えておこうか。)
 そんなふうに小川が思ったかどうか、はっきりしないが……。

あんなふうになりたいとは
思わないのだけれど
この世が特別な場所でもあるような
そんな気持ちになって。

 この三連目の「思わないのだけれど」の「逆説」がいいなあ。
 あんな色のない老人(老夫婦)になりたいとは思わない、というとき、「老人」を小川は「否定」している。けれど、その否定とはうらはらに、そういう老人が生きているということ、「この世」を否定していない。
 受けいれている。
 「この世が特別な場所でもある」の「ある」は「肯定」である。(否定なら「ない」、肯定だから「ある」。)
 受けいれ、肯定している。これを別なことばで言うと、小川は、ここで「平気」になっている。このときの「平気」は、二連目の終わりの老夫婦の「平気」と同じものである。小川は、こんなことをいうと小川に叱られるかもしれないが、ここで「老夫婦」と「一体」になっている。「平気」ということばを媒介にして。
 だから、最終連、

私はその場で
少し居眠りをした。

 これは二連目の「妻」の姿と重なる。詩では「妻」だけれど、もちろん二連目の「妻」と「夫」は入れ替え可能な「関係」であるから、まあ、どっちでもいい。だから私は、小川は「老夫婦」になっている、と読む。(あるいは、老夫婦を見て生きる小川は、居眠りをした「妻」が見た夢かもしれないのだが……。)
 で、この詩のどこが好きかというと、三連目だね。「あんなふうになりたいとは/思わないのだけれど」から「この世が特別な場所でもあるような/そんな気持ちになって。」という矛盾を超えていく変化が好きだなあ。いや、矛盾そのものが好きなのかな。よくわからない。



 青山かつ子「惜別」は「叔母さん」との永遠の別れ。一連目「湯灌」という生々しいことばから始まり、二連目は叔母さんとの架空の対話。死んでしまっているので実際には会話はできないからね。そして三連目。

髪をなでる 頬にふれる 手を重ねる…
帰省のたびに洋服を仕立ててくれた手
好物のおはぎをこしらえてくれた手
ガマ口から小遣いをわたしてくれた手
十五歳から私の第二の母だった叔母さん
ありがとう
(まだ泣かないで)
「わかっているわ 叔母さん!」

 この最後のやりとりがいいなあ。叔母さんは最後の別れの「涙」のことを言っているのだが、「泣かないで」と叔母さんが言うのはこれが「最初」ではないのだ。きっと何度も何度も青山は「泣かないで」となぐさめられ、はげまされてきたのだろう。そのとき叔母さんはきっと「あたたかい手」で青山を抱いてくれたのだろう。そういうことは具体的には書いてないのだけれど(青山は、いつ泣いたのか、ということは書いていないのだけれど)、「まだ泣かないで」の「まだ」のなかに「過去」が見える。「ほんとうに泣くのは、まだだよ。きっと心の底から泣かないと生きていけないときがある。それまで泣いちゃだめだよ」という声が聞こえる。青山は何度も何度も「わかっているわ!」と答えたのだろう。
 涙をこらえている、この最後のことばが好き。


フィラメント
小川 三郎
港の人

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谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
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たなかあきみつ「[超高層ビルの自動エレヴェーターのように……]」

2015-10-26 10:59:12 | 詩(雑誌・同人誌)
たなかあきみつ「[超高層ビルの自動エレヴェーターのように……]」(「repure」21、2015年10月17日発行)

 たなかあきみつ「[超高層ビルの自動エレヴェーターのように……]」は何を書いているのか。タイトルは書き出しの一行を含んでいる。意味はない。(と、思う。)そう書きはじめた、というだけのことである。ということは、書くということ、あるいは書きはじめるということそのものがたなかにとっては重要であり、あとは書くことについてくる何かということになる、のかな?

超高層ビルの自動エレヴェーターのように
プロレスラーの寸足らずの耳から決壊する--すなわち脳天をキーンと南方発祥の
《白熊》アイスの純白のもろ強烈な食感とは異なり
どの動物園でも白熊たちは
万年雪のようにうす汚れて黄ばんだ毛並み、
もう《新雪》の純白は色彩として
脳内の氷雪上にしか見当たらない。

 動物園の白熊の毛の色にがっかりしているらしい。そんなことを書くのに、「超高層ビルの自動エレヴェーター」から書くというのは、どういうことだろう。めんどうくさいひとだなあと思う。エレベーターに乗って耳鳴りがする? その「キーン」が白熊アイス(鹿児島が発祥といわれる)を食べて脳天がキーンとする感じに似ている。へええ。で、そこから「白熊」つながりで動物園? 連想が貧弱。おもしろくないなあ。
 二連目は、そこから少し変化する。白熊が水のなかで氷の塊でももらって遊んでいるのをみて水族館へと連想がひろがっていくのか、あるいは単に動物園から水族館へと動いただけなのかわからないが……。

水族館の目玉のイルカショーの俊敏なドルフィンキックよりも
はるかに華麗で根腐れとは無縁の神経網のダンスを
くらげはゆうやく垂直に披露してやまない、釉薬のように
くらげの暴力性は徹底的に神経のそれぞれの先端にまで刺創にまで到達している、
あるいはロラン・バルトの指先確認でエルテ誌上の火文字の数々を参照せよ、
同時代のダンスは蛇ダンスでも相次いで文字の踵の発火するのと
同時に毛髪エクラの傘のもとタイポロジックなダンスを

 イルカショーではなく、くらげのダンス。そこから神経網、神経の先端、暴力というようなことばが動き、ロラン・バルトなんかも出てくる。「指先」だの「踵」だの、あるいは「踵の発火」だのということばは、ロラン・バルトに関係しているのかもしれない。「参照せよ」なんて、言われてしまう。
 そんなもの参照しなくてもわかるように書くのが詩なんじゃないか。
 などと言っても、まあ、はじまらないね。
 もしかすると、たなかは「ロライ・バルト」よりも「参照せよ」ということばの方を書きたかったのかもしれない。連想のつながるままにことばを動かしていく。「ゆうやく(勇躍?)」と「釉薬」のだじゃれのようなもの、「タイポロジック」という美しい響き。それがいったい何の関係がある? と誰かが質問したなら、それには応えず「……を参照せよ」と切り抜けてしまう。その「切り抜け方」を書きたいだけなのかも。
 「意味」ではなく「意味」を逸脱していく運動、「意味」を逃走していくことばの力というものを書きたいだけなのかも。
 あ、私は、そう読むということだけれど。
 ちょっとあいだの何連かをとばして。

あじさいの葉っぱに一点黒い虫がズームインするだけで
その葉っぱの動線は変わる、一挙に斜線で
光線のまぶしい葉脈をまたぐアクセント記号
あるいはサッカーボール大のキャベツの半円形の表皮から
水滴のように転がり出た青虫、色彩に忠実なら緑虫だが
色彩の鮮明度ともどもキャベツの鮮度を保証する雨の日の出来事だった、
雨に濡れた消波ブロックから爪先のレ点を逃走させずともOK!

 そうだなあ。「ズームイン(する)」ということばが出てくるが、これがたなかのことばの運動を象徴しているかもしれない。何かにズームインする。そういうとき、何かがズームアウトされるというか、ズームインしたもののまわりで全体が消えて行く。何かが拡大され、その拡大された細部にさらにズームインしていくと、全体とは違ったものが見えてくる。「葉っぱの動線は変わる」の「変わる」がポイントだ。その変化に誘われて、どこまでも「最初」から逸脱する。
 「動線」→「斜線」、「青虫」→「緑虫」への変化、さらに「色彩に忠実なら」→「色彩の鮮明度」→「キャベツの鮮度」、「雨の日」→「雨に濡れた」という尻取りをりみうした「逸脱」もある。
 この詩の書き出しの「超高層ビルの自動エレヴェーター」も「白熊」も、もうここには存在しない。もし何かが書き出しからひきつづき存在しているとしたら「自動」ということばかもしれない。エレベーターに「自動」なんてことばが必要かどうかわからない。(自動エレベーターってだいたい何? エレベーターを動かすひとののっていないエレベーターということなら、いまはみんな、そう。余程の高級ホテルならエレベーター係がのっているだろうけれど。)こういう他人(読者)にとってはどうでもいいが、筆者にとっては書き飛ばすことのできないことばは「キーワード」である。
 で、そのことばを利用して、たなかの書いている詩を「自動筆記」の詩、と呼んででみることもできるかもしれない。
 こういう詩をどう読むか。
 あら、むずかしい。
 私は、私の「好み」を探して、その「好み」にだけ反応することにする。「自動」反応。「無意識の自分探し」である。そして、こんなふうに言う。「神経網のダンス」と「暴力性(神経の暴力性/頭脳の暴力性」ということばが「ロラン・バルト」を経由して「踵の発火」につながるのがおもしろい。「踵の発火」は美しいことばだなあ。「タイポロジック」という音楽も美しいなあ。いつか剽窃してみたいなあ。「アクセント記号」「レ点(記号)」の対比も楽しい。「キャベツの半円形の表皮」は楽しい発見だ。「雨に濡れた消波ブロック」は美しい。「雨に濡れたテトラポット」よりも美しい。こういうことばを覚えておこう、と思う。
 そういう「好み」のことばのなかで私はかってにたなかに出会い、それ以外のことばのなかではすれ違ったことも気づかない。
 こういう読み方で詩を読んだことになるのか。わからない。けれど、詩にかぎらず、文学(芸術)なんて、「ここが好き」とかってに思えばそれでいいものなのだと開き直る。


ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂


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谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
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オリビエ・アサイヤス監督「アクトレス 女たちの舞台」(★★★★)

2015-10-26 09:36:04 | 映画
監督 オリビエ・アサイヤス 出演 ジュリエット・ビノシュ、クリステン・スチュワート、クロエ・グレース・モレッツ

 三部から成り立っているだが、映像がそれぞれまったく違っているのでおもしろい。
 第一部は列車のなかからはじまる。列車の揺れでカメラが揺れる。人物が揺れる。映像が安定しない。列車を降りて車に乗ると、こんどはガラスに町の風景が映り込み、車に乗っている役者の表情がはっきりとは見えない。町の風景も車に映っている影では全体像がわからない。この映像のなかで、ジュリエット・ビノシュを育て上げた劇作家の死、彼女の出世作となった戯曲の再演(ただし、役どころは20年前とは逆。ジュリエット・ビノシュは若い秘書ではなく、若い秘書によって自殺に追い込まれた上司の役をやることになる)の話が交錯する。ジュリエット・ビノシュは何かの賞の授賞式に、劇作家のかわりに出席するのだが、そこへ昔の共演者(男)もやってくる。そういうなかで、揺れるジュリエット・ビノシュの視線、不透明なジュリエット・ビノシュの感情をそのまま映像にしたような感じだ。
 第二部は、劇作家の残した別荘(家?)と自然が舞台。映像はくっきりしている。戯曲のタイトルとなった「***の蛇」という、山を越え、谷に流れ込む雲が唯一不透明、不安定な存在だが、その不安定な流動がとても美しいというのが、なんとも不思議な矛盾として印象に残る。
 その、人間の心情などに見向きもしない自然の非情の美しさのなかで、ジュリエット・ビノシュは芝居の下稽古をする。若いジュリエット・ビノシュがやった秘書の役を、実際の若い秘書が演じる。その「演技」に、ジュリエット・ビノシュは何を見たのだろうか。自分の過去だろうか。それとも、秘書によってあぶりだされる40歳の女の「あせり」のようなものだろうか。若さの衰えと、若さをうしなうことへの絶望のようなものだろうか。若さへの嫉妬、嫉妬を感じる自分を新しく発見したかもしれない。
 瞬間瞬間に表情がかわり、声がかわるのだが、それはジュリエット・ビノシュが演じている「役柄」としての変化なのか、それともジュリエット・ビノシュの「地」なのか、感情の噴出なのか、区別がつかない。特に、怒りのシーン。「秘書(役どころ)」の態度に怒りが爆発して立ち上がり煙草を吸う。そのとき、ジュリエット・ビノシュは演じているのか。怒っているのか。
 怒っているのは、「秘書」の態度に対してなのか。「役どころ(上司)」を演じなければならないということに対してなのか。「芝居」ではなく、そういう芝居をしなければならない自分自身への怒りのように見える。
 その「怒り」は「役どころ」を超えて、現実に反映する。秘書に対する怒りとしてあらわれてしまう。ジュリエット・ビノシュには、そのつもりはないかもしれない。けれど秘書の方が、ことあるごとにぶつかってくるジュリエット・ビノシュに対して、「私へ怒りをぶつけないでくれ、私は稽古の相手をしているだけなのだ」と訴える。
 こういうことに、ジュリエット・ビノシュの若いときを演じる女優の姿、彼女へのジュリエット・ビノシュの蔑視のようなものが混じりこむ。若さへの蔑視が、かろうじてジュリエット・ビノシュの「尊厳」を支えている。熟成がジュリエット・ビノシュを支えるのではなく、他者への蔑視が彼女を支えている、ということにジュリエット・ビノシュは気づいていない。
 無言の自然を背景に、ほとんど二人だけで演じられる世界をとおして、ふたりの心理がくっきりと浮かび上がる。
 この第二部の終わりは、また、とてもおもしろい。「***の蛇」という流動する雲海のようなものを見に行くのだが、それを見る寸前に若い秘書はジュリエット・ビノシュの対応が我慢できずに、彼女のもとを去ってしまう。その秘書を探して、ジュリエット・ビノシュも「***の蛇」を見逃してしまう。見逃してしまうのだけれど、そこには人間の思惑など無視して、「***の蛇」が美しく動いている。それを映画ははっきりと映し出す。この美しさは、冷酷でさえある。
 第三部はロンドンでの芝居(の稽古)。ここでいちばんおもしろいのは、その「舞台」のセットである。会社のなかなのだが、壁がすべて透明な硝子で仕切られている。他人のやっていることが「丸見え」なのである。
 もちろん第一部でも第二部でもそれぞれの登場人物の「感情」は見えるのだが、「見える」ということが映像として「視覚化」されていない。映像に「見える」が象徴されていない。しかし、第三部ではそれが「象徴」をとおして語られる。
 ジュリエット・ビノシュは他人のすべてを見ているつもりだが、逆である。彼女には見られているつもりはなくても(自分を隠しおおせているつもりでも)、すべては他人に見られてしまっている。すべては彼女の思いとは逆に動いている。
 ジュリエット・ビノシュは若い役者に対して、一か所注文をつける。第二幕の終わり、部屋を出て行くとき「間」をおいてほしい。そうすると観客がジュリエット・ビノシュの存在に気をとめる。これに対して、若い女優は、そんな演技はしない、という。もうその段階で誰もジュリエット・ビノシュのやっている「役」のことを忘れている。見捨てている。「忘れられた存在なのだ」と宣告する。それは「役」のことか、それともジュリエット・ビノシュのことか。ジュリエット・ビノシュは自分自身のことだと受け止める。そこで映画は終わる。
 この映画には、何があったのか。この映画は何を描こうとしたのか。おそらく人間にはどうすることもできない何か、「時間」が過ぎ去っていくということを、人間はどう受け止めるべきか、ということかもしれない。「時間」は第二部の終わりの「***の蛇」のように、人間が見ていようが見ていまいが、無関係に動いていく。その動きのなかに、ときにとても美しいものがあらわれる。ただし、それを「美しい」ととらえることができるは、特別の「位置」からである。「***の蛇」ならば、その動きが見える峠。
 もし「***の蛇」のなかにいれば、何も見えず、道に迷ってしまうだろう。視界は雲にさえぎられて、わかるのは自分の「肉体」の存在だけである。それがどのようなものか、「客観化」できない。「いままでの自分」を手がかりにして、そのまま「自分」がいると思い込んでしまう。
 第二部でジュリエット・ビノシュはくっきりと描かれるが、その「くっきり」は彼女にはわからない。彼女は「***の蛇」のなかを手探りで歩いているにすぎない。
 ジュリエット・ビノシュの「思い込んでいる自分の姿」はどこにもない。ひとが(観客が/若い女優が)見るのは、ジュリエット・ビノシュをとおしてみるのは「時間」が過ぎ去ったということだけである。「時間」は過ぎ去った。
 さて、これをどう受け止めるか。何度か映画のなかに「成熟」ということばが出てくるが、受け止め方のなかに「成熟」があるということだろうか。
 もし、ジュリエット・ビノシュが自分自身を美しく見せるなら(見せたいなら)、彼女は「***の蛇」になるしかないのだ。あるとき偶然姿をみせる「時間」となって、ひとの視界を通りすぎるしかないのだ、と言っているように、私には思えた。



 この映画は脚本がすばらしい。ジュリエット・ビノシュと二人の若い役者もすばらしい。気に食わない部分があるとすれば、音楽である。うるさい。特に第二部の出だしと終わりは音楽がない方が自然の美しさが際立つと思う。音楽が「感情」をむりやり引き出そうとしているようで、ぎょっとする。黒星を4個にしたのは音楽が気に入らなかったから。
                      (KBCシネマ2、2015年10月25日)




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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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詩集「注釈」残部僅少

2015-10-25 22:06:36 | 詩集
2015年10月24日、西日本新聞文化欄に岡田哲也さんが、「注釈」の批評を書いています。
pdfファイルでアップします。
(先日アップした、読売新聞西部版・文化欄の、渡辺玄英さんの批評も再度アップ)

「注釈」は1000円(送料込)で発売中。
「注釈」+「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(1800円)=2000円(送料込)
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上原和恵「べべの変格活用」

2015-10-25 09:45:30 | 現代詩講座
上原和恵「べべの変格活用」(「現代詩講座」@リードカフェ、2015年10月21日)

 いろいろな詩を読むと、「あ、こんなふうに書いてみたい」と思う。そして実際にやってみる。自分の思ってけいたことが、いつもとは違ったことばのなかを通ることで、新しい自分に出会える。
 今回は、そういう作品。

べべの変格活用    上原和恵

赤いべべ着て朱の鳥居をくぐり
柏手で七つのお祝いおさめ
お狐さんの赤いべべの後ろに隠れ
神隠しにあったと大騒ぎする親を
「こん」と笑った

右と左の二つにわかれた
朱の鳥居のトンネルの始まりに
どちらを行けばよいのかと
白いべべをめくり
「えい」と高く下駄をほうると
右の鳥居に「こん」とあたり
ちょっと通してくだしゃんせ
くぐり抜けた先なんて誰にも分かりゃしない
「えい」と運に任せ
右のほそ道に一歩の歯型をつける

お日様がきらきらと隙間から降りそそぎ
朱に照り返されたべべは
たぎった血管と合わさり
白いべべは朱のべべとなるが
下付きの黒色が足をもつれさせ
水銀の毒気におかされたのか
崩壊寸前の精神で
白いべべは黒ずみ
行きはよいよいではなかったし
左の方にも怖くて帰れない

赤いべべ着れば気が狂ったと
ばばの白色のよだれかけは悲しく
早く神に召されよと
子どもたちが祈願する

 受講者の感想。

<受講者1>タイトルがおもしろい。最初「ベベ」はひとの名前かと思った。
      かわいいことと、怖いことが生々しく混じりあっている。
      「たぎった血管」、血管がたぎるというのがおもしろい。
<受講者2>「ベベ」は服。
      最初は明るいが徐々にかわっていく展開。
      「下付き」からがこわい。
      水銀、毒気、崩壊と一気に底に突き落とされる。
<受講者3>おもしろい。「赤いベベ」は七つのお祝い。
      横溝精史の小説のよう。
      最後に上原さんの願望がでているのがおもしろい。
      「変格活用」が聞いている。「ベベ」の変化をあらわしている。

 筆者の上原は、「変格活用」ということばがおもしろくて、自分でもつかってみたくて書いた。テレビで稲荷神社を包装していて、そこから触発された、ということだった。
 詩は、書かれている内容というよりも、書き方。作者がどんなに感動的なことを体験しようと、その「書き方(ことば)」がおもしろくなければ、読んでもおもしろくない。おもしろくなるためには、まず作者が自分のことばを「おもしろい」と感じないといけない。「変格活用」ということばはおもしろい。だから、それをつかいたい--こういう詩の出発は楽しい。書きたい、書くことで何かを見つけたいという欲望が動いている。
 どんな「変格活用」があるだろうか。

<受講者1>赤いベベ、白いベベ。
<受講者2>鳥居の朱色とベベの赤。「赤」という色のなかの変化。
<受講者1>色の変化。黒も出てくる。
上原    水銀は朱色の下色。(鏡の朱泥)
<受講者3>右と左。
<受講者2>行きと帰り。
上原    「べべ」と「ばば」も変格のつもり。

 この上原の意図(?)は一連目の「神隠し」と最終連の「神に召されよ」という「変格活用」を言い直したものだろう。幼い子供は「神隠し」にあう。年取った老人は「神に召される」。どちらも「この世」から消える。親は「神隠し」にあったこどもを心配する。こどもは「ばば(老人)」は早く死んでしまえと祈る。
 現実に、こどもがそんなことを思うのはよくないことかもしれないが、詩は「現実」でも「倫理」でもない。どんな「欲望/本能」でも、それが正直に動くなら、それでいい。私たちは、自分のできない「欲望/本能」をことばのなかで体験するということが必要なのだ。
 殺人者が主人公の小説でも、その殺人者が失敗すると、「殺人がなくてよかった」とは思わずに、「ああ、こんなことで失敗して」と思ったりする。警官に追われると、早く捕まってしまえ、とは思わずに、はらはらどきどきする。一方で、そのはらはらどきどきが楽しい。わくわくする。
 倫理的に考えると変なのだけれど、そのとき私たちは「いのち」の何かに触れているのだと思う。
 この詩は「七つのお祝い」(こどもの成長を祈る)から始まり、「ばばの死」まで「いのち」が「変格」していく。順序正しくというより、まあ、そのときの都合で思わぬ道をたどって動いてしまうということを書こうとしている。「くぐりぬけた先なんて誰にも分かりゃしない」の「分からない」が、そのことを端的に語っている。
 欲を言えば、その「変格」のハイライトの三連目が、もっと強烈、もっとでたらめ、もっと欲望丸出しという具合ならおもしろい。「ばばは神に召されよ(死んでしまえ)」が老人なのだから死ぬのはあたりまえ、くらいの感じで響いてくるくらいになると、詩はたのしい。こんなに苦しいなら死んだ方が楽、というくらいのことを三連目で書けると、詩は強烈に輝く。
 鳥居をくぐりぬけることが産道をくぐりぬけること、生まれていながらもう一度ど生まれ変わることにつながるとおもしろい。(そういうことを書こうとしたのだろうと推測できる。)セックスがあって、血管がたぎり、白い精子を受精し、卵子が分裂しはじめ、胎児の形になり、羊水の荒海を生き抜き、血まみれになって産道から新世界へとび出す。泣きわめいて自分の存在を告げる。その爆発的な力が、古い人間に「邪魔だ、邪魔するな、早く死んでしまえ」と言えると、詩は楽しい。
 「毒気」とか「崩壊」ということばに「代弁」させているのが、ちょっと残念。
 でも、あんまり乱暴なことを書くと批判される。それが、心配。そうかもしれない。えっ、このひとほんとうはこんなわがままなひとだった?と思われるのは困る。そうかもしれない。でも、逆に、よく書いてくれたと思うひともいるかもしれない。ほんとうは、こう言いたかった、言いたかったのはこういうことだ、と思うひとがいるかもしれない。
 「誤解」なんか、どうでもいい。人間は誰でも「誤解」されるもの。「誤解」されることを利用して、思い切って自分ではなくなってしまえばいい。
 でも、これは次の課題。

 ちょっと後戻りして。
 こういう詩は、どうしても「大きな変格」(三連目)に目を奪われ、そこを中心に感想が動いてしまうが、小さな「変格」に目を止め、

<受講者3>一連目の「こん」と笑った、二連目の「こん」とあたりがおもしろい。
      二回出てくる「こん」がいい。

 という指摘があった。
 一連目は狐の「声」、二連目は下駄が鳥居にあたる「音」。
 とても耳のいいひとだ。
 一連目の「こん」も二連目の「こん」も、ほんとうは「こん」ではないかもしれない。でも「こん」と同じ「ことば(音)」で書く。その「同じ」のなかにある「違い」。それこそ「変格」のいちばん大きいものかもしれない。
 「赤」と「白」は区別がはっきりしている。「七つの子」と「ばば」も区別がはっきりしている。「表記」そのものが違う。狐の鳴き声と下駄が鳥居にあたる音も違うはずなのに「こん」という「表記」が同じ。「表記」ではないことろ、「おもて」ではなく「奥」で何かが違う。
 ことばでうまく説明できないものを通りぬけているので、一連目と二連目は、不思議にスムーズにつながりながら、ずれていく。その「絶妙」な動きを支えているのが、この「こん」の「変格」である。
 で、その「こん」が「えい」という「声」に「変格」してゆく。
 この「えい」は二回出てくる。
 最初の「えい」と次の「えい」は、やはり「変格」しているが、この「変格」は狐の声と下駄の音よりもっと微妙だ。下駄をほうるときの「えい」は、まだ「運任せ」ではないが、一歩踏み出すときの「えい」は肉体そのものの動きなので「運任せ」が強い。「肉体」で「運」を実践するのだから、それは「任せ」ではないのだけれど、「任せ」というしかない何か、「分からない」何かである。「分からない」ことでも、人間は何かをすることができる。「肉体」が何かをしてしまう。「わからないまま」。
 二連目がていねいであるだけに、三連目が、やはり急ぎすぎている感じがする。
 でも、これは先に書いたように、次の課題。
 いっしょに詩を読んでいるひとが変わっていくのを見るのは楽しい。

*

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谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

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尾花仙朔『晩鐘』

2015-10-24 12:14:24 | 詩集
尾花仙朔『晩鐘』(思潮社、2015年09月20日発行)

 尾花仙朔『晩鐘』の最後に収録されている「百鬼夜行の世界の闇に冥府の雨が降っている--国家論詩説鈔録」は長い詩である。長いけれど「鈔録」。もっともっと言いたいことがある、言わなければならないことがある、ということだろう。その思いの強さがことばの強度そのものになっている。

冥府の雨が降っている
百日百夜とぎれなく冥府の雨が降っている
この世ではない次元空間から降る雨だから冥府の雨は目に見えない
見えないけれど暴虐が地に満ちた世界に隈なく降っている

 「見えない」が二回繰り返されている。「見えない」けれど、尾花には「冥府の雨」が降っていることがわかる。なぜか。同じ雨を尾花が「肉体」で覚えているからである。「肉体」が思い出すのである。なぜか。いま世界が「暴虐に満ち」ているからである。「暴虐」が満ちるとき、そこには「冥府の雨が降る」。「暴虐」と「冥府の雨」は同じものである。同じものが、違った形になってあらわれている。(今風に言えば、「同じもの」が「暴虐」と「冥府の雨」ということばで「分節」されている。)
 「同じもの」だけれど、違っていて、そしてその「違っている一方(冥府の雨)」が「見えない」としたら、その人には「暴虐」も見えない。これは逆に言えば、「暴虐」が見えないひとには「冥府の雨」も見えないということである。
 そういうこと(ひと)に対する怒りが、ことばの奥に響いている。
 この「見えない」を、どう表現するか。「見える」ように、「分節」するか。

自由の海の末裔パレスチナにも降っている
旧約(トーラー)の神の国の選民イスラエルにも降っている
旧約の神の国の政略は非道で無慈悲だ
地つづきの二つの民族を隔てる分離壁
さながらアウシュビッツの強制収容所を思わせる

 「パレスチナ」「イスラエル」「アウシュビッツ」ということばでも、「暴虐」が見えないひとには見えないかもしれない。だが、そこでおこなわれている(おこなわれた)ことが、「暴虐」であるという「定義」はつたわるだろう。「歴史」だから。
 ちろん、つたわらない相手もいる。たとえば、安倍晋三などには絶対につたわらないだろう。「歴史」を「自分独自の視点で解釈」し、共有しようとしないひとには、「歴史」はつたわらない。--そして、つたわらないからこそ、書く必要がある。「歴史」を葬ってはいけないからである。
 この「暴虐」を、尾花はさらに言い換える。

ある日抗議の自爆テロ・ロケット弾が旧約の神の国をおびやかす
とすかさず見境のない空爆・ミサイルの報復に
無間地獄が出現する
この世の無間地獄に冥府の雨が降っている

 これは「歴史」ではなく、「現実」。よほどのひとではない限り、ここに書かれている「無間地獄」は「現実」とわかるだろう。それが「現実」なら、「冥府の雨」もわかるだろう。
 ただしこの「無間地獄」も、安倍晋三のようにそれをつくり出している人間には見えない。現実に起きていることには目を向けず、質問されても「用意した答え」以外のことばを話すつもりのない男には、自分が何をつくり出しているか、そのつくり出したものと自分とがどうつながっているかが見えない。安倍には、自分と岸を結ぶ「血のつながり」しか見えず、祖父への「気に食わない評価」をひっくりかえし、自分は「正当な政治を引き継ぐ正当な政治家である」とどこかに書き記すことしか考えていない。そのためにもう一度戦争をしたいと熱望している男には、この「現実」は見えない。
 しかし、安倍ほどの自己中心的な独裁者ではない限り、次の母と娘の姿は見えるだろう。

冥府の雨の縫目から きれぎれに
あどけない幼い娘の声がきこえてくる
《オカアサン ワタシノ顔ドコヘ
 トンデ行ッタノカシラ?》
《いつでも添寝していた母娘(おやこ)だもの》
--と魂の母が応えている
《きっと吹き飛ばされたわたしの
 胸乳のそばでしょうね》
 この会話、この「声」は声を聞くだけでは内容を把握できない。つかみとれない。聞いたことを目で再現(想像)しないといけない。「耳」を「耳」だけでにしておくのではなく、「肉体」の奥で「目」につなげないといけない。「耳」を「目」にして、「いま/ここ」にないものを「いま/ここ」にあるように呼び寄せないといけない。
 「肉体」はつながっている。「耳」と「目」は「肉体」のどこがでつながっている。聞く、見るという動詞、聴覚、視覚はどこかでつながり、まじりあい、一つになっている。一つである。その「一つになる力(一つにする力)」、壊された肉体の惨劇、現実を目の前に出現させる。生み出す。つくり出す。人間の「肉体感覚」が「目の前」の現実を現実として存在させる。
 自分の肉体が「肉親」としかつながっていると感じられない安倍のような「肉体感覚」の持ち主には、この「現実」はけっして見えない。
 「目」がどこかへ行くのではなく、「目」の「前」に「どこか」を引き寄せる。「目」が自分とは切り離された他人の「肉体」を見るのではない。「目」は、目の前にある「肉体」を自分の「肉体」とつながった「いのち」として、そこに生み出している。
 いや、これは、ことばの強さが、自然に「耳」と「目」をひとつにして、「現実」を引き寄せるということ。私は、尾花のことばに誘われて、そこにある「現実」に触れる。
 このときのことばの強さに打ちのめされる。
 顔のない少女、胸をえぐられた母の姿が、傷のない「肉体」として見える。同時に、それを目の前の顔のない少女の肉体、胸のない母の肉体が突き破る。
 尾花のことばが、そういう「矛盾」を「現実」として見せてくれる。
 こういう感覚の融合(耳と目の融合)がもっと書かれれば、この詩はもっと強烈になる。もっともっと書いてほしいと思う。
  123ページから 124ページにかけて。

冥府の雨が降っている 一際しげく
日本列島に降りそそぐ
大日本帝国の忌わしい歴史の亀裂からふたたび姿を現したのだ
民から目と耳と口を奪い去る秘密の愚民政策を懐中に民主国家の土台を蹂躙する
和製「鉤十字」のゾンビが上陸してきたのだ
(略)
ああ 靖国に冥府の雨が降っている
国家権力に囚われて靖国にありながら神にもなれず故郷にも還れぬ英霊の
咽ぶ声がきこえてこないか

 ここにも「声」「きこえる」が出てくるが、母娘の「声」のように具体的でないので、少し残念。日本の「いまの声」が書き留められると、ここの詩は「日本の歴史」になるのに、と思った。「見えない」ものを「耳」で聞き、「鼻」でにおいを嗅ぎ取り、「肌」でさわり、そこに「肉体」が浮かびあがるのに、と思った。



 この詩の初出は、秋亜綺羅の出している「ココア共和国」だと記憶している。そこで読んだときは、尾花の詩は他の詩人たちのことばと行き来しているようには感じられなかった。そのため、強烈だけれど、なんだか硬質で生真面目すぎて、読むのがつらく感じられた。しかし、詩集になってみると、一冊がすべて尾花のことばなので、詩集全体のなかにことばが響いていく感じがする。他の詩がこの作品のことばを支え、いっそう強くしていると感じる。
 詩集のなかで書かれなければならない詩なのだ。詩集のなかで、より力のありようがわかる詩なのだ。

尾花仙朔詩集 (現代詩文庫)
尾花仙朔
思潮社


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財部鳥子『氷菓とカンタータ』(2)

2015-10-23 10:14:14 | 詩集
財部鳥子『氷菓とカンタータ』(2)(書肆山田、2015年10月10日発行)

 「回文」というタイトルの詩がある。「回文」というのは私の記憶では上から読んでも下から読んでも同じ音になる文のこと。「たけやぶやけた」のように。でも、この詩には、そういう文がない。それなのに「回文」。
 どうして?

「あああ 死んだように眠ってしまった」
人は年月の半分は眠ってきたので死に真似はたやすい
爺さんは死んでいるのに生きているふりをして
雪が降ると屋根に上がって雪を下ろす
見回りの青年団が見上げて若い声で
「爺っさよ、落っちるぞー」と叫ぶのも
真実 あれは大昔の自分の若い声ではないか?

 これは一連目。前半、「爺さん」の様子が描かれている。それが誰なのかわからないが、まあ、どこにでもいる老人のひとりのように思える。その老人に、青年が声をかける。そのあとの一行、

真実 あれは大昔の自分の若い声ではないか?

 これが、おもしろい。
 財部は実際に雪下ろしをしている老人に声をかけたことがあるのか。声をかけたことはないけれど、「お爺さん、落ちるよ(気をつけて)」と思ったことがあるのだろう。たぶん、実際には声をかけていない。だけれど、心底、そう思った。こころのなかで叫んだ。その「心のなか」が「真実」ということだろう。
 「現実」と「こころのなか」が呼応している。そこに「真実」がある。
 「回文」というのは「現実」と「こころのなか」を往復する、回る、ということかもしれないなあ。

雪掻きが終わると芯から冷え込んで
布団の中に行火(あんか)を入れて体をうずめる

いままで何をしてきたのか 輝くことも
悲しいことも 爺さんはもう思い出せないけれど
忘れたことが香ってくる
忘れたことの何という甘い温かみだろう
血が酒のように温まり うと うと とする
生きているふりをして死んでいると また青年の声がした
「爺っさよ、頼むから屋根に上がるの止めてけろな」

 書かれていることは、そのまま、直につたわってくる。つたわってくるのだけれど、うーん、と思う。
 二連目、ここには「主語」が書かれていない。しかし、「爺さん(爺っさ)」が「主語」であることは、誰が読んでも同じだろう。雪掻きを終えた爺さんが布団のなかで体をあたためている。
 だけれど、「主語」がないので、その「爺さん」を「私(財部)」と読むこともできる。財部は雪掻きをした。そして体が冷えたので布団に潜り込み、行火をかかえて体をあたためている。それはまた、詩を読んでいる私(谷内)自身でもある。体の芯が「冷える」、それを布団に「うずめる」(潜り込み/あたためる)という「動詞」、「肉体の動き」を思い出して、そこに自分を重ねる。重ねることで「爺さん」の体験していることを実感する。
 「爺さん」のことなのに、「私(財部)」のこと。
 そうすると、あれっ、少し変だね。
 一連目では、「爺さん」に「落ちるよ、気をつけて」と声をかけたのが、若いときの「私(財部)」であったはずだ。
 いつのまにか財部は「爺さん」になっている。
 三連目は、それがさらに進む。
 「爺さんはもう思い出せないけれど」と書いているが、実際に、爺さんに思い出せるかどうか確認したわけではないだろう。「爺さん」になって、爺さんの気持ち、肉体が感じていることを書いている。いわば、虚構。いわば、嘘。
 けれど、嘘ではなく「真実」であると感じてしまう。

忘れたことが香ってくる
忘れたことの何という甘い温かみだろう
血が酒のように温まり うと うと とする

 この「肉体感覚」(肉体が覚えていること/思い出すこと)は、ひとに共通する。まだ完全に老人ではない(と、思っている)私にも、「予感」として納得できる。「予感」が「記憶」のように「肉体」のなかで、うずき、「甘い温かみ」を感じる。
 「香り(香る/匂う)」「甘い(甘さを感じる/甘くなる)」「温かみ(あたたかいと感じる/温まる)」「うと うと とする(半分眠る?)」。それは「爺さん」だけが感じること、体験することではなく、幼いこどもも、若い人も肉体で味わうことである。それが「覚えていること/思い出すこと」と同時に「予感」として、時間を超えて、そこにある。
 時間を超えるというのは、自分でありながら自分ではなくなること、自分の枠をこえることでもある。他人になるというよりも、人間をつないでいる「いのち」になることである。
 自分が体験していないことでも、「いのち」は体験している。体験することができる。そこでは、人間は、あるときは「爺さん」になり、あるときは「青年」になる。区別がつかない。「姿」をかえながら、「時間」を「回る」、巡回する、循環する。何度も何度も、生まれ変わる。新しく、生まれる。
 そんなことが「回文」ということばにこめられているかもしれない。
 「私(財部)」が「いのち」になって、誰かの「肉体/人生」をくぐりぬける。そのと、「時間」の「枠」も消え、「いま/過去/未来」が自在に動く。循環する。回る。その自在な動きの中に、「いのち」そのもの、詩がある。

 「遠い系譜」にも、「時間」を超える瞬間が書かれている。「自己/他者」を超え、新しく生まれる「いのち」が書かれている。

前世あなたは梨でしたか
私を覚えていませんか
梨に訊かれて
知っているその梨の香りをいいたいけれど
そのころわたしは 泣いている子供だったのか
眠ってる老人だったのか記憶にない

 「子供」「老人」の区別がつかない。「泣いている」「眠っている」の区別もつかない。けれど「香り」に「肉体」が反応する。「知っている/覚えている」。そして、思い出そうと「肉体」がうごめく。「いのち」になって、生まれ変わろうとする。

やがて白い皿に 白い果肉を盛って
フォークとナイフを煌かせ 梨を食べている
朔太郎さんのように
前世にのめりこんで背中を見せて

 財部は「梨を食べる」という「肉体」をとおして、朔太郎と「肉体の回文」をやっている。こっちから見たら財部、あっちから見たら朔太郎、いやこっちから見たら朔太郎で、あっちから見たら財部。どっちから見ても、同じ。
 いや、それは違うよ、財部は「梨」になって生まれ変わり、「梨」の「肉体」から財部と朔太郎を見ているんだよ、財部も朔太郎も同じ「いのち/肉体」という見方の方がいいかもしれないなあ。さらにそれを突き破って、「梨」も朔太郎も財部も「いのち」になって「回文」を楽しんでいる読むと、もっと気持ちがいいなあ。梨を食べたい気分になるなあ。口の中に梨の汁があふれてくる。


氷菓とカンタータ
財部 鳥子
書肆山田


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財部鳥子『氷菓とカンタータ』

2015-10-22 10:25:45 | 詩集
財部鳥子『氷菓とカンタータ』(書肆山田、2015年10月10日発行)

 どの詩について、どんな感想を書くかというのは、その日の気持ちで変わってしまう。きょうは財部鳥子『氷菓とカンタータ』の「牙刷子(はぶらし)」について書いてみる。書いてみると、私の場合は、たいてい途中で感想がかわる。書くこと、実際にことばを動かすことで、最初に読んだときには気がつくかなかったことに気がつく。そうすると、新しく気がついたことにことばがひっぱられて動いてしまう。
 財部は、密偵であった父(阿形大尉)と、その日誌について書いている。

二十六歳の父の残したノートのページは黄変してけば立ってい
た。八十年前のブルーのインキの文字は、石積みの大きな廃墟
のように砕けた不確かな文字で命がけの何かを告げていた。

「余は青堆子(チントイツ)城外の汚いホテルに宿泊した。
朝起きて水道の栓をひねる。カーッと音がして水が出ない。
仕様ことなしに窓を覗くと満州人たちは牙刷子を片手に陸続
と枯野をよぎっていくところだ。空になにかがとよもしてい
る朝にいじらしい。
余は唐辛子をたくさん噛んで歯の清掃をしようとした。
憂愁の涙で空はみるみる曇っていった」

この暗号文は非常に難解である。
「汚いホテル」とは蓋し「赤いホテル」、赤匪のひそむホテルの
ことだと思われる。
「唐辛子」とはすなわち「牙刷子」、歯ブラシのことであろう。
しかし、枯野を過って行く彼らは「牙刷子」ではなく、銃を持
っていたのに相違ない。
陸続と赤匪の群れは集結しはじめていた。
当時、阿形大尉は青堆子軍閥の規模偵察に従事していた。

 「日記」の部分を私は暗号とは思わずに読んだ。とてもおもしろい。申し訳ないが、財部が書いている財部自身のことばよりも詩を感じた。
 「水道の栓をひねる。カーッと音がして水が出ない。」この描写の強さに引き込まれる。「カーッと音がして」という具体的な音が強い。耳が覚める。(目が覚めるという言い方があるから、耳が覚めるといういいかたがあってもいいだろう。)「カーッ」は何かを吐き出そうとしている。水道管の中で何かが目覚めようとしている、という感じもする。いかにも汚いホテルでありそうなことである。
 そのあとの「満州人たちは牙刷子を片手に陸続と枯野をよぎっていくところだ。」の「牙刷子」はとても奇妙である。奇妙であるからこそ、財部はそれを「暗号」と理解し、次の連で「解読」しているのだが、私はそのまま「歯ブラシ」と思ってみる。昔、歯ブラシは木の枝の先端を細かくほぐしたものだったから、まあ、そういうものを噛んで歩いているのだろうと思った。そこから生々しい人間の「暮らし(暮らしの智恵)」が見えてきて、「肉体」が刺戟される。
 その様子を見ながら、財部の父は唐辛子を噛んでいる。歯ブラシがないので、唐辛子で歯を磨いている。うーん、塩で歯を磨くは聞いたことがある。いや、それを聞いて、実際に磨いたこともある。そうか、塩の代わりに、唐辛子か……。しかし、殺菌にはなるかもしれないが、ちょっと厳しいかもしれない。次の行に「涙」が出てくるが、それこそ涙が出てくるかもしれない。辛すぎて。これも「暮らしの智恵」かもしれない。
 ほんとうかどうかわからないが、唐辛子を噛んで歯を磨こうとしている人間が見えてくる。水道の「カーッと音がして」が強くて具体的なために、そのあとのことも「強い」まま迫ってくる。「カーッと音がして」という描写がなかったら、きっと歯磨きのこととは思わずに、「暗号」に違いないと思ったかもしれない。けれど「カーッと音がして」があるばかりに、「暗号」ではなく「事実」の描写のように思ってしまう。そう思いたい。

 しかし、財部は冷静である。私のように、読みたいように読むわけではない。まず「日記」に書かれていることは「暗号」であると判断する。「密偵」なのだから、ふつうのひとと同じように「日記」を書くわけではない。読まれたら困るから。
 で、
 「汚いホテル」は「赤いホテル」、そしてその赤は「赤匪」の赤。
 そうであるなら、(ここから、私はちょっと財部とは違う読み方をする)、「唐辛子」は「赤匪」をあらわしているかもしれない。「唐辛子」は「赤い」からね。
 満州人は「歯ブラシ」を持って野を行く。その「歯ブラシ」はたしかに「銃」かもしれない。そういうひとの群れを見ながら、父親は何をするか。
 つかまえた(?)赤匪のひとりを「噛んで」、つまり歯で噛むように傷つけながら、何か情報を引き出そうとしているのかもしれない。そういうことは楽しい仕事ではない。いやな気持ちに襲われるだろう。そのために、涙が出てくる……。

 「暗号」ということばを財部が書かなかったら、そんなふうには読まなかったと思うが、暗号に誘われて、私は私なりにかってに読み直してまうのである。
 「暗号」は一種の「比喩」である。財部は「歯ブラシ」を「銃」の「比喩」として読んでいる。「銃」を持たない(持っているかもしれないが、野を行く人たちが持っている銃とは形が違うのだろう)父は、「歯ブラシ(銃)」の代わりに唐辛子を噛む。
 この唐辛子を財部がどう読んだか、よくわからない。何の比喩(暗号)として読んだのか、具体的に言い直していない。「解読」していない。
 「暗号」という財部の詩的に誘われて、私は「唐辛子」は「赤匪」の比喩であると読み、その後の「噛む」と「清掃をする」という動詞に誘われてしまう。財部は実際に父を知っているし、中国大陸での体験もあるのだから、財部の読みの方が正しいのだろうけれど、私はスパイ映画などで見聞きしたことを、そこに重ね合わせてしまう。つまり、自分の読みたいように、自分に「わかる」ように読んでしまう。「わかる」というのは、自分が覚えていることを思い出すことなのである。
 そして、そう読んだあと、私は財部の父の「日記」を「日記(事実)」ではなく「詩(文学)」として読んでいるということに気がつく。
 私は何を読むときでも、ことばを詩として読んでしまっているのだろうなあ、と思うのである。「事実」を読み取るのではなく……。
 そして、そうか、私は間違っているのか。でも、間違っているということが、妙に楽しいなあ、と思うのである。「現実」ではなく「文学」なんだから、こう読んでもいいだろうなあ、と思うのである。こういう読み方は財部にとっては迷惑かもしれないけれど。

 詩には、まだつづきがある。その部分が、またおもしろい。

あの「嗤うべき荒唐無稽の風土」で父は誰かと喧嘩して犬歯を
折っている。その記述をみつけたとき、わたしは彼の口腔の状
況がたちまち分かった。口のなかは幾つかの小さな穴のある笛
のようなものだ。穴は一つ一つ蛇に塞がれている。いやあれは
蛆虫かもしれない。
わたしも口腔にそのような空洞を一つならず持っていて、痛み
に耐えられないときがあり、無意味な赤い唐辛子を待っている。

 「歯ブラシ」から歯、「犬歯」が呼び出される。そして、犬歯を欠いている(穴がある)という「肉体」が呼び出され、そこに財部は自分自身の歯の欠落(歯の痛み)を重ねている。そこに「赤い唐辛子」が呼び出される。
 このとき「赤い唐辛子」とは何?
 財部は、やはり書いていない。
 大陸で知り合ったひとびと、その人たちに日本人が与えてきた苦痛のことか。そういう苦痛を思い出し、自分の痛みに重ね合わせるということ、重ね合わせ日本人として反省するということか。
 私は、ここでも、財部の「思い」を無視して、自分の「妄想」を押し広げてみたい。「誤読」を拡大したい。
 「唐辛子を噛む」というのは、「口から血を流す」ということかもしれない。歯を折られたら、血が出る。父は、誰かの歯を折って口から血を流させたことがあったかもしれない。同じように誰かから歯を折られ口から血を流すことがあったかもしれない。そのときの「血の赤」が「唐辛子の赤」であり、そのときの「痛み」が「唐辛子を噛んだときの痛み(刺戟)」かもしれない。
 歯が折れて抜けたあとの、歯茎の穴。それは「折られたときの苦痛」であると同時に「折ったときのいやな記憶」かもしれない。ふたつは、分けることができない。どちらかだけを思い出すことはできない。
 この分離不能の哀しみが「憂愁」と呼ばれるものかもしれない。
 財部が引用している父の「日記」がそんなことを感じさせる。「日記」に書いてある「事実」はわからないが(解読できないが)、わからないからこそ、詩として読んだときにおもしろい。わからないから詩なのだ。
 そして、わからないから詩であるのなら。
 私が財部の作品を読みながら「わからない」と感じた部分、財部が「唐辛子」を何の比喩と解読したのか、その語られなかった(?)部分にこそ、財部の詩があることになる。その詩に近づく手がかりを他の作品に見つけることができるか--これは私の明日の課題だ。

氷菓とカンタータ
財部 鳥子
書肆山田


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黒澤明監督「赤ひげ」(★★★★★)

2015-10-21 09:53:44 | 午前十時の映画祭
監督 黒澤明 出演 三船敏郎、加山雄三、山崎努、内藤洋子、二木てるみ

 主役は三船敏郎なのか、加山雄三なのか。タイトルは「赤ひげ」だが、ストーリーは香山雄三の成長物語。1965年、50年前の映画。このころ加山雄三は「若大将」をやっていたのか。最初の方の、生意気で、とげのある感じが、「お坊っちゃま」という感じで、「適役」というのはこういうことを言うんだろうなあ、思いながら見た。(後半のメーンテーマとなる二木てるみ。二木は内藤洋子より年下なのか? 年上じゃないのか? ということも頭をかすめた。)
 この映画でいちばん目を見張ったのは、赤ひげの診療所の床の美しさである。板張りなのだが、その板が磨き込まれている。黒光りをしている。ていねいにつかいこまれている。そのていねいさのなかに「暮らし」が見える。(なぜ、患者が白い着物をきているか、なぜ畳ではなく板の間なのか、ということが患者の口や、先輩医師のことばで語られるが、この部分は説明しすぎていてがっかりするが、当時はこういう状況説明を先にしてしまうのが映画の手法だったのかもしれない。)
 で、この「暮らし」の、隠れたていねいさが、少しずつストーリーとして展開する。患者の、あるいはそこに身を寄せる人々の「物語」が少しずつ語られる。隠されていた「時間」が語られる。それはそれですでに一篇の映画である。ついつい、三船敏郎と加山雄三が主役であることを忘れてしまう。冒頭の診療所で、診療所の床の美しさに見とれて、そこが診療所であるということを忘れるような感じ。
 そして、ストーリーが展開するに連れて、それまで見てきた「劇中劇」とでもいうべきストーリーが観客である私のなかに蓄積されるように、加山雄三のなかにも蓄積され、加山雄三が、生意気なお坊ちゃんから徐々に変わってくるのがわかる。診療所の床が美しいなどという「傍観者」的な感想がからだのなかに沈み込み、すっかり加山雄三の気持ちになって登場人物といっしょに生きている。
 うーん、いい感じだなあ。
 特に。
 二木てるみが泥棒小僧と会話をするのを盗み聞きするシーンがいい。加山雄三は診療所の賄い小母さんといっしょに洗濯物の影に隠れて会話を聞いている。泥棒小僧は小僧で懸命に生きている。二木てるみはなんとか少年を立ち直らせたいと思っている。少年をまるで自分自身であるかのように、真剣にことばを語っている。
 その二人の世界へ、加山雄三はしゃしゃりでていくわけではない。隠れたまま、それを知らないこととして、接しつづける。小母さんも同じ。知らないふりをして、しかし、なんとか手助けしようとする。ご飯を小僧のために残そうとする二木てるみに「育ち盛りなんだからもっとお食べ」といい、大食いの同僚おばさんには「そんなに食うんじゃないよ」と怒ったりする。観客には何が起きているかわかるが、二木てるみには何が起きているかわからない。
 こういう「関係」が、あの床の磨き込まれた美しさなんだなあ。
 床は拭き掃除を繰り返せば美しくなる。それは表面的なこと。美しくなるまで磨き込むとき、そこには美しくするということとは違う「思い」がある。清潔であることが、病人にとっては何より大事。病人のために、床をきれいにする。その積み重ねが、そこにある。その「思い」は、一見しただけでは見えない。これはしかし、見えなくていいのだ。見えないことを承知で、ひとは働いている。
 加山雄三は、「見えるひと」をめざしていたのだが、最後はこの映画の多くのひとのように「見えないひと」になろうとする。「見えないひと」のために、さらに「見えないひと」になろうとする。
 映画はストーリーではないのだが、そのストーリーに知らず知らず、飲み込まれていく。いいなあ、と思う。
 豪華な脇役が、この映画のストーリーをストーリーではなく、ひとりひとりが生きているという次元へ私をひっぱっていくのかもしれない。杉村春子や志村喬以外に、田中絹代と笠置衆まで出てきたのには驚いてしまった。主演級の役者がみんな「見えない役」を演じて映画を支えている。いい映画にするために「見えない役者」になっている。



 二木てるみと内藤洋子は、調べてみたら二木てるみの方が一歳年上だった。映画の中では二木が十代前半の少女、内藤が加山と結婚する娘なので、年齢とは逆の役をやっている。二木はだいたい暗い顔をしていて、貧乏人という感じがするのだが、それに拍車をかけて目を異様に光らせて登場する。泥棒小僧と出会って、少しずつこころを開いていく役なのだが、これは確かに内藤洋子にはできない、二木向きの役だね、と思った。
              (「午前十時の映画祭」天神東宝4、2015年10月19日)




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高木敏次『私の男』

2015-10-20 12:21:36 | 長田弘「最後の詩集」
高木敏次『私の男』(思潮社、2015年09月15日発行)

 高木敏次『私の男』は書き出しが刺戟的だ。

私のことを
私の男と呼んだ
まるで男を見つめるように
私を見つめていた
男とは約束だった
私に会わせると
誰にも言わず
どこかへ連れて行くこと

 「私」と「男」ということばが出てくる。
 最初の二行で、「私」と「私を私の男」と呼ぶ「私」が登場する。ふたりの「私」は同一人物ではない。「私の男」と呼ばれるとき、「私」は「私」であると同時に、「私」ではなく「私の男」である。「私」を「私の男」と呼ぶ人間は「私」ではないが、その人間は自分自身を「私」と呼んでいる。その「私」を「私の男」と呼ぶ人間を「女」と仮定することもできるし、「男」と仮定することもできる。「男」と仮定した方がより刺戟的になる。論理がごちゃごちゃになって、楽しい。
 「私を私の男と呼ぶ」人間は、「私」を「男」を見るように見つめる。そのとき、「男」とは誰か。どういう存在か。そこに存在しない「別の男」を見る、という意味かもしれないが、「別の男」とは何か。単純に「私ではない男」「私を私の男と呼ぶ私ではない男」か、それとも「私のなかに存在する男(理想の男?/否定すべきだめな男?)」なのか、それとも「私の男」と呼ぶ人間が「思い描く男(理想の男?/否定すべきだめな男?)」なのか。いずれにしろ、「いま/ここ」には存在しない「男(人間)」だろう。「いま/ここ」の瞬間には「見えない」人間だろう。
 「男」は「実在」であると同時に「比喩」でもある。「いま/ここ」にいないのだから。
 五行目の「男」とは誰か。「約束」とは何か。「男は約束だった」という一行は「男」そのものが「約束」であるとも読むことができる。比喩である。「約束」とは「希望」であり「願い」でもある。つまりは「理想の男」が「約束」であり、「約束」が「いま/ここにはいない男」である。どちらが、どちらの比喩か。「約束」が比喩か、「男」が比喩か。よくわからない。比喩であるから、やはり「いま/ここ」にはいない。不在が、ことばをごちゃごちゃにする。
 その比喩としての「男」に「私」を会わせる。そうすると、「会わせる」ことを「約束」と読むこともできる。「会わせる」ために「いま/ここ」ではない「どこか」へ「連れて行く」。「連れて行く」は「会わせる」の言い直しである。だから「連れて行くこと」が「約束」であると読み直すことができる。
 「私」「男」「約束」という三つのことばのなかに、その三つが交錯し、区別がつかなくなる。「私」「男」「約束」はことばを動かすための「記号」なのか、「比喩」なのか……。

 この区別のなさ、交錯の加減を、ちょっと整理し直してみる。
 最初に出てくる「私」を便宜上「私(1)」とする。「私の男」と呼んだ「私」を「私(2)」とする。「私(2)」から見ると「私(1)=男」である。そして「私(2)」がやはり「男」(一般的な性の区別)だとすると、数式的には「私(1)=男=私(2)」になる。これを「数式(1)」としておく。
 三行目の「男」が「私とは別の男(私の男ではない男)」と読んでみる。そうすると「私(1)=男=私(2)」とは別なところに、「別な男」が存在することになる。「これを「男(2)」と呼ぶ。そして、「数式(1)」にもどって、そこに出てくる「男(一般名詞)」を「男(1)ととらえなおす。「私(1)=男(1)=私(2)」。そして「男(1)」は「男(2)」ではない。「男(1)≠男(2)」。ただし、「私の男」と限定するとき、それは一般名詞としての男ではなく、何らかの意識が組み込まれた男(理想の男)だろうから数式(1)は「私(1)=男(2)≠私(2)」ということになる。しかし「男(2)」は「私(1)」の理想ではなく、「私(2)」の理想なのだから、その数式は即座に「私(1)=男(2)=私(2)」になる。
 問題は、その「男(2)」がどこに存在するかである。「いま/ここ」ではないどこかだが、「いま/ここ」ではないというのは「時間/場所(時空間)」を指すこともあるが、「男(2)」が「理想の男」だとすると、それは「いま/ここ」に顕在していないけれど潜在しているものと考えることもできる。つまり「男(2)」は「私」の内部にいる、あるいは「私(2)」の内部に隠れている。
 「数式(1)」が現実なら、「数式(2)」は精神世界、比喩の世界である。
 その比喩的世界「数式(2)」の世界を現実世界に引き戻すと「理想の男」を「潜在する男(実現されていない理想)」ということになる。その「潜在している男=私」に「会わせ」るとは「潜在している私」を発見するということでもある。「連れて行く」は「いま/ここ」から「潜在する私の場」を発見するということである。「潜在している私」を「未生の私」と読み直すと、それは「未生の私」を発見し、誕生させるということでもるあ。「新しい私(理想の私?/約束の私?)」として生まれ変わる、誕生する、ということでもある。

 うーん、整理できたのか。逆に、いっそうごちゃごちゃしてしまったのか。
 ごちゃごちゃついでに、もっとごちゃごちゃにしてしまおう。
 「私」「男」「約束」という名詞ではなく「動詞」に目を向けて、ここに書かれていることを読み直す。
 最初に「呼ぶ」という「動詞」が出てくる。主語は「私ではない私」、つまり「私(2)」。「私(2)」が「私(1)」を呼ぶ。「見つめる」も同じ「私(2)」が主語。ただし、このとき「見つめる」は架空を含む。「現実」を「見つめる」のではない。「見つめるように」と「直喩」につかう「よう」ということばがそこにかかわっている。(この「よう」があるからこそ、「私の男」ということばが一種の架空/比喩のように響いてくるのだ。)
 そのあと「会わせる」「連れて行く」という「動詞」が出てくる。「私(1)」が「会う」のではなく、「私(2)」が「会わせる」。使役である。「私(1)」が「行く」のではなく「私(2)」が「連れて行く。」使役である。しかし、その使役の結果(?)、「私(1)」が「会う」、「私(1)」が「行く」ことになる。「私(2)」の動詞に「私(1)」が「動詞」の形をかえながら、同時に動いている。連動している。連動することで理想が現実になる。
 「連動する」という動詞の「連」は「連れて行く」という動詞のなかに存在している。この「連れ」が、今回の高木の詩のキーワードなのだろう。
 「連れて行く」の主語は「私(2)」だが、その「動詞」は「私(2)」だけでは動かない。「私(1)」が存在しないと、動詞として働かない。「私(1)」と「私(2)」は連動している。「私(2)」によって「私(1)」が顕在化する。すでにそこに存在する(潜在する)ものが、「私(2)」によって、隠れながらあらわれる。
 で、そう思うと、最初に書かれていた

私の男と呼んだ

 の「私の男」ということばが指し示すものが、またあぶりだされる。「私の男」は「私(2)」によって顕在化される「私(1)」なのである。それは「私(2)」の働きによって顕在化するがゆえに「私(2)」であるとも言える。「私(1)」だけでは潜在したままの存在だからである。
 この緊密な関係の「旅」が、引用した詩行のあと延々とつづく。

男は私を探し
私は男を信じない
誰が男なのか                          (15ページ)

もう少し
私をしてもよい                         (72ページ)
 
 のような行が、あちこちに登場し、「私」と「男」の関係へと詩を引き戻す。
 で、こうした詩を読むと、どうしても「答え」を出したくなるのだが、詩は答えを求めるものでない。
 しなければいけないのは逆のことだ。

道に迷いたいのに
どう間違えればよいのか                    (9-10ページ)

 詩は、間違えつづけるためのものなのだ。だから、迷い、間違えたまま、ここできょうの感想をやめておく。高木の詩は、「森」や「鏡」を比喩にしながら展開していくが、そのときの緊迫は最初の八行を弱めてしまっているように私には感じられた。もっと「私(1)」と「私(2)」、「男(1)と「男(2)」の錯綜する「動詞」を読みたい、という思いが強く残った。もっともっと間違えたいし、迷いたいので、書き出しだけにしぼる形で感想をやめておく。


私の男
?木敏次
思潮社

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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中谷泰士『桜に偲ぶ』

2015-10-19 09:13:48 | 詩集
中谷泰士『桜に偲ぶ』(新・北陸現代詩人シリーズ)(2015年07月30日発行)

 中谷泰士『桜に偲ぶ』に「世界の声には音程がある」という魅力的なタイトルの詩がある。

世界の声には音程がある
それが美しいときは 耳を澄まさなくてはいけない
声に倍音を聴いたとき 心打たれなくてはならない

 断定がここちよい。「……いけない/ならない」の繰り返しが断定を強めている。
 三行目の「倍音」は、その声がひとつではないということを語っている。したがって世界には複数の声があることになる。「音程」を聞くだけではなく、中谷は複数の音を聞き、それが「倍音」になっていることに気がつく。「声」から「音程」へ、「音程」から「倍音」へとことばが動くとき、耳が動き、耳がこころになっていく。ものの見方(聞こえ方)が違ってくる。そこに発見がある。
 こういう詩を読むと、私は、その声の発見が音程の発見、倍音の発見へと加速し(?)、さらに新しい音を発見することを期待するのだが、中谷はちょっとまじめすぎて、ことばを暴走させない。立ち止まらせてしまう。そのためにせっかくの「倍音」が「倍音」ではなく、別々の「音」になってしまう。分離してしまう感じがする。それが残念である。
 どういうことか。
 実は、いま引用した三行の前に、「声」が「音程」に、「音程」が「倍音」にかわる瞬間のことが書かれているのだが、それが「瞬間」ではなく「時間の経過」になっているというか、余分なものを迂回しているために「瞬間」が「瞬間」でなくなっているところがある。「瞬間」を否定してしまっているために、せっかくの「音楽」が耳には聞こえてこない。「楽譜」を見ているような感じになる。「倍音」を「楽譜」に書いて確かめているような感じだ。
 その、問題の一連目。

きれいな声が聞こえた
銀杏の葉が色づく夕暮れに
さようなら サヨウナラ
別れの練習をしているような よくとおる女の子の声
さようなら サヨウナラ
応えるように 別のほうから声変わりする前の男の子の声
おそらくは
二人はいっしょに居たのではなかった
別々の友だちと遊んで
偶然 別れた時間が同じだったのだろう

 書いてある「状況」はとてもよくわかる。
 私が疑問を感じるのは、「おそらくは」「偶然」「だろう」という「断定」から遠いことばである。「事実」かどうかわからないから(中谷は声を聞いているだけだから)、その「わからない」ことを「正確」に「推測」している。その「推測」の「時間」のなかに中谷が割り込んできてしまう。「頭」が割り込んできてしまう。
 「声」「音程」「倍音」を聞いたのは、耳そのもの。耳と音が一体になって「瞬間」をつくりだしている。その「一体としての瞬間」を中谷は、わざわざ「分離」している。それが、どうも、私にはおもしろくない。
 「おそらくは」「偶然」「だろう」を消してみると、詩は、どうかわるか。

きれいな声が聞こえた
銀杏の葉が色づく夕暮れに
さようなら サヨウナラ
別れの練習をしているような よくとおる女の子の声
さようなら サヨウナラ
応えるように 別のほうから声変わりする前の男の子の声
二人はいっしょに居たのではなかった
別々の友だちと遊んで
別れた時間が同じだったのだ

 読む人によって印象は違うかもしれないが、私は、ない方がことばが早く動いているように感じられる。そして、そのスピードに誘われて、そこで起きていることに引き込まれる。「おそらく……だろう」という構文では、そこで起きていることよりも、それを聞いている(想像している)中谷の姿の方が見えてきて、かんじんの中谷の体験したものが間接的になる。読者(私)は「できごと」と「一体」になるのではなく、中谷と一体になってしまう。
 詩というのは、もちろん書いた人(詩人)と一体になる体験だけれど、詩人と一体になるだけではなく、書かれていることと一体にならないことには、真に詩人と一体になったとは言えない。
 せっかく「時間が同じ」と「同じ」ということばをつかっているのだから、その「同じ」を強く掴み取らないといけない。
 「別れた時間が同じ」というのは、表面的には「別れた瞬間(たとえば午後五時ちょうど)」が「同じ」という意味だが、これを「同じ時間」と読み替えてみると、とてもおもしろくなる。それまで「いっしょに遊んでいた人間が別れる」という「経過そのものとしての時間」が「同じ」になる。そして、そういう「ひとの肉体をとおして動いている時間」が「同じ」だからこそ、「声」が「倍音」になる、ということがおきる。「倍音」の「秘密」のようなものが「同じ時間」の「同じ」のなかに見えてくる。
 「いっしょに楽しく遊ぶ」という「同じ楽しさ」をしてきたから「倍音」になる。公園で遊んでいるこどもの「さようなら」と、むずかしい商談がもつれ、もう一度会って話をつめることを決めたおとなの「さようなら」では「倍音」という現象はおきない。
 「同じ時間」だからこそ、「倍音」がおきる。
 知らないひとの「肉体」が体験する「同じ時間」が「倍音」を引き起こすのである。
 これをさらに押し進めて考えると。
 「倍音」を聞いたとき、ひとは「個別の音」のなかにある「同じ時間(同じ経験/同じ感情)」を聞くのである。「音」そのものではなく「音の奥にあるもの/音を生み出す何か」を聞くのである。それは「耳」で聞き取るのだけれど、「耳」だけではなく「こころ」で聞くということでもある。「耳」と「こころ」が「ひとつ(一体)」になって、「音のなかの来歴」を掴み取るのだ。
 そうであるからこそ、

世界の声には音程がある
それが美しいときは 耳を澄まさなくてはならない
声に倍音を聴いたとき 心打たれなくてはならない

 と最初に引用した三行のように「耳」の体験が「心」で言い直されるのである。

 とてもおもしろいことを書いているはずなのに、それを邪魔することばが多い。きっと中谷は真面目すぎるのだろう。推測したことを「違っている」と言われるのを心配しているのだろう。他人を気づかってことばを動かしては詩にならない。他人を突き破ってしまわないと詩とは言えない。他人を突き破って、その衝撃で自分自身も変わってしまう。生まれ変わる。それが詩である。「推測」なんかしていてはいけない。


桜に偲ぶ―中谷泰士詩集 (新・北陸現代詩人シリーズ)
中谷泰士
能登印刷出版部

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4400円)と同時購入の場合は4500円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

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