詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八木幹夫「かわら」

2009-08-31 00:23:14 | 詩(雑誌・同人誌)
八木幹夫「かわら」(「交野が原」67、2009年10月01日発行)

 詩には「時間」がない。「いま」「ここ」がない。だが、それは「永遠」というものとも違う。
 そんなことを、八木幹夫「かわら」を読みながら考えた。

真っ赤な夕陽をみた
相模川の石ころばかりが
ころがる川原で

真っ赤な夕陽をみた
私の中を流れる
どここも知れない川原で

私は少年だったのだろうか
私は老人だったのだろうか

 論理的(?)にことばを追うなら、八木は相模川の川原で夕陽を見ていることになる。そして、その夕陽を見ながら「いま」「ここ」ではない夕陽を見ている。「いま」「ここ」が消えて、「どことも知れない」場所にいて、夕陽を見ている。「場」がわからないだけではなく、「時間」もわからない。自分が「少年」なのか「老人」なのか、それがわからない。
 もし、過去に見た夕陽を思い出しているのなら、八木は「少年」であるはずである。少なくとも、「いま」の自分よりは若いはずである。「いま」の自分より「老人」であるはずがない。「未来」は思い出せないからである。
 けれども、詩は論理ではない。
 詩のなかでは、ひとは「未来」を思い出すことができる。想像するのではなく、思い出すことができる。詩を感じる瞬間、ひとは「時間」を超越しているからである。(時間を超越すると「永遠」になるのだが、八木の場合は、少し違う。)そして、いったん、時間を超越すると、その瞬間、ひとはひとでもなくなる。(ひとがひとでなくなる、というのも絶対的な真理?と考えれば「永遠」の一種だが、八木の場合は少し違う。--地眼底ルように私には感じられる。)

 先に引用した部分につづく4連目が美しい。

繰り返し川に向かって
きいてみた
川は横向き 水はどんどん流れていく

 「私」は「私」ではなくなっている。「少年」でも「老人」でもなくなっている。何になっているか。「川」になっている。「川」になってしまえば、「川に向かって/きいてみた」ということはできない?
 それは、論理のことばで考えるから、できない。
 川に向かって「私は少年だったのだろうか/私は老人だったのだろうか」と聞くとき、その答えに答えるのは川だが、川は人間ではないからことばを持たない。答えようがない。それなのに川に聞く。ほんとうに川に向かって聞いたのなら、そのとき「私」は問いかけると同時に、「川」になって、「私」に答えようとしている。「川」になった、「川」に答えさせようとしている。
 だが、聞くためには、「私」でもなければならない。
 「私」と「川」--同時に、ふたつの存在であることはできない。矛盾。その矛盾のなかで、「私」と「川」は区別がないものに、混沌になる。(永遠の真理とはまた別のもの、混沌、無になる。)

川は横向き 水はどんどん流れていく

 「いま」でも「ここ」でもない。「いつ」でも「どこ」でもない。それなのに、水は流れる。ものが動くとき、そこには「時間」がある。水が流れるは「時間」が流れるというのにひとしい。ここに「永遠」ではない時間が姿をあらわす。
 「いま」でも「ここ」でもない。「過去」でも「未来」でもない。「私」は「少年」であり、「老人」であり、また「川」でもある--という「混沌」のなかにいて、ただ「時間だけ」が確実に過ぎ去っていく。確実なのは「過ぎ去る」ということである。
 「少年」も過ぎ去れば、まだなっていない「老人」でさえ、八木から遠ざかっていく。過ぎ去っていく。
 これは、八木がたどりついた「無常」である。

 そして「無常」は「非情」でもある。人間の気持ちなど考慮しない、という意味である。「川は横向き」が「非情」である。どんなに聞いてみても、聞かない。聞こえない。人間の感情とは違う世界を生きている。「非情」とは情けを拒むのではなく、情けというものを理解しないのである。
 情けというものが入り込む余地がない--非情。
 だから、そこには、べたべたしたセンチメンタルがない。


どうしてこんなところで
来るはずのないひとを待っているのだろう
どうしてこんな時間に
たったひとりで棒など振り回しているのだろう

夕暮れはまちがいなく
胸を暗くつつみはじめているというのに

真っ赤な夕陽をみた
どことも知れない川原で

帰らなければならないのだが
早く帰ってあやまらなければならないのだが
もう私には叱ってくれる
だれもいない

真っ赤な夕陽をみた
ゆっくりゆっくり沈んでゆく

 八木の「無常」は「ゆっくりゆっくり」である。「ゆっくり」であるということは、そのあいだ、こころがどうしてもあちこちさまようということである。「私は少年だったのだろうか/私は老人だったのだろうか」という、いわば極端をさえもさまようのである。そこに、哀しみがある。






八木幹夫詩集 (現代詩文庫)
八木 幹夫
思潮社

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小長谷清実「見送っている日」

2009-08-30 02:35:49 | 詩(雑誌・同人誌)
小長谷清実「見送っている日」(「交野が原」67、2009年10月01日発行)

 小長谷清実「見送っている日」を読みながら、きれいな音だなあ、と感心する。ことばに体臭がない。--体臭がないということは、ことばであるかぎり、ありえないことなのだけれど、まるでないかのように感じてしまう。清潔だなあ、と思う。
 書き出し。

幻を持つ人は
ここ あそこ
幾たびも
あらぬ方に現れて
輪郭だけふっと現れて
幻だけを
振り落としていき
かなた こなたに
ふっと消えていく

 「ここ あそこ」「かなた こなたに」。私が感じる清潔さは、そういうことばにある。「ここ」という限定がない。こだわりかない。「ここ」にこだわりがないということは、たぶん、「いま」にもこだわりがない。「幾たびも」ということばも出てくるが、幾つもの「場」、いくつもの「とき」というものがあって、その「どれか」にこだわっていないのだ。
 それは、主語についても同じである。
 詩はつづく。

幻を持つ人
(と、うっかり
書いてしまったけれど
気配のような
ものだったか?)

 「幻を持つ人」と書きながら、それを「うっかり/書いてしまったけれど」と否定し、「気配のような/ものだったか?」と問い直している。「主語」を消してしまって、「気配」に、さらにそれを「のような/もの」に置き換えている。
 小長谷は、あらゆるものを(と、私には思える)、「のような/もの」にしてしまう。何かに限定するのではなく、限定を拒み「のような/もの」に。

 以前、小長谷の詩に触れたとき、書いたか書かなかったか、今となってはよく思い出せないけれど、この「ような/もの」が小長谷の思想である。
 すべての「もの」(存在)にはそれぞれ固有の名前がある。小長谷は「存在」から名前を剥奪して「もの」にしてしまう。そして、その「もの」を説明(?)てるため、とらえなおすために、「のような」ということばをつかう。
 小長谷の思想で、動いているのは「のような」ということばである。
 「のような」というのは、とても不思議である。「のような」ということばをつかうとき、その対象は、「もの」の名前を否定される。存在を否定される。
 たとえば美女をほほえみを「薔薇のような/もの」というとき、その瞬間においては「美女のほほえみ」は否定され、同時に「薔薇」に結びつけられている。「ほほえみ」と「薔薇」は同一ではないから、比喩が動くとき、対象は一瞬、否定されている。否定されて、「いま」「ここ」には存在しない「薔薇」を通り抜けて、ほほえみに戻ってくる。「いま」「ここ」にないものを、「どこか」から引っぱってくる。そして、「いま」「ここ」にあるものを完全に否定して「薔薇」にしてしまう。
 でも、ほほえみはある?
 そこが問題なのだ。「のような/もの」を引っぱってきても、実は、もとの存在はそのままある。存在はかわらない。そうすると、「いま」「ここ」で起きたことは何なのか。そこにあるのは、小長谷がこの詩でつかっていることばを借りて言えば「幻」のようなものである。不思議な、ことばの運動である。
 小長谷は、あらゆるものを「ことばの運動」にしてしまう。存在を拒絶し、ことばの運動に。ことばの運動というのは、抽象的である。抽象的だから「体臭」がない。透明で、清潔である。(数学の数式のように。)

長いような短いような
まとまりのつかない日々が過ぎ
いつか 幻に
幻が重なり かさなって
幻の層が残っていく
そうして あるとき
生臭く息を
ふっと吐きかければ
ほろほろ崩れ
ことばみたいに
散らばっていく

 その、運動としてのことば--それは、やはり「いま」「ここ」にも、「ここ あそこ」にもどこにも拘泥しない。幾たびも幾たびも、ただ動くだけである。何にも拘泥せずに動いていくから、それはいつでも「ことばみたいに/散らばっていく」。
 ことばが、ことばみたいに散らばっていく--と書いてしまうと、何にもならないかもしれないけれど、それがことばの「運命」である。そういう「ことば」を小長谷は「理想」としている。誰にも、つまり小長谷にも帰属せず、ただ、どこまでも、いつまでも散らばっていく無重力のことば。清潔で、透明で、散らばると消えていくことば。

散らばっていく
そのありさまを
見送っている、
風に動く
風景として
あるいは ぴくぴく蠢く
境涯として

 そんなふうにして、ことばを見つめたいのだ。「もの」ではなく、「ことば」をいつまでもいつまでも見送りたいのだ。





小長谷清実詩集 (現代詩文庫 第 1期83)
小長谷 清実
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(72)

2009-08-29 10:40:12 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

一六八
永劫の根に触れ
心の鶉の鳴く
野ばらの乱れ咲く野末
砧の音する村
樵路の横ぎる里
白壁のくづるる町を過ぎ
路傍の寺に立寄り
曼陀羅の織物を拝み
枯れ枝の山のくづれを越え
水茎の長く映る渡しをわたり
草の実のさがる藪を通り
幻影の人は去る
永劫の旅人は帰らず

 2行目。「心の鶉」。なぜ、「うずら」なのだろう。「こころのうずらのなく」と、もし、ひらがなで書いたら「こころのうずく」と読み間違えるかもしれない。こころが、うずらのように美しい声で鳴く、うずく。--こころがうずく、と書いてしまえば、センチメンタルになる。特に「永劫の根」に触れ、こころが疼くと書けば、「意味」が強すぎて、詩から遠いものになるだろう。
 だから、「わざと」、そこに「うずら」を紛れ込ませる。紛れ込ませながら、音の遠く(?)というか、音を聞きとる耳の奥、声をだす口蓋や舌や喉に、かすかに「うずく」を感じさせる。
 そして、「うずら」を利用して、「野」に出て行くのである。
 あり得ないことだけれど、たとえば2行目が「鶉」ではなく、「カナリア」だったら、「永劫の旅人」は「野」には出て行かないだろう。草原に住む鶉だからこそ、3行目の「野」が自然に引き出される。「野ばら」「野末」。それから「の」。西脇の大好きな、助詞の「の」。
 野を通り、村を通り、町を通り、また山を越え、水を渡る。ときには曼陀羅に立ち止まるけれど、それは野や村を通るのが自然・暮らしの道を歩くのに対して、文化の道・哲学の道を歩くといいかえることができるかもしれない。自然を歩き、また文化をも歩く。
 そうやって、「永劫の旅人」は帰らなくなる。

 「帰らず」は、そのとき、人は人ではなくなるということだろう。詩人は詩人ではなくなる。自分ではなくなる。自分ではなく、別の人間に生まれ変わってしまう、ということだろう。
 詩は、何かに触れ、そのとき動いたこころ(こころのうずき)をそのまま書き写すことなのだろうけれど、ことばをうごかすと、人は自分のままではいられない。自分を超えてしまう。その超え方にはいろいろあるだろうけれど、ともかく自分ではなくなる。
 「旅人かへらず」のなかで、西脇は、歩きつづけた。歩きながら、「アムバルワリア」の詩人から、また違った詩人になった。そして、そのあとも、変わりつづけていく。生まれ変わりつづけていく。





西脇順三郎全集〈第3巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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フアン・ヘルマン「子どもたち」/田村さと子訳

2009-08-29 01:24:24 | 詩(雑誌・同人誌)
フアン・ヘルマン「子どもたち」/田村さと子訳(「孔雀船」74、2009年07月15日発行)
 フアン・ヘルマンについて私は何も知らない。見えることと見えないことを書いているのだが、そこに深い哀しみを感じた。

熱のある子がその熱に手を突っ込んで星々を取り出しては空に投げている それはだれにも見えない
僕にも見えない
目を閉じたまま 天を横切っている 悪寒の中で草を食んでいる
ちっちゃな動物たちを見ている熱のある子が僕には見えるだけ
僕にはそのような動物は見えない

 フアン・ヘルマンには子どもがいたのだろう。そして、その子どもは、いまはもういない。その子どもは熱があるとき、ひとりで遊んでいた。時間をまぎらわしていた。何をしているの?と聞いたら、子どもは星を投げているのだと言ったのだ。天にいる動物が草を食べている。その草になるように、きっと星を投げあげていたのだ。
 それは、熱のある子どもの、頭をよぎった幻想かもしれない。
 フアン・ヘルマンには、子どもの姿は見えるけれど、子どもの見ているものが見えない。それを見ることのできる人は、だれもいない。そのことを、フアン・ヘルマンは哀しんでいる。なぜ、見ることができなかったのか、と哀しんでいる。子どもが見たものを見るために、いったい何かをしただろうかと振り返り、何もしなかったことを哀しんでいる。
 子どもが見たもの--その何一つをも見ていない。
 いま、子どもは(というのは、思い出のなかの子どものことだが)、星を見ている。ちっちゃな動物を見ている。そのことを、フアン・ヘルマンは聞いて知っている。見えないけれど、子どもにはそれが見えることを知っている。
 こういうことを書くとき、フアン・ヘルマンは、フアン・ヘルマンの知らないところで、子どもが何を見たかを想像し、何を見たかを何も知らないことを嘆いているのだ。
 知っているのは、子どもが子どもだった時代、熱がでて、星を放りなげていたこと、天にいる動物たちに星の餌をやっていたこと--それだけだ。
 もっと知りたい。
 その哀しい願いが、「それはだれにも見えない/僕にも見えない」ということばのなかにある。

僕は自問する なぜ今日このようなことが起こるのだろうか
昨日、別のことが起こっていたのだろうか 昨日、この子らの魂から
多くの苦しみを取り除いたのだろうか 僕にただわかっているのは
子どもには熱があり 魂を閉じていて それを灰の中に埋め
そのまま埋めっぱなしにしておくだろうということ なぜなら魂は燃えてしまったから

 ここに書いてあることを、正確に追うことはできない。
 それはフアン・ヘルマンが、感じていることを正確に追えないような状態(深い哀しみ)のなかでことばを動かしているからだ。
 「昨日」--このことばが、ここではとても痛切である。
 ここには「昨日」、「昨日」につながる「過去」しかない。未来がない。「あした」がない。
 「あした」、この子が何を見るだろうか、ということは、もう想像できない。「あした」があり、そして子どもがまた何かを見るならば、それをいっしょに見ることができるかもしれないという夢は断たれてしまっている。だから「昨日」と書くのだ。そして、「昨日」と書いてみれば、やはり、フアン・ヘルマンには、「昨日」子どもが何を見たか、その見たものが見えないということしかわからない。
 わかるのは、それだけなのだ。

 一本の木が
窓のむこうで太陽を見ている
太陽が出ている
窓のむこうの通りに一本の木がある
今 その通りをズボンのポケットに片手をいれた子どもが通っている
楽しそうなようすで ポケットから手を出し
手を広げて 誰にも見えない熱を放出している
僕にも見えない
僕には光に向かって広げられている掌が見えるだけだ
彼は 何を見ているのだろうか
太陽を牽引する牡牛たちをみているのだろうか
僕にはまったくわからない
ズボンに手を突っ込んでいる子どもが何を見ているのかも
熱があって その心の中で大西洋の死骸や
荒れ狂っているあらゆる波の死骸を見ている子どものことも 僕にはわからない
僕には何も見えないし 何もわからない

 親として、子どもが何を見ているかわからないことほど哀しいことはない。そして、その子どもの見ているものが「死骸」(死)であるとき、その死をどんなふうに見ていたか、それがわからないことほど哀しくてやりきれないことはないだろう。
 死など、見たくはない。
 けれど、子どもがもしそれをひとりで見つめ、誰にもいっしょにいてもらえなかったのなら、それは哀しすぎる。せめて、見たいのだ。子どもが何を見たか。そして、せめて、その手を握ってやりたいのだ。

 作品の最後。

僕は食べる この窓のむこうにある木のように実在的であろうとして
今 子どもはその傍らに立ち止まった
ズボンのポケットから手を出して
光に向かって掌を広げている
そして考えている 死は死であり
それ以上のものではないと

 ここに、祈りがある。子どもに、せめて「死は死であり/それ以上のものではないと」考えてもらいたい。そういう考えにたどりついて、死を受け入れてくれていると祈りたいのだ。

 痛切な叫びに満ちた詩である。



サラマンドラ
田村 さと子
思潮社

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阿部幸織「ティンパニー」

2009-08-28 16:19:50 | 詩(雑誌・同人誌)
阿部幸織「ティンパニー」(「読売新聞」2009年08月28日朝刊)

 読売新聞の「くらい」面に「こどもの詩」というコーナーがある。そこに載っていた作品。阿部幸織「ティンパニー」の全行。

すいそう楽を見たよ
えんそう中にならしていた
ティンパニー
さつまいもを
わぎりに切った形だったよ
さつまいもをたたいたら
どんな音がでるのかな

 音楽は聞くものであると同時に見るもの。見て楽しくなる音楽も確かにある。阿部幸織は「すいそう楽を見たよ」と1行目に書いている。この素直さに引き込まれてしまった。「見る」とうことから音楽に近づいていって、最後に「さつまいもをたたいたら/どんな音がでるのかな」と音にたどり着くのもおもしろかった。
 しかし、それよりも楽しいのは、長田弘の感想。

 輪切りの形はティンパニー。ほかほかホルン。細長ならクラリネット。吹奏楽器なんだ。さつまいもは。

 どんどん楽器が増えていく。視覚が楽器を増やして行き、音が増えてゆく。そして、音楽になってゆく。音と音とが互いの音を聞きながら、自分の音を出す。和音ができ、メロディーが生まれる。リズムが生まれる。
 長田弘は、こどもの感性にあわせて(こどもだけではないだろうけれど)、音楽を生み出すことができる人だ。
 批評とは、作品の音、メロディーを、こんな風に育てていくことだ――読みながら、はっとさせられた。

 楽しくなって、詩を読み返した。そして、私は脱線した。「誤読」した。2行目。「えんそう中にならした」。「さつまいも」が頭にあるためか、「おならした」と読み違えてしまった。みんなが演奏中におならして、おならの合奏が始まると楽しいかもしれない。太った人、痩せた人、背の高い人、低い人、立った人、座った人、たくさん食べた人、少ししか食べなかった人、思いっきりおならする人、はずかしそうにおならする人、いろんな音が混じり賑やかな笑いがひろがるだろうなあ。





長田弘詩集 (ハルキ文庫)
長田 弘
角川春樹事務所

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誰も書かなかった西脇順三郎(71)

2009-08-28 07:27:47 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

一六七
山から下り
渓流をわたり
村に近づいた頃
路の曲り角に
春かしら今頃
白つつじの大木に
花の満開
折り取つてみれば
こほつた雪であつた
これはうつつの夢
詩人の夢ではない
夢の中でも
季節が気にかかる
幻影の人の淋しき

 「春かしら今頃」。この1行がおもしろい。倒置法によって、ことばが緊密につながっている。そして、その「今頃」は実際に結びついているのは「春かしら」ではなく、「(花の)満開」である。書き出しから「春からしら」までの4行がゆったりと動いているのに対して、「春かしら」から「満開」までは、精神が(意識が)急激に動く。凝縮して動く。そして、その凝縮そのものが「春かしら今頃」という切れ目のないことばになっている。
 こういう精神の凝縮は誰でもが体験することである。そして、それは「錯覚」(勘違い)であったりすることが多い。錯覚や勘違いとわかったとき、ふつう、ひとはそれを訂正して(修正して)書くが、詩人は、そういう錯覚、勘違いのなかに「詩」があると知っているから、それをそのまま書き留める。

花の満開
折り取ってみれば
こほつた雪であつた

 これは古今集からある「錯覚」の詩。梅に雪、花かとみまごう雪、という例がある。これに対する次の行が非常におもしろい。

これはうつつの夢
詩人の夢ではない

 すでに定型化されたことばの運動、定型化された錯覚は「詩人の夢」、詩人がめざす詩ではない、というのである。そして、その詩人の夢ではないものを「うつつの夢」、「現実が見た夢」と否定している。「うつつ」とは、このとき「日常」にもつながるだろう。「日常」とは「定型化」した「時間」である。
 西脇が詩でやろうとしていることが、ここに、正確に書かれている。
 定型化したことばの運動が描き出す「美」は詩ではない。それを破っていくものが美である。「日常」「現実」を破っていく美--それが、詩である。

 最後の3行、

夢の中でも
季節が気にかかる
幻影の人の淋しき

 「うつつの夢」、見てしまった夢(つまり、ある意味で実在してしまった夢)のことなのに、その夢のなかにでできた「季節」が気にかかる。季節というものに反応してしまう。そのことを「淋しき」と、西脇は書く。
 西脇の美意識は、一方で日常を破壊することにあるけど、他方で人間の力のおよばない季節(自然、無常)というものにも反応し、それが気にかかる、という。
 これは、西脇の美は、日常を破壊するけれども、その破壊の仕方は、世界の存在を支えている時間(永遠)を無視するものではない、ということを別のことばで表現したものである。
 日常(現実)を破壊するけれども、永遠は破壊しない。むしろ、日常を破壊することで、永遠を誕生させる--そういうものを詩と考えていることが、ここから読みとることができる。
 日常(現実)を破壊し、永遠を誕生させるという二つのことを同時にやるのが、幻影の人、永劫の旅人なのだ。




西脇順三郎全集〈第6巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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霧山深「わたしにさわってはいけない」ほか

2009-08-28 01:17:19 | 詩(雑誌・同人誌)
霧山深「わたしにさわってはいけない」ほか(「橄欖」1、2009年07月01日発行)

 「橄欖」は瀧口修造研究会報。瀧口の故郷、富山で発行されている。何人かが、それぞれ瀧口に触発されて作品を書いているのだが、そこにひとつの共通したものがある。

ある地点から俯瞰した森の眺望。出口も入口ももはや見つからぬ。
転落も上昇もない。ただ永遠の彷徨と反復。
             (霧山深「わたしにさわってはいけない」)

詩の中へ入って行こうと思うのですが
どこから入ればいいのか入り口が見つからず
さっきから顔を近づけて探しているのです
             (尾山景子「リボンをほどく」)

 十二月。昨日降った雪がとけて、地下へたらたらしみこんでゆく。タイピングはただそのことだけを習熟してゆく。五月女(さおとめ)のように前のめりに。ふだん人は、地面の下のことをどれだけ意識しているか? 時間を物差しで測れば、人の一生など花びらの厚みほどもない。重畳たる第四紀二〇〇万年もの時間に、忘却された多くのものが無名の書として降り積もる。薄くのばされた一頁に、ひとたらしの現像はただ密かに行われる。現れるのは、異界の入り口。
             (寺崎浩文「大塚の雪景をゆく」)

 「入り口」ということばが出てくる。瀧口の作品に、だれもが「入り口」を見ている。何の入り口? シュールレアリスム。現実を超えた世界への「入り口」だろうか。
 私は、実は、シュールレアリスムというものが、まったくわからない。理解できない。どこが「シュール」なのか、なぜ「シュール」と定義するのか、それが理解できないのである。
 だから、「シュール」ということばは、ちょっと、脇にどいていてもらうことにして、瀧口をどうとらえていたか--そのことだけを、見ていく。
 最初に読んだものに、私はどうしても影響を受けるのだが、霧山深「わたしにさわってはいけない」が、私には一番おもしろかった。特に、最初の部分が。

イメージはすでにそこにあった。一挙に。一目瞭然として。
なにか無法な侵入者のように。目にさわる、刻一刻、心を搏つ力として。
「さわるな」という命令をもって、固く拒むもの。障りへの怖れか、危険の予告か。
だが、あらゆる禁止はひとつの挑発あるいは誘惑なのだ。
さわられたものは常に、即座にさわり返す。つめたい膚に残る他者の指の
仄かなぬくもり。

 イメージがそこにある。そこにあることによって、「入り口」を隠す。隠すから、それが「入り口」になる。--私は、そう思う。そして、そのことはシュールレエリスムであろうか、なかろうが、すべて同じである。
 あらゆるものは、そこにある。そして、それは常に「入り口」を隠すことで、「入り口」になる。それ以外に、存在のしようがない。
 このことを霧山は「さわる」ことをとおして検証している。イメージは、目にさわる。目は、イメージをさわり返す。そのとき「さわり」が「障り」になる。目でさわるときにさえ、その視線に、何か余分なもの(?)が紛れ込み、正確(?)にはさわれない。何か、そこに「歪み」のようなもの(個性、と私は思うのだけれど)が紛れ込む。
 そして、そこに「交渉」がはじまる。さわり、さわり返すという交渉が始まる。その交渉の中に、何かが残る。

つめたい膚に残る他者の指の/仄かなぬくもり。

 「他者」が残る。「つめたい」と「ぬくもり」という対極にあることばが印象的だが、「他者」はいつでも「対極」にあるもの、あらゆる存在が「対極」をもつということを教えてくれる。その「他者」へむけて、自己を解体しながら近づく。それが、あらゆる「芸術」の思想というものだと思う。拒まれれば拒まれるほど、自己解体の作業は忙しくなる。自己を徹底的に解体しないことには、「他者」にはふれることができない。
 瀧口は、そういう自己解体をしつづけた芸術家だと私は思っている。自己解体をしつづけ、ついには自己が「他者」になる。
 そして、その解体のなかには、「入り口」の解体もふくまれるから、どうしたって、そこには「入り口」など、ないのである。解体そのものが、「入り口」を隠した「入り口」なのである。
 --私の書いていることは、矛盾である。
 しかし、矛盾でしか説明できないものがあるのだ。

 霧山は、いくつものイメージの霧山自身を解体している。しかし、「他者」にはなっていないように、私には感じられる。「他者」であるより、解体することで、より「自己」になっている--そういう印象が残る。

 1
腐食した鉛色の骨片のいくつかから、月明のなかで死者の容貌を占う。
誰なのだ、おまえは?

 2
ひたひたと波打ち寄せる渚を見みろす。地熱に溶けてゆく氷河の断崖。

 3
ひしめく樹氷の森をぬけ、冥界へ、冥界へ。霊の森の梟が鳴く暁。

 4
釣り上げられた魚の目に映る冬の渓谷。

 あ、だんだん、俳句になってゆく。「イメージはすでにそこにあった。」というのとは違った感じになっていく。拒絶ではなく、「和解」が残る。
 まあ、これは霧山も気づいていることなのかもしれない。
 必死になって、その「和解」から逃亡しようとしている。瀧口を脇においてしまえば、その逃亡の部分が、おもしろい。そして、ここから「他者」への脱出(?)が始まる。

 6
ワタシハコノ青イ岩盤ヲ貫通スル弾丸デアラネバナラナイ。

 7
雪氷の谷が果てしなくつづく。おまえははたして逃亡者なのか、追跡者なのか?

 8
叫べ!青い樹木が呼び声に応じて立ち上がり、伸び上がる。沈黙の谺。

 9
雪崩、あるいは滝壺への転落。思考は常に挫折する。そのとき

 10
やあ、新たな夜明けの眺めだ。亡霊たちが整列している。

 「9」の最後の「そのとき」が魅力的だ。「そのとき」というのは一瞬のことだが、その一瞬は完結していない。別なことばで言えば、そこでは何かが「建設」されているのではなく、いま「建設」したばかりのものが、一気に「解体」されている。
 「そのとき」というようなことばは、きわめて散文的である。詩から遠い。何かを説明するための、一瞬の「立ち止まり」である。停止である。
 しかし、ここに私は、強い詩を感じる。霧山の詩を感じる。それまでの屹立するイメージとしてのことば、いわば「現代詩」が「そのとき」ということばの一瞬、解体してしまっている。「そのとき」はイメージではない。そして、イメージではなくなることによって、そこに詩が出現している。
 うまく言えない。
 「そのとき」ということばの一瞬、霧山のなかにあるエネルギー、霧山をつくっているもの、瀧口を追いかけているものが、何かではなくなる。「イメージ」をもったものではなくなり、「イメージ以前」のものになる。そういう「イメージ以前」のものこそ、「他者」と呼ばれるのもだろう。「イメージ」になってしまえば、「他者」ではなく「知人」なのだ。

 言いなおそう。突然、飛躍してしまおう。

 「知人」(あるいは「友人」)を殺してしまう。「他人」にしてしまう。そうすることで、自分自身も「他人」になってしまう。それが、詩であり、それが芸術である。そのとき、「シュール」かどうかなんて、関係がない。「シュール」ということばにとじこめると「他者」は「知人・友人」になってしまう。そんなことは、瀧口は望んではいなかっただろうと思う。
 --また、詩の感想からは遠くなってしまったかな。
 まあ、いいか。私の書いているのは「日記」である。そして、「誤読」の記録なのだから。





シュルレアリスムの哲学 (1981年)
フェルディナン・アルキエ、霧山深・巌谷國士訳
河出書房新社

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誰も書かなかった西脇順三郎(70)

2009-08-27 07:39:06 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『旅人かへらず』のつづき。

一六六
若葉の里
紅(べに)の世界
衰へる
色あせた
とき色の
なまめきたる思ひ
幻影の人の
かなしげなる

 この詩は、なんだか不思議である。「若葉」と「紅」のとりあわせが奇妙である。「若葉」はふつうは「みどり」。「紅」(赤)は補色である。1行目と2行目のあいだに、深い断絶がある。あるいは、「わざ」とつくりだされた対立がある。
 だが、この「わざと」があるから、それにつづく行がおもしろくなる。
 衰えた色(とき色)の「衰えた」には「なまめき」がある。それは「いのち」の最後の輝きなのか。「衰え」と「なまめく」は一種の矛盾、対立であり、それは「補色」のように、互いを引き立てる。--そういう補色の構造をうかびあがらせるために、西脇は、わざと「若葉」と「紅」を隣り合わせに置いたのだろう。
 
 それとは別にして。

 ここの部分の音の動きもおもしろい。「衰える」と「なまめく」を対比させ、結びつけるのにつかわれている「とき色」。その「き」が「なまめきたる」の「き」のなかにつよく残っている。「衰え」の「と」、「色あせた」の「た」という「た行」の音は、「なまめきたる」の「た」のなかにあるが、同じように、「とき色」の「と」にもある。
 「衰える」と「なまめく」という二つの概念を結びつけるには、どんな色でもいいというのではない。特別な色でなければならない。そして、その色を決定しているのは、光学的(美術的?)な「色」ではなく、その色の呼び名の「音」なのだ。
 そして。

なまめきたる思ひ
幻影の人の
かなしげなる

 最終行の「かなしげなる」のなかには「なまめきたる」の「な」が2回繰り返され、同時に「幻影の人の」の「げ」もある。
 ただし、この「げ」の音は、「幻影」の「げ」は鼻濁音ではなく、「かなしげ」の「げ」は鼻濁音だから(標準語なら、という意味だが)、この二つの音が響きあうとしたなら、西脇は鼻濁音をつかっていなかったことになる。
 私は西脇の話すのを、テープやテレビラジオを含め、聞いたことがないので、いつもこの点が気になる。


西脇順三郎全集〈第7巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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北爪満喜「飛手」、松本真希「シンバ」

2009-08-27 00:12:45 | 詩(雑誌・同人誌)
北爪満喜「飛手」、松本真希「シンバ」(「モーアシビ」18、2009年07月30日発行)

 北爪満喜「飛手」のことばは静かに動いていく。そして、その静かさゆえにとても自然に見える。現実をきちんと踏まえて書いているように見える。前半。

掌の右と左
うちがわの親指の第一関節をつけて
コピー機の上にそっと並べる

覆いを下ろしてコピーすると
ゆるく指の曲った二つの掌の形は二枚の羽になる
コピー機からはき出された紙には 蝶がいる

わたしから剥がれることができて
手の形は
自由に飛んでゆく
羽ばたいてゆく

手は秘密にしていても
ほんとうは飛ぶことができる潜在能力があって
夢のなかでは
いつも自由に飛んでいる

 コピーされた掌。それが蝶に見える。--これは、現実描写のように見える。その形を想像できないひとはいないだろう。誰にでも想像できることばを、私たちは「現実」と呼んでいる。
 北爪の書いていることは、そういう「自然」を含んでいるので、とても静かで、わかりやすい。
 と、言いたいのだけれど、実は、違う。
 
覆いを下ろしてコピーすると

 と書いているが、どの手で? 右手で? 左手で? 両方の手はスキャナーの上にあるはず。どうやって? 足で? 口で?
 北爪の詩は、あたかも自分の両手をコピー機で蝶の形に写し取ったように書いてあるけれど、実は、そうではないのだ。
 最初から、現実を書こうとはしていない。現実の、日常の世界を描こうとはしていない。意識を描こうとしている。
 意識に特権があるとすれば、それは現実をねじまげることができるという特権である。「肉体」は現実をねじまげることはできない。いや、できないことはないけれど、実際に現実を「いま」「ここ」にある形から変形させようとするとたいへんな労力がいる。ひとりではむりで、たいてい多くのひとの力、協力が必要になる。ところが、意識はそういう協力を必要としない。いつでも、どこでも、現実を歪めてしまえる。
 この能力を、バシュラールは「想像力」と呼んだ。現実を歪めて、平気でいられる精神の力を「想像力」と呼んだ。
 北爪は、それを「自由」と呼んでいる。

手の形は
自由に飛んでゆく

 もし、この詩に「自由」ということばがなかったなら、この詩はうそ、でっち上げになる。「頭」だけで書いた、でたらめになる。先に私が指摘したこと、両手をコピー機の上において、どうやって蓋を閉めることができる?という矛盾にぶつかり、うそを書いたことになる。
 けれど、北爪は最初から「現実」や「日常」をそのまま描こうとしているのではなく、精神が(意識が)、どのように「現実」「日常」を裏切って「自由」に動き回れるかを描こうとしているのだ。

手は秘密にしていても
ほんとうは飛ぶことができる潜在能力があって
夢のなかでは
いつも自由に飛んでいる
窓の上を
トウキョーの空を
母と家電の買い物をした楽しかったアキハバラの空を
いつか読んだ小説のグラーツの空を

 そして、その「自由」は「夢のなか」にしかない。--ここに、北爪の、抒情の神髄がある。
 ことばのなかにしかない。
 現実を、日常を、歪めた「夢」のなかにしかない。ことばでみる「夢」のなかにしかない。「母と家電の買い物をした楽しかったアキハバラの空を」という行の「楽しかった」ということばのさびしさ。かなしさ。「楽しかった」という「過去形」のことばは、北爪の意識が「いま」「ここ」という現実、日常ではなく、すでにことばのなかにしか存在しない「過去」を中心に動いていることを明確に語っている。

 ことばの願望。「いま」「ここ」を超越して、「いま」「ここ」にないものを出現させる--そのためのことば。そのための、詩。そうしたものへの、せつない希望が、北爪のことばのなかを、それこそ「飛んでいる」。飛びながら、北爪を誘っている。
 最終連。

でも
一人になって 何か手を動かしたくなったとき
ボールペンの先から 変わった葉っぱや
ぐるぐるした蔓や
繋がりのよくわからない単語などが
インクの線であらわれるとき
飛んだ記憶が そこまで来ている

 「変わった葉っぱ」は「変わったこと葉」、「繋がりのよくわからない単語」は、「繋げて、繋げて」と叫んでいる意識。文字にして、紙に繋げると、それは「想像力」という世界、現実とは違う世界になり、そこには「自由」がある。



 松本真希「シンバ」は、ことばのかなしさのなかにいる。1連目。

私の体の
表面に生えている無数の毛が
棘となって
あなたの皮膚を擦る
夜ごとにあなたの皮膚は傷ついていくのに
血の滲んだ体のまま やさしい声をかけようとする
アシタハイツモチガウマイニチ
私は苛立ち
傷つけても
皮膚をいくら傷つけても
心には とどかない

 「私の体は」と1行目から「体」が登場する。人間には「体」と「体ではないもの」があり、その「体ではないもの」が、「私」の「体」を意識させるのだ。それは「声」。そして、その「声」も、北爪の「ことば」と同じように「自由」なのだが、松本の「自由」は、いま、「傷つける」という「自由」のなかにいる。そこに、かなしさがある。





青い影・緑の光―北爪満喜詩集 (現代詩人叢書)
北爪 満喜
ふらんす堂

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誰も書かなかった西脇順三郎(69)

2009-08-26 03:05:21 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一六五
心の根の互にからまる
土の暗くはるかなる
土の永劫は静かに眠る

 「からまる」のなかにある「か」と「る」がこまかに震えながら「くらくはるかなる」に変わるとき、あ、ことばに音があってよかったなあ、と思う。私は音読はしたことかないが、「くらくはるかなる」という音の美しさは、とてもいいと思う。
 その音を取り囲む、「心の(根の)」「土の」「土の」という繰り返しを突き破って、「永劫」(えーごー)という強く長い音が、逆に「静かな」という異質のイメージを呼び起こし、「眠る」へと落ち着く。

 あとは、夢のスピードでことばが動いていく。

種は再び種になる
花を通り
果(み)を通り
人の種も再び人の種となる
童女の花を通り
蘭草の果を通り
この永劫の水車
かなしげにまはる
水は流れ
車はめぐり
また流れ去る

 「種は再び種になる/花を通り/果を通り」は「人の種も再び人の種となる/童女の花を通り/蘭草の果を通り」と長くなるとき、その長くなった部分、新たにつけくわえられた部分は、それが浮きでてくるというよりも、沈み込み、逆に、繰り返された音が、よりなめらかな音、スピード感のある音として、こころに残る。
 そして、そのスピードがあまりにも快適なので、1連目で「土の永劫」であったものが、2連目で「永劫の水車」(水の永劫)に変わってしまっても、それが変なこととは思わない。
 土が出てきて、水が出てきて、自然というか、宇宙が、ことばのリズムにのって、自然に広がり、「哲学」を誘う。
 
無限の過去の或時に始まり
無限の未来の或時に終る
人命の旅
この世のあらゆる瞬間も
永劫の時間の一部分
草の実の一粒も
永劫の空間の一部分
有限の存在は無限の存在の一部分

 無限の中に有限がある--その、一部分として、ある。そして、その「一部分」であることが「淋しさ」なのだ。
 次の部分に出てくることばたちは、無限のなかで、ふっと有限にかわってあらわれてくる「淋しさ」のエネルギーのようなものだ。
 次の行の展開がとても好きだ。好きで、好きで、たまらない。

この小さな庭に
梅の古木 さるすべり
樫 山茶花 笹
年中訪れる鶯 ほほじろなどの
小鳥の追憶の伝統か

 「さるすべり/樫 山茶花 笹」は、それぞれ庭に属していながら、常に庭から独立して出現するのだ。それは、奇妙な言い方になってしまうが、「淋しく」出現することによって、それぞれの木や花になるだけではなく、庭を作り上げる。つまり、木(草)であることを超越して庭という「場」そのものになる。
 この、俳句のような「場」のあり方。
 そして、そう思った瞬間、響いてくる音、音楽。

小鳥の追憶の伝統か

 この行にある「お」の変化が、とても気持ちがいい。特に「でんとお」と「お」をゆったりと響かせたあと、唇をぱっとひらき、「か」(あ)に変わる時の、音の明るさの差とリズムが美しい。
 このあとに出でくる

旅人のあんころ餅ころがす

 という俗、笑いと「ころ」の丸々とした音の感じも、「淋しさ」を刺戟しておもしろい。それまでの「淋しさ」がより「淋しく」なるだけではなく、「庭」の存在すべてを「淋しく」する笑いのなかで、笑いは笑い自身の「淋しさ」を抱きしめるのだ。



西脇順三郎全集〈第8巻〉 (1983年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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佐々木洋一「さくら」

2009-08-26 00:30:57 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木洋一「さくら」(「ササヤンカの村」19、2009年07月発行)

 佐々木洋一「さくら」は春の光が見えるような(佐々木は「ひざし」ということばをつかっているが、とても美しいことばだ)詩である。

ひざしのはざまで

ひら、ひら、ひらん
ひらひら、ひらん
ひら、ひら、ひらん

ちょうどその時

軽トラックが土手の小道を走って来て
花びらを積むと
一気に加速し
現実の方へ駆け抜けて行った

ひざしをつかむと

ひらひらりん
ひらひら、ひらん
ひらひらひらん
ひざしのかげりでは

朽ちた花びらの上に
折り重なるように

ひら、ひら、ひ、ら、ん
ひら、ひら、ひらん
ひら、ひら、ひ、ら、ん

 「ひざしをつかむと」が、とてもいいのだと思う。「ひらひらひらん」と口ずさみたくなる。--と、書いたたら、もう感想を書くことはなくなってしまったのだけれど。
 同じ号の「なめくじ」もいい。
 その一番好きな行。

地べたを謙虚に点のように汚点のように進みたい

 「汚点」がいいなあ。なぜいいのか--問われるとこたえに困るけれど、「汚点」がいい。落ち着く。美しくなくてもいいんだ、という安心感がある。
 「ササヤンカの村」18の「隙間切り」というのは、「なめくじ」の「汚点」につながるような「肉体」のさみしさ、いとおしさ、理不尽としかいいようのない美しさがあるけれど、18号は2008年03月の発行なので、ここでは感想を省略。できるだけ、新しい作品の感想を書くことを心がけているので。

 

佐々木洋一詩集 (日本現代詩文庫・第二期)
佐々木 洋一
土曜美術社出版販売

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誰も書かなかった西脇順三郎(68)

2009-08-25 10:33:10 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一六四
めざめる夢をみる男の如く
ねむられず夜明前
露の間(ま)の旅に
何人の山の家か知らねど
白いペンキの門をくぐり
坂をのぼった
東南に傾いた山
青磁色の山々が地平に
小さく並んでゐる
そのテラスの上に
水つきひからびた噴水の
真中に古さびた青銅のトリトンの
淋しくしやがんでゐる
水なきふくべの如く
香水の空瓶の如く
鎗さびの五月の朝

 視点がすばやく動いていく「絵画的」な詩である。同時に、また、音も非常におもしろい。
 「東南に傾いた山」。これは何でもないことばのようだけれど、山の傾き(稜線?)が東南に延びているということを描写しただけのような感じがするけれど、読み終わるとなぜか頭のなかに「とうなん」という音がよみがえってくる。
 なぜか。
 「真中に古さびた青銅のトリトンの」の「トリトン」が異質な音で、その「トリトン」と「とうなん」が響きあうのだ。そして、いったん、音が響きあうと、「絵画的」な詩が、ことばの数々が、突然「音楽的」にかわる。
 「青磁色の」「青銅の」、「水つき」「水なき」、「ひからびた」「古さびた」、「古さびた」「鎗さびの」。そして、「の」の繰り返し、「如く」の繰り返し。
 この詩は、「東南に傾いた山」の「東南」ということばが西脇に訪れたときから、突然、駆けだしたのだ。
 その証拠、というのも奇妙な言い方になるが。

そのテラスの上の

 の「その」。「その」は何を指し示すか。「山の家」。「南東の山」へ動いた視線が、突然、「山の家」にもどり、その「テラス」にもどり、近景のなかで、音が響きあう。視線を遠景から近景に引き戻すための「その」。
 これは音が響きあう「近景」をすばやく引き寄せる、粘着力のある力で引き寄せるための「その」なのである。

 後半は、その家の窓の描写から、女の描写(想像の女の描写)へと動いていくのだが、そこでは「か」という音が印象に残る。

家の窓は皆とざされ
ただ二階にひとつあく窓
花咲くいばらの中から外へ開かれ
鏡台のうしろが見える

 「二階」というのはふつうのことば(?)だが、その「か」が、その直前の「ただ」という濁音、「とざされ」という濁音をふくんだことばのあとでは、非常に開放的な響きである。「閉められ(しめられ)」や「二階にひとつだけあく窓」では「か」が死んでしまう。「とざされ」「ただ」だから「二階」の「か」が美しい。
 その開放的な響きを引き継いで「中から外へ開かれ」という説明的な、散文的なことばが、突然、明るい音楽にかわる。
 途中を省略して、

夢を結ぶ女の住むところか
この荒れ果てた家に
うれしき夢の後かまた
ねむれずにか早く起きて
髪をくしけずる
女(ひと)の知りたき
蜜月の旅のねどこか

 「疑問」の「か」の連続。疑問だけれど、深刻ではない。軽い。軽々と飛んで行く連想である。「か」の音のない「この荒れはてた家に」という行には、「か行」の「この」が挿入されている。「その」テラスと同様、「この」家の「この」もなくてもことばは動く。意味的には「この」以外にはあり得ない(あの、そのと離れた場所にある家ではあり得ない)のだが、そのわかりきった「この」を音楽のためにつかっているのだ。「か行」の音がないと、ことばの「間(ま)」がだらしなくなる。

 音へのこだわりは、最後の行にも象徴的にあらわれている。

ばらの実の
いとほしき生命の実の
ささやきのささやきも
葉をうつ音永劫の思ひ

 「葉をうつ音永劫の思ひ」のアキなしの連続したことば--連続させることで、隠された「音」という「意味」と「音」。



西脇順三郎全集〈第11巻〉 (1983年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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北野丘「草冠川」「樞 くるる」

2009-08-25 00:09:06 | 詩(雑誌・同人誌)
北野丘「草冠川」「樞 くるる」(「榎の木の下で」2、2009年08月発行)

 北野丘「草冠川」。私は2か所、つまずいた。嫌いな音があった。全行。

夏の萼(うてな)が 揺れるたび
風は 梢にとまり

カガヤキノイタダキデ
よぞらを裂くの

マタタクカラユレナイ草
霧(き)れない野 カタコユリ

小舟の水尾は
むらさきで打たれるの

岸は水に
コトリ ほどけて

瑠璃 さえずる 
まわるカガヤキ 草群がる川

 「カタコユリ」の音の美しさが、「岸は水に/コトリ ほどけて」のなかでよみがえり、「コトリ」が最終連で「瑠璃 さえずる」に変わって行くのはとても楽しい。
 そのほかのカタカナの部分も、「いま」「ここ」から逸脱していく感じが楽しい。足で大地を蹴って、「いま」「ここ」を逸脱するというよりも、宙にあるものを想像力の手で掴んで「いま」「ここ」から離脱するという感じがとてもいい。
 けれど。
 たぶん、私だけの好みなのかもしれないけれど、「よぞらを裂くの」「むらさきで打たれるの」の「の」が、ちょっとがまんがならない。嫌いだ。とても嫌いな音だ。重たい。重石になっている。
 宙にあるもの(それは高みだけとはかぎらない。はるか遠くの、水平線上に遠い「宙」というものもある)をつかみ、離脱しようとする想像力を引きとどめる「声」である。北野が無意識に依存している「肉体」である。「口癖」にこめた「意味」である。それを意識しているか、意識していないか。よくわからないが、そうした「口癖」は、私にはことばの自律運動をじゃましているように感じられるのである。
 そうした「口癖」のようなものを振り切ったところで、自由に動く何かがある。「口癖」は、自由に、ある方向性を与える。もちろん、自由にも方向性があっていいのだと思うけれど、そういうときは、2回の「の」くらいではなく、 100回、 200回の「の」が必要なのではないだろうか。それくらい出てくると、好き嫌いは別にして「肉体」がはっきり見えてくる。納得できるものになる。けれど、ちらりと覗いただけの(覗かせただけの)「肉体」は、なんだか、人目をひくだけのもののような印象が残り、私は好きになれない。いや、好きになれないではなく、やっぱり嫌いだ。

 「樞 くるる」という作品もカタカナの部分がおもしろい。作品の後半。

ワタシハ誰カ マダ誰モ居ナイ
ワタ沁ミ出テ 月ニ光レバ

波がくれば 窪の底
揺らぐ音に 絡操(からくり)

 「ワタ沁ミ出テ 月ニ光レバ」の「ワタ」とは「腸(内臓)」のことだろうか。そうなのかもしれないけれど、「ワタ沁」を私は思わず「わたし」と読んでしまう。「わたし」というものが沁み出る。
 「ワタシハ誰カ マダ誰モ居ナイ」の「誰モ居ナイ」は「わたし」すらいないという意味である。まだ「わたし」は「わたし」になっていない。「ワタシハ誰カ」と問わずにいられないのは、「わたし」がまだ「わたし」になっていないからだ。そして、そう気がついた瞬間、その気づいたことがらを裏切るように「わたし」が沁み出て(滲み出て?)、月光に輝く。
 そし、そのあとなのだが。
 私は、またまた、「誤読」をしてしまった。完全に読み違えてしまった。

揺らぐ音に

 を、揺らぐ「昔」に、と読んでしまった。「わたし」になっていない「わたし」にさえ、すでに「わたし」という「昔」があり、「わたし」が沁み出てくれば、その「昔」(過去の時間)が揺らぐ。
 「からくり」というのは、一般的(?)には「絡繰」と書くように思うけれど、北野は「操」という文字をつかっている。「誤植」かもしれないが、「ワタ沁(ミ出テ)」は「腸が沁み出て」ではなく、「わたしが沁み出て」と読ませようとして書いているのだと判断しているので、ここでも北野は「わざと」繰るではなく、操るをつかっているのだと思いたい。
 「わざと」なのだから、「沁ミ出テ」も「わた(し)」が自然に出てくるというよりも、北野が操作(繰る、ではない)して、やっているのことなのだと読んでしまう。
 操るのは、「昔」である。「過去」である。ひとは愛し合うとき、自分の過去さえ操作して、違うものにかえてしまう。かえてしまうのだけれど、そこにはどうしたって、ほんものの昔(過去)が、それこそ沁み出てきてしまう。
 愛を語って、なかなかおもしろい行だなあ、と私は感動したのである。
 ところが、そのあと、最終連。

鴨居は紅く
男が流れつく昔

 あれ、「昔」がここに。そうすると、さっきのは何? 「音」だった。あ、なんだかとてもつまらなくなった。「音」と「昔」は入れ換えた方が絶対におもしろいと思う。入れ換えると、最初の2連も、とてもおもしろくなる。

渚に消えた匂いを
林で愛しあう百葉箱の時限

テトテト
テトテト

 「テトテト/テトテト」がなんなのかわからないのだけれど、最終行がもし「男が流れつく音」ならば、その音に違いないと思うのである。これが「男が流れつく昔」だと、未練っぽくなる--と私は思う。
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誰も書かなかった西脇順三郎(67)

2009-08-24 07:15:23 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一六二
秋の夜の雨
とび石の臼にたまり
菊のにほひする
昔のはるかなるにほひ

 西脇順三郎は「が」という助詞が嫌いなのかもしれない。「が」を鼻濁音で発音したのか、鼻濁音ではない音で発音したのか。もしかすると、鼻濁音ではなかったのかもしれない。鼻濁音ではない「が」の音は、私にはときとき「か」に聞こえる。九州に住むようになって長いので、だいぶなれたが、破裂する「が」の音はときどきぞっとする。
 この詩の場合、

秋の夜の雨(が)
とび石の臼にたまり
菊のにほひ(が)する
昔のはるかなるにほひ

 と、「が」があった場合、どうなるだろう。鼻濁音なら問題がないが、破裂する音だとかなりとげとげしい。そういうとき、西脇は好んで「の」をつかうように私には思える。

秋の夜の雨(の)
とび石の臼にたまり
菊のにほひ(の)する
昔のはるかなるにほひ

 音がなめらかになる。しかし、ここでは、西脇は「の」を書かずにいる。
 なぜだろう。
 「に」の音を活かしたかったのだろう、と思う。「にほひ」の「に」というよりも、助詞の「に」、「石の臼に」の「に」。
 「の」をつかうと「に」が「な行」に埋もれてしまって、聞こえなくなる。だから「の」を省略している。
 そひて「に」のなかにある母音「い」の音にも気を配っている。「にほひ」の「ひ」は発音は「い」。子音は消えてしまって、母音だけが残っている。その、不思議な音の放り出され方。その放り出された「い」と「石の臼に」の「に」が響きあう。「いし」の「い」の音もいっしょになって響く。

一六三
(略)
女が人形になるせつな
人形が女になるせつな
肉体から抜け出た瞬間の魂
夜明に薔薇のからむ窓の
開かれる瞬間
あの手の指のまがり
歩み出す足の未だ地を離れず
何事か想ふ女の魂
水霊のあがり
花咲く野に踏み入る心
暁の行く石の中かすかに

 「肉体から」からつづく3行。この3行のなかの「か」の音が私はとても好きだ。「開かれる」ということばがあるけれど、とても開かれた音だ、「か」は。「からむ」ということばさえ、窓と結びついて、開放的になる。そして、実際「開かれる瞬間」と解放される。しかも「開く」瞬間ではなく、あくまで「開かれる」瞬間。その「開く」「開かれる」の違いは、動詞の主語の影響を受けた動詞の活用というよりも、「か」という音を含むか含まないかの違いである。
 この開放的な「か」のあとでは「あの手の指のまがり」の「まがり」の「が」は鼻濁音ではないかもしれないという気持ちになる。鼻濁音だと「あ」の音は、口の外へは出ずに、喉の奥へ引き込んで行く。
 いや、だからこそ、鼻濁音なのだ--という感じもする。口の外へは出ずに、喉の奥に入り込んで行く感じと「歩み出す足の未だ地を離れず」がしっくりくる。いったんは、開放的になるが、思い止まり、足を地につける。その、密着した感じと鼻濁音「が」ののとの奥へと引き込む母音の響きがどこかでつながる。
 この感じは、「水霊のあがり/花咲く野に踏み入る心」にもつながる。「野に踏み入る」の「入る」。「踏み出す」でもいいのに、「踏み入る」ということばを選ぶ。そこには、出て行くと同時に、内部に入り込むという相反する動きが重なる。
 野に「踏み出す」と「踏み入る」。「踏み出す」をつかわず「踏み入る」ということばをつかうとき、そこに内省的な響きが生まれる。その、内省的な響きは--「かすか」である。
 あ、ここに、また「か」がよみがえってくる。

 ここに書かれていることには、もちろん「意味」はあるのだが、私には、「意味」以上に、音の揺らぎが楽しい。いろいろ、考えさせられる。




西脇順三郎全集〈第11巻〉 (1983年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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坂本つや子「結構な病気」、青山かつ子「巻かれる」

2009-08-24 00:39:14 | 詩(雑誌・同人誌)
坂本つや子「結構な病気」、青山かつ子「巻かれる」(「すてむ」44、2009年07月25日発行)

 坂本つや子は、一貫して戦中・戦後の体験を描いている。「結構な病気」は、突然動けなくなり、話もできなくなったときの様子を描いている。

たてつけの悪い喉の奥で誰かが肺と胃に別れ それぞれの扉が何かに擦れ クフクフと壊れていく わたしは消えていくのか 何ともわからぬ それでも見知った感情らしいものがゆるく倒壊の真中を駆け抜けていくようだ もう取り返せない時間にわたしはいるだけなのか唇は上下に力をこめて引き離し何かを言おうと懸命なわたし 唇の上下は薄く離れただけ まるで 何かに襲われたよう なんだ なぜ アアともウウとも言えないんだ

 私は坂本の詩を読むたびに不思議になる。失礼な言い方を承知で書くのだが、なぜ、坂本は死なないんだ--と思ってしまうのである。
 私は小さいときからたいへんな病弱だった。小学校は1か月休まずに登校したことはない。いつも休んでいた。毎週水曜日に、市民病院へ通っていた。先生に「水曜に来ると1日学校を休むことになるから、土曜に来なさい。土曜日も、先生は病院にいます」と言われた。家は山の中にあり、病院へ通うのは一日仕事だったのだ。病院通いは、3年の初夏くらいから土曜日にかわったのだが、その「水曜ではなく、土曜に来なさい」ということばがなぜか、忘れられない。学校は大嫌いだった……。
 そんな私からみると、坂本が生きているというのは、ほんとうに信じられない。うらやましい。私なら(小学生の宿題の感想文みたいだが)、絶対に死んでしまっている。

 何が、坂本を支えているのか。坂本の「いのち」を頑丈にしているのか。
 ことばである、と私は思う。肉体に起きていることをきちんとことばにする。そのときの、意識の強さが「いのち」を頑丈にしている。
 書き出し。

たてつけの悪い喉の奥で誰かが肺と胃に別れ

 びっくりしてしまう。私は、こんなふうに自分の肉体を見つめることができない。痛み、苦しみのなかでは、私は何も考えられない。ただただ、痛い、痛い、苦しい、苦しいとうめきつづけ、うめくのに疲れて、気を失って眠る。いや、痛い、苦しい、ということばすらでなくて、ただうなるだけである。

唇は上下に力をこめて引き離し何かを言おうと懸命なわたし

 こんなふうに、自分の肉体のなかの動きを、ことばで再現することは、私には絶対にできない。
 坂本は、けれど、そういうことをことばにする。ことばにすることで、肉体のなかに残っている「いのち」を鍛えなおすのだ。動かない唇にむけて、上下に引き離すということを、肉体のなかの神経にだけまかせるのではなく、ことばにして、命じるのだ。それは、きっと「脳」の命令というより、肉体に残っているあらゆるエネルギーを集中させることなのだ。ことばが、そういうエネルギーをぐいと引き絞り、集め、それから放散する。そして、そうすることで、意識が頑丈になる。強靱になる。
 坂本は、そうして、そういう動けない状態で、何も言うこともできないのだが、「他人」の会話だけはしっかり聞きとることができる。病人のまわりで、あれこれ言い続ける人たち。
 ここでは引用しないが、坂本は、そういうことばをきちんと記憶し、書き留めている。
 坂本にとって、他人とは、また、ことば、でもあるのだ。
 他人のことばは坂本をときにののしる。ときに、親身に心配する。同じ日本語が、人がかわれば、語られることも違う。あたりまえのことであるけれど、そういうことを坂本はしっかりききとる。そして、あるときは、そのことばにはげしく反発し、意識を強靱にする。あるとき、べつのことばに感謝に、意識をやわらげる。他人のことばを聞きながら、意識の振幅の幅をひろげていく。どんなことばが人間を支え、どんなことばが人間をいじめるかを見極め、ことばを「哲学」に高めていく。
 的確な言い方がわからないのだが、自分の肉体をことばにすることで、あるいは他人のことばを吸収することで、坂本の「肉体」がかわる。坂本でありながら、坂本を乗り越えてしまう。坂本を超越して、スーパー坂本になる。スーパーマン(スーパーウーマン)になる。 
 あ、これは、死なないなあ。死ぬわけがないなあ、と思う。



 青山かつ子「巻かれる」は、坂本の「肉体」と比べると、いい加減(?)である。だらしない(?)部分がある。他人を見極めない。長嶋南子もそうかもしれない。他人との接触を平気で(?)受け入れる。受け入れながら、自分を逸脱していく。坂本の肉体は坂本自身を超越していくのに対して、青山、長嶋の肉体は、自分自身から逸脱していく。その逸脱した部分で「遊ぶ」。そして、遊ぶだけ遊んだら、また自分の肉体へ戻ってくる。そのとき、精神がちょっと、いままでとは違って広がっている。だから、「あなた、そんなこともしらないの?」と、最後は笑ってみせる。
 
母を待っていると
むせるようなあおいにおいをつけて
山からころがってきた
ロープでぐるぐる巻きにされている
駆けよるわたしに
こんなにきつく巻かれるのは
気持ちいいものだよという
(そんなにいいなら巻かれたいな)
思っただけなのに
母は ほどいたロープで
わたしをぐるぐる巻きにする
ひんやりした弾力のあるロープだ
生臭いロープね というと
そうかい
ロープが男の声でこたえる

 なかほどにある「思っただけなのに」。ここに青山と坂本の大きな違いがある。青山は思っただけ。けれど、坂本は思っただけではすませない。思ったことは、きちんとことばにする。「思い」にまでいたらないことさえ、その「思い」を探し出してきて、ことばにする。ことばにするたびに、坂本の肉体は強靱になるのだが、青山の場合は、「思っただけ」の「思い」のなかをことばがさらに逸脱していく。そこでは、いわば「想像力」が豊かになっていく。坂本が「肉体」を鍛えるのに対して、青山は「想像力」を鍛える。
 詩のつづき。

細くてくろい舌をちろちろ延び縮みさせながら
ロープはしなやかにきつくしめてくる
うっとり眠ってしまいそうで

 何だか、余分なこと(?)を考えてしまいそうでしょ?
 ことばは、余分なことを考えるためにある。いいなあ。






黄土の風
坂本 つや子
花神社

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